四物学園三年藤組の担任教師の、年齢二十五歳性別男好みのタイプは巨乳のロングヘア美人である矢部彰は、深々と息をついて目の前のプリントを眺めた。
先日行われた進路調査票のうちの一枚であるそのプリントには、一週間ほど前転校してきたばっかりの男子生徒、草薙閃の希望する進路が書かれている。
ついでに言うなら、そのプリントの向こうには草薙閃本人が平然とした顔で座っている。調査票に書かれていた希望する進路が、彼の場合あまりにあまりだったので進路指導室にお呼び出し、となったわけなのだ。
「なぁ……草薙。お前だって、わかるだろう? お前の書いた進路が……なんていうか……普通じゃないのはさ」
「最初から俺は普通の人生を送るつもりはありません」
まったく淀みなく、こちらを凛とした表情で睨みつけてきっぱり答える。自分でも情けないと思いながらも(だってこの生徒は本気で迫力あるし持ってるものが持ってるものだし)、なけなしの教師としての意地を振り絞ってこちらもできるだけきっぱり言う。
「つもりとか、そういう話じゃなくてな。現実的に、こういう進路はありえないだろうって言ってるんだよ」
たまたまそれを見た職員の間で問題になるのも当然だと彰は思う。なにせ、草薙の書いた進路ときたら。
1.正義の味方。
2.賞金稼ぎ。
3.対魔剣士。
……ときたもんだ。これじゃあ普通の人間は、悪ふざけで書いてるのだと判断せざるをえない。
だが、草薙は微塵も動揺した様子もなく、きっぱりはっきり冷静に答える。
「先生方にとってはありえなくとも、俺には充分現実的な進路です」
「いや、だからなぁぁ……そりゃ、お前が、その……ボディーガードの仕事をしてるのはわかるけど……」
もう少し現実的な仕事を適当に書いてくれればこっちだってわざわざ呼び出したりなんてしなかったのに、という切実な気持ちを込めて草薙を見つめるが、草薙はこれっぽっちも感情を動かす気配もなく、礼儀正しく立ち上がって一礼した。
「ご用件がそれだけでしたら失礼させていただきます。クライアントを待たせておりますので」
「って、おい! 草薙!」
思わず声を荒げる――が、こちらを振り向いた草薙の腰につけられたものが光を跳ね返してきらめいたのに、彰は固まった。
「なんでしょう、先生」
「………いや………なんでも、ないぞ。わかった、もう、帰っていい……」
「はい。失礼します」
そう言って一礼して去っていく草薙の姿は、確かに礼儀正しい生徒そのものだったが、彰はそんなものをいちいち観察している余裕はなかった。
「だって、ポン刀なんだもんなぁぁ……」
そう、転校生草薙閃は、腰に日本刀を装備して校内を堂々と練り歩く、しかもそれを学校側に許されているとんでもない生徒なのだ。この学校の理事長であるのみならず、世界中に支社を持つ大財閥、四物コンツェルンの総帥の肝いりで入ってきて、ご令嬢のガード役をしているというあの少年は。
そもそも四物コンツェルンのご令嬢、園亞の担任を押しつけられたのからしてまずかったのだ。通常の生徒と同じように扱うように、と理事会からお達しは来ているものの、当然ながらそんなものを真に受けて粗略に扱えば首が飛ぶ。
そもそもこの四物学園(幼稚舎から大学部まである)そのものが園亞のために創られたという噂まであるほどなのだ、下手に手を出してとんでもない目に合わせられた人間の話は枚挙に暇がない。
中等部でもその噂は盛んで、進んで彼女の担任になろうなどという豪気な教師はまるでいなかった。一年次と二年次は退職間近の長老的な教師が損な役割を引き受けてくれたが、今年、三年次はその人も定年退職してしまったので、クラスの担任が出来る中で一番下っ端の教師である自分におはちがまわってきたわけなのだが。
この一ヶ月というもの、彰は戦々恐々と日々を過ごさざるを得なかった。もしなにかしくじれば、自分は即退職、どころか四物コンツェルンの影響で再就職も難しくなるだろう。園亞をどう扱えばいいのか、他の生徒と同じように扱っていいのか、教師としてのモラルと保身と人としての常識の間で悩んでいたのだ。
それでも一応、園亞が普段はごく普通の女子生徒だということを知り、なんとか普通につきあうことができるようになってきたというのに。
「今度はポン刀の転校生なんだもんなぁぁ………」
彰は行きつけの飲み屋のカウンターで、杯を乾しながらはぁぁぁ、と息を吐いた。
今度の相手、草薙閃は園亞と違い、最初っからどこにいても問題を起こす生徒だった。なにせどこに行く時も日本刀を腰に差して手放さないのだ。普通の人間は驚くし引くしビビる。
しかもそれを理事長である四物コンツェルン総帥が許してしまっているのだから困る。注意のしようがない、けれど相手の腰には凶器がぷらぷら揺れている。これでプレッシャーを感じない方がおかしい。
その上、草薙自身も相当な曲者生徒だった。勉強そのものはよくできるようなのだが、どこに行くにも自分の調子を崩さないというか、教師が説教しようが高圧的な態度を取ろうが平然と偉そうな口を利いてくる。しかもその言い草が理路整然としてなかなか反論できないので、そのつけは全部担任教師である彰のところにまわってきて、なんやかんやと怒られねばならないわけである。
今回の進路調査票も、同じようにそれを見咎めた職員室のお歴々から指導するように命じられたものなのだ。ぶっちゃけ彰としては、草薙が自分と関わりのないところで就職してくれるなら、正義の味方だろうが賞金稼ぎだろうがどうでもいいので放っておきたかったのだが、教職員としてはうるさ型のお年寄り教師の方々を敵に回すのは面倒なのだ。
なので、渋々指導に当たったものの。
「……ポン刀振り回すだけで正義の味方になれんなら刀剣商の子はみんな正義の味方だってのー……」
どう言っても進路調査票を書き直してくれる様子がない、と最初の一回で理解した彰は、ほとんど木製のカウンターとお友達になりかけながらそう呟く――と、声がかかった。
「あら、正義の味方はお嫌いかしら、先生?」
反射的に声の主を見上げる。そして、思わずぽかんと口を開けてしまった。
美人だった。黒髪に黒い瞳だが、外国の血が入っているような彫りの深い顔立ちで、おまけにプロポーションがすごい。
ぼんきゅっぼん、を絵に描いたような出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んだ体、それを下品な印象を与えないようにしながらもしっかり活かした体の線のはっきり出る服装。さらにお嬢様っぽくふんわりとそれを包み込むウェービーなロングヘアからも、両端を吊り上げた紅い唇からも、すさまじいばかりの色気が噴出しまくっている。
はっきり言って、もろ好みだ。
「え、や、あの、いやいやお恥ずかしい、大したことじゃないんですが……というか、なんで僕が教師だと?」
「さきほど転校生がどうのと独り言をおっしゃっていましたから。ごめんなさいね、聞くつもりはなかったんですけど、あんまりお声が大きくていらっしゃったから……」
「は、はは、お恥ずかしい……」
「ここ、よろしいかしら?」
その言葉に、彰は大きくうなずいて、「どうぞどうぞ!」と叫んでしまった。二十五歳という若い体と、彼女のいない鬱屈を抱え込んだ彰のような男としては、こんな美人に声をかけられた機会を粗略に扱うことなんぞできるはずがない。
それから三十分、彰はかなり酒が進み、ろれつも怪しくなってきていた。隣の美人――名前は神崎奈美絵というそうだが、彼女が聞き上手なうえに酒を勧めるのも上手かったので自然と何倍も杯を乾してしまう。
「本当に先生は大変ですわねぇ、そんな奇妙な転校生の面倒まで見なくちゃならないなんて」
「はははっ、いや、まったく。僕としてはできるだけ生徒の自主性を尊重したいと思ってるんですがねぇ、やはり学校の中でああいうことをされるとねぇ。保護者の方からは幸い、まだ苦情は出てませんけど……まぁ、四物学園の生徒の親っていうのはたいてい四物グループの系列会社の人間ですから、総帥を敵に回すようなことはしたくないんでしょうがねぇ」
「その分、彰さんがうるさ型の先生のはけ口になってしまいますのね。お気の毒に……」
気の毒そうにこちらを見つめ、神崎はまた彰の猪口に酒を注ぐ。ああ、好みの美女に酌をされながら気遣われるこの悦び! と感涙に打ち震えながら彰はぐいっとまた酒を乾した。神崎が『まぁ、すごい』とでも言いたげな顔で小さく手を打つ。
「や、これでもね、ぼかぁね、志を持って教職を選んだ人間ですからね、苦労するのはいいんです。生徒のことで苦労するのはね。ただね、なんつぅんですか、こう、生徒のわがままを親が、いや今回は親じゃないですけど力を持った保護者が後押しするっていうのはね、駄目です。いただけませんよ。学校ってぇのはそういうことをするとこじゃないって、びしってわからせてやんなきゃってね、思いますから」
「本当に、ご立派な教師でいらっしゃるのね、彰さんは」
「いやぁ! 別に、それほどでも!」
「そんな彰さんを、私みたいな女がお慰めしたいなんて言ったら、お気を悪くされるかしら」
「へ?」
彰は一瞬ぽかんとし、それからそれがかなりストレートなベッドへのお誘いだということに気づき、かぁっと脳味噌を熱くさせた。
「ふぅっ!」
呼気とともに刀を振り下ろした閃に、横で見ていた園亞はぱちぱちと笑顔で手を叩いてみせた。
「すごいすごいっ、閃くんカッコいーいっ! やっぱり閃くんは刀振ってる時が一番イキイキしてるねっ!」
「……そう、か? えと……まぁ、ありがとう」
どう答えるか悩みながら刀を鞘に収め礼を言った閃に、園亞はにっこり笑顔でタオルを差し出す。それを数瞬迷ってから結局受け取り、タオルのいかにも高級な肌触りを味わいながら汗を拭いた。
「……稽古してるところなんて、見ても面白くないだろ」
「そんなことないよー、閃くんの稽古してるとこすっごくカッコいいもん! 見ててドキドキしちゃうしさ、それに、いっつも閃くんには私の部活とかにつきあってもらってるから、たまには私の方がつきあわなくっちゃ!」
「…………」
ふ、と閃は息を吐く。にこにこ前回笑顔の園亞が本気で言っているのは分かるし、これまでの経験もあるので、閃が園亞に四六時中つきまとうのは護衛の仕事のためだ、というのを理解させるのは無理だというのはわかっていた。
そこに、ひょい、とばかりに煌が体をもたせかけてきた。普段は煌は必要な時以外船の体の痣の中に身を潜めていることが多いのだが、最近はなぜか、姿を現しても問題のないところでは外に出てくることが多くなっている。
「なぁにしけた面してんだよ、あぁ? そんな沈んだ気分じゃ体の味が落ちるだろうがよ、せっかく剣の腕前は阿呆らしいほど高くなってるってのによ」
「え、気持ちが沈むと肉っておいしくなくなるの?」
「俺とこいつの場合はな。こいつのテンションが高かったり、嬉しかったり楽しかったり興奮してたりすると、肉も血もいい味になってくんだよ」
「へー、そーなんだー」
「煌っ! しょうもないことをいちいち言うなよっ」
ぎろり、と煌を睨むが煌は気にした風もなく、その長い手足を絡みつかせながら園亞に肩をすくめてみせる。園亞も少し苦笑するような顔で、煌に首を傾げてみせた。
まったく、どうした加減かは知らないが、最近煌は園亞と妙に仲がいい。仲がいいというか、煌が園亞をそれなりに認めるような素振りをするようになったのだ。普段はどんな人間に対しても、閃に有用か否かぐらいしか考えず、せいぜい遊び甲斐のあるおもちゃぐらいにしか認めないのに。
それがなぜ園亞を認めるようになったのか――それはなんとなく理解してはいたが、それよりも咲に閃は気になっていたことを訊いた。
「煌。俺の剣の腕前が高まってるって、ことだけど」
「あぁ? お前だって気付いてんだろうが、てめぇの剣の腕――だけじゃなく、身体能力が飛躍的に――っつっても、人間のレベルでの飛躍的に≠セけどよ、上がってんの」
「……それは、まぁ」
そうなのだ。なぜか、ここ最近、閃の能力は飛躍的に高まっている。
身体の敏捷性、最近は体力に筋力、そういうものがこれまでとは明らかにひとつ上の段階に上っている。剣の腕も驚くほどの向上を見せている。五年前からずっと鍛錬を欠かさず、実戦訓練もできる限り積んできたが、それでも自分は『年の割にはやる』程度の腕前にしか達せられていなかったというのに、今の自分はほとんど達人はだしと言ってもいいのではないかと思うほどだ。
身体能力の年齢的な成長はすでに終わっており、ここから身体能力をさらに上げていくのは大変な苦労が必要だ、と言われていたのにいつの間にかあっさり一段階上に上がってしまった身体能力。これまでと違ったことをしているわけでもないのに一気に上がった剣の腕。もちろん能力が向上するのに越したことはないのだが、どうにも不思議というか、不気味な気持ちすら覚えていた。
それを言葉にすると、煌はふん、と鼻を鳴らしてあっさり言った。
「そりゃあ、お前に刻が来た≠チてことなんだろうさ」
「は……? 刻?」
「おおよ」
「どういうことだよ。詳しく教えてくれ」
「チッ、しょーがねーなぁ……なんつーかな、妖怪の中には、っつーかこれは人間の中でもある種の奴らにゃあることらしいんだが……たいていは誰かとの出会いや、なにかの事件との関わりをきっかけにして、存在そのものが持つ力が上がり始めるっつぅ時期が来る奴らがいる」
「存在そのものが持つ力……? なんだ、それ……」
「まぁ、具体的に言やあ妖力なんだが、身に着いた妖力ってわけじゃなく、妖怪の存在の根本を成すエネルギーっつぅのが上がり始めるんだな。主に、なんかの事件やら厄介事やらを解決することで。修業なんかやっても、それまでとは違った効率で身に着いたりするようにもなる」
「……そんな都合のいい話があるのか? それじゃあ厄介事があるたびに強くなっていけちゃうじゃないか」
「だから、そうなっちまうっつってんだよ。事件やら厄介事やら……もっともどんな厄介事でもってわけじゃねぇ、力が上がるもんと上がらねぇもんがあって、基準がどこにあるのかはわかってねぇんだが……とにかく、ことをうまく収めるたびに力が上がるんだ」
「……本当に?」
「おおよ。それがいつまで続くのかは個人差が大きいが、場合によっちゃ若い妖怪が年経た妖怪に匹敵するほどの力を持つまで続いたりする。んで、大方の場合、その力の上昇幅は、力の低い妖怪ほど大きいんだな。同じぐらいの力を持つ妖怪なんかなら変わらない場合もあるが、年経た奴と若い奴が一緒に行動してる場合にはそうなることが多い。ろくに力のない小妖怪なんかの場合、それこそ爆発的に力が上がったりする」
「お前……それが俺にも起こってるっていうのか? 俺は妖怪じゃないぞ」
「まぁな。だが百夜妖玉≠チて妖しの力を持ってる。この世の流れみたいなもんが、お前を妖怪扱いしても不思議はねぇだろ。で、お前はぶっちゃけろくに力のない小妖怪ぐらいの力しかなかったから、上がる存在の力もすげぇんじゃねぇかってことだ」
「う……け、けど、なら、俺にどんなきっかけがあったって――」
と言いかけて、口ごもり、園亞の方を見る。園亞は自分たちの話してることがまったくわかってませーん、という顔でにこにこしていたが、それでも。
「……彼女、だっていうのか」
「他に考えようがねぇだろ」
「彼女はたまたま出会って、護衛を頼まれて、借りを返そうとしてるってだけの関係しかない相手なんだぞ。それが、なんで」
「んなこたぁ知るか。運命論者どもに言わせりゃ、お前とこいつの運命が交差したことで話が動き出した、ってことなんだろ」
「……どんな話が動いてるっていうんだ」
「んなの知るかよ。俺は運命なんぞ信じてねぇ」
はぁ、と閃はため息をついた。いつもながら、煌は自分の話したいことしか話さない。
「……園亞、そろそろ休んだ方がいいんじゃないか。俺も部屋に戻るし」
「え? あ、そーだね! そろそろ寝なくっちゃ」
「宿題ちゃんとやったあとで、な」
「う、はぁい……」
ごく自然な口ぶりで言ってから、閃は自分の言い草に苦笑した。まるで保護者みたいな口ぶりだ。自分が彼女にとって関わりを持っていい存在ではないのは、少しも変わらないのに。
ただ、彼女がいつも一生懸命で、なのにしょっちゅういろんなことに転びそうになっているから。つい反射的に慌てて手を出してしまう。それがいいことなのかどうか考える暇もなく。
「……早く、なんとかしなくちゃな」
「え? なにか言った?」
「いや、なんでも」
朝になると、閃は園亞と一緒にセンチュリーに乗り、護衛として周囲を警戒しつつ園亞のお喋りにつきあいつつ学校へと向かった。学校にやってきてすでに二週間、一応学校生活というものにも慣れてきてはいる。
「っはよーっす、閃、四物っ」
渉がいつものように背中を叩いてくるのを、さっと避けてため息をつく。この自称・友人は本当に、どんなに閃がすげなくあしらっても何度も何度も声をかけてくる。
「お前な、いつもいつも言ってるだろ、背中叩いてくるのやめろって。敵だと勘違いしたらどうするんだ」
「へっへー、そー言いながら一度も勘違いしたことねーくせにー。俺の気配とかそーいうの、もー覚えちゃってんじゃねーのー?」
「別に、そういうわけじゃ……」
ちょっとはあった。渉の動き方、こっちに向かってくる足音などから成る気配≠ニいうものはかなりわかりやすい部類に入ったし、転入二日目から毎日こうして背中を叩いてくるので、どうしたってある程度は予測できてしまう。
「ま、俺としちゃもっともーっとがっつり閃くんと仲良くなるまで、毎朝の出待ちは続けさせてもらうつもりだから。覚悟しろよな、親友!」
「いつから親友になったんだ」
「あははっ、閃くんと時田くんってホント、仲がいいよねー」
「そりゃー俺らもーマブだからな!」
「マブじゃないって言ってるだろ」
そんなことを話しながら教室へと向かう。少しばかり腹立たしいが、自分と渉が親しい口を利きあっているのは確かだった。なにせ向こうが馴れ馴れしく話しかけてくるので、こちらとしてもつい返答が雑駁になってしまう。
「おっはよー!」
教室に入るや元気に挨拶する園亞のあとについて、静かに一礼して中に入る。周囲から「おはよー」「はよっす」などと声がかけられてくるのに、「おはよう」と返事を返していく。
……本当に、どうしてこんなにごく普通に、親しい人間のように挨拶を交わしてしまっているのだろう。自分は親しい人間などを作るべきではないのに。
それでもやはり挨拶をされて挨拶を返さないのは礼儀に反するし、声をかけられたらちゃんと応えるのが当たり前のことだと思うので、挨拶に返事をせずにはいられないのだが。どうしてこんなにごく普通に、自分の居場所が確立されてしまっているのだろう。
閃としては、できる限り周囲の人々を威嚇したつもりなのだ。常に日本刀を携え、抜き身の刃のような雰囲気を身にまとい(管理局の人々にそう言われた時の感覚を常に持ち続けていた)、どんな相手にも無関心と仕事に対する義務感だけを持って接する。そうすれば、誰とも親しい人間を作らず、校内で孤立することができていたはずなのに。
渉に始終馴れ馴れしく話しかけられたせいか、園亞がにこにこと自分に話しかけてくるせいか、いつの間にやら自分は危険な存在≠ナはなく変or面白い存在≠ニして認知されてしまっている。新聞部の取材が来て自分のことを面白おかしく学校新聞で取り上げたり、運動部への勧誘が引きもきらなかったり、そんなまるで普通の学生のようなことまであったりして。
一応、校内の白蛇≠フ勢力は一掃したつもりではある――が、白蛇そのものを壊滅させたわけではない。一刻も早く園亞の安全を確保し、この護衛生活をおしまいにしなければならないのに。
『別にいーんじゃねーのかぁ、このままでもよ』
心の中に響く煌の無責任な声に、閃は苛立ちを込めて言い返す。
(そんなわけないだろ。俺は普通の人間と関わっちゃいけないって、わかってるくせに)
かつて閃の両親が使われたように。自分を狙う人喰い妖怪たちが、人質として、道具として、自分の身を守れない人々を使うなんてこと、もう二度とごめんだっていうのに。
『ま、俺はぶっちゃけお前以外の人間がどーなろうと基本どうでもいいし』
(煌!)
『なんだよ』
ごくあっさりと問い返されて、閃は唇を噛む。わかっている、煌は妖怪で、しかも人間を自分より弱い、獲物のようなものとみなしている妖怪なのだ。そんな相手に対し、『人間を大切に思え』などというのは筋違いもはなはだしい台詞だ。自分たちが家畜に、食材に対して、『人間と同様に大切に思え』と言われるようなものなのだから。
そんな中で、自分は煌の、ごく少数の、あるいはただ一人の例外に入れられている。
(……そういうこと、俺には直接言わないでくれって言ったろ。できるだけ)
我ながら力のない言葉に、煌からは肩をすくめた時のような吐息のあと、いつもの問いが返ってきた。
『お前は俺のなにか、わかってるな?』
(……わかってるよ)
生贄兼食料兼相棒。それはつまり、閃を守るだけでなく、閃がやろうとすることを、煌はそれこそ命懸けで助けてくれる、ということ。
たとえ人間をどうでもいいと思っていても、閃が助けたいと思うなら力を貸してくれるということ。
それはわかっている、のに。
(……ごめん)
わがままばっかりでごめん。偉そうなことばっかり言って、なにもできなくてごめん。
そういう意思を込めての言葉に、煌はふん、と鼻を鳴らして『ばーか』と答えてきた。思いのほか、優しげな声音で。
予定時刻ぎりぎりに、担任教師の矢部は教室に入ってきた。普段の勤務態度はそれなりに真面目である矢部にしては、少しばかり珍しいことだ。
「やべっちー、センセーが遅刻ギリギリとかやべーんじゃねーのぉ」
「すまんすまん、ちょっと今日寝坊してな! さぁて、今日もはりきって授業始めるか! いやその前にホームルームだな!」
浮かれているな、と閃は判断を下す。なにか今朝か昨日いいことがあったのか。
――場合によっては、正気を失うほどいい≠アとが。
『探り入れる気か?』
(ああ。万一のことがあるかもしれない)
閃の敵である妖怪たちは、いつどんな方法で閃の周囲に侵入してくるかしれない。しかも裏の妖怪たちには閃がここにいることはとっくに広まっているのだ、閃の周囲に仕掛けてくる可能性は高いだろう。
少しでも被害の出る可能性があるのなら、早いうちに潰しておくにこしたことはない。
(でもそうして園亞から離れた隙を狙って仕掛けてくる可能性もあるしな……昼休みにでも声をかけてみるか)
『園亞連れてか?』
(進路のことで相談があります、と言えば向こうも教師として乗ってこないわけにはいかないだろ。指導室の外で待っててもらう)
『荒事になった時にかえって巻き込むんじゃねぇのー』
(俺たちのいないところで襲われるよりずっとマシだ。身を守る力のない護衛対象をいつもできるだけ近くに置いておくのは当たり前だろ)
『あいつにゃ別に身を守る力がないってわけじゃねぇと思うがね』
(………っ)
閃は小さく唇を噛む。確かに園亞にも、魔法の呪文≠ニいう身を守る力となるものがあるのは知っているのだが。
(……それが妖怪には必ずしも決定力にはならないって言ったの、お前だろ)
そう、煌は確かにそう言った。相手を攻撃する呪文を覚えた、と元気よく報告する園亞に実際にかけさせてみて(はたで見ている分にはただ睨み合っているようにしか思えなかったのだが)、『人間にならともかく、妖怪にゃ一撃必殺たぁいかねぇな』と告げ、過信はしないように、と忠告したのだ。
つまりそれは、妖怪と相対した時に相手の攻撃を受けてしまう、ということだ。となれば、ほとんどの妖怪が人間とは桁違いの耐久力を持っている以上、結果は見えている。
『なにも相手を全員ぶっ倒すのが戦いってわけじゃねぇだろ。……ま、俺もこの場合、園亞は一緒に連れてった方がよかろうとは思うがね』
(………? なんでだ。なにか理由があるのか)
『単純な話さ。あの教師になにか仕掛けてきた奴がいるとしたら、ああもあの教師のテンションが高い以上、情報を奪うために枕でも交わしたか、さもなきゃいずれ使う時のために心をいじっておいたかどちらかになる。前者ならまだ向こうはそうそう動きやしないだろうが、後者の場合すでに学校の中に似たようなことをした兵隊を紛れさせてる可能性が高い。となりゃあ……』
(俺たちが別行動を取るのは向こうの思う壺、か。やっぱり園亞は連れて行ったほうがよさそうだな)
煌にそう答えてから、閃はふぅ、と息を吐いた。園亞のボディガードとして仕事を受けた以上、園亞を護るのは当然のことだし、それに全力を傾注するのに異論はない。
ただ、自分が百夜妖玉である以上、そばにいるだけで園亞に危険がもたらされてしまうというパラドックスは、自分たちが白蛇≠潰して園亞の前から姿を消すまで解消されはしない。
いつものこととはいえ、本当に自分というのは、近しい人間にとっては邪魔にしかならない存在なのだ。そう思うと、少しばかり馬鹿馬鹿しさと、しょうもなさと――悔しさを感じずにはいられなかった。
『寂しいなら寂しいっつっていいんだぜぇ?』
(煌っ、うるさいっ、馬鹿っ)
「ふーん、そうなんだぁ……すごいね、閃くん! ちょっとでも普段と違うことがあったら調べるなんて、プロのスパイみたい!」
「……スパイってわけじゃないけど、同程度の警戒心は必要だから」
仏頂面での説明に、園亞は満面の笑顔でこくこくとうなずいた。というか、彼女の表情が曇るところを見ること自体閃はほとんどなかったが。
手早く昼食を終え、職員室への道の途中、人のあまり来ない物陰を選んでのごく簡単な説明だったが、園亞は当然のように納得してくれた。そもそもボディガードがクライアントをこんな場所につれてくること自体褒められたことではないのに、ごく当たり前のようについてくる相手なのだから、納得してくれるだろうとは思っていたが。
「ねぇねぇ閃くん、それで調べるってどうするの? なにかこー、プロっぽい方法でなんかしたらなんかわかるとかあるの?」
「……プロっぽい方法ってわけじゃないけど、煌に力を借りるんだ」
「煌さんに?」
「煌は心を読む妖術が使えるから、俺と先生が話すところを物陰から見てもらって、先生の心を読んでもらうんだ。俺がそういう方向に話を誘導すれば、その時考えてることが俺たちの知りたいことになるわけだから」
「へー、そっかー、すごいねっ! ……あ、でも煌さん物陰に隠れてて大丈夫なの? 閃くんから離れたら大変なんじゃないの?」
閃は小さく嘆息した。本当にこの少女は、どこまで自分たちの関係を理解してくれているのかわからない。
「別に、煌は俺から少しでも離れたら存在できないってわけじゃないから。……ただ、俺から離れすぎたら妖術が使えなくなるのは確かだから、扉ごしにぎりぎりまで近づいて妖術使ってもらうってことになるだろうけど」
「へー……そんなことやっても気づかれないなんて、すごいんだねー」
「……まぁ、ね」
実際気づかれる危険はそれなりにあるわけなのだが、閃はそれは口にしなかった。こちらとしてはさっさと方をつけたいので、なんであれ向こうが反応してくれるのが一番ありがたいからこんな強引な方法を取っているだけで、本来ならこんな方法は褒められたものではない。
だが仕方ない。腹芸に精力を傾けては不意の襲撃に対応するだけの余裕が持てなくなる。自分たちが相当に諜報活動に向かない人間であることはわかっているのだ、ならば無理やりにでも自分たちのフィールドに持ち込んだ方がまだマシな結果が出る。
園亞と並んで職員室の扉を叩き、矢部を呼ぶ。「進路のことでご相談したいことが」と言うと矢部は嬉しそうに笑ってうなずいた。このテンションの高さは実際おかしいな、と内心肩をすくめる。これまで矢部は自分に対してはいつも腰の日本刀を意識して怯える素振りしか見せなかったのに。
進路指導室に矢部を先に入らせて、園亞に外で待つよう小声で話す振りをしながら、周囲に誰もいないのを確認したのち腰のズボンとパンツをずり下ろして煌を出す。指導室の中からは視線が通らないので、少し妙だな、とは思うかもしれないが実際に確かめようとするほどではない、だろう。
園亞の前で煌を出す、という行為にはいまだ羞恥を覚えてしまうのだが(だって女の子の前で尻を出すというのは恥ずかしいし、それに煌を出し入れする時のあの熱い感覚に晒されている姿を人に見られるというのはさらに恥ずかしいのだ)、やらなければならない仕事があるのに恥ずかしいだなんだと言っている場合ではない。
煌を死角に隠しながら、進路指導室に入る。煌からこちらが見えるよう、少しだけ扉を開け、扉の前に立つ。これ以上離れると煌が妖術を使えない距離になってしまう。
「どうした、草薙? 早く椅子に座りなさい」
「……先生、ご機嫌ですね。なにかいいことでもあったんですか?」
単刀直入に切り出す。腹芸は苦手だし、なによりこの場合さっさと片付けるという意味でも真正面から聞いた方が効率がいい。
すると、矢部は顔をにやけさせながら首を振った。
「いやいや、なにもないぞ? しいて言うならお前が進路を考え直してくれたのが」
「どなたかと、なにかいい出会いでも?」
今度はうっ、と明らかに言葉に詰まる。だがそれでも無理やり教師の顔を作って、閃に笑いかけた。
「先生のことよりお前のことだろう? お前が進路を考え直してくれて俺は嬉しいよ。お前は成績もいいし、今から勉強していけば一流大学にも」
資料の類を机の上に広げ始めた矢部を観察しつつ、心の中で煌に呼びかける。
(どうだ、煌?)
『それっぽい女との出会いはある……が、なんか術をかけられたとかいう記憶はねぇ。今思い出してるのはその女と寝た時のなんやかやだけだ』
(なんやかや……って)
『詳しく説明してほしいか?』
(いいっ!)
『ち、相変わらずウブな奴だぜ。……ま、それはそれとして、今夜もまたその女と会う約束らしいぜ。それなりの店を予約した記憶もある』
(……なるほど、な)
ふ、と息をつく。それだけわかればとりあえず、ここでの仕事はすんだ。
なので、閃は真正面から矢部に向かいあい、告げた。
「先生。いろいろと気遣ってくださる先生には申し訳ないのですが、俺は先日提出した進路を変えるつもりはありません。どんなことが起こっても、俺が生きている限りは。それだけお伝えしようと思って、お時間をいただいたんです」
矢部はぱかっ、と口を開けた。ぽかんとした表情で、半ば呆然と言ってくる。
「進路を変えるつもりはない、って……んな、そんな、わざわざ……」
「申し訳ありません。でも、先生が真面目にまっとうな¢蜉wの類を勧めてくださるのと同じように、俺も本当に心の底から真面目に正義の味方を目指してるんです」
「いや、あのな、草薙。お前が正義の味方に憧れてるのはわかったけどな、現実的に考えてみろ、な? 正義の味方になったからってどこかから給料がもらえるわけじゃないだろ? そんなんは進路と呼ばないだろ、それじゃお前行きつく先はただのフリーターだぞ?」
「一生フリーターであろうとも。ちゃんと正義の味方をやることができるのなら、俺はそれを選ぶでしょう」
「いや、あのな……」
「俺は両親を殺された。何度も近しい人が危険に陥る経験もした。この世の悪が行う行為を、その無残さを何度も味わった。だから、決めたんです。それを止めようと。人を傷つけ、苦しめ、喰らい、しゃぶり尽くして放り捨てるような行為を、俺は絶対に放っておかない、って」
「いや、だから――」
「先生が子供に世界を教えようという志を持って教職という道を選ばれたように。俺は俺なりに、志を持って正義の味方になろうと思うんです。この決意を貫き通したいと思うんです。たとえ一生報われず、末はなにも成せないまま道端でぼろくずのようにくたばったとしても、後悔はない、と。……それだけは、認めていただけませんか」
「な――」
呆然とした顔になる矢部と、真正面から顔を合わせて見つめ合うこと数十秒。先に顔をそむけたのは、矢部の方だった。
「……わかった。もう戻っていいぞ」
「進路について、ご理解いただけたということで、いいでしょうか」
「ああ……わかった。わかったから」
本当に理解してるのかどうかは怪しいところだな、と閃は思ったが、とにかく一礼し、進路指導室の外に出る。待ち構えていた煌を素早くよりどころ≠フ中に入れ、歩き出した。
「閃くんって、やっぱりすごいねぇ……もうそんなにちゃんと進路決めちゃってるんだ。私まだどうすればいいかとか全然わかんないのに」
そんなことを言ってくる園亞には、ただ苦笑するしかなかったが。
実際、自分は進路を選択して決めたわけではないというのに。自分にはもう、残された道がそれしかないというだけで。
『……それだけは、認めていただけませんか』
「……なんだってんだ、ったく。少年漫画の主人公じゃあるまいし、正気でもの言ってんのか。っつかぶっちゃけ頭やべぇんじゃねーのあいつ、正義の味方とか真面目に進路調査票に書く時点でだいぶアレだとは思ってたけどな」
彰はぶつぶつ呟きながら陽の暮れた道を進んだ。普段の彰のテリトリーからするとだいぶ分不相応なお高い店が並ぶ通りだが、あの人に誘われた店がこの先にあるのだから仕方がない。
あのあと――草薙に相談というか、宣言を受けた後。彰は仕事に戻り、午後も授業やら職員会議やらをこなしたが、気持ちはどうにも浮き立たなかった。今日もまたあの人と飲める幸せな日だというのに。
草薙の台詞に感銘を受けたわけではない。そんなことはまるっきりない。あんな漫画と現実の区別のついていないガキの台詞なんぞに感動なんぞするわけがない。ただ。
『だから、決めたんです。それを止めようと。人を傷つけ、苦しめ、喰らい、しゃぶり尽くして放り捨てるような行為を、俺は絶対に放っておかない、って』
あの決意を語った時の草薙の感情は、紛うことなき本物だった。本当に、命を懸けてもというほどの強烈な意思が、話しているだけでびりびりと伝わってきた。
『先生が子供に世界を教えようという志を持って教職という道を選ばれたように。俺は俺なりに、志を持って正義の味方になろうと思うんです。この決意を貫き通したいと思うんです』
そう言ってこちらを見た時のあの視線。あのこちらを威圧しようという意思はまるで感じられないのに、恐ろしいほど苛烈な視線。あいつのあの言葉は、本当にあいつの人生を懸けた言葉なのだと、言われないでもわかった。
『たとえ一生報われず、末はなにも成せないまま道端でぼろくずのようにくたばったとしても、後悔はない、と』
そんなことを本気で、中学三年生が言う、その事実に彰は気圧された。明らかに本気だとわかる声で、あんな言葉を吐けるその人生に。
志という点で草薙は自分の進路と彰の進路を比べたが、冗談ではなかった。自分は人生だのなんだの、そんな重いものを背負って教職を選んだわけではない。そういう気持ちもないではなかったが、一番の理由は選んだ学部では会社員になるより教職を目指した方が就職しやすいと思ったから、だ。
なのに、まだ中三の草薙は、本気で正義の味方を目指すと言う。人生懸けて志を貫くと。それが無残な結果に終わったとしても後悔はないと。
その圧倒的な気迫に、彰は気圧され、そして――
『……それだけは、認めていただけませんか』
蘇ってきた言葉に、ぶんぶんと首を振る。振りながらぶつぶつと呟いた。
「冗談じゃない。なんで俺がそんなもんに巻き込まれなきゃならないんだ。俺はただ、たまたまあいつの担任になっただけで、あいつの人生に関わりたいわけでもなんでもないってのに。っつか勝手に俺の人生に入り込んでこないでくれっていうんだ、俺はしょせんただのサラリーマン教師なんだからな」
本当に。自分はただ、学年主任に文句を言われないようにあいつを呼び出しただけだっていうのに。
なんであいつに真正面からあんなこと言われなきゃならないんだ、まるでこっちが、本当に心の底から草薙を思って進路指導をしたみたいに――
「くそっ」
苛立ちに任せて足の下のコンクリートを蹴る――と、匂いやかな響きの声と、かぐわしい香りと、豊満で柔らかい肉体が腕に押しつけられる感触が一気にやってきた。
「どうなさったの、彰さん? そんなに不機嫌な顔をして」
「わ……美由理さん!」
思わず下半身にずくんと疼くものを覚えながら、彰はいつの間にか自分の腕に抱きついていた彼女――坂口美由理を見下ろす。昨日会ったばかりの相手だが、彰としてはもうこの女性にメロメロだった。美人だし、優しいし、よく気がついて自分の話をちゃんと聞いてくれるし、それにすぐ体の関係に持ち込んでくれる積極的なところも。
しかもその体ときたら、極上としか言いようがないのだからもうメロメロになるしかないだろう。正直これからちゃんと付き合って結婚してもいいと思っているくらいだ。ただ彼女の家事能力についてはいまだ未確認なので、結婚についてはまだためらいがあるが。
「いや、別に大したことじゃないですよ。ただ、仕事で嫌なことがあっただけです」
「まぁ、大変。そんな気分はお酒で流すに限りますよ。早くお店に行きましょう? そして、それから……ね?」
「ええ、うん、はい。そうですね、早く行きましょう」
正直今すぐホテルに直行したい気分もあったが、そこまでがっついたところを見せたくはない。
さらり、とした髪が彰の顔にかかる。その色っぽい仕草に、彰は思わずごくりと唾を呑み込んだ。
酒を飲んで、ほどよく酔ったところでそれなりにいい感じのラブホテルへ直行。お互いシャワーを浴びたところで、二人一緒にベッドへ。
今日は美由理が自分を押し倒してくるような格好になった。もつれ合うようにしながらベッドに倒れ込むと、裸の美由理がすぐ上から自分を見下ろしている。
そして、視線を合わせて、にこり、と笑う――その仕草に、ぞくぞくっと背筋が快感に震えた。彼女のためならなんだってできる、そんな感情が欲望と混ざって息を荒くしながら彼女を見上げる。
美由理は唇を笑ませたまま、ゆっくりと体を下ろしてきた。乳房が胸に押しつけられる柔らかい感触。そのまますぅ、と首筋に唇を
「そこまでにしてもらおうか、吸血鬼」
喉横にぴたり、と鋭い鋼を押し付けられ、動きを止めた。
彰は固まった。なんで、なんでこんな状況でいきなり、そんなものが? しかも、その鋼を美由理の喉横に押しつけてぴたりとも動いていないのは、どう見ても。
「草薙……!? おま、お前、なんでこんなところに――」
「吸血鬼。あんたがただ生きるため、食事のために先生に目をつけたっていうだけなら、俺は止めない。だが、先生の心身に魅了の術を染み込ませて、俺と園亞への白蛇≠フ襲撃のために使おうっていうつもりがあっちゃ、放っておくわけにはいかない」
「な、お前、なにを――」
「……いつ心を読んだの? 警戒はしていたつもりなんだけれど」
すい、と体を起こして、美由理が言う。そのぞっとするほど妖艶な姿を見ても、草薙は瞬きすらしなかった。
「ついさっき――俺の相棒が、いざこれから、という時が一番警戒が弱まるって言ったからな」
「ふぅん……でも、この状況でわざわざ仕掛けるって、もしかして頭が足りないのかしら? ここには、人質が――」
じゃっ、と美由理が腕を振り上げる。そこには(さっきまで普通の長さだったのに)人間のものとは思えないほどの長く鋭い爪が――と思うより早く、彰の頭の中にはなぜか、一瞬で眠気が充満し、こてん、と眠りに落ちてしまった。状況もなにも、まったくわからないままに。
目が覚めたのは、道端でだった。職場帰りのスーツのままの恰好で、横にはなぜか、今日もやはり日本刀装備の草薙と、四物園亞がいて、園亞が自分を気遣わしげにのぞきこんでいる。
「……わ? な、なんだお前ら、どうしてこんなところに?」
「えっとー、ホテルから眠ったせんせ」
「それはこっちの台詞です。なんで道端で寝てらっしゃるんですか」
園亞の言葉を遮り、すさまじくぶっきらぼうな調子で草薙が言う。え? と思いながらのろのろと立ち上がる間に、早口に草薙は事情を説明した。
「俺たちは夕食を取りにこの道を通っていたら、先生が道端で眠ってらしたので。目が覚めるまではそばにいた方がいいだろうと思っただけです」
「え……いや……本当か? や、あの、それは、悪かったな……」
「いえ。……お体は、大丈夫ですか」
言われて自分の体を見回してみるが、どこにもおかしなところはない。ただ、服が誰かに無理やり着させられたような違和感があるのと、頭がひどくぼんやりしているのを除けば、だが。
「……なにやってたんだ、俺。全然覚えてない……」
「よっぽど酔っ払ってたんですね。どうか、お酒はほどほどにしてください」
「あ、ああ……」
「それでは」
言って園亞を連れて踵を返す草薙に、半ば反射的に彰は言ってしまっていた。
「草薙!」
「……はい。なんでしょう」
足を止め振り向いたものの、相変わらずぶっきらぼうな、愛想のかけらもない声。それにわずかに怯み、そもそもなにかを言おうとか考えていたわけではない彰は数瞬焦ったが、必死に頭を回転させて口を開く。
「あのな、俺は正直、お前の『正義の味方』っていう進路は、どうかと思う。けどな、お前がそのために力を振り絞って努力するっていうのは、悪いことじゃない、と思うぞ」
自分の頭のどこから出てきたのかもわからないそんな言葉に、草薙は一瞬大きく目を見開いた。思ってもみなかったことを言われたような顔になった。
それからそろそろ、とうつむいて、それから小さくうなずいて。
「……ありがとう、ございます」
とそれだけ言い、また踵を返し、「じゃあねー、先生!」と言う園亞を連れて去っていく。
彰はそれをしばしぽかんと見つめ、それからぷっと吹き出した。草薙がうつむいたのは、顔を観られたくないからだろうとわかったからだ。
なにせ、草薙の耳は、彰からでもわかるくらい真っ赤になっていたのだから。
「……ごめん、園亞」
「え、なにが?」
きょとんとする園亞に、閃はうつむいたままぼそぼそと言う。
「俺は、園亞を護る役目なのに……何度も手を貸してもらって」
「えー? なんで?」
「なんでって……」
本来なら、自分は園亞を危険な場所に連れて行ってはいけない人間なのだ。なのに、「置いてかないで、お願い」と涙目で頼まれ、煌にも「いいじゃねぇか、連れていきゃ」などとそそのかされて、敵となる妖怪との戦いに駆り出している。
そして実際に役立ってもらってしまっているのだ。人質に取られかけた矢部を眠らせてよけいなものを見せないようにし、自分のところへ瞬間転移させて戦いの場から除外し、閃と吸血鬼との戦いの時にも閃にさまざまな呪文をかけて援護してくれた。それがなければ、たとえ能力としては弱い部類に属する妖怪とはいえ、閃一人で倒すことは難しかっただろう。
煌の手を借りずに妖怪を倒したのは決して初めてというわけではないが、こういう風に、援護されることでなんとか敵を倒す、というのはほとんど経験がない。しかも園亞は、少しずつ戦いに慣れていっているのだ。最初会った時は本当にごくごく普通の女の子だったのに、どんどん戦闘に際し適切な行動を取れるようになっている。
「だって、私、もっといろいろできるようになりたいんだもん。だから頑張らなくっちゃ」
「いろいろって……なにを? なんのために?」
「うーんと、敵を倒すとか、閃くんの援護するとか」
「……そんなの、普通の生活に必要なことじゃないだろう」
「え、だって、私、閃くんと一緒に正義のヒロインやりたいんだもん。閃くんが一緒にやってもいいよ、ってくらいに、なんでもできるようになんなくっちゃ」
閃は思わずぱかっ、と口を開けた。心の中に、煌のくっくっくと笑う声が届く。
『どうする、閃? こいつ本気で言ってるぜ?』
どうする、って。どうしろというのだ。こんな常識外の難問、一度もぶつかったことはないというのに。
困り果てて閃は園亞を見つめる。園亞の瞳はあくまで、きらきらと純粋に輝いてこちらを見つめていた。