王様(女王様)
「ぐあ――――」
 自分の隣を守っていた部下が、悲鳴を最後まで上げることもできず首から上を食いちぎられる。ぶしゃああぁっ、とこちらにまで血しぶきと、鉄臭い、吐き気を催させる匂いが漂ってきたが、アダルバートは一瞬ぐっと唇を噛んだだけで済ませ、腹の底から声を出して叫んだ。
「退けっ、退けっ! しんがりは俺たちが守ってやる! 脇目も振らず森の向こうまで走れっ!」
 本来なら隊長がしんがりを務めるなどありえないことだが、独立連隊は独立守護軍の中でももっともさまざまな職業の人間を寄せ集めた部隊だ、足の速さが違いすぎるのでアダルバートが他の隊員に守られながら退くような真似をすれば他の奴らを魔物の牙の巻き添えにしかねない。それに指揮を執るならエジーディオとジャスパーがいる、あの二人はそれぞれ戦闘と隊の中心で退却の指揮を執ってくれているはずだ。自分が無理に生き延びる必要は、少しもない。
「……はぁっ!」
 体の底に澱のように残る感情を、吹き飛ばさんとばかりに叫んで剣を振るう。そんなことが不可能なのはわかっていたけれども。自分ができるならば戦いの中で死んでしまいたいと、愚かな感情を抱いているのは自覚していたけれども。
 それでも自分には、他人のために――あの人のために振るうことができる腕があるだけ、恵まれているのだ。そう奥歯を噛みしめながら、アダルバートはサラマンダーの首を叩き割った。

「独立連隊の、四分の一が………」
「は……エマさまより預けていただいた隊員をみすみす殺してしまったこと、まことに申し訳ありません」
 かつてネクロゴンドの王城であり、それからバラモス城と呼ばれ、今はレージェンシー対魔物独立守護軍の駐屯するアレフガルド攻めの前線基地のひとつである城の、玉座に座りながらぎゅっと切なげに胸元を握りしめるエマに、アダルバートは深々と頭を下げた。エマの側近である各国の将軍たちが口々に、あるいは重々しくあるいは苛立たしげにアダルバートを責めた。
「たわけが。精鋭兵を預けられておきながら、無駄に隊員の命を散らすか」
「それでエマさまの近習を名乗るか。図々しいにもほどがあろうが」
「精鋭兵の命がひとつ失われるは、エマさまの命が一滴失われるに等しいのだぞ。貴様、エマさまを殺すつもりか」
「みなさん……どうか、やめてください。どうか」
 瞳を切なげに、悲しげに、頼りなげに揺らしながら、エマは側近たちを見つめる。その瞳に見える輝きは、いつものように、どれだけ哀しげに揺らめいていようとも、妖麗でありながら清麗として、ぞっとするほど蠱惑的だ。
「彼らの死には私にも責があります。魔物たちの統制と強さを甘く見ていた……ゾーマはそれだけの統率力を持つ将だということなのでしょう」
「エマさま! そのようなことは」
「それに、独立連隊は作戦目的はきちんと果たしてくれました。ラダトームの一般市民の避難、アレフガルドの探索、兵員を無事輸送すること……転移網の基礎を築いてもくれましたし、これからはラダトームの兵力増強はずっと容易になるはずです」
「は……それは」
「連隊長。連隊に、二週間の休暇を与えます――その間に、隊を編成し直してはいただけませんか? 我々には、あなた方の力が必要なのです」
「はっ」
 深々と頭を下げ、そう答える。実際、それ以外答えようがなかった。二週間というのは連隊の編成には充分な時間とは言えない――が、国家のしがらみからも比較的自由で、あちらこちらに身軽に移動できる独立連隊は、いまだ未知の部分の残る大陸であるアレフガルドを移動し、転移網を構築するには使い勝手がいい。自分たちの力が必要だというのは間違っていないのだろう、と思った。
 以前ならば踊りだしたくなるほど高揚しただろう事実。それでも、アダルバートの胸の中の澱は、少しも乱れることなく心身を冷やしていた。
「エマさま、ラダトームの王子殿下が、ぜひお話したいことがある、とおっしゃられていますが……」
「そう、ですか……わかりました、身支度をするので少々お待ちいただけますか、とお伝えしてください」
 部屋を出しなに、そんな声が聞こえたとしても、黙って、感情を揺らすこともなく部屋を出ることができるほどに。

 サマンオサ攻めから半年。世界の意志を統一し、バラモス城攻めの準備を行っていた際のエマに、直接その神託はもたらされた。
『バラモスは別世界アレフガルドの大魔王、ゾーマの部下にすぎない』。
 信憑性のほどは不明だったが、エマに直接もたらされたその情報を、エマは軽視しなかった。何十人という探索者を使って見つけ出した神の力持つ不死鳥ラーミアを使い、数人の精鋭でギアガの大穴を抜け、アレフガルドに赴き調査をするように、と命令を下したのだ。
 その精鋭≠フ中には、自分と、エジーディオと、ジャスパーも含まれていた。自分たちよりも腕が上の人間はいないわけではないが、パーティ単位での戦い方の習熟度合については自分たち三人が随一、と内心自負していたのだが、それが認められた形になったわけだ。
 自分たちは暗黒の穴へと飛び降りて、異世界に赴き、情報を集めた。そしてその結果、大魔王ゾーマは実在し、アレフガルドを支配後自分たちの世界に手を伸ばしていたこと、アレフガルドにはラダトームという国があるものの、そのほとんどの成員は大魔王ゾーマの支配に打ちひしがれて、まともに戦う気力が残っていないことと、ラダトームの王子とその親衛隊はかろうじて戦う意思が残っており、別世界からゾーマと戦う人々がやって来るならばそれに全面的に協力したいと考えていることを突き止めたのだ。
 エマのところに戻って報告したのち、アダルバートはバラモス城攻めに参加したのだが、大魔王ゾーマの件はバラモスとの戦の前に公表された。戦の前の方が士気を損なわずにすむと考えたのだろう。絶妙の機を計り巧みな話術と芸術的なまでの扇動技術で発表されたその事実は、むしろ士気を一気に高め、バラモスを倒したあとは異世界に移り大魔王ゾーマと戦うのだと、ゾーマとの戦に身を投じるのはこの上ない身の誉れであると当然のように認識されることとなった。これまでエマがたどってきた道と同じように。
 バラモスとの戦はさして被害を出すこともなく片付けることができ、バラモス城を主たる前線基地として、ゾーマ戦のための準備は始まった。まずラダトームの城下町にアレフガルドのあちらこちらから、さらにはこちらの世界からも人を集め、ルーラやキメラの翼で移動するための魔法的な準備、基地として使用するための城壁などの増築を行う。それと並行してアレフガルド中を探索し、残された人間がいないか、伝承された特殊な道具がないか調べ、一般市民であれば避難させ、戦える者であればラダトームに集め、有益な道具があればエマに献上する。そういう作戦が立てられたのだ。
 そしてその作戦で、アダルバートの率いる独立連隊は八面六臂の大活躍をした。アレフガルド中を歩き回って村々、街々から人を集め、あちらこちらの洞窟や遺跡を探索して三種の神器をエマに献上し、アレフガルドの守護神精霊神ルビスに会うための準備も整えた。一般市民の避難はほぼ完璧に終了させることができたし、攻め寄せるゾーマの軍団からラダトームを護るための戦にも何度も参加し、活躍した。補充輸送兵員の護衛のような本来の任務とは畑違いのことすら行ったのだ、前線の兵からは、独立連隊はそれこそ憧れの視線でもって見られる部隊になっている。
 ゆえにこそ、兵の損耗は激しかった。一般市民を、新兵を護るために、アダルバートの部下が、友が、何人も死んだ。それこそ、数えきれないほど。嫌になるほど。吐き気がするほど、何人も。
 ――各国の将軍たちがアダルバートを責めたてたのは、独立連隊が活躍したことに対する嫉妬の念はあるだろう。自分より格下だと思っていた相手に上位に立たれる怒りや恐怖もあるだろう。そして同時に、自分に頭を下げているアダルバートが、どれだけの修羅場をくぐり抜けてそこに立っているかを感じ取り、気圧されるのを悟られまいとしたせいもあるのだろう。それはアダルバートにさえも、かつて頭を擦りつけるようにして拝んだ相手の程度というものをあっさり理解させてくれるものではあった。
 ただ、なによりも、それ以上に、彼らが自分を責めたてるのは、自分が、エマの機嫌を損ねていると、そう考えられているからだろう。彼らにとって、エマはもう、女王様のようにご機嫌をうかがわなければならない存在だから、その勘気に触れるのはなによりも恐ろしいことなのだ。
 それをエマがどう考えているかとは、関係なく。
「おい、アドル! なにぼーっとしてんだよ」
「……、エジー」
 ばん、と背中を叩かれて、アダルバートは物思いから覚めた。アリアハン、兵士をやっていた頃では敷居が高すぎてとても入れなかったような豪奢な酒場、隣にいるのはエジーディオとジャスパー。ジャスパーが飲んでいるのは果汁だが、エジーディオもまるで酔った様子は見せていない。
 それなのに二人とも自分を明らかに気遣わしげな視線で見つめているのは、やはり、それだけ自分の様子がおかしい、ということなのだろう。確かに自分がかなり神経質になっている……というより、気分が沈んでいるのは自覚していた。自覚して以来、こうして仲間で飲むのは初めてだったから、酒であっさりと気分がほどけてしまったのだろう。弛んでる、ってことか、とアダルバートは小さく苦笑した。
「悪いな……久しぶりに、三人揃って飲んでるのに」
「馬鹿かお前、なぁにが悪いな、だ。そんなこと気遣う仲かよ、今さらすぎるだろーがよっ」
「……そうか。そうだよな……いや、そう、なの、かな……」
「お前本気で酔ってんな……っつーかな、気ぃ遣うんなら今もまだあのクソ女に滅私奉公させられてる現状に気ぃ遣えっつーの。ったく、あの時俺の言うこと聞いてとっとと逃げときゃこんなとこまで来ることもなかったのによー」
「エジー……またあなたは、そんなことを。あの時エマ殿についていったからこそ、我々は今こうして世界を救うための戦いに参加できているのだということは、あなたもわかっているでしょうに」
「……けっ、別に参加したくてしてるわけじゃねーってのっ」
「まったく……エジーの言うことを気にすることはありませんよ、アドル。彼も本当はわかっているんですから。私たちがこれまで為したこと、これから為すことの意義も、意味も」
「ああ……そうだな、わかってるんだよな。俺も……わかってるんだ」
「アドル……?」
 怪訝そうに眉をひそめるジャスパーの横で、くいっと杯を乾してから、エジーディオは肩をすくめた。
「なにがわかってるってんだよ。お前、ここんとこおかしーなーとは思ってたけどよ、どーせまたあの女関係で勝手に落ち込んでんだろ」
「……ああ、そうだな。勝手に……俺が勝手に落ち込んでるだけだ」
「だっから、とっととゲロってみろっての。お前がどんな理由で落ち込んでんだか知らねーけどよ、とりあえず聞いて、阿呆かって笑ってやっから」
「……エジー……」
 アダルバートはじっとエジーディオと、その隣で真摯な顔でこちらを見つめているジャスパーを見つめてから、「ありがとうな」と笑った。自分は少なくとも仲間には、本当に恵まれている。同じ隊の奴らも、自分を真剣に慕い、全力で任務に打ち込む奴らばかりだ。そいつらが死ぬのは、いなくなるのは、本当に辛く、苦しかった。
 ――なのに、自分は、またこうして。
「……最初は、サマンオサでの戦いのあとだったんだ」
「え? なにが、で……」
「黙って聞けって」
「そのあとも何度か、寝室に呼ばれた。ずいぶん間隔を開けてだったけど。俺はそのたびに素直に寝室に向かった。あの人に――エマさんに、少しでも利用価値があると思われるのは嬉しかったし、こんな俺が少しでもエマさんの役に立てるって思ったら泣けるほど幸せだったし……」
「な……! し、寝室とは、あの、もしや、そのようなことはないとは思っているのですがもしやその」
「いいから黙って聞けってのっ」
「あの人を放っておくわけにはいかない、って思ったんだ」
 胸の奥の感情を言葉にし、ふ、と息をつく。自分でなにを考えているんだ、何様のつもりだ、と何度も自分を叱りつけながらも、心の奥では絶えず思っていたことを。
「……なんだよ、放っておけない、って」
「あの人は……俺を誘いながら、ひどく不安そうだった。寂しげで、苦しげで……俺になにを求めているのかはわからなかったけど、それでも俺は、あの人の力になってあげたいって、そのためならなんでもするって、思ってしまったんだ。手前勝手な思い込みかもしれないけれど」
 少し口を閉じて、黙る。そこにエジーディオが忌々しげな口調で言った。
「んで、また何年もこき使われたあとに何度かヤらしてもらっただけで、またいいように踊らされたわけな。あの男をいいように操って、自分はなんにもしねーくせにばかすか男を死地に送ってるクソ女に」
「俺が勝手に踊っただけだ。あの人の内心とは関係ない」
「へーへー、そーですか。で? なんでいまさら落ち込んでんだよ。あのクソ女がそーいう女だってのはお前もよーくわかってんだろーがよ」
「わかっていた。わかっていた、つもりでいた」
 呟くように言って、ゆっくりと杯を乾す。さして酒に強い方でもないアダルバートの頭は一瞬くらりとしたが、それでもぶつぶつと呟くように言葉を続けた。
「だけど――アレフガルドで。見ただろ、お前らも。何千人もの、魔王の支配に打ちひしがれた、頭からつま先までどっぷり不幸に浸かってる人たちを」
「……ああ」
「そうですね……アレフガルドにいた方たちは、本当に苦しんでいらっしゃった……飢えに、苦痛に、明日の命も知れないという状況に、生ける人々すべてが無残なまでに痛めつけられて……」
「俺はあの人たちを見て、初めて心の底から魔王を倒したいと思った。エマさんのためっていうのとはまた別に、この人たちを救いたい、そのために自分ができるためならなんでもやりたい、少しでも世界を護る力になりたいって、心底思うようになったんだ」
「…………」
「だから、隊の奴らも巻き込んで、そのために奮闘した。アレフガルドの人々を一人でも多く救うために、全力を尽くした。何十人、何百人って仲間を死なせながら、それでも戦った。必死に、戦って、戦って……それでようやく、俺はわかったんだ」
「なにが、ですか?」
「戦いっていうのは……本当に、本当に、辛くて……空しいものなんだ、って」
「……空しい、ですか」
「ああ。たとえ魔物相手の戦いでも……戦いっていうのは、本当に、辛くて空しい。何人も、本当に何人も、人は死ぬんだ。生きていた人が、動かなくなって、ただの物体になって、いなくなるんだ。そういうことを、何度も何度も何百回も経験して……いつの間にか、護ることができた人の数よりも、失ってきた奴の数の方が、肩にずっしりのしかかるようになってた」
「…………」
「……それで? だからどうしたってんだよ。そんなもん、部下率いて戦ってりゃ当たり前にあるこったろ。当然の変化だ。そーいう経験しても、お前はあのクソ女に滅私奉公し続けるつもりなんだろーが?」
「………――――」
「っ……!? な、おま、まさか」
「つもりが変わったわけじゃない」
 アダルバートはさえぎるように声を上げた。エジーディオが顔面蒼白になるのも当然だろう、それは今や、ほとんど自分たちの存在意義になってしまっている。エマの手の内で転がされて、都合のいい道具として扱われることに甘んじることで、自分たちはここまでやってきたのだから。
 そこから今さら抜け出るつもりはない。ただ、あえて言うなら、自分は。
「ただ……悲しいと、そう思うようになっただけだ。こんな俺を信じてついてきて、あげくの果てに殺されちまった奴らが、あんまり惨めだって」
「な……そりゃ、お前、その、それはっ」
「亡くなった方たちも、自身で生きる道を決めて、我々と共に戦ってくれたのではないでしょうか。それを憐れむことは、むしろ亡くなった方々に……」
「わかってる。俺なんかが憐れんでいいことじゃない。ただ、俺は、悲しくて……本当に、悲しくて……」
 エマへの想いだけでここまでやってきた自分が、ひどく思い上がった、汚らわしい人間のように思えて。まともに部下の顔も見られなくなって。生きているのも申し訳ないような、なぜ自分は生きているのかと誰かに問いたいような感情が湧いてきて。それでも必死に自分を奮い立たせて、戦ってきたし、これからもそうするつもりだけれど。
「……エマさんは、どんな風に思ってるんだろうな」
「……なにが、だよ」
「自分の命令で何百人、場合によっては何千人という人間が死んでいくことを。自分が誘惑した相手が、自分のために命を懸けて、そして死んでいくことを。自分に触れた人間が次々にいなくなっていくことを」
「んなの……どうとも、思ってねぇに、決まってんだろ」
「そうかな」
「そうだよっ! 俺は今でも忘れてねぇぞ、あの女がアリアハンの冒険者を山ほど見殺しにしたことも、生き残った俺たちを心底馬鹿にした目で見てくそみそに言いやがったことも! だから、あの女は、最低のクソ女で、この世からいなくなっちまえばいいって俺は、本気で……」
 エジーディオの声は途中で尻切れとんぼになった。顔を真っ赤にして言葉を詰まらせて、まだかなり酒の入った盃をぐいっと乾す。
 さすがに酔ったのか、椅子に身を倒れ込ませるエジーディオを横目で見ながら、アダルバートは内心小さく呟いていた。
 そうかもしれない。あの人がこれまで俺たちに見せてきた姿は、ずっと、人を人とも思わない冷酷な支配者のものだった。
 だけど、俺はこう思ってしまう。なら、あの人は、いったいなんのために世界を救おうとするのだろうと。
 自分の魂を改造した相手であるオルテガの跡を継ぎ、勇者として旅立って、魔王を倒し、そのあともゾーマを倒すため尽力している。それぞれ勝手なことを言う国家首脳たちの言い分を調整し、全員馬鹿馬鹿しいほどに高い矜持をぶつけ合わせる軍部の高官たちの主張をなだめ、自身の建てた完璧な計画のもとに戦えるように制御しながら独立軍全体の士気を高め。そのために、自分の体を差し出すことも厭わずに。女性にとって、好きでもない男に触れられることは、きっと心底気色悪いことであるだろうに。
 あの人は、いったい、なんのために生きているのだろう、って。

「アダルバート……今日も、お仕事、長くかかるのかしら?」
「……ああ、そうだね。志望者には全員俺が面接をすることになっているから、どうしても夜までかかってしまうんだ」
 アダルバートは、アリアハンに泊まる時はできるだけ実家に泊まるようにしている。両親ともにこれから老人と呼ばれる年代になっていこうとしている年頃、不安になっているのだろう、できるだけ顔を出すようにと言われているのだ。
 一人息子というわけでもないのだが、兄も姉もすでに独立している身だし、普段はアリアハンを離れている自分に戻ってきた時くらいは会いたいという気持ちもわかるので、できるだけその言葉に添うようにしていた。……もちろん、いろいろと恨み節を聞かされるのだが、それくらいは息子としての義務だろうと受け容れていたのだ。
「まぁ……またそんな。あなたは本当に、ほとんど家に戻ってきてくれないんだから、家にいる時ぐらい少しは私たちに時間を合わせてくれてもいいじゃないの」
「ごめん、母さん。だけど、これは仕事だから。俺が勝手に休みでもしたら、みんなが迷惑するんだ」
「それはわかるけど! もう老い先短い私たちに、少しは顔を見せてくれても!」
「……本当に、命に関わる迷惑を被るんだ。俺が休んだせいで部下たちが命を失うようなことがあったら、俺は自分で自分を許せないよ」
「っ……」
 食卓の向こうで、ひどく悔しげな顔で母親が黙り込む。それから微妙に目を逸らしながらお茶をすする自分に、母親の隣の父親がぼそりと呟いた。
「……お前、結婚する気はないのか」
「え?」
「そう、そうよ! あなた、ずっとよそで戦ってきたんだから、いい加減私たちを安心させてくれなくちゃ! あちらこちらから本当にいいお話が来てるのよ、大商店の娘さんとか、豪農の一人娘とか、それにほら、これ! 貴族よ貴族、貴族のご令嬢! あなた本当に頑張って戦ってきたものねぇ、これからはちゃんと報われるような人生を」
「――悪いけど、俺はこちらで結婚はできないよ」
「っ! あなた、まだそんな……」
「……エマさまについて、向こうの世界に行くのか」
「うん。前にも言ったけれど、向こうの世界に行って……大魔王ゾーマを倒すために戦う。そして、もう、二度とこっちには戻ってこれない」
『…………』
 朝の食卓に重い沈黙が降りた。仕方ないだろう、これはどうしたって軽くなりようがない話なのだから。
 ゾーマの情報を確認してから改めてもたらされた、ゾーマの情報同様エマに直接降りてきたとされる神託。『ゾーマを倒すとアレフガルドに向かう道は閉じ、もう二度と戻れなくなる』。
 エマはその情報を、機を見計らっておそろしく効果的に告げたため、士気が目立って落ちているということはない。ゾーマ攻めと同時に機を見計らって、ゾーマ攻めに参加する兵士たちの家族や恋人のうち移住を希望する者をアレフガルドに連れて行く手筈も整えてある。
 だが、それでも、向こうの世界に行ってもう戻ってこれないという事実は、たいていの兵士たちにとってひどく重い話には違いない。
「……俺がいなくなっても、父さんや母さんがおろそかにされるようなことはないと思うよ。エマさまが各国の王たちに働きかけて、兵士たちの家族には先々まで手厚い補償をするよう誓約書を交わしてくださったし、それを履行するよう主張する機関もダーマに創ってくださったから、老後の心配は」
「そういうことじゃないでしょう! 私は……私たちはねっ……あなた、もう、二度と私たちとも、故郷とも会えなくなるのよ!?」
「……それでもかまわない、と、いうのか」
「かまわないわけじゃ、ない。けど、俺は……」
 天井を仰いで、目を閉じる。そこに見えるのは、いつものようにエマの顔で、それが当然になってしまったことに小さく苦笑し、なぜか泣きたい気分になった。
 エジーディオは勘違いしていたようだが、自分のエマに対する感情は、なくなったわけでも冷めたわけでもない。何十人何百人という部下を死なせて、自分の生きている意味が本当にあるのか、なんてことさえ考えるようになって、それでようやく、初めて思ったのだ。
 エマは、何百、いやもしかしたら何千という部下を自分の失敗ひとつで失うような立場に立って、本当に大丈夫なのか、と。
 辛くはないだろうか、その激務に疲れることも多いだろうに、責任に打ちひしがれたりはしないのか。悲しいと、怖いと、逃げ出したいと思うことはないのか。彼女はまだ、二十歳にもならない少女でしかないというのに。
 そういう風に、思い上がった、自分とエマが対等であるかのような気遣いが頭から離れなくなって、告げてしまったのだ。報告の際、二人きりになった時に、寝室に呼ばれた際に。
『このあと、私の部屋へ、来てくれるかしら』
 そう囁くように、いつもと同じく、背筋が震えるほど優雅な声で告げた言葉に。
『あのっ、エマさま! エマさまは、本当に……その、そういう、ことをしたいと思っていらっしゃるのでしょうか!?』
 そんな言葉を、返してしまったのだ。
『……なにを』
『俺の、その、それが少しでも心慰めになるのならもちろん喜んでお相手します! けれど、それでなくても、お話の相手でも八つ当たりの相手でも俺はなんでもかまわないんです! そういうことをしなくても、俺はエマさまのお役にたてることならなんでもしますし、どうとでも使っていただいてかまいません! 俺は、あなたの――』
 思い上がりにもほどがあるだろう、と自分でも笑ってしまうような台詞だけれども。必死に、懸命に、心の底からの感情を込めて。
『あなたの、助けになりたいんです』
 その言葉に――エマは、しばし零下の視線で自分を眺め、それからすっとこちらに背を向けて、告げた。
『なら、他の男を呼ぶわ』
『――――』
 そのあと、どうやって部屋に戻ってきたのか、自分は覚えていない。それだけ衝撃だったのだろう。自分の想いを無碍にされたこと、というより、自分の存在がエマに不要であることを改めて思い知らされて。
 けれど、それでも、それなのに。
「父さん、母さん。俺は……エマさまを、放っておきたくはないんだ」
「そんな、アダルバート……!」
「あの人の助けになりたいんだ。あの人を一人で大魔王の前に立たせるなんてことはしたくない。――あの人が辛い時に、力になってあげられる人間でいたいんだ」
 あの人が苦しんでいる時に、悲しんでいる時に、少しでも慰めになれる存在でいたい。あの人は本当は苦しんでいるのではないかと、そう思ってしまうようになった今は、そう思う。
 役に立てる、力になれる、ある程度の自信が持てるようになった今だからこそ。仲間を死なせ、それに苦しみ、心にいつも澱が沈んで、いつも死んだ人間のことを、自分が殺した命のことを考えるようになった今だからこそ。
 心底、命懸けて、魂懸けて、想い、願い、祈るのだ。エマを、兵士たちにはもはや女王か女神のように崇め奉られて、だからこそいつもたった一人ですべてと向き合っている一人の女性を、少しでも安らがせられる、支えになれる、その一助となれる存在になれたならと。
「だから、俺は、あの人と一緒に戦うんだ」
 そう、それが自分にできるせめてもの方法のひとつ。せめてもの精一杯。だからこそ、自分は、それに全力を尽くすのだ。
「アダルバート……!」と悲鳴を上げ始めた母親をなだめながら、むっつりとお茶を口に運ぶ父親に視線で詫びながらも、アダルバートの心はもはや、彼岸へと飛んでいた。――ゾーマ戦でももっとも危険な部分を任されるだろう自分たちには、少なくとも先頭で戦う自分には、生き延びる可能性はほとんどないだろうと、理解していたのだから。

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