ポルトガ〜バハラタ――4
 一瞬の意識の隔絶のあと、セオは檻の中に立っていた。
 自分の情けなさに泣きたくなりながらも、周囲を見回して状況を確認する。石を組んで造られたざっと十丈四方はあるのではないかと思われる広い部屋。その半ば近くを占めている鉄格子の嵌められた牢獄の中に、セオはいた。
 窓はない。光になるのは牢の外のランタンの明かりだけ。じっとりと湿った空気のにおいからして、ここは地下ではないかと思った。牢の中にいるのは自分一人。こちらには隠される様子もなく白墨で魔法陣が描かれている。
 それ以上のことを認識する前に、牢の外にいたおそらくは見張り番の、身なりからして十中八九盗賊であろう男が驚愕の声を上げた。
「うおっ! すげぇ、本気でいきなり勇者が現れやがった!」
 セオがばっとそちらの方を向いて身構えると、男は慌てたように後ずさりし、部屋の外へと出ていく。
「お頭ー! お頭、罠に勇者がかかりましたぜー!」
「なにィ!? てめぇ、フカシじゃねぇだろうな!?」
「嘘じゃねぇですって。額に蒼の宝玉が填まったサークレットしてますし」
 お頭。つまりここはやはり人攫いたちの本拠なのか、とかあの魔法罠は勇者を狙った犯行なのか、いったいなぜ? とか忙しく回転する頭の奥底で、なにかざわり、と蠢くものがあった。
 さっきの、『お頭』と呼ばれた人の声に、聞き覚えがある気がする。
 いや、そういう段階の話ではない。あの声は。
 封印した記憶の箱が、ゆっくりと、開く。高速で記憶の再生が始まる。覚えている、脳髄に刻み込まれている。覚えていたら耐えられないから、優しい人たちの力を借りて封じていた記憶。
 ざっと、体中から、血の気が引いた。

『―――あぁっアぁァァあぁァッ!!??』
『てっテッてってめェェぇぇッ!!!』
『うぎゃぁ……来るな、来るな………!』

 覚えている。手を斬り落とす時の感触まで明確に記憶している。忘れられるわけがない、忘れたふりはできても。だってあの人は。自分が。セオが自身の意思で。
 傷つけ、殺しかけた、殺そうとした、人だ。
「ほーう! まっさか本気でまた会えるとはなぁ、勇者ちゃん!」
 あの人が、現れた。
 ぎらぎらとした目つきで、どこか狂おしげなまでに嬉しげに顔を歪めながら、壮年のがっしりとした男がどかどか床を踏み鳴らして部屋に入ってきて牢の前に立つ。その顔を認識し、記憶と一致することを確認し、すぅっと顔から表情が消えるのを感じながら呟いた。
「カンダタ……さん」
「おおよ、大盗賊カンダタさまよ。会いたかったぜぇ、勇者ちゃん」
 カンダタはにぃ、と唇の両端を吊り上げた。目はらんらんと輝き、口はぐふぐふとくぐもった笑声をこぼし、手は嬉しげにばきぼきと鳴らされて、この人が心の底から今の状況を楽しんでいるのがわかった。
「新入りがお前を捕らえられるっつった時は本気かと疑ったが、案外やるもんだなあいつぁ。あとで褒美くれてやるとするか」
 感情が、働かない。一度明確に自らの意思で命を奪うと決めた存在を認識して頭に過負荷がかかったのか混乱しているのか。脳の感情を出力する部分が停止している。
 そのくせ理性の部分は活発に活動して情報を入手していた。新入り。その人があの魔法陣を描いたというのだろうか。あれはバシルーラをかけられる人材が必要だから、相当に高レベルの僧侶の協力が必要だというのに。魔法陣を描く魔法使いの能力も達人級でなければならなかったはずだ、そんな人材がなぜカンダタの部下に?
 勇者に対する罠を仕掛けていたようだと、彼らの言葉からは感じられた。それはすなわち(彼らが盗賊という職業に似つかわしくないことに情報に驚異的に無関心というのでなければ)自分に対する罠だということになる。なぜ? カンダタの自分に対する復讐心? だが、彼らの言葉からは彼らがこの罠に自分がかかること自体さして期待していなかったことがうかがわれる。あくまでその新入りという魔法使い(もしかしたら賢者ということさえありえる)の主導で行ったと思われるのだが。その新入りは何者なのだろう。
 自分をあの罠の目標として条件指定していたのならば、自分がこの街に来るという情報を入手し自分があの場所を通ると確信していなければならない。あの場所は人攫いたちが本拠を構えている洞窟への道としてしか通る人もいない場所、となればカンダタたちが人攫いであると考えるのが一番尋常な思考だ。自分がバハラタにやってくれば人攫いたちの征伐に向かうと考えて自分を捕らえるべく罠を仕掛けたという可能性もないではないが、あの魔法陣はそう遠距離には人を転送できないし、このようなしっかりした本拠を構えていること、人攫いしか現在のバハラタで特に問題になっている犯罪行為がないこと、目撃者を皆殺しにしているのに本拠地が割れているような人攫いたちの犯行の雑駁さから考えても、カンダタたちが人攫いであると考えてほぼ間違いないと思える。だが、となるとカンダタの驚異的な幸運は失われたのだろうか? 運なのだからこれまでが異常だったと言えばそうなのだが。
 カンダタの両腕はすでに元通りになっている。ベホマ級の呪文の使い手ならば損失した肉体を元通りに癒すこともたやすいことだろうが、そんな相手に呪文をかけてもらうのは並大抵にはいかない。回復呪文が特に得意、というのでなければ国に一人二人いるかどうか、というほどの高レベル僧侶でなければベホマは使えないのだから。聖呪であればもう少したやすいのだろうが。
 カンダタの従えている子分たちは全員新顔のようだった。あれから新しく集めたのだろう。身のこなしなどから相当の高レベルであると察せられる盗賊風のどこかのっぺりとした顔の男たちが数人脇を固めている。当たり前だだって
 ―――以前の部下は、全員、自分が殺したのだから。
「ふん、すました面ぁしやがって。俺と戦ってもどうせてめぇが勝つとか思ってんのか? ざけんじゃねぇぞこのクソボケがぁ!」
 ぐわっと目をむき怒鳴るカンダタを見ても、セオの感情はぴくりとも動かなかった。錠がかかったようにぴくりとも。だって、心が動いたら思い出してしまう。あの瞬間の
 ―――殺す殺す殺す目の前の存在は敵性最優先防衛目標のひとつを傷つけた敵敵敵敵敵敵殺す殺す殺す殺す殺す殺す存在そのものが消滅するまで殺す殺す殺せ殺せ殺せ。
「……表情も変えず、か。ふん、まぁいい。どっちにしろ俺ぁ、てめぇとまともにやりあう気ぁねぇんだよ。こっちの世界の人間にゃあこっちなりのやり方っつーのがあるからなぁ。……連れてこい」
 カンダタが顎をしゃくると、背後の部下が素早く姿を消し、一分もしないうちに猿轡をされ手足を縛られた女性を連れてきた。セオを見ると必死に手足をばたつかせ呻くその女性を抱え、カンダタがにやにやと言う。
「さぁ、どうする勇者ちゃん? 俺に逆らえば即座にこの女の喉笛を掻っ切るぜ? 世界を救う勇者さまとしてはこの女を見捨てるわけにゃいかねぇよなぁ?」
「…………」
「じゃあまずは、武器をこっちに渡してもらおうか。それからこれで猿轡を自分にかませな。隠し武器だの猿轡緩くしたりだのごまかしがあれば即この女ぁ殺すからな」
「…………」
 セオは無言のまま、剣帯を外して剣ごと牢の外に放り、腰につけた鋼の鞭と短剣も牢の外に置いた。それからカンダタの差し出した布で自分に猿轡をする。女性が呻き、カンダタが鼻で笑った。
「ふん、あれだけ容赦なく俺の部下をぶっ殺しときながら、この女の命は惜しいってか。勇者さまってなぁお優しくていらっしゃるな。そのお優しい心を、哀れな盗賊にちったぁ恵んでくれてもいいよなぁ? 軽く仕返しさせてくれるぐらいはよぉ。――俺がなにしても動くんじゃねぇぞ。動いたら女を殺す」
 逆らえなかった。というより逆らおうという考えすら浮かばなかった。
 だってこの人は自分が殺した存在だ。殺しかけた人間だ。それが自分に仕返しをするというのに、当然のことが行われるのに、逆らうなどというのはおかしなことだと思った。
 目の前の女性を救わなければならないと思ったし、ほぼ間違いなく人攫いであるカンダタたちを捕らえなければという思いもあったけれど、それは自分が仕返し≠されてから行うべきことだと思った。機会の問題もあったけれど、そうでなければ為されるべきことが為されないままに終わってしまうから。
 たぶん自分は自然治癒が不可能な段階までこの人に痛めつけられるだろうと予測していたけれど、それで当然だと思った。それを受けるのは当然のことだと思った。だって
 ―――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、いくらでも俺を痛めつけてください殴るなり殺すなりどうとでもしてください、だって俺は、
 罪を犯したのだから。そう冷たく告げるあの人の顔は、一瞬で消えた。

 自分は、してはいけないことをしたのだ。
「ち、こいつ我慢強ぇな、呻き声も上げやがらねぇ。これだけ痛めつけてやってるってのによ」
 ぐりぐりと突き刺さった短剣で腹を抉られる。すでに何本もセオの体には短剣が突き刺さり腹は内臓がはみ出るほどずたずたに引き裂かれていたが、それでもセオの神経には激痛が走った。
 けれど、これは当然の罰なのだ。自分は、してはいけないことをしたのだから。
「じゃあこれはどうだ? ちったぁこたえるだろ。ほうれほうれ、燃えてるぞ〜あっつい炎だぞ〜……ほれっ!」
 股間に燃え盛る松明を押し当てられて、セオは猿轡の下で呻いた。押し殺そう押し殺そうとしてもどうしても漏れてしまうだらしのない自分の声を罵る。どうして自分はこうもだらしなく、情けなく、醜いのか。
 自分には逆らう権利はない。罰は受けなければならない。自分は罪を犯したのだから。
 あの人たちの優しさが心地よくて忘れていた。自分は罪を犯した、生きるためでなく、生ける者を殺した。その人たちを、助け≠ネかった。
 それがどれだけひどいことか、自分は知っているのに。
「ふんふん、次はどうするか……そろそろ腕足切り落とすか? くっくっく、どうだよ勇者ちゃんよ、一度殺しかけた奴にいいようにされる気分は? 悔しいだろぉたまんねぇだろ? 世界を救うと噂される勇者さまが盗賊風情にいたぶられて苦しいだろ? くくっ、勇者さまってなぁ大変だな、女風情のためによ」
 カンダタがまたざくりと自分の体に短剣を突き立てる。今度は足だった。ずきっ! と刃物を突き立てられた時特有の痛みが体を走る。
 だがそんなことはどうでもいいことだった。もちろん痛い。死ぬほど痛い。苦しくて苦しくてたまらない。だが、痛みには幸い慣れている。痛みに鈍感な体質を作り出すほどに。その上死んでも生き返れる、どんな傷も回復呪文で治せるのだから、このくらいは当然の処置だった。
 それよりも自分は謝りたかった。申し訳なくて申し訳なくて死にたいほどだった。こんな自分が幸せを感じたりして、罪を犯したことを忘れていてごめんなさいと謝りたかった。自分にはそんな価値はないことは知っているのに。知っていた、はずなのに。
 だって自分は、助けてほしかったのに、たまらなくたまらなく助けてほしかったのを知っているのに、殺したのだから。
 ざしゅ。カンダタが腹にさらに一本短剣を突き刺す。漏れそうになる呻き声を、全身の力を奥歯にこめて耐えた。
 あの時。ゼーマを殺したあと。
 初めて人間ではなくなって、自分は感情を感じる回路が落ちて動かなくなった。それはたぶん、自分のしたことに恐怖を感じると共に高揚感も感じていたからだろう。
 人でなくなるという行為には、確かに一種の快感がある。自分は知っている。人から欠落すること、人であることをやめ、守らねばならない規約を忘れ他者を思うさま傷つけるということは、解放された者の快楽が確かに存在するのだ。
 だが、人はそのままでは生きていくことはできない。人でなしのまま生きるにはとてつもない心の強さが必要で、自分には、あの時も今も、その強さはなかった。
 あの時は、罰を与えられることで、強制的に人へと戻されたのだけど。
 がりっ。骨を削る音がした。カンダタが、セオの指に短剣の刃を当てたのだ。
 あの時。オルテガに、父に殺された時。
 自分は願った。心の底から。
 死にたくない。誰か、誰でもいいから、お願いだから助けてください、と。
 それまでも両親や周囲の人間に蔑まれ、疎まれ、憎まれてきて、寂しかったし辛かった。自分の味方がこの世に誰もいないような気分になって、誰か助けて、と同年代の人間よりは思うことが多かったのではないかと思う。
 だが、あの瞬間。どれだけ全力で抵抗して、死ぬ気で抗っても避け得ない『死』が眼前に迫ったあの瞬間ほど、死ぬ気で、心の底から、全身全霊をこめて願ったことはなかった。周囲の人間に、知らない人に、世界のどんな存在に対しても。死にたくない、どうかどうかお願いだからなんでもするから、助けてくださいと願ったことは。
 でも、それほどまでに、それこそ命懸けで願ったのに。願いは叶わなかった。
 自分は、殺されたのだ。
 ざござご、ざこっ。のこぎりの要領で骨を削り、セオの右手の指が一本、切り落とされた。またも神経を襲う激痛、そして喪失感。怖い。指がなくなった。自分の体の一部がなくなった。怖い、怖い、自分の中に空洞ができたようでたまらなく怖い。だけど、これも罰なのだ。自分は罰されなければならない。自分はこの世でなにより価値がない、醜く情けないクズだから。
 苦しい、と思った。今まで生きてきた中で一番。死ぬ気で、全力で心の底から助けを求めても、それに応えてくれる人が一人もいない。誰一人いない、という事実。物語のように、絶体絶命の時に助けを願っても、それがかなえられないという事実。
 それを、自分は、自分に価値がないからだ、と思った。
 だってそうじゃなければ自分が周囲からこんなに蔑みを受けるわけはない。オルテガの息子なのに情けない、オルテガの息子としてふさわしくない。周囲の全ての人間から蔑まれ、いたぶられ、足蹴にされてきた。
 それも当たり前だ、と思った。だって、自分はこれと同じことをしたのだから。
 もはや道がない絶望。どれだけ全力を尽くしてもかなわず消滅しなければならない恐怖。それを、生きるためでもなしに、人に与えるような存在なのだから。
 それは世界中、いたるところで行われていることだとわかってはいる。自分がどれだけ全力を尽くしても殺されていく生命の数を一割も減らすことはできないだろう。
 でも、それでもしなければ、いてもたってもいられなかった。少しでも命が失われる時のあの絶望を、なくさないまでも軽くできたら。一瞬でも、本来あるべき姿の何百分の一かでも、物語の英雄のように死の絶望に沈む存在を助けに駆けつけることができたなら。
 そうしなければ、他者に絶望を与えた自分の罪は、他者に蔑まれるような存在価値のない存在である自分の罪は、軽くはならないと思ったから。魔王に、世界に、意図して奪われる命を減らす、それが自分の唯一の存在価値だと思ったから。
 そのために旅立ったのに、自分はまた、人を殺した。魔物を殺した。生きるためでなく、感情のままに。そしてまだ旅を続けている。
 それがどれだけ罪深いことかを、あの人たちの優しさでごまかして。罪を背負う覚悟もできないまま、甘ちゃんのままで。
 ざごっ、ごとん。一本一本指が切り落とされていく。あったものが、消えていく。自分の体が、欠けていく。怖い、怖い、怖い怖い怖い。痛い痛い痛い痛い。だけど自分には抵抗する権利はないのだ。目の前のこの人に、自分は絶望を与えてしまったのだから。そして自己の生存のために他の命を失わせることなど、自分には絶対に許されないことなのだから。
 ――なのに、なぜ。
『君のことが大切だよ』
 ラグの。
『俺は君を守り、君の信頼に応え、君のために戦うことを誓う』
 ロンの。
『仲間だとは、思ってんだからな』
 フォルデの。
 あの人たちの、この世界で初めて自分に優しくしてくれた人たちの、そんな声を思い出してしまうのか。
「ちっ、しぶといな、まだ命乞いもできねぇか? しょうがねぇ、なら、次は目ぇいくか。おい、体押さえてろ」
 背後の部下たちが動き、がっしとセオの体を固定する。そしてまぶたを開かせた。カンダタは細い針のような短剣――確かスティレットとか言ったはずだ、を突き出し、にやにや笑いながらセオに見せる。
「わかるか? これをなにに使うか。てめぇの目玉を刺して、ほじくり出すんだよ。痛ってぇぞぉ、絶っ対ぇのたうちまわるぞ。おまけにこれでてめぇは目が見えなくなるわけだ。どうだ、怖いか?」
 怖かった。たまらなく怖かった。短剣を見たとたん、体中に悪寒が走った。
 だが、表面には出なかった。恐怖を感じてはいけない。痛みを感じてはいけない。自分にはそんな価値はない。権利はない。
 カンダタは不満げな顔をして、シャッとスティレットを構えた。少しずつ少しずつ、セオのあらわにされた眼球にその短剣を近づけていく。
 怖い。怖い。死にそうに怖いけれど、仕方ない。自分は罪を犯した、最低のクズなのだから。罰されるのは当然だ。
 自分などを助けに来てくれる人は誰もいない。自分には物語の英雄はいない。自分はいまだ誰一人、絶望から救ってはいないのだから。
 それは、わかっているのに。
 セオは、わずかに体が震えるのを感じた。感じる権利などないのに、抵抗する権利などないのに。一粒だけ涙が目に浮かぶのを感じた。
 あの人たちは、それはあの人たちが優しいからだというのはわかっているけれど、自分を許すと言ってくれた。生きていてもいいと言ってくれた。こんなこの世でもっとも価値のない存在に。
 だけど、だからって自分の罪が許されたわけでもないのに。あの人たちをちゃんと守ることすら、自分は果たせてはいないのに。
 なぜ、この期に及んで、助けてほしいと、あの人たちに助けに来てほしいと、そんなことを願ってしまうのか―――
『―――セオーっ!!』
 スティレットが眼球ぎりぎりまで迫った瞬間聞こえた声に、セオはびくりと身を震わせた。
『セオっ、どこだ、セオっ!』
『セオ、どこにいる、返事をしろ!』
「おいっ、誰か潜入してきてやがるのか!? とっとと片付けてこねぇか!」
『むっ、無理でさぁ、あいつらすげぇ勢いで……ぎゃあっ!』
『セオ、どこにいやがる、セオっ、答えやがれっ!』
 いる。あの人たちがいる。あの人たちの声がする。
 世界の誰より大切な、自分を初めて認めてくれた人たち。大切にしてくれた人たち。一緒にいてもいいと言ってくれた人たち。
 助けに来てほしいと心の底から願った時に、この自分のいる場所に――
「ラグさんっ、ロンさんっ、フォルデさんっ……!」
 腹が破けた状態で、猿轡の下から発した、ひどくみっともなく掠れた声だったのに、その三つの声はこちらに気付いてくれた。近寄ってきて、扉を蹴破り、部屋の中へ踊りこんでくる。
『セオっ!!!』
 全員揃って大声で名前を呼ばれ、セオは泣き出してしまっていた。ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。これまでどんなに傷つけられても、耐えることができていたのに。
「よかった、セ」
 笑顔で近寄りかけたラグが、固まった。フォルデもロンも、愕然とした顔で動きを止める。え、なんで、と思うより早く、全員の表情がさっと激怒のものに変わった。
「て……ッ、めぇッ!!!!」
 フォルデが吠えると同時に、鋼の鞭が唸る。背後を固めていた部下たちが動くより早く、カンダタの首に鞭を巻きつけた。
「っ!!!」
 ラグがぎりっと奥歯を噛み締めながらそれを引っ張る。ラグの人並み外れた剛力に、ぐいっと首を絞められて喘ぎながらカンダタがラグたちの前に引きずり出された。
「フゥッ!!!」
 ロンが素早く踏み込み、黄金の爪をカンダタの急所にぐっさりと突き刺す。ぐげえ、とカンダタは悲鳴を上げて倒れた。
 数瞬遅れて動き出す部下たち。だがそれよりもラグたちの動きの方がはるかに速い。鋼の鞭でまとめて体を斬り裂かれたところにラグやロンの攻撃が次々と決まり、セオが呆然としている間に部下たちも全員倒れた。
「セオっ!!」
 ラグたちが駆け寄ってくる。フォルデが素早く猿轡を外し、顔を真っ赤にしてぎりぃっ……と凄まじい力をこめて歯軋りをした。
 ラグは逆に顔面蒼白になりながら駆け寄ってきて、ぎゅっと血が出そうなほど拳を握り締めてからきっとセオを見た。
「セオ、まだ魔法力は残ってるかい? せめて傷口だけでも塞がないと、すごい血の量だ」
「セオ、手をこちらに。無事すむかどうかわからんが、まだこの指は温かい、縫合する」
「え……あの」
 セオは戸惑いながらも、ロンに指をこちらに近づけてもらい、小さく呪文を唱えた。
「私のいのちは窓の硝子にとどまりて、たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた=c…」
 一回目の詠唱で、傷の三分の一が塞がった。二度目の詠唱で、指が一本繋がった。三度目の詠唱で、また一本。四度目の詠唱でまた傷が。五度目の詠唱でまた一本。
 十度の詠唱を終えた頃には、セオの体には傷の跡すらまるで見えなくなっていた。
『…………』
 ほーっ、と仲間たちが全員揃って息をつく。そのあまりに心の底から安堵した、とでも言いたげな様子にセオは少し慌てた。
「あ、あの、ごめんなさい、俺なんかのせいで手間、かけさせちゃって」
『あぁ?』
 凄まじい目で睨まれ、セオは思わずびくりとする。フォルデたちのこちらを睨む目には、殺気がこもっていた。
「あ、あの、俺」
「うっせぇ黙れ殺すぞボケ。てめぇが馬鹿なのはいまさら言われなくてもわかってんだよ」
「セオ、俺たちを怒らせたくなかったら少し黙っていてくれないか。正直今は、感情を制御できる自信がない」
「俺は制御できなくもないがする気はないぞ。こういう時にはどう言えと教えた、セオ?」
「え……あの」
 そうだ。この人たちは。
 自分を助けに来てくれた。物語のように。
 自分はまだ誰も助けてはいないのに。少しも償えてはいないのに。
 自分が怖くて怖くてたまらない時、助けがほしいと願った時に、助けに来て、くれたのだ。
「……っ」
「っ、コラ! 泣いてんじゃねぇ、ボケ!」
「いいじゃないか、ほっとしたんだろう。まぁ、ともかく……殺される前に間に合ってよかったよ」
「よしよし、いい子だね、もう大丈夫だよ、セオ」
「っ……、ありがとうございます。本当に、本当にありがとう、ございます………」
 ほろほろほろと泣きながら、セオは必死に何度も頭を下げた。偶然といえば偶然、それはわかっているけれど。自分の声を聞き逃さずに、自分を助け、守ってくれた。それが、救われたことがたまらなく嬉しかった。別に自分の為すべきことが為されたわけでもなんでもないけれど、それでも自分は今、この人たちに間違いなく、救われたのだ。
 自分は周囲のすべてに、親にすら愛されなかった、そしてなにより重い罪を犯した、世界で一番価値のない存在なのに。
「……俺、生きていても、いいんですか」
『はぁ?』
「あ、ごめっ、ごめんなさい、俺なんかが言っていい台詞じゃ」
「っざっけんなこのクソボケタコッ! 阿呆かてめーは、生きてちゃ駄目ならどーして俺らがてめぇのこと必死こいて助けに来るんだよっ! いきなり姿消してなにがなんだかわけわかんねぇ状態で、なんか嫌な予感するってだけで途中の魔物ども必死こいてぶっ倒して全速力で敵の本拠地に殴りこみかけてってやって、俺らがどんだけ、どんだけてめぇのこと……っ!」
 怒りの勢いのまま怒鳴りかけて、フォルデはうぐっと言葉に詰まる。セオの呆然とした視線になにを見たのか、顔を真っ赤にして黙り込むフォルデに、ラグとロンがにやにやと言葉をかけた。
「どうした、フォルデ? 言いたいことは全部言った方が体にいいんじゃないか?」
「ぐ……っ、うっせぇな!」
「だがまぁ実際、お前も言える時に言っておいた方がいいと思うぞ。勇者の力で普通より本当に死ぬ可能性は極めて低いとはいえ、魔王の軍勢と真正面からぶつかりでもしたら今の俺たちではまず生き残れんわけだしな。いつ死ぬかわからん旅をしてるのは確かなんだ、心残りは作らないことに越したことはないと思うが?」
「………〜〜〜〜っっっ!」
 がすがすがす! としばし床を蹴ってから、フォルデは決然とした、だが耳まで朱に染まった顔でセオに向き直った。
「おい、セオ!」
「は、はい」
「〜〜〜こっち向くな! あっち向いてろ!」
「え、は、はいっ」
「〜〜〜だーっ、やっぱやめろ、なんか妙な感じがする。あっとそうだ、半分だけこっち向いてろ! そう、半分! そんくらい!」
「は、はい……」
「………っ〜〜〜〜っ………!!!」
 なにがなんだかよくわからないままフォルデに言われる通り中途半端な方向を向く。それでもフォルデはしばし顔を赤くしたまま悶えていたが、やがてぐいっとセオの耳に口を寄せ囁いた。
「俺はてめぇを絶対守る」
「……え?」
 どういう意味なのかよくわからなくて思わず見つめると、フォルデはカーッと顔にさらに朱を乗せて怒鳴った。
「だっから、俺がいいって言うまでてめぇは死ぬなっつってんだ! わかったかこのクソボケ!」
「は、はいっ」
 思わず縮み上がりながらぜぇはぁと荒い息をつくフォルデを見つめて、ようやく気付いた。フォルデは、自分に、『生きていいんだ』と言ってくれているのでは、ないか?
「さて、じゃあせっかくだから俺も言っておくか」
 思わず頭のてっぺんからつま先まで赤くなったセオに向かい、ロンが一歩前に進み出る。「え、へ、え?」と思わず周囲を見回していると、ロンは真正面から照れもせず言った。
「セオ。君がどうしていきなりそんなことを言い出したのかはよくわからんが、俺の素直な感情を言おうか」
「……はい」
「生き物なら誰にでも生きる価値があるなどとおためごかしは言わん。だが、俺ははっきり宣言できる。君に生きる資格がないというのならこの世に生きる資格を持ってる奴なぞいない」
「っ」
「君は、いい子だよ。本当に。少なくとも俺にとっては、世界で一番いい子だよ」
 にっこりと微笑みを向けられて、セオは思わず頭に血が上った。そんな、いい子だなんて、そんな。自分はそんな価値のある存在じゃないのに、わかっているのに。彼の労わるような視線と言葉は、体が溶けそうなほど、嬉しい。
 続いてラグが咳払いをして一歩前に出た。
「セオ。俺はね。俺たちはね。君が好きだよ。君が生きていてくれて嬉しいよ。君がいなくなったらすごく寂しいよ。君がさらわれた時はすごく心配したし、君が傷つけられてるのを見た時は本気で切れた」
「……ラグ、さん」
「俺は君みたいに世界を救おうなんてとても思えないけれど、君がそう思うのならその手伝いをしたいって思うよ。君が俺たちを大切に思ってくれるおかげで、俺たちは自分を少しはマシな人間だと思える。だから、俺たちは。君が、生まれてきてくれて。本当によかったって、思うんだよ」
 ああ、本当に、この人たちは。
 セオはぽろり、と涙をこぼした。ぽろぽろぽろぽろ、あとからあとから止まらない。懸命に掌で拭ったがとても追いつかなかった。
「あーったく、なに泣いてんだ、ガキかてめーはっ。んなことくらい言われなくてもわかってるもんなんだぞっ、フツーはっ」
「まぁ、愛を表すには人それぞれ合ったやり方というものがあるさ。受け取る側にしろ発する側にしろ。セオは愛を感じるのがちょっとばかり下手くそな子だということだ」
「愛って、お前な……まぁ、いいか。よしよし、あんまり泣くんじゃないよ、セオ」
 フォルデに小突かれロンに涙をすくわれラグに頭を撫でられ。そのたびに自分はたまらなく幸せになってしまう。
 そうだ、この人たちといると自分は幸せになってしまうんだ。人殺しの罪を忘れるくらい。自分にそんな資格はないのはわかっているのに。自分は世界のすべてから軽蔑され、存在価値を否定されて当然の愚かな人間なのに。犯してはならない罪を犯し、少しも償えていない大馬鹿者なのに。
 この人たちと一緒にいると、自分を仲間として認め、優しくして、生きていいよと言ってくれる人たちといると。罪も為すべきことを為せていないことも自分の愚かさも世界で今どれだけ命を奪われる者たちが絶望を感じているかも、なにもかも吹っ飛ばして自分は幸せになってしまうのだ。物語で絶体絶命の危機に英雄に助けてもらった子供のように。
 そして実際に、今、自分はこの人たちに恐怖から救われた。この人たちは、自分たちも傷ついてしまうのに、自分を守ろうと、救おうとしてくれたのだ。
「ごめんなさい……」
 こんな俺で。情けない、役に立てない、すぐ幸せになってしまう俺でごめんなさい。
「だーってめぇはっとにこの期に及んで」
「ごめんなさい……こんな、馬鹿で取り得のない俺ですけど……いつかは、みなさんを守りたいです。守れるような存在に、なりたいです」
「……セオ」
「だから、なんて言えませんけど。……みなさんと、一緒にいて、いいですか。一緒に……」
 おそろしく思い上がった偉そうな言葉だけれど、本来なら考えること自体不遜だとわかっているけれど、自分の想いを一番的確に表しているのはこの言葉しかない。
「一緒に、いたいん、です。一緒に、幸せに、なりたいです……」
『…………』
 一瞬の、驚いたような沈黙。
 それからラグに苦笑されてぽんぽんと頭を叩かれ、ロンに「いやいや可愛いなぁセオは」とつんと頬をつつかれ、フォルデに真っ赤な顔で「バッカじゃねぇの!?」と怒鳴られて。
 やっぱり思い上がりだったか、と泣きそうな顔でうつむくと軽やかな笑声がして。
「じゃ、幸せの第一歩として、魔王征伐のためにさらわれた奴らを家に帰すか」
「そうだな。こいつらもしっかり縛り上げて牢にぶち込んでやらないと。セオの幸せのためには世界平和が不可欠なんだろう?」
「あークソ、マジバッカみてぇ。あーマジケツ痒ぃ。っとに馬鹿かテメェは。……じゃー少しは手伝ってやるからせいぜい気張って働け」
 ぽんぽんぽん、と優しく背中を叩かれた。
 ぶわ、と涙が溢れそうになるのを必死に堪える。今、自分は、いいのかもしれない、なんて思ってしまった。
 幸せでもいいのかもしれない。この人たちと一緒なら、大丈夫かもしれない。生きていけるかもしれない、と思ってしまった。
 守ろう。ぎゅっと胸元を握り締めて、心から思う。この大切な人たちを、自分の全身全霊をかけて。
 こっそりとそう誓って、セオは念入りに縛られようとしているカンダタの隣で気絶している、人質となっていた女性を介抱するため歩み寄った。
 とたん、声がした。
「待ちな、カスども」

 低いけれど響きは澄んだ、なのにわずかに掠れたその声を聞いた瞬間、セオは全身が総毛だった。
 警戒。警戒。警戒警戒警戒警戒。全神経が全力で警戒警報を鳴らしている。敵なのか? わからない。だが、この声の主は。
 存在するだけで、自分に死≠予測させる。
「あ? 誰だ、あんた」
「フォルデさん……!」
 反射的にフォルデの前に飛び出た。庇わなければ、と思った。その時声の主の姿が見えた。
 六尺を軽く超える長身。美しく筋肉のついたしなやかな肢体。紅の鮮やかな板金鎧の上には黄金色の美しい髪を腰まで伸ばした、あでやかで華やかなくっきりした顔貌の面が乗っている。額には宝玉のついていないサークレットをつけ、瞳は鮮紅。それがこちらをじろりとねめつけていた。
 セオは全身を硬直させる。ねめつけるといってもさして敵意をこめて睨んでいるわけではない。ただごく普通にじろりと見つめているだけ。だが。
 ―――刃を心臓に突き入れられ大剣で首を落とされ指で眼窩から脳髄を引きずり出され延髄に短剣を突き刺され針で腎臓を貫かれ喉を剣で斬り裂かれ四肢をもがれ拳で脾臓を破られ棍棒で頭蓋骨を砕かれ両掌で首を捻られ鉈で肉体を割り裂かれ呪文で焼かれ斬られ凍らされ粉々に砕かれ
 なんだ、これは。今まで味わったこともない。見つめられるだけで脳裏に圧倒的なまでに湧き出してくる死≠フ情景。
 怖いとか、殺されるとか、そんな段階ではない。この存在は、死≠、思いのままにできる存在だ。自分たちとは、存在の桁が違う。
 それを察してしまい硬直するセオを見てふん、と鼻を鳴らし、その人は猛獣より獰猛で容赦のない笑みを浮かべて言った。
「俺の名前は、サドンデスだ」
「名前聞いてんじゃねーよっ、どこの何者かって」
 その名を聞いたとたん、セオの脳の記憶野がその人の称号を出力した。
「……神竜=v
「は? 神竜? なんだそりゃ、どっかで聞いたような……」
「堕ちた@E者の始まりにして人でなしの究極。人を超えた者。神殺しの神の名を冠された世界最強の勇者――」
「な、それって」
「ほう、よく知ってるな、カス。だが俺はその称号は嫌いでね。二度と言うな」
 ぞくうっ! とセオの体中に悪寒が走る。ちらりと意識を向けただけ。神竜≠ヘ、サドンデスはちらりとこちらを見ただけ、それしか動いていないのに。
 セオの脳内で、自分の殺される情景が千回以上再生された。
「てめぇ……さっきからカスカスって。俺らに喧嘩売ってんのかよ」
「てめぇらが俺に喧嘩売られるほどのタマだと思ってんのかよカス」
「な……てめぇっ!」
「用があるのはてめぇらじゃねぇんだ。そこの山賊――カンダタをこっちによこしな」
「は?」
 フォルデが目を見開く。サドンデスは意に介した様子もなく続ける。
「俺はその山賊に用があるんだ。さっさとよこせ」
「……ざけんな。世界最強の勇者だかなんだか知らねぇがなぁ、こいつにはどっさり貸しがあるんだ。それをてめぇに横取りされてたまっか」
「ふーん。俺に逆らうわけか?」
「ざけんな、てめぇ自分が何様だと思ってやがんだ! 上等だ、かかって」
「!」
 セオはがっし、とフォルデの腕にしがみついた。
「と、なんだよ、セオこんな時にっ。目の前に敵がいんだぞっ」
 だがセオは必死にふるふると首を振った。駄目だ、絶対に駄目だ。この存在に逆らってはいけない。この存在には勝てない。勝つとかそういう話ができる次元の存在ではない、努力や精神力や幸運でなんとかなる段階の存在ではない、圧倒的に存在の桁が違う。
 さっきからロンは無言でサドンデスを見つめ、ラグは成り行きを見守りつつもいつでも戦えるように武器を構えている。駄目だ、それでは。この人と戦ってはいけない。機嫌を損ねてはいけない。せめて交渉の卓に着かせなければ。セオはごくりと唾を飲み込み、一歩前に出た。
「……サドンデス、さん」
「なんだ」
 こちらを向かれただけで脳裏に湧き起こる死の情景。それを必死に抑えつけて言う。
「カンダタさんに、なんのご用が、あるんですか。場合によってはご協力、できるかも」
「てめぇの知ったことじゃねぇ」
 あっさりと切り捨てられた。めげずに言う。
「じゃあ、そのご用を済ませたあと、カンダタさんを渡しては、もらえませんか。そうすれば、なんの問題も」
「嫌だね」
 思わず絶句する。
「……なんで……ですか?」
 サドンデスは微笑んだ。氷よりも冷たく、それでいて竜の吐く炎よりも熱をはらんだ笑顔で。
「勘違いするな、カスども。俺は協力を要請してるんじゃない。命令してるんだ。命が惜しいんなら俺の命令をしっかり聞いてとっとと逃げろ、それが嫌ならここで死ね」
「て……ッ!」
 フォルデが鋼の鞭を振り上げた。駄目だ! と叫ぶより早く鞭は振り下ろされる。正確に頭を狙った容赦のない一撃。
 だが、それが当たるより早く、鋼の鞭はフォルデの体から弾き飛ばされた。
「え?」
 わけがわからない、という顔で自分の手と鋼の鞭を見比べるフォルデ。サドンデスが微笑を少しずつ深くしながら言葉を紡ぐ。
「なるほど。てめぇらは俺と敵対するわけだな? この俺と? いいだろう、かかってこい。全員ここでぶっ殺す」
「っ! 妙に幽明な宇宙の中で、一つの時間は抹消され、一つの空間は拡大する!=v
 セオは全速力でリレミトの呪文を唱えた。逃げなければ。こうなれば全速力で逃げるしか手はない。ルーラでバハラタまで戻ればさすがにサドンデスもこちらを探したりはしないはず。
 だが、確かに呪文を唱えたのに、魔法を構築したのに。呪文は、発動しなかった。
「……な」
「逃がすか、ボケが」
 サドンデスが笑う。その笑みで、発動しなかったのはこの人が意図的に妨害したせいだとわかった。呪文もなにも唱えていないのに。
「お前ら、なんかムカつくからな。思いきり無残にぶっ殺す。お前らの意図もつもりも関係ない、ただ俺が殺したいから殺す。いいな?」
「な、いいわけ」
「いくぞ」
 そうサドンデスが呟いた瞬間。
 ――世界が凍った。
「っ!」
 がぃんという音が、踏み込みより早く聞こえた気がした。
 固まったフォルデの眼前、ぎりぎりのところでサドンデスの剣を受けて、セオは呻いた。重い。今まで攻撃を受けた相手の誰よりも。
「ほう、この程度は受けれるわけか」
 サドンデスは涼しい顔で大剣をぐいぐい押しながら笑う。これほどの、ラグもロンもフォルデも硬直させるほどの殺気を解放しながらこの余裕。わかっていたことだが、尋常じゃない。
「っ……セオ!」
 ラグが殺気を振り払うように必死に叫んで、鉄の斧を振り下ろす。だが、サドンデスはそれを左手の指一本で止めた。右手ではセオの剣をぐいぐい押しながら。
「な……」
 ラグが呆然とした顔になる。当然だ、二本の指で挟んで止めるならまだ天才的な見切りと言えもしよう、だがサドンデスは指一本で止めた。刃を、そのまま。常人なら骨まで砕くであろう鉄の斧の斬撃を、指一本で。傷ひとつつけずに。
「ハァッ!」
 ロンが気合の声を発し、サドンデスに飛びかかる。全速全力での踏み込みで最短最大の一撃。気合の乗ったその一撃は達人でも受けるのは難しかっただろう、その上サドンデスは両手が塞がっている。
 だが、それも受けられた。
「かはっ……」
 ロンが息を吐く。そして血を吐く。サドンデスは、黄金の爪での攻撃を左足で受け、どうやってか爪を手から落とさせ、そしてそのまま蹴りをロンの腹に埋め込んだのだ。
「っっっ!!! のやろォォッ!」
 フォルデが手足を必死に動かして短剣で喉を狙う。両手も両足も塞がっている、これならばと思ったのかもしれない。しかしそれも無駄だった。
「が……っ!」
 フォルデはがっくりと崩れ落ちた。なにが起きたのかわからないという顔で。
 確かにはたから見たらただサドンデスが頭を動かして髪でフォルデの頭を叩いただけにしか見えなかっただろう。だが、セオにはわかった。あの髪には魔力が通してある。魔法使いでも使える物質強化の呪だ。
 だが、それでも元が髪ではせいぜいが針程度の固さにしかならないのに。急所を突いたのか、魔力が桁外れなのか、その両方か。サドンデスはただ軽く頭を動かしただけで、真正面からフォルデの腰を立たせなくしたのだ。
「……っ!」
 セオはすっと体を退いて鍔迫り合いを避け、そのまま体を回転させて頭に打ち込む。呼吸を合わせてラグも鉄の斧を再度振るった。ロンも血を吐きながらも歯を食いしばり足元を払うような蹴りを放つ。
 だがそれもすべて返された。セオの攻撃は頭を軽く動かしてサークレットで止められ、力をそのまま弾き返されて退がらされた。ラグの攻撃はぴん、とまたも指一本で弾かれた。ロンの攻撃は乱暴に足を動かした、と思ったらロンの体ごと吹っ飛ばされた。
 サドンデスがに、と笑う。
「弱いな」
「て……め、ぇっ……!」
 フォルデが呻きながら必死に立ち上がろうともがく。それをちろりと見てくっと笑い、サドンデスは大きくセオの目にも捉えられるかどうかのぎりぎりの速さで剣を振った。
 普通ならそよ風が吹いて終わりの行為。だが神速をもって、どれだけの力がこもっているかもわからないほどの力で振るわれた剣は、剣圧だけで一瞬風を周囲に巻き起こす。
 とたん、フォルデの喉が、ぱっくりと斬り裂かれた。
「――――」
 セオは一瞬呆然とそれを見つめた。剣圧。風圧。それを操作して真空状態を作ったのか。風に乗せて暗器を流したのかもしれない。でも、どちらにせよ。
 目の前の存在の手で、フォルデが殺されそうになっている。
 それを認識して、セオは即座に欠落≠オた。
 だんっ!
 踏み込みと同時にぎぃん! と鋼を打ち付けあう音が鳴った。受けられたのだ、と考えすらせず即座に刃を返して逆方向から一撃。
 眉間、喉、心臓、右肩、腹部。思考より速く踏み込み、打ち込む。受けられようが弾かれようがセオには関係ない、問題ない。ならばそれより迅く鋭い攻撃を打ち込めばいいだけ。
 相手がどれだけ強かろうとセオにとっては意味はない。脳に奔る思考はただひとつ。目の前の存在が敵だという事実。
 ――殺す殺す目の前の存在は敵性最優先防衛目標を傷つけた敵敵敵殺す殺す殺す敵敵敵敵殺す殺す殺す敵敵敵敵敵存在が消滅するまで殺す殺す殺す殺す殺せ!
 ぎぃん!
 それまで退きながら受けていたサドンデスが、突然セオの側に踏み込んで振り上げた鋼の剣に上から剣を打ち付けてきた。鍔迫り合いに持ち込む気だと判断したセオは体を退こうとする、が。
 それよりもサドンデスの打ち込みは速かった。
 ぎきん! と鋼が耳障りな音を奏でる。上から押し付けられる強烈な力に体が勝手に呻き声を上げた。全力で押し返さなければ首を落とされると認識し、セオは全身の力を腕に込める。
 と、サドンデスが上からにぃ、と笑った。
「まぁまぁだ」
 わずかに息を呑むような音がしたが、セオは意識にも上らせず剣を押す。
「力速さ技容赦のなさ破壊する意思、すべて及第点をくれてやるよ。だが」
 ふっ、とサドンデスが力を抜く。セオの体勢がわずかに崩れる。
 そこへ視認もできないほどの速度で手が突き出され、がっしと頭蓋骨がみしみし音を上げるほどの力で頭をつかまれた。
「その程度の人間のやめ方で!」
 ぶぅん、と振り回される。体を。頭をつかまれたまま、腕の力だけで人形のように宙を舞わされたのだ。
 そしてがっ、と音が鳴るほどの力で背後の石壁へと押し付けられ、そのままがががが! と音を鳴らしながら横へ動かされる。
「この俺が!」
 後頭部に走る激痛。石を削るような凄まじい音。サドンデスはセオの頭で石壁を抉っているのだと認識した。
「倒せるかーっ!」
「が……ぁ!」
 がんっ、とさらなる剛力で壁に打ち付けられ、サドンデスは短く呪文を唱える。
「α-25!=v
 瞬時にサドンデスの前に光の槍が現れ、光速で動いてセオの四肢に突き刺さる。両手両足に走る激痛。サドンデスはこの呪文で自分の体を石壁に縫い止めたのだと理解した。
『セオっ!』
 焦った、引きつった声。セオは全力で四肢を動かそうとするが、光の槍はしっかりとセオを縫い止めて離さない。四肢を縫い止められた上に縫い止めているものは呪文で生まれた光の槍なのだ、外しようがない。だがセオは全力で体を動かす。
 その様子を見てサドンデスはにっこりと、優雅ささえ感じられる笑顔で微笑み、告げた。
「そこで見てな。大切な存在の死≠チてものが、どういうものか――俺がたっぷり、教えてやるよ」
 それから、虐殺が始まった。

 目にも止まらぬ神速でサドンデスが大剣を振り下ろす。
「ぐ、あ、ああーっ!」
 それだけで作りたてのバターのように切れた。ラグの鎧も、肉体も。肩口から腹までばっさり斬り裂かれ、ぶしゅう! と大量の血が噴水のように噴き出す。

―――やめて

 サドンデスが踵を振り下ろす。それでぐしゃ! と果物の爆ぜ割れるような音を立ててロンの肩が潰れた。
「が、あ、あぁぁ……!」
 粉々に砕かれ、骨も筋肉もぐしゃぐしゃになった肩。それを抱えて必死に体を転がそうとするロンをサドンデスは逃がさず、今度は足首を二つ同時に砕いた。

―――やめて

 ずん、とサドンデスが指先一本でフォルデの体を持ち上げる。腹にぶっすりと開けた穴を使って。鋼鉄より硬い指で、内臓を抉りながら。
「ぎゃあっ! や、め、やめ……」
 当然サドンデスは嘆願など聞きもせず、腹の筋肉を抉りながらぽいっとフォルデを宙に放り投げ、空中でさらにいくつもフォルデの体に穴を開けた。穴から筋肉と、内臓分泌液の混ざった強烈な匂いのする液体が漏れ出す。

―――やめて!

 ぶちぶちぶちっ、と嫌な音を立ててラグの腕が体からもぎ取られる。
「が……があああああぁぁぁぁっ!!!」

やめて、やめて、お願いだからやめて!

 ざこ、ざこ、ざこと切り刻まれていたロンの足が縦に断ち割られる。
「ぎゃ、ああ……ぁ、あぁ……ぁ!!」

やめて、なんでもするから! どんなことでもするから! 俺だったら殺されてもなにされてもいいから、だから

 ずぶりっ、と腹に開いた穴に腕を突っ込まれて、びちびちびちっ、と中から内臓を引きずり出され、呪文で火をつけられる。
「ぎ―――ひがあぁぁあぁぁっ!!!」

「だから……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
 ずっと叫んでいたのか、頭の中で言っていたのかわからない。ただ血を吐くほどに声を嗄らして涙も鼻水も垂れ流し、体を引き裂かんばかりに動かしながらそう叫んだセオに、サドンデスはにっこりと優しいとすらいえそうな笑顔を向け、言った。
「いやだね」
 そしてまた、虐殺を再開した。

 どれだけ泣いて、喚いて、叫んだのか。
 セオは、自分の体が自由になっているのに気がついた。
『どうだ? 痛いか? 小僧』
 ずっ、ずっ、とろくに動かない四肢を叱咤し胴体をずり動かし、部屋の中央に向かう。
 そこには、仲間たちの、誰より大切な人たちの体があった。
『その痛みがなぜお前を苦しめるか知ってるか? お前が弱いからだ』
 もはやぴくりとも動かない、その体。誰より大切な人たちの、今ではもはやただの物体になった体。
『痛いのが嫌なら強くなれ。誰よりも。それができないなら死ね。強くなれないなら、どんなものも死ぬ。それをよく憶えておくことだ―――』
 サドンデスの、神竜≠フ言葉がわんわん響く頭を持ち上げて、セオは見た。仲間たちの体を。
 頭蓋骨を断ち割られた、脳漿をぶち撒けられた、目玉の抉り出された、体の斬り裂かれた、四肢の斬り離された、内臓の引きずり出された、肌の焼け焦げた、体中を切り刻まれ穴を開けられ引き裂かれありとあらゆる苦痛を与えつくされて救われないまま殺された体を見た。
 そして叫んだ。
「ああぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ―――――っ」

 カンダタはびくびくしながらサドンデスに引きずられて洞窟の外に出た。正直この人が恐ろしくて仕方ない。
 意識を失いながらもサドンデスとセオたちの会話はぼんやりと聞こえていた。内容はさっぱりぴんとこなかったが。
 なので当然意識を取り戻すやとっとと逃げようとしたのだが、そこであの勇者の仲間たちを惨殺するサドンデスと目が合い、『一緒に来い』と視線と仕草で命令されてしまったのだ。
 カンダタもこれまでさんざん残虐なことをしてきた身ではあるが、だからこそ自分をはるかに凌駕する殺意と力に圧倒された。自分などこの人に比べれば木っ端のようなものだ。機嫌を損ねればすぐにでも殺される。
 洞窟の入り口、そこでカンダタは下ろされた。必死にへらへらとした笑いを口に浮かべて揉み手をする。
「へっへっへ、すんませんねぇあのボケ勇者から助けていただいちゃって。助かりましたぜ、いやホント。あなた様のおっしゃることならどんなことでもやらさせていただきますんで――」
 ざくっ。カンダタの手に、まだ血を拭われてもいない大剣の切っ先が突き刺さった。
「ぎ……ぎゃあぁぁぁっ!!」
「黙れクソ豚」
 サドンデスはぐりぐりと大剣を動かしながら冷静に、冷徹に言葉を重ねる。
「てめぇに喋る権利はねぇ。反論も反抗も認めねぇ。お前が口を利いていいのはただひとつ、俺のこの問いへの答えだけだ」
「ひ、ぎゃあぁぁっ!」
「教えてもらおうか」
 ぐいっ、と大剣を手に突き刺したまま喉元に突きつけて言う。
「天使の羽はどこにある?」

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