ある泣いていた詩人のお話
 あたしはふと、顔を上げた。ゼニス王の城、中庭での魔法の実践訓練の時間。今日もきれいに晴れ渡っている空を、ちょっとの間呆けたような顔で見つめてしまう。
「どうしました、バーバラさん」
「あっ! いっいえっ、なんでもないですっ!」
 先生に柔らかい口調で注意され、あたしは慌てて魔法の訓練に戻った。ゼニス王の城で教わる魔法は、ダーマ神殿での転職で覚えられる呪文とはタイプが違う。転職で使えるようになった呪文の数と威力だったら、あたしはこのお城にいる誰と比べてもぶっちぎりでトップだろうけど、この城で学ぶのはそういうじゃなくて、文字通りの魔法――『世界を変えるもの』だった。
 この世界の夢を束ねているというゼニス王。あたしは正直それがどういう意味なのかよくわからなかったんだけど(今もあんまりわかってる自信はないんだけど)、ゼニス王のお仕事はつまり、『世界を在るべき形に保つ』というものらしい。
 デスタムーアみたいな悪い奴とか、なにかの拍子で世界の調子が狂ってしまった時とかに、世界がそこに住む人たちごとおかしくなってしまわないように、世界の調子を整える、みたいな。夢≠チていうのは、そもそもそういう力を持っているものなんだって。
 でもゼニス王自身は、原因そのものを取り除けるほどの力は持っていないから、悪い奴とかに封じられることも普通にあるし、世界の調子がもう狂わないようにする、みたいなこともできないみたいなんだけど。そういうのは、ローグやあたしたちみたいに、ダーマ神殿で転職したりして、『勇者』と呼ばれるようになった人が担当することになってるんだって。
 なので、あたしがゼニス王の城(本当はクラウド城って名前がついてるんだけど、馴染みがなくってあたしはほとんど使ってない。ゼニス王≠フ城って言うようになったのも、この城に来てしばらく経ってからだし)で学んでいるのは、そういう、世界の調子を整えたりするような、あたしの想いを使って世界の形を変えてしまう、そういう不思議な『魔法』だった。やろうと思えば、デスタムーアみたいに狭間の世界を創ることだってできちゃうような。
 あたしは最初の頃怖気づいちゃって、何度も『あたしなんかにこんな魔法教えちゃっていいんですか』って聞いたんだけど、先生たちはいつも笑って取り合わない。『世界を救った勇者のパーティの一人であるあなたが、正しく使えないはずがありません』って感じに流されちゃう。
 ……あたしは、そんな風に言いきれる自信なんて、最初っから全然持ってないのに。
 先生の言われるままに、呼吸を整え、世界の魔力と同調して、世界を少しだけ変えてみる練習をしながら、あたしはこの城にやってきた頃のことを思う。カルベローナから旅立って、ルーラを使い一瞬でこのお城にたどり着き、魔法を教わり始めた頃のことを。
 あたしは、あの頃――そして本当は今も、すごく不安定だった。寂しかったし、つらかった。苦しかったし、悲しかった。世界で自分がただ一人、みたいな気がしてたまらなかった。
 ローグと――大切な仲間たちと別れ別れになって、もう二度と会えないんだって、はっきりわかってしまったから。涙が溢れて止まらなくなって、一人隠れてすすり泣くこともしょっちゅうだった。
 カルベローナのみんなにも、このお城の人たちにも、気づかれないようにしてはいたけど、あたしは自分をまるごと騙さなければまともに嘘もつけなかったやつだから、気づいていた人ももしかしたらいたかもしれない。
 だからカルベローナに――あたしの人生の跡がどうしても見えてきてしまう場所にいるのがつらくて、このお城に逃げるようにやってきた。もともとカルベのおばあちゃんに勧められていたことではあったから、怪しまれるようなことはなかったけど。それでも、あたしが『普段のあたし』って思えるようなあたしでは、とてもいられなくて。
 そんな時に、こういう魔法を習い始めた。世界の在りようを整える魔法、使いようによっては世界の形を大きく変えてしまう魔法を。
 夢の中でしか覚えられない魔法。幻想を世界に引き入れる魔法。自分の思うがままに世界を変えることすらできちゃうかもしれない、そんな魔法。最初、あたしは必死になってその勉強と練習に打ち込んだ。なにかやることがなければ、打ち込めることがなければ、あたしには膝を抱え込んですすり泣くことしかできそうになかったから。
 けれど、今は、あんまり気が進まない。その魔法の、勉強も、練習も。
 もしかしたら、あたしはこの魔法を、想いのままに使ってしまえば大変なことになる魔法を、使ってしまうかもしれないと思い始めたからだ。もう会えない、別れ別れになってもう二度と、顔を見ることも、話すことも手をつなぐことも抱きしめることも、笑いかけてもらうこともできないあの人たちに、もう一度会うために――世界そのものを変えてしまうかもしれない、そんな風に思い始めたからだ。
 それはデスタムーアと、あたしたちみんなが必死になって頑張って倒したあの大魔王と、同じことをするってことだ。そんなのは絶対いやだし、他の人に迷惑もかけたくない。そんなことは絶対にしたくない――
 なのに、あたしは、その魔法を学ぶ時習う時、ときおり一瞬だけれども夢見てしまう。夢の世界の住人であるあたしたちに許されたただひとつの夢、一時の夢想で。あたしがなにもかもを放り捨てて魔法を使い、世界の形を思う存分に変えて、あの人たちにもう一度会いに行くさまを。あの人たちが笑ってあたしを迎え入れてくれて、もう一度会えて嬉しいとあたしを抱きしめてくれる夢を。
 そんなわけはないのに。あたしがそんなことをしてしまえば、世界はまた壊れてしまって、あたしは倒されるべき大魔王になってしまうのに。そうなったあたしを、あの人たちが笑顔で迎えてくれるはずはないのに。
 どうしても、何度も何度も夢見てしまう。もうどうしようもないことを。祈ったところで意味のない願いを。絶対に許されない夢幻を。
 だってあたしの人生は、このあたし≠ェ持ちえた命の形は、あの旅の中にしかなかったんだから。

「未来……です、か?」
「うむ。我らの未来の形として生まれゆく卵。それを孵す手伝いをしてもらいたいのだ、バーバラよ」
 ゼニス王さまとの一月に一度の謁見。その時に、ゼニス王さまに真剣な面持ちでそう言われ、あたしは戸惑った。
「えっと……卵って、あの、東の聖堂前に置かれてる、卵ですよね? それが未来、って……?」
「うむ。お主も既に聞き知っていると思うが……あの卵は、孵れば中から我らの未来が生まれてくるものなのだ。そういう存在となるように、我々が『創った』。意味がわかるな?」
 正直あたしはよくわからなかったんだけど、ゼニス王を警護してる兵士さんなんかが必死に目配せしたり、こっそりジェスチャーしたりしてくるのをしばらくぽけっと眺めてから、ようやくはっ、と気づいた。
「あの……あたしが今習ってる魔法を使って、『世界がそうなるように変えた』……ってことですか?」
「うむ、その通り。『未来が生まれてくる卵』と世界そのものに概念を刻み込み、世界の在りようを変えた。我らのみの知るこの魔法、夢見る魔法を使わねば、それは損なうことも変えることもできぬ。それこそ大魔王であろうとな」
「…………」
「本来、我らはあの卵を、大魔王デスタムーアに抗すべきものとして創った。世界の未来として孵る卵は、世界そのものを支配せんとするデスタムーアを打ち滅ぼす、世界の希望として生まれゆくだろう、とな」
「え、でも……」
「うむ。結局、その機会は訪れなかった。ひとつにはデスタムーアの動きが我々の予想よりはるかに早かったせいでもあるが、もうひとつにはあの卵が孵るために必要となる力が、我々が考えていた量をはるかに上回っていたためだ」
「力……ですか?」
「うむ。それはひとつには魔力だ、そなたたちカルベローナの魔法使いたちですら、数千、数万という数の者の魔力を振り絞らねば、卵は中の存在が生まれ出でる出発地点にすら立てん。単純に、栄養不足ということだな」
「はぁ……」
「そしてもうひとつには、未来の形だ。よりよい未来を形作るためには、世界に希望――夢を見ることができる者でなくてはならぬ。そしてそれは、夢の世界の住人――人の想いのみにより成る者には不可能なことなのだよ。人の想い、夢見る力によって成る者は、人の夢想、あえて乱暴に言い換えれば欲望の集積。現実の世界を知り、真正面から見つめ、よきも悪しきもどちらも知った上で、選択し進みその結果を引き受ける――夢見る力、希望を抱く力は、そういった現実世界の人間にのみ許された奇跡なのだから」
「……あ、の……それだったら、あたしももう、その、ふさわしくないんじゃないですか? だってあたしはもう、夢の世界の住人なんだから……」
「いいや、それは違う。勇者と共に世界を救ったそなたは、生まれついての夢の世界の住人には収まらぬ、魂の力を持っておる。世界で最も厳しい旅を続け、世界の不幸とも恐怖とも絶望とも、絶えず向かい合って克服してきたそなたは、むしろ現実世界の人間よりもはるかに強く、夢見る力を有していると言ってよかろう」
「…………」
 そうだろうか。あたしには全然、そうは思えない。だって、そんな風に、いつも怖いもの、辛いことと真正面から向き合ってきたのは、ローグなんだから。あの旅のなにもかもの面倒を看て、世界を背負って突き進んでいったのは、ローグ一人だけなんだから。
 他のみんなはそんなローグの助けになってたって思うけど、あたしはただ、ローグの後ろを、にぎやかしながらついていっただけ、で。
「あの卵より生まれくる未来に、形を与えるのはそなたをおいて他にない。カルベローナの魔女バーバラよ。バーバレラの血と力を受け継ぐ者よ。どうか我が願いを聞き届け、あの卵を孵してはくれまいか」
「………………」

 その言葉を断るなんてできなかったから、あたしは毎日卵の前に立って、必死に魔力を送り込んでいるわけなんだけれど。
「先生……いいんですか? これを授業の代わりにする、なんて」
「もちろん、よいですとも。むしろこれはこれ以上ない実践訓練となりましょう。世界の未来を、世界全ての人々が、希望を抱けるよう形作る。世界を変える魔法の、これ以上ない使い時です。あなたのこれ以上ない豊富な魔力を、思う存分使いこなし、卵を孵してくださいね」
「はぁ……」
 あたしは半ばため息をつくみたいな返事をして、卵に向き直った。あたしの体よりも大きいんじゃないかってくらいでかい卵に、世界を変える魔法を使う。ここゼニス王の城で習い覚えた、世界を変える魔法、夢見る魔法を流し込んで、世界がよりよくなるように、みんなが希望を抱けるように、と祈りながら魔力の形を変えていく。
 それに手を抜いてはいなかったけれど――それでも、あたしは、不安な気持ちを打ち消せなかった。あたしの中にある、泣きじゃくってる子供みたいな気持ち、生と命のすべてを奪われたって絶望する気持ち、ローグやみんなとまた会いたいってわんわん喚いてる気持ちを消し去ることは、どうやったってできなかったからだ。
 どれだけ祈っても、願っても。あたしの中にはいつも、そんな夢幻を希う想いが巣食っている。それが正しいものじゃないことは、あっちゃいけない想いだってことは、よっくわかってるつもりなのに。
 だって、あたしに与えられた生は――あたしが心の底から、これが自分の人生だって言いきることができる時間は、あそこにしか、ローグやみんなと一緒に旅をした時にしかなかったからだ。それが本当は、あたしの肉体が死を迎えた後の、かりそめの時間だったとわかっていても。あたしが夢の世界への不帰の路をたどるより前の、わずかな一時にすぎないと最初から知っていても。
 だって、あの旅は――ローグやみんなと一緒の旅は、本当に、本当に楽しかった。心の底ではやがて訪れる終わりを知っているくせに、知らないふりをして楽しく笑い騒ぐことができるくらいに。
 大地を歩き、山を越え、時には海を渡り、空を飛び回って、世界を巡る。そこに住む人たちと言葉を交わし、力を振り絞って手助けをする。魔物と戦い、敵を倒し、人を救って感謝の言葉を受け。時には冷たい言葉を投げかけられることもあったけど、それでもあの旅は本当に楽しかった。辛いことがあっても、最後には絶対大丈夫だって、みんなに一番いい結果が訪れるって、心の底から信じることができていたから。
 だって、ローグがいたんだもの。あの傲慢で、偉そうで、どんな人相手でもめっちゃくちゃ上から目線のあの人なら、最後にはみんななんとかしてくれるって、当たり前みたいに思うことができていたんだ。
 なんであんなに当然みたいに信じることができていたのかって、今思うとちょっと不思議なんだけど――でも、少なくともローグは、一度やると言ったことを違えたことは一度もない。どんな障害があっても、最終的には全部なんとかしてみせた。あの死ぬほど偉そうな、傲岸不遜な顔で、『俺にこの程度のことができないとでも?』とか言いながら。
 口元がいつの間にか緩んでいたのに気づき、あたしは慌ててきゅっと口に力を入れる。体と気持ちを引き締めて、魔法を使うことに集中する。実際、この卵に魔力を注ぎ込むのは、魔法のいい練習になった。世界の未来を形作るなんて、あたしにしてみれば世界を創るのとほとんど同じだ。習った魔法を全部使って、それでも希望を形作れるか自信がないところは、必死に考えて新しい魔法みたいなのを編み出して埋め合わせる。
 それを魔法の先生が後ろで見ながら、時々驚いたり感心したり感嘆したり、「あなたはまさに魔法の天才ですね!」とか言ってきたりもしたけど、あたしはそんな言葉をちゃんと聞く余裕なんてなかった。あたしの中の泣きそうな気持ちにできるだけ蓋をして、夢幻を希う気持ちに見ないふりをして、幸せな気持ち、幸せな未来だけがこの卵に与えられるようにって必死になっていたからだ。

 そして、どれだけの時間が経ったのか、あたしにはもうわからなくなってしまった頃、『世界の未来』であるという卵は、孵化の時を迎えた。
 唐突に卵が揺れ出し、脈動がそばにいるだけではっきりと伝わってきて、今にも殻にひびが入りそうになっている、という状況を見て取った卵の管理役を任されていたおじさんは、大慌てですっ飛んでいってゼニス王を呼んできた。時間の余裕がないからか、そもそも最初からその予定だったのか、いつからか魔法の先生もあたしを監督し続けるのをやめていたので、卵の孵化に立ち会うのは、あたしと、管理役のおじさんと、ゼニス王だけってことになる。
「すごい……いよいよね」
 あたしが思わずぽつり、と呟くと、卵の管理役のおじさんが勢い込んでうなずく。
「ああ! 生まれる、生まれるだよっ!」
「うむ……。ついに育ったのじゃ、我々の未来が……」
 ゼニス王もそう重々しく相槌を打ったけれど、興奮の色は隠せていない。あたしはようやく与えられた仕事が終わる、みたいなほっとした気持ちと、本当にあたしは任せられた仕事をちゃんとできたんだろうか、っていう不安な気持ちと、両方に揺り動かされて、心臓をどきどきさせながらじっと卵を見つめ、呟いた。
「どんなのかしら……あたしたちの未来は……。あ! 生まれるよ!」
 あたしが思わず叫んだのとほぼ同時に、卵はぱかっ、と音が聞こえてきそうなほどごくあっさりと、左右に割れた。
 ――とたん、目の前を眩い輝きが満たす。虹かと思うほどとりどりの色の、眩しい光。それがあたしの視界を閉ざし、一瞬意識を混濁させる。世界そのものが光になってしまったかのような、輝きですべてが埋め尽くされる。
 そんな、あっという間のような、長い時間のような、ただ光だけですべてが満たされる時が過ぎ――たかと思うと、一瞬で戻った視界の中に残されたのは、空白だけだった。
「………え?」
 思わずぽかんと口を開けてそう漏らしてしまう。あたしだけでなく、ゼニス王や管理役のおじさんも呆然としていた。真っ二つに割れた未来の卵の中には、眩い光のあとには、何一つ形のあるものは残されていなかったのだ。
「え……ぇ、えぇっ?」
「むぅ……これは」
「ぜっ、ゼニス王さまっ、これはいったい、どういうことだべかっ!?」
 あたしもゼニス王に視線をぶつけて問いかけてしまう。ゼニス王はちょっとの間難しい顔をしていたけれど、やがてぽつんと言葉を漏らした。
「……わからん。なぜこんな事態が起きているのか。わしにもさっぱりわからぬ」
「そ、そんなぁ……」
「わしは……というか、この卵のことを知る者はみな、この卵の中からは、神となる竜が生まれてくるのだと思っていたのだ」
「え?」
 あたしは目を瞬かせて、思わず固まってしまう。だって、それは、だって。
 ――あたしの知っている答え、そのものだったから。
「神となる竜……だべか?」
「うむ。この世界すべてを治めることのかなう、真なる神たる竜。精霊や海神のように、世界の一部を治め、捧げられた祈りを力に変えて奇跡を起こす程度の力しか与えられておらぬ神ではなく、世界そのものを創生することもかなうほどの、全知全能たる真なる神。この世界には、これまでそういった神はいなかった。それがゆえに、デスタムーアのようなやつばらにいいようにされることにもなったのだ」
「………………」
「ゆえに我々――夢の世界を束ねる者たちは、バーバラというかけがえのない存在を城に迎え入れたことを機に、真なる神を孵そうと決めたのだ。この計画は、はるか昔よりわずかずつ進められてきており、この卵もデスタムーアがこの城を襲撃した時には既に存在した。我々はこの卵をなんとしても守るため、敵からは存在すら隠すため、この城が歪められ失われる際には、この卵に隠れた。卵の一部となるように存在の在りようを変えながら、全ての魔力を振り絞って、卵の存在を敵から隠してきたのだ。それほどに、この卵の孵化は、我々の悲願であった」
「………………」
「け、けんど、卵の中にはなにもなかっただよ?」
「うむ……まさか、このようなことが起ころうとは。我々もはるか昔より、ずっとこの卵を守り続け、魔力を注ぎ続け、魔法を使い続けてきたのだが……まして、バーバラという、勇者の仲間でありバーバレラの子という、この上ない存在の魔力と肉体を母体としたのだ。神となる竜が生まれてこぬことなど、考えもしなかった……」
「――え?」
 あたしは思わず、口を開けて、問いかけてしまった。
「あたしの魔力と、肉体?」
 その問いに、ゼニス王は、あっ、と一瞬驚いたような顔をしたけれども、すぐに冷静な顔に戻って、うなずいた。
「うむ、そなたの魔力と、肉体じゃ。カルベローナの魔女であり、バーバレラの子であるそなたの魔力は、竜に変ずることすら可能にする。カルベローナが滅ぼされた折、現実世界の形を失ったそなたの肉体に残った魔力の残滓は、黄金竜へと形を変えて、勇者の旅の助けとなった。そなたも、ローグから話を聞いておるのではないか?」
「――――」
 あたしは思わず、目を閉じて小さく呻いてしまった。聞いている。知っている。覚えている。だからあたしは、ムドーとの二度目の戦いについていくことができなかった。それを知っていたから。なにもわかっていなかったくせに、知っていたから。
 あたしの魔力は竜に変ずる。勇者の旅の助けとなる竜に。それがバーバレラの子に課された契約で定めだと、あたしは知っていたから。
「すべてを夢で見ていた我々は、この城に戻ったのちに、そなたの肉体である黄金竜をこの卵の中へと招じた。そなたの肉体であり、魔力である黄金竜は、卵の中で、生まれくる真なる神たる竜の母体となった。その力の魂である、バーバラ――勇者の仲間たるそなた自身が、世界の未来を夢見る魔法をこの卵に注ぎ続けたのだ。真なる神が――この世界の未来が生まれくるのだと、わしは当然のように信じていた。生まれてこぬはずはないと、そう、思っていたのだが……」
 あたしは、まだ続くゼニス王の言葉を、最後まで聞くこともできずに、ふらりと部屋の外へよろめき出た。まだこの場にいたら、へたり込んで泣き喚いてしまいそうだったのだ。
 あたしのせいだ。世界の未来が生まれてこなかったのは、あたしのせいだ。
 だって、あたしは、未来に希望なんて抱けていなかったから。ずっと――ずっと、最初から。
 あたしは結末を知っていた。自分がカルベローナの大魔女バーバレラの末裔で、子供でもある、竜に変じるものだって知っていた。もう肉体を失った魂で、最後には夢の世界にしか帰る場所がないって知っていた。どんなに幸せな時間を過ごしたって、どんなに最高の結末を迎えたって、あたしには――この世界と、みんなとさよならする以外の道がないって、わかっていたんだ。
 だから、知らないふりをした。無意識に記憶を封じた。そうしないと、あたしには、もうどこに進む力も湧いてこないって、わかっていたから。
 けれど、進むことはできても、ローグと、みんなと一緒に幸せに旅をすることはできても、結末を知っていたあたしには、旅の最初から最後まで、希望を抱くことはできなかった。記憶を封じて、知らないふりをして、一生懸命絶望を遠ざけても、最後にはさよならするんだって、もう二度と会えなくなるんだって、どうしようもなくわかっちゃってたから。
 だからいつもどこか不安で、時々津波みたいに怖い気持ちが押し寄せてきて、そのたびにあたしは泣きそうになって、毛布に潜り込むみたいに必死に知らないふりをして、ローグに、みんなに慰められて、気持ちをごまかしてきて――
 そんなあたしに、世界の未来を生み出せるはずがない。希望を形作れるはずがない。あたしは現実からも、夢からも逃げて、優しくされることで泣きたい気持ちをごまかしてきた、どうしようもなく弱い女の子でしかないんだから。
 あたしは――あたしの旅は。
「しない……方が、よかったの?」
 ゼニスの城の外、空を翔ける雲の際、一歩踏み出せば地面へ真っ逆さま、どころかたどり着く地面があるかすら怪しい空の間際で、あたしはうめいた。
「あたし、旅なんてしないで、消えていた方が、よかった? あたしなんか――いない方が、よかったの?」
 ぼろ、ぼろぼろ。どうしようもなく、瞳から涙がこぼれ落ちる。元気で明るい女の子って言われるくせに、あたしはいつも、泣いてばっかりだ。ちゃんとしなきゃいけなかったことを、どうしようもできなくて、泣いて、逃げてばっかりだ。
 あたしは――あたしは、本当に。
「消えてた方が、よかった? 教えてよ、ローグぅ……」

『阿呆か。戯けたことを抜かすのもいい加減にしろ』
 そんな声が、聞こえた気がした。虚空から――ううん、たぶん、あたしの心の中から。
 しょうがない、だってあたしの心の中に、一番深く、多く刻まれているのはローグの言葉なんだから。ローグの心なんだから。
 どうすればいいのかわからなくて立ち止まっていたあたしに偉そうに話しかけてきた、口の悪い勇者さまの声なんだから。
「だって……だって、あたし……世界の、未来を……」
『世界の未来なんぞをお前が背負う必要なんぞどこにある。そもそもだ、ゼニス王はおまえにろくに情報を開示せずに仕事をさせてきたんだぞ? お前と深く関わるものであり、その関わり方によってはお前という存在そのものの在りようにすら関わりかねない対象に関する仕事だというのに、だ。説明不足という次元じゃない、明確な社会倫理違反だ。ゼニス王が裁判官を務める裁判所以外なら、どこだろうと訴えて勝つ自信はあるぞ』
「……あははっ……」
 あたしは思わず、小さな笑いを漏らす。聞こえてくる言葉が、本当にローグそのままだったから。あの傲慢で上から目線で、だけどとっても優しい勇者さまの声だったから。
 本当に――この声に、ずっと浸っていられたらいいのに。
『なにを笑っている。お前のような『明るく元気で深くものを考えない』ところが一番の取り柄という美少女が、そんな情けない笑い声を漏らすなんぞ許されると思うのか。脳天気な美少女にはな、その脳味噌のあったかさを馬鹿にされ、軽く見られ、その数十倍愛される能力があるんだぞ。自分の持っている能力ぐらい正しく行使しろ』
「もぉっ……ほんとに、ローグってばっ……」
 腹が立つ。腹が立つくらいにあたしの中のローグの声はローグそのもので、どうしようもなく泣けてくる。
 もう二度とこの人とは会えないのに。二度と触れることも、言葉や眼差しを交わし合うことも、気持ちをぶつけ合うこともできないのに。
『ほう? なぜそう思う。そんなことを誰が決めた?』
「えっ……」
『言ったはずだ。忘れたのか? 幸せにしてやる、と何度もな。待っていてくれ、とも言ったはずだ。お前、どうしようもなく主人公≠ナあるこの俺が、女の子相手との約束を違えるかもしれんなぞと、本気で思ってるのか?』
「え……ちょ、えっ? 待って、え、待って……」
 あたしが思わずぽかんと口を開けて、慌てふためいている間にも、あたしの心の中の声はどんどん話を先に進める。
『お前は今、寂しいんだろう? 世界に一人ぼっちのような気がして、切なくて悲しくてしょうがないんだろが。だったら助けを求めないでどうする。俺が、これまでに、お前の助けを呼ぶ声に応えなかったことがあるか?』
「だっ……だって、え? なにこれ、え、だって、でも……」
『あとはお前がどれだけ俺を信じられるかの問題だ。さ、どうする? 俺に助けてと泣き叫んでみるか、そばに来てほしいと想いを込めて名を呼んでみるか。言っておくが、気持ちや声を封じ込めて逃げようとしても無駄だぞ。お前の心が動いていることを、察する程度の知性が俺にないとでも思うのか?』
「だけど、だって……え? なんで? でも、そんな……だって……」
『言ったはずだ。俺は主人公≠セと。泣き叫ぶ少女を助ける救いの手だと。世界ぐらいはたやすく救うし、仲間の女の子の助けを呼ぶ声に応えない、なんぞという選択肢もありえん。この世界は、天地開闢の時から俺のためにある。救いたいと思う相手を救う力を振り絞る程度の余裕、いつでもひねり出してみせるさ。さぁ――』
 心の声は、いったん言葉を切って、それからすごく優しい声になって。
『――バーバラ。俺を、呼んでくれ』
 そう、震えるくらい優しく言ってくれて――
 あたしの瞳から涙がこぼれ落ちた。怖さも戸惑いも、もうあたしを止められなかった。呼んでいいのかなんてわからない、そんなことをする資格があたしにあるのかもわからない、でも、それでも。
 ――あたしに、この声に応えないなんてことは、できなかったんだ。
「―――ローグ」
 喉を震わせ、お腹の底から、溢れ出しそうな気持ちと一緒に。
「助けて、ローグ――――!!!」

 ―――とたん、世界が割れた。
 雲の上に立っていたはずのあたしの体は空に舞い、地面に落ちることもなく天を翔ける。
 手を繋ぐ。何度もあたしに触れた、優しくて、すごく力強い手。
 ローグの手だった。数えきれないほど剣を握ってきた、そしてあたしを守ってきてくれた、勇者さまで、ライフコッドの村人で、レイドックの王子さまで――主人公≠ネ男の人の手。
 手から伸びるのは陽に焼けた、しなやかだけれど逞しい腕。それを支える肩、体。その幹になる胴体、それを支える足。その上にあるのは、数えきれないほど思い出した、あたしの心になにより深く刻まれた、ローグのいつもの不敵に笑った顔だった。
「―――ローグっ!!!」
 たまらなくて、気持ちが爆発しそうで、あたしはローグに勢いよく抱きつく。ローグはそれをあっさり受け止め、あたしを優しく抱きしめて、何度もそっと背中を叩いてくれた。
 ああ――本当に。あたしは数えきれないほど、この人に助けられてきたんだ。
 つらい時も、悲しい時も。いつもそばにいて、支えてくれた。あたしを優しく包み込んで、幸せな女の子でいさせ続けてくれた。
 この人が――あたしは。
「なにを泣いている、バーバラ。俺はもうここにいるんだぞ? 泣く必要がどこにある」
「な、いてなんか、ないしっ!」
「ほう、まだ意地を張る元気があったか。上等だ。その力もなくなっていたのなら、ゼニス王につけさせる落とし前を、もう数段階はアップさせなけりゃならなくなるところだったからな」
「ちょ、ゼニス王に落とし前って、なにする気!?」
「なにをするもなにも、決まっているだろう。お前のような脳天気な美少女をここまで落ち込ませ、嘆き悲しませたんだぞ? 世界に対する反逆罪としては十二分だ。この世界の主人公として、相応の仕置きをしてやらないわけにはいかんだろが」
「なっ、や、めてよっ、もうっ!? あ、あたし、そんなに、嘆き悲しんだりして、ないし……っていうか脳天気な美少女って、なにその言い草ー!」
「万人の知る事実だろが。お前が脳天気なことも、頭を働かせるのがあまりうまくないことも、天下に並ぶ者なき美少女なことも――大切な人も、会ったことすらない人も、それぞれにそれぞれの想いをかけることができる、優しい女の子であることも、俺だけじゃなく、お前を知る人間はみんなわかってる」
「っ……」
「ようやく助けに来れた。待たせてすまなかったな、バーバラ」
 そう言って微笑むローグの顔は、ほんとに、ほんとに優しくて、あたしはまたぼろぼろっと涙をこぼしてしまった。だって、こんなの、だって。
 もう、あたしには一生訪れないものだって思ってたのに。
「いかに俺が主人公≠セとはいえ、世界のすべての人間を間違いなく救い上げられる、などという見当違いの大言は吐かんがな。それでも大切な仲間で、俺にとって一番大切な女の子が、助けを求めて泣いているんだぞ。助けんわけがないだろが。そんなこともできずに主人公≠セなんぞと名乗れるか」
「別にローグ、主人公だとか名乗ってないじゃん……あははっ」
 あたしはあとからあとから溢れる涙を、手の甲で拭いながら、それでもローグに向けて笑った。ローグと別れてからずっと、一度も浮かべることのできなかった、嬉しくって嬉しくってしょうがないっていう、心からの笑顔で。
「……そっちに注目されるとは思わなかったな」
「え? なにが?」
「バーバラ。お前、今の俺たちの状況を見て、なにか言うことはないか?」
 言われてあたしは、ローグに抱きしめられたまま、そろそろと周りを見回してみて、仰天した。
 あたしたちは空の上にいた。ゼニス王の城のように、雲の上を歩いているっていうわけじゃなく、ファルシオンみたいにペガサスとかの助けを借りてるわけでもなく、あたしたち二人だけで宙に浮いていたのだ。
 のみならず、あたしたちはくるくると、体にはほとんど負担のかからない速度で舞いながら、空の彼方まであっという間にすっ飛んでいっているのだ。こんな風に話している間も、空の色は朝焼けから青空へ、夕暮れから星空へ、とみるみるうちに幾度も有様を変えていく。
「な、なに、これ………?」
「決まってるだろが。お前、俺がどうやってお前を助けに来たのか、わかってるのか?」
「え、う、ううん、わかんないけど……そっ、そうだよ! ほんとにどうやって助けに来てくれたの、ローグ? あたしは、ゼニス王の城に……現実世界の人間には手の届かない、夢の世界にいたのに?」
「決まってるだろが。俺も夢の世界に来ただけだ」
「え……え? え、いや、どうやって? できないよね、そんなこと?」
「こう言った方がわかりやすいか。ここは、俺の夢の中だ」
「え……ええぇえ!?」
 思わず思いきり大声で叫んでしまったあたしにも、ローグは涼しい顔だ。しれっとした顔で、普通ならありえないような、とんでもないことを言ってのける。
「バーバラ。お前、ここしばらく、世界を創る魔法とやらを練習してただろう?」
「え? う、うん、してたけど……なんで知ってるの?」
「夢で見たのさ。お前が魔法の練習をしているところを、隅から隅までくまなくな」
「えぇ? ど、どうやって?」
「どうやってもなにも、お前がいたのは夢の世界だ。その様子を夢で見て、なにかおかしなことがあるか?」
「そ、そうかなぁ……」
「とにかくだ。俺はお前の受けた授業と同じことをみっちり学習したわけだ。その結果、俺がなにを得たと思う?」
「え? な、なに?」
「……まぁお前に頭を働かせるという習慣がないのは、いつものことだから流すとして」
「も、もーっ! なにその言い方ー!」
「言ってしまえば簡単だ。お前が学んだのと同じ、世界を創る魔法を身に着けたのさ」
「え……?」
「世界を創る魔法を身に着けたから、こうして夢の世界を創った。俺の夢を形にした、俺のための世界だ」
「え……ええぇぇぇえ!!??」
 あたしは心底仰天して、ローグの腕の中でじたばたと暴れた。いや、だって、そんな、そんなの、いくらなんでもむちゃくちゃだ。
「だ、だってそんなの……だって……できるの!? だって、世界を創るなんて、どうしたって……魔力が!」
「魔力の量的な問題なら、お前はとうに答えを知ってるぞ。俺がなんのために、飽きるほど不思議の木の実狩りをしてきたと思ってるんだ?」
 あ、とあたしは口を開けてしまう。そうだ――無限の魔力。人の持てる魔力量よりほんの少しだけ多くなったローグの魔力は、いくら使ったって絶対に尽きることがない。
「あ、あの時から……もう、こんなことを考えてたの?」
「それ以外のなにに聞こえた?」
「だ、けど……そんなの……いくら、なんだって。だって……こんなの、こんなの……」
「こんなの?」
「……デスタムーアと同じことをしてるって、ことじゃ、ないの?」
 本当ならこんなことは絶対言いたくない。ローグはあたしを、泣き叫んでたあたしを頑張って助けに来てくれたのに。
 でも、それはそれ以外に、どうしたって言いようのない事実だって思った。新たな世界を創るっていうのは、それこそ狭間の世界の創造と同じことなんじゃないだろうか。世界を平らげ呑み込み自分のものにする、デスタムーアと同じことなんじゃないだろうか。
 あたしたちはそれを、夢と現実双方をかき乱し滅ぼそうとするその行為を、止めるためにずっとみんなで旅をしてきたのに。みんなで力を合わせて、幾多の困難を乗り越えて、世界を救ったっていうのに。
 こんなことをするのは、旅の仲間みんなの想いを、穢すことなんじゃないかと、あたしには思えちゃったのだ。
 だけど、ローグはいつものように、余裕たっぷりに、そしてものすごく偉そうっていうか、この世に自分より偉い人間なんていないって本気で思ってそうな不遜な顔で、きっぱりはっきり言ってのけた。
「なぜそうなる。これは俺の夢なんだぞ? 自分の夢を好きなように見てなにが悪い」
「だ、だって、いつかはこの世界のせいで、現実世界も夢の世界も壊れちゃうんでしょ?」
「だから、なぜそうなる。これは俺の夢――俺という人間たった一人が見る夢の世界だぞ? 世界を形作ろうが、その世界に少しばかり他人を招こうが、大ごとになるはずがないだろが」
「え、そ、そうなの!?」
「ああ。要するにこれはただの俺の夢だ。自分の夢を好きなように見ているだけのこと。夢を形にして、はっきりした世界を創っているだけで、やっていることはまどろみの中で夢の世界を訪れるのとさして変わらん」
「え、ローグ、今眠ってるの!?」
「現実世界ではな。レイドック城で王子としての務めを日々果たしている」
「わー、そうなんだー……ローグ、いっつも王子さまって顔崩さないで生活するの、大変じゃない?」
「その程度のことができない俺だとでも? ……まぁ、堅苦しい生活ではあるがな」
「やっぱりそうなんだ……」
「言っておくが、俺はレイドックではどこにいてもどんな時でも、『誰にでも慕われる立派で頼りになる世界を救った王子さま』って役を貫いてるからな。誰かに不審がられるような下手を打つ気はない」
「えぇぇ……でもそれって、詐欺じゃない? ローグは実は王子さまってわかってからも、ずっとこういうローグだったのに……」
「どこが詐欺だ。求められる役に応えて、場に合わせた振る舞いをする。社会生活を行う際の必須技能だろが」
「うー、でもさー……」
「……ま、素の自分を見せられる相手がいない、というのは確かではあるが。――だからこそ、俺はここにお前を呼んだのさ」
「え……」
 ローグはあたしを抱きしめていた腕をそっと下ろし、手を繋ぐ形に変えた。次々有様を変える空を飛びながら、一緒に並んで先を見据える。
「夢の中ぐらい、自分の好きなものを見て、好きなように振る舞いたい。好きな奴と一緒に見れるならなお最高だ。第一、『待ってる』と言ってくれた女の子を迎えに行かないなんぞ、主人公≠ニしてにしろ、俺自身としてにしろ、俺の持っている矜持が許すわけがない」
「ロー……」
「それに。なによりだ。――他の誰でもないお前を幸せにしたいと、俺の心が告げるんだ。体から引き剥がされ、夢の世界に落ちて、なにもかもを失ってから世界を救う勇者になった、この俺の魂が。その想いに嘘をついて、ごまかしてなんの意味がある。なにを得られたとしても、なにを失ったとしても、魂に嘘をついたまま生きたところで、その生を誇れるわけも、幸福を得られるわけもない」
「ロー、グ」
「わかってるか、バーバラ? 俺は『この世でお前より大切なものはない』と、愛の告白をしているんだが」
 あたしの手を引いて空を飛びながら、ローグはにこっと笑いかけてきた。王子さまみたいに、ううんそれよりもっとずっとローグに似合った――世界を救う物語の、主人公≠サのものな顔で。
 あたしはぼろっ、とたまらずに涙をこぼす。ぽろぽろぽろぽろ、どう答えていいのかもわからないまま、ひたすら涙をこぼし続ける。だって、こんなの、泣くしかない。
 大好きな人が、世界を飛び越えて、あたしを助けに来てくれた。あたしに大好きだって、お前より大切なものはないって、そう言ってくれた。そんなの、本当に、もう、泣きじゃくるしか。
 そう、だってあたしは、この人が、優しい勇者で、誰よりかっこいい主人公≠ネこの人が、ずっとずっと、好きだったんだから。
 ローグは泣きじゃくるあたしに苦笑して、またそっとあたしを抱き寄せてから、目の前でにこっと笑ってみせて、空の彼方を指さしてみせた。
「ほら、見ろ、バーバラ。ライフコッドだ。俺の故郷があるぞ」
「あっ……」
 ローグの指差す先には、本当にライフコッドがあった。あの険しい山の上の小さな村。そこにローグの妹のターニアちゃんが、ローグとずっと暮らしてきた村の人たちが笑顔で手を振っている。
「それともカルベローナに先に行くか? サンマリーノやゲントの村を回ってもいいな。モンストルでアモスの顔を見てもいいし……テリーとドランゴは世界のどこを回っているか知らんが、俺が探せば見つけられないわけはない」
 カルベローナがある。サンマリーノやゲントの村がある。カルベのおばあちゃんや、あたしを育ててくれたみんな、それにハッサンにミレーユにチャモロにアモスにテリー、みんなみんなそこで、ローグの指差す先で、笑ってくれている。
 あたしはたまらなくなってローグに抱きつき、その逞しい胸板に顔を埋める。こんなの――こんな旅の終わりがあるなんて、あたしは思ってもいなかったのに。
 ローグはそんなの当たり前って顔で、いつものように偉そうに笑ってみせてくれた。
「さあ、行くぞ、バーバラ。準備はいいか?」
「うんっ、ローグ!」
 あたしは涙ぐみながらも全開の笑顔でそう言って、ローグと一緒に飛び立った。空の彼方、世界を越えた向こう、大好きな人たちのいるところへ。
 この世のなにより大好きな、大切な男の子と一緒に、一人では絶対に見られない、幸福な夢を見るために。

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