エルフ
「ノアニールの眠りの呪いを解く」
 そう宣言したヴァレリーに、メリザンドはあからさまに顔をしかめてみせた。
「ノアニールの呪い、ですって? なんのために」
「ほう、なんのためとは妙な言い草だな。世界を救うために旅をする勇者一行が人助けをして、なにか悪いことでもあるのか?」
 いつもと同じように偉そうに上からこちらを睥睨しつつ言うヴァレリーに、メリザンドははっと鼻で笑ってみせた。
「馬鹿馬鹿しい。あなたのような利己主義者がただ人助けのために労力を費やすと私たちがまだ信じていると思っているの? 私たちを見くびるのもたいがいにしてほしいものね」
 自分同様の猜疑心に満ちた目つきでヴァレリーを見つめてアドリエンヌがうなずく。フィデールは一人おろおろと視線をぶつけあう自分たちの様子をうかがっていたが、ヴァレリーはしばしこちらを見つめたのち、ふっと笑った。いつも通りに、すさまじく偉そうに、高慢に――そしてその若く美しい顔貌を十二分に活かした、優美という形容がふさわしい動作で。
「まぁ、これだけ長く旅を共にすればその程度の頭は働くようになるか」
「私たちを侮るのもいい加減にしてちょうだい。……それで、本当の理由はなに」
「できるならその理由くらいは推察できるようになってもらいたいものだがな。――エルフだ」
「……エルフ、ですって?」
 いつもながらのこちらを徹底的におとしめるヴァレリーの言葉に唇を噛む――だが、それに続けて発された言葉はメリザンドを一瞬絶句させた。
「あ、あの……エルフって、なん、ですか?」
「エルフというのはな、妖精――精霊と人間の中間的な存在である種のひとつだ。人間よりはるかに強い魔力と、永遠の寿命と不老の体を持っている。森の妖精と言われているな。エルフの住まう森は他とは比べ物にならないほど豊かになるといわれ、実際ノアニールの森は人間の領域では随一というほどの良質な木材が得られる」
「へぇぇ……」
「つまり、エルフは人間とは違う技術体系を持ち、人間とはまた違う戦力になってくれる可能性が高いわけだ。なにせエルフの王族は神代の昔から存在しているらしいからな、魔王に対しても他では得られない知識を持っているだろう」
「な、なるほど……」
「ノアニールに眠りの呪いをかけたのは、エルフの宝重を人間が奪ったからだとエルフたちは主張しているらしい。ならばそれを取り戻し、呪いを解くことになれば少なくともある程度の恩を売ることができる。それなりの礼もせしめることができるだろうしコネも作れるだろう。金とコネは多いにこしたことはない、違うか?」
「……でも、エルフは人間を嫌っているんでしょう。そのコネもどれだけ当てになるか」
「だが他では手に入らないコネだ。神代の昔から生きる者の魔族や魔王に対する知識というのは人間社会ではどうやっても手に入らん。魔物の強さもお前らを鍛えるのにはちょうどいいしな。これから向かうのにちょうどいい場所だと思うが?」
「それは……そうかも、しれませんけど」
「言っておくがな、これからノアニールに向かって眠りの呪いを解くというのは、決定事項だ。少なくともお前らは、今はまだ俺の相談相手になれるほどの人間ではないからな」
「っ……」
 アドリエンヌが燃えるような憎悪をひらめかせた目でヴァレリーを見る。メリザンド自身も同じような目で見ているだろうとわかっていた。メリザンドがどれだけヴァレリーを憎んでいるのかは、自分でよくわかっていたからだ。
 だってヴァレリーは、有能なだけでなく、本当に若く美しいのだから。

 ヴァレリーがまさに勇者というにふさわしいほど有能な人間だということは、これまでの旅の中で何度も思い知らされてきた。
 旅の指針を決める時でも、戦闘の指示を出す時も、常に冷静沈着、迷うということがない。のみならずそうして指示を出す姿には名指揮官と言うにふさわしい偉容があった。問答無用で従ってしまいたくなるような、この人間の下で働く人間は幸せだと思わせるような、威風辺りを払う迫力があったのだ。
 のみならず彼は一戦士としても有能だった。常に最前線で魔物と対峙し、おじける気配もなく戦い、自分たちを守るために危険を冒すことを恐れず、確実に容赦なく敵を倒す。メリザンド自身、彼によって助けられたことが何度あったかしれない。
 だが、メリザンドはそれでもヴァレリーを認めたくなかった。いや、だからこそ認めたくなかった。だってヴァレリーは有能なだけでなく、本当に若く美しいのだから。
 そんなのはおかしい、あってはいけないことのはずなのに。
「……そろそろだな。全員、警戒をしておけ。エルフの結界の効果範囲内に入るぞ」
 ノアニールの森を歩いている最中に、唐突にヴァレリーが言う。メリザンドは顔をしかめて言った。
「エルフの結界の効果範囲? あなたそんなものまで知っているの、まさかエルフたちの間に細作でも紛れ込ませてるんじゃないでしょうね」
「わざわざこんなところまで来たのはお前たちへの示威行動だと? そこまでお前が自分たちのことを重要人物だと思っているとは意外だな」
「っ、そんなことは言ってないでしょう」
「ほう、ならそういうことにしておこう。ちなみに言っておくが、エルフの結界についてはロマリアの魔法使いたちもかなりに研究していてな、効果範囲についての研究論文はとうに魔法使いギルドに提出されているぞ」
 不勉強な、と暗に罵倒され、メリザンドはかっと羞恥と怒りに顔を赤くした。悔しい。悔しい。なんでこんな男にこんな口を利かれなければならないのか。こんな、若く、美しく、有能な男に。
 そんなメリザンドの呪わしげな視線など気にも留めず、ヴァレリーは一歩を踏み出す――や、一瞬霧が立ち込めたような感覚がメリザンドを襲った。
 それはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはもうこれまでと同じ深い森の風景しか見えなかったが、ヴァレリーはふん、と鼻を鳴らした。
「なるほどな。こういうことか」
「え……」
「……こういうって、どういうことですか」
「大したことじゃない。エルフの結界というものがどういうものかわかっただけだ」
「え……それって、どういう」
「エルフの結界の詳しい効果は、論文をさらってみても『森の中をさんざん迷わされる』『マヌーモの変化したものだろう』ぐらいのことしか書いていなかったがな。俺の額冠のある部分に反応があった。おそらく、エルフの結界の本来の能力は、世界の認識を狂わ」
 と、唐突にヴァレリーの声が途切れた。え、と顔を上げ周囲を見回してみるが、メリザンドの視界内にはヴァレリーも、それどころかアドリエンヌもフィデールも気配すら感じ取れなくなっていたのだ。
 まさか、はぐれた? と思わず蒼白になり慌ただしく周囲を見回し、移動し、人の姿を探す。だがそれでもまるで人の気配はしない。魔物の気配もしないのが救いといえば救いだが、それでも困った事態には間違いない。
 どうする、どうする、と焦りで破裂しそうになる心臓を必死に押さえて、メリザンドは打開策を考える。そうだ、人とはぐれた時は、ふらふら探さずにその場所に留まっているのが一番いいと誰かが――駄目だ、冗談ではない、なぜ自分が自分の半分も生きていない若者に探されなくてはならないのだ。では、待ちあわせができるような場所に向かえばいい。自分はルーラが使えるのだから、ルイーダの酒場なりどこなりで――嫌だ、そんなのはごめんだ、そんなことになれば絶対に自分を見た者たちは勇者に捨てられただのなんだのと陰口を叩くだろう。そんなの、考えただけで我慢できない。
 ならどうすればいい。どうすれば。いい考えが思いつかず、メリザンドは力なく頭を振って樹に頭をもたせかけた。誰も見ている人間がいないせいで、体の力が抜け、まともに立っていられない。
 メリザンドは、もともと決して頭がいいわけでもてきぱき物事を考えられるわけでもなかった。それは自分でよくわかっていた。魔法使いギルドでも特待生になることができなかったし、試験でもいつだってどんなに頑張ってもせいぜいが真ん中ぐらいだったのだから。
 ふらふらと、力の抜けた体を動かし、森の中を歩く。落ち込んだ時はいつもそうであるように、メリザンドの心は過去へと飛んだ。自分の、これまでの人生へと。
 メリザンドは、サマンオサの、どちらかといえば下層階級の家に生まれた。自分のいた頃のサマンオサは福祉制度が充実していたし、決して食べていくこともできないほど困窮していたわけではないので、貧困にあえぐ、というほどの暮らしをしていたわけではない。それでも、メリザンドの暮らしに贅沢≠ニいうものはまったく縁のないものだった。
 子供の頃からあちらこちらの商店やらなにやらで小遣い銭稼ぎに働かされたし、そうして得た銭も家族がその日を暮らしていくために使われた。そうしなければ暮らしが立たないのだ、と言われれば子供としては従うしか方法がない。だから、メリザンドはどれだけ働いても、自分のお金というものを手にすることがなかった。
 少しは成長して、どこかちゃんとした働き口を見つけようということになった時、メリザンドが選んだのは街の片隅で私塾を開いている魔法使いの下働きだった。これまでに何度も働かせてもらっていた場所で、よければ住み込みで働いてくれないか、と言われていたので、話はとんとんと進んだ。
 両親や家族は、もっと金をもらえる仕事にすればいいのにとぶうぶう言ったが(そこでもらえる給金は薄給と言っていいほどだったので)、メリザンドがむりやりに押し切った。なぜなら、メリザンドは魔法使いになりたかったからだ。
 魔法使い! そして、魔法! このわくわくする、素敵な響きの言葉に、メリザンドは子供のころから魅せられていた。自分も魔法が使えたらと、魔法使いになりたいと、そうずっとずっと夢見ていた。そしてその魔法使いには、仕事がない時なら講義を生徒たちと一緒に受けてもいいと約束してもらっていたのだ。
 だから魔法使いのところへ行く時には、それはもう胸をときめかせて向かった。これから魔法使いの弟子としての、たまらなく胸のときめく、わくわくするような人生が始まるに違いない、と。
 が、実際に始まったのは、これまでとまったく変わらない退屈極まりない生活だった。
 朝早く起きて掃除をし、老人の常で朝の早い魔法使いが起きたらすぐ朝食を用意できるように台所で働き、そのあとはあれこれ次々と気まぐれなことを言い出す老人の言う通りにあちらのものをこちらへ、こちらのものをあちらへと運ぶ。
 まだ十二になったばかりの自分はそれだけでへとへとになってしまい、講義なんてまともに聞くこともできなかった。そもそもメリザンドはまともに教育を受けたこともないのだ、読み書きくらいは習っていたが、それだけで私塾に通えるような家の子供が受ける教育をすいすい理解できるわけがない。
 年を重ねるにつれ少しずつ、仕事にも慣れ、暇を見て教本を読み込み、少しずつ魔法理論というものを理解していくことはできた。だがそれでも、きちんと基礎を手ずから教わった、ちゃんとした教育を受けた人間人間にはどうしたってかなわないのだ。
 それでも、必死に勉強した。魔法というものが、自分の思っていたものとはまるで違う、退屈で面倒くさい勉強の積み重ねだということがいやというほどよくわかっても。メリザンドには、他に当てにできるものがなにもなかったからだ。
 なんとか十六歳の時に職業選択の儀の時魔法使いの職を選ぶことができて、師となる魔法使いにアリアハンの魔法使いギルドにいる人間を紹介された時も、魔法使いの世界の右も左もわからない状態だというのに遠いアリアハンまで行くことができたのも、そのアリアハンのギルドで今までの自分のレベルがいかに低いものか、素人くさいものでしかなかったのか思い知らされても、必死にくらいついて、導師にその理解力の低さを、周囲の人間にそのみっともない姿勢を蔑まれながらも、こっそり一人泣きながらでも逃げ出さずに勉強を行うことができたのも、そのせいだった。魔法は、自分にとって最後の希望だったのだ。
 貧乏な家の、さして美人でもない、特に取り柄のようなものがあるわけでもない自分がただひとつ世界と戦える可能性のある武器。すばらしい人生の、華やかな生活の、そこまででなくとも自分で価値があると思える生き方ができる(可能性のある)、身を立てる方法。それが、メリザンドの手持ちには魔法しかなかったのだ。
 だから、必死に魔法に打ち込んだ。奨学生のレベルに達していなかったこともあり、師から渡された資金だけでは生活ができず、金持ちの門下生たちに必死に頭を下げてくだらない薬の調合やら、古文書の写本の代理のようなしょうもない仕事を引き受けて糊口をしのぎながらでも、少しでも導師の覚えをよくするために馬鹿馬鹿しい雑用を自分で引き受けてでも。
 自分は多くを望んでいるわけではなかった。ただ、自分なりに、自分の生に価値がある、と思いながら生きたかっただけだ。ただ生活をすることだけに追われて、自分でもまったく価値がないとしか思えない仕事をひたすらくり返して生きるなんていうのは嫌だ、と思っただけ。少しでも自分に価値があると思いながら生きたかっただけ。
 それで必死になって、魔法に打ち込んで、打ち込んで、打ち込んで。
「メリザンドくん、君ね、まだ魔法使いギルドにいるんだったら、研究費納めてもらわないと困るんだよね。君は研究者としても、魔法技術者としてもギルドに必要なほどじゃないんだから」
 ――自分が、結局、自分の求める世界にまるで届かない存在なことを思い知らされた。
 提示された研究費は高額で、自分がギルドに必要ない存在であることを思い知らされたあとの自分にはとても払う(ために死に物狂いになる)気力が保てなかった。自分はギルドを去り、アリアハンの冒険者ギルドに身を投じた。そのくらいしか、紹介された仕事の中で、自分にできそうな仕事がなかったからだ。
 そして、そこで紹介されたパーティの人間に言われたのだ。
「魔法使いで、このレベルで、もうその年なのかよ、おばさん」
 つまり、また思い知らされたのだ。自分には、もはや若さすらも残されていない、と。
 まだ若いつもりで、今はまだ自分を育てる時期なのだからと長い目で見ていたつもりが、一般的には怠惰とみなされる所業だった。死に物狂いで頑張ってきたつもりなのに。本当ならその間にとうに芽が出ていなければおかしいと、手遅れだと、見切りをつけて他の仕事を探すのが普通だと、きっぱり言われたのだ。
 そして、必死に耐えて仕事を共にする間にも、何度も暗にほのめかされた。自分のような年の女は、もはや女として生きるだけの価値もないことを。
 女は身だしなみに金と労力を傾けるのが普通で、それを怠ってきた自分にもはや女扱いするだけの価値はないと。恋人を得て、結婚して、というような女としての幸せすらつかむことはできないと。自分を女として無視し、水商売の女やら若い少女やらに入れ上げるパーティメンバーの男たちに、何度も何度も思い知らされたのだ。
 ――そうして、自分は、周囲のすべてを憎むようになった。
 必死に頑張って、打ち込んで、すばらしい世界に行けるように努力してきたのに、その世界は自分を締め出した。その間に、自分から勝手に若さを奪った。
 若さも、美しさも、価値のあることで満たされた世界も、自分を勝手に見捨てた。自分はこんなに必死で頑張ったのに。恵まれない環境の中で頑張ったのに。自分よりもはるかに努力していない、適当に生きているとしか思えない奴らにその恩恵を与えて。
 自分にはまったく与えられなかった。華やかな世界、輝かしい人生、美しいもの。縁すらまるでなかった。その事実が、そのどうしようもなく無残な事実が、周囲が自分からそういうものを奪って、他の奴らに与えたように思えた。いや、そうとしか思えなかった。
 だから、憎んだ。若い人間。美しい人間。華やかな人間。有能な人間。すばらしい人生を約束された人間。自分には絶対に手の届かない世界に生きる人間。それらすべてを。
 憎い。憎い。憎い。憎い。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。そう何度恨み、呪ったことかしれない。
 だからヴァレリーも憎かった。存在するだけで憎悪が掻き立てられ、怨嗟の、呪詛の声を上げずにいられなかった。若く、美しいだけでも許しがたいのに、その上有能で、世界を救うことを約束された勇者。そんなものが存在するなんて、あまりにひどい不公平だと思ったのだ。自分には、そのうちのひとつも与えられなかったのに。
 そして、エルフも同じように憎い。存在するだけで呪わしくてしょうがない。永遠に若く美しい種族。生まれ落ちた時から人間より高い魔力を約束された種族。そんなものが在るなんて、あまりに、あまりにひどい。
 だん、だんと寄りかかった樹を握り拳で叩く。その上、こんなところで迷わされるなんて――本当に、この世界は、どれだけ自分にひどいことをすれば気が済むのか――
 と、ふいに背後に出現した気配に、メリザンドはばっと後ろを振り向いた。
 そこにいたのは、若々しく美しい少女だった。翠色の髪が陽に透けて美しく輝く、雪のように白い肌の、耳を美しく尖らせた――と、そこまで観察してはっとする。
「エ……エルフ!?」
 エルフ――美しい少女にしか見えないものは、じっとこちらを見つめる。なにも言わず、ただ、静かな瞳で。
「な……なによ。なにが言いたいの」
「…………」
「なによ……黙って人の顔をじろじろ見るなんて、失礼だと思わないのかしら。エルフって言っても結局は田舎者の集まりね」
「…………」
「なによ……なんとか、言いなさいよっ!」
 ひたすら黙ってこちらを見つめ続けるエルフに、メリザンドは足元の草をむしって投げつける。そうでもしなければ苛々で破裂してしまいそうだった。
 パーティからはぐれ、一人になっただけで不安になって情緒不安定になる自分。いい年をして、もう三十三にもなって一人で落ち込んで泣きそうになっている自分。女としての慎みも忘れて、周囲を憎み、呪い、ひがんでいる醜い中年女。
 それを永遠に若く、美しく、人間には及びもつかない魔力を持つ種族がじっと見つめている。
 と、エルフがふいにふっ、と笑った。ふふ、ふふふふ、と笑い声を上げながらすいっと森の木陰に消えていく。
 と思うやすいっと現れ、自分をじろじろ見つめ、くすくすと笑い声を残してまた消えていく。また現れ、また自分を笑い消えていく。また現れ、また笑い、また消える。また現れ、笑い、消える――
 そんなことを何度もくり返す。残像が残るのかなんなのか、メリザンドの目には何十、何百というエルフの姿が見えた。
 そしてそれらがくすくす、ふふふ、とメリザンドを笑う。幼稚な子供を見た時のように、知的階級の低い人間を見た時のように。こちらを愚かな存在と断じ、蔑み、馬鹿にしているのだ。自分からは手の届かない高みから。
「……なによ」
 声が震えた。体の底がカッと熱くなり、溶けそうになる。そしてそのまま外へ溢れ出しそうになる。
「なによ――――っ!!!」
 憎い。憎い。憎い。こいつらが憎い。自分から若さを、美しさを、有能さを、華やかですばらしい生活を奪い取った奴らが。
「大地よ、炎よ、風よ! 三位の力をいざここに――=v
「ψ=v
 そうエルフの口が動くや、すうっとメリザンドの意識は遠のいた。ふうっとその場に倒れこむメリザンドの耳に、くすくすという笑い声とともに小さな会話が届く。
「……人間って、本当に……」
「……なんて醜く、野蛮な……」
「……くだらないことを重大視して……」
「……卑小なことこの上ないわ……」
 うるさい。そんなことあんたたちなんかに言われたくない。私より、若くて、美しくて、有能なあんたたちなんかに。
「……まぁ、勝手にひがんで……」
「……下品だったらないわ……」
「……なんでこんな醜い生き物が……」
 うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。そんなこと言われなくてもわかってる。私は醜い。卑小だ。勝手に自分の環境をひがんで、周囲をねたんで、うらやましがっているだけだ。そんなことをしたってしょうがないってわかってる。
 だけど。そんなこと、恵まれた人たちに言われたくなんてない。
 強くもなく、才能もなく、恵まれた環境もない、凡人より下の人間でしかない自分が必死に頑張って頑張って、自分の人生を懸けて頑張って、それでも届かなかった絶望を知らない奴にそんなこと言われたくなんてない。その間に自分が持っていた財産もすべて失われ、これからずっと自分の人生になにもないまま、ただ食うことだけに追われて生きていかなければならないと悟った時の、世界が終わるような闇を知らない奴に、そんなこと言われたくなんかない。
 上から、恵まれた者の立場から、勝手にわかったようなことを言うな。勝手に私のことをどうこう言うな。私は、本当に、必死で。
「……まぁ、開き直りとは、本当に……」
「……ひがんでいることの醜さがわからないなんて……」
「……その精神の醜悪さこそを恥じるべきなのに、みっともない……」
 憎い。
 殺してやる、殺してやる、殺してやる。絶対に絶対に絶対に殺してやる。泣き叫んでも許さない、私を蔑んだことを後悔させてやる。
 若い奴、美しい奴、有能な奴、恵まれた奴、私の持っていないものを持っている奴みんなが憎い。だって。
 私には、本当に本当に頑張ったのに、一生、これまでもこれからも、手に入らないものなんだから。
 そう思考が巡った直後に、メリザンドは意識を失った。

 ぐい、と顔に絡みついた触手のような枝を引かれ、メリザンドはぼんやりと目を開けた。
 目の前にあるのは若く、美しい男の顔。自分がねたみ、憎み、呪った男の顔。
 その男はいつも通りの冷徹な表情で、次々自分に絡みついた枝を取り去る。腕に、足に絡みついた枝を解き、吊り上げられていた空中からメリザンドが落ちてくるのを、その逞しい腕でしっかりと受け止めた。
 メリザンドは頭がぼうっとして、それでもただぼんやりと男を見つめるしかなかったが、男は冷徹な表情のままメリザンドを抱き上げ、「もう大丈夫だ」と耳元に小さく囁いた。
 男は自分をそっと地面に下ろし、自分の隣に吊り上げられていた男を開放にかかる。メリザンドはその姿をぼんやりと見つめるしかなかった。ずっと長い夢を見ていたようで、頭が満足に働かない。
 だが、周囲からくすくすと嘲るような笑い声が聞こえてきたのに気づき、一気に意識が覚醒する。そうだ、自分は、森の中でエルフに。
「そろそろ正気に戻ったか」
 ぐるぐると手足に絡みつき、自分たちを宙に吊り上げていた木の枝(というか、蔓というか蔦というか)から自分たちを解放したのち、男――ヴァレリーはぐるりと自分たちを見回して告げた。
「お前らはエルフの結界に捕まっていた。世界の認識を狂わされ、森≠ニいう世界に呑み込まれていたんだ。具体的に言うと、お前らの心を個別に丸裸にされ、観察されて『エルフと会う資格がない』と判断されて捕らわれていたんだ」
『…………!』
「で、俺がそれを助け出した。俺は勇者だということもあり、結界に捕らわれずにすんだからな」
「…………」
 メリザンドは、ただひたすら呆然とヴァレリーを見つめた。では、あれは。自分の回想した過去は、すべてエルフたちに見られていたというのか。あの、若く、美しく、高い魔力を持つエルフたちに。
 周囲から、近く、遠く、嘲るようなくすくす笑いが響いてくる。
「みっともないわ。あんな風に、ぽかんとして」
「どれもこれも醜いったら。人間って本当に醜くて、馬鹿馬鹿しいことに固執して、どうしようもない生き物ね」
「あんな醜い、恥ずかしいことを考えながら、よくまぁ生きていられるわね、エルフだったらとても考えられないわ――」
 かぁっ、と頭に血が上り、杖を振り上げる――が、それをヴァレリーは腕をつかんで止めた。ぎっ、とヴァレリーを睨むが、すぐに体から力が抜け、くたくたとその場に崩れ落ちる。
 そうだ、自分はもう、知られたのだ。あんなことを、あんな醜い自分を。あんな醜く、みっともなく、汚らわしい自分を。
 嫌だ。もう嫌だ。もう嫌なのだ。もうこれ以上、自分になにも価値がないと思いながら生きていきたくはない。
 うつむいて、すすり泣く。自分のような醜い中年女が泣いたところで、誰も慰めてくれない、醜いだけだというのに。
 が、ヴァレリーは、メリザンドをぐいっと引っ張って、立たせた。
「いつまでも泣いているんじゃない。――立てるようになったんなら、もう行くぞ」
「放っておいて。私は、もう」
「断る。お前は俺にとっては欠かせない戦力なんだ」
「他の人を雇えばいいでしょう。――私ぐらいの魔法使いなんて、いくらもいるわ……」
「断る」
 体中から力を抜いて、その場に倒れようとするメリザンドを、ヴァレリーはぐいぐいと引っ張った。力を込めて。まるでメリザンドが立つのが当然だといわんばかりに。
「やめてよ……もう、嫌なの。もう自分のことを醜いと、価値がないと思いながら生きていくのは、嫌……」
「それは嘘だな」
「っ」
 きっぱりと言い切り、ヴァレリーはメリザンドの目をのぞきこむ。若く、美しい男の眩しく光る瞳が自分を見つめた。
「お前はまだ生きていたいと思っているはずだ」
「そんなこと、な……」
「憎いんだろう」
「っ」
「周囲のなにもかもが。自分からすべてを奪った周りの奴らが、憎くて憎くてしょうがないんだろう」
「っ……」
「それなのに復讐もせずにそのまま消えていくつもりか。そんなことができるのか。自分を蔑み、なんの努力もせず自分からすべてを奪っていった奴らを放置して、許してしまえるのか」
「そんなこと……っ」
「お前にとっては、その憎しみは、人生のなによりも確かなものじゃないのか」
「………っだからなによっ!」
 どんっ、と腕を振り解きヴァレリーを突き飛ばす。ぎっとヴァレリーを睨みまくし立てた。
「ええ私は憎いわ。若いもの、美しいもの、有能なもの、恵まれたもの、そいつら全部が! この世から消してしまいたいわ! でもだからって私になにができるっていうの。私はそいつらにとても遠く及ばない力しか持っていないのよ!」
「俺と一緒に来るならば、そうではなくなるぞ」
「え」
 ぽかん、とするメリザンドに、ヴァレリーはいつも通りの冷徹な顔で言う。
「お前はわかっているか、自分の実力が増していることに。魔力が上昇していることに。ダーマの奴らが、『勇者は戦いの中で自らを見る間に鍛える者、それは仲間たちも然り』と言っていたが……間違いはなかったようだな」
「え……ほん、とう、に……?」
「だが、お前自身にやる気がなければそれも意味を成さない」
 冷徹な瞳でヴァレリーは切り捨てる。自分を評価する採点者の視線で。少しでも目に適うところがなければ、すぐに放り捨てるだろう者の視線で。
「どうする。お前の憎悪が本当に世の中の自分より優れたものすべてを滅ぼせるのか、試すのか否か。決めろ」
「そんなの……決まって、いるでしょう」
 メリザンドはにぃ、と微笑んだ。興奮で息が荒くなる。我ながら歪んだ笑みを浮かべている自覚はあった。
 でも、いい。そんなことはどうでもいい。まったくもってどうでもいいことなのだ。
 自分にとって確かなのは、この憎悪だけ。自分からなにもかもを奪った周囲を、憎み、呪い、恨む心だけ。
 それによって自分が力を得ることが適うというならば――全身全霊でその憎悪を燃やし、自らを高めるしか、自分の選ぶ道はない。
「よし。なら行くぞ。エルフの宝重――夢見るルビーの、とりあえずの手がかりを見つけられたからな」
 そう言ってこちらに背を向けるヴァレリーを、メリザンドは追った。他の二人の仲間と共に。憎悪による歓喜で、体中を満たしながら。
 それからすい、と視線を逸らしたヴァレリーが、心底、ひどく、痛ましげな顔をしたことには気づかずに。

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