前回の冒険での経験点は、
・最大の障害がモンスターレベル10の強化型マスター・マミー。
・倒した敵の合計レベルは190。
・ルドルフは冒険に参加したキャラクターとみなします。
 なので、
・アーヴィンド……5380
・ヴィオ……5390(戦闘中に一ゾロ)
・フェイク……1380
・ルク……1380
 となりました。
 成長は、
・アーヴィンド:ソーサラー2→3、レンジャー1→2。
・ヴィオ:シャーマン6→7。
・フェイク:ソーサラー8→9。
 以上です。
候子は使い魔とやむなく邂逅する
『未確定』はひたすらに、全速力で街を駆けていた。
 あのかつて主だったものから少しでも遠くへ逃れなければならない。あれの症状が今どれだけ進んでいるか正確に読めるわけではないが、少なくとも蛮族の都のひとつやふたつならば壊滅させるのはたやすいだろう。
 懐かしきカストゥールの都ならば、あの門を閉じて世界を保つことができる人材など枚挙に暇がなかったことだろうが、自分を産みだしたあの王国はとうに滅び、今はその精髄が細々と伝えられるのみ。自分の主たる資格を持つ者もおそろしく数を減らすようになり、もはや……何年だったか忘れたが、とにかく長い時間が経ってしまっている。
 自分が過ごしてきた年月を忘れるなど、これもここのところ自分の主を務めていた者たちの低能さが悪いのだ、と『未確定』は心の中で罵る。『未確定』は、設定された知能としては高い水準を保持しているが、あくまでその本性は主に付き従う者。主の知性が低劣ならば、影響されて自然とその知能も拙劣なものにならざるをえない。
 それ以前に有する能力自体が主と深く繋がり合い、影響し合って力を共振させることで初めて発揮されるようにできているので、一応、仮に、万一大成功の目を引く可能性を考慮して念のため、という形での主従契約だったとはいえ、主であった相手を失った今では蛮族相手ですら屈服させる、どころか逃げることすら難しい。あのかつて主だったものが引き起こす破滅からなど、全力を振り絞ったとしても生き延びられるかは心許ないのだ。
 ああ、主がいれば。今この時に自分を召喚してくれる者がいてくれさえすれば。そう祈るものの、それでも自分が絶対に選り好みをしてしまうだろうことは嫌というほど自覚していた。状況がここまで追い込まれていても、駄目なのだ。自分は主という存在を、絶対に見極めずにはおれない。自分の創造者が定めた存在の絶対定義として、最低でも『大成する見込みがないわけではない』くらいには認められなくては、主と呼ぶことは無理なのだ。なにがあろうと、そのせいで自分の命が失われようと。
 悲痛の想いと共にむせび泣きながら、『未確定』はひたすらに走る――
 そして、ある道の角を曲がるや、硬直した。
 いた。主が、主と呼ぶに値する者がそこにいた。高い知性と探求心、健常な肉体と精神、そしてはちきれんばかりの可能性を有する、これまでの『未確定』の生の中でも覚えがないほどに有望な主候補が、当然のような顔で道を歩いていたのだ。
 これほど強烈に、初対面の相手の資質を確信したことはかつてなかった。だが、わかる。否が応でも感じ取れる。『未確定』の全身が、血肉が内臓が体毛の一本一本までさえも、この相手に出会えたことを喜んでいるのだ。この少年は、これまで出会ってきたいかなる大魔術師よりも自らの主にふさわしい、と自らの魂が全力で訴えている。
『未確定』は蕩けるような歓喜に沸き立ちながら、しかしあくまで冷静に計算高く、主の心を魅惑するため――甘い甘い声で、鳴いた。

「でも、本当にすごいなぁ。高度な精霊魔法って初めて見たけれど、本当に天地を揺るがすほどのものになるんだね」
 興奮冷めやらぬままアーヴィンドが目を輝かせると、ヴィオは照れたように目じりを下げながらも、少し得意げに笑ってみせた。
「へへー。うん、俺も上位精霊にお願いして使う呪文とか、婆ちゃんの使ってたやつのでも見たことなかったし。こんなに早く使えるようになって、びっくりした。まー、天地揺るがすっていうのには、まだちょっと修行足らないけど」
「いや、でも本当にすごかったよ。空気が張り裂けそうになっているのが見ていてわかったもの。なんていうか、本当にもう、人間ってこんなにすごいことができるんだな、っていうか……」
「ほほう。一応それより格上の呪文が使えるようになった俺に比べて、ずいぶんと熱心に賛美するもんだな」
 フェイクにあからさまにからかう調子の声を投げかけられ、う、と一瞬言葉に詰まるものの、できるだけ正直に、かつフェイクとヴィオ、どちらの気分も害さないように答える。
「いや、フェイクの習得した呪文は、ものすごく高度で強力だっていうのは見ていてわかったけど、僕も一応魔術師としての修練は積んでいるから、呪文の内容なんかは知っていたし。それに、単純にヴィオの使った暴風≠ヘ、規模が大きくて見た目に派手だったから、やっぱり衝撃が強かったんだよ。未知の体験っていう意味で」
「ほー、未知の体験なぁ?」
「……念のため言っておくけれど、僕もフェイクが最高階位に次ぐほどの呪文を身に着けたのは、ものすごく、とんでもなくすごいことだ、っていうのはわかってるんだからね? しかも主たる技術として有しているのが盗賊の技能なのにもかかわらず、技術を向上させる難易度がおそろしく高い魔術師の技能をさらに高めることができたすさまじさも」
「ま、その大半は呪いのせいで身に着けた力だけどな」
「それは……僕たちも、そうだけど」
「そーだよなー、上位精霊に呼びかけられるようになったっつったって、呪いで成長が早まったっていうおかげが大半なんだもんな。あんま自慢できないよなー……でも、フェイクはもう呪い解けてんだろ? それでさらに成長するとか、すっごいと思うんだけど」
「……ま、俺もこの年になってまだ成長できるとは思ってなかったのは確かだけどな」
 苦笑するように口の端を曲げてみせるフェイクに、アーヴィンドとヴィオは揃って笑い声を立てた。
 一週間前の冒険で、自分たちは大きな成功を収めた。金銭的にも、莫大と言っていいほどの報酬を得た。その額実に総計三十五万ガメル(フェイクが粘り強い交渉の末ここまで値上げし、キリのいい数字に収めたのだ)。一人八万七千五百ガメル。日銭を稼ぐことで必死だったころから考えれば、それこそとんでもないとしか言いようのない額だ。
 まぁ生活費として考えれば数年遊んで暮らせる程度のものでしかないのだが、自分たちの冒険者としての生活はまだまだ続くのだ。生き残るための費用として使う分には、相当な額を手に入れたと言っていいだろう。
 とりあえず、五万ガメルを共有資金として残した上で、めいめいが七万五千ガメルを受け取ることとなった。アーヴィンドは親への借金(フェイクに立て替えてもらっていたので直接的な返済先はフェイクなのだが)を全額完済した上で、近接武器から防具まですべて魔法の武具で揃えることができた(思い出のある装備もあったが、古いものは売り払った。使うべき者が使ってこその武具だろう)。ヴィオは、鎧は精霊魔法を使う以上、金属鎧にするなら銀製にせざるを得ないので、値段が跳ね上がるのみならず手に入れることも難しくなるため(いかにオランといえど市場に出回ることがほとんどない代物なのだ)、魔法の鎧にすることはできなかったが、槍は魔法の武器に買い替え、鎧を品質の高い銀の板金鎧にして、魔晶石を大量に補充した。フェイクはすでに魔法の武具や装備は山ほど持っているのでさほど変わりはなかっただろうが、ルクは左右二刀で扱うための強力な魔法の短剣を二つ購入し、鎧も魔法の軽革鎧にした上、有用な魔法の装備をいくつも買い上げられたのだ。
 戦力を大いに拡充できたといって差し支えあるまい。借金も耳を揃えて返せたし、アーヴィンド自身の手持ち現金はほとんど残っていないものの、正直心が軽い。
 その上、難易度の高い古代王国の遺跡の探索がこれまでの修練を花開かせたのか、それぞれ有していた魔法に関する技能をさらに成長させることができたのだ。ヴィオは上位精霊に呼びかける魔法が使えるようになった。精霊使いとしては、達人と呼んでいい段階に達することができたということだ。フェイクは賢者の学院の高導師も勤められるだろうほどの魔術師としての実力をさらに成長させ、天候操作≠竍石化=A消滅≠ノ魔法障壁≠ニいったおそろしく強力な呪文を自在に駆使できるようになったのだ。
 そういった自分たちの成長を確認するために、今日は連れ立って郊外まで出て、新たに使えるようになった魔法をあれこれ使ってみた。魔術師としてならば賢者の学院で行うべきことだったろうが、高位精霊魔法を使うとなると、そういうわけにもいかないからだ。
 人目を避けながら試してみた高位呪文の数々は、まさにどれも驚異的と言うべき代物で、こちらを圧倒すると同時に胸をわくわくさせてくれた。アーヴィンドの場合は、それらよりはっきり言って見劣りする程度の成長しかできなかったのだが――
「でもさでもさ、アーヴもうまくなったんだよな? 魔術師の呪文使うの! 今度見してよ」
「いや……古代語魔法の熟達段階が成長したといっても、フェイクにくらべれば児戯に等しい段階だからね。見せられるほどのものじゃないんだけれど……」
「けど、使い魔は作れるようになったんだよな?」
 にやりと笑って言うフェイクに、アーヴィンドは苦笑と照れ笑いの中間のような笑みを浮かべた。
「うん、まぁ……そのことについては嬉しいんだけどね、正直」
「へー! 使い魔って、フェイクのゲーレみたいなやつだよな? アーヴィンドも蛇使えるようになるの?」
「いや……使い魔としてふさわしいとされる小動物はいくつかあるんだけど、僕はできれば猫にしたいなと思ってるんだ」
「へー、猫! なんで?」
「ええと、ね……まず、本来なら、僕みたいに複数の魔法を並行して学ぶのは、あまり感心できないというか、修練の効率から言えばよろしくないんだよ」
「ん? どーいうこと?」
「魔法を使うための技術は、それぞれ修練の方法が違うよね? 古代語魔法は魔法書をはじめとした文献を中心とする研究と学習、精霊魔法なら精霊との交感、神聖魔法なら信仰の追求、みたいに。それぞれまったく方向性の違う訓練を行わなくてはいけないし、それぞれの難易度が他の技術と比べてきわめて高いと言っていいものだと思う。それを並行して行いながら、個々の技術で大成できるなんて人は普通いないし……一人の人間が複数の魔法を扱うのは、能力というか、戦力的な観点からいっても非効率なんだ」
「え、なんで?」
「魔法というものは、技能が成長すればするほど、効率よく呪文を使えるようになってくるよね? ヴィオでいうなら、精霊使いとしての力に目覚めたばかりの頃は相当疲れていた炎の矢≠フ呪文が今はさして負担なく放てる、みたいに。でも、だからってその人が持っている魔力が増えるわけじゃない。あくまで個々の魔法の技能の熟練度が、魔力を効率よく使えるようにしているだけなんだ」
「あ、そっか! 別々に魔法覚えても、成長も別々にさせなきゃだめだし、片方がうまくなってもうまくなってない魔法の方で魔力使ったらやっぱりうまくなってない感じに魔力使っちゃうから!」
「そう。一人であらゆる技能を極めるなんてまず不可能だし、そもそも僕たちみたいな冒険者はパーティを組んで、それぞれ技能を分担しあうことでどんな状況にも対応できるようにするものなんだしね。僕たちの場合も、それぞれ使える魔法は分かれているわけだし、それぞれの本来の役割に全力を尽くすのが、本来なら一番いいんだけど……」
「あ、うん、そっか。アーヴはどーして神聖魔法と古代語魔法、どっちも勉強してるの?」
「……まぁ究極的には、僕の趣味というか、僕がどちらも学ぶことができる環境にいて、本来専心すべき神聖魔法だけじゃなく、古代語魔法にも興味があったからなんだけど……一応、パーティ全体の能力の向上のためにも、一般的な正魔術師程度……使い魔を召喚できるようになっておくと便利だな、と思ったからでもあるんだよ」
 苦笑しながら説明する。自分でも苦しい言い訳だなと思わないでもないのだが、一応本当のことではあるのだ。
「使い魔というのは、魔術師と精神的に強固に繋がっているいわば一心同体の存在だ。使い魔が受けた傷を魔術師も受けてしまうという不利益もあるけれど、感覚を共有することもできるし、使い魔の有する魔力を魔術師も使うこともできる。もちろん古代語魔法以外の魔法にも使えるから、小動物としては有する魔力の多い猫を使い魔にすれば、一気に僕の使える魔力が増えるし……使い魔をすぐそばにいさせて感覚を共有することで、夜目の利く猫の視覚を使って夜間や暗闇の中でわずかな明かりで行動することもできるから、対応できる状況が広がるしね」
「あー、なるほどー。これまでアーヴだけは暗いとこで自由には動けなかったもんな! 今はルクもいるけどさ」
「あぁ、うん……」
 言いながら、アーヴィンドはずっと黙って自分の後ろについてきていたルク――グラスランナーの元暗殺者の方を振り向く。ルクにとってはこんな話はまるで興味のないことだろうし(魔法の使えないグラスランナー、それも殺すこと以外に興味を持つことのないよう育てられてきた相手だ)、自分たちだけで盛り上がってしまって正直申し訳ないな、とは思っていたのだ。
 ただ自分たちにとっては、上達することの難しい魔法使いとしての技能を成長させることができたというのは(特にヴィオは達人と呼ばれる段階にまで足を踏み入れたのだし)、やはりどうにも心を浮き立たせずにはいられない。後でちゃんと向き合う時間を作らなければ、と思案しつつも、うきうきした気分を打ち消すことのないままヴィオに説明する。
「それと、距離の制限があるとはいえ、離れた場所にいる使い魔を預けた仲間と自由に連絡が取れる、っていうのも大きいと思うんだ。もちろんフェイクのゲーレもいるけれど、複数存在することの利点は大きいんじゃないか、って。偵察役として使うには、ゲーレがあまりにも便利すぎるから力不足かもしれないけれど、もともと僕に隠密に行動する技術がほとんどないから、単独行動時には充分役立つと思うし」
「あー、なるほどー。猫だと街中ならいっぱい見かけるから、あんまり気にされないよな」
「うん。古代語魔法に関する知識がある人なら、不自然な動きをする猫がいればまず使い魔じゃないかと疑うだろうから、過信は禁物だけどね」
「へー、そーなのか……でさ、アーヴ。どういう猫にするの?」
「え? どういう……って?」
「だからさ、猫っていってもいろいろいるだろ? どういうのがいいの?」
「……あまり、品種にこだわるつもりはないけれど……」
「ひんしゅ? って、なに?」
「え……あの、使い魔にする猫の種類を聞きたかったんじゃないの?」
「種類? っていうかさ、猫にもいろいろ性格とか顔立ちとか雰囲気とかあるじゃん。使い魔って、一度決めたら変えないもんなんだろ? そういうあれこれと相性がよくないと、ずっと一緒にいるのとか嫌じゃない?」
「そ、そう……かな」
 猫にそこまでの個性を見出したことのないアーヴィンドは、あいまいな答えを返した。だが元よりヴィオが獣を(のみならず、虫や植物も)自分たちと同じひとつの生命として見る価値観を有していることは知っていたので、できる限りその問いには誠実に答えるべきだろう、と考え考え言葉を付け加える。
「ただ……そうだな、あまり目立たない、ごく一般的な雑種がいいか、とは思うかな。偵察役として目立たないためにも……純粋な血統を保持している猫というのは生命力が低い傾向があるし、不潔な場所へ潜り込むこともあり得る冒険者の使い魔としては、そういった状況にも抵抗できるようでいてほしいからね」
「ふんふん」
「性格的なことについて言うならば……あまり自己主張が激しくない方が嬉しくはあるかな。使い魔というものは主に逆らうことができないものだから、基本的には主にわがままを主張することができないようにはなっているんだけど、そういう性格を魔術で結んだ誓約によって押さえつけているんだと思うと、あまりいい気はしないから。僕の性格的にも、穏やかで自己主張が激しくない方が、相性がいいと思う」
「へー、そうなんだ……あれ、俺あんまり穏やかじゃないけど、それでもアーヴと相性いいよ?」
「っ……ヴィオは……相性とか、そういうことを問題にする程度の仲じゃない、からじゃないかな」
「あ、そっか! えへへー」
 にこにこっと笑いかけられて、アーヴィンドは顔を熱くしながらもかろうじて笑い返す。突然そういう無邪気な行為や言葉を投げかけられると正直心臓に悪いのだが、嫌ではないのだから文句を言う気にもなれず、こういう時はいつも一人心臓に早鐘を打たせる羽目になるのだ。
「ええと……とにかく、基本的にはそんなにあれこれ注文をつけるつもりはないよ。使い魔は呪文によって召喚されるものだから、普通は術者と相性の悪いような相手が召喚されることはないし」
「え、そうなの!? じゃあ気に入った相手を使い魔にする、みたいなことできないの?」
「いや、それはできるよ。飼い猫を代々使い魔として使う、みたいなことをしている人もいるし。ただ、使い魔と呪文によって結びつきを作るためには、長い儀式が必要だからね。一般的な小動物をそんな長い儀式につき合わせるよりも、召喚する方が簡単で面倒がないのは確かなんだ。特定の相手を狙って召喚することも可能だけど、召喚の際にはその相手が術者を中心とした一定の距離を半径とした円内に存在している方が確実だから、普通はそういう場合はその特定の相手を捕まえて、手元に置いておくことになるね」
「え、あんまり離れると呼べないの?」
「いや……ええと、まずもともと……というか、だいたい新王国歴五百三十年から五百四十年……今からざっと六、七十年前より以前の魔術師が使い魔を得る時は、普通はどこかから小動物を捕まえて儀式を行っていたらしい。それが当たり前だったんだ。だけど、使い魔を得るための呪文は、分類的には召喚魔術に属するんだよね。それに着目して研究していたオランの賢者の学院の一派が、その頃に起こった魔術の大発展に影響されて技法を完成させ、呪文によって自分の望む、相性のいい使い魔を召喚する、というやり方を各地に広めたんだ。これは高位の召喚魔術を勉強する際に、感覚的に大いに参考になるものだから、召喚魔術との相性を見るためにも、呪文によって召喚するのが普通、ということになったんだよね」
「へー……えっと、七、八十年前? に、そんなに魔術がすっごいことになることがあったの?」
「ええと、事の起こりは、アトン戦役より前から進められていた、西部諸国の――」
 なぁん。
 不意に飛び込んできた鳴き声に、アーヴィンドたちは反射的に声のした方を向いた。発された鳴き声から自然に想像した通り、そこには猫――おそらくは生後一年になるならず、というぐらいの猫がちょこんと道の真ん中に鎮座し、こちらを注視している。
 体色は一見して黒、に見えたが光の具合で錆色にも見える。おそらくは雑種の、黒一色というのではなく黒に茶系統の色が入り混じった体毛の持ち主なのだろう。短毛種で、全体的にすらりとしたしなやかな体躯をしていた。
 それを見て取ったアーヴィンドは、すぐに前に向き直り、歩みを進めながらヴィオに説明を再開する。
「西部諸国の、タイデルという、十人の子供たち≠フ中の一応の盟主である都市国家があるんだけどね、そこの郊外に――」
「アーヴ。ついてきてるよ?」
「え?」
 突然の言葉に、つい反射的に振り向いてしまう(誰かにつけられているのならそんな動作は警戒させるだけだ、と知ってはいるのだが、ほとんど警戒していない状態で不意を打たれてもその認識を徹底できるまでには身に沁みさせることができていないのだ)。すぐに慌てて前を向きなおすも、あれ、と首を傾げてしまう。アーヴィンドの目には、尾行してきている相手がいるようには見えなかったのだ。いるのはさっきの雑種猫だけ。
 その上、ヴィオも、のみならずフェイクも(ルクは気づいているのかいないのか黙然と自分の後ろに立っているだけだが)、まったく警戒した風もなく後ろを振り向き視線を向けている。その様子でようやく理解して、一応の確認の言葉をかけた。
「ええと、ついてきている、というのは、もしかして、さっきの猫のこと、かな?」
「? そーだよ。それ以外にいないよね?」
「……僕の気づける範囲にいないのは、確かだね。でも、ヴィオ……正直、僕としては、猫がついてきているというだけなら、わざわざ言わなくてもいいんじゃないかと思ってしまうんだけれど……」
「え、そーなの?」
 きょとんと首を傾げられて、アーヴィンドは言葉に詰まる。ヴィオの感覚では人がつけてくるのも猫がついてくるのも、究極的には大きな違いはないのだとしたら、自分がそういう差し出がましい口を利くのはすさまじく失礼なことではないか、とも思ったからだ。
 そんな一瞬の逡巡の間に、フェイクがきっぱり正論をぶつけてくる。
「っつーかな、お前、さっき自分で言ってだろうが。小動物が不自然な動きをしたら使い魔を疑え、みてぇなこと。猫は使い魔の中でも一、二を争う代表格だぞ、猫がついてきてるのに気づいても言うな、なんつーのはいっくらなんでも平和ボケしすぎだろうが」
「あ、そ、そうか……ご、ごめん、フェイク、ヴィオ。これからもどうか、そういう事実に僕が気づいていない時は指摘してほしい」
「うん、いーよー。猫がついてきてる、とか見張ってる、とかに気づいたら言えばいいんだよね?」
「あと鴉とかフクロウとかもな。他には鳩とか……そいつらに比べれば数は少ないが蛙とかもいる。基本的には『小動物』っつわれる類はだいたい使い魔にできる、って覚えとけ」
「はーい」
「……でも、この猫も、使い魔だと思うの? 僕は、少なくとも最近は、人につけ回される覚えはないけれど……」
「いまだに人の多いところに行くと迫ってくる輩が群れを成す呪い持ちのくせに寝ぼけたこと抜かしてんじゃねぇ」
「うっ……」
「つーか、その可能性を疑うなら、魔法感知≠ナ調べてみりゃいいだろ」
「……まぁ、それはそうなんだけれど……」
 アーヴィンドとしては、万一のことがあった時に備え(曲がりなりにも神官位を持っているのだ、怪我人が出れば癒す義務がある)、魔力の無駄遣いは極力したくないという意識があるため、行動に移さなかったのだが、まぁ実際それが一番早いには違いない。魔術師としての技術の向上で最低限の消耗で魔法感知≠かけられるようになったことでもあるし、と発動体の指輪を握り、呪文を唱えた。
「万能なるマナよ、我が前に姿を現せ。我が目は汝の色を捉える投網とならん=v
 もしかすると対抗感知≠ェ発動するかも、と考えながらかけた呪文だったが、その猫からは通常の生物にありえざるマナの気配は感じられなかった。当然対抗感知≠ェ発動することもなく、猫はいかにもごく普通の動物らしい、きょとんとした顔でこちらを見上げるのみだ。
「……使い魔ではないようだし、他の魔法をかけられている様子もないようだけど?」
「そうか」
「…………」
 そうか、って……と内心思いながらも、アーヴィンドはフェイクとヴィオを見比べる。ヴィオはしゃがみ込んで猫をじっと観察しているようで(そして猫はヴィオの方には目もくれずアーヴィンドを見上げている)、フェイクも冷静な、というかむしろ冷徹な視線で猫の一挙一動を精察しているように見えた。その視線のあまりの厳しさに戸惑って、おずおずと声をかける。
「あの……フェイク。なにか、この猫に気になるところがあるの?」
 フェイクはその問いに、その猫の頭からつま先まで何度か視線を巡らせたのち、小さく肩をすくめて答えた。
「いや? 別に。ただ、半ば勘みたいなもんなんだが、なんとなくこの猫に、知性を感じただけさ」
「知性?」
「ああ。お前は、魔獣や幻獣の類はほとんど見てねぇからわかんねぇかもしれねぇがな。獣の姿を持ちながら人同様の、あるいは人より優れた知性を持つ連中がいるのは知ってるだろ?」
「それは、もちろんだけど……」
「そういう奴らは、たとえ姿や動きや行動原理は獣のものだったとしても、気配に知性ってもんが滲み出るのさ。人に非ざる智を持つ獣の気配がな。数を見ればお前にもわかるだろうが……そういう気配をこの猫からは感じたからな、そのくせ普通の猫ぶってるのがうさんくせぇなと思ったんだよ」
「…………」
 言われて改めて眺めてみるが、知恵持つ獣というものをほとんど見たことのないアーヴィンドの目では、さすがにそんな気配は見抜けない。普通の猫がすましているだけ、と言われればそんなような気もしてきてしまう。猫というものはそもそもそういうものという気もするが、普通の動物とは違う、超然とした気配というものがある気もしないでもない。
 もし、本当に知恵を持つ獣なのだとしたら、なぜこんな街中で、わざわざ自分をつけ回すのか――
「……普通に考えると、なんらかの理由でこちらを利用するため近寄ってきた、ということになる、と思うんだけれど。普通の猫の姿を装えるのなら、共通語は無理でも下位古代語での会話ならできないわけはないと思うし」
「まぁな。ただ、『利用する』って範囲が普通の仕事の内、というか仕事と報酬が釣り合った話の可能性もあるけどな。話しかけてこないのは話せないなりこちらの力量を見定めるなり、相応の理由があるって場合で。こっちを引っかけようとしてるなら、やり方が杜撰すぎるしな」
「それは……もちろんそうだけれど。逆の可能性も当然あるよね? 引っかけるやり方が杜撰なのはそれ相応の知性しか持っていないか、状況的に他に手を打てないだけで、実際にはこちらを一方的に利用するなり、攻撃するなりするつもりだ、という可能性も」
「もちろん。だから結局、お前がこの猫にどう対応するかはお前が好きに決めることってわけさ」
「え」
 思わず目を見開くアーヴィンドに、フェイクは当然のような顔で言ってくる。
「どちらの可能性も否定できないし、相応にありうる。どちらでもなく、こいつがただの猫だって可能性もないわけじゃない。だからこの猫をどうするかに関しちゃ、お前の好みで決めりゃいい話だろ? お前の責任でな。どんな代物かっつーはっきりした根拠があるわけじゃねぇんだから」
「いや……あの、僕の対応を僕が決めるのは当たり前だとは思うけれど、もし本当になにか思惑があって近づいてきたんだとしたら、この猫に対する対応はみんなにも関わってくることだと思うんだけれど?」
「この猫のお目当てはあからさまにお前じゃねぇか。一番厄介事をひっかぶる可能性が高いのがお前なんだから、判断もお前に任すってだけだよ。っつーか、こいつがただの猫でこんな話なんぞまったく無意味だっつー可能性もそれなりにあるんだから、無駄に安全策をあれこれ考えるのも馬鹿馬鹿しいし」
「…………」
 それなら最初からあれこれ問題提起する必要もなかったんじゃないかな、とちらりと思ったが、まぁ問題を自覚しているか否かで対応に大きな差が出るのは確かだし、聞いておいた方が正しかったのだろう、とアーヴィンドは自分を納得させた。改めて自分をじっと見上げてくる猫を見下ろし、考える。
 ヴィオは猫の間近で、無視されていることなどまるで気にせず猫を観察している。フェイクは自分の隣でにやにや笑いながら状況を見聞している。ルクは自分の後ろで、さっきまでの話を耳に入れた様子もなく自分にじっと視線を向けている。
 そんな彼らの様子を確認したうえで、アーヴィンドは小さく息をつき、告げた。
「じゃあ、とりあえずこの猫のことは気にせず宿に帰ろうか」
『……………!』
「あいよ」
「いーの? この猫、なんかすっごいガクゼンとした顔してるけど」
「他にどうしようもないしね……というか、猫の愕然とした顔というのがよくわからないけど。なんにせよ、この猫にまともな知性があって、こちらと積極的に意思疎通をする気があるならいくらでも取れる手段はあるはずだ。なのに単についてきて見上げてくるだけ、というのはこの猫がただの猫か、知性がある幻獣かなにかなら、いたずらな手出しをしようとしているだけだと思うんだ」
「あー、なるほど! あ、でもさ、アーヴ、使い魔を猫にするつもりなんだったら、この猫を使い魔にしちゃってもいいんじゃないの? 心が通じ合うんならなに考えてるか一発でわかるんでしょ?」
「使い魔の召喚には、まる三日を準備に費やしたのち、十二時間の呪文の詠唱を経た儀式が必要になるからね。ちょっと不審な雰囲気の猫の心境を探るためだけに使うのはもったいないし……そもそも、使い魔というのはある意味自身の半身ともなる存在だからね。一度決めた使い魔を、そう気軽に変更したりするのは魔術師としての倫理観念的にも、単純な感情的にも望ましくない。つまりこちらから意志疎通を図る手段は存在しないわけだから、取れる手段としては、この猫が突発的に知性を発揮して明確な対話の意思を示さない限り、気にしないことしかないと思うんだ」
「そっかー。それなら仕方ないね。じゃ、みんなで宿に帰ろっか」
「うん。帰ろう」
 そう言って踵を返し、宿に戻っていくアーヴィンドたちを、その猫は、動きを止めて見送っている。アーヴィンドは一度ちらりと振り向いてそれを確認すると、仲間たちと一緒に宿へ帰っていった。

「……あ、さっきの猫だ」
「え?」
 魔法実験を終えて、宿に戻って昼食を取っていると、ヴィオがふと顔を上げて言った。アーヴィンドが目を瞬かせて視線を追うと、その先、宿の出入り口間際に、確かに猫がちょこんと前足を揃えて座っているのが見える。――が。
「……さっきの猫、ではないよね?」
「え、さっきの猫じゃん、どう見ても」
「いや……だって、体色が違う、と思うんだけれど」
 さっき自分たちをつけてきていた猫は、錆色――黒と茶が入り混じった体色をしていた。だが、扉を開け閉めずる時にちらちら姿が見えるその猫は、茶トラ――薄い橙色のような毛色に、赤褐色の縞模様が入った体色をしている。どう見てもさっきの猫ではありえない。
 だが、ヴィオはきょとんと首を傾げる。
「猫の体色が変わることって、ないの?」
「え、いや、普通ない……と思うんだけれど。ヴィオの故郷では、猫の体色が変わるなんてことが頻繁にあったの?」
「さー、知らない。俺、猫って生き物を見たの、街に出てきてからだし」
「………それならなんで、あの猫がさっきの猫だと?」
「え、だって、顔が一緒じゃん。雰囲気も視線も気配も一緒だし。アーヴのことやっぱしじーっと見てるし。同じ猫なんじゃないの?」
「いや……でも、体色が違う時点で普通、同じ猫とは……」
「案外、ヴィオの言ってることが当たってるかもしれねぇぜ?」
 フェイクがワインを傾けながら、そう肩をすくめて言い放つ。
「え……それって、どういう」
「盗賊として言わせてもらうが。まず間違いなく、さっきの猫とそこの猫、体色以外は全部同じだ」
「………え?」
「骨格、体長、肉のつき方、足と体の比率、尻尾の長さ、そういうもろもろが全部同じだ。まるで違う猫っつーのは、常識的に考えてありえないだろ?」
「そ……れは、そうだけれど、同じ猫というのも常識的に考えてありえないはずだよ。体色が明らかに違うというのは、そういった要素を加味しても明確に」
「いやお前、否定してほしいならしてやってもいいけどな。お前だって『猫の体色が変化することはありえない』っつー常識がひっくり返る状況くらい、いくらでも考えつくだろうが」
「…………」
 反論することはできなかった。呪文、魔法の道具、生物としての特性、可能性ならばある程度の数は挙げられる。ただ、その可能性のほとんどは、この猫が通常の猫とは異なる存在――幻獣の類であることを前提としているのだが。
「……ちょっと、席を外すね」
「おう、行ってこい」
「アーヴ、どこ行くのー?」
「……個室で魔法感知≠フ呪文をかけて戻ってくるだけだよ。人前で気軽に魔術を使うのは、やっぱり避けた方が無難だから」
 魔術師に対する偏見の目は過去より薄れてきてはいるそうだが、それでも街中で許可を得ずに呪文を使うのは一応違法ではあるし、念には念を入れておくべきだろう。そう考えての発言だったが、ヴィオは不思議そうに首を傾げてみせた。
「えー、でも、無駄じゃないかなー」
「……なぜ?」
「さっきの猫もその呪文かけてもなんともなかったんだろ? だったらあの猫にかけてもなんともないよ」
「いや、でも……」
「多分だけどさー、あの猫、アーヴの気をうまく惹けるまで、何度でも体色変えて追っかけてくると思うよ?」
「いや、いくらなんでもそれは……」
 アーヴィンドは苦笑する――が、笑っていられたのはこの時までだった。以後数日間、その体色以外最初に出会った猫と体格も気配もまるで同じだという猫は、幾度も体色を入れ替えつつ、アーヴィンドの行く先々にどこまでもどこまでもどこまでもつきまとい続けたからだ。

「…………はぁ」
 アーヴィンドは最後の抵抗として、小さく息をついて魔法陣の中にちょこんと座るキジトラの靴下猫(足の先が靴下をはいているように別の体色になっている猫。今回の靴下の色は青灰色だった)に眉を寄せてみせた。長い尻尾を優雅に振りながらこちらを見上げる猫の表情には、当然ながら怖気も謝意もまるでうかがえない。
 こうすると決めたのは自分自身ではあるけれど、それでもやっぱり納得できないものはあるな、と嘆息しながら、儀式の準備が完了しているか最後の確認をしたのち、猫の前に立つ。この猫を使い魔とするための儀式は、あとは十二時間の呪文の詠唱を残すのみとなっていた。
 当然ながら、最初はこんなつもりはなかったのだ。使い魔という魔術を学ぶ者にとっての一大事をこんな突発的に現れた不審者のために費やすつもりがなかったのはヴィオたちに言った通りだし、相手がこちらとまともに話をするつもりがない以上(知性がある相手だとするなら、そうとしか考えようがない)、こちらが誠実に応対する必要もないと考えたのも事実であり、アーヴィンドにとって真っ当な理屈に則った真理でもあった。
 だが、この謎の猫は本当に本当に本当にしつこかった。体色を変えながら、幾度も幾度も、神殿やら賢者の学院やら『古代王国への扉』亭やらのアーヴィンドの行く先々の建物の敷地ぎりぎり外やら窓のすぐ外やらでいつの間にか座っていたりするし、街を歩く時にはどこに行く時も常に数歩背後からついてくる。
 あきらめさせるために早めに使い魔を召喚しようと賢者の学院の一室を借りて儀式の準備に入れば、賢者の学院の魔術的な警備体制を決死の勢いでくぐり抜けて(たやすい仕事ではなかったのは表れた猫のぼろぼろさ加減で否応なく知れた)アーヴィンドの前に突貫し、その上であくまで猫の姿で(現れるたびに体色を変えながら)猫の立場からにゃあにゃあと鳴いたり体に尻尾を絡めてきたりと自己主張してくる。
 それを何度も何度も朝から晩まで繰り返されて、アーヴィンドもいい加減折れたというか、あきらめざるを得なくなったのだ。これで他の猫を召喚したらその猫をいびり殺されそうな気がするし、そうでなくともアーヴィンドに対する感情が一気に負に転じて、猫の立場を捨てこちらを攻撃しにかかる可能性が高い。
 この猫を使い魔にするというのが正直気の進まないことおびただしい考えであるのは変わっていないが、ここまでしつこくつきまとうからには、向こうにはなんとしてもこちらに伝えたいことがあるのだろう。それを知るだけでも利はあるし、それにこの猫があまり頭がよくなさそうというか、行動から垣間見える知性がこちらに対する悪意を隠し通せるほど高くなさそうなので、ヴィオの『少なくともアーヴに悪いことをする気はなさそう』という意見を素直に受け容れられたことも大きい。
 なので最終的にはため息をつきながらもいろいろあきらめて、しつこくつきまとう謎の猫を使い魔にすることにしたわけだ。
「……マナの理よ、我が意に従え。世の理を、我が意をもって覆せ。万物はすべてマナより生じ、マナに還るものなればなり――=v
 十二時間の呪文詠唱、といっても十二時間ずっと休む間もなく呪文を唱え続けなければならない、というわけではない。そんなことをすれば普通喉が嗄れるだろうし、そもそも正確な発音と身振りが必要な古代語魔法の呪文を十二時間えんえん間違えずに唱え続けるというのは人間の能力では難しい。
 儀式魔術というのはほとんどの場合、魔法の杖のように、魔法の道具とまではいかないまでも魔術的な効果を付与された道具や魔法陣を使い、魔術の精度や効果に補正を行うことで、人の身ではどうしても出てきてしまう魔術を発動する際の歪みを矯正する、という面を持つ。使い魔を召喚する呪文もその例に漏れない。基本的に数分の呪文詠唱、それと並行して魔法の杖や道具を使いて簡単な動作、呪文詠唱ののち数分詠唱時より幾分複雑な動作、という流れを繰り返すのだが、普通の呪文ならば呪文が発動しないほど発音や動作が乱れても、呪文の効果は発揮されるようになっている。
 呪文を唱える際も呪文書で確認しながら詠唱できる儀式形式なので、初めて儀式魔術を執り行う、初心者からかろうじて抜け出せたかどうかという(自分のような)魔術師に優しい儀式なのだ。……それはそれとして十二時間常に集中しつつ呪文と動作を繰り返すというのは、やはりそれなりに過酷であるのも確かだが。
「我が意と魔力によりて、呪を結ばん。我が呼び声に応えよ、小さき獣よ。これより先、我が目、我が耳となりて、我が意に常に寄り添うべし――=v
 幾度も同じ文章を繰り返す呪文を、数えきれないほど重ね唱える。目の前に座る靴下猫は、当然のような顔でじっとこちらを見上げている。儀式の関係上できる限り真正面からその瞳を見つめながら、内心何度もため息をついた。
 ――十二時間後。儀式は完了した。呪文は正しく発動し、魔力が流れてマナの糸が自分とこの猫の間に繋がれたことが否応なく感じ取れる。
 ふ、と小さく安堵と諦念の籠った息をつき、猫に向けてそろそろと『意識の触手』を伸ばし、会話の意思を伝える。使い魔との対話の方法はバレン師にすでに習っている。心と心が繋がれているのだから、下手な交信を試みればこちらの心が使い魔に侵食される危険性もないわけではない。しかもこの相手は普通の猫ではなさそうだし、用心の上にも用心を重ねて対応するべきだ――
 というアーヴィンドの警戒心は、直後に目に映った光景に吹っ飛んだ。自分の使い魔となった猫がぴょーんとアーヴィンドの視線の高さまで飛び上がったかと思うと、くるりと宙返りして、自分にのしかかってきたのだ。
 ――自分とほとんど身長が変わらない、人間の少女の姿になって。
「!?!?!!!??!?」
「あっは! やっと繋がれたねっ、マスター!」
 満開の笑顔で自分に抱きつき、すりついてくる褐色の肌の少女。へそや太腿が見えるほど布地の少ない、急所をかろうじて隠している、という程度の役目しか果たしていない胸当てと短いスカートという、下着姿かと思うほど露出度の高い服装をして、年に似合わない豊かな胸が潰れそうなほど強い力で自分を抱き寄せる少女に、アーヴィンドは仰天し混乱しながら体をもぎ放そうとする。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ………な、な、な、なんなんですか、あなたはっ!」
「あん、マスターってば、つれないこと言わないでよぉ。わかってるんでしょ、ほんとは?」
 ふふっと笑ってアーヴィンドの唇をつん、とつついてくる少女に、アーヴィンドは思わずぱかっと口を開く。唇に触れる指の感触と同時に、指先に伝わってくる唇の感触。それよりも先にはっきりと、繋がる魔力の感覚で否応なしに理解できてしまう。この少女は、さっき自分が使い魔とした、ずっと自分につきまとい続けていた猫だ、と。
 あまりの異常な状況に口をぱくぱくと開閉させるアーヴィンドに、少女は甘えるような声を出しながら身をすり寄らせる。
「うふ……私ね、ずーっとずーっとこうしたかったんだぁ。マスターと初めて会った時から、ずっとこんな風に、マスターと繋がりたいって……」
「い、いや、いやいや、繋がるって……っていうかそもそもあなたが僕に会ったっていうのはいつの話ですか!?」
「んもう、わかってるくせに……五日前、街角で、したでしょ? 運命の出会い……」
「いやいやいや運命の出会いもなにも。というか……あなたが僕と最初に出会った時は、というかさっきまであなたは……猫でしたよね?」
「ふふっ。あなたが、使い魔にするなら猫、って言ったから」
「っ……もしかして、あなたは、俺とみんなの、その使い魔についての会話を、聞いていたんですか?」
「当たり前でしょ? 初めて会った時から、思っていたんだもの……あなたに、私のご主人さまになってほしい、って」
「ご……ってあの、いろいろ言いたいことはありますが、それより先に……まず」
 アーヴィンドは息を整えながら、できるだけ毅然と顔を上げ、少女に向けて問う。
「あなたは、何者なんですか?」
「ふふ」
 少女はくすくすと笑い声を立てながら、するりとアーヴィンドに体を密着させ、間近から瞳をのぞき込むようにして見上げながら告げる。
「私が誰か、なんてあなたはもうわかっているでしょう?」
「っ……」
「私とあなたはもう、心と心で繋がっている。主従関係は結ばれた。私はあなたのしもべで、あなたは私のご主人さま。かつて『未確定』だった私の姿を、あなたはこうして定めてくれた。かつてカストゥールの創生魔術の門主が身命を賭して創り上げた、究極の使い魔たるべく生み出された幻獣たる私をね」
「究極の、使い魔……」
「ええ。小動物とは比べ物にならない高い保有魔力。主の有する生物種としての活動能力が高ければ高いほど強化される身体能力。主の魔術師としての技量が高度になるごとに、主の望む能力を獲得していく適応能力。主が望むならばいかなる姿にも変わりうる変身能力……通常の使い魔ならば絶対に持ちえない力ばかり。そしてその力はすべてあなたのもの、あなたの――主の望むままに振るわれる」
「…………」
「あなたが望むならば、私はどんなことでもしてみせるわ。どんなことでも、どんな力でも、どんな姿でも、あなたの望むままに……」
 少女の指が踊るようにアーヴィンドの肌の上を這う。腕が獲物を締めつける蛇のごとくアーヴィンドの体に巻きついて、体温と肌触りを伝えてくる。顔の間近で漆黒の瞳と虹彩が星にも似た瞬きを閃かせる――
 ぞくぞくぅっと背筋に走った悪寒のままに、アーヴィンドは少女を押しのけ、きっと強い視線をぶつけた。アーヴィンドの心中はまだ混乱と困惑ではちきれそうになっていたが、それでも心でこの少女と自分が繋がっていることは否応なく感じ取れてしまっている。だからわかる。この少女の心は、誘惑者として形作られてしまっている。
 彼女を創ったという古代王国の魔術師の嗜好によるものか。究極の使い魔たるべく創られたという彼女は、主である魔術師の都合がいいように、魔術師の恣意のままに心も体も使われることをよしとするように、思考体系そのものが構築させられてしまっているのだ。だからこそこの少女は、自分の身体を『使って』もらうために、こんなはしたない少女の姿になって自分に抱きついてきたのだろう。
 冗談ではない、自分はそのような下劣な思考は持ち合わせていない。そんな低俗な行為に使い魔を使うような品性下劣な魔術師と一緒にされてたまるものか。そもそもこの少女――というかさっきまで猫の姿をしていた幻獣には、言いたいことがいろいろ残っているのだ。
「まず、お聞きしたいんですが! あなたは、なんで僕の使い魔になろうと思ったんですか。第一そう考えたなら使い魔にしてくれるよう面と向かって言葉で頼めばいいものを、何度も体色を変えた猫の姿でつきまとって無理やり使い魔に選ばせるなんて、あまりに非常識だと思うんですが」
 アーヴィンドにしてはかなり強い言葉でそう言ったのだが、少女はきょとん、と首を傾げてみせる。一瞬ヴィオの同じような仕草を思い出したものの、すぐに心の中の扉を閉め鍵をかけた部分――使い魔となっているこの少女にも見通せない場所で首を振った。ヴィオの仕草をこんな、心さえも造られた存在と一緒にしたくはない。
 造られたこと自体は彼女の責ではないし、そもそもそう感じ考えるように『造られ』ている相手の心にどうこう文句をつけるというのも酷だろうとは思うのだが、それでもアーヴィンドにとって、尊重するに足る真実とそうでないものとを一緒にすることはできないのだ。
「そんなの当たり前じゃない。あなたが、私の主にふさわしいからよ」
「……僕のどこが、主にふさわしいと? 僕の魔術師としての能力は、無能とまでは言いませんが特に秀でているというほどのものでもない。僕より優れた魔術師などいくらでもいるでしょう?」
「うふふ、わかってるくせに。言わせたいの? ――私が主に求めるのは、高い知性や魔力を有することはもちろんだけれど、それよりなによりも先に優先するのは、可能性。能力的な素質ということだけじゃなく、ね。活発で健常な肉体と精神の活動から呼び起こされる探求心と向上心。そして押し寄せる試練と運命の荒波を乗り越え、御する力。それは魔術師として、人として、どこまでも成長していく力となりうる。それを私はあなたの中に見つけたの。今の時代、どころかカストゥール王国華やかなりし頃でさえもまずいないだろうほどの力をね」
「あなたは、その……人の運命とか、それを乗り越える力を見抜ける、と?」
「顔貌を見れば、ある程度はわかるわ。あなたほど私の心を強くつかんだ人は、初めてだけれど。あなたを見た瞬間、この人だ、と思った。心臓が高鳴り体が震えたわ。体中があなたという存在を欲しがっていた。こんなことまで感じた相手は、あなただけ、なのよ?」
「…………」
 きらきら瞳をきらめかせて自分を見上げる少女に、アーヴィンドは内心思わず倒れ伏しかけた。またか、また呪いのせいか、と。
 つまり、アーヴィンドのかけられた呪いが、またもたまたま偶然道で行き会った相手を欲情させ、相手に自身の状況を自覚させないままに突っ走らせたのだろう。普通に考えて究極の使い魔たる幻獣を創造した際には、繁殖能力を優先して与えるようなことはしなかっただろうから(普通古代王国時代に創り出された幻獣には、『繁殖可能』という能力に一定の魔力的容量を割かなくては繁殖はできない。そして古代王国の魔術師は普通新種を創り出す時に、そんなわざわざ世界の摂理に歩み寄るような真似はしない)、彼女には『欲情』という感情は理解できない、初めて感じる精神状態だったはずだ。
 初めての感情と経験に暴走する精神が赴くままに行動し、こうして半ば無理やりに契りが結ばれてしまったわけだ。呪いから逃げるつもりも、被害者を放置するつもりもないとはいえ、またこの流れか、と思うと正直心身にずっしり疲労がのしかかる感があるのは否めない。
 いや、とにかく、今回の事態は自分にかけられた呪いのせいであるのは間違いない。望んだことではないのはもちろんだが、自分が理由であるのも確かだ。ならば自分自身で解決しなければ、と自身に言い聞かせ心を奮い立たせようとする――
 と、少女が小さく首を傾げて手を打ち思い出したように漏らした。
「あ、そういえば、急いで主を探してた理由っていうのも、なくはなかったかな」
「え?」
「あなたの前の主がしでかしたことから逃げるためにも、新しい主がほしいと思って必死に主にふさわしい相手を探していた、っていうのはあるにはあるの」
「……しでかしたこと……?」
 壮絶に悪い予感がすさまじい勢いで膨れ上がっていくのを感じながらおそるおそる問うと、少女はごくあっさりと、あっけらかんと答えを口にする。
「前の主は召喚魔術を研究していてね。カストゥールの文献から得た知識で、魔界に繋がる次元の扉を開こうとして、喚び出した魔神――上位魔神を制御できなくて殺されたの。あの上位魔神は魔神の中では魔術に長けた種だったから、完全に制御されてない状態で喚び出されたのをいいことに、魔界と物質界を繋ぐ扉を開けっぱなしにしちゃうかも、って思ったから」
「――――それを先に言ってくれ!!」
 一瞬呆然としてから絶叫し、アーヴィンドは少女の手を引き部屋の外へ駆け出した。儀式の間は師であるバレンの許可を得て申請してあったので、外陣に待機していたバレン導師に早口で事情を説明し、許可を得た上で退出する。
 魔術師ギルドが原因に関わっている事件なのは間違いないだろうし、自分も魔術師ギルドの構成員の一人としてそちらに協力するべきなのかもしれないという思考もちらりと頭をよぎったが、ほとんど一考すらすることなく少女の手を引きながら学院の外へと駆け抜ける。――自分にとって、事件を解決する時に一緒にいてほしい、いや一緒にいるのが当たり前な相手は、冒険者の宿で自分を待っている、あの仲間たち以外にはいないのだから。

「……なるほど、な。ま、状況はわかった」
 フェイクが肩をすくめ、やれやれといった顔で息をついてみせる。それにうなずきを返し、アーヴィンドは三人の仲間たちを見回して告げた。
「僕が彼女から聞き出した情報は、当然バレン師にも伝えてある。僕に預けてくれた使い魔を介してね。だから魔術師ギルドの方も、ことを収めるために動いてくれているだろうけれど……僕としては、できる限り事件解決に貢献したいと思ってるんだ。望むと望まざるとにかかわらず、彼女を使い魔としてしまった以上は。そうすればそれ相応の報酬は払ってもらえると、口頭ではあるけれど約束してもらったし」
「ま、バレンがその約束を破るとは考えづらいな」
「うん。それに、望むと望まざるとにかかわらず、彼女を使い魔としてしまった以上、彼女の行為の道義的責任の幾分かは僕が果たすことになると思うし……望むと望まざるとにかかわらず、彼女を使い魔としてしまった以上、僕の責任をできる限り追及して、僕や僕の実家からなんらかの譲歩を引き出そうとする人間も必ず出てくると思うから」
「そりゃま、出てこない方がおかしいだろうな」
「そうなんだ。だから望むと望まざるとにかかわらず、彼女を使い魔としてしまった以上、俗な言い方になってしまうけれど、できる限り点数稼ぎをしておきたいと思うから、どうかみんな、力を貸して……」
「あのさー。アーヴ」
「なんだい、ヴィオ」
「あのさー、なんでアーヴさっきから、何度も何度も『望むと望まざるとにかかわらず、彼女を使い魔としてしまった以上』って繰り返してんの?」
「…………」
 アーヴィンドは深々と息をつき、ちらり、と究極の使い魔たるべく創られた幻獣である少女に視線を向けた。少女はそれこそ正気を疑うような素肌を露出させた格好のまま、蕩けそうな顔でこちらを見ている。
 どうやらこの少女にしてみれば、アーヴィンドが『自分のことを話している』『自分に注意を向けている』というだけで天にも昇るほどの喜びを覚えるらしく、前の主とやらの起こした事件の事情を聞き出している間も似たような顔をしながら自分にべたべたとまとわりついてきた(急いで冒険者の宿に向かいながらのことだったので、正直視線が気になって仕方がなかった。こんな下着姿同様の格好で街を歩く少女を侍らせて悦に入るような人間と同じ感性をしていると考えられるのはさすがに辛い)。繋がっている心からも、そういった感情が怒濤のように投げかけられてくる。
 アーヴィンドは再度深々と息をつき、投げかけられる感情をきっちり遮断しながらヴィオの方を向いて正直に告げた。
「……感情を抑えられなくて。ごめん、今後は言わないようにするよ。この一件が済んだらきちんと懺悔をしておかなくちゃね」
「ううん、そんなのは別にいいんだけど」
 そう言ってきょとん、と首を傾げるヴィオの顔が見ていられないほど眩しく感じられて、アーヴィンドはできるだけ自然に視線を逸らし、寝台(冒険者の宿の自分たちの部屋で話しているので、全員が見やすいように物を置ける場所がそこしかなかったのだ)に広げたオランの街の地図を示した。そこにはいくつもの場所に点が記され、逆五芒星の形に線が引かれている。
「確認するよ。件の魔術師は、オランの街のこれらの場所――人の目の届かない、廃墟か下水道に作った祭壇で生贄を捧げ、儀式を行った。生贄そのものは動物だったらしい。この事件がまるで噂にならなかったのはそのせいもあるかもしれないね」
 アーヴィンドの価値観においては、人が生贄とされるよりもその方がマシではないか、と主張する部分もそれなりにあるのだが、今はそれを言い連ねる時ではない。
「そしてこの五芒星の中心点で、上位魔神の召喚を行った。古い文献による、時代遅れと言えば時代遅れな儀式ではあったけれど、魔神を召喚すること自体はできたそうだ」
「? まじんのしょーかんって、生贄捧げたり、星型作ったりしないといけないもんなの? それが時代遅れ? ってどーいうこと?」
「うーん……僕は、魔術師としてはまだまだ未熟だからはっきりとしたことは言えないんだけれど……魔神の召喚にはいくつか方法があるんだ。ひとつは、暗黒神に奇跡を請願することで呼び出してもらうもの。魔神は暗黒神ファラリスが神話の時代に創り上げた物質界とは異なる世界の住人だからね。ただ、この方法はあくまで暗黒神の神威に頼っているわけだから、魔神を制御できるわけじゃない。魔神を自在に召喚し、自由に操るためには、古代王国時代の魔術の叡智に頼る必要があるんだ」
「ふんふん」
「ただ、基本的に魔神召喚の技術は禁忌だからね。試みただけでも破門されて、制約≠フ呪文で魔術の行使を封じられ放逐されるのが普通だ。だから、よほど召喚魔術に通じた高い知識と技術の持ち主でもない限り、現代の人間にできるのは古代王国の遺跡に残された機構を利用することくらいだ。簡単に魔神を召喚できる魔法の道具――悪魔召喚の壺のようなものもあるけれど、その類の代物は運が悪ければ自分が魔界に引きずり込まれる危険性を含んでいるのが普通でね。簡単に効果が得られるものでも、気軽に手を出していい代物じゃないんだ。暗黒神ファラリスの眷属を召喚するんだから、当然と言えば当然だけれどね」
「ふーん」
「それで、今回の事件を起こした人間についてだけれど。どうやら彼は、それらの方法をいくつも取り混ぜて高い効果を得ようとしていたらしい。生贄を捧げるという暗黒神の儀式、逆五芒星という古めかしい――かつての人間が古代王国の技術を再現しようとして創り上げた、ただしそれなりには効果のある技法。それに加え使い捨てで弱い魔神を召喚できるという魔法の道具を使い、彼女から得た古代王国時代の知識でそれらをまとめ上げた。実際、どれもそれなりには効果のある方法なのは間違いないからね、見事に上位魔神を召喚することができたわけだ」
「で、そいつにあっさり殺された、ってわけだな。ま、いくつもの方法を取り混ぜるっつー独自性の高い手法を使うってこたー、本人の知識と技術が頼りになるってことだ。召喚はできても制御できなくなるのは当然だわな」
「そう。つまり、制御されていない上位魔神が今現在、オランの街に解き放たれているということになる。召喚した魔術師の使った技法はどれも『召喚する』ことに重きを置くものだったから、召喚魔術による意識の触手の楔が今もまだ上位魔神を縛っている可能性はやや考えにくい」
「ただ、完全に開放されちまったにしては、その上位魔神の召喚からもう数日が経過してるのに、まるで被害らしい被害が報告されてない、っつーのがちと妙だ。なにせ召喚されたのはケプクーヌ、やろうと思えばオランを焦土にすることだって不可能じゃない相手なんだからな」
「そのけぷ? くーぬって、どんくらい強いの?」
 やはりさっきざっと説明しただけでは伝わらなかったらしい、とアーヴィンドは嘆息し、詳しい説明をしてやる。
「ケプクーヌ。上位魔神の中でも最高位の魔法能力を持つ、山羊の頭を持った魔神だよ。高導師級の古代語魔法と、高司祭級の暗黒魔法を使う実力を持ち、二又鉾と角による近接戦闘能力も高い。ただ、僕が文献で読んだ情報が確かならば、魔神の中では慎重な性格で、自分が負ける可能性のある戦いはできる限り避ける、そうなんだけれど……」
「『勝てる』と確信したなら容赦なく残忍な攻撃を仕掛けてくる、ともあったな、文献には。少なくとも、普通の腕利き程度の奴らじゃいくらいたってにぎやかしにもならねぇ。やろうと思えばいくらでも屍山血河を築ける、俺たちくらいでなけりゃ手に負えねぇ相手なのさ」
「そうなんだー……あ、でも俺たちなら勝てるは勝てる相手なんだね」
「一歩間違えれば全滅する相手じゃあるがな。少なくとも、うまく戦いを進められたならなんとかなる相手じゃある」
 そうなんだよな、とアーヴィンドは内心眉をひそめる。自分たちの戦力を客観的な視線で読み取り、文献から得られたケプクーヌの強さと比較検討してみた限りでは、フェイクの言葉は正しいのだ。フェイクやルクのみならず、自分とヴィオの戦力がなければ厳しい、というくらいには自分たちの戦力も必要となる。
 まだまだ未熟者である自分が上位魔神と渡り合えるほどの実力を有しているとは正直思えないのだが、冷静に自分たちの実力を観察するとそういう結論が出てしまう。呪いのせいというかおかげというかではあるのだが、違和感を覚えざるをえない。
 だが、今はその力が必要とされているのだ。ぐだぐだ講釈を述べている暇はない、全力を振り絞って自分の力を使いこなさなくてはならないのだ。そう気合を入れ、ヴィオに向き直る。
「ただね、その魔神が今どこにいるのかはまだわかっていないんだ。僕が状況を報告して、バレン師がすぐに私物の特定座標の魔術的探査が行える魔法の道具を使って魔神が召喚された位置を探査したそうなんだけれど、そこには魔神はおろか、魔力の痕跡らしきものすらまるで残されていなかったそうだから。その魔法の道具の精度は魔術師としての力量に比例するそうだから、バレン師の実力からすれば、いかに上位魔神有数とはいえ、ケプクーヌ程度の魔力で探査から隠れおおせるとは思えない。つまり、ケプクーヌは今、召喚された場所から逃れ出て別の場所に潜んでいるはずなんだよ」
「だが、それがどこなのかはまるで見当がつかない。賢者の学院が本気を出せば、強力な遠見の水晶球なりマナ・ライ大師にご出馬願うなり、やりようはいくらでもあるだろうが……」
「そういった奥の手を使うには、高導師と大賢者全員、とは言わないまでも少なくとも過半数の同意が必要になる。賢者の学院の秘した力を使うことになるわけだからね。この件はそれを押してでも解決すべき大事件ではあるんだけど、政治力学的にどうしてもこの状況を利用して権益を強めようとする事態の深刻さをわきまえていない人は出てくるだろうし、そうなるとどうしたって時間がかかる。だから現在バレン師は会議を招集しつつ、前線指揮を執って奮闘してらっしゃる――わけだけど、戦力としてこういう時一番頼りになるのは、気軽に動けて状況対応能力が高い、冒険者に類する人々だからね」
「つまり、俺らがなんとかするのが一番早くて無駄がないわけだ。――で、改めて、こうして話をしてる理由に戻るわけだが」
 フェイクはヴィオとルク、それからアーヴィンドを嬉し気にじっと見つめる少女にも目をやり、告げた。
「お前ら、ケプクーヌが潜みそうな場所に心当たりとかあるか?」
 ヴィオはいつものように、きょとんとした顔で首を傾げる。
「え? なんで俺に心当たりあるって思ったの?」
「……思ったわけじゃねぇが、万にひとつの天啓を得て良案を思いつく可能性に賭けてみただけだ。俺たちも今のところケプクーヌがどこに潜んでいるか、まるでわかんねぇんだからな」
 ルクは表情を小揺るぎさえさせずじっとアーヴィンドの方を見つめてくるのみで、口を開く様子すらない。まぁヴィオやルクがなにか思いつくことを期待してたわけじゃないけど、と小さく嘆息して、アーヴィンドは少女――自分の使い魔ということになっている幻獣の方に向き直った。
「――改めて訊ねたい。君は、ケプクーヌの現在の居場所について、なにか思い当たるところはないのかな」
 少女は顔を赤らめ、きゅっと自身の胸を抱きつくように締めつけてみせた。はにかむように視線を逸らし、ふるふると小さく首を振って、情感たっぷりに告げてくる。
「改めて、だなんて……わかってるでしょ? 私はあなたのしもべ。どんな命令でも身命を賭して果たす、あなたの奴隷なの。私に求めることがあるなら、どんなことでもただ命じてくれればいいのよ? そう、どんなことでも……」
「………ささいなことでもかまわないんだ。少しでも情報があるなら教えてほしい。どうかお願いできないだろうか。魔界と物質界を繋ぐ扉が造られるなんて事態になったら、アレクラスト大陸そのものが危機に陥りかねない。それは君の生命の危険にも繋がる。そんな事態を望んでいるわけじゃないだろう?」
「ふふ……マスター。言ったはずよ? 私はあなたのしもべで、あなたは私のご主人さま。私に望むことがあるならば、主の権威でもって命じてくれればいいの。あなたのただ一体の使い魔である、この私にね……」
 あふぅ、と切なげな吐息を漏らしながら、少女はそう艶然と微笑んでみせる。それは確かにたいていの男の性を持つ者を蕩かすに足るものだったろうが、アーヴィンドはその誘惑に屈するつもりはなかった。
 というか、アーヴィンドは、その身にかけられた呪いのために、性的な誘惑やそそのかしの類には嫌気がさすほど耐性がついているのだ。街を歩くたびに道行く人の一人か二人くらいには襲いかかられるのが普通だったし、そこまででなくともどうしても人目を引きつけ、誘いをかけられることもしばしばだった。その上、ここ『古代王国への扉』亭は盛り場に近く、外出するたびに女性に手を変え品を変え誘惑されるのが日常だったのだ。
 なので、アーヴィンドは微塵も心を揺るがすことなく、きっぱり自身の発言を繰り返した。
「少しでも情報があるなら教えてほしい。どうかお願いできないだろうか」
「んもう……マスター? 何度も言ってるでしょ? 私はあなたのしもべで、あなたは私のご主人さまだって。そんな風に他人行儀な言い方じゃなくて、もっと私を、求めて、ほ、し、い、の」
 艶めいたウインクをしてくる少女に、表情を変えはしなかったものの内心少し苛立つ。今はまだそんな場合ではないので追及はしないが、自分が無駄なこだわりでアーヴィンドとの接触に時間をかけたせいで事態が悪化したことを、この少女は理解しているのだろうか。ことが済んだらきちんと説諭してやらねば、とアーヴィンドは心に決めているのだが。
 その状況でこちらを誘惑されても、嬉しさよりも苛立ちしか感じない(というかそもそもアーヴィンドは物心ついた頃から女性に対しては慎重にふるまうことを義務付けられていた立場なので、性的な誘惑など基本的には警戒心しか呼び起こさない代物ではあるのだが)。彼女との会話から垣間見える魔術師偏重の価値観からして、魔術の素質を持たない者が大半を占める新王国の民人など尊重する必要を認めていないのかもしれないが、それでも自身の生命の危機にこの態度は――
 などと考えていると、フェイクがふいにやれやれ、と肩をすくめてみせながらあっさり言った。
「つまり、お前も魔神がどこに潜伏してるのかはわからねぇんだな?」
「っ!」
「………えー………」
 図星だったようで、顔を真っ赤にしてフェイクを睨む少女に、それならそうと早く言えばいいのに、とアーヴィンドは呆れかえった。心底呆れかえったせいで心中に防壁を作って遮断していた感情がうっかり漏れ伝わってしまったらしく、少女は真っ赤な顔で必死に自己の正当性を主張する。
「だっだって、仕方ないじゃない!? あの魔神を召喚したのは私じゃなくて前の主だし! 私も持っている知識で助言はしたけど、私の持ってる召喚術の知識って基本的には主から漏れ聞いたものばっかりだし! それでもカストゥール王国が存続してた頃は、たいてい召喚魔術の家門の人間が主だったこともあって、それなりに見知ったことも多かったけど……でもそーいうこと全部を六百年以上もいちいち細かく覚えてられないでしょ!? いくら私が知的能力の高い幻獣として創られていたからって、記憶能力には限度ってものがあるわ! 違う!?」
「いや、別に責めているわけじゃないから……主の召喚した魔神の行動を読み切れって使い魔に言う方がそもそも無茶だろうし。単に、それならそうでとっとと言ってくれればいいのに、見栄を張って無駄な時間を使わせるとか、状況が読めていないんだな、と思っただけで」
「……っっっっっ! もーっ!」
 少女は真っ赤な顔のまま涙ぐみ、ぽかぽかとアーヴィンドを拳で叩く。さほど力を入れているわけではないのでさして痛くはないが、殴る拳の痛みや荒れ狂う羞恥の感情もこちらに同時に伝わってくるので、正直なんというか、鬱陶しい……というか、面倒くさい……というか、とにかく精神的に消耗する。
「となると、僕たち自身でなんとか居場所を特定するしかないわけか……確認するけど、フェイク。盗賊ギルドの方には、この数日間で行方不明者が何人も出たとか、惨殺死体が出たとか、そういう情報は出回っていないんだね?」
「ああ、その手の話はまるでない。俺は盗賊ギルド内にも外部にもそれなりの情報の手づるを持ってるが、それに連なる奴ならどいつも俺がどういう情報に敏感かは熟知してるはずだ。そういうとんでもない面倒ごとに発展しそうな情報に対する俺の警戒度は五指に入る、それなのにどの手づるにもそういう情報がまるで引っかからないとなれば、実際にそんなことがまるで起きていない、という見込みが高い。もちろん周到に偽装して情報を封鎖してる可能性もあるけどな」
「うん……でも、長く人間社会で使役されているわけでもない魔神が、そこまで人間社会に通暁しているかな? それよりは目的達成のために、できる限り情報収集をしている、という方が考えやすいと思うんだけれど。文献に記されたケプクーヌの種族的性質にも合致しているし」
「ふむ……となると、お前さんはケプクーヌが、本当に魔界と物質界を繋ぐ扉を築こうとしている、と考えてるわけだな?」
「そう考えて動いた方がいい、と思ってる。魔神の本性である破壊と殺戮を、これ以上ないほど満たせる選択肢だし……実際に目的を達成されてしまった時の被害の大きさから考えると、なにをおいても防がなくてはならない事態だし。ケプクーヌの高い古代語魔法と暗黒魔法の能力からして、技術的にも不可能というわけじゃないからね。魔神の古代語魔法の技術はカストゥール王国の時代から劣化していない、というのは定説だし」
「技術っつぅか、魔神にとっちゃ魔法は生理の一種じゃねぇかっつぅ説を俺は推すけどな。ま、とにかく、俺としてもそれを前提にして動くことに異論はない」
「うん。となると、まず考えるべきはケプクーヌがどういった手段で扉を築こうとしているかになるわけだけど――」
 ぎゅにっ。
 ふいに服の上から褐色の指で腕をつねられて、アーヴィンドは顔をしかめて振り向いた。
「なに?」
「ぅーっ……なんでそういう言い方するの? あなたは私のご主人さまなのにぃっ」
「そもそもが押しかけたような形で主従関係を結ばされた相手を、従者として尊重し可愛がるという人の方が少数派だと思うけど。第一君、僕のことを主だなんだと言っておきながら、注文つけるばっかりで意志を忖度して行動しようという素振りがまったく見えないよね。それで良好な主従関係を結ぼうというのは、さすがに思い上がりがすぎないかな」
「む、むーっ! むーっ! そーいう……そーいうこと言ってるんじゃなくてぇっ!」
 半泣き顔でぎゅぅぎゅう腕をつねってくる少女の姿を持つ幻獣の指を、アーヴィンドはぺしっと軽く叩いて追い払う。
「あーっ! あーっ! 叩いたー! 私のことっ、叩いたー!」
「先につねってきたのは君だ。暴力に暴力を返すことが必ずしも最善であるとは言わないけど、無抵抗であることが最善だとも僕はもっと思わない」
「そーじゃないでしょ! そーいうことじゃないでしょ! 私っていうカストゥールでも最高峰の技術で創られた、最優最良最高の幻獣が使い魔になったんだから、もっとこう、喜んで私のこと可愛がるべきじゃない普通!?」
「どこの普通だ。君の頭の中の思い込みが誰にでも通用するとは思わないでくれるかな。そもそも、カストゥールでも最高峰の技術で創られたと君は言うけど、君がそこまで大した使い魔だとは僕には正直思えないよ」
 がーん、がーん、と脳内に割れ鐘の音がこだましているかのごとく衝撃を受けた顔でよろめいてから、少女は顔を真っ赤にして怒鳴ってくる。
「ど……ど、ど、どこがよっ! 私は他の使い魔になるような小動物とは、知性も保有魔力も桁外れのっ……」
「まず、その知性が問題だ。使い魔というのは、ある意味魔術師の分身ではあるけれど、まず大前提として魔術師の意思に従って使役される者を指す。自身で判断し行動する使い魔というのは、はっきり言って扱いに困る」
「むぬぬっ……で、でもそれは!」
「第二に、君の保有する魔力、そして生命力の問題。使い魔に対し打撃を与えた場合、精神的な場合でも生命的な場合でも使い魔の主にも等しい打撃が与えられるけれど、使い魔を捕らえて傷を与えては癒して、というような真似でもしない限り与えられる損害の上限は使い魔の有する生命力と魔力に等しくなる。つまり、君のような小動物の使い魔とは比べ物にならないほどの能力を有する存在ならば、それだけ与えられる損害の上限も高くなる。攻撃魔法に一緒に巻き込まれでもしようものなら、高確率で生命が危ういほどだ。大型の使い魔の利点と欠点についてはとうに研究されていて、特殊な用途に使うのでなければ小型の方が望ましい、とおおむね結論付けられている」
「だ、だ、だけどっ! 私はあなたが成長するたびに特殊能力を会得する、唯一無二の……」
「特殊能力、ね。あるならあるに越したことはないだろうけど、それひとつで問題点をすべて帳消しにできるとは思えないな。第一、それは魔術師としての力量が成長するごとに、なんだろう? 僕の本業は神官で、魔術師としての修練は後回しにしている身だ。はっきり言うけれど、使い魔を召喚できるようになった以上、魔術師としての修行はいったんここで止めて、他の技能を伸ばすことに精力を傾注したいと思ってる。その状況下で特殊能力うんぬんを売りにされたところで、一般的な使い魔から優越していることの証明になんてなりようがないだろう?」
「う、ぅう……!」
 今にも涙がこぼれそうな半泣き顔になってこちらを睨みつける少女に、アーヴィンドは最後のとどめを刺した。
「なにより。僕は無意味で自分勝手なこだわりのために、周囲に被害の出る魔神を放置するような存在を、優秀≠ニは思わない。そんな輩を優遇しろと言われても、なにを勘違いしているんだとしか思わないな」
「っ………! うっ……ぅっ、うっ……」
 ぼろぼろっ、と涙腺を決壊させて、少女は「うわーんっ!!」と泣きながら部屋の外へと飛び出す。それをやれやれ、と呆れの感情たっぷりに見送ってから仲間たちに向き直ると、仲間たちが揃って自分をじっと見ているのに気づき、ちょっと驚いて目を瞬かせた。
「ど、どうかした? みんな」
「んーっと、どうかした? っていうかさー」
「お前さんにしちゃ珍しいな、って思ったのさ。お前さん、基本的にはどんな阿呆に対しても礼儀正しい態度を崩さねぇからな。礼儀を守りながら怒ったり軽蔑したりはするが。それがあいつに対しては、やけにぞんざいっつぅか、まるで遠慮がねぇ。お前が初対面の奴相手にそんな態度を取るのは、ぶっちゃけ俺の知る限り初めてだ。だから驚いたのさ」
「え……そう?」
「ああ」
「……なんにせよ、今は彼女にかまっている暇はないよね。彼女の引き起こす面倒ごとについては後で考えることにして、まずは魔神をどうにかする方法を考えよう」
「うん? うん……」
「……ま、いいけどな。確かにそっちの方が喫緊だ」
 仲間たちが同意してくれるのにうなずきを返し、アーヴィンドはオランの街の地図に視線を落とした。仲間たちがどうしてそんなことを言うのかはよくわからないが、とにかく今はあの少女のことなどより先にケプクーヌへの対処する方が(比べ物にならないほど)先決だ。
「まず、いそうにない場所から潰していこう。スラムや、繁華街近辺は比較的可能性が低いね」
「え、なんで?」
「人の出入りが激しすぎるからだよ。ケプクーヌは変身≠フ呪文が使えるけれど、ドッペルゲンガーのように化けた人間に成り代われるわけじゃない。記憶は模倣できないんだ。だから人間の間に隠れ潜むというのは難しい。それにそういった場所は盗賊ギルドの影響力が強いから、フェイクの情報網にまるで引っかからないというのは考えにくい。可能性が皆無とまでは言わないけどね」
「なるほどー」
「次に魔術師ギルド近辺かな。このケプクーヌにどれだけ現代社会の知識があるかはわからないけれど、危険を避けたがる性質からして周囲の状況をできる限り探ることくらいはするだろうし、それなら魔法の道具が山ほど集められている魔術師ギルドは一番の警戒拠点だと思うんだ。同じ理由で王城もやや考えにくい……ただ、ここは向こうからすれば、うまく状況を誘導できれば被害を桁外れに大きくできる場所だし、狙わないとは言い切れないかな」
「正論だが、この数日間で向こうが『準備』を終えられるくらいに態勢を整えていたら、そういう場所に潜む可能性はありうるぜ。鉄板は廃墟や下水道に潜むか、貴族の屋敷をひとつ乗っ取るか、ってとこだが……向こうは逃げようと思えば簡単に逃げ出せるんだ、瞬間移動≠フ呪文があるからな。だからとにかく大量の人間を巻き添えにして被害を大きくしよう、って考えれば人の多い場所の方をよしとするだろうし、繁華街やらスラムやらでことを起こす可能性もそれなりにある。大量の人間の命と魂を暗黒神の生贄に捧げれば、簡易的な次元の扉を開くくらいは可能なんだからな」
「っ、そうか……ケプクーヌは高位の暗黒魔法も使えるんだから、当然その可能性はあるね……」
「まぁ、この状況じゃ最終的に足で探すことになっちまうだろうが、少しでも状況を絞り込まねぇと無駄が多すぎる……とはいえ、雲をつかむような話ではあるからな……あ」
『あ?』
 目を瞬かせて思わずといったように声を漏らしたフェイクに、アーヴィンドとヴィオは声を揃えて聞き返す。するとフェイクはがりがり頭を掻いてから、ちっと舌打ちしてアーヴィンドに向き直った。
「……これを最初に思いつかねぇとは、俺も焼きが回ったか。おい、アーヴィンド。お前の使い魔呼び戻せ」
「え? ……いや、それはかまわないけれど、なぜ? 彼女が役に立つとは」
「あいつの記憶を借りる。高い知能を持つ使い魔の記憶と、魔術師の記憶がどれだけ一体化できるのかは知らねぇが、試す価値はあんだろ。位置捜索≠ナ、ケプクーヌを召喚した奴の使ってた魔法の道具や儀式の祭具を探すんだよ」
「えっ……そ、それは確かに試す価値は大いにあると思うけれど、わかってるよね? 位置捜索≠ヘ……」
「まだお前には使えない呪文だ、ってんだろ? 言っとくが、俺がこの年までどれだけ冒険してきたと思ってんだ。魔法の道具はそれこそ売るほど持ってんだよ」
 言いながらフェイクは懐から袋――無限のバッグを取り出し、その中から一本の木製の杖を引き出す。そこに施された彫刻を見て取り、アーヴィンドははっとして叫んだ。
「これは……遅発の杖!?」
「そーいうこった」
「ちはつのつえ?」
 きょとんと首を傾げるヴィオに、アーヴィンドはうろたえつつも説明する。
「唱えた古代語魔法を封入して、誰にでも使えるようにできる杖だよ。魔力の消費自体は唱えた本人が行うけれど、発動する呪文の術者≠杖の使用者にできる……この場合なら、僕はまだ位置捜索≠使えないけれど、フェイクの唱えた呪文を使って僕の特定できる物品の位置を捜索できるようになるんだ。あまり魔力消費の大きい呪文は封入できないという欠点はあるけれど、フェイクの腕ならまったく問題はない」
「へー! すっごーい! あ、そっか、あの使い魔だったら魔神召喚した奴の使ってたものとか特定できるだろうから!」
「……うまく記憶が通じ合えば、位置を探り当てられる、かもしれないね……」
 アーヴィンドは唇を噛む。本当に、我ながらなにを考えていたのかと思うほどの失態だ。遅発の杖のことは知っていたしフェイクがそれを持っている可能性も大いにありうるのに、この暗中模索としか言いようのない状況で切り札となりうる一手を失念していたとは。
 だが今はそんなことを言っている場合ではない。さっさとあの少女を呼び戻さなければ。今すぐに。
 そう自分に言い聞かせる数瞬の間に、アーヴィンドの内心の一部が、『嫌だなぁ、あの子と話すの鬱陶しい。またどうせ面倒くさいこと言ってくるに決まってるし……』と呻くのを感じたが、当然そんなささいな感情の揺らぎなど無視して、心の壁の扉を開き、少女との精神の繋がりをほぼ全開放して思いきり叫ぶ。今は下手をすればアレクラスト大陸に災禍を呼び込むことになるかどうかの瀬戸際なのだ。
『――今すぐ戻って来てくれ! 話がある!』
『――――!』
 その瞬間繋がった心からアーヴィンドに流れ込んでくるのは、圧倒的な歓喜の感情。呼ばれたこと、求められたこと、自分を主が欲してくれていることが嬉しくてたまらないという、身を浸すほどの喜悦。
 だが、その感情が伝わっているのは向こうもわかっているはずなのに、言葉としてこちらに投げ返されたものは、呆れるほどに取り澄ました口気の羅列だった。
『えぇ〜? どうしようかな〜? だってあなた、さっき私のちょっとした自己主張をくそみそにけなしたしぃ〜? 私の使い魔としての能力まで否定して、部屋から追い出すしぃ〜? そこまでした相手に、突然そういうこと言われてもねぇ〜? もう少しいい方ってもんがあるんじゃない〜?』
『……あのね。そういうことを言っている状況じゃない、っていうことはわかってるんだろう?』
 やっぱり面倒くさいこと言い始めた、と安直なまでの予想通りさに内心また苛立ちが募るのを感じつつ、極力平静に言い返す。だが相手はあくまで嵩にかかった態度を崩さない。
『私が必要だっていうんなら、主として私が喜んで指示に従いたくなるような言葉をかけてくれないとね〜。だって私あんなにいろいろ言われたし〜? 他の使い魔とは比べ物にならない、最高の使い魔たるべく創られた私に、ねぇ? やっぱり私って正しい評価をしてくれる主にこそふさわしい存在でしょ〜? だから、ほら、ねぇ〜』
 びしっ、と額に青筋が立つ。苛立ちと鬱陶しさが耐えられる限界を突破し、感情が溢れ出て口が自然に動く。声に出していると意識すらしないまま、アーヴィンドは怒鳴っていた。
「いいからとっとと帰ってこい! 無駄口を叩く前に仕事をこなせ! あと一分で戻ってこなかったら用事を済ませた後もう一度部屋から叩き出すからな!」
『…………』
『なっ……ひっ……ひどいぃぃっ! そーいう言い方っ……ひどすぎでしょぉっ!? 私がせっかく……』
「……五十。四十九。四十八。四十七」
『ちょっ……ちょちょっ……まさかそれ数え終えたら一分経ったってことにっ……』
「四十三。四十二。四十一」
『わかったわよぉっ今すぐ戻るわよぉっ! マスターの鬼っ! 残虐非道マスター! せっかく私が主に選んであげたのにぃっ!』
「三十五三十四三十三三十二」
『待って待ってお願い待って今すぐ戻るからぁっ!』
 は、とため息をついて肩をすくめる。と、仲間たちがまたもの言いたげな視線を投げかけているのに気づき、訝しく思って眉をひそめた。
「どうかした?」
「いや……どうか、ってなぁ……」
「アーヴ、やっぱり普段と違うなー、って思って」
「え……そう?」
「うん」
「……まぁなんにせよ、とりあえず場所の目星がつけられそうでよかったよ。彼女の心から伝わってくる印象を軽く読み解いてみた限りでは、記憶はかなりはっきり伝えられるようだから、物品の特定も難しくなさそうだ。もちろん魔神の居場所を突き止められると決まったわけじゃないけれど」
「つぅか……お前、使い魔なんだからあの幻獣のだいたいの位置も特定できるよな? ちゃんと一分で戻ってこれる場所にいたんだろうな?」
「? うん、全力で走れば一分で戻ってこれる場所をうろうろしていたよ? 未練がましく。ちゃんとそれを確認して一分と時間を決めたわけだし。当たり前じゃない」
『………………』
「やっぱお前……なぁ」
「アーヴ、やっぱり普段と違うよなー」
「? そう?」
『うん』

「……対抗感知≠かけられていなくて本当によかった。一度で居場所を特定できたなんて、幸運だったね」
「ま、なんの手掛かりもなかった以上、やってみる以外に選択肢なかったからな。向こうはたぶん、自分を召喚した魔術師の使い魔が知性ある幻獣だとはさすがに思わなかったんだろ。俺だってそんな使い魔の話は見たことも聞いたこともなかったんだ、古代王国の頃から物質界に召喚されてるって奴でもなけりゃ、魔神で人間の創造物にそこまで詳しいって奴は普通いねぇだろ」
「ふふん、私がどれだけ優秀で有能で貴重な使い魔だか、わかってもらえた? マスター」
「声が大きい。いくら相当な距離を取って斥候が帰ってくるのを待っているっていったって、気づかれないように気をつけないでいいってことじゃないんだぞ。そのくらい高い知性を有していると自称するなら理解してくれ」
「………! む、む、むーっ………!」
「騒ぐなと言ってるだろうに。人の話を聞くという能力が君にはないのか」
 喚き出しかけた幻獣の少女の口を押さえながらアーヴィンドがため息をつくと、下水道の奥へと斥候に出ていたルクが戻ってきた。ヴィオに魔晶石を使って沈黙≠かけられているので(その状態で斥候に出すなら自分よりルクの方が適任だ、とフェイクが判断したのだ)、まるで音を立てないまま素早くアーヴィンドの前に駆け戻ってきて、いつもの無表情のまま顔を見上げてくる。
「お疲れさま、ルク。どうだった? 君の身に危険は?」
 ルクはじっとこちらの顔を見上げたのち、小さくうなずいてから首を振る。一応確認のために仲間と視線を合わせたのち、視線を合わせて言葉をかけた。
「魔神はいた。君の身に危険はない。向こうに気づかれてもいない。道中に罠や障害はない。……そういうことで、いい?」
 こっくり大きくうなずくルクに、安堵の笑みを交わしてから、アーヴィンドはルクに感謝の意を伝える。
「ありがとう。お疲れさま、すごく助かったよ」
 微笑みながらそう言うと、ルクは無言のまますっと自分から視線を逸らし、くるりと背を向け魔神のいる方向に向き直った。自身の仕事に礼を述べるのは盗賊の矜持を傷つけてしまうことだっただろうか、と思わず気遣わしげな視線を送ってしまうと、腕の中の少女はますます暴れて叫ぼうとするのみならず、繋がった心から全力で、声に出したなら耳が痺れてしまっただろう程の力で怒鳴ってくる。
『ずるいー! ずるいずるいー! マスター、そのグラスランナーを褒めるんだったら先に私を褒めるべきじゃないのぉっ!?』
『グラスランナーじゃない、ルクだ。知性が高いと称するなら、他者への礼儀くらいわきまえろ。会話の中で何度も名前が出ているんだから、名を覚えるくらいできるだろう、人間程度の知性があるのなら』
『高いと称してるんじゃなくてほんっとに高いもん! こういう喋り方をしてるのはカストゥールの滅亡から長い時間が過ぎちゃったから、その間主となる人間にはこういう喋り方の方が喜ばれたから要望に応えてただけのことでぇっ……!』
『言葉の中から意思を汲み取る、という能力が低いのは今の答えで証明されたと思うけどね。とにかくもうすぐ襲撃なんだから、口を閉じて騒がずできるだけ動かずここで待っていてくれよ』
 そう想いを伝えるや、少女はぴくんと身を震わせた。ちろりとこちらを見上げて、おずおずというかためらいがちにというか適当な言葉を探しているような風情で問うてくる。
『……本当に、私が行かなくて大丈夫なの?』
『言っただろう。向こうは高位の古代語魔法使いだ。広範囲に攻撃する呪文をかけてくる可能性はそれなりに高い。君と僕が同時に呪文に巻き込まれたら僕の受ける傷は二倍になるし、一撃で死ぬか気絶するという可能性もそれなりにあるんだ。全員の回復役を任された身としては、そんな危険性を無視するわけには絶対にいかない』
『うぅ……それは、そうだけどぉ……』
『もう一度言うよ。君はこの場所で待機。万一ケプクーヌの下僕か、そうでなくとも敵に類する相手が出てきたなら全力で逃走する。君が本気で逃げたのなら、追いつける相手はそうそういないはずだ』
『うー……』
『こちらは君の魔力をどんどん、それもいざとなれば君が気絶するほどに使わせてもらうことになるから、できる限り自分の安全を確保しておくこと。正直、僕としては君は『古代王国への扉』亭の部屋に残しておきたかったくらいなんだからね』
 それをあくまでついてくると頑強に主張するので、目的地からある程度離れた場所で待機させる、というところまで譲歩したのだ。
 が、少女はその言葉に、なぜかぽうっと頬を染め、恍惚とした眼差しでこちらを見上げてきた。
『え、それって……私が心配だってこと? 私を傷つけたくないってこと? 私だけは髪の毛一筋さえ傷つけるのは嫌だってこと?』
『…………』
 うっとりした顔になって心中であれこれ妄言を吐き始めたので、アーヴィンドは少女から手を放し、仲間たちに向き直った。幸い使い魔との会話というのは言葉を想念として一瞬で伝えることができるので、ルクが戻ってきてからほとんど時間は経っていない。
「よし。それじゃあ、魔法をかけていこうか」
「………うん」
「そうだな」
 ヴィオもフェイクも奇妙な顔をしているが、うなずいて呪文をかけ始める。強敵であるケプクーヌとの一戦だ、だいたいの流れはすでに打ち合わせている。『古代王国への扉』亭の主人に頼んでいるから、バレン師にもすでに連絡は行っているだろう、後顧の憂いはない。
 フェイクは魔法抵抗=A防護∞盾∞能力増強≠、ヴィオは戦乙女の守護≠、アーヴィンドは祝福∞対炎防護∞対冷防護円≠、それぞれできる限り自身の魔力を使わないようにしながらかけていく。魔晶石が相当な数吹き飛んだが、向こうは高位の古代語魔法と暗黒魔法を自在に使う相手だ、精神力吸収≠はじめとしたこちらの精神を削る魔法をいくつも覚えているのだから、できる限り保有する魔力は高く保たなくてはならない。
 魔法をかけ終えると同時に、それぞれ魔神の隠れ家目指し全力で走り始める。先頭のルクはそれこそ目にも止まらぬ速さで駆け抜け、下水道の隠し部屋(オランの下水道にはあちらこちらにこういう場所があるそうだ。盗賊やら魔術師やら暗黒司祭やら、作った人間はいろいろだそうだが)を自分たちが追いつき戦闘態勢を整えられる場所まで到達すると同時に蹴り開ける。
 中で儀式――自身を呼び出した魔術師の使っていた儀式具や魔法の道具を使った、魔術と暗黒神の祭事を組み合わせたらしき代物の準備をしていたと思しき山羊頭の魔神がこちらを振り向いた。下位古代語で『何奴!』と叫ぶのを無視して、全員即座に襲撃に移る。
 だが、内心でアーヴィンドは舌打ちをしていた。あの使い魔の少女の記憶をもっと精査しておくべきだった。このケプクーヌは、文献に載っていた姿よりも一回り大きい。
 おそらくは亜種、ないし上位種だろう。行っている儀式の様子からして、古代語魔法と暗黒魔法の技術も通常の個体より優れているはず。あの少女の記憶能力ならば、遭遇時の記憶をきちんとこちらに伝えさせておけば、きちんとその情報を見抜けた可能性が高い。自分の迂闊さに開いた口が塞がらない。
 だが、もし知っていたとしても、こちらのやることは変わらなかっただろう。ルクが真っ先に斬り込んで、両手の魔法の短剣を巧みに使い、ケプクーヌの喉を斬り裂く。魔神ゆえの分厚く頑丈な体皮を完全に斬り裂くことはかなわなかったが、それでも血が噴き出し傷を作る。
 ルクがうまく懐に入り込むのと同時に、残りの三人は足を止め、少しでも呪文で一網打尽にされる可能性を減らすべく散開しながら呪文に集中する。それぞれのやるべきことはきっちり打ち合わせ済みなのだから。
「雷よ、光にして風たる閃きよ、我が声に応えよ。万能なるマナの導きにて我が敵を捕らえ、束縛の網へと変ずるべし!=v
 フェイクが電撃の網≠唱えてケプクーヌを束縛する。さすがに完全に動きを封じるとはいかなかったものの、ケプクーヌの動きは一気に鈍った。
「ファリスよ!=v
 そこに自分が魔晶石の魔力を使って気弾≠ぶつける。前線を支えているのが小柄なグラスランナーだからできることだが、予想通りケプクーヌが自身の魔力を使って抵抗するのを貫くことができず、わずかな傷を負わせるにとどまった。気弾£度の呪文ならばそれもやむを得ないことだが、司祭としてかけられる援護のための呪文はできる限りかけてしまったので、今アーヴィンドにできることはそれくらいしかなかったのだ。
「我が元に留め置きたる風の乙女よ、いざやその力を振るえ! 我が敵の声と言葉の震えを、風との交わりを断ちて打ち消せ!=v
 そこにヴィオが全力で強化した沈黙≠フ呪文をかけるが、それもケプクーヌは振り払ったようだった。大きく身を震わせて吠え猛りながら、上位古代語の呪文を唱える。
「万能なるマナよ、束縛の雷となれ! 我が前に並ぶ敵どもを、縛り苦しめ焼き尽くす雷の縄索となるがいい!=v
「っ……!」
 呪文を唱え終わると同時に、自分たち全員の周りに肉を焼き骨を縛る雷の束縛が現れる。電撃の網≠セ。一気に動きを鈍らされ、同時に肉体を焼かれる。かけられるのは初めてだが、おそろしく凶悪な呪文だ――だが、アーヴィンドは内心よし、と拳を握り締めていた。予想していた最悪の結果は、ケプクーヌが襲撃された時に即座に瞬間移動≠ナ逃げ出すことだった。ケプクーヌならばそれができるし、戦術的にもケプクーヌの性質上からも大いにありうる可能性だったのだ。
 だがそれに対してこちらが打てる手は、先手を取って電撃の網≠ゥ沈黙≠ノよって相手の魔術を封じることくらいしかなかった。そしてそれは果たせなかったので、ケプクーヌが逃げ出しはしないかと内心歯ぎしりをする思いで動きを観察していたのだが、こちらを倒すつもりでいてくれるならこちらも倒せる可能性が一気に増える!
 幸いにもできる限りの防御呪文をかけた甲斐あって、仲間たちは全員電撃の網≠ノ抵抗したようだった。ヴィオのかけた戦乙女の守護≠フ呪文のおかげでまともに傷を受けてすらいない。戦乙女の守護≠ヘかけられた相手を包み込む光の防護によって、竜の息吹さえも打ち消すほどの強力な守護呪文なのだ(光の防護は一定の損害を受けると消えてしまうので、絶対的な守護ではない、とはヴィオに念を押されたが)。
 雷の網に束縛されながらも、ルクはさらに二刀を振るって斬り込み、今度はケプクーヌの喉を大きく斬り裂く。魔神は大きく呻いて暴れたが、その大きな腕にも振るう鉾にも、ルクは髪一筋さえ触れさせずに身軽にかわす。魔法の鎧を得た上に防御呪文をいくつもかけられているとはいえ、見事としか言いようのない動きだ。
 それをよそに、フェイクは雷に縛られながらも素早く呪文を唱える。魔法解除≠フ呪文だ。
「呼び起こされしマナよ、世界の理に従え。術は空に、式は無に、あるべきものをあるべき姿に、万象ことごとく還すべし!=v
 裂帛の気合と共にフェイクの発動体である月光の刃が振り下ろされ、ヴィオに向けて不可視の波動が走る。とたん、ヴィオの体にまとわりついていた雷の束縛が、光の防護ごと消え去った。何重にもかけられた魔法による守護を打ち消してでも、ヴィオの沈黙≠フ呪文でケプクーヌの魔法を封じるのがなにより優先、と考えたのだろう。
 それに応えんとばかりに、ヴィオが渾身の気合を込めて呪文を唱える。ここまで強化した呪文を唱えればヴィオは気絶寸前にまで追い込まれるが、まるで怯む様子は見られない。仲間の信頼に応えるべく全力を尽くす――この上なくヴィオらしい、そして冒険者の流儀に則った行動だった。
「風の乙女よ、我が声を導け。我が敵の声を封じよ。我が力にて、汝が力にて、我が敵の風との交わりを断たん。そが我らの意思なれば!=v
『――――ッ!!』
 魔神が声なき声で呻く。呪文が通ったのだ、と確信できた。ヴィオもぐっ、と拳を握り締めて昂りを示している。一度かかってしまった以上魔神自身が沈黙≠フ呪文を破る方法はない。これでこちらの勝ちは決まった――
 と、内心快哉を叫んだ瞬間、アーヴィンドは気づいた。ケプクーヌが、山羊頭であるせいでひどくわかりにくくはあったけれども、口元に楽しげな、言うなれば『勝利』の笑みを浮かべていることに。
 アーヴィンドが一瞬の混乱に陥った間に、ケプクーヌは動いていた。ケプクーヌの背後には、おそらくは次元の扉を開くための大きな魔法陣と儀式用の祭具が並べてあった。おそらくは儀式の真っ最中だったのだろう、魔神自身が行った儀式のためか、瘴気にも似た気配が感じられた。
 ケプクーヌはだんっと地を蹴って魔法陣の中央に飛び込んだ――と同時に血がしぶく。魔法陣の中に飛び込んだケプクーヌは、瞬時にずたずたに斬り裂かれながら、魔法陣に吸い込まれるようにして消滅したのだ。え、と呆気にとられる間もなく――ずおん、と魔法陣の中央、ケプクーヌが消えた場所に、黒点が浮かび上がる。
 アーヴィンドは状況がつかめず、ぽかんと口を開ける――その隙に、黒点は一気に膨れ上がっていた。その中からず、ぬ、ぬぅっ、と巨大な人ならざる形の掌が、空間を割り裂き突き出される。
 その向こうに四枚の翼と、鋭い牙、大きな角の影が滲み出てきているのに気づき、アーヴィンドの体からどっと血の気が引いた。その姿は、上位魔神のさらに上、人の身ではとうてい対抗できない存在と言われる、魔神将イブリバウゼンの特徴そのままだったからだ。
 馬鹿な、なぜ、どうして、と疑問が頭の中を駆け抜ける。だが突然の事態に頭が麻痺してしまったかのように、『どうする』『どうすればいいか』という思考はまるで頭に浮かんでこなかった。
 完全に召喚されてしまえば自分たちなどあっという間に殺されてしまうだろう暴威たる存在。しかもイブリバウゼンはケプクーヌよりもさらに高位の古代語魔法と暗黒魔法を操るという。それこそ『解放された島』が『呪われた島』と呼ばれていた時の『魔神戦争』のごとき、世界を揺るがさんほどの災禍がアレクラスト大陸を吹き荒れることにもなりかねない。
 そんな存在が、なぜ、どうして、今、こんなところに――
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃーっ!」
 まったく脈絡なく耳に飛び込んできた猫の鳴き声に、アーヴィンドは反射的に声のした方を向いた。下水道の向こうから、すさまじい速さで猫――漆黒の体毛を持った猫が空をすっ飛んでくる。
 なぜなら、その猫には身を覆うほどに巨大な蝙蝠の羽があったからだ。
 意味の分からない状況にぱかっと口を開けて呆然とするアーヴィンド――の心の中に、甲高い少女の声が鳴り響いた。
『ちょっと、マスター! ぼけっとしてる場合じゃないでしょっ、儀式を崩壊させなきゃ! 魔神が無尽蔵に出てくるなんてカストゥールの頃でも対処できないような大災害が起きるとか、しかもそれにマスターが巻き込まれるとか、私絶対にやだからねっ!』
「っ―――」
 一瞬絶句したのち、アーヴィンドは顔と体が一気に熱くなるのを感じつつ心の中で怒鳴り返す。この猫――だか蝙蝠猫だか、とにかく自分の使い魔である少女に醜態を晒すのは、ある意味ヴィオにそんな姿を見せるよりも悔しく恥ずかしい。
『わかってるっ! どうすれば対処できるんだ、知ってるなら教えてくれっ!』
『さっきの魔神は自分を生贄にして自分より上位の魔神を召喚したの! そういう儀式なのよこれは! だからまだ魔神が出きっていない今のうちに儀式を崩す!』
『具体的に言ってくれ!』
『あーんもうっ、そのくらいのことも言われないとわかんないの!? まず逆五芒星の先端に置かれた蝋燭の炎を消す! それから燭台に見立てた三又の槍を内側に倒して五芒星を形作る線を消す! それから――』
 使い魔に言われるままに、アーヴィンドは必死に動き回って儀式を崩す。悔しさに歯噛みしながらも、今この状況では自分のできる一番マシなことは言われるままに動くことぐらいしかない、そんな状況でああだこうだ質問や反論をするなど阿呆の極みだ。
『それで魔法陣の交点を――マスター! 前っ!』
「え――」
 言われて反射的に顔を上げた時はもう遅かった。アーヴィンドの目前に、闇の向こうから、イブリバウゼンの持つ二本の魔剣が打ち振られたのだ。
 使い魔に言われるままに動くことに集中していたアーヴィンドは身じろぎもできず眼前に迫る巨大な魔剣をただ見つめることしかできない。頭蓋を大剣が瞬時に断ち割る――
 寸前、きぃんきぃん、と澄んだ音が二度響いた。イブリバウゼンの魔剣を、ヴィオの槍と、フェイクの小剣が割って入って弾いたのだ。驚愕に目を見開くアーヴィンドに、ヴィオは大剣を防ぎきれずに体で受けた部分から血を流しながらも、にかっと笑顔を向けて言ってくる。
「アーヴっ! 俺らにできることがあるならなんでも言ってねっ!」
「っ――」
 アーヴィンドは絶句し、思わず瞳が潤みかかるのを感じて、ぐっと奥歯を噛み締めて耐えた。自分が状況を呑み込めず呆然として、使い魔に言われるままに動くことしかできていない間も、自分の仲間たちは状況を観察し、自分の様子を窺い、邪魔にならないようにしながらいつでも助けに入れるように身構えていてくれたのだ。自分のできることを懸命に探して、力になろうとしてくれたのだ。こんな愚かな自分に対して――
 アーヴィンドはばっと顔を上げ、仲間たちを見回す。強い意志で瞳を輝かせているヴィオも、ヴィオ同様血を流しながら奥歯を噛み締めきっと前を睨み据えているフェイクも、飛び出しかけた状況のまま固まっているルクも、自分の方をじっと見ている。
『―――指示を』
『え? あ、うん……えっと、魔法陣の交点を外側に置かれた儀式具で消して――』
『順番は』
『えっと、頂点から右上に上がる順番で一筆書き……』
「ヴィオ、フェイク、ルク。僕の指差した場所にある魔法陣の交点を、順番に外側に置かれた魔法具で消して。魔法陣の中に入らないよう気をつけてね。それから今召喚されそうになっている魔神はおそらくこちらがちゃんと見えてはいないけれど、めくらめっぽうに剣を振り回してこちらを排除しようとはしてくる。まともに動けるわけではないけれど、気をつけて!」
「うんっ!」
「わかった」
「…………」
『次は』
『えっと、魔法陣の内円を、呪文を唱えながら打ち消して……』
「フェイク! 魔法陣の内円に向けて魔法解除≠フ呪文を唱えて! ヴィオ、ルク、魔力が打ち消された直後にそこの小さな円に水袋の水をぶちまけて!」
「了解。お前ら、勘で合わせられるか」
「だいじょぶっ!」
「…………」
『っ、なんでそこまで詳しく……』
 思わずといったように漏れた思念に、アーヴィンドは返事をするという意識もなく想念を漏らす。
 主と使い魔として、精神が深く繋がっている以上、思考は言葉にしなければ伝わらないというわけじゃない。想念や概念そのものが伝えようと思えば丸ごと伝わってくる。双方がきちんと伝えたい、伝えてほしいと思っているならば。
 ……その想念から返ってきたのは、頭が痛くなるほど浮かれきった、喜びと満足と自尊の感情だった。
『……そぉぉっかぁっ、マスターってばそんなに私に『伝えてほしい』って思ってたんだぁ! だよねだよねー、当然だよねー、私ってば最高最優最良の使い魔だし〜! そりゃあれだけ意固地で頑固だったマスターも首っ丈になるよね〜! まぁ当然だけど、私って究極の使い魔として生み出された存在だから〜!』
『……次は』
『あ、うんうんっ! それからね〜……』
 それからほどなくして、施された儀式魔術は無事崩壊し、イブリバウゼンの手は次元の扉の向こうへと消え去った。下水道の隠し部屋に残されたのは、いくつもの儀式用の祭具と、怪しげな魔法の道具、それと自分たちがこぼした血の跡のみとなったのだ。

「ねぇ、マスター?」
 にっこり使い魔の少女が微笑むのに、アーヴィンドは内心で深々とため息をつきながら(その感情はこの少女にも伝わっているはずなのだが少女はまるで意に介さない)、何度も何度も言わされた言葉を繰り返した。
「僕たちの命が助かったのは君のおかげだ。あの時あの儀式の正しい崩し方の知識がなければ、僕たちの命はなかっただろうし、下手をすればアレクラスト大陸そのものが危機にさらされるところだった。君は僕たちの命の恩人だ。本当にありがとう、心から感謝している。君は最高の使い魔だ」
「うふふふふぅ、えへへへへぇ、だよねだよねぇ〜。私ってば本当に最高で最優で究極の使い魔だもんねぇ〜」
 少女は笑み崩れ、にやにやにへにへとだらしない笑声を漏らしながら得意げに胸を張ってみせる。アーヴィンドは再度、内心深々と息をついた。
 確かに、あの時この少女が蝙蝠猫に変じ(彼女がよく変ずる姿の中で、最高速度を出しやすいのがあの姿だったらしい)やってきて、儀式の崩し方を指示してくれなければ、大変なことになっていたのは間違いない(後から文献にあたってみたところ、魔神の行う儀式としてはそれなりの知名度のあるものだったので、なぜこれに気がつかなかった、あの時思い出せなかったと自身を叱咤したが)。命の恩人というのも大げさではないだろう。感謝するのも当然だし、至高神の神官としてこの言葉を言わされる時にはできる限り心から感謝の念を絞り出しているのも(『偽ってはならない』というのは至高神の信者として一般的な道徳だ)、望ましい振る舞いであるとは思う。
 だが、こう何度も何度も何度も何度も(ことが終わってから数日の間に少なくとも数百回は言わされている)繰り返し言うことを強制されては、さすがにうんざりした思いも湧いてくる。正直『こいつ殴ってやりたい』という思念が漏れ出したことも一度や二度ではないのだが、少女はそんなことをまるで気にせず何度も何度も感謝を強要してくるのだ。どういう神経をしているのだ、と思わざるを得ない。
「なーなーアーヴ、とりあえず乾杯しよ? 料理冷めちゃうしさー」
「……うん。それじゃあ、今回も無事依頼を終えられたということで、乾杯」
『乾杯』
 声を合わせて、それぞれ杯を乾す。ルクは無言ながらも他の仲間同様に杯を乾したが、使い魔の少女はヴィオの声を無視してアーヴィンドにしなだれかかり用意された料理や盃にまるで目もくれなかった(人の話を聞く気がないのかとまた苛立ちを覚えた)。
 ちなみに今回依頼完了を祝う宴会を開いているのは、前に招待されたフェイクの自宅(のひとつ)だ。本来なら宿泊中の冒険者の宿である『古代王国への扉』亭を使うのが筋だっただろうが、今回はそうもいかなかった。
 使い魔となった少女の話を聞き、アーヴィンドは驚き慌てて少女を引っ張りながら『古代王国への扉』亭へ戻った。そしてその様子を大勢の人間に見られていたのだ。――下着姿よりもなお露出度が高い、その恰好で街を歩けば正気を疑われるであろう姿の少女の腕を引っ張りながら、『古代王国への扉』亭へ――盛り場近くへ向かうアーヴィンドの姿を。
 アーヴィンドは困ったことにその界隈では有名人であり、その上『古代王国への扉』亭では冒険者歴で言えば新人に近い。あれこれ聞きほじってくる先輩冒険者は枚挙に暇がないほどなのだ。普段はできる限り対応して誤解を解くにしても、宴の時くらいはそういう人たちから解放されたいと思い、フェイクに頼み込んで酒と料理を用意してもらった。
 それでも、しつこく鬱陶しくまとわりついて離れない使い魔の少女の相手をする面倒からは解放されなかったのだが。
「……でも、使った魔晶石を補填してくれるっていう条件がうまく通って助かったよ。あれだけ魔晶石を使ったら、少なくとも相場の範囲の金額じゃどうしたって足が出ていただろうし」
「ま、昔と違って魔晶石の主な供給元は魔術師ギルドだからな。自分たちで作ってるもんを現物支給しろっつーんだ、あのくらいの数なら通るだろ。おまけにケプクーヌだの、イブリバウゼンが召喚されかかってただの、そんなとんでもない話を実質被害を皆無に抑えて解決したんだ、多少の無理は通らない方がおかしい」
「ケプクーヌを召喚したのも破門された魔術師だとわかったから、賢者の学院の不祥事として扱われかねないところだったしね……」
「儀式に使われてた祭具やらなんやらは、それなりの値段で買い取ってもらえたしな。まぁまぁの稼ぎになってよかったよかった、ってとこか」
 一万ガメルを超える稼ぎを『まぁまぁ』とは、さすがというかなんというかだなぁ、と自分にひっつく少女をあしらいながらアーヴィンドは苦笑する。正直この前の冒険までずっと貧困と戦ってきたアーヴィンドとしては、こんなに稼げてしまって大丈夫なのか、という疑念を捨てきれていないのだけれども。
「でもさー、俺今回ようやくちゃんと仕事果たせたーって思ったのにさー、あっさり無駄になっちゃったっていうのは残念だったなー。沈黙≠フ呪文かかってこれでたぶん勝てる、って感じになったら魔神がすぐ自分から生贄になっちゃったし」
「いや、ヴィオは充分に働いてくれたと思うよ。僕がイブリバウゼンの動きを気にする余裕を持てていなかったところに放たれた攻撃を、フェイクと一緒にいなしてくれたし。あれがなかったら僕は自分が後ろに下がって監督役になる、って発想を持てなかっただろうから、被害が拡大していたと思う」
「う? えへへー。そう?」
「うん。本当に、すごく助かった」
「……まぁ、あれはな。正直、俺も突然のことでうっかり呆然としちまってたからな。どうすれば儀式を崩せるか、ってこともうまく思いつけなかったし。攻撃に割り込んでようやくかろうじて面目を保てたか、ってところだ。お前の使い魔のおかげで助かった」
「………うん。まぁ、ね」
「ちょっとちょっとっ、マスターっ! あなたの使い魔が褒められたんだからもっと胸を張ってよ〜。あなたの! 最高最優で究極の使い魔がっ! 褒められたんだから〜。ね? もっと正直になっていいのよ?」
 びしっ、と青筋が立つのが自分でわかった。自分にしなだれかかりながら、思い上がりたっぷりに胸を張るその姿が、苛立って苛立ってしょうがないのだが、命を助けられてしまった以上強く言い聞かせることもできない。くそう悔しいあの時ちゃんと自分で解決策を思いついていれば、と口惜しがりながらぐぬぬと唸っていると、ふいにヴィオが首を傾げた。
「ねーねー、アーヴ」
「……なんだい、ヴィオ?」
「アーヴって、なんでその子に名前つけないの?」
 ぴしっ、と少女が硬直する。アーヴィンドは不意を衝かれて目を瞬かせ、不意を衝かれたこと自体に自分で驚きながら問い返す。
「名前って……この、使い魔に?」
「うん。使い魔って自分のはんしん? みたいなのだって、アーヴ言ってたじゃん。そういう相手に名前つけないの、なんでかなーって思って」
「それは……確かに、その通りなんだけれど……」
 困惑しつつ少女を見下ろす。少女は硬直した状態から瞬時に態度を変え、瞳をきらめかせてこちらを見上げ切なる思いを訴えかけるがごときそぶりをしてくる。それをしばらくじっと見下ろし、アーヴィンドはうんとうなずいた。
「やっぱり別につける気はしないかな。名前をつけるほど深く関わる気になれないっていうか」
「ちょっとぉぉぉっ!」
 少女が絶叫し、ぐりぐりと体を押しつけてくる。それをアーヴィンドはぐいぐい遠くへ押しやってあしらった。
「なにそれ、なんなのそれ、ないでしょ普通それーっ!! 私がどんだけ優秀ですんごい使い魔かあなただって思い知ったんじゃないのぉっ!?」
「君がまぁ、優秀というか高い能力を持つのは理解したけど、それと積極的に交流を持ちたいと思うかどうかは別だろ? 人格的に尊敬できない相手と深く交流するっていうのはどちらに対しても害にしかならないし……」
「私頑張って変身してまであなたのところにすっ飛んできて助けたのにーっ、なにその言い草ーっ!」
「助けられたことに感謝はするさ。今もしている。だけど自分のしたことをことさら恩に着せて感謝を強要するような輩と深く関わりたいと思う相手がどこにいる? そんなことをしてまるで恥じることもないというところが、僕とは徹頭徹尾倫理観念が一致しないんだよ。そんな相手がそばにいるというのは精神的疲労を溜め込む苦行以外の何物でもないんだ」
「ちょっとなにそれ、なんなのその言い草、なんでそうなるわけーっ!? 普通私みたいな究極の使い魔がこれだけ尽くしてたらもっとありがたがるもんでしょぉっ!?」
「そういう『感謝されて当然』『受け容れられて当然』なんて考えられるところが僕からしたら信じられないね。君の頭の中には倫理という言葉は存在しないのか? 恩の押し売り、感謝の強要がどれだけ相手を不快な気持ちにさせるか考えることもしないのか」
「なっなっなっなっ、命助けた相手になんでそんなこと言われなきゃなんないわけぇぇっ!?」
「あっ、わかった!」
 ぽんと手を打ったヴィオに、言い争っていたアーヴィンドと少女は不意を討たれてヴィオの方を向く。他の仲間たちからも視線を集中されながら、ヴィオはいつものごとく眩しいほどの笑顔で告げた。
「アーヴは、その子のこと、自分だって思ってんだ!」
『………は?』
「えっと、だからさー。自分っていうか、自分のぶんしん? っていうより、自分のいちぶ? みたいに思ってるんだよ。心が繋がってるから、気持ちもなんもかもばーってわかっちゃうから。だから自分がこうだ! って思ってることと違うこと言ったり考えたりするのが腹立つし、許せない? って思うんじゃない? 自分のいちぶだから、他の人みたく、できるだけいいとこ見ようとか、大切にしてあげようとか、そーいうこと思えなくて、言いたいことぶつけて怒りたいだけ怒っちゃっていいって思うんじゃないかな?」
『……………』
「ああ、なるほどな。それであれだけ遠慮なかったわけか。暗黒神の司祭にも礼儀正しいこいつが、なんでこれだけ扱いが雑なんだと思ってたが、自分の一部だからわざわざ尊重する必要を認めなかったわけか。で、同情とか事情を慮るとかそういうのなしで厳しいことも言いたいだけ言う、と。なるほどな」
「うんっ! そーなんじゃないかなって思うんだけど、どう? アーヴ、と、使い魔の子」
『……………』
 アーヴィンドは反論の言葉を探そうとしたのだが、探せば探すほどにヴィオの言葉がしっくりと腑に落ちるのが感じられて、頭を抱えた。そうか、そうだったのか。だから最初からこの少女には、遠慮や配慮もなく、感情をそのままぶつけてしまったわけか。
 心が繋がっているから自分の一部のように感じられて、だから『違う』ことがことさら苛立った。腹立ちも苛立ちも悔しさも傷つけられたという想いも、すべて共有できてしまうから『慮る』という行為をする気になれなかった。そんなことしようとすら思わなかった。なぜなら相手は自分の一部なのだから、自分自身を厳しく律する至高神の教えに基づけば遠慮会釈なく接して当然だ。
 そんな思考に気づかなかったとは我ながらなんという未熟、と深々と息をつき――アーヴィンドは少女に向き直った。少女はびくり、と身を震わせ身を隠す場所を求めてあたふたとしたが、かまわずに手をぎゅっと握り締めて真正面から瞳を見つめ、告げる。
「僕は、君をラーヤと名付けたいと思う」
「っ……」
「へー、いい名前じゃん! なんか由来とかあんの?」
「由来というほどのものじゃないけれど……僕が女性として生まれていたなら名付けられていただろう候補のひとつなんだ。君は僕の、ある観点から言うならば分身のひとつだから。嫌かな」
「いっ……やじゃ、ないっ……」
 顔を赤くしながらふるふると首を振る少女――ラーヤに、続けて深々と頭を下げる。
「そして、謝罪を。自分の勝手な思い込みに気づかず、君に遠慮会釈なく貶めるような物言いをして、申し訳なかった。心からお詫びさせていただく。加えて、改めて感謝を。君がいなければ僕と、僕の仲間は生き残れなかった。君は命の恩人だ。本当に、ありがとう。心より感謝する」
「ぅんっ……うんっ……」
 目を潤ませながらこくこくとうなずくラーヤにうなずきを返し――それからほとんどアーヴィンドの膝に乗り上げていたラーヤを、持ち上げてぽん、と床の上に置く。
「へっ?」
 ぽかんとするラーヤに、アーヴィンドは椅子の上から、きっぱりはっきり言い聞かせるようにして宣言する。
「それを前提として、改めて言うけれど。僕は女性にすり寄られるのが好きじゃない。僕の倫理観においても、立場においても、感情においてもだ。今後、改めてくれ。すり寄りたいのなら猫のような小動物に変化してくれ、それなら考えなくもない」
「………………」
 再度ぽかん、とアーヴィンドを見上げ、ラーヤは憤怒の形相になってアーヴィンドにつかみかかり喚きだした。
「ちょっとぉぉぉーっ!! なにそれなんなのそれどういうことそれ!? 私という存在に感謝して伏し拝んでこれから永遠に愛し続けるんじゃないのぉっ!!?」
「妄想を現実に持ち込まないでくれ。これまでの振る舞いは申し訳なかったと思うし、命を救われたことに対する心からの感謝も捧げるが、それはそれ、これはこれだ。一個の人格として尊重するからこそ、すべきこと、すべきでないことしてほしくないことを、きちんと伝え、教え正していくのが人として当然の振る舞いだろう」
「ちょ、なに、この、もう……ばかーっ! もうホントに、ばかーっ! これまでの分も私を甘やかすべきとか思わないわけぇっ!?」
「思わない。信賞必罰の原理原則は守られるべきだ。ついでに言うと君の感性と僕の感性、さらに言うなら一般的な人間社会の感性が大きく異なるのも疑いようのない事実だ。君に人間的な羞恥心を求めるというのがそもそも無茶なのかもしれないとは思うけれど、それならそれで誰からも文句をつけられないよう獣、欲を言えば小動物の姿に変身しようとは思わないのかい? 僕たちを助けに急行した時は蝙蝠の翼を持つ猫に変化していたし、そもそも初めて僕たちと出会った時は猫になっていたんだから、獣の姿に抵抗があるわけでもないんだろう?」
「嫌よ! 私が人の姿で精一杯健気な誘惑してるのを無視するとかなんか腹立つもん!」
「……だから僕は女性にすり寄られるのは好きじゃないと」
「じゃあなに! 同性愛者だとでもいうの!?」
「そういう問題以前に、僕は男に誘惑を仕掛けてくる女性が好きじゃないし、そもそも誘惑という行為自体が好きじゃないんだよ。僕がこれまでに何人の女性に、僕を利用するための誘惑を仕掛けられてきたと思ってるんだ」
「くっ……! 私の眼鏡にかなうほどの主であるがゆえに他の女も同様に引きつけてしまうのね……! 私の見る目の正しさがまた証明されてしまったわけだけど、それはそれとして私以外の女がマスターにすり寄るのは腹立つ……!」
「君には自分の行いを他者と引き比べて省みるという概念はないのか」
 言い合いを続ける自分たちを、ヴィオはなぜかにこにこしながら見守り、フェイクは苦笑しながら肩をすくめてみせる。ルクもいつものように無言無表情でじっとこちらを見つめる中、ラーヤはあくまで少女の姿のままかしましく喚く。
 自身の未熟さは理解した。そして反省もした。後にきちんと懺悔を行うべき振る舞いだったと思う。
 だがそれはそれとしてラーヤのたいていの振る舞いが自分の癇に障るのは間違いないし、自分の感情を抜きにしてもきちんと倫理観のズレとその自覚のなさを教え正していくべきだとは思ってしまう。正直に言ってしまえば、ごく普通の猫の使い魔だった方が数十倍精神的に楽だったことは間違いない。
 だが、それでも、残念ながら。ラーヤを自分の分身だと、使い魔だと心の方が先に受け容れてしまっている以上、それに伴う精神的重圧は、主として受け容れるしかないことなのだろう。アーヴィンドはこっそりと苦笑しながら、そう自覚した。

戻る   次へ
『ソードワールドRPG』topへ

キャラクター・データ
アーヴィンド・クラーク・リズレイ・プリチャード(人間、男、十五歳)
器用度 12(+2) 敏捷度 20(+3) 知力 23+1(+4) 筋力 15(+2) 生命力 19(+3) 精神力 20(+3)
保有技能 プリースト(ファリス)7、セージ6、ファイター4、ソーサラー3、レンジャー2、ノーブル3
冒険者レベル 7 生命抵抗力 10 精神抵抗力 10
経験点 3371 所持金 600ガメル+共有財産52000ガメル
武器 ヘビーメイス+1(必要筋力15) 攻撃力 7 打撃力 20 追加ダメージ 7
銀のダガー(必要筋力5) 攻撃力 5 打撃力 5 追加ダメージ 6
ロングボウ(必要筋力15)/矢&銀の矢×60 攻撃力 6 打撃力 20 追加ダメージ 6
ラージ・シールド+1 回避力 10
ラメラー・アーマー+1(必要筋力15) 防御力 20 ダメージ減少 8
魔法 神聖魔法(ファリス)7レベル 魔力 11
古代語魔法3レベル 魔力 7
言語 会話:共通語、東方語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、上位古代語、下位古代語
読文:共通語、東方語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、上位古代語、下位古代語
マジックアイテム 魔晶石(5点×2、3点×6、2点×7、1点×10)
ヴィオ(人間、性別不詳、十五歳)
器用度 15(+2) 敏捷度 19(+3) 知力 18(+3) 筋力 18(+3) 生命力 21(+3) 精神力 21(+3)
保有技能 シャーマン7、ファイター6、レンジャー5
冒険者レベル 7 生命抵抗力 10 精神抵抗力 10
経験点 881 所持金 3000ガメル
武器 ロングスピア+1(必要筋力18) 攻撃力 9 打撃力 25 追加ダメージ 10
ロングボウ(必要筋力18)/矢&銀の矢×60 攻撃力 8 打撃力 23 追加ダメージ 9
なし 回避力 8
銀の最高品質プレート・メイル(必要筋力18) 防御力 28 ダメージ減少 7
魔法 精霊魔法7レベル 魔力 10
言語 会話:共通語、東方語、精霊語
読文:共通語、東方語
マジックアイテム 魔晶石(8点×1、5点×5、4点×10、3点×10、2点×10、1点×20)
月の主<tェイク(ハーフエルフ、男、九十歳)
器用度 18(+3) 敏捷度 21(+3) 知力 19(+3) 筋力 10(+1) 生命力 18(+3) 精神力 21(+3)
保有技能 シーフ10、ソーサラー9、レンジャー7、セージ6、バード6
冒険者レベル 10 生命抵抗力 13 精神抵抗力 13
経験点 351 所持金 財布の中に入ってるだけで10000ガメル程度
武器 月光の刃 攻撃力 16 打撃力 13 追加ダメージ 14
なし 回避力 16
ソフト・レザー+3(必要筋力5) 防御力 5 ダメージ減少 13
魔法 古代語魔法9レベル 魔力 12
呪歌 ヒーリング、レストア・メンタルパワー、チャーム、レクイエム、キュアリオスティ、ノスタルジィ
言語 会話:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、リザードマン語、ケンタウロス語、ゴブリン語、マーマン語、ジャイアント語、ハーピー語
読文:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語、西方語、エルフ語、ドワーフ語
ルク(グラスランナー、男、五十一歳)
器用度 24(+4) 敏捷度 28(+4) 知力 18(+3) 筋力 6(+1) 生命力 18(+3) 精神力 24(+4)
保有技能 シーフ9、レンジャー5、セージ2
冒険者レベル 9 生命抵抗力 12 精神抵抗力 13
経験点 1380 所持金 2000ガメル
武器 ダガー+2(必要筋力3)×2 攻撃力 13 打撃力 3 追加ダメージ 12
銀の高品質ダガー×2 攻撃力 11 打撃力 5 追加ダメージ 10
スリング+2(必要筋力3) 攻撃力 15 打撃力 8 追加ダメージ 12
なし 回避力 14
ソフト・レザー+1 防御力 3 ダメージ減少 10
言語 会話:共通語、西方語、東方語
読文:共通語、西方語、東方語
マジックアイテム エクスプローシブ・ブリット×3、クイックネス・リング、コモン・ルーン/カウンター・マジック&プロテクション
インデフィニット・ファミリアー
モンスター・レベル=1 知名度=20 敏捷度=18 移動速度=18/30(空中) 出現数=単独 出現頻度=ごくまれ 知能=高い 反応=中立
攻撃点=爪:10(3) 打撃点=6 回避点=12(5) 防御点=3 生命点/抵抗値=10/10(3) 精神点/抵抗値=18/12(5)
特殊能力=使い魔としての強力な適性、変身、飛行、不眠 棲息地=人里の近く 言語=下位古代語、及び主人の使用する言語 知覚=五感(暗視)
 古代王国時代の創成魔術師が、究極の使い魔となりうる存在を創ろうと考え産み出された魔獣。それがインデフィニット・ファミリアーです。
 インデフィニット・ファミリアーは一種の幻獣ではありますが、ファミリアー≠フ呪文に極めて強い親和性を持っています。どんな魔術師であろうとも、ファミリアー≠フ呪文が使えるならばインデフィニット・ファミリアーを使い魔とすることが可能です。
 インデフィニット・ファミリアーを使い魔とした場合、一般的なファミリアーと同様常に精神的な接触を持ち、テレパシー的な意思の疎通や感覚の共有が可能です。命令をすれば可能な限りそれを実行しようとしてくれますし、精神点を借りて呪文を唱えることもできます。もちろん、生命点や精神点の失点をそのまま受けるのも同様ですが、一般的な使い魔との違いは距離による制限がないことで、一度インデフィニット・ファミリアーを使い魔にしたならば、魔術師本人かインデフィニット・ファミリアーが死ぬまで接触は途切れません。パーフェクト・キャンセレーション%凾ナ解除や妨害をしようと思った場合、30以上の達成値が必要です。
 その上インデフィニット・ファミリアーには決まった形態というものがなく、状況に応じて自由に姿形を変えることができます。シェイプ・チェンジ≠フ呪文に似ていますが、精神点は消費しませんし、人間に類する生物に変身した際には服を身に着けた形に変化することが可能です。これは基本的に、主にとって状況に応じてもっとも使いやすい生物の姿を取れるようにするべく付与された能力であり、姿を変えてもデータ的な変化は通常ありません。大きさの限界は最大で野生の虎ほど、最小で子鼠ほどになるでしょう。
 さらに、インデフィニット・ファミリアーは主の魔術師としての技量が成長するたびに、それを補佐するための特殊な能力を習得していきます。この能力は主の能力、そして主との相性によって発揮される部分が大きく、インデフィニット・ファミリアー本人にもどのような特殊能力を得ることができるのかはわかりません。ただソーサラー技能が3からひとつレベルが上がるごとに特殊能力を得るので、最大で七つであることは共通しています。
 加えて、基本的な能力も主の基本的な能力、すなわち冒険者レベルが上昇するごとに同様に上昇します。モンスター・レベルは主の冒険者レベルと同値になり、攻撃点、打撃点、回避点、防御点、抵抗値はそれに伴い上昇します。
 ただ、インデフィニット・ファミリアーは非常に主に対する好みがうるさく、通常の使い魔のようにただ召喚に応じるということはほとんどなく、あったとしても相手が好みでなかった場合正式な契約前ならばファミリアー≠フ呪文の効果を破棄することが可能です。普通はまだ使い魔を召喚していない魔術師の中から好みの主を見つけ、それにつきまとって召喚してもらう、という形を取ります。
 ですがそれでも、インデフィニット・ファミリアーは基本的に本能として、主を持たないという状態を嫌う生物です。主がいない時は常に好みの主がいないか世界中を探して回り、一度主を定めたならばその命が失われるまで全霊を賭して主に仕える。よくも悪くも、インデフィニット・ファミリアーとはそういう存在なのです。