誰かの歌うトロイメライ
 そこはひどく暗く、深く、静かでありながら、肌が痺れるほどの圧力で満ちていた。
 かつてグレイス城の儀式の間と呼ばれた場所とそっくり同じ、城の一部だとしても、室内としては異常なほど広く、天井の高い一室。その中央には四方に牙を伸ばし、かがり火を貫いて鎖で繋ぎ、中心から伸びた柱の上に巨大な髑髏を置いた、一種異様な、巨大な壺のような建築物が建っていた。
 そして中央の壺に向けて伸ばされた階段の上には、まるで作り立てのような、湯気さえ立ている蛇のスープと蛙の干物が乗せられている。かつて、愚かな王が自国の安寧のため呼び出そうとした悪魔。それがこの世に現出し、力を振るう直前同様に、召喚の時に備えたそのままの姿を保っているのだ。
 ここまであの時そのままに創られているのは、訪れた者たちに恐怖を思い出させるためか、この空間の主にもこの場所が強く記憶されているがゆえか、それとも単純に世界を使いまわしているせいか。なんにせよ、ここまで来た以上、自分たちのやることは決まっていた。
 階段の下に馬車を残して、自分たちは階段の上へと登る。馬車にいる仲間たちの見守る前で、儀式の供え物の供された台の前に立ち、ただ、心に強く念じる。
 ――とたん、世界が朱に染められた。
 儀式の間の中央に安置された巨大な召喚具。その中に現出した、霧のような、影のような姿をしながら、圧倒的な威圧感でこちらと相対する紅の巨人。それがいつものように≠アう問いかけてきた。
『―――私を呼び覚ます者は誰だ?』
 ローグは答えずに、ただ武器を構える。それに対して、相手は――かつてグレイス城を滅ぼした大悪魔は、またもいつものように¢アけた。
『―――私は破壊と殺戮の神ダークドレアムなり。私は誰の命令も受けぬ。すべてを無に帰すのみ』
 そして、紅の巨人は変化し、凝集し、固まって――褐色の肌に深緑の、体のごく一部だけを護った鎧をまとい、中央が持ち手になった巨大な両刃の剣を握った、いつもと同じ∴ォ夢――ダークドレアムの姿となって、自分たち――先頭にいたローグに襲いかかる。それを、ローグは静かな瞳で見返し、剣と盾を構えて真っ向から迎え撃つ格好で、一言だけ、端的に告げた。

「マダンテ!」
 そうローグが一言告げた瞬間、世界が歪む。圧倒的な魔力で周囲の空間が圧縮され、押し潰され、凝縮され――それが限界に達するや、見渡す限りの空間を砕き、引き裂き、消滅させる、どんな呪文よりも激烈な爆発となって世界を覆いつくしていく。
 それが終わった、と思うや、ダークドレアムの体はぼしゅんっ、と音を立ててさっきと同じ赤い霧へと戻った。そしてまたいつものように″垂ーてくる。
『まさか、この私が破れるとは……。しかし、何者もこの私の息の根を止めることはできぬ……。私は破壊と殺戮の神、ダークドレアムなり。私を滅ぼしたければもっともっと強くなることだな。私との戦いに21ターンもかかっているようでは、真に私を負かしたとは言えぬだろう。私はいつでもここにいる。待っているぞ……』
 そしてダークドレアムの姿は消え、声も気配も、さっきまで圧倒的な威をもって周囲を圧していた存在の痕跡はかけらも感じ取れなくなっていく。これまたいつものこと≠セからだろう、ハッサンは気楽な表情でローグに近づいて、ぱぁんと音が建つほどの勢いで肩を叩いた。
「よっ、お疲れ! いつもながら見事なもんだな」
 それに対し、ローグはいつものようにふんと偉そうに鼻を鳴らして応える。
「阿呆。俺がやったのは適度に回復しながらひたすらマダンテを連打しただけだろが、回復のタイミングを見誤らなけりゃ子供でもできるわ」
「ま、そうだけどな。見た目に映えるからな、マダンテ連打は。それに少なくとも普通の子供は、マダンテを連打するなんてこたぁできねぇだろうし」
 話題がマダンテのことになったので、ベホマを一人一人にかけて怪我を治していたバーバラも近づいて話に加わった。実際、それについてはバーバラもいろいろ言いたいことがあるのだ。
「そーだよっ! カルベローナの長老さまから、もう命がけって感じで教わったマダンテをローグとか、あとミレーユやチャモロもほいほい使えるようになっちゃったってのもあれだけどさ、それが無限に撃てるってずっこいよね、ぜったいっ! インチキにもほどがあるって感じだよー!」
「世界の仕組みがそうなってるんだから仕方ないだろが、文句を言うならこの世界を創った奴に言え。実際役に立ってるんだから別にいいだろが」
「うー、それはそうだけどさー」
 そう、それはそうなのだが、やっぱりどうにも納得がいかないのだ。ローグが異常なまでに強大な魔力を得た、というかどれだけ使っても絶対に減らない魔力を得てしまったことについては。
 ローグが最初にそれを口にしたのは、もうずいぶん前のことになる。といっても、もうデスタムーア城もあらかた探索を終え、最後のレベル上げ&熟練度上げに入ってからもそれなりの時間が経過していたが。
 なぜか唐突に向かった夢の世界のアモール北の洞窟で、はぐれの悟りなんてものをいきなり手に入れて、ローグがはぐれメタルに転職して。その熟練度上げとともにダーマ神殿地下の奥から繋がっている洞窟も少しずつ探索を進めて。
 その冒険も順調に進んで、ダークドレアムなんてとんでもない代物と戦い、倒してしまったりもして。はぐれの悟りを集めて、ミレーユやチャモロもはぐれメタルに転職したりして。もうやるべきことはすべて終わってしまったんじゃないか、なんて意見が出るようになっても、ローグはまだレベル上げをすべきだ、と主張した。
「俺たちはデスタムーアの具体的な強さについてなにも知らないんだぞ。もしかしたらダークドレアムをはるかに上回る圧倒的な相手なのかもしれない。俺たちが敗れればもうあとはないんだ、少しでも勝利する可能性を高めるために、やれることは全部やっておくべきだ」
 その主張はまぁ間違っているわけではないので、全員一応納得して、みんな揃ってレベル上げに励んだ。ダーマ神殿奥の洞窟でも戦ったが、デスタムーア城の周辺でメタルキングを狩ることも多かった。全員のレベルを99にすることを目指して、とにかくひたすらに戦いの日々が続いたのだが。
 そんな日々の中、ローグは時々、全員の職業を盗賊にして、不思議な木の実狩りに行くことがあった。不思議な木の実を手に入れる方法は基本的に魔物から手に入れるしかないので当然戦いはあったが、不思議な木の実を落とす魔物というのは今の自分たちからするとずいぶん弱い相手ばかりだったので、戦い自体は楽勝だった。が、魔物たちが種や木の実を落とす確率というのはかなり低いようで、倒しても倒しても敵が木の実を落としてくれないということもそれなりにあったため、とにかくひたすらに数をこなすことになったのだ。
「ねぇ、ローグー……なにもこんなに不思議の木の実ばっかり集めなくてもいいんじゃないのー? このままの調子でレベル上げていったら、少なくともあたしたちの魔力は限界くらいになっちゃうと思うしさ」
 この場合の『あたしたち』というのは、主に後衛で呪文を扱うバーバラ、ミレーユ、チャモロたちのことだ。少なくともバーバラは、勇者の職業に就いていれば、レベル99を目指す過程で自分の魔力は人間としての限界に達する、と確信していた。
 が、ローグはいつものように偉そうに鼻を鳴らして、軽い口調で言ったのだ。
「限界には達するだろうがな。俺はできれば、限界を超えた魔力を身に着けたいと思ってるんだ」
「へ……? どういうこと?」
「ある筋から手に入れた情報なんだがな。俺たちの能力は、職業に就くことで増幅されるよな? その増幅した値が人間の限界をごくわずかに超えた値と一致すると、そいつは無限の魔力を手に入れることができるようになるんだそうだ」
「は? 無限の魔力って……どーいうこと?」
「どーいうこともなにも、そのままだ。いくら使ってもまったく減らない、汲めども尽きぬ人を超えた魔力を得ることができるんだと」
「え……えーっ! ホントにっ!?」
「さぁな。だが、そんな魔力を手に入れられれば、少なくとも継戦能力については気にする必要もなくなるし、マダンテだって撃ち放題になる。俺たちのパーティの能力は桁違いに向上するだろう。本当にそうなるという証拠があるわけじゃないが、少なくとも試してみる価値はあると思わないか?」
「うんうんっ! ……え、でもそれと不思議な木の実となんの関係が……?」
「増幅した値が目標の値とぴったり一致するには、ある程度魔力の値を操作する必要があるだろが。少なくとも俺の魔力は目標の値にはだいぶ足りないから、まだまだ木の実を集めて魔力の底上げをしなくちゃならねぇ。ミレーユも少し足りないかな。チャモロは逆に、今のペースで上昇していくと少し多すぎるかな、ってくらいだ。他の前衛連中はあんまり足りなすぎて必要な木の実の量が膨れ上がるから、今のところは考えない方がいいだろうがな」
「え? ねぇねぇ、あたしは?」
 魔法戦力としてはそれなりに自負のあるバーバラは、自分が言及されなかったことにきょとんとしながら訊ねたのだが、ローグの言葉はあっさりしていて簡潔で、かつ非情だった。
「ああ、お前は魔力が高すぎてまず無理だな。ほぼ100%目標の値を大きく越えるから」
 思わずがーん、と言いたくなるような無情な台詞だった。
 が、ローグは当然そんなバーバラの気持ちなどまるで関係なく木の実を集めてレベルを上げ、はぐれメタルの職を完全に極めて、自分のレベルを99の限界にまで上げ、さらに不思議な木の実を大量に使用して目標の値にし、結果本当に無限の魔力を手に入れてしまったのだ。予想通り魔力が限界に達したバーバラよりも、わずかに強力で圧倒的に無尽な魔力を。
 今のローグはいくら呪文を使っても、どころかすべての魔力を暴発させる呪文であるマダンテを連打しようともまったく魔力が減らない。曲がりなりにも魔法都市カルベローナの未来の長老であるバーバラは普通に減るのにだ。絶対なんかずるい、と自分が主張するのも無理はない、とバーバラは思っていた。
「まぁ、手抜きしてダークドレアムあっさり倒すってのからしてもう無茶苦茶だよな。本当ならもっと早く倒せるのに、やたらスカラとかフバーハとか使ったりして時間無駄にしてんだろ?」
「正気か、お前? こんな常識外れな能力であっさり倒すなんぞ風情がないにもほどがあるだろう。せっかくここまで強くなったんだ、あそこまで偉そうな口を叩く奴を倒す時は、全員揃って美しい戦い方で、それはもうコテンパンどころじゃなくズタボロにしてやって大きな口を叩いて申し訳ありませんでした、と土下座して靴を舐めさせるくらいのことはするのが筋だろうが」
「おー、いつもながらお前らしい外道な台詞だなー」
「っていうか、やっぱりローグも無限の魔力はずるいって思ってたんだね……」
 馬車の前でそんなことを話していると、テリーがいつも通りの仏頂面を向けて、無愛想に言ってきた。
「そんな馬鹿馬鹿しいことを話してる暇があるならレベル上げに戻るぞ。はぐれの悟りも欲しいと言っていた人数分は手に入ったんだ、ダークドレアムと戦うより雑魚を大量に口笛で呼び寄せるか、デスタムーア城の周辺でメタルキングを狩るかした方が効率がいいだろうが」
「おっ、テリーお前、珍しく普通の意見じゃねぇか。いつもだったらダークドレアムみたいな強い相手は、状況無視して全力で倒しにかかるのによ」
「……手加減して戦う奴がいる状況でそんなことをしても意味がないだろうが。それに、俺は自分の趣味で仲間を危険にさらすほど酔狂じゃない。強い相手との命懸けの戦いは、一対一だから意味があるんだからな」
「お前なぁ、そんな風にほいほい命を危険に晒す癖いい加減に……」
「ほう。面白いことを言うな、テリー」
 唐突ににやり、と笑みながら話に割り込んだローグに、ハッサンもテリーもびくりとする。こういう時に割り込んできたローグは、絶対ろくなことを考えていないというのが二人とも身に沁みてわかっていたからだろう。
「強敵との戦いは一対一だからこそ、か。なるほど、確かにその方が公平ではあるな。つまり公平でない戦いになんぞ得るものはない、と? どれだけ強い相手だろうと、一対一以外の戦いなんぞしょせんカスだ、と言いたいわけか?」
「……別に、そこまで言った覚えはないぞ」
「おい……ローグ。お前、またなんか妙なこと考えて……」
「ここまで言われては、俺も引き下がるわけにはいかんな。その一対一の戦いとやら、乗ってやろうじゃないか」
「……へ? テリーと一対一で戦うってのか?」
「阿呆か、この話の流れでそんな結論になるわけがないだろが。――俺が、ダークドレアムと、一対一で――かつ、マダンテ連打のようなインチキなしで、戦ってやろうと言ってるんだ」
『…………えぇぇえぇぇ!?』

 そうして、自分たちはまたグレイス城の儀式の間そっくりの場所までやってくることになったのだ。
 一度ひょうたん島の宿屋に戻って一日休みはしたものの、ここまでやってくるまでの戦いでそれなりに疲労はしている――はずなのだがローグにはそんな様子は微塵も見えない。いつも通りに淡々と、当然のことをしているような顔で儀式の祭壇に向かって足を進めている。
 昨日、自分たちもそれなりにローグに向かって反対の言葉を投げかけた。ダークドレアムと一対一で、しかもマダンテ連打なしで勝つ? そんなことができるのか、というかやる意味があるのか? 何人で戦おうと経験値は同じなのだから、ダークドレアムを倒すにしても全員で立ち向かった方がずっといいのではないか?
 だがローグは、そんな言葉を笑顔であっさり受け流してみせた。
「テリーの言っていた、強者との戦いは一対一だから意味があるという言葉、俺もそれなりに感じるものがあってな」
「一対一でなければ意味がないとは思わんが、一対一の、他に助けてくれる仲間がいない場合、極限状況で戦って、ダークドレアムに勝利を収めることができたとしたら、その経験はおそらく身になる。もしデスタムーアとの戦いで一人になったとしても、立ち向かう勇気を持つための勢いづけくらいにはなるだろう」
「来たるべきデスタムーアとの戦いのために、できることは全部やっておくというのは、こういうことも含まれると思うが、どうだ?」
 ……などと真面目なことを言いつつも、ローグの目の中には悪戯っぽい、と言うにはあまりに人の悪い、絶対ろくなことを考えてないだろう輝きがきらめいている。どう転んでも絶対ろくなことにはならないだろう、性格の悪い感情がびしばしと伝わってきたが、言っていることは確かに正論で反論のしようもない。
 そもそも一人と言っても馬車とファルシオンは連れて行くし、馬車の中に自分たち仲間にも待機してもらうというのだから、もし勝てなかったとしても特に問題にはならないのだ。たとえローグが負けて死んだとしても、即座に自分たちが飛び出してダークドレアムを倒せばいいだけなのだから。そのくらいの実力は、自分たちももう持っている、と思っている。
 思っては、いるのだが―――
「……ローグ、大丈夫かなぁ」
 馬車の中からこっそりと外をのぞいて、バーバラは小さく呟いた。それを聞いたハッサンがからかうような笑みを浮かべて言ってくる。
「お、バーバラ。そんなにローグが心配なのかぁ?」
「もう、ハッサン。からかわないの。ダークドレアムと一人きりで戦うっていうんですもの、心配するのは当たり前でしょう?」
「まぁ、その気持ちはわかんねぇでもねぇけどよ……あいつも言ってたじゃねぇか、もしミスって死んだとしても、その時は俺らがすぐにフォローに入れば大丈夫だろ? ちゃんと四人で戦えば、ローグを生き返らせながらでも充分ダークドレアムくらいもう倒せるんだしよ。そんなに心配するこたぁねぇと思うぜ?」
「それは、そうなんだけど……」
「ですが、生き返れるのだから死んでもかまわない、という考えはやはり健全なものとは言いかねると思いますよ、ハッサンさん。蘇生呪文はあくまで神の使命を受けた者たちが使命を果たす前に朽ち果てることを防ぐため賜る神の恩寵、本来なら命はあくまで一人につきひとつきりなのですから、魂を傷つけぬためにも少しでも死なないようにしなくては」
「それも、そうなんだけどさぁ……。っていうか、それもあるのかなぁ」
「どういうこと、バーバラ?」
「だってさ、あたしたち、そもそも死ぬことってほとんどないじゃない? 普段の戦闘じゃ絶対死ぬようなことにならないし、強敵との戦いでもほとんど誰も死んだりしないし。今までの戦いで死ぬことになったのって、みんなこっちが相手を殲滅できてないうちに、ザキとかザラキとかの即死系呪文喰らって死んだ、ってのばっかりじゃない」
「そーだな。ローグがいっつもレベル上げと熟練度上げしまくってるせいなんだろうけど」
「だから、あんまりザオリクとかザオラルとかって使わないから、なんか……もし、その時だけうまく効果が働かなくて、死んだままだったらどーしよう、なんて考えちゃうっていうか……」
 バーバラがぽそぽそと内心を語ると、しばし馬車の中は静まり返り、それから笑いの渦に包まれた。うわーんやっぱり笑われたーっ、とバーバラはちょっと拗ねて膝を抱え込んでぷいっとそっぽを向く。
「くくっ、バーバラ、お前よう……時々ホントに女の子っぽくなっちまうよなぁ」
「お、女の子っぽくってなにそれー!? あたしは元からちゃんと女の子だもんっ」
「そうじゃなくて、ね、バーバラ。そんな風にローグの心配をしているあなたはとっても可愛い、ってハッサンは言ってるのよ」
「え? へ、えぇっ!? ちょ、な、なにいきなりっ……」
「そうですよねー、やっぱり女性の可愛さにはギャップっていうのは強烈な要素ですよね! 普段は破天荒な魅力のバーバラさんが時々しおらしげになってぷいっとそっぽを向いてしまう、お約束ですがこれには男心を震わせるものがありますよ!」
「はぁ!? ちょっとアモスなにそれっ、なんかその言い方腹立つーっ」
「ですが、バーバラさん。そんなことを心配なさる必要はないと思いますよ。これまでも呪文がちゃんと働かなかったことなど一度もないでしょう? 神がそのように世界を創ってくださっているのですから安心なさってくださってかまわないかと思うのですが」
「プルリリッ!」
「ちょ、ちょっともー、だから別にそーいうんじゃ」
「おい、ちょっと黙ってろ。……戦いが始まるぞ」
 テリーの低く鋭い声に、全員が揃って口を閉じ、馬車の出入り口前に隊列を組んで万一の時に備える。やはりみんななんのかんの言いつつ心配だったのだろう。ハッサンも軽口をたたきながらも常にローグの気配を探っていたし、ミレーユもチャモロも感覚を研ぎ澄ませていた。アモス……はともかくとして、ルーキー……は反応がよくわからないから除くとしても、テリーも最近では珍しく神経をハリネズミのように尖らせてローグを見ていたのだ。
 それは、わかっている。みんなローグのことをちゃんと心配して、気遣っている。大切にしている。どんな時だって支えてくれているのがよくわかる。ローグの方だって仲間たちを大切にして、護って、頼りにしているとわかっている。
 なのに、どうして。――どうしてバーバラは、最近のローグを見ると、『消えてしまいそうだ』なんて思って、不安でしかたなくなってしまうのだろう。
 自分たちの見つめる中、いつものように襲いかかるダークドレアムに、ローグはいつものように淡々とした表情でラミアスの剣をかざしてみせた。

「っ………ローグ――――っ!」
 バーバラは思わず馬車から飛び降りて、ローグに駆け寄った。じっと消え去ったダークドレアムの方を見ていたローグは、ごく気軽な動作で振り返り、にやっ、といつもの不敵な笑顔で笑ってみせる。
「おう。どうしたバーバラ」
「どうしたじゃないよーっ! もう、ローグってばすごいすごいすっごーいっ! まさかホントに一人でダークドレアム倒しちゃうとは思わなかったっ!」
「なにをいまさら。俺が今までやってみせると言ったことをできなかったことがあるか?」
「あははっ、ほんっとにローグってばどんな時もえらそーなんだからっ! でもいいや、今は許しちゃう。今回はほんっとに頑張ったもんねっ!」
 そう、ローグは本当に頑張った――命懸けで、ぎりぎりの戦いを乗り越えた。これまでのように、圧倒的なレベルと特技で完封するのではなく、どれだけ高いレベルを持っていても一瞬の判断が死を招く戦いで、全身全霊を振るい、一瞬の遅滞もなく剣を振るい続ける戦いを、えんえんと、ダークドレアムが『私との戦いに62ターンもかかっているようでは〜』なんぞと言われてしまうほどの長い時間ずっと続けていたのだ。
 全身汗みどろで、回復はすでに終えていたがそれでも流れ出た血と返り血で血まみれ。全身に疲労がのしかかっているだろうに、それでもいつものように偉そうに笑ってみせるローグに、バーバラは微笑んで、えらいえらい、と頭を撫でてやった。
「……おい。バーバラ」
「ん? なーに?」
「……………………。まぁ、いい。なんでもない。心配かけてすまなかったな」
「うっわっ、珍しーっ、ローグがすっごい殊勝っ!」
「俺はいつでも謙虚な心持ちを忘れていないつもりだぞ。表面に出すことがまったくと言っていいほどないだけで」
「それ全然意味ないじゃん! もうっ」
 と怒ってみせながらも、バーバラの顔は笑っていた。いつものように無茶なことをしてくれたけど、それでもいつものようにローグはその無茶をやりきってくれた。自分にいつもと同じ、偉そうな笑顔を見せてくれた。それがなんだか、嬉しくて、胸が浮かび上がりそうなくらいふわぁーっとして。
 ローグ、カッコいいな、なんて、普段は恥ずかしくて考えることもできない台詞が心の中に浮かんできたりしてしまったのだ。
「はいはいお二人さん、いちゃつくのはその辺で終わりにしとかねぇか?」
「邪魔するようで悪いのだけれど……ローグも疲れているだろうし、一度ひょうたん島に戻って休まないかしら?」
「そうですよー、ローグさんが一人でダークドレアムを倒した記念の祝杯を上げなきゃいけませんからねっ!」
「プリッ!」
 自分と同じように馬車を降りてきた仲間たちが口々に言った言葉に、バーバラは思わず顔を真っ赤にした。
「ちょ……い、いちゃついてなんてないでしょーっ! なに言ってんのよハッサンのばかっ!」
「いやぁ、あれがいちゃついてないってんなら俺の目か耳がおかしいってことになるんじゃねぇかと思うぜー?」
 そんなことを言いつつ、ハッサンは歩み寄ってきて、ぽんとローグの頭に掌を落とした。
「お疲れさん」
 それにローグは即座に脛に蹴りを入れつつも、ふんと仏頂面で鼻を鳴らす。
「阿呆か。この程度で疲れるほど俺の心身がやわだと思ってるのか、お前この旅の間どこに目をつけてたんだ」
「へいへい。ま、そうだとしてもよ、俺としちゃなかなかいいもんを見せてもらったと思ってるからな。ねぎらうくらいはさせてくれってことだよ。今日は俺らがおごるから、早くひょうたん島に帰ろうぜ。風呂に入ってさっぱりしてから宴会といこうじゃねぇか」
「……ふん。――わかった、ありがたく受けさせてもらう」
「わーっ、めっずらしー、ローグがお礼言ってるー」
「バーバラ、お前俺のことをすさまじく傲慢な奴だと思っていないか?」
「え……い、いやそこまで思ってるわけじゃないけど……」
「そうだな、俺は自分を傲慢な人間だとは思っていない。ただ言動が果てしなく傲岸不遜なだけだ」
「それあんまり変わんないじゃんっ! もうっ」
 笑いながら、バーバラはローグと一緒に歩き出す。ひょうたん島へ、自分たちの帰るところへ戻るのだ。そして、みんなで一緒に、楽しいことをしよう。明日からはまた、戦いの日々が待っているのだから。

「――お疲れ」
「それはもう聞いた」
「ま、確かにな。けど、実際お前頑張ってたからな。あんな風にお前が一生懸命になったとこ見たの久しぶりだったし。こんくらい言わせてくれや」
「………ふん」
「で、どうだ。ちょっとは気が晴れたか?」
「別に気を晴らすためにやったわけじゃないが?」
「ふぅん、じゃあなんのためなんだ?」
「…………。そうだな。ただ、区切りをつけたようなものだ。レベル99になって、無限の魔力も手に入れて、俺にできることは全部やって――だから、記念碑的なものがほしくなったのさ。一人で一番の強敵を倒すというのは、わかりやすいトロフィーだからな」
「それに、あいつくらいしか今の俺らの相手になる敵っていないしな? お前レベル上げするのは好きだけど、弱い者いじめは別に好きじゃないし、限界まで強くなったってのに拳の振り下ろし先見つかんなかったんだろ?」
「…………――――。好きに思っていろ」
「おう、そうさせてもらうぜ。ま、俺も似たようなこと考えてたからな、自然とそう思っただけなんだけど」
「………そうか」
「おう。……俺ももうレベル99になってるんだったよな?」
「ああ」
「よし……なら、俺もお前にならってトロフィー獲得を目指してみっかな。実際、引退にはいい区切りになりそうだ」
「……引退?」
「おう。お前もそうしようって思ってたんだろ? レベル99になったんなら、もうどれだけ経験値稼いでも意味ないしな。お前は主人公≠セから旅からは降りれねぇけど、他の面子はできるだけ早めにルイーダの酒場で待機してねぇと、今ルイーダにいる奴らのレベルを99にできねぇだろ?」
「…………」
「自分にできることは全部やる、ってお前が言ったのは、そういう意味でもあるんだろ?」
「……単純に、結果が予測できない時は、状況に対処できるように戦力をできるだけ高めておく、という戦術思考に従っているだけだ」
「その方が被害も少なくなるだろうしな? ま、そのために殺される魔物はいい迷惑だろうけどよ」
「そうだな――もし魔物に意志があるんだとしたら、これほど迷惑な話はないだろうな。明確な脅威に対処するためではなく、ただ、『なにが起こるかわからないから』『わずか十六の戦術ユニットを強化するために』殺されるわけだからな。それも、数えきれないほど大量に」
「はは、だな。――わかってるから、いちいちそんなに気ぃ遣わなくてもいいって」
「なにを言っている。なんで俺が貴様ごときに気を遣ってやらなきゃならん。そんな理由どこにもないだろが」
「へいへい。……ま、そんなわけだから、俺は明日、一人でダークドレアムに挑んでみるつもりだ。まぁ、馬車でみんなにもついてきてもらうけどな。んで、それに勝ったら、ルイーダに行く」
「―――そうか」
「おう。……心配するなよ。お前が俺が必要だ、と思ったら、どこにいても飛んでいくからよ」
「やかましいわ鶏モヒカンマッチョ、貴様風情に面倒見られるほど俺は自分に絶望してねぇ。俺のことを気にするより自分の頭の蝿を追いやがれ」
「はは、そうだな。――けど、俺はたぶん、俺がどんなに困ったことになってても、お前のことの方が気になると思うぜ」
「――――――」
「なんでか、なんてのはわかんねぇし、考える気もねぇけどさ。俺にとっちゃ、そんなんどうでもいいことだからな。ただ、俺は必要ならいつだってお前の力になるつもりだから、頼りにしてくれよ、ってこと。少なくとも俺は、離れたからそれで終わり、だとは思ってねぇぜ」
「―――………そうか。馬鹿だな、お前は」
「俺ぁ別に利口になりたいわけじゃねぇからな」
「俺の魔の手から逃げ延びられるんだ、喜び勇んで放り捨てていけばいいものを。お前の脳味噌には損得勘定だの因果応報だの生物として当然の理屈も入ってないのか?」
「言っただろ、俺ぁ別に利口になりたいわけじゃねぇって。……お前がなに考えてるかはだいたいわかるけどよ、悪いが俺にゃあそんなんどうでもいいこったからなぁ。俺は、今ここにいるお前を……レイドックからこっち一緒になんだかんだやって、偉そうで口悪くて手癖足癖も悪くて、そのくせいろんなことをなんとかしようなんとかしようって必死になってるお前のことを、相棒だって思ってんだからよ。いくらだって手も貸すし俺にできることならなんだってやってやる、できねぇことも死ぬ気でやってやる。そう言っただろ?」
「………お前は……本当に、ものを考える力を持ってないのか。ギブアンドテイクって言葉を知ってるか。一方的な奉仕は健全な関係を破壊するぞ」
「お前はもうお前に返せるものは返してるだろ? お前にできるありったけで。俺はそれに応えてるだけだよ。じゃ、おやすみ」

 戦場よりはるか後方の馬車の中で、バーバラははらはらと手を握り締めながら戦いを見つめた。視線の先で、ハッサンは次から次へと繰り出されるダークドレアムからの攻撃に耐えながら、何度も何度も正拳突きを叩きつけている。
 こちらまで風圧が飛んでくるほどの激しい戦いに、バーバラはどうにもハラハラしてしょうがなかったのだが、横で自分と同じように戦いを見ているローグは平然としていた。ごく淡々とした表情でハッサンを見つめているだけで、眉ひとつ動かさないし声すらろくに出さない。
 こんな時でも冷静なのはすごいとは思うけど、なんにも言わないのはどうだろう、とつい横顔を見上げてしまうと、ふいにその顔がこちらを向いた。
「なんだ、バーバラ」
「え、いや、あの……ハッサンに、指示飛ばしたりしないのかな、って」
「別に、今のところは必要ないからな。あいつも俺の考えることくらいはわかるようになってるんだ、いちいち命令する意味がない」
「え……そうなの?」
「ああ」
 当然のように言われて、バーバラはちょっとしゅんとなった。バーバラは、もう旅の終わりが近づいている今でも、ローグの考えることがよくわからないことがしょっちゅうある。ハッサンのように、当然みたいに以心伝心できるのには、いったいどれくらいかかるんだろう。
「……おい、バーバラ。そんな風に可愛い顔をして拗ねるんじゃない。慰めたくなるだろが」
「! な、ちょ、な……」
「第一今は拗ねてる暇なんぞないぞ。めったに見れない好ゲームだ、視線を逸らしてる暇なんぞない」
「え……ゲームって、だって、あんな真剣勝負なのに?」
 きょとんとしてバーバラが問うと、ローグは視線をハッサンたちに向け固定したまま、ふん、といつものように鼻を鳴らして肩をすくめる。
「あいつはダークドレアムなんぞに殺されたりはしないんだ、別にゲーム扱いでも問題ないだろう。――見てろ。あと三手だ」
「え……」
 バーバラが視線を戻した先で、ハッサンはずんっ、と大きく踏み込んで、周囲の空気が渦巻くほどの勢いで正拳をダークドレアムに叩き込んだ。ダークドレアムは大きく飛び上がって武器をハッサンに突き刺し、目にも止まらぬ早業で何度も斬りつけ、ドラゴン斬りを放ち、と連続攻撃を放ってくるが、スカラをかけて岩より硬くなったハッサンの体は、その攻撃をまともに受け止めつつもびくともしない。
 さらにダークドレアムは鎌鼬を放ち、メラゾーマを唱え、グランドクロスを放ち、と苛烈な攻撃を仕掛けてくる――しかし、それでもハッサンは退かずに、周囲に響き渡るほどの大声で気合を放ちながらまたも正拳突きを叩き込む。それをまともに受けたダークドレアムは、その巨体を大きく後方へと退かせた。
 それを立て直そうとしつつ、周囲すべてを薙ぎ払う波動を放とうとしたのだろう、雄叫びを上げるために息を吸い込む――そこへ、ハッサンは体中を血まみれにしながらも飛び込んで、大音声で気合を放ち――
「はあぁあっ!!!」
 どんっ、とダークドレアムの肉を、骨を砕くほどの、苛烈な鉄拳を叩き込んだ。
 ダークドレアムの体がぼしゅんっ、と音を立てて塵と化し、さっきと同じ赤い霧の姿へと戻る。それをほっ、と息をつきながら眺めるバーバラの横で、ローグはひょいと馬車から下りてハッサンを見た。
 と、それがわかっているかのようにハッサンはこちらを向いて、にっと笑って親指を立ててくる。それにローグは顔をしかめ、偉そうに鼻を鳴らし、肩をすくめ――
 それから一瞬小さく息を吸い込んで、すさまじく渋々、という顔をしながら、ふん、なんて言葉も発しつつも、ひょい、と親指を立て返した。
 それに対し、ハッサンはにかっ、といつもの明るい笑みを浮かべてみせる。ローグはそれに仏頂面を返しつつも、不機嫌というわけではないのは見ていてわかる。
 やっぱり以心伝心だなー、と思いながらも、バーバラはローグの隣に降り立ちつつ小さく呟いた。
「でも……これで、ハッサンは本当にルイーダの酒場に行くことになっちゃうんだね」
「なんだバーバラ、不満か? そのことについてはさんざん話し合っただろうが」
「う、わかってるよぉ、それは。ドランゴや、スライムのみんなだってあたしたちの大切な仲間だし、万一あたしたちが力が及ばなかった時のために戦力になるように、レベルを上げておいた方がいいっていうのはわかるし……わかるけど、さ。やっぱり……ちょっと、寂しいんだもん」
 月鏡の塔で仲間になってからこっち、ハッサンとはほとんどずっと一緒に旅をしてきた仲なのだから。たとえ最後の戦いの時には一緒にいられるとしても、やっぱり、なんていうか。
 馬鹿にされるかな、とちょっと思いながらの言葉だったが、ローグは意外に落ち着いた声で告げた。
「まぁ、わからなくはないがな」
「うん………」
「だが、これから先、何度もこういう別れはある。別れたから、離れたから終わりというわけじゃない、と自分に言い聞かせてできるだけその気持ちを飲み下す練習をしておけ。いつかまた会えるっていうのは……たぶん、確かなことだろうしな」
「えー、たぶんって、なにそれ……そういう言い方されると不安になるんだけど」
「先のことは俺ですら完全に見通せるわけじゃないからな。そういうことを気にするより、今は明日やってくるルーキーとの別れに備えておけ、ってことだ」
「プルリリッ!」
「え……本当にルーキーも、ダークドレアムと一人で戦うの? 大丈夫なわけ?」
「ルーキー自身から言い出したことなんだ、問題はないだろう。ルーキーはいずれスライム格闘場に戻るんだ、スラッジさんに旅の中で成長したところを見せるためにも、自分を誇らしく思えるような業績を打ち立てたい、って気持ちはあって当然だと思うが?」
「プリップルリップキッププキップリップルリプキップキプリリッ!」
「そう、なんだ……」
 ハッサンも、ルーキーも。最強の敵を、当然のように一人で倒して、パーティーから外れてしまう。自分たちと一緒にいられなくなってしまう。
 もちろんこれで終わりっていうわけじゃないのはわかってる、けれど。なんていうか、なんだか、ちょっと。
「……ほんとに、終わっちゃうんだ」
 そんな呟きは、思いの外自分でも暗く聞こえて、慌ててバーバラはぷるぷると首を振り、笑顔になってハッサンに向かい駆け出した。全力で頑張って強敵を倒した仲間に、ねぎらいの言葉をかけてあげなくっちゃと思ったからだ。

「おい、テリー」
「――なんだ、ローグ」
「知らせておく。今日の戦いでお前はレベル99になった」
「………ほう」
「他の限界に達した面々と同じように、近々ルイーダの酒場に行ってもらうことになる。その前になにかやりたいことがあるなら言っておけ」
「言われないでもわかってるんだろうが、貴様は」
「想像はつくが、一応お前からも直接聞いておきたい。他の人間の考えを手前勝手な思考で決め込むのは俺の趣味じゃないんでな」
「フン……決まってるだろう。ダークドレアムと一対一で戦わせろ」
「ほう。それだけでいいのか。最強大好きな若々しい心を持つ天才美形剣士としては、前人未到の業績を打ち立てないと満足できんものかと思っていたぞ」
「人のことを勝手に妙な言い方で呼ぶなと言ってるだろうっ! ……確かに、俺は世界最強を目指している。その証明のためには前人未到の業績というのはわかりやすいのは確かだが、それは人と一緒に旅をしている時に目指すものじゃないと思っているからな」
「ほう……お前にしては珍しくまっとうな意見だ」
「いちいち人の悪口を言わないと話せないのか、お前は!」
「そういうわけじゃないが、もう癖になっているのと、お前のスカした美形面を見ているとどうにもその顔を崩したくてしょうがなくなってしまうのと、お前はいじめると即座に噛みついてくれるのとでつい安心していじめてしまうんだよ」
「きっ……さまっ、喧嘩を売る、にしても……」
「だが、まぁ、もうすぐ……永遠ではないにしても、たぶん旅の終わり、デスタムーアとの戦いまで続くだろう別れの時を目の前にしてまで、喧嘩腰で話したいほどお前を嫌っているわけでは、まったくないからな。真剣に向き合って話をするとするか」
「…………、………………」
「テリー。お前が、俺に猜疑心を抱いているのは知っている。俺が本当はなにを考えているか、自分たちを騙していないか、そこらへんを疑って、警戒しているのはな」
「…………」
「だが、俺は今は、お前にそれを説明する気はない」
「……なぜだ」
「お前と俺が、殺し合う羽目になるかもしれないと考えているからさ。お前には悪いが、俺は旅を終えるまで仲間と殺し合いをするつもりはないんだ」
「――――」
「だから、どうか頼む。お前の疑問やら猜疑心やら、そういうものは旅が終わるまで棚上げにしておいてくれないか。旅が終わって、すべてを告白した後ならば、俺を殺そうとしてもかまわないから」
「………………。ひとつ聞かせろ」
「なんだ」
「なんでそんなことを言う気になった? これまでお前は、ずっと俺とまともに向き合おうとすらしてこなかったくせに。今回もごまかしてかわしていなしてしまえばいい、とは思わなかったのか?」
「それは前提条件が違うな。俺は基本的に、仲間とはできる限り誠実に相対したいと思っている。だから、少なくとも旅が終われば仲間たちに明かすべきことを明かすのは決定事項だった」
「なら、なんで俺には今話す」
「そうだな……敢闘賞、というところか」
「敢闘賞……だと?」
「ああ。俺はお前を相当全力でいじめてやったと自負しているんだが」
「よく真顔でそんなことがほざけるなこの外道勇者」
「お前はそれに負けず、折れず、めげず曲がらず思いきり俺とぶつかって争ってきた。俺がけっこう本気で生意気な、とも思ったし時々ではあるがその鼻っ柱をぶち折ってやろうかとすら思ったのに、だ。ここまで俺と真正面からやり合って、疑心や敵意を抱き続けた奴は他にいなかった。だから、俺にできる分くらいは報いてやろうと思ったのさ」
「――結局は旅の終わりまでなにも言わないんだろうが。それでよく報いるだなんだと言えたもんだな」
「確かにな。だが、俺には他にお前に報いる方法がわからなかった。お前が求めているものは、俺としてもどうすれば手に入るのかわからない代物だし、そもそもお前はなんであれ、自分のものは自分で手に入れないと気がすまない奴だ。俺が横槍を入れたら入れるだけ脳味噌を沸騰させるだけだろうしな」
「…………、…………」
「そしてお前が俺から得ようとしているものは、俺自身どうにも持ち合わせがないものだからな、与えてやろうにもやりようがない」
「……なんだと」
「俺自身持ち合わせがないのでやりようがない、と言った。俺はお前が俺からなにを欲しているかはわかる。だがそれは俺からはどうしたって与えようがないものだ。俺はこの世界に生れ落ちた時から、お前と――お前たちと同じ視点にはどうしたって立つことはできないようにできている。立ちたいと思う思わないにかかわらず、否応なしにな」
「…………」
「テリー。俺はお前のことは嫌いじゃない。生意気だとも思うしいじめてやりたいとも思うが、それ以前のところで仲間だと、身内だと考えている。お前がどう思っているかは別問題としてな」
「…………」
「だが、それでも俺は、お前がどう考えているかにかかわらず行うだろうことがある。お前にどれだけ殺意を抱かれようがな。その時に、一番真正面から俺と相対しようとするのは、たぶんお前だ、と俺は思う。だから――」
「……だから?」
「待っている、テリー。旅の終わりに、お前が俺に、すべてを込めた剣を向けてくるのを」

 ずぱぁっ、と空気を斬り裂く音がここまで聞こえた、と思った。
 チャモロからテリーに貸し出された(旅が終わればテリーに渡されることになってはいるのだが)メタルキングの剣が、神速の隼斬りで二度宙に閃く。前衛の戦士たちの中では間違いなく随一であるその素早さが遺憾なく発揮されたその攻撃は、間違いなくダークドレアムの力を苛烈なほどの勢いで刈り取ったのだ、とわかった。
 いつものようにダークドレアムが赤い霧の姿に戻り、いつもの『まさかこの私が破れるとは……。しかし何者もこの私の息の根を止めることはできぬ……』という台詞を口にする。それを息を荒げ、頬を紅潮させながらも無言で眺めて、テリーはフン、といつものようなクールぶったそぶりで嘲笑うように鼻を鳴らしてみせた。
「……んもうっ、テリーってばなに気取っちゃってんの、しょーがないなぁっ!」
「っ! ……バーバラか……気取るもなにも、この程度大して騒ぐほどのことでもないからな。これまでに何人も同じように倒した奴らが出てるんだし。驚く必要も、喜ぶ必要もないだろう」
「もーっ、テリーってばいっつもそうなんだからっ! テリーの前に何人の人がやってようが、今テリーがすっごいことした、っていうのには全然変わりないじゃんっ!」
「っ……」
「私もそう思うわ、テリー」
「姉さん……」
 自分の後から馬車を降り、ゆっくり近づいてきたミレーユが優しく微笑む。
「あなたは今、とても頑張ってひとつのことを成し遂げたのよ。もちろん、だからってあなたの為すべきことが終わったわけでも、楽になるわけでもないけれど……あなたが頑張ったこと、成し遂げたこと、それはあなたの誇りになって、あなたに力を与えてくれるはず。――私も、あなたのしたことはとてもすごいことだと思うわ、テリー」
「…………」
 少しぽかんとした顔になってじっとミレーユを見つめるテリーに、続々降りてきた仲間たちが次々に声をかける。
「とてもお見事な戦いぶりでしたよ、テリーさん。感服しました」
「チャモロ……」
「ギルルルン! テリー、すごく、カッコよかった……ギルルルゥ……」
「……ドランゴ」
「テリーさん、ホントにすごかったよー」
「ボクも……ボクも、そう思う……ぶるぶる」
「ホイミン、ぶちすけ……」
 どこか呆然とした顔になって仲間たちを眺め回すテリーに、最後の一人が近づいた。とたんテリーは警戒心に満ちた顔になって相手――ローグを睨みつけるが、ローグはそんなテリーの様子などどこ吹く風で、にっこり微笑んで袋から花束を取り出す。
「……おい。これは、なんだ」
「見ての通り、花束だが? 心配しなくても俺の小遣いで買ったものだからな、パーティの財布についての心配はしなくていいぞ」
「そんな心配などしているか! なにを企んでいるんだと聞いているんだ」
「阿呆。俺が頑張った人間に対して報いてやろうという気持ちを持っていないとでも? あいにく俺は他人の努力に対して報いがないのは心底腹立たしくなってしまうタイプの人間でな、この後これまで通り宴会もするが、この花束もなにがなんでも受け取ってもらうぞ」
 激戦の後だというのに、テリーはいつもと同じ苛烈な視線でローグを睨みつけていた――が、それがふいに、ふっと緩んだ。どこか納得したような、穏やかとすら言ってよさそうな声で、視線はローグを睨みつけながらも静かに、問いかけるように呟く。
「敢闘賞、というやつか」
「まぁ、そういうことだな」
「……よこせ」
「人の贈り物に対してよこせなんぞと抜かすとは、無粋な奴だな。ま、お前らしいと言えばお前らしいが。……ほら」
 テリーは花束を受け取って、一瞬その香りを深く吸い込んだように見えた。それからローグに向け、一度ためらいがちに口を開いて、のろのろと閉じ、勢いよく口を開いてまた閉じ、それからいつもと同じように唇の端をひん曲げた、嘲るような笑みを浮かべてみせた。
「……まぁ、もらっておいてやる。俺は別に花なんぞもらっても嬉しくはないがな」
「ちょ、テリー、そういう言い方って……」
「バーバラ、気にしなくていい。こいつがどんなに優しく褒められようが労わられようが、死んでも感謝を素直に表せない永遠にひねくれ曲がったお年頃だということはお前もわかってるだろう?」
「お前に言われたくはないぞ、この年中無休捻くれ男が」
 珍しいことに、テリーが(仏頂面ではあったけれども)穏やかな口調でそんな言葉を返す。その返し方が(これまた珍しいことに)あんまり的確だったので、バーバラは思わずぷっと吹き出してしまった。ミレーユもくすくすと笑い声を立て、チャモロも笑うのを我慢しているように頬をひきつらせる。
 ドランゴとスライムたちはいつも通りの感情がよくわからない顔で佇んでいたが、ローグは(怒るかと思いきや)むしろ楽しげに笑んで、ぽんぽんと労わるように、言ってしまえば優しい仕草で(テリーに!)背中を叩いてみせた。バーバラは驚いて思わず固まってしまったのだが、ミレーユもチャモロもなぜか穏やかに微笑んでいるし、テリー自身ですら(やっぱり仏頂面ではあるけれども)間近のローグを見つめる視線に険しさが感じられない。
「旅の終わりまで一緒にやってきてようやくわかったが、お前は本当に面倒くさい奴だな。異常なまでにひねくれているわ根性曲りだわ、しかもそれをあからさまに表して隠しておきたいことから目を逸らさせておこうとするわ。それでよくもまぁここまで長々と旅を続けてられたもんだ」
「俺は幸い仲間に恵まれていたからな。お前を除いて……と、言いたいところだが」
「だが? なんだ」
「お前がもしこの旅に満足していたのだとしたら、それに泥を塗るのは俺の主義ではないからな。せっかくとりあえずの旅の終わりという瞬間が訪れたんだ、これまで俺と共に旅をした時間の感想を聞いておいてやろう」
「は? お前、なにを」
「俺と離れる今この時、お前は喜んでるのか? それとも、安堵してるのか? それとも、幸福を感じてるのか?」
「なんだそのどれも似たような三択……、……?」
 テリーは一瞬眉をひそめてから、ふん、と鼻を鳴らした。珍しいことに、テリーの口元は面白いものを見ているかのように緩んでいる。
「そうだな、おおむね『幸福を感じている』って選択肢でいいだろう。俺はお前と別れることになって、幸せ――というか、快感を感じている」
「ほう。一応理由を聞いておこうか?」
「決まってるだろうが。今度会った時にはお前と斬り合いができると思うと、脳味噌が焼けつくほどわくわくするのさ。お前のような面倒くさい捻くれ者に、一発かましてやれると思うとな」
「ほう……」
 ローグはなぜかちょっと苦笑して、少し困ったように、でもやっぱり優しくぽんぽんとテリーの背中を叩く。その親愛に満ちた(と、バーバラには思えた)仕草を、テリーは気に留めた様子もなく偉そうに鼻を鳴らしてみせた。
「お前、いつから俺にそんなに甘くなった。俺はお前のほしいものを与えてやれるほど優しくないぞ?」
「お前に優しくなんぞされてたまるか、虫唾が走る。そもそも俺はお前の思惑通りに動いてやる義理なぞどこにもない」
「確かに。だがお前にこんな風に甘やかされるのも俺としては気色が悪いんだが?」
「知ったことか。お前の腹積もりなんぞ俺にとってはどうでもいい。お前がどんな風に感じて、考えようがな。そんな義理もないし、意味もないだろうが」
「そうだな」
「だから俺は、俺の勝手でお前に斬りつける。お前が世界を救う勇者だろうがなんだろうが、俺にとってお前は世界一腹の立つ奴以外の何者でもない。そんなお前が腹の底でなにを考えていようが、俺はまるで興味がないしどうでもいい」
「テリー……だから、そういう言い方……」
「そうですよ、あまりにローグさんに対して……」
 そう口を挟もうとしたバーバラとチャモロを、ミレーユがさりげなく目配せで止めた。唇の前に人差し指を立てて口を閉じるよう示し、微笑みながらローグの方を指し示してみせる。
 示されたままにローグの方をうかがって、バーバラとチャモロは揃って目を瞬かせた。ローグが珍しく、くっくっく、と心底楽しげに笑っていたからだ。
「お前、どうしてそこまで切々と愛を訴えらえるくせに、他人に一mgも素直な素振りを見せられないんだろうな。まぁ、お前らしい、とは言えるが」
 そして、なぜかテリーの方も鼻の頭に皺を寄せながらの、嘲るような声音ではあったけれども、確かに楽しげに唇を緩めてみせる。
「お前に言われたくはないと言っただろうが。というか俺の気持ちを勝手に愛呼ばわりするな気色悪い。俺のお前に対する想いは、敵愾心としか言いようがないんだからな」
「お前からの敵愾心、か……まったく、熱烈だな。さすがの俺も照れくさくなりそうだぞ」
「勝手になっていろ。お前がなにを思ってなにを考えようが、俺は旅の終わりにお前に剣を突きつけに行くからな」
「肝に銘じておこう」
「……ねー。二人ともさー、言ってる内容はすっごく仲悪そうなのに、なんで仲よさそうに話してるの?」
「もちろん、テリーがひねくれ者だからだ」
「ふざけるな貴様。勘違いするなバーバラ、それは単にこいつがとんでもないひねくれ者だからそういう形になってるだけだ。俺は実際にはこいつのことなんて叩きのめしたい奴としか思ってないんだからな」
「どうだ、見事なひねくれ者っぷりだろう? こいつは情愛を素直に表す根性のない臆病者だからな。まぁお互いそれなりに人生経験を積んではいるから、俺が大人になってさえやれば互いの気持ちを察するくらいはできるんだが。まぁテリーは常に相手に大人になることを求める万年思春期少年だからな、大目に見てやってくれ」
「貴様に言われたくはないわ万年悪の大ボス思考が」
「……ふーん」
 バーバラはなんと言えばいいかわからなかったので、とりあえずそう流して踵を返し、馬車に向けて歩き始めた。
 要はテリーとローグはいつの間にか仲良くなってたってことで。ううん、別に本当に仲が悪いわけじゃないってことはわかってたんだけど。なんていうか、あたしが他のことを考えてる間にも、テリーはローグのことをちゃんとわかってあげられるくらい、深く関わっていたってことで。
 それは別に悪いことじゃない。むしろいいことだと思うし、二人が仲良くなってくれたのは嬉しいとも思う。思う、そう、思うのに。
 ―――なんでこんなに、取り残されたような気分になるんだろう。
 そんなことを考える自分の心に、バーバラはぷるぷると首を振って見ない振りをすることにした。

「ねぇ……ホントに、ぶちすけも、ダークドレアムと戦うの?」
 おずおずとバーバラが発した問いに、ローグは力強く、ぶちすけはおどおどとしながらとではあったけれども、力を込めてうなずいた。
「ああ。そう言っただろが」
「で、でもさ。ダークドレアムだよ? グレイス城滅ぼした、あいつだよ? ぶちすけ、めちゃくちゃ怖がってたじゃない、っていうかそもそもあたしたちの仲間になったのだってダークドレアムから逃げようとして、だったっていうのに……」
「だからこそ、ここで自分自身の、それもたった一人の力でダークドレアムに打ち勝つことが、ぶちすけにはなによりの勲章になる。俺はそう言っただろが」
「そ、それはもちろんそうだけど、でも……」
「もちろんこれはぶちすけの挑戦だ、本人がやりたくないなら意味がない。だが……」
「ブルブル……。ボク、怖いけど……すごく、怖いけど……ローグが、後ろで、見守ってくれるって言ったし、ローグが、今のボクなら、全力を出せれば、勝てるって言ってくれたし。ボクも、もう、あんな怖い思い、したくないから、ダークドレアムに勝てればもう大丈夫、って思えるっていうのも、そうかも、って思うし……だから、ボク、戦うよ。ブルブルブル」
 いつものようにブルブルと勢いよく震えながらも、ぶちすけの言葉と声から伝わってくる気迫は勇ましい(表情はいつもながらのぶち模様スライムフェイスなのだが)。いつもいつもおどおどとしているぶちすけが、こんな風に真正面からこちらを見返して答えてくれたこと、はっきり自分からなにかをやる、と宣言したこと。それらいちいちからぶちすけの強く明確な意思が伝わってくるし、この旅の間で、仲間内でも一番弱い、守ってやらなくてはならない存在だったぶちすけが成長したことがわかる。
 バーバラも、素直に保護対象の成長にしみじみとした喜びと感慨を覚えた。―――のに。
(なんで、心の中に、こんな変な感じがあるんだろう)
 嬉しい、感動、そんな気持ちの横にいつの間にか、そのくせ堂々と存在する、その感じ=B胸がすぅっと冷えるような、腰が据わらなくてばたばたと慌ててしまうような、喉の奥が妙にじんじんするような。落ち着かなくて、いたたまれなくて、どうすればいいのかわからなくなってしまうたまらない感じ。旅の間何度か感じたその気配は、最近、ひどく感じる頻度が増えてきた。
「心配、ない。ぶちすけは、強くなった。なにかあっても、スグ、オレが回復してやる」
「ホント、ここまでぶちすけみたいなのを強くするなんて、アンタもワルよね〜」
「ん〜。今日のぶちすけの装備はなかなかオシャレだし、かっこよく決めてくれると思うよ〜」
「キュルッキュ、キュキュッ」
 今一緒にレベル上げをしている仲間たちのスライムがめいめい声をかけてくる。……今パーティにいる人間は、ローグとバーバラの二人なので、自然とスライム勢が多くなるのだ。
 自分たちは、ひたすら頑張ってレベル上げをした。それはもうえんえんと、全力でレベル上げをした。その結果、人間の仲間たちは全員揃ってレベル99になってルイーダの酒場行きに。スライムの仲間たちのレベル上げに入って、それからもうけっこうな時間が流れたと思うが、その間ずっと、ローグとバーバラとスライムと、あとちょっとだけドランゴ、という組み合わせで旅をしてきたのだ。
 旅と言ってもやることはほぼレベル上げだけなので、ダーマ神殿の奥のダンジョンと、デスタムーア城の前と、ひょうたん島の宿屋をひたすら往復するだけの毎日なのだが、その間、自分とローグは二人っきりになることが多かった。スライムたちはやはりそれぞれマイペースなので、普通に人間的に会話を楽しむためには、人間と会話した方が簡単だというのが大きな理由だろう。
 だから、バーバラとローグは、二人でいろんな話をした。これまでの旅の思い出話、カルベローナのこと、好きなもの嫌いなものあれこれ、ターニアについて、そして、これからのこと。とりとめもなしに、何度も何度も、あれこれあれこれと。
 だから自分はたぶん、ローグの知らなかったところをいろいろ知ることはできたと思う、けれど。
「それは……わかる、んだけどさ……」
 なんなのだろう。なんで自分は、こんなに不安なんだろう。
 そう、不安なんだ。足場がなくなってどこかへ落ちていくような。自分の体がぐずぐずと溶けてしまうような。形がないけれどはっきりと、心と体が不安でいてもたってもいられないと訴えている。
 この場所にいられなくなるんじゃないか、まともに立っていられなくなるんじゃないか、そんならちもない恐怖がじわじわと、真綿で首を絞めるように自分に巻きついてきていたことに、バーバラはようやく気づいた。いつからかもわからないほど少しずつだったけれど、自分は、ずっと。
「バーバラ」
「っ……」
 ぽん、と肩を叩かれる。ローグの暖かい体温が伝わってくる。
「お前が不安なのは、わかっている。怖いのも、苦しんでいるのもな」
「………、わかる、の?」
「俺を誰だと思ってる。その程度の女心もわからんで主人公≠名乗れるか。――それを今、この場でどうにかすることは、悔しいが俺にもできん」
「そう、なんだ」
「だが、雀の涙程度の足しにしかならないだろうが、ごまかす手伝いをすることはできる」
「……え?」
 ふわ、とローグの腕が動いた。自分を包み込むように取り巻いて、そっと優しく背中を押して――
「………………!!!」
 ローグの力強い腕の感触が肌に伝わってから数秒経って、ようやくバーバラは自分がローグに抱きしめられているのだ、と自覚した。
「ちょ、ちょちょ、ちょちょちょちょちょちょローグっ!? あの、あのあのあの、なにしてるのっ!? あた、あたあたしこれでも女の子だからっ、そういうの、その、なんていうかそのっ」
「心配せんでもそのくらいわかってる。お前が女の子じゃなかったら、ここまで全力でご奉仕するか」
「ご、ご奉仕……?」
「力になりたいと思って、自分にできることならなんでもしようとすることさ」
「………………」
 穏やかな声で耳元で囁かれ、バーバラは完全に固まってしまった。ローグの腕はあくまで優しく、力強く、暖かく自分を抱きしめている。それは嫌ではない、というか、まぁあえてどちらか決めるとするならまぁ、嬉しい、という気持ちになるのだろうけれど。でもこんなところで。スライムのみんなじーっとこっち見てるのに。うわぁやだどうしようめちゃくちゃ顔熱い。もう、なんていうかもう、恥ずかしくてどきどきしてどうしていいかわからなくて――
「バーバラ。お前が不安な時、怖くてたまらない時、どうしても一人じゃいられない時は、俺を呼べ。たとえ世界の反対側にいたとしても、全力で駆けつけてお前が安心できるまで一緒にいてやる」
「………、ロー、グ」
「お前にはこれから先、たくさん辛いことがあると思う。一人でそれと相対しなくちゃいけなくてどうしようもなく苦しむこともあると思う。だけど、そういう時は俺を思い出してくれ。一声呼べば、世界の反対側からでも駆けつけて抱きしめてくれる男がお前にはいるんだ、と」
「…………」
「どうか、忘れないでくれ。忘れないように頑張ってくれ。俺も、命懸けて魂懸けて、この記憶を持ち続けようとしてみるから」
「ロー、グ………」
 じわ、と目に涙がにじんでくる。胸と顔と手足がたまらなく熱い。ローグがなんでこんなことを言うのか、ローグが結局なにを言いたいのかはわからない。わからないけれど、心臓が、体中が、ローグの言葉に痺れるほど喜んでいる。
 きっと、ローグはそのために。自分のこの、一瞬の幸福のために。自分自身の魂に、枷までつけて。
「……ローグ」
「なんだ」
「どうして、ローグは、こんなにあたしに優しくしてくれるの?」
「……ほう?」
「仲間だから? 女の子だから? あたしが可哀想だから?」
「さて、な。実際のところ、俺にもはっきりわかってるわけじゃないんだが」
「そう、なの? 自分の気持ち、なのに?」
「当たり前だ、たとえ俺が主人公の名にふさわしい頭脳明晰な英傑であろうとも、心の動きを全部解析なんぞできるか。というか、できたとしてもそんな無粋な真似をしてなにが楽しい。心なんてものは人間の中で一番不可解な代物だぞ。だからこそ向き合う価値があるし、生まれるものもある」
「生まれるものって……?」
「たとえば……そうだな。夢、とかな」
「夢……」
 ローグの口にした言葉をくり返して、バーバラはこてん、とローグの胸に頭を持たせかけた。体中から力が抜けている。びっくりするくらい安心している。ローグのそばにいていいんだと、心と体が自然と納得している。
「夢でも。自分以外の人間が見た夢でも。目覚めた時には夏の日の雪のようにあっさり溶け消える幻のような代物でも。見た夢は、想いは、そいつの中にずっと残る。否応なしに。たとえ拒絶しようとも。そして、俺は、それが悪いことだとは決して思わない」
「うん……」
「だから、大丈夫だ。俺は、お前の隣にいる」
「うん……うん……」
 何度も答えをくり返しながら、バーバラもぎゅっとローグを抱き返す。恥ずかしい気持ちが消えたわけではないが、それよりも今はローグの差し出してくれた腕に応えたかった。
 うん、大丈夫。ローグは、ここにいる。
 それが確かに感じられることが、バーバラは泣きそうなほど嬉しくて、ぎゅっと抱きしめてくれるローグの胸の中で、ぎゅうっと背中に回した腕の力を強めた。

「……ぶちすけ、すごいね」
「ああ」
 馬車の中から見守る自分たちの前で、ぶちすけは真っ向からダークドレアムと渡り合っていた。その巨大な武器を何度も振り下ろされ、炎を吐かれ輝く息を吐かれ、次から次へと呪文を使われながらも、いくつもの補助呪文と装備の助けでかろうじてそれをしのぎ、ぶるぶると震えるスライムフェイスを気迫で満たして、何度も何度もオリハルコンの牙で爆裂拳(という名の噛みつき)を放っている。
 自分たちは息をするのも忘れてそれを見ていた。小さな小さなぶちスライムが、初めて会った時はその気配だけで恐怖に縮こまるしかなかった相手と、真っ向から向き合って戦う、まさに勇者と呼ぶべきその姿を。
 戦えているのだ。真っ向から向き合って、力をぶつけ合って、勝とうとすらしているのだ。あのぶちすけが。スライムの中でも一番の怖がりで、たぶん一番弱いだろう子が。悪夢そのものであるダークドレアムと、全力を振り絞って。
「……すごいね。本当に……生きてるって、すごいね……」
 涙がこぼれる。ぶちすけの雄姿が、成長が、変化が、本当にすごいとそう思ったら、なぜか、涙が溢れて止まらない。
 ローグの腕が当たり前のように伸びて、自分の肩を抱き寄せる。バーバラはその時は、素直にその腕を受け容れて、抱き寄せられるままにローグにもたれかかることができた。
 優しいローグの腕。暖かいローグの体。その感触が幸せな気持ちを呼び起こしてくれるのに、なぜか涙が止まらない。なんで、と心のどこかがかすかな疑問を発したが、バーバラはその気持ちに見ないふりをして、ぶちすけの雄姿をローグと二人、一心に見つめた。今自分はこんなにすごいものを見ているのだから、そんなつまらないことを考えるなんてもったいない。
 長い長い時間ののち、ぶちすけの牙はダークドレアムの体を打ち崩した。荒い息をつくぶちすけの前でダークドレアムの体が霧に戻り、いつもの台詞を吐く。バーバラは涙を流しながら全力で拍手をし、ローグも自分以上の勢いで拍手をした。心の底から湧き上がる感情に素直に従って。
 たとえこの世界が夢の世界で、すべては誰かの夢見た幻にしかすぎなかったとしても、感じたことだけは確かに自分のものなのだと、バーバラは最初から知っていたのだから。
 ――そんな思考に自然と見ないふりをして、バーバラはローグと一緒に、ようやく実感が湧いてきたのか飛び上がって喜ぶぶちすけを抱きしめてやるために、馬車から飛び降りた。

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