恋する人形6
「――アリーナ」
 おれは操舵室で隠れるようにしてしゃがみこんでいたアリーナに、声をかけた。アリーナはびくんと震えておれの方を見る。
「……ユーリル」
 震える声で、顔を泣きそうに歪めて赤くして、アリーナはおれの名前を呼んだ。
 可愛いな、と思った。素直に。おれはクリフトじゃないけど、他の男から見たってやっぱりアリーナはすごく可愛い。
「お前、おれらの話盗み聞きしてたろ」
「…………」
「ったく、しょうがないヤツ」
 おれは苦笑しながらアリーナの頭を撫でる。柔らかいのに弾力のある髪の感触が、すごく気持ちよかった。
 と、アリーナの瞳にじわぁと涙が浮かび、ぽろぽろっと幾粒かこぼれ落ちた。おれは慌てて指でアリーナの頬を拭う。
「うわ、もう泣くなよ……ああいやいいや、泣いていい。普段泣かないお前が泣いてんだもんな……」
 おれはなんだかひどく切ない気分でアリーナの涙を拭い続けた。正直、黙ったまま、じっとおれを見ながら、ひたすらにぽろぽろと涙を流すアリーナの姿は、男心にずきゅんときた。
 だけど――やっぱりおれがこいつを抱きしめて慰めることは、できないんだ。
「……ユーリル」
「ん?」
 おれはアリーナと視線を合わせて問いかける。
「ユーリルは、マーニャが好きなの?」
「……ああ」
 おれはうなずいた。
「ほとんど初めて会った時から、ずっと、ずっと好きだったよ」
 こんなことをマーニャ以外の人間に言うのは初めてだ、と頭のどこかで思った。別に胸に秘めるのが好きってわけじゃないけど、なんとなく言う気になれなくて。
 でも、こいつには。おれを好きだといってくれたこいつには、知っておいて欲しいと思ったんだ。言わなくちゃとか、そういうことじゃなくて。
「……マーニャの、どんなところが好きなのか、聞いても、いい?」
 う。こんな泣きながらおれを見上げてくるアリーナに言うことじゃないと思うんだが。
 でも、言わないわけにはいかないか。おれはじっとアリーナを見つめて言った。
「アリーナ。おれが生まれ育った村を出た時の話、覚えてるか?」
「……ええ」
 アリーナは真剣な顔になってうなずく。
「村が、おれにとって世界のすべてだった村が滅ぼされて、誰もいなくなって。おれが思ったのは悔しいとか憎いとか仇をとらなくちゃとかいうことじゃなくて――なーんにもなくなっちまったんだなって想いだったんだ。虚無感、っていうのかな。寂しいとかそういうのともちょっと違う、世界に自分ただ一人、みたいな。なにをすればいいのかわからなくて、そもそもおれが生きていていいのかすらわからなくて、ふらふらブランカに来て、トンネルを通り抜けてエンドールに来て……そこで、ミネアとマーニャに会ったんだ」
「………うん」
 今思い出しても、たまらなく胸が痛くなる。なにもなくなった時の気持ち、一人だけで生きた時の気持ち――そして、世界と和解した時の気持ち。
「おれはあの二人に会って、一緒に行こうって言われて、最初は戸惑ったんだ。なんだろうこの人たち、って。勇者だなんだっていうのもわけわかんなかったし――なにより、そんなことのために村の奴らは自分から死んだのかって思うと――はらわたが煮えくり返った」
「…………」
「でも、そんなおれをマーニャは、近所のガキみたいに扱ってくれてさ。おれが勇者だろうがなんだろうがそれがなんだって顔して。一緒に遊んで酒飲んで喋って、戦って旅して。……そして、おれが寂しい時に、死にたいくらい苦しくて苦しくてしょうがない時に、一晩中そばにいて、抱きしめて――抱かせて、くれたんだ」
「…………」
「あいつとセックスした時、おれは生まれて初めて女の人を、心からきれいだって思った。なにも着てない女が男にとっては一番きれいだっていう、父さんの言葉を実感したんだ。……初めての、そして唯一の女だからっていう思い込みが入ってないとは言わない。けど、俺には――」
「あの……ユーリル、ちょっといい?」
 アリーナがおずおずと手を上げた。いつの間にか涙は引っ込んでいる。
「……なんだ?」
「……せっくすって、なに?」
「………はぁ?」
 おれは唖然とした。なんで知らないんだ? そりゃおれだってマーニャと会うまでは知らなかったけど、おれと違ってアリーナはお姫様で――
 ……だからなのか、な。
「あのな――」
 おれの説明に、アリーナは大きなショックを受けたようだった。
「そ……そ、そんなこと、するの? しなきゃ駄目なの?」
「駄目ってことはないだろうけど……ガキ作るのにはしなきゃ駄目だな」
 言いながらおれは呆れていた。サントハイムの教育係って性教育とかしなかったのかよ(あとで聞いた話になるんだけど、王侯貴族のご令嬢というのは結婚するまでは処女でいてもらわなくちゃ困るためできるだけウブウブのネンネちゃんに純粋培養で育てるらしい。相手の男にはプロ相手に経験を積ませるのが習慣だからそれでいいんだってさ。阿呆らしい話だよな)。
 アリーナは相当衝撃を受けた様子で、ふらふらとしゃがみこむ。
「信じられない……そんなこと、するの? したいと思うものなの?」
「……他は知らないけど、おれはしたい。愛にはいらないかもしれないけど、恋には必要だってマーニャ言ってたし。……恋なんかしなくてもセックスはできる、とも言ってたけどさ」
 にくったらしいことに。
 アリーナはしゃがみこみながら、小さく泣きじゃくりながら言う。
「わたし、そんなのいや。したくない。気持ち悪い。これってわたしが子供だからなの? だからユーリルはわたしじゃなくてマーニャが好きなの? いや。いや。いやいやいや……」
「……アリーナ」
 おれは正直困って、泣きじゃくるアリーナを見つめた。泣いてる女を宥めるなんて、おれは一回もしたことない。しかもその女はおれが好きで、おれの好きな女に複雑な想いを持ってる。
 どうしろってんだよー、と少しうろたえたが、すぐに覚悟を決めた。正しいやり方がどうであれ、ここにはおれしかいないんだ。それならおれなりの精一杯でぶつかるしかない。
「………アリーナ」
「っ!?」
 おれはそっと、アリーナの髪に触れた。
「な……に?」
 震える声で問うアリーナに答えず、しばし髪を撫でる。それからそっと耳に触れ、頬に触れ、顎に触れ――
「ユ……ーリル……?」
「アリーナ。こんな風に触られるのは、嫌か?」
 そう訊ねると、アリーナは顔を赤らめてふるふると首を振った。
「嫌じゃない……けど……」
「アリーナ、おれはな。好きな人にはいっぱい触りたくなるよ。いっぱい近づいて、そばにいて、めいっぱい好きだって表したくなる」
「…………」
「おれにはお前が気持ち悪いと思う理由はよくわからないけど……お前がおれに触りたいと思えないんだったら、おれはたぶんお前の相手じゃないんだよ」
「………そんな」
 アリーナはまた泣きそうに顔を歪める。ああ、おれはお前にそんな顔させたくないのに。
 おれにとってお前は、大切な友達なんだから。
「わたし、本当にユーリルが好きなのよ。ずっと一緒にいたいって、稽古とかお喋りとかいろんなことしながらずーっとそばにいたいって思ったの、ユーリルが初めてなの……」
「……そっか」
 その言葉に嘘はないと思う。……つまりアリーナはクリフトとかにはそう思ってなかったってことだろうか。いや、そばにいるのが当然だったんだな。
 そんなみんながそばにいるのが当然だったこいつが、今初めて他人を、おれのことをほしいと言っている。
「……でも、おれもな。ずっと一緒にいたい、いろんなことしながらずっとそばにいたいって思ったのは、ほしいって思ったのは――マーニャが初めてなんだよ」
「………そう、なんだ」
 アリーナは小さく呟いた。たまらなく寂しそうに。
 その表情を見ておれも辛くなる――だけど、ぎゅっと奥歯を噛み締めて耐えた。
 アリーナが泣くのはいやだ。アリーナには幸せになってほしいと思う。
 だけど、幸せにしてやりたいと思う相手を間違えるのは、絶対にやっちゃいけないことだと全身の力を振り絞って耐えたんだ。
「……アリーナ。お前はなんで、おれが好きだって思ったんだ?」
 おれは訊ねてみた。実際不思議だった。この天然王女がどうして恋なんてものを自覚したのか。しかもおれに。
 アリーナは少し戸惑ったような顔をして、それから優しく、以前みたいな輝かしい笑顔で笑った。
「ユーリルだけだったから」
「……なにが?」
「わたしのこと、そのまんまでいいよって、言ってくれたの。王女としてふさわしくなくても、おてんばでも礼儀がなってなくても武術が大好きでも、それでいいって、そのまんまのわたしでいいって言ってくれたの」
「は? だってそんなの当たり前だろ?」
 どんなに王女としてふさわしくなかろうとアリーナはアリーナだし、第一それで十分いい感じなんだからいいじゃん。
 そう言うと、アリーナは少し泣き笑いに笑った。
「わたしには当たり前じゃなかった。わたしはずっと、わたしである前にサントハイムの王女で。それで仕方ないと思ってきた。……だけどユーリルは。わたしの好きなあなたは――王女でもなんでもない、ただのアリーナを見つけてくれて、それでいいって、そのまんまで好きだよって言ってくれたの……」
「……アリーナ………」
 おれはたまらなくなって、アリーナに手を伸ばしかけ、途中で止めて宙に手をさまよわせた。こいつのことを選べもしないおれが、こいつに触れちゃいけないんじゃないかと思ったからだ。
 アリーナは、そんなおれを見て涙を一粒こぼしながら笑って、とんと地面を蹴っておれの腕の中に飛び込んできた。
「ア……アリーナ!?」
「ユーリル、わたしのこと嫌い?」
「そんなわけ……ないだろ」
「だったら、ぎゅってして。……好きな人へのぎゅ≠カゃなくていいから」
「…………………」
 おれは迷ったけど、結局ええい! とばかりにアリーナの体を抱き寄せた。こいつの想いに応えてやれないんだから、せめてこれぐらいしないと可哀想じゃないかと思ったし――こいつの想いに少しでも応えてやりたいって思ったんだ、ぶっちゃけた話。
「………………」
「………………」
 しばらく互いに抱きしめあったまま無言で静止する。互いの心臓の鼓動が伝わってくる。アリーナの鼓動は、普段のおれの鼓動より、少し……いや、わりと早かった。
 アリーナの体は筋肉が引き締まっていて柔らかさとか全然ないけど、暖かくてしなやかで抱き心地がよかった。おれの胸の下の方にアリーナの、見かけより大きな胸がぎゅっと押し付けられている。
 ……本当はそんなことじゃいけないんだろうけど、ちょっと、いやだいぶドキドキした。おれが好きなのはマーニャで、それは絶対変わらないけど、アリーナの体に触れて気持ちいいと思うしドキドキもしてしまう。それが男のサガってヤツなんだとしたら、男って全員相当のバカだ。
「……ユーリル」
「……なんだ?」
「……ユーリルも、ドキドキしてる?」
「……まぁ」
「……わたしが好きなわけじゃ、ないのに?」
「……そーだよな。本当はドキドキしちゃいけないんだろうけど、おれはお前の体に触ってドキドキしてる」
「なんで?」
「……お前のこと可愛いって思うし、友達としてはめちゃくちゃ好きだから、だと思う。……マーニャが好きじゃなかったら、お前のこと恋人にしてただろうってくらいには」
「………そっか」
 アリーナはすぐ下からおれの顔を見上げて、少し赤らんだ顔でおれを見上げて、囁いた。
「まだ、好きでいても、いい?」
「え?」
「他の人を好きになれるまで、ユーリルのこと、好きでいてもいい?」
「え………だって」
 戸惑うおれに、アリーナはじっと熱っぽい視線でおれを見つめて言う。
「ユーリルがマーニャのことを大好きなのはわかってるけど、わたしだって本当にユーリルのことが好きなんだもの。そう簡単に忘れたり、他の人を好きになったりできない」
「で、でもさ。はっきり言って望みないぜ?」
「わかってる。でも、いいの」
 アリーナはおれを見上げながら、にこっと、はにかみと喜びと切なさと寂しさを等分に混ぜ込んだような優しい笑みを浮かべた。
「ユーリルは他の人を好きでも、わたしはユーリルが好きなの。それはわたしの気持ちだから……だから、いいの。どんなに苦しくても、それがなくなるまでは抱えていたいの」
「……………………」
 おれは思わずぎゅっと拳を握り締めた。いじらしいこと言いやがって。可愛いじゃないかちくしょう。
 だけど、おれは、やっぱり。
「……お前さ」
「?」
「触れたい、触ってほしいって思う相手ができたら、そういう風に見上げながら笑ってみな。絶対一発で落ちるから」
「…………そうなの?」
「そう。そんな顔して見上げながらキスして、って言えば一発」
「…………」
 アリーナは目を潤ませながらおれを見上げ、さっきと同じ、でも少し切なさの分量を増した笑みを浮かべ、少し泣きそうな顔で言った。
「……キスして」
「……………………〜〜〜〜」
 おれは思わずぎゅうっとアリーナの肩を握り締めた。このやろ、今マジで落ちそうになったぞ。
「……そーいうことは触ってほしいって思う奴ができてから言えってば」
「……キスしてほしいなって、思ったから言っただけよ?」
「……触ってほしいっていうのはセックスしたいっていうことだぞ。わかってんのか」
「……わからない。わたし、さっきユーリルが言ったみたいなことしたいとは思わないけど……気持ち悪いって思うけど……」
 じっとおれを見上げてアリーナは言う。
「ユーリルに触ってもらえたら嬉しいなって思うのは、ほんとよ」
 …………〜〜〜〜〜〜〜〜こいつは〜………。
「おれもガキだけど……お前もたいがいガキだよな」
「え……」
 おれはぐいっ、とアリーナを引き寄せた。アリーナが慌てたように暴れようとするけど俺はそれより前にアリーナに唇を近づけ――
 ちゅっ、と、額にキスをした。
「……………………」
 あっけに取られたような顔で見つめるアリーナに、おれはにっと笑って言ってやる。
「唇へのキスは、お互い好きだって言い合える奴にしてもらえよ」
「…………いい」
「は?」
 アリーナは涙を浮かべて、でも笑いながら首を振る。
 ……どうして泣くんだろう。おれはそんなに悪いことをしたんだろうか。あれは――なんの涙なんだろう。
「わたしにはこれでいい。ずっと、忘れない。ユーリルがわたしにキスしてくれたこと」
「……アリーナ」
「わたし、一生ユーリル以外好きにならない」
「……アリーナ―――」
「これから先誰かを好きになることがあるとしても――その人もきっと、ユーリルに似てるの」
「アリーナ」
「わたしね――わたしね、ユーリルのことが――大好きよ」
 ぽろ、ぽろぽろ、と涙をこぼしながら、そう言ってにこっと、たまらなくきれいに笑うアリーナ――
 おれはぎゅっと唇を噛み締めて、拳を握り締めて、一生のうちでこれくらい我慢をしたことはないと思うほど我慢をしてそっとアリーナから体を離し、にっと笑ってやった。
「ありがとな」

 おれは操舵室を出て、早足でマーニャの部屋へ向かった。船の中では他に一人になれる場所はない。
 おれは部屋の前で数度深呼吸をして、扉を叩いた。
「……マーニャ。いるんだろ」
 答えはない。
「……入るぞ」
 マーニャは部屋の扉に鍵をかけない。面倒だからだと自分では言っているが、おれは違うと思っている。
 誰か、夜中に一人起きてたまらなく寂しい奴がいたらいつでも入ってこれるように、いつでも鍵を開けておくのじゃないかと思うのだ。
 おれは、マーニャのそういうところが、たまらなく好きだ。
 部屋の中に入ると、ベッドに座っていたマーニャが胡乱げな視線を向けてくる。酒の匂いがぷぅんとした。
「……飲んでんのか?」
「寝酒程度よ。……第一あんたには別に関係ないでしょ」
「関係、なくはないだろ」
「ないわよ」
「あるよ」
 おれとマーニャはしばし睨みあった。
 おれはどこに座るか迷ったけど、結局マーニャの目の前の床の上にあぐらをかいた。マーニャの部屋はベッド以外に座る場所はないし、並んで話をするのも今はなんか違う気がしたからだ。
「マーニャ」
「………なによ」
「おれ、アリーナに好きだって言われた。大好きだって」
「…………………」
 マーニャはしばらく黙っておれを見つめ、それからにっこりと笑った。
「よかったじゃない! あんな可愛い子に好きだって言われるなんて男冥利に尽きるってもんでしょー? まークリフトは気の毒だけどやっぱり好き合える子たちで付き合ったほうが――」
「でも、断った。……おれの好きなのは、マーニャだって」
「……………………」
 マーニャは一瞬息を止めて、それから憤怒の形相でおれを見た。顔を想いきり歪めて、かなり怖い。
「あんたね……馬鹿な真似しないでよ」
「なにが馬鹿だよ」
「馬鹿じゃないの! あんな可愛くていい子なお姫様に好きだって言われたのよ、だったらそれでいいじゃないの! 断るのはあんたの勝手だけどあたしをダシにしないでよ!」
「ダシとか、そんなんじゃない。そう思ったから言っただけだ。……おれは、マーニャが好きだ」
 マーニャは一瞬泣きそうな顔をして、それからはっと笑った。……マーニャはきれいだから、そういう風に嘲るような顔をすると本当にめちゃくちゃ馬鹿にされてる気分になる。
「ふざけないでよ、だからなに? あたしにも好きになってほしいって? 何度も何度も言ってるでしょ、あんたみたいなガキあたしには物足りないの! 好きとか言われても鬱陶しいだけなのよ!」
「わかってる」
「わかってるなら――」
「それでも、おれは、あんたが好きだ。マーニャが好きだ」
「――――ッ!!」
 ぐっとマーニャはおれの胸倉をつかんだ。おれの目の前まで顔を近づけて、きれいな顔を思いきり歪めて喚きたてる。
「だからなに! あんたの好きなんてしょせん紛い物なのよ! 勘違いなの! あんたはアリーナみたいな可愛い子と乳繰り合ってりゃいいのよ!」
「――確かにおれ、アリーナに告白された時、ぐらついたよ」
「―――――」
 マーニャの顔から、表情が消えた。
 呆然、を絵に描いたような、驚愕というのも生易しい顔でおれを見るマーニャに、おれは切なくなりながら言う。
「アリーナのこと可愛いと思ったし、あんな可愛い子が一生おれしか好きにならない、なんて言ってるの聞いた時押し倒したくなった。アリーナとくっついてもいいなって、一瞬思ったよ」
「……じゃあ、そうすればいいじゃないの………」
 ひどくかすれた声で言うマーニャに、おれは首を振る。
「それでも、おれが一番きれいだと思うのは、一番好きでずっと一緒にいたいと思うのは、マーニャなんだ」
「――――!!」
 マーニャはがっくりとその場にくずおれた。ベッドに座ってるから視線は俺より上だったけど。
 おれは少し慌ててマーニャを支え――驚いた。
 マーニャ……泣いてる?
「なんで……あんたはそうなのよ……」
 マーニャはしゃくりあげながら言う。おれはなにがなんだかよくわからなかったけど、とりあえずマーニャをぎゅっと抱きしめた。
 マーニャの髪から、ふわっといい匂いが漂ってくる。柔らかくて、たまらなく優しい感触。
 気持ちいい、と思う。マーニャに触れるのは、たまらなく心地いい。
「なんであんたはそうなの? そんな風に、一途に、ひたむきに、どうして、あたしなんかに……あんたは、もっと……もっとさぁ……」
 泣きじゃくるマーニャ。おれに抱きしめられたまま、抱き返しもせず、うわごとか独り言のようにひたすらに呟いている。
「ただ、あたしは最初だっただけなのに。ただ最初に会ったっていう、ただそれだけなのに。どうしてあんたはそういう風に、真っ直ぐに好きだなんて言えるわけ? あたしは……あたしは、そんなもの、とっくのとうになくしちゃったっていうのに……」
 おれはマーニャがなにを言っているのかさっぱりわからなかったけど、これだけはわかった。
 ここが押しどころだ。
「……マーニャ。さっきのライアンさんの話、覚えてる?」
「……忘れるわけないでしょ、こんなすぐ」
「だよな。……あの人の話聞いて、おれはすごくマーニャに好きだって言いたくなったよ」
「…………」
「そりゃ、おれたちとライアンさんの話は状況もなにもかも違う。だけど、もしかしたら明日相手が死んでしまうかもしれないんだって、そう思ったらくだらないこだわりとかそんなもん捨てて心と体のめいっぱいで好きだって言うしか方法ないなって、言いたいって思ったんだ」
「…………」
「おれは、マーニャがどんなにおれを無視し続けても、嫌いだって言っても、マーニャが好きだ」
「……どうしてよ」
 マーニャがかすれた声で呟く。
「どうしてそんなことが言えるの? 気持ちなんていつ変わってしまうかわからないものなのに」
 そんなことを言われたのは初めてだったのでおれは一瞬考えたけど、すぐに言った。
「変わったとしても、おれはマーニャがマーニャである限り、何度でもマーニャを好きになるよ。……いっくらマーニャが気持ち変わるって言ったって、それだけは変わらないって心が言うんだ、しょうがないだろ」
「…………!!」
 マーニャはむせび泣くような声を上げて――おれをぐいっとベッドの上に押し倒し、ものすごく久しぶりに思いっきり強烈なキスをした。
「………………」
 おれは呆然としてマーニャを見上げた。今まで触らせてすらくれなかったのに、なんだいったい?
 そんな呆然としているおれにマーニャは泣き笑いの顔で笑って、言った。
「好きよ、ユーリル」

 マーニャは、ずっとおれの気持ちが怖かったらしい。
「あんたの気持ちはガキがたまたま最初に童貞を捧げた女に惚れこんだっていうただそれだけだと思ったもの。絶対に相手なんかしてやるもんかって思った……」
「そんな気持ちで一年近く好きだ好きだ言い続けるわけないだろ」
 おれはむっとしてマーニャの脇腹をつついた。ほぼ一年ぶりのセックスに雪崩れ込んだあとなので、体は熱がいまだ醒めないが心はひどく満たされて落ち着いていた。
 お互いがお互いを好きだということはわかったから。
「そうかもしれないとは思った。だけど信じるの、怖かったのよ」
「なんで?」
 マーニャは涙の残った顔で笑う。
「あんたほんとにガキね。……だって、あたしは二十六で、あんたは十七なのよ?」
「先月十八になったよ」
「あたしは来週二十七になる。……九歳の年齢差があるってことなのよ」
「だからなんだよ?」
「わかんないの? あたしの方が早く老けるの。女のあたしの方が先にババアになるの。あたしはこれからどんどん老いていくだけだけど、あんたはこれからどんどん成長して、いい男になって、いろんな女と知り合える。……それなのにあたしがあんたを好きになっちゃったら、そんで結局捨てられちゃったら、あたしがたまらなく惨めじゃないの」
「はぁ!? なにそれ!? ンなことでおれずっと振られてたわけ!?」
 おれは思わず声を荒らげた。マーニャは少し怯えたような顔になったが、すぐにふんと鼻を鳴らす。
「なによ。悪い? 年増女のひがみ根性なんてあんたに――」
「あのさー。気持ちが変わるとか言うんだったら、マーニャの気持ちが変わる可能性とかは考えなかったわけ?」
「え?」
 きょとんとするマーニャに、おれは恨むような気持ちをこめて言う。
「おれだってマーニャだって気持ちが変わる可能性はあるよ、そりゃ。おれだって可愛い子見れば可愛いなと思うし可愛い子に好きだって言われればぐらつくよ、けどそれはマーニャだって一緒だろ? 正直おれは気が気じゃないと思ってるよ、マーニャ美人だから金持ちのオヤジとかに言い寄られるんじゃないかとか」
「………それは、そうかもしれないけど」
「でも、今は好き。そうだろ? 今は好きなんだから、この気持ちをどこまで持続させるかはお互いの努力ってやつなんじゃないの? 自分一人で結論出さないでくれよ。おれはお前と一緒に生きていきたいって思うんだよ。二人で一緒に、生きていこうぜ」
「……あんたって」
 マーニャはまた泣きそうな顔をして、おれに抱きついて、言った。
「大好き」
「……うん……おれも」

 その夜、みんなで一緒に夕食をとっている時。
 おれはどうにも気まずい思いをしながら飯を食っていた。昼間っからセックスに明け暮れてしまった以上その事実をよっぽど鈍くなければ全員が知ってるはずだ。ただでさえそれで気まずいのに、アリーナはそのほんの少し前に振ったばかりだしクリフトとはまだ仲直りしてない。どーすりゃいんだこの状況、とか思いつつメシ食ってたわけだ。
 マーニャはよく平気な顔して笑ってられるよなー、と思っていると、ふいにアリーナが姿勢を正し、クリフトに向き直った。
「クリフト」
「はい、なんでしょうか、姫様?」
 アリーナに対してはほとんどの場合そうであるように優しい笑みを浮かべて言うクリフトに、アリーナはきっぱりと言った。
「クリフト。あなた、わたしのことが好きよね?」
『………………っ!!??』
 ぴっきーん、と固まる空気。笑顔のまま完全に硬直するクリフト。おれも正直驚いた。
「普通の好きって意味じゃないわよ。恋愛感情で、好きよね?」
「………………………………」
 クリフトはもはや完全に凍りついて返事もできない。そこにアリーナはしっかりした声で続ける。
「こういうことはクリフトから言うのを待つべきかな、とも思ったんだけど、クリフト死んでも言いそうにないし。わたし、クリフトに言わなきゃならないことがあったから」
「…………………………なん………でしょう、か?」
 必死に笑みの張り付いた顔を動かしてそう言うクリフトに、アリーナはきっぱりと告げた。
「わたし、ユーリルのことが好きだから、今のままのあなたには一生振り向かないと思う」
「…………………………!!!」
 クリフトは見事なまでに完全に固まる。
「ユーリルはマーニャのことが好きだっていうことはわかっているわ。でもわたしはユーリルに好きでいてもいいって許可をもらったし、ユーリルを自然に好きじゃなくなるまではこのままでいる予定なの」
 マーニャの視線がおれに降り注いでいるのを感じる……いや間違ってないけど確かにそんなようなことにはなったけどだからってそれをここでマーニャの目の前で言うなよバカー!
「それでね。思ったんだけど、わたしユーリルの面影を追うわけじゃないけど、わたしの好きになる人って、たぶんこれからもユーリルみたいな人だと思うのね。わたしを対等な存在として扱ってくれて、欲を言えばそのままのわたしを受け容れてくれる人」
「………………………………」
「わたしはクリフトが好きよ。でもその好きは恋の好きじゃない。いつでも当たり前に隣にいる人に対する好きで、ずーっと一生一緒にいたい人に対する好きじゃないの。わたしはもうその気持ちを知ってしまった。この気持ちを知る前なら……そうね、キングレオとの戦いぐらいまでなら、あなたがわたしに好きと言ってくれたなら、わたしきっと笑ってあなたの恋人になれた」
「…………………………………」
「でも、わたしはわたしを、わたしそのものを見てくれる人を好きになる気持ちを知ってしまったから。だから今のあなたとは恋人になれないし結婚もできない。だから、ね」
 ここでアリーナはにっこりと、とんでもなく優雅な王女の笑みを浮かべて言った。
「頑張って、わたしを振り向かせてね」
 そう言い放ったあと、食器を持って立ち上がる。
「ご馳走様。ユーリル、あとで稽古しましょうね」
「あ、ああ……」
 思わず去っていくアリーナにそう答えると、マーニャも隣で立ち上がった。顔に満面の笑みを浮かべて、にっこりとあでやかに言い放つ。
「じゃ、あたしは部屋に帰って酒でも飲もうかしらね〜。ライアン、付き合わない?」
「……マーニャ……?」
 なんか凄まじく怒ってる雰囲気が感じられるんだが、と思いつつ様子を窺うと、マーニャはおれを見てにっこりと笑う。
「なぁに、ユーちゃん? あんたはアリーナと一緒に仲良く稽古してればいいじゃない?」
「ちょ、マー……」
「さ、行きましょライアン! 今日は飲むわよー!」
「………すまんな、ユーリル」
 ライアンさん……あんた苦笑しつつもマーニャについていくって……怒ったマーニャが怖いから日和やがったなぁぁ!?
 すたすたと去っていくマーニャとライアンを追いかけて、おれはふらふらと座り込んだ。強烈なボディブローを食らってくらくらしてる、戦うには少し休息が必要だ。
 隣に座っていたクリフトを見て、なんとなく笑い、ぽんぽんと肩を叩いた。
「ま、お互い頑張ろうぜ。……惚れた女と世界のためにな」
 クリフトはめちゃくちゃ恨みがましい目でおれを見て、それから深い深いため息をついて、たぶん本当に言いたいこととは全然違うことを言った。
「好意を持っている女性と世界を同列に扱うのは感心できないと思うのですが」
「なに言ってんだよ。世界を救うのはおれたちなんだったら、世界を救う原動力になるのはおれたち一人一人の想いだろ? あ、それともお前、世界なんかよりアリーナの方がはるかに重いとか思ってるわけ?」
「べ――別にそういうわけでは!」
 わかりやすい反応におれは苦笑してぽんぽんとクリフトの背中を叩く。
「しょーがねーな、お前は。でもなー、惚れた相手と一緒にいられるのは世界があってこそだぜ? それに惚れた相手の好きなもんって、自然に好きになっちゃうじゃん。お前だってアリーナの好きな世界を守ってやりたいとか思わね?」
「………私は」
「それに。アリーナだけじゃなくて、おれたちだってお前のこと大切に思ってることは忘れんなよな」
「は………?」
「おれは、ムカつくこといっぱいあるけど、お前のこと、好きだぜ」
 そう言ってやると、クリフトはちょっとぽかーんと口を開けて、それからぷっと吹き出し、それから少し泣いた。泣き笑いに。……こいつがそんな顔するの、初めて見たと思った。

 その夜、おれは夢を見た。
 アリーナがサントハイム城で盛大な結婚式を行っている。参列者はいっぱいいたけど、おれはその最前列でアリーナの結婚式を見守っていた。
 相手は誰だかわからない、よく顔が見えない。でもクリフトの祈りの声は聞こえる。そしてアリーナはおれの好きな、たまらなく輝かしい笑顔で誓いのキスをして、ブーケを空に放り投げた。
 ブーケはおれの隣の、すごく華やかなドレスを着た女性の腕の中に収まった。そのすごくきれいな女性は笑って言う。
「やぁねぇ、ブーケもらってもしょうがないじゃないの。あたしはもう結婚しちゃってるんだから」
 そう言って、おれと腕を組む――その時初めておれは、その女性がマーニャだと気がついた。
 今より年は重ねているけれど、美しく年を重ねるということを体現しているかのような姿で、にっこりとマーニャはおれに微笑みかける。
「ね、あなた?」
 ―――たまらなく、いい夢だと思った。

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