ポルトガ〜バハラタ――5
 昔、一度死のうと思ったことがある。
 ひどく不機嫌だった母親に厳しい訓練を言い渡された上にそれができないとひどく折檻され、ゼーマに跡が残らないように何度も殴られ、そして父親はいつも通りになにもしてくれない。何度も何度も繰り返される終わりも救いもない苦痛の日々。
 それが耐えられなくて、苦しくて苦しくてたまらなくて、なによりこの世には自分を必要としてくれている人は誰もいないんだと、その思いに心底絶望して死のうとしたことがある。
 痛いのや苦しいのはできるだけ避けたかった。これまでさんざん味わってきたから。だけど睡眠薬なんてまだ五歳にもならなかったセオに売ってくれる店があるはずもないし、縄で首を吊るにも家の中では準備しているところを誰に見つかるともしれない。だから井戸の中で首を吊ろうと思って、井戸に行った。公共施設の中で自殺をしようなど迷惑極まりないが、その頃の自分はまだ物事を知らない子供だったのだ。
 蔵に放り込んであった縄を探し出し、井戸に向かい走った。そして、井戸の周りに自分と同じくらいの子供が二人いるのを発見した。
 止められてしまうかもしれない、と警戒してその場で待った。その子供たちを観察した。少女とそれよりいくぶん年下の男の子が一人。面差しが似ているからたぶん姉弟だと思った。
 少女は本を開いている。男の子は隣に座ってにこにこと少女を見つめている。少女が静かに語る声がして、本を読んでやっているのだとわかった。
 聞くともなしにその言葉を聞く。セオの知らない物語だった。内容はよく覚えていないがたぶんお伽話だったような気がする。あまり注意して聞いていたわけでもないので。
 ただ、少女の静かな優しい声と言葉は、セオの耳に心地よく響いた。
 さぁ、と風が鳴る。違う、これは木の枝が風にそよいだざわめきだ。季節は春。風の強い季節なのだ。
 柔らかい光が姉弟に降り注ぎ姿に陰影をつける。その後ろに見える空が蒼い。いい天気なんだ、と初めて天候を意識した。
 雲の白。空から降り注ぐ光とそれを受けてきらめく建物たち。緑に萌える若々しい木々。空の蒼。遠くからかすかに響く歌声。それらすべてを柔らかく受け止める大地。
 そして、その世界に響く物語。
 ぽた、と涙が滴り落ちた。ああ。体が震えた。なんて。死のうとした瞬間に、初めて知った。
 なんて、この世界はきれいなんだろう。
 この世に在るものはなんて美しいのだろう。そこに在ること。生きていること。世界は、在るだけで、こんなに美しい。
 そして死んだらこのすべてのものと別れることになる。
 セオは首を振った。いやだと思った。死は哀しいと思った。見えない聞こえない感じられない、世界に存在していられない。それはたまらなく、哀しいことだ。
 苦しかろうが辛かろうが、自分は生きている。なにかを感じることができる。それがどんなに恵まれていることかを知った。世界を感じることができるだけでも、生命の鼓動を刻むことができるだけでも、なにもないより、無より死より、何百何千何万倍も、いい。
 この時セオは初めてちゃんと、命が在ることの重みを、世界を愛することを、死を哀しむことを知ったのだ。
 ―――それがわかっているのに、命の重さがわかっているのに。俺は、殺した。

 意識が戻って最初に見たのは、セオのひどく歪んだ顔だった。
 今にも泣き出すんじゃないかと思うほど、眉を寄せ、鼻を膨らませ、唇を頬を動かして、セオはじっとこちらの顔をのぞきこんでいる。あともう少し顔を寄せたらぶつかってしまうのではないかと思うようなすぐ近くで。
 本当にこの子は自分の顔がきれいだっていう自覚ないよなぁ、と苦笑してラグは手を伸ばしそっとセオの頭を撫でた。さらさらとした心地いい感触。定期的に切ってやっているけれど、たぶん長髪になっても不精という感じはしないんだろうなぁと思うほどさらさらの髪の毛。
 一瞬、セオが目を見開いて、それからぐぅっとさらに顔が歪んだ。あ、やばっ、と思う間もなく瞳に涙が浮かび、ぼろぼろっと零れ落ち、ひくっと喉が鳴って、セオは「うわぁーんっ!!」と身も世もない勢いで泣き出した。
「ちょ、セ」
 落ち着かせようともう一度頭に手を伸ばすと、なぜかすごい勢いで抱きつかれて仰天した。今までセオからこちらに触れてくることなんてなかったのに、なんで?
「ラグさ……ラグさん、ラグさんっ……!!」
 わんわん泣きじゃくりながらぐりぐりと頭をこちらの肩に摺り寄せる。なんなんだ、と思いつつもとりあえず腕を背中に回して抱き返し、ぽんぽんと頭を叩いてやった。
「勇者殿、次の方を蘇らせてもよろしいかな?」
「っ、はいっ!」
 慌てたように立ち上がりラグから離れるセオ。まだ状況がつかめないながらもラグもよっこいしょと起き上がる。そして初めて自分がどこにいるかわかった。
 教会だ。広い教会。
 そして隣には棺桶が二つ並んでいる。
 なんだ? と思って首を傾げ、その瞬間、思い出した。
 ――肩を斬られ腕を千切られ足を裂かれあげくに脳天を割ら
 ぞっ、と体から血の気が引くのを感じた。そうだ、自分は、殺された。神竜≠ニセオが呼んだ、サドンデスと名乗った人間に。
 じゃあ、もしかして、自分は。いったん死んで、蘇生の儀式で蘇らされたのか?
「ロンさんっ……ロンさんロンさんロンさんっ……!!」
「お、っとセオ、目覚めの挨拶にしては熱烈だな」
「フォルデさん……!! よかった、よかった、よかったよぉ……っ!!」
「う……ぶわっ! な、なんだなんだよなにしてんだてめぇなに考えてんだこらっ、ひっつくなボケっ離れろ馬鹿コラ離れろっつってんだろこのタコっ!」
 いつも通りにしれっとしたロンの声とぎゃあぎゃあ喚くフォルデの声にまだあの殺気に痺れる頭を振って、ラグは泣きながらフォルデに抱きついているセオに問うた。
「セオ、あれからなにがあったんだ?  俺たちは、その、あいつに」
 殺されたんだよな。
 そう問いかける声はセオの表情を見たら掻き消えた。
 その表情。言葉で言い表すのは難しかった。恐怖に似ているが瞳には苛烈なほどの意思が見える。敵意というには向ける先がない。あえて表現するなら、セオが暴走した時の殺意に理性を徹したような、虚ろに凍った決意。
 そんな顔でセオは数秒間こちらを見つめて、うつむいた。
「………セオ?」
 おそるおそるそう声をかけると、セオはうつむいたまま呟くように、けれど妙に耳に残る声で言った。
「俺は、決めました」
「……なにをだい」
「俺は、殺します」
 なにを、と問う声は我ながらか細く、ぽた、と床に落ちたセオの涙に驚いた拍子に喉の奥に消えた。
だがセオは聞こえていたかのようにはっきりと告げる。
「敵を、殺します。それが、何百何千何万何億だろうと、世界のすべての命より多かろうと重かろうと、殺します。殺します。殺すって、決めたんです」
 ぽた、とまた床に涙が落ちる。手を伸ばせないでいるうちにぽたりとまた。ぽた、ぽたぽた、と見る間に床を濡らしていく涙に動転しているとロンが一歩踏み込んでぐいっとセオの顔を上げさせた。
「セオ」
「……う………」
 セオの顔はぐしゃぐしゃに歪んでいた。さっきとはまた違ったように。
 覚えている。アッサラームにいた時に何度も見たことがある。あの顔は、苦痛と絶望と悲嘆に必死に耐えるあの顔は。
 子供を、親を、兄弟を、大切なものを自分の意思で捨てる人間の顔だ。
「う……う、う、ううー、う、ううーっ………」
 顔を歪めながら真っ赤になるほど拳を握り締めて嗚咽を堪えるセオの顔を、ラグは呆然としながら、ただ見つめた。

「……ここにいたのか」
 後ろから声をかけられて、ラグはゆっくりと振り向いた。なんとなく、こいつが来ることは予想できていた気がする。
「探したぞ。聖なる河のほとりということは予想していたが、神殿になっている部分だけでも広いからな」
 予想していた相手、ロンはすたすたとラグの横に立ち、にっこり笑ってグラスと酒瓶を取り出した。少しばかり呆れて訊ねる。
「こんなところで飲む気か? そんなグラスで。いくら夜だってここは外だぞ」
「誰が見咎めるんだ。聖なる河の眺めを肴に一杯というのも乙だろう?」
「……やれやれ」
 苦笑しつつグラスを受け取った。確かに、飲みたい気分ではあったのだ。
 地べたに座り込んで、すするように酒を舐める。ふわり、と香った酒精の芳香にラグは目を見開いた。
「ずいぶん上等な酒だな」
「お前と飲むんだ、せっかく差し向かいでさしつさされつできるというのに、酒がまずくては興醒めだろう?」
「なんだよさしつさされつって……」
 苦笑しつつもゆっくりとグラスを乾し、しばしお互い無言で杯を重ねる。バハラタ地方では宗教の関係で飲酒の習慣が盛んでない。一応旅行者向けにいくつかないではないが、こんな上等の蒸留酒など見つけてくるのは大変だっただろう。
 ぼんやりと聖なる河を眺める。月明かりに輝く水の流れはそれなりに美しかった。たとえ昼はご利益を得ようとする人々で満杯な薄汚れた河だとしても。
「……お前らなに二人だけで飲んでんだよ」
 背中からかけられた声に、ちらりと振り向く。ロンがからかうように笑った。
「なんだフォルデ、飲む気があるなら言ってくれればいいものを。酒は祝い事のある時以外飲まないとか言っていたからお前の分は用意していないぞ」
「別にいらねーよ。酒に酔う気分じゃねぇ」
「セオは?」
 フォルデはセオが寝付くまで見張ると言っていたので、ずっとセオを連れていった部屋に詰めていたと思ったのだが。
「もう寝た。やっぱ体力消耗してたみてぇ。ベッドの中に放り込んでしばらくしたらことっと」
「ま、体力も消耗するだろうさ。あれだけ手ひどくやられたあと、一人の力で三人分の棺桶引きずってさらわれた女や男を連れて帰ってきたんだからな」
 フォルデはそのロンの平然とした顔で言った言葉にぎゅっと眉を寄せたが、なにも言わずに視線をラグたちから聖なる河の向こうへ移した。ラグはどう答えるべきか思いつかず、頭をぐるぐるさせながら小さくうつむく。正直、自分にはなにも言う資格がない気がした。
 沈黙が下りた。しばしロンが酒を舐める音と河の流れる音だけが響く。
 数分ほど経ってから、フォルデが口を開いた。
「俺、死ぬの初めてだったんだ」
 妙に音量やら感情やらを抑えた声で言う。こいつのこんな声を聞くのは初めてだ、と思った。
「まぁ、たいていの人間は初めてだろうな。寿命や病死じゃ蘇生の儀式は使えんし。どんなに遺体の状態がよくても確率は半々、失敗しても金は戻ってこないというんじゃ冒険者でも進んで使う奴はそうそういないさ。失敗したら魂が消滅するっていうせいで宗教上の理由から拒否する奴も多いそうだしな」
「その点は俺たちは運がよかったってことになるんだろうな。セオの勇者の力で、絶対確実に蘇生の儀式が成功するんだから」
 軽い口調で言うロンに合わせてできるだけ軽く言ってみたが、フォルデはそれにとりあわず低い声で続ける。
「死んでた間のことなんて全然覚えてねぇけど。死ぬ直前のことは……殺された時のことはよく覚えてる」
「…………」
 ラグはフォルデに視線を向け、また逸らした。自分も覚えている。忘れられるわけがないあれだけ鮮烈な殺され方をして。
「すげぇ、痛かった。死ぬほどの痛みっつーの、ああいうのを言うんだな」
「そりゃそうだろうな。俺も本気で死ぬほど痛かった。というか実際に死んだんだが」
「……死にそうになったことは何度かあるが。本当に死んだのはこれが初めてだったよ」
 正直思い出したくない。だって。
「俺、すげぇ怖かった」
 ラグは驚いてばっとフォルデの方を向いた。こいつが、この天井知らずにプライドの高い男が、弱音を吐いた?
 フォルデは感情を抑えた無表情で、じっと聖なる河の向こうを見つめている。口からは低く、だがはっきりとこの男の口からは初めて聞く言葉を呟きながら。
「死ぬほどの痛みっつーの味わって、苦しくてたまんなかった。逃げ出したかったし誰かに助けてほしいって思った。どんだけ必死にやっても勝てない奴には勝てないんだって思い知らされて、マジでビビったよ。死にたくねぇって思った。本気で殺されるって、自分はどうあがいても死ぬって思った時って、マジに……怖ぇもんなんだな」
「……そうだな」
 ロンの低く呟く声の掠れた響きに、ラグはこの飄々とした男にとってもあの惨劇は衝撃だったのだと知った。正直今自分がこうして生きているのが不思議に感じられるほど、あのサドンデスという堕ちた勇者に与えられた死は絶対的だったのだから。
「別に、あいつの――セオの肩持つ気ねーけど。あの時の怖さをずっと覚えてんるんだったら、戦い嫌がんのも、殺すの怖がんのも、わかんなくはねー、って気がする」
「……フォルデ」
「ふむ。ではセオの今までの言葉の方が正しかったと思うのか?」
 普段通りに飄々とした、だがその底にわずかな緊張を隠した声。それに気付いているのかいないのか、フォルデはふん、と鼻を鳴らした。いつも通りに、生意気に。そう心がけているかのように。
「冗談じゃねぇ。だから≠ヘっきり言える。あいつは馬鹿だ。死ぬのが怖いのは別にいい、殺すのが怖いのもどうってことねぇ、ムカつくけどな。ただ、それに耐えられねぇほど、殺す相手にまで身内みてーに勘定するほど入れ込むのは、大馬鹿野郎のすることだ」
 言葉の内容と同じ、馬鹿にするような声。だがときおり語尾がわずかに震える。きっと宙を睨む瞳にわずかにかすかに、人を思う揺らぎが見えた。
 こいつもやっぱり、セオが心配なんだろうな、とラグは思う。ついついなぁなぁでここまで来てしまったが、魔王を倒そうというのならセオはいつかどこかで覚悟を決めなくてはならない。敵を殺す覚悟、相手の命を背負う覚悟、相手を殺してでも生き延びる覚悟を。
 それはもちろん旅の最初からわかっていたことではあった。今でなくても、だの人に促されての決心というのはどうか、だの思いきれずについつい先延ばしにしていたが。
 その時が今だというのだろうか。
「……なんで、突然あんなこと言い出したんだろうな」
 ぼそりと呟くと、ロンに呆れたような目で見られた。
「本気で言ってるか?」
「いや、そりゃ見当はつくけどさ」
「それ以外にどう考えようがある」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
 イシスの引退した勇者、エラーニアの言葉を思い出す。彼女の言った、世界のすべてを、魔物の命すら背負って戦う勇者というものもラグには受け容れがたいものではあったが。
 自分たちを、守るために。仲間たちをもう殺させないために、そのためだけに勇者の力を得てしまうほど強く強く思っている命に対する慈しみを捨ててしまうのも、それはそれでどこか違うというかセオらしくない、ような気がする。
「どこまで本気だと思う?」
「さぁな。衝撃を受けたてで動転しているということもあるだろうし。だが、ラグ? 気がついていないとは言わさんぞ?」
「なにをだよ」
「セオはなにかをする、と言って前言を翻したことは一度もない」
『………………』
 ラグは黙り込み、視線を聖なる河の彼方へと移した。フォルデもひどく感情を抑えた、こいつでなければ沈んだとすら言ってよさそうな顔で無言でそれに並ぶ。
 これからセオはどうするつもりなんだろう。殺された衝撃も大きいしあのサドンデスという相手に対する恐怖もあったが、たぶん自分たちは今、それを一番気にしている。
「……あのサドンデスとかいう奴は、何者だったんだろう。神竜≠チて、セオは言ってたけど」
「『堕ちた@E者の始まりにして人でなしの究極。人を超えた者。神殺しの神の名を冠された世界最強の勇者』……そう言っていたな。エラーニア殿も堕ちた勇者とやらの例を挙げる時言っていた覚えがある」
「神竜=c…。神殺しの神ってなんなんだろーな。さっぱりわかんねぇ。わかったところで、別にどーでもいいけどよ」
「一応セオには聞いておいた方がいいだろうな。あいつは――あの理不尽なまでに強い勇者は、俺たちの敵に回ったんだ。今はどう避けるかしか考えられないとしても、むしろそれだからこそ情報は多い方がいいだろう」
『…………』
 全員しばし黙り込んだ。酒の肴には、あまりにふさわしくない話題だ。現在もっとも印象的な話題だとはいえ。
 重苦しい沈黙をしばし味わったあと、ロンが軽い口調で言う。
「そういえば、オクタビアはもう出発したんだそうだな?」
「え、そうなのか」
「ああ。商談が済んで、勇者が生きて仕事を果たして戻ってきたんだからもうこの街に用はないなどと抜かしたそうだぞ。配下の魔法使いらしき人間のルーラで隊商丸ごと飛んだらしい。報酬が欲しければ自分たちの作る街までやってこい、などとな」
「チッ、あのクソ女。そこまでして俺らをてめぇの街に引きずり込む気かよ、せっけぇな」
「まったくだな。あの勇者といいあの商人といい、女というのはどいつもこいつも……いやこういう言い方は気に入らんのだったな、失敬」
「……? ロン、お前そんなにエラーニアさんのことが嫌いだったのか?」
「違う、なにを言っている。俺たちを殺したあの女に決まっているだろうが」
「は?」
「なんだ、気付いていなかったのか? あの理不尽勇者――サドンデスは、女だぞ?」
『………………』
『はぁっ!!?』
 ぶったまげて叫ぶラグとフォルデに、ロンはなにをいまさら、とでも言いたげな顔で酒をすすった。

 セオはゆっくりと眠りから醒めた。
 体がまだ少し重い。回復呪文で傷は癒したが、それでも相当に血は流れ出たし、それ相応に体力も消耗している。癒しの呪文はある程度の使い手ならば血液も同時に再生するが、精神と肉体の疲労を完全に回復するには、勇者の力を使ってすら安全な、結界の張ってある場所で一晩休むことが必要になる。
 真の勇者ならばそもそも自分や仲間に体力を消耗させないという力すら持つと聞く。たぶん自分は勇者本来の力をきちんと発揮できていないのだろう。そう考えるとぐっと腹部が重くなるような罪悪感を感じたが、その瞬間より強い自嘲のような感情が心臓を刺した。
 もう、お前は勇者ですらないのかもしれないのに、そんなことを思う資格があるのか?
 一瞬息を止め、それからゆるゆると体から力を抜いた。そう、もういまさらだ。自分は決めてしまったのだから。
 周囲を見回した。自分に寝るまで見張ってっかんな、と宣言したフォルデは隣のベッドですやすやと寝息を立てている。そのことにひどくほっとして、けれど同時に強烈な罪悪感を抱いて、セオはできるだけ音を立てないように立ち上がった。
 正直、合わせる顔がないという気分だった。自分は、殺した、助けなかった、罪を犯した自分は、これからもっともっと、数えきれないほどの命を、殺すのだから。
 静かに扉を開けて外に出る。足音を忍ばせて廊下を歩き、宿屋の外に出た。時刻は明け方、黎明の時。少しずつ明るくなっていく東の空が、薄汚れたバハラタの街をゆっくりと朱に染め上げようとしている。
 どこにいればいいんだろう、とぼんやり思いながらセオはバハラタの街をさまよった。アリアハンにいた時のような気分だった。どこにいても、なにをしていても、自分の存在が在ってはいけないと感じてしまう、そんな気分。
 人のいない、薄暗い街をのろのろと歩く。どこにいれば、どこに行けばいい? 自分には在る資格はない、生きる資格はない。だけど生きなければならないのだ。自分は決めたのだから。
 救えるかもしれなかった命を殺すと、決めたのだから。
 そんな風に鬱々と考え込んでいたので、最初は気配に気付かなかった。うつむきながら前を通り過ぎようとして、声を上げられてはっとした。
「せ、セオさん! お、お久しぶりです、偶然ですねっ!」
 ばっと声のした方を見て、思わず目を見開く。元気を無理に搾り出したような笑顔でこちらを向いている、柔らかく丸みのある優しげな風貌。
「……エリサリ、さん?」
「は、はい! こんにちはっ、セオさん!」
 ひどく力んだその表情に、セオは目をぱちぱちとさせた。

 エリサリはなぜかひどく緊張した表情で、てこり、てこりとセオの隣を歩いている。「ちょっとお話ししてもいいでしょうか」と言ったきり、なにか言いたげにこちらをちらちらとは見るもののなにも言わず、喋らずに。
 セオも同様に口を開かずエリサリの隣を歩く。とこり、とこりと。頭の中を疑問符でいっぱいにしながら。
 なんでこの人がこんなところにいるんだろう。今、この時に。彼女は勇者を見張っているということだから、セオの近くにいるということ自体は別に訝るようなことではないのだろうけれども。
 けれど、なぜ今セオの前に姿を現したのかはさっぱりわからない。彼女はノアニールで自分たちと別れた。職務風紀上必要のある時以外勇者と関わるわけにはいかない、というような意味のことを言っていたはずだ。なのになんで? エリサリにとって今セオと関わるどんな必要があるというのだろう。
 少しずつ太陽が昇っていく。まだ地平線から完全に脱していない朱の光。それはやがて黄金色に変わり、街を、世界を山吹色に照らし出すのだろう。旅の間見張りの時などに何度も見た、セオの好きな時間。世界が新しく生まれる時間だ。
 今の自分は、そんなことを感じる資格も、きっとないのだろうけれど。
 小さくうつむくと、エリサリが「あのっ、セオさんっ!」と声を上げた。
「え、は、はい、なんでしょう?」
「あ、あの、座りませんかっ? そこ、石畳になってるみたいですしっ」
「え……」
 言われてみればいつの間にか自分たちは聖なる河の神殿地帯にまでやってきていた。石灰岩を積み重ねて作られた石畳と石柱の立ち並ぶ空間。屋根はないが、風雨にさらされながらも柱も石畳もきれいに磨かれている。この地方の人々の信仰の目に見える証だ。
「……はい」
 セオは小さく答えて、言われた通りに石畳に座る。エリサリもセオと並んで座った。エリサリがこちらを見たくないのなら改めて向き合うのも無礼だろう、とセオは向きを直さず最初に座った向き――聖なる河ガンガーの方向を向いたまま、しばらく黙って座っていた。
 ガンガー河。この河が聖なる河と呼ばれるようになったのにはいくつかの理由がある。河沿いや水源にこの地方の主たる信仰、シェーヴァ教の聖地と呼ばれる場所があること。正当性は怪しいが、広く信じられているこの河にまつわる冥界をつかさどるとされる神、シェーヴァの神話があること。
 だがなによりも、この河の雄大さが人々に神聖なるものであるという感想を抱かせたからだろう。
 広く大きくゆったりとしたこの河の流れは自然の偉大さを否が応でも見るものに伝える。悠々とゆるやかに河の水は海へと続き、河口域には巨大な湿地林が広がるその広大さは、見る者に世界の広さと、美しさを伝えるのだ。
 自分がその前に存在することに罪悪感を感じ、セオが河から微妙に目を逸らすと、エリサリは声を張り上げた。
「あのっ!」
「はい」
「セオさん、なにをそんなに落ち込まれてるんですかっ?」
「え」
 エリサリはきっと、興奮のせいかどこか泣きそうに見える瞳でこちらを見据え言いつのる。
「あの、お仲間さんたちを殺されたそうですけどっ、そんなの別に気にすることじゃないと思うんです! そりゃ、本当に死んじゃったら大変ですけど、セオさんの勇者の力で全員ちゃんと蘇れたじゃないですか! それはセオさんが一人でちゃんとお仲間さんたちの体を教会まで持ってきたからですしっ、セオさんはやれることちゃんとやったと思いますしっ、強い敵と戦えば犠牲が出ることなんて本当に、珍しいことじゃないと思うんでっ、そんなに落ち込まれなくてもって、私思うんですけど!」
 セオは言い切ってじっと、やっぱり泣きそうな顔でこちらを見つめるエリサリを見つめた。なんでそのことを知っているんだろう。そして、どうして今この時、この場所にやってきたんだろう。
 この人は本当に、不思議な人だ。
「……そういうことじゃ、ないんです」
 セオはゆっくりと首を振った。泣かないように、顔を全力で緊張させながら。
「ラグさんやロンさんやフォルデさんが死んだのは、本当に、辛くて、苦しくて、衝撃的でした。あの人たちがもうこの世から消えてしまうかもしれないと思ったら、本当に死にたくなるほど不安だった。……でも、それは確かに、すんだこと、って言ってしまえることです。いまさら俺が落ち込んでも意味がない、無駄で愚かで許されないことです。わかって、ます」
「じゃあ、あの、なんで」
「でも俺はいけないことをするんです。とても、とてもいけないことを」
 声を震えさせないように静かに、呟くように、エリサリを見つめながら言うと、エリサリはカッと顔を赤くしながらも、きっとこちらを見つめながら言い返してきた。
「いけないことってなんですか。魔物を殺すことですか?」
「え……なん、で」
「っ、そんなの誰だってわかります! それのどこがいけないっていうんですか、ごく当たり前のことでしょう!? むしろ善行って言っていいことです! 魔物はこの世界に混沌を呼び込む存在、世界のためには殺すべき害虫だし魔物を殺せばその分襲われる人の数は減るんですよ!? 罪悪感を抱く必要なんて微塵もないじゃないですか!」
 セオはじっとエリサリを見つめた。魔物は害虫。そう言い切ってしまえる人の強さを、セオはすごいと思う。
 けれど、自分にとってはたぶん、そういう問題ではないのだ。
「俺は魔物しか殺さないわけじゃ、ありません」
「え」
「人間でも。エルフでも。ホビットでも。俺たちの敵になるならば、殺します」
 静かに言い切ると、エリサリは数瞬絶句して、それからおそるおそる、緊張した表情で訊ねた。
「敵って、なんですか」
「俺と、俺の仲間たちを殺す可能性が高い存在です」
「可能性が高いというのは、具体的にどれくらい……」
「こちらを襲ってくる気配があると判断した相手、全部です」
「な、なら別に問題ないじゃないですか! 自分の命を守るために相手を倒すのは命持つ存在として、ごく当然の」
 当然。その言葉を聞くと、セオは泣きたくなる。
 勇者として当然このくらいはできるべき。男としてそうあってはならない。人間ならばそうあって当然。『当然』と言う人の枠組みから外れた存在をことごとく否定し、相手を理解することを拒む言葉。
 そして自分を、正当化する言葉だ。『当然』といわれるほど多くの存在がその行為を行っていることと、その行為が正しいのかどうかには、関係がないことなのに。
「そう、思いますか?」
「ええ、だってそんなの当たり前じゃ」
「逃げ出そうとする魔物がいた。でもそれを逃がせば次は不意討ちされるかもしれないし、なにより高い経験値を持っている。だから殺す。これは、当たり前ですか?」
「あ、当たり前でしょう?」
「罪を犯した人間がいる。俺たちに捕えられ、心から反省した、もう罪は犯さないと言っている。でも態度が不審で武器を持っていて、逃がせば俺たちを襲ってくるかもしれない。そして経験値になる。だから殺す。これも、当たり前ですか?」
「た、たぶん当たり前だと思います、よ?」
「山賊が俺たちを襲ってきた。だから殺した。その子供が生き延びていた。俺たちを憎み、恨む気配がある。かつ、経験値になる。だから殺す。これも、当たり前ですか?」
「い、一応当たり前なんじゃないかな、と」
 そこまで言って、エリサリは気付いたようだった。
「あの。決め手は経験値なんですか?」
 セオは窺うようなエリサリの視線を見つめ返し、うなずいた。
「そうです」
「…………」
 戸惑ったようなエリサリの沈黙。当たり前だ、これがどれだけひどいことかはよく知っている。よく判っている。自分も、似たような経験をしているのだから。
 でも、自分は決めたのだ。
「敵だから殺すのは、確かです。でも、俺たちの危険になる可能性が低くても、経験値が入るなら殺します。つまり、この世界のすべての存在を、俺は殺します」
「あの……なんで、ですか?」
 どこか理解に苦しんでいるような声で、エリサリは訊ねる。
「経験値になるからって……経験値って、勇者のレベルを上げる力の源になるエネルギーですよね。なんか、エネルギーを得られるから殺す、って……なんていうか、セオさんらしくないような気がするんですけど」
 セオはわずかに目をぱちくりさせてから、ゆっくりと首を振った。それは買いかぶりだ。
「いいえ。俺は、ひどく俺らしいと思います。自分の勝手で、わがままで魔物を殺さなかった俺が、またわがままで魔物を殺すんですから」
「わがまま、って」
「俺は、もうあの人たちが死ぬところを、見たくないんです」
 言ってしまってからなにを言っているんだろう俺は、とはっと口を押さえた。こんなただの愚痴にしかならないことをなんでこんな、会うのも二度目にしかならない人に話しているんだろう。
 だが、自責の思考ののちエリサリの様子をそっとうかがって、セオは押さえた手をそろそろとどけた。エリサリはひどく真剣な顔でこちらを見つめていた。こちらが話す言葉を全身で聞いている感じだった。
 自分の話を聞きたいなどという人はめったにいないと思うけれど。この人は、なんと言えばいいのだろう、自分などの言葉に本気で一喜一憂するような雰囲気を感じた。ラグやロンやフォルデのように、自分の欠点だらけの性格を苦笑したり怒ったりしつつ許容してくれるのではなく、セオの性格の欠陥などに気付きもしないでセオの言葉がまるで偉い人の言葉のように受け取って翻弄されてしまうような。
 ああそうか。この人は、たぶん少し俺に似てるんだ。俺と、人を見る視線の高さが同じなんだ。だから、たぶんこんなに、不思議な人だと思ってしまうんだ。
 その自覚は、奇妙な、こそばゆいような疼くような奇妙な感覚をセオに与えた。自分よりも価値のない人間なんてきっとこの世にはいない。だけどこの人は、自分と同じ、というのが言い過ぎでも近い視点で話をしてくれている。俺に合わせてというのではなく、たぶんそれが自然な状態だから。
 その人が、今自分の話を聞こうとしているなんて、本当に不思議だ。セオはひどく奇妙な気分になりながら、ぼんやりと口を開いてしまっていた。
「俺は……ラグさんや、ロンさんや、フォルデさんが殺された時。本当に、世界が終わったような気持ちになりました。苦しいとか、寂しいとか辛いとかいう言葉じゃ言い表せないくらい、もう生きられないって思ったんです。大好きな人たち。一緒に幸せになりたいって思った人たち。俺が大切だと言ってくれた、この世でただ三人の存在。その人たちともう喋れない、一緒にいられない、笑いかけてくれることも俺がしたことを喜んでくれることももうない。失ってしまったって……得られるはずのないものを得たのに失ってしまったって思ったら、もう立ち上がる気力が湧かないくらいの衝撃を、受けました」
「………はい」
「勇者の力で生き返れる。それはわかっていました。だけど、もし万一その力がうまく働かなかったら? 俺は勇者としてもお話にならないくらいに未熟です、本来なら感じないはずの疲労を感じさせてしまうくらいに。そういうこともないとはいえないと思いました。だから、棺桶に包まれたみなさんを教会まで運んでいく時、俺は本当に、死にそうに、死にたくなるほど怖かったんです」
「はい」
「俺は、そんな思いを、もう二度としたくないんです。あの人たちを永遠に失うかもしれない賭けになんて、もう二度と、乗りたくないんです」
「…………」
 じっとセオを見て、エリサリは何度か口を開きかけて閉じるという動作を繰り返し、いったんうつむき、それから意を決したように顔を上げ言った。
「つまり、それって、『大切な人たちを失いたくないから戦って強くなる』ってこと、ですよね?」
「……聞こえよく、言えば」
「聞こえよくもなにもその通りでしょう!? だって、そんなの当たり前じゃないですか、大切な人を死なせるよりはって手を汚すことを覚悟するくらい、別に普通ですよ! なにもそんなに、自分を責めることは、ないと、その、思うんですけど……」
 最後の方はもにょもにょと口の中に消えさせつつも、それでも必死にセオを見てエリサリは言う。真剣な眼差しだ。自分なんかにそんな顔をする価値はないのに。本当にこの人は不思議で、一生懸命で、普通と違うところが少しだけセオに似ている。
 だが、セオはゆるやかに首を振った。
「そういうことじゃ、ないんです」
「じゃあどういうこと、なんですか」
「俺は、一度殺されたことがあります」
 エリサリは目をぱちくりさせてから、こっくりとうなずいた。
「はい」
「そして今日、大切な人たちを殺されました」
「……はい」
「逃れようのない唐突な死がどれだけ残酷な、ひどいことなのかわかっているのに、俺は殺すんです」
「それはっ」
「魔物だろうと悪人だろうと、生ある存在ならみんな。それがどんなに怖くて苦しくて救われないことかよくわかっているのに、俺は自分のわがままで、ただあの人たちを殺されないために、世界を殺すんです。経験値っていう力を得るために、誰にもあの人たちを殺されないほど強くなる、ただそれだけのために、わかりあう可能性を捨てて、山ほどの命を殺すんです。その罪はきっと、知っているからこそ、誰よりもたぶん、重い」
 ゆっくり静かに言葉を紡ぐ。だがエリサリはぷるぷると首を振った。
「でも! それは生きようとする存在なら誰もがみんな抱える罪です。殺さないで手に入る肉はないでしょう!? 生きるために殺すのは人として当然でしょう!? そういう罪を抱いてしっかり生きろと神は」
「本当に、そうでしょうか」
「え」
「生きるために殺す。それは、本当に当然なんでしょうか?」
 その言葉に、エリサリはぽかんと口を開け、それから勢い込んで反論してきた。思っても見ない言葉だったようだ。
「だ……だって! 本当に当たり前のことじゃないですか! 人間が、ううん生あるものがこの世に誕生した時から、命は他の命を殺し、喰らうことで命を維持しているんです! それが間違ってるっていうんですか!?」
「いいえ……いいえ。俺に間違ってるなんて言う資格はありません。今も他者の命を喰らって生き延びている俺がどうこう言えることじゃありません。でも、ただ、俺は――嫌なんです」
「嫌……って」
 エリサリがぽかんと口を開ける。わかっている。馬鹿なことだとわかっている。でも、それでも自分は思うのだ。
 当然で、今までずっとそうだったからこれからも当然にそうでいいのか。必要だからという理由で殺し、邪魔だからという理由で殺し、違う種族のみならずお互いの間でも憎しみ争う、それを仕方ないと言って終わらせていいのか。
 命は、一人一人に与えられた、ただひとつの、取替えの効かない恵みなのに。
「生きるということは他の存在の命を奪うこと。わかっています。でも、ならばなんのために人に心が、文明が技術が言葉があるんでしょう。無駄に命を奪わないため、失われる命を少しでも減らすためじゃないんでしょうか」
「そ、れは」
「そして、なぜ勇者に人でなしの力があるんでしょう」
「人でなし、って」
「当然。しょうがない。やむをえない仕方がない他にどうしようもない。そういう人の力ではどうしようもない、世界の理不尽を解決させるためじゃないんですか。少なくとも俺は、そうでなければならない、と思ったんです」
「で、でも! 勇者だって強くなるためには敵を倒さなきゃならないじゃないですか!」
 セオは小さく顔を歪めた。そうだ、その通りだ。わかっている、勇者は、人でなしは力を得るために他者の命を喰らわなければならない。救うために殺す。どの命を救いどの命を見捨てるか、命の選別を行わなくてはならない。
 そして、自分はそれがずっと、泣きたくなるほど嫌だった。
 そして、今でもそれを行うと考えただけで、胸に剣を突き立てたくなるほど嫌なのに。
「……そうですね。だから俺の罪は、たぶん誰よりも重い」
「だからなんで」
「俺は、救いたかったんです。少しでも」
「なにを、ですか」
「失われる命を。消えてしまいそうになって、救われたい、誰か助けて、と必死に祈る命に少しでも救いの手を差し伸べたかった。それがたったひとつ、この世に俺が在る方法だと思った」
「在る方法、って」
「俺は、自分がこの世に在っちゃいけないんじゃないかってずっとずっと考えてきました。親にとっても、周囲にとっても鬱陶しい存在でしかなかった俺は、その方法しか、自分にできるありったけで失われる命を減らす、その誓いしか自分に誇れるものがなかったんです。少なくともその気持ちは、このたまらなくきれいな世界を少しでも守る役に立ちたいという気持ちは、それだけは間違いではないと思ったから」
 セオはゆっくりと視線をガンガー河の向こうに向ける。河は少しずつ朱から橙に色を変えようとしていた。完全に陽が昇り、世界を輝かせるまでもう少しだ。
「罪を犯して。俺は罪人で、罪を償わなければならないのだと知って、ますますその思いは強くなりました。このきれいで残酷な世界の残酷な理を、当然のこととして失われていく命を自分にできるありったけで救いたい。救わなければならない。そうしなければ俺のような存在は、生きることが許されない。そう思ったんです。もちろん命が失われるのが単純に嫌で嫌でしょうがなかったからでもありますし……救われなかった自分の代わりに救われたいと願う命を救いたいっていう、代償行為じみたところもあったと、思いますけど」
「……セオさん」
「でも、俺は、あの時、『いいのかもしれない』って思ってしまったんです」
「え?」
 またゆっくりと視線をエリサリの方に戻し、言う。
「誘拐されて、目玉を抉り出されようとしている時に、ラグさんや、ロンさんやフォルデさんが助けに来てくれて。俺は生きていていいのかもしれない、って思ってしまったんです」
「なっ……当たり前じゃないですか! だって神の創りし存在として生まれたならどんな生き物もみんな」
「そうかもしれません。でも、俺はそう思えなかったんです」
「え」
「俺が、俺を無条件に生きていていい存在だって許せなかったんです」
「な」
 エリサリがまた口を開ける。セオは少し視線をどんどん明るくなっていく街の方にずらし続けた。
「両親や周囲の人間に、存在を認められなかったせいかもしれません。罪を犯したことを、そしてそれを自分が悪いと心から反省できなかったこともあるのかも。でも、俺は俺を認められなかった。許せなかった。もっといい存在であってほしい、そうでなければ生きる価値がないって、傲慢なことを考えていた」
「…………」
「そして、今日俺を救いにきてくれたあの人たちを見て。これまで、何度もあの人たちが伝えてきてくれたことが、あの人たちが本当に、心から俺に生きていてほしいと思っていることがようやく、腑に落ちて。義務とか、誓いとかが吹っ飛ぶくらい嬉しくてたまらなくて。俺は、自分が本当に幸せだと思って。……でも」
「でも?」
「それを失う可能性の高さに、俺は全然気付いていなかった」
 ぎゅ、と拳を握り締める。骨が軋むほど。皮膚が破れそうになるほど力を込めて。
「俺はわがままで、自分がただ命を奪いたくないがためにずっとここまで魔物を倒さずにやってきました。そしてあの時、それを後悔してしまったんです。あの人たちを救えるようもっと強くなっていたかった。もっと魔物を殺しておけばよかった、って一瞬思ってしまったんです。俺が嫌で嫌でしょうがなかった命の選別を行ったんです。――ただひとつ、これだけはと自分に誇れた誓いを、俺は穢したんです」
「……っ」
「そして俺はこれから敵を殺すと決めたんです。命が奪われる際の絶望を知りながら。命の選別がされる側にとってどれだけ残酷なものか知りながら。全身全霊で異を唱えていた世界の残酷な理に、その醜さを知りながら、従うと決めてしまったんです。ただ、自分の好きな人たちに生きていてほしいという、わがままのために。勇者の力を失ってしまったとしても、他の人たちが強くなれなかったとしても、自分が強くなれればそれでいい、って」
「いいじゃないですか、それで! 世界の理がそうなってるんです、神がそうお創りになったんです、セオさんが罪悪感を感じる必要なんて全然ない!」
「……そうですね」
 セオは逆らわず首肯したが、エリサリはきっとこちらを睨んできた。くるんとした大きな瞳が涙で潤んでいる。本当に、今にも泣き出してしまいそうだ。
「じゃあどうしてセオさんはそんなに悲しそうなんですか!」
「……そう、見えますか」
「見えます! 今にも泣きそうなくらい悲しそうな顔してます!」
「そうですか……すいません。俺には、泣く資格も、悲しむ資格もないのに」
「なんで……なんでセオさんはそうなんですか!」
 ぽろっ、とエリサリの瞳から涙がこぼれた。歯を食いしばって堪えながらもぽろぽろ落ちていく涙。セオはそれを見て、ずきりと痛んだ胸をつかんだ。この涙は、きっと自分のせいで流れた涙だ。なのに自分はこの人をどう慰めればいいかもわからない。
 人が自分のために泣くところなど、セオは初めて見たのだから。
「セオさんは間違ってない、なのにどうしてそんなに自分を責めるんですか! 泣くのを堪えて、悲しむの禁じて、幸せになっちゃ駄目って自分に言い聞かせてるみたいに! そんなことしたって意味ないじゃないですか、魔物を殺すのに罪悪感抱く必要なんてないし仲間を守るため敵を殺すのは当然のことで、だから、だから」
 言いながら堪えきれなくなったのかう、うとしゃくりあげ始めるエリサリに、セオは胸が引き絞られるような感触を覚えた。苦しい。なんだろうこの感覚は。自分のために泣くこの人を見ると、どうしてこんなに胸がぎゅうっとするんだろう。
 溢れ出しそうになる感情を抑えきれず、そっと震える手を差し伸べた。ぽん、ぽんと頭を叩く。優しく、撫でるように。ラグが自分にしてくれたように。
「……セオさん」
 泣きながらこちらを見上げるエリサリに、セオは微笑んだ。陽が昇り、黄金の輝きをきらきらと反射するガンガー河を背景に。
「ごめんなさい、エリサリさん。……あなたは、優しい人ですね」
 エリサリはカッと顔を赤くしてじっとセオをぼうっと見つめ、返事はしなかった。
 ―――セオのこんな普通の笑顔というのは、本当に本当に本当に、特に他人に見られたのなんてもしかしたら生まれて初めてじゃないかと思うくらい珍しいことなのだが、どちらもそのことにはまるで気付かなかったのだった。

 とぼとぼ、という音が聞こえそうな歩調でバハラタの街の外れを歩くエリサリの横に、豪奢な二頭立ての四輪馬車が止まった。は、と顔を上げるエリサリの前で、扉がすっと小さく開く。
 エリサリは緊張した面持ちで馬車に乗る。扉が自然に閉じ、馬車は走り始めた。
「目的は果たしたの?」
 中にひどく優雅に座していた少女の姿をした女が声を出す。エリサリはごくんと唾を飲み込んでから大声で答えた。
「はいっ、勇者セオ・レイリンバートルとの接触は無事終わりましたっ」
「そう。で、首尾は?」
「あの、順調ですっ。勇者セオは魔物を倒してレベル上げをすると決意しましたっ、確認取れました。Ω-3に対する敵意もほぼ確認できましたっ」
「……ほぼ?」
 じろり、と見据えられエリサリはびくぅ、としながらも必死に言う。
「あの、敵は殺すって言ってましたから、ほぼ間違いないって」
「エリサリ。研修の時に私は言ったはずね? 確定していない事実は事実ではない。あいまいな情報はプロジェクトに破綻をもたらすわ。あなたはこの世界に混沌を呼び込む気?」
「ご、ごめんなさいっ! そういうつもりじゃなかったんですけど、話の流れ的にその、聞きだせる状態じゃなくて……」
「……まぁいいわ、最初からあなたにそう期待していたわけではないし。そちらは別口に探らせましょう、ちょうど使えるのがいるから。あなたにはまた別の仕事をしてもらいます」
「はい……」
 しばしの沈黙。息詰まるような空気が広々とした馬車の中に満ちる。だが、エリサリは我慢できなくなったのか声を上げた。
「あのっ、ヴィスさま?」
「なに」
 扇で顔を隠しながら鬱陶しげに、少女――ヴィスタリアはエリサリを見た。エリサリは勢い込んで訊ねる。
「あのっ、どうしてセオさん、じゃない勇者セオをΩ-3と、神竜と会わせる必要があったんですかっ?」
「……なんでそんなことを?」
「あのっ、なんていうかセオさんすごくその、傷ついてたみたいですし、あの盗賊にもひどいことされてましたし、なにもあの状況で神竜と会わせる必要はなかったんじゃないかなって。もう少し穏便なやり方があったんじゃないかなとか思ったりするんですけ」
「エリサリ」
 ヴィスタリアの出した氷のような声に、エリサリはびくぅ! と震え上がった。
「この作戦は私が上に提出し、上が認めてくださったもの。それを疑うということがどういうことかわかっているのかしら?」
「はっはいぃっすみませんっ!」
 エリサリはぺこぺこと頭を下げる。ヴィスタリアはふ、と小さく息をついた。
「……本当に、愚かな子」
「はい?」
「なんでもないわ。では、エリサリ、次の指令を……」
 馬車の外には声の欠片すら漏らさず、馬車は街の外へと走っていった。

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