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「せあぁっ!」
 アダルバートの突き出したバスタードソードは、バルログの胸から背中までを一気に突き通した。驚愕の表情を浮かべたまま固まったバルログは、アダルバートが剣を振るのと同時にぼしゅっ、と音を立ててあっさり消滅する。
 だが安堵する暇もなく、次々と猛り狂った魔物たちは押し寄せてくる。ドラゴン、アークマージ、マントゴーア、ソードイド。どれも並みの戦士では何百人いようと相手にならない異常なまでの強さを持つ魔物ばかりだ。
 それを右に左にと切り払い、雄叫びを上げて士気を鼓舞し、血を流しながら前に進む。一歩でも、少しでも、自分の後ろにいる隊員たちを前に進ませるのが自分の役目。それができなければ、自分の存在した価値も、意味も、これまでの人生のすべてがまるで無駄になってしまう。
「どけぇっ!」
 魔物は息つく間もなく襲ってくる。これまで出会ったどの魔物の群れよりも、強く、多く、統率のとれた魔物たちの軍団。自分たちの前で防壁のように立ちふさがるのみならず、左右から、上下から、自分たちを取り囲んで押し包み、潰そうとしてくる奴ら。
 その強さも、数も、戦術性も、これまでと戦ったどの敵とも比べ物にならなかったが、アダルバートはそれでもひたすらに剣を振るった。自分の後ろには、魔王軍相手の先鋒という自殺的な役目を果たすために、決死の覚悟で自分についてきてくれている何千というレージェンシー勇者軍の部下たち――いや、仲間たちがいるのだ。ここは退けない。退いてはいけない。
「ギギィァッ!」
「っ!」
 オーガシールドで噴きつけてくる炎の勢いを殺しながらドラゴンを斬り倒した一瞬の隙を衝いて、空中からサタンパピーが襲いかかってくる。まずい! と少しでも傷を少なくしようと姿勢を低くする――より早く、陰から風を斬り裂いて飛んできたグリンガムの鞭がサタンパピーの体を絡め取り、動きを封じて、遅れて飛んできた一本が先端の刃の部分で見事に首を斬り落とした。
 目前で一瞬のうちに塵と化すサタンパピーから素早く次の敵へ視線を動かしながら、アダルバートはわずかに笑んでいた。そう、自分には、こうして背中を預けられる、預けてさせてくれる相手もいてくれる。旅立った時から迷惑をかけっぱなしなのに、それでも自分を仲間と呼び、こうして死地にまで共についてきてくれるこの上ない友が。
「……の癒しをここに来たらせたまえ!=v
 後方からジャスパーの呪文が聞こえるや、アダルバートの傷はみるみるうちに癒えていく。最高位の僧侶か賢者にしか使えない呪文、ベホマラーだ。周囲の仲間たちの傷が回復し、また勇んで敵に向かっていく気配が伝わってくる。
 癒し手としては最高と言っていい能力を持つジャスパー。密偵としても斥候としても戦闘者としても高い能力を持ち、夜襲不意討ちを的確に防いでくれたエジーディオ。二人がいなければ、自分はとうにもう魂が消滅していたに違いない。
 彼らのためにも、自分は戦う。役目を果たす。剣を振るうしか能のない自分の役割は、最前線で全力で血を流すこと。ならば、それに全力を注ぐ。
「ぎゃあっ……!」
「クイーッケケケッ……!」
「……ふぅっ!」
 自分の横で戦っていた部下に襲いかかり、一噛みで首を折ってみせたドラゴンゾンビに、奥歯を噛みしめながら斬りかかる。もうすでに、何百人という仲間が死んでいる。戦場全体で言うならば、何千という同朋がとうに失われているだろう。
 それでも自分は、自分たちは前に進み、山と群れた魔物たちを斬り捨て道を切り開く。ゾーマの城の城門を打ち砕き、血を流し魂をすり減らしながら魔物たちの堰を突破する。魔王を倒すために。残してきた家族を、愛する人を護るために。自分たちの、人類の、勇者軍の勝利のために。
 ――それでも。こんな時でも。これまでいつもそうだったように、自分の心でなにより強く光るのは、『あの人のために』という言葉で――
 アダルバートは砕けよとばかりに奥歯を噛みしめながら、剣を振るった。最後の戦いまであの女のことか、とエジーディオには怒られるだろう。ジャスパーには苦笑されるだろう。勇者軍の他の仲間たちでも、自分に夢を見ている連中は(そんな奴らがいるという認識はアダルバートには強烈な驚きだった)がっかりするかもしれないという自覚はある。
 けれど、それでも。旅の始まりからずっとそうだったように、自分をなにより強く動かすのは、あの人の笑顔なのだ。
 ――あの人を、少しでも笑顔にすることができたら、といういじましい願いだけなのだ。

 レージェンシー勇者軍。世界中から集められてアレフガルドへと降り立った魔王と戦うための軍団は、そう名付けられた。
 大魔王ゾーマを倒すための英雄たちの軍団。その成員のほとんどは、生きて帰れぬ覚悟でゾーマとの戦いに参加を決めた。あるいは恋人を、あるいは家族を上の世界に残し、世界を護るために戦う≠ニいう目的のために二度と戻れない異世界へとやってきたのだ。
 まさに背水の陣と言うべき、自分たちをひたすらに追い詰めての戦いだというのに、勇者軍の兵の士気は高かった。共に果てる覚悟で(アレフガルドにいる以上安全などどこにいても保障されないというのに)家族や恋人がついてきてくれた、という幸せな奴らもいたが、そんな例は本当にごくごくわずか。だというのに士気がまるで落ちないというのは、自分たちが負ければ世界が滅びるのだと、自分たちは世界を背負っているのだという誇らしさがどんな新兵にも深く刻まれているのと――それ以上にエマが超人的と言いたくなるほど巧みに兵を操って、これ以上ないという機を選び確実に勝利を得ているせいだろう。
 勇将の下に弱卒なしと言うが、エマは勇将とは呼べないにしろ兵卒たちにこの上なく慕われていることは間違いがなかった。兵が『この人にならば命を預けられる』と思えるのは、自分たちを生き延びさせてくれると思える将であることが第一条件であるようになんとなく思っていたのだが、必ずしもそうではないとアダルバートは知った。
 エマは毎日陣地の中を歩き回り、頑張っている人間一人一人に優しく声と懇ろな言葉をかける。それがどれだけ一兵卒を奮い立たせるか、どれだけ命懸けで戦おうともそれがただの数値、駒の働きとしてしか表されない軍という世界の下積みをやっておらねば理解できないだろう。
 それだけでなく、エマは相手に『この人は自分を頼りにしている』と思わせるのが天才的にうまかった。一兵卒にも、隊長にも、将軍にも、この人は自分を頼りにしているのだ、自分が死力を振り絞らなければこの人は大変なことになってしまうのだ、と思わせることができた。だからこそ、冒険者という自由を至上のものとする職業の人間が軍の一員という形になってもエマについていこうとし、地位や権力を持つ人間を嫌うカンダタたちのような裏稼業の人間も全力でエマに協力し、各国の将軍、王侯貴族がこぞってエマの力になろうとしたのだろう。色香に血迷ったというのとは少し違う。いうなれば、他の誰でもない自分が、自分だけがこの人の、美しく清楚でありながら麗々しい女勇者の力になってやれるのだ、という夢に魅せられたのだ、とアダルバートは思う。
 アダルバート自身、エマのために戦う動機は、それとさして変わらないのだろうな、と思っていた。
 ――勇者軍は、ラダトームに築かれた前線基地に集合したのち、アレフガルドにやってきた兵卒たちの家族を魔法などで城に隠し、魔法使いたちのルーラによってリムルダールに転移、かねてより用意してあった虹の雫を用いてゾーマの城のある島の結界を割り裂き、虹の橋を渡って城を強襲した。当然魔物たちを統べる大魔王の島を襲ったのだから、魔物たちの数はそれこそ数えきれないほど、これまでになく的確な戦術指揮を用いて襲いくる魔物たちにもたらされた被害は尋常なものではない。
 それでも、自分たち勇者軍は、少しずつ魔物たちの壁を斬り裂いて、城に到達し、大手門を破って城内に進入した。エマたちのいる本陣もおそらくは少しずつ移動しているだろう。一兵卒(自分はどこまでいってもしょせんその程度の器だ)にはそれがどこかまでは知りようがないが。
 曲がりなりにも独立連隊長として、アダルバートも何度も軍議に参加したので、作戦の流れ自体は覚えている。先遣隊が道を切り開いて本隊が橋頭堡を作成し、いつでも退けるよう準備をしつつ、できるならば一気呵成に城まで攻め込む。門を破ることができたならば、ゾーマの城自体を使って軍を護りつつ、少なくともゾーマ自身に一当たりはして、その結果次第で退くか戦うかを決める、というごく真っ当な作戦だ。
 作戦の意義も、意味も理解しているつもりだし、自分に期待されている役目もわかっている。だが、それでも、それを最重要視する気にはなれなかった。
 自分は本当に、ただ剣を振るうしか能のない人間だ。もともとはアリアハン城のただの一兵士でしかなかったのが、エマの役に立ちたい、エマを助けたいと分不相応な夢を見てここまで必死についてきただけのただの戦士。
 それがいきなり将軍たちとやりあえと言われてもできる気はしないし、やりたくもなかった。自分の力が一番強く発揮できる場所で戦うことができさえすれば、それでよかったのだ。
 たとえそれが、魔王軍へ突撃する先鋒という死亡率のこの上なく高い役目でも、それが自分たちの力を一番発揮できると、一番役に立てると思える役目であるのならば、アダルバートに否やはなかったのだ。

「独立連隊長閣下! 罠の通廊、先遣隊全隊突破しました!」
「後続との連携はどうなっている!?」
「後続大隊斥候との連絡よろし! 通廊の情報の伝達を確認! 大隊、通廊への進攻開始しました!」
「よし! 即時魚鱗陣形を組め! 進攻を再開する! 隊列を組むのが遅れたものは置いていくぞ!」
「はっ!」
 大魔王の城らしく、回転する床に落とし穴、穴の底には槍、他にも山のように仕掛けられた罠で満たされた通廊をエジーディオの力で突破し、即座にまた隊列を組む。罠の通廊を通っている間も続々と押し寄せてきた魔物から、壁になって必死に兵士たちを護る。
 それでも、足りない。どれだけ血を流しても、足りない。部下を、仲間を、戦友を護る力にはまるで足りない。
 わかっている。自分は、決して強いわけではない。確かにここ一年は勇者軍の中ですら打ち合った相手に負けたことはなかったし、エマ麾下の戦士の中でも最強と噂されているのは知っている。だが、それでも、本当に強い魔物と戦い、部下を護るには、あまりに足りないのだ。
「ぐがあっ……!」
「マリオ! っ……ちっくしょおぉっ!」
「っ!」
 自分の戦っている隣の小隊で兵士が一人突出しようとしているのを、だっと魔物たちの間を駆けて身をもって庇い、攻撃してきた魔物を斬り倒す。兵士が呆然とするのに、そちらを見もせず怒鳴りつけた。
「それでも勇者軍の戦士か! 強い魔物との戦い方は知っているはずだ、無駄に命を捨てるような真似をするな!」
「は、は……はいっ!」
 答えを聞きもせず目の前の魔物を次々斬り倒して自分の所属する小隊――陣形の先頭に立つ隊に戻る。本来ならそんな真似をすればたちまち押し包まれて殺されていただろうが、自分には後ろを護ってくれる仲間がいるのだ、隣の小隊から自分の隊へ戻る間、後ろから襲ってくる敵を必要以上に警戒して足を鈍らせるようなことはせずにすむ。
 ――そう、一人や二人なら護れるかもしれない。だが、先遣隊の別の場所ではまた他の人間が殺されている。それを護ることは、勇者と呼ばれるほどの力を持つことは、自分には絶対にできない。自分にはそんな器はない。世界を救えるような人間ではない。
 だから、こんな時はどうしても考えてしまうのだ。エマは、今の目の前にあるこの現実を、どう思っているのだろうかと。軍勢を率いて大魔王の城に突撃し、何千、ひょっとしたら何万という犠牲を払って大魔王を倒そうとしている現実を。
(苦しんでらっしゃるのでは、ないだろうか)
 そう思うと、いつもアダルバートの顔は歪んでしまう。エマの痛みを、苦しみを、悲しみを嘆きを想い、その欠片なりと感じようとしてしまう。自分などが感じたところでどうなるものでもないだろうが、少しでもエマの心を理解し、一助となれたらという想いからすでに習い性となっている行為だ、いまさらやめる気にもなれない。
 勇者にはなれない自分がエマにできることは、エマの手足に――取り替えのきく、できるだけできのいい手足になることしかないとわかっているのに、アダルバートはいつも、エマの心を想ってしまう。それがエマにとって迷惑にしかならないと、わかってはいるはずなのに。

「私は、できれば、先遣隊の指揮官は、ヴァーノン独立連隊長にお任せしたいと思うのですが」
 大魔王との決戦の日程がほぼ決定となったある日、具体的な作戦を立案するための軍議でのエマの発言に、アダルバートは仰天した。まさかこの会議で、自分に重要な役割が振られるなどとは思ってもみなかったからだ。
 アダルバートは自分の立場の軽さを理解しているつもりでいた。独立連隊長という名前は立派だが、独立連隊自体もともとは正規軍からのはみ出し者を集めた落ちこぼれたちの部隊。なにより自分はもともとはアリアハン城の一兵士だったのが、エマについてきてかろうじて生き延びたばっかりにたまたまある程度の剣の腕を得ただけの人間。各国の将軍や王侯貴族も加わっているレージェンシー勇者軍で、重用される理由はどこにもない。
 だというのにエマが、自分を軽蔑し、嫌っているだろうエマが、成員の士気を高めることにかけてはことに気を遣っているエマが、自分を先遣隊の指揮官に任ずるなど予想外もはなはだしかったし、他の幹部も許さないだろう――とアダルバートは思ったのだが、案に相違してそうはならなかった。
「なるほど……ヴァーノン連隊長閣下ならば、先遣隊にはふさわしいですな」
「いや、むしろ他に適者はおらぬでしょう。大魔王の城に攻め込む先遣隊ともなれば、なによりも勇猛さと剣の腕が重要となる。ヴァーノン連隊長ほどそのどちらもを持ち合わせている方はおりますまい」
「では、先遣隊の指揮官はヴァーノン殿ということで、よろしいですな」
「異議なし」
「それがよろしいかと」
「ヴァーノン閣下も、それでよろしいですか?」
「……はい。承知仕りました」
 そう返事をしながらも、アダルバートは呆然とエマを見つめていたのだが、エマは(大魔王と戦うための軍議の真っ最中だというのに)いつもと変わらぬ、優しく、柔らかく、優雅この上ない、見ているだけで背筋が震えるほど艶麗な微笑みを浮かべて周りの人々を見つめているだけで、こちらを見ようとはしなかったし、当然こちらに人事の理由を説明しようともしなかった。
 それを(苛立たしげに鼻を鳴らしながら)説明してくれたのは、エジーディオだった。
「そんなもん決まってるだろうが。生贄の羊≠チてやつだよ」
「え?」
「大魔王の城を攻める先遣隊だぞ。死亡率が高いなんて段階じゃねぇ、むしろほぼ生きて帰れない役目だってのくらいわかるだろ。そんなもん根性のねぇ貴族どもだけじゃなくても、ちっとでも保身を考える頭のある奴ならやりたがらねぇに決まってる。だからお前みたいな、身分が低くて後ろ盾がない上に保身を考える頭がない奴に押しつけたんだろうが。あの女ともあらかじめ打ち合わせ済みだったんだろうよ。そんなこともわかんねぇで素直に命令受け容れて戻ってきたのかよ、ったくどうしようもねぇなお前は」
「エジーディオさん……そういう言い方は、あまりに……」
「……しょうがねぇだろ。こいつ、こんくらい言わねえとわかりゃ」
「………なんだ。そうだったのか……よかった」
『はぁっ?』
 声を揃えたエジーディオとジャスパーに、アダルバートは微笑んだ。
「だって、それなら少なくとも、エマさんはそれが一番俺が役に立つ方法だと思ったっていうことだろう? そうじゃなかったら、いくら他の人たちに勧められたって俺を役に就けるわけがないし」
「……お前、本気で言ってんのか。今、俺は、このままだとお前が死ぬ、ってはっきり言ってんだぞ?」
「ああ。だから、よかったって思うんだ。俺は元から、たぶん、俺は大魔王との戦からは生きて戻れないだろうって思ってたから。だから、最後の戦いだから、自分の力をすべて最後の一滴まで絞り出して役に立って死にたいって思ってたから、それがかなえられて、よかったな、ってさ」
『…………』
 エジーディオとジャスパーは顔を見合わせて、それから小さく苦笑した。
「……ったく。まぁ、たぶんそんなようなことを言うだろうとは思ってたけどよ。お前って、っとに、最後の最後まで変わんねえなぁ」
「いいではないですか。自分を貫き通すことができるというのはすばらしいことです。神もご祝福してくださいますよ」
「お前もっとに最後まで変わんねえなぁ。最後に見るのがこんな奴らの顔たぁ、色気がねぇったらありゃしねえ」
「それは申し訳ありません……が、エジーディオさんがずいぶん嬉しそうに見受けられるのは私の気のせいでしょうか?」
「てめぇも嬉しそうだぞ、本気で人生終わるってのによ」
「それは……まぁ、私も最後まで自分を貫けたという意味では人生に満足していますので」
「え……どういう、ことだ?」
 二人はアダルバートの方を向いて、それぞれの表情で笑みを浮かべてみせる。
「お前が先遣隊の指揮官ってことは、俺らもその先遣隊に加わるってこと理解してねえのか、お前?」
「そして……くちはばったい言い方になってしまいますが、私たちも大魔王との戦いで死に逝くだろうことを理解して、そして受け容れている、ということですよ」
「! なっ……お前ら、なに言ってるんだっ!? 正気か!? 本気で生きて帰れない戦いに挑むつもりだっていうのか!?」
 アダルバートが仰天して、反射的に口走ってしまったそんな、自分の言ったことを理解していないかのような言葉に二人はまた苦笑した。
「お前に言われたくねぇなぁ。っつーか、そもそも俺らはお前の隊に所属してるんだからお前が指揮を取る以上」
「大魔王との戦いでは既存の軍制は使わない! 完全に志願制で……」
「あ、そうなんですか。……まぁ、どちらにしても、先遣隊に加わるのは変わりませんが」
「っ……なんでだ! お前たちが死ぬ必要なんてないだろうっ、いや、むしろお前たちはそんなところで死んじゃいけない人間だ! 戦いのあとの世界を導くために必要な」
「それを言いたいのは俺たちの方なんだがねー」
「我々も、あなたが自分の身を省みずエマさまに滅私奉公するのは辛かったし、最後まで当然のように死に逝こうとしているのは悲しかったのですよ?」
「っ、それ、は………」
「それでも……我々は、あなたがそういう自分の生き方を、誇りを持って貫こうとしているのを知っていますし、それを……尊敬、というのとは少し違うかもしれませんが、大したことだと思っています。そして、それに最後までつきあうことができるということに、喜びすら感じているのですよ。あなたとエジーディオさんは、私にとって無二の仲間です。そう信じたことを裏切らずに貫き通すことができるというのは、魔王征伐の軍に参加するまで、ただ祈ることだけしかしてこなかった私にとっては、この上なく誇らしいことですから」
「ジャス、パー……」
 そう言って微笑むジャスパーの顔は穏やかで、そして確かに心からの誇らしさに満ちていた。自らの生き様を最後まで貫き通そうとしている人間の、女性もそういった顔をすることはあるだろうにこういう言い方をしていいかどうかはわからないが、男らしい、凛とした笑顔だった。
 それを見て言葉に詰まったアダルバートに、エジーディオはふんと鼻を鳴らしてぱぁん! と背中を叩いてきた。「ってぇっ……」と思わず恨みがましげに見つめてしまうアダルバートに、からかうように言ってくる。
「ま、お前の馬鹿さ加減は最初っから最後まで全然変わんなかったし、そんな馬鹿に最後までつきあう俺らも相当の馬鹿だと思うけどよ。俺らはまぁ満足してやってんだから、お前が気にするこっちゃねえんだよ」
「……エジーディオ」
「俺らはお前につきあってただけだったが、それでもここまで来れた。最後の戦いまでやってくることができた。それを……まぁ、なんだ……てめぇでてめぇを褒めてやりたいっつーように思えるっつーのは、まぁ、その……嬉しい、っつー気がしないでもねーし。だからよ」
 ひょいと手を伸ばして、アダルバートの頭をくしゃりとかき回す。手を伸ばさなければならないのは、アダルバートがエジーディオの背をずいぶんと追い越してしまったからだ。それだけの時間が流れ、経験を積んだ。その間、こいつらは――アダルバートの仲間たちは、ずっとそばにいてくれたのだ。辛い時も、死にそうな時も、共に血を流し涙を流し――嬉しい時に、共に喜びを感じもして。
「俺は、お前に感謝してるぜ。……お前と一緒にやってきて、よかったな、ってよ」
「…………っ」
 アダルバートは、自分の目が潤むのを感じていた。自分に、敵のものも仲間のものも飽きるほど血を流してきた自分にそんな、少女のような感受性があろうとは自身思ってもいなかったのに。
「っ……なーに泣いてんだよバーカ、いい年こいてよ」
「エジーディオ……あなたの瞳も潤んでいますよ」
「なっ……」
「エジーディオ……ジャスパー」
 アダルバートは腕を伸ばし、そっと二人の仲間の肩を抱き、頭を下げた。まともに顔が見られなかった。恥ずかしかったし、照れくさかったし、なにより顔を見たら感情が抑えきれなくなってしまいそうで怖かったのだ。
「ありがとう。ありがとう……本当に」
 そう言って深々と頭を下げたアダルバートに、エジーディオとジャスパーは、あるいは震える手で荒々しく、あるいは熱い手で優しく、肩を抱き返してくれた。
 こんな仲間がいる自分は幸せ者だとアダルバートは思った。死ぬまでにこんな幸せを感じることができる人間は、今の世の中そういないだろう。
 ――だからこそ、大魔王との戦いで死んでも、その死は決して不幸ではないと、そう思ったのだ。

 そこは、闇に満たされていた。どこまでも続くように見える、暗黒に満たされた広間。自分たちはもちろんカンテラやレミーラの光で周囲を照らしていたのだが、それでもこの広間の暗黒を破ることはかなわなかった。というより、広間中にたいまつが掲げられ、ぽつぽつと炎の明かりが輝いているのが見えるのだが、それでもこの広間の黒々とした闇≠ニいう印象を変えることはできていなかったのだ。
 もしかすると、そういった印象を与えるよう術を付与しているのかもしれない。そもそも魔族ならばみんな闇を我が物とし見通す力を持っているのだ、わざわざたいまつを掲げているというのは自分たち人間に対する挑発行為としか思えない。
 そんな広間に、ふと、輝くものが見えた。
 明かりの輝きではない。闇の中に、周囲の闇よりなお暗く、黒いなにかが自己を主張したように見えたのだ。
 剣を構える自分たちに、す、す、とそのなにかは近づいてくる。どこまでも続くように見える広間いっぱいに広がるような、アダルバートを十人分重ねてもまだ足りないほど巨大な、闇の凝集体のようななにかは、台座の上に立った自分たちの前まで近づいてきた、と思うやその姿を自分たちにも見えるように表してみせた。
「勇者が参ったか、と思うて来てみれば……有象無象の雑魚どもが、群れてここまで入り込んでくるとは」
 圧倒的な存在感を周囲に振りまくそれ≠ヘ、自分たちを見るや小さく舌打ちをしてくるりと背を向けた。
「我が生贄となる価値があるは、真の勇者たる者のみ。このような小蝿ども、我が前に姿を見せること自体不敬であるというに……臆したか、勇者め」
「貴様っ! エマさまを侮辱するなど……許さんぞっ!」
 自分の隣の若い戦士が激昂して、それ≠ノ剣を突きつける――も、それ≠ヘこちらに対する興味をまるっきり失ったようにすぅっと背を向けたまま闇の中に消えていく。戦士は「逃がすか!」と叫んで台座より降りそれ≠追いかける――が、アダルバートは叫んでいた。
「退がれっ! 闇の中に、なにかいるぞっ!」
「え」
 それとほぼ同時に、闇の中からすさまじい勢いでなにかが突進してきた、と思うや戦士を一噛みで仕留め、すいっと退いて闇の中で咀嚼する。ばきっぼりっぐしゃっ、と何度も何度も聞いた魔物が人を喰う時の音が聞こえてきた。
「っ……魚鱗陣形を組めっ! まずは先頭の隊で敵の攻撃を受け止めるっ!」
『はっ!』
 周囲の兵たちが返事をし、伝令兵が他の隊に命令を伝えようと走る。それを認識するより早く、アダルバートは剣を構えて台座から降り、一歩を踏み出した。とたん、さっきと同じように自分の体よりも大きいなにかが突進してきて、大きく口を開けて自分を押し包もうとする。
 それをバスタードソードで上に受け流し、生まれた隙を狙って突き刺そうとする。が、自分に生まれた隙を狙って別のものが自分に襲いかかってきた。それをエジーディオがグリンガムの鞭を使ってあるいは弾き、あるいは絡め取る。
 そうして間近で見て、自分たちに襲いかかってきたのは竜頭だ、とアダルバートは知った。ヤマタノオロチ級に巨大な竜頭。それらは大きく身をよじってエジーディオの束縛から抜け出し、ずぅいっ、と闇の中からその巨大な体躯を見せてきた。
 ひょっとしたらヤマタノオロチよりも巨大かもしれないその竜は、口の一つから血を――今も貪り食っている仲間の兵士の血をこぼしながら笑った。
『小蝿どもよ、我が名はキングヒドラ。ゾーマさまの御前を穢した罪、思い知るがいい』
 アダルバートは無言でキングヒドラに向き直った。こういう時にしゃれた言葉が出てくる質ではないし、なにより敵と、仲間を殺した敵とお喋りする趣味はない。
 その代わりに、キングヒドラを睨みつけたまま仲間たちに叫んだ。
「全員、いつも通りのやり方でいけっ! ゾーマ征伐の前哨戦だぞ!」
『はっ!』
 恐怖や狂乱を滲ませながらも戻ってくる声に小さくうなずいて、アダルバートは力を込めて一歩を踏み出した。

「ゾーマっ!」
 アダルバートは荒い息をつきながらも、巨大な広間の最奥――ゾーマの立っている前に立ち、怒鳴り声を叩きつけた。
「覚悟っ!」
 言うやゾーマに向かい走り出す――や、足を止めさせられた。ゾーマが鬱陶しげに自分を見つめるや、足が突然麻痺して動かなくなったのだ。
「っ……キアリクをっ!」
「はっ!」
 自分の隊にいる僧侶は(もっとも厳しい場所を受け持つが故に)何度も変わったが、そのせいもありキアリク程度の魔力は残っている。即座に自分のところに駆け寄って解放の呪文を唱え始める――が、隊全体の足が止まった暫時に、ゾーマはすぅい、とこちらを向いて口を開いていた。
「人の子よ。なにゆえもがき、生きるのだ? どれほど抗おうとも、人の子として生まれたならば滅びはけして避けられぬもの。戦いの果てに高位魔族を倒すほどの力を得ようとも、少しばかりの人間を従えるだけの地位を得ようとも、いずれは土に帰るが人の子の定め。血を流し、肉を裂かれ、苦しみもがきながら戦って、なんの意味がある?」
「…………!」
 ずんっ、と体が一気に重くなるのを感じ、アダルバートは唇を噛んだ。これはゾーマの術かなにかか。ゾーマの言葉が、重石のように体に絡みついているのを感じる。自分を麻痺させた時のように、自分たちの動きを封じて思うさま嬲ろうという腹だろう。
 どうすれば解除できるのか、それはかいもくわからなかったが、今自分がすべきことは当然わかっている。アダルバートは一歩前に進み出て、落ち着いた声を、腹の底から出して告げた。
「俺たちがいずれ土に帰ろうとも、今この時、俺たちは間違いなく生きている。ならば死力を振り絞ってでも生き抜くのが人の子として生まれたものの務め。たとえそれが苦しみもがくことにすぎなかろうとも、自身の大切なもののために生き、戦う、人の子としてこれほどの幸福は他にない!」
『……うおぉぉぉっ!!!』
「いくぞ、ゾーマ! 俺たちの降魔の利剣、受けてみろ!」
 とにかく隊長として士気を下げぬようにしなければならない、と思い発したアダルバートの言葉が功を奏したのか、それともゾーマが術を解いたのか、ふぅっと体が軽くなる。士気が溢れんばかりに盛り上がっている仲間たちを背に、アダルバートはゾーマへと突撃した。とにかく隊長として、ゾーマとなんとかして打ち合い、仲間たちに勝てると思わせなければならない。
 が、自分を十人縦に並べたよりもまだ背の高い大魔王ゾーマは、ふ、とため息をつくように息を吐いてから、すっと手を上げた。一瞬手の先が輝いた、と思うや、蒼く白いなにかが猛烈な勢いで吹きつけてくる。
「っ! こ、れ、はっ……」
 それは吹雪だった。自分たちの体を冷やし、凍らせ、打ち砕く吹雪。それが一瞬のうちに広間を満たし、自分たちの体に絡みついてくる。
 吹雪を右手から発しながら、ゾーマは左手を上げた。その指先の空間に、ふわんと、蒼い穴のようなものが開く。旅の扉に似ている、と思うより早く、その穴はぶわわわ、と数を増やし、いくつもの映像を映し出した。何百、何千と並んでいるように見える武装した人、人、人。そして整然と並べられた武器に防具に攻城兵器。それが、自分たちの後方で陣を組んでいる、レージェンシー勇者軍の面々の姿だ――と思い至った時アダルバートは思わず叫んでいた。
「貴様! やめ――」
「すべての命の動きが止まる、零の世界を味わうがよい」
 言うや、ゾーマの右手からさらなる強烈な吹雪が蒼い穴の向こうにまで吹き荒れる。
 蒼い穴の向こうにいる者たちは、あっという間にすべて凍りつき――死んだ。

「………………!!!」
「愚かな……魔王を倒すに大軍を使うこと自体愚昧と言うも馬鹿馬鹿しい戯けた仕業だというに。我は大魔王ゾーマ、闇と破壊は我が道具、自在に創り、無限に湧き出させるもの。それを知ろうともせず大軍をもって我が城を攻めるとは……呆れ果てたわ」
 やれやれ、と言いたげに首を振ってから、ゾーマはこちらに向き直った。そして、わざとらしく目を見開いて、ぱちぱちと手を叩いてみせた。
「おお、これはこれは、大したものだ。我が凍える吹雪を喰らっておきながらまだ生きておるものが三人もいようとは。大したものだ、誇ってよいぞ、そなたらは人として最も強いと言われるべき段階にいる。まぁ――」
 すぅっ、とゾーマの体が動いた。最初に姿を現した時と同じ、滑るような動きでこちらにその鋭い爪を振り下ろしてくる。
「我に殺されるという結末に変わりはないがな」
「がっ……!!」
 ゾーマの一撃を防ぎそこね、アダルバートは大きく吹っ飛んだ。ジャスパーの声が「アダルバートさんっ!」と叫んで、エジーディオの声が「てめぇっ……!」と憎悪を込めた声で叫ぶと同時に空を斬る音が聞こえたが、それもまたすぐに静かになる。
 激痛と、衝撃で今にも崩れそうなほどくらくらする頭の中で、アダルバートは呆然と思っていた。エジーディオと、ジャスパーも、殺されたのだろうか。自分の仲間はみんな、殺されたのだろうか。あの穴の向こうに映っていたように。さっき自分の目の前で次々仲間が凍りついていった、あの光景のように。
 穴の向こうで次々軍の仲間が凍りついて行ったように、エマも、殺されたのだろうか。
 そんな思考が頭をよぎるや、アダルバートの心臓は一瞬で凍りついたように冷えた。そんなこと、一度も考えたことがなかった。エマが、あの強く美しい人が自分より先に死ぬなんて。あの人は、いつも自分の手の届かない場所で、美しく微笑んでいるようにしか思えなかったのに。あの人に自分の感じるような不幸が、痛みが、苦しみが、たとえば死が、訪れるようなことがありえるわけがないと思っていたのに。
 だって、自分には、あの人はお姫様にしか見えなかったから。自分よりはるかに立派な人々に囲まれ、自分にはとても登れない高みで、周囲のすべてに護られた場所で優しく笑っているべき人にしか見えなかったのだから。
 あの人がどんなことを考えながら周囲の人を動かしているか知っても。どんなことをしてその世界を造っているか知っても。どれだけ大きく重く、普通なら耐えられないような秘密を抱えているか知っても。
 だって、あの人は。自分には。そのすべてに苦しみ、心の底から悲しんで。
 それなのに、はるか彼方を見つめて、前に進んでいるように思えたのだ。世界中の意志と意見をまとめる苦労を背負い、兵士たちを動かし死地に追いやる苦痛に耐えながら、それでも、世界を救おうとしていると。
 自分にはできない、たどりつけない高い場所で、選ばれた人にしか揮えない力をもって、世界を動かすあの人の、せめてもの助けに、少しでも慰めに、できるなら力になりたいと、そう―――
「………む?」
「………っ………!」
 全身の力を振り絞って、アダルバートは立ち上がった。ゾーマの強烈な一撃を喰らい、あばらは数本は折れていたし大腿骨はたぶんひびが入っているし場合によっては脊柱にも傷が入っているかもしれない。
 だがそれでも、今この時に立ち上がらなければ、たぶん自分は生まれてきた意味も価値もなくす。
「人間にしては、丈夫なようだが……それでも、それ以上ろくに動けぬことには変わりない。それどころか、その体でそれ以上動けば一生まともに身体を動かせぬような傷を負うだろうし、なによりその体で剣を振るったところで我にろくに傷もつけられぬだろう。それはお前もわかっているだろうに、なぜ激痛に耐えながら立ち上がる?」
「っ……自分の、ため。そして、あの、人の、ため」
「ほう……?」
 この期に及んでも、愛する人≠ニしてエマの名を挙げるのには抵抗があった。自分の気持ちはどこまでいっても自分勝手な押しつけにしかならないとわかっている、それにエマにはまるで相手にされていないというのにまるで自分のもののように名前を使うなど不遜にもほどがあるし、なにより自分は今エマへの、愛≠ニ呼ばれるのだろう想いのために戦おうとしているわけではない。
 ただ、自分は。
 体中の骨が激痛を主張していたが、それを無視して剣を握り、奥歯を思いきり噛み締めて振り上げる。それだけで体中が砕けそうなほど軋んだが、それも無視して一歩を踏み出す。
「あの人に、恥じるような、真似は、できない。絶対に。俺は、自分の命を、あの人のために使いたいと、もう、とうに、決めたのだから」
「ほう。だがそのあの人≠ニやらはまだ生きておるのか? この戦についてきてはおらぬにしても、いずれは我の力で滅び、死に逝くことには違いあるまいに」
「……そんなことは、関係ない」
 エマが死んだのかどうかは、わからない。勇者軍が吹雪に包まれたのは見えたが、エマの死んだところを見たわけではない。人間とは思えないほど強い魔力を持つエマならば生き延びている可能性が高いとは思う、だがはっきりそう言い切れるわけではない。
 だがそんなこととは無関係に、自分はここで、ただ倒れたまま死に逝くわけにはいかないのだ。ゾーマが倒せようが倒せなかろうが、死力を振り絞ってゾーマと、敵と、戦わないわけにはいかない。
 そうでなければ、自分の人生が、エマへの想いが、嘘に、その程度のものだということになってしまう。
 死んだ仲間たちの仇を討つなどというおこがましい真似は自分にはできない。それを言うなら魔物たちの方だって自分たちに恨みを持っているだろう。
 世界を救うために戦うなどという資格は自分にはない。力も意志も自分にはあまりに足りない。苦しんでいる人を救いたいという想いも願いも、そのために能動的に人生を捧げることができるほど鮮烈ではない。世界を救うための軍隊に所属している一人だからこそ、そのために全力を尽くすことができるだけなのだ。
 エマのために戦うのだ、と考えていた時もあった。自分はあの人のために、あの人への愛と呼ばれるだろう想いのために戦うのだと。だが違う。それも違う。自分はあの人が、もし自分を愛してくれたらと思うとたまらなく泣きたい気持ちになるけれど、自分を愛してくれることが本当にあるなどとは一度も考えたことがなかった。自分にとってあの人は、天より高い場所に輝く仰ぎ見るべき人、自分にはとても手の届かない場所で微笑む高貴な姫君だった。自分とは世界の違う人だと、当然のように認識していたのだ。
 けれど、それでも。自分はあの人への想いのためにアリアハンから軍に参加し、ここまでずっと戦ってきた。それは自分のただひとつともいえる誇りで誉れだ。自分をそこまで動かした感情は。あの人に向けられた心は、それは。
「あの人の、力になりたいと、俺は、そう、思った」
「ほう?」
「あの人の、苦しみを、やわらげてあげられる。助けになれる人に、なりたいと、思った……そのためなら、なんだって、したいと、思った……俺にとって、あの人は、世界の……誰より、なにより、恋しい存在、だから……」
 ゾーマは一瞬、わずかではあるが目を見開いた。それから大声で笑いだす。
「恋しい!? 恋しいと! そのような心のために戦うというのか、貴様は! くはははっ、ここまでの大たわけは我も見たことがないわ! 人の子の戦う理由などどれもこれもくだらぬ、愚かしいものではあるが、これはまさにとびきりよな!」
 ゾーマに嘲笑されながら、アダルバートは小さく笑みを漏らす。自分が戦う理由が、世間一般から見て馬鹿馬鹿しいものだということは自分でよくわかっていた。
 自分はあの人への愛のために戦うのではない。あの人への恋のために戦うのだ。あの人の美点が愛おしいからでも、あの人の傷を慈しみたいからでもなく、あの人への憧れと、思い込みと、一方的な恋情のために。
 アダルバートは最初から、想いを通じさせようと考えていなかった。エマのことを知ろうと行動を起こさなかった。相手をよく知りもしないのに、互いの気持ちが通じていないのに、愛など生まれるわけがない。
 あの人にとっては、自分などいくらでも取り替えの利く手足の一つでしかなかっただろう。そんな想いにアダルバートは苦しみもした、だがエマをもし本当に想うのであれば、なんとしてでも彼女の心に近づくべきだったのだ。話し相手としてでもなんでも、エマと向き合う相手としてエマの世界に浮き上がるべきだった。そうでなければ、エマも、自分を知りようもなく、自分の人生には影響のないその他大勢としてしか扱いようがないのだから。
 自分は結局、あの人を愛することができてはいなかった。あの人を心のある、ものを食べ、汗をかき、屁をひり糞をひる、この世界に存在する当たり前のように生れ落ち死んでいく人間だと見ることができていなかったのだ。自分が見ていたのはあの人の幻想、聖女のものであれ悪女のものであれ、あの人が周囲に見せようとしていた美しい顔だけだった。
 それなのに自分はあの人にひたすらに憧れ、その一挙一動に一喜一憂してきた。幻想と思い込みに流されてきた。ひたすらにあの人に盲従し、心を気遣うことを考え始めたことすらここ最近になってからでしかない。あの人を愛しているなどと、とうてい言えたものではない。
 だから。そんなものだけを見つめて、ここまでやってきた愚か者だからこそ。
「あの人に恋をしてるから、俺は、あの人のために、なんでもする。あの人は、俺に、先遣隊となって、戦えと、言った。だから、俺は、命も、魂も、懸けて……っ、あんたと、戦う!」
「くはははっ! 笑わせてくれるわ、そのような姿で! 我に一太刀浴びせることもできぬ分際でよう吠えた!」
 ゾーマは高らかに嘲笑するが、アダルバートはもはや取り合わずにゾーマまでの距離を駆けた。これまでの会話で呼吸は整えた、足の骨が折れていようがなんだろうが数歩駆けることはできる、ならば全力で剣を振るうのみ!
「……っはぁあっ!」
「ふっ! 小蝿がっ!」
 ゾーマは余裕をもって自分と向き合い、今度こそ仕留めようというのだろう、両手に魔力を宿らせながら腕を高々と掲げ、ずんっと一歩を踏み出す――
 その胸から、ぞぶりっ、と音を立てて肉の槍が突き出た。
「………え」
「が……ぶっ!?」
 ゾーマは愕然を絵に描いたような顔でがくり、と膝をついた。大魔王であろうとも、胸のど真ん中に風穴を空けられたのは相当な衝撃だったのだろう。
 そのゾーマの胸を、背中からずっぷりと貫いていた巨大な肉の槍――生々しく蠢く醜い肉の塊でしかないのに、大魔王の胸を貫くほどの鋭さを見せた先端のとがった触手は、ゾーマを貫いたままではいなかった。ぞぶ、ぞぶぶっ、と気色の悪い音を立てて少しずつゾーマの体を侵食していく。ゾーマの体を喰っているのだ、と気づき、強烈な生理的嫌悪感にざっと背筋から血の気が引いた。
「馬鹿なっ……なんだ、これはっ……力が、抜けるっ……!」
「――あまり抵抗しない方がいいわよ? 苦しみが長引くだけだわ。それは魔族を――精神生命体を喰らう呪術生物。いかにあなたが大魔王という名を冠されていようと、二十年以上強烈な呪術を絶えずかけられて育てられてきたその肉の食欲に、抵抗できるようには見えないから」
「! エマさ――」
 広間に響いたエマの、ふだんと変わらぬ涼やかで艶やかで、震えがくるほどに雅やかな声に、アダルバートは顔中に喜色をむき出しにして声のした方を向き――そして硬直した。そこに立っていたのは確かにエマだったが、少なくともこれまでのエマではなかったからだ。
 そこに見えたのは、むしろ肉の塊だった。エマの細く、白く、美しい、指の先までこの上なく優雅な曲線を描いていた腕は、すでにエマ自身の体よりも大きな肉瘤に変わっていた。びち、びちと肉が盛り上がっては弾け、その下層にある肉に呑み込まれていく、聞くに堪えない音が絶えず発せられている肉塊。そこからは何本もの触手が無秩序に生え、伸び、時には腐れ落ちるが、たいていは自身と自分を生やしている肉塊を喰らって瘤に呑み込まれるという行為を繰り返している。
 その肉瘤を、肌を剥がし剥き出しにされた筋肉自体が泡立つようにして増殖し周囲を喰らっている肉塊を、エマ自身をじわじわと浸食され、寸秒ごとにその美しい肉体を醜い肉の塊に変えられながら、エマはゾーマの背後から、ゾーマに向けて突き出していた。そしてその肉塊から、一本の触手が伸びて、ゾーマの胸を背後から貫いている。
「馬鹿なっ……なんだ、これはっ……こんなものがっ……」
「私の肉体よ。胎児の段階から魔族を含む強い魔力を持つ霊体と魂を結合させた呪物、それを二十年間押さえ込んできた代物。異常なまでに強い混沌を内包するものを制御下から解放すれば、混沌を注ぎ込む先――絶えず消滅し混沌へ帰ることを志向する魔族の肉体へ向かい、喰らう。こんな風にね」
 言うや肉塊からさらに何本もの触手が生えてゾーマの体を突き刺す。肩を、足を、喉を貫かれ喰らわれて、ゾーマは「ぐぶぅ……!」と悲鳴のような呻き声を上げた。
「もちろんそれだけで大魔王たるあなたを喰らい尽くせるとは思っていないわ。けれど、今の私の肉体は大量の命と魂を喰らって不安定この上ない状態なの。いうなれば混沌の飽和状態、膨大な力を吐き出したくてたまらない段階。魔族はそれを安定させてくれるこの上ない餌。やみくもに解放すれば島ひとつ、下手をすれば大陸やひとつの世界すらも呑み込めてしまうほどの爆発的な混沌の凝集体ですもの、目の前に魔族が、それも大魔王と呼ばれるほどの強い力を持つ魔族がいればそれは喰らわずにはいられないでしょうね」
 言いながらも何本も、何十本何百本もの触手が、解き放たれた矢よりも速くゾーマに食らいつき、浸食する。腹が、足が、腰が、胸が、腕が、喉が、首が、顔が。生理的嫌悪感をこの上なく掻き立てる醜く脈動する肉の塊に喰らわれる。ゾーマは「げぶ! がぶ!」としばし悲鳴を上げていたが、すぐになにも言えなくなった。口も、舌も、喉も、そのすべてが肉の槍に呑み込まれたからだ。
 ゾーマを貫いた肉の槍は、ゾーマの体を喰らい、浸食し、自分たちの中へ取り込んでいく。そしてさらにお互いを喰らいあい、さらにどんどんと巨大な肉塊へと変わっていく。
 エマの体もどんどんと喰らわれていった。腕だけでなく、あの豊満なのに清らかさすら感じさせる芸術的なまでに美しい胸も、黄金律としか言いようのない見事な曲線を描く腰回りも、肌も、肉も、骨も、すべてが弾け、触手を生やし、増殖する醜い肉の塊に変わる。
 その光景を呆然と眺めながら、アダルバートが口にしたのは、こんな場違いな一言だった。
「命と魂を、喰らう……?」
 その声を聞いたのか、エマはアダルバートの方をちらりと見て、淡々と告げる。
「そうよ。私はこの戦いの前に、軍に参加した人間一人一人に呪術を施していた。死ねば、その命と魂を散華させることなくすべて私の力へと変えるよう。悪魔族と呼ばれる連中もよく使う、ありふれた呪術だけれど、かけるためには形だけでも本人の許諾が必要になる。そのためには私に対する崇拝は、ずいぶんと役に立ったわ」
「―――………」
「けれど当然、何人もの人間の魂を力とするためにはそれだけの器がなければならない。普通の人間にはそれだけの容量はない。でも、都合のいいことに、胎児の段階から何体もの霊体と結合させられ、何年も生きながらえた人間の肉体というのは、それだけの容量を有するのよ。呪物としてね。そして何千、何万という人間の魂を集めれば、天に上ろうとして暴れ出し、世界をひずませ、混沌を産む。生み出された混沌は注ぎ込む先、魔族の肉体に襲いかかり、喰らう――単純な話だけれど、それらすべてを問題なくこなすにはそれなりに技術が必要だったわ」
 呟くように告げてから、ふ、と宙を見上げ言う。その顔にも、少しずつ肉瘤が浸食を始めていた。
「なるほど、一度純粋精神体になって逃げようというわけね。大魔王ともあろうものが情けない話だけれど――その程度のことは予想済みだわ」
 言ってエマはすい、と手を上げる――その直前に、アダルバートは思わず叫んでいた。
「エマさんっ!」
「…………」
 エマはちろり、とアダルバートを横目で見つめてから、また中空に視線を戻す。だがアダルバートはその仕草を無視して叫んでいた。魔法のことも、呪術のことも、自分にはまるで知識はない。けれども。
「やめてください、エマさん! そんな――そんな状態で魔法を使う気ですか!?」
「当たり前でしょう? 純粋精神体になった魔族に干渉できるのは、この世の理を越えた力、魔法によるものだけ。向こうもほとんどこちらには干渉できなくなるけれど、そのまま放っておけば逃がしてしまうのよ? これだけの犠牲を払っておいて逃がすなんて愚の骨頂、ここで全力をもって倒さなければ」
「だけどその代わりにあなたの身体は崩壊してしまうんでしょう!?」
 一瞬、エマの顔から表情が消えたように見えた。けれどアダルバートはそんなことなど気にも留めず、必死に叫び、願う。
「あなたは以前そう言っていた! 魔力を使えば使うほどあなたの魂に結び付けられた霊体たちは暴走するって! そんな、今のそんな状態で大魔王を倒すような魔法を使えば、あなたの体は」
「――崩壊するでしょうね。それが?」
 冷静この上ないように見える表情で、当然のように言われ、アダルバートは二の句が継げなくなった。
「そ、れが……って」
「私は大魔王を倒せと使命を与えられて、今それを果たそうとしているわ。そのために世界中の兵士たちをこのアレフガルドに連れてきたし、そのすべてを意図的に見捨て、魂を私に捧げさせもした。総勢四万五千七百二十一人、そのすべての命を吸った甲斐あって今の私の魔力は魔族と比してすらありえない段階にまで高まっている。これだけの代価を払っておきながら、今大魔王を倒さずにどうするというの?」
「……っだけど! だけどこのままじゃあなたが……あなたが、あの、ラーの鏡で見たような……っ」
 いや、今ですらもうほとんどなりかかっている。肉瘤はもうエマの体をほとんど浸食しかけていた。腕も、足も、腰も、胸も、腹も、世界の誰より美しく麗しいと賛されたエマの体が、腐った死体よりなお吐き気を催させるような、醜く気色の悪い肉の塊に変わりかけているのだ。
 もう取り返しがつかない泉路への一歩をエマは踏み出したのではないか、どこかでそう思いながらも、アダルバートはひたすらに叫んだ。認めたくないし受け容れられなかった。そんなことがあるはずがない――いや、あっていいわけがないと腹の底から溶岩のような感情が噴き出して止まらなかったのだ。
「あなたがこのまま、こんなところでいなくなるなんて、そんなのは間違ってる……! あなたは世界をまとめて魔王軍に立ち向かわせた勇者だ、ちゃんと報いが、誰より苦労した分幸せになる権利が、あなたには」
「権利や正当性で言うなら、魔王軍と戦って命を落としていい人間こそ存在しなかったはずよ。自ら命を懸け、血を流して戦った人間が無残な最期を遂げ、魂も私に喰らわれてしまうなんて、そんなことがあっていいはずがないのに。私だけが特別扱いされる理由がどこにあるの?」
「だけどっ……!」
「それになにより――もう遅いわ」
「え」
 エマがすっと手を上げるや、どおおおおぉぉぉおぉんっ!!! というすさまじい轟音を立てて雷が天から降り注いだ。大魔王の城というのにふさわしい豪奢で堅牢な天井を、床を、柱を、空間に存在するすべてを、人間を何十人も束ねたよりもなお太い雷が何十本も降り注ぎ、打ち砕き、焼き払っていく。
 なのにアダルバートには微塵も傷を与えない。魔法の雷だ、といやでもわかった。
「この広間にやってくる前から、とうに罠は仕掛けておいたのよ。ゾーマが精神体になって逃走しようとした場合、網となってその足を止め、破ろうとしたならば轟雷をもって罰するという結界を。そのために必要な魔力は、私の体から自動的に供給される――」
「エ――エマさん………!!!」
 アダルバートはエマに駆け寄った。エマの体が、すさまじい早さで崩壊しようとしていたからだ。
 わずかに残っていた部分が、最後まできれいで、艶麗で、この段階ですら清らかささえ感じさせていた顔が、醜い肉塊に呑み込まれていく。周囲と自らを互いに喰らいあう触手と、何本も何十本も無駄に無意味に生えて触手同様にあちらこちらに生えた口で自他を喰らう腕や脚や人の体の一部分と、時に弾け時にその肉を喰らいひたすらに増殖を続ける肉瘤の塊に。吐き気がするほど気色が悪く、生理的嫌悪感を起こさせる、肉塊に。
「エマさん! エマさん! エマさん! エマさん!」
「騒々しいわね。耳が痛くなるから、やめてもらえるかしら。最期の時だというのに、こんな聞き苦しい声を聞きながら死にたくはないのだけれど」
「だって……だって………!! エマさんが、こんな、エマさんが………!!!」
 こんな時なのに、その美しい顎もほとんど肉に呑み込まれてしまっているというのに、いつもと同じ冷ややかな眼差しでエマはアダルバートを見たが、アダルバートはそれでも必死に泣き喚き続けた。だって、失われてしまうのだ。エマが、その美しさが、心が体が魂が。だというのに冷静でいられるわけがない、いたくはない。
 そんなアダルバートをエマは冷たい眼差しで見つめてから、すい、と視線を宙に逸らしてこんなことを告げた。
「泣く必要はないわ。私の人生の価値は、これにしかないのだから」
「な……そんな、そんな、価値って………!」
「どれだけ美しさを賛されようと、どれだけ優秀な能力を示そうと、私の行きつく先は魂が崩壊して肉塊になるしかない。そう決まっていたのよ。私がこの世に生まれる前から」
「そんな、そんな、そんな、ことを……!」
「――だから……だったら、せめて、自分に課されたことを、人のためになることをして死にたかったの」
「……え」
 アダルバートは一瞬呆けて、エマをまじまじと見つめてしまった。エマは、その顔がどんどんと肉に埋もれてきているというのに、平然と、むしろ淡々とした顔で言葉を重ねてゆく。
「みんなを幸せにしたかった。世界を救いたかった。そして、みんなに、世界のみんなに私に価値を認めてもらえることをして死にたかったの。そうでなければ、私が、私の生に、価値を認められなかったから」
「そのためなら、私はなんでもやった。本当に、なんでもやった。あなたも知っているように」
「自分の色香を利用して、何百人という男を手玉に取った。人心を操作して世界中の人間に私を崇めさせた。何千何万何十万と人を集め、そのほとんどを死に追いやった。そしてその魂を捕え、自らの力とした。後悔はしていないわ、どれひとつとして。私にとってそれが一番効率よく目的を遂行できる方法だったのだから」
「だから。私は、そういう女なのだから――私のことは、さっさと、お忘れなさい」
 そうエマはにこりと、優しく、美しく、柔らかく、艶麗に、優雅に、清らかに、淑やかに、雅やかに、いつも人前で浮かべているのと同じたまらなく人を惹きつける、世界の誰より幸福なお姫様のような笑顔を浮かべて、顔のすべてを肉に呑み込ませた。

 深い、深い森の奥。人が誰も来ないような山奥の、さらに深奥、人の目につかないように隠された場所にその庵はあった。幾重にも木々や岩で隠されながらも、建物自体はかなりに大きく、粗野でありながらも住みよいよう心が尽くされているその庵に、今アダルバートは二人で住んでいる。
 仕掛けてあった罠にかかった兎を担ぎながら、アダルバートは家路を急いでいた。自分が食べられる分さえ手に入れられればいいとはいえ、生きている以上それなりの量の食糧は手に入れねばならない。だが、アダルバートは庵を離れるのは好きではなく、基本的に水も食料も住居のそばで手に入れられるような場所を選んでいた。庵に残している人を、人間の目にさらしたくはない。
 と、庵のそばで動いている人間を認め、一瞬血相を変えながら駆け出しかける――が、すぐに表情を苦笑に変え、手を上げた。そこにいるのがエジーディオだということに気がついたからだ。
「エジー!」
「おう」
 エジーディオも手を上げる。アダルバートがこの生活を始めて一年近くになるが、エジーディオとジャスパーはずっと自分たちがこの生活を送る手助けをしてきてくれていた。自分たちが住んでいる庵を建てるのにも手を貸してくれたし、水場が近くにあって人に絶対見つからないなどという都合のいい場所を見つけることができたのも二人の力添えあってのことだ。特にエジーディオは、今でも一ヶ月に一回はなんだかんだと必要になる生活用品や、山の暮らしでは手に入りにくい食料などを持ってこの庵を訪れてくれる。
 本当に、二人には世話になりっぱなしだ。申し訳ないと思うし、心から感謝している――だが、この生活をやめる気は、アダルバートにはさらさらなかった。
「ほれ、これいつもの荷物。前に斧が壊れたっつってただろ、それの予備と、あと針と布もそろそろ必要になるだろ。あと薬な。それと調味料と、あと牛やら豚やら鶏やらの肉も持ってきたぞ、保存食だけど」
「ありがとう。いつも悪いな」
「別に? お前が世話かけるなんざいつものことだろーがよ。……ま、俺としては、いい加減あの女を見限って、放り出してとっとと街に戻ってくるべきだと思うがね」
 そう軽口を叩くエジーディオに、アダルバートはただ微笑みのみを返した。エジーディオは軽い調子を装ったまま、ぺらぺらと口を動かす。
「さっきの動き見た限りじゃそう鈍ってもいねぇみてぇだし? 兵士やら戦士やらの類はまだまだ人手不足まるっきり解消されてねぇし。まーそもそもアレフガルドに残るっつった奴らや勇者軍の兵士どもについてこっちの世界に来た奴らが本気で少ねぇんだから、ラダトーム一個やってくのにも人手不足すぎなんだけどな。まぁなんにせよ人はマジ少ねぇし、防衛線なんてあったもんじゃねぇし、怪我やら病気やらは司祭やってるジャスパーが一手に引き受けてるし、魔物が暴れることがほとんどなくなったからやってけるようなもんで、優秀な戦士の手は喉から手が出るほど欲しいわけよ。あの女が今はどんな格好になってんのか、俺は見たわけじゃねぇから知らないけど、お前があれだけ荒れ狂うような姿になった相手の面倒見て一生棒に振るのはどう考えたって」
「エジー」
 アダルバートが静かに言うと、その底にある刃のような鋭さに気がついたのだろう、エジーディオは口を閉じた。いや、そもそも最初からこの話題を持ち出せばアダルバートが怒りを覚えるだろうことはエジーディオもよくわかっている。それなのに何度もこの話題を、口調とは裏腹に真剣の鋭さを保った瞳で口に出してくるというのは、それだけエジーディオが自分たちを――アダルバートと、エマを心配してくれるからなのだろう、とアダルバートにもよくわかっていた。
 一年前。ゾーマを倒した後。勇者軍数万が潰えた場所であるゾーマの城は、崩れゆこうとしていた。アダルバートはそれに気づきもせず、ひたすらにエマを抱きしめながら荒れ狂っていた。なぜ、なぜ、なぜ。許せない、こんなことがあっていいはずがない、そんな目の前の不条理に対するどうにもならない怒りを、吠え狂うことでしか解消できなかったのだ。
 そんな気休めにかまけている間に、ゾーマの城の崩れ落ちた天井は、自分たちをあっさりと呑み込み、押し潰す――はずだったのだが、自分たちは気づいたら、魔王の爪痕の地割れの前に倒れていた。魔王の爪痕という名前は伊達ではなかったのか、あの洞窟はどうやらゾーマの城と繋がっていたらしい。
 そこでようやくアダルバートは、エジーディオとジャスパーが一緒に傷ついたまま自分たちの近くに倒れているのに気がついたのだ。二人はゾーマに攻撃され倒れたあとでもかろうじて息があったらしい。自分と、ゾーマと、エマの会話もずっと瀕死の状態で聞いていたのだそうだ。
 そこの辺りを聞いたのはしばらく後になってからだが、その時のアダルバートは半ば恐慌状態に陥った。自分たちが生き延びたというだけでも混乱する事態だったが、エマのこの姿を――完全に生理的嫌悪感を催させる肉塊となった姿を見せるわけにはいかない、という想いで頭がいっぱいになってしまったのだ。
 アダルバートはひきずるようにして体を動かし(ゾーマの攻撃で受けた傷はまるで治っていなかったので)、二人に応急処置を施すと、上の階へ引きずっていって叩き起こした。そして半ば脅すようにして、この下にエマがいるのでこの下の階には絶対に入らないこと、自分たちの生存に協力することを誓わせたのだ。仲間に対しそんなことができる自分の醜さと愚かさには本当に嫌になるが、あの時の自分はそれだけエマのことで頭がいっぱいだった。エマを助けなければ、護らなければということしか考えられなかった。そしてそんな自分を、二人の仲間は最後には許してくれたのだ。
 そして、自分とエマは、二人で生きられる場所ができるまで魔王の爪痕で生き延びて、今はこうして、二人きりで誰の目にも触れられない場所で息をひそめながら生き続けている。
「俺は気が狂っている、と思うかい?」
 そうアダルバートが問うと、エジーディオは胡乱げな視線を作ってアダルバートをねめつけた。その中にはっきりと真剣のような鋭さがあるのは、よくわかっていたけれども。
「詩人でも気取る気かよ。てめぇにゃ全然似合ってねぇからやめた方がいいぞ」
「別にいいんだよ、思っていても。俺はエジーディオとジャスパーには本当に世話になったし。気が狂っていると思っていても、俺に本当は嫌悪感を抱いていても気にならないから」
「だから……そういうんじゃ、ねぇって」
「実際、自分でも少し気が狂ってるんじゃないかって思うことがあるんだ。エマさんへの気持ちとか、そういうのじゃなしに……今の俺は、たぶん他人がエマさんの姿を見ようものなら、眉ひとつ動かさずに斬り捨てられると思うから」
「………アドル」
 低くエジーディオが呟く。それが警告なのだということはわかっていたが、アダルバートはにこにこと穏やかな笑みを浮かべながら続けた。
「いや、むしろこの庵に近づいただけで斬り捨てるかもしれないな。そしてその死体を切り刻んで燃やして灰にして、証拠を隠滅したうえで獣に食わせるぐらいのことはむしろ笑いながらやりそうだって自分で思うから。今の俺にとって、人間ってそれくらいどうでもいいものなんだ。不快に思ったら潰してしまっていいと思えるくらい。だって、人間は……今の世界にいるすべての人間は、世界を救うっていう重荷をすべてエマさんに押しつけて、あんな目に遭わせた上でのうのうと生き延びているんだから。正直、できるものなら上の世界に乗り込んでアリアハンやらロマリアやらにいる人間を一人残らず斬り殺したいくらいだよ」
「アドル! やめろ」
「エジー、お前だってわかってるんだろう? 俺がそういう人間だって。ジャスだってとうにわかってるから、そして嫌悪と忌避感を感じたからこの庵にはまるで近寄らなく」
「………アドル………!」
 呻くように愛称を呼ばれ、アダルバートは口を閉じた。言ってから後悔するのはわかっているんだから言わなければいいのに、とは自分でも思うが、今では事実上この庵に立ち寄るただ一人の人間であるエジーディオには、口を開くといつもこんな風に感情をぶつけてしまう。今ではエマ以外に誰と話すということもなくなって、人と接することに飢えているというわけではないだろうが、人間に対する憤懣と憎悪をエジーディオに八つ当たりしてしまっているのだ。人間を、エマに世界を救わせておきながらのうのうと生き延びている人間を、アダルバートが心底怒り、憎み、軽蔑しているのは間違いないことだが、エジーディオに当たりたいわけでは、決してないというのに。
「……ごめん、エジー。お前にはいつも……世話になりっぱなしで。感謝してるのに……本当に……」
「わかってるよ。わかってるから……無理になんか言おうとしないでいい」
 呟くような声で小さく返してから、エジーディオはふいと彼方を見つめた。この庵の周辺は通う人もまるでない原生林、木々が結集してろくに景色も見えない。なによりその仕草から滲む雰囲気だけで、アダルバートにはエジーディオが言いにくいことを言おうとしているのだ、ということがわかった。
「俺には、お前が狂ってるようには見えねぇよ。いや、本当には狂ってんのかもしんねぇけどさ……そういうのは、俺にはどうだっていいことなんだ」
「……そうかい?」
「ああ……俺は、ただ……お前にも、ちゃんと報われてほしいだけなんだよ」
「え……?」
「俺は、お前がアリアハンからこっち、どれだけ苦労して、血を流して戦ってきたか知ってる。死にそうな目に遭いながら、どれだけ必死に、一番辛いところで戦い続けてきたか知ってる。それも全部、あの女への……エマへの想いのせい、っつーかおかげだってお前が思ってるのも知ってる。だけど……俺は、お前には、これまで必死に戦ってきた分、ちゃんと幸せになってほしいって思うんだよ。報酬が与えられるべきだって思うんだ。誰もが羨む幸せな生活ってのを送ったって罰は当たらないと思ってる。だけど……今、お前は、少なくとも幸せそうには見えねぇ」
「…………」
「だから、俺は……せめて、お前が、少しでも」
「俺もそう思ってるんだよ、エジー」
「え?」
「俺も、報いがあっていいはずだと思うんだ。エマさんには。生まれてきた時からずっとずっと苦しんできた、安らげる時がなかった、必死になって頑張ってきたエマさんには」
「…………」
「だから、俺は、俺にできることなんてほんのわずかだってわかってはいるけど、少しでもいいから、エマさんの力になれたらと、そう思うんだ」

「さ、エマさん、体を拭きましょうね。今日は暑かったから汗をかかれたでしょう。男の俺が体を拭くなんて本当はご不快でしょうけど、すいません、他に手もないものですから。ちょっとだけ我慢してくださいね」
 アダルバートがそう柔らかく声をかけるが、エマは――完全に、ラーの鏡で見たものと同じ、醜い肉塊としか言いようのない姿になったエマはかすかにその体を蠢かせる程度の反応しかしなかった。
 ゾーマとの戦いが終わった後から、エマの体はほとんど動くということをしなくなった。声や言葉、それどころか光や風にすらほとんど反応しない。ものを食べるということもまるでない。ただときおりその肉を震わせるので、生きているというのがわかるだけだ。
 だから体を拭こうがどうしようが反応は変わらないだろうが、アダルバートは雨が降ろうが嵐が来ようが必ず毎日お湯を沸かしてエマの体を拭くことにしていた。女性なのだから、しかもあれほど美しかった女性なのだから、体を拭くこともできないというのはあまりにひどすぎる。
「エマさん、今日は星がきれいですね。天気がいいから空が透き通って見える。こういう日は月が明るいものですけど、まだ月は出ていないみたいですから」
 エマは庵の最奥の、一番広い部屋で、ときおり蠢くだけでなにもしないまま毎日を過ごしていた。アダルバートはその部屋に、硝子造りの天窓と出窓を取りつけていた。天気のいい日には窓掛けを開き、日光を取り入れるようにしていた。その方が少しでも、エマがきれいなものを感じ取ることができるのじゃないかと思ったから。
「エマさん、今日はエジーが来たんですよ。覚えてらっしゃいますか、エジーディオ。アリアハンからずっと俺と一緒だった奴なんですが、ちょくちょく生活用品を持ってきてくれるんですが。あいつが言うには、ジャスパーが婚約したそうなんですよ。驚きですよね、まさか神様一筋だったあいつが誰かと婚約したりするなんて思ってもいませんでした。でもやっぱりめでたい話ですから、なにか贈り物を送ろうかと思うんですが、俺は手先が不器用なものですから、下手くそな手彫りの装身具ぐらいしかできそうにないんですよね……」
 アダルバートは時間ができた時にはいつもエマの部屋で、エマの隣で、エマにできる限り楽しい話をしていることにしていた。そうすれば少しでもエマの気慰めになるのじゃないかと思ったから。自分などの会話に価値があるわけはないだろうが、誰もなにも話しかけないよりは小指の先ほどはマシなのじゃないかと思えたから。
 そんな風にして、アダルバートはエマと過ごしてきた。これからもそうするつもりでいた。自分にはその程度のことしかできないけれども、できる全力でエマの助けになりたかった。エマを護りたかった、幸せにしたかった。実際はまるでできなかったけれども、その分をわずかなりとも補填できないというのなら、自分がここにいる資格はあっさり失われてしまう。
 だから、アダルバートは、毎日笑顔でエマに話しかけた。少しでも、ほんの少しでも償えたらと思いながら。
「そういえばそろそろアリアハンの夏祭りですね。エマさんは参加されたことがありますか? 星に願いをかける、あれですけど。昔は俺もいろいろくだらない願い事をしてたんですけど、今願うんだったら、やっぱり、エマさんのことでしょうね」
 しょうもないとわかっていることをぺらぺらと話す。答えが返ってくることなどないと知っていて。それでも自分は、少しでも、わずかでもエマの気持ちを和らげることができれば、それで
『―――なぜ?』
 唐突に、静かな声がして、アダルバートの口は固まった。
 この声。この声。忘れるわけがない、忘れられない。ずっと聞きたかった声。あの人の、声。
 揮える首を、おそるおそるエマの方へと向ける。幻聴なのではと恐れながら。怯え、震え、びくつきながら。
 ――視線の先に見えたのは、巨大な肉塊の、自分のすぐ目の前の部分に、ゆっくりと肉が寄り集まり、皺になり、人の顔を形作ろうとしているところだった。忘れもしない、エマの顔を。
「エっ……!!!」
『な、ぜ?』
 エマの声は、細く頼りなく、今にも消えそうだった。というより、皺が寄り集まったような形のエマの顔自体が不安定なのだろう。ときおり不自然な皺や傷ができているのを無視しても、それくらいは嫌でもわかった。
「あ、の、なぜ、とは」
『なぜ、私を、ここまで?』
「―――――」
 アダルバートは一瞬固まった。エマがこんな風に、自分になにかを訊ねるなんてことが、人前以外であっただろうか。
 驚き、混乱しながらも、必死に口を開けて答える。エマがこう訊ねてきた時、こう答えようといつも考えていた通りに。
「あなたが、好きだからです」
『……………』
「初めて会った時から、ずっと、今も変わりなく。あなたがお姫様みたいに優しくて、きれいな方だからですよ」
 肉塊に対してこんなことを言うのは、かえって気に障るかもしれない。けれど、アダルバートにはこうとしか言いようがなかった。エマへの恋情は今も色褪せることなく胸の中にあり、目を閉じてもありありと思い出せるのは、初めて会った時と同じ、清らかで可愛らしく女の子らしい、美しく整った微笑みなのだから。
 エマは、その答えに、数瞬動きを止め――そして告げた。
『私は、ルビスに告げられたの。アレフガルドの守護精霊、精霊神ルビス、彼女から。私には魔王バラモスを、大魔王ゾーマを倒す力があると――私にしかできない、と』
「え……?」
『物心ついた時から、何度も何度も。飽きるほど繰り返されて――そうして、私は今の私になった』
「え……」
『狂った母と、痴呆症の祖父、オルテガの残した財産目当ての親戚、それしかなかった私の人生に、はじめて生まれた意味だった。唯一の存在価値だった。だから、私は、そのためにルビスの神託に従い、力をつけ、知識を蓄え、知恵を磨き、全力で目的に邁進したの。私には、それしかできなかったから』
「…………」
『それを悔いてはいないわ。私にはそれしか生きる道がなかったのだもの。私には助けてくれる王子さまはいなかった。自分で自分を救う……いいえ、少しでもマシな最後を迎えるための道を創るしか方法はなかった。自分に心をかけてくる男たちも、みんな道具としてしか見れなかった。だって人と見てしまったら、心を返したいと、好かれたいと思ってしまったら、恐怖に耐えられなくなってしまうから。自分のこの姿を、醜い肉塊である私の本当の姿を、見られ、暴かれて、嫌悪感を抱かれる恐怖に。それに耐えることができた相手なんて、私は一人しか会えなかった』
「え」
 ただひたすらに聞くことしかできていなかったアダルバートは、ぽかん、と口を開けた。我ながらなんて間抜け面だ、と思ったのだが、エマの言っていることが理解できなかったのだ。
 そんなアダルバートに、エマは静かに微笑んだ。肉塊から浮き上がった、ひどく美しい笑顔で。
『初めて会った時から、その顔立ちに、体つきに、ひたむきな視線に心惹かれて。好きだと言われて驚いて、意味がわからなくて、恥ずかしいのに嬉しくて。あなたが死ぬのを放っておけなくて、効率が悪いのを承知で助けてしまって。いつ死ぬかもしれない人間に心を懸けるのが怖くて他の男たちと同列に扱って、でも自分の感情を素直に口に出すことができる相手ができたのが嬉しくて。ただ一人、自分の正体を明かして』
 エマの顔がわずかに揺れる。その表情が届かない何かに手を伸ばしているようなものに見えて、アダルバートは慌てて顔を近づける――や、ふいにぐい、と体が引き寄せられ、同時に薄く、柔らかく、温かな、背筋が震えるほど優しい感触があった。
 それがエマからのキスだ、と理解してアダルバートが仰天するよりも早く、エマはやはり、こんな時でも初めて会った時と同じ、優しく、美しく、艶麗で淑やかで清らかな笑顔を浮かべ、告げた。
『私は、あなたを愛しているわ。男を愛したのは、愛することができたのは、私の人生でただ一人、あなただけ』
 ――言うや、その肉の体は崩れ落ち始めた。
 アダルバートは仰天した。エマの体が、肉の塊が、砂のように崩れ去っていく。生々しい肉瘤が乾ききった砂へと変化していく。それを押し留めようと手で触れても、砂が流れ落ちるのを早めるだけだった。あっさりと、簡単に、当然のようにエマの体が崩れていく。それを、アダルバートは、決死の形相で見つめた。
「エマさんっ……エマさんエマさんエマさんっ! 待って……待ってくださいっ、待って! そんな……死んじゃいけない、死んじゃ、あなたはここで死ぬような人じゃ、待って、お願い、待って……!」
 どれだけ叫ぼうとも、エマの体の崩壊は止まらなかった。肉瘤が崩れ、触手が崩れ、何十本も生えた腕や脚が崩れ――エマの顔を形作っていた部分も砂に還った。
「エマさんっ……!!!」
 必死に叫ぶ――だが、それでも止まりはしない。エマの体は、あっさりと、砂の城を崩すよりも簡単に、すべて、砂に還った。
「………………」
 それを、恋した人の死を、泣くこともできないまま呆然と見つめる――そこに、声が聞こえた。
「………ホア」
「っ………!?」
「ホアァァ、ホヤァァ、ホヤアァァ」
「………え?」
 声の主は、赤ん坊だった。今にも生まれたばかりというような。崩れ去ったエマの体の中から、素っ裸のまま出てきたのは。
 女の赤ん坊だというのは見ればわかった。ほんのわずか生えている体毛から、黒髪の人間なのじゃないかというのもわかる。けれど、この赤ん坊はなんなのだろうか。エマの生まれ変わり? そんなにあっさりと? 誰がそんなことをしたというのだ、誰も助けてくれなかったエマに、誰が。それともエマが自分で? どうやって? なんのために? さっきエマが言っていたのはどういう意味なのだろう、もしかしてお別れだからと優しい言葉をかけてくれたのだろうか、だってエマがあんなことを考えていたなんて自分にはとても思えない。だからこの子がエマなのじゃないかとはとても思えない、顔立ちもちょっと違うように思う、調べてみるとエマの優しく、柔らかく、優雅で、淑やかで、雅やかで、清らかなのに艶麗な雰囲気の萌芽を感じさせる可愛い女の子に育つだろう印象はあるのだが、顔立ちの細かい部分で、少し野暮ったいというか、男のような感じのする、それもいつも割を食って生きているような一途さが取り得とでも言いたげな造りが―――
 と、そこまで考えてアダルバートはぽかんとした。自分の考えたことに呆然とした。そんなわけがない馬鹿なと否定して、困惑し、混乱し。
 それから、小さく苦笑して、そっと赤ん坊を抱き上げた。
 生まれたばかりの赤ん坊独特の、びっくりするほど頼りない感触。それをできる限り優しく胸の中に抱きながら、声をかける。
「……とりあえず、エジーとジャスを呼ぼうか。キメラの翼で手紙を届けることはできるから。まだ君は首が座ってないみたいだから、キメラの翼で移動は体に悪いだろうしね。でも服もいるだろうし、ミルクやらおしめやらも必要だし、子育ての経験すら俺にはないし――ああそれより先に名前かな。エマって呼んだ方がいいかな? それとも別の名前がいい? ……いや、それより先に言わなくっちゃな」
 アダルバートはきゅっと、優しく優しく赤ん坊を抱きしめて、心の底からこぼれんばかりの笑顔を浮かべて、言った。
「愛してるよ。心から。誰より美しく、可愛らしい、俺のお姫様」
 その言葉に、赤ん坊は、ただ頼りない声でホヤアァと泣いた。

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