鏡の真実
「アダルバート連隊長!」
 叫んで駆け寄ってくる自分の従者である新人をちらりと見て、アダルバートは小さく息を吐いた。隊を任されるようになってから一年以上が経つが、まだこの隊長という呼び名には慣れない。
「なんだ、ジャスティン?」
「あの、稽古に行かれるんですよねっ? ご一緒してもいいですかっ?」
「……かまわないが、お前を指導してやる余裕はないぞ。隊長仲間との稽古だからな、自分のために時間を使いたい」
「もちろんですっ! 連隊長の邪魔はしませんっ!」
「ならいいが」
 うなずいてやると、ジャスティンはぱぁっと顔を明るくして「ありがとうございますっ!」と頭を下げるやささっと自分の後ろに付き従うように回った。こういう、まるで自分が偉い人間のような扱いにも、まったくもって馴染めない。
 ともあれ、アダルバートはふ、と息を吐いて歩き始めた。無駄話に時間を費やしては、約束の時間に遅れてしまいかねない。
「お前も俺のあとばかりついてまわっていないで、自分の稽古をしろよ。ここじゃ、新人だからっていつもいつも守ってやれるほど余裕はないんだからな。うちの隊はそれなりに厳しい場所を受け持ってるんだし」
「はい、もちろんですっ。でも、連隊長のおそばで連隊長の剣技を見れるのは、すごく勉強になるっていうか、実になるっていうか。俺、故郷の兵士仲間じゃそれなりの腕をしてたつもりなんですけど、隊長が戦ってるところを見て……もう、すごい! って、こんな強い人がいるんだ! って感動しちゃって!」
「ああ……お前の故郷はエジンベアだったよな。まぁあそこは海軍が主戦力だから、陸の兵士にそう強い人間は集めないんだろう」
「いえっそんなんじゃありませんっ、連隊長ほど強い人は海軍にだっていませんよ! 本当に、勇者さまのおそばに控える隊長の方々の中でも、絶対随一だ! って思いますもん!」
 勇者さま。
 その言葉は、アダルバートの心臓を、きゅ、と焦げそうなほど熱い指で握り締める。
「なのに威張らないし、下の人間にも優しいし、いちいち細かいところまで気遣ってくださるし! 俺、連隊長と一緒に戦えるようになってよかったって本当に」
「行くぞ。いつまでも喋っていると約束に遅れる」
「あっ、すいませんっ!」
 きらきらと輝く瞳で自分を見つめてくる新人の言葉を遮って、アダルバートは足早に歩き出す。――この自分の胸の中のあの人を想う熱にも、自分は少しも慣れることも、飽きることもできないでいるのだ。

 勇者エマ・レージェンシーと共にアリアハンを旅立ってから二年半。その間に、アダルバートにはさまざまな変化があった。周囲の環境も、アダルバート自身にも。
 背がかなりに伸び、体中に癒しきれず残った傷がいくつもできた。山のような実戦を積み、吐くほどの厳しい稽古を繰り返し、剣の腕も膂力も格段に上がった。アリアハンを出た時に襲ってきた程度の魔物ならば、さして苦戦もせずに一小隊は倒しきれるだろう。
 それに伴い、アダルバートの格付けも上がった。レージェンシー対魔物独立守護軍独立連隊長という身分を与えられ、周囲からは尊敬と、憧憬をもって見つめられるようになった。なにせエマとアリアハンからずっと一緒に行動して生き残っているのだ、この部隊に数日もいればそれがどれだけとんでもないことか嫌でも想像がつく。
 実際、自分は相当にとんでもない経験をしてきているのだ。地を埋め尽くすほどの魔物の群れと戦った、街に押し寄せる魔物の軍勢から街を守った、魔物のうようよする塔を踏破し宝物を手に入れた。
 そしてそのすべてに生き残った。
 実際には死んで蘇生してもらった時も一、二度ではないのだが。自分は死んだ際には必ず蘇生をしてくれるよう希望はしていたものの、成功率五割弱と言われる蘇生の儀式がこれまでずっと成功してきたのは、運としか言いようがない。実際、よほど自分は悪運が強いのだろう。
 エジーディオも、ジャスパーも、度重なる戦いの日々の中で技を磨き力を磨き、今ではこの軍でも有数の腕利きだ。エジーディオの盗賊としての技量はアッサラームの盗賊ギルドマスターにすら勝ろうかというものだし、ジャスパーの法力は蘇生もたやすく行える、と各宗派の最高司祭にすら匹敵する代物だ。
 だから当然、その分、反吐が出るような体験を山と積んでいた。
 エマはあれからいくつもの街を、国を渡り、事件を解決し国家元首と会談した。あの美しく、優しく、儚げな笑顔で何百何千という男を虜にし、金と命を投げ出させてきた。
 旅の半ば頃からはアダルバートにもわかってきていた。今に至るまでまるで説明はされていないけれども。エマの旅の目的は、世界中の国と民を動かして魔王を倒させることなのだ。
 国王を魅了し、見事な論法で説得し、同盟の席に着かせ、魔王を倒すための連合軍としての体裁を整えさせる。そして戦を忌避する民を、特に冒険者や傭兵や悪漢のような自由民を、惹きつけ蕩かし口八丁手八丁を使って魔王と戦うための軍の中に組み込む。
 エマに惹きつけられ煽られて、世界の世論は今や『魔王討つべし』の一色に染められている。街を移動するごとに自分たちの仲間に加わる人間は増えるようになった。エマという少女を守るため戦う者はみな英雄である、人類の誉れであると言われるようになったのだ。
 そうして今やエマの擁する軍勢は総数一万五千。一個師団に匹敵する。みな魔物との戦いで鍛え抜かれた精鋭だ(エマと共に街の外を移動すれば山のような魔物が押し寄せてくるのだから自然とそうならざるをえない)。その機動力と実質的な戦闘力においては、世界最強との呼び声も高い。
 そんな中で、自分はひたすらにエマの言葉通り剣を振るった。魔物を殺し、悪漢を殺した。――そしてエマにとって邪魔な人間を、数えきれないほど暗殺した。
 自分たち――アリアハンの頃から一緒にいた、アダルバートとエジーディオとジャスパーのパーティが暗殺に使われるようになったのはいつ頃からだったろうか。自分たちがこの軍の中でも相当の腕利きと称されるようになってから、さして時間は経っていなかったように思う。
 エマの本性というか、冷酷な側面を知っている自分たちは、エマにしてみれば汚れ仕事にもってこいだと判断されたのだろう。聖女、勇者と慕われ崇められるエマが、たとえ魔王討伐に向け気運を高めるのに有害な存在であろうと、人間を殺せと命令したことなど、外部に漏らしていいはずがない。
 最初その命令を受けた時は(エマから直接命令を受けることもそう珍しくはなくなっていたとはいえ)、驚愕し、混乱し、命令を拒絶しかけた。アダルバートも、エジーディオも、ジャスパーも、味方の陣営に属する存在を粛清するなどという考えは発想自体存在していなかったのだ、なぜそんなことをするのか、と問いたださずにはいられなかった。
 それに対し、エマはいつも自分たちに見せるのと変わらない、冷たい軽蔑に満ちた表情であっさりと、「なら、他の人間にやらせるわ」と言った。必死に考えを変えてくれるよう懇願したが、エマの表情を変えることさえできなかった。
「あなたたちが手を汚したくないというのなら好きにすればいいわ。私のためなら喜んで命を捨てる人間は、もういくらでも用意できる。相当な腕利きでさえもね。クズ一人の命を惜しんで数万の命を無駄に散らせるのがあなたたちの流儀だというなら、好きにすればいい。自分たちは悪いことをしていない、とあなたたちの神だか良心だかに主張してせいぜい安寧に浸ればいいわ。自分たちの選択で出た犠牲のことなど、見ないふりをしてね」
「ざっけんなよこのアマ……んなん全然話の筋が違うだろーがっ! この先どう世界が動くかなんざ誰にもわかんねぇけどなっ、今俺らがそいつを殺したらこれからそいつがなにかできる可能性が丸ごと消えちまうんだぞっ!」
「たとえその方が間違った考え方をしていようとも、同じ人間同士、同じ神の子同士、慈愛をもって話し合って解決するのが人として生まれたものの義務ではないでしょうか。私たちはそのために心を磨き、力を蓄えてきたはずです……」
 食ってかかるエジーディオにも、悲しげに言うジャスパーにも、エマはまるで反応を示さなかった。ただ興味なさげな冷たい視線をちらりと向けただけだ。
 アダルバートは心臓に氷を直接触れさせられたような恐怖にも似た感情を必死に抑えて、エマを見ていた。そんな。まさか、そんなことまでするんですか、エマさん。あなたが聖女でも、勇者と呼ばれるべき存在でもないのは知っている。けれど、だけど、そこまでの、絶対の越えてはならない一線を越えるほどの、邪悪と呼ばれるような存在だなんて、そんなの――
 喉が今にも叫びだしそうなのを抑えて必死に見つめるアダルバートに、エマはさして反応はしなかった。ただ興味なさげに、鬱陶しげに一瞥しただけだった。その仕草にアダルバートの頭にかぁっと血の気が昇り――そして、一瞬で冷えた。
「わかりました」
「なっ」
「アドル!?」
「俺は、そのご命令を、お受けします」
 じっとエマを見つめて言った言葉に、エマはちろりと自分を見返して、「そう」とうなずいただけですぐに具体的な話を始めた。
 そんなような形で、自分たちはそういう仕事をいくつも引き受けるようになった。他に何人エマからそんな命令を受けているのかは知らない。それほど多くはないだろうとは思う。ただ、自分たちがさして特別な存在でも、重要な存在でもないだろうというのは確かだった。自分は、自分たちはエマにとっていくらでも取替えの効く使い捨て用品にすぎない。
 それはよく、わかっているのに。
「おい……アドル! お前、なに考えてんだ!?」
 その時、エマが早々に話を終えて立ち去るや、エジーディオとジャスパーはアダルバートに食ってかかった。当然だ、仲間が暗殺なんて真似をしようというのだから、普通の人間なら怒る。そして、文字通りずっと死命を共にしてきた自分たちは、普通の仲間よりずっと強靭な絆を互いの間に結んでいる、とアダルバート自身自負していた。
「……ごめん」
「ごめんじゃねぇだろ! お前な、本気であのクソ女の言うこと聞いて人殺しするつもりか!? あのクソ女の言うことならなんでも聞くのかよ!」
「そうじゃない……だけど」
「だけどなんだよ! お前が……もし本気で、そんな真似する気なら、俺は」
「……私たちはあなたを放ってはおけません。たとえ刺し違えても、あなたを止めます」
 真剣な視線で自分を睨む二人。アダルバートは思わず笑みを浮かべそうになった。自分をこんなに、心底真剣に案じてくれる存在がいるというのは、それだけで心を強くしてくれることだった。
「……エマさんがああ言ったから、だけじゃないよ」
「……? じゃあ、他になにかあるってのかよ」
「ああ……俺、隊長から何度も愚痴られてたんだ。目標の男――ポルトガの法務大臣がどれだけ私欲で国中から税を吸い上げているか。国の産業自体を食い物にしているか。そしてどれだけ巧みに証拠を隠して自分のところへ辿らせないようにしているか。なんとか証拠をつかめないかって自分でも調べてみた。それで、あの大臣がいる限りこの国は食い物にされ続ける、って実感した」
「だからって!」
「ああ、だからって殺していいわけじゃない、わかってる。でも……俺は、さっき、思ったんだ」
「……なにを、ですか」
「エマさんが、辛そうだって」
「は……?」
 ぽかん、と口を開ける二人に、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらアダルバートは告げる。
「さっき、エマさんは辛そうだって思った。苦しそうだって思った。エマさんにとっても、あの命令はすごく、すごく辛いものなんだって思ったんだ。なのに、俺がその命令を拒否したら、あの人はきっと、もっと傷つくって。もっと苦しむって、そう、思ったから」
 エジーディオも、ジャスパーも、ぽかんと口を開けた。それは当然だ、すでに自分たちは何度も見ているのだから。エマが世界中の有力者たちを篭絡する、悪魔のような手管を。エマが無能な人間に向ける、零下の軽蔑の視線を。
 けれど、自分は、どうしてもエマが悪女だとは思えない。
 そう――アダルバートは、いまだ捨てられていないのだ。エマが本当は、とても優しい女性だという考えを。本当は戦いながら、世界中の国王を篭絡しながら、自身を傷つけているのではないかという想像を。
 今でも胸中を焦がし締めつける、エマが好きだ、大好きだと叫びたくなるような感情を。
「……馬鹿みたいだよな、ほんと」
「は? 連隊長、なにかおっしゃいましたか?」
「いや。なんでも」
 アダルバートは肩をすくめて、周囲をもう一度見回した。ここはサマンオサの南、森の中に隠された、かつて遺跡だった洞窟。サマンオサの王女からの依頼を受け、突然暴虐の限りを尽くすようになった国王に、何者かが化けているのではないかという疑念を晴らすべくここに安置されているはずの国宝、ラーの鏡を取りにやってきたのだ。
 エマはサマンオサの王都で、貴族や有力者と会談し反乱の気運を高めていることだろう。戦士の国サマンオサの兵力は、魔王討伐軍結成のためにはなんとしても必要だ。いつものように、聖女のような顔で縋るように願い、助力を請うて、あるいは天使の、あるいは悪女の顔で誘惑し――どっぷりと自身に溺れさせていることだろう。エマはずっとそうやって、魔女より巧みな手管で自分を守る兵を集めてきたのだから。
 そこに思考が至ると、腹の奥がざわっ、と燃えた。
『――なにを腹を立てているんだ。俺には、そんな権利、ないのに』
 そう、自分はエマにとって、価値ある存在でもなんでもない。ただたまたま旅の当初から生き残っていただけの、たまたまそこそこの剣の腕を持っているから隊長に任ぜられただけの、たまたま自分の本性を知っているから気兼ねなく使い捨てられるというだけのただの戦士。
 なのに。それはもう何度も繰り返し思い知らされているというのに。
 ぎゅっと剣の柄を握り締め、歯を噛み締める。それでも、自分の胸は、焼きつくように熱い。
「連隊長! ラーの鏡が安置されているとおぼしき祭壇を発見いたしました! ただ水と結界で周囲を囲まれているので、直接乗り込むのは難しいと、ジャスパー司祭が」
「そうか……エジーディオはなんと言っている?」
「は、上方に穴が見られるので、そこから下りるのが上策であろうと。すでにそちらに向かっておられますが」
「まったく、あいつは……なかなか単独行動の癖が抜けないな。各小隊長に通達、ザック隊とエルゼン隊は祭壇を囲んでいる水際でジャスパーと共に待機、残りはエジーディオを追う! ラーの鏡を入手後は、即座に各隊リレミトで脱出し洞窟の入り口に集合せよ!」
「はっ!」
 敬礼し駆け去っていく部下をふ、と息を吐いて見つめてから、アダルバートも走り出す。エマがいる時のように桁外れの物量で押されなければこの辺りの魔物に自分たちが遅れを取ることはそうそうない、と確信しているとはいえ、行動が部下に遅れるようでは連隊長として示しがつかない。
 尊敬の視線に馴染めなくとも、隊長として人を使うことにはすでに慣れてしまっている。自分の隊はエマの直属、エマの直接的な命令にのみ従い動く独立連隊。戦場では敵陣を縦横に駆けて敵を混乱させ、それ以外の時もその機動力をもって様々な難題を解決する、精鋭中の精鋭。そう呼ばれてもおかしくないぐらいには自分たちは厳しいところを受け持っている。
 だから人が無残に死ぬところも、苦しむところもとうに見慣れてしまっているのだ。
 ふ、と駆けながら息をつく。エジーディオにも、ジャスパーにも、自分はそれを強制している。同じ隊に密偵と司祭として所属してもらい、何百何千、ひょっとしたら何万という死を見させ、そして――
 自分が人を殺すことを、手伝うことまでさせている。
 二人に怒られ、怒鳴られ、殴られながらも自分は考えを変えなかった。変えられなかった。エマがあんな命令を出して心底傷ついているのではないか、少しでも自分の力でエマを助けられたら――そんな妄想とすら言ってよさそうな考えに、心底とり憑かれてしまっていて。
 二人は決して自分の行動を支持はしなかったが、自分が無事帰ってこれるよう手助けをしてくれた。自分を見守り、見張りに見つかりそうになれば気を逸らし、傷ついて帰ってくれば(決して珍しいことではなかった。自分はけして器用ではなかったし、目標以外の人間を殺すことはしなかったので)傷の手当をしてくれた。
 そんな風に、守るべき部下を裏切り、自分の命より大切な仲間にまで負担をかけているというのに――自分はそれでも、どうしても、少しでもエマの力になりたい、守りたいという感情を、打ち消すことができないのだ。アダルバートはぐ、と奥歯を噛み締め、鎧を鳴らしつつ地面を蹴った。

 サマンオサの反乱軍との会談は支障なく終わったそうだ。反乱の決行は次の休日、処刑場。愚王が処刑を観覧するために競技場にやってきた際に、サマンオサ反乱軍とエマ、そしてその近衛隊とで一気に王の身柄を押さえる。
 その際にエマがラーの鏡を使用することになっていた。国王が魔物でなかった場合はどうするのか、という疑問もあったが、おそらくはあの人はそんなことはとうに考え済みだろう、という確信も持っていたのでさして気にはしていなかった。
 自分たちの仕事は街中に相当数潜んでいると思われる国王子飼いの部下――王が魔物であった場合はこれも魔物である可能性が高いが、それに対処することだった。連携を防ぎ、市民に害を加えられぬよう速やかに捕縛・無力化し、競技場に乱入せぬようにする。自分たち独立連隊は、そんなように花形からは少し離れた、重要だが褒め称えられることは少ない箇所を受け持つことが多かった。
 自軍の他の隊はまだサマンオサ王都近辺にやってきてはいない。サマンオサの地方領主たちの土地を回り、そこの魔物たちを殲滅している。地方領主たちの土地ならば(いかにサマンオサ王が強力な国権を駆使しようとも)そう即座には対応ができないし、言い訳もつく。そうやって領主たちを説得する材料を増やし、乱を起こす際には領主たちの兵も動員して王都に攻め入る予定だった。
 なので、ラーの鏡を得るという仕事を終えてしまった以上、自分たちの隊にはしばらくは仕事がない。というか、あまり多人数を王都近くに集結させてしまっては王の目を不必要に惹きつけてしまうので作戦上あまりよろしくない。つまり自分たちがエマの軍の人間であると知られないよう、散開しておく必要があった。
 独立部隊であり、小回りが効く分他の隊と同じような使われ方はされにくい自分たちの隊は、よくそんな風に空き時間ができることがある。隊の用途からいっても冒険者的な性質が強いので、行軍に同行させるのは無駄だ、とエマは考えているようだった。
 だから、たとえ連隊長といえども、アダルバートがエマに会えるのは、新たな命令を受ける時ぐらい、というのがほとんどだ。
「エマさまは、お元気でいらっしゃるか」
 作戦通りのラーの鏡の受け渡し場所にやってきた近衛隊三番隊の隊長に訊ねると、いつも通りぶっきらぼうに答えられる。
「むろん、つつがなくお過ごしでいらっしゃる。会談も無事終わったのだからな。貴君ら独立連隊の無事を案じていらっしゃった」
「……そうか」
 それはつまり、アダルバート個人については、興味を示すことすらなかった、ということで。
「独立連隊の行動については計画通りに。言うまでもないとは思うが、なにがあろうとも計画に遅れるようなことのないようにな。決行まであと数日、英気を養っておくように」
「ああ」
 自分も負けずに仏頂面でうなずいて、ラーの鏡を渡す。商人による鑑定も終わっているので、これが偽者だという可能性はまずない、計画に支障が出るようなことはないだろう。
 それが終わるとアダルバートは小隊長たちを集め、現在為すべき仕事の終了と、今後の行動について説明した。すでにざっと計画は説明してあるが(他の連隊長には部下に対しあらかじめ計画を漏らすような行動は慎めと注意を受けることもあるが、自分たちが今なんのために戦っているのかわからないような状況は士気を著しく下げるとアダルバートは思うのだ)、これより自分たちは散開し計画遂行まで待機すること、これこれの組み分けに乗っ取ってサマンオサ王都の警邏、自分たちの拠点の警護と番、休暇を順々に消化すること。
 その言葉に、小隊長たちは『了解!』と喜び勇んだ声を揃えつつ敬礼した。無理もない、大きな作戦前の休暇というのは嬉しいものだし、他の仕事もほとんど休暇とさして変わらないものだからだ。
 部下たちのところへと去っていく小隊長たちを眺めつつ、さてどうするか、とアダルバートは息をついた。自分はこれより十八時間の休みを与えられている。なのでその間は好きに過ごしていいのだが、連隊長としては部下たちに混じって街にくり出すわけにもいかないし、稽古はもちろんするがここまでかなりの強行軍で活動してきたのである程度心身を休ませる必要もある。
 と、唐突に背後から首に腕が回された。
「ようよう、なーにしけた面してんだよ、連隊長さまよぅ」
「……エジー」
 アダルバートは苦笑する。背後に現れた気配がエジーディオだというのは声をかけられる前からわかっていたが、こういう風に不意討ちされるのはいつ後ろから斬りつけられてもおかしくない身の上としては緊張する、といつも言っているのに。
「どうしたんだ。お前もこれから十二時間は休暇だろ」
「バーカ、だから誘いに来たんじゃねぇかお前をよ。休みが一致するなんて久々なんだ、一緒に飲もうぜ」
「いいのか? 俺と飲んでもあんまり面白い話はできないぞ」
「知ってるよ、どんだけお前と一緒にいると思ってんだ。いいから行くぞ、この前ポルトガにいい店見つけたんだよ」
「はいはい」
 アダルバートは苦笑しつつも、エジーディオのあとについて歩き始めた。実際、自分は恵まれている。まるで自分がたいした人間であるかのように憧れの視線をぶつけられることには慣れないが、それでも慕ってくれる部下がいるのは嬉しいし、こんな風に声をかけてくれる友がいるというのは心底ありがたい。
 たとえ、心臓は絶えずあの人への想いで焼けつくほど焦がされていたとしても。

「で? 今度はあのクソ女のなにを考えて落ち込んでたんだよ、お前は」
 乾杯をし、軽く酒を啜るや切り出された一言に、アダルバートは思わず酒を噴き出しそうになった。ごほごほとむせながら必死に息を整えて、エジーディオを睨む。
「エジーっ……おま、えなっ」
「お前にそれ以外に落ち込むネタねーだろーが。いっつも目の前のことしか考えねぇ単純馬鹿じゃん、お前」
「……っ、わる、かったなっ」
「ある意味褒めてるぜ。ひとつのことに対する集中力が高いってことだし。……ま、その集中力を向ける先が間違ってるけどな。だからとっととやめちまえっつってんのにあんな女」
 アダルバートはは、と息を吐き、くい、と一口に杯を乾す。エジーディオには何度も、それこそ旅立った当初から言われていることではあった。
 あんな女のどこがいいんだ。なに考えてんだとっととやめろあんな女。だから言っただろあんな女ろくなもんじゃねぇって。もう別にあの女が頼る奴がお前しかいないってわけじゃねぇだろだったらやめちまえよ。
 その場合によって自分の対応は違ったが、それでもいつも、自分の最後の結論は変わらなかったし、エジーディオの結論もいつも変わらなかった。
「……やめないよ。やめられるわけ、ないだろ」
「……ったく。お前ならもっといい女がいくらでも釣れるってのによ」
「は? そんなわけないだろ、俺みたいな山出しの戦士が」
「バーカ、何年前の話してんだっつの。あれからどんだけ経験積んだと思ってんだよ。今やお前はそんじょそこらの魔物なんぞ楽勝で倒せる歴戦の戦士で、そのくせ優しくて穏やかでいざという時頼りになるいいオトコなんだかんな。ちったあ自分の今の価値自覚しろ」
「なにを言ってるんだか。それを言うならエジー、お前の方こそだろ。盗賊としての腕は折り紙つきだし、仕事はいちいち完璧だし。やることなすこと軽妙洒脱ないい男、って補給部隊の女の子の中でも人気なんだぞ?」
「アホ。若い女にキャーキャー言われて喜ぶ年でもねぇよ」
 ぺろりと舌を出して酒を舐めるエジーディオに、アダルバートも苦笑して杯に半ば程度に酒を注ぐ。そう、確かに、そういうことで素直に喜べるほど初心な時期はだいぶ前に通りすぎてしまっている。
「……でも、実際、他のどこに行っても第一線でやっていけるのは確かだよな」
「他のどっかに行ってほしいのか?」
 本気で意外そうな顔を作ってこちらを見やるエジーディオに、アダルバートはただ苦笑を返すしかできない。エジーディオにも言った通り、洒落た会話ができる質ではないのだ。
「いや。……こんなことを言う資格はないとわかってるけど、できれば、最後まで一緒にいてほしい」
「ならいてやる。……俺としてはお前がとっととあの女に愛想を尽かして、俺とジャスと一緒にとっとと逃げ出してくれるのが最上の展開なんだがね」
「それはないって、さっきも言っただろう」
「わかってんよ、んなこたぁ。……けど、実際、なんでお前はそんなにあの女に滅私奉公すんだよ。あの女が自分の体であっちこっちの男どもをいいように操るあばずれで、自分の手を汚さずに目的を達するためならなんでもする外道だってのはお前も知ってんだろうによ」
 旅を始めた頃なら我を忘れて殴りかかっていたかもしれないそんな言葉にも、今のアダルバートは苦笑して(こいつ、そろそろ酔いが回り始めたかな)と考えるだけの余裕があった。実際、このやり取りはずっと以前から何度も繰り返されていることなのだ。
「俺にも、はっきりこうだ、って言えるほどの理由があるわけじゃないけど。……初めてあの人を見た時に、思ったんだ。お姫様みたいだ、って」
「実際にゃあ鬼姫だったわけだけどな」
「確かに、あの人は俺が思っていたような聖女じゃなかった。守られるだけのお姫様じゃなかった。冷徹な策謀家って言ってもいいような、自分の魅力も人を動かす手段として使うような人だった」
「サイテーの女じゃねーかよ」
「でも……俺は、そんなエマさんが、心から望んでそんなことをしているようには思えなかったんだ。どうしても」
 何度彼女の冷徹な視線をぶつけられても。冷酷としか言いようがない命令を出されても。
「俺はあの人が、本当は優しい、いい子なんじゃないかって思えてしょうがなかった。本当は冷たく振舞いながら傷ついてるんじゃないかって気がしてしょうがなかった。だから、少しでも力になれたら、と思った。あんな華奢な体で、魔王軍と一人で戦わせるような真似はさせちゃ駄目だと思った。たとえあの人には使い捨ての道具としか思われてなくても、あの人の役に立てたら、あの人を守れたらって、そう、思ったんだ」
「そーんで二年半ずーっと都合よく使われ続けてるわけなー。ヤらせてくれるどころかまともに目も向けてくれねー女に」
「……そうだな」
 アダルバートは苦笑して、ただ杯を乾す。実際、自分の行動ははたから見ると馬鹿そのものだということは自分でもよくわかっているのだ。
 ただ、自分の中では、自分はさして損をしているという気はしなかった。自分はエマに勝手に幻想を抱き、勝手に裏切られた気分になって傷ついた。それは愚かだったと思うが、今は一応自分のしていることの意味と意義ぐらい自覚している。
 自分はあの人のことをよく知りもしないで――そう、自分とあの人は二年半共に旅をしながらろくに話したこともないのだ――幻想を抱いた。それがあの人にとってどれだけ迷惑な押しつけなのかもわからないままに。
 そして、自分で勝手にその身勝手の分のツケを払っているだけだ。自分の幻想を完成させるため、自己満足のために勝手に戦っているだけだ。だから自分がどれだけ傷つこうと、あの人にはまったく関係はないし、なんの責任もない。
 ただ、そんな身勝手につきあわせてしまっている仲間たちには、心底すまないと思う。自分を見限ってもらおうと何度か真剣な話し合いもしたが、彼らは彼らの『仲間を守る』という流儀を捨てず、自分と一緒に戦ってきてくれている。自分にはもったいないほどの、かけがえのない仲間だ。
 それでも。仲間に対してどれだけ申し訳ないと思っても。あの人が――エマが本当は優しい人なのではないかという幻想は、本当は戦いながらずっと傷つき血を流しているのではないかという幻想は、もはや自分の一部になってしまっていて、打ち消すことはとうていできなかったのだが。
「……お前、魔王と戦うまであの女のそばにいるつもりか?」
「あの人が俺にそばにいてほしくない、迷惑だ消えろって言って、それが本気で心の底から言っていると感じ取れるまで、だな」
「お前な、それ一歩間違えたら犯罪者だぜ? 迷惑だっつわれても本気じゃないって思ったらつきまとうんだろ? ま、あの女に訴える資格なんざねーけど」
「そうだな。犯罪者そのものだと思うよ」
「なんのためにそこまでやんだよ。人生懸けて思い込みのまんま突っ走って、いつかは死んで。そんでもあの女は振り向くどころか一瞥すらしねーぞ、気にも留めねーぞ。なのになんでそこまでしなきゃ」
「――俺は、あの人がお姫様に見えたんだ。戦うのが怖くて、人が傷つくのが嫌で、魔物を殺すのさえ本当は嫌なお姫様に見えた。あの人がどんなことをしても、本当は@Dしい人なんじゃないか、って思えるくらいに。だからあの人を守って戦う。それだけさ」
 この話題がこの辺りまでくるといつもそうなるように、エジーディオは顔を歪めて、どこか苦しげに笑った。
「結局、『あいつに惚れたから』ってかよ。お前も、報われねぇところに惚れたよな」
 そして自分はその言葉に応え、いつも通りに苦笑してみせる。
「いいんだよ。報われたくてやってるわけじゃないし」
 初めてエマを見た時の恍惚、声をかけてもらった時の感動、少しでもあの人の助けになれたと思えた時心が感じる満足感。そんなぐらいでも、人生懸けるぐらいのことはできると、アダルバートは感じているのだから。

『サマンオサ平定作戦』と称された作戦は、無事成功裏に終わった。サマンオサの愚王は魔物が化けた偽者だったことを満座の聴衆の中で明かし、エマの巧みな扇動で市民たちの感情を魔物――魔王討伐に傾け、暴れだす偽王に従う魔物たちと魔物たちの側に立った人間たちをエマの軍とサマンオサ地方領主軍、そしてサマンオサ近衛軍の中の味方たちの混成軍で殲滅した。
 アダルバートの隊もその成功にいくぶんかは寄与しただろう。幸い被害もさして大きくはなくすんだ。
 街を上げての祝勝会が行われ、街中に火が焚かれ酒が開けられた。自分もそれに参加した。
 エマもおそらくは街のあちらこちらに現れて笑顔を振りまいているだろう。最小限度の露出で最大の効果を得られるように計算しつつ。もちろん、城での貴族や有力者たちの祝勝会にも。
 とりあえず一通りの相手から献杯を受けたのち、アダルバートはのろのろと城に向かった。今日自分たちはサマンオサ城内の敷地に天幕を張り休むことになっている(自軍全員に部屋を用意するのは不可能だ)。早めに休んで明日の活動――稽古や今後の作戦のための話し合いに備えようと思ったのだ。
 戦いが終わってからすぐに傷の手当やら返り血の始末やらは済ませている。あとは城の前庭の自分の天幕で、たっぷり休めばいいだけだ。
(……ん?)
 ふと気配を感じて上を見上げ、顔をしかめた。サマンオサ城の城壁の回廊の上に、誰かがいる。見張りの兵士ではない、細身で黒い衣服に身を包んだ誰か。
 まさかどこかの密偵か、と警戒しつつも存在に気がついていないような足取りで歩を進めると、ふいにその人影はふいと身を翻して視界から消える。一瞬考えたが、アダルバートは地面を蹴りその人影のいた場所へと走り出した。
 正体がつかめるなどと思っていたわけではないが、少しでも手がかりが得られればよし、そうでなくともあの人影がなにを見ていたか確かめられる。百数えるよりも早く目的の場所にたどり着き、軽く周囲を見渡した。
 特に残っているものはない。もしあれが密偵だとするなら遺失物を残すようなヘマをするわけはないが。そして特に見えるものもない。ここは普段なら見張りの兵士が常に詰めている場所、城の内外の景色や出入りする人間はよく見えるが他に見えるものなど――
 と、視界の端にひらり、となにかがひらめく気配を感じ、アダルバートは駆けた。回廊の自分の視界範囲ぎりぎりのところを、誰かが動いているのだと理解する。
 おそらくは誘いの手だと踏んだが、基本いついかなる時も装備を体から離さないアダルバートは今も武器も鎧もしっかり装備している、戦闘を行うことに問題はない。気配からしても相手の戦闘力は自分より少し低い程度、自分一人で対処できると踏んだ。
 回廊を駆け、通廊を渡り、サマンオサ城の最上階、王の居室まで駆けてきたところで、アダルバートはその人影に追いついた。鞘に収めたままの剣を振りかぶり、素早く胴体部分を払う。相手は予想通り、それを避けきれず吹き飛ぶようにして倒れた。
「っ……、っ……は」
 か細い声を漏らす人影につかつかと歩み寄り、腕をしっかりと押さえ込む。その上で低く問いかけた。
「何者だ。なんの目的でこの城に侵入した」
「……っ、侵入、ね。あなたの目は……よほど、節穴なのね。よくそれで、独立連隊の、隊長など、やっていられること」
「……え」
 その声音に、アダルバートは固まる。馬鹿な、この声は、そんなことが。
 人影が小さく呪文を呟くと、強力な魔道具だったのだろう、絶えず体全体に覆いかぶさって輪郭をあやふやにしていた衣がするりと外れくるくると小さく包まり腰の袋に収まった。そしてその下から現れたのは、腰まで伸びた黒蒼の夜目にも艶々と輝くさらさらの髪、紫紺の人跡未踏の泉のように潤み輝く瞳、驚くほどに均整の取れたこちらの神経が総毛立つほど絶妙な曲線を描く体、天使のように、聖女のように、いや女神ですらここまでではないだろうと思うほど美しく整った顔貌――
 エマだった。
 アダルバートはばっとエマから飛び離れ、即座にひざまずいた。頭はかんかんと熱く鳴り、周章狼狽混乱の極致だったがそれでも口が反射的に言葉を紡ぐ。
「も、も、も、申し訳ありませんっ! ま、ま、まさかエマさまとは思いもよらず、まことに、まことにご無礼を仕りまして……! この罰はなんであろうとお受けいたします、ですからどうぞ責めは自分一人に! 愚かで無能なのは、あくまで自分一人ですので……!」
 あからさまに驚き慌てる自分に、エマはふ、と息を吐き、冷たく言った。
「確かに、あなたは無能ね。私が隊長への責めを隊全体に負わせるほど愚かな人間だと思っているの。この二年半、よほどまともに私を見てこなかったということね」
「………! も、申し訳ありませんっ!」
 かぁっとさらに熱くなる頭を深々と下げる。目の奥がじんわりと熱くなるのにひどくうろたえた。なにをやっているんだ、いくつだ俺は、それ以前に男だろう、それなりに経験を積んだいい大人だっていうのに、少し責められたくらいで泣くなんて。
 それはわかっている、心底わかっているけれど。エマに、この人に、愛する人に自分が愚かだと思われるのは、それこそ身が引き絞られるほど、苦しい。
 しばしの沈黙。それからエマがゆっくりと立ち、歩き出す気配。そして変わらぬ、冷たい声が発された。
「いつまでひざまずいているつもり。さっさと立って、こちらに来なさい」
「……はっ!」
 今にもこぼれそうになる涙を必死で堪えて、立ち上がりエマから三歩離れた後ろを歩く。せめてもの汚名返上に、周囲の気配を厳しく調べ、不意の襲撃に対処できるように身構える。
 エマはサマンオサ王の居室に入っていった。王の寝室に入っていいものかどうか判断がつかず部屋の入り口で待機する自分に、零下の視線と声で言う。
「聞こえなかったの? こちらに来なさい。そんなに私に手間をかけさせたいの?」
「は……はっ、申し訳ありませんっ!」
 深々と頭を下げ、慌ててすたすたとエマの数歩後ろへと歩み寄る。鋼の鎧ががっしゃがっしゃと音を立てた。
 エマは壁にかけられた、鏡の前に立っていた。ラーの鏡だ、と気づく。サマンオサの偽王の正体を暴いたあと、誰かがここに運び込んだのだろうか。
 ちろり、とこちらを一瞬見やってから、エマは変わらぬ冷たい声で命じた。
「見なさい」
 そして鏡に向き直る。一瞬なにを見ろと言われているのかわからずぽかんとしてから、そうか鏡を見ろということか、と慌てて視線を鏡に向け――
 絶句した。
「……なかなか面白い眺めでしょう。人間の女にしか見えないものが、鏡に映されると醜いという言葉すら生温いほどのおぞましい肉の塊になるのですものね」
「………っ」
 アダルバートは絶句したまま、静かな表情で鏡を見つめるエマを見た。そしてラーの鏡の中にそろそろと再び目を向ける。
 ぐっとこみ上げてくる吐き気に耐える。鏡の中に映る肉の塊。いくつもの腕が、足が、頭が、胴体すらいくつも絡みあっている、膨れ上がった巨大な、世にも気色悪く蠢く肉の塊。それははっきり言って、正視するに堪えない眺めだった。
「ラーの鏡がありとあらゆるものの真実の姿を映すというのは本当らしいわね。幸い、使い手が魔力を込めなければまやかしの姿を消し去るようなことはできないようだけれど」
「……、………っ」
「言っておくけれど、情報漏洩の心配はないわ。ここに映る私の真実の姿を知っているのは、今のところ私とあなただけよ。真実の姿を映すというラーの鏡の力は警戒していたから。もし万一他の人間に知られでもしたら、粛清を考えなければならないほどの醜聞ですものね」
「…………っ」
 アダルバートは何度も唾を飲み込み、必死に呼吸を整え、恐怖に震えだしそうになりながらもエマを見て、ようやく「……なぜ」とだけ訊ねた。
「なぜ? なぜラーの鏡にこんな姿が映るか? 決まっているでしょう、真実の姿だからよ。勇者オルテガは万一自分が志半ばで倒れた時のために、まだ妻の胎内から出てもいない子供を勇者にしようと考えたの。強い力と、それを制御する強い意思を持つ、人類の救い手となる強い存在にね」
「…………」
「そのためにオルテガは、胎内の子供に魔術をかけた。いいえ、魔術というのも呪術というのも生温い、外道のわざを。簡単に言えば、子供の無意識下にいくつもの霊体を強制的に合成したの。強い力を、魔力を持つ霊体、それを術で強制的に子供と合体させることによって、その子供はおそるべき魔力と、精神の力を得る」
「…………」
「術は成功したわ。子供は強い魔力と精神力を得た。生まれた時から、当然のように一流の魔術師よりも強い呪文を行使できるようになった。その代償として、子供の霊的肉体は崩壊したの。当然のことね、一人の人間の体に強い力が持てるからと何本も腕をつけるようなものなんだから」
「…………」
「オルテガの術の力もあり、主人格は子供のものでい続けたけれど、子供は常に心身が合成された霊たちの支配化に置かれ、物的肉体すらも崩壊する恐怖と戦うことになった。霊の力を――魔力を使えば使うほど、支配下の霊の力は暴走し、肉体を支配下に置こうとする。実際肉体が霊の姿同様に崩壊しかけたこともあるわ、無理やりに修復したけれど。通常の精神活動でも、霊が暴走する危険は捨てきれない」
「…………っ」
「なぜオルテガが、英雄と呼ばれる存在がそんな真似をしたかは知らないわ。ただ伝え聞くオルテガの人物像を推察してみるに、単に深く考えていなかったんでしょうね。強力な力を得られる、と聞いたから試してみただけ。自分の妻に、子供に術をかけ捨てにして旅に出るくらいですもの。子供のことも、術のせいで霊的存在が不安定になった妻が狂ったことすらも知らずにさっさとおめでたく、勝手にこちらにあとを託して死んでくれるような幸せな人間だったんでしょうね」
「…………」
「私が魔物に襲われるのは、魔王が私を警戒しているからというより、私の存在が魔物を引き寄せるからなのよ。魔物は強い混沌がそばに在ることで力を増す存在。霊的に不安定でありながら強い力を持つ私は強力な混沌を内包している。合成された霊体の中には魔族のものすらあったようだしね。だからこそ魔物は私を襲う。私を喰って、強い力を得るためにね」
「……エマ、さま」
 ふらふらと腕を伸ばしかけるや、「聞きたいのはそれだけ?」と厳しく、冷たい言葉が飛ぶ。こちらの感情に対する拒絶が、肌を刺すほどに伝わってくる声音で。
「……いえ。俺は、ただ」
「ただ?」
「なぜそんなことを、俺に、教えてくださったのかと、思って」
 その言葉に、数秒エマは沈黙した。
 それから、くすり、と笑った。少し鼻にかかった、どこか切なげで儚げな、背筋がぞっと震えるほど艶麗な音色で。
「言わなければ、いけないかしら?」
「いえ。そんな、ことは」
「私はただ、あなたに聞きたかっただけよ」
「は……なにを、ですか」
 すい、とエマがこちらを向いた。動いていることが感じられないほど、淑やかで雅やかな動き。
 少しうつむき加減になった顔に、妖艶という言葉を凝縮したような笑みを浮かべながら、すうっとアダルバートに近寄り――抱きついた。
「!」
「私がこんな存在でも、あなたは、愛してくれる?」
「……え」
「私が、今にも醜い肉の塊に変わってしまうかもしれない女だとしても、あなたは私を、抱きしめてくれる?」
「…………、…………」
 アダルバートはわけがわからなかった。なぜ? なんでこんなことに? 自分などエマにとってはなんの利用価値もない使い捨ての道具にしかすぎないだろうに、なぜエマが、わざわざ?
 エマはするり、と鎧の間の自分の肌にその細く美しい指を這わせる。蜘蛛が獲物を絡め取るように、芸術的なまでに甘美な仕草で。
 どんなやり方をしたのか、あっという間にがちゃり、と鎧が体から外れ落ちた。体と体が合わさる。柔らかく、豊潤で、脳味噌が溶けそうなほどいい香りのする体が自分の体に直接押しつけられる。
 胸。肌。髪がさやさやと肌を擦る。指。爪。透き通るような瞳と翳のいろ。腕が、足が、滑るように体を這い、締めつけるように絡みつく。
 こんなことはありえない。ありっこないとずっと思っていた。自分にそんな資格はない。価値はない。だってこの人は、別に、自分のことなんかなんとも思って
 ――その一瞬、目が合った。
 自分を見つめる、あの人の眼差し。それは妖麗で、身震いするほど美しく、輝きはどこか清らかで、聖女と悪魔が入り混じりどんな男も虜にできるだろうと思うほど蠱惑的で。
 ひどく不安げだ、とアダルバートは思った。
 腕が、伸びた。情けなく震えるみっともない腕。それがエマの手を取り、傷つけないようにそっと握り、痛くないようにそろそろと自分の口のところまで持ち上げる。そうして目の前にやってきた指に、アダルバートはそっと、口付けた。
 ゆっくりと体を動かす。経験はなかった、要領もわからない、それでもエマを傷つけることだけはないように、とできるだけそっと体に触れた。
 エマが自分に、なにを求めているかはわからない。ただの気まぐれなのかもしれない。少なくともこの行為は、自分に好意を持っているためではないのは確かだ。
 けれど、こんな自分がエマの役に立つのなら。エマの不安なり苛立ちなり寂しさなり、そういうものを解消する助けになるのなら、自分が与えられるものすべてエマに与えて、少しも惜しいと思わない。
 首筋。あご。頬。鎖骨。しゅるりという衣擦れの音。まぶた。睫毛。首に回されるほっそりとした腕。舌。そして、唇。
 エマはこんな時も、優雅で、艶麗で、優しく、美しく、いい匂いがして、白く、柔らかく、蠱惑的で。
 お姫様みたいに、きれいだった。

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