ランシール〜ブルーオーブ――2
 陽の光の入らない、神殿の最奥。真昼でありながら幾重もの扉に封じられ、闇黒と静寂に満たされていた場所に、光が灯される。
 どこか甘やかな香りのする、おそらくは秘伝の配合であろう香草の混ぜられた蝋燭が、順々に燃やされていく。甘い灯が魔法陣を描くようにセオの周囲を取り囲むや、灯を捧げ持つ神官たちが歌うように祈りの言葉を捧げた。
『いざや試される者よ、声を上げ武器を掲げよ、神に立ち向かう気概、我は有せりと自負するならば』
 セオは小さく息を吸い込んでから、目の前のぼんやりと白く照らし出された壁に向かい、口を開いた。
「我に、試練を。試練を乗り越えるだけの心と力、我が手に掴まんがため」
 そして右手のゾンビキラーを高々と掲げる――や、ずずっ、という鈍い音が部屋の中に響く。目の前の白い壁が、ゆっくりと退いて道を開けようとしているのだ。
 壁の向こうはもう外になっているようで、眩しい光と砂地から発せられる熱が目を灼く。ここから先は、もう試練の場だ。どんなことがあるか、どう振る舞えばいいか、それはこの神殿の神官たちすら知らず、指示されてもいない。ただ自分の心と体を神の前に投げ出し試されるべし、とだけ。
 セオは一度、ちらりと後方を振り返る。暗闇の中に突然飛び込んできた光に晒されたせいで、暗がりの中をまともに見通すことはできない。
 けれど、わかる。自分の仲間たちがそこにいて、視線を注いでくれているのが。見守ってくれているのが。気配が、息遣いが、視線が、自然と感じ取れるのだ。――自分を仲間と呼び、自分も仲間であると喜びをもって認められる人々のことだから。
 セオは小さく頭を下げて、ひそやかに呟いた。
「では、行ってきます」
 そして明るみへと歩み出す。自分の背後でずずずっ、とまた音がするのがわかった。おそらくはさっき自分を通した壁が閉じたのだろうが、確認はしなかった。――襲ってきた魔物たちに対処する方が先だ、と頭より先に体が判断していたからだ。

「……セオにーちゃん、だいじょーぶかなー」
 試練とやらは相当に時間がかかるものだとかで、帰ってきたら使いを出すから、と言われてとりあえず宿を探しに街へ出たところ、レウがぽそりと小さくそんなことを呟いた。ラグは小さく肩をすくめ、意識的に軽い口調で声をかける。
「今更気にしても仕方ないさ。たぶんセオなら大丈夫だろうと思うから送り出したんだ、こちらとしてはせいぜいどっしり構えておくくらいしかできることはないんじゃないか?」
「んー、そりゃまーそうなんだけど……それでもやっぱ心配なのは心配だよ。なんか、とんでもないこととか起きたりしねーかなー、とか思っちゃうし」
「……まぁ、気持ちはわかるけどな」
 実際、ラグの中にもそういった、セオの実力とは無関係にセオの無事を危ぶんでしまう気持ちはあるのだ。まだ年若い、というより幼い少年であるレウに、そんな感情を抑えられるとは最初から思っていない。
「だが、その、セオだってそんな風に俺たちが心配しまくっていても困るだろう。セオが試練を受けている真っ最中で、俺たちの様子を知ることはないにしろ、俺たち自身の心持ちとしてあまりみっともなく周章狼狽……ええと、腰の据わっていないところを見せたくはないと思わないか? 俺たちがそんなんじゃ、セオはこれからろくに別行動もできなくなっちゃうしな」
「うー……そうなんだけどぉ……」
「まぁ、こういう時はあれこれ考える余裕もないくらい体を動かすのが一番ましだろうしな。宿を見つけたら、街の外で久しぶりに本気で稽古してみないか? フォルデも一緒に。なんにもしないよりは気がまぎれるだろ」
「えっ、ホントにっ!? やるやる、絶対やるー!」
「……ま、いいけどよ。そんなにあれこれ心配しても、あいつのこったからしれっと当然みてぇな顔で帰ってくる気ぃすっけどな」
「なんだよー、フォルデってば、心配してるのに無理して平気な顔したって別に全然カッコよくないんだぞ、わかってんのか?」
「っっっ……素っ頓狂なこと抜かしてんじゃねぇこのクソボケ勘違いガキ!」
 すぱーんと勢いよくレウの頭をひっぱたいたフォルデに、レウが「なにすんだよー!」と歩を進めながら蹴りや拳や頭突きを入れる。フォルデもそれを防ぎつつ、さっきの不意打ちに追い打ちをかけようとする。一応周りに迷惑にならないよう最低限の気は使っているようなので、ラグは苦笑しつつ「あんまりムキになるなよー」と軽く忠告するだけで済ませた。
「ふむ。つれないな。セオのことを考えないようにしようとしてもどうしても浮かんできてしまう心のせめてもの慰めに、体と体をぶつけ合わせて想いを昇華しようというそそられる行事に、俺を誘ってくれんとは」
「わざといかがわしい言い方してるだろう、ロン。……別にお前を仲間外れにしようとしたわけじゃないさ。それなりに戦えるとはいえ、基本的に賢者は後衛職だろう? 単純に、本気で前衛職同士が稽古している間に割って入るのは大変なんじゃないかと思っただけだ」
 いつもの調子で絡んでくるロンを、苦笑を崩さずそう言ってあしらう。実際、ロンはこの上なく頼りになる後衛というか、事実上呪文支援を一手に引き受けてくれている人材だ。前衛同士のぶつかり合いに巻き込んで、後に引くような怪我でもされたらえらいことになる。
 が、ロンはふん、と楽しげに鼻を鳴らしてみせた。
「前衛職のあしらい方ぐらい心得ているさ。俺も一年前までは武闘家だったんだぞ? 身体能力や勘が衰えたとはいえ、身に刻んだ経験はなくなっていない」
「っ……」
「? どうした」
「いや、その……なんでもない。ただ、その……ちょっとしたことを思い出しただけだよ」
 などと言葉を濁しながら、ラグは内心冷や汗を掻く。さっき一瞬、ロンが賢者に転職する前、というか一緒に旅をして九ヶ月ほどが過ぎるまで、武闘家だったことが頭から抜けていたのだ。だからその事実を口にされた時、不意打ちされたような衝撃を受けた。
 嫌だなぁ、物忘れするような年じゃないのにな、まさか痴呆の前兆とかじゃないだろうな、と眉を寄せて内心思い悩む。戦士というのは基本的に頭を使う機会があまりないので、下手をするとかなり若くから痴呆が始まるというのはそれなりに有名な話なのだ。
 だが、それは物忘れでも痴呆の前兆でもなかった。忘却――というより記憶の消去の、ごく目立たない振り出しだったのだ。

 セオはどこまでも広がる砂漠を、全速力で走っていた。といっても鎧はじめ装備をつけた長距離走での全速力≠ニいうものなので、全身の力を込めて敵が動くより早く踏み込む、といった速さとはまた様相を異にするが、できる限りの速さで走っていることには変わりない。
 なぜかという理由は単純で、要は魔物から逃げていたのだ。書庫などでの調査ですでに聞き知ってはいたが、試練の地たるここ地球のへそ≠ノは、洞窟前の岩山に囲まれた砂漠の段階でそれなりにごろごろ魔物が生息する。襲ってくるそれら魔物から、魔物が追いつけず対応もできない程度の速さで逃げるには、そんな風に走るのが一番手っ取り早かったのだ。
『経験値になるならばどれほど多く重い命であろうとも奪う』という決意を翻すつもりはない。ただ、今この試練の中で砂漠に生きる魔物たちの命を奪うのは、『効率が悪い』とセオは思ったのだ。
 今のように、勇者と仲間たちがはっきり別行動をしている場合、仲間たちが勇者の力の影響下から外れるということはないにしろ、経験値は別行動をしている人間単位で加算されることになる。つまり、今セオがどれだけ魔物を殺し経験値を稼いでも、その経験値を仲間たちと共有することはできないのだ。
 命を奪うことを是としていても、そんな非効率的な、命の無駄遣いをする気にはなれなかった。事実上命の八割を無駄に捨てることになるのだ、そんな粗末な真似はしたくない。この地の魔物たちはセオよりも数段弱く、余裕をもって対処できたので、逃げられるうちは逃げておこう、と決めたのだ。
 こうして砂漠で(長距離用の)全力疾走をしようとも、セオの体力にはさしたる負荷もかからない。レベル上げ、それも勇者の力に基づくそれの恩恵というのは、実際理不尽なほどに絶大だ。砂漠を靴≠ナ走ること数時間、おそらくは砂漠の中央辺りに位置しているだろう洞窟が見えてきた。一見したところは砂漠の真ん中に突然岩山が屹立しているというだけだが、よく見ればそこに人の手、というか知性持つ者による工作が施されているのがわかる。
 それを視線でたどれば、岩山の中腹に入り口が隠されているのが見えた。あそこからが本番だ、と感じたセオは、さらに足を速める。自分を追いかけてくる魔物たちをきっちり置き去りにして、注意深く洞窟に侵入するつもりだった。――それが常人には『目にも止まらぬ速さ』と称されるだろうことは、あんまり理解してはいなかったが。

「しっ!」
「でりゃあっ!」
 フォルデとレウが勢いよく干戈を交える。どちらも速度に重点を置く戦い方をすることが多いため、この二人の稽古はなかなか見応えがあった。速さでいうならフォルデがレウを圧倒してはいるのだが、力ははっきり言って、レウがかなりフォルデを上回っている。
 相手の一挙一動をその速さで制し、攪乱と陽動で相手の対応を封じつつ、その中に必殺の刃を隠して放つのがフォルデなら、真正面から駆け引きなしに相手が反応するより早く一撃を叩き込むのがレウだ。相性としてはフォルデがレウに勝るといえるだろう。自身よりはるかに高速の機動力を有するフォルデにレウの普段の戦法は通じない。
 だが、フォルデが圧倒的に有利ともいえない。フォルデの機動力にある程度伍するだけの速さをレウが持っているのも確かなのだ。そして、レウには自身の戦い方に固執せず、勝つためならばどんな手も使う融通無碍な柔軟性がある。時に後の先を取り、時にその腕力で無理やりフォルデの技を打ち破り、と『いける』と感じた手を思うがままに振るってみせる。
 そして、レウはその勝負勘は年に比して相当いい方だ。結果、実力伯仲、一進一退の攻防が繰り広げられることになる。
「っ、ちっ!」
「っ……こ、のぉっ!」
 フォルデの振るったドラゴンテイルを、レウは腕一本犠牲にする覚悟で巻きつけ、フォルデごと振り回してみせた。フォルデは武器を取り返すのは無理と素早く悟り手を放すも、勢いを殺しきれず広場(ランシール近辺の森の自然にできたらしき草原を稽古場に選んだのだ)の端の立木に思いきり叩きつけられる。そこにレウが癒しの呪文を唱えながら追撃し、フォルデが迎撃すべく隠し武器の聖なるナイフを何本も投げ放ちつつアサシンダガーを構えてナイフの陰から襲いかかる――
 見ているのが俺たちだけというのがいくぶん残念だな、と苦笑しつつ、ロンはその好勝負を注視した。この後は勝った方と自分が戦うことになっているので、目を慣らすためにもよく観察しておきたい。
 と、低く、どこか懊悩の色を感じさせる力ない語勢でラグが声をかけてきた。
「なぁ、ロン……」
「なんだ?」
 ちらりと視線をやって、わずかに驚く。ラグが、本当に心底深く悩んでいるような、血の気の失せた顔色をしていたからだ。眉間に深く皺を刻み、絞り出すような声音で問うてくる。
「いや……なんだか、おかしくないか?」
「……おかしい、とは?」
「フォルデとレウだよ。なんだか……なんていうか、やりすぎ、っていうか……」
「どういう意味だ」
 問い返すと、ラグは必死に言葉を探しているのだとわかる憂悶に歪んだ顔で、一言一言必死に答えを返してきた。
「だから、なんていうか……いくら稽古でも……あの二人が、ここまで本気でやり合うのは、なんていうか……変、っていうか………すごく、その、そう、違和感。違和感があるんだ。あの二人は、なんだかんだで仲がいいし、特にフォルデは下の面倒見がいいから、子供に対してあんな風に全力で挑みかかる、なんていうのはおかしい気がする、っていうか……。なんていうか、その、すごく、おかしいことをしてる気がしないか?」
「………だが、あの二人に本気でやり合ってみろと言ったのはお前だろう」
 ラグの言葉にそう返しながらも、ロンは自分の心がわずかに揺れるのを自覚する。そう、本気でやり合えと言ったのはラグで、それに間違いはなく、フォルデとレウがそれに従い全力で稽古に打ち込むのはおかしなことではまったくない――その理屈の正しさをはっきり理解しているのに、ロンの感情は確かに揺れたのだ。
 ラグは「そうだよな……いや、そうなんだけど……」と独りごちつつ、うつむいてさらに考えに沈んでいる。ロンは眉を寄せて武器を打ちつけ合う二人に視線を戻しつつも、頭のどこかがラグの言葉を多方向から検証し始めるのを感じていた。
 ――なにか、おかしなことが起こっているのじゃないか?
 その問いに、あっさり否定の言葉を返す気になれなくなっていたからだ。

 セオは洞窟――というよりは、明らかに人に類するものの手の入った遺跡(というにはまったく劣化していない建造物)の中を、足早に移動していた。この遺跡の中にも当然、魔物は数えきれないほど出てきたからだ。剣を取って対処せねばならないほど強い魔物が出てきたわけでもない以上、どんな魔物からも逃げ回るという基本方針を変える気もない。
 ただ、細かく折れ曲がる洞窟内で全速力で駆け回るとどうしても速度的にも体力的にも無駄が多くなる。なので、普段は早足程度で、魔物が出てきたら魔物を振り切れるまで速度を上げる、ということに決めていたのだ。
 この考えは試練を受ける前から仲間たちと相談して決めていた。仲間たちはそれぞれ苛立ちや困惑を顔に乗せながらも、最後にはこの考えを受け容れてくれた。自身の命を護りきれる自信があるならば、よしとすると。思い上がりを承知で言うならば、自分を、自分の言葉と意思と力を、信頼してくれたのだ。
 ――一瞬、小さな違和感を感じ、セオは眉をひそめた。今、仲間のことを考えた時に、なにか妙な感覚を覚えたのだ。『仲間たち』と考えた時に、その一人一人の情報――顔立ち、性格、言動、能力、自分に対する想いとその表し方、そういったことが完全に想起されなかった気がする。
 人にもよるだろうが、セオは脳内であれこれ考え事をする時、事象を思い浮かべると同時に自然とそれにまつわる諸々の情報が引き出される。脳内に詰め込まれた情報を引き出してあれこれいじることになるので、否が応でも必要なこと以外の余分な情報も漏れ出てきてしまうのだ。
 要はある人のことをちらりとでも思い浮かべたなら自然とその人にまつわる様々な情報も脳裏に思い浮かぶのだが、それが今はなかった気がする。だからなんだ、と言われると返す言葉がないが、それでも違和感はぬぐえない。だって、自分にとってなにより大切な仲間たちのことなのに――
『ひきかえせ』
「!」
 唐突に脳裏に響いた言葉に、セオは小さく体を震わせて足を止める。
 自身の気配をできる限り抑え、感覚器官に全神経を集中させて周囲の探査を試みる。セオの感覚はお世辞にも鋭いものとはいえないが、それでも今の言葉が、明らかに尋常なものではないのはわかる。空気を震わせることなく唐突に、セオの脳裏に直接、かつはっきり強烈に、『ひきかえせ』という言葉が響いたのだ。
 周囲に生物の気配はない。魔物の類も今は近くにいる気はしない。となると遠距離念話の類かとも思うが、それよりも一番それらしく見えるのは、通路の両脇にある面の浮き彫りだ。この遺跡を主に形作っている碧緑色の石材と同じ色の、だが一見しただけでも気づくほど目立つ細工。今通っている通路の両脇には、それがずらりと、頭上に浮かべたレミーラの光が届くより先まで、えんえんと並び立っている。
 人面を戯画化したこの浮き彫りの目の部分が、さっき声が響いた時に、妖しく光ったのだ。普通に考えるなら、魔道具による罠。だが、体内に心気を巡らせ身体状況を精査しても、異常を与えられた気配はまるでない。ならば、単なる威圧目的に作られたものだろうか? いや、曲がりなりにも神竜による試練に、そんな意味のないものがあるとは思えない。ただでさえここまで出てくる魔物の強さが、明らかに抑えられていることに不審を感じているのに。
 ならば、どうする。
 しばし黙考するも、結局セオは再度歩みを先に勧めた。できることならこの浮き彫りの仕組みを精査したいところだが、気配を読み取る程度ならともかく、罠を精査する能力も魔力機構を精査する能力もセオは持ち合わせていない。せいぜい注意しながら先に進むしかない、と考えたのだ。
 ――そして数歩先に進むや、また声がする。
『ひきかえした方がいいぞ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
 繰り返し繰り返し、脳内に響く言葉。一応言葉が響くたびに足を止め、身体状況を調べ直しているのだが、変化はまるで見られない。まったく意味のない、ただのこけおどしとしか思えない仕掛けが、ひたすらにどこまでも続く。
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
 奇妙だ。なんの意味があるのだろう。自分の身体に変調は感じられない。精神にも同じく――ただ、変調した精神が自身の異常を感じ取るのは難しいだろうから、確信は持てないが。少なくとも、この声になにか悪影響を受けた、という感覚はない。
 なにかあるはず、とは思うのだが。これまで自分がこの声に受けた影響から考えると、本当に単なるこけおどしとしか言えなくなってしまう。神竜の創った試練がそんなくだらないもののはずはないのに。なにかが絶対にあるはずなのに――
 思い悩みながら歩を進めていると、ふと脳裏に考えが浮かんだ。
 この声自体には、本当に意味がないのかもしれない。けれど、明らかに魔力による仕掛けが施されているあの浮き彫りとえんえんと続くこの細い通路――この配置≠ノ、意味があるということはないだろうか。
 要は魔法陣と一緒だ。法則に則り、機構を利用して大きな効力を導き出す。神竜というのはそもそももう存在していない神だ。その力の一片までも、あるいは分解され消滅し、あるいは変質して他者に受け継がれた存在なのだ。それなのにこのランシールの試練になんら影響がないというのは、最初に注ぎ込まれた力がそれだけ大きかったということも無論あるのだろうが、遺跡内のこういった諸物の配置や構造が、魔力を循環させ効率よく、かつ永続的に運用できるようにしているのかもしれない。
 とりあえずの結論を出して、セオは心中に偏りがちだった集中力を、周囲の警戒にと振り分け直す。そしてさらに先へと進む。周囲の気配を探りながら、先へ、先へ――
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
 ひたすらに繰り返される帰還を促す言葉。狭く先の見えない通廊で、無限に繰り返されるかのごとく続く無機質な声は、人によっては不快、あるいは苦痛に感じるかもしれない。
 セオには正直、そんな余裕はなかったが。なにが出てくるか、と警戒する感情が先に立ち、自身の感情を鑑みるだけの精神的資源が――
「!」
 セオはばっとゾンビキラーとドラゴンシールドを構えた。レミーラで照らし出された範囲内に、人影を見つけたのだ。
 それは鉄仮面と魔法の鎧で防備を固めた、いかにも筋骨逞しそうな戦士だった。ドラゴンシールドとバトルアックスを両手に構え、どっしりと大地に根差した気配すら感じさせる自然体でこちらと向き合っている。それはこれまで何度も向き合った、この上なく頑健で強固な、古強者と呼ぶにふさわしい姿で――
「やあ、セオ」
 面頬を押し上げてそう笑ったラグの形をした相手に、セオは数瞬、息が止まるのを感じた。

「でぇやっ!」
「っのっ! ……っ……」
 至近距離に飛び込んで喉を狙ってアサシンダガーを振るったフォルデに、レウは全力で頭突きを放ってくる。勢い任せで、反動や返し技を食らうのをまるで考えていないその一撃は、逆に見事な返し技になってフォルデの脳を揺らす。
 それでも必死に短剣を振るい、喉に一撃を食らわせかけたが、自身脳が揺れた様子でふらつきながらもわずかに空いた間合いからレウも剣をわき腹に突きつけてくる。一瞬の膠着状態が訪れた隙に、見守っていたラグが声を上げた。
「そこまで! 引き分けだ。二人とも、頭を冷やして休んでいた方がいい」
「ほれ、水と濡れ布巾。見たところ脳の内部に異常はないが、それでも相当の激戦だったからな、少し体を休めろ」
「……はぁーい……」
「っ……わぁったよ」
 言われるままに、ロンに手渡された水をゆっくり飲み、草原に寝転がって濡れ布巾を頭に乗せる。ひんやりと水気を含んだ感触が、熱く晴れ上がった頭に心地よかった。
 しばし二人揃って黙って寝転がっていたが、ふいにレウが口を開く。
「……あのさぁー」
「なんだよ」
「ごめんな、さっき。なんか、頭に血ぃ昇っちゃって」
「は?」
 フォルデは仰天し、思わず体を起こした。濡れ付近がぽとりと太腿の上に落ちるも、フォルデは勢い込んでレウに訊ねる。
「なんだそりゃ……今、なんつった」
「え? だから、ごめんなって。なんか、すげー頭がかっかきちゃったっていうか……なんていうかさ、フォルデと稽古してるのに、なんか知らない人と戦ってるみたいな気分になっちゃって。手加減とか頭からすっ飛んじゃってた、っていうかさ……」
「…………」
 雷に打たれたような衝撃に、フォルデは思わず身を震わせる。そうだ、自分もそうだった。相手はレウで、いつもいつも腹の立つクソガキで、しょっちゅう自分に突っかかってくる、まぁ一応関係でいうなら仲間というくくりに入るだろう、そんな相手で――なのに自分は、まるで敵を倒す時のような気分でこいつと向かい合っていた。
 一挙動で素早く立ち上がり、なにやら話し込んでいる他の仲間たちに声をかけようとする。なにが起きたのか、本当になにか起きているのか、確信があるわけではないが、自分の勘が『これはやばい』と言っている。
「おい! お前ら―――」
 ――その一瞬、ひゅっ、と彼らの姿が消えた気がした。
 自分でもきちんと認識できていたかは疑わしい、刹那の消失のあと、彼らは再び現れて、こちらを振り向く。消失に愕然として、現れたことに安堵しかけ、声をかけ直そうとしてさらなる衝撃に呆然とする。
 全身から冷や汗が噴き出るのを抑える気にもなれない。何度も唾を呑み込み、身を震わせ、必死に恐怖に耐えながら、フォルデは告げた。
「………お前ら、誰だ」

 セオは武器と盾を構えたままの体勢で、しばし静止した。こちらを笑顔で見つめてくるラグの姿をしたものに、無言のまま向き合う。
 相手はバトルアックスを鎧の鉤に掛けて片手を空けて首を傾げ、兜の上から頭を掻いて苦笑し、肩をすくめる。その仕草ひとつひとつが、自分の知っているラグそのもので、凍るように心臓が冷えた。
「まいったな。そんなに警戒されるようなこと、俺なにかしたかい? 仲間にそんな顔されるのは正直寂しいし、なにかしたっていうならできれば教えてほしいんだけどな」
「………あなたが、俺の知っているラグさんではないからです」
 ひりつくほど乾く喉を震わせ、できる限り静かに答えを返す。手足が痺れたように動かず、身体からは力が抜けていくのを必死に抑える。
 目の前のこの人は、自分の仲間であるあの人とは違うのだから。
「え? 弱ったな……俺、そんなに君に嫌われるようなことしたかな?」
「ここが神竜の創った試練の地であり、今俺は試練を受けている最中であること。ラグさんとは俺が試練を受けるため、先ほど別れたばかりであり、この場所にいるはずがないこと。さらに言うならその状況下でラグさんと出会った場合の会話として、あなたの言動は不自然極まりないことなどもありますが、それ以前に」
「それ以前に?」
「……あなたを見た瞬間に、『違う』と、感じた、ので」
 震えそうになる声を、内心で自身を叱咤しつつ懸命に張り上げる。今は自身の惰弱さを見せるべき時ではない、と理性が判断していたからだ。
 ラグの姿をしたものは、「はは」と優しく笑ってセオを見つめる。それだけで萎えそうになるセオの意気に、追い打ちをかけるように笑顔で言った。
「困ったなぁ。俺はそんなに普段と違うかい? 単に思い込みってことはないかな? 君の見てると思い込んでた俺が、本来の俺と違う、とかさ」
「普段のラグさんと……違うように見える、というわけではありません」
「へぇ?」
「むしろ、俺の記憶の中にあるラグさんの姿そのものだ、と思います。言動や立ち居振る舞いも含めて、俺の記憶しているラグさんと完璧に同じ、とすら言えるかもしれません」
「それなのに、君は『違う』と思うのかい?」
 苦笑するラグの姿をしたものに、セオは全身の力を振り絞って対峙しながら告げる。震える手に力を籠め、萎えそうになる足に活を入れ、懸命に、『倒すべき相手』と向き合う。
「記憶の中の姿そのものだから、です。俺がこれまでラグさんと出会った時は、毎日一緒に同じ隊列の中で顔を合わせながら目的地まで歩き続けた時も、船内でそれぞれ別の仕事をしながら食事の時などに顔を合わせた時も、姿が俺の記憶と完全に一致するということはありませんでした。表情、仕草、体調、言動等々、人間というものは日々心も体も変化します。少なくとも記憶の中にある姿そのままということはありえません。俺とは違う存在、違う生物だからです」
「ふむ……」
「けれど、あなたは、俺の記憶の中にあるラグさんの姿と立ち居振る舞いを、そのまま引き出してきたように俺には見えました。だから『違う』と感じ――今この時は、倒すべきとされている相手なのだ、と思ったんです」
「へぇ?」
 ラグの姿をしたものは、あくまで笑顔を崩さない。その表情に、全身の力が抜けていきそうになるのを懸命に引き止める。今この時にそんな真似をするというのは、おそらく命を奪ってくれと言っているのと同義だ。
「あなたが俺の記憶から引き出されてきた存在であるのなら、俺≠ニいう媒体を通した情報しか構成要素として有しえないということになります。そして、厳正に吟味したところ、あなたの姿はまさにそういった存在――他者≠ニいう膨大な情報の広がりを持たない相手と感じられました。つまり、神竜による試練という機構によって俺の記憶から引き出された、おそらくは試練そのものとして配された倒すべき相手=Aであろうと。本当の仲間との違いを見分ける観察眼を試しているのか、自身の論理を信じ過つ者に武器を振るう強靭さを試しているのかはわかりませんが、神竜≠ニいう存在の思考法を想像してみるに、どんな相手だろうと剣を取り打ち倒せる頑強さ――つまり、自分にとってどれだけ大切な相手でも倒し生き延びることができるだけの個としての独立性と戦闘能力を試しているのではないか、と」
「あはは、なるほど。さすがだね、セオ。君はやっぱり、本当に頭がいい」
 ぱん、ぱん、ぱん、と手を打って称賛の意を示しながら、ラグの姿をしたものはゆっくりとセオに近づいてくる。鎧の鉤に掛けていたバトルアックスを再度構え、一歩一歩力強く踏み込みながら。いつでも斬りかかれる、ラグの戦う時の構えそのものの姿で。
「そこまでわかっているんなら、話は早いね。じゃあ、やろうか。俺を倒さなくちゃ試練は越えられないんだから、さ」
「………ごめんなさい」
 セオは小さく頭を下げる。相手が斬りかかってきたとしても反応できるだけの間合いが保たれているうちに。それからラグの姿をしたものに向き直り、すっと体を沈めて構えた。体の重心を落とし、どこから敵が襲ってきても対応できる態勢を整え、真正面から告げる。
「申し訳ないですけれど、それは、できません」
「………ふぅん? どういうことだい?」
「俺は、今は、逃げます」
 言うやセオは全力で床を蹴って走り出した。武器と盾を構えたまま、全速力でラグの姿をしたものの横を駆け抜ける。相手は目を見開き、斧を叩きつけようとしてくるものの、予想通りその能力は姿を模した者とほぼ等しいようで、ラグの反応速度を見越して走る経路を策定していたセオはある程度余裕をもってその斧を潜り抜けることができた。
 ラグの姿をしたものは怒声を上げ追ってくるものの、セオの走る速度の方が早い。ひたすらに奥へ奥へと駆け、距離を離す。
 とたん、死角から空気を切り裂いてドラゴンテイルの鉤爪部分がセオの脳天目掛け飛んできた。これもある程度予期していたセオは、だんっ、と床を蹴って前へ走りながら軌道を横にずらす。
 動きを止めぬまま、角の向こうから現れたフォルデの姿をしたものの横を通り抜けようとするが、当然向こうも簡単に思い通りにさせてはくれなかった。フォルデ同様に鋭い鞭さばきでセオの移動経路を塞ぎ、あるいは鉤爪を引っかけあるいは鞭部分を巻きつけ動きを封じようとしながら、鞭で塞がれていないわずかな隙間に短剣を投げてくる。
 だが、セオはそれもある程度予測していた。フォルデの得意とする戦法だ、わからないわけがない。その攻略法も、何度も稽古しているのだから、当然好むと好まざるとに関わらず、ある程度は把握していた。
 鞭が移動経路を塞いでくるのよりもできる限り速く床を蹴り駆ける。それでもどうしても動きはある程度限定されてしまうので、何本もの短剣が走る先に飛んでくるが、無視して走った。当然、盾の隙間、鎧の隙間を通り抜け、短剣がずぶっ、と肌と肉を裂き体に突き刺さる――が、投擲した短剣は直に振るったものよりどうしても威力が軽くなる。おまけに短剣が放たれるのは予期しているのだ、痛みも体の損傷も、取り返しのつかないほどのものにはならない。鞭が襲いかかるよりも早く、隙間を一瞬で駆け抜けた。
 フォルデの姿をしたものは、即座にこちらを追ってくる。フォルデの圧倒的な素早さと同等の能力を保持しているのなら、当然セオの逃げる速さよりも動きは速いだろう。それを理解しながらもひた走るセオに、フォルデの姿のしたものは怒声を投げつけてきた。
「てめぇっ、なに逃げてんだ、状況わかってんのかっ! 俺らを倒すのが試練なんだぞ、逃げてどうにかなると思ってんのかクソがっ!」
「わかりません。だから、逃げます」
「は……?」
 一瞬相手の気配が困惑に緩んだ。即座にセオは喉の奥に溜めていた言葉を吐き出す。
「獅子の星座に散る火の雨の!=v
 ギラの呪文を発動させると同時に鎧の隠しから毒蛾の粉を包んだ薬包を投げつける。ばぢばぢばぢっ、と鈍い音がして粉が燃え上がり、一瞬通路内に炎の壁を創り出す。
 これは相手に傷を負わせるためのものではない。対人間用の足止め戦法として、セオが個人的に研究していたもののひとつだ。毒蛾の粉は可燃性であり、ギラなどで大きく燃え上がるが、どれだけ広範囲に撒こうとしても量が限られている、たとえ密室であろうとも呪文などよりも炎の層ははるかに薄く、敵に効果的な打撃を与えるのは難しい。
 だが、人間に対して、ある程度密閉された空間で行ったならば、燃え上がり舞い上がった毒塵は、おそろしく効果的に空気中に充満する。燃焼することで性質がある程度変性し、拡散されることで毒蛾の粉の精神を混乱させる性質はある程度薄まるものの、相当数の相手にほぼ回避不可能な神経障害を引き起こすことができる。
 当然後遺症の起こる類の代物でないのは自分で実験済みだ。実験に協力してもらったのも、詳しい研究成果を話したのも、現段階では(まだ完成したとは言いがたいので)ロンだけなため、フォルデの姿をしたものには効果があるのではないかと考え投じた一手だったが、予想に違わずフォルデの姿をしたものが追ってくる足音は消えた。
 つまり、姿を模したものには、おそらく模造対象とほぼ等しい知識しか与えられてはいない。違っているのはこのランシールの試練についての知識の有無くらいだろう。そもそも自分の前に現れたものが、現実の存在ではなくセオの精神に映し出された、記憶を利用した幻像だという可能性も高いが、現実と区別がつかない幻を非現実と捨て置くのはほぼ不可能だ。
 などと考えながら通路を奥へ奥へと走っていると、ふいに、声が聞こえた。
「我、以土行成大爆発――=v
「っ!」
 相手の姿も見えていないこの状況では、回避も詠唱妨害も不可能と判断し、セオが耐衝撃体勢を取るのとほぼ同時に、最後の呪が唱えられる。
「――滅!=v
 とたん、周囲の空間そのものが吹き飛んだかのような、光と熱と爆風の乱打がやってきた。熱風が肌を焼き、衝撃が骨を砕き、爆熱が肉体を徹底的に打ちのめす。神経に激痛が走り、肉体そのものに致命的とは言わずとも多大な損傷が与えられたのがわかる。
 ――と同時に、セオは疾駆した。
「っ! 我、以木行成大閃熱――=v
「埃の低迷する道路の上に、彼らは憂鬱の日ざしを見る!=v
 セオの至近距離から詠じたマホトーンの呪文に、相手であるロンの姿をしたものは沈黙した。別にマホトーンが距離を縮めれば効果が強まるという類の特性を持っているわけではない。だが、呪文使いにここまで――それこそ剣を振るうこともままならないほど近くまで接近し、腕に手を触れているということは、確実に相手がなにか呪文を唱える前に倒せる、と肉体でもって戦う職業の側が主張しているに等しい。
 たとえロンの姿をしたものが武闘家の技術と能力を維持していようとも、現在のレベルを上げた回数が賢者の側が圧倒的に勝っている以上、武闘家の技術を現在のレベルに等しいほど有しているとは言えない。それに、セオもこれまでにロンに稽古を、特に武器を使えない間合いや場合の戦闘術、捕縛術などの稽古をつけてもらったことは一度や二度ではないし、その後自分なりに鍛錬もしているのだ。
 この距離ならば、ロンの姿をしたものがなにをしてこようと、一挙動を起こすより早く獲れる。その主張は間違いなく伝わったようで、ロンは苦笑し、ぱんぱん、と手を叩いた後大仰な仕草で肩をすくめた。
「やれやれ、見事だセオ。隠形結界で気配も姿も消していたのに、よく俺の居場所がわかったな?」
「……隠形結界の向こうの気配を感知する訓練は、ロンさんに何度も手伝ってもらっていましたから」
「ああなるほど、ジパングの後……というかルザミの後、同じ手に二度も引っかからないように、というので全員を巻き込んで何度も稽古をしていたな、確かに。やれやれ、遠距離から隠れて呪文を連打すれば勝てる可能性はあると踏んだんだが、こうもあっさり迷いなく間合いを詰められるとは」
「…………」
「どうした、セオ。殺らんのか? 今の状態ならお前の方が間違いなく先にこちらを獲れるぞ。それとも、いつでも勝てる状況を武器に、こちらになにか質問でもしてくるつもりかな?」
「――いいえ。あなたに聞くべきことは、なにもありません」
 きっぱり首を振るセオに、ロンの姿をしたものは、目を瞬かせながら首を傾げてみせる。
「ほう? 神竜の思うところだの、この試練に打ち勝つ、あるいは抜け出す方法だの、聞きたいことはいくらでもあるのじゃないか?」
「そういったことはあなたに聞いたところで答えが返ってくる可能性はきわめて低いですし、聞かずとも大体のところは理解しています。それに、俺は神竜の試練を素直に受けるつもりはまったくありません」
「………ほう?」
 ロンの姿をしたものの目がぎらりと光ったが、セオは気にせず考えていたことを告げた。向こうがなにを考えていたとしても、自分の為すことは変わらない。
「俺は、この試練が親しい者たちを倒す強さを量るものだと知った時、試練に対する拒絶の感情や苦痛を覚えると同時に、『それならばまともに試練を受けなければならない理由はない』と考えました。この試練が必要ないとかそういうこと以前に、仲間のみなさんを倒す、殺すということは俺にとって過大な負荷を溜め込むことですから、たとえ偽物相手だとしても、そんな負荷を溜め込んで旅程に支障をきたすよりは、それ以外の方法で障害を越えるよう考えるべきだと思いました。それに――」
「それに?」
「俺は神竜とその力を、従うべきものではなくいつか越えるべき障害とみなしていますから、そんな存在が課す試練を唯々諾々と受けるより、俺なりのやり方でその威をすり抜けられるか試す方が、試行として有意義だと考えたんです」
「―――それはそれは………」
 言いながらロンの姿をしたものが一気に魔力を高める。魔力なり呪文なり暴発をさせるつもりか、おそらくは自爆覚悟でもろともに自分を倒すつもりだろう。
 だが、それもセオにとっては予想していた動きのひとつだった。相手に気づかれないように手の中に握り込んでいた斑蜘蛛糸で、素早く口、喉、腕、足を縛りつける。
 斑蜘蛛糸は普通に投げつければ手足に絡みつき動きを阻害する程度の効果しかない。ひどくべたつく扱いが難しい糸なので普通ならそれしかまともに使う方法がないのだが、あらかじめ魔力を込めて調合した薬湯によって薄く層を作り、手にも同じ魔力で層を作ったならば、縄よりもはるかに強力で、使用者の意に従い素早く動く拘束具として使用できるのだ。
 これは自分たちが考えた方法ではなく、以前のダーマで賢者が創り出した技術なのだが、サマンオサの経験を経て対人無力化技術は多く持っておくに越したことはないと考えた自分たちは、全員斑蜘蛛糸を買い込んで、いくつも実験と失敗を繰り返しつつも、自分たちの道具として完成させたのだ。ラグだけは戦士という職業上魔力がないせいで使えなかったものの、他の仲間たちは全員複数所持している。
 ――そして、人間の呪文使いには、これは特に有効に働く。体内に魔力を回す要所を拘束することで、動きを封じながら呪文の発動についても阻害することができるのだ。
 ロンの姿をしたものは、ばたりとその場に倒れ、もがき始めるも、セオはそれを観察することなく走り出した。ロンと同等の能力を有する者なら、いくらでも抜け出し方はあるが――たぶん、この試練は一度に出てくる障害は(自然に生息している魔物を除けば)一度にひとつ。そうでなければさっき長々会話をしている間にラグやフォルデの姿をしたものが追いついてきたはずだ。それなら、ロンの姿をしたものが拘束を抜け出す前に次の試練がやってくるだろう。
 というセオの考えは、半ば正解で半ば間違っていた。セオがその場を駆け去り奥へ進むことしばし、通路は行き止まりになっており、今まで同様横側に浮き彫りにされた面が、今までとは違う言葉を発したのだ。
『お前の意思の強さだけは認めよう。だが、むこうみずなだけでは勇気があるとは言えぬ。時に、人の言葉に従うことも、また勇気なのじゃ』
「………?」
 セオはわずかに眉をひそめる。試練を越えた者に対する神竜の言葉としては、かなり違和感があったからだ。要はこれは蛮勇を諫める言葉なのだろうが、自分が最強だからという理由で天界のすべての神々に喧嘩を売った神が言う台詞とは思えない。
 となると、この試練は、神竜の創ったものそのままではなく、誰か他の存在が手を加えているのかもしれない。神々のうちの誰かなり、強い力を持つ賢者なりが。どういう方向性で手を加えたのかはわからないし、できれば神竜が持っていた力の情報をできるだけ集めたかったセオとしては、正直あまり喜ばしいとは思えない事実ではあるのだが。
 それに、出てきた仲間たちが三人だけで、レウが出てこなかったというのも気にかかる。セオにとって、レウが他の仲間たちといろいろな意味で違う位置にいる存在なのは確かだが、大切な仲間であるという事実には違いがない。ここに来るまでにいくつも分かれ道はあったからそちらで出てくる可能性もあったが、セオはどちらかというとレウの持つ性質がこの場≠ノとって不適切なせいなのじゃないかと思った。
 レウの生まれた家系であるスー族の中の一部族、メイロデンノグサは神竜の力を希釈するため、スーの祖霊神ワランカによって心身と魂を調整された一族だ。特に、レウはサドンデスの名を冠されるほど神竜の力との感応に高い素質を持っているらしい。神竜の力の残滓が解放された時、真っ先に獲物とすべく襲いかかるほどメイロデンノグサ部族は神竜の力に馴染んでいたと聞いている。ならば基本組成が神竜の力に拠るこの場≠ノ呼び出すのは不適切だ、なにか問題が起きるかもしれない、と真っ当な判断力を持つ者ならばそう考えるだろう。
 つまりこの試練には、ガルナの塔で出会った『サトリ』のような人工知性体が存在している可能性が高い。この行き止まりで試練が終わりというわけでもないだろうし、次に課される試練は自分が反則で潜り抜けてきた分を加味してより苛烈なものになるはず。油断はできない、と小さくうなずいて、一応行き止まりの先に道がないかセオなりに調べてみたのち、踵を返す。
 また仲間たちの幻影が出てくるかもしれない、と身構えながら通路を駆け抜けたが、おそらくは幸いなことに先刻のような仲間たちの幻影は現れなかった。少しの安堵と再度の緊張を感じながら、また新たな道へと入る。
 さっきの道と同じように、いくつもの面の浮き彫りが果てしなく思えるほど並び立っている。セオは一度足を止め、数度深呼吸をした。心身の気の流れをすっきりとさせてから、注意深く歩を進める。
 浮き彫りにされた面は、先程と同じ言葉を同じように発する。脳裏に直接響かされているので、本当にこの面が言葉を発しているのかは(機を合わせて目の部分が輝いているのだから普通に考えてこの面を使った仕掛けなのだろうとは思うものの)わからないのだが。
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
『ひきかえせ』
 ひたすらに続く言葉の反復。セオとしてはやはり、この言葉もそれを発する浮き彫りも、配置によって効率よく力を発揮させるためのもののように思える。セオの肉体や精神を直接損なっているのかどうか、一応声が聞こえるたびに確認しているが、そんな気配はないし。もちろんさっき自分が見たような仲間たちの幻影は、存在そのものが精神を損なうものだろうが――
「………、……?」
 セオはふと、足を止めた。自分の思考に、奇妙な違和感を感じたのだ。
 仲間たちの幻影は、存在自体がセオの精神を損なう。それは間違いのないことだ、とセオ自身思う。自分の存在を許してくれた、自分がここにいていいと思わせてくれた、そして自分にも人を救える手があるのだと教えてくれた――そんな相手が自分を殺そうとやってくるのなら、たとえそれが本物ではないとよくわかっていても、おそらく大きく精神力を削がれていたはずだ。
 だが、なんというか、先刻自分が仲間たちの幻影と接した時の自分の振る舞いは、確かに強い衝撃を受けてはいたものの、やや苦痛が軽かったような気もしないではない。苦しみながらも、自分は大過なく戦闘行動を取ることができた。取り乱さず、作戦通りに自分がやるべきと考えた行動を思い通りに取ることができたのだ。自分にしては、それはなんというか、奇妙というか、仲間たちに抱いている感情にそぐわないような――
 そこまで考えて、あることに気づき、セオは体中からざっ、と血の気を引かせた。
 仲間たちの名前が、思い出せない。
 ばっばっと周囲を見やる。そこには誰もいない。ただどこまでも続く面の浮き彫りと暗い通路があるだけ。なにかを仕掛けてくるような相手はどこにもいない。
 なのに自分は仲間たちの名前が一人も思い出せない。あんなに大切な相手だったのに。世界のなにより護りたい存在だったのに。
 そうか、あれは――仲間たちの幻影は前振りであると同時に、罠だったのだ。大切な相手を殺すという過程を経ながら、試練を受ける者からその人を『大切に思う感情』を削いでいく。幻影であることを承知しながらも大切な人を殺す、という行為そのものがその人に対する感情を揺るがすものだ。そんな気づかれにくい状況を作り出しながら、魔法的に大切な相手に対する感情を消し去っていく。記憶と、それに伴う感情、共に経験を積み重ねたことによる心の変化、そういうものを消し、最初から『大切な人』など存在しなかったかのような精神状態に追い込む。
 その上で、神竜は、おそらくは―――
「なにをしている、セオ」
「!」
 セオは弾かれたように振り向いた。低く発された声の源に立っているのは、一人の男だ。
 筋骨たくましい肢体の上に、高名な名匠の手になるものとおぼしき光を照り返して輝く鎧をまとっている。腰には剣。こちらも名剣であることが鞘の上からもうかがい知れるものだ。
 顔に無精髭を生やし、頭は蓬髪を乱暴に切ったものであろう乱れた黒い短髪で覆っている。瞳は蒼。厳しくしかめられたそれが、鋭い意志をもってこちらを睥睨している。引き結ばれた唇からは、今にも叱責の言葉が飛び出してきそうだ。
 知っている。今まで何度も会ったことがある。それこそ生まれた頃から何度も何度も会っている。この男は。
「………父、さん」
 低く呟いた自分の声は、他人のものであるかのように聞き慣れず、歪んで聞こえた。

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