サマンオサ〜アリアハン――7
 ロンはふぅ、と小さく息をついて額の汗をぬぐった。その動きで蝋燭の炎がゆら、と揺れる。
 自分の後ろでずっと黙って祈りを捧げていたインミンが気遣わしげな視線を送ってくるのがわかる。ため息をつきたくなるのを堪え、無視して目の前の水鏡に向き直った。
 結界の解除を始めてからどのくらい経っただろうか。窓も扉も閉め切り、蝋燭の明かりだけを光源にずっと作業を続けているので時間の感覚がわからなくなっている。それでも作業時間がすでにかなりの長時間に及んでいることは理解していた。
 結界術というのはいくつかの型はあるが、基本的には『いくつかの基点を基準に周囲の空間に魔力による網を編み上げる』技術だ。基点を持っている魔力の質に合わせて配置し、他の基点と呼応させ、織物のように形を成す特定の魔力反応を創り出すことで、周囲の空間に目に見えない網を創り出す。そうすれば網の目の質に応じて、網の目を通れないものが出てくるというわけだ。
 基点がなければ形を成す魔力の基準点がなくなる。結界を張ったとしても網はうすぼんやりとしたものにしかならず、強力なものには網ごと破られる可能性も出てくる。もちろん術者の能力によって違ってはくるが、強力な結界を編み上げようと思ったら基点をいくつも置いて網を密度の高いものにするのが普通だ。
 だが、この結界は、そういった普通の結界とは違う。絶対的なまでに強固、とまでは言わないが相当に高い密度で編み上げられているのに、基点が見つからないのだ。
 結界に対する探査は、普通魔力による探査網を結界そのものに投げかけ、網の質、網目の造り、そういうものを探りつつ基点を見つけるものだ。例えるなら網を手探りで調べつつ結び目を見つけるというもので、簡素な網ならばそこから魔力によって結び目をほどくこともできる。
 だが、この結界は、ロンなりに全力で基点を探っているのに基点らしきものがまるで見つからない。網というよりは糸の塊を探っているようで、結び目を探す以前にまともな結界を探る時の知識がまるで役に立たないのだ。そもそもこれがどうやってまともに結界として機能しているか、さっぱりわからない。確かにこんな奇妙な魔力の気配ならば自分たちが結界が張られたことに気づかないのもうなずけるが、こんな魔力の形成でどうして通信・探査用魔力の遮断、転移呪文の座標特定の攪乱≠ネどという高度な結界の効果が得られるのかさっぱりわからない。
 だがだからといってわからないまま放置しておけるわけもなく、ロンにできる全力でその糸の塊を探り、結節点なり変形部分なり、違和感を感じる部分をひとつひとつ調べているのだが、どうにも雲行きはかんばしくなかった。違和感を感じる部分というのがそもそも見つけたかと思ったらすぐに消えてしまうほど頼りないもので、ただの魔力の揺らぎと言えばそうかもしれない、と思えるくらいのものしか見つからないのだ。
 周囲に結界を張って外からの魔力の影響を防ぎ、ロンたちの隠密性を高めつつ結界への探査に対する反撃や逆襲の罠の魔力攻撃を遮断し、とロンにできる限りの下準備をした上でこれだ。認めるのは業腹だが、この結界を張った奴は、自分よりもはるかに格上の術師、ということなのかもしれない。
「………ロン、さま」
「……なんだ」
 正直無視したい気持ちもあったインミンの声に、仕方なく返事を返す。探査が行き詰まっていたので少しでも精神状態を切り替えられたら、という考えもあった。
「進捗は、いかがですか。……手詰まりなようでしたら、我々が少しでもお手伝いを……」
「阿呆か。結界の探査なぞというのは人海戦術を使ったところでどうなるものでもない。必要なのは結界の仕組みを読み取ることができるだけの微細な感覚と術に対する知識だ」
「では、少しお休みになられては。もう始めてからとうに一日以上経ちますのに、睡眠どころか少しも休まれずに……」
「俺がこの仕事を完遂しないことには話が始まらんのだから仕方がないだろう。ここは無理を通してでもやりきるべきところだ」
 ダーマの連中についてはおいておくにしても、それなりに広い王都サマンオサで別れ別れになった仲間を探すためには結界を解除するのが一番早い。それに向こうがなにか手を打ってきた時に、察知するにも対抗手段を取るにも結界を張られたままではどうにもやりにくい。今の自分に打てる一番効果的な手だ、気合を入れて踏んばらずにどうするというのだ。
「ですが、まるで休まれないままでは集中力も下がりますし」
「二日三日の徹夜でどうにかなるほどやわな鍛え方はしていない」
「万一ということがあります。少しでも休まれた方が効率は」
「途切れた集中を元のところまで持っていく手間を考えればいちいち休んだ方がはるかに非効率的だ。俺はそれなりに高い集中力を持っているつもりではあるが、このおそろしくやっかいな結界は瞬間ごとに姿を変えている、ほとんど術師と虚虚実実の駆け引きをしているも同じだ。そんな代物相手に一度席を外せばこれまでの時間がすべて無駄になる」
「ですが……! あなたが先に倒れてしまってはなんともなりません!」
 しつこい奴だな、と眉を寄せてから、ふと目を瞬かせた。水鏡を睨みながらも、少し気が抜けた気分になって肩をすくめる。
 こいつがこんな風に自分に真っ向から逆らってくるのは、もしかしたら初めてではなかっただろうか。
「……お前もそれなりに修業を積んでいるようだな」
「え? あ、の、はい………?」
「お前は普段、ダーマではなにをやっているんだ。三応寮に属しているからには、それなりに実戦にも出ているんだろう」
「……、――――」
 一瞬の沈黙ののち、インミンは冷静、というか全力で冷静を装っているとわかる声で答えた。
「――はい。そのほとんどは、次々生まれる魔物からダーマ近辺の村々を護る、という形のものですが」
「ほとんど、ということは人間相手の実戦もあるわけか?」
「はい。数度のことですが。悲しむべきことですが、世界を食い荒らそうとする魔王が出現している現在のような状況に際し、魔王の影に隠れて悪事を働く者や、この機に乗じてダーマの勢力を削ぐことが自分たちを利すると考えるような者もいるので」
「ふん……なかなか立派に出世街道を驀進しているわけだ。ウェイビ殿はお前の三応寮への転属になんと言っていた?」
「叱られは、しましたが。怒り――というよりは、困惑しておられたようでした。私がなぜ三応寮への転属を願ったのか、わからないご様子で」
「なるほど、ウェイビ殿らしい……で、お前は理由を説明したのか?」
「ある程度は。それでも少しもぴんと来ておられないようでしたので、途中で諦めてしまったのですが」
「ま、それが賢明だろうな。あの人は高徳の賢者ではあるが、自分の人生に存在しないものに対して想像を及ぼすということが苦手だ。まぁ、ひたすらに神殿で修業してきた賢者さまらしいといえばそうだが」
「……あなたは、なぜ私が三応寮への転属を希望したのか、わかっておられるのですか?」
「想像してみただけだがな。要するに、強くなりたかったんじゃないのか? お前は。人として、きれいな場所できれいな空気を吸って生きるだけでなく、泥にまみれてもなお天を仰いで生きることができるようになりたかったんだろう。俺に負けないように」
「――――」
 インミンは少し黙ってから、くすくす、と小さく笑い声を立てた。まだ年端のいかない、とすら形容できるだろう稚い少女の柔らかい笑い声が部屋の中に響く。
「あなたは、本当に、私のやることなすこと、なんでも見抜いてしまわれるのですね。私が、よほど単純だということもあるのでしょうけれど」
「人間というのは環境が同じならたいていは似たようなことを考えるというだけのことだ。個性的に尖った人間というのはだいたいの場合、そのほとんどが格好つけか気取りだからな」
 しれっとした声で言ってのけつつ、ロンは内心嘆息していた。やはり、彼女は、変わっていない。少女らしくひたむきに、一途に自分を見つめている。人生そのものが、自分への想いを基にしたものになりつつある。当たり前と言えば当たり前だ、彼女は四歳やそこらから自分を想い続けていたのだから。
 正直、それを考えると体がずっしりと重くなった気分になる。自分は彼女の想いをどうしたって受け容れられない。ロンの価値観からすれば、女に恋い慕われる≠ニいうのは、想像しただけで吐き気がするような拒否感を覚える事柄なのだから。
 それでも彼女を手ひどく傷つけて振る、というのは今の自分には気の進まない方法になってしまっているのは確かだった。彼女を見ていると、彼女が子供だった時のことを、彼女の子供っぽいひたむきな想いを、彼女がまだ子供と言える、成長しようとしている子供らしい魂を持っていることを感じて――
 結界を探査しながら頭の隅でそんな思考を遊ばせる――と、ロンははっとした。
 まさか……それは。いや、だが、そうだとすれば筋が通らなくはない。その方法ならばここまで奇怪な魔力形成が成されているのも納得できる。反吐が出そうなやり方ではあるが、あの偽王ならばむしろ楽しげに笑いながらやってのけるだろう。と、なれば。
 ロンは口を閉じ、水鏡を裂帛の気合を込めて睨んだ。これは結界探査の反応を示す測定指標装置として使っていたのだが、今はそれとは違う、使わずにすむなら使わないでおきたかった手段の媒介として使おうとしている。
 髪の毛を一本抜いて、魔力を込める。髪の毛はロンの指先で鋭い針となった。
 続いて水鏡に、万一の時のため用意しておいた土人形を浮かばせる。呪文で焼いておいた土人形は、水鏡の上にぷかりと浮いた。
 水鏡は世界だ。そして結界だ。その中に浮かぶ土人形は普通、術師の見立てとなるだろう。古くからよく使われていた、呪いの法式だ。インミンもそれを悟っているのだろう、固唾を呑んでこちらを見つめているが、口出しはしてこない。それだけ現状を憂いているということか――それとも単に、そこまで自分を信じているのか。
 後者の可能性の方が高そうに思えることに内心げんなりとしながらも、ロンはす、と髪の毛の針を構えた。呪文を唱えつつ、上から土人形めがけて投げつける。
「我、知似形、砕人形絶人命!=v
 土人形に突き刺さった針は、ぴしりと土人形にひびを入れた――と思うや、土人形はばぁん、という炸裂音を立てて爆発した。水鏡の入っていた土器を砕き、水鏡の水を蒸発させ、欠片は周囲に突き刺さらんばかりの勢いで四散する。
 だが、その反応を見越していたロンはそれをあらかじめ張っておいた守護呪文で防いだ。――つまり、予想通りの結果になってしまったわけだ。
「……、ロンさま、これは……もしや」
「わかっている」
 それだけ言って、ロンは小さく呪文を唱えた。体中にさっと粒子となった水を這わせて体を洗い、素早く乾燥させる。装備を一瞬で変更し、裁きの杖に魔法の法衣、とんがり帽子に風神の盾という実戦用のものに変える。身支度を整える呪文をわざわざ使った理由を察したのだろう、インミンはわずかに顔色を変えた。
「結界の基点を排除してくる。お前たちもそれに備え準備をしておけ」
「………はい」
 インミンは深々と頭を下げる。うつむいた、と言った方が近いのかもしれないが。
 さっきの人形と水鏡の反応は、ロンの呪術が術ではなく、相手の生命力によって跳ね返されたということを示している。術によって呪術を破られたならば、ロン自身に直接呪術が跳ね返されてくるはずだからだ。
 そこまでの生命力を持つものは、すでに人間ではない。つまり相手は勇者の力によって人の枠を超えた人でなしか、魔族か、魔力によって人を超えてしまった生命体か、ということになる。
 だが、自分は術をかける際に人≠ニ条件を指定した。つまり相手はまだ人なのだ。そうでなければ術は発動しない。
 ではなぜ術が跳ね返されたのか。人ではない生命力を持っているのか。ロンの知識すべてをひっくり返しても、それには『術によって他者から生命力を補っている』以外の方法がない。
 インミンはおそらくそこまで読んで、相手が外道に落ちた人間だと考え、落ち込んだのだろう。だが――ロンの考えが正しければ、事実はそれよりも数段えげつない。
 結界の異常さからして、これは魔族の術によるのではないか、と思っていた。世界に産み堕とされた混沌そのものである魔族の術は、人の術式ではありえない働きをする。一体一体ごとにまるで違うという魔族の術には一般的な術知識は通じない。魔物の突然変異である敵の親玉ならば、魔族と繋がりを持つこともたやすいだろう、と。
 だがそれは半分しか正解ではない。魔族による術ならば、結界を媒介としてかけた自分の呪術は効果が半減するはず。あそこまで目に見えた発動をすることはないだろう。
 これは人間の手による結界術だ――ただ、術者の命を代償として強化されているだけで。
 それもおそらくは数十人という規模で行われているはずだ。何十人という術者が同時に自分の命を代償として発動した結界術、それをおそらくは魔族の術者が(普通の人間には不可能だから、と安直に考えただけだが)統御することによってこの強力かつ奇妙な結界が出来上がっている。
 そして――ここまで予想が当たってほしくはなかったが――自分は呪術をかける時、結界の基点≠目標にして人間≠ニ条件を限定し発動させた。人間を結界の基点とする術は人間の術でも決して珍しくはない。魔力を持つ人間に術処理を施すことで基点とするのは、主に偽装や結界の整備性の向上に高い効果を発揮するからだ。
 その人間を、使い潰すつもりがあれば。
 結界の基点となるほどの魔力を持っている人間はそう多くない。普通の人間に強力な術処理を施せば、ほとんどは魔力と生命力を削ることになる。人道に反すると、今では禁忌とされている術式のひとつだ。
 だが、自分の目標にした基点は人間外の生命力を持っている。――つまり、多数の生贄を確保し、そこから生命力を絶えず吸い上げて基点に与え続けているのだろう。
 一般的に、生贄というのは幼く、無垢であればあるほどよいとされている。そしてその無垢な生命力を受けとり続けるためには、受け取り手もできるだけ若く、無垢であるほうが望ましい。つまり、この結界の基点を壊すためには――
 ロンは首を振り、インミンの方を見ずに部屋を出た。今は悩むよりも先に行動しなければならない時だったからだ。

 びゅおうっ! と風を裂く音が聞こえるのと同時に、大きく振り回したバトルアックスが敵兵を薙ぎ払う。数人をまとめて叩いたラグの一撃は、刃ではなく斧の横っ腹を叩きつけたというのに、その全員を丸ごと吹き飛ばして昏倒させた。
 もはや動く敵がいないことを確認し、ラグは小さく息をついて斧を鎧の背中に着けた武器固定用鉤に固定する。いざという時には一挙動で取り外せるその鉤は、斧のような鞘のない武器を使う戦士には広く使われているものだった。
 と、後ろから「ラグ―――っ!」と嬌声を上げて突進してくる気配に気づき、ラグはすいと身をかわした。抱きつこうと飛びついたのをかわされて、声の主であるエヴァはたたらを踏んだが、めげずに再び「もおっ、なんでよけるのぉ?」と言いながら抱きついてきた。それをできるだけそっと押しやりながら、いつものごとく説教をする。
「エヴァ。仕事の途中で気を抜くんじゃない。抱きついたり無駄に叫んだりなんてのはもってのほかだ」
「だってぇ、仕事終わったじゃない、ラグが敵みーんな倒してくれたからv ほーんとラグって、すごいよねぇv」
「とりあえず無力化はしたが、将軍からの依頼は『要人の護衛と敵兵の確保』だろう。護衛対象の安全確認と敵の武装解除に捕縛、やることはまだまだある」
「そっ……れは、そうかもしれないけどっ」
「仕事をしないなら帰れ、いるだけ邪魔だ。その代わり報酬がなくなるのを覚悟しておけよ」
「………っ!」
 ぎっ、とこちらを睨みつけ、駆け去るエヴァにラグはは、と息を吐いて肩をすくめた。昨日の爆発の後もエヴァは何度もいつものように自分に少女らしい誘惑を仕掛けてくるが、やはり爆発の後も何も告げず諭しすらしていないのが効いているのだろう、軽く説教しただけですぐ反発してくる。
 この調子でできるだけエヴァの想いをくじけさせておきたいところだった。うまくすれば、サマンオサにいる間にエヴァの反骨精神を折ることができるかもしれない。エヴァはできるだけ早くエヴァのところに帰して、それなりの男を紹介してもらい嫁入りさせるのが彼女にとって一番いい道だとラグは思っていた。
「相変わらず、中途半端にお優しいこって」
 後ろから声をかけてきた男に、ラグは振り向いた。すでに察していた気配通りの姿に、相手を見つめながら名前を呼ぶ。
「ムーサ兄さん」
「お前に兄さん呼ばわりされる覚えはねぇっつってんだろうが」
 そう言ってぺっ、と唾を吐き捨てるムーサに、ラグは小さく肩をすくめて訊ねる。
「護衛対象は?」
「心配いらねぇよ、しっかり無事だ。お前がぞろぞろ出てくる敵兵を次から次へとぶっ飛ばしてくださったおかげでな。……ハッ、勇者の仲間ってのは本当にイカサマ野郎だな。相手も相当な強兵だってのに、数十からいる敵を鎧袖一触ってか。俺たち一般人からすりゃふざけるな、としか言いようのねぇ話だな」
「そうだろうな」
 あっさりと答えるラグに、ムーサはぎらっ、と瞳を光らせて睨みつけてくる。本心からの憤懣に満ちた、殺意と言っていいような感情をぶつけてきているのがわかる――だがラグは淡々とそれを見返した。ムーサが自分への憎悪からここにいるのだということは、すでに昨日ムーサ本人から聞いているからだ。
「エヴァを将軍旗下に雇い入れるよう、将軍閣下に進言したのは俺だ」
 そう、ムーサはにやにや笑いながら告げた。
「お前がエヴァを疎ましがってると同時に保護欲、っつぅより義務感を抱いてることを報告してな。エヴァがいればお前は素直に雇われる可能性が高くなるだろう、ってな。予想通りに動いてくれてありがたいぜぇ、破壁≠ウんよ」
「……なにを考えている」
「雇い主の利益に決まってんだろ? そのために全力を尽くすのが傭兵の仕事だからな」
「わかっているだろう。なぜエヴァなんだ。それにあんたが俺を仲間に引き入れることを素直によしとするとは思えない」
 睨みつけながらそう問うと、ムーサはくくっと笑ってみせる。
「単純な話さ。それが一番お前を苦しめられる手だと思ったから、だよ」
「…………」
「お前はエヴァをどんなに疎んじていようが、護らずにはいられない。あいつをヒュダ母さんが家族として認めてる以上な。そして、お前が所属する部隊の隊長は俺だ。エヴァを俺が押さえている以上お前は俺たちに、俺に従わざるをえない。どんなに気の進まない任務だろうと引き受けることになる。勇者の仲間となった戦士さまが、俺の命令に従って苦しんでくださるわけだ。こんなおいしい話、そうそうねぇだろ?」
「…………」
「これからたっぷり苦しんでもらうぜぇ、ラグ……これまでの借りを百倍にして返してやる。俺をさんざん舐めてくれた罪ってのが、どれだけ重いか思い知らせてやるよ……!」
 ぎらぎらした瞳でそう言ったムーサ――それを、ラグはむしろ淡々と見返した。
「――わかった。それが、あんたの目的なんだな?」
「あぁん? 不満があるならお前の首も目的に入れてやろうか?」
「別にかまわないが。どちらにせよ、俺は今はあんたたちに従う。ずっとかどうかは保証できないけどな」
「ふん……そのすまし顔をどう崩してやるか、今から楽しみだぜ」
 そうせせら笑うムーサを、ラグはやはり、淡々とした顔で見つめた。
 それからどんな命令をされるか一応警戒していたのだが、無理な命令らしきものは一度もされなかった。まぁ昨日の今日というのもあるだろうが、今のところ受けた命令は『国王の人狩り≠フ対象となった将軍の協力者を雇われた傭兵に偽装して助けよ』というごくまともなものでしかない。エヴァは自分につきまとうしムーサはあれこれと嫌味を言ってくるが、そんなものははっきり言って気にしないでおける程度のことでしかなかった。
 つまり、ムーサの本心は、やはり、自分が思った通りなのだろう。小さく肩をすくめて、ムーサに問う。
「次の指令は来てるのか?」
「……ああ、伝令が来てる。また同じ仕事だ、場所はここから北東に二十、エデッサ商会の屋敷」
「人狩り≠チていうのはずいぶん数が多いんだな。一日に、もう十以上の屋敷を回っているだろう。そこまでたくさんの人間を狩ろうとしていたらあっという間に王都から人がいなくなるだろうに」
「普段はここまでじゃねぇよ。近々なにか人を集める催しでもするつもりなのかもしれねぇが……お前が気にすることじゃねぇさ。お前は俺の部下、俺の命令で使い潰されるのが仕事なんだからなぁ」
「そうだな。今は」
 それだけ言ってラグは歩き出した。伝令が来ているのはおそらく作戦終了後の部隊の集合場所だろう、さっさとそこに行ってどんどん命令を片付けるつもりだった。
 ムーサが背後から焼けつくような視線で自分を睨んでいるのは感じていたが、それも肩をすくめるだけで無視する。今のラグには、考えなくてはならないことがいくつもあるのだから。

「ッ………! ッ……、ック、ッ………!」
 抑えようとしてもどうしても声が漏れる。激痛と不快感。それが体中を浸し、支配しようとしている。
 今フォルデの身体を包み込んでいる肉の塊は、フォルデの身体を噛み裂き、消化液をかけ、自分の胃の中に収めようとしていた。それに、フォルデは必死に抗う。指一本すら動かせず、ひたすらにこの肉の咀嚼に耐えるしかない状況で、ひたすら激痛と不快感に耐えて、全身に力を入れる。
 いつかロンが言っていた。魔物が生物を消化する時や、魔族が生物の精神を侵食し支配下に置こうとする時は、抵抗する意志だけでもその力を減衰することができる、と。この世界の生物には本来魔物や魔族のような混沌の落とし子たちに抵抗する要素が備わっている、強力な抵抗の意志を体中に張り巡らせればそれを強化することができるのだから、もしそういう状況になった時は全力であがけ。そうすれば他の仲間の助けが間に合う可能性が上がるのだから。そんな講義を以前にしていたのだ。
 だから、フォルデは全力で抵抗する。自分の肉を焼く消化液に、自分の肉を噛み裂こうとする肉の歯に。全身の意志を振り絞って、お前なんぞに負けてたまるか、と抵抗する。それが今の自分にできることだ。自分が抵抗を続ければ続けるほど、あのギリェルメとかいうクソッタレ貴族が他に目を向ける可能性が減る。自分のヘマを他人に尻拭いされてたまるか。クソ貴族が手近にいる一般市民に――ヴィスタリアに、その毒牙を向けるなんてことは死んでもごめんだ。
 だから、自分は全力で耐える。体中の肌に消化液を分泌する肉の牙が突き立てられ、肌と肉が焼けようと。顔を念入りに噛み裂かれ、肌が剥けたところに消化液で焼かれようと。まぶたの肉を斬り裂かれ、眼球に消化液をぶっかけられようと。
 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。苦しい、死ぬ、苦しい、痛い、苦しい、痛い、死ぬ。
 そう絶叫する自分の肉体に歯を食いしばって蹴りを入れ、焼けつく体にひたすらに耐える。負けるか――負けてたまるか。死んでも。なんとしても。絶対に絶対に負けてたまるか。
 あんなクソクズ野郎のいいようにされたあげくに負けるなんぞ死んでもごめんだ。なにをしたわけでもないのに自分は偉いのだなんぞと勘違いしてやがる腐れ脳味噌の阿呆貴族なんぞという、この世で最も唾棄すべき存在の思い通りになるなんぞ、絶対に認めないし、許さない。
 その上、今は、あいつらと――仲間と別れ別れになっているのだ。あいつらの助けが得られないのだ。だからこそ、死んでも、絶対に、自分は負けない。あいつらは、どんなに卑屈だろうと、ボケだろうと、クソガキだろうと、ムカつく奴だろうと――自分が仲間と認めた相手なのだ。背中を預けることを認めた連中なのだ。
 そんな奴らの信頼を裏切るなんぞ、絶対に、絶対に、してたまるか―――
 そうひたすらに歯を食いしばり、繰り返し訪れる痛みに、激痛に、不快感に耐え、抵抗する。肉牙を、消化液を、心の中まで浸み込んできそうな気色悪い力を、力を振り絞って跳ね返す。絶対に、絶対に絶対に、負けて、負けて、負けてたまるか―――
 ――と、ふいに、体がふわ、と軽くなった。
「――――、――――」
「――、―――」
 周囲で誰かが喋っているのが感じられる。鼓膜が破られたか溶かされたか、音としてはまともに聞き取れない。
 それに反応するよりも早く、フォルデの体にほう、と温もりが集まる。自分の身体を支配していた激痛が治まり、体の組織が再生していくのがわかる。これは、回復呪文だ。癒しの力を発揮する呪文の魔力が全身を瞬時に包み込み、満たし、癒していく。
 ほとんど数秒もかからず体中が元通りになった感覚に、フォルデはゆっくりと目を開けた。おそらくは仲間が助けに来てくれたのだろう、悔しいが、面目ないが、自らの不覚である以上礼を言わねば――などという思考は、フォルデの前に立って力なく微笑む、白く儚げな姿を見た瞬間吹っ飛んだ。
「………ッ!!! ヴィス……タリア………!?」
「フォルデ、さま……無事、傷を癒せて、本当に、よか……っ」
「っ! おいっ! しっかりし……」
「お嬢さまのお体をこちらへお渡し願えませんか」
 ふらり、と倒れかかったのを支えたところへ、執事が歩み寄り冷厳な声で言う。一瞬ムカッとしたが、ヴィスタリアの体調をよく知っている相手に預けた方がいいのは確かだろう。無言でそっとヴィスタリアの体を預けると、執事はそっとヴィスタリアを毛布でくるみ、抱き上げた。
「長居は無用です。退散しましょう」
「………ああ」
 ヴィスタリアがなぜこんなところにいるのか、なぜ自分を助けたのか助けられたのか、聞きたいことはいくつもあるが、確かにヴィスタリアを休ませるのが先決だ。奥歯を噛みしめながらも執事の後について、もう肉塊の影も形も残っていない牢(いつの間にか牢獄に自分は運ばれてきていたらしい)から出た。
 牢番には鼻薬でも利かせたのか、見張りはいない。足早に通路を通り抜けようとする執事の後ろで、気配を探りつつ進む――と。
「下がれっ!」
 鋭く叫んで執事の前に出る。とたん、「ぐふくくくっ」と聞き覚えのある不快な笑い声が聞こえてきた。
「ほう、気づいておったか。さすが盗人、逃げ回るための勘働きだけは鋭いとみえる。その弱さとはしっこさ、まさに鼠そのものよのぅ、ぐふふふっ」
「…………」
 フォルデは無言で、牢獄の入り口に影から溶け出るように姿を表した男を見た。やはり、と内心うなずく。気配を感じた時からそうだろうと思っていた通り、その肥満体、不快な声、気色の悪い気配、間違いなくギリェルメ――ヴィスタリアに迫り、自分を肉牢に喰わせたクソ貴族だった。

「やあっ!」
 気合を込めて振るった草薙の剣は、骸骨剣士を頭頂から一気に断ち割った。素早く周囲の気配を探り、周囲にはもう自分たち以外に動くものはいない、と確認した後で、ふぅ、と息をついて剣を鞘に納める。
「ガルファン、大丈夫か? 怪我してないか?」
「……ああ」
 ガルファンはぼそっと言って、同じように剣を鞘に納めた。その動きには一見妙なところはない――が、これまでに見てきたガルファンの動作とわずかにずれがあるのを見て取り、レウはむーっと唇を尖らせてガルファンに歩み寄る。
「な……なんだ」
「ガルファン、ほんっとに怪我してないのか?」
「あ、ああ。大した怪我はしていない。かすり傷程度だ」
 そう言いながら微妙に視線をそらすのに確信を深め、レウはぽん、とガルファンの腹を軽くたたいた。とたん、「―――っ!」と声にならない叫びを上げて震えるガルファンに、やれやれ、と頭を掻きながら言ってやった。
「ガルファンさー、何度も言うけど怪我とか隠すなよなー。今はパーティ組んでんだからさ、そこらへん正直になんないとめんどくさいじゃん」
「……嘘はついていない。確かに一発もらいはしたが、俺はお前の討ち漏らしを狩るくらいの仕事しかしていないんだ。働きに支障が出るほどじゃない」
「いや、働きにししょーとかじゃなくてさ、ふつー人間って何発ももらったら死んじゃうじゃん。俺だってここらの奴でも何十発ももらったら死ぬし。俺ガルファンが死ぬのやだから怪我したらこまめに回復するの当たり前だろ?」
「…………そうか」
 そう言ってガルファンはまたレウからすい、と視線をそらす。なんなんだろーなー、とレウは少し首を傾げた。
 なぜかわからないけれどいきなり泣き出してから、ガルファンの態度が妙に変わっている。泣きやんだ後、「悪かった」とかぼそっと言って、また一緒に洞窟を進み始めたのはいいものの、なんというか妙に大人しいというか、それまでの喧嘩腰な態度が嘘のように素直になって、その上妙に自分を気遣って迷惑をかけないように、と気をつけている気がする。
 別にそれが悪いわけではないが、なんでいきなりそうなったのか不思議ではあった。別にレウがなにかをしたとかいうわけでもないのに。
「……じゃ、行こっか。この先どのくらいあんのかまだわかんないし」
「ああ」
 レウの言葉にうなずいて、二人一緒に歩き出す。ガルファンは自分の後ろについてくる形だ。こういう風に素直に自分を助けてくれるようになった理由も、レウとしてはさっぱりわからない。戦いになっても援護に徹するというか、無理に前に出て魔物に集中攻撃されるということがないように、自分の腕の範囲内でできることをしてくれているのがわかる。
 まぁ、こっちのがずっと助かるのはわかるんだけど。あんなにいっしょーけんめー悩んでたのはもういいのかな? 魔物に襲われても反応しないぐらい悩んでたのに。
 そんなことを思いつつもレウは前へ前へと進む。レウは一応レミーラが使えるので(制御がいまひとつセオのようにうまくできないので、たまに光が揺らぐ)、魔法の明かりと併用してガルファンにランタンを持ってもらっているのだが、それもガルファンは当たり前のように受け容れていた。
 ときおり魔物が襲ってきたりもするが、数合斬り結んだだけで斬り倒すことができる程度の腕しかない魔物ばかりなので、苦戦はしなかった。このくらいなら普段船で移動している時に襲ってくる奴らの方が数が多い分厄介なくらいだ。
 いやいや油断しちゃだめだ、もしかしたら魔物たちはどこかでこっちを待ち受けて一気に襲撃するつもりかもしれないんだから、と首を振る――と、考え事をしていたせいで濡れた石を踏みそこね、レウは足を滑らせた。「わっ」と小さく声を漏らしつつ平衡を取ろうと腕を上げる――
 と、レウの背中を逞しく力強い腕がそっと支えてくれた。数瞬の間を置いて、どこかひそやかな声が訊ねてくる。
「……大丈夫か」
「あ、ガルファン? ……うん、大丈夫。ありがと!」
 少し驚きつつも、ガルファンを見上げてにこっと笑って礼を言う。まぁガルファンが支えてくれなくても転びはしなかっただろうが、それでも助かったし、それにガルファンが自分を助けてくれたというのがなんだか嬉しかったのだ。
 すると、ガルファンはわずかに顔をしかめ、「ああ」とだけ言ってまたふいっと顔をそむける。あれ、なんか怒った? と思いつつも、伝わってくる雰囲気に怒気が感じられないので、気にしないことにして「じゃ、行こっか!」と元気に言って歩き出す。
 ラーの鏡というのがどこにあるかはわからないが、とりあえず行けるところまで行くつもりだった。そこで待っていてもセオたちと合流できるかはわからないのだが、もしセオたちが先に着いていれば伝言くらいは残していくはずだし、自分たちが先に着いても同様だ。もしセオたちと合流できなかったらできなかったで、サマンオサの偽王にラーの鏡をつきつけるくらいのことはレウでもできるだろう。偽王がいなくなれば、合流も少しは簡単になるはずだ。
 そんな心積もりで歩を進める――と、レウの耳はぴくりと動いた。
 聞こえる。この声、この響き。静かで、落ち着いていて、びっくりするほど優しい、自分が大好きな――
「ガルファン、先に行くなっ!」
「っ! おい……!」
 ガルファンの声も半ば以上耳に入らないまま、全力で駆け出す。その声はみるみるうちに近づいてきて、目にもその姿が見えるようになり、レウは心の底から湧いてくる喜びを抑えきれず、大声で叫んだ。
「お――――いっ! セオにーちゃ――――んっ!」

「……………………」
「……………………」
「……マイーラ姫殿下。次の道は、どちらへ行ったら……?」
「……次は、右の道を、左側の地底湖に沿って進んでください。途中で一度壁沿いに沿って歩く道に移り、下への階段前で特別な足の運びを行わなくてはなりません。足を踏み外せば罠が発動しますから、気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
 そうこちらに小さく頭を下げてから、勇者セオはそれまでと同様、慎重な足取りで歩を進め始める。それを追うマイーラの後ろから、エリサリという失礼この上ないエルフが黙々とついてくる。自分たちはこれまで、ずっとそんな風にして無言のまま洞窟の中を進んできていた。
 エリサリが無言なのは、おそらく自分に喧嘩を吹っかけるような真似をして、勇者セオに嫌われたくないと考えているのだろう。最初にマイーラとぶつかり合った後、エリサリは勇者セオに懇々と諭されたのだから。
 ……マイーラも一緒に説教を受けたというのがマイーラとしてはどうにも納得がいかないのだが。本当に、なぜ自分があんなことを言われなくてはならないのか。
『お二人には本当に申し訳ないと思うんですけど、今はぶつかり合うよりも、ラーの鏡の探索を優先すべきじゃないかな、って思うんです』『今は、可及的速やかにラーの鏡を手に入れなければ、人命が失われる可能性が高いと、思うんです』『マイーラ姫殿下はもちろん、エリサリさんも、無為に人命が失われることを、よしとするわけでは、ないですよね?』
 ――あんなことを言っている自分こそ、サマンオサをずっと放っておいたくせに。助けに来てくれなかったくせに。勇者としての務めを果たしてくれなかったくせに。
 マイーラは、三年前、英雄サイモンがいなくなった直後から、父王の暴政によって命数をすり減らされていくサマンオサをずっと見てきた。毎日のように罪のない国民が処刑され、怨嗟と嘆きが国中を包んでいくのを、ずっと。
 もちろんただ見ていたわけではない。八方手を尽くして解放軍と接触し、資金や情報を流した。明日には父王の気まぐれで自分も殺されるかもしれないという恐怖に耐えながら、できる限り処刑される国民を逃がした。
 それでも次々に、留めようもない勢いで自らの治める国の民が殺されていく。それを眺めながら、どれだけ英雄サイモンがいてくれたらと思ったことか。
 サマンオサの誇る英雄サイモン。黄金闘士≠ニいう異名を持つ彼は、まさに黄金のごとき気高い心を持つ真の勇者だった。
 サマンオサの第一王位継承者である自分は、幼いころからサイモンの勇姿を見て育ってきた。サイモンは世界中を飛び回って救いの手を差し伸べる勇者ではあったが、やはりサマンオサの魔物たちから国と民を護るために力を振るうことが一番多かったのだ。
 マイーラが七歳の時魔物が大発生した時に、英雄サイモンは一人王都を襲う魔物の群れに立ち向かった。それこそ地を埋め尽くすかと思われるほどの数の群れに、サイモンは敢然と立ち向かい、王都を護りきった。そしてそれがまるで少しも大したことでないかのような、ごくごく当たり前の顔で父王の前にひざまずき、時間をかけたことを詫びたのだ。
 あの圧倒的な強さ。頼もしさ。この人がいてくれさえすればサマンオサは安泰だと心から思えるほどの安心感。あの人が本当にこの上ない勇者だった。世界に冠たる黄金闘士<Tイモンは、サマンオサの産出する黄金すべてよりも大きな価値を持つ、まさに英雄と呼ぶにふさわしい勇者だったのだ。
 だから、というわけではないが。レチーシアからアリアハンの勇者が解放軍と接触したという話を聞いた時、最初に感じたのは強烈な怒りの感情だった。
 今さらなにを、と思ったのだ。もう山ほどの人が死に、山ほどの命が失われ、自分たちがさんざん涙を流したあとになってから出てくるなど、こちらを馬鹿にしているとしか思えなかった。
 なぜもっと早く助けの手を差し伸べてくれなかったのか。なぜ命が、涙が、痛みが、嘆きが無駄に失われた後になってようやくやってくるのか。勇者なのだから、サイモンのように、自分たちを完璧に救うだけの力があるはずなのに。自分たちがさんざん苦しんだあとに救世主としての名声と感謝だけを奪い取りに来たのか。ふざけるな、そんな都合のいい話が許されてたまるか。
 そんな怒りの感情は、まだマイーラの心の中でくすぶっているし、許すべきではないとも思うのだ。唐突に現れた救い主に救国の英雄の名をあっさりと奪われてしまっては、国を救うために命を懸けて戦ってきた戦士たちの立つ瀬がない。
 サマンオサの姫として、マイーラにも戦士たちに対する尊敬の念は深く刻まれている。彼らの努力が、血が汗が涙が、命が、ぽっと出の他国の勇者に成果だけあっさりと奪われるというのは、どうしても許せなかったのだ。
「……止まってください。そこで道を移します。そのまま正面の地底湖の水際と平行になるようにして、ゆっくり壁際まで移動してください」
「はい。ありがとうございます」
「……あの。セオさん」
 口を開いたエリサリに、マイーラは思わず眉間に皺を寄せた。またなにか難癖をつけてこようというのか、このエルフは。
「はい、なんでしょうか」
「さっきから思っていたんですけど。わざわざこの人の言うままに進む必要は、ないんじゃないですか?」
「……は!? なにを言っているんですあなたは、この洞窟にはサマンオサ王家の初代の頃より受け継がれ続けてきた罠がそこらじゅうに仕掛けてあります、私の指示通りに進まなければ」
「ですから、その罠というのがセオさんと私だったら作動してから対処しても簡単に処理できるようなものしかない、と言っているんです」
「なんですって……!?」
「先ほどから何度も探査していたんですけど、この洞窟にある罠というのは、槍などが突き出てきたり毒針が出てきたり、せいぜいが浅い落とし穴の底に槍衾が並べてあるというものぐらいで、魔法的なものはまったくないんです。さっき洞窟全ての探査を完了させたんですけど、どこかの罠を作動させたら洞窟が崩壊する、というような大がかりな罠もないようですし。ここは罠を無視して一気に最奥まで進んで時間を短縮した方がよくないですか? 一刻も早くサマンオサ王都に向かった方がいいわけですし」
「なっ……あ、あなたは、そんな、甘いことを……」
「あなたには話していません。私はこの洞窟を造った人間の技術・製造能力を見通した上で、厳然たる優先順位の元にセオさんに提案しているんです。いくらでも時間を無駄にしていいというなら念には念を入れて石橋を何度も叩くのもいいでしょうが、今は時間を惜しむべき時でしょう?」
「っ………」
 マイーラは思わず奥歯を噛む。それは。確かに、理屈ではそうかもしれないが。
「あ、あなたがそんなに簡単に罠の造りを見破れるとは思えません。専門家でもないのに、そんな、思い上がった……」
「あのですね……。私は確かにまだ未熟ではありますが、異端審問官を名乗れるだけの能力はあると認めていただいています。人間の技術能力がどの階梯にあるか見通すくらいはできて当たり前でしょう? 人間の賢者だって、どんなに未熟でもそのくらいはたやすいのに。それに魔力によって周囲を探査する技術は私の得意分野なんです、このくらいの広さの、なにも魔力の籠っていない洞窟の罠を含めた構造くらいはこれだけ時間があれば読み取れますよ。異端審問官と呼ばれるには、その程度の能力は基礎として身に着けているのが当たり前なんです。それこそ専門でもないあなたに勘違いしたことを言われたくはないんですけど?」
「っ………!」
 エリサリがいかにも呆れた、というようにため息をつくのに、マイーラはかぁっと顔に朱を上らせた。なんだ、それは。この少女にそんな能力がある、と? そんなのは納得いかない、許せない、そんなことはあるべきじゃない、と感情が震える。
 だが理性では神代の時代から生きている者もいるというエルフ族ならばそういったこともありえる、と理解していた。理性の冷静な判断と苛立ちや嫉妬や自分の常識が攻撃されたという怒りとの摩擦で頭が沸騰しそうに熱くなり、その勢いのままに口が自然と開く。
「あなたは、サマンオサの第一王位継承者に――」
「あの、エリサリさん。それは、やめておいた方がいいと思います」
「えっ……」
「あっ……すいません。なにかおっしゃるところでしたか?」
「……いえ。どうぞ、勇者セオ、あなたから」
「そうですか。ありがとうございます。本当に、すいません」
 そう言って頭を下げる勇者セオに、鷹揚にうなずくふりをする。正直、あまりに見事に自分が口を開くと同時に喋られたので、もしかしたらわざとだったのではないかと疑う気持ちもあったが、さっき自分が言おうとしたことは感情任せの冷静さを欠いた発言でしかなかったので、どちらかといえば助かったような気持ちもあったのだ。
 そんな自分にもう一度真摯さが感じられる仕草で頭を下げてから、セオはゆっくりと歩きつつエリサリに視線を向ける。
「エリサリさん。確かにこの洞窟は、魔力の類は感じられないんですけど……魔力ではない、奇妙な力を、感じませんか?」
「え?」
 エリサリは驚いたように目を瞠ってから、慌てたように目を閉じた。なにやらぶつぶつ早口で呟きながら集中している表情でしばしうつむいたのち、困惑したように勇者セオの方を見て首を振る。
「すいません……私には感じ取れないんですけど、その力というのはいったいどういうものですか?」
「そうですか……エリサリさんでも感じ取れない、ですか。……でも、すいません。俺にはどうしても、勘違いだとは思えないんです」
「いえ、セオさんが勘違いをされているとは私も思いませんが。その奇妙な力が、洞窟の仕掛けになにか関係があると?」
「はい。その力は、洞窟中に大きく広がって、今にも溢れだしそうに脈動しています。けれどぎりぎり……というにはまだ少し余裕があると思いますが、そのくらいの段階で抑えているものがあるんです。俺はたぶん、それがラーの鏡の力じゃないか、と思うんですけど」
「……なるほど。ラーの鏡はこの地においても長年太陽神の信仰を集め続けてきた神具。この地の人々のしきたりに従った方が、ラーの鏡を刺激しないのではないか、と考えられているんですね?」
「はい。俺の勝手な憶測なので、エリサリさんにはご不快かもしれませんけど……」
「いえ、そんな! セオさんがそこまで考えられているのなら、私がどうこう言う資格なんてありません。むしろこちらこそ、考えが浅かったです。すいません、セオさん」
「いえ、こちらの方こそ。お手数おかけして申し訳ないですけど、もうしばらく警戒を続けていただけますか?」
「はい、もちろん」
 力を込めてうなずくエリサリに、マイーラは内心歯噛みした。彼女と勇者セオが話している内容がどういう意味かよく理解できなかったのだが、それを正直に口にすることはできなかった。このエリサリというエルフにも、勇者セオにも、自分の方が負けている、劣っていると思わせたくなかったのだ。
 王族として国の面子を背負っているという意味でももちろんあるが、マイーラの個人的な感情においても。この生意気なエルフと、ぽっと出の勇者に、これまでサマンオサでずっと戦っていた自分が劣っているなんて、死んでも思いたくなかった。
 そんな会話を交わしながら歩を進め、マイーラたちは一度最下層まで降りて、仕掛け階段を下ろし、上層へと上った。この階段は最下層に下りてから王族やそれに次ぐ身分の者しか知りえない特定の法則で暗号の書かれた板を操作しなければ出てこないようになっている。この階段を上ればラーの鏡が安置されている場所の前に出る、階段を使わないなら宙を飛ぶしか方法はない。
 勇者セオが先頭に立ち、階段を上り、ついに目的のラーの鏡の前に立つ。マイーラも以前に二、三度見た覚えしかない、小さなお堂の中に安置されている凝った装飾のほどこされた美しい鏡をちらりと見てから、勇者セオはこちらを振り向いて、「これがラーの鏡で、間違いありませんか?」と訊ねてくる。
 なにを当たり前のことを、と顔をしかめつつ返事をしようとする――や、声がした。
 子供の声だ。おそらくは少年の声。それがどんどん、あっという間に近づいてくる。わんわんと洞窟内に反響しながら、びゅおぉぅっと風を切る音を立てながら、甲高い声は見る間に大きくなっていき――どすんっ、と大きな音が立った、と思ったらぴゅんと勇者セオに向けて突進してきた。
「セオにーちゃんセオにーちゃんセオにーちゃんっ! よかったぁっ、やっと会えたーっ! すっげー探したぜホントっ、もーどこにいるかと思ったー! 無事だろーとは思ってたけどさっ、でもやっぱりちょっと心配しちゃったよー。ちょっとだけだけどなっ、セオにーちゃんがそんじょそこらの敵に負けるわけないってわかってたからっ!」
「………え?」
 マイーラは思わずぽかんとしながらそんな言葉を漏らしてしまった。甲高い声で勢いよく喋りながら勇者セオに抱きついているのは、子供だった。まだ年の頃は十一、二歳であろうという少年。鎧をまとい、剣を下げた物々しい格好だが、それでもどこからどう見てもごく普通の子供にしか見えない少年。それが唐突に上から落ちてきて、勇者セオに抱きついている。
「レウ……! よかった! レウの方は、あの、大丈夫、だった……?」
「うんっ、ぜんぜんへーきっ! そんな強い魔物出なかったしさ、ガルファンも一緒だったから見張り交代する相手もいたし!」
「そう、よかった……。本当に、よかった……」
「へへっ。セオにーちゃん、ごめんな。心配させちゃった?」
「……ごめん。レウは俺なんかより、ずっとずっとしっかりしてるし、頑張り屋だし、強い子だってわかっては、いるんだけど……ラグさんや、ロンさんや、フォルデさんと、同じように……っていうより、それより、少し、心配、しちゃってたかも、しれない……本当に、ごめん……」
「えー、なんで謝んの? うれしーよ、俺。そりゃセオにーちゃんに心配かけちゃうのはやだなーって気はするけどさ、セオにーちゃんがそんな風に俺のこと認めてくれてんのに心配しちゃうってのはさ、そんだけ俺のことが好きだからだろ?」
「あ……えと、その……うん……。たぶん、そういう、ことだと、思う……」
「だろっ? だから俺、すっげーうれしー!」
 そう言ってにっかー、と子供らしく満面の笑顔を浮かべるその少年に、勇者セオは戸惑ったような顔をしながらも、「う、ん……」と顔を明らかに緩めた。笑顔というほどのものではないにしろ、子供っぽさすら感じるほど柔らかな言葉といい、撒き散らす雰囲気といい、それは明らかにその少年に対して心を許していることがわかるもので――
 マイーラは、なぜかひどく、苛ついた。
「失礼。勇者セオ。その子供が誰だかは存じませんが」
「? セオにーちゃん、この姉ちゃん誰?」
「えと……サマンオサの第一王位継承者のマイーラ・ニムエンダジュ・トゥピナムバー姫殿下、だよ」
「ねっ……姉ちゃん、とはどういう口の利き方をしているのですかっ、あなたはいったいどういう育ち方を」
「あ、やべっ、ガルファン上に置いてきちゃった。連れてこなきゃだな。ちょっと待ってて!」
「は……? 連れてくる、とはどういう」
「――ふっ!」
 その子供は大きく腕を振って飛び上がる。ベッドに飛び乗る時よりは力を込めているかもしれないが、それでも子供のものには違いない動作――だというのに、その子供が飛んだとたん、マイーラの視界から子供が消えた。
「っ!?」
 仰天するより早く、びゅごぉぅっ、と風を切る音がしたかと思ったら、ずしんっ、という音と共に子供がさっき立っていた場所に着地する。数瞬ぽかんとしてから、今この子供は一瞬でマイーラの視界の外にまで飛び上がって下りてきたのだ、と気づき仰天した。
 のみならず、その子供は寮の腕にがっちりとした、おそらくは戦士の男を抱えていた。ごく当たり前のことをしたという顔で、その子供は戦士を床に下ろす。
「だいじょぶか? ガルファン。ごめんな、いきなり走り出しちゃって。セオにーちゃんの声が聞こえたっ、って思ったらいてもたってもいらんなくてさー」
「……別に、いい。それだけ、お前にとって、重要なこと、だったんだろう」
「うんっ! ありがとなっ!」
 そんな会話を交わしながらふらふらと立ち上がるその戦士の顔に、マイーラは見覚えがあった。
「……ガルファン・オリヴェイラ・ダ・シウヴァ……?」
 名を呼ばれた戦士は、はっとした顔になってこちらに向き直り、さっとひざまずく。
「……マイーラ姫殿下。ご無事でしたか」
「ええ……あなたも、無事だったようで、なによりです」
 そう言いながらも、マイーラは正直少し戸惑っていた。ガルファン・オリヴェイラ・ダ・シウヴァは、英雄サイモン――サイモン・ティビリカ・ダ・シウヴァの第一子だ。むろんサマンオサでは名士の子息ということになるのだが、彼は人嫌いというか、『私は勇者サイモンの息子というだけのことで重んじられるのをよしとするほど恥知らずではありません』などと言い社交界からも遠ざかっているので、二、三度会った程度でその人となりはほとんど知らないのだ。
 サイモンほどの偉大な父親がいるならば、それを誇りとして家をより繁栄させようとするのが普通だろうに妙なことを言う男だ、と奇矯な人物という印象ぐらいしか残っていない。当然英雄サイモンを父として誇ってはいるのだろうが、親しい顔ではまったくないので、あまり味方が増えたという気はしなかった。
「なーガルファン、なにやってんの? この姉ちゃんがなんかしたのか?」
「ねっ……、ですから、なぜあなたに姉ちゃん呼ばわりされなくてはならないのです? 私はサマンオサの第一王位継承者、マイーラ・ニムエンダジュ・トゥピナムバーで」
「? だってどっからどー見ても姉ちゃんじゃん。……女のかっこするのが好きな男とかじゃ、ないよね?」
「…………っ! あ、あ、あなたはっ……! わ、わ、私を、誰だとっ………!」
「あの、すいません、マイーラ姫殿下。レウは、その、礼儀作法の類を学ぶ機会も、王侯貴族の方々と会う機会も、まるでなかったので……」
「お腹立ちはもっともなことと思いますが、マイーラ姫殿下。なにせ子供の言うことですから、どうぞお聞き流しいただけないでしょうか」
 勇者セオだけでなくガルファンまで頭を下げてくる。確かに子供の言うことにいちいち腹を立てても仕方ないという気持ちもあるのだが、サマンオサの姫としてサマンオサが侮辱されることを許しておいてはならない、という規範はマイーラの中にほとんど絶対律として存在する。言葉を探して口を開いた――ところにエリサリが口を挟んだ。
「セオさん。勇者レウ。……感じませんか?」
「へ? ……なにが?」
「……さっき言った、奇妙な力が、この場に立つとよりはっきり感じ取れるとは、思います。やっぱり、ラーの鏡がその力を抑えているんだ、とも」
「さすがはセオさんですね。本来なら勇者の力とは相容れないこの力を、そこまではっきりと感じ取れるとは……」
「? なんの話? っていうかエリサリのねーちゃん、勇者レウって呼び方やめてよ。なんか……えっと、たにんぎょーぎ? な感じするじゃん」
「え、ええと、そうですか? すみません、なんというか、修正する機会がなくって……じゃあ今度からは他の方々と同じように、レウさんってお呼びしますね」
「うんっ!」
「……話を早く進めなさい。あなた方はなにを感じたというのですか」
 エリサリがレウというらしい子供の言葉に戸惑ったり慌てたりと人がましい顔を見せるのに、内心苛立ちを感じながらもマイーラは問う。勇者レウという呼び方も気になってはいたが(まさか本当にこんな子供が勇者なわけはないだろうが)、なにやら重大なことを話すような深刻な顔をしていた勇者セオに免じて、話を先に進めようとしたのだ。
「……そうですね。率直に言います。この地には、混沌が渦巻いています」
『……は?』
「……やはりこういう言い方ではわからないでしょうね。こう言えばわかりますか? この地には、神々が世界を創り上げる前の、万物がそれぞれの形に分かたれる前の種々雑多な力の渦が存在している、と」
『………はぁ?』
「……あなたはなにを言っているのですか? 言葉が明らかに矛盾しているでしょう。神々が世界を創る前の存在なんてものが、世界創成より何千年と時を経た現在に存在しているだなんて。そもそもそんなものがどこにあるというのです?」
「セオさん、レウさん。あなた方お二人には、すでに上層部より相当な位階に至るまでの情報開示が許可されています。ですが、こちらの二人には当然ですが許可されていません。できれば、この二人を転移なりなんなりさせて、お二人だけにお話をしたいのですが……」
「なっ……!」
 自分の方を見もせずに、あくまで勇者セオとレウの方だけを向いて話すエリサリにまた頭がカッと熱くなるが、勇者セオは静かに首を振った。
「いえ、申し訳ないですけれど、それはやめていただけないでしょうか。他者のみを転移させる呪文では、転移させたあとの安全が保障されません。今は魔物の活動が妙に活発化しているようですし。かといって俺たちが同行するのは時間の無駄が過ぎると思いますし」
「っ……」
「そう、ですか……では、心話を使うことになりますが、それでもよろしいですか?」
「? 別にいいけどさ、わざわざ心話使わないでも、えっと、トシーンだっけ? ああいう音を消す呪文で壁張って声が聞こえないようにすればいいんじゃないの? 二人にはちょっと後ろ向いてもらってさ」
「あっ……」
 意表を衝かれた、という顔になってから、エリサリは頬を赤く染める。その子供のような仕草に、またひどく苛立った。さっきまで自分に上から見下すようにものを言ってきたこの女が、ごく普通の子供にこんな風にあっさりと未熟なところを引き出される、というのがどうしようもなく気に入らなかったのだ。
 なので、胸を反り返らせるようにしながらエリサリと勇者セオに告げた。
「言っておきますけれど、私は後ろを向くのも転移されるのもお断りしますので、そのおつもりで。サマンオサの第一王位継承者を、まるで子供のように扱えるとお思いにならないことですわね」
「……そのような意固地な態度自体が子供のようにしか見えない、という自覚もないんですか?」
「あなたに言われる筋合いはありません! そもそもあなたは」
「……まったく。わかりました。あくまで我々の話を聞こうとするなら聞くことだけは許可しましょう。ただし、他者に話すことができないよう、呪はかけさせてもらいます。それでいいですね?」
「……ええ」
 本当ならエルフの怪しげな術などかけられたいわけはないが、ここでそう言うのはこちらの弱みを見せるということになる。他者に話すつもりかと痛くもない腹を探られるのも業腹だし、ととりあえずは素直にうなずいた。
 エリサリはその答えに小さくため息をついてから、あくまで勇者セオとレウの方を向いて話し出した。
「セオさん。レウさん。お二人は、世界がどういうものかおわかりになっていますか?」
「え? ……うーん、あんまりよくわかってないかも。えっと確か、平らな形してる、っていうのは覚えてるんだけど」
「ええ……確かに平らな、南と北、東と西の極みが繋がっているのが世界ではあるんですが……それ以前に。世界がどのようにして生まれたか、わかっていますか?」
「え? えと……えっとー、神さまが創ったんだよね?」
「……神話では、主神ミトラが混沌から生まれ、その御力をもって混沌からこの世界を創り出した、となっているのは知っていますが、本当はどうなのかは、知りません」
「…………。神が混沌からこの世界を創り出した、というのは正しい認識です。ただ……この世界は、今も混沌の中に浮かんでいる、というのはご存知ですか?」
「え、そうなの!? ……って、えーと、こんとんって、さっき言ってたやつ?」
「はい。神は混沌からこの世界をお創りになりました――けれど、それは混沌のすべてを使って世界を創り出したわけではないのです。混沌は無にして無限、零にして無量であるもの。ひとつの世界の創成ですら混沌を減らす≠アとはできません。混沌の中には我らの世界と同じように、混沌から創り出された世界がいくつも存在するのだ、という話すらあるほどです。無限に広がる混沌の海の中に、神によって秩序立てられた世界がいくつも浮かんでいる――その中のひとつが我々の世界である、とお考えください」
「へぇー……そーなんだ」
 マイーラは眉をひそめた。なにを無茶なことを言っているのだ。いきなりそんなことを言われても簡単に信じられるわけがない。
 だがレウは感心した顔でうなずき、勇者セオはなぜか真剣な顔でエリサリを見つめている。それにまた苛立ちを覚えながらも、話はどんどんと先に進んだ。
「神々は、混沌の海に世界が呑み込まれぬよう、懸命にいくつもの手を打っておられます。我々異端審問官が異端を狩るのもそのひとつ。混沌を呼び出して世界を変える技術を基にした文明を滅ぼすのもそのひとつ。そして、こうしてときおり世界に現出する混沌に、手を尽くして対処するのもそのひとつなのです」
「? こんとんって、世界に出てくるの?」
「はい。もちろんあるべきことではないのですが、いくつもの偶然が重なって世界の神の力が失われた一部に現れることがあります。……ですが、今回は、おそらく、混沌を呼び込む儀式が行われているのでしょうが」
「……ふーん? あのさ、えっと、そのこんとんってのが世界に出てきたら、どーなるの?」
「世界が滅びます」
『………………』
 どこからどう見ても真剣そのものな表情で、きっぱりはっきり遠慮会釈なく言い切ったエリサリに、マイーラは一瞬ぽかんとした。なにを言われているのか一瞬頭が理解を拒否してしまったのだが、すぐにはっとして口を開く。
「あ、あなた、なにを突然わけのわからないことを――」
「え! 世界滅びちゃうの!? なんで!?」
「この世界は、混沌から神の御力によって創り出され、秩序立てられています。逆に言えば、混沌に呑み込まれればあっさりと原初の姿――形もない、心もない、命という概念すら存在しない、無でありながら全てである力の渦――混沌に還ってしまうのです。普段は神の御力による結界で混沌が世界に侵入することは防がれていますが、その一部でも決壊すれば混沌は一気にこの世界になだれ込み、すべてを呑み込むでしょう。そうすればこの世界は、形作られる前の混沌の姿に逆戻りする――つまり、滅びることになるのです」
「……えっと……よくわかんないんだけど、そのこんとんってのが世界に出てきちゃ、まずいんだよな? どうすれば、出てこないようにさせられるの?」
「普段は神の御力による結界で防がれているので心配する必要はないでしょうが、もし万一混沌が現出したならば、我々神の使徒が総出でことに当たり、混沌が食い荒らしている場所の周囲で神具を使って結界を張りつつ、神々にご降臨願うことになるでしょう。混沌に対処し、世界を再構成することができるのは、神々だけなのですから」
『………………』
 あまりに荒唐無稽な話に、マイーラは大きく眉をひそめた。神々にご降臨願う、だなぞと当たり前のように言うエリサリの言葉が、マイーラにはどうにもうさんくさく感じられたのだ。それはもちろん神々というのは存在はしているのだろうが、それが人間の世界に関わってくるなんてことは普通ありえないだろう。このエルフは頭がどうかしているのじゃないか、と思わずにはいられない。
 だが、勇者セオはエリサリを真摯に見つめ、言った。英雄サイモンのように筋骨逞しい男らしさに溢れた姿というわけではない、むしろマイーラの目にはなよなよとしているようにすら映るまだ成長しきっていない線の細い姿態――それなのにマイーラですら一瞬気圧されてしまうような、真剣の鋭さに満ちた表情で。
「その混沌が、今ここに召喚されている、というわけですね」
「はい。ここから現出しようとしているのは、ここがサマンオサの混沌収束点に当たるからでしょうが」
「え、こんとんしゅーそくてん、ってなに?」
「ええと、世界の構造的に、混沌が出てきやすい場所、ということです」
「それがラーの鏡によって抑えられている、ということですか?」
「はい。ラーの鏡は太陽神ラーに対する信仰を長年受け続けてきた神具です。その上ラーの鏡の力の本質は回帰=Bいかなる存在もその始まりの状態へと還すことができる力です。そこに映る世界は世界として生まれ出でた、混沌に対する抵抗力がもっとも強い瞬間に立ち戻る――混沌を抑えるにはこの上ない助けとなっているでしょう」
「……エリサリさん。あなたは、なぜ、ラーの鏡を必要となさっているんですか?」
「……我々の標的である異端に――呼吸する殺戮≠ノ対抗するには、ラーの鏡の力がどうしても必要なんです」
「それは、なぜですか」
「呼吸する殺戮≠ヘ存在が事象化しかけているんです。ゆえに存在の偏在化――存在を分化させ無限の確率の中に配置することが可能になっている、と我々の調査班は結論付けました。それに対抗するためには、存在を回帰させるラーの鏡の力がなければ……」
「え、えーっと、つまりどーいうこと?」
「ええと……なんと言ったらいいでしょうか、異端の中には存在そのものを事象化……世界に組み込まれた現象と化すことができる者がいるんです。もちろんそんなのはごく一握りなんですけど……今回は、終点のない殺戮行動によって世界の崩壊を自身の存在基盤と化した異端は、世界の消滅へ向かう力と同一化されて存在を世界そのものの無限の試行の中に組み込ませることが……」
「もっとわかんないよー! セオにーちゃんっ、教えてー!」
「……ええと、つまり……エリサリさんたちの敵である異端=\―世界とは相容れない力を持っているものの中には、世界の一部と同一化……合体することができるものがいる、っていうことなんじゃないかな。一部でも、世界そのものを消し去るのはすごく大変だから、ラーの鏡を使って合体を解かないと倒せない、っていうことなんじゃないかと思う、けど」
「そっかー! なんとなくわかった!」
「さすがですね、セオさん! 異端審問官でもないのにそこまで噛み砕いて説明できるなんて……」
「いえっ、それは単に、俺がごく浅い理解しかできていないってことだと思いますし」
「っ……結局、なんだというのですか!? あなたはなにが言いたいのです、その長広舌があなたがラーの鏡を持っていく理由になるとでも!?」
 苛立ちを込めて叫ぶと、エリサリははぁ、とこちらを見て小さくため息をつき、それからこちらに向き直って告げた。
「ラーの鏡をここから持ち去れば、少なくともこの近辺は混沌に呑み込まれて消滅します」
「……は?」
「もし混沌の浸食が早ければ、サマンオサの王都まで呑み込まれるかもしれません。それを理解した上で、ラーの鏡をどう回収するべきか、を私とセオさんたちは話し合おうとしているんです」
「な……な! なにを、馬鹿な! そんなことが……そんなことが、本当にありえると」
「これまでの私の説明を全然聞いていなかったんですか、あなた? まぁ、話し合いに参加されても手間がかかるだけですしかまいませんけど……。セオさん、すでに私の上司へは魔道具で連絡を行いました。混沌を呼び込む儀式が行われる可能性は一応考慮されていたので、それを伝える簡単な信号文を打っただけですが……とにかく、私は基本的に、応援が来るまでここで待機するよう指示されています」
「……基本的に、というと?」
「――もし、ラーの鏡を改修する際に、セオさんと遭遇した場合。セオさんの指示があるならば、それ以外の行動を取ることが、事前会議で正式に許可されています」
 その言葉に、勇者セオはなぜか大きく目を見開いた。その明らかな驚きの感情にマイーラも少し驚いたが、なぜかレウも一緒に「え!?」などと叫んでいるのにも驚いた。
 そもそもこの少年は勇者セオとどういう関係なのだ、という疑問が舞い戻ってきて思わず眉をひそめるマイーラにかまわず、勇者セオは驚きの表情のままエリサリに問いかける。
「エリサリさん。それは……」
「世界の律を超える勇者の力は、それは究極的には新たな世界を創る力足りえます。普通の勇者では、秩序立てられた世界に存在するものと異なる次元に存在する混沌に対抗するのは、あまりにエネルギー効率が悪いというか……世界の律を超える勇者の力では、この世界の秩序という混沌に対抗するこの上ない後ろ盾がなく、力を効率化して使う手段というのも確立されていないため、力業でなんとかするしかありません。ですが、セオさんには、以前すでに世界を変革した実績があります。そしてそれが初めて世界改変を行ったとは思えないほど精緻で強力に制御されていることも確認されています。なので上層部の合意のもと、この結論が採択されました」
「……エリサリさんは、それでいいんですか?」
 じっ、とエリサリを見つめながら勇者セオが問う。――その言葉に、エリサリもじっと勇者セオを見つめ返しながら、この上なく真剣に答えた。
「はい。私もそれが正しいと、そうするべきだと思うんです」
「…………――――」
 勇者セオは一瞬目を閉じ深呼吸をしてから、すっと目を開いてうなずき、こちらを向いて告げる。
 ――その声を聴いた刹那、マイーラの呼吸は一瞬止まった。その声には、今までの勇者セオにはない、力があったのだ。強い意志の籠った、凛とした――勇者らしい、とマイーラにも思えるような、逆らうことなど考えられなくなるような力が。
「レウ。マイーラ姫殿下と、ガルファンさんと、エリサリさんを運んで、王都サマンオサまで連れて行って」
「うんっ! え、でもセオにーちゃんは?」
「俺は、ここで、混沌の浸食を食い止める」
 静かな言葉。だがマイーラはセオの言葉に籠る圧倒的な気迫に気圧されて口を挟むことはできなかった。勇者らしい、彼もまさしく勇者だったのだと否が応でも理解させられる鮮烈なまでの気迫。英雄サイモンが地を埋め尽くすほどの魔物の群れに立ち向かった時と同じだ。
「……セオさん。確かに、セオさんなら食い止めることは可能だと思います。ですが、危険なのも間違いないことですよ。混沌はすべてを無に帰す力の渦、セオさんの力を全力で揮わなければ対抗は難しいでしょう」
「でも、ラーの鏡を王都サマンオサまで持っていかなければ、偽王に――エリサリさんの標的である異端≠ノ対抗、できないんですよね? そして、偽王に一刻も早く対処しなければ、無駄に人命が失われる危険性が高いん、ですよね?」
「……はい。そうです」
「なら、俺は、それをしなければならないと、思います。――それを、したいと、思います」
「………はい。セオさん」
「レウ……偽王は、混沌を呼び込むという儀式をやっている、そうだけれど。たぶん、それは人の命を生贄にするものだという可能性が高い」
「えっ、ホント!?」
「可能性が高い、とは思う。それに、儀式を止められれば、俺もそちらに救援に向かえる。だから、偽王の儀式を止めて、偽王を倒してほしい。レウなら、できる、よね?」
「うんっ!」
 満面の笑みで元気よく答える少年にちらりと本当にいったい何者なのかという疑問が兆すが、マイーラはもうそんな些末事はどうでもよかった。確かに彼は勇者だと知ることができた、ならば彼はサマンオサを、苦境にあえぐ民を、残さず救ってくれるだろう。その安堵と歓喜に、涙が出そうになった。
 納得のいかないことも、許せないことも、すべては後回しでいい。彼は間違いなく勇者なのだから、そのすべてに応え支障なく解決してくれるだろうから。
「エリサリさん、エリサリさんは、ラーの鏡の使い方をご存じ、なんですよね?」
「はい。問題なく扱えると思います」
「では、すいませんが、レウと一緒に行って、偽王との戦いに手を貸して、いただけますか?」
「承知しました」
「マイーラ姫殿下。ラーの鏡の持ち出しを、許可していただけますか? そして、申し訳ないんですが、レウと一緒に、サマンオサ王都へ向かって、市民の皆さんをなだめるのに、力を貸していただきたいんですが」
「ええ――いいでしょう。許可します。その要請も受けましょう。サマンオサ王家に生まれた人間として、当然の務めですから」
「はい、ありがとうございます。ガルファンさん。申し訳ないんですが、レウと一緒にサマンオサ王都へ向かって、マイーラ姫殿下の護衛を――」
「断る」
「え……?」
 ガルファン・オリヴェイラ・ダ・シウヴァは、苛烈な瞳で勇者セオを真正面から睨みつけ、言い放った。
「俺はここに残り、あんたがなにをするか、見届けさせてもらう」

 ガルファンは、ずっと、勇者≠ニいうものに恨みと憎悪を抱いてきた。
 息子に父親らしいことを何もせず、妻である女も顧みようとすらせず、それなのに真の勇者だ英雄だ、と伏し拝まれる父が憎かった。偉大な父を持ったことを羨ましがられるたびに、なにもわかっていないくせにと腹が立った。
 そんな勇者に救われることを当たり前のように受け容れている周囲にも苛立った。父を心底憎んでいるから、勇者というものを否定したくて体と技を必死に鍛えた。人間は勇者なんてものがなくても生きていけるのだと証明しようとしたのだ。
 けれど自身を勇者と言ったレウにはあっさりと器を見せつけられ、自己の矮小さを自覚させられた。父を憎んでいるのは間違いない、けれどその憎悪を撒き散らすのには父を否定したいという純粋な感情だけではなく、自己顕示欲と嫉妬心があるのだと理解させられ、自分のこれまでの人生が否定されたような気分になった。
 心底落ち込んで、そこに手を差し伸べられて、思わず張りつめていた心が緩んで。そこでようやくガルファンは、心底理解し、納得したのだ。父と、父以外の勇者は、違うのだと。
 自分は父を否定したかった。父に救われることをそのまま受け入れて喜べる連中ともども消し去ってしまいたかった。だが、父を否定することと、勇者を否定することは、同じことではない。
 父以外の勇者は、一人一人、父と違う生い立ちを持ち違うことを考えている。そしてそれぞれの理由で、それぞれの決意で、世界を救おうとしている。それを父と同じ勇者だから、とひとしなみに拒絶するのは、あまりに失礼な話だ。
 そして自分はレウの人となりを幾分なりとも知り、この幼い勇者はサイモンとは違うのだ、と納得できた。だが――自分は、いまだ勇者セオを知らない。
 セオがなにを想いなにを考えて戦っているのかまるで知らない。知っているのはその気弱な口調と、それに反した圧倒的なまでの強さだけだ。
 勇者セオは手早くことを進めている。このまま順当にいけばサマンオサは勇者の手によって救われるだろう。それを拒否することはガルファンにはできない。自らの手で自らを救いたいという感情があっても、次々殺されていく国民へ救いの手が差し伸べられるのを横から押し返すほど傲慢にはなれない。
 だが、まだガルファンは納得してはいない。勇者の救いの手を認める認めないという問題ではない、ただガルファンは、自分の心を納得させたいのだ。
 突然やってきた勇者が人間的にも尊敬できる、そうでなくても受け容れられる相手ならば、サマンオサを救われても自分なりに『仕方ない』と思うことはできる。自分の仲の納得いかない感情を、自分だけのわがままとして、自分の力が足りなかったのだと、自分の至らなさを責めることができる。
 だけれども、勇者セオが、英雄サイモンのような、あの最低親父のような、今目の前にいる親しい相手を救おうと手を伸ばすこともしない勇者なら、自分はこの勇者にこの胸の中のわだかまりを真正面からぶつけることができる。いいやぶつけなくてはならない。家族をずっとないがしろにしてきたあげく、突然姿を消して家族をずっと苦しめるような勇者を、自分は絶対に認めるわけにはいかないのだから。
 自分なりに熟慮の末に、なんとしてもこの勇者の心根を見極めなくてはならない、と決死の思いで口に出した言葉――だったのだが、それを聞いた周囲の人々は揃って難色を示した。
「いや、なにをするか見届けるって……なんでですか? そんなことして、なにか意味があるんですか?」
「それは……つまり、要するに、勇者セオを見定めるために……」
「実際に勇者であるセオさんを見定めるって、なんの意味があるんですか? というか、正直私にはあなたにセオさんを見定める資格があるとは思えないんですけど?」
「っ」
「それに、ここに残ってもあなたは役に立たないどころか足手まといにしかならないんですよ? これからセオさんは決死の思いで混沌を鎮めなくてはならないわけですから、よけいな人員を増やすなんて助ける手間がかかるだけでしょう? しかもその手間は命取りになりかねません。なのに、なんでセオさんを見定めるなんてあなたの自己満足のために足手まといを増やさなくてはならないんですか?」
「いや……だから」
「ガルファン・オリヴェイラ・ダ・シウヴァ。あなたがどういうつもりなのかは知りませんが、今は一人でも人手が欲しい時です。混沌などというものが本当にあるのかは知りませんが、とにかく勇者セオがここにしばらく残ることになる以上、我々は急ぎ王都に戻り自分たちの為すべきことをすべきではないですか?」
「っ……」
 それを言われると、言葉に詰まる。確かにこれは自己満足以外の何物でもないのだろう。勇者セオがもし間違っているのならその間違いを指摘するのは確かに無益ではないだろうが、今は王都でなにが起こっているかわからない時だ。急ぎ戻って、解放軍の面々と合流するのが正しい行動と言われれば反論の余地はない。
 だが、自分は。自分なりに、自分の人生を懸けて言ったのだ。父に対する二十年の憎しみを、昇華させられるかどうかの瀬戸際なのだから。
 セオが本当に強者なら。レウに心底慕われているこの気弱そうな男が本当に強い勇者ならば。サイモンと違う存在でも、真の強者足りえるのだと心底思えるのかもしれない。
 勇者というものはサイモンだけが正しい形ではないのだと、あの憎んでも飽き足らないあの男もしょせんはいくつも存在する強者の型のひとつにすぎないと――サイモンは絶対の存在でもなんでもないのだと心から思えるのかもしれない。
 ――自分はそう思いたいのだ。自分は救われたい。もう解放されたいのだ、自分がどれだけ必死になってもはるか高みから自分を見下ろしてきた父から――英雄サイモンから。
 だがそんな感情をそのまま吐き出すなどできるわけがなく、必死に言葉を探す――と、セオが手を上げた。
「あの。みなさん。ガルファンさんが、俺と一緒に残るの、絶対に、駄目ですか?」
「え……?」
「駄目というわけではないですけど……意味がないでしょう? ここに残っても、彼にはやれることがまるでないんですから」
「いえ、ないわけでは、ないです。混沌を目の前にした時に、他者の存在は心身と魂を此崖に繋ぎ止める導になりえます」
「あ……」
 エリサリというエルフがはっとした顔になる。それから悩むように眉を寄せ、半ばセオに、半ば自分に問いかけるように言葉を紡ぐ。
「それは……確かに、理屈の上では、そうですけど。彼が混沌に呑み込まれる可能性もある、というかその可能性の方が高いですよ? そうしたらやっぱりセオさんの足手まといになるんじゃ……」
「いえ、あの。二人目の勇者への讃歌=\―古代帝国の文献の中でも相当古い資料ですけど、その中に、勇者は人を救わんとする心を道標とし混沌の闇に分け入った≠ニいう一文が、ありますよね? あれはつまり、他者を護ろうという保護欲的な感情が、混沌に抗するひとつの手段となりうる、ということだと俺は判断、したんですけど」
「え……ええ、ええと、それは……確かに、あるかもしれません、けど……でも」
「なーなー、そんなことえんえん話し合ってる場合じゃなくね? 早くサマンオサに戻んなきゃなんないんだろ?」
『…………』
 しばしの無言の後、エリサリとマイーラ姫殿下はため息をついてうなずいた。
「わかりました……確かに助けになる可能性はそれなりにあるのは確かですし」
「無駄話をしている余裕がないというのも確かですからね」
「……感謝いたします」
 国民として、マイーラ姫殿下に深々と頭を下げる。それからセオに向き直り、小さく告げた。
「助けるといっても、俺のことが邪魔になるようなら見捨てていい。俺は俺のために――確かにある意味個人的な理由のためにここに残るわけだからな」
「………はい。あの、でも、ガルファンさんに力になってもらいたい時には、俺は頭がよくないので、うまく言葉が出てこなかったり、失礼なことをしちゃうかも、しれないんですけど……それでも、いい、ですか?」
「……俺に力になれることがあるっていうなら、かまわない。いくらでも手を貸してやる」
 そんな言葉を交わしながらも、姫殿下たちは、というかレウとエリサリはてきぱきと準備を整えていた。セオが取り出していた背負子にエリサリの体を縛りつけ、マイーラを膝の上に乗せてさらにしっかりと縛りつける。姫殿下は少しばかり難色を示したが、時間の浪費が国民の命に関わる可能性が高い以上、文句を言いはしなかった。
 その背負子をレウは軽々と背負い、セオと早口で打ち合わせをする。
「じゃあ、セオにーちゃんがその鏡を取って、俺の方に投げるんだね?」
「うん。レウが受け取った瞬間にリレミトを発動できるなら、それが一番早いと思う、んだけど。レウ、できる?」
「もっちろんっ! まかせといてよ! セオにーちゃんも、頑張って!」
「……うん。ありがとう。レウも、頑張って」
「おうっ!」
 満面の笑みのレウに背負われながら、マイーラ姫殿下は眉をひそめつつも、ひどく熱っぽい瞳でセオを見て言った。
「勇者セオ。私は、あなたを本当に認めたわけではありません。ですから、勇者として認めてほしいのならば、一刻も早くサマンオサに戻ってこられますよう。サマンオサはどこよりも助けの手を欲しているのですから」
「……はい。できる限り早く、戻ります」
「セオさん……私は、できる限り向こうを早く片付けて戻ってくるつもりですが、なにか予期していない厄介事が起こる可能性も否定できません。どうか、私が戻るまで、持ちこたえてください」
「はい。ありがとうございます」
 エリサリの言葉に姫殿下は鋭くエリサリを睨んだが、エリサリは知らぬふりでセオとうなずき交わした。それからレウはラーの鏡から少し離れたところに立ち、こちらを向いて目を閉じる。それから数瞬後、セオが声をかけた。
「……レウ。いい、かな?」
「……うんっ! いつでもいーよっ!」
 目を閉じたまま声を上げるレウに、セオはうなずき、ラーの鏡に向き直る。小さく深呼吸をしてから、歩み寄ってラーの鏡を取り上げ、レウに向けて投げた。
 ――とたん、世界が変質した。
 ラーの鏡があった場所から、なにかが――黒い、いや色のない、いや世界中のありとあらゆる色を混ぜ込んだような、泥とも水とも色のついた気体ともつかないなにかが、決壊した堤防から噴き出る鉄砲水のようにあふれ出てくる。セオは大きく跳び下がってそれから間合いを取る。その瞬間にもうレウの姿は消えていた。
 一瞬ぽかんとしてしまったガルファンをひょいと荷物のように抱え上げ、セオは怒涛の勢いで迫りくる闇よりも濃い、いやこの世のなにより凝縮されたスープのような、無限を、無窮を、圧倒的な力の渦を内包する万色の闇に向け剣を構えた。
「…………! な……、っ、っ………!」
 戦うつもりなのか。あの圧倒的な、力と。
 ガルファンにすらわかる。あれは、あの闇は、人がどうこうできるものではない。
 あれは意志もなにも存在しない、ただ無限にすべてを取り込む力の坩堝だ。嵐や、洪水のような自然現象をも上回る人にはどうこうできない力だ。それを、この勇者は、自分を抱えながら、剣一本で。
「……っ、放せ! 俺が邪魔なら捨てていいって言っただろうっ!」
 恐怖すら感じながら暴れても、セオはガルファンをしっかり担いで小揺るぎもしない。ただじっと迫り来る闇を見つめて、小さく告げた。
「――ごめんなさい」
「え」
「俺、たぶん、これからしばらく、ガルファンさんと話せる余裕、なくなると思います」
「な――」
 なにを、そんな、いまさら、だから俺が邪魔なら捨てていいと言ったのに――と喚き散らしそうになる口を、ガルファンは思わず押さえた。セオがその闇に剣を向け、口から口ずさむように言の葉を紡ぎ出したからだ。
「―――朝ごとに、すべては新しく始まり、朝ごとに、世界は新しく生まれ変わる=v
 滑るようにもはやすべてが呑み込まれようとしている祭壇を駆け、剣を振るう。その横にいるガルファンすら圧倒的に感じられる剣圧を呑み込んで奔る万色の闇に、幾度も幾度も剣圧を叩きつけ、言の葉を紡ぐ。
「今日は新しい一日。今日、私の世界は新しく生まれ変わる=v
 四方八方からセオを呑み込まんと闇が迸る。けれどセオは静かにそれを見つめながら、天井まで軽々と飛び上がり、天井や壁すら足場にして駆けながら詠い、斬る。
「今日の一日、どの瞬間も、楽園のようにしよう。今日は、新しく生まれ変わる好機=v
 ――ガルファンは圧倒されていた。これが。これが勇者か。
 思えば自分は父が力を振るう所すらまともに見たことはなかった。自分などとは、人などとは桁の違う、本当に世界と戦いうる存在、それが、勇者。
 以前の自分なら認めることを拒み、落ち込み、錯乱すらしていたであろうその事実は、今のガルファンには拒絶することなく素直に受け容れられた。なぜなら、この時、ガルファンは。
(―――なんて、きれい、なんだろう―――)
 自分を担ぎ上げながら詠い、剣を振るい、命を賭して戦うセオに、心底、見惚れていたのだ。

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