商人の街〜ダーマ――2
「おい! 煙が見えるぞ!」
 見張りに出て行ってからすぐ勢い込んで食堂に戻ってきたフォルデに、ロンがあっさりとうなずいた。
「そりゃそうだろうな。もうすぐ目的地だから」
「……はぁ!? お前ンなこと今朝全然言ってなかったじゃねーかよ!」
「いや、気付かないか普通? お前海図見てなかったのか。見方はポルトガでたっぷり教わっただろう? 横に置いてある地図も連動して現在位置を見せてくれるだろうに」
「っ、るっせーなっ、毎日仕事山ほどあんのにンな細かいこといちいち気にしてられっか!」
「細かいか?」
「まぁまぁフォルデ、落ち着けよ。別にお前を責めてるわけじゃないんだからさ。ま、海図はちゃんと見るよう心がけておいた方がいいとは思うけど」
「わ、悪かったなっ!」
「さて、じゃあそういうことで、せっかくだから目的地を見に行くか、セオ。稽古の前にトオーミの呪文で見えたものを教えてくれ」
「あ、は、はいっ」
 食後のお茶を飲む手を止めておろおろとフォルデと自分たちを見比べていたセオはばっと立ち上がった。歩き出すロンのあとを追いながら、食堂を出る前に足を止め、扉の横に立っているフォルデに向けて頭を下げる。
「あの、フォルデさん。教えてくださって、ありがとう、ございます」
「……うっせぇ」
 無愛想な返事をするフォルデに少しびくり、と一瞬泣きそうな顔にはなったものの、最近はいつもそうであるように瞳を潤ませもせず、またぺこりと頭を下げてセオはロンと食堂を出ていった。フォルデはしばらくひどく顔をしかめながらうつむいていたが、やがてまた部屋を出ていく。
 ラグはそれを見届けてから、椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げた。なんと言葉をかけていいのかわからなかったのだ。
 人間はそう長い間落ち込んでいることはできない、とラグは思っている。もう死にたい、と思うほど落ち込んでも、時間がたてば腹は減るし泣く体力も尽きてくる。肉体が活動している限り、いずれは落ち込む前のように動き出したくなってくる。
 だがそれでも傷は残る。体にも心にも。きちんと手当をしなければ。そして放置しておけば、傷に形を歪められたまま、心身は固まってしまうのだ。
「わかっては……いるんだけどな」
 天井を眺めながらひとりごちた。フォルデは基本的に単純な奴だから、はたから見ているだけでもなにを考えているかは大体わかる。たぶんあいつはまだ受け容れられていないのだろう。セオが変わったことを。そしてたぶん、変わっていないことも。
 は、と小さく息をつく。セオが今どんな気持ちでいるか、ラグにもはっきりとわかるわけではない。セオは少しずつ、サドンデスと会う前のセオに戻っていっているように見える。落ち込みから立ち直っているように。少なくとも表情と反応はそれに近づいていっている。
 けれど、自分にはセオの心が傷に歪められたまま固まっていこうとしているように思えてしまうし、それは他のやつらも同じなのだろう。ロンも、フォルデも、それぞれなりのやり方でセオの心を解きほぐそうとしている。
 けれど、自分はなにもできていない。
 ふ、とまた息を吐き出し立ち上がった。こんなことを考えていてもしょうがない、早く操舵室に向かわなければ。わかっている、なのに頭は勝手に考えてしまう。
 お前はあの子の心に触れるのが怖いんだろう。自分も傷ついてしまうから。あの子がこの上なく傷ついているのが誰よりもわかってしまうから。その傷に触れたら可哀想だからというように理由をつけて逃げている。あの子には助けが必要なことが誰よりもわかっているくせに。一度失った者が再び得る時の恐怖と不安を誰よりも知っているくせに―――
(うるさい)
 ぎゅ、と拳を握り締めて荒々しく扉を押し開ける。こんなところにも魔力が付与してある魔船の扉は、壁にぶつかる寸前でふわりと動きを緩やかにして音を立てずに元の位置に戻っていった。
(そんなことは、わかってるんだ)
 そうだ、わかっている。誰よりもわかっている。今のあの子には助けが必要だと、また得たものを失うのではないかという恐怖と不安をやわらげてやる言葉と行為が必要だとそのくらいのことはわかっている。
 かつて自分も、強盗に母親を惨殺されたのだから。
(……くそ)
 思い出したくなかった事実が頭によぎり、ラグは舌打ちした。
 それは今のラグを知っている人間は誰も知らない事実だろう。ヒュダにすらはっきりと言ったことはない。それはいちいち気遣われるのが鬱陶しかったからでもあるが、それ以上に単純に、思い出したくなかったからだ。
 あの記憶は、強盗たちに娼婦だった母親を殺されるのを箪笥の奥からのぞき見ていた時の記憶は、それくらいには自分を苦しめた。そのくらい世界のどこででも数えきれないほど起きていることだとわかってはいても。ヒュダが自分を救い上げてくれてからも、かなり時間が経つまでまともに思い出すことすらできなかったほど。
 ラグは戦士としてある程度力をつけて、その記憶をまともに思いだせるようになってから、ヒュダに知られないようそいつらを探して、自分の手で復讐を遂げた。つまり、自分の手で殺した。
 そうせずにはいられなかったし、そうするのが当然だと思った。ヒュダに知られればあの優しい人はきっと悲しむだろうということはわかっていたし、それが正しいことだと思っていたわけでもない。けれど、それでも、あの光景を自分に見せた奴らが生き延びていると思ったら、体の奥がかちん、と冷える。そのままでヒュダの息子として生きていくのは難しい、と思ったのだ。
 だから、殺した。仕事のためでも誰かのためでもなく、ただ、自分の憎しみと安寧のために。十六歳だった。今のセオと同い年。なにかをする時にヒュダではなく自分の感情を優先したのは、きっとそれが最後だ。
 それでも繰り返し悪夢は自分を苦しめた。強盗が両親を殺した時の光景も、自分が強盗たちを殺した時の光景も繰り返し夢に見た。それを必死に、こんなことはなんでもない、どこにでも転がっていることだと自分に言い聞かせた。実際ラグの周囲ではそんなことは珍しくなかった。だから当然忘れられることだと思っていた。
 けれど、ラグにはそれはできなかったのだ。何度も蘇る記憶にのたうち回った。恐怖が湧き上がるたびに、悪夢を見るたびに、ヒュダに何度も自分を抱きしめられ慰められ、大丈夫だと感じさせてもらうまで。
『苦しいことはきっとそんなには続かない。人間はずっと苦しがっていることはできないわ。苦しい記憶もいつかは薄れる。完全に消し去ることはできなくても、いくつもの楽しい記憶を、幸せな記憶を積み重ねていけばその記憶を『まぁ、それがあって今があるなら、いいか』ぐらいには思うことができる。だから、大丈夫よ。もう少しすればきっと少しは楽になれる。それまでは、ううんそれからだって、私がいくらでも一緒に苦しんで泣いてあげるから』
 何度もそう言われ、優しくされて、自分はようやくその記憶を彼方へと流すことができた。楽になることができたのだ。だから、当たり前だった存在がなくなる、それを直視させられた人間の恐怖はそのくらい人を苦しめるものだと、ラグはよく知っている。
 セオの助けになりたい。そう思う。少しでもあの子を楽にしてやりたいと思う。それこそ、体の芯が焦げつきそうなほど。ヒュダに与えられたものを少しでもこういう形で返せたらと思うし、それに。
 あの時ようやく、初めて、『みんなと幸せになりたい』と言うことができたセオの心が、『みんな』を奪われ傷ついた形のまま固まってしまうなんて、それじゃあんまりあの子が可哀想すぎる。
(そう、思うのに)
 思うのに。思うからこそ、一歩を踏み出すのが怖い。傷の痛みがわかっているからこそ傷を広げるのが怖い。自分が両親を失って孤児になった時幾度も味わった苦痛。もう大丈夫なのだと信じることができない、心身を震えさせる恐怖。それは口で言って消えるものではないこと、それを軽くしてくれるのは適度な強さで抱きしめてくれる他人の根気強い体温だけなことを自分は知っている。
 だからこそラグは恐れる。自分はきっと、ヒュダ母さんのようにうまくはできない。ヒュダ母さんのように、セオにきちんと適度な優しさを注げる自信がない。なにを言っても、なにをしても、きっと自分はセオを傷つけてしまう。
 それが、怖い。自分が傷つくならいくらだってかまわない、けれどあの無垢な心に傷跡を残してしまうのは。
 心底、怖い。華奢で美しい硝子細工を目の前にした時のように、自分のような無骨者があの子の心に触っていいのかと、自分は畏れすら抱いているのだ。
(馬鹿だよ、な)
 唇を噛んで歩きつつそんなことを考えていることに、苦く笑う。セオがそんな感情を嬉しがらないだろうことは、わかっているのに。

 入力された座標にあった港は、はっきり言って港というより船着場と言った方がよさそうなものだった。簡素な木製の桟橋にはしけ舟がいくつか。それとおそらくは管理する人間のためであろう小さな小屋。その程度の、まだ基盤構造物すらまともに造る予算がないことがよくわかるものでしかない。
 だが地理的条件は確かによかった。港を取り囲むように風を遮る山がそびえ、岬が外洋からの波を見事に押さえている。強い風が吹いても波はさして大きくならないだろう。おまけに魔船の走査によると、水深も海底の土質も凹凸のなさも見事に良港としての条件を兼ね備えているらしい。一応、オクタビアもそこらへんの目利きはしっかりやっていたようだ。
 一応こちらからも光と鐘の音で信号を送る。古代帝国時代は魔法による特殊な信号を使っていたとかで、魔船といえど今の時代でも使える信号は手動でなければならない。一応機材は備え付けられていたが。
 船着場に近づくと、小屋から人が出てきて桟橋の上で大きく旗を振り始めた。どうやらそこへ寄せろと言いたいらしいと見極めたが、わざわざ寄せないでも自動航行機構はその桟橋に静かに魔船を着けてくれる。
 それぞれ身支度をし、魔船の全機構の始動・停止を行える鍵を抜き、魔船に備え付けの自動昇降魔法具を起動させて魔船から降りた。ロン一人なら飛び降りられないこともなかっただろうが、わざわざ痛い思いをすることもない。
「お待ちしとりました。勇者セオ・レイリンバートルさまですな」
 小屋から出てきたもはや老年と言ってもいいだろう男(おそらくはポルトガの水夫だったのだろう、赤く錆びた肌の色をしていた)が笑顔でセオに頭を下げる。セオは当然泣きそうに顔を歪めたが、それでも瞳は乾いたままで小さく首肯する。
「そう、です、けど。でも、俺は本当に、勇者なんて」
「オクタビアさんから話は聞いとります。街にご案内するよう申し付けられてますんで、どうぞ、こちらへ」
 男は笑顔でセオの言葉を遮り、こちらに背を向け歩き出した。ああ、これは自分に都合の悪い話は一切聞かない人間の類型だな、とロンは肩をすくめる。さすがにオクタビアの部下をやっているだけはある。全員こういう性格で果たして街など作れるのか疑問ではあるが。
 まだ山道と言って差し支えないだろう道を男のあとについて歩くこと二刻ほど。見えてきたのは、針葉樹に囲まれた村落と言うのもはばかられる程度の家々の集まりだった。あるのは片手で数えられるほどの人家と、大きく勘定台を広げたなにを売っているのかもわからない店舗がひとつ。そしてその背後に建つひとつだけひどく大きな屋。おそらく鍛冶屋なのだろう、金属を叩く音が大きく響いてくる。
「……オクタビアはここに本気で街を作れると思ってるのか?」
 真剣な顔で訊ねると、ラグが困った顔で肘で突いてきた。
「おい、やめろよ」
「別に遠慮する必要もないと思うが。下手をすれば俺たちは行く先々でこの場所のことを宣伝することになるんだぞ? いわば宣伝塔になるわけだ。まるで見込みのない場所をいちいち宣伝しても意味はない、このくらい聞いておくのは当然だと思うが?」
「それとこれとは別問題だろ。相手がどんな状況だろうと、契約は果たすのが当然じゃないか」
「まぁな……だが意味のない契約を結ぶ必要もないだろう。それに俺は、意味のない約束をいちいち律儀に果たすのは面倒くさい」
「めんど……って、お前なぁ」
「まぁまぁ、ご心配はもっともですがなぁ」
 男はふぁふぁふぁ、と少し緩い笑い声を立てた。思ったより入っている歯が少ないらしい。
「オクタビアさんはあれで目利きですからなぁ。見込みのない場所に投資はなさらんでしょう。実際ここの港はこれ以上ないってくらいの良港になりますし、ミスリルの鉱脈があるのも確かなことですしな。あとは商人の腕次第。そしてオクタビアさんは実際若いのに大した商人ですからなぁ。周りを固める方々も若いですが、みなさん一心に頑張っとられますよ」
「ふむ」
 ロンは小さく肩をすくめた。オクタビアの商人としての実力はさておくとしても、この場所が交易都市になるという構想にはロンはいまひとつ現実感を感じない。ミスリルの鉱脈があるのは街を大きくする要素のひとつにはなるだろうが、それなら鉱業都市として構築する方が現実的ではないだろうか。背後には登頂は命懸けになりそうな山脈、近辺の大きな国から微妙に遠い立地、食糧自給の難しそうな耕作に向かなそうな土地。どれをとっても都市を作るのは難しいのではないかと思える要素ばかりだ。
 あの女、どこまで本気なんだか、とロンは肩をすくめつつ仲間たちと一緒に男について歩いた。男は推定鍛冶屋の前に立つ店舗に、裏口から入って自分たちを手招きする。肩をすくめて先頭に立って中に入った。
 中は会議室のような広々とした場所になっていた。大きな円卓がひとつ、椅子がいくつか。その一番奥で、オクタビアが蒼い髪の男となにやら話している。
(お)
 思わず少し目を見開いてしまう。オクタビアの隣の男、ちょっと好みだ。すらりとした姿に整った顔立ち。蒼い髪をぼさぼさに長く伸ばしているが、それが日焼けした肌と相まって野性味のある雰囲気をかもし出している。ロンの好みからするとやや痩せ気味だが、筋肉はしっかりついているし、なにより瞳がいい。森閑とした森の奥の泉のように静かで、なのに好奇心をたたえきらきらと輝いている。知性と落ち着きを持ちながら、こんな風に子供のように笑える男などロンは今まで見たことがない。
 まぁ仲間たちの前で男を口説く気はないが。ロンは一歩前に出て、声をかけた。
「オクタビア・サーデ。報酬を渡すのにわざわざ俺たちをこんな場所まで呼びつけるとは、いい度胸だな」
「ロン……」
 ラグがまた困ったような声でつついてくるが、にっこり笑顔でまぁここは俺に任せろと無言で主張しまたオクタビアに向き直る。
 オクタビアはちらりとこちらを見るや、不満そうに鼻を鳴らして高飛車な口調で言った。
「遅い。どれだけ待たせるんだ、もう大晦日じゃないか。自動航行機構があってなんでここまで遅れるんだ」
「なっ、てめっ、人を呼びつけといてなんだその言い草っ!」
 いつも通りフォルデが怒りの声を上げるが、当然ながらオクタビアは涼しい顔だ。
「あんたたちだって別に取り急ぎ向かわなくちゃならない場所があるわけでもないんだろ。だったら別にここに来てもいいじゃないか。ルーラで行ける場所も増える、道中出てきた魔物と戦うこともできる、いいことづくめ」
「ぐっ、そーいう問題じゃねーだろっ! 普通、人をわざわざ呼びつけるっつーのは、なんつーか、あれだ……」
「フォルデ。少し黙っていろ」
「なっ、んだとてめっ」
「この女の相手は俺に任せろ」
 にやり、と笑んでやるとフォルデは渋々という顔をしながらも素直に引き下がった。ロンはくるりとオクタビアの方を向く。
「で。お前は俺たちになにをさせる気だ?」
「え……」
 ふん、とオクタビアは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「気付いていやがったか」
「当たり前だ。お前のようなせこい女が自分の、まだまともに整っていない陣営に他人を呼びつけるというのになにも意図がないと考える方がおかしい」
「ふん……まぁいいさ。それだけ話が早くなる」
 にや、とオクタビアは笑い、足元に並べてある何本もの筒からひとつを取り、中に入っていた紙を抜き円卓の上に広げた。
「? これは……書類?」
「なに書いてあんだ、これ……すげぇややこしいぞ」
「これは……ダーマ神殿に対する嘆願書、ですね。申請書って言ったほうがいいかもしれない、ですけど。勇者セオ・レイリンバートルの名において、オクトバークという場所の安全と平和を嘆願する、ということが書いてあるみたいです。諸国の王の署名と国璽を印す場所もあります」
「は? なんだそりゃ。オクトバークってどこだよ」
「ここさ。未来の世界最大の交易都市。『十月の街』って意味だよ」
「……はぁ!?」
「なるほど……そうきたか」
 じろりと睨むと、オクタビアはふふんと鼻で笑った。
「世界を救う勇者に対する貸しだ。最大限に使わなきゃ商人の名折れだろ?」
「……オクタビアさん。あなたはこの場所を、セオの名前で守るつもりなんですか?」
 わずかに眉間に皺を寄せてラグが言う(たぶんこの提案を受けた時の不利益について考えているのだろう)。オクタビアはあっさりとうなずく。
「ああ。あんたらにはこの書類をダーマに提出したあと、諸国を回って諸王にこの書類に捺印するよう嘆願してもらう。つまり、オクトバークに対する侵略行為を行わないと諸国に保証させるんだ。勇者の名があれば、それは可能なはず」
「え、えとつまり、どーいうことになんだよ? ダーマ神殿って転職の神殿なんだろ? そんなとこに書類出してなんかいいことあんのか?」
「もの知らずだね、あんたは。ダーマ神殿はありとあらゆる職業をつかさどる神殿にして世界最大の研究機関。そして現代の人間たちの文明が始まった場所だ。その権威はどんな国だろうと無視できない。基本的にダーマは俗事には関わらないけどね、完全に中立でありながら強い権威を持つ場所として、世界の平和維持を義務として自らに課してもいるんだよ。世界最高の司法機関であり諮問機関。それがダーマなのさ」
「っ……いっちいちややこしい言葉使うんじゃねーよ! 普通の言葉で言いやがれ!」
「ま、要はダーマが『これをするな』って言ったらどんな国も無視はできないってことさ。そして勇者セオ、あんたの名があればダーマはほぼ確実にこの書類を通す」
 ぎっ、と最後に睨まれセオは小さくびくりとする。
「あ、の」
「嫌とは言わせないよ。あんたはあたしに借りがあるはずだ。世界を救う勇者が借りを踏み倒すなんて自分の名を貶めるようなことはできないよねぇ?」
「えと、あの」
「まさかタダとは言わんよな?」
 ずいっ、とセオとオクタビアの間に割って入ると、オクタビアは顔をしかめて鼻を鳴らした。
「そこまでは言わないさ。バハラタでの依頼料と、そこから情報料もろもろを差し引いて……一万ゴールドでどうだい」
「ふざけてるのか?」
「……あんたらにはあたしの頼むことなんて大した手間じゃないだろう。ルーラを使えば数日で済むようなことだ。それで一万ゴールドは破格だと思うけどね?」
「他国の勇者になにかをさせる時の相場は百万ゴールドだぞ? しかもダーマにセオの名で書類を提出するということは、この街のことに関してはセオが責任を持つと宣言するも同じだ。旅人からあこぎな商売で金を掠め取るような街をセオの名で保護するわけにもいかんしな?」
「冗談じゃないよ。あこぎな商売で一時的に金を巻き上げる不利益を知らないあたしだとでも?」
「ま、これは一例だが、街が大きくなれば当然隅々まで目が行き届かなくなるだろう。そこから起こるもろもろの厄介事を、セオのせいにされても困るしな?」
「…………」
 オクタビアはむっつりと黙り込んだ。ロンの指摘の正しさを認めたのだろう。
「ま、別にお前のような貧乏人から必要以上に搾り取る気はない。いくつかお願いを聞いてほしいだけさ」
「……言ってみな」
「まず、ここでは武器防具を作ってるんだろう? ミスリルというからには魔力も付与してあるはずだ。別に開発したものでなくとも、お前のような商人なら市場に出回っていない強力な武器も持っているだろう? そういうもののうち最高の装備を無料で供与してもらう」
「それから?」
「諸王の説得はお前が自分でやれ。俺たちには俺たちで諸王に願いたいことがあるんだ、そういう時に勇者の背後に、ただの商人とはいえ誰かがいると思われるのは困る。ダーマ神殿には認めさせてやる、その権威があればお前なら説得はたやすいんじゃないのか? どうせポルトガ以外の国にも手を伸ばしてるんだろう」
「……さぁね。それから?」
「オーブを手に入れてくれ」
「オーブ? もしかして霊鳥ラーミアの封印の鍵かい?」
「ほう。よく知ってるな」
「商人舐めんじゃないよ、伝説級の道具ぐらいそらんじられなくちゃやってられないんだ。……そういえばアッサラームの商人ギルドが妙に活発に動いてるとかいう話聞いたね。伝説級の道具を探してるとか。もしかしてあんたらの仕業かい?」
「ご想像に任せる」
「……ふぅん。手に入れた時の報酬は?」
「報酬を取る気か?」
「アッサラームの商人ギルドも動いてるんだよ、対抗するには金もごまんと使わなきゃならない。それが無報酬ってのはあんまりだと思うけどね」
「ふむ。そうだな……俺たちとしてはどちらが手に入れても別にかまわないんだが。なら、お前に一度だけ俺たちパーティに対する命令権をやろう」
「命令権、ねぇ……」
「商売敵を倒せと命令するのも、伝説の宝物を探して持ってこいと命令するのも自由だ。世界最強のパーティになる奴らに対する命令権だぞ、そう悪い報酬ではないだろう?」
「ちょ、待てよ馬鹿かお前、んな権利こいつに」
「フォルデ」
 静かに見つめてから、オクタビアに気付かれないようにウインクをひとつ。フォルデはむ、と口をつぐみ、しばらく考えてから引き下がった。自分もこれまでの旅の中で案外信頼を得ているらしい、と口が笑う。
 オクタビアは嘲るような視線でフォルデを見つめてから、こちらに向き直った。
「……それから?」
「とりあえず、こんなところだな。これからなにか頼むことがあるかもしれんが、その時は改めて交渉するということで」
 にや、とオクタビアが笑い、ざっと新しく紙を広げる。そこにさらさらと筆を走らせ、ばんと円卓の上に叩きつけた。
「よし、契約成立だ。勇者さん、ここに署名と捺印」
「え? お、俺ですか?」
「あんた以外の誰がいるんだい。ほれ、早く」
 セオはその契約書に素早く目を通す。三度視線を動かしてから、ロンの方を見た。ロンももちろん目は通していたので、こっくりとうなずいてやる。
 セオはそれからラグとフォルデの方も見たが、ラグは苦笑して首を振りフォルデは顔をしかめて「お前の好きにすりゃいいだろ」と言ったので、こっくりとうなずいてさらさらと署名し、ダーマが認めた勇者の徴のひとつである印を押した。オクタビアがにやりといかにも会心、という感じの笑みを浮かべてうなずく。
「よし。じゃああんたらにはさっそくダーマに向かってもらうよ」
「はぁ!? なんでお前に命令されなきゃ」
「話聞いてなかったのかい。この契約には契約後あんたらは可及的速やかにダーマに向かい書類を提出する義務を負うと書いてあるんだよ」
「いや、しかし急に言われたって……ここからダーマがどれだけ離れてると思ってるんですか。魔船だって二ヶ月はかかるでしょう」
「心配はいらないさ。そのために、こいつがここにいるんだからね」
 くい、と親指で蒼い髪の男を指す。ずーっとにこにこしながらこちらを見ていたその男は、頭をぽりぽりと掻きながら笑った。
「あははー、いやぁ、ようやく僕も話に加われるんだねぇ。いつ口を開けばいいのかわからなくて緊張しちゃったよ」
「緊張するようなタマかい、お前が」
「……誰だよ、こいつ」
 ふ、とオクタビアは少し面白がるかのような笑みを浮かべ、さらりと言った。
「賢者サヴァン」
「へ?」
「賢者サヴァン……まさか」
「……蒼天の聖者≠ゥ!?」
 ロンは思わず大声を出してしまった。不覚ながら、正直かなり驚いた。
 ラグもセオも仰天した顔をしている。フォルデ一人がいつも通り訝しげな顔をしていた。
「なんだよ、その蒼天の聖者≠チて」
「おい、フォルデ、本気で聞いたことないのか? 本っ気でか? いくらなんでもそれは盗賊としてありえないだろ」
「んっだとこのっ……あ、でも、そういやどっかで聞いたことあるかも……昔っから世界中回ってどこの国にも属さないで人助けして回ってる賢者って」
「ああ、それだ。疫病の流行を食い止めること八度、戦争を未然に止めること六度、貧乏な地域にいくつもの病院を作り学校を作り、山ほどの人間を死と不幸から救って回っている、神の使いと謳われた伝説の賢者……」
「いやぁ、そんなに上等なもんじゃないけどねー」
 にこにこ笑いながら頭を掻くサヴァンをまじまじと見つめてしまう。まさか、そんな生ける伝説にいきなり出会うとは思っていなかった。セオから聞いた話では神竜=\―あの理不尽な勇者も伝説の存在だというし、そもそも勇者は誰もが伝説となるであろう存在なのだから別におかしなことではないのだろうが、それでも世界中で聖人として知られる人間とこうしてひょっこり出会えるというのは驚きだ。
「おい、待てよなに言ってんだ。蒼天の聖者≠チて確か百歳超えてるじーさんのはずだろ? こんな若いわけねーじゃねーか」
「あははー、まぁ、それは……」
「こいつは年を取ってないんだよ」
 苦笑しながらぽりぽりと頭を掻くサヴァンの横で、オクタビアがにやにやしながら言う。
『……はぁ!?』
「老化を止める呪文ってのを知ってるのさ、こいつは。だから二十五歳から年を取ってない。いつまでもいつまでも若いままってわけ」
「なっ、んな無茶な……」
「そんな呪文があるなんて聞いたこともないですよ!?」
「そういう呪文も知ってるからこその蒼天の聖者≠ネんだよ。神の使いって呼ばれるのは伊達じゃないってわけさ」
「いやいや、本当にそこまで持ち上げるようなことじゃ」
「持ち上げるようなことだろ!」
「すごい、ですね……まさか、お会いできることがあるなんて、思ってませんでした」
 ロンも深々とうなずく。賢者サヴァンは主にガンドル地方とゴンドリア地方を主な活動場所としているらしかったし、仕事のない貧しい地方は自然と避けていたロンがまさか会うことになろうとは思わなかった。
「なぜ、あなたのような伝説とも謳われた方がこのようなところに? もしや、セオがここに来ることを察し、会おうとやってこられたのですか?」
「あはは、うん、まぁそれもあるんだけどね」
「こいつはあたしに借りがあるんだよ」
「お前には聞いていない。……借り、というのは?」
 サヴァンの方だけを見つめて訊ねると、サヴァンはまたぽりぽりと頭を掻いて笑う。
「いやぁ、お腹が減って行き倒れてるところを助けられてねー。ご飯を食べさせる代わりになんでも言うことを聞け、って言われちゃって」
「……ほう」
「はぁ!? 阿呆かあんた、すげぇ賢者なんだろ!? だったらんなことしなくたって飯ぐらい食えんだろ!」
「いやいや、これで賢者の世界も世知辛いものなんだよー。僕が高レベル賢者なのにどこの国にも属さないで済んでるのは、自分のために呪文は使いませんって神に誓ってるからでもあるしねー」
 にこにこと微笑みながら言うサヴァン。セオは真剣な顔で「そうなんですか」とうなずき、ラグは困惑の表情を満面に浮かべ、フォルデはひどくムッとした顔でサヴァンを睨んでいる。おそらくサヴァンの世渡りの下手さにセオに感じたものに似た怒りと苛立ちを感じているのだろう。
 だがどこまで本当なんだろうな、とロンはわずかに口の端を上げる。嘘はついていないだろうが、真実だとは思えない。サヴァンの瞳に仄見える深淵は、ただのお人よしの聖者が持てるものではない。そもそもただのお人よしの聖者が疫病やら戦争やらをいくつも止められるわけがない。オクタビアがどこまで読んでいるのかは知らないが、おそらくは助けられたのではなく助けさせたのだろう。いくつ裏があるか、正直知れたものではない。
 かすかに口の端を上げてじっとサヴァンを見つめると、サヴァンはにこにことこちらを見返してくる。その瞳に深い光を認め、ロンは思わず笑みを深くした。自分の第一印象はやはり正しかった。この人はちょっとお目にかかれないくらいのいい男だ。
「……で? まさか蒼天の聖者≠ルーラ便代わりに使おうなんぞという罰当たりな考えじゃあるまいな?」
「いまさら罰当たりもクソもないだろ。こいつは今までもさんざんあたしらの足代わりとして使われてるんだからね」
「うわぁ、本当に罰当たりだなぁ……」
「んなこたぁどうでもいーんだよ。……つまりてめーは、こいつにダーマまでルーラで書類出しに連れてってもらえってのか?」
「ああ。あたしも一緒に行く。ダーマにしっかりこの書類を認めさせるよう交渉してやる。だからあんたはただ名前を貸せばいいってわけさ、勇者さん」
「あ、の……俺なんかの名前じゃ役に立たないかも、しれません、よ?」
 オクタビアはむっとした顔になり鼻を鳴らす。
「あたしはいけると読んだ。それはあたしの商人としての判断だ。それが外れていたところで、あんたたちに責任を押し付けはしないさ」
「…………」
 セオはわずかに悲しそうな顔で眉をひそめ、それからこっくりとうなずいた。ラグがふぅ、と小さくため息をつき、フォルデがむすっとした顔でふんと鼻を鳴らす。ロンは軽く肩をすくめ、それぞれに反対意見はない、と告げた。
「いいんだね? よし、じゃあさっそくこれから」
「悪いが、それは断る」
 即座に言葉を遮ったロンに、オクタビアはムッとしたように眉を寄せた。
「こんなすぐに契約を破る気かい?」
「お前の作った契約書には『可及的速やかに』ダーマへ向かえとは書いてあるが寸秒の間も置かず、とは書いてない。半月の間魔物に襲われながら旅をしてきたんだから一日休むくらいは許容範囲内だとダーマ神殿の審判でも判断されると思うが?」
「……それは」
「それにな、お前の方にも果たすべき契約があることを忘れるなよ。お前の所有する最高の装備を渡すと契約書にお前自身が書いただろう。商人として誠実に契約を果たす気があるなら、それなりに準備の時間も必要じゃないのか?」
「…………」
「おまけに今日は大晦日だ。これからダーマに飛んだところでろくな宿は取れんだろうし、神殿本部に泊り込むにしても、気ぜわしい中で慌しく新年を迎えるよりこっちでゆっくりと年が明けるのを待ってから参詣した方がはるかに楽だぞ。少なくとも俺は大晦日のダーマ神殿本部に向かったところで、相手にしてもらうのも一苦労だと思うしな」
「………ふん」
 オクタビアは鼻を鳴らす。ロンの指摘の正しさを認めないわけにはいかなかったのだろう。
「言っとくけど、ここに泊まるつもりなら宿代取るからね」
「心配しなくとも船に帰って寝るさ。……では、サヴァン殿、また明日」
「はーい、また明日ねー」
 にこにこと手を振るサヴァンに笑顔でうなずきつつ、ロンは仲間たちを促して外へ向かった。セオはともかく、ラグとフォルデはいまひとつ納得いかなそうな顔をしている。それをこれから説得するのは楽しそうだったが、それでもついつい内心で深いため息をついてしまう。ダーマ。もしやとは思っていたが、やっぱりあそこの神殿本部に乗り込むことになるのか。
 この時機でよかったのか悪かったのか。とりあえず一晩時間を稼げたのはよかったが。このまま向かうなどということになっては醜態をさらしてしまわないとも限らない。あそこでは自分はたぶん歓迎されないだろうし、なにより。
 はぁ、とまた息をつく。あいつ、とっとと独り立ちしてどこかの僻地の神殿にでも行っていてくれればいいんだが。
「あの、ロンさん……大丈夫、ですか?」
 気遣わしげな顔で訊ねてきたセオに、思わず顔をほころばせつつ首を振る。この子は今のように落ち込んでいる状況でも、他人を気遣うのを忘れない。
「いや、なんでもない。悪いがセオ、ルーラの準備を。早く船に戻って新年の祝賀会の準備をしよう」
「はい」
 わずかにへちゃ、と頬を緩めるセオの頭を、軽くぽんぽんと叩く。そうだ、大晦日から新年にかけては、全員で祝賀会を開く約束をしていたのだ。そのための食料もしっかり買い込んである。
 フォルデはなんでんなことしなきゃなんねーんだよと苛立たしげな顔をしていたが、ロンのねっとりたっぷりとした説得に陥落した。ラグは苦笑していたが賛成はしてくれた。あとは料理を作って祝うだけ。
「天路を翔けさる鳥のように、ひとつの架橋を越えて跳躍しよう=v
 セオの呪文が響き渡り、一瞬の浮遊感と同時に空間が歪む。人によっては合わない人もいるという感覚だが、ロンはむしろ笑みを浮かべていた。せっかくの祝賀会なのだ、楽しまなくては。全員で作った飯をしこたま食って、少しばかり空気を入れ換えよう。

「……つまり、てめーはハナっからあの女の狙いに気付いてたってわけかよ」
 玉ねぎを薄く切りながらフォルデがムッとした顔で問うと、ロンは茹でていたほうれん草の水を切りながらいつも通りの涼しい顔であっさりとうなずいた。
「まぁ、正確にはそう出る可能性もあるな、とちらりと考えていたくらいだがな。予測してはいた」
「だったらなんで言わなかったんだよ」
「もしかしたらそう出るかなぁ、というくらいだからな。別に言ったところで少しばかり心構えができる他にいいことがあるわけでもなし。それに、外れていたら格好悪いだろう?」
「……そーかよ」
 船出の前に買ってきた調理器具のひとつ、蒸し器の様子を見ながらにっこり笑顔で言うロンに、フォルデは仏頂面でふんと鼻を鳴らした。まったく、こいつはどこまで本気なんだか。
「じゃー聞くがよ、お前なんで」
「フォルデ、ちょっとどいてくれ。グリルにカバブ入れるから」
 フォルデは反射的に身を引いた。本当はどういうのかは知らないが、便宜上『焜炉』と名前をつけている、つまみを捻るだけで自在に炎が出せる台所備え付けの魔法具。その下の同様に専用のつまみを押し捻るだけで食材が焼ける焼き網に、ラグはひょいひょいとカバブを載せていく。さっきまで練っていた肉の下準備が終わったらしい。フォルデはまたムッとした。
「おい、話の邪魔すんじゃ」
「フォルデ、手が止まってるぞ。手を動かしながらだって話はできるだろ。おいしく飯を食いたいなら、ほら、さっさとする」
「う……」
 自分もてきぱき手を動かしながら言うラグについ気圧されていると、ロンがくっくと笑った。
「いやいや、さすが大人数の中で揉まれながら育ってきている男は違う。すでに母の貫禄だな。やはりお前は俺たちの中で一番主婦向きだ」
「ロン……お前な、そういうのはやめてくれって言っただろ」
 はぁ、とため息をつきながらもラグは使い終わった調理器具をてきぱきと洗っていく。そういう細かい作業は、確かにいちいち主婦っぽくはあった。
「ラグさん、すごい、ですね」
 ひたすら泡立て器でボウルの中の白いものをかき混ぜながらセオが顔を緩めた。セオはサラダとデザート担当ということになっているのだが、シーザーサラダをさっさと作ってしまってからはえんえんと泡だて器でクリームのようなものを泡立てているのだ。少し火を使ったぐらいであとはひたすら泡立て器と格闘している。なに作る気なんだ、とデザートなんてこれまでの人生でほとんど縁がなかったフォルデは訝った。
 ちなみにラグとロンは分担して主菜を担当しており、フォルデは前菜担当となっている。なので現在キッシュを製作中だ。焼く前の下ごしらえが終わったらカナッペを作る予定。酒のつまみ系は親方によく作らされたので得意なのだ。そして頃合を見計らいつつキッシュをオーブンに入れ、時間が余ったらトマトの詰め物サラダ(トマトの中をちょっとくりぬいて、茹で潰したじゃがいもやらささみやらを味付けして混ぜたのを詰めたもの)でも作って――
 いやいや今はそういう話をしているんじゃない。
「つかな、お前は気になんねぇのかよ。このボケ武闘家がなんで命令権なんてあのクソ商人にやりやがったのか」
 そうだ、自分はそれが聞きたかったのだ。街の繁栄のためにセオの子種なんて奪おうとしやがったあの女に、なんで命令権なんてやらねばならないのか。これは料理がどうのってことよりはよほど重要な問題のはずだ。
 だがラグは調理器具を洗いながら真剣な顔でうなずいた。
「気になるよ。だから話しててもいいって言ってるんじゃないか。そうじゃなかったら『喋る暇があるなら手を動かせ』って言ってる」
「…………」
 ラグの本気の目にフォルデは顔をしかめた。どうしてこいつってこうたまにズレてるんだろう。
 まぁ確かにフォルデだって(好きで新年祝賀会なんてものをやるわけじゃないが)飯はしっかり作られている方がいい。空いている焜炉で温めたフライパンにオリーブオイルをひきながら、ロンを睨んだ。
「で。なんであんな約束しやがったんだよ。気まぐれとか抜かしたら承知しねぇぞ」
「そういうわけじゃない。まずな、あの女がああいう申し出をしたら、セオは受けたいと思うだろうなと考えたんだ」
「へ? ……そうなのかよ」
「え、あの、えと、はい……俺なんかの名前で助けになるんなら、使ってもらえたらって……自治交易都市っていうのは、よほど運がよくなければ、他国から侵略の手が伸びるのを免れない、ですから。現在は魔王の脅威があるから、大丈夫だと思いますけど」
「…………」
 フォルデはさっきより思いきり顔をしかめた。王族だの貴族だのって連中はどいつもこいつもクズだとわかってはいたつもりだったが、そういう生臭い話は耳慣れないこともあり聞いただけで気色悪くなる。
「まぁ、正直俺としてはあの女の作る街をわざわざ保護してやるというのは気が進まんが。どうせ言う通りにするならせいぜい高く売りつけてやろうと思ってな。だからああいう風に恩着せがましい態度に出たわけだ。ま、交渉術というわけだな」
「それは別にいいけどよ。俺が気に入らねぇっつってんのは最後の」
「ああ、オーブを手に入れたら命令権をやるというやつか? 別に気にすることもないだろう」
「お前な、あの女にんなもん渡して」
「俺は命令権をやるとは言ったが、それに対する拒否権がないとも言ってない」
「……は?」
「ロン、お前それって、気に入らない命令だったら受け付けないってことか?」
「ま、そういうことだな。契約書にも拒否権がないとはどこにも書いてなかったし」
 涼しい顔でネギを刻みながら言うロンに、ラグは肩を落としセオは戸惑ったように周囲を見回し、フォルデは脱力した。
「あのなー、お前、普通それって屁理屈って言わねぇか?」
「屁理屈だろうがなんだろうが、通してしまえばこっちの勝ちだ。報酬に見合う分の働きはするつもりではあるんだ、どうとでも言い抜けようはある。裁判になっても勝つ自信はあるぞ」
「そういう問題じゃないだろ……」
「そもそもあの女が俺たちに貸しがあるというの自体無茶な言い分なんだ。そんな無茶を通そうとする奴相手に、誠実に契約を結んでやる必要はまるで感じないがな」
「それは、まぁ、そうかもしれないけど」
「ダーマに話は通してやるんだ。それだけで充分お釣りがくると俺は思うがな」
 はぁ、と小さく息をつき、肩をすくめてからラグは食器洗いに戻った。ラグはあとはもう肉が焼けるまですることがないのだろう。フォルデも同様にフライパンにキッシュの具を入れ炒め始める。実際オクタビアの肩を持つ必要など微塵も感じないのだから、ロンの腹が知れたのなら怒る気は別にない。
 セオは一人混乱したような顔で自分たちの様子をうかがっていたが、ロンが微笑みかけ、ラグが苦笑を投げかけ、フォルデが「おら、休んでんじゃねぇぞ」と睨むと慌てたように全力で作業を再開した。納得したのかどうかは知らないが、とりあえず今は料理に集中する気らしい。
 半刻にわずかに足らない時間が過ぎて、食卓には無事料理がどっさりと並べられていた。フォルデの作ったキッシュとカナッペにトマトの詰め物サラダ、ラグの作ったカバブとチキンカプサ、ロンの作った白身魚の青竹蒸しと東坡肉。それにセオの作ったシーザーサラダに……
「……? なんだこの白いの」
「あ、あの、アイスクリーム、です」
「あいすくりーむ……?」
「あの、すいません、冷菓なので。一応氷室に残りを冷やしてはあります、けど作りたてじゃないとおいしくないと思うので、早めに……」
「ふぅん……」
「じゃ、さっそく席に着いて乾杯といくか。ほれ、フォルデ座れ」
「わーってるよっ」
 席に着いて、セオがルーラで買ってきたよく冷やしたシャンパーニ産の発泡酒を全員のグラスに注ぎ。ラグがひょいとグラスを持ち上げた。
「じゃあ、新しい年と、俺たちが無事年末を迎えられたことに。乾杯」
「乾杯」
「か、乾杯……」
「……乾杯」
 フォルデはなんとなくひどく気恥ずかしい気分でグラスを打ち合わせる。親方に打ち上げに連れて行ってもらったことはあるが、こんな風に改まって仲間と乾杯なんてしたことはない。
 ええいなに考えてんだ俺は、とっとと食うぞとっとと、ととりあえず一番気になっているセオのあいすくりーむとやらを口に運び、思わず絶句した。
「……! な、んだよ、これっ!」
「ごっ、ごめ、ごめんなさいっ! まずかった、ですかっ!?」
「い、いやそーいうんじゃ、ねー、けど……」
 舌の上でふわりと溶ける軽い甘さ。なめらかな舌触り。蕩けるように濃密なのに、口の中はすっきりとした涼味に満たされている。こんなもの、今まで食べたことがない。これは――
「………………そ、の…………うまい、よ」
「…………」
 視線をわずかに逸らしながらぶっきらぼうに言ったフォルデの言葉をセオはしばし呆然とした顔で聞き、それからへろん、と蕩けるような形に顔を緩めた。真っ赤に染まった頬を見るのが猛烈に恥ずかしくて、フォルデはぷいっとそっぽを向いて他の料理を食べ始める。自分の顔がひどく熱いのが、叫びだしたくなるほど気恥ずかしかった。
「お、本当だ、これはうまいな、セオ。アイスクリームというのは相当なぜいたく品だと聞いていたんだが、どこで作り方を知ったんだ?」
「本で、読んだんです。それで、興味を持って、一度作ったことが……あ、の、ラグさん、まずく、ないですか……?」
「いや、うまいよ。これは本当にうまい。俺は甘い物はそう好きなわけでもないけど、これはうまいよ。セオはお菓子作りに向いてるかもしれないな、細かく計量するのとか得意だし」
「あ……よ、かった、です」
 セオがほっとしたようにまた顔を緩める。それを見ている気恥ずかしさに耐えられず、フォルデはぶっきらぼうに言った。
「おら、デザートばっか食ってんじゃねぇよ。他の飯だって熱いうちに食わねーとだろっ」
「おお、そうだな。……お? ラグ、このカバブ、相当上等な肉を使ったな。普段とは味わいがまるで違うぞ」
「まぁ、せっかくだしな。お前の東坡肉だってうまいじゃないか」
「ま、これは普段とは手の込みようが段違いだからな。一日おかなきゃならん料理なんて祝賀会でもなきゃ作らん。……ふむ、フォルデ、このトマトはいいな。こういう発想はなかった。トマトの歯ざわりやらみずみずしさやらと、中身の味付けがぴったりだ」
「た、たりめーだ。俺だってそんくらいの料理は作れんだよ。……あ、この魚うめぇ」
「ふふふ、ダーマの魚料理はまた味わいが違うだろう? ふむ、キッシュもなかなか。セオ、食べているか?」
「は、はいっ。む、ぐっ、みんな、おいしい、ですっ」
 料理が進めば、酒も自然に進む。発泡酒の瓶が全部空く頃には、場の空気は普段より気安いものになっていた。
「新年が明ける時に、こういう祝賀会なんてしたのは初めてだなぁ」
 ラグが笑顔で言う。こいつとロンは飲んでもほとんど顔色も変えないが、今日は珍しく少し浮かれているような気がした。発泡酒とはいえ瓶を何本も空けたのだから当然といえば当然かもしれないが。
「なんでだよ。ヒュダさんとこにいたんだったら、そーいう機会何度もあっただろ」
「いや、アッサラームではそもそも新年のお祝いとかしないんだよ、あんまり。アッサラームはラー信仰ってことになってるけど、妙な形式ばっかりやたら厳しい傾向があって。冬至と夏至には盛大に騒ぐけど、他の神々の思惑も加わった今の暦でお祝いとかいうのは軽佻浮薄だ、って建前が幅利かせてるんだよな」
「ふーん。じゃー年が明けても別にどーってことなしか」
「まぁね。ヒュダ母さんの誕生日が七日にあるからそれはちゃんとお祝いするけど……アリアハンでは、家族でしめやかにお祝いするんだよな」
「そーらしいな」
「らしい、って」
「俺孤児だからな。ずーっと盗賊ギルドで他の孤児と一緒に育てられてきたし。新年会なんてやったことあるわけねーだろ」
「あ……」
「え」
 セオが一瞬ぽかんとした顔になり、さっと顔から血の気を引かせる。しまった、とフォルデは内心舌打ちした。セオにはまだ自分が孤児だということをちゃんとは言っていなかったのだ。別にいちいち言うことでもないだろうと思っていたのだが、こういう反応をされると妙に気まずい。
「あ……、の」
「うっぜぇな、なんだその顔。お前がんな顔する必要ねーだろ、別に気にしてねーんだからっ」
「そうか? 俺はてっきりお前は孤児だとか貧乏だとかいうことを僻みまくっていて、だから恵まれている人間が嫌いなんだと思っていたが」
「な……て、めぇっ!」
「怒る必要はないだろう。別にそれが悪いと言ってるわけじゃない。俺だってよくないとわかってはいても、女とみると警戒態勢に入るからな」
「へ……」
 気勢を削ぐ一瞬の混乱ののち、そうだこいつは男が好きなんだった、と顔をしかめた。別にそれがいけないというんじゃないが、思い出して嬉しいことではやはりない。
「人間というのは悩んで惑って揺れてなんぼだ。誰もが過去を無駄に引きずり時間と心を浪費している。愚かとしかいいようがないが、そうでなければ人間なんぞ退屈でやってられんと俺は思うぞ。なにもかもにこだわりがなくなったらそれはもはや人でない」
「…………」
「……言うじゃねーか。お前にも無駄に引きずってこだわってる過去なんてのがあるのかよ」
 ぐいっとグラスの中の酒を飲み干してから睨むと、ロンは少し考えるように天井を見てから笑顔でうなずいた。
「まぁな。家族に俺が男色家だと知られて縁を切られ、恋人だった叔父にも捨てられたことは、未だに俺の中で傷だ」
『っ……』
 その言葉に、一瞬空気が凍る。男が恋人だとかそういうこと自体夕食の席で出すには重い話なのに、家族に知られてどうこうなんて聞きたい話ではない。
 だがロンは涼しい顔で続けた。
「十四の時だったな。若かった。完璧に関係を隠しているつもりが家族全員に怪しまれていたことに気付かなかったぐらいにな。それでまぁ、ことの最中に踏み込まれて。現場を押さえられては言い逃れようもないし。さんざん罵られてダーマへ強制的に修行に出されたわけだ」
「ロン、おい、お前酔ってないか?」
「酔っているつもりはないが、酒の力に任せてお前らの過去を聞き出してやろうくらいのことは考えているぞ」
「過去、って」
「たとえば、お前の実の母親のこととかな?」
 ロンが笑顔でそう言うと、ラグの顔からざっと血の気が引いた。
「ロン……お前」
「お前がヒュダ殿をああも慕うのは、実の母親をひどい形で失ったせいではないか、とか。それともその母親がろくでもない女だったのか、とか。いろいろと考えてしまうわけだよ。セオが俺たちを失いたくないがために魔物を殺すと決めた心の動きをいろいろと考えてしまう最近は、特にな」
「――――」
 セオの表情が固まる。フォルデはちっと舌打ちして立ち上がった。
「おい、ロン! てめぇいい加減にしろよ、んなこと今言うことじゃねーだろ!」
「いい機会だと思うが? お前は気にならんのか? セオが自分を大切にしてくれる方法はないか。ラグが自分たちをヒュダ殿よりも優先してくれる時はないか。お前自身が、銀星のフォルデがもう一人ではないと、寂しくはないと心から思える方法はないか」
「………な」
 フォルデは絶句した。なん、だって? 俺が、寂しい? 一人で?
 そんなこと思ったことはない。昔からずっと。だって自分はずっと一人で、自分の力だけでやってきたんだ。自分のために努力して、懸命に生きてきた。寂しいとかそんなことを思ったら、もう立ち上がる気力も湧かなくなるくらい一人で、だからこいつらがいる今が俺は――
 ぞくり、と思わず体が震えた。今、俺は、なにを考えた?
「……そうだよ。両方とも当たってるさ」
 がたり、とラグが立ち上がった。苛烈なほど強くロンを睨みつけるその目は据わっている。
「ラグ、さ」
「俺の母親は娼婦で、酔っては俺を殴りつける最低の母親で、強盗に襲われ犯され殺された。箪笥に隠れた俺の目の前で。そんな母親でも俺は好きで、だからヒュダ母さんの優しさが嬉しい自分が許せなくて、苦しかったよ本当に。今では楽にはなったけど、それでも俺の体は人に触れる怖さを覚えてる。……これで満足か?」
 ずいっと一歩ラグが足を踏み出す。セオの顔から色が消えた。
「ラグ、さ、ロンさ」
「前から思ってたけど、お前はいつもそうだよな。平然とした顔で面白がりながら、人の触れられたくない気持ちをほじくり出す。安全な場所から人のことをああだこうだいうのはさぞ楽しいだろうな?」
「そうだな、楽しい。俺は楽しくない人生なんてごめんなんでな、お前のように無駄に自分を律している奴の気持ちはさっぱりわからん」
「無駄? 言ってくれるな、お前のしょうもない享楽は無駄じゃないとでも?」
「楽しいことは楽しい、好きなものは好き、そう言うことのなにが悪い。実の母親が好きだったからヒュダ殿を遠ざけるのも、ヒュダ殿が好きだから俺たちやセオを遠ざけるのも、どちらも馬鹿馬鹿しいと俺は思うが?」
「………っ」
「ついでに言えば、俺は人のことをああだこうだ言う時に一度だって安全な場所から言っていたつもりはない。腹が立てばすぐに殴れる、言葉を投げつければ傷つけられる場所にいたつもりだ。今でも手を出す気ならいつでも出せる場所にいるだろう?」
「上等だ」
 ぐい、とラグがロンの胸倉をつかみ上げた。フォルデより拳ひとつ近く背の高い、引き締まってはいるがしっかりと筋肉のついているロンの体を、軽々と宙に吊り上げる。
 呆然としていたフォルデははっとして、二人の間に割って入ろうとした。
「おい! やめろよ、こんなとこで喧嘩したってしょうがねぇだろ!」
「引っ込んでいろ」
「なっ、引っ込めって言われて素直に引っ込む奴がいるか! 俺が怒鳴っただけで説教するくせしやがって自分の時だけ」
「今は喧嘩するにはいい時だと思うが? 旅の途中でもない安全な場所、明日からは用事が詰まっている。お前も言いたいことがあるのならぶちまけてみたらどうだ」
「お、れは、別に」
「そうか? お前最近いつもセオに遠慮してるだろう。なにか言いたそうなくせになにも言わない。お前いつからそんな根性なしになった。本当はセオに、もっと自分を大切にしろだのこっちをちゃんと見ろだの守れなくてごめんだのくだくだしく言い連ねたいんじゃないのか」
「……て、めェッ………!」
 かぁっと頭に血が上った。ぐっと拳を握り締める。怒りと苛立ちのままに床を蹴り、ロンに拳を振り上げ――
 その腕を、がしっと、自分のそれよりわずかに細い、けれど力強い腕につかまれた。
「っのっ、離せっ……」
「ごめんなさい」
 低く、深く、静かに囁く声。
 その声を聞いたとたん、背筋にぞくりと震えが走った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 震えも揺らぎもしない、感情の感じられない声。当然殺気や殺意の類を感じたわけではない。
 だが、その声に含まれた虚ろが、フォルデの動きを凍らせた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい」
 す、と腕が上がる。反射的にびくりと体が震えた。ふ、とわずかに手が揺れたように見えたのは錯覚だったのかなんなのか。
「セ」
「つかれた心臓は夜をよく眠る、私はよく眠る=v
 何度も聞いたセオのラリホーの呪文は素早く的確に効果を表し、フォルデは意識を失って倒れた。

 仲間たちを全員ベッドに運んでから、セオは食堂に戻った。料理はあらかた片付いたが、後片付けがまだまるで終わっていない。
 いや、仲間ではないな、とセオは首を振った。パーティメンバーの喧嘩を止めるのに呪文を使うような奴がパーティの仲間と呼ばれるはずがない。自分はただの、人でなしだ。
 余った料理を小さな皿に移し変え、覆いをかけて保存庫に入れる。ここに入れておけば食べ物は腐らない。調理済みのものは数日のうちに食べきることにしているが。
 あの時、セオは自分の今の状態がラグたちに心配をかけていたことを知った。これ以上ないほどはっきり言葉にされて、ようやく。自分の状態が不安定だと心配されていると、遅まきながら自覚したのだ。
 料理を盛っていた皿を台所に運び、蛇口から水を出して軽く流した。魔船では水はほぼ無制限に使えるのだが、それでも旅の間の習慣もありどうしてもできるだけ節約してしまう。
 そして、その瞬間。自覚した瞬間。自分は死にたくなるほどの罪悪感を感じたが、それと同時に、『嬉しい』と感じてしまったのだ。喜んでしまった。指先が蕩けそうになるほどの幸福感に襲われた。あの人たちが、大好きな人たちが、自分のことを心配してくれたのだと思うと、そんなことは間違っていると知っているのに、以前と同じように泣きたくなるほど
 思い出すな。
 セオはゆっくりと首を振って、一瞬止めていた手をまた動かし始めた。たいていの国でどちらかといえば高級品で、旅の間もほとんど使ってこなかった石鹸を魔船は自動的に精製してくれる。なので、体を洗う時同様食器洗いの時にも石鹸を使うというぜいたくな真似ができていた。今回も少しではあるが石鹸を使いつつ、食器をしっかりと磨きあげる。
 そうだ。確かに自分は幸せを感じていた。気遣われていることに。少しでも大切だと思えてもらっていることに。懸命に作った料理をおいしいと言ってもらえて、みんなと楽しくお喋りのようなことができて、泣きそうなほど嬉しかったのだ。
 人でなしのくせに。
 命をこれまでも、これからも山のように奪う存在のくせに。
 ラグたちの気持ちに応えることもできない存在のくせに。
 セオは動きを止めず、食器を洗い続ける。そうだ、自分には泣く資格などない。
 喜ぶ資格などない。
 楽しむ資格などない。
 幸せを感じる資格などない。
 なぜなら自分は数えきれないほどの命を、涙を、喜びを楽しみを幸せを、それがどれだけ残酷なことなのか知っているのに奪い続けているのだから。それがあの人たちを、世界の誰より大切な人たちを、どれだけ傷つけるか知っているのに。
 ぎゅ、と小さく唇を噛む。痛みは感じない。感じる資格などない。本当なら自分は、存在すべき人間ではないのに、そうわかっているのに、だけど、自分は、どうしても。
 ごめんなさい。ごめんなさい。本当に本当に、ごめんなさい。
 その言葉を喉の奥で潰しながら、セオは食器を洗い終えた。

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