世界で一番お姫様
 あたしは世界一可愛いお姫様。だからわがままで高飛車でおいしいものが好きで当然で、むしろそうでなくっちゃいけないのだ。

 昼休みのチャイムが鳴るや、あたしはがったん! と椅子をひっくり返して立ち上がった。教師に一応ちょっとだけ頭を下げて踵を返し、のっしのっしと教室を出る。
 途中の机や椅子や人は、当然全部体で押しのける。お姫様の行く手を阻むものは、そのくらいされて当然なのだ。
「っ、ぜぇなっ、デブ谷っ」
 ――あたしが押しのけた席の男子に投げつけられた言葉に、ざっ、と胸の辺りが氷を押しつけられたように冷えた。
 だけどあたしはバカな男子がいつも投げつけてくるそんな言葉が聞こえなかったかのように、堂々と顔を上げて悠然と歩く。のしっ、のしっと音を立てながら。動揺しちゃダメ、傷ついちゃダメ、だってあたしは世界一可愛いお姫様なんだから。
 一階の購買にはもう男子生徒が十人以上集まっていた。だけどあたしはそいつらを体で跳ね飛ばし、一番前まで行って注文する。
「焼きそばパン十個、コロッケパン十個、クリームパン十個、カレーパン十個、アップルパイ十個」
 あたしが大声で言うと周囲の男子が一瞬どよめき(バカね、お姫様がどのくらい注文するかぐらい覚えておきなさいよと苛つく)、購買の親父が間抜けな笑いを浮かべて答える。
「あいよっ。本当にお嬢ちゃん、毎日よく食べるねぇ。太っちゃうよ? あ、もう太ってるか、わははっ」
 さっと胸が冷えてカッと頭が熱くなる。脳の中で親父への罵り言葉がぐるぐる回る。
 なによなんであんたなんかにそんなこと言われなきゃならないのよたかが購買の親父の分際でそんなファッションセンスのかけらもないかっこして肌も髪も全然手入れとかしてないんでしょ黄色い歯で人の風貌どうこう言う資格があると思ってんのこのクズのバカのクソ野郎!
 だけどあたしはそんな言葉が口から漏れるのを全力で抑え、あくまで傲然と悠然と顔を上げて親父を見つめる。世界一可愛いお姫様は声を荒げちゃいけない、こんな男の言うことはみんな見当違いなんだから。文句を言うどころかかかずらう必要すらないのだ。
 あたしはパンを五十個入れた袋を提げ、悠々と教室に戻る道を進む。お弁当は教室にあるのだ。三段重ねのお重の、一段目にはご飯をぎっしり詰めて、二段目と三段目にはおかずがたっぷり、デザートは容器を分けてある。あれじゃないとご飯を食べたという感じがしない。パンはあくまで副菜、おやつだ。
「大谷さん!」
 かけられたきれいな声に、あたしは急いで振り向く。予想通り、そこには柏木先生が立っていた。今日もばっちりフルメイク、シャネルのスーツが決まっている。
「柏木先生ぇ〜! なんですかぁ? 今日もメイク、決まってるぅ〜!」
「あらん、ありがとぉ〜! 大谷さんも、今日も髪つやつや〜!」
「うっふん、そぉ〜? 今日はヘアパック変えてみたのぉ〜!」
 きゃあきゃあと二人ではしゃぎあう。あたしにとって、学校で一番楽しい時だ。
 柏木先生はあたしにとって、大切な同志で先輩だ。お互いもっとキレイになるために、化粧品や服の情報を交換しあったりしている。そうすることで、周囲の無理解を跳ね除けて、あたしたちがキレイで美人で可愛い女の子なことは、あたしたちが一番よく知っている、だから負けちゃ駄目だ、ちゃんと顔を上げて戦うんだ、と無言のうちに励ましあっているのだ。
「……大谷さん、それ、今日の昼ご飯?」
 ちらり、と柏木先生がパンの入った袋を見て言ってくる。あたしはきゃらきゃらと笑って首を振った。
「やぁだ、違いますよぉ〜。これはおやつ! あたしお弁当ちゃんと作ってくるんですからぁ〜、ちゃんとお重で三段も!」
「そ、そうだったわね……あのね、大谷さん」
 柏木先生が困ったように眉を寄せ、少し迷ってから口を開く。その顔で柏木先生の言いたいことがわかり、あたしはさっと顔から血の気を引かせた。
「養護教諭の先生とも話してみたんだけど……やっぱり、一度きちんとカウンセリングを受けてみるべきだと思うの」
「…………」
「太ってるのがいけないっていうんじゃないのよ。ただ、自分の食べたいと思う以上の量を食べずにはいられないっていうのは、やっぱり体にも心にも負担がかかるの。健康にもよくないし。だから」
「なんのことですかぁ〜? あたしぃ、柏木先生の言ってること、わかんなぁ〜い」
「大谷さん」
「やだぁ、もうこんなじかぁ〜ん。ごめんなさい、友達と一緒にご飯食べる約束してるんでぇ、失礼しまぁ〜す」
 あたしはなにか言いたげな柏木先生に頭を下げて(みしりと床が鳴った)、ずんずんと廊下を歩いていく。悠然と、傲然と、あたしはお姫様、と言い聞かせても、頭から胸にかけてがかぁっと熱くって、目の前のものを睨みつけずにはいられなかった。
 そんなことない。あたしは不健康なんかじゃない。あたしは太ってなんかいない。だってあたしはあんなに可愛かったんだから。そう心の中で呟きながら。

 あたしは子供の頃から、パパやママや大人たちに、可愛いわねぇって言われて育ってきた。
 実際鏡を見てみても、あたしはすごく可愛かった。切れ長の瞳に栗色の髪。肌なんか生クリームみたいに光ってて、お人形さんみたいって自分でも思った。
 だから幼稚園でも小学校でも、あたしはいつもお姫様だった。男子たちは競ってあたしをちやほやしたし、女子たちはみんなあたしのしもべだった。あたしは世界の中心で、誰よりキレイで可愛いお姫様。ずっと、ぞのはずだったのに。
 あたしの栄光に翳りが見え始めたのは、小学校の高学年くらいからだっただろうか。男子たちが、あたしの周りに集まらなくなってきた。女子があたしの言うことを無視し始めた。先生があたしをひいきしなくなってきた。パパやママや大人たちに、可愛いねぇって言われることがなくなった。
 あたしは世界の中心にいたはずなのに。あたしはお姫様のはずなのに。
 どうして、どうして、そう頭の中をぐるぐるさせていたある時、聞いたのだ。放課後の教室での、男子たちのお喋りを。
「大谷って、ウゼェよな〜。自分が美人だとかマジで思ってんのかな?」
「ある意味スゲェよな、あの勘違いっぷり。鏡見ろよって感じ」
「だよなー! あいつどっからどー見てもデブでブスなのにな!」
 あたしは、息が止まるくらいの衝撃を受けた。
 デブ? ブス? なにそれ。なにそれ。そんなわけない。あたしは美人なのに、あたしは可愛いのに。なんであんなこと言われなきゃならないの? だって、あたしはお姫様のはずなのに。
 あたしはたまらなくなって駆け出した。嘘だ、嘘だ、冗談じゃない。そんなのありえない。だっておかしいじゃない、あたしは世界の中心にいたのに。
 家に駆け戻って、部屋に飛び込み、服を脱いで、もう一年以上ずっと見てなかった姿見に真正面から自分を映す。おかしいでしょ、そんなはずないでしょ、そうでなきゃおかしい、そう呟きながら。だけど。
 姿見の中には、でっぷり太って、顔にも顔立ちがわからないほど肉をつけた、醜い子供が映っていた。
「――――っ!!」
 あたしは声にならない声で叫んで、姿見にランドセルを叩きつけていた。なんで、なんで、そんなわけない! あたしはあんなに可愛かったのに!
 そりゃ、この一年ちょっとはたくさん食べたかもしれない。だけどそれはパパとママが仕事が忙しくなってあたしをかまってくれなくなったから。好きな男の子があたしじゃない女の子を好きだって知ったから。つまらなかったから、面白くなかったから、食べるほかに楽しみがなかったから、いっぱい食べでもしないとやってられなかったから。
 だから、太ったのはあたしのせいじゃない。
 あたしは呟いた。あたしのせいじゃない。太ったのはあたしのせいじゃない。だったら痩せなきゃおかしい。そうじゃなきゃ世界は間違ってる。ちょっとは太ったかもしれないけど、そんなもの普通にしていればぐんぐん痩せて、以前のようにすごく可愛い女の子に戻るはず。だってあたしは世界の中心にいた、お姫様なんだから。
 それからあたしは姿見を見ることはなくなった。そしてその代わりに、以前にも増して食べるようになった。
 周囲のあたしを見る目に腹を立てて、傷ついて、そういう時いっぱい食べると少しそういう気分が和らいだ。あたしはお姫様だという気分を取り戻せた。
 だからあたしは姿見を封印して、毎日毎日必死にお腹に食べ物を詰め込んでいる。そうしてひたすらに、あたしは可愛い、あたしはお姫様、と言い聞かせている。ヘアパックやらスキンケアやら、あたしの体を真正面から見つめなくていいキレイになるための方法には積極的に手を出して、これをやってるんだから、あたしはすごくキレイになってるはず、と必死に。
 だって、あたしが今のあたしになったのは、あたしのせいじゃないんだから。

 あたしは周囲からの視線を跳ね返しながら、のしのしと歩く。あたしは世界一可愛いお姫様、バカな奴らにかかずらっちゃダメ、と心の中で唱えながら。
 周囲に壁を張って孤高の存在になって、周り全部全力で無視して。それがおかしい、と言われてもしょうがないことだとわかってはいる。だけどしょうがないじゃないか。周りはあたしをあたしの扱ってほしいように扱ってはくれないんだもの。
 あたしはお姫様でいたいのに、世界の中心でいたいのに、周りはあたしのことをデブだのブスだの言って傷つけてその座から引き摺り下ろす。そんなのあたしのせいじゃないのに。そんなことであたしがお姫様じゃなくなるなんておかしいのに。
 だからあたしは孤高を保つのだ。傷ついた心を食べることで癒して。もうあたしは、あたしを世界の中心に据えてくれる王子様なんていないって、知ってるんだから。
 二階への階段を上る途中で、どんっ、とあたしの体になにかがぶつかった。あたしはよろけもしなかったけど、パンの袋が手から滑り落ちる。それだけでも苛立たしいのに、ぶつかった相手は大きく舌打ちしてあたしに怒鳴る。
「邪魔なんだよ、こんなとことろとろ歩いてんじゃねぇデブ!」
 あたしは、一瞬呼吸が止まったけれど、そんな言葉は無視して傲然と顔を上げた。お姫様らしく、世界の中心にいる人間らしく、あんな奴らにほんのわずかにでも煩わされることのないように。
 そしてあくまで優雅に、落っこちたパンの袋を拾おうと身をかがめかけて、下から階段を上ってきた人間と目が合った。
 あたしは思わず固まる。光の加減によっては銀にも見える灰色の髪と瞳、そしてその怜悧な容貌は一度見たら忘れられない。今年の四月にやってきた東京からの転校生、八十八在くんだ。この辺りじゃ見たこともないようなきれいな顔と優しい言動に、騒いでいる女の子も少なくないらしい。
 八十八くんはあくまで静かな表情のまま階段を上ってくる。あたしの方を見る視線が、わずかに怪訝そうなものに変わる。あたしははっとして、変に思われてたまるかとお腹の底に力を込めた。姿勢を元に戻して八十八くんを見下ろし、傲然と声をかける。
「ちょっとぉ〜、なにやってんのぉ〜? 女の子が袋落としたのよ、さっさと拾いなさいよぉ〜」
 感じ悪い、と思われるかもしれないとは思った。だけどそれよりもあたしは無様だと思われるのが我慢ならなかった。お姫様は嫉妬され、憎まれることはあっても、軽蔑されることは絶対あっちゃならないんだから。
 あたしにはもう、縋るものがそれしかないんだから。
 怒鳴られるのを覚悟しながら上から見下すように言った言葉――それに八十八くんは穏やかな表情のまま、なんということもなさそうにすっと身をかがめ袋を拾って、あたしに差し出した。
「どうぞ」
 ―――その柔らかな声と表情は、一瞬であたしの心臓の中を満たした。
 あたしは完全に硬直して、ぼうっと八十八くんを見つめた。そのきれいに整った、ロシア貴族の血が入ってるって噂の王子様みたいな顔を。あたしの方を見て、優しく『どうぞ』と言った顔を。
 あたしが我に返ったのは、八十八くんがわずかに眉をひそめて、「大谷さん?」と言ったあとだった。
「ちょ、ちょっとぉ〜。あんたなんであたしの名前知ってるのよぉ〜、やだ、あんたストーカー?」
「なんで、って……同じクラスだし」
「だったら言われる前にあたしの席に置いておくぐらいのことはしなさいよぉ〜、気が利かないわねぇ〜」
 なにを言ってるのあたし! とあたしは内心絶叫した。ああ違うこんなことが言いたいんじゃないのに! 絶対変に思われた!
 だけどこういう言葉しかすらすらと出てこない。これまでずっと、あたしの周りの男の子たちはあたしの敵だったんだから。あたしの世界を壊して、あたしを傷つける存在だったんだから。こっちも傷つけ、罵り、跳ね飛ばす言葉しか出てこないのだ。
 あたしは内心で泣きそうになりながらも、外見はあくまで傲然と胸をそびやかす。八十八くんはそんなあたしをしばしの間きれいな灰色の瞳で見つめ、小さく肩をすくめて言った。
「わかった。席に置いておくよ」
「え」
 あたしが答える暇もなく、八十八くんは歩き出す。あたしはわけがわからず一瞬呆然としてから、慌ててあとを追った。
 八十八くんは、当たり前だけどまっすぐ2−2教室に入っていく。あたしが思わず入り口からこっそり様子をうかがっていると、八十八くんはまずあたしの席に袋を置いて、それから自分の席に戻っていった。どうやら待っていたらしい、席をくっつけている近所の席の花村とか里中とかが手を振る。
「おっ、おっかえり! 俺の分買ってきてくれた?」
「うん。ジョージアの無糖でよかったんだよな? 里中さんはウーロン茶で、天城さんは伊右衛門」
「うん、ありがと」
 それから八十八くんは席に着いてお喋りを始めてしまったので、声がよく聞こえなくなった。仕方なくあたしは教室の中に入って、自分の席に着き、お弁当を広げつつ耳を澄ます。
 教室の中は騒がしくて、八十八くんがなにを喋ってるのかろくに聞こえない。苛立ちながら必死に神経を耳に集中していると、ふと八十八くんたちの席で声が上がった。
「花村ー! だっからセクハラやめろっつってんでしょーが!」
「ちょ、おま、あっぶねーな! お前こそ暴力振るうのやめろよ!」
「だったら女の子をいちいち見かけで差別するような真似すんなっつの! ったく、ちょっとは八十八くんを見習いなよ、あんたは」
「あのなー、見かけもなにもお前の場合はそれ以前だっ……ってぇ! おいっ八十八、この凶暴女になんとか言ってやれ!」
「え、俺?」
 一瞬、教室の中が静まり返ったように感じた。あたしは思わずばっと顔ごとそちらの方に向けた。八十八くんは花村と里中を見比べながら、少し考えるように首を傾げ、言った。
「そうだな……確かに俺も、見かけも人の重要な要素のひとつだとは思うよ」
「っ―――」
 あたしの顔から、ざっと血の気が引いた。
 だけど、続く言葉を聞くうちに顔が熱くなってきた。
「えー……八十八くんも花村と同類?」
「同類っていうか……あのさ。なんていうか、内面って外面に出るものだろう?」
「え?」
「外見って皮一枚のことって考えられがちだけど、実はいろんな情報を伝えてくるものだと思うんだ。『きれいな人』って印象は一言で言えてしまうものでも、肌がきれい髪がきれい顔立ちがきれいプロポーションがきれい着こなしがきれい表情や仕草がきれい、いろいろあるだろう。その中から、いろんなことがわかる、っていうか」
「たとえば?」
「肌とか髪とかがきれいならその人はきちんとした食生活を送っていて、自分の美容についてきちんとケアしてるってことがわかるだろ? 洗顔洗髪スキンケアヘアケア、そういうものにきちんと気を使っていて、手入れを怠っていないってことになるわけだから」
「ああ、確かにそうかも」
「そこから几帳面な人柄なんじゃないか、ってことや少なくとも自分を常に美しく保つ、っていう向上心があることがわかる。身だしなみをきちんとするだけの自尊心や周囲に見苦しさを与えないっていう礼儀正しさがあることがわかる。きちんとした印象を与える人は、綺麗だという印象を与える人は、普通はそういう印象を与えるだけのことをしているんだよ。……花村の言いたかったことも、そういうことだろ?」
「そ、そーそーそういうことが言いたかったんだよ俺は!」
「嘘つけ!」
 あたしは顔を真っ赤にしながら、もしかして八十八くんはあたしのことが好きなのかも!? と頭の中をぐるぐるさせていた。肌や髪がきれいな人が好きなんて、あたし以外ありえない。あたしくらいそういうところきちんと手入れしてる子はいないもの! どうしようどうしよう、どう答えよう!?
 だが、そんな思考は、続く言葉に凍った。
「あー、でもそっかー……やっぱミリョク的な人っつーのは、やっぱりそういうきちんとしてる子なんだよねー。あたしももーちょっと考えよっかなー」
「え、なんで? 里中さんはすごく魅力的だと思うけど」
「え……」
「おいおい八十八、別に無理して褒めること」
「あんたマジ失礼!」
「いや、本当に。一緒にいて楽しいっていうのはもちろんだけど、見てるだけでもそれはわかるよ。里中さんはわりと日焼けしてて、しっかりした体つきしてるだろ?」
「う、うん……や、やっぱ女の子らしくないでしょ、そういうの?」
「なんでさ。身奇麗にしてることだけが女の子の魅力じゃないだろ? それだけでも里中さんがしっかり運動してることがわかるじゃないか。きちんと食べて、それ以上にきちんと運動して、そういう健康的な地に足のついた生活のできる女の子っていうのは、すごく生きた魅力を感じさせてくれると思うよ」
「え……そ、そう?」
「うん。男に媚を売ることだけが女性の魅力じゃないと思うよ。その分のエネルギーを他のところに使ってるってことだし。よく体を動かしてる人って、体が活力に溢れてるから、周りにも元気を与えてくれるしさ」
「そうだよね。千枝と一緒にいると私も元気になるもの。……っていうことは、八十八くんとしては太った女の子は駄目なの?」
「ちょ、雪子!」
「そうだな……」
 わずかに首を傾げて、八十八くんは言った。
「太り方にもよるし、駄目ってわけじゃないけど。まぁ、印象はマイナスにはなるかな。むやみに太ってるってことは、セルフコントロールができてない、つまりその分怠けてるってことだからね」
 ――あたしは、その言葉に完全に硬直してしまった。

 あたしは、お弁当を食べることもできず、ひたすらに固まっていた。八十八くんの言葉が、ひどくショックだったからだ。あたしが目を背けてきたものを、真正面からしっかり見せつけられたからだ。
 太っている女の子は魅力的じゃない、と。それも反論のしようのないくらい念入りに、論理的に。
 あたしを傷つけるための台詞じゃなく、バカな男子どもの台詞じゃなく、客観的な視点で、太っている女の子は魅力的じゃない、と思い知らされたのだ。
 あたしはどうすればいいのかわからなかった。これからどうすればいいのかさっぱりわからなかった。そうだ、あたしはずっと怠けていた。現実を直視することを、自分の嫌なところを、醜さを認めることを。
 だけどあたしに他にどうやりようがあったっていうのだろう。あたしはか弱い女の子だ。ずっとお姫様でいたかった、それだけを夢見てきた女の子だ。あたしは現実が嫌で苦しくて、必死に夢を見てきた。それがいけないこと? なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないの、あなたにそんなことを言う資格があるの!?
「――っとに、お前ってすげぇよなぁ」
「はは……ありがと」
 あたしは固まった。八十八くんの声。どれだけ時間が経っていたんだろう、あたしの席のすぐ後ろを、八十八くんが通っている。
 八十八くんは、たぶん花村と一緒にあたしの席の後ろを歩きながら喋っているみたいだった。楽しげに、でも真剣に。はっきりとした気合をもって。
 花村が嬉しげな上っ調子で言う。
「ほんっとに、どーやったら取れんだよ学年一位なんて」
 学年一位!? と目を瞠るあたしに気にも留めず、八十八くんはあっさり、だけど力を込めて言った。
「そんなの、勉強したからに決まってるだろ」
 ―――――。
 あたしは思わず立ち上がり、掲示板へと走っていた。どすどすと音を立てながら。みっともない、でもそれよりも知りたかった。本当に? 本当に学年一位なの? 本当にそんなに頑張ったの?
 掲示板、他の奴らを押しのけて前に出る。まるで祈るような気持ちで二年の一番上を見上げ、息を呑んだ。
 一位 2−2 八十八在 941点
「―――っ」
 あたしは踵を返して、また走り出した。悔しい。悔しい。悔しいけど。八十八くんは、確かに頑張ったんだ。全力で。そうでなきゃあんな点数取れない。本当に、自分でそうすべきだと言った通りに、本気で。
 実習棟の隅で、あたしはこっそり泣きながら決めていた。ダイエット、しよう。あの人とちゃんと向き合いたいから。
 それから、今日の家庭科で、なにか作って、八十八くんに持っていこう。あの人に、本当にあたしを見てくれそうなあの人に、こっちを向いてちゃんとあたしをわかってほしい、そう思ってしまったから。

 そう思えた時からも、スムーズにことが進んだとはとてもいえなかった。
 あたしの心は思ったよりも変化に鈍感で、そう簡単に変わってはくれなかった。柏木先生に紹介してもらったカウンセリングの先生に何度も世話をかけても、あたしは何度もやけ食いと嘔吐を繰り返してダイエットは遅々として進まなかった。
 しかも八十八くんは仲のいい子たちと喋ってばっかりで、あたしの方をろくに見てもくれなかったし。あたしはあたしでそんな八十八くんに、優しい言葉をかけるなんてとてもできなかったし。林間学校で食事を分けてくれないか頼まれた時も跳ねつけてしまった(八十八くん本人が頼んでくれたならまだよかったかもしれないのに)。
 必死にダイエットして、五kg痩せて、キレイになったあたしを見せてやると勇んで参加した学園祭の美人コンテストもまるで駄目で。夜に八十八くんたちがやってきた時は嬉しかったけど、すぐ帰っちゃったし。
 あたしがまともに八十八くんに声をかけられるようになったのはもう年末近くになってからで、それだってあたしの内心を正直に話すなんてことはまるでできなかった。
 クリスマスも、バレンタインも、あたしの気持ちを告白するなんてとてもできなくて。できたのは、時々こっそりと、八十八くんの下駄箱に作った料理を入れておくことぐらい。
 そうして結局、もう三月二十日。明日には、八十八くんは東京へ帰ってしまう。あたしとはまったく、なにもないまま。なにも起こらない、どうともならないままで。
 あたしは誰もいない学校の中、こっそりと教室へと向かった。あたしなりに精一杯頑張ったのに、どうともならなかったこの一年から、自分なりにご褒美をむしりとりたかったのだ。
 教室に入る前、左右を見て、誰もいないことを確認して、こっそりと中に入る。そろそろと真ん中の机の列を教卓の方へと向かい、目当ての席――八十八くんの席でゆっくりと腰を下ろした。
 あたしは声に出さずにはしゃぎながら、しばらく好きな人の席≠堪能した。前後左右の見え方を調べてみたり、机になにか書いてないか見てみたり、こっそり机に突っ伏してみたり。
 それからゆっくりと顔を上げて、窓の外を見た。校門の桜がきれいに見える。
 あたしはこの一年、あたしなりに本当にがんばってきた。体重は十kgも減った。勉強の順位も二十位も上がった。料理の腕前も相当に上達したと思う。
 だけど、それを評価してくれる人はいない。
 八十八くんじゃなくてもいい、誰かに、お世辞抜きで自分の努力を評価してもらいたかった。頑張ったねって言ってもらいたかった。そのくらいのご褒美あってもいいと思った。だって、一番評価してほしい人はもういなくなっちゃうんだから。
 ぽろ、と瞳から涙がこぼれる。普段なら泣いちゃ駄目、と自分を叱りつけたんだろうけど、今はそんな気力なかった。今だけは。今ぐらいは。この一年の努力がまるで報われないと決定してしまった今ぐらいは。
 あたしはぽろぽろと涙をこぼしながら、かすかに声を漏らしながら、この一年の片思いを想って外の桜を見つめた。好きな花だったけど、これからはたぶん見るたびにこの日を思い出して泣きたくなる。
「……っ……、……」
「……大谷さん?」
「!」
 あたしは文字通り、硬直した。この声。八十八くんだ。
 あたしはもう固まって動くこともできない。なんで、なんで、そうぐるぐる回る頭なんて知りもしないで、教室の後ろの扉はからからと開き、床を鳴らしながら足音がゆっくり近づいてくる。この一年何度も、こっそりこっそり確認した足音が。
 そしてあの人が、今あたしの目の前に立った。
「…………っ」
 あたしはもう完全にパニックになって、なにを言ったかよく覚えていない。身勝手なことをむちゃくちゃ高飛車に言っていたような気がする。下手をしたら告白じみたことすら言ってしまったかもしれない。
 八十八くんはそんなあたしの言葉を真剣な顔で聞いて、うなずいて。
「そうか」
 それから、にこり、と、あたしが死ぬほど憧れた、優しい笑顔を、ずっと夢見ていた通りにあたしに向けて、言った。
「この一年、ずっとありがとう、大谷さん」
 そうしてあたしから目を逸らし、前の扉から教室を出ていった。
 あたしはしばらくは、ただ呆然とその後姿を見つめ。
 それからぶわ、と泣きながら机に突っ伏した。うっくうっくと何度もしゃくりあげて、八十八くんがいってしまうっていう実感がどーんときて悲しかったけど、だけど死ぬほど嬉しかった。
 ―――この一年、頑張ってきてよかった。
 そう、心の底から思えてしまったのだから。

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