風間くんは固まっていた。その男の放つ威圧感は、これまで風間くんが出会ったどの人間とも違う。 ―――殺される。 その言葉が頭の中で回る。あの男がその気になれば、自分を一秒で十回殺すことも可能だろう。 そして今、あの男はその気になっている。 「ボーちゃん、大丈夫!?」 まさおくんがボーちゃんに駆け寄る――そしてその途中で固まった。体全身を硬直させながら恐怖のあまりぼろぼろと涙をこぼす―――当然だ。本気の、本物の人殺しのプロの殺意を受けて、体が動くわけがない。 ネネちゃんですらごくりと唾を飲み込んで動けない。ボーちゃんも胸にナイフを突き刺されたまま動けない。自分も当然動けるわけがない。普段なら必死に言い訳していただろうに、口すら動かすことができなかった。 男が――ボーちゃんよりさらに大きい筋骨逞しい男だった――口の端を吊り上げた。あまりに冷たいオーラに、笑っているんだ、と気づいたのは数十秒経ってからだった。 「――ガキにしては、悪くない動きだったが」 ゆっくり、ゆっくりとこちらに歩み寄る。 「惜しむらくは実戦経験が足りんな。ここはお前らにとって敵地だろう? 油断は命取りだ」 しゃっ、とナイフをもう一本抜く。冷たい鋼の光沢が廊下の蛍光灯の光を反射して輝くのが見えた。 「敵地では目の前の敵を殺したら即座に周囲の様子を窺うことだ――覚えておけ」 口の端がさらにつりあがる。 「それを活かす機会はもうないがな」 風間くんは、顔から完全に血の気を引かせた。 自分たちは、殺されるんだ。 風間くんもぼろぼろと涙をこぼした。死ぬんだ。まだ十五歳なのに。まだ女の子と付き合ったこともないのに。なんにも悪いことしてないのに。真面目に必死に勉強してエリートコースを歩んできたのに。 自分たちは、殺されてしまうんだ。 その圧倒的な絶望に、動くこともできないままぼろぼろと涙をこぼす―― 「―――ふっ」 ぞくぞくぞくぞくくぅぅっ。 「はあぁぁぁぁぁんっ………v」 耳から背筋へ、背筋から全身へと体の底が震えるような快感が走り、風間くんはへたへたとその場に座り込んだ。このたまらない、全身を震わせて力を奪う、他では味わったことのないエクスタシーはまさしく―― 「しんのすけぇぇぇぇぇっ!!!!」 「ほい」 まさしくその場に立っていたのはしんのすけだった。いつも通りのとぼけた顔で、平然と風間くんの顔を覗き込んでいる。 「お前は状況というものがわかってないのかぁぁっ! 僕たちは今戦闘のプロに殺されそうになってるんだぞっ、絶体絶命の死亡確定って状況だ! その状況下でお前は、お前という奴はなにを考えているんだぁぁぁっ!!!」 しんのすけは怒鳴りまくる風間くんに向けてひょいと手を伸ばし、目の下の涙をすくい上げた。そしてそれを口元に運びぺろりと舐める。 「……しんのすけ?」 意図がつかめず呆然と呟く風間くんに、しんのすけは目をぱちくりさせていった。 「しょっぱい」 「当たり前だぁぁぁぁっ!!!」 だすだす床を踏み鳴らして激怒の感情を表現する風間くんに、しんのすけはぽん、と肩を叩く。 「じゃ、ボーちゃんのことはまかせましたぞ」 「―――は?」 しんのすけが持っていた木刀をひょい、と構えるのを見て、風間くんは仰天した。 「お、おおお、おま、お前まさか、あの男と戦おうっていうんじゃないだろうなっ!!??」 「イカにもタコにも」 「ふざけてる場合かぁぁぁっ! 死ぬんだぞ、僕たちは本気で殺されるんだぞ!? あんな奴にかかっていって助かるわけが―――」 「トオルちゃん、男の子でしょ! 情けないこと言うんじゃありません、ママはそんな子に育てた覚えはありませんよ!」 「うわぁんごめんよママぁ……ってなに言わせるんだよっ! お前わかってるのか、今は本当に本気で命の危機なんだぞ、そんな時にまでふざけてるんじゃな――――いっ!!!」 だがしんのすけはいつも通りの、とぼけた、飄々とした顔を崩さないまま、首を傾げた。 「なんで」 「な……なんでって。見ただろあの男、迫力が普通と違う、ボーちゃんだってかなわなかったんだ、僕たちがかなうわけ―――」 「まぁまぁ、ここはオラに任せなさい。春日部防衛隊隊長であるこのオラが、ぱぱーっと敵をやっつけてしんぜよう」 「………はぁ!? お前―――っなっ、なっ、なに言ってるんだこの馬鹿! できるわけないだろっさっきボーちゃんがやられたの見てなかったのかよ!」 「うん。だから風間くんはボーちゃんの手当てしてあげてね」 「…………」 なんで、こいつは。こんな状況でも飄々と。 いつも通りに。さらっとした顔で。こっちをからかいながらふざけながら、こんなことが言えるんだろう。 悔しいけど、認めたくないけど、そんなこと絶対ありえないと世界中に主張したいけど――― カッコいい、とか思っちゃうじゃないか。ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう……! 風間くんはさっきとは違う涙で泣きそうになったが、しんのすけなんかのために涙を流してたまるか! と必死にこらえ、ぎゅっと唇を引き結んでうなずいた。 「――お前に任せたらボーちゃんが死んじゃうもんな。わかったよ」 「んもう、最初からそう言えばいいのに。焦らし屋さんねぇ」 つんっv 「気色悪い声を出すなぁ―――っ! ほっぺをつつくなぁ―――っ!」 「わーっはっはっはっは!」 しばし大笑いのポーズを取ってから木刀を構えながら男に向かうしんのすけ。その背中になんと言ってやればいいのかさっぱりわからなかったが、なにか言いたくて、言わなくちゃと思って、ひどく慌てて――口からこんな言葉がまろび出た。 「春日部防衛隊―――ファイヤーっ!」 必死に叫んだその言葉に、しんのすけは背中を向けたまま。 「ファイヤー!」 と叫んで右手を上げたのだった。 しんのすけが男に対峙するのを追って、風間くんはボーちゃんに駆け寄った。ナイフの傷なんてどう手当てすればいいのかわからないが、とにかく手当てをしなくっちゃ―― だが、ボーちゃんは思ったよりも元気だった。自分のシャツの裾を破って包帯代わりにし、ナイフを抜くと手早くぐるぐると巻く。さすがにナイフを抜く時はわずかに顔を歪めたが、さほど深くは刺さっていないようだった。 「ボーちゃん、大丈夫……?」 まだ男にびくびくしながらもまさおくんが寄ってきて聞く。ボーちゃんは無表情のままうなずいた。 「ぎりぎりで避けた。傷は浅い」 「よかったぁ……! やっぱりボーちゃんはすごいね!」 ほっとした顔のまさおくんを、ネネちゃんがぎろりと睨んで蹴りを入れた。 「んなこと言ってる場合じゃないでしょ! あたしたち死ぬかもしれないのよ! しんちゃんが負けたら殺されるってことわかってんの!?」 「あ………! そうだよどうしようボーちゃんが負けちゃったのにしんちゃんが勝てるわけないよぉ〜!」 「………まだ、負けて、ない」 「え………?」 ゆっくりと立ち上がったボーちゃんを、慌ててまさおくんが支える。 「……まだ、生きている。生きているなら、負けてない。生きてる限り、負けじゃない」 「ボーちゃん……」 その真摯な言葉に思わず尊敬の眼差しを向けるまさおくん&風間くん。だがネネちゃんはきっとボーちゃんを睨んだ。 「そんなこと言ったって、このままじゃ殺されちゃうのよ!? あたしが殺されたら誰が責任取ってくれるのよ!」 いつも通りの態度のでかさだが握り締めた拳はわずかに震えている。ネネちゃんもやっぱり怖いんだ、と思うと、またじわりと恐怖が立ち上ってくる。 「……大丈夫」 ボーちゃんはじっとしんのすけを見ながら言った。 「しんちゃんは、負けない」 しんのすけは木刀を構えて、男と対峙した。男はふん、と笑う。 「さっきはなかなか笑わせてもらった。いい度胸だな、小僧」 「それほどでも〜」 「剣道か? 構えはそれなりにさまになってるが……俺にかなうと、本気で思ってるのか?」 「おじさん、アデランスでしょ」 間。 『………………………………』 「…………なんだと?」 しんのすけはすたすたと男に近寄り、男が身構えるより早く男の髪の毛を引っ張った。 「こここら引っ張るなっ!」 「リーブ21やればいいのに。カツラじゃ取った時女の子に驚かれちゃうゾ?」 「……クソガキィ……ぶっ殺す!」 目にも止まらぬ速さで男はナイフを抜いた。男の体が滑るように動いて、ナイフがしんのすけの喉に吸い込まれるように動いていく。危ない、と認識できるより早くナイフが喉に突き刺さ―― らなかった。 「…………!?」 しんのすけは飄々とした顔でその場に立っている。さっきと同じようにただ立っているだけのように見える――だが、男に襲い掛かられたはずのしんのすけには傷一つついていなかった。 男は愕然と目を見開いた。それから表情が一気に殺気に満ち、目で捉えきれないほどの素早い動きでしんのすけに近づき、ナイフを振るう。 だがしんのすけはそれをことごとく避けた。動いているようには感じられないのに動いている。いつものへーぜんとした顔でひょいひょいとナイフの軌道から身を逸らしていくのだ。 「こ、この……ちょこまかと……!」 「ほい」 動きながら軽く木刀を突き出したかと思うと、男がずってんどうと転んだ。 「のわ! き、きっさまぁ………!」 「ゆだんたいてきでござる」 「この………!」 男はホルスターから銃を抜いた。ひ、と思わず息を呑む風間くんたちに唇を吊り上げて笑う。 「小僧……勝てば官軍って言葉の意味を知ってるか?」 「知ってるゾ。タラバガニの軍艦巻きはおいしいよねって意味でしょ?」 「違うわ―――っ!!」 絶叫してからまた唇を吊り上げ、銃をしんのすけに向けた。 「死んでからふざけた口を利いたことを後悔しろ、クソガキ!」 「やだ」 しんのすけっ、と思わず目を閉じそうになった刹那。 しんのすけの木刀がひょいと動いて、男の腕から銃を跳ね飛ばした。なんの気もない軽い動きで、あっさりと。 風間くんは思わず口を開けて呆然とした。ボーちゃんをあっさり倒した男が、しんのすけに、なんでああもやすやすやられてるんだ……? 「……僕は、これまで、しんちゃんに一度も勝ったことがない」 ボーちゃんが静かに言った言葉に、風間くんたちは思わず瞠目した。 「ほ……本気で?」 「本気で。……そもそも僕が強くなることを志したのはしんちゃんと一緒に修行を受けてから。ななこさんが結婚した頃、しんちゃんは落ち込んでた。だから公園で会ったおじいさん――世の全ての格闘技を極めた達人に修行をさせられても素直に受けた」 「は………?」 風間くんは唖然とした。そりゃ、確かに一時期しんのすけが自分に会いに来なくなった時期はあって。どうしたのか心配になったりもして、おばさんにななこさんが結婚したからだって聞かされて納得したけど―― 「そ、そういえば小学校二年生の頃夏休み全然しんちゃんが見つからなかったことがあったけど……」 「修行を受けていた、らしい。僕がしんちゃんに紹介してもらってその修行に加えられたのは二学期になってからだったけど」 「………本気で?」 「本気。しんちゃんはその達人に、百年に一人といわれた逸材」 「嘘だろ……」 「嘘じゃない。……しんちゃんは日常生活のレベルでは大した能力はない。だけど全精力をひとつのことに集中した時に、ものすごい集中力を発揮する。成績が学年最下位から半年で学年トップにまで上り詰めた時みたいに」 「あ………!」 風間くんは思い出した。自分と同じ高校を受けると聞いた時ものすごく不安になった。慶光高校は全国でも有数というレベルの学校だ、成績のいい他の三人はともかく、しんのすけが受かるはずはない。 そう思って何度も思いとどまらせようとしたけど、しんのすけは平然とした顔で「だいじょぶだいじょぶー」とか言っていて。 そして本当に大丈夫になってしまった。学年トップになり、模試でも全国百位以内に入り、一番の成績で入学試験を通過した。 あのとんでもない底力が――戦いにも発揮されるのか!? 「……しんちゃんはその集中力を存分に発揮しながら、達人が旅立つまで一年間修行を受けた。他のことはなにもしなかったし、その一年が終わったらもとのしんちゃんに戻って女の人を追っかけるようになったけど、でも、その一年からずっと、僕はしんちゃんに勝ててない」 「…………」 「だから、しんちゃんは負けない。あんな奴なんかには」 「しんのすけ………」 しんのすけは、男の手からナイフを跳ね飛ばしていた。からかうように飄々と、男を転ばせ攻撃を避ける。 「カン、トン、メーン!」 ひゅっと木刀が男の額に振り下ろされた。男が思わずといったように目を閉じる―― ――ぽこ。 そんな間抜けな音が立った。 「…………?」 男が目を開ける。風間くんは口を開けた。 「あたたた……んもう、こんなとこにワックスかけといたの誰? 危ないじゃないかねまったく!」 しんのすけ……お前ってやつは、どうして、どうしてこんな時に転ぶんだぁぁぁっ!!? 男がにやりと笑った。素早く予備であろうナイフを抜いて、転んでいるしんのすけに突き刺そうとする。 その一瞬の間に、風間くんはいろんなことを考えた。それこそ走馬灯のように。 しんのすけがどんなに馬鹿で間抜けで人のことをいいように利用してからかう意地悪野郎で、そのくせおいしいとこは全部持っていく最低な奴か。これまでどんなにあいつに迷惑をかけられてきたか。 そして、あいつと一緒に遊べて、腹を立てながらも、どんなに、どんなに楽しかったか――― ―――しんのすけ! 『うあぁぁぁっ!!!』 バキバキバキィ! 重い機関銃が三個宙を飛び、男の顔にぶち当たった。男が思わずひっくり返る。 はぁはぁ、と荒い息をつきながら風間くんはその銃を投げた者たちと目を見合わせる。……ネネちゃんとまさおくんと。 にへら、と思わず互いに笑みを浮かべ、全力でダッシュして男のそばに近寄る。そして銃を振り上げて、さらにぼかぼかと殴った。 「調子に乗ってんじゃねぇぞコンチクショー!」 「あたしたちを舐めんじゃないわよっ!」 「えいえいえいえいこのこのこのっ!」 「だっ、いだだっ、こらてめぇらやめろやめろっていだだだだっ!」 「―――どいて」 ボーちゃんがすっと、風間くんたちの前に進み出た。ふっと後頭部に一撃を入れ、気を失わせる。 「春日部防衛隊、大勝利ー! わっはっはっはっはっはっは!」 いつの間にか立ち上がってそう大笑いするしんのすけに、風間くんは思わず銃をぶん投げた。 「――こけて助けられたくせに偉そうな口を叩くなっ!」 ――事件は解決した。 この事件の首謀者である大金持ちの引きこもり息子は仲間ともども逮捕された。どうやらこの事件はその引きこもり息子が引きこもり仲間たちと日本を変えようなどと思い込み暴走した結果だったらしい。 本来ならすぐにぽしゃる計画だったところを、仲間の一人が見つけてきた腕利きの傭兵である最後の男が、金のために武器や計画の手引きをしたので立てこもるまではうまくいったらしい。 この学校を選んだのは仲間の一人にここの理事の孫がいて、中から手引きできる人物を作れるのと、立てこもる利便性、そして首謀者がこの学校の卒業生でいじめられた経験があることから復讐のためここに決めたらしい。 中から手引きというのがあのしんのすけの謎の挨拶文を奪おうとした新任の山田教諭で、あの挨拶文は挨拶文を考えろと言われた山田が、途中から気分転換のために、計画の手直し案をモールス信号で書いたものだった。あとからちゃんと書いたものと取り違えてしまい、取り戻さねばと必死になっていたらしい。 図らずもしんのすけの『怪しい』発言は当たっていたわけだ。某国のスパイではなかったけれど。 ――マイクを突きつけるマスコミに恥らったふりをしつつぶりぶりと答えるネネちゃんを見て思う。 なんのかんの言いつつ、しんのすけにはいろいろ助けられたよな。 あの飄々とした顔で平然とした表情されてなかったら、僕もちょっと、我を忘れたりしちゃってたかも。 あとで礼を言ってやるかな、と珍しくも広い心でそう思った時――― ぞくぞくぞくくぅっ。 「はぁぁぁぁんっ………v」 背筋に走る快感に、風間くんは思わず喘ぎ声を漏らしつつよろめいた。全国に生中継されているであろうテレビカメラの前で。 「風間くーん、背中にゴミがついてたゾ?」 そうひょうひょうとした顔で告げるしんのすけ――― 「し……お……ま…………」 風間くんは思わず泣きながら、拳を振り回してしんのすけを殴った。 「バッカヤロ――――――っ!!!!」 |