「よう、新次郎」 そう後ろから声をかけられて、誕生日を迎えて一月ほどになる大河新次郎九歳はぱっと顔を輝かせて振り向き、声の主に飛びついた。 「わぁい! 一郎叔父さん、こんにちは!」 「おいおい……叔父さんはやめてくれっていつも言ってるだろ?」 「だって一郎叔父さんは叔父さんだってお母さんもお父さんも言ってるよ?」 「そうだけどさ……俺まだ十四なのに……」 新次郎に苦笑するのは大神一郎十四歳。現在中学生である。学校帰りらしく、学帽に学生服(夏服)をしっかり着込んだ姿は、とても格好よく男らしく新次郎の目に映った。 この二人、叔父と甥の関係ではあるが年齢差はわずか五〜六歳。ほとんど年の離れた兄弟のようなものである。 新次郎は大神の姉、双葉が嫁に行った先で産んだ子であるから一つ屋根の下で育ってきたわけではないが、家が近所だし新次郎が生まれた時からしょっちゅう遊んでもらっているし、新次郎の意識としては一郎は近所の大好きなお兄ちゃんと家族をまぜこぜにして割らないでおいたような存在なのだ。 「新次郎、お前そろそろ家に帰らなくていいのか?」 「あ、そうだ、おうち帰らなきゃ……」 「しょうがないな。一緒に来るか、どうせ帰り道だし」 「うん!」 新次郎はにこにこ笑顔になって、一郎と手を繋いだ。最近は忙しくてろくに自分と遊んでくれない一郎叔父さんだけど、やっぱり会えたら変わらずにとっても優しい。 「あのね、一郎叔父さん。僕ね、小学校のかけっこで一等になったんだよ! 一郎叔父さんに言われた通りの走り方で、毎日練習したから!」 「へぇ、すごいじゃないか」 「うん! 今度は通知簿もらう時に一等取るからね!」 新次郎は胸を高鳴らせながら言う。一郎は新次郎にとって、一番の憧れの人なのだ。なにをやっても優秀で、学校でもずっと一番。将来は軍人になるんだと目を輝かせて自分だけに語ってくれた時、新次郎がどれだけ嬉しかったか。 とにかく新次郎は一郎のやることなすこと、格好よく見えてしょうがなかったのだ。 ふと、絣の袴姿の女の人がこちらをじっと見ているのに気がついた。誰だろう、と思うと同時に、恥ずかしくなって一郎の後ろに隠れる。 一郎が、小さく頭を下げて挨拶した。 「こんにちは」 「こんにちは……」 女の人が掠れた声で挨拶を返す。顔が真っ赤だ。 「女学校からのお帰りですか」 「はい……」 「大変ですね、女性の方は。帰ったら花嫁修業にも勤しまなければならないのでしょう?」 「でも、殿方のように勉学で身を立てるというわけにはいきませんから……勉学よりも女としてのたしなみを身につけることに力を注げと言われていますし」 「そうですか……でも、俺などはただたしなみだけを完璧に身につけた女性よりも、勉学で自らを高めた女性の方が素晴らしいと思ってしまいますけどね」 にっこりと笑ってそう言う一郎に、女の人は頬を染めた。 「大神さま……」 「あなたのような女性を妻に迎える人が羨ましいですよ」 そう微笑みながら一郎が言うと、女の人は真っ赤な顔のまま駆け出していってしまった。新次郎はなんとなく呆然とそれを見送る。 一郎は何事もなかったかのように、軽く笑って新次郎を引っ張り歩き出す。 「さ、急ぐぞ新次郎。早くしないと日が暮れる」 新次郎は歩きながら一郎に聞いた。 「一郎叔父さん、あの女の人誰?」 「ああ、あの人は俺がこの前道端で鼻緒を直してあげた……名前は聞いていないな。いつも聞く前に走り去ってしまうから」 「? でもあの人のことよく知ってたんじゃないの?」 「よくってほどでは……まだ会って三度目だからな。けど、どんな本を読んでいるかと聞いたら女性の好きな『スバル』や『三田文学』だけじゃなくてトルストイやドストエフスキーも読んでいたって言ったからな。勉強してる人だと思ったんだ」 「ふぅん……」 なんでそれで勉強してることになるのかはよくわからないけれど。 一郎はやっぱり格好いい。自分なんか女の子と話すときはどうしても恥ずかしくなっちゃうのに。 ようし、ぼくも一郎叔父さんを見習って、女の子に優しく話しかけるようにするぞ! と新次郎は決めた。 数日後、新次郎は双葉から聞いた話に仰天した。 「一郎叔父さんにけっこんばなし……って、一郎叔父さんけっこんするの!?」 そんな、そんなのいやだ、一郎叔父さんがいなくなっちゃうなんて――と顔から血の気を引かせる新次郎に、双葉は笑った。 「まだ十四歳なのに、結婚なんてできるはずがないでしょう?」 「え……じゃあ、なんで?」 「実はね……あの子、女の子に声をかけて口説いた……ええと、お嫁さんになってもらおうとしたっていうのよ。あの子はそんなつもりじゃなかったって言ってるそうだけど、女の子の方はそう受け取ったみたい」 あの人だ――と新次郎は数日前に会った女の人を脳裏に思い浮かべた。根拠はないが、そんな気がする。 「それで見合いをしろとその人の親御さんが言った時、私はあの方――一郎叔父さんのところ以外へは嫁ぎたくありませんって言ったらしいの。それで大神の本家にその親御さんがうちの娘をたぶらかしたなって怒鳴り込んできて……」 「…………」 「だからあの子、今頃父さまに怒鳴られてるんじゃないかしら」 「…………」 新次郎はなんと言えばいいのかわからず、とりあえず双葉の作ったおはぎを食べた。とてもおいしい。 おはぎはおいしいが、しかし―― 「……一郎叔父さん、大丈夫かな」 「大丈夫よ。まぁ、ちょっと家を追い出されたりするかもしれないけど――」 と、がらがらという音と共に呼ばわる声が聞こえた。 「双葉姉さん! 上がってもいい?」 「あらあら、噂をすれば」 苦笑すると双葉は立ち上がり、声の主一郎叔父さんを迎え入れた。 一郎はいつもとはうってかわった仏頂面で、乱暴に新次郎の隣、双葉の向かいにあぐらをかいた。 「不機嫌ねぇ」 「しょうがないじゃないか。自分に覚えのないことで責められちゃ」 「先方はあなたがその人に近づいたって言ってたそうだけど?」 「近づいたなんてそんな! 俺はただ鼻緒を直してあげて、それから普通に話してただけだよ!」 あれって普通なんだろうか、と新次郎は一郎と双葉を見比べながら思った。今まで新次郎は男が女の人にあんな風に優しいことをいうのは聞いたことがなかったのだが。 「本当に? やましい気持ちがなかったって、言い切れるのかしら?」 「う……い、言い切れるさ! 俺はこの日本を守る軍人になって平和を守るんだ、女性にかまけてる暇はないよ!」 「……それならどうして女の子があなたのところにお嫁に行きたいなんて思いつめることになったのかしらね?」 「知らないよ! 俺はただ普通なら言うだろうってことしか言ってないんだからね!」 そうかなぁ、と思いつつ新次郎は茶を啜った。ああいうのは普通だとは新次郎には正直思えない。 ちょっと考えて、新次郎は決めた。一郎叔父さんはとっても格好よくて大好きだけど、女の人に対する態度だけは見習わないようにしよう。いきなりお嫁に来たいなんて言われるの、やだもん。 ――むろんのこと、まだ九歳の新次郎は、自分が血筋か自身の資質か、将来大神一郎とは別タイプの女たらしになり、紐育星組周辺の女性をことごとくたらしまくることになることなど、まったく想像してもいないのだった。 |