愛された子供は笑顔で眠る
 この情景を、あたしは、ずっと前から知っていた気がする。
 闇黒の中に、紅の岩塊が星のように浮かぶ、この世のものとも思えない風景。天に流れる星の河みたいに、紅の欠片が、ちょっと見ただけだと暗く見えるのになんだか奇妙に眩い空に、寄り集まって流れ巡っている。星空に似てるのに、なんだか妙に捻れた、それなのに背筋がぞくっとするくらい不思議にきれいな光景だった。
 そんな中で、瞬きをする間に幾度も、魔法と武器が飛び交う。お互いにお互いを殺そうとする、これまでの旅の中で幾度もやってきた、戦闘≠ニいうぶつかり合い。
 ――大魔王デスタムーアの世界に乗り込んだあたしたちは、そんな風に、つまりはいつものように、強引に、そして真っ向からデスタムーアの意思を叩き潰していった。
「やはり爺の姿では失礼だったようだな……では、これならどうかな?」
「わっはっはっはっ! 愚か者め! お遊びはここまでとしよう! どれ、お前たちの体を引き裂き、そのはらわたを喰らい尽くしてやろうぞ!」
 追いつめられるたびに変身し、より強くなって襲い来るデスタムーア。そしてそれを、あたしたちは全力で、そして的確に、知らない人が見たら情け容赦ないって思っちゃうんじゃないのって勢いで叩き潰す。そんな一瞬ごとに負けが近づいていってる現況を、デスタムーアはちょっとずつ自覚していってるみたいで、顔がどんどん(大魔王の顔色だから、やっぱり人間とは違うんで、あくまであたしが見た印象なんだけど)青くなっていってる気がした。
 世界を支配しようとしてる大魔王との最後の戦い、にしては拍子抜け、ってくらい気楽な戦い。でも、あたしは別に不思議な気はしていなかった。だってこの旅の間中、あたしはずっと、っていうのが大げさでもほとんどの間、こんな安楽な気持ちで戦ってきたんだから。
 だってあたしたちには、この声がついている。
「バーバラ! バイキルトいったん止め! 回復に回れ!」
「ハッサン! 次は右手だ! ひたすら正拳突き繰り返せ!」
「チャモロ! バーバラ! 支援魔法再開、ただしスクルトは外してマジックバリアからだ!」
 この声。ずっとあたしたちを導いてくれた声。あたしたちのリーダーで、自分を『主人公』なんて言っちゃう自意識過剰な、でもすごくすごく頼りになる人の声。聞くだけで自然と背中がしゃんとして、それまで戦いなんてやったことのなかったあたしでも言葉通りにちゃんと動けるようになっちゃう、不思議な声。
 ――ローグが一緒にいてくれるなら、大魔王との戦いだって簡単だって、あたしはどこかで知っていたんだ。

 ローグの爆裂拳を使った、ラミアスの剣の四連撃が顔面を大きく斬り裂いて、デスタムーアは震えた。動きが止まって、瞳が力を失い、がくり、と空中でくずおれる。
「グギギギ……な、なぜだ……この私が、こんな虫けらどもに敗れてしまうとは……。い、意識が薄れてゆく……わ、私の世界が……崩れ……ぐはっ!!」
 その絶叫と共に、首だけになったデスタムーアの体は崩れていく。最初の変身で体内に呑み込んだ黄金色の宝玉――たぶん、デスタムーアの力の結晶も同様に崩れ去る。あたしは半ば呆然とそれを見つめることしかできなかったけれど、他のみんなはそのそれなりに派手ではあったけどあっさりとした終わりにそれぞれ思うことがあったようで、ハッサンはがりがりと頭を掻いてから、ローグに向かい声をかけようとする――
 とたん、流れ星が落ちてきた。
 デスタムーアの魔力によって形作られた世界だったからなのか、宙に浮いていた岩塊が隕石みたいになだれ落ちてきて、世界を砕いていく。あたしたちが立っていた岩場も見る間に打ち崩され、岩場そのものもおのずから在る力を失ったように崩壊していく。仲間たちはさすがに驚いたみたいで、それぞれ困惑の、驚愕の叫びを上げる。
 だけど、あたしは、じっとローグの背中を見ていた。
 消え去ったデスタムーアのいた方を、声も上げずに見つめているローグ。そこから目を逸らすことができなかった。なんだか、すごくすごく、息もできないくらい胸が苦しくて、泣きそうになるのを必死に堪えながらローグの背中を見ることしかできなかったんだ。
 驚きも、衝撃も、ろくに感じなかった。だってあたしは、たぶんずっと、この光景も知っていたんだろうから。
「ローグ! ローグ! 私の声が聞こえるかっ!? 私だ、マサールだっ!」
 大賢者マサールとクリムトの声が響いたのも、他人事みたいで。ローグがこちらを振り向いて、「行くぞ」と短く告げて、ファルシオンの引く馬車に乗り込むその顔を、まともに見ることもできなくて。ファルシオンが空を駆け、歪み捻れて消え去ろうとしている世界から、眩く輝く不思議な道を翔けて脱出していく、なんていうとんでもない光景を目の当たりにしてるのに、「すごいすごい!」ってはしゃぐ元気すらなくて。
 あたしは本当に、ただひたすら、涙がこぼれそうになるのを堪えることしかできなかったんだ。

「よくやった、ローグよ! デスタムーアは滅び去り、狭間の世界も消え失せた。狭間に囚われていた人々も、そこの二人に助け出された。これで世界は真の平和へと向かっていくだろう。これもすべてそなたたちのおかげじゃ。本当にご苦労であったな。そなたらがいなければ現実と夢の両方の世界は大魔王の手に落ちていたはずじゃ。この夢の世界、いわば人々の心の世界を束ねる王として心から礼を言うぞ! ありがとう、ローグよ。そして他の者も本当によくやったな!」
 ファルシオンのおかげで狭間の世界から脱出できたあたしたちが最初にたどり着いたのは、ゼニス城だった。城の人たちに大喜びで、なんていうか歓呼の声ってこういうのだろうってくらいの勢いで騒がれながら迎え入れられて、まっすぐゼニス王のいる謁見の間に通されて、仲間みんなが一緒にゼニス王に、たぶんお褒めの言葉っていうのをもらう。
 それでも、あたしは、まともに喜ぶ力なんか全然なくて、ただ必死に目の前のローグの背中を見つめる。そこから目を逸らしたら、それこそあたしの全部があっという間に消え去っちゃいそうな気がして。
「さて…………。どうやらそろそろお別れの時が来たようじゃ……。ここは本来そなたらが存在するはずのない夢の世界……。この世界を支配するため実体化させようとしていた大魔王の力ももう尽きてゆくはず。されば、現実のそなたらにはおそらくこの世界も我々の姿も見えなくなるであろう。しかし案ずるでない。世界があるべき本当の姿に戻るだけなのじゃからな。さあ、行くがよい。皆がそなたたちの帰りを待っておるだろう」
「さて……と、じゃあ行くとするか……。こういう場所は苦手でね。悪いけど一足先に馬車に戻ってるぜ」
「あ! 待ってよ! そんなに急がなくても……まったく、仕方ない子ね……ごめんなさいね、ローグ。そんなわけだから、私も先に馬車に戻っているわ。ゆっくりしてきていいわよ。では、ゼニス王……」
「ふむ……」
 その場を去るミレーユとテリーに視線を向けながら、ハッサンとチャモロが小さく言葉を交わす。
「行ってしまいましたね……。まあ、あれはテリーさんの照れ隠しなんでしょうけど」
「テリーめ、まったく可愛くない奴だな。でも、ちゃんとミレーユがお姉さんしてたよな。いい感じだぜ!」
 それに対しても、あたしはなにも言えない、と――心が動いてもそれを言葉にする元気なんてまるでない、と思った。それなのに、口がなぜか自然に動いて、いつものあたしみたいな元気な声を出して、それどころか腰に手を当てて怒っているぞ、みたいな仕草までつけて応えてしまう。
「もう、ホントにテリーったら! ゼニス王さまにちゃんとご挨拶していかなきゃダメじゃないよね!」
 一瞬、そんなあたしにちらり、とローグが視線を向けたけれど、すぐに前に向き直る。ゼニス王の感慨深げな言葉は、まだ続いていたからだ。
「思えば、夢の世界までも支配しようとした大魔王のおかげでわしとそなたが出会ったのだな。なんとも運命とは不思議なものよ。ここは本来そなたらが存在するはずのない夢の世界……。この世界を支配するため実体化させようとしていた大魔王の力ももう尽きてゆくはず。されば現実のそなたらには、おそらくこの世界も我々の姿も見えなくなるであろう。しかし案ずるでない。世界があるべき本当の姿に戻るだけなのじゃからな。さあ、行くがよい。皆がそなたたちの帰りを待っておるだろう」
『…………――――』
 その言葉に、ローグがどんな反応を返したのかはわからない。あたしから見えていたのは背中だけだったから。でも、ゼニス王の感慨深げな表情が崩れたりはしなかったから、そんなに激しい反応じゃなかったんだとは思う。
「元に戻るだけって……それじゃこの夢の世界のみんなとはもう会えなくなっちまうのか? そんな…嘘だろ!?」
「なんとかこの先も、現実の世界と夢の世界が共存する方法はないのでしょうか……」
 ハッサンとチャモロが小さくそんな会話を交わしていたけれど、あたしはさして衝撃を受けることもなく、ぽつん、とこんな風に言葉をこぼしただけだった。
「そっか……もうすぐ現実の世界からこの世界が見えなくなっちゃうんだ……」
 それ以外に、どう言いようもない。だってあたしは、カルベローナの魔女バーバラは、そんなことずっとずっと、それこそ冒険に出る前から知っていたんだから。

 それからあたしは、何度となく『普段通りのあたし』みたいに自然にふるまってしまうあたしを、他人みたいに眺める経験をすることになった。
 あたしの心は、まだどう振る舞えばいいのかもわからないまま膝を抱えて座り込んでるのに、体は勝手に元気に歩いて、『普段通りのあたし』そのままにどうでもいいことにもいちいち反応して、笑ったり喚いたりする。まともにかけられた言葉に反応する元気もないあたしとしてはありがたいと言えばありがたかったけど、すごく奇妙な体験だった。
 けれど、そんな中でも、ぽろりぽろりと、あたしの素直な気持ちがこぼれ出る時もあった。
「いつまでも……いつまでも夢を信じていけばいいんだよね。それが、本当にできるなら………」
「…………。存在していても、幻になってしまうんなら、現実から見れば存在しないのと一緒だよね……」
「忘れられちゃうと、悲しいもんね……。いなくなる人が、遺せるものがあるとするなら、思い出くらいしかないんだもん……」
 それはいつも小さな小さな、誰にも聞こえないだろうくらいの微かな呟きだったけれど、なぜかそんな呟きを漏らすたびに、ローグはあたしに視線を向けた。それはほんの一瞬、あたしたちをじっと見てる人でも気づかないんじゃないかってくらいわずかな間だけのことだったけど、なんていうかすごく鋭くて、あたしの心まで斬り込んでくるみたいで、あたしにはひどく印象に残った。
 ローグ。なんで、ローグは、そんな風にあたしを見るの?
 あたしだって、なんでこんな風に呟いちゃうのか、なんでこんな普段通りの素振りができちゃうのか、まるでわかんないのに。
 あたしがわかるのは、『知っていた』っていうことだけなのに。これから先も『知っている』っていうことだけなのに。なんでそんな風に、あたしがすごく、すごいことを言ってるみたいに………。
 そんなことを考えている間にも、足はどんどんと進み、みんなでゼニス城の外で馬車に乗り、ファルシオンの翼で宙に舞う。ファルシオンはいつも通りにあっという間に世界を翔け、夢の世界のレイドック城までやってくる。
 話を手早く済ませるために、ってことで、あたしたちが外で待ってる間に、この城の兵士ってことになってるローグとハッサンが二人で城内に入っていく。あたしはただ呆然とそれを見送るしかできなかったんだけど、あたしの体は普段通りに元気な顔で、その間もミレーユやチャモロやテリーたちとお喋りをする。
 お喋りっていうか、どっちかっていうと『無事終わったね』『みんな生き残ったね』みたいな感慨を語り合う感じだったんだけど、あたしはそんな言葉を考える余裕もなかったのに、口と顔は勝手に状況にふさわしいものを選んで振る舞ってしまう。物思わしげにこちらにちらちら視線をやってくるチャモロや、静かな視線を向けてくるミレーユのことが気になったりもしているのに、まるで気づかないそぶりで。
 さっさと話を終えて出てきたローグとハッサンと一緒に、やってきたカルベローナでもそれは一緒だった。
「ご苦労じゃったな、バーバラ。大魔王の魔の手から世界は救われた。そしてお前はもう、大魔女と名乗っても恥ずかしくないほどの魔力も身に着けた。長老さまも喜んでおられるじゃろうて……」
「しかし私が長老さまのふりをしているのもそろそろ限界かと……」
 カルベローナの人たちに仲間たちが歓待されている間に、個人的な話をしたいから、とローグと一緒にやってきたカルベの家で、そんな言葉を交わすカルベのおばあちゃんとおじさんに、あたし≠ヘきょとんとした顔で言ってのけた。
「じゃあ、あたしに長老になれっていうの?」
 そして、それがあたし自身の反応じゃないことに気づかないままカルベのおばあちゃんたちは話を続ける。
「いや、そうは言わん。お主は若い。まだまだ学ぶことは多いはずじゃ。わしはゼニス王の下で学ぶことを勧める。あそこではわしらですら知らぬ魔法が眠っているかもしれんからのう」
「うーん……。でも、あたしもうちょっと考えてみる。どうするか自分で決めたいの」
「うむ、それがよいじゃろう」
「ごめんね、まだ自分で自分がよくわからなくて……。行こっ、ローグ。他のみんなを送ってあげなきゃ」
『自分で自分がよくわからない』っていうことを、当たり前のことみたいに軽く言ってのけて、あたし≠ヘローグに笑いかける。それに対してローグは、無言のままうなずいてあたしに手を差し伸べた。
 え、なんで? と状況も忘れて驚いてしまうあたしを無視して、あたし≠ヘ笑顔でその手を握り、ローグに引かれるままに立ち上がる。その間にもあたし≠ヘローグに「知らない魔法を学べるかもっていうのは嬉しいけど……まだちょっと、どうしようかなーって……」とか「さあ、行こっ! 他のみんなを送ってあげなきゃ」とか囁き交わしてみせる。
 けれどローグはそれになにも答えないまま、優しくあたしの手を引いて歩を進める。戸惑いどうすればいいのかわからなくなるあたしをよそに、あたし≠ヘ笑顔で周りと言葉を交わしながらローグの後に続いた。
「バーバラさまが長老になる日を楽しみにしています。しかしバーバラさまの年で長老という呼び方は似合いませんな。こりゃ、なにかいい呼び方を考えておかないとなっ」
「あたしが長老なんてガラじゃないよねー。若長老って言うのも変だしなあ……うーん……。そうだ! カルベローナの美人アイドルマスター! なんてのはどうかな!?」
「ほんによくやったぞ、バーバラ、そしてローグたちも。あとは身に着けたその力を、平和のために役立てておくれ」
「おじいちゃん、心配しないで大丈夫! 必ずローグは、自分の力を平和のために役立ててくれる人よ。それはあたしが……あたしが一番よく知ってるから!」
 そんなの嘘だ。あたしは、あたしが一番ローグを知ってるなんて言う自信全然ない。あたしはいっつもローグの気持ちがわかんなくて、振り回されてどぎまぎして、どうすればいいのかわかんないことばっかりで。
 それでも、すごくすごくすごく、ローグに優しくされてきた。あたしがちょっと嫌な気持ちになっただけでも、あれこれ手を変え品を変え、あたしの気持ちを解きほぐして、心を『嬉しい』とか『幸せ』とかでいっぱいにしてきてくれた。
 だから、『一番』なんて言う自信全然ないけど。ローグが優しくて、本当はすごく真面目で、すごくすごく一生懸命なのは、知ってる。
 どうすればいいのかわかんなくて膝を抱えて座り込んだ気持ちのままで、そんなことを思ったら、ローグはちらりと一瞬、こちらを見た。
 その視線は、なぜだかわからないけど、すごく優しい。ローグがこんな風に気持ちをあからさまにするなんてめったにないってくらいに。あたしが今どんな気持ちなのかってこととか、どうすればいいのかわからないのに体が勝手に動いてることとか、そういうのを全部見抜いた上で、あたしの手を引っ張ってるんだって気がしちゃうくらいに。
 心は途方に暮れたままなのに、ふわっと『嬉しい』っていう気持ちが混じる。泣きそうなくらい『幸せ』な気がしてしまう。体は、あたし≠ヘ勝手に動いて、周りに笑顔を振りまいて、朗らかに受け答えしてるのに、あたしの気持ちは膝に顔をうずめて、必死に泣くのを堪えてるみたいな感じ、そのまんまだった。湧き上がってくる『嬉しい』『幸せ』が、他の気持ちとこんがらがって溢れ出して、気持ちそのまんまにしといたら泣けて泣けてしょうがなくなっちゃうってわかっちゃう、あの感じ。
 そんなあたしの手を引きながら、ローグは時々、ちらりちらりと、あたしを泣かせようとしてるんじゃないかってくらい優しい視線を投げかけてくる。それと目が合うたび、あたしは笑顔のあたし≠フ中で、必死に力を込めて自分を抱きしめるしかなかった。
 目を逸らしたくても、目をつぶりたくても、あたし≠ヘローグと真正面から笑顔で目を合わせる。真っ向から向けられる優しい目に、ただただ耐えるしかできなかったんだ。

 ライフコッドで、ターニアちゃんが消えた。
 消えたところを最後までみたわけじゃない。だけど、どんどん色が薄くなって、存在感が薄れて、眠るように目を閉じて。そんなターニアちゃんを、それこそ亡くなった人を看取るみたいな気持ちで見つめた後、あたしたちはその場を立ち去ることしかできなかった。
「ターニアさん……。ゼニス王の言っていた通り、とうとう夢の世界が消えようとしているのでしょうか!」
「こ……これは……。俺たちには……どうすることもできないのか?」
 そんな言葉を交わす仲間たちをよそに、あたし≠ニあたしは必死の形相でローグにこいねがう。
「ターニアちゃんが消えていく……。こんなのって……。なんとか……なんとかならないのかな!?」
『なんともならない』のを事実として知っていても、あたしは必死にローグに願い、ターニアちゃんに取りすがるように声をかけずにはいられなかった。
「ターニアちゃん! 寝ちゃダメだよ! 眠らないで、ターニアちゃん!」
 そんな言葉をかけたところで、どうにもならないのはわかっていても。たとえ眠りに落ちずにいられたところで、夢から覚めるのを止めることはできないと知っていても。あたしは必死にそう叫ばずにはいられなかった。
 だって、あたしは知っていたから。ローグにとって、当たり前みたいに家族と思える相手は、故郷と思える場所は、こっちだって、夢の世界なんだってわかってたから。現実の世界のターニアちゃんはどうしたって本当の妹じゃなくて、ライフコッドは現実の世界のローグが一時訪れただけの場所で、レイドック城にいる国王陛下や妃殿下も、ローグにとっては『本物の家族』っていう『思い出』を持ちながらも、『現在』の『現実』に地続きで繋がる『過去』っていうものがない、中途半端な存在だって。
 だから、あたしはこうなることを知っていたのに、わかっていたのに、どうしようもなく取り乱しちゃって、必死に薄れて消えていくターニアちゃんに声をかけて――ローグにまた、手を取られた。
 優しい手。暖かい手。それがそっとあたしの手を引いて、あたしを導いていく。大丈夫なの、平気なわけないでしょ、って視線で問いかけるあたしに、ときおりさっきと同じ、静かで優しい視線を投げかけながら。
 あたしはもうどうしようもなくなって、なんて言えばいいのかもわからなくなって、ひたすらに泣きじゃくるしかなくて。あたし≠ヘローグの手にひかれるまま歩きながら、あたしの気持ちよりはずっと穏やかに、ではあったけれど、初めてあたしの気持ちに沿うように顔を歪めて、泣きそうな声で漏らす。
「嫌だ……嫌だよこんなの! 寂しすぎるじゃない……」
 そんなあたしを、ローグはまたちらっと見つめて、それからそっと頭を撫でてくれた。静かな面持ちで、でも震えるほどに優しい仕草で。あたしはまた泣きそうになって、こぼれる涙を堪えるために、ぎゅっと力を入れることしかできなかった。

 グランマーズおばあちゃんの館、サンマリーノ、ゲントの村、ガンディーノ。いくつもの地を天馬の翼で次々回り、仲間たちと一人ずつ別れてゆく。
 最後にライフコッドで村の人々がレイドック城での祝いの宴に招待されたことを知り、ローグと二人レイドック城へと向かう。
 ――ローグと二人きりになると、あたし≠ヘふぅっと力を抜いて、その姿を消す。村とか街みたいに誰かがいる可能性のある場所ではあたしの気持ちなんかまるで無視でにこにこ笑ってるのに、ローグと二人っきりになるとなぜだか、当たり前みたいに素のあたしに席を譲る。
 だけどあたしはそんな風に突然表に引っ張り出されても、外面を取り繕う元気なんてまだまるで湧いてこなくて、馬車の中で膝を抱え込んでうつむくことしかできない。顔を膝にぐりぐり押しつけながら、どうすればいいのかわからないっていう気持ちばっかり湧いてくる心をどうすることもできなくて、泣くのを我慢してる子供みたいに噴き出しそうになる嗚咽を抑え込むしかない。
 ガンディーノからライフコッドに行くまでは、ローグはそんなあたしに声をかけることもなく、ファルシオンの手綱を取っていた。あたしたち以外誰もいない馬車の中――あれ、そういえばアモスとルーキーはいつの間にいなくなったんだろう、なんて思考がちらりとよぎったけど、気持ちを抑えつけるのに必死ですぐに消えていった――、二人とも黙りこくったまんまっていうのは息詰まる感じで、普段のあたしだったら絶対我慢できないと思うんだけど、それでも今のあたしには声を上げる元気もなかった。
 だけど、ライフコッドから空へと飛び立ったあと、すぐに。ローグは、手綱を取ったままあたしに声をかけてきた。
「バーバラ」
「っ……」
 あたしはびくんと体を震わせるけれど、それでも声が出せない。どうすればいいんだろうどうすればいいんだろうって、そればっかりで。ローグになんて答えればいいんだろうって、あたしの気持ちをどう伝えれば、それとも誤魔化せばいいんだろうって、ローグが嫌な気持ちにならないようにするにはどうしたらいいんだろうって――必死にそればっかり考えてるのに、頭は空回るばっかりで、まるで答えが出せなかったからだ。
 それなのに、ローグは。当たり前みたいな顔と語調で、あたしに横顔しか見せないまま、ごくあっさりと言ってのけた。
「お前が今、なにを考えているか。なにを言いたいか。そこらへんのことはだいたいわかる。お前自身はよくわかっていなくてもな」
「っ……」
「だから、そんなに無理をする必要はない。お前がなにをどうすればいいんだろう、なんてことを必死に悩まなくてもな」
「なっ……に、それ………」
「慣れないことをどれだけ頑張ってやろうとしても、限界があるぞということだ。お前は考えを巡らせるということに関しては、それこそ子供並みなんだからな。空気を読むのも下手と言って差し支えないレベルだし。その代わりに、普通の人間には感じ取れないものを感じられる人間なんだから、ぐだぐだ考えずに細かいことはできる人間に任せればいいだろが」
「っ……っなに言ってんのっ………!」
 あたしは思わず立ち上がった。特別製の、あたしぐらいなら数十人は入れそうな大きな馬車だからそのくらいなんの支障もない。でも、あたしの中でぐるぐる渦巻いてる想いを言葉にするのは、二人っきりでも、ローグとあたしの他に誰もいなくても、うまくできなかった。
 だって、なんて言えばいいんだろう。あたしが、どうしてなんかなんてわからないのに、わかってしまってることを。そしてそれにこれまでずっと気づかないできたことを。ううん、気づかないふりをしてきたんだろうか、そんなことすらまるでわからない。
 なのにあたしは、わかってしまっている。あたしの今の命の形を。あたしがこれからたどる道筋を、行く末を。わからないのに、頭が、心が、それよりも体と魂が、勝手に当然のこととして受け容れてしまっている。
 あたしは、もうローグと一緒にはいられないんだって。あたしはもう、現実には存在することができなくなっちゃうんだって。
 それを、あたし≠ェ勝手に納得しちゃってることを、あたしはまだ全然受け容れられてないのに、それなのに。
「ローグなんてっ……大っ嫌いっ!」
「ほう?」
 こんな時なのに、ローグはいつも通りに、ちょっと面白がるように片眉を上げてみせる。その仕草にますますあたしは頭に血が上って、どもりながらも懸命に感情のままにまくし立てた。
「ローグなんてっ……あたしのこと、なんにもわかってないくせにっ……あたしが、どんな、気持ちでっ……あたしがどうすればいいのかって、もう、ほんとに、どうすればいいのかって、必死に、悩んで、考えてること、なんにもっ……あたしが、どれだけっ……」
 ああ、違う違う違う、そんなことが言いたいんじゃないのに。あたしは、ローグにこんなあたしを見せたいわけじゃないのに。
 あたしは、ほんとは、ローグに笑ったあたしだけをずっと覚えていてほしかった。ローグがあたしのことを大切にしてくれるたび、優しい気持ちを伝えてくれるたび、笑っていなきゃって、あたしが知ってること、わかっちゃってることなんて気づかないことにしたまま、優しい気持ちだけ、嬉しい思い出だけ残していこうって、あたし≠ヘあたしをなにもわからないままでいさせ続けたんだ。
 なのに、こんな。こんなのって。嫌だ、嫌なのに。あたしは、本当にただ、ローグが、いろんなものとさよならしなきゃいけないローグが、ちょっとでも、楽で、心地よくて、幸せな気持ちでいてくれたらって、思って、それで。
 ぐるぐる回る頭の中でそう叫びながらも、あたしの口は勝手に動いて嫌なことを叫ぶ。
「ローグなんてっ、あたしが、どれだけ、ローグのこと考えてるかも、ローグのことばっかり考えてるかも、全然、ぜんぜん、わかってないくせにっ……あたしが、どれだけ、ローグでいっぱいいっぱいになってるか、わかってないくせにっ……あたしが、どれだけ、本気で、ローグのことっ……」
 いやだいやだいやだ、こんなこと言いたくない、ローグに負担なんて絶対かけたくないのに。ローグにこれ以上苦しい思いなんて絶対させたくないのに。
 あたしは、なんで、こんなに弱くて、情けないんだろう。旅の始まりからなにも変わらない。ローグに厚かましく願いを押しつけて、なにもかも頼りきりで、助けられてばっかりで。ローグを助けることが、全然できなくて。
 あたしは、ほんとに、なんでこんな――
 ――と、唐突に、あたしの腕はぐいっと引かれた。なにか思う暇もなく、あたしは馬車の床に倒れ込みかけて、優しい腕にふわりと抱き留められる。
 ローグの腕だ、と気づいた時には、あたしはもう身じろぎもできないくらいしっかりローグに抱きしめられていた。あたしの顔がローグの顔のすぐ隣にあって、それこそちょっと動いたらほっぺとほっぺがくっついちゃいそうな近くにあって、ローグの腕があたしの背中に回ってて、あたしの胸とローグの胸がぎゅっと触れ合ってて――
 仰天して、わけがわからなくなって、涙目になったまま真っ赤になっちゃったあたしに、ローグはいつもあたしに向けるみたいに、落ち着いていて、ものすごく偉そうで、それなのに泣きたくなるくらい優しい声で囁いた。
「言っただろう。お前のことは、だいたいわかるって」
「ロ……」
「お前が、今本当はなにを俺に伝えたいのかも。本当はどれだけ俺のことを想っているのかも。お前が全力で、自分にできるありったけで、俺に少しでも幸福を与えようとしてきたことも、そのためなら自分をごまかし騙しすらして、死に物狂いでここまでやってきたことも、ちゃんとわかってる」
「っ……」
「言っただろう、無理をする必要はない、と。お前はもう、無理に笑う必要もないし、誰かのために自分を押し殺す必要もない。俺以外にお前を見てる奴は……まぁファルシオンを除けばもういないし、俺には気持ちを隠そうとしても自分を犠牲にして尽くそうとしても無駄だしな。お前がなにを考えてるか、なんてことすらお前よりもわかってる俺だぞ? お前がなにをどうしようとお見通しなんだ、無理をしたりごまかしたりしながら俺に少しでも幸せな気持ちを与えたい、なんて不遜な試みはもう諦めようと思わんか?」
「っ、てっ……あたし……あたしはっ」
 もう自分が何を言いたいのかもわからないまま、必死にいやいやをしながら、涙を堪えながらローグを見上げる――と、自然ローグと目と目が合う。頻度で言うならものすごく珍しい、けれどあたしは本当はそれがずっとあたしたちに向けられていることを知っていた、泣きたくなるくらい静かに微笑んでいる、すごくすごく優しい眼差しと。
「バーバラ。お前の、俺を気遣う気持ちは嬉しい」
「……っ」
「だが、俺は優しくされるより優しくする方が性に合っているんでな。厚情を無にするようで悪いが、俺のような男と関わり合ったのが不運とあきらめて、思う存分優しくされろ」
「なに、それ……っ」
「決まってるだろが。俺は主人公≠セぞ? そんな奴と関わった以上、否が応でも優しくされて甘やかされて幸福になるのが道理ってもんだろが。お前のような女の子なら、特にな」
 そんなことを、ガラス細工に触る時よりずっと繊細な手つきであたしの頭を撫でながら、それと同じくらい穏やかな、そして優しい眼差しであたしを見つめて言ってくるから、あたしは一瞬ぽかんとして、それからぷっと噴き出してしまった。
「こら、なにがおかしい。俺が関わったどんな女も幸福にしてしまうほどの器を持った主人公≠セというのは誰はばかることない事実だろが」
「だってっ……」
 くすくす笑いながら、あたしは思う。ほんとだよね、って。
 ローグはほんとに、ほんとのほんとに主人公≠セもんね。関わった女の子全員を幸せにしちゃうかどうかは知らないけど。でも、少なくともあたしは、ローグにずっと幸せな気持ちをもらってきた。ずっとずっと、たまんないくらい優しくされてきた。
 でも、そんなローグでも。そんなローグの隣には、あたしは、もう――
 ぽん、とローグの掌があたしの頭を撫でる。軽くふんわりと髪を混ぜながら、あたしの肌をそっとなぞる。
「――言っただろう。幸せにしてやる、と。だから先のことや細かいことは気にせず、お前は気持ちのままに振る舞っていればいい。お前にはそれが一番似合ってるし――それが一番周りも自分も幸せにする選択だとも思うしな」
「もぉっ……ほんとに、ローグってば、あたしのこと子供扱いばっか、してぇっ……」
「子供扱いしてるわけじゃない。お前扱いをしてるだけだ。お前には、お前に似つかわしい生き方を選ばせたいと贔屓してるだけのことだ」
「ふふっ、ひいき、って……」
「なんだバーバラ、お前自分が俺に贔屓されてることに気づいてなかったのか? 贔屓でもしてなけりゃああもお前に大甘に接するわけないだろが。お前を特別扱いして、大切に囲い込んでなけりゃお前をああも構いはしないし、ちょっとしたことでも嫌な思いをさせないように過保護に守ったりはしない。そんなもん自明の理だろが、この俺にめくらめっぽうに贔屓されておきながら気づかんとかどんだけ鈍感なんだ」
「なにそれ、ひっどい、言い草……」
 涙があとからあとからこぼれ落ちる。目の前が、あたしを抱きしめてるローグの顔もろくに見えないぐらいに霞んでしまう。
 でも、そうだ、あたしは、あたし≠烽たしも、本当はわかってた。自分がローグに特別扱いされてること。ローグに甘やかされて、大切にされてきたこと。ただ、あたしが臆病で、どうすればいいのかわからなかったから、ただ流されるまま大切にされるばっかりだっただけで。
 あたしは、本当に。ローグに、ずっと。
 改めての自覚に身を震わせながら、あたしは霞んだ瞳でローグを見上げる。知りながら、自覚しながら、それでも怖くて、怖気づいてしまって、舌がこわばって指先が震える。どうすればいいのかわかんないよって逃げ出したくなってしまう。
 でも、今は。本当にもう、これで、最後なんだから。
「………ローグ」
「ああ」
「ローグ、ローグは………」
 なんと言えばいいのか必死に言葉を探す。どう言葉を重ねればあたしの気持ちを伝えられるのかわからない。伝えていいのかってこともわからない。でも、でも、なにか言いたい。なにかあたしの言葉を、ローグに。
 そんな風に必死に頭を回転させて出てきた言葉は、あたし自身の不意を討ってしまうほどぽろっと、軽く喉の奥からこぼれ落ちる、ごくごく小さな、なんでもない、どうでもいいような。
「――あたしのこと、覚えててくれる?」
 そんな、すごくささやかな、短い言葉だった。
 なんでこんなことしか言えないのとか、でもローグにあたしの気持ちを押しつけるのとか絶対嫌だとか、ローグがローグなりに精一杯の気持ちを伝えてくれたのにとか、でもここで終わるしかないのにローグを苦しめる言葉とか死んでも言いたくないとか、そんな風に、いつものように、頭をぐるぐるさせてわけがわかんなくなりながら、それでもなにか言いたいって言葉に後押しされてこぼれ出た、そんなあたしの言葉に。
 ローグはやっぱりいつものように、すっごく優しく、それこそ王子さまみたいに笑ってみせて、ぎゅっとあたしを抱き寄せて、短く答えた。
「―――ああ」
「っ………―――」
 あたしは震える指をローグの背中に回して、そっとぎゅっと抱きしめる。ローグの腕に、精一杯の想いを返す。本当にはローグに、なにもしてあげられることがなくても。優しくされてばっかりで、もらってばっかりで、最後にはローグが一人ぼっちになってしまうことを知りながら、置いてきぼりにしてしまうんだとわかっていても。
 それでも、あたしはその答えが、身震いするほど嬉しくて、ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしながら、身勝手だって承知しながらも、幸せだって、これ以上もうなにもいらないって、そんな気持ちにすらなってしまったんだ。

「よくぞ戻った、我が息子ローグよ! 大魔王はお前たちの活躍により滅び去った! 見よ、澄み渡る空を! 感じよ、心地よい風を! これこそが真の平和の証! それをもたらしたのが我が息子とは、父としてこれほど嬉しいことはないぞ!」
「ローグ……本当によく頑張りましたね。あなたの使命はもう終わりました。これからはこの国の王子としての生活に戻るのです」
「ところで先ほどから気になっていたのだが、そこの可愛い娘さんは誰なのだ?」
「え? え? あたしのこと?」
「よいよい。しかし、ローグもこのわしに似てなかなか隅に置けんな。そんなに可愛い娘を連れて戻ってくるとはなっ」
「…………」
「あなた……」
「おお! そうであったな! 皆の者、宴の準備じゃ! ローグ、お前の友人たちも呼んでおるぞ! さあ、宴じゃ宴じゃ!」
『おーっ!!』
 ――そんな会話の後に始まった宴は、とても盛大なものだった。レイドックの街の人たちもたくさん城の中に招き入れられて、みんなで歌って踊り、酔っ払って騒ぐ。みんな笑顔で、知らない人同士でも心底楽し気に杯を交わし、大魔王が倒された、世界が救われたことを祝い喜ぶ。
 けれど、あたしは、そんな宴に参加することのないまま、人の輪から離れ、謁見の間に向かう階段をもう一度上っていた。呼ばれているという仲間のみんなとも、まるで顔を合わせることのないまま。
 だってなんて言えば、どんな顔をすればいいかわからなかったし、もう気持ちが爆発しちゃって泣き出して、みんなに心配をかけちゃったりするのも怖かったからだ。
 もしかしたら、そのせいでみんなと泣きながらお別れをすることになっちゃうかもしれないっていうのが一番怖かった。泣きながら、悲しい気持ちや怖い気持ちと向き合いながら、みんなと最後の時を迎えるなんて、あたしにはとてもできないって思ったんだ。そんな心が潰れちゃいそうなくらい辛くて、苦しくて、どうしようもない気持ちでいっぱいになることなんて。
 それくらいだったら、誰もいない場所で誰にも気づかれないまま消えた方がいい。どこに行ったのか、どこにいるのかもわからないままいなくなって、少しずつ思い出されることもなくなっていく方がずっといい。
 みんなに覚えていてほしいっていう気持ちもあたしの本音だったろうけど、そういう風に思い出されなくなっていった方がいいっていう気持ちも、たぶん、あたしの本音だった。
 だってあたしは、もうみんなと出会うことはない。一緒に旅をして、嬉しい時もつらい時も、ずっと一緒にいた仲間たちとまた同じ時を過ごすことは絶対にない。
 それなのに、あたしの中に残っている思い出は、泣きたくなるくらい眩しいものばかり。震えるくらいに輝かしい記憶ばかり。それを忘れるなんて絶対に嫌だけど、持っていることがきっとつらくなるだろうことも、あたしにはちゃんとわかっていた。
 もう手に入らない。似たものすらもう絶対に目にすることもできない。大切なんて言葉じゃ足りないくらい大切だからこそ、そんなあたしの思い出は、きっとこれからあたしの心を苛むだろう。なにより大事だから、あたしの命そのものだったから、あたしはこの旅を繰り返し思い出して、きっと何度も何度も泣くだろう。
 もう絶対に、再会することのできない大切な人たちの記憶。それをあたしと同じように持っているだろうみんなに、あたしと同じような想いをしてほしくなかった。みんなは他の仲間たちに何度でも会うことができるだろうけど、あたしもきっと旅の思い出の何分の一かにはなっているだろうから、思い出すたびにつらい気持ち、悲しい気持ちが混じることになるかもしれない。
 そのくらいなら、あたしのことなんて思い出されない方がいい。みんなを泣かせるくらいなら、あたしなんていないことにしてくれた方がいい。いつの間にかどこかに消えてしまった、そんな幻みたいに思ってくれた方が。
 あたしのこれからの人生も、そういう風であればいい、なんて風にも思った。あるのかないのか、覚えているのかいないのか、そういうこともはっきりしないまま、眩しい想いだけを胸の奥に封じ込めていられればいいって。なにもかもが幻だったみたいに。あたしの人生そのものが、それこそ、夢だったように。
「――なにをいまさら情けないことを考えているんだ、お前は」
「あっ………」
 あたしは自分の心臓がどきんっ、と跳ね回るのを感じた。おそるおそる振り向いて、予想通りの相手がそこにいたことに、どうしようもなく泣きたい気持ちになる。
「……ローグ……」
「おう、俺だ」
 王子さまなのに、いつも通りのライフコッド流の、つまりはすっごく庶民的な格好で、王さまよりも偉そうにローグは鼻を鳴らしてみせる。いつも通りのローグが、こんな時にあたしの前に来てくれたことに、あたしはどうしようもなく体が震えて、まぶたが熱くなって、くるっとローグに背中を向けないわけにはいかなくなった。
 ローグは静かにあたしの背中に歩み寄り、そっと背中からあたしを抱きしめる。うっ、と喉の奥が鳴って、堪えきれずに瞳の端からぼろっと涙がこぼれ落ちた。
「どうせまた『あたしはもうみんなから忘れられちゃった方がいいのかもしれない』『みんなに悲しい思いをさせたくない』なんぞとしょうもないことを考えて、こんなところで一人で仲間の誰にも会わずめそめそしていたんだろうが……もし本当に誰にも挨拶できないままいなくなったらどうする気だったんだ。そっちの方がよっぽど全員に悲しい思いをさせるだろが。俺が主人公≠カゃなかったら、ことによると本当にお前を一人ぼっちで行かせる羽目になりかねなかったんだぞ」
「っ………」
「ま、俺は天地開闢の時から運命づけられた主人公≠ナあるがゆえ、そんなことは当然起こりえなかっただろうがな。お前がなにをしようと最終的には幸福以外になりようがないんだから、かまわないっちゃかまわないんだが」
 いつもと同じ、この世の誰より偉そうな言い草。いつもと同じ、どんなに『王子さま』を尊敬してる人だって呆れちゃうだろう言葉。
 ――いつもと同じ、世界の誰より愛してる人に向けるみたいな、優しい声。
「……っローグぅっ………!」
 もう、もう、もう。あたしはどうしようもなくなって、緩くあたしを締めつけるローグの腕の中で振り向いた。真正面から泣きじゃくりながら抱きついてくるあたしを、ローグはやっぱりいつもと変わらない偉そうな顔で、びっくりするくらい優しい腕で受け止めてくれる。
 もうどうしようもないのに。もうあたしは夢の中へ消えていくしかないのに。それでもローグの前に来ると、あたしはローグと会った時と、ちっとも変わらないあたしに戻ってしまう。ローグのことがちっともわからなくて、それでもどうしても気になってしまうあたし。不安ではちきれそうなくせに、優しく受け止められなだめられて、なんとなくほっとしてしまうあたし。ローグのことが、好きだなって、大好きだなって、自分でも気づかない心のどこかでこっそり思っちゃうあたしに。
 そしてローグは、そんなあたしの気づかないあたしにまでちゃんと気づいて、当たり前みたいな顔で笑ってくれる。あたしを甘やかして、贔屓して、お姫さまみたいに大切にしてくれちゃうんだ。
 ――こんな、お別れの時にでも。
「寂しいっ……、けれど、そろそろ、お別れの、時が……来たみたいね……。ほらっ、あたしはみんなと違って、自分の実体がなかったから……っ」
 あたしは泣きながら、それでもちょっとでもちゃんとしなきゃ、ちゃんとローグにお別れを言わなきゃって顔を上げて訴える。もうわかりきってるだろうことを繰り返しちゃうくらい、みっともない言葉にしかならなかったけれど。
 あたしの体の周りに、光が瞬く。その光はあたしを包み込んで、溶かしていく。空気に、世界に――夢の中に。
「………ああ」
「さよ……っ、さよ、うなら、ローグ……」
「ああ……」
 消えていく。あたしが、消えていく。この世界に、現実に、繋ぎ止められていたあたしは、夢の中のライフコッドのように、最初からそこにいなかったみたいに消えていく。
 わかっていたことだ。決まっていたことだ。知っていたことだ。ローグに初めて会った時から。ラーの鏡を覗いた時から。本当のことを、知った時から。
「みんっ……なに、も、よろ、しくね……。あたしは……っ、あたしは、みん、なのこと、絶対に、忘れないよって……」
「ああ」
「あたし……っ、あたしはっ……」
「―――バーバラ」
 ローグが笑う。大好きな人が笑う。王子さまみたいに優雅に、優しくあたしの手を取って指先にキスしてみせる。こんな時なのに顔がカッと熱くなるあたしに、また笑いかけてみせる。
「言っただろう? 幸せにしてやると。心配するな。お前がどこに消えようと、その程度のことで俺の言葉は覆らん。なにせ俺は、世界すらぶっ飛ばせる主人公≠ネんだからな」
「ロ、ーっ……」
「だから、待っていてくれ。夢の中で」
 そう言ってあたしの手を祈るように握り締める手の上に、ぽろぽろこぼれる端から、あたしの涙は消えていく。必死にローグの手を握り返すあたしの手も、みるみるうちに薄くなっていく。あたしはもう現実には留まれないんだって、どうしようもなくわかってしまう。
 それなのに、あたしの心は、ローグの言葉にたまらなく喜んじゃって、天にも昇るみたいな気持ちになっちゃって、根拠なんてまるでないのにローグの言葉を信じる気持ちになっちゃって。
 だからあたしは、どうしようもないことを知っているのに、その気持ちのままにぽろぽろ涙をこぼしながら満面の笑顔をローグに向けて、言ってしまうんだ。王子さまの言葉を当然みたいに信じるお姫さまと同じように、自分が大切にされてるって知ってる女の子の顔で。
「うんっ……! 待ってるね、ローグ……!」
 ――その言葉を最後に、あたしは現実の世界から消えた。

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