商人の街〜ダーマ――5
「悟りの、書……」
 セオは目を瞠りながら相手を見つめた。どこまでも広がる図書館の中に悠然と座するまだ首も据わらないような赤ん坊。それがにこにこ微笑みながらこちらを見て、大人のような、というよりは賢人のような流暢な口調で話しかけてくる。
「そう。君たちは悟りの書とはどういうものだと思っていたかな? 賢者になるための極意が記された書物のようなものを想像していた? でも悟りの書という名前になったのは単に最初の賢者が僕、というか僕の一部をコピーしたアプリケーションソフトを書物と認識したからそう名付けたにすぎないんだよ。人によってその形態はさまざまに変わる。ここ、ガルナの塔の中で見えるものが人によってまるで違うようにね」
 さらっと発された古代語なのかどうかよくわからない言葉にセオは一瞬困惑したが、口から漏れたのは塔に入った時から気になっていた部分に対する疑問だった。
「人によって……?」
「君はその可能性を考慮していただろう? ガルナの試し≠フ第一段階はガルナの塔に入った人間の精神に過負荷をかけることだ。当然それぞれの精神構造に応じた負荷でなくてはならない。つまり、誤解を恐れずにわかりやすく言ってしまえば、君たちがこの塔に入ってから見たものはすべて幻、というわけだね」
「……そう、ですか」
「そう。塔の中に魔物がいるわけではないし綱が張ってあったりするわけでもない。君たちは入った場所からほとんど動いていないんだ。当然今の僕のこの姿も幻――君のイメージの投影にすぎない」
「……はい」
「本来この試しは多人数で挑むものではないんだよ。だからこちらとしてもどう対処するか少し考えた。サヴァンからあらかじめ通達を受けていたから、それぞれの姿以外は同じものを見せて協力して探索をさせるとさして揉めることもなく決まったけどね」
「サヴァンさんから……あの、揉めるっていうのは……」
「むろん僕たちSatori-System≠フプログラム同士で。試練≠フ決定方法は基本的に、個々人の精神構造をスキャンして得た情報を利用したシミュレーションの比較作業だからね。分業の方が効率がいいだろう?」
「……すいません、あなたのおっしゃる言葉には、理解できない部分がときどき、あるんです、けど」
「ああ、心配しなくても理解する必要もないことだよ。君にはね。君はただ、そうだな、今まで見て聞いてきたものに対して感じたものが、最終試験に必要であることと……最終試験は君たちパーティが同じものを見る必要はない、というくらいのことを理解しておけばいい」
 くすり、と赤ん坊――悟りの書≠ヘ赤ん坊の姿に似合わない、大人びた笑い声を立てた。
「……あなたのことは、なんとお呼びすればいいんでしょうか」
「なんとでも。悟りの書とでもガルナの精とでも――ああ、でもそうだな、君が呼びやすいような名前ならば、サトリ≠ニいうのがあるよ」
「……ジパングに伝わるという、相手の心を読む妖しの名前、ですね」
「そう。似合っていると思わないかな?」

「……それで、サトリさん。あなたはなんでそんな姿をしているんですか」
「言ったでしょう、あなたのイメージの投影だと」
 悟りの書――サトリはにこり、と笑った。ラグはわずかに気圧されて、そんな自分に腹が立ちきっとサトリを睨みつける。
「答えになっていません。なんであなたは、そんな」
「『ヒュダ母さんと似た顔をしているのか』かしら?」
「っ」
「そんなに私のこの姿は不快?」
「……少なくとも、嬉しくはありません」
「そうなの……」
 笑顔でうなずく中年の女に、ラグは思わず唇を噛んだ。その笑顔も、ヒュダでないことは確かのに、あまりにヒュダに似すぎている。自分に物事を教える時のヒュダの笑顔と、印象がほとんど変わらない。
 ごく当たり前の台所(これもアッサラームの家と印象的には同じだ)の椅子に座ってこちらを見ているヒュダに良く似た中年の女が、どういう存在だかもさっぱりわからない悟りの書とやらいう存在である。そんな認識はラグには鳥肌が立つような違和感というか、不快感を呼び起こすのだ。
「でも、この姿を選択したのはあなた自身よ」
「……は?」
「私――Satori-System\master01.exe≠ヘ、ガルナの試しを受ける人間それぞれの賢き存在≠フイメージを具現化したものとして見えるの。背後の光景もそれに付随したもの。つまりあなたにとっての賢き存在は台所にいる母親であり」

「お前にとっての賢き存在は暗い部屋にいる老人であり」
「…………」
 フォルデは老人をきっと睨みながら話を聞く。窓のない部屋の明かりは逆光になるように置かれた小さなランプだけだ。

「お前にとっての賢き存在は星空の下の神殿にいる壮年の男、というわけさ」
 ふ、と微笑むファンによく似た三十前後の男に、ロンは目を細めた。
「あぷりけーしょん≠セのぷろぐらむ≠セのいめーじ≠セの、相手が知らん言葉を使って相互理解を遠ざけるような奴がさして賢い存在だとは思えんがな」
 その言葉に、男はくすくすと笑う。その笑い声はファンによく似ているようで、微妙に印象が違った。『これまで会った男たち』という限定で思い出すならば、こういうように笑う人間もいた気がするが。
「それはしょうがない。俺はそういう風に相手を煙に巻くのが好きなんだから。その程度の会話の変化は試験官の好みによる裁量の範囲だろう。その程度でくじけるような奴はわざわざ賢者になろうなどとは思わんだろうしな」
 ロンは少しばかり呆れて口を開けた。別にこの程度で性格が悪いだの歪んでいるだの言う気はないが、賢者となる試験の大元締めというべき存在がこういう性格だとは思わなかった。
「こういう奴の出す試験を受けて、よくまぁどの賢者もああど真面目に育ったものだな……」
「ま、洒落で生きてて悟りを開けるような奴は少数派だからな」
「悟り、か」
 ふ、とロンは肩をすくめる。正直これまでのような試験で悟りとやらを開けるものなのかどうかかなり危ぶんでいたのだが、少なくともこの人工知性体とやらは本気で悟りを開けると考えて自分たちを試していたらしい。
「少なくとも、自分の煩悩がなにかはわかっただろう?」
「……会話をしている時にいちいち心を読むような奴は嫌われるぞ」
「試験官というのは受験者にはいつの世も嫌われるものさ」
 涼しい顔で言う男に顔をしかめた。話しながら自分の心のどこまでを読めるのかは知らないが、その気になれば自分の記憶の底までしっかり読めるような相手だ、やりにくいことこの上ない。
「あの質問やら仲間にかぶせた幻やら俺たちの心身を追い込む幻やらは、その煩悩とやらを自覚させるために作ったのか?」
「それだけ、というものでもない。誤解しないでほしいが、俺も世の善良な試験官同様、受験者にはできる限り試しを乗り越えてほしいと思っているのだ。だから少しでも悟りを開く手助けになるよう、そのきっかけを与えようとしただけさ」
「きっかけ、か……悟りというのはちょっと幻を見せられていじめられたくらいで開けるものなのか?」
「まさか。悟りを開くために必要なのはその人間のそれまでの人生だ。生れ落ちてより感じ、考え、積み上げてきたその人間の経験と人格。だが悟りを開くためのきっかけは一刻で、一挙動で、一言で充分。それすら不要なこともある。どれだけ鍛錬しても成功しなかった技が、ある瞬間急に当然のように使いこなせるようになるようにな」
「……ふむ」
 一応、筋は通っている。
 じ、とロンは男を見つめた。男は静かに微笑みながらこちらを見つめている。
「結局、お前の言う悟り≠ニは――賢者になるための悟り≠ニはいったいなんなんだ。俺たちは賢者の弟子というわけではない。それ専用の修行を受けたわけでもない、そもそもなにを悟るべきなのかもわからないような人間でも開きうる悟りとは、なんだ?」
「悟り≠ニいうのは説明できるものではないだろう。少なくとも現在の人間の使用しうる言語情報ではな」
 男は笑顔のまま即座に言葉を返してくる。
「むしろまだ悟りを開かない人間に対して言葉で説明するのはかえって邪魔になる。思考し、想像し、懊悩しろ。不完全な情報を手がかりに。言葉はすべて暗示とほのめかしにしかならない、それを超越し、飛躍しろ――と言われてもそうそうできるものでもないから我々が存在するんだがな」
 やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめてみせて、男は唇の両端を吊り上げて言った。
「他に質問は?」

「え……質問しても、いいんです、か……?」
「もちろん。回答が得られる可能性のある疑問を放置している状態では悟りを開くのはおぼつかないからね。答えられる限り、答えさせてもらうよ」
 サトリはそのあどけない赤ん坊の顔でにっこりと笑ってみせた。セオは思わずごくりと唾を飲み込む。自分などが質問をしていいのかと申し訳ない気持ちはある、だがサトリは本当に質問されることを受け入れているように見える。二度とないような好機。これを活かしたい、と思う感情を抑えられず、セオはおそるおそる訊ねた。
「あの……じゃあ、まず」
「はいはい」
「……このガルナという塔≠ヘいったいなんなんですか? いつから存在するものなんですか? ただの古代遺跡とは、思えないん、ですが。誰に創られた、ものなんですか?」
 賢者という職業。職業を創り出した存在。そんな神に選ばれし者となるための試練を作り出す塔、さらにそこに存在する人工知性体。そんな存在のことをこれまでセオは聞いたこともなかった。もしや本当に神が作り出したものだとしたら、というかその可能性が一番高いのでは、と思うと胸がドキドキして興奮を抑えきれない。
 だが、サトリはばっさりと切り捨てた。
「それは君の現在閲覧可能な言語情報で表現することは不可能だ」
「………え、あの………」
「なにかな?」
 変わらぬ笑顔のサトリ。セオは緊張と恐怖で胸が痛んだが、それでも聞かずにはいられず訊ねる。
「閲覧可能と、いうのは、いったいどういう……」
「データベースの情報へのアクセス権限の問題だね」
「……どなたかに、情報を開示する段階を決められて、いるんでしょうか?」
「お、なかなか勘がいいね」
「………その決めた方というのは」
「それは君の在閲覧可能な言語情報で表現することは不可能だ」
「…………」
「悪いけれども、僕にただ聞いただけでこれ以上の情報を習得するのは不可能だよ。僕は人工知性体なんだ、創り主の意向には逆らえない。君が情報を得ようとするのは自由だけれども、どうせなら仲間の誰かが賢者が転職した時に聞いてみる方が早いと思うよ。賢者になれば、わかることだ」
「………はい」
 セオは小さくうなずいた。賢者になればわかるというのはどういうことなのかというのを聞きたい気はしたが、少なくとも今サトリに質問しても意味がないというのはわかった。
「他には?」
「……あの……賢者になるのに、なぜ悟りを開くことが必要なんですか?」
「へぇ……珍しいね。そこを聞いてくるか」
 サトリは目をぱちぱちとさせたが、セオは必死に食いつく。できるだけ多くの情報を得ておかなければ。
「賢者になることができる人間は二種。『悟りの書』を持つ者と――」
「レベル20以上の遊び人。……確かに、それを聞いた限りでは悟りを開くのがなぜ必要なのかわからないね」
 サトリはあどけない顔で端然と笑む。自分の問いがまるで見当違いというわけではなかったことにセオはほっとした。
「遊び人が冒険者の職業のひとつとして認められているのは、その事実があるからです。レベル20になれば、悟りの書なしで賢者に転職が可能であること。実際にそうして転職した人間の話は、ほとんど伝説かお伽話のようにしか、知られていませんけど……少なくとも、ひとつは例があります、よね」
「そうか、君は知ってたんだな。あまり民間には浸透してない話なんだけどね」
「……はい」
「そうだよ。蒼天の聖者≠アとサヴァンは遊び人から賢者に転職した人間だ」
 セオは小さく息を吐いた。知っていた情報とはいえ、他人に確認するのは初めての話だ。
「まぁ、もっとも彼の場合、賢者として相当にレベルを上げてからこの試しを改めて受けたから我々と個人的にも誼を通じてはいるんだけどね」
「え……この試し、賢者になった人も受けられるん、ですか?」
「もちろん。まぁわざわざそんなことする人間はめったにいないけどね」
「なぜ、サヴァンさんは……」
「まぁ、たぶん自分がズルをしたような気分だったんじゃないかな。だから自分にちゃんと賢者の資格があるか試したくなった、と。まぁ、あっさりクリア……合格してたけどね」
「…………」
「で、だね。君が思ってる通り、『悟りを開く』こと自体は賢者になる必要条件じゃない。ただ、『きちんと賢者として活動する』ためには必要な条件なんだ」
「……どういう、ことでしょう」
 サトリはにこりと笑った。あどけない赤ん坊の顔が、どうしてこんなにもさまざまな笑顔を浮かべられるのだろう。
「君は『職業』とはどういうものだと考えている?」
「え……」
 一瞬ぽかんとしてから、慌てて必死に考えて口を開く。この人に『話す価値がない』と思われてしまったら終わりだ。
「制約の、誓約……自らに課した制約をバネにして、力を得る、始まりの賢者が創り出した人の力……だと」
「ふむ、まぁその通りだと言っていいだろうね。より正確に言うなら、職業というのは人間のキャパシティをデータのカスタマイズによって効率よく運用するシステムだ。人間という器には限界がある、それを戦士なら戦士、魔法使いなら魔法使いの役割に特化させることで、修行を積めば強い魔物や魔族とすら戦える力を得させる」
 ふわ、とサトリの背後の書棚から一冊の本が飛んできて、宙に浮いたままセオの目の前で止まった。ぱらぱら、と頁が繰られ、ある場所で開いたまま止まる。それは間違いなく、セオがかつて学んだ、職業の定義について書いてある本の要綱を記した頁だった。
「具体的に手順を言うと、システムから使用しない部分を削除して特定のアプリケーション専用のデータで埋め尽くす、というところかな。積んだ経験による成長もその役割にのみ特化されるから、成長効率も素の状態とは比べ物にならないほどよくなる。……その職業の目的においては」
「はい」
「賢者という職業も、その点については普通の職業となんら変わることはない。いや、むしろよりその特質が突き詰められているといえるかな」
「……と、いうと?」
「そうだね……」
 す、とサトリが手を上げる。ふわふわわ、とさらに本棚から数冊の本が飛んできた。さっきの本と同じように、セオの眼前で止まり頁が繰られ開かれる。そこにはいくつもの図形と論理式が記されていた。
「図で説明してみようか。まず、これが人間本来、職業という力の働いていない状態」
 ぷわ、と本から図形が飛び出して空中に固定される。霧に人影が投影されているような状態なのだろうか。
 その図形は、円の図表に見えた。ひとつの円が目が痛くなるほど様々な色で塗り分けられている。さらにそのひとつひとつの色から、さらに小さな円の図表がいくつも飛び出したり浮き上がったりしていた。込み入りすぎて、ぱっと見ただけではどういう図なのかよくわからない。
「無駄なデータやらアプリケーションやらが多すぎて、効率が悪い状態だね。システムの動作自体も重くなる。これを職業に就けることで、こう変えることができる」
 ぱっ、と円が二色に塗り替えられる。円図表の大半の部分が薄い赤に塗られ、残りは白――いや、赤の部分の端の方にごくわずかだが黒く塗られた部分が残っている。
「システムの大部分がひとつの『職業』というアプリケーションのために使われている。白は能力の余白――遊びの部分だね。こうすればをハードをぐっと効率よく使えるし、動作も格段に軽くなる。で、賢者という職業は――」
 さ、と円の色が変わった。今度は目が覚めるような青だ。さっきとは異なり、すべての部分が青色に塗られている。
「こうなる」
「……余白が、ないんですね。それに」
「そう、遊びの部分がない。ひとつには賢者という職業――アプリケーションが必要とする容量が多いからで、もうひとつには、賢者という職業は『上書きされる職業』であるからなんだ」
「それは、どういう……」
「賢者という職業には、悟りの書を得た人間であれ遊び人であれ、レベル20まで達してから転職するという形でなければ就くことができない。それはそのくらいのレベルに達した人間でなければ容量が足りないからなんだけど、普通の職業のように無駄なデータを整理整頓して職業に効率よく組み替える――個々人のためにカスタマイズするものと異なるのは」
 ぱっ、と円の図表がさっきの、職業に就く前のごちゃごちゃしたものに変わる。そしてその横に、真っ青の、同じくらいの大きさの円の図表が。
「賢者というのは、すでに完成しているアプリケーションをダウンロードし、インストールする――つまり、もうそういうものとして固まってしまっている形を、そのまま持ってきて人間という器に上乗せして全部書き換えてしまうというものなんだよ」
 すすっ、と真っ青な円がごちゃごちゃした円の上に重なり、真っ青に塗り替える。
「賢者というアプリケーションはアプリケーションでありながらOS――基本ソフトウェアでもある特質を持つのでそれでも動作自体に支障はない。というか、賢者という職業は人間というシステムの全体を、それこそOSの段階から『賢者』というアプリケーションのために効率よく組み替えるようになっているんだ。意味がわかるかな?」
「……ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたの言われる、基本そふとうぇあっていうものは、もしかして」
 サトリは、セオの掌でも両肩握りこめてしまいそうな小さな肩をすくめてみせる。
「君の想像する通りさ。人間の人格≠ニ呼ばれる部分だよ」
「……あの、黒い部分……」
 セオがぐ、と奥歯を食いしばってから、口を開く前にサトリはすっと掌を突き出して首を左右に振った。
「君の言いたいことはわかるが、ちょっと待ってくれ。その前にこちらの話を聞いてほしい」
「…………」
 セオがじ、とサトリを見ると、サトリはうなずいてひょい、と指を動かした。まだ図表の出ていなかった本から、新たな図表が飛び出す。
「君の考える通り、なんの準備もなく賢者になった人間は、人格さえも上書きされて賢者という職業が効率よく働くためだけの人形になってしまう。――そういった事態を防ぐために存在するのが、このガルナの塔なんだよ」
 新しい図表も円だったが、ひとつ違うのは、さっきの賢者を表す図表の外側にもうひとつ円があることだった。ほとんど線にしか見えない円だが、さっきの図表は円周に線が引かれていなかったことを覚えていたのではっきりとわかる。薄い線程度の面積ではあるが、確かに円の外周を覆う黒い円――
「もしかして……これは」
「そう、人格≠チてやつだね。悟りを開いた人間が賢者になった場合、こういう感じになる」
「え……それは、どういう」
「うん……ま、この図じゃわかりにくいか。これならどう?」
 円の中心が唐突に盛り上がる。『賢者』を表す青い円が立体化し、球体になった。さらに先ほどの本からまたまだ職業に就いていない人間を表す円が飛び出し、一瞬で球体へと変わる。
「悟りを開いてない人間が賢者になった場合、こんな感じ」
 賢者を表す球体がひょい、とごちゃごちゃした色の球体のところへと動いた。そしてまるで飲み込みでもするように、じじじじ、と音を立てながらごちゃごちゃした球体と同化し、侵蝕していこうとする。
「で、悟りを開いた人間の場合、こんな感じなんだよね」
 ぱっと球体が離れ、色が元に戻った。それから再度青い球体がごちゃごちゃした球体に襲いかかる――が、今度は同化はしなかった。
 ごちゃごちゃした色の球体の、球体同士が触れそうになった場所が唐突にぱかっと開いた。中にはやはりごちゃごちゃした色が渦巻いていたが、青い球体はその中にずぷずぷと沈み中の色を塗り変えていく。
 ほどなくして中身は真っ青に染まったが、円の表面の色は青ではなく、様々な色を混ぜ込んだような艶のある黒に変わっていた。
「……つまり、悟りを開く≠チてのはこういうことができるようになる、っていうことなんだよね。賢者という人格を塗り変える異質な存在を受け容れて、自身は染まらない。簡単に言えば自らの存在をファイルではなくフォルダへと変える、ってところかな。フォルダの中に作った無駄データを集めたフォルダを上書きさせて、人格は大きなフォルダに残しておく。データの量としてはまったく変わらない変化だけど、ね」
「…………」
「遊び人っていうのはね、そもそもがこのフォルダをやたらいっぱい作るようにできている職業なんだ。『大賢は大愚に似たり』って言葉があるだろう。心に棚をやたら多く作り、フォルダを無駄に作り。だから動作が重くなったりもするし、中身のデータがスカスカだから基本的になんの能もないんだけど。まぁ、それでもその職業をレベル20になるほどやり続けるとある種の悟りを開くのと似た状態に達する、システムとしてね。だからガルナで悟りを開く必要がないんだ。転職が可能な場所と転職をさせる賢者。この二つがあればいつでも賢者に転職させられるっていうわけ」
「……転職が可能な場所、というのは」
「本来転職というのは賢者ならば誰でも可能だ――だがどこででもできるってわけじゃない。職業選択の儀だって聖別された場所で行うだろう? ダーマはその転職をするために聖別された場所のひとつなんだ。まぁ、あれだけ効力と範囲が大きいのはあそこぐらいだろうけどね」
「…………」
「ついでに言っておくと、君の勇者という称号は職業ではないよ」
「え……?」
「勇者というものは一種の体質だ、ということは君も理解しているだろう。五歳の時、すなわち職業選択の儀のはるか以前に勇者は勇者と規定される。職業を選択する前にね。つまり、勇者というのは生まれながらにして持つ……のか五歳までの人生の間にそういう体質に変わるのかはまだ解明されていないけど、ともかく職業とは別次元の属性だということだ」
「え……じゃあ、あの。俺の職業は、いったいなんなんでしょうか……?」
 サトリはにこり、と赤ん坊の顔で涼やかな笑みを浮かべてみせる。
「君は職業を選択していない。君という人間そのままの、素の力によって成長しているのさ。勇者がすべてそうであるように」
「え……でも」
「君は職業の力によらず、君という人間が本来持っている力のままで成長している。限定されていないのでどの能力をどう伸ばすかは自由だし無限の可能性も宿っている、代わりに自分よりも容量が低い相手でもそのために特化された専門家にはかなわない。……が、能力の高い勇者がそうであるように、自分で自分を効率よく組み換えることはやり始めているようだけれどね」
「あの……すいません、だけど」
「ああ、君本来の力がそこまですごいものとは思えないということ? まぁ信じる信じないは自由だけど、それは確かなことだよ。ある程度の能力を持つ賢者なら誰でもわかる。君には職業で限定されずとも強い魔物と戦えるほどの素質があるってことじゃないかな。まぁ、勇者っていうのは普通そういうものだけど。ちなみに君の……勇者のサークレットはそういう勇者の特質を守る役目も持っている。だから君というシステムを横から書き換えることはできない、二アリーイコール転職ができない、というわけだ。それこそ、神でもなければね」
 サトリは小さい肩を見事にすくめてみせ、こちらを見上げて微笑んだ。
「他に質問は?」

「……あなたは、なんでそんな格好をしているんですか」
「『あなたが選択したから』よ。何度も言ったでしょう?」
 にこり、とヒュダに似せた笑顔で微笑むサトリ。前頭部がかぁっと熱くなる。苛立ちと腹立ちが混ぜこぜになった気分だ。
「俺はそんなものを選択した覚えはありません。今すぐやめてください」
「そう言われてもね……私は賢き存在≠フイメージを送ってるだけで、あなたにどんなものを見せるかいちいち決めているわけじゃないし」
「っ、なにを」
「送られたイメージをあなたが脳内で翻訳する際に、こういう姿が象られているだけ。あなたが自分で選択したというのは、そういうことよ。私はイメージ――映像の概念を送ってるだけで、あなたに実際見える映像を細かく決めているわけじゃないもの。その概念に反応してあなたが選んだ映像が、これだってことよ」
 つるりと頬の上で手を滑らせてみせるサトリ。その仕草もヒュダに似ていて、なのに違和感が与えられるのは明らかで、神経がヤスリで削られるような不快感を覚える。
「なら、その送るイメージを変えてください」
「……ねぇ、あなたはどうしてそんなに母親を絶対視するの?」
 わずかに首を傾げ、こちらの目を見つめ。印象だけなら本当にヒュダそっくりの、そのくせ明らかになにかが――動作の細かい部分が、こちらを見る視線が、顔に浮かべる表情が伝わってくる感情が、そんななにもかもが違う仕草で、サトリはこちらに問いかけてきた。
「っ……あなたには、関係ないでしょう」
「そうね。でも、セオやロンやフォルデ――あなたの仲間たちには、関係があるんじゃないかしら」
「っ!」
 きっと睨みつけても、サトリは動じもせずにすらすらと口から言葉を紡ぐ。
「あなたは全力で自分を母親に『依存させよう』としている。そうでなければ自分に生きる価値がないというかのように。実の母親を憎み、軽蔑し、忘れる恐怖と、愛する人を失う恐怖と、そうしなければ戦ってこれなかったから」
「っ……」
「唯一絶対の価値判断の基準をヒュダとすることで、思考を停止し、ただその基準に従って生きることに邁進してきた。そうすれば自分は正しいと根本的なところでいつも思ってこれたから。どんな汚い、人の道に外れた真似をしようと、それがヒュダのためだと判断できたなら、あなたは満足して安寧に浸ることができる」
「……黙れ」
「ヒュダと比べて自分の汚さ、至らなさに自己嫌悪を覚えても、自分の行動がヒュダのためだと思い込めさえすればあなたは満足できた。実の母親を忘れる罪悪感も、自分が冷酷な、ヒュダの愛情に値しない人間ではないかという恐怖も、ヒュダのためだと思い込めさえすれば無視できた。だからあなたはヒュダに全力で自分を依存させてきた。その方が楽だったから。嫌な思い出、罪悪感、自らが正しい道から外れた人間ではないかという恐怖、それらすべてを見ない振りで生きていくことができたから」
「黙れっ……」
「でもそれにももう無理が出てきているのにあなたは気付いている。仲間≠ニいう存在ができてしまったから。一緒に旅をして、同じ時間を過ごし、互いに背中を合わせて命を懸けて守りあい、労わりあう存在。自らと違う、ヒュダと違う価値観を持つ、なのに大事だと感じてしまう人間ができて、自らの価値観に揺らぎが生じているから」
「黙れ……」
「自分が変わってしまうのが怖くて、なのにどこかで気持ちよくて、そのくせ母の膝の心地よさは捨てたくなくて、そんな自分が嫌で、でもやっぱり母親の価値判断基準からはみ出して自分の人生に自分で責任を取るのが怖くて怖くてしょうがなくて、必死に母親に対する愛情をかき集めてヒュダだけのことを考えて――だからヒュダと似てるのに違う存在を見て、たまらなく逃げ出したくな」
「黙れと言ってるだろうっ!」
 がん! と全力で壁を叩いた。みし、と音がして、土塀煉瓦で作られた壁にわずかにひびが入る。
 はぁ、はぁ、と荒く乱れる自分の呼吸。それを必死に無視して殺気を込めてサトリを睨みつける。
 わかってる。そんなことくらい、自分はずっと前からとうにわかっているのだ。自分の醜さも、幼さも、臆病さも情けなさも至らなさも。
 それでも自分はこうとしかできない。自分を救ってくれたヒュダ以外のためには生きたくない。自分はそう生きていたいのだ。
 そちらの方が楽だから。
「違うっ……!」
 がん! ともう一度壁を叩く。壁にはさらに深くひびが入った。
 わかってる、わかってるんだ。だからもう見せつけないでくれ。醜く愚かな自分を思い出させないでくれ。そうすれば、自分は、楽に
「違う……っ」
 がすっ、とさらに壁を叩く。今度はもうひびは広がらなかった。
 そこに、また声がかけられる。ヒュダによく似た、優しく柔らかな、自分の体中に針を突き立てるような不快感を与える声が。
「他に質問は?」

「……ぼんのー、ってなんだよ」
 フォルデがぶっきらぼうに投げつけた問いに、老人はわずかに微笑んだようだった。
「一言で言うのは難しいが……一応ここでは悟りを妨げる妄念、ぐらいの意味で使っておるな」
「だっから、そのさとり≠ニかいうのからしてわけわかんねーんだよ! ったく、いちいちややこしい言葉使いやがって。なんだってんだ、俺になにしろってんだよ」
「悟り? それこそ一言で言えるものではないな。悟らんとする者それぞれによって、そのありようを変えるものだ」
「だったら俺のさとりってのはどんなんだってんだよ」
「そんなものわしが知るか」
「……あぁ?」
 ぎろりと老人を睨みつけるが、老人は意に介した様子もない。微笑みを崩さずじっとこちらを見つめて囁くような声で語る。
「悟り≠ニいうものは、その者の人生で必要になった時に全身全霊をかけて追い求めるものだ。だからこそみな得ようと必死にもなる。賢者になりたいという理由で追い求めるものでもないし、少しばかり修行すればほいほい得られるというものでもない」
「ケッ、結局修行してる僧侶だの賢者の弟子だの、そーいうお偉い奴ら専用の話なんじゃねーかよ」
「……というわけでも、実はない」
「……は?」
 わけがわからず眉をひそめるフォルデに、老人はあくまで穏やかに説く。その声の調子は穏やかで柔らかく、聞いていると頭の中まで染み透ってきそうで、フォルデは苛立ちにぎゅっと顔をしかめた。
「悟り≠ニは修行をすれば必ず得られるというものでもない。修行らしい修行もなく感得してしまう者もおる。自らの生に真摯に向き合う者ならばな。それが、その悟りがその者の生に必要であったからこそ得られる真理というわけだ」
「…………」
「お前も経験があるはずだ。自分にはなぜ親がいないのか。なぜ他の子供のように安楽に暮らせぬのか。なぜ王侯貴族は絹をまとい美食をし贅沢な暮らしができるのに、なぜ自分は麻の貫頭衣だけですきっ腹を抱えながら隙間風に震えなければならぬのか。なぜ、なぜ、なぜ? 果てのない、考え続ければ気のふれる問いだ」
「……別に、俺は」
「お前はその問いに答えを出したつもりでいる。そういう奴らは先祖の誰かという自分とはまるで関係のない人間の功績を自分のものにして贅沢な暮らしをしているのだと。そういった存在に対する、いわば義憤によって自らを奮い立たせ、お前はお前の人生と戦ってきた」
「…………」
「だが、お前の問いは本来そのような次元にあるのではない。お前が求めていたのは理由の説明ではない。『なぜ』そうなのか。『なぜ』世界はそういうことになっているのか。『なぜ』自分は無力な子供でしかなく、世界の誤りを正すことができないのか。『なぜ』自分はそういったどうにもならない世界にいるのか、自らを納得させる真理がほしかったのさ」
「……そんなもん……」
「ほしくない、というか? あれだけ焦がれた答えだったというのに? 今手を伸ばせば、それが得られるかもしれぬのに?」
「………!」
「ガルナの試し≠ヘ悟りを開いた人間に悟りの書を与えるための試練。ゆえにわしはお前をここで試す。悟りを得るために必要とされる、これまでの千三百年の間研究されてきたものはすべてわしが与えよう。これまでのお前の人生懸けて、試練に応えるがいい」
 そう静かに言葉を連ねてきた老人は、ふぅ、と小さく息を吐き出して、再度フォルデを見た。
「他に質問は?」

「俺たちにあの幻を見せた理由を聞かせてほしい」
 ロンが問うと、男はわずかに笑んだようだった。
「もうお前はわかっているのではないのか?」
「あんたの口からきっちりと聞きたい」
「ふむ」
 くすり、と今度ははっきりと笑い声を立て、男はロンに指を立てた。
「まず、ひとつには精神的に負荷をかけるという目的がまずある。自らの人生で重要な役目を果たした人物が、今現在重要な相手の姿にかぶせられて過去のままに喋り動く。それはたいていの人間には心を揺るがせる光景だ、悟りを得るために心身を追い込むのに役に立つというわけさ」
「それから?」
「次はお前たちの間の感情に対する接近方法としてだ。現在喧嘩中の相手が自分の思い出の人間の仮面をかぶせられている。そういった事態に対し、お前たちの心理状態は違和感、感情の混乱、それから再起動、という過程を通る可能性が一番高い、と我々は結論付けた。それはお前たちの間の感情のわだかまりを距離を置いて見つめることにもなる。雑念の排除に繋がるわけだ」
「……それから?」
「あと、そういった状態でも連携が取れるかどうかということを試したというのもある。これは試験なわけだからな。何人も同時に試しを受けているんだ、そのくらいの試練は乗り越えてもらわねば困るしな」
「他には?」
「最後の理由としては……まぁ、煩悩を自覚させるのに役立つと思われたからだな。人によって違うが……たとえば、セオが幻を見なかったのは、人生でよい感情をもたらされた重要な存在というのがお前たちしかいなかったせいもあるが、セオの煩悩がお前たち仲間と深く関わっているのではないかと思われたからだ。大切な仲間たちが自分を見てくれない孤独感は、その感情を見つめ直すきっかけになりうると思われた」
「……ふぅん」
「ラグは煩悩を目の前に突きつけるのに最も手っ取り早かったから。フォルデは煩悩を突きつける過程で、過去の仲間と絡めた方向から攻めていくのがよさそうだったから。そしてロン、お前に見せた幻はお前に過去を突きつけ、記憶を引き出し、煩悩を自覚させるためだ。それが最も効果的だ、と思われたんでな」
 ロンはふん、と鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「案外見切り発車なんだな。『思われた』だの『よさそうだった』だのと」
 男はわずかに苦笑してみせる。
「まぁ、それを言われると辛いところだな。一応千三百年前よりも、はるかに研究は進んでいるつもりではあるんだが、人の心≠ノついても悟り≠ノついても、我々は完全に解明したわけじゃないからな」
「そんなもんを解明しようとしてるのか? 無粋な奴だ」
「それが我々に与えられた使命だからな。森羅万象の情報を収集し、研究し、解明する。それがSatori-System≠フ目的のひとつでもあるのだから」
「主目的ではないわけか」
「さて……ここから先はお前の現在閲覧可能な言語情報で表現することは不可能だな」
「ふん」
 鼻を鳴らすと、男はくすり、とまた笑い声をこぼし、抱擁を求めるかのように大きく腕を広げてみせた。
「さて、他に質問は?」
「ない」
「では、最終試験に移らせていただくが、かまわないかな?」
「前置きはいいからとっととしろ」
「やれやれ、いちいち当たりがきついことだ――では、問おう」
 す、とこちらを向き、真剣な眼差しで。一語一語はっきりと、男は言葉を紡ぎ、投げつけた。

『―――お前は、なんのために戦う?』

 セオはその問いを聞いてから、しばらく無言で考え、それから問うた。
「その問いに対して、質問をしてもいいでしょうか?」
「もちろん。ただし、答えられる問いと答えられない問いがあるよ」
 そうだろうな、となんとなく予想していたので、その答えに対しては「はい……」と小さくうなずくだけですんだ。
「あの、まず……この問いにどう答えるかで、悟りが開けるかどうかが決まるんですよね?」
「そう。というか……正確には悟り≠システムに組み込めるかどうかが決まる、ってことだけどね」
「あ、はい。……そして、俺はそれで悟りが開けたとしても、賢者に転職はできないん、ですよね?」
「そうだね。できたとしても、する意義はない」
「そう、ですか。あと……この問いは、他のみなさん……ラグさんとか、ロンさんとか、フォルデさんへの問いとは違うん、ですか?」
「いいや、全員同じだよ。別に全員同じにしなければならないというわけではないけれど、今回は同じの方がいいと結論付けることができたのでね」
「そう、ですか……」
 セオは一度目を閉じた。そして思考を巡らせる。
『お前は、なんのために戦う?』。その問わんとするところはすなわち、自分の生きる動機――他者の命を奪ってまで生きる根本的な理由だろう。
 自分には本来、生きる資格はない。幸せになる資格など存在しない。自らの力の糧とするために他者の命を奪い、過去に自らが全身全霊を懸けて抗って、抗いきれなかった絶望を、数百数千の命に味わわせてきた、そしてこれからもその数十倍数百倍数千倍、ことによってはそれ以上の命に味わわせる最低の人でなしだ。
 そしてなにより、誰より大切な仲間たちを、それがどんなにひどいことかわかっているくせに傷つけ続けている、最低最悪のクズ勇者だ。
 本来なら消滅するべき、存在するだけで害悪を撒き散らす奴が、なぜ生き続けているのか。
(魔王を倒すため?)
 違う。それは矛盾している。
 自分は勇者だから、魔王を倒す、ないし侵略を止め、人間、魔物、動植物、エルフホビット等々の命が失われることを防げる可能性がある。ならば、全力でやってみなければならないと思うし、セオ自身そのためにやれることがあるなら全力でやりたいと思った。
 命が失われるのは嫌だ。誰かが死ぬ、救われたいと祈る命が消える、自分はそれがどれだけ哀しく怖ろしいことか知っている。命が失われる瞬間のあの絶望を少しでも減らす、当然のように失われる命を自分にできるありったけで救う、それは、それだけは自分が誇ることができたただひとつの誓いだ。だから魔王の脅威を取り除くために戦うと決め、自分を仲間と呼んでくれる人たちに頼りきりながらも旅を続けてきた。
 だけど、それは人でなしが抱いていい想いではない。
 自分はすでに何千もの魔物の命を奪っている。自分の前に立ちはだかるならば、人であろうとエルフであろうと他のどんな存在であろうと、きっと自分は殺す。
 そんな存在が他の命を救うために頑張る? お笑い種だ。自分などに世界を救う資格はない。虐殺者が世界を救うなんて、そんな道理があっていいはずがない。そんな世界はあってはならない。
(なら、ラグさんやロンさんやフォルデさんの命を守るため?)
 それこそ、自分にそんなことを言う資格はない。
 自分はもう気付いている。理解している。自分はあの人たちをこれ以上ないほど傷つけている。誇りを、感情を、あの時確かに感じた、自分への想いを。
 自分はただ押し付けているだけだ。自分の不安を、恐怖を。『また失うかもしれない』という恐怖に耐えきれないから勝手に魔物を倒して、勝手に強くなろうとして、勝手にあの人たちの命を守ろうとして。
 そうして、あの人たちの、自分に対する優しい想いをめためたに傷つけている。あの人たちが自分を気遣ってくれているのはあの時、バハラタで自分を助けに来てくれた時、ちゃんとわかっていたのに。わかったと、そう思ったのに。
 それを知っているのに、自分は恐怖に耐えられない。全身全霊を振り絞って敵を倒し、少しでもレベルを上げて強くならなければ、あの人たちが消えてしまうのではないかという怯えに抗えない。
 そうしてあの人たちのために命を奪う、命を選別する自分に幸せになる資格があるとは少しも思えなくて、そんなのは絶対に許されないことのはずで。
 なのにあの人たちと一緒にいると、自分はすぐ幸せになろうとしてしまう。あの人たちから気遣ってもらうたびに、優しい言葉をかけてもらうたびに、そんな気配が感じられただけでも、幸福に打ち震えてしまう。渇いた生き物が水を貪り飲むように。
 だから自分は必死に心を凍らせて、あの人たちとの間に壁を作ろうとして、だというのにそれすらやりきれずすぐだらしなく揺れ動く。そのせいであの人たちの心身を損なうことになるかもしれないのに。
 そんな自分が、嫌で。許せなくて。存在する価値が見出せなくて。在るべきじゃないとすら思っていて。
 なのに自分は、今ここにこうして生きて戦っている。
 それは、なぜ?
 ……長い間、足が痺れずきずきと痛み頭がくらくらして倒れそうになるほどずっとセオは立ちっぱなしで考えて、それからゆっくりと口を開いた。

「……どういう意味だ、それは」
「言葉通りの意味よ」
「なんのために戦うって、そんなことあんたはわかりきってるんじゃないのか」
「あなたがわかりきっているのならね」
 サトリはこちらを見つめながらただ柔らかに微笑む。その表情がいちいち腹立たしく、針を刺すように不快で、ラグは苛つきのあまりこめかみが痛くなるのを感じた。
 そうだ、わかりきっている。自分の求めているものくらい、自分はよくわかっている。自分はあの瞬間から、ヒュダに命を救われた瞬間から、彼女のために生きると決めたのだから。
 それ以外の自分はいらない。そう自分を規定したのだから。
 ラグはぎりっ、と奥歯を噛み締め、それから口を開いた。

「……なんだよ、そりゃ」
「言葉通りの意味さ」
「言葉通りって……なんなんだよそりゃ、意味わかんねぇんだよ」
「ならば考えればいいだろう。意味がわかるまでな」
「んっだよそりゃ……」
 フォルデはふ、と息をついて、それから老人を睨んで言った。
「椅子とか、ねーのかよ」
「では、好きな椅子を」
「っと」
 老人が指を鳴らすや、目の前にずらりと種々雑多な椅子が並んだ。どっから出てきたんだつかこんなにいらねー、とぶつぶつ呟きながらも、とりあえず普通の木製で背もたれのある椅子を選んでかけた。
 とたん他の椅子はすべて消え去る。それにまた少し驚いてから、ふ、と息を吐いて背もたれに体をもたせかけた。
 なんのために戦うか。そんなことは、当然フォルデは考えたことはなかった。
 そもそもこういう、哲学的というのか、普通なら考えないようなことについて考えたことなどフォルデにはない。そんなことをする暇があるならどう飯が食えるか考えろ。それがフォルデの中では、そして周囲では当然の理屈だったからだ。
 こんなややこしい、面倒くさいことをいちいち考えても意味はない。ただしょうもない気分になるだけだ。なにかをする理由なんて『そうしなきゃならないから』か『そうしたいから』で充分ではないのか。
 だが、それではたぶん目の前の相手の求める答えにはならない。なんとなく相手の勢いに呑まれて殴りそびれてしまっているし、このままでは負けっぱなしだ。それは面白くない。だがならばどうすればいいのか。
 椅子を揺らしながらぐるぐる考える。なんのために戦うか。そんなの、その時々によって違うのが当たり前だ。たとえば街のチンピラとの喧嘩は向こうが吹っかけてくるかムカつくことをしているかで、魔物の場合は向こうが吹っかけてくるせいで――あれ、案外どれも似たようなもんか。
 だが、たぶんこの老人はそういうことを聞いているのではないのだろう。なんのために戦うか。戦う。敵を倒す。殺す。そういうことをしない、という奴もこの世の中にはいる。恵まれた奴らの中にうじゃうじゃいるのはまぁ当たり前だが、盗賊仲間の間にも人殺しはしない、と言っていた奴はいた。
 なんとなくだが、フォルデ自身、仕事で人を殺すのは嫌だなと思っていた。なんだか嫌だった。気持ち悪い感じがした。だけど、以前に人を殺した時は、別に嫌ではなかった。むしろ気持ちよかった。カンダタの部下――セオにナイフを投げつけていた奴を殺した時だ。
 他の人間を殺した時も、無条件にそう思うだろうとは思えない。その頃は素直にそうは思えなかったが(というか今でもこんなことを素直に言うのはなんというか、その、面白くないのだが)、仲間であるセオを傷つけられた怒りをぶつけることができたせいが大きいのだろう。
 なら、俺は仲間……っつーか……あーもー他に言いようねーからそれでいいや、そーいう奴らのために戦ってんのか?
 ―――違う。フォルデは首を振った。戦いと人殺しは同じ言葉じゃない。戦いというのは、もっとこう、単純で、手近で、自分がいつもやってきた――
 あ、とフォルデは目を見開いた。そうだ。自分はずっと戦ってきた。物心ついたころからずっと。周囲のすべてと。自分に勝手なことを押し付ける、クソムカつくこの世の中全部と。下っ端の盗賊という役割を押し付ける盗賊ギルドの奴らと、別に俺が好きで選んだことでもねぇ生き方を勝手に色眼鏡で見てケチをつける恵まれた奴らと、庶民≠ネんぞと俺たちを呼びくさる、俺たちから金を奪い取っておきながら偉そうな顔をするボンクラ貴族どもと。
 そうして必死に戦ってきたのは、ただ。
 フォルデはたっと椅子から滑り降り、にやりと笑んで口を開いた。

「……ふむ」
 ロンはわずかに考えた。なんのために戦うか、か。これはまた形而上的な問いがきたものだ。
 自分の人生を振り返ってみる。自分はこれまでなんのために戦ってきたのか。なんのために戦おうとしてきたのか。
 幼い頃は単純に強くなるのが楽しかったからだった。大好きな叔父――ファンや、村の奴らに褒められ認められるのが嬉しくてしょうがなかった。自分自身、自分が強くなっていくのを認められるのも痺れるような快感だった。
 それがファンに捨てられて、自らの性癖を否定されて。自らが自らであるためには戦わねばならなくなって――そうであると無理やり思い込んで、むやみに自分の性癖を主張し男をひっかけて。
 少しずつ意地を張るのに疲れてきて、性癖を隠すようになり、周囲との衝突を避けるようになり、楽に生きることを学んで――それでも自分はたぶん、戦うことをやめてはいない。
 それは、なぜか。そう問われた時、どう答えるか?
 ロンは答えをしばし吟味し、口を開いた。

「わかりません」
「……ふむ?」
 サトリが器用にわずかに片眉を上げてみせる。その顔をじっと、見上げるように見つめながらセオは考えたことを語った。できる限り落ち着いた口調で。
「俺には、なにかのために戦う資格なんてありません。そんな俺が戦っていいのか、そんなことが本当に許されるのか、わかりません。だから、わかりません」
「……ふむ。聞いておこう。資格がないというのは、君が経験値になるなら誰でも殺す人でなしだからかな?」
 セオはサトリを見つめながら、ゆっくりと首を振る。
「それも、あります。でも、それだけじゃありません」
「ほう」
「俺は、自分がなにかのために戦えるほど偉い人間だと、どうしても思えないんです」
「……ほう」
 自分は世界のために、少しでも死の絶望を減らすために戦うというただひとつの誓いを穢した。世界のすべてを殺してでも仲間たちに生きていてほしいと思った。果てしないほど傲慢で、身勝手な思考だ。
 そんな一方的な押し付けがあの人たちに望まれるはずがないと自分は知っている。なのに自分はそうせずにはいられない。ただ自分が恐怖に耐えられないから。あの人たちの命が失われる恐怖を味わうのが嫌だから。そんな理由のために命を奪う。また果てのない、傲慢と驕慢。
 汚らわしい、吐き気がする、自分は消滅するべきだと心から思う。思うのに、なのに。
「俺は、生きたいって、思ってしまっているんです」
「………そうかい」
「それも『魔王に対処しなきゃいけない』って、理由があるからじゃ、ないんです。もっと、たまらなく、身勝手な理由で、なんです」
「それは、どんな?」
 セオはぐ、と唇を噛んだ。言わなくてはならない。自分は断罪されるべきだ。こんな醜く愚かな自分が、裁かれずにいていいわけはない。
「……ラグ、さんに」
「ラグくんに?」
「挨拶をして、挨拶を返してもらえたらって、思ってしまうんです」
 返ってきたのは沈黙だった。セオは堰を切ったようにまくしたてる。
「それだけじゃないんです、『ロンさんにおはようって言って頭をくしゃってしてもらえたら』とか『フォルデさんになにのろのろしてんだって睨まれた時についでに飲み物牛乳でいいよなって聞いてもらえたら』とか、他にも『一緒に稽古をした時に汗拭きを差し出した時ありがとうって言ってもらえたら』とか『できるだけおいしくしようとした料理を食べてもらえた時おいしそうな顔をしてもらえたら』とか、もう嫌になるほどいっぱいっ」
「…………」
「ラグさんやロンさんやフォルデさんに、俺のことを大切だって思ってくれてる人たちに、俺がしたことで『嬉しいな』とか思えてもらえたらとか、それを俺に伝えてもらえたらとか、そ、それだけじゃなくてなにかを成し遂げた時にや、優しく、してもら、えたらな、とかっ、よくやったぞって言ってもらえたらも、う死んでもいい、とかっ、そういう身勝手で、押し付けがましいことっ、俺は本当はっ、いっぱいっ、考えててっ」
「…………」
「そんな風なこと考えてる暇があるなら訓練すべきだってわかってて、わかってるはずなのに、他の命を奪ってあの人たちを守るってそんな絶対しちゃいけないことをやるって決めたくせに、奪った命にもそんなことを考えている間に失われる命にもどれだけ申し訳ないことかわかってるくせにっ、俺は、そういう身勝手なこと心のどこかで山ほど考えてて、本当に、もう、顔を合わせることができないくらい申し訳なくて」
「…………」
「申し訳、ないのに……会いたい、とか、思ってるんです。一緒にしたい話がしたいこっちを見てもらいたい一緒になにかしたい少しでもマシな存在だと思われたい、そんなことばっかりで溢れそうでそんな自分が嫌でなのにそれでも会って少しでも俺がみんなにいいことをあげられたらな、とか喜んでもらえたらな、とかそんな気持ちがどうしても消せなくて」
「…………」
「俺、本当に、ぜんぜん、いい子じゃない……」
 堪えきれず、セオはうつむいた。拳を握り締め、唇を血が出そうな勢いで噛み、必死に声が漏れるのを抑える。自分みたいな奴が泣き声を上げちゃいけない。そんな資格はない。迷惑にしかならない。
 自分みたいな存在が、本当に、なんで生きてるんだろう。ラグにも、ロンにも、フォルデにも、迷惑にしかきっとならないのに。
 しばらく間があってから、サトリは呟くような声で言ってきた。
「セオくん。後学のために訊いてもいいかな」
「は、い、なんでしょう」
「君は、今でも魔物を殺すのが嫌なんだよね?」
「……嫌なんて、そんなことを言う資格」
「具体的にどう、どのくらい嫌なの?」
「……殺す時、その魔物のそれまでの生と、感情を想像します。この魔物だって俺に殺されるために生きてきたわけじゃきっとないのに、俺なんかに殺されて、こんなのは間違ってるって思います。生きてほしいって思います。これまでその魔物が生きるために奪ってきた命を想像して、その上にこの命は成り立ってるのに、俺が無駄に消滅させるんだなって考えて、体が震えるほど怖い、と思います。そういうことをいろいろ考えて、自分なんか消えてしまえばいいのに、って思い、ます」
「ふむ。それでも魔王を倒す……か説得するか他の方法で対処するか、なんでもいいけどそういうことをしたいと思ってる?」
「え、はい。なんで、ですか?」
「魔物をもっといっぱい殺すことになっても? 仲間たちと楽しく生きる妨げになっても?」
「え……でも、あの。魔王に対処する過程で、魔物をいっぱい殺すと決めたのは、俺の勝手な考えですし、本来ならもっと他に方法があったと思うのにそれしか選べなかったのは、俺の未熟さですから俺の責任で、俺自身が対処して当然の事柄ですし。ラグさんたちと……っていうの、は……俺の勝手な感情ですから、そんなもので旅をどうこうするなんておかしい、ですし」
「やめたいとは思わない?」
「はい。だって、俺にはちゃんとできることが、本当にもうそれしかありませんから」
「なるほど……ね」
 サトリは苦笑した、ように見えた――とたん、その体が光の球に変わった。
 周囲の光景がゆっくりと変わっていく。光溢れる図書館が輝く靄の中に消えていく。その靄はすべてを覆いつくし、なにもかもが見えなくなっていく。
『不適格』
『汝の心、未だ自らを知らず』
『自らの在り様を知らず』
『自らの価値を知らず』
『自らに在るを、無しを認めず』
『自らの姿を認めぬ者に、悟りを開くことはできず!』
 さっきまで自分に質問を投げかけてきていたのと同じ声がわんわんと四方八方から叫ぶ。その隙間を縫うように、サトリの笑みを含んだ声が聞こえた。
「セオくん、老婆心ながらひとつ忠告してあげよう。君はもっと仲間たちと話をしなさい」
 自分にあの人たちを仲間と呼ぶ資格はない、と答えようとしたが口が開かなかった。サトリは続ける。
「君がどんな感情を抱いているか、彼らにどんな感情を抱いているか、君が今なにを苦しみなにに悩みなにに迷って、そしてなにを決めているか。自分の心の中にあるものを打ち明けるんだ。彼らにはそれを聞く資格があり権利がある、彼らが君を気にかけている限りね。そうして話をして、他者を遠くから見つめるのではなく間近で向かい合うことを知れば、君の抱える苦しみのいくぶんかは解消される……かもしれないよ?」
 それに答える暇もなく、視界はすべて輝く靄に覆われ――そしてすべてが消えた。

「決まってる。ヒュダ母さんのためだ」
「そう?」
「そうだ」
 自分が生きるのはすべてヒュダ母さんのため。それでいい。それでいいんだ。それでいいと決めたんだ。
 いまさら考えを翻したりはしない。して、たまるか。
「その答えを貫いて後悔したりはしない?」
「しない」
「ヒュダ自身にとって迷惑なことだとは、考えない?」
「……そんなことは、関係ない」
 そうだ、関係ない。自分がヒュダを誰より重んじるのは自分の勝手だ。ヒュダの意思とは別問題。ただ自分がそう在りたいから在るだけ。ヒュダ自身とは関係ない、自分が勝手に決めた自分の生き方だ。
 この年までずっとそう生きてきた。いまさら道を変えるなど、できるはずがない。
「そう」
 サトリは微笑んで、うなずく――とたん、鐘が鳴った。
 この部屋で鐘が突き鳴らされているのではと思うほどの大きな音。思わず耳を押さえ目をつぶる、その一瞬の間に声が耳に飛び込んできた。
『不適格』
『汝の心、未だ自らの欲するところを知らず』
『自らの向かわんとする道を知らず』
『自らの一心に足らずを認めず』
『自らの情とまみえるにしかず』
『自らの欲を認めぬ者に、悟りを垣間見ることはできず!』
 そしてその直後に聞こえるサトリの笑みを含んだ声。響きも、声の調子まで、ヒュダそっくりに変えて。
「いいこと、ラグ? 嘘をついては、駄目よ?」
「黙れ!」
 思わずそう叫んで目を見開く――そこは真っ暗な闇の中で、すべてはその中に消えた。

「俺自身のために決まってんだろ」
「ほう」
「俺が戦うのは、生きんのは俺のためだけだ。俺がそうしたいって思うからそうしてんだ。誰かのためじゃなく、俺のためだ。生まれた時からずっと、そう決めてんだよ!」
 そうだ、自分は自分のためだけに生きる。自分がそうしたいから馬鹿な金持ちやらクソッタレな貴族やらから金を盗むし、邪魔な魔物も人間も殺すし、魔王を倒すし……仲間を、守る。
 全部自分がしたいから自分の好きで自分の勝手にしていることだ。文句をつける奴がいるならいくらだって戦ってやる。俺は俺を、絶対曲げねぇ!
 不敵な笑みを浮かべながら老人を睨みつけてやると、老人は小さく肩をすくめてから訊ねてきた。
「自分がそうしたいからそれを通す。それが正しい、そう思うのだな?」
「知るか。けど俺はこの俺でいく、死ぬまでな」
「ふむ、ではセオが自分がそうしたいからという理由でお前の意思を無視して尽くすことを、お前は受け容れるのだな」
「……っはぁ!?」
 思わず叫んだが、老人は表情を小揺るぎもさせず淡々と続ける。
「お前が自らを押し通すなら、他者も自らを押し通そうとする。それは当然の理屈だろう。自分を尊重してもらおうとするならば同様に他者をも尊重せねばならん」
「っ知るか! 冗談じゃねー、んなもんはいそーですかってやられっぱなしになってたまっか! やめろボケって殴りつけてやるに決まってんだろ!」
「ふむ。となると、他者がそれぞれの勝手な理由でお前の権利を侵害するのも当然ということになる理屈だな。自分の感情を好き勝手に押し通そうとする人間には、他者も好き勝手をしようとするぞ」
「っ………んなもん知るか! んな理屈どーでもいーんだよ、俺は俺の好き勝手を通して」
「仲間の三人のうち誰一人にすら及ばぬ実力で?」
「な………っ」
 一瞬絶句して、それからカーッと頭に血が上った。
「うるせぇざけんななんなら勝負すっかクソッタレ!」
「やれやれ」
 老人は厭味ったらしく笑ってみせる――とたん、床が抜けた。
「っ!」
 手を伸ばす暇もなく自分は落ちていく。床の下、はるか下方の闇に。必死に落下を食い止めようと試みるが、壁も天井も遠すぎて手が届かない。
 それでも必死に体をばたつかせるフォルデに、どこかから声が聞こえた。さっき自分にいちいち質問をしてきやがったムカつく声だ。
『不適格』
『汝の心、自らの求めるところを知る也』
『されどその意、未だ世界に磨かれておらず』
『自らを貫き通すに足りず』
『他を受け容れるに大きく足りず』
『世界の中に在るに足りぬ者に、神に選ばれる資格なし!』
「早い話が、修行が足りん、ということだな」
 最後にからかうような声音で告げる老人の声。
「なっ」
「世界を見て、他と向き合い、関わり合い。それでも自らを貫けるか試してみるがいい。十年後、またここに来れたなら、またお前を試してやろう――」
「知るかざけんなボケてめぇ絶対殴ってやるっ!」
 そう喚いて暴れるが、下方から空気の淀みを感じ肌が一気に緊張した。床が近い!
 死ぬ、死ぬ! そう頭の中で喚く自分を叱咤して受け身の体勢を取り、床に落ちた、と感じた――その瞬間、すべてが消えた。

「さて、な」
 その答えに、男は一瞬だが目を瞠ったように見えた。
「さて、とは?」
「さてはさてさ。言葉通りの意味だ」
「……わからない、ということか?」
「そういうわけでもない」
「では、どういう意味だ?」
「あんたはどう思うんだ?」
 そう問うてみると、男はわずかだが目を輝かせ、楽しげに呟き始める。
「そうだな……完全に理由が理解できない、という意味ではないだろう。だが完全に自らの動因を解明しているというわけでもないので、俺に質問をぶつけることで時間稼ぎと反応の観察を行い考察を深めようということではないか?」
「と、いうのともまた違う」
 そう言うと男はきゅっと眉を寄せた。
「む……では、自らの理由に困惑し、認めたくないという感情が働いているのでは? 自らを改めて見つめ直した時に、予想外の感情が働いていた、など」
「それも違うな」
 その答えに男はむむむ、と眉間に皺を寄せる。
「では……」
「別にそんなに考えこまなきゃならんほど大層な意味でもない」
 きっぱり言い放たれて、男はわずかにむっとしたようだった。こちらをじろりと睨んで、少しばかりつっけんどんな声で言ってくる。
「では、どういう意味だ」
「俺にはその質問は意味がない、ということだ」
「は?」
 ロンはにっこり笑って肩をすくめ、すっぱりと説明してみせる。
「なにかのために$う趣味は俺にはない、ということさ」
「む……」
「人間というのは、少なくとも俺は、行動にそうわかりやすい理由があるわけじゃない。自分でも理由がわからないこともある、わかったとしても一言で言えるような理由であることはむしろ少数だ」
 そもそも、それ以前に。
「少なくとも、単純にこうか、と質問されてこうだ、とあっさり答えられるような、単純な人生を送ってきた覚えはないな」
 じろり、と視線を合わせて睨みつけたロンに、男は無言で感情の感じられない視線を返してきた。ふん、と鼻を鳴らして跳ね返してやる。
 ロンとしてはわかりやすい答えを返してやるつもりは最初からなかった。こんな形で投げかけられたこんな問いに素直に答えてやる人間ばかりだという認識そのものが甘いし、質問そのものもしょうもないことはなはだしい。
 戦ってきた理由なんてものは一言二言で説明できることじゃない。真剣に答えるならそれこそ人生と同じだけの時間がかかる。その時の感情、その時譲れないと思った事実、それらを抱くに至った理由はそれまでの人生と切り離して考えられるものではない。
 なにより、こいつにとってはこれまで何百何千と見てきた賢者候補の人生であっても、自分にとってはただひとつの、一度きりの人生なのだ。それもまだ少しも終わってなどいない。それこそ死ぬ気で戦ってきた、これからも戦い続けるだろう人生なのだ。それを横から偉そうになんだかんだとケチをつけられてたまるか。自分の戦う理由は、なんのためと問われてあっさり説明できるほど単純なものでない理由は、それまで自分の人生を生きてきた自分自身にしかわからないのだから。
 それに。
「第一、『俺はこのために戦う!』なぞというご大層な理由を持つ気は俺にはさらさらないんだ。そういった理由は、いともあっさりと自分の行為を正当化してしまう。天下泰平の志を抱いて兵を挙げた人物が無辜の民を虐殺したことがこれまでの歴史で何度あったと思う? それらすべてがとは言わないがそういうのの原因の大半はな、理想やら理由やらをただ唯一と定めると、これこれのためにはこうしなければならない≠ネんてあっさり思い込めてしまうせいだ」
「…………」
「世界を救うだの少しでも苦しむ人を減らすだの命を救うだの、そういった理想を抱くのはまぁけっこうなことだ。お題目としては実に聞こえがいいし、本気で思い込んでるならそう悪いものでもない。が、そういった理由を持っていることに満足すると、あっさり理想は歪むし、暴走する。『絶対に理想を達成しなければ』と手段を選ばなくなったり、自分を理解しない存在に対する理解を放棄したり、自分に陶酔して現実を見ることやより進歩した理念を取り入れることを拒んだりな」
「…………」
「理由とやらが個人的なものだったとしても変わりはない。戦う理由だの生きる理由だの、そんなものを抱え込むとろくなことはないぞ。『こうだから生きられる、戦える』というのが『こうでなければ生きられない』だの『これのためならなにをやってもいい』だのまであっさり暴走するというのがどれだけ多いことか」
「……つまり、お前は生きるにも戦うにも理由はいらない、と言いたいのか?」
 静かな問いに、ロンはふんと胸をそびやかした。
「人による。理由がなければ生きられない、戦えないという人間は確かにいるものだ。これこれだ、と言葉で表せる理由があるというのは確かに人の心を安定させる力はあるのだし。要は、自分の理由は自分で決めることと、自己を客観視する目を持ち続けることだと思うがな」
「客観視、か」
「理由がいらない人間でも同様だ。自分のやっていることは他人からどう見られるか。自らを他人として見た時どう見えるか。それを認識しておけば、少なくとも自分に酔うことはなくてすむ。自分のやっていることやら考えていることやらがどれだけ馬鹿馬鹿しいかはわかるからな」
「………なるほど」
 そこまでいかめしい顔で言ってから、自分が熱くなっているな、と自覚してロンはつるりと頬を撫でて表情を楽しげな笑顔に変えた。
「まぁ、俺の言っていること自体馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいことだしな。勝手に熱くなって自分の理屈を押し付けているようなものだし。結局のところ、自分にとってなにが正しいか真実か、なんぞ自分で生きて、感じて……それこそ悟≠轤ネけりゃどうしようもないものだしな」
「お前は悟ったと?」
 その問いに、一瞬考え込んでから、ロンはうなずいた。
「あんたの考える意味と同じかどうかはわからんがな」
「説明してみてくれ」
「そうだな……」
 男の視線は静かで、そしてこちらの中まで抉り出そうとするかのように深い。ロンは数秒間を置いてその間に考えをまとめ、ごく小さく呼吸をしてから口を開いた。
「この世の中には山ほどの理屈がある。どうするのが正しいだ間違ってるだ、山ほどの言い訳と正当化だ。が、そういう理屈の段階でああだこうだいうのを頭の中でこねくり回したところで実際にはなにか役に立つもんでもない。が、必死に生きてる時に、『ああこういうことかな』となんとなくわかることがある。感得する、というやつだろうな」
「…………」
「だが論戦じゃないんだから、理屈が正しいとわかればそれですむ、というわけでもない。そうして感得した自分が正しいと思う理屈を、生きてる中で使っていかなきゃならん。当然、否定されることも多い。場合によっては打ち負かされることもある。自分が正しいと思ったのは誤りだったのか、とか悩んだり迷ったりする」
「…………」
「そうしてあちらこちらに寄り道しながら生きていって……ふいに見える≠アとがある。高いところから見下ろすように。『そういうものなんだ』とな。その理屈の中に在るものが。世界やら人生やら人の心やらが。正しいとか間違ってるとかじゃなく、『そういうものなんだ』と。俺にとっての正しいとか真実とかいうのは、まぁそのあたりだ」
「……なるほど、な」
 男はゆっくりとうなずき、それから微笑む。その慈母のような微笑みが面白くなくて、ロンはにやりと笑んでとうとうと語る。
「まぁ、俺はそもそも悟りを開いてございますなんぞと澄ましてみる気はないからな。人間というのは悩んで迷って世俗の感情にまみれてなんぼだ。遊んでもみたいし怠けてもみたい、そういうたわけた人間だからこそいろんなものが生まれるわけだし……多種多彩な罵り言葉やら殺人の方法やらな」
「…………」
 男は笑みを崩さず、ただこちらを見つめる――と、その姿が唐突に掻き消えた。
 とたん、見えていた光景が変わる。星空がなんの前触れもなく陽光に満ちた青空に変わった。
 さらに床が消えた。足元に感覚がない。自由落下が始まるべきなのに、なぜか体はむしろ上方へと浮かんでいく。
 その上今は冬だというのになぜかばっと桜吹雪が散った。目の前を覆うほどの大量の桜の花びらが、下方から左右から舞い散って、上方へとどんどん勢いを増しながら飛んでいくロンの体を取り巻く。
 そして、声が聞こえた。四方八方から、割れんばかりの声で、輪唱するかのように何度も繰り返しながら音を響かせていく。
『適格』
『世界を知り、自らを知り、その不条理さ、どうにもならなさを知り』
『敗北を知り、恐怖を知り、愚かさを知り、勝利を知り、勇気を知り、賢さを知り』
『知ってそれに飽き足らず、なお前に進み、さらに自らの足りなさを、足ることを知り』
『世界の殻を破る者、悟りが悟り足らざるを悟った者よ――』
 ぶわん! と音すら立てながら、ロンの体は宙に舞い――
『我らSatori-System≠ヘ汝ジンロンを、悟りを開いた者として認める!』
 その大合唱が響いた瞬間、男に声をかけられる前の場所に立っていた。
 ゆっくりと左右を見回してみる。そこにあるのはさっきと同じ、ごく普通の目に留まるものはなにもない塔の部屋だけ。
 ただ違うのは、目の前に蓋を開けた宝箱があることだった。特に目に付くところはない、この塔で今まで見つけたものと同じ宝箱。なにか入っているのかと踏み出しかけて、自分がなにかを握っていることに気付いた。
 拳を目の前に持ってきて、開けてみる。中に入っていたのは小さな、妙にでこぼこと浅い穴があちこちに開いている丸い石。
 ごく普通の石、そうとしか見えない、が――
 ロンはこれが悟りの書だと悟っていた。理屈ではなく、体に刻み込まれた感覚として。
 いくぶんの困惑と混乱に眉根が寄る。だが、心のどこかが自分は勝ったのだ、となんとなく理解していて、なんとなくそれも押し付けられた理解のような気がして面白くない気分になりつつも、死ぬほど嫌だというわけでもないのでとりあえず少しだけ笑ってみて。
「――まぁなんであれ、もらえるものはもらっておくさ」
 そのあとそうひとりごちて、ロンは唇の片端を吊り上げながら他の面々の姿が見えるのを待った。

戻る   次へ
『君の物語を聞かせて』topへ