自分がいていいと思える場所があなたのそばである幸せ
 家の車庫に車を止めて、俺――堂島遼太郎は運転席から立ち上がった。ふ、と小さく息をつきながら玄関までの数歩を足早に歩く。
 今日も大した仕事はなかった。俺が署内で干され気味になっていることもあるのだろうが、それ以上にまともな事件が起こっていないのだろう。それはそうだ、こんな田舎町で凶悪犯罪などそうそうあるもんじゃない。
 あいつが来てからのこの一年とは、違って。
 俺は頭を振ると、玄関の引き戸をがらりと開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「お帰りなさい」
 いつも通りにちゃぶ台のところに座っていた俺の娘――菜々子が立ち上がり、こちらの方に駆けてくる。その可愛らしい仕草に思わず頬が緩んだ。
 そしてその後からすい、と静かな所作で俺の甥――八十八在が立ち上がり、同じように駆け寄ってくる。そして玄関から上がろうとする俺からさっと鞄と上着を受け取り、俺のあとについて居間へと戻っていった。
「今日は、どうでした?」
「いつも通りだ。大した仕事もありやしない」
「そうなの?」
 菜々子も俺の後について今まで戻っていく。在が、それこそ世話女房かなにかのように、俺が帰ってくるやさっと玄関までやってきて鞄やら上着やらを受け取るので手伝うつもりなんだろう。
 在にそんなことはしないでいいと何度も言ったんだが、在はそのたびに『もう当分こんなこともできなくなるんですからどうかこのくらいのことはやらせてください』と頭を下げてくる。こいつは腰が低いくせにやたら押しが強いんだ。
 ……俺が『当分こんなことはできない』って言葉に、ほだされちまったせいもあるんだろうが。
 居間に入ると、綺麗に整頓された机の上に俺の分の夕飯が乗っているのが見える。毎晩のように俺が散らかす机を、在は綺麗に片付けては自作のうまい飯を乗せてくる。ここんところ毎日だ。そう無理しなくてもいい、と言っても『あと少ししかいられないんですから』以下同文だ。
 俺たちが家に戻ってからというもの、在は(元から高校生にしちゃあ珍しいぐらいに頑張ってくれてはいたんだが)驚くほど手抜きなく家事をこなしてくれていた。毎日きちんと学校に行きながら(しかも定期試験では学年トップの常連だ)毎日洗濯をし、掃除をし、手作りのうまい飯を作る。菜々子の遊び相手になり、抜かりなく気配りして俺の世話を焼く。
 しかもなんというか、こんなのはひどく自惚れているようで気恥ずかしいんだが、そういう俺や菜々子の世話を焼くあれやこれやを、在はひどく楽しげにやっているように見えるのだ。まるで俺たちの世話を焼くのが生き甲斐であるかのように。
 ――あいつと、同じように。
「今日はお酒はどうします? 熱燗か、ビールも用意してますけど」
「ああ……じゃあ、ビール頼むか」
「はい、ちょっと待っててくださいね」
 てきぱきと準備をして食卓を整え、自分も手を洗って席に着く。俺のコップにビールを注いでから、待っていた菜々子に笑いかけ、菜々子も笑い返して一緒に手を合わせた。
『いただきます』
 俺も一応手と声を合わせてから、箸に手を伸ばす。菜々子が楽しげに今日あったことを俺と在に話し、在も笑顔でそれに応え、時々俺に話を振る。俺も杯を乾しながらも言葉を返す。在の振ってくる話題は面白く、俺も何度かつい笑みが漏れる。
 家族の時間。優しい時間。俺が幸福だと心底思える時間。
 ――それがもうすぐ終わるのだということは、俺もよくわかっていたんだが。

「遼太郎さん、なにかつまみでも作りましょうか?」
 居間のちゃぶ台で菜々子と喋りながら勉強をしていた在は、菜々子が寝室に向かうと晩酌をしていた俺の方を向いて言ってきた。俺は苦笑しつつ手を振って言う。
「そう気を遣うな。いつも言ってるだろう、俺たちは家族なんだから。家族相手にわざわざもてなそうとなんざせんでもいいんだぞ」
 そう言うと在は恥じらうように微笑んで(こいつのぱっと見腹が立つくらいの美形面が嫌味に見えないのは当たり前のようにこういう顔をするからだと思う。性質的に子供の範疇に入るというか、やることのいちいちがいじらしく思えちまうんだ)、頬を掻いた。
「そういうつもりじゃなかったんですけど……俺はただ、大切な家族だと思ってるからできるだけ……なんていうか、尽くしたいと思ってるだけで。遼太郎さんや、菜々ちゃんにいろんなことをして、喜んでもらえるのが嬉しいっていうか」
 それからわずかに小首を傾げて、少し困ったような顔になり。
「あの……もしかして、ご迷惑でしたか?」
「いや、そういうわけじゃないが」
 思わず即座に否定すると、在はにこ、と(もう高校生の男にこんなことを言うのは正直どうかとは思うんだが)路地裏に咲く花のように静かに、密やかに、なのに幸せそうに微笑む。
「よかった。気に障ったら、どうかすぐに言ってくださいね」
「ああ……まったく、お前は本当に、できすぎなくらいにできた奴だな。俺が高校生の時からは考えられん」
 思わず苦笑しつつ嘆息すると、在は困ったような顔でまた小さく笑った。
「そういうわけじゃ、ないですよ」
「なに言ってる。勉強も家事も両立して、俺たちの面倒をいちいち見てってやってる奴が」
 からかうように唇の端を吊り上げてやるが、在は困ったような笑顔のまま首を振る。
「本当に、そういうわけじゃないんです。俺は本当は、すごく面倒くさがりの怠け者なんですよ。働き者に見えるのは、ただ見栄を張っているだけなんです」
「……ほう?」
 俺はじ、と在を見た。在は困ったような笑顔を崩さずに俺を見返す。しばし見つめあってから、俺はにやりと笑ってやった。
「在、ちょっとこっちに来い」
「え? あ、はい」
 戸惑ったような顔で立ち上がりテーブルまでやってくる在に、コーヒーを一杯淹れてやる。こいつの好み通り、ミルク多め砂糖抜きで。ついでに俺の分も淹れた、たぶん長い話になるだろうからアルコールは抜きの方がいいだろう。
「あの……遼太郎さん?」
「久々に、ちょっと話でもするか。明日は日曜日なんだ、少しくらい遅くなってもかまわんだろ」
「え……それはそう、ですけど。遼太郎さんは明日は」
「俺はここのところずっとろくな仕事がないからな。明日急な仕事が入ろうがきっちりこなせるぐらいの余裕はあるさ。それともなにか? 俺の誘いを断ろうってんじゃないだろうな、えぇ?」
 口元を笑ませながらガンをつけてやると、在は俺が誘う時いつもそうであるように、困ったような恥らうような顔をしてから柔らかく笑んで。
「はい、遼太郎さん」
 と静かに、けれど確かに嬉しそうに言うので、俺は少しばかり照れくさいような気持ちになりながらも俺の向かいの椅子を示してやった。

「学校の方は、最近変わりないか」
 在が椅子に座るのを待ち、コーヒーを一口啜ってから訊ねる。在はわずかに苦笑して、うなずいた。
「変わりないっていうか……最近はずいぶん勉強より遊びの方に比重を置いてはいますけど」
「ほう? にしちゃあ家じゃやたら勉強してるじゃないか。飯を食った後も下にはいるが後片付けしたらすぐ勉強始めるし、部屋に上がった後も遅くまで勉強してるだろ?」
「はい、それはまぁ。なんというか、相当気合入れて勉強しないとおっつかないというか」
「おっつかない? なんでだ」
「あの……東京に戻ったら、俺は以前と同じ学校に通うんですけど。あそこの学校、高校三年生になるまでに高校の勉強全部終わらせるんですね。で、三年の一年間はまるまる受験対策。だから時間の余裕のある今のうちに、一応は三年次の勉強も形になるくらい仕上げておかないとと思って」
「……そりゃまた……大した学校だな」
 と口に出しては褒めるようなことを言いながらも俺の眉間には皺が刻まれた。学歴社会の中の受験勉強の是非はおいておくにしても、そんな風に学校生活を受験のためだけに使うようなやり方には、やはりどうにも嫌悪感が付きまとう。
 在は(たぶん俺のそういう感情に気付いたんだろう、敏い奴だから)俺の淹れたコーヒーを啜ってから軽やかに笑って言った。
「だって菜々ちゃんのお兄ちゃん≠ニもあろう者が浪人なんてしたら格好つかないじゃないですか。泣かせちゃうかもしれないし。そうなったら遼太郎さん、俺にこの家の敷居またがせてくれないでしょう?」
「……馬鹿、俺だってそこまで鬼じゃあないさ。何発か拳骨くれてやるくらいで勘弁してやる」
 俺が思わず笑って言うと、「じゃあやっぱり気合入れて頑張らないと」と在はまた笑った。
「だが、ならどうして学校じゃ遊びの方に比重置くことになるんだ。普通なら勉強は学校でするもんだろ?」
「まぁ、それはその……友達と学校に通えるのも、残りわずかですから。悔いの残らないよう、めいっぱい遊んでおきたいな、って」
「……なるほどな」
 俺はわずかに視線を上にやって思い出す。在といつもつるんでいた、あの少年少女たち。
「そういえば、聞いたことがなかったな。あいつらとはどうやって知り合ったんだ」
 普通に学校で友達になるには少しばかりバラエティに富みすぎた人材だ。
「ええと……最初は、たまたま席が隣になったんで、千枝ちゃんが話しかけてきてくれたんです。その翌日に、通学路でゴミ箱に嵌まってたのを助けたのをきっかけに、陽介が話しかけてきてくれて、千枝ちゃんと一緒に帰りにジュネスに誘ってくれて。……そこからは流れというか……事件に関わった人たちを、助けるような形になったのをきっかけに仲間に加えていった、という感じですね」
 視線を逸らしも表情を変えもしなかったが、在の口調には言葉を濁すような雰囲気があった。だが、俺はあえてそれには触れない。いまさら――少なくとも今は、蒸し返してもなんの意味もない話だとわかっていたからだ。
「ずいぶんいろんな奴らがいるが……そいつらとの仲はどういう感じなんだ」
「え、どういう感じって……いや、なんていうか、改まると言いにくいんですけど」
 口調は困ったようなものにしながらも、在はひどく照れくさそうに顔を緩める。こいつがあの仲間たちを、俺も驚くほどに大切にしているのはよくわかっていた。
「ええと……たぶん、一番仲がいいって言っていいのは陽介だと思います。ジュネスの店長の息子の」
「ああ、あいつな」
 同じクラスの同性だし、口ぶりも親しげだったし、そうなんだろうとは思っていたが。
「なんていうか……俺がこれまで友達ろくにいなかったから、過剰に思い入れてる面もあるかもしれませんけど。あいつとは、一番長く一緒にいていろんなことを一緒にやって……あいつは俺のことを親友って、相棒って言ってくれますし、俺もあいつのことをそう……少なくともその言葉に恥じない人間でありたいと思ってます。これからもずっと、できるなら一生付き合っていきたいなって思う相手……ですね。みんなに対してもそう思いますけど、特に」
「……そうか」
 ここまで熱烈に思い入れてるとは思ってなかった。この年頃の男が素面で言える台詞か? まぁこいつはいつもしれっとした顔で俺なら死んでも言えないようなこっぱずかしいことを言ってくる奴だが。
「千枝ちゃんと雪ちゃんは、異性の親しい友人というか、仲間かな。正直普通に話せる女の子って初めてだったんで、嬉しかったんですよね……完二とりせちゃんは、可愛い後輩かな。俺、こっちに来るまで部活ろくに参加してなかったんで、後輩っていう存在が初めてだったんで新鮮でした。直斗はそれにプラスして頼りになる名探偵。クマくんはなんというか……可愛いマスコット的な仲間?」
「おいおい、マスコットとはひどいな。そりゃああの子は背は小さめだが」
「いや、その、なんというか、言動と着ぐるみ込みで……クマくんって初めて会った時が着ぐるみの姿だったんで、その印象の方が強いんですよね」
「着ぐるみって……どういう出会い方したんだ、お前ら」
 俺は思わず笑ってコーヒーを啜った。実際、こいつの仲間たちには謎というか、よくわからないところも多かった。ジュネス店長の息子や天城屋旅館の一人娘なんてだけならまだしも、八十稲羽でも有数の不良やら休業中のアイドルやらなんてのまで偶然仲良くなったとは思えないし、なによりあの金髪の少年にはどう考えても不自然なところがある。花村陽介の家にやってくるまでの素性がまるでつかめない。それこそ唐突に八十稲羽の、在のそばに突然出現したかのように。
 だが、まぁ、それでもなんであれ、こいつが仲間の話をしている時にはいつも心底嬉しそうな、幸せそうな顔をするんで、今までも今も、つい追求する気が削がれてしまっているのだが。
「お前の友達っていうと、俺はあいつらしか知らないんだが……他にはいるのか? お前だったら相当多そうだが」
 何の気なしに問うと、在は苦笑して肩をすくめる。
「そんなことを言ってもらえるほど、俺社交性高くないですけど……まぁ、ある程度は」
「ほう。たとえば?」
「えっと、部活関係の友達なんですけど、一条と長瀬っていう男子の友達が。もともと一条と長瀬が親友で、そこに混ざらせてもらった感じなんですけど、陽介と一緒に何度か遊びに行ったりしてるんですよ」
「……一条? ってもしかして、一条康か? 一条家の」
「あ、はい、そうです。その関係でいろいろ大変なことあったみたいですけど……それにめげずに頑張って。長瀬もそんな一条を当然みたいに支えて……いい奴らですよ、本当に」
 そう言って笑う在の顔は爽やかだ。そいつらのことを心底大切に思ってるのがわかる、こいつのいつもの優しい笑顔。
「あと、コニシ酒店の息子の小西尚紀くんとか。たまたま知り合って少し話をするようになったんですけど、すごく健気でいい子なんですよ。最近は店の手伝いが忙しいみたいであまり話できないんですけど。他には……部活関係だと、バスケ部のマネージャーの海老原って子とか。演劇部の……もうほとんど会わなくなっちゃったけど、小沢って子とか。あとこの前知り合って時々練習に付き合ったりしてる、吹奏楽部の松永って子とか」
「……女か? その子たち」
「え? え、ええ、まぁ、そうですけど」
 戸惑ったような表情を作る在の顔――だが俺の刑事としての目はその顔に『しまった』という感情が隠れているのを見抜いていた。俺は思わずにやりと笑う。
「そういや、文化祭で言われてたらしいな。お前、校内でも有名な女泣かせなんだって?」
「っ!? ち、違います、女泣かせって別にそういう、変な意味じゃなくて。少なくともやましいことはなにもしてませんから! 本当に!」
 必死にぶんぶん首を振る在。俺は面白くなってもう少しいじめてやる。
「本当かぁ? 仲間の子たちにも相当好かれてるだろう、お前。明らかにお前に向ける視線だけ雰囲気が違ってたぞ。しかもそこまでの数の女と知り合うってことは、よほど……」
「違います、本当に違います、信じてください本当妙なこととかなにもしてませんから!」
 半泣きになってほとんどすがりつくように迫ってくる在に、俺は在を可愛いやら可哀想やらと思う気持ち半分、呆れる気持ち半分で笑ってやった。
「わかったわかった、そこまで必死にならなくてもいい。お前が女をとっかえひっかえするような奴じゃないのは俺もよーく知ってるさ」
 ふ、と心底安堵した様子で息をつく在に、それでもにやりと笑みながら軽く一発入れておく。
「だがな、実際、そこまで大勢の女に囲まれてたんだ。ちっとくらいはいい目を見せてもらったりもしたんだろう? 叔父さんにだけ内緒で話してみろ」
「う……」
「まぁ、お前と話しててほとんど女の話題が出てこないからな、ちょっとばかし心配なんだよ、叔父としてはな」
 からかうように唇の両端を吊り上げてやると、在は困ったような顔を赤らめながらもじもじと答えた(普通にしていればクールな美形面なのに、そういう顔も似合ってしまうというのが大したもんだと思う)。
「なんていうか、その……いい雰囲気と呼ばれるんじゃないかなぁ、って雰囲気になったことはありますよ。男としてここはいっとくべきじゃ、みたいな雰囲気っていうか。あとはストレートに告白されたりとか」
「ほう」
 まぁ、ここまでの美形面に加え成績は学年トップだわいちいち気が利くわ優しいわ、って奴だ、女の方が放っておかないってのはよくわかる。
「けど、そういう雰囲気になるたびに逃げてきたんです。話題を逸らしたり、微妙な答え方したり……告白された時にはきっぱり断ったりしましたし」
「……ほう。そりゃまた、なんでだ? お前くらいの年なら女と付き合ってみたい、ってのは普通に思うこったろうに」
 少なくとも俺はそうだった。頭の中は女のことでいっぱいで、始終ムラムラしてた。それこそ頭の中身を見られたら犯罪者になっちまうだろうってくらいに。俺の周りの奴らもそういうのばかりだったんだが。
 が、在は顔を赤らめつつ、微妙に顔をうつむけつつ、ぽそぽそと答える。
「なんていうか……そりゃ、俺も女の子とつきあってみたいな、っていうのは普通に思いますよ。だけど、なんていうか……嫌だったんです」
「なにがだ?」
「女の子とつきあっちゃって……今の空気が壊れちゃうのが」
「……どういう意味だ?」
 眉を寄せると、在は困ったような赤い顔を崩さないまま、おずおずとだがはっきりと説明した。
「一人の女の子とつきあう、ってことになると、他の人間は二の次三の次、ってことになりますよね? そういうのが、すごくもったいなかったっていうか……俺はこっちに来て出会った人たちみんながすごく好きだったから、一人に限定してつきあいたくなかったんです」
「……ほう」
「みんなと一緒にいる今の空気がすごく好きだから、それを壊したくないというか。かわいい女の子の恋人っていうポジションより、みんなの仲間ってポジションの方がずっと気持ちよかったっていうか……たぶん、俺にはまだ恋愛するような成熟度がないってことなんでしょうね」
「……そうか」
 なんとはなしに納得する。確かにその言葉は、在に似合っていた。成熟度がない、というよりは成熟しすぎているんだろうと俺には思えたが(女に告白されて一時の感情ではなく周囲とのバランスを考えて判断するなんざ俺が高校生の頃にはできやしなかっただろう)、そんなことを言いながら照れくさそうに笑う在は、確かに子供っぽく、稚く見えた。
「ま、お前らしいがな……そういうことを言ってると最後には嫁の来手がなくて苦労するぞ?」
 からかうつもりでそう言うと、在は真剣な顔になり。
「そういうことを言わないようにならないと来てくれない嫁なら、来なくてもいいですよ、俺」
 と答えたので、俺はもう苦笑するしかなかった。
「あとは……喋り友達っていうのならクラスメイトに何人か。あとクラス外にもそれなりの知り合いが……他は、学校外の知り合いになっちゃいますね。いつも鮫川の通学路で会うおじさんとか、だいだら.の店主さんとか……あとは、もう会えないけど、大切な知り合いとか」
「学校外にまでいるのか」
 さすがに驚きながら言うと、在は少しばかり得意そうな顔になって言う。
「ええ。頑張りましたから、俺」
 頑張った。
 その言葉は、単純だが確かに、俺の胸のところにずんとくるものがあった。こいつは確かに、全力で頑張っている。
「俺、たまに学童保育のアルバイト行ってたんですけど、その先で知り合ったお母さんと子供とか。夜の病院の清掃とか家庭教師とかのアルバイト先の看護士さんとか生徒の子とか。あとは病院清掃のバイト先で知り合ったひさ乃さんっていうお婆さんがいるんですけど、その人と河川敷でたまに話したりしてました」
「本気で多いな……そこまでたくさんの人と知り合いになっておいて社交性が高くないなんてよく言えたもんだ」
 苦笑の表情を作って言うと、在の方も少しばかり困ったような苦笑を浮かべてみせる。
「本当に、社交性が高いわけじゃないですよ、俺。……むしろ、性質的には引きこもりに近いんじゃないかな」
「はぁ? なんでお前が」
 正直どういうつもりで言っているのかわからず眉を寄せてそう返しても、在の苦笑の表情は崩れない。
「本当に。……だって、俺、向こうの学校にいる間友達なんて一人もいませんでしたもん」
「……は?」
「俺、東京の学校で、友達が一人も作れなかったんです。本当に、ただの一人も」
「――――」
 思わず口を開けて――そのままなにも言わず閉じた。どういうつもりで言ってるのかわからんが、在はたぶん本気で、真剣だ。
 在は苦笑の表情のまま続ける。
「幼稚園の頃から本ばっかり読んでて。外で遊ぼう、なんてちらりとも思わないで。友達なんて一人もいませんでした。どういう風に作るものなのか、さっぱりわからなくて。他の人間が何の気なしに友達を作れてしまうのが、不思議でしょうがなかった」
「……なぜ、そんな」
「なんで俺がそういう人間に育ったのか、ですか? さぁ、なんででしょう。理由なんてないんじゃないでしょうか。遼太郎さんだって自分がなんで今の自分になったかなんて、説明できないでしょう? 少なくとも、子供の頃は」
「それは……そうだ、な」
「理由はともあれ……俺は、物心がついた時からそういう自分でした。友達がいなくて、遊ぶ相手がいなくて、そもそも他人と話をすることすらうまくできなくて。班分けの時はいつも最後まで残ってあぶれ者が集まった班に入れられる、話しかけても微妙に疎外された反応を返される、いわゆる余計物で。まぁ成長がわりと早かったんで、小学校の頃はいじめられはしなかったんですけどね、中学生になってからは相当にやられました。坊ちゃん嬢ちゃんの学校だったんで、さほどエスカレートはしませんでしたけど」
「…………」
 苦笑の顔を崩さず、淡々と続ける在に、俺はどう反応するか困った。こいつが本気で言っているのはわかったが、それでも俺はどうにも違和感があるというか、納得できないものがあったのだ。
 似合わないというか、違う人間の話をしているようにしか思えない。こちらの顔を真正面から見て真摯に話してくるこいつに、いつも静かにこちらの話を聞いていろんな話題を引き出してくるこいつに、友達がいなくていじめられっ子だった過去があるというのは、一種断絶すら感じるほど奇妙だった。
「それでまぁ、ずーっとそんな感じだったんで、両親にはずいぶん疎まれてたんですよね」
「……疎まれる?」
「ええ。なんでそんなこともできないんだ、とかそのくらいのこともできないで将来生活していけると思ってるのか、とか。たぶん、俺は、親にとってはいない方がいい存在だったんじゃないかな」
「馬鹿を言うな!」
 俺は思わずいきり立つ。親が子供をそんな風に思うわけがない。いや、刑事をしている以上俺も子供を傷つける親がいることは知ってるが、姉貴も義兄さんも(困ったところはあるにしろ)そんな人間じゃない。
「そんなわけがないだろう、あの人たちがお前をそんな風に思ってると、お前は本気で思ってるのか!? あの人たちがお前を愛してくれてることは、お前だってわかってるだろうが!」
 だが、俺が声を荒げても在は表情を変えなかった。少し困ったような、静かな、それこそ子供の無知を許す大人のような淡々とした苦笑の表情。
「そうですね、うちの両親が俺を愛してくれたことを疑う気はありません。あの人たちは、本当に俺を愛してくれてたんだと思います」
「なら」
「でも、それはあの人たちなりの愛し方で、俺の求めていた愛し方じゃありません」
「――――」
 俺は目を見開いた。絶句した。こいつがそんなことを言い出したということにもだが、それよりも。
 こいつの顔が。いつもと変わらないように見えるが、浮かべる表情がひどく乾いているのが、底に灼熱の憎悪にすら近いものが流れているのが、感じ取れて。
「あの人たちは、『できない』ことが嫌いな人たちでした。自分たちが努力によって苦境を乗り越えてきたという自負があるからでしょうね。できないことがあるのは怠けているからだ、と考える人たちでした。まぁ、それも間違った考え方じゃない、とは思いますけど」
「…………」
「だから特に俺みたいな、普通のことが普通にできない人間には厳しかったんです。なんで友達を作ろうとしないのか、作れないならなぜ作れるよう努力しないのか、いつもいつも責められました。親としては当然ですよね、子供が他人と人間関係の結べない社会の落伍者になってほしくないというのはごく当たり前の思考です。――だけどだから、俺はずっと自分のことを、ひどく愚かでこの世の誰より価値のない人間だと、そう思ってこざるをえなかった」
「……在、それはな」
「わかってます。親としての当然の愛情、愛するからこそ厳しく接する、優しさだけでは子供は駄目になる、わかってます。本当にその通りだと思います。わかってます――だけどそれでも、『だから』俺が子供の頃からずっと、『世界のどこにも味方がいない』って思いながら生きてこざるをえなかったのも、俺にとっては絶対的に確かなことなんです」
「……在」
 在は熱に浮かされたように言葉を重ねる。顔に浮かべる表情の形だけは変えないが、その瞳には憑かれたような色があった。姉貴たちに対する憎悪のゆえか――いや、これは。
「俺は友達を作るのが下手な、弱くて愚かで駄目な人間です、わかってます。責められて当然の存在なんだと理解してます。だけど俺だって好きでそんな奴でい続けてるわけじゃありません。ええもちろん克己して自らを変革しなければならないと理解はしてます、だけどこうも思うんです。『なんでそんなことをしなくちゃならないのか』って」
「……在」
「あの立派な両親に自分のような息子がいて申し訳ないとは思ってます、もっとふさわしい人間がいただろうとは思います。だけど俺だって選んであの両親の元に生まれてきたわけじゃありません。ええもちろんこんなことは贅沢な言い草です、食べることに苦労せず豊かな生活をさせてもらってきたんだから感謝すべきだと思います。だけど、それでも、俺にとってあの人たちは、味方じゃない」
「在。もういい」
「あの人たちは俺という存在を認めてくれなかった。今ここに在る俺を受け容れてくれなかった。あの人たちと一緒にいて俺が安心した時なんて一度もない。なのにどうして俺ばっかりあの人たちの言うことをひたすらに受け容れなきゃならないんですか。あの人たちが正しい、それはわかってます、けど俺はあの人たちと関係を結びたいなんて思えない。親だって、一番身近な存在さえそうで、世界の全部に、関係を結んだってろくなことがないって思えちゃうのって、おかしいってわかってるけど、俺は」
「もういい!」
 俺は椅子を蹴倒して立ち上がり、ぐいっと在を引き寄せ、抱きしめた。俺より数cm低い在の体が、俺の腕の中でびくんと震え、弛緩していくのがわかった。
「……ごめん、なさい、りょ」
「泣くな」
「え……泣いて、ないです」
「泣いてるだろうが。こんな目ん玉潤ませやがって」
 ぽん、と指先でまぶたを叩いてやると、在は体ごとびくんと震え、かぁっと頬を朱に染める。
「すいません、俺、ついカッとなって、あの」
「腹が立ったんならそう言やあいい」
「っ」
 がっしりと在を抱きしめながら俺は言う。いい年の男だってのはわかってるが、今のこいつは子供のように見えた。泣きじゃくっている子供のように。
「自分の思ったことが正しいのかだの、どうすべきかだの考えないで、腹が立ったなら腹が立ったと、辛いなら辛いと言やあいいんだ。お前はまだ高校生なんだから。……家族の前でぐらいはな」
「っ」
 引きつったような声が漏れた、と思うや、在はぎゅっと両腕を回して抱き返してきた。相当に強い力で。
 それから、う、ううう、うーっ、と唸るような声を漏らしながら、俺に頭をすりつけるようにしながら泣いた。

「……ごめんなさい。みっともないところを、見せてしまって」
 落ち着いてきたのか、真っ赤な顔をしながら俺の腕の中で在は身をよじる。うつむき加減のその顔は、年相応に、というか見ようによっては年よりだいぶ幼かった。こいつのクールな美形面が台無しだが、まぁ別にいいだろう。こいつはまだそういう年なんだ。
「気にするな。たまにはいいさ。お前にはいつも世話になりっぱなしなんだ」
「……いえ。そんな」
 在は顔をさらにうつむかせる。なにかためらうように声を出さないままもぞもぞと口を動かして、顔を上げようとしてためらって、結局深くうつむいたまま小さく囁いてきた。
「……軽蔑、されて、いませんか」
「は?」
「遼太郎さんの、お姉さんに……ひどい言い方をして」
 俺は一瞬ぽかんとして、それから苦笑してぐしゃぐしゃと在の頭をかき回す。まったく、本当にこいつは。
「それより前にあの人はお前の母親だろうが。くだらんことを気にするな」
「………でも」
「……さっき言ったようなことを、お前はずっと一人で抱えてきてたんだな」
「っ……」
 わずかに在の体が震える。それにぽんぽん、と頭を叩いてやった。
「よく頑張ったな。偉いぞ」
「っ……いえ偉いなんてそんな、俺はただ本当に根暗な引きこもりの怠け者ってだけで、正しい間違ってるで言えば俺の方が圧倒的に間違ってるって」
「そうだな。その通りだ」
「っ……」
「だがな、お前はそんな思いを抱えながら、それでも歪まず捻じ曲がらずにここまで生きてきたんだ。嫌な気持ちが生まれても、ガキみたいに純粋に、こんな気持ちが間違ってるって自分を責めるようないい子でい続けたんだ」
 ぐい、と顎を持ち上げ視線を合わせて。
「……俺は、そんなお前でいてくれて嬉しい。お前は自慢の息子だよ、在」
「っ」
 かーっ、と在は顔を真っ赤にした。こっちが困った時や苦しい時には頼りになる顔を見せるくせに、こいつはふいにこういうガキっぽい、いたいけな顔をする。そういう奴だから俺も、素直にこいつを息子のように、家族と思えたのかもしれないと思いながら、俺はにっと笑いかけてやった。
「お前はもっとわがまま言っていいんだぞ。姉貴にも義兄さんにも、素直に思ってること言ってやれ。俺たちにやってくれたように、そうやって家族やりなおしゃいいんだ」
「…………」
「それで怒られて勘当でもされたら、俺たちのところへ来ればいい。いつでも歓迎してやるさ。お前は、俺たちの家族なんだからな」
「……っ、ありがとう、ございます……」
 恥じらうように目を伏せてから、在は俺を見上げて、おずおずと、だが真剣な顔で言う。
「あの人たちとちゃんと話せるかどうかは、わかりませんけど……恥じないように、頑張ります。遼太郎さんが言ってくれた……自慢の息子って言葉に」
「ああ」
 笑って頭を撫でてやると、在はくすぐったそうに笑ってから、じっとこちらを見上げ、真摯な眼差しで言ってきた。
「あの、さっそくなんですけど。ひとつ、わがままを言ってもいいですか」
「わがまま? よし、言ってみろ。聞けるかどうかは内容次第だけどな」
「はい」
 悪童のように笑ってやると在もくすりと笑みを返し、それからまた真剣にこちらを見つめ、言う。
「話をしても、いいですか」
「……なに?」
「残りの時間……ここにいられる時間。遼太郎さんと、いろんな話を、したいです」
「………ったく、お前は」
 苦笑して、頭をくしゃりとかき混ぜてやる。
「いいさ、好きな時に話しかけてこい。たまのわがままなんだ、できるだけ聞いてやるさ」
 そう言うと、在はその言葉を噛み締めるように一度目を閉じてから、その長い睫毛がしなるような動きでゆっくりと開き。
「はい」
 と、ひどく幸せそうに、微笑んでうなずいた。

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