拍手小話『八百万間堂昔話』〜『人魚姫』

 どうも。ナレーターを務めさせていただきます、GPMの善行忠孝です。
 今回のお話は、むかーしむかしのそのまたむかし、深い深い海の底から始まります。
ユィーナ「……まったく。海生生物の国ということですから当然といえば当然ですが、あまりに非効率的な国家ですね、ここは。どの国民もそれぞれ勝手に糧食を得ることにやっきになって、生産的な活動というものをする気がまるでない。血統による政治的指導者の引き継ぎなどというのは無駄が多いものですが、この国ではそもそも政治的指導者になろうという存在すらまったくいない。このままでは、近代的な国家への進化は何百年先になる事やら」
 海の国、人魚たちの王の末娘であるユィーナは、こんなように政治に強い感心を持ち、啓蒙活動も盛んに行う封建国家の王の娘としてはありえないような存在でしたが、それはそれとしてその水色の髪とルビーのような紅色の瞳はとても珍しく美しいものでしたので、王の娘の中でも特に人魚姫と呼ばれていました。
 さて、そんなある日、人魚姫は海の上の様子を見に行くことにしました。人魚姫は陸の上の生き物である人間に強い関心を持っていたので、その観察をしたかったのです。
ユィーナ「人間というものは王位の奪い合いをするほど政治的関心が高いと聞きます。権力争いという醜行がどれだけ国民に害を与えるかも私は知りません、生の教材を観察することで国家運営をより効率よく行うことができる考案を行える可能性があります」
 そういう理由で人間の船を観察していたのですが、あいにくなことに、折悪しく海上は大嵐の真っただ中でした。ろくに視界も効かない風雨の中で、人魚姫は困惑して周囲を見回します。
ユィーナ「これでは人間観察は望み薄のようですね……ん?」
 そう言った人魚姫は、海上に瞬く明かりを見つけて目をみはりました。それは、人間の乗る船のように見えたからです。
 近寄って観察してみて、さらに驚きました。その船から、一人の男が海に投げ出されようとしていたからです。


 人魚姫は興味を持って近づきました。もちろん人魚の存在を人間に知られてはならないので、本来なら褒められたことではないのですが、人魚姫はそういった決まりに従う必要をまるで認めていなかったのです。
ユィーナ「人間が人魚を攻撃しようとしても、現在の人間の技術レベルでは海底の人魚の国に攻撃を行うことができる可能性はほぼ皆無です。ならば今のうちに国家として、人間の有力国家とできるだけ多く条約を結ぶことで安全を図っておくべきです」
 というわけで、人魚姫は海に投げ出された人間に近寄りました。救い上げて、できれば話を聞き出したいと思ったのです。
 が、その目論見は初っ端から躓きました。
ゲット「ユィーナ―――――っ!!!!」
ユィーナ「!?」
 がっしぃ! とそのいい服を着た黒髪の体の大きな男は人魚姫に思いきり抱きつきました。嵐の荒れた海の中で、立ち泳ぎしながらです。
ユィーナ「はっ、放しなさいっ! なぜ人魚ということを知ってもまるで驚かな……というかそれ以前になんで私の名前を知っているんですかっ!」
ゲット「なにを言っているんだユィーナっ、俺たちは生まれる前から愛し合うことを定められた恋人同士だろうっ? 今も俺は君を愛してる、君も俺を愛してる、それ以外にはなにも必要ないっ! さぁ愛し合おうユィーナっ、そして白いチャペルで白いドレスを着た君と結婚式だーっ!」
 人魚姫は驚き、困惑し、わけがわからない状況に混乱しましたが、とりあえずこの男にはなにを言っても無駄っぽい、というのはよく理解できましたので、素早く腕の中から抜け出して足を勢いよく引っ張り、瞬時に気を失わせて近くの島まで運んでいきました。


 人工呼吸を行ったのち(一瞬ごくわずかに逡巡はありましたが、実際的な性格である人魚姫は、自分の唇の処女性がどうこうよりは命の方がはるかに大事なのです)、どうしようかしばし迷って、結局意識を取り戻しはしたもののまだぼうっとしているこの男を浜辺に寝かせてしばらく観察することにしました。
 話を聞きたいという気持ちはありましたが、この男になにを聞いてもまるで話が通じる気がしなかったのです。
ヴェイル「王子ーっ! ゲット王子ーっ!」
ゲット「ん……?」
 嵐の止んだころ、船が島まで近づいてきて、そこから何人もの高そうな服を着た男たちが降りてきました。そして人魚姫が助けた男に近づきます。
ヴェイル「ゲット王子、ご無事でしたか! よかった……嵐の中で海に投げ出された時はもう駄目かと……」
ゲット「馬鹿なことを抜かすな。俺があの程度の嵐でくたばるとでも思ってるのか」
ヴェイル「いえ……たぶん生きてるだろうなー、とは思いましたけど……それでもやっぱり心配は心配で」
ゲット「それよりヴェイル、この近くに女性がいなかったか?」
ヴェイル「は? 女性……ですか?」
ゲット「ああっ! まさに抜けるようなといった表現がぴったりな白雪のごとき肌に最高級の紅玉よりもまだ紅々と輝く瞳、しっとりと濡れた髪は薄く水色に光り、細いおとがいに切れ長の目も相まってひどく清らかな雰囲気をかもし出す、絶世の美少女だ! その彼女が俺の命を救い、この島まで連れてきてくれたんだ……うおおおおっ、ユィーナっ! 俺は彼女を絶対に探し出すぞぉぉぉ!」
ヴェイル「って、名前までわかってるんですか! その人に聞いたんですか?」
ゲット「聞かなくてもわかる! 俺は彼女の魂と邂逅したんだ、名前のひとつやふたつ知れないでどうする! うぉう……ユィーナ、マイラーブっ! ヴェイルっ、国家予算をいくら使ってもいいから彼女を探し出せよ!」
ヴェイル「無理言わないでくださいよ! 国家予算を王族の恣意でいくら使えるかは議会で決まってるんですよ!?」
 そうやいのやいのと喋りあう主従らしき男たちをしばし見つめ、人魚姫はちゃぽんと海の底へと体を沈ませました。


 人魚姫は家族にしばらく留守にする旨を伝えたのち、海の魔女のところへと向かいました。この海の魔女は、海に伝わる魔法をすべて知っているといわれる恐るべき魔女なのですが、意地悪なので他人の思い通りにはその魔法を使ってくれないという評判があるのでした。
ユィーナ「私を一時的に人間にする魔法は使えませんか?」
ディラ「へぇ、人間にねぇ? なんでそんなこと言うわけ?」
 ユィーナは事情を話し、きっぱりと宣言しました。
ユィーナ「これは、チャンスです」
ディラ「チャンス?」
ユィーナ「たまたま助けた人間が一国の王子で、しかも私をなんとしても探し出す気らしい。となれば、その国の中枢に入り、情報を見聞きするには絶好のチャンスと言えるでしょう」
ディラ「はぁ、まぁ、確かにねぇ」
ユィーナ「さらにその見聞きした情報を武器に、海の国と平等な条約を結べる可能性もあります。最初は人間として姿を見せ、頃合を見計らって人魚の姿を現せば、人魚も人間と同等の知性を持つ存在なのだとおのずから理解できるはずです」
ディラ「ふーん……まぁ、言いたいことはわかったけどねぇ……」
ユィーナ「どうですか。魔法をかけてくれますか」
ディラ「やだ」
 きっぱりはっきり言い切られ、人魚姫の顔はきゅっと険しくなりました。
ユィーナ「理由を教えていただけますか」
ディラ「えー、だってさー、なーんか乗らないんだもん。あたし政治とかそーいうのキョーミないしー、んなことに魔法使うの好きじゃないしー」
ユィーナ「あなたにも関わりがあることなのですよ。いずれ人間たちが海にまで出てきた時に対応できるような国家体制を整えておかなければ」
ディラ「その頃はもーたぶんあたし死んでるしー。いちいちんなこと考えるのめんどいっつーかー」
ユィーナ「…………」
ディラ「ま、あんたがその男に惚れて、その男にもう一度会いたいからっていうんなら考えないでもなかったんだけどー」
ユィーナ「……なぜそうなるんですか」
ディラ「あたしは政治がらみより色恋沙汰の方が好きだからv で? で? どーなのよー、いい男だった、王子さまは?」
 険しい瞳で魔女を睨みつけ、人魚姫はきっぱり言い切りました。
ユィーナ「そのような瑣末事は私にとってはまったく意味のないことです」
 きっぱりはっきり言い切られ睨まれながらも、魔女はふふん、と笑ってみせました。
ディラ「りょーかいりょーかい、魔法かけてあげるわー」
ユィーナ「……一応お聞きしておきますが、突然気持ちが変わったのはなぜですか」
ディラ「んー? いややっぱさー、芽生えそうになってる恋心を後押しするのは魔女として正しいだろーって思ってねー」
ユィーナ「……なにを馬鹿なことを言っているのですか」
 そう苛立たしげに答える人魚姫の顔には、少女らしい恥じらいもときめきも、まるで存在しないように見えました。


 人魚姫の狙いは見事に図に当たりました。人間の姿になって陸に上がると、すでに似顔絵が国中にばらまかれていたらしく、あっという間に城に召し上げられることとなったのです。
ゲット「ユィーナ――――っ!!!! 会いたかった……!!! 俺たちは生まれる前からぶっとい縁と運命で繋がれているとはわかっていたが、ユィーナと会えない一時はそれこそ千年よりも長く感じられたぞ……!!!」
ユィーナ「…………」
 抱きつかれても手が動こうとするのを必死に堪えているだけで声を上げもしない人魚姫に驚いて、王子はまじまじと人魚姫を観察し、きゅっと眉を寄せました。
ゲット「もしかして……君は今、声が出せないのか?」
ユィーナ「(こくこく)」
ゲット「病気か? 怪我か? 呪いか? なんであれ早急に治さなくては、おいヴェイル、国家予算を全部使ってでも彼女の喉を治せる奴らを連れて来い!」
ヴェイル「だから王族が恣意的に使える予算の額は決まってるって言ってるでしょうがっ!」
 ユィーナもそれには首を振りました。これは魔女のかけた魔法の代償であり、自分は声を奪われたのだから、医者だろうが祈祷師だろうがこの声を取り戻せるはずがないのです。
ゲット「むむぅ……ユィーナがそう言うなら仕方がないが……くそう、自らの不甲斐なさに腹が立つぞ。君が俺に会いに来るために声を失ったというのに、なにもできないなどと……!!」
ユィーナ「………(目をみはり)」
ヴェイル「……そんなことこの人が言ったんですか?」
ゲット「言ったんじゃない、心の声で語ったんだ。愛し合う二人は目と目が合えば心で語り合えるというのは常識だろう、俺とユィーナはすでに以心伝心一心同体!」
ヴェイル「……はぁ。まぁ、いいですけど、なんでも」
ユィーナ「(この男、私の心を読んでいる……? 馬鹿な、どうやって? 私はこの男になにか伝えようとすら思ってはいないというのに……)」
ゲット「それはともかく、ユィーナ。君が俺を訊ねてきてくれたということは……俺の求婚を受け入れてくれたということだなっ!?」
ユィーナ「!?」
ヴェイル「ちょ……なにいきなり言い出すんですかゲット王子ーっ!?」
ゲット「いきなりじゃないだろうが、彼女は俺の世界でただ一人愛する人だ! そんなこと出会う前から、生まれる前からわかっていたことだろうが! となればもう、俺と彼女は結婚するしかないっ!」
ユィーナ「! ! !(ぶんぶん)」
ゲット「ユィーナ、照れてるのか? 気にするな、大丈夫だ、議会がなんと言おうと俺は君との愛を貫いてみせる。出会った時に俺たちは二人で誓っただろう、永遠の愛を? 俺はその誓いをなんとしても果たす!」
ユィーナ「! ! ! !(ぶんぶんぶんぶん)」
ヴェイル「あのー……ゲット王子? この人あからさまに嫌だって言ってると思うんですけど?」
ゲット「なにを言っている、彼女はただちょっぴりシャイだから戸惑っているだけだ。心の底では俺を海よりも深く太陽よりも熱い愛で包んでくれているっ! 愛してるぞ、ユィーナ……俺の生涯、ただ一人の恋人……」
ユィーナ「!!!」
 むちゅーんと唇を伸ばしてきた王子を、人魚姫は手近にあった花瓶でぼこでこになるまで殴りましたが、そこにいたのは王子に忠実な従者だけでしたし、王子はあっという間に回復して人魚姫を追い掛け回し始めましたので、騒ぎにはなりませんでした。


 しかし、それはそれとしてお城は蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。ただ一人の王子がどこの馬の骨ともしれぬ女性と結婚すると主張しだしたというのですから当然です。
ゼノ「王子さまさまー、なにがしたいか脳NOご存知だけど、いきなりの発言猛問題?」
ゲット「意味がわからん。とにかく俺はユィーナと結婚する!」
ハヤト「いやちょっと待てよ、殿下の気持ちはわかんないでもないけどさ、お前もう婚約者いるだろ? それなのに婚約破棄とかいうことになったら……」
ゲット「会ったこともない婚約者に遠慮してこの愛の炎を消してたまるか! 俺はユィーナと結婚すると、彼女の眼差しに誓ったんだ……!」
 人魚姫はそんな騒ぎを冷ややかに観察しつつも、お城の図書室へと通っておりました。この国の、というか人間の作る国について、詳しく知るためにはそこが一番の近道だと思ったのです。
 人魚の使っている文字とはまったく違うため少しばかり戸惑いましたが、人魚姫はおそろしく頭がよかったので、あっという間に文字を読み解き、図書室中の本を読みつくす勢いで知識を読み込んでいきました。
ゲット「………ユィーナ」
ユィーナ「………(じろり)」
 これまでに何度も唐突に現れて抱きついてきたり押し倒してきたりした王子に人魚姫は警戒の視線を送りますが、王子はばっと両手を上げました。
ゲット「大丈夫だ、抱きつきもしないし押し倒しもしない。触りもしないしキスもしない。……本当は是非とも、なんとしてもしまくりたくてたまらないところではあるんだがっ、全身全霊で我慢する!」
ユィーナ「…………」
 じゃあなにをするためにここに来たのか。そういう気持ちを込めて王子を睨むと、王子はその心を正確に読み取って真剣な顔でうなずきました。
ゲット「俺は、ユィーナのそばでユィーナを見ていたかったんだ。ユィーナの勉強の邪魔をするわけにはいかんが、俺はいついかなる時もユィーナのそばでユィーナを見ていたい。ユィーナの姿や、気配を心の糧にしたいんだ」
ユィーナ「…………」
ゲット「ユィーナがいれば、俺はどんな敵にも負けないと思っている。いや、違うな。知っているんだ。だから、少しでも深く、長くユィーナを俺の中に刻みたいんだが……駄目か?」
ユィーナ「…………」
 急に心細げな顔になって人魚姫を見つめてくる王子に、人魚姫は肩をすくめて視線を本に戻しました。ぺらり、ぺらりと頁をめくります。
 その顔を、体を見つめてくる燃えるような視線に知らないふりをするのに、人魚姫は必死に奥歯を噛み締めなければなりませんでしたが。


ゲット「……婚約者を呼ぶ?」
ハヤト「ああ。今度の舞踏会でもともと初顔合わせの予定だったんだ」
ゲット「ふん、いいだろう。ユィーナと俺との結婚を邪魔する者を、俺たちの愛の炎で焼き尽くせと言いたいんだな」
ヴェイル「違いますよ! そんなことしたら国際問題ですよ!? 彼女はもともとあなたの生まれる前からの婚約者なんですから、いきなり約束破ったら本気で戦争起きますって!」
ゲット「ふん、上等だ。俺とユィーナの愛を邪魔しようというのなら、それが世界だろうと俺は戦ってやる!」
ゼノ「戦い上等業等ヘル、でも巻き添え停止NOmore死亡? 王子は王子、国責任、果たさなければデストロイ破壊?」
ゲット「別に俺が選んだわけでもないことで責任を取らされてたまるか。とにかく、俺はなんとしてもユィーナと結婚する!」
 紛糾する会議の様相を人魚姫はこっそりとのぞき、それからゆっくりといつものように図書室に向かいました。用意してもらった羊皮紙の束に、本をすさまじい早さで読みながら次々とまとめるべき事項を書きつけていきます。
 やがて、王子がやってきました。いつもより少しばかり疲れた顔をしていますが、人魚姫を見るやいつものごとくぱぁっと顔を輝かせて近寄ってきます。
ゲット「ユィーナ、やっぱりここにいたのか。会いたかった……これ以上離れていたら俺の愛が爆発してこの城の奴らを壊滅させていただろうな」
 人魚姫はじろりと王子を見つめ、また本と羊皮紙に視線を戻します。ですが王子は少しもめげずに――というかめげる気配すらなく、満面の笑顔で人魚姫を見つめてきます。
 人魚姫は表情を変えませんでしたが、新しく取り出した羊皮紙に、さらさらと文字を書きつけて王子に差し出しました。
ゲット「お? おおおおっ!? ユィーナ……これはもしや、初めての君から俺へのラブレター……!? くぅっ、嬉しい、死ぬほど嬉しいぞユィーナっ、これは保管してじっくりたっぷりと何度も読み返し」
ユィーナ「!(げしっ)」
 人魚姫に脛を蹴られ、とっとと読むように促され、王子は笑顔で羊皮紙に視線を落としましたが、とたん固まりました。
『私はもうこの城を出ます。あなたは予定通り、婚約者の方と結婚すべきです』
ゲット「な……っ、なにを言っている、ユィーナっ!」
 その絶叫に、人魚姫はわずかに顔をしかめ、羊皮紙を手元に戻してまたさらさらと文字を書いてから差し出しました。
『もともと私はあなたと結婚しようなどという気はまったくありませんでした。ただこの国の勉強をすることが必要だったので、あなたの好意を利用しただけです』
ゲット「なにを言っている、ユィーナっ! 俺は馬鹿だが、君が俺に向けてくれた愛を感じ取れないほど馬鹿じゃないぞ! 君は、確かに俺を」
『それは、あなたの都合のいい誤解です。あなたが勝手に信じたいことを信じていたというだけのことです。まったく真実とはかけ離れた、私にとってはなんの意味もない言葉です』
ゲット「だがっ!」
『私には、あなたがもう不要だ、と言っているんです。私は自分の意思でここを出て行きます。あなたはそれを邪魔して、私の意志に反して、私をこの城に閉じ込めるというのですか?』
ゲット「――――!!!」
 呆然と人魚姫を見つめる王子を無視して、人魚姫は立ち上がりました。王子には目もくれず図書室を出ていきます。
 図書室の扉を閉める時、たまたま体がそちらの方を向いたから、というように一瞬だけ王子を視界に入れましたが、すぐにふいと視線を逸らし、扉を閉めました。


ディラ「いーのー? あの王子さま、すっごい衝撃受けてたみたいだけどー?」
ユィーナ「…………」
 人魚姫が陸地に上がってきた、人気のない海辺。そこで、人魚姫は海の魔女と相対していました。
ディラ「まー言い分ムチャクチャだし状況とか自分の立場とか全然考えてなかったけどさ。自分とあんたのことについては、嘘ついてなかったし真実突いてたじゃない」
ユィーナ「…………」
 人魚姫はさらさらと残しておいた羊皮紙に筆を走らせます。
『どこが真実だったというのですか』
ディラ「そりゃーあんたが一番よく知ってんじゃないの?」
『少なくとも私は、将来国を治める人間が、自らの責任を果たさないことを肯んずる気は微塵もありません』
ディラ「ああ、そりゃそうでしょうね。けど、あの王子さまに気持ちをぶつけられるのが、嫌じゃなかったのは確かでしょ?」
ユィーナ「…………」
 人魚姫は無言でさらさらと筆を走らせました。
『そんなことは私にとってまるで意味のない話です。それよりも、早く私を人魚に戻してください。私を人間にするのは一時的にだというのは、あなたとの契約の時に最初に話したことだと思いますが』
ディラ「人魚に戻ってどーすんの? 海の中じゃ、書くものを持ち歩くのだって一苦労でしょ?」
『私は海の国をより効率よく運営するために陸に上がりました。情報は得ましたし、この国に対する交渉の材料も得ました。ならばあとは海に戻るのは当然のことです』
ディラ「そういうんじゃなくてさ。あんたは海の中に戻りたいのかなー、って」
 人魚姫はじろりと魔女を睨みましたが、魔女は意に介しません。
ディラ「っていうかさー。あたし、一度かけた自分の魔法の解き方って知らないのよねー」
ユィーナ「!?」
ディラ「だって魔法が解けたらその代償も戻ってっちゃうんだもん。んなのもったいないから最初っから解き方知らないの」
『それは無責任というのではないですか。一度契約を交わした以上』
ディラ「責任ってなんのために果たすもの? 社会の一成員として存在するため、いろんなものを裏切らないためでしょ? たとえば、自分とかね。で、海の国にはそもそもまともな社会なんてまだできてない。共同体自体がまともに構築できてないんだもん、そんな状況で国がどうこう言ったってどうしようもないって、あなたが一番わかってるでしょ? 陸で勉強して」
ユィーナ「…………」
ディラ「それに、裏切るっていうんなら。それこそ自分自身の気持ちを裏切ってるあんたに言われたくはないかな」
『なにを言って』
ディラ「勉強だけのことについても、あんたはまだ陸にいたかった。なのに逃げ出してきたんでしょ? 王子さまの気持ちと向き合うのが怖くて」
ユィーナ「!」
ディラ「違うっていうんなら……振り向いてみたら」
ユィーナ「……?」
ゲット「ユィーナっ!」
ユィーナ「!」
 唐突に後ろから抱きしめられて、人魚姫は硬直しました。この力強く逞しい腕。忘れるわけがありません、これまでに何度抱きつかれ、押し倒されかけ、殴り倒してきたことか。――王子の腕です。
ゲット「ユィーナ……俺はやはり、ユィーナの気持ちが俺にないとは信じられない」
ユィーナ「…………っ」
ゲット「こうして抱きしめて、体温を、鼓動を感じて、それでも嫌がってるか照れ隠しかどうかわからないほど、俺は馬鹿じゃない」
ユィーナ「っ………」
ゲット「だから考えた。君が俺から逃げ出さなきゃならない理由はなにかって。それで思いついた。俺に婚約者がいて、それを断れない――王子なのが理由なんじゃないかって」
ユィーナ「………?」
ゲット「だから王子をやめてきた」
 その言葉を聞くや、人魚姫は振り返り、全力で王子の顔に五連打を浴びせ、王子を殴り倒していました。
ユィーナ「なにを言っているんですかあなたは!? 王子というのは生まれた時から国家のために存在する責任を負っているから、国の誰より豊かで富んだ暮らしを許されているのですよ!? そんな人生をすでにこれまで続けていながら、嫌になったからもうやめただなんて許されると思っているんですか!」
ゲット「……ユィーナ。初めて声を、聞かせてくれたな」
ユィーナ「……え」
 地面から起き上がって笑顔でそう言われ、気づきました。確かに人魚姫は普通に喋っています。以前と同じ声で。
 しかもさっきより妙に目線が低いのです。しかも足の踏ん張りも利きません。なんだか下半身が一体化しているような……
ゲット「ユィーナ……やっぱり君は、人魚だったのか」
ユィーナ「…………!?」
 そう、ユィーナは、魔女に魔法をかけられる前と同じ、人魚に戻っていたのです。
ディラ「ね? 解けたでしょ、魔法。あたしの魔法なんてその程度ってことよ」
ユィーナ「………海の魔女。あなたは……」
ディラ「なんかやたら噂が過大になってるけど、あたしもともと魔法とかそういうの得意じゃないのよね。あたしの魔法なんかより、こうしたいってすごい気持ちがあれば、たいていのことはなんとかできちゃうのよ」
ユィーナ「…………」
ディラ「で? あなたが今したいことは?」
ユィーナ「………それは………」
 と、何人もの聞き慣れた声が聞こえてきました。
ヴェイル「王子ーっ! ゲット王子! どちらにいらっしゃいますかーっ!」
ゲット「げ……」
ヴェイル「王子! 見つけましたよ、なんですかあの置手紙は! 王位継承権を放棄する、なんてあんな手紙だけで納得できるわけ……って、え? そちらは……」
ゲット「見ればわかるだろう、ユィーナだ」
ディラ「そしてあたしは海の魔女。この子を一時的に人間にする魔法をかけた張本人よ、よろしくねv」
ヴェイル「え……あ、の」
ユィーナ「……ヴェイル。話を聞いてもらえますか」
ヴェイル「え、あ……はい?」
ユィーナ「私は海の国からこの国への特使を命じられてやってまいりました。改めて、陛下にお目通り願いたいのですが」
 人魚姫の瞳は紅く輝き、その視線には力がありました。彼女は今なにをすべきかということを、すさまじい早さで考えていたのです。
 まず海の国とこの国の友好条約を結び、この王子と婚約している国とも結ぶ。そうして改めて婚約問題を解決する。この王子の気持ちはともかく、相手となる女性と話し合ってみなければどうしようもない。その上で、全員にとって一番いい解決方法を考えなければ。
 なぜならそれが、彼女にとってやるべきことで、少なくとも現在のところ一番したいことでもあるのですから。
 ……そうして勇んで進み出た結果、王子の婚約者が手違いでもはや髪も真っ白な氷の魔法を使う老人になっていて、相手は自身よりも自国の姫の結婚先を決めるのに夢中だということを知ったりもするのですが、それはまた別の話なのでした。


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