心を込めて、ペンを動かす。真っ赤なインクの入ったペンを。
気持ちを込めて、想いを込めて。一字一字、丁寧に。あの人と一緒に考えた言葉を。
『あなたのことが、好きなんです』
そう書いて由紀子は、にこぉ、と笑った。半ば法悦の表情で。
「ああ……本当に。なんて、すてき、なの……」
好きな人に、素敵なラブレターを、こんな女の子らしい≠竄阨で書けるなんて。
「………え? これ……って」
園亞がぽかんと口を開けて目を瞬かせると、相手の女子たち――クラスの中でもあんまり話したことのない女子たちが口々に言う。どちらかといえば体育会系の園亞と違い、完全無欠に文化系の、確か文芸部の子を中心にしたグループだが、その口調は思いのほか強気だった。
「もう、そのくらい見ればわかるでしょ」
「由紀子、ホントに一生懸命書いたのよ」
「四物さんって、言ったら悪いけど、ちょっと鈍感なとこがあるから、はっきり言った方がいいって思って、あたしたち相談して由紀子応援したの」
「わかるでしょ、それってどういうことか?」
一言もはっきり言ってはいないと思うのだが、園亞はそれよりも差し出された封筒そのものに目を奪われていた。ピンク色の封筒、留めてあるのはハートのシール。裏には女子たちの群れの後ろの方でもじもじしている内気そうな女の子(如月由紀子というらしい。クラスメイトなのだが、園亞は教えられるまで名前を忘れていた)の名前。そして表には――
「えっと……これ、って。ラブレター、だよね?」
「そうよ、当たり前じゃない」
「そのくらい見ればわかるでしょ?」
「四物さんだって由紀子がどれだけ想い込めてその手紙書いたか、くらいわかってるんでしょ?」
「う、うん、それはわかるんだけど」
わかる。理解はできる。できるんだけど、あんまりわかりたくないと思うのは。
「これって。閃くん宛て……だよ、ね?」
おそるおそる問うた言葉に、如月は顔を赤らめてもじもじとし、周囲の女子たちが口々に言い立てる。
「当たり前でしょー!?」
「どこ見てるのよ、四物さん!」
そう、確かに、見ればわかった。ラブレターの表には、『草薙閃さまへ』と、女の子らしい丸文字でこまこまと書いてあったのだから。
『……そろそろ耐えられなくなってきたんじゃねーかー?』
(うるさい黙れ)
女子トイレの前、男子トイレとの中間の壁の前に立ちながら、閃はぶっきらぼうに煌の言葉に答えた。実際、あまり余裕のある言葉を返せる心境ではなかった。
閃が現在受けている仕事は、園亞の護衛。であるからには、できる限り四六時中園亞のそばについていなければならない。
授業中はもちろん、休み時間も、食事中も。園亞が女子とお喋りをしている時も少し離れた場所から様子をうかがっている(そういう時はたいてい渉にちょっかいをかけられるのだが)。部活中に体育館二階で稽古するのも許可を得た。
だから当然、トイレにもついていかなければならない――のだが、自分が男で園亞が女子である以上、中までついていくわけにはいかない。妖怪ならばそれこそ小窓からでもトイレの中からでも現れる可能性があるわけだからトイレの中まで護衛したい気持ちはあるのだが、園亞も「そ、それはちょっと……」と恥ずかしがるし閃も正直恥ずかしい。
なので、仕方なく出入り口に立って必死に索敵しているわけなのだが、当然ながら女子トイレの前に立って目を光らせている男子=自分に対して周囲の視線は厳しかった。特に女子はまるで変質者でも見るような目で自分を見てくる。
浮浪者のような暮らしをしていたこともある身なので、怪しげなものを見る視線で見られることには慣れている――が、それでもやはり嬉しいわけではまったくない。無言で視線に耐えながらも、閃の精神力は絶えずざりざりとやすりをかけられてでもいるように削られていた。
それでも護衛の役目を放逐するような真似は問題外だ。ひたすら黙って立ち、視線を跳ね返す――
『まぁそれでもやっぱガキどもには『こいつ、そんなに女子トイレの前が好きなのか……変態だ』みてーに思われてるだろーけどな」
「こ……っ」
(煌うるさいっ!)
心の中に響いた煌の声に反射的に上げそうになってしまった声を、奥歯を噛んで押し潰す。変態に見られようがどうだろうが、護衛の役目を放棄するなんてことは絶対にできないったらできないのだ。
と。
『きゃ……っ!』
「!」
女子トイレの中から園亞の声がした、と思うや閃は意識を戦闘モードにシフトしていた。刀に手をかけながら、索敵能力を全開にし、不意を打たれないように壁をうまく使いながら女子トイレの中に突っ込む。
「え……きゃあっ! 閃くん、ここ女子トイレだよーっ!」
声と目視で園亞の生存を確認。同クラスの女生徒につかみかかられているのを発見。女生徒の身のこなしは一般人レベルと断定。周囲に数人味方と思われる女生徒がいるも、素手で制圧が可能と予測。
一瞬でそこまで判断し、即座に行動を開始する。背後から園亞につかみかかってる女生徒に駆け寄り、女生徒が反応するより早く組みついて腕関節を極めた。
「ひぎっ……!」
「動くな、叫ぶな、俺の許可した時以外口を開くな。それに反した場合、即座にこの女の腕を折る」
相手の練度を確かめるつもりで殺気を全力でわかりやすく放ちつつ言ってみると、女生徒たちは『ひっ……!』と小さく叫んで固まった。演技の可能性を頭に入れつつ、低く訊ねる。
「園亞を狙った理由はなんだ」
「ね、ね、狙うとか、そんな」
「質問にははっきりと、そして素早く答えろ。さもなければ」
ぎ、とわずかに腕を軋ませると、腕をつかまれた女生徒は「ひっ……」と小さく悲鳴を上げて、早口に叫ぶように言った。
「あ、あたしたちただ四物さんに手紙渡してもらおうと思っただけなの! 由紀子の書いたっ」
「手紙? 内容は」
「な、内容って」
「質問には素早く答えろと言ったはずだが」
ぎ、と腕にわずかに力を込めてやると、「いたぁいっ!」と女生徒は泣き叫び、必死に答える。
「ら、ラブレターよっ、由紀子、あなたが好きだって言ってたから……!」
「……は?」
眉を寄せた。だが、一瞬ののちにまた低く訊ねる。
「その『由紀子』という女は誰だ」
『………っ』
「そ、そこのお下げの子よ! 赤いバレッタつけた……!」
閃はゆっくりと体勢を変え、女生徒を盾のように前に立たせながらその由紀子という少女に向き直る。少女は見るも哀れに震えていたが、かまわずに問いかけた。
「その手紙はどうやって書いた」
「え……」
「書いた方法を聞いている。それと、指示した人間がいればその相手も」
「い、いない、わ、そんな人。書いた方法だって、そんなの、普通に、書いただけ………」
「…………」
数瞬殺気を込めてその少女を睨みつけるが、少女はびくびくと怯えながら視線を逸らしはしたものの目に見えておかしい反応はない。内心小さく舌打ちしながら女生徒の腕を放し、軽く突き飛ばす。
「その手紙とやらを渡してもらおうか」
『…………』
周囲の張りつめた空気が一瞬呆けたように緩んだが、その由紀子という少女はあからさまに視線を逸らしながらものろのろと近づいてきて手紙を差し出す。手袋を嵌めてからそれを受け取り、低く、殺気を込めて告げた。
「よし、行け。……言っておくが、俺はどうでもいいが、このことで園亞に悪影響のある行為――噂の類を流す、嫌がらせ等を行った場合、それ相応の処置を取らせてもらう。それを忘れるな」
少女たちはそれでもしばらく固まっていたが、閃があごで示してみせると、ひぃーっと悲鳴のような声を上げて駆け去っていった。閃はふ、と息を吐いてから、制服につけた内ポケットからビニール袋を出して手紙をしまい込む。
「あ、あの、閃くん……」
園亞がもじもじとこちらを見る。聞きたいことの予想はついたが、あえて冷たく答えた。
「なんだ」
「あの、なんであの、あんな風に、乱暴なことしたの……? そりゃあの子たち、ちょっと乱暴だったかもしんないけど……」
「あいつらが刺客だって可能性を完璧に潰しておきたかったからな」
「え、し、刺客……?」
「今も完全に消えたわけじゃないが……少なくとも、俺に対する好印象はなくなっただろうから、その点についてはよしとしておく」
「え、な、なんで……? 普通、嫌われるより好かれる方がいいんじゃないの……?」
おずおずと訊ねてきた言葉に、閃は低く、できるだけぶっきらぼうに聞こえるように答えた。
「俺は、普通の人間には、絶対に好かれちゃいけない奴なんだ」
そう、自分と好意的な感情を交わす――関係ができるということは、つまり自分を食おうとする妖怪に利用されるということなのだから。
「なにあれっ……なにあれっ!」
「ひどい……ひどいよねっ、由紀子っ。草薙くん、あんな、あんな乱暴な人だったなんて思わなかったっ」
必死に走って教室の隅でそう囁き合う。全員、まだ体ががたがたと震えていた。
自分たちはただラブレターを渡してもらおうとしただけだ。ごく当たり前な女の子としてのイベントだったはずだ。
それがラブレターの相手に暴力を振るわれて、脅されるなんてありえないことになるなんて、当たり前だがまるで考えていなかった。
「由紀子っ、あんな人やめた方がいいよっ。男なのに女の子に暴力振るうとか、最低じゃないっ」
「ていうか先生に言おうよっ。あんな人が同じクラスにいるとか、信じられないっ」
「……っ。ううん、言わない……」
「なんでっ」
「私……生まれて初めてラブレター書いたの。相手がどんな人でも……渡したいって思った時の気持ちは本当だから、初めての気持ちだったから、せめて告白するところまではちゃんとやりたいの……」
「……由紀子ぉっ」
泣きそうな声を上げながら抱き合う。自分たちの友情を確かめ合って支え合う。なんて美しい形だろうと心底思った。
自分たちの在り様は美しい。自分の想いは美しい。相手のあんな姿を見せられようとも健気に相手を想い続けるなんて、なんてすてきな、女の子らしい、美しい心だろう。
泣きそうな顔を作り、涙声で慰めの言葉をかけ合いながら、半ば陶酔した心地で思った。
早めに手紙を確認しておいた方がいい、と判断し、閃は使われていない会議室の中に園亞を伴って入り込んだ。鍵をかけ、カーテンを閉めて外からの視線を遮断する。
それから(こういうことを口にすること自体正直恥ずかしくてしょうがないのだが)園亞に頼んだ。
「園亞。……悪いけど、むこう向いててくれるかな」
「へ? え、なんで?」
「……煌を出すから」
「え、煌さん? なんで?」
「もし手紙が危険なものだった時に、対処できる奴が必要だからだよ」
「えー? 手紙が危険って……なんで?」
「俺の敵は妖怪だ。妖怪はそれぞれさまざまにカスタマイズされた妖術を持ってる。手紙を爆弾に変えることも、読んだ人間を操る妖術を仕掛けておくことも、読んだらいつの間にか魂を隷属させる契約を結ばせるようなことだってできるかもしれない。煌なら単純なトラップはまず見破れるし、俺が妖術にかかって錯乱してもすぐ取り押さえられる」
「え? だ、だって、よーじゅつって、この手紙書いたの如月さんなんでしょ? クラスメイトの……」
「そう言ったのは彼女の友達だ。記憶を弄られて自分で書いたと思わされてるのかもしれないし、心を操られてるのかもしれない。それに実は彼女が妖気を隠す術に長けた妖怪だったって可能性も考えられる。まぁ、それはまずないだろうけどな、それならこれまでなんで手を出してこなかったのかって説明がつかないし」
「ふえぇ〜……閃くんって、ほんとにいろんなこと考えてるんだね〜……私、そんなとこまで気回すの無理かも……」
「……俺の場合は、そうしないと死んでたからな。否が応でもそのくらいは考えるさ」
あえてぶっきらぼうに呟いて、「さ、むこう向いてくれ」と正面から言うと、園亞は気圧されたようにこっくりとうなずいて後ろを向いた。は、と息を吐いて、この状況をはたから見たら自分は変態扱いされること間違いなしだろうな、などと思いつつズボンを下ろす。
いつものように燃えるような熱さが一瞬体を走ったあと、煌は一瞬で現れた。状況はわかっているのだろう、無言で閃から手紙を受け取り、あれこれと調べてから封を開け、手紙に目を通す。
しばし眉を寄せながら手紙を読んだあと、険しい顔で手紙を突き出してきた。
「ほれ」
閃も険しい顔で、警戒心を張り巡らせながら手紙の文章を読む。そこには、やや赤黒いインクで、やたら丸っこい文字でラブレターらしき&カ章が書かれていた。
『草薙閃さまへ。
好きです。あなたのことが、好きなんです。初めて会った時から、私はあなたが好きで好きでたまらなくて、あなたのことしか考えられなくなってしまいました。
私の気持ちに応えてくださるお気持ちがあるなら、今日の夜十時、和田堀公園に一人で来てください。待ってます。
如月由紀子』
「…………」
閃は眉を寄せる。ラブレターというものがどういうものかよく知っているわけではないが、これは要は呼び出しだ。
和田堀公園というのは四物学園からほど近い、緑に囲まれた公園だったはず。当然夜は人気などないだろう。夜に、そんなところに一人で来い、などというのは、普通に考えて罠しかありえない。というか、罠としてもあまりに下手くそすぎて逆に怪しい。
如月由紀子の素性を洗わなければ、と考えていると、まだこちらに背中を向けていた園亞からおそるおそるという感じで声がかけられた。
「ねぇ、閃くん〜、私もうそろそろそっち向いていいかなぁ?」
「……ああ、どうぞ」
「はー」
ほっとしたような息を吐いて、園亞はこちらに向き直る――や、珍しくもおずおずもじもじとした顔で訊ねてくる。
「閃くん、あのね……ほんとは、こんなこと聞いちゃ、いけないのかもなんだけど……」
「読みたいんだったら、どうぞ。手紙自体には特に罠らしいものは仕掛けてなかったみたいだからな」
「え、いいの……? じゃ、じゃあ、読んじゃう、けど……」
やはりおずおずと手紙を受け取り、つらつらと読み終えて、園亞は困ったように眉を寄せた。おずおずとこちらを見上げ、のろのろとうつむいて、またおずおずとこちらを見上げ、というのを繰り返している。
「……なにか、言いたいことがあるのか?」
「えっ? ううん……ううん、そうじゃなくて、言いたいんじゃなくて……」
またのろのろとうつむいてから、いかにも思いきってという勢いで顔を上げ、園亞は問うてきた。
「あっあのっ、閃くんっ、この手紙の呼び出し……受けるのっ?」
「は? ……受ける、というか、素直に時間通りに行くつもりはないけど」
「……へ?」
「だってどう考えてもこれは罠だろう。あからさますぎるところが妙だけど、どちらにしろ素直に時間通りに行っていいはずがない。行くまでに差出人の素性を洗って、できるなら家探しなんかをした上で、相手が来る前から公園に行って罠やなんかの下調べをして、相手を待ち受けるという形を取りたいと思ってる」
「あの……閃、くん」
「なんだ」
「それって、つまり……この手紙書いた子が『つきあって』って言ったら、つきあうのっ?」
「………はぁ?」
言葉の意味がさっぱりわからず、怪訝な顔で園亞を見るが、園亞は真剣この上ない表情できっとこちらを見つめている。少なくともこの真剣な気持ちにはこちらも真剣に応えなければ、と眉を寄せながらも閃は答えた。
「園亞の言う『つきあう』っていうのは、男女交際をするかどうか、って意味だよな」
「う、うんっ、そうっ」
「だったらその質問には意味がない。俺が一生男女交際なんてものできるわけがないのは園亞だってよくわかってるはずだ」
「……悪い妖怪との戦いに、巻き込んじゃうから?」
「ああ」
きっぱりうなずくが、園亞はしばし眉を寄せて考えたのち、ぶんぶんと首を振った。
「閃くん、あのねっ、私、それ違うと思うなっ」
「……は?」
「え、えとね、なんていうかっ。男の子と女の子がつきあうっていうのは、相手のことが好きって気持ちがまずあって、それで、えっと……なんていうか、相手ともっと繋がりたいなって思うから、つきあうわけでしょ? 気持ちがまずあって、それからおつきあい≠チて形になるわけでしょ?」
「……そう……なのか?」
「そうだよっ。だから、えっと、好きって気持ちをぶつけてくる女の子に……巻き添えにしたくないっていうだけで、自分の都合だけで、全部跳ねつけちゃうの……なんか、違うし、寂しいって思う。あの、ほんと言うと、これ、私のわがままなんだと思うけど……でも、閃くんには、好きって言ってきた人には、相手のことが好きか嫌いかっていうので……なんていうか、ちゃんと気持ちで応えてほしいのっ」
「……なんでそうなるんだ。俺は人と関わりを持つ気はないって最初から」
「それ、やなのっ」
「え」
「ごめんね、わがままなんだけど、私のわがままで、閃くんには迷惑なんだろうなって思うけど。人と関わり持つ気ないとか、妖怪との戦いの巻き添えにしたくないとか、そういう理由だけで人の気持ち全部跳ね返しちゃうの、やなのっ。そういうの、すごく、寂しいし、絶対つまんないって思うんだもんっ」
「…………」
閃は思わずぽかんとして園亞を見つめた。園亞は顔を真っ赤にして、涙目で、涙声で必死な顔で閃を見つめて言ってくる。
彼女が一生懸命になっているのは、必死なのはわかる――だが、閃は正直彼女が自分になにを求めているのかわからなかった。以前から何度も言っている、一緒に正義のヒロインをやりたいという言葉。あの真意すらも自分はまだつかめていないというのに。
刺激がほしいから? 自分も護る側に立ちたいから? 正義感か使命感か、それともなにか他の感情なのか。
どちらにしろ自分にそんなことを求められても応えられるわけがない。自分は誓った。正義のヒーローになって、悪い妖怪をすべて倒すために生きると誓った。はっきり言って果てのない、一生を賭けたところで果たされるはずのない誓いだ。それに他者を巻き込むなんてできっこない。自分にそんな器量はない。
それなのに、自分のそばにはほとんど生まれた時から一緒にいてくれる、運命を共にしてくれる存在がいて。それだけで自分は充分すぎて、もういっぱいいっぱいなのに。
彼女はいったい、自分になにを求めているんだ? 自分なんかになにかを求められたところで、これ以上絞り出せるものはなにもない――
だけど。一瞬、小さく深々と息をつく。
閃はハンカチを取り出し、園亞に渡した。できるだけぶっきらぼうにならないように、そっと、優しく。
「え……閃く」
「泣いて楽になるんなら、泣けばいいけど。苦しくなるんだったら、その分は俺にぶつけてくれ」
習い性で、どうしてもぶすっとした口調になってしまう声を、できるだけ柔らかく落ち着かせて言う。
「俺が君になにができるかはわからないけど。……できるだけ、応えられるように頑張るから」
そう、曲がりなりにもヒーローとして生きると誓った者が、泣いている女の子を無視するなんて、許されるはずがないのだから。
閃なりに真剣に告げたその言葉に、園亞はしばしぽかんとした顔になってこちらを見つめ、それからなぜかぶっと吹き出した。さすがに憮然とする閃に、園亞は沸き出る笑いを必死に噛み殺しつつ告げる。
「ごめっ……でも、閃くん……っ、私の言いたいこと、ほんとに、全然わかってないんだもんっ……なんか、おかしくって」
「ま、誠実に答えようとしてんのはわかるけどな、方向性はずれまくってるわな」
黙って見ていた煌にまで言われて、どうにも答えようがなく言葉に詰まる閃に、園亞は笑って言った。
「うん、大丈夫だよ、閃くん。私、閃くんがわかるまで、ずっとそばで何度でも言ってあげるから」
「…………」
どう答えればいいのかまるでわからず沈黙するしかない閃をよそに、園亞は「そろそろ教室戻ろ? お昼休み終わっちゃう」と笑ってみせた。
「おいおいおい〜、閃く〜ん。どーいうことよ、おい」
馴れ馴れしく肩を組んでくる渉の腕を素早く外しながら、閃はぶっきらぼうに答える。
「なにがだ」
「なにがってさぁ。もう校内中の噂だぜぇ? 女子トイレに突っ込んで四物に絡んでる女の子ぶっ倒したとかよぉ」
は、と息を吐いてまたぶっきらぼうに答える。
「別に倒してはいない。腕関節を極めて脅しただけだ」
「うわ、えげつなー。女の子に対してそりゃひどくね? しかも自分にラブレター渡そうって女の子たちにさー」
「女だろうと子供だろうと人を傷つけることも殺すこともできる。……それに、ラブレターなんてものを俺に渡そうなんて本気で考えてる時点で相当な危険人物だ」
「へ? なんで危険人物?」
「それは……。………。お前には関係ないだろう」
ここらへんでもう一度きちんと渉を突き放すべきだ、と判断した閃は冷たく言ったが、渉は微塵もめげなかった。へらへらと笑いながらしつこく腕を絡ませてくる。
「関係なくねーじゃん、俺らもうマブだしー」
「っ……違うって言ってるだろうが」
「んー」
渉は少し考えるように首を傾げた。閃は身体に絡みつく渉の腕の体温を無視し、少し離れた席でお喋りに興じる園亞の近辺に精神を集中する。
「あのさぁ。閃って俺のこと、あんま嫌いじゃないよな?」
「はっ?」
集中が乱れた。ばっと身を退いて渉を突き放す。唐突に妙なことを言われたせいか、感情が揺らいで顔が熱くなった。
「なにを言ってるんだ、お前は、急に、馬鹿なことを……」
「いやマジな話だって。閃ってさ、俺のこと、あんま嫌いじゃないっつーか、どっちかっつーと好きだよな?」
「な、だから、なにを、そんな……」
わけがわからず熱い顔できっと渉を睨んだが、渉は平然と、むしろ堂々ときっぱり閃に言ってのける。
「閃ってさぁ、普段仏頂面だけどつきあってみたらすっげーわかりやすいじゃん? だからさ、俺のこと嫌いじゃないってのくらいはわかるんだよ」
「っ……」
それは、確かに、自分は渉のことが嫌いというわけではないが。それはただ、別に、好きとか嫌いとかそういうことじゃなく、ただ成り行きで喋ったり質問に答えたりしているだけで、閃にしてみれば不本意な話で。
だが閃のそんな答えを聞く素振りすら見せず、渉はさらっと言ってのける。
「だからさ。そんな閃がわざわざんなこと言うってことは、『自分の運命にこいつを巻き込んじゃ駄目だ!』的なこと考えてんだろーってのはわかっちゃうんだよな、ぶっちゃけ」
「な……っ」
思わずカッと顔を赤くして口を開けてしまう。当然ながら、渉に対しては自分の素性はおろかどういう人生を送ってきたかということなど匂わせたことすらない。だというのに、なんでこいつがそんな自分のことをわかっているかのような台詞を吐くことができるのか。
「なーに驚いてんだよー。ったく、閃ってば俺のことマジ舐めてるよなー。ま、確かに俺とかお前に比べりゃパンピーにもほどがあるってくらいどこにでもいるチューガクセーだけどさ、お前がどういうタイプの人間かってくらいわかんだよ、二週間もつきあってりゃさ」
「……俺は、そんなにわかりやすいのか……?」
「えーそこはフツー俺の洞察力に感服するとこじゃねーの? ……ま、閃がわかりやすいのは否定しねーけどさ。孤独なクールキャラを頑張ってやってるけど予想外の事態にはわりとすぐ地が出るとか、一匹狼キャラとしちゃ鉄板だし」
「……一匹狼キャラ……?」
「いやいやまーそこらへんは気にしないでもいーから。……要はさ、お前の迷惑になることをする気はねーけど、だからってダチになろーとすんのやめる気は全然ねーからな、ってことを言いたかったわけよ」
「な……なに言ってるんだ、どうしてそうなるっ、俺は現実に、事実として俺に関わることがどちらにとっても害にしかならないと」
「だっからさ」
渉はぽりぽりと頭を掻いてみせてから、んーと首を傾げて語り出した。
「なんつーかさー。お前の人生ん中じゃ人と関わる=害になる、っつーのが当たり前だったんだってのはわかんだけどさ」
「……だった≠じゃない、現在進行形でそうなんだ」
「あ、そうなん? ……けどさ、少なくとも俺のこれまでの人生経験からすると、そんな話は変だろって話になるわけよ。人と関わることは人生を豊かにする、っつーのはもー聞き飽きるくらいに言われてたお題目だったし、困っている人がいたら助けてあげましょう、っつーのなんてのは当然っつーか一般常識レベルのモラルだったし」
「……それは、正しいとは、思うけど……」
「まぁたとえばさ、戦場とかだったらこんなヌルいこと言ってたらすぐ死んじまうんだろーし、俺たちの考え方なんてのは閃から見りゃもーお話にならねーレベルに危機感ねーよーに見えんだろーなー、とは思うんだけどさ」
「……ああ」
「でもさ、それでも俺たちは、その理屈の上で生きてきた、っつーのは確かなわけよ」
渉がなにを言いたいのかわからず、閃は眉根を寄せた。
「どういう意味だ?」
「意味っつーか、そのまんま。閃から見りゃお話にならないよーなヌルい考え方でもさ、俺らはそれが正しいって教えられたり、まぁ自分たちでも正しいんだろーなーってなんとなく思ったりしながら生きてきて、んで少なくとも俺は、今んとこそういう風に生きるの間違ってるとか思ったことねぇわけ」
「……それは」
煌が記憶を消したから、という言葉を胸の中で噛み潰しているのを知ってか知らずか、渉は真正面から閃を見つめ言ってくる。
「つまりさ。これって、異文化の接触ってやつなんだなって、俺思ったんだよな」
「は? ……異文化?」
「そー。歴史の授業でも何度も習っただろ? ゲルマン民族の侵攻とか、十字軍とか、あと中華思想持ってる国の文化支配とか……もっと身近な話でいうなら、男の考え方と女の考え方の違い、みたいな。生きてきた環境が違うから当然考え方も違って、だから相手の生き方が許せなかったり、ムカついたり、みたいなさ」
「……意味が、よく」
「お前にとって正しいことは、お前の人生の中では正しいんだろうけど、俺たち……っつーか、少なくとも俺の人生じゃ正しくないんだっつーこと」
「……どうしてそうなるんだ。俺はただ、俺に関わるのが害になると事実を」
「だっからさ。お前にとってなにが正しいか正しくないかってのはお前が決めることだろ? で、同じよーに俺にとってなにが正しくて正しくないかってのは俺が決めることなんだよ」
「………は………?」
閃は思わずぽかんと口を開けた。なにがどう転がってそういう話になるのかさっぱりわからない。
「……なにを言ってるんだ、お前?」
「そのまんまだって。お前がどんな人生経験積んで人と関わるのがダメだって思ったのかは知らないけどさ、俺も俺なりに人生経験積んで人間関係結ぶのいいことだって思ったわけよ。で、俺とお前の関係は俺とお前、両方の人生に関わる問題だろ? これまでの人生で経験ないことなんだから、どっちの理屈が正しいかなんて未来読めない以上わかんないし、最終的に結論出すのは俺とお前両方の意見鑑みねーと駄目じゃね?」
「い……いや、ちょっと待て。だからそういう問題じゃなく」
「お前はお前の理屈で自分の考えが正しい! って思ってんだろーけどさ。俺には俺の理屈があって、その理屈にそれなりにプライドもあるんだよ。で、まだなんの問題もねーのに俺の理屈が全面的に間違ってるとか言われんの納得いかねー」
「っ……」
だから、それは煌が記憶を消しただけで、本当はとっくに問題が起こってるんだ――という言葉が口から出そうになるのを抑えていると、渉は小さく苦笑して軽い口調で言ってきた。
「閃の顔からすると俺の知らないとこで実は問題とか起きてたのかもしんねーけど」
「っ……」
「でもだからって、俺の知らないとこで問題片付けられといて関わるな、とか言われても納得いかねー。助けられる側のパンピーとしちゃーお前の気持ち汲み取ってお前の言い分黙って受け容れんのが正しい姿だっつーのはわかっけどさ、これは俺の人生にもすっげー深く関わる問題なんだかんな、知らないままはいそーですか、って別れるなんてできねっつの」
「な……」
閃は一瞬ぽかんとしてからぎっと渉を睨みつけたが、渉は退かずにぎっとこちらを睨み返してくる。真剣な瞳だ。確かに渉もプライドを賭けているのだろうとわかる、力のある瞳だ。だが、だからといって。
「関わる必要がどこにある。俺の人生なんぞ人が本来生きていくのに必要なものは微塵もない」
「本来≠フ生き方ってなんだよ。自分の食い扶持稼ぐために働いて死んでくってことか? そんな生き方だけで満足してたら人類はまだ石器時代から抜け出せてねーよ」
「っ、まともな生き方ってことだ。俺の生き方はまっとうな社会活動の理から外れてる。そんなものと関わったところで」
「だから異文化の接触だって言ったろ? 普段繋がらない人生がたまたまきっかけがあってぶつかったんだ、だったらお互い相手からいい影響を吸収しようとするのがあるべき姿ってやつなんじゃねーのか?」
「っ……そういうレベルの話じゃない! 命に関わってくるんだぞ!?」
「上等じゃん。言っとくけどな、俺にとっちゃマジで人生懸かってんだかんな、命の危険があろーがなんだろーが退くわけにゃいかねーんだよ」
「っ………ふざけるな!」
だんっと思いきり机を叩く。だが渉は退かずに胸を逸らした。
「ふざけてねーよ。こんなことふざけて言えるか。マジで命懸けてお前につきまとってやるっつってんだよ」
「冗談もいい加減にしろ……命だぞ!? 失ったら人生が終わりになる、たったひとつの生命が懸かってるんだぞ!? それの重みが、怖さが本気でわかってるのか!?」
「俺なりにはわかってるね。その上でお前との関係に張ってやるっつってんの」
「っ……ふざけるなって言ってるだろ!!!」
「ふざけてねーっつってんだろ!!」
「〜〜〜っ………」
バン! と閃はまた思いきり机を叩いた。溢れる感情を抑えきれずぐっと下を向く。自分の瞳から涙がこぼれてしまうのを少しでもごまかすためだったが、なぜかどよめきが周囲から上がった。
だが、そんなものを気にしている余裕はなかった。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくてたまらなかったけれど、自分でもはっきりわかるほど涙の混じった声で、うつむきながら懇願する。
「頼むから……頼むから、そんなこと考えるのはやめてくれ」
「っ……」
「死ぬんだ。本当に……死ぬんだ。俺の力じゃ、全然……どうやったって護りきれないんだ。もう、俺のせいで人が死ぬのを見るのは嫌なんだ。だから……お願いだから、頼むから……」
「ぁ………」
「閃………くん」
きゅ、と裾を引かれて、のろのろと見上げると、そこにいたのは園亞だった。ひどく気遣わしげな瞳でこちらを見つめ、おずおずと言う。
「えと……閃くん。あのね……なんていうか、その……うん」
なんと言おうか必死に言葉を選んでいる園亞に、ようやく閃は状況に気がついた。さっきさんざん叫んだせいか、自分たちは教室中の人間に注目されていたのだ。何十人という人間が、こちらを見ながらこそこそとなにやら囁いている。
カッ、と思わず顔を朱に染めた閃に、園亞は心を決めた、という様子でうんとうなずき、にこっと笑って言った。
「とりあえず、帰ろっか。今日私の部活ミーティングだけだし」
駐車場に行く途中も、車の中でも、閃はずっとうつむいたままで顔を上げることもできなかったが、園亞は話しかけてはこなかった。普段の園亞なら考えられない話だから、明らかに気遣われているのだろうとわかる――だが、それに対して謝意を表すことが閃にはできなかった。少なくとも、今の状態では。
腹の底からとめどなく、悔しい、辛い、悲しい、情けない、そんな何度も何度も味わったネガティブな感情が込み上げてきて、心を揺らす。この五年間ずっと戦ってきて、少しは心を揺らさない術を覚えたつもりだったのに、みっともないとしか言いようのない惨状だった。
車が帰途の半ばを過ぎようという頃、おそるおそる、というように園亞が口を開いた。
「……あの……閃くん」
「…………」
応えられずにうつむいたままでいると、そろそろ、とこちらに向けて腕を伸ばしてくる。それでも無言のままでいると、膝の上に乗せた閃の拳に手を重ね――ようとしてためらって、やはりそろそろと学ランの肘のあたりをつかみ、くいくい、と慎重な手つきで引っ張って、言った。
「あの、ね、閃くん……て、手を、握って、いーですかっ」
「……は?」
意味がわからずのろのろと顔を上げて訊ねると、園亞は顔を真っ赤にしながらわたわたと(袖をつかんだ方の手は離さずに)説明する。
「あ、あのね、前にね、っていうか子供の、幼稚園の頃にね、手当てっていうのは手を当てることからきてて、痛いところとか辛い時とかに手で当ててあげるだけでも元気になりますよ、って先生に教わったの、それでお父さんとかお母さんとかに実際にやってあげたら効果あったのっ。だからね、閃くんにもね、なんか辛そうだから、手を当てたら少しは、楽になる、かなーって……」
最後の方は失速して、真っ赤な顔のままうつむき加減になってしまったが、それでも懸命に自分の方を見つめながら言ってくる言葉に、閃はぽかんとしてしまった。
つまり、園亞は、自分を助けようとしているのだ。そんな必要などどこにもないのに。閃が頼んだわけでも当然ないし、誰かに頼まれたわけでもないのに、閃が辛そうだからというただそれだけの理由で。
なんで、そんなことをしようと思うんだろう。
自分には、そんなことをしようなんて考える相手はいないはずなのに。昔はいたけれど、みんなとうに死んでしまって、自分のそばにいるのは、いてくれるのは、ただ一人、煌だけのはずで。
「……なんで?」
「へ? な、なんでって?」
「……なんで、そんなことをしようと思うんだ? そんなことをしたって、園亞にはなんの得もないだろう?」
「え? な、なんで?」
「なんで、って……なにが?」
「だって、閃くん、何度も私のこと助けてくれたじゃない。その時、別になんか得になるから助けてくれたわけじゃないでしょ?」
「……それは、そうだけど、あれは」
「あれは?」
「……正義のヒーロー(予定)として、ごく当たり前の……」
言いながらなんだかひどく情けない気分になって目を伏せる。この台詞を口にする時に、こんな気持ちになることなんてなかったのに、今口にすると、自分がひどくつまらなく、みっともない人間のように感じられてしまって。
だが、園亞は目をぱちぱちとしてから、にこっと笑って言ってのけた。
「じゃ、私は閃くんを好きな子として、ごく当たり前のことをしてるだけ」
「…………」
好き。
閃はぱかっ、と口を開けたまま、呆然とその言葉を聞いた。
好き。誰かに対する好意。優しさ。慈しみの心。愛情。恋情。独占欲。支配欲。所有欲。
好きという一言で表される、種々様々な感情。けれど園亞の声から、表情から、笑顔から伝わってくるそれらはすべて、柔らかく、暖かい。
なんで、こんな顔で、こんなことを言ってくれるんだろう、彼女は。自分にはそんなもの、もう縁がないはずなのに。縁があっちゃいけないのに、なんでこの子の気持ちは、こんなに、優しい――
と、閃の見つめる前で、唐突に園亞がぼんっ、と顔を先程にも増して真っ赤っ赤にした。閃が驚く間もなく、わたわたと取り乱しながら(それでも閃の袖をつかんだ手は離さずに)言い訳するように喋り出す。
「ち、違うの、好きっていうのはそういう意味じゃなくて、ううんそういう意味もあるんだけど今はそういうこと言いたかったんじゃなくて、閃くんのことすっごい好きだよって言いたかったっていうか、じゃなくてじゃなくてううんそうなんだけどそうじゃなくて、大切だよっていうか優しくしたいよっていうかえっと、えっと、そう人として! 人として閃くんのことが好きだよって言いたかったの、今は! ほんとだよ、閃くんが苦しい時にときめきなこと考えるのとか失礼っていうかよくないっていうかそんな場合じゃないだろって怒られちゃうっていうか、怒られなくても駄目だと思うし、とにかくそういうんじゃないの!」
「…………」
慌てながらも必死に言い募る園亞をしばしぽかんと見つめてから、閃は思わずぷっと吹き出した。
「ほ、ほんとだよ!? 嘘とか冗談とかじゃないから!」
「はは……うん、わかってるよ。わかってる……」
「え、えと、閃くん……?」
「わかってる、わかってるから……」
うつむいてくっくっと体を震わせる閃に、園亞はおずおずと顔をのぞきこみ、訊ねてくる。
「もしかして、泣いてる?」
「………っ」
堪えきれずぼたぼたっ、と落とした涙に園亞は驚いたように目を見開いたが、ばっばと周囲を見回してから、意を決したようにすっと手を伸ばしてきた。閃の瞳からこぼれ落ちる涙を、指先でそっと拭う。
閃はその手に抵抗できなかった。涙を堪えることもできなかった。ただ、うつむいて体を震わせているだけだった。
それでも園亞は、真剣な顔つきで、涙を何度も拭い続けてくれて、その手が温かくて、柔らかくて。
閃はひたすら、もう涙が出なくなるまでずっと、子供のように泣きじゃくった。
「……そっか。そういうこと、あったんだ」
「何度も」
まだ道を走っている車の中で、閃はぽつぽつと話し始めた。さっき泣いた理由。教室で怒鳴った理由。理由ができるまでの経過。
両親だけでなく、自分と関わった人が何度も悪の妖怪に利用されてきたこと。利用されるのみならず、自分の心を揺らがせるためだけに無残に殺されることすらあったこと。
それを避けるために、ずっとひとところに留まらず、人とのかかわりをできるだけ避けて生きてきたこと。
「閃くん……しつこいかもしれないし、私なんかが言ったら、腹立つかもしれないけど。ほんとに、ほんとに大変だったんだね」
「俺の大変さなんてどうでもいいんだ。一番ひどい目に遭ってるのは、殺された人たちなんだから。……なんの罪もないのに、俺なんかに関わったばっかりに」
「そんなこと、ないよ。そんなの、閃くんのせいじゃない」
「俺のせいだよ。俺がいなければ、あの人たちは殺されることはなかったんだから」
「……ううん、違う。それ、違う」
園亞はきっぱり首を振った。閃は、一瞬違和感を覚えて目を瞬かせた。以前、こんな状況で、園亞は確か、なにも言わなかったような気がするのに。
「閃くん、その人たちを殺したのは、悪いよ……、さんたちだよね? 閃くんじゃないでしょ?」
「だけど、俺がいなければその人たちは死ぬことはなかったのは確かだ」
「人生でたらればを言い出したらきりないし、そもそも本当にその人たちが死なないですんだかなんてわからないでしょ? 悪いよ……そういう、ひとたちが、その人たちに狙いつけてたかもしれないじゃない」
「それは……理屈の上ではそうだけど。普通に考えれば、そんなの」
「少なくとも、私は閃くんのおかげで命助かったよ」
「え」
「私の家に悪いようか……そういう、のが入り込んだ時に、やっつけてくれたし。私が誘拐された時も、命懸けで助けてくれたじゃない」
「……それは……」
閃は言葉に詰まった。それは、確かにそうなのだが。だからといって、自分の人生に巻き込んでいいわけが。
「なんていうかさ……ポジティブシンキング、っていうの? 助けられなかった人のことを考えるよりさ、助けられた、助けられる人のことを考えない? 一人でも、二人でも、死ぬかもしれなかった人を助けられたら、それだけですっごいいいことしてるって私思うんだけど」
「そういう……問題じゃないだろ。俺と関わったせいで、命が失われるのを放置しておいていいはずない。死ぬかもしれないっていう可能性を無視するなんて……」
「うん、それはわかるんだけど。えっと……」
少し考えるように首を傾げてから、改めて園亞はこちらに向き直り言った。
「あのね。閃くん。私ね。もし悪い、そういうのに殺されちゃったとしても、閃くんに出会わない方がよかったとか、絶対思わないと思う」
「……な」
「私、閃くんに会えてよかったと思ってるし、もっと一緒にいたいし、ほんとのほんとに閃くんと一緒に正義のヒロインやりたいって思ってるし。一緒にいろんなこと頑張れるの、すごく嬉しいし。だから、殺されちゃっても、絶対後悔とかしない」
「な……なに言ってるんだ! 命だぞ!? 取り替えのきかない、自分のただひとつの命なんだぞ!?」
「うん、私の*スだよね。だから、それをどう使うかは私が決めることだし、もしそれで私の命が消えちゃっても、それに閃くんが責任を感じるの、おかしいって思うんだ」
「……園亞」
閃はなんと言えばいいかわからず固まって園亞を見つめた。園亞は真剣な顔で、真正面からこちらを見つめてくる。その艶やかな黒い瞳には、こちらを圧するほどの、こんな女の子が持てるとは考えもしなかったほどの強い意志の光があった。
「覚悟とかなしで関わってこようとする人に、自分と一緒にいると危ないって教えるのは悪いことじゃないって思うよ。でもね、それでも一緒にいたいっていう人がいたら、危険だとかどうとかじゃなくて、閃くんがその人と一緒にいたいかってことで決めていいと思うんだ。だって、その人だってほんとのほんとに、一生懸命考えてそれでもって思って決めたことなんだから、閃くんだって気持ちで応えてほしいなって思うから」
その眼差しに、自分が気圧されるのを感じて閃は唇を噛んだ。駄目だ。駄目なんだ、それでは。自分はもう、何度も繰り返して、駄目だと教えられてきたんだ。震える唇を必死に動かして、懸命に言う。
「……俺の力じゃ、関わった人すべては護りきれないんだ。人は死ぬんだ、すごく簡単に。俺はもう……これ以上、人が死ぬのを見るのは……」
「……じゃあ、私がなんとかする」
「え」
閃はぽかんと園亞を見る。園亞の顔は変わらず真剣だ。だがなにを言っているのかがよくわからず、閃は聞き返した。
「なにを……なんとかする、って?」
「閃くんの周りで人が死んだら、私が生き返らせる」
「え………は!?」
「そういう魔法もあるって思うから。私がもっともっと魔法がうまく使えるようになったら、きっとそういうこともできるようになるもん」
「………………」
真剣この上ない顔で、真面目に、真正面から、閃の顔を見てそう宣言する園亞――それにどう反応すればいいかわからず、閃は口をぱくぱくと開け閉めする。が、うまい言葉が出てこない。
『そんなのできるわけないだろ』(もしかしたら魔法は本当にそういうことができるのかもしれない)『園亞がそんなことをする必要なんてないじゃないか』(園亞の行動は園亞が言っていた通り園亞自身が決めるべきことだ)『俺のせいで出した死者なのに園亞に迷惑をかけるわけにはいかない』(そんなのそれこそ手前勝手な勘違いした台詞だ)……どれも、この少女に言ったところであっさり受け流されてしまうような言葉だ。
でも、駄目なのに。この少女を思いとどまらせなくてはいけないのに。彼女を巻き込んでは絶対にならないのに。
それなのに園亞は、あくまで真正面から真摯な瞳で閃を見つめる。助けになりたい、助けになると。閃の心の扉を真正面から開こうと。苦しむ自分に手を差し伸べてくる。
なんて答えればいいのだろう。なにをもって応えればいいのだろう。ずっとただ必死になって、周りとの関係を断ち切って、自分の力をひたすらに鋭く研ぐことしか考えてこなかった自分の中に、彼女のこの真摯さに報いられるどんなものがあると――
ピピピピッ。
ひたすら二人で見つめ合っている最中に上がった電子音に、閃は思わずびくっと震えた。園亞が、あ、と気づいたように手元のスイッチをちょいちょいと弄ると、運転手の神崎の声がスピーカーから聞こえてきた。
『お嬢様、できましたらそろそろ屋敷の方へ向かいたいのですが、いかがでしょうか?』
「え? うん、いいよ」
『承知いたしました』
ごく穏やかな短い会話――だったが、神崎の言葉から自分たちがなにやら取り込んでいるのを察し、ずっと回り道をしてくれていたのだということを察してしまい、閃は顔を熱くしつつずぶずぶと体を沈めてしまった。
夜の八時半。閃は和田堀公園にたどり着いていた。当然園亞を連れてきたりしているわけもなく、一人きりだ。
この時間までに如月由紀子の素性は一通り洗ったが、一通り£度の調査では妙なことなどそうそう浮かんでくるはずもない。できれば家探しなどもしたかったが、この状況では園亞と一緒に行動しているとまたずるずると最後まで一緒にいることになりそうな気がしたので、園亞が部屋に引き取るまで待って、それから公園へとやってきたのだ。
『……そろそろ俺を出せよ。敵がいないか、お前の眼だけじゃ調べられねぇだろ』
「最初からお前に頼る気はないって、知ってるだろ」
口の中で音に出さずそう呟きながら、閃は公園内を影から影へと移り歩く。和田堀公園は(来る前にネットで調べておいたが)かなりの広さを持つ公園で、この公園のどこへ呼び出したのかわからないのでは会うのは難しいのではと思うのだが、少なくともこちらから向こうに連絡を取る気はない。あちらこちらの罠を仕掛けられそうな場所を調べ、徹底的に探索していく。
煌は『自分を出せ』と何度も何度も言ってきたが、閃はそのすべてに否の返事を返した。煌に頼っていては自分は強くなれない。少しでも強くなって、一人でも生きられるくらい強くなって、自分自身の力だけで妖怪と戦えるようにならなければ。
『私は閃くんを好きな子として、ごく当たり前のことをしてるだけ』
ふいに脳裏に浮かんだ言葉に、閃はカッと顔を赤くして首を振った。なにを考えているんだ、自分は。こんな時に。
自分は誰かに助けを求めるべきではない。それどころか関わることすら好ましくない。それは最初からずっとわかっていることで、だから園亞にあんなことを言われても、真正面からぶつかられても、応えようがない、応えるべきではないというのは絶対的に確かなことで――
なのにこんなにも揺らいでいる自分は、どこまで無様なのだろう。
「くそっ」
苛立ちのままに、口の中だけで小さく自分を罵る。そんなことだって本来ならすべきではないしせずにすませて当然だというのに。
むやみやたらと乱れる心を、必死に制御しようとしながら、茂みから茂みへと音を立てないように渡り歩く――
と、声がした。
「草薙、くん……?」
少女の声。これは、如月由紀子の声だ。調査の途中で喋っているのを聞きつけて知った。
声のした方向は右前方、茂みから出てすぐの池沿いの遊歩道。電灯の逆光になって顔は見えにくいが、そこに如月由紀子が立っている。
『おい、とっとと俺を出せって。襲ってくるとしたらこの辺でだぞ?』
(出せるわけないだろ、馬鹿言うな)
まだ目の前にいるのは人間の少女でしかないのに、こんなところで煌を出せるはずがない。
彼女のことはできるだけ調べた。戸籍もあったし経歴もおかしなところはない。幸い学校にいる間に煌に彼女を見せることができたのだが、妖気の類も感じられないし、心を読んでも特に不自然なところはなかったという(記憶を弄っている可能性ももちろんあるが)。
つまり、怪しいところは特にない――が、年若い少女がこんなところに同学年の男を呼び出すという時点でどう考えても怪しすぎる。警戒に警戒を重ねるに若くはない。
けれどそれ以前の問題として、彼女の前に立つのに煌を連れて行くわけにはいかない。そんなのは考えるまでもなく当然のことだ。
閃は刀に手をかけながら、周囲を警戒しながら、素早く茂みを出る。邪魔は特に入らなかった。
ゆっくりと少女に近づき、二mの間を置いて立つ。なにかおかしな動きがあれば即座に斬り込める位置だ。
「……俺を手紙で呼び出したのは、どういう理由があってなんだ」
単刀直入に切り出す。ここまで来て悠長に言葉遊びをする趣味はない。
「ど、どういう、って……だって……あの、わかるでしょう?」
「悪いがわからない。はっきり口で言ってくれ」
「は、はっきり、って……」
閃のごくごく当然な指摘に、少女は困ったようにもじもじと身をよじる。閃は警戒を怠らず、淡々と少女に向け構えを取り続けた。
「あ、あの、ね。私……あの。草薙くんのことが……好き、なの」
今日その言葉をかけられるのは二度目だったが、閃の心臓は一瞬熱くなっただけですぐに平常時と同様の冷静さを取り戻すことができた。いっそ冷然とした響きすら作って、閃は問う。
「それで?」
「そ、それで……って」
「それだけがこんなところに俺を呼び出した理由なのか?」
「そ、そう……だけど」
真正面から少女を見つめ、その表情、口調、言葉遣いなどを総合的に検討し、判断する。――彼女が嘘をついているようには見えない。
もちろん自分にはわからないほど彼女の演技がうまい可能性も高いが、ならばいっそのこと強くつついてみるべきだ、と判断し閃は口を開いた。
「なら、今後こういうことは一切やめてくれ」
「な……」
「俺はそんな馬鹿馬鹿しいことにいちいちかかずらっている暇はないんだ。惚れた腫れたがしたいなら別の相手とやってくれ。少なくとも俺はそんなくだらないことに関わるのはごめんだ」
「――――」
さあどう出る、と閃は少女に向け身構える。本性を見せるか、それとも罠を発動させるか。どちらにせよ彼女が動けば一気に踏み込んで――
と身構えた体は、唐突に指一本も動かせないほどに硬直した。
「…………!」
「あらあら、どうしちゃったのかしら、ボク? そんなに固くなっちゃって」
背後から聞こえてくる、見も知らぬ女の声。それが近づいてきて、すっと手が伸ばされ、するりと自分の顎が背後から撫でられた。
「罪悪感? 恐怖感? それとも天罰でも落とされたのかしら? そうよねぇ、女の子の恋心をあんな風に放り捨てるだなんて男として許されることじゃないもの」
「月子さぁん……」
少女が甘えたような声を出しながら背後の女にしなだれかかるのに、自分の顎を撫でる女の声はあくまで優しく応える。
「ごめんなさいね、由紀子ちゃん。私の力が足りなかったせいで、こんなひどい男に意地悪なことを言われるようなことになってしまって」
「ううん、ううん、月子さんのせいじゃないです。私の目が腐ってたの……こんなひどい奴を好きになるなんて、今考えたら本当、恥ずかしいわ」
「気にすることなんてないのよ、由紀子ちゃん。恋をするのは女の子の特権、ひどい男に引っかかるのだって時にはあることよ。それも経験と割り切って、次の相手を探さなきゃ」
「うん、うん、そうですよね! あたし、間違ってないんですよね! よかったぁ……!」
少女は主人に褒められた犬のようにでれでれとした声で女に懐く――その間も、閃は指一本すら動かすことはできなかった。
これはもはや、疑いようがない。金縛りの妖術をかけられたのだ。指も足も唇も動かせないどころか、呼吸すらできていない。なのに意識だけははっきりとして、息苦しさも感じていないとなればそれしかない。
金縛りは相手を捕まえるという点においてはまさに究極とも呼べる強力な妖術。その分使いこなすには高い妖力が必要となるので使い手はそれほど多くない。けれど対抗手段もほとんどなきに等しい。かかるか否かは術の強さとかけられる側の生命力の強さによるが、一度かかれば術者を殺すか、術それぞれにただひとつ定められた方法を探し出して解除するしかない。
そして、かけられてしまえば指一本すら動かせなくなる以上、被術者が自力で術から抜け出せる可能性は、ほぼ100%ない。つまり――
(――しくじった………!)
心の中で拳を握りしめ絶叫する。少女の背後に誰かが糸を引いている可能性をもっと考えるべきだった。いや、そうでなくとも話している最中にも周囲の気配に鋭く感覚を尖らせていればこんな事態は防げたはずだ。もっとちゃんと、もっとしっかり、もっときちんとやっていれば――
『私に勝てた、と思ってる?』
(!?)
心の中に響いた、さっきと同じ女の声に閃は仰天した。女は優しく少女の髪を梳きつつ、くすくす笑うような声を閃の心の中に届けてくる。
『それはねぇ、無理なのよ。だってあなた、この公園に来るまでにもう負けているんですもの』
(――なにを!)
『この子の手紙、読んだでしょう? あれはこの子が自分の血を混ぜたインクで、満月の晩――つまり、昨日に、身を清めた後月光を浴びながら私と一緒に¥曹「た恋文。つまり、あれには暗示の妖術がかけてあったの。気持ちに応える気があるなら一人で来い、って一文の前にあなた以外のことが考えられない、って書いてあったでしょ? つまりあなたは誰かを連れてくるなんて考えられもしなかったし、この子以外のことに注意が向かなくなっていたのよ。私の暗示の妖術は発動条件が厳しい上に、かける相手に強い好意を持っている女と一緒でないと使えないって代物だけれど、発動が遅らせられるし術の目標以外には反応しないから、使いようによっては便利でしょう?』
(……お前はっ……)
『私は蛇神。女の情念から産まれた妖怪の一人よ。そして、あなたの血肉を心の底から欲している妖怪の一人でもあるというわけ』
(っ………)
『ふふ……この辺りに根城を構えて長いけれど、まさかうまい具合にあなたを愛する女が私のところにやってきてくれるとは思わなかったわ。ああ、私の表の仕事は占い師なんだけれどね。私の妖術は男に好意を持つ女に力を貸すようにできている……恋文で暗示をかけて誘い出し、邪魔が入らないように場所を用意し、恋心をすげなく放り捨てる男に罰を与える。あなたが予想に違わない性格で助かったわ』
(……この子をどうする気だ)
『あなたが気にすることじゃないと思うけど? ふふ、まぁ私が力を得る役に立ってくれた女の子なのだから、そう悪いようにはしないわ。ただ、そうね。せっかくここまで役に立ってくれたんだから、もう少し働いてもらいましょうか――』
「ねぇ、由紀子ちゃん?」
「なんですか、月子さん?」
主人に撫でられた犬のように、声に喜びと媚を滲ませきって少女が女を見上げる。それに、女はにっこり笑って告げた。
「せっかくなんだから、この男の子、もっとちゃんと罰してあげるべきだと思わない?」
「ああ、いいですね! でも罰って、どんなことをするんですか?」
「そうねぇ、まずはやっぱり……釘打ちなんてどうかしら?」
「え?」
意味が分からなかったのだろう、きょとんとする少女に、蛇神の女は笑顔で続ける。
「だから、釘打ち。この子の体に釘を打つの。そして血を噴き出させて、あなたの心の痛みの分だけこの子の体にも痛みを感じさせるのよ」
「え……えぇ!? そんな、だって、そんなの……犯罪じゃないですか?」
「心配しなくていいわ、この子は絶対告発なんてできないから。乙女の心を傷つけたんですもの、そんなこと許されるわけがないでしょう?」
「で、でも、そんなの……」
「由紀子ちゃん。あなたはこの子に傷つけられたんでしょう? だったらその分を、きちんと返してやらなくちゃ駄目。思い知らせてやらなくちゃ駄目。男っていう生き物は、女が普段どれだけの我慢をして男に合わせてやっているか、まるで考えもしないものなんだから。あなたの気持ちを無碍に放り捨てたこんな男に、優しくしてやるなんて絶対駄目よ。こんな男をいつまでもつけあがらせておくつもりなの?」
「そ、れは……うん、そう、ですよね……罰与えなきゃ、駄目ですよね……?」
「そうよ。こういう男には、乙女心を傷つけた分の仕返しをしてやらなきゃ。それが女としての正しい在り方なんだから」
戸惑い、気圧されながらも、少女の表情が憎悪に歪み、蛇神に渡された釘と金槌を受け取るのを見て、蛇神はにんまりと笑う。
(……魅了の妖術か)
『感情を弄る術もちょっと使ってるわねぇ。でも、それもこの子の中にそういう気持ちがなければ強くは働かない。つまり、あなたは自分の行動が原因で、女に殺されることになるのよ。ねぇ、どんな気持ちかしら?』
(―――………)
ひどく楽しげな蛇神の声に、閃は心の中で一瞬息を吸い込んでからきっぱりと告げた。
(後悔はしていない。間違っているかどうかはおいておくけど、今度同じことがあっても、俺は同じように応える)
『……あら、そう。その強がりがいつまで続くか、見せてもらうとしましょうか――』
「……さ、由紀子ちゃん」
少女が釘を左手に金槌を振り上げる――
や、ぱったりとその場に倒れた。
「……え?」
蛇神がきょとんとした声を上げる――や、今度は閃の下半身からズボンが消えた。のみならず、パンツも消えた。初夏とはいえ、夜の冷たい風が下半身を直接冷やす。
蛇神もわけがわからないようだったが閃もなにがなんだかさっぱりわからない――そして、わかるより先に炎が体から放たれた。
(…………ッ!!)
「な……!」
「……俺の可愛い可愛い生贄に、よくもまぁ偉そうなこと抜かしてくれたもんだな、おい」
すでに炎の巨人と化している煌が、にたりと笑む。蛇神は「ひ……!」と悲鳴を上げつつ後ずさったが、当然ながら煌はそれを逃がしはしなかった。
「逃がすかこのド糞女が!」
ぶぅんっ、と両手の燃える鉤爪を振るい、ずばぁっと蛇神の腕を引き裂く。もう片方の腕は巨大な掌でがっしとつかんで筋肉を引きちぎり引っこ抜く。「ぎゃあぁあっ!」と絶叫し、妖怪の姿をあらわにしながら逃げようとする蛇神の喉首を、加虐の快感に満ちた顔で軽々とつかみ持ち上げ、ぎゅうっと絞める。
「てめぇごときが俺の贄に上から目線でもの言うなんて百億万年早ぇんだよ……」
「ひぐっ、ぐぶっ、げはっ」
「それがその低能な脳味噌にもきっちり刻まれたんならなぁ、とっとと焼かれ死んで消滅しやがれ!」
ぶふぉおっ、と口から爆炎を吐いて蛇神を焼き尽くす――幸い、上向きに吐きかけたので周囲は木ばかりという火神には(巻き添えを出さないという観点から見れば)最悪の環境だというのに、延焼はしなくてすんだ。
と同時に、閃の体がすうっと軽くなる。金縛りの妖術が解けたのだ。ほっと息をつく――間もなく閃は一歩踏み込みながら煌と少女の間に割り込んで刀を抜き、煌が無造作に振るった鉤爪のこちらが吹き飛びそうな一撃をぎりぎりで受け流した。
「……なにやってんだ、おい」
「それはこっちの台詞だ。なんでこの子を殺す必要がある」
実際には煌がなんでこの子を殺すつもりになったかはよくわかっていたが、あえてそう言って真正面から煌を睨みつける。
「このメスガキはお前を殺そうとしやがった。その落とし前はつけるのが当たり前だろうが」
「それはさっきの蛇神の妖術のせいだ。この子が自分でそう望んだわけじゃない」
「なに言ってやがる。さっきあのクソアマが抜かしてたこと聞いてやがったくせに。こいつ自身がそういうことを考えてやがるから妖術が効いたんだろうが。有罪判定とするにゃあ充分だぜ」
「……それは俺自身の責任だ。この子のせいじゃない」
「は。どこがだよ。ろくに話したこともねぇくせに見かけと思い込みだけで勝手に惚れて、園亞使って恋文渡そうなんぞと下衆な手まで使って、それで思ってたのと違うってんで勝手に筋違いの恨み持って殺す気になりやがったのは、どう考えてもこいつのせいじゃねぇかよ」
閃はは、と一瞬深く吸い込んだ息を吐いてから、煌を真正面から睨みつつゆっくりと首を振る。
「それでも。この子がそういう感情を抱くに至った責任は、他の誰でもない俺にある。俺が責任を取るのは、ごくごく当たり前のことだ」
「…………」
絶えず炎を燃え上らせている灼熱の巨人が、上から自分を睨み下ろす。その視線を閃は真っ向から見つめ返した。煌の姿は、絶えず燃え上る炎もその底に輝く黒い瞳も、ぞっとするほど妖しく、美しく、誰よりもその姿を見慣れている閃ですら一瞬背筋を震わせずにはいられない――それでも、ここで視線を逸らす気はまるでなかった。
しばしの睨み合いののち、煌はふん、と鼻を鳴らしてから、くくっと笑った。
「下半身裸でシャツだけでぎりぎりチンコ隠してるような奴が言う台詞じゃねぇなぁ」
「へ? ……わっ!」
閃はカッ、と顔を赤くしてしゃがみこんだ。そうだ、自分の下半身は今なんにも着けていないのだった。パンツすらないすっぽんぽん。こんな姿を人に見られれば変質者扱いは間違いない。
「ううううっ、もうっ、なんだよっ……なんでいきなりズボンとパンツが消えてるんだよ、どう考えたっておかしいだろ……!?」
「そのおかげで俺が出てこれたんだろうが、命助かったってのにぐだぐだ言うんじゃねぇよ」
「そ、それはそうだけど……普通に考えておかしいだろ!? なんでいきなりズボンとパンツだけっ」
「バーカ。んなもんわかりきってんだろーが」
「はぁ!? わ、わかりきってるって」
唖然とする閃にふんと笑い、煌は人間の姿に変化しながら声を張り上げた。
「おい! 園亞! もうこっちも片付いたんだ、いい加減出てきやがれ!」
「へ……え、え、ぇ……!?」
閃は仰天して絶句したが、その言葉に応じて少し離れた場所にある茂みががさがさっ、と揺れた。それからなぜかこちらに背中を向けながら、よろよろと園亞が進み出てくる。
「へ、ぇ……ちょ、なんで……!? ていうかなんで後ろ向きで」
「え、だ、だって、閃くん、今、下、裸なんでしょ? そんなの、見るの無理だよぉ、恥ずかしいもんっ」
言われてみれば当たり前な事実を告げられて閃はぼんっ、と顔を赤くしたが、煌は馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに肩をすくめた。
「それならズボンとパンツ閃の近くに瞬間移動させりゃいいだろが。てめぇが持ってんだろ?」
「あ、そ、そっか! あ、でもでもどーしよ、私閃くんのぱんつとか恥ずかしくて見れないよぉ」
「チッ……ったく、面倒くせぇガキだぜ。じゃー俺様が直々に取りに行ってやるからちょっとじっとしてろ」
頭の上を飛び交う自分の下半身の衣服の処遇についての会話に、閃はもはや完璧に真っ赤になって固まってしまっていた。つまりこれは、自分のズボンとパンツを瞬間移動させたのは園亞だろう、というのは理解できるのだが、それでも恥ずかしさで頭が惑乱する。
それでも煌が持ってきてくれたズボンとパンツを穿いたらようやく人心地ついた。刀を鞘に納めて、眠っている少女の記憶を煌が弄っている横で、恥ずかしさと情けなさを懸命に抑えながら園亞と向かい合う。
「……なんで、園亞は、ここに?」
真剣な表情で訊ねると、園亞も真剣な顔で返してきた。
「閃くんが部屋にいないのに気づいて、きっと手紙の公園に行ったんだって思って。心配だったから、こっそり家抜け出して、電車で来たの」
あ、と思わず口を開ける。そうだ、園亞にも手紙見せてたんじゃないか。なんで俺はこの子にあの手紙あっさり見せてるんだ、うかつすぎ……
じゃない。そもそも俺は彼女に自分の行動を隠すつもりはなかったはずだ。護衛役なんだからいつも一緒にいなきゃいけないんだから。今回の場合なら、煌にあらかじめ出てきてもらって護ってもらえばよかったはず。素直に相手の誘いに乗る気はなかったんだから。
なのに置いてきてしまった、というのは――そうか、あの蛇神の暗示の妖術のせいか。精神操作系の妖術というのは、本来の思考を歪めるものだとわかってはいたが。
「じゃあ、あの……どこから見てた?」
「えっと、なんか、途中から……如月さんがあの、さっきの、妖怪に釘と金槌受け取るところ見て……なんだかわけわからなかったけど、閃くん体動かないみたいだったから、とりあえず如月さん眠らせて、煌さんに出てきてもらおうって、とっさに、ズボンと、パンツ……」
言いながらどんどん声を消え入るように小さくしていく園亞に(顔も真っ赤だ)、こちらもかぁっと顔を赤くしながら目を逸らしてしまった。命懸けの状態だったのになにを恥ずかしがってるんだ、と自分に言い聞かせるも、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいと気持ちが暴走して収まりがつかない。
ただでさえ今日は、園亞には本当にさんざん、恥ずかしいところばかり見られてるのに。
「今日は……ごめん」
そんなことを考えていたら、そう謝罪の言葉がぽろりと口をついて出た。
「本当に……今日は、以前にも、何度も迷惑かけたけど……今日は、いちいち、いろんなところで、手間かけさせちゃって……」
目を逸らしながらぼそぼそと、情けない恰好で情けない言葉を吐く。言いながら、『駄目だ』と拳を握りしめていた。
駄目だ、こんなのじゃ。自分は園亞に、また命を救われた。今回は本当に、園亞がいなければまず間違いなく自分は殺されていた。
それだけじゃなく、園亞は自分に、なにか、なんというか、今まで自分が感じたことのないものを、真正面からぶつけてきて、それがどういう類のものかはともかく、自分に真摯に向き合ってくれたのは、絶対的に確かで――
「本当に……なんていうか、俺は……護衛役なのに、君に助けてもらってばっかりで……」
「…………」
「もちろん、この恩は全力で返していくつもりだけど……なんていうか、その……」
まだぐちゃぐちゃとまとまっていない頭を、ええいとばかりに一息で無理やり静めて、深々と頭を下げる。
「本当に、ありがとう。すごく、助かった。俺にできる礼があったらなんでも言ってくれ」
……答えがない。
それでも頭を下げる側の礼儀として深々と頭を下げたまま動かないでいると、そろそろと目の前に手が差し出された。
園亞の、女の子らしい小さな手。それをぽかんと見ていると、園亞が明らかに普段と違う、というか普段よりさらに高いテンションで言ってくる。
「あっあのねっ、閃くんっ」
「……ああ」
「私ね、別にね、そんな大したことやったわけじゃないっていうかね、ほんとにね、ただ自分にできること反射的にやっただけでね、ほんとならもっとちゃんとやらないとダメダメだったっていうかね、自分のことバカだったなーって思っててねっ」
「え……」
「でもでもねっ、閃くん助けられたっていうんだったらすごく私嬉しいし、閃くんにお礼言われるのも嬉しいっていうかね、ふじゅんな考えなんだけどっ。でもほんとにね、お礼なんて言うことないっていうかね、私が閃くんのことその、すき、だからそういうことやるのは当然だって思うんだけどっ」
「え……あ、の」
「でもあのあのっ、もしほんとのほんとにお礼してくれるんだったらねっ、自分のことばっかりで私ほんとダメダメだなって思うんだけどねっ、でも私やっぱり好き、とか、そういうこと馬鹿馬鹿しいとか思えないっていうか、思いたくないから、閃くんにもそう思ってほしくないなって思って、だからその、もし駄目だったらいいんだけどっ」
「……う、ん?」
今にも茹りそうなほど上気した口調で、手まで真っ赤にしながら園亞は小さな声で。
「手……つないで、みま、せんか……?」
「…………」
数秒ぽかんとして、それから「は?」と言って首を傾げた。手を繋ぐ? もう子供でもないというのに、なんでわざわざそんなことを?
「だ……だめ、かな……?」
「いや、駄目っていうわけじゃ全然ないんだけど……」
繋ぎたがる意味がわからない――のだが、とにかく園亞が繋いでみたいと考えているのはわかった。だったら恩を返す側として、やってみるのが筋というものだろう。
「わかった。じゃあ、繋ごうか」
言ってひょい、と園亞の手を握る。
「!」
園亞が声にならない声を発して震えるのがわかった。え、なに、なんか俺まずいことした!? と反射的にびくついたが、園亞もそろそろと指を動かし、きゅっと自分の手を握ってくれたのでああ、これでよかったんだとほっとする。
だが、それでもしばらく繋いでいるとなんだか、もしかして自分はすごくまずいことをしているんじゃないかという気持ちが強くなってきた。なんというか、園亞があんまり顔を真っ赤っ赤にしているし、こっちから微妙に目を逸らしているし、しかもなんだか小さく震えているし、なにか自分のやり方にミスがあったんじゃないか、園亞を嫌な気持ちにさせてるんじゃないかと心配になってくる。
一回離した方がいいのか、と半ば無意識に手を開きかけた時、きゅっ、と逆に園亞が手を握ってきた。
え、と思わず目を見開く。園亞は相変わらずこちらから微妙に目を逸らしてうつむきながら、真っ赤な顔で、それでもきゅっと、力を込めて自分の手を握っている。小さな手で。女の子なりの、目いっぱいの力を込めて。
それを意識した途端、なぜかぼんっ、と一気に顔が真っ赤になってしまった。顔どころか体中がひどく熱い。なんだか、なぜかはわからないのに、別に変なことをしているわけじゃないと思うのに、恥ずかしくて恥ずかしくて、逃げ出したくて――
でも、この子を放り捨てて逃げ出すなんて絶対に駄目だと思うから、きゅっと握ってくる手を、こちらもぎゅっと握り返した。できるだけ優しく、園亞の柔らかい手を傷つけないように。
……そんな手の握り合いは、煌が「おい、おめーら、記憶いじんの終わったんだからとっとと帰るぞ」と声をかけてくるまで続いた。
『……で? どうだったよ、おい』
(……なにがだよ)
『なにがじゃねぇよ、初めての女の具合はどうだった、っつってんだよ。あったかーいやわらかーい中に包まれてどんな気持ちがしたんかな〜、あぁ?』
(……っ妙な言い方するなっ! 別にあれは、ただ手握っただけだし、変なこととかしてないしっ)
『のわりにゃあ今日はやたらあっちこっちガッチガチじゃねぇか。いろんなとこ真っ赤にしてよぉ、はっずかしー奴だぜったくこれだから童貞ちゃんはー』
(だから妙な言い方するなってばぁっ!)
今日も園亞の隣に座って車で学校まで送られながら、閃は内心泣きそうになっていた。確かに顔は赤いし心臓がやけにドキドキするしなんだかまともに園亞の顔見られないけど、そんなの別に好きでやってるわけでもないってのに。
あのあと、みんなで家に帰ってきて、それぞれ部屋に引き取って、閃は懸命に稽古で汗を流したが、それでも手から園亞の手の感触は消え去ってくれなかった。別にそんなの大したことないと思うのに、なんだかひどく恥ずかしくて、一夜が明けても、園亞はいつも通りに「おはよう!」と元気に返事してくれたのに、まともに顔が見られず「……おはよう」と情けない声でしか返事ができない。
それを察してか、園亞も今日はあまりこっちに話しかけてこなかった。お互い黙ったまま通学路の半ばを過ぎようとする頃、いい加減にしなければ、駄目だこんなことでは、と自分に気合を入れて話しかける。
「……ごめんな、園亞」
「え? なにが?」
「……今日、態度、悪いだろ。俺」
「んーんっ! 別に気にしてない……っていうか、私はどっちかっていうと嬉しいかなぁ」
「えっ」
反射的に園亞の方を向くと、いつも通りの明るく朗らかな笑顔が、にっこーっとばかりにこちらに向けられる。
「閃くんが、ちょっとでも私のこと好きになって、どきどきとかしてくれたのかなーって思えちゃうから!」
「………っ」
顔がさらにかぁっと熱くなる。恥ずかしくて恥ずかしくてまともに視線を合わせていられなくて、ふいっと目をそむけてしまったが、園亞がにっこにこと笑んでいる気配は察せられた。
『……ったく、っとにしょうがねぇなぁ、まともに女扱うこともできねぇのかよ?』
(煌うるさいっ! ……ああもうっ、なんなんだよこれ……っ)
『教えてやーんね。知りたきゃ園亞に聞くんだな』
(聞けるかこんなこと! ……っていうか、お前、最近本当に園亞に対して優しい……っていうか、認めてる感じなんだな。これまでは、そんなことなかったのに)
『お? なんだ、ん、やきもちか?』
(な……ななっ、なに言ってんだよぉっ!?)
『くくっ。……ま、実際それなりに認めてるかんな、態度がそれなりになるのも当然だろ』
(へ? な、なんで)
『そりゃ、お前に本気で人生懸けようとして、真正面からがっつり取っ組み合ってくる奴だぜ? しかもお前自身のこともきっちり考えてる。俺からすりゃまだまだだが、それなりに実力もつけてる。そんな奴、認めねぇわけにゃいかねぇだろ』
(………………)
人生、懸ける、って。俺、に?
『お? なーにいろんなとこ熱くしてんだ閃。これだから童貞は』
(だだだだからうるさいってばっ!)
学校に到着し、いつも通りに護衛役として園亞の右側に立ちながら、揃って教室へ向かう。そしてがらりと教室の扉を開ける――や、ばっ、と花束が突き出された。
「……な?」
「おめでとうございます、草薙閃くん四物園亞さん! 我が三年藤組は、お二人のご交際を全面的に祝福いたします!」
「……はぁっ!?」
仰天して周囲の様子を確認する。花束を突き出しているのは渉だ。左手にはマイクを持って、実況中継のように言葉をまくし立てている。
「えー、昨晩当クラス出席番号八番、如月由紀子さんに呼び出された草薙くんは、四物さんを伴ってその場に赴き、ヤンキーに絡まれていた如月さんを大活劇の末助け出した、のみならず四物さんが危機に陥った時我が身を省みず身を挺して護ったというお話ですか、これは事実ですか?」
「は……え!?」
「本当だって言ってるじゃない、時田!」
言って駆け寄ってきたのは、昨日の少女――如月由紀子だった。目を潤ませながら、身をよじりながら解説をしてみせる。
「草薙くんはね、私がヤンキーに絡まれてるとこに王子さまみたいに助けに来てくれて、私たちよりずっと体の大きいのが何人もいたのにあっさり叩きのめしてくれて、それなのに全然偉ぶらないで、四物さんに襲いかかった奴がいたら身を挺してかばって、それであっさり叩きのめしちゃって! 私が告白しても、俺なんかと一緒にいられる人はそうそういないから、ってニヒルにカッコよく断って、それで四物さんと一緒に帰っていったの! んもう、ほんとに小説みたいって思わないっ!?」
「な……な」
「それでねっ、私、草薙くんのことは諦めたけどっ、代わりにファンクラブ作ることにしたからっ! その規約の中には四物さんとの仲を応援することも含まれてるから、安心してねっ、四物さんっ」
「え、あ……ありがとう……」
顔を赤らめてうつむく園亞に口をぱくぱくさせつつ、閃は内心泣きそうな声で怒鳴っていた。
(煌! お前、どういう記憶の弄り方したんだよっ)
『あぁん? お前なぁ、こういう思い込みの強い女をうまくあしらうにゃあこういうのが一番だろうが。わかんねぇのか?』
(わかんないよっ……ああもうっ)
「なるほど、まだきちんと交際しているわけではないけれども、その状態に向けての階段を一歩一歩上っていっているところ、と! ありがとうございます、みなさん若いこの二人に盛大な拍手を!」
わーっ、ぱちぱちぱちぱち、と拍手までされて、閃はかーっと顔を赤くしつつ渉をぐいっと引っ張って耳打ちする。
「お前な! なに考えてんだいい加減にしろよ、俺はな」
「近づかれたら危ないっつーんだろ?」
ふっと真剣な顔になって、渉は閃に向き合った。
「でも、言っただろ。俺はお前にくっつくのやめねーよ」
「な」
「お前に言われて、一晩うんうん言いながら悩んで、考えた。でもやっぱ、納得いかねー」
「な……」
「お前に俺らに話せない事情ってのがあって、それがマジヤバいもんだってのはわかる。だからホントなら、俺らの方がその事情を酌んで身を退くのが正しいのかも、とも考えた」
「…………」
「けど、俺もな……なんつーか、できるなら、死ぬ時にあそこであれやっときゃよかった、って考えながら死ぬのとか嫌なわけよ。やれることはきっちりやってから死にたいんだ。そんで……今ここで退いたら、俺の今までの人生も、これからの人生も、全部嘘になっちまうって、そういう気がするんだ」
「………渉」
「だから、な。悪ぃんだけど……お前には負担かもしんねーけど。別に死んでも文句言わねーから……」
言って、すっとこちらに手を差し出す。
「友達になってくれよ。マジに。俺、お前と仲良くなりてーんだ」
「…………」
差し出されたその手をしばし呆然と見つめてから、閃の頭は、ぼんっと音が立つほどの勢いで一気にゆだった。