前回の冒険での経験点は、
・最大の障害がモンスターレベル11の強化型ケプクーヌ。
・倒した敵の合計レベルは11(イブリバウゼンは『倒した敵』とはみなしません)。
・ラーヤは冒険に参加したキャラクターではなく、アーヴィンドの使い魔≒付随的な存在とみなします。
 なので、
・アーヴィンド……5548(知識判定に一ゾロ)
・ヴィオ……5538
・フェイク……1048(知識判定に一ゾロ)
・ルク……1048(危険感知判定に一ゾロ)
 となりました。
 成長したキャラクターは誰もいません。
 以上です。
候子は西の彼方へ旅立つ
 アーヴィンドは、一週間に一度、実家に顔を出した際に貴族の子弟、そしてアールダメン候子としての教育を受ける。これはアーヴィンドが両親と神の前で結んだ契約であり、アーヴィンドとしても決して反故にする気はない(どうしても手の離せない案件に取り組んでいる時は事後改めて実家を訪れ、行えなかった授業の分を割り増しして受けることになっている)。
 基本的にその『教育』は、家庭教師から受ける授業という形で行われるが、貴族の子弟としての教育、その中でも特に社交は、実践を伴わなければ成果が得にくい分野であるため、その日は基本朝から晩まで授業を受けているアーヴィンドにも、一定の自由時間は与えられている。その時間に他の貴族の子女たちを招いたお茶会を開いたり、逆に招待を受けたり、貴族たちとの交流の輪を広げることを期待されているわけだ。
 ただ、基本的にアーヴィンドは、『これは断れない』という招待を除き、できる限り手紙での返礼にとどめているのだが(冒険者でいられるうちは貴族としてあまり本格的に活動したくはないのだ。少なくともきちんと返礼答礼を行っていれば一年の猶予期間が終わっても貴族としての活動に支障は出ない、と見たからでもある)、逆に言えば手紙のやり取りに関しては頻繁に行っているということでもある。
 なので、自由時間は基本ずっと手紙を書くなり読むなりで潰れてしまうのだが、その中でふと、アーヴィンドは一通の手紙に目を留めた。
「……この手紙は、いつ届いたんだい?」
 控えているアーヴィンド付きの祐筆(と、慣例上呼んではいるものの、正式な役職ではなく実際にはアーヴィンドに関する手紙の管理責任者である使用人といったところ)に声をかけると、静々と頭を下げながらの簡潔な答えが返ってくる。
「こちらの屋敷に届いたのは昨日のことでございます。西方との通商船舶により届けられた書簡とうかがっております」
「そうか、ありがとう」
 礼の言葉を告げてから、アーヴィンドはしげしげとその手紙を見やる。オランは数十年前より、王家主導で西方――エレミア、ロマール、西部諸国といった国々の港町への通商経路の大規模な開拓を実行し、商業取引を行っている。解放された島やアザーン諸島のみならず、街道で繋がっている西方の国々との海路を開拓するというこの一大事業には、各方面からの反発や不安も多発したが、現在では妙案と評価されていた。
 そして王家主導で通商を行うのだから、行き来するオラン船籍の船舶は基本的にオランという国家の名前を背負っているに等しいとみなされるため、それだけ各国家からの信頼度は高い。それを活かして副次的に行われている業務が、手紙の郵送だった。
 もちろん西方の国々の人々の中に、異国の人間と積極的に連絡を取ろうとする人間がそうそういるわけはないし、住所どころか送り先の人間の生存すらあやふやな状態で送られる手紙(異国に旅立った相手と連絡を取りたい、という目的で出される手紙はだいたいそういう事例が多い)にまで国家が責任を負おうとすれば早々に労力が組織の限界を超えてしまう。そういった手紙はオランが各国に備えた大使館に集められ、希望者に有料で(責任者の監視下で)閲覧させることになっていた。
 だが、国家内で居場所を特定するのが容易な氏素性のはっきりした人物――王侯貴族に届けられた手紙に関しては、送り主の氏素性がはっきりしている場合――同様に王侯貴族であるか、相応の後ろ盾があるか――には、基本的にきちんと相手まで郵送されることになっていた。もちろん相応の料金を払う必要はあるし、届けた先の相手がその手紙をどう処理するかについてまで責任を持つわけではないが。
 つまり、この手紙の送り主の名前が偽証である可能性は相当に低く、さらに言うならその送り主が相応の立場ある人物に後ろ盾についてもらっていることを意味していて――
「……まったく。変わっていない」
 アーヴィンドは苦笑し、その手紙を自分の個人的な文箱の中に入れた。

「おんがくか? って、なに?」
「そうだなぁ……端的に言うと、音楽の専門家ってことになるんだけれど」
 実家から戻ってきて、仲間たち全員で(フェイクも今日は『古代王国への扉』亭にやってきていたのだ)夕食を取る際に手紙のことを話題に出すと、一番に食いついてきたのはやはりヴィオだった。好奇心に目を輝かせながら投げかけてくる素朴な問いに、アーヴィンドは苦笑しながらそう答える。
「吟遊詩人とは違うの?」
「そうだね……明確に違うと思う。吟遊詩人としての能力を持つ音楽家や、音楽家としての技術を有する吟遊詩人はいるだろうけれどね」
「? どーいうこと?」
「そうだな……吟遊詩人も音楽家も、音楽を生業とする者であることには違いがない。ただ、どちらも目指すところや求められている行為が違うから、できることに違いができてくるんだ」
「違いって、たとえば?」
「そうだね、一番はっきりした違いは、呪歌かな。吟遊詩人は、もちろん最終的な目的は人によって違うにしろ、基本的には旅の中で音楽の技を磨き、旅の先々でそれを披露して人々を興じさせることを生業としている。この旅≠ニいうのは冒険≠ニ言い換えることもできるね。僕たちが冒険を通じて魔法や戦いの技を磨くように、吟遊詩人は音楽の腕を磨くんだ。冒険の中で幾度も使われ、鍛えられる音楽の技となると、一般的には呪歌になるだろう?」
「あー、そーだね。え、じゃあおんがくかって人たちは呪歌使えないの? せっかく音楽の腕鍛えてるのに?」
「うーん、まぁ、音楽の腕を鍛えているのは確かだけれど、さっきも言ったように、目指すところも求められている行為も違うからね。吟遊詩人はいわば冒険者の一種だけれど、音楽家というのは基本的に、音楽堂などで楽団を指揮したりして、大規模な合奏や繊細な独奏などを貴人に奉ずるのが仕事だ。旅の空の下で技を磨き、いかなる状況でも人を魅惑する演奏をしてみせることを目指す吟遊詩人とは違って、ある程度の大きさと文明度を有する街の、ある程度の財力と権力を持つ者の庇護下でなければ、音楽家という職業は成立しない。修行のやり方も音楽のどういった部分を鍛えるかもまるで違ってくるわけだから、呪歌を学ぶ必要性というものがそもそも薄いし、そんなところに練習時間を割くぐらいなら他の音楽家に求められる部分をもっと鍛えたい、とたいていの音楽家は考えてしまうんだろうね」
「へー。なんか、もったいないね。呪歌って、あんなすごい力持ってるのに」
「そうだねぇ……」
 ヴィオの素直な感想に苦笑しつつも相槌を打つ。ヴィオにとって身近な吟遊詩人と言えば、マイリーの神官戦士であるデックをリーダーとしたパーティの一員である、カルになるだろう。冒険に出る前から世界に通用するほどの腕前を有していたカルの腕前からすれば、ほとんどの呪歌は圧倒的と言うにふさわしい力を発揮するに違いない。
 吟遊詩人の誰も彼もがカルのような力を持っているわけではない、と念押ししておくべきかとちらりと考える――が、アーヴィンドが口を動かすより先に、細く柔らかくいかにも艶めかしい風情の、美しいと言わざるをえないだろうアーヴィンドと同年代の女性の腕が、するりと体に巻きついてきた。
「ふふ……聞き苦しい台詞だこと。田舎者丸出しね、みっともない」
「…………」
「まぁ、私にとっては、今の時代、田舎でないところなんてないのだけれど。かつてはカストゥールの都で、主に捧げられた大合奏を主と共に聞いていた私ですもの。耳も肥えてしまうのは当然よねぇ? なんだったら、マスター? 私があなたに捧げられた曲を、一緒に聞いて差し上げてもよくってよ」
 言いながら耳元にふぅっ、と息を吐きかけられたアーヴィンドは、即座に体に巻きついた腕をぱしーんっと叩き落とし、密着している体に肘鉄を入れ、足を払って床に転がした上でがすっと胴体を靴の裏で押さえつけた。「いっだぁっ!」とさっきまでの傾城ぶった素振りから一転して子供のような叫び声を上げたのち、ラーヤ――選択の余地がほぼないままに使い魔にしてしまった幻獣は、くるりと体を回転させたかと思うや成人女性の姿から黒猫の姿へと変わり、アーヴィンドに猛抗議してくる。
「ちょっとぉ、マスター! 照れ隠しもいい加減にしてよ! こっちが人間の女の姿してるとすぐ暴力ふるってくるのとか、使い魔虐待もはなはだしいでしょ!?」
 それに対し、アーヴィンドは平板かつ冷厳とした声音で言い返す。
「虐待? 君のように丈夫な相手にこの程度の暴力が虐待に値すると、本気で言っているのかい?」
「だって私のこと叩いたし肘で打ったし転ばせて靴で踏んづけたじゃないーっ!」
「それだけやっても君は痛みすらほとんど感じていないだろう。感覚を共有する僕が言うんだから間違いはない」
「ぬぐっ……うーっ、もうっ、マスターってばっ、もうっ! もっとこの世界最高で最優で究極の使い魔の私を愛でて褒めたたえてよぉっ!」
「他人に接する時悪口が標準装備されているような輩のことを褒めたたえる趣味は僕にはない」
「うぐっ……だってぇっ……この時代の人間たちなんて、主になる資格のある人以外はみんな蛮人だしぃっ……」
「文明度の高低がその人の価値を決めるわけではないし、そもそも君が古代王国の文明を築いたわけでもなんでもないだろう。たまたま高度な文明を背景にして、たまたま強い力をもって生まれついたというだけで、自分が偉ぶれる存在だと思い込むなんて、心得違いもはなはだしい」
「うぅーっ……」
 ラーヤは黒猫の姿のまま、目に涙をためてこちらを睨む。見た目には、単に黒猫が瞳を潤ませて身をこわばらせているだけとしか思えないのだが、この一週間で望むと望まざるに関わらず、ラーヤの立ち居振る舞いを学習させられたアーヴィンドには、人間の少女の姿の仕草とそう変わらない度合いで、どういう表情なのかが理解できてしまう。
 なにより、ラーヤとの間に結ばれたマナの糸が、問答無用で感情を伝えてくるのだ。『悔しい』『悲しい』『辛い』『なんで私が責められなくちゃいけないの』『ひどい』『優しくしてよ』『寂しい』――そして、『もうちょっと泣き顔見せてたらマスター絶対折れるよね』という身も蓋もない想いさえも。
 アーヴィンドは小さくため息をついて、黒猫の姿のラーヤの頭を撫で、喉元を掻いてやる。ふにゃぁん、と満足げな鳴き声を上げて、ラーヤは頭をくりくりとアーヴィンドの手に押しつけてきた。その仕草は可愛い小猫そのものだったが、その間にもアーヴィンドの心には『ふふんやっぱり私の美貌と可愛さにかかればマスターの誘惑なんてちょろいもんよ』などという心情が伝わってくるのだ。
 だったらこちらの『いい加減にしてくれないかな』という気持ちも伝わってしかるべきではないかと思うのだが、基本的に呪文によって結ばれた使い魔との精神的な繋がりは、『術者が使い魔との通信路を閉じる』ことはできても、『使い魔が術者への通信路を閉じる』ことはできないようにできている。呪文がそういうつくりになっているのだ。
 なので、現状アーヴィンドの心情がラーヤに伝わっていない(そしてラーヤからアーヴィンドへは感情がどかどか伝わってくる)のは、アーヴィンドがラーヤに心を完全に許せてはいない上に、ラーヤがなにかしでかさないかという疑りの目を捨てられていないため、つまりは自業自得ということになるので、ラーヤに文句を言うこともできない。
 ラーヤが主張するところによると、世界最高で最優で究極の使い魔である自分は、そんじょそこらの魔術師相手ならば、自分から通信路を閉じることもできるらしいのだが、(ラーヤの主張によれば)極めて高い素質とラーヤとの抜群の相性を持つアーヴィンド相手ではそれも難しいのだとか。なんにせよ、知性のある使い魔というものがどれだけ厄介なものかということは、この一週間で嫌というほど思い知らされた。
 ちなみにラーヤの存在については、『古代王国への扉』亭の主人であるランドをはじめ、アーヴィンドと知り合い程度にでも親しい相手には知らせるようにしている。そうでなければラーヤの時と場合をわきまえない行動のせいで、アーヴィンドの外聞に致命的なまでの傷がつきかねない。外聞を気にしすぎて動けなくなるほど愚かにはなりたくないが、こんなしょうもないことで外聞が致命的にぼろぼろになるというのも、あまりに情けなさすぎて正直嫌だったのだ。
 なので店にいる冒険者たちも全員ラーヤという存在がどういうものかは知っているはずなのだが、それでもちょくちょく好奇の色に染まった視線を投げかけてくる人がいた。ちょっと冷たくすればすぐ小動物の姿になるとはいえ(アーヴィンドが以前告げた『小動物の姿ならすり寄ってもいい(と意味を歪めて理解していると思われる)』という言葉を利用しているつもりなのだろう。少女や成人女性の姿ですり寄ってくるのもやめはしていないが)、曲がりなりにも至高神の神官である自分が、女性をはたき転ばせ踏みつける、などということをしていれば、そういう目で見られるのも当然か、と理解はしているのだが。
 ともあれ、そういういろいろ納得のいかないところはありつつも、アーヴィンドはラーヤをしつけ、叱ったあとは撫でたりくすぐったりといった、小動物を可愛がるような振る舞いをして機嫌を取っている。なにせそうしなければアーヴィンドの心にラーヤの落ち込んだ気持ちがえんえん伝達され続けて鬱陶しいし――腹の立つことに、ラーヤの化けた小動物は、どれも毛並みがよく、撫でて心地いい上に、可愛がられて気持ちよさそうにする小動物の姿は可愛らしくて気分を和ませてくれるからだ。腹の立つことに。
 そんな自分とラーヤの姿を、ヴィオはにこにこしながら、フェイクはにやにやしながら、ルクはいつもと変わらぬ無表情で、無言で見守っている。正直恥ずかしい上に申し訳ないのだが、詫びようとした時に『いきなりできた相棒としっくりいくのに時間かかるの当たり前だから、気にしないでいいよー』というようなことを笑顔で告げられ、それが本心からの言葉と感じられたので、できるだけ気にしないように努めている。
「……話を戻すけどね? その手紙の送り主である音楽家は、以前僕の音楽の家庭教師だった人なんだよ」
「へー、そーなんだ! なんて人なの?」
「名前はチェスター・ピルキントン。没落した貴族の家柄でね。家庭教師としての授業の最中に、『楽句が思い浮かんだ』と楽譜をひっくり返し始めるような人だった」
「ふーん。だが、お前さんとしてはそいつが嫌いじゃなかったらしいな」
 フェイクが酒杯をテーブルの上に置いて言うのに、アーヴィンドは思わず苦笑した。
「まぁ、ね。嫌いではなかったと思うよ。家庭教師としての職務には不熱心ではあったけれど、その分音楽というものととても真摯に向き合う、まさに音楽家、芸術家と呼ぶにふさわしい人だった。僕の家庭教師としての職を半年ほどで辞したのが三年前……に、なるのかな。『いずれ音楽堂で自分の作った曲を満座の聴衆に聞かせてみせる』なんて、別れる時には言っていたけれど……その夢を三年で叶えるとは思わなかった」
「へー、夢ちゃんと叶えたんだ!」
「うん、それも芸術の都ベルダインでね。僕が思っていたより、さらに才能のある人だったんだろうな」
「ってことは、その手紙ってのは、音楽会を開けるまでになりましたよ、っていう報告の手紙か」
「うん、まぁ、それもあるんだけれど……」
 懐の書類入れの中に入れていた、チェスターからの手紙を仲間たちに向け開いてみせながら再度苦笑する。
「報告、というよりはね。正式な招待状だったんだ。ベルダインで音楽会を開くので、万障繰り合わせの上どうかご来場ください、というね。まぁ、僕もチェスター先生とお別れをする時に、『音楽会、楽しみにしています』というようなことを言っていたし、招待を受けるにやぶさかではなかったんだけれど……」
「なんか困ったことでもあったの?」
「困ったこと、というかね。この音楽会、開催日時が三日後になっているんだ。さっきも言ったけれど、開催場所は西部諸国のひとつであるベルダイン――オランから船舶を乗り継いでも軽く一月近くはかかる場所なのにね。たぶん、手紙が届く日時や移動に必要な時間なんて考えずに、音楽会が開けるということにうきうきして、知り合いに片っ端から手紙を出したんだろうな」
 アーヴィンドとしては、チェスターがそういう人間だと理解してはいるし、それに目くじらを立てるつもりもないが、どうしても苦笑は深くなってしまう。チェスターの音楽会というものに、興味がないわけではないのだが、だからこそ、どうやっても開催時までにたどり着けないとわかっている音楽会の招待状を渡されたことに、苦笑せずにはいられない。
 そんな風に、夕食時の話題のひとつを提供したというだけのつもりで、招待状をまた書類入れの中にしまい込みかけ――
「別に、行けるだろ。その気になりゃあ」
 フェイクがあっさりと告げた言葉に、目をぱちくりと瞬かせた。
「……え? だって、開催日時は三日後だよ? なにをどうしたって、オランからベルダインまでは……」
「この世界には魔法っつー、現実的に不可能な状況でも無理を通せる技術があるだろうが。目の前にいるのが、転移≠使えるほどの高位の魔術師で、かつ世界中を旅してまわった経験がある男だっつー事実を忘れたのか?」
「…………!」
 アーヴィンドは、思わず目を瞠る。そうだ、そうだった、フェイクはそれほどのことが容易くできてしまう、とんでもない冒険者だったのだ。しかも無限のバッグを二種類両方所持しているので、ある程度の魔力以外にはまったく失うものもないまま、気軽に全員で行き来ができてしまう。
 一週間に一度の実家での授業という縛りも、フェイクのその能力の前ではほぼ無力だ。その日だけアーヴィンドをオランに返せばいいのだから、これまで意識すらしてこなかったオラン国外への遠出だっていくらでもできるだろう。つまり、やろうと思えばいくらでも、ほぼアレクラスト大陸全域にわたって、自分は、自分たちは旅をすることができるわけで。
「………―――」
 そんな単純にして重大な事実を亡失していたことに――自分が行こうと思えばどこにでも行けることにずっと目を背けていたことに、思わず拳を握り締める。自分の弱さに愚かさに、たまらない悔しさが胸に満ちる。
 けれど、それを押しのけて心に広がるのは、どうしようもなくわくわくと胸を高鳴らせる高揚感だった。自分は、どこにでも行ける。これまで書物でしか知ることもなく、この先も見ることはないだろうと思っていたものを、なにもかも自分自身の目で見ることができる。共に冒険をする仲間たちと、大陸中を自身の心のままに駆け回ることができる。
 ――それは、自分の心に楔を打ち込んだ、あの人がなにより焦がれた自由だ。
 アーヴィンドはしばしその事実を噛み締め、自身の思考に遺漏がないか改めて見つめ直した上で、フェイクに向き直って請うた。
「……フェイク。それじゃあ、手間をかけさせて悪いんだけれど、三日後の音楽会に合わせて、ベルダインまで僕たちを連れて転移≠オてくれないかな? もちろん、僕に可能なことなら、できる限りお礼をさせてもらうから」
「え、僕たちって、俺らもついてっていいの?」
 驚きの声を上げるヴィオに、アーヴィンドは苦笑を向ける。
「ついてっていいの、というか、これから二人には『どうかついてきてくれないか』って頼むつもりだったんだけれどね。せっかく西部諸国まで行くんだから、ついでにできる限り観光もしたいし、それなら――というかなにをするにしても、仲間が一緒でないと楽しみも半減すると思うしね。なにをするにしろ音楽会には付き合ってもらいたいから、趣味に合わなかったら申し訳ないんだけれど……」
「行く行くっ、絶対一緒に行くっ! せいぶしょこくって、アーヴが前に言ってたこっからずーっと西の方にある国なんだよなっ? そんなところに行けるなんて、俺今まで考えたこともなかったし!」
「ヴィオ……うん、そうか。それなら一緒に行こう。喜んでくれて嬉しいよ。……ルクは、どうだい?」
 視線を向けて問うと、ルクはいつもと変わらぬ無表情でじっとこちらを見つめ、諾とも否とも答えないまま硬直した。そのまま数分じっと見つめ合ってもまるで反応がないので、アーヴィンドは苦笑して告げる。
「それなら、一緒に行こうか。嫌って言わないのなら、引っ張って連れて行ってしまうからね。行きたくないのならその時に抵抗してくれ」
「……………」
「それじゃあ……」
 ラーヤをちらりと見下ろし、きらっきらっと目を輝かせながらこちらを見上げているのを確認して、仲間たちを見渡し告げる。
「明日は準備に使って、出発は明後日の朝、でどうかな。とりあえず音楽会の前に街を見て回りたいしね」
「うんうんっ! そーしよっ!」
「ちょっとぉっ! マスター、せっかく私を最後に回したんだから、それにふさわしい熱意と口説き文句で私に『一緒に来てください』ってお願いするところなんじゃないのここはぁっ!」
「別に来たくないならそれでもいいけれど。戻ってきた時に寂しかったとかつまらなかったとか言っても聞かないからね」
「うぐぐぐぐぅっ!」
 唸りじたばたと煩悶する(どうにかしてアーヴィンドに自分を口説かせようと苦悶しているのだろう)ラーヤをよそに、アーヴィンドは小さく微笑んだ。まぁこの使い魔は否が応でも一緒に来るだろうし、仲間たちも旅に付き合ってくれるようだ。
 初めての外国。この先も自分には望むべくもないと思っていた、気楽な身分での旅。それにたまらなく胸を高鳴らせながら、アーヴィンドは内心で、この旅の予定と使用金額を入念に計算していた。

「ふわー……すっ、ごいなー!」
「…………」
「ふ、ふんっ。別に自慢するほどの街じゃないじゃないっ」
「別に誰もお前には自慢してねぇだろ。……嬉しそうだな、アーヴィンド?」
「………うん」
 感慨と感動を込めて、潤んだ瞳で小さくうなずく。正直、感無量という気分だった。
 一日かけて旅と音楽会のための準備をし(実家に戻って自分やヴィオやルク(アーヴィンドの子供時代のものを使った)やラーヤのための正装を用意したり)、翌日全員でアーヴィンドたちの部屋に集まって、フェイクの呪文でアーヴィンドたちははるか西、西部諸国の表玄関ベルダインの、魔術師ギルドの一室――高位の魔術師たちが使う転移≠フために魔術処理を施してある部屋へと瞬間移動した。
 芸術の都として名高いものの、そこはやはり西部諸国のひとつ、小国であるがゆえの人材の少なさからは逃れられないベルダイン、その部屋は現在進行形で使われている気配はまるでなかったが、フェイクは基本的にアレクラスト大陸を巡っていた頃には、方々の魔術師ギルドのそういった部屋の使用許可を得るようにしていたらしい。相当昔のことになるので、魔術師ギルドと少々の押し問答はあったものの、最終的には問題なく、街へと繰り出すことができた。
 そこに広がっていたのは、まさに『異国』と言うべき光景だった。オランは賢者の国≠ニ称されるに恥じない、高い建築技術に基づく街並みを誇っているが、ベルダインはそもそもの設計思想からして異なる都市計画により、芸術の都と呼ばれるにふさわしい街を形作っていたのだ。
 王城、〈世界の塔〉、ラーダ神殿、大劇場、美術館。どれもこれもが芸術品と呼ぶにふさわしい、造形美と品格を誇っている。街並みを形作る一般的な家屋でさえも、どれもこれもが芸術的なのだ。街を行き交う人々の姿さえも、貴族ほど金をかけていないのは当然としても、街並みにふさわしい優雅さや気品、芸術性を有する衣装をまとっているものがほとんどで、まさに街そのものが芸術作品、そう言っていいほどの完成度を持っていた。
「どれもこれも、本で読んで考えていたのとそっくりだよ……こんな体験ができるなんて、本当に夢みたいだ」
「なに言ってんだ、現実だ現実。好きなだけ見て触って、異国ってもんを楽しみやがれ」
「うん……! あ、そうだフェイク、図書館は? ベルダインには一般公開されている図書館があるんだよね!?」
「おう。まぁそっちは新・新市街の方にある建物だから、こっからは門を抜けてかなきゃならねぇがな」
「新・新市街か……! まだ完成してないって話だけど、図書館はちゃんと完成してるんだね!」
「っつぅか、とりあえず『多目的建造物』って形で、用途を定めず建てていった代物のひとつを図書館にしたんだよ。植物紙が西部諸国の中で流通するのは、前回の大地震が起きてからさらに十年程度は後だぞ」
「ああ、そうか……なんていうかすごく、街に歴史ありって感じがするね!」
「えっ……と?」
 にぎやかに会話をしていたアーヴィンドとフェイクの間で、戸惑ったように首を傾げるヴィオに、アーヴィンドは慌てて向き直った。ルクにとっても(ラーヤはまぁおいておくとして)、わけのわからない話を一方的にまくしたてられては退屈なばかりだろう。
「ええとね、今一般的に使われている紙……植物紙の製法がケイオスランドから伝えられる前は、羊皮紙……羊の皮を使った紙しか、アレクラスト大陸には紙が存在しなかった、っていうのは知ってる?」
「え、そーなの? っていうか、紙って植物からできてたんだ?」
「うん、まぁ……そうだね。ケイオスランドの製法をまるごと使うことはできなくて、アレクラストに存在する植物と、気候や土地、水に適した製法を研究しなくてはならなかったから、植物紙の存在がアレクラストに知れ渡ったのちも、流通するまでには二十年近くかかったらしい」
「へー……羊皮紙と植物紙って、なんか違うの?」
「うん、そうだね、まったく違う。書き心地とか保存性とか、そういう使用する際の性質も大きく違うけれど、一番影響が大きいのは生産性だね。なんといっても原料が羊の皮と、森に山ほど生えている植物とでは、投入できる原料の量がまったく違う。一部では植物紙用の植物を栽培する畑も作られているくらいだからね。原料を得るためには羊を潰さなくてはならない羊皮紙とは、どうしたって作成の際の費用が違ってきてしまうだろう?」
「あーそっか、羊皮紙の方がすごい高いんだ!」
「うん、そして同じ分量の原料から作れる量も、植物紙の方が圧倒的に多い。現在では羊皮紙は、国家間の条約や重要な証文といった、保存性がなにより優先される類の書類として使われているのがほとんどだと思うよ。なんとしても後世に残すべき情報と定められた学問書なんかは、羊皮紙に手書きで作られたものもあるようだけど、それだって普及用として植物紙と印刷機によって作られた書物を生産するのが当たり前だ」
「……いんさつき? って、なに?」
「あっ……そこをちゃんと話してなかったね!」
 アーヴィンドは思わず笑みを浮かべながら、ヴィオに、そしてその後ろにたたずんでいるルクに、勢い込んで説明を始める。
「まず印刷機の発祥はタラント……このベルダインという都市国家のすぐ北に隣り合った都市国家に生きた、発明博士≠ニ呼ばれた人から始まるんだ。彼は当時の技術では、それどころか現在の技術でもとてもとても、設計の目指すところに正しく従った作成はできないほどの、画期的な発明を次々考えつく発想力を持っていた。印刷機もその一つでね、要するにいくつもの金属で作られた文字を使って、本の一ページごとに文章を作成して枠にはめ込んだ上で、文字にインクを塗って紙に押しつけるんだけど。発明博士≠ェ作成した最初の印刷機は、正しく文章を組んでもとても紙に写せない、紙をぐちゃぐちゃにしてしまうだけの代物だったらしい。印刷機の細かい歪みの積み重ねと、インクを写す紙そのものの性質の不適当さが、そんな結果を招いてしまったんだね」
「考えついた人なのに、ちゃんと作れなかったの?」
「発想力と発想を形にする実務能力は、違う能力だからね。発明博士≠フ発想力と理論構築力は、彼の死後から五十年以上経った今でも賢者たちを瞠目させるに足るものなんだけど、それを形にするには高い技術力を持つ技術者や職人が必要不可欠だったんだ」
「じゃあ、そのいんさつき? っていうのを、形にしてくれた職人さんがいたんだね」
「そう、その通りなんだ。当時は盗賊都市≠ニ呼ばれていたドレックノールの、悪名高い拷問機械の製作職人が、印刷機の制作に協力したんだよ。この裏には盗賊都市をひっくり返した英雄が関わっていて――いや、それは余談かな。とにかく、技術者としてはまさに天才と呼ぶべき職人の全面的な協力を得て、印刷機――書物を大量に生産することができる機械が、この世に誕生した。その結果、アレクラストに――いいやフォーセリアそのものに、古代王国期の滅亡と共に滅びたとされていた書を著す職業――著作者が、そして作家と呼ばれる存在が再誕したんだよ」
「ふーん……? 作家って、なにする人なの?」
「そうだね、定義としては様々だけれど、この場合は『物語を書く人』と考えればいい。そして書かれた物語を『書籍の形にして売る』のが編集者だ。羊皮紙とは比べ物にならないほどの生産性を持つ植物紙と、文章をいくらでも『印刷』して『生産』できる印刷機、この二つが揃ってようやくこの世に『気軽に楽しめる書籍』というものが再誕できたのさ。――そして、芸術の街であるここベルダインは、『気軽に楽しめる書籍』――創作物語の一大拠点、大陸中に創作物語を発信する総本山でもあるんだよ!」
 ついつい満面の笑みを浮かべながらそう言ってしまったアーヴィンドに、ヴィオはいつも通りにきょとんと首を傾げてから、ぽんと手を叩いた。
「あそっか、だからアーヴ、こんなにウキウキしてるんだ! アーヴ、英雄物語とか大好きだもんね」
「そうなんだよ! まさか実際に訪れることができるとは思ってもいなかったけど……! それに英雄物語のうち質が高いものは、やっぱり多くが実際に存在した英雄や冒険者を題材にしているからね。西部諸国は個性的な英雄や冒険者がいっぱいいることで有名だし……そういう人々の事跡をこの目で見られるというのも、すごく楽しみだったんだ!」
「へー、どんな人がいるの? こせいてき? な英雄って」
「そうだね、いろいろいるけれど、やっぱりまずは『スチャラカ冒険隊』を挙げないわけにはいかないな」
「すちゃらか……?」
「はは、名前からして個性的だろう? いくつもの事件を解決した優秀な冒険者で、時には一国を滅ぼそうとした陰謀を打ち砕きすらしたにもかかわらず、人格というか性質がどうにもお調子者だ、適当だということからついた名前らしいんだけれど、一説によるとこれは自分たちでつけた名前だというから面白いよね。あとは、『世にも不幸な冒険者たち』とか……」
「不幸な?」
「うん、やはりこれも恐るべき陰謀を正した冒険者たちではあるんだけれど、どうにも巡り合わせが悪いというか、行く先々で冒険のことごとに悪運がついて回って、ついにはその名も残されないままになってしまったっていう物悲しい冒険者たちでね……でも、すごく面白い逸話もあるんだよ。リザードマンに育てられた少女が、いかにして人間社会の中で己を確立していくかというくだりには、本当に呼んでいて何度も涙が……他にも『夜を破る者たち』とか、『円舞曲』とか……」
「えんぶきょく? 曲の名前なの?」
「ううんと、名前自体は舞踏曲の一形式なんだけれどね。仲間同士がものすごく仲がよくて、パーティ内での恋愛が複数発生したりとか、社交用の舞踏を思わせる、手を取り合いながら踊っているように冒険をしていく者たち、っていう意味合いでつけられた名前らしいんだけど。彼らを題材にした冒険譚はどれもすごく劇的だよ、主に恋愛的に。しかもね、こういう風に題材にされて有名になった冒険者に、編集者が冒険譚の中の本当にあったことなかったことを訊ねるという企画的な書籍があるんだけれど、『円舞曲』は恋愛的な逸話の大半が本当のことだったどころか、もっと劇的な展開だった、と明かしたという話があるくらいで……」
「夜を……破る? 人たちってのは?」
「ああ、これも面白い話だよ。新たな音楽を創り出そうと志した吟遊詩人が、仲間を集めて楽団を作るものの、旅の行く先々で冒険に巻き込まれて、ついにはアレクラスト大陸全体を揺るがしかねない大事件を解決するっていうものなんだけれど。楽団として旅しながら冒険をするっていうのも個性的だし、他にも面白い逸話がいくつも……ただ、彼らが創ったっていう音楽……岩窟音楽≠ヘ、正直感心できないというか、一度鑑賞したことがあったんだけれど、言ってしまえば聞くに堪えない代物だったというのが、残念なところで……」
「そうか? 俺は好きだぜ。今じゃ岩窟音楽はアレクラスト中にそこそこ広がってるし、オランにも岩窟音楽愛好者のための演奏場ってのはいくつかあるんだぞ?」
「そ、そうなの!? ……いや、まぁそれはともかくとして。他にもいろいろいるんだよ、鎧の女騎士とか隅の冒険者とか、黒き聖闘士とか星の王子様とか……それにやっぱり誰よりも、『英雄』と呼ばれる、僕があらゆる冒険譚の中でなにより好きな話があってね……!」
「え、その話が一番好きなの? 前に、えっと、魔法戦士の英雄譚、だっけ? が、大のお気に入りとか言ってなかった?」
「? 大のお気に入りだよ? 順位付けするなら、五十位以内にはたぶん入るし」
『……………』
「え。それ、どーいうこと?」
「ええとつまり、お前さんは、大のお気に入りの冒険譚が五十以上あるのかとか、ということはその何倍もの冒険譚を読んでるのかとか、そもそもなんでそこまで冒険譚だの英雄譚だのばっかり読んでるんだ? ってことなんだが?」
「? だって、本は読むものだろう? 手に入れて飾っておくだけだなんて、本に対する冒涜だ。一昔前は、これだけの書物を蓄えるだけの財力を有している、ということの誇示に使われていたこともあるようだったけれど……僕の生まれる前から、書物はぐっと安価な、誰でも楽しめる娯楽になってくれていたしね」
「いやそういうことじゃなくてだな……いやまぁいいや。なに言ってもたぶんわかってもらえなさそうだしな……この感覚のズレ」
「マスターって、そーいう趣味の人間だったのね……はっきり言っちゃうけど、ちょっと幻滅だわ」
「趣味だなんてそんな、僕程度じゃ趣味と呼べるほど極めるにはまだまだ遠いよ。いくら安価になったとはいえ、基本印刷機がドレックノールからの貸し出し品にしかなりえない現状で、冒険譚や英雄譚を書物として出版……ええとつまり印刷機で大量に印刷して売り出すことができている人々は、ほとんどがベルダイン在住だからね。どうしたってオランにいては買い漏らしが出てしまうから」
「……え。つまり、あの、マスター? あなた、冒険譚とか英雄譚の、手に入る書籍は、全部買ってたわけ?」
「もちろん。その程度はしなくては、好きだなんて口に出しては言えないよ。だから今回の旅で、そういった買い漏らしも一通り検出し直しと購入、それができなくともせめて図書館で一読だけでもできると思うと、本当に楽しみで楽しみで……!」
 思わず満面の笑顔になって喜びを漏らすアーヴィンドに、仲間たちは(なぜかラーヤも含めて)、顔を見合わせて真顔になり、それから誰からともなくフェイクに視線を集中させた。きょとんとしてアーヴィンドも思わずフェイクの方を向くと、苦笑して、肩をすくめたのち、こう告げられる。
「とりあえず……今は、観光するとしようぜ。どうしてもってんなら、相応の料金を払えばまたその図書館にも連れて来てやるからよ」
「本当に!? えっ、えっでも、そんなにフェイクのお世話になってしまっていいのかな!? 相応の料金っていくら払えばいい、やっぱり一回十万とかそのくらい!?」
「……くじけてくれなかったか……しかも一回十万って言ってもそれ以上の額言っても、こいつ侯爵家継ぐ前に本気で金貯めて払ってきそうで怖ぇな……」
「え、なに? やっぱり一回百万ぐらいの値段はする!? そこまでになるとさすがに侯爵家を継ぐ前には……」
「あーやっぱさっきのなしで。お前またこの街に来たいんだったら、魔術師としての実力上げて自分で転移してきやがれ。そうすりゃいつでもいくらでも図書館に来放題だろうが」
「!! そっ、そうか……それは確かに……うぅぅ、でも転移≠フ呪文か……今の僕の実力からすると……うぅ、先は遠いなぁ……」
「っ!! よくやったわ半妖精、これでことによるとマスターがどんどん魔術師としての実力を高めて、私の主としてふさわしくなっていってくれるかもしれないっ!」
「別にお前のために言ったわけじゃねぇけどな……まぁなんにせよ、それが可能になるまで当たり前みてぇに冒険者続ける気だってのがわかったのは、収穫っちゃあ収穫、か」
 そんな風にわいわいと騒ぎながら、アーヴィンドたちは観光客らしく、揃って街中を練り歩いた。……なので図書館で使えた時間はさして多くなく、買い漏らしたものをすべて読み切るというわけにはいかなかったが、それでも本当にこの上なく、思ってもみなかったような貴重な時間だったのは、間違いがない。

 チェスターの招待状を使って『チェスターからの招待を受けてオランから呪文で転移してきた冒険者』という身分を証明し(少なくとも嘘ではない)、それなりの料金を払って泊ったそれなりの格の宿から、業者に頼んで用立ててもらった馬車を使い、全員揃って正装して大劇場へと向かう。さすがに招待状から察せられる音楽会の格からして、徒歩で向かっては門前払いされかねない(だからこそ高い料金を自腹で払ってそれなりの格の宿を取ったのだ)。
 ベルダインでも有数の貴族(オランでの常識からすると考えられないが、西部諸国では数少ない『領地持ちの貴族』の一人だそうだ)が後ろ盾になっているとあって、音楽会は盛況のようだった。劇場前の車寄に数十もの馬車が集まり、身分の違いに応じた場所に待機させられている。
 当然ながら、ただの冒険者でしかない自分たちの身分は最下位に属するものだろう。御者は車寄の隅に馬車を寄せ、自分たちを降ろすと「それでは、お帰りをお待ちしております」と頭を下げる。割高な料金を払って時間制で雇わせてもらったのは、劇場前で馬車を往ったり来たりさせるのが(いかに無位無官の人間のやることであろうとも)場の空気を壊すだろう、と考えたせいもあるが、単純に数十の馬車が集まる場所で忙しなく行き来をしていては他の人に迷惑だろう、と考えたせいでもあった。
 かち合った貴族や豪商たちが何組も社交をしている中を通り抜けて、招待状に同封されていた招待券を渡し大劇場の中に入る(さすが芸術の本場かつ植物紙の一大産地の近縁都市、招待券という代物が招待客相手にも必要になるほど当たり前の仕組みとなっているようだ)。エントランスの辺りはめかしこんだ一般市民たちがひしめいていたが、そこを通り抜け階段を上がり、二階の酒場(劇場ならばたいていそうなっているように、ここも二階には特別席に招待された人間だけが社交を楽しめるよう上品な酒場がしつらえられているのだ)までやってくると、一気に人が減った。
 アーヴィンドたちが招待された席はその奥、舞台袖の特別席のひとつだった。舞台を見下ろせる場所にある一室を貸し切る形にする型のもので、ある程度の酒食が準備され、椅子が四席用意されている。
 つまりチェスターが招待客として考えたのは、アーヴィンドとその連れと、両親夫妻という組み合わせだったのだろう。こういう席は突然客が増えても対応できるように椅子を運び込める準備がしてあるものなので、給仕役の人間を呼ぼうと準備してあった呼び鈴を手に取ろうとしたアーヴィンドを、ラーヤが止めた。
「必要ないわよ。私はマスターの膝の上で聞かせてもらうことにするわ」
「え? ちょ……」
 アーヴィンドがそれ以上言葉をつづける前に、ラーヤは黒猫の姿へと変じた。めかしこんだ正装がはらりと床の上に落ちる。
「もともと、人の目がある場所では使い魔を席に連れていくことはできないってことで衣服を着せられたんだもの。一緒にいるのがマスターを含めたこの四人なら、この姿に戻っても特に問題はないでしょう?」
「……この席でも人の視線が皆無というわけではないんだから、そういうことをするなら事前にもっと準備をしてしかるべきだと思うけれどね……まぁ君にそこまでの期待をするのも無茶というものか……」
「ちょ、ちょ、ちょっとぉっ! マスターってば私の知性を馬鹿にしてないっ!? 私は凡百の使い魔からは一線を画したどころか圧倒的、いいえ比べるのも愚かなほどの優位性を保つ、最高最優究極の使い魔でっ……!」
「君に高いと言っていい知性があるのは認めているよ。それを使いこなせてはいないと考えてもいるけれど。……まぁ、この姿の君との方が、音楽は楽しみやすいとも思うけれどね」
 嘆息しつつも脱ぎ捨てられたラーヤの正装をフェイクの無限のバッグに入れ、席に着くや、膝に飛び乗ってきたラーヤの喉を撫でる。ラーヤはぐるぐると満足そうな声を上げ、ふふんと満足げに鼻を鳴らした。
「まぁ、人間の服でめかしこむのも悪くはないけれど。やはり私は、生まれたままの姿が一番美しいわよね。人の姿だろうと獣の姿だろうと、実際にこうしてマスターもメロメロだし……」
「……演奏が始まったらちゃんと静かにしておくんだよ。もし忘れたり故意に無視したりすれば無限のバッグの中に放り込むから。ヴィオ、フェイク、ルク。椅子とかに不都合はないかな? 問題があればすぐ変えてもらうけれど」
「んーん、大丈夫だけど……音楽会の音楽って、どんなんなんだろ? 俺初めてだから、合いの手の入れ方とかわかんないなーって」
「基本的には黙って、できるだけ音も立てないようにしていればいいんだよ、演奏中はね。演奏が完全に終ったかどうかを判断するのは、初めてだとわかりにくいかもしれないから、僕が合図をするよ」
「うん、よろしくっ!」
「ま、俺もこういう音楽会ってのに来た経験はほとんどないからな。せっかくだから楽しませてもらうとするぜ」
「はは、フェイクほどの腕の持ち主相手じゃ、いくらベルダインの演奏家たちとはいえそうそう聞き惚れさせることはできないだろうけれどね。……ルク、難しく考えることはないよ。素直な気持ちで、音を楽しめばいいんだ。楽しめないなら楽しめないでもいいんだよ、退屈なら眠ってしまってもいい。ここは特別席だ、いびきをかかなければ誰にも迷惑はかけないよ」
「…………」
 無言のまま舞台を見下ろすルクに苦笑して、アーヴィンドも舞台へと向き直った。舞台の幕が上がり、準備万端整えた楽師たちが、演奏を始めようとしていたのだ。

 満座の聴衆からいっせいに拍手を浴びせられ、指揮をしていたチェスターは、頬を赤く染めながら深々と観客席へ向け頭を下げた。特別席に向けても深々と礼をし、それから楽師たちにも礼をする。そののち舞台の幕はするすると下り、司会が演目の終了を聴衆へ向けて告げた。
 そんな中、アーヴィンドはふぅ、と息をつき、軽く伸びをする。膝の上で寝こけていたラーヤが軽く身じろぎするが、相当深く眠り込んでいるようで、起きる様子がないのに苦笑した。
「ごめんね、みんな。退屈だったかな?」
「えー? 別に退屈じゃなかったよ? そんなに面白くもなかったけど、でもあーいう風にみんなで一緒に演奏するのって初めて見たし聞いたから、俺はそんなにつまんなくなかった」
「そうか……フェイクは?」
「俺は趣味が音楽だからな。それなりに堪能したさ。相当の腕を持ってる楽師たちが相当に練習したってのがしっかりわかったし、本番での乱れも失敗もなかった。俺としちゃ満足したぜ?」
「そうか、それならなによりだけれど。ルクは……」
 そう言いながらルクの方を振り向き、思わず目を見開く。ルクは――これまでずっとなにが起きても無表情を崩さなかったルクの顔は、涙に濡れていたのだ。
 無表情が崩れているというわけではない。口も鼻も動かず、呼吸に乱れもない。ただ、その瞳から幾筋もの涙がこぼれている。苦痛も悲嘆も切なさも哀惜も見せないまま、ただ涙だけが。
 驚き慌て、うろたえ周りを見回すも、ヴィオはきょとんとした顔でこちらを見つめるだけで、フェイクもにやにやと口を笑ませるのみだ。助けがないことを悟り、アーヴィンドは狼狽しつつ唇を噛んだ。
 どうしよう、どうすれば、と必死に思考を巡らせるものの、こんな時の対処法など大して知っているわけでもない。ええい、と覚悟を決めて、膝の上のラーヤを床に降ろしたのち、アーヴィンドはルクを抱え込むようにして抱きしめた。
 服の胸部が涙に濡れるが、そんなことはどうでもよかった。些細な問題とすら意識しない程度のことでしかなかった。ただひたすらに、この抱擁がいかなる効能をルクに与えるかは見当もつかないが、それでもせめて少しでも安らぎを与えられるように、と必死に力を込めて、けれど痛みを感じることのないようできるだけ優しく、アーヴィンドは抱擁を続けた。
 ルクはその抱擁にまるで反応を示さなかったが、嫌がっている様子も見せない。今から他の対処を始めるわけにもいかず、ひたすらに抱きしめること数分――突然、後頭部に衝撃が与えられた。
「ちょっとぉぉっ! なんで起きたらいきなり私を床に放り捨ててるわけぇっ!? それで草原妖精に抱きついてるとかっ、なんなの本当、ありえないでしょそんなのっ! 抱きつくなら私でしょ普通っ、この最高最優究極の使い魔たるこの私を抱きしめるべきところじゃない普通っ!」
「ちょっ……君ねっ……」
「なんなの本当なんなのなに考えてるのよマスターってばっ! なによりもまず私を愛し可愛がるべきところで草原妖精といちゃついてるとかぁっ、むぎぎぎぎ……っ!」
「いいから君はちょっと黙っててくれないか! 今はそういう話をしている場合じゃなくて……!」
 そんな風に使い魔とぎゃあぎゃあ喚きあっている間に、ルクの表情はいつもと同じ、なにを見てもまるで反応すらしない、仮面のような無表情へと変わってしまっていた。

「おや、これはこれはっ! アーヴィンドさまっ! お久しぶりではありませんか! アールダメン候子であるあなたが、こうしてはるか西方の芸術都市ベルダインまでやってこられるとはっ! そこまで私の音楽会に期待してくださっていたのですかっ、これはなんたる光栄!」
「……お久しぶりです、チェスター先生。僕としても本当に予想外の顛末でしたが、たまたまこちらまでやってくるための手段を用意してくださる方がいらっしゃいましたので」
 曲がりなりにも特別席を用意してもらったのだし、と楽屋まで挨拶に行ったところ、楽屋内は半ば宴会の様相を呈していた。もちろん全員酔っ払うほど乱れているわけではないが、音楽会の成功を祝して酒を酌み交わしてはいるようで、全員顔がある程度赤らんでいる。アーヴィンドたちは邪魔にならぬよう、ある程度時間を置いてから楽屋に向かったので、挨拶に来る可能性のあった招待客はおそらく全員すでに訪いを終えたのだろう。それらの客からはきっちり賞賛を受けたようで、揃って表情が明るい。
 チェスターも同様で、顔の色はわずかに赤らんでいる程度だが、顔には満面の笑みを浮かべ、嬉しげで楽しげ、心底上機嫌という様子でにこにこと話している。まぁここはいい気持ちになったままにさせておいてあげよう、と苦笑して、チェスターと貴族らしい会話を行いながら退席する機会をうかがう――
 と、すい、とその横を通り抜け、楽屋の奥へと人影が立ち入った。
 なんだ、と驚きながらその姿を確認して、ルクの姿を認め、二度驚く。ルクが自分にもはっきり気配が確認できる程度の忍び足しかしていないというのは、これまでの経験ではまずありえないことだ。それでも周りの素人相手ならばさすがに気づかれはしないようで、ルクはすいすいと奥へ奥へと向かっていく。
 なんなんだろう、なにか気になるものでもあるのかな、とチェスターと話しつつちらちら様子をうかがっていると、ルクは楽屋の奥、贈り物らしき箱が積まれているところの前で立ち止まった。その中のひとつのリボンをおもむろに解き始めるのを見て、さすがにまずい、と慌てて背後のフェイクに合図を送る。
 フェイクもそう思ったようで、即座に音も立てないままルクのあとを追うが、フェイクがルクに追いつくよりも、ルクが箱を開く方が早かった。ルクは開いた箱を見下ろす体勢で、無言のままじっと箱の中を凝視する――
 と、唐突に箱の中から音が響いた。深く、暗く、呪わしげで苦しげ、忌まわしいという言葉を音にしたらこういう感じになるだろう、不穏で不吉で人を不安にさせる音が周囲に響き渡り、アーヴィンドは思わず目を見開く――が、チェスターをはじめ、音楽会の発表側に立っていた人々からはまるで反応がない。これまで同様笑顔で酒を酌み交わし、会話を交わしている。その様子に、アーヴィンドは驚きつつもチェスターに「失礼!」とだけ告げて、ルクとフェイクの立つ贈り物の箱の前へと走った。
 ヴィオと共に懸命に人の間をすり抜けながら、立ち尽くすルクとフェイクに追いついて、「どうしたの、なにかあった!?」と問いかける。ルクはいつも通りに無言無反応だったが、フェイクはちっ、と小さく舌打ちをして、忌々しげに肩をすくめてみせながら言ってのけた。
「ちっとばかし、厄介なことになったようだぜ?」
「厄介、って……」
「ま、いつも通りっちゃいつも通りのことだけどよ。――呪いが、俺らに降りかかりやがったのさ」
 フェイクがルクの開けた箱の中を示す。いかにも金のかかっていそうな純白の紙箱に、幾重にも藁を詰めた中央で鎮座しているのは、『禍々しい』という言葉を絵に描いたような、黒と忌まわしげな装飾で彩られた、古代王国期のものとおぼしき一本のリュートだった。

「呪詛楽器……?」
「ああ。この世には、そう称される楽器がいくつかあるのさ」
 大劇場の一室を用意してもらい、不穏な音を発した楽器を運び込んだのち、フェイクはぶっきらぼうにそう言った。フェイクにここまで余裕がないということは、それだけ今回の一件が重大事だということだ、とアーヴィンドは気をさらに引き締める。
「ま、あくまでの区分のひとつにすぎねぇんだけどな。古代王国期に制作された、強力な呪いのかかった、ないし呪いに近しい効果を発揮する楽器、ってのをまとめた文献があるのさ。その中で取り扱ってる楽器群をまとめた呼称が、呪詛楽器。まぁそれだけのことなんだが、この呼称は現代でもそれなりに通用するくらいに広く知られている」
「……それだけ取り扱っている情報が重大かつ重要と認められた、ってことだね」
「ま、古代王国期の楽器、なんて代物について研究する奴があんまりいねぇから情報が更新されねぇ、ってのもあるけどな」
 肩をすくめてみせてから、おそらくは意識的に淡々とした口調で言葉を重ねる。
「その中でも有名どころを挙げるなら、こんなところだな。妖魔を招き寄せる『妖魔の鈴』と対になり、一体化してしまっている『名手の竪琴』、奏でた曲を聴いた者を操る力を持つ『ワイバーンV世』。聞いた者から老いを奪い去る代わりに永遠の眠りを与える『妖精の笛』……そしてこの、『若き冒険者のリュート』だ」
 言って禍々しい見た目のリュートを指さす。ヴィオがきょとん、と首を傾げてみせた。
「どんな呪いがかかってんの? あんま、呪いがかかってそうな名前じゃないけど。いや見た目はすげー呪いかかってそうだけどさ」
「まぁな。たぶん、効果の方に見た目を寄せたんだろうぜ。こいつにかかってる呪いは、俺らにとっちゃ、それこそ馴染みの代物だからな」
「……つまり、それは……」
「ああそうさ。このリュートは、周囲の人間の冒険心に反応して音を発する。その音を聞いてしまった者は、自身の冒険心に従い冒険をしないではいられない心地になってくる。だが、冒険に出たならば、かけられた呪いが発動し、本来の運命を捻じ曲げ、周囲の環境や生存要件を無視して、強力強烈な魔物を呼び寄せ、冒険に出た者の命を奪おうとする。呪いの解除方法は、リュートの反応した冒険心に従った冒険を、最後まで成し遂げること。……俺たちがかつてかけられた、アブガヒードの呪いと似たような代物ってわけだ」
「…………!」
「そうなんだ! じゃさ、もしかしてそのリュートって、アブガヒードが作ったの?」
「制作に協力はしてるらしいぜ。あいつの呪いをかける力は『我が神から授かったもの』なんぞと本人は言ってるが、この楽器の呪いはその雛形にはなったのかもしれねぇな。ともあれ、だ……さっき確認した限りでは、このリュートの発した音が聞こえたのは俺たちだけのようだった。つまり、俺たちだけでなんとかできることで……俺たちだけしかなんともできねぇこと、ってのになるわけだな」
『…………』
「そういうわけで、全員、自分の思う『冒険』って代物を口に出して言ってみろ」
『………は?』
「どいつの冒険心に反応して音が流れたのか確認するんだよ。このリュートは口に出した冒険心に対しても素直に反応するようにできてるんだ。そして、一度呪いをかけたのなら、その冒険心が満足するまで、そいつ以外の冒険心には反応しねぇ。つまり、どいつのどんな冒険心に対して反応するのか、ってことが確かめられるわけさ」
 言ってリュートを示すフェイクに、ヴィオが目を瞬かせる。
「えっと……どんな冒険をしたいか、ってことを言えばいいの?」
「そういうことだ」
「そーだなー……なら俺は、わりと今のまんまで満足かな」
「そうなのか?」
「うん! だって今でもちゃんといっぱい冒険できてるしさ。いろんな面白いもの見たりやったりできるしさ。アブガヒードの呪いのおかげっていうか、せいなのかもしんないけど、俺は誰かが死ぬとかそーいう目に遭ったりしないんなら、今のまんまで満足。もっとどんどん強くなってったら、妖精界とか精霊界とか、そーいうとこにも行ったりできるかもしんないし!」
 笑顔で言いきったヴィオの言葉に対し、リュートは無反応だった。ぴくりと震えさえしないのを見届けてから、フェイクと一緒に息をつく。
「反応はなし、か。……まぁ、『妖精界とか精霊界に行きたい』って台詞に反応してたら、途方に暮れるしかなかったろうがな」
「そうだね……」
「えー、妖精界とか精霊界行くの駄目? アーヴたち行きたくなかった?」
「いや、行きたい行きたくないでいったらぜひとも行きたいんだけれど、実現の可能性からするとね……実現させないと呪いは解けないわけだから……」
「そっかー。けっこーできそーな気もするんだけどなー」
「……じゃ、次は俺いくか。俺はまぁ、お前らの呪いを解きたい、ってことかな。俺の人生を懸けた仕事だ、なんとしても達成したい、成し遂げたいと思うぜ。あとはまぁ……もうそんな呪いをかけられる奴が出ねぇようにしたい、とも思うがな」
 アーヴィンドは思わずはっとして、フェイクの様子をうかがう。フェイクの表情には乱れがなく、平静そのものだったが、アーヴィンドはこっそりと心臓を波打たせていた。フェイクがそんな風にはっきりと、アブガヒードの討滅を願う気持ちがあることを口に出すのは、これが初めてだったからだ。
 もちろんそういった気持ちもあるのだろうことは察していた。三十年間も呪いに苦しめられ、他者との想いを培うことを邪魔され続けた相手だ。しかも、自分同様の被害者を、これからずっと生産し続けていくだろう相手でもある。これまでに幾度もその圧倒的な力により打ち負かされてもきたのだろう、まさに恨み骨髄に徹していることは間違いない。
 アーヴィンドとしても、いずれできる限り対処したいと思っている相手ではあるが、少なくとも今は腕がまるで及んでいない。フェイクから聞かされた情報によると、アブガヒードの力は人間では到底及ばないほど、魔神将に匹敵する強さを持っているのは間違いないそうだ。なので、『いつか』『できれば』対処したいと考えている相手でしかないのだが。
 フェイクからすれば、決してそんな間遠い相手ではないのだろう。それにフェイクの年齢はもう九十、いかに長命なハーフエルフとはいえ、老化の始まりが近づいてきている年だ。できるならその前になんとかしたい、と思っても少しも不思議はない。
 けれどフェイクはそんな焦りをまるで顔に出すことなく、涼しい顔で肩をすくめてみせる。やっぱりフェイクは人間的な厚みにおいても、僕よりもはるか高みにいる相手だな、とアーヴィンドは内心ため息をつく。心の底から当たり前のようにフェイクを同じ目線の仲間であると認識するのは、まだ先のことになりそうだ。
「……反応しねぇか。じゃあ次はアーヴィンド、お前さんだな」
「わかった。……そうだな。今の僕の気持ちを素直に言うのなら……大陸中のいろんな場所や、国や、街を巡って、いろんな経験をしてみたい、かな」
 ―――ぽろろろん。
 先刻と同様、不穏で不吉で呪わしげな音が部屋の中に響く。アーヴィンドは思わず固まったが、ヴィオはなぜか目を輝かせ、フェイクは肩をすくめながらもむしろ安堵したように息をついてみせた。
「とりあえずは、一安心か。少なくとも、実現がほぼ不可能な冒険心に反応したわけじゃなくてなにより、ってとこだな」
「えっ……」
「いやなんでそこで驚いた顔になる。俺たち全員に関わる問題なんだから、普通に旅をしてりゃ普通に解除できる呪いで結構この上ねぇじゃねぇか。ルクの心に反応したってんなら、まともに口を開かせるのだって一大事な奴なんだぞ、呪いが反応した冒険心を特定するまでにさんざん苦労しなけりゃならなかったろうしな。分かりやすい上に達成しやすい目標でよかったよかった、って胸を撫で下ろすのが普通だろうが」
「い、いやそれはそうかもしれないけれど……」
「っていうかさ、アーヴのしたいって思ってた冒険、俺にとっても面白そーじゃん! フェイクはもう大陸中回ってるから退屈かもしんないけどさ、俺は嬉しい! アーヴたちと一緒に大陸中回れるとか、すっごい楽しそうだもん!」
「そ、そう……それなら、よかったけど」
 アーヴィンドは高鳴る心臓をごまかすように、安堵の気持ちを伝えつつも視線を逸らす。きらきら輝くヴィオの瞳を真正面から見つめていたら、緊張でうろたえて言わなくてもいいことを言ってしまいそうだったからだ。
 だがもちろん、当然のように仲間が自分と共に新たな冒険を乗り越えていってくれるつもりだと伝えられるのは、素直に嬉しい。微妙に視線を逸らしながらも、「……ありがとう」と告げて頭を下げ、アーヴィンドはルクに向き直った。
「ルク。ルクは、どうかな。僕たちと一緒に、大陸中を巡ってくれるつもりはある?」
「…………」
「それと……君が、贈り物の箱の山の中から、このリュートを見つけて箱を開けたのには、なにか理由があるのかな? なにか、気になるところとか、気づいたこととかがあったのかい?」
「…………」
 ルクはいつも通り、無表情のまま淡々とこちらを見返すのみで、まるで口を開く様子はない。しばし見つめ合ったままルクがなにか反応するか様子をうかがったが、いつも通りにまるで反応しないのを見て取り、内心苦笑しつつもできるだけ顔には朗らかな表情を浮かべて笑いかけた。
「それじゃあ、いつもと同じように、無理やりにでも一緒に連れて行くからね。君も大変な思いをすることになるかもしれないけど……どうか覚悟して、道行きにつきあってくれ」
「…………」
「さて、それじゃあ……これからの旅についての話をする前に、考えなくちゃならないことがあるね」
「ほう。それは?」
「もちろん、この『若き冒険者のリュート』をチェスター先生に送りつけたのが誰か、ということだよ。殺意というほどはっきりした害意は感じられないけれど、このリュートが古代王国期のものだというのは少しでも楽器や魔道具の知識があれば誰にでもわかるし、それを楽屋への贔屓の客からの贈り物に紛れさせておくというのは、敵意や悪意を感じざるを得ない。それを放置しておくのは気が咎めるし、このリュートを持ち運ばなくてはならない関係上、送り主ははっきりさせておきたいしね。まずチェスター先生と交渉して、少しでも報酬を引き出してから行動を……どうかした?」
「いや、まぁ、基本的には俺もお前の言う通りに行動しようと思っちゃいるんだが」
「その前に、ラーヤ探したげたりしないの? おんがくかいの終わりにアーヴと喧嘩してから、ずーっと戻ってこないじゃん」
「…………」
 言われて、アーヴィンドはちらりとラーヤの存在が感じられる方角に視線を向けた。アーヴィンドがルクを抱きしめていたという事実がよほど腹に据えかねたのか、ラーヤはアーヴィンドとさんざんやり合ったのちに『もういいっ!』と怒鳴って駆け去ってしまったのだ。『若き冒険者のリュート』が呪いを発動させた時も、今こうしてみんなで話し合っている時も、まるでこちらに近づく気配も見せていない。
 だがアーヴィンドはむしろすがすがしい気持ちで微笑み、きっぱりはっきり断言した。
「むしろずっと戻ってこないでほしいかな。彼女が口を挟むと話がややこしくなる上に疲れるし」
「………そお?」
「うん」
 アーヴィンドは深々とうなずいてから、状況を詳しく整理するべく筆記用具を取り出した。まずはこの街での仕事を片付けなければ、気持ちよく次の街へと進めない。

「なんか、この辺って、やたら工事してるとこ多いねー」
 新市街の外壁に築かれた門を通り抜け、歩み入った新たな市街地に入ってしばし、周囲をきょろきょろ見回しながら言い出したヴィオに、アーヴィンドはくすりと笑ってみせた。
「この辺りは『新・新市街』だからね。まだ工事中というか、たぶんこれから百年以上工事が続けられるだろう場所なんだよ」
「え!? そーなの、なんでそんなに工事多いのっ?」
「ええと、まず、ベルダインの基礎が、二百年近く前の地震と津波をきっかけにして作られた、っていうことは覚えている? ぼろぼろになった都市と王城を新しく港から少し離れた場所に造り直したのが新市街。天才的な芸術家の設計を基に、この上なく壮麗な都市を建築したもの。そして港近辺のごみごみとした街が旧市街。設計もなにもなく、場当たり的に家を建て広がっていった街。ゆえに一時は『親子都市』と呼ばれていた、って」
「うん、この辺には百年に一度すっごい地震と津波が起きるんだよなっ? 覚えてる! ばーちゃんも言ってたもん、フォーセリアには百年に一度、とんでもない大災害がそこかしこで起きるんだって! 世界が未完成のまま放り出された証だって!」
「そ、そうなんだ……素晴らしい知識だな、一度詳しく話を伺ってみたいよ、ヴィオの御祖母様には。その事実をきちんと認識している賢者は、国に仕える者でも少ないというのに。……ともあれ、七十年前にもこの街は、再び大地震と大津波に見舞われた。だけどその百年前の災禍は広く知れ渡っていたし、箱舟の賢者<宴求[の教えと志を受け継いだ若き賢者の活躍もあって、早期の避難と対策が徹底され、人的被害も物的被害もほとんど出さなくてすんだんだ」
「へー、すっごいじゃん!」
「ただ、旧市街と呼ばれていた街は、崩壊せざるをえなかった。まあもともと旧市街というのは、地震への対策等を考えることなく、費用をかけずにとりあえず今現在必要なものを建てる、という思想のもと造られた街だから、当然だけれどね。もちろんそこに住んでいた人々はほとんど無事に避難できたそうなんだけれど」
「できなかった人もいるの?」
「できなかった、というか、行方不明者が相当数出た、という感じかな……もともと旧市街の住民に対しては、住民のことごとくを把握しようとはしない、という方針だったようなんだ。港町だから、きちんと人の出入りを把握しようとすると、商業的な物流に強い悪影響が出るということを懸念したんだね。だから改めて助かった人を調べてみると、どこどこの誰誰がいない、という報告が多く出た。ただそれはこの災害により命を奪われた人かどうかは定かではない、という事態だったらしいよ」
「ふぅん……」
「そしてね、当時の国王ブラウン・ハディスは、この事態をむしろ好機と捉えた。国庫にも、資産家たちの財政にも、さして悪影響の出なかった災害に対して、気を緩めるべきではない、次の大災害が訪れる前に新たな街を建設しておくべき、と主張して、特別税を徴収し、新市街の城壁から延長するような形で、旧市街をも包み込む城壁の建設に取り掛かったんだ」
「? なんでそんなことしたの?」
「おや、ヴィオは納得がいかないかい? 災害に備えるために、地震と津波にも耐えうる街を建設しておくというのは、間違ったことではないとたいていの人は言うと思うけど?」
 少しばかり面白がるような気持ちで問いかける。アーヴィンド自身、この話を聞いた時にはなにか奇妙だと感じたものの、それが具体的にどこかは説明できなかったのだ(数年前の、まだ頭も口も回らない頃だったので)。
 だがヴィオは、眉を寄せ唸りながらも、真摯に誠実に、そして鋭くアーヴィンドの(というか、ブラウン・ハディスの)言葉のごまかしを突いてきた。
「だってさぁ……港近くの街はもともと、災害がきたら壊れる街だったんだろ? そこしか壊れなかったのに、新しくちゃんとした街を造るって、なんか繋がってないっていうか……港近くにはすんごい地震と津波が来るってわかってるんだから、よっぽどすごい街じゃないとまた壊れちゃうし、すんごい街造ってもそのすごさがちょっとでも足りなかったらまた壊れちゃうわけだし……金がすんごい無駄にならない? 街造るのって、すんごい金かかるって、アーヴ前に言ってたじゃん」
 アーヴィンドはまさに我が意を得たりという気分で微笑み、うなずいた。
「そう、その通りなんだ。さすがヴィオ、鋭いね」
「え、そお?」
「うん、ブラウン・ハディスにとっても、『新しい街を造る』というのはあくまで名分でしかなかったんだ。彼が作りたかったのは、城壁なんだよ。旧市街をも覆う、ね」
「………? どーいうこと?」
「新王国歴五百三十年。この年は、大陸史の中で、どういった時代に分類されると思う?」
「? ぶんるい、って?」
「ええとつまり……どんなことが起きて、どんな雰囲気の時代だったと思う?」
「? そんなのわっかんないよー、俺その頃生きてなかったもん」
「……ええとつまり……新王国歴五百三十年当時は、アトン戦役から間もない頃、大陸全土が不穏な気配に満ち満ちていた時代なんだよ。……覚えている、アトン戦役? 魔精霊アトンが復活して、それを倒すために大陸中の冒険者がオーファンの王子と賢者の学院の主導のもと協力して立ち向かった……」
「うん、覚えてるけど……ふおんなけはい、って?」
「……ベルダインから自由人たちの街道を東進すると、旅人たちの王国<鴻}ールにたどり着く。当時ロマールは、ある意味苦境に立たされていた。過去に軍師として招聘したルキアルが、世界を滅亡に導かんとする陰謀を企てていたことがひとつ。同盟国であるファンドリアと共にオーファンに攻め込んで、ファンドリアが逆に平らげられ征服されてしまったのがもうひとつ。仮想敵国であるオーファンが、新ファン王国と名乗るに足る広大な領土と、ロマールを挟んだ場所にモラーナ王国という兄弟国を得てしまったのが最後のひとつ。これではいかに強大な軍事力と経済力を有する大国であろうと、国家としての動きは大きく制約させられざるを得ない」
「そうなんだ」
「そして、ここまで不利な立場に追い込まれているからこそ、ロマールを強く警戒しなければならない国があった。それが、ここベルダイン。以前から領土的野心を隠していなかったロマールに対し、西部諸国は強い警戒心を持っていたけれど、その中でもベルダインの警戒心はどこより強かった。国境を接しているからこそロマールの野心も、西部諸国とは比べようもないその軍事力もよく知っているからね。だけど、それまでロマールの野心は主として中原に向いており、西部諸国へ積極的な手出しはしてこなかった。これは西部諸国がいずれも小国にすぎなかったために、『いつでも落とせる』という強い侮りがあったためだと言われている」
「ふぅん?」
「だけど、アトン戦役後、ロマールは大国ファンとその兄弟国に北と東を塞がれるはめになった。その上ファンドリアと共にオーファン――魔精霊を討ち取り大陸を救った魔法戦士たる王子の国に攻め入った、という拭いようのない失態が存在する以上、いかに粉飾したところでロマールには『悪の王国』という評価が国内外から張り付けられてしまっている。これでは兵士たちの士気も上がりようがない。大国ファンと喧嘩することなど不可能だ。となればロマールとしては、『いつでも落とせる』国だった、西部諸国に手を伸ばしてくるはずだ――と、ブラウン・ハディスは考えたらしい」
「ふぅん……」
「だけど、ロマールと真正面から戦ったとしても、たとえ「タイデルの盟約」を発動させて西部諸国すべての力を結集させようとも、まず勝てる道理はない。そうも考えて、ブラウン・ハディスは国内外にいくつもの手を打っていたんだけれど、そのうち国内で打った手のひとつが、さっきから話題になっていた『城壁』なんだよ」
「そうなの?」
「うん。自分の打った手がたとえうまくいったにしろ、ロマールの西進に対して最前線で支えなくてはならないのがベルダインであることに変わりはない。となれば、ベルダインの果たす軍事的な役目は、とにかくできる限り耐えて援軍を待つこと。そのためには港を確保することが最重要、というように考えたんだ」
「港? なんで?」
「籠城……城や砦に籠って、ひたすら耐えながら援軍を待つ、という戦術においてなにより重要なのは、士気と補給だ。まぁ戦略的に士気と補給が重要でない局面なんてないけれどね。中でも特に籠城戦は、辛い戦いが続く中、糧秣や武具を絶やすことなく確保して、士気をできる限り保つことが肝要となる。基本的にロマールは西進してくるわけだから、西と南に延びる街道は塞がれにくくはあるだろうけれど、幾度も実戦経験を重ねたロマールの将官が、補給を断つことを考えないはずがない。ならばできる限り遮断しにくい補給線を確保しなければならない――となった時に、ベルダインが一番確保しやすい補給線というのは、間違いなく海なんだよ」
「海? そーなの?」
「うん。もともとフォーセリアが神々の時代から海は人の領分ではないとみなしてきたせいもあるんだろうけど、ほとんどの国家は、海軍と呼ばれるべきものを少なくとも当時は保有していなかった。船舶建造の技術も未熟だったし、海に出るということは十回に一回は帰ってこれない、ということとほぼ同義だったからね。国家としては、そんな割に合わない、確実性に欠ける手段を軍事目的に使うわけにはいかない――だけどベルダインの場合、この問題は限りなく小さくできる」
「そーなんだ?」
「うん。ただでさえケイオスランド航路の出発点として数多の船が造られた関係上、船舶関係の技術はアレクラスト大陸すべてを俯瞰してもかなり高い部類に入るし、ガルガライスやドレックノールとはもとより活発に船で商品をやり取りしている。海賊ギルドの活動は心配だけれど、少なくとも西部諸国をやすやすとロマールの手に陥落させることは望みはしないだろう。そしてなによりロマールには海軍がない。海から攻めるなどという発想からしてないはずだ。そんな動きがあればすぐに察知できる。海がもっとも安全で、確実な補給線だ、と考えたようだね。僕も間違っていないと思う」
「へぇ……」
「だからそのためにも、港を確保することは絶対条件だったんだけれど、ベルダインという都市は、その当時は構造上、旧市街と新市街ではっきり分かれていた。旧市街の方にも城壁は一応あったけれど、これでは護りにくいことこの上ない。王城は新市街にあるし、貴族や資産家、有力者はほぼすべてが新市街にいる関係上からも、旧市街を優先して防衛する指示は出せない。そこで災害に対する対策という名目で、できる限り資産家たちから金を搾り取って、ロマールをできる限り刺激しないようにしながら、新市街と旧市街を丸ごと囲う城壁を築いたんだ」
「はー……なるほどー」
「もちろんそんな長大な城壁がほいほいできるわけはなく、財政的にもかなりの負担ではあったんだけれど、芸術の街として大陸中から人の集まるベルダインは、潜在的にはかなりの富裕さを有していた。それに旧市街が一瞬で崩壊したのはやはり住民たちにとっては痛手だったし、『もう災害が起きても壊れないような街を造ろう』というのは、当時のベルダインではかなりの説得力がある言葉だったんだね。人も物も集まったし、機運というものもあったんだろう、新たな外壁の基礎部分はほどなく完成し、それを高く強固にしていく工事も絶えず行われたんだ」
「ふんふん」
「その間ロマールは幾度も西部諸国を、手始めにベルダインを攻め落とそうとあれこれ手を打ったんだけど、西部諸国の側も協力してそれを迎え撃ち、冒険者たちの活躍もあって、現在に至るまでロマールの西進は行われていない」
「え、冒険者たちがなんで活躍すんの?」
 アーヴィンドは思わず口元に笑みが浮かぶのを押さえた。ここから先の展開は、アーヴィンドとしても、戦史の中では間違いなく屈指のお気に入り(少なくとも十本の指に入る)なので、怒涛の如く解説したい気持ちも沸き立つが、そこまで説明するのはヴィオの愉しみを阻害することになりかねない。それは断じてしたくない、と自らを戒めて真摯な思いを込めてヴィオを見つめる。
「そこから先は自分で本を読んで確かめるといいんじゃないかな。いくつも関連書籍が出ているから。史実に沿ったものも、それを基に創作したものもね。図書館に行った時にでも、お勧めの本を紹介するよ」
「あ、じゃーいいや。アーヴが話したくなった時にでもまた聞くし」
「ええぇぇぇぇえ……」
 アーヴィンドは思わず愕然としてあんぐりと口を開ける。え、なんで? なんでそうなるんだ? さっぱり意味がわからない。まるで理屈が通っていないのでは? と呆然とするが、ヴィオは平然とした、というより笑顔でアーヴィンドに質問を投げかけてくる。
「で、新・新市街って、結局なんで百年も工事が続くの?」
「え……ええと、今説明した通り、当時の国王が築きたかったのは城壁だった。金を募った相手にも、基本的には『街を護るためにはまず城壁から』という名分で通したんだ。芸術の街であるベルダインでは、軍事的圧力に対してはすぐに弱腰になってしまう人間がほとんどだと知っていたからね。だから、街の建設は城壁を築いた後に行われたわけだけど、そもそもそんな大きな城壁の中を満たせるほどの建造物を、簡単に建てることなんてできるわけがない。百年前の新市街建設も、大津波によって行方不明になった資産家や、自分たちだけでも家財を保全しようとした罪人たちの資産を、合法的に国府の収入源にできたから行えたことなんだ」
「そーだよな、街造るのって、すっごい金がかかるんだもんな」
「そして今回はさすがにそこまでの資金はない。でも街を造るというのを名目として人と金を集めた以上、街を建設しないわけにもいかない。それに城壁の中の土地を無駄に使うのも不経済だ。そこで、ブラウン・ハディスはベルダインに集った建築家たちに向けて、コンクールを開いたんだよ」
「こんくーる?」
「ええと、主に芸術作品の技の優劣を競う会、かな。そのコンクールで優勝した人物に対し、新・新市街の一部を設計する許可を与えたんだ。周囲と不調和にならず、利便性も考えて、場所に応じた建築物を建築する、という条件を課したのみで、それ以外はすべて自由に設計をさせた。そして、その設計を国家で調整した上で、できる限り忠実に再現する、そして同様のコンクールをこれから何度も開き、新・新市街の街造りを進めていく、と宣言したんだ。これにはアレクラスト中の建築家が大騒ぎになったらしいよ」
「そうなんだ」
「うん、やはり建築家としては、街を新たに造るというのは、夢のひとつの到達点らしいから。ベルダインの新市街を設計した天才建築家に並べるかもしれないわけだしね。それに、当時アレクラスト大陸は、アトン戦役からの立ち直りに必死だった時期だった。賠償、交渉、組織の再結成、そんなこんなでほとんどの国が大わらわで、『芸術性の高い建物』というそれなりに平和な時代では重んじられた建築の技は、まるで重要視されなくなってしまった。そんな中でベルダインではこんなコンクールが開かれた、となれば大陸中の建築家が集まってくるのも無理はない、と思うよ」
「なるほどー」
「まぁそれも、西部諸国ではアトン戦役による悪影響がほとんどなく、国家も資産も十全な影響力を保持できていたからこそ、行えた策ではあるんだけれどね。でも、当時の状況ではまず最善の策だった、と言えると思う。ブラウン・ハディスの政治的感覚は今でも、政治学の授業に取り入れられるほど鋭敏、という評価を受けているしね。そういう風にコンクールを幾度も開いて、少しずつ街の建設を進めていく、という形にしたからこそ、国民も街の建設がなかなか進まないことに疑問や怒りを覚えたりしなかった。崩壊した旧市街については、低予算低価格の街並みではあるけれど、早期に建設が終わっていたらしいしね」
「ふぅん……」
「コンクールごとに提出される建築家たちの設計書を、国の専門の部署と建築家たちがさんざんやり合って、少しずつ建築家たちの芸術的感覚を極めた、かつそれなりに現実的な設計書を完成させ、建築家たちにあれこれ注文をつけさせながら、じわじわと街を造っていく。国王からすれば街の建築はそこまで急いでいないわけだから、じわじわとしか進まない方が予算的にも都合がよかった。なので不自然ではない程度に、できるだけ一度のコンクールで設計を任される場所を小規模に区切ったんだ。そんなことをくり返してちまちまと街の建築を進めていくうちに、無事ロマールの西進をさせないままに、ブラウン・ハディスは没した」
「あー……」
「その後を継いだ星の王子様<買@レリア・ハディスは、これまで言ってきたようなブラウン・ハディスの企みを公表した。災害に耐えうる街としての計画は二の次で、ロマールの西進に対抗するために金を集めたことなどを。もちろん問題にはなったけれど、ヴァレリア・ハディスは同時に国民や建築家たちの心を巧みにくすぐる情報戦略を仕掛けたんだ。『父ブラウン・ハディスの企みは人の道に外れたものだった』『だがその企みが生み出したものには見るべきものがあると考える』『国が主導するのではなく、民が自分たち自身の意志と技で、新たな街を造る。その試みに価値はないだろうか』『私はあると信じる。その新しい街を見てみたい』……そんな風に繰り返し国内外に訴え、細作を使って世論を煽り、コンクールの定期的な継続と、民と国が一丸となっての街造りを認めさせたんだ」
「へぇ〜……」
「現在の国王はヴァレリア・ハディスの孫にあたる人物だけれど、まだ新・新市街の中で設計されていない、新たなコンクールの優勝者のために残されている土地には余裕がある。このままの調子で進めば、その土地がすべてなくなるにはあと百年はかかるらしい。だから、『たぶんこれから百年以上工事が続けられるだろう』って言ったのさ」
「なるほどぉ。すっげーよくわかった!」
 にっこり笑顔で告げられて、アーヴィンドとしてもほっとしたのは確かだが、それでもアーヴィンドの中では読書の勧めがあっさり断られた衝撃が尾を引いていた。自分はなにか間違った対応をしてしまったのだろうか、なにかヴィオに嫌われるようなことでも言ってしまったのだろうかと、街を歩きながらうんうん煩悶していると、ヴィオがきょとんと首を傾げて訊ねてくる。
「どしたの? アーヴ。なんか難しい顔してるけど」
「いや、その……」
 一瞬逡巡するが、そのためらいを怯懦だと断じ、アーヴィンドは思いきって顔を上げ問いかける。これまで常に真正面から素直な気持ちをぶつけてきてくれたヴィオに対し、こちらもありのままの心を晒すことをためらうようでは、アーヴィンド自身が自らをヴィオの仲間だとは認められない。
「あの……ね、ヴィオ」
「うん」
「その……ヴィオは、なんで、本を読むことを、断ったのかな?」
「え?」
「僕の勧める本では気に入らない、という確信があったのかな。それとも……僕がなにか、気に入らないことでもしてしまっただろうか?」
 必死に自分を叱咤しながらも言った言葉がこれか、と我がことながら情けなくなったが、ヴィオはいつものきょとんとした顔で首を傾げてみせた。
「断っちゃ駄目だった?」
「いっ、いやっ! そういうわけではないんだけれど! ただ、その……疑問に、思って」
 自分の喜ぶことを、当然のように喜んでくれる相手のように感じてしまっていたから。それが傲慢だと、思い込みだと押しつけだと、伝えられているのかと怯えてしまって。
 そんな情けないことこの上ない自分の本音を言うべきか言うまいか、逡巡しながらそれでも必死に顔を上げて告げると、ヴィオはにこっ、といつも通りの太陽のような笑みを浮かべてみせた。
「そんなの決まってるよー。だって俺、どんなことだって、アーヴの話で教えてもらう方がずっと好きだもん!」
「―――――」
 数瞬思わず絶句してから、「そ……そう」とだけ答えると、ヴィオも「そうそう、そーいうことっ!」と微笑みをにかにかっと音がしそうな満面の笑顔に変えて言い放ってくる。どうしよう、この場合どういう風に答えればいいんだろう、嬉しくないというわけではないけれどこの気持ちをただ嬉しいと表現するのはなにか違っているような……とうんうん唸っていると、ふいにぐいっ、と服の裾を引っ張られた。
「わっ……と、え、あ……ルク?」
 これまでずっといつものように無言無反応のまま自分たちのあとをついてきていたルクが、アーヴィンドの服の裾を引き、じっとアーヴィンドの顔を見つめてきている。これはどう判断すべきか、なにか伝えようとしているのか、ルクの心が悲鳴を上げている信号なのか、と頭が回転し始めた時、ヴィオがぽんと手を打った。
「あそっか! 目的地ってここだよね! 街ん中だと地図見てもやっぱいまいち位置とかよくわかんないなー、通ってきたとこの地図はいちおー描けると思うけど」
「えっ……あ……」
 言われて目の前の建物を見上げてみれば、それは確かに自分たちの調査目標である目的地に違いなかった。新・新市街のやや旧市街寄り、番号が壁面に刻まれた見上げるほどに大きな建物。うろたえるあまり前後不覚に陥っていたことを悟り、アーヴィンドは顔が熱くなるほどの羞恥に襲われながらも、とにかくルクに頭を下げる。
「ルク……その、気づかせてくれてありがとう。ずっと気をつけてくれていたんだね……その、ありがとう。我を忘れてしまっていてごめん……本当に申し訳なかった」
 だが頭を下げた時には、ルクはもういつも通りの無言無表情無反応の状態に戻っていた。こちらに視線を向けることすらなく、うつむき加減の、どこに目を向けているともしれない状態で突っ立っている。
 失敗したな、呆れられたり軽蔑されたりしてしまったのかもしれない、と悔やみながらも、アーヴィンドはあえてしゃがみ込んで視線を合わせ、ルクに真正面から頼み込んだ。
「ルク。ここから先は君に頼らないわけにはいかない。家探しも共同住宅の内部への侵入も、君がいなくてはできないことだ。だけど、それだけじゃなく、家探しで見つけたものや気づいたことなどを、僕たちに伝えてもらうということもしてもらわなくちゃならない。……もう一度確認するけど、君は、それができる? できないのなら、無理をしないでできないと言ってくれていいんだよ?」
 そう問いかけても、ルクはまるでこちらと視線を合わせようとせず、返事も言葉に対する反応や感情も、まるで返してきてはくれない。困ったな、と思いながらも立ち上がり、「……それじゃあ、僕たちが壁になっているからね」とヴィオと一緒にルクを隠すように立つ――こと数瞬。くいくい、と腕を引っ張られたかと思うと、かちゃりと音がして扉が開いた。
「おっ、もー開いたんだ。さっすがルク、すっごーい」
 ヴィオが小さくそう感嘆の声を漏らすが、ルクはまるで反応を示さないまま、すたすたと中に入って、また微動だにせず突っ立ち始める。一瞬ぽかんとして、自分たちを待っているのかもと気づき、慌てて中に入って扉を閉めた。
 軽く周囲を見回してみる。外見同様、中も一見したところ飾り気がないが、そこら中から楽器や歌の練習をする音が聞こえてくるあたり、主に音楽関係の者として使われる共同住宅らしい、とは言えるかもしれない。
「これがきょーどーじゅーたくってやつかぁ。なんか、面白いね。こんな感じの家って初めて見るかも」
「そうだね、僕も見るのは初めてだ。あまり飾り気はないけれど、建築全体として見ると、設計に統一感はあるな。それに何人もの人間が一つの建物の中で、それぞれ別の生活をしているというのは面白いね。長屋や下宿の類とは違って、生活空間をしっかり区切りながらも、総体としての生活が快適になるような工夫が随所に組み込まれている。ベルダインでのコンクールで、これを設計した人間が優勝したのもうなずける気がするよ」
「んー、でも飾り気ないって言っても、あちこちにちょっと隠してる感じに洒落っ気のある彫り物とかあるよ。ほら、階段の手すりとか……」
「……本当だ。なるほど、多種多様な人間が住まう場所だからこそ、あえて装飾を隠し、目立たなくすることで、反感を抱かせないようにしながらも、設計者の遊び心も反映させられるわけか。面白いな……」
「…………」
「あっ、ごめん、ルク! 感心してる場合じゃなかったね。他の人と鉢合わせしないように、さっさと仕事をしなくっちゃ」
 視線がぶつけられているのを感じ、慌てて我に返ってルクに詫びたが、ルクはやはりまるで反応を返すことなく、先頭に立って階段を上り始める。その足運びは敏捷なものだったが、まるで足音がしない。
 だが自分たちは盛大に足音を立ててしまっているから、申し訳ないがその気遣いも台無しだ。ヴィオは野外での忍び足についてならば心得もあるがここは屋内だし、なにより今の自分たちは完全武装している。歩くだけで鎧ががしゃがしゃと音を立てるのだ、足音がどうのという段階ではない。
 つまり、自分たちはそれだけ、この場所――チェスターの音楽会に『若き冒険者のリュート』を送ってきたとおぼしき相手の住所で、戦いが起きる可能性が高いと考えているわけだ。
 大劇場の係員が記録していた『若き冒険者のリュート』の贈り主の氏名は偽名だったが、チェスターからできる限り情報を聞き出した上で丹念に調査した結果、何人か捜査線上に浮かびあがった人々はいた。この共同住宅に住んでいるはずの、チェスターの知り合いである音楽家もその一人だ。その中で一番怪しい、と自分たちの意見が一致した人物でもある。
 すでに逐電していることも考えると、できる限り早く身柄を抑えるべく動いた方がいい。だが、裏社会と深い関わりのない富裕な音楽家が(この共同住宅は本人が自立を志したという名目で実家を出て住み着いた場所らしく(若手音楽家が集まるその筋では有名な共同住宅なのだとか)、実家は富裕な貴族で、毎月相当な額の仕送りを受け取っているらしい)、逐電だのなんだの後ろ暗いことをしようとした時に、盗賊ギルドに情報が伝わっていない、というのはまずありえない。
 盗賊ギルドにも金を積んで口を塞いでいる可能性はもちろんあるが、それも含めて盗賊ギルドでの調査も早めに行った方がいい。もし相手が逐電しておらず、言い争いなり荒事なりに発展したとしても、自分たち三人だけで対処できないほどの戦力を向こうが有している可能性は、ごく低いと言っていいだろう。ルクはフェイクに迫るほど、すなわち大陸一の盗賊に近いほどの戦闘技術を有しているし、ヴィオは上位精霊を駆使できるほどの精霊使いである上、優秀な戦士でもある。アーヴィンドも基本回復役ではあるものの、足手まといにならない程度の戦闘技術は有しているつもりだ。
 そんなわけで、フェイクが一人盗賊ギルドで情報収集を行っている間に、自分たち三人は(フェイクの使い魔ゲーレはここと盗賊ギルドとの距離が離れているため使えないので、非常時用の連絡用魔道具を渡された上で)一番怪しい人間の住処を強襲しようとしているわけだ(既に逐電されていた時の探索役として盗賊は欠かせないし、盗賊ギルドでの情報収集はルクでは無理なので、こういう分け方になった)。
 目当ての人物の部屋から少し離れた場所で足を止めた自分とヴィオが見守る中で、ルクは音も気配もまるで感じさせないまま対象の部屋の前へと忍び寄り、一瞬耳を澄ますように首を傾けたかと思うと、密やかに扉の前へしゃがみ込み、鍵開け用の道具を鍵穴へとねじ込んだ――かと思うと抜き出した。それからこちらを振り返りもしないまま立ち上がり、扉の前で硬直してしまったので、問題はないのだろうと判断して、ヴィオと一緒に半ば駆けるように扉との間合いを詰め、ばっと勢いよく押し開ける。
 中に立っていた――というか、明らかに我を失った様子で部屋の中で右往左往していたとおぼしき男は、はっとこちらを振り向き、絶叫した。
「誰だお前らは! このっ、このこのっ、大音楽家エミリアン・マンディアルグの住居に無断で押し入ろうとはっ……!」
「ご無礼はお詫びします、エミリアン殿。ですがことは犯罪捜査に関わる問題、礼儀を云々している場合ではないことは理解していただきたい」
 自分の幼顔では無理があるのを承知で、できる限り威圧的、高圧的な素振りでアーヴィンドは言い渡す。本人が部屋の中にいた時にどう対応するかについては、あらかじめできる限りの対処法を考えておいたのだ。
 貴族の家柄、それも自分が高圧的に対処されるなど考えたこともないような人間ならば、このように一方的に、かつ偉そうな態度で取り扱われれば、一瞬呆然として、それから烈火のごとく怒りだす。相手に自分の身の程というものを教えてやらなければと、ムキになって感情を叩きつけてくるのだ。
 ――そうすれば、当然の帰結として、足を掬う隙が生まれやすい。
 そんなアーヴィンドたちの目論見に見事にはまり、エミリアン(容貌もあらかじめチェスターから聞いた通りだ、まず本人で間違いはあるまい)は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。もとより冷静ではなかったせいだろう、それこそ脳の血管が切れるのではないかと心配になるほどの勢いだ。
「きさっ……貴様っ! この愚昧この上ない、衆愚の一員がっ! このっ、ベルダインきっての譜代の家柄であるマンディアルグ家の一員たるこの私にっ、犯罪だとっ!? 犯罪捜査だとっ!? 愚か者がっ、そのようなことが許されると思っているのかっ!」
「貴族の家柄であろうとなんだろうと、法を犯せばそれは犯罪であり、犯した者は犯罪者です。取り締まられるべき対象です。その程度のことは、それこそ子供だろうと理解していると思いますが?」
「はっ! なにを青臭いことを! 我らは貴族だ、生まれながらにして貴い存在なのだぞ! そんな存在がなにをしようと、貴様らごとき卑賤の民にどうこうできる道理などあるわけがなかろうが!」
「ほう。ではあなたは、これまでに犯罪を犯した貴族が囚われた例を、ひとつもご存じない、と?」
「ぬっ……」
 エミリアンが言い返せずに固まったところに、畳みかけるように言葉を重ねる。
「あなたは犯罪を犯した。他者の死の可能性を大きく高めるような行為は、ベルダインの現行法でも取り締まる対象だ。我々があなたを捕えるのには、充分な理由です。まさかその程度のことが理解できないとでも?」
「きっ、きさっ、貴様っ」
「意味のあることを口にすることもできなくなりましたか。結構。ならばこちらとしては、あなたを捕え、犯罪に使った伝手も含めて、監獄でありったけの情報を吐いていただくだけです。囚人を苦しめるための監獄が、どれだけ過酷な代物か、その身で体験してみるがよろしい」
「っ、っ、っ……殺せぇっ!!」
 エミリアンはこちらに背を向け、部屋の奥――寝室の方に向けて絶叫する。そちらからずしっ、ずしっ、と重たげな足音が聞こえてくるのを確認すると、アーヴィンドはヴィオをちらりと見て、合図を送った。ヴィオは即座に進み出てエミリアンに触れ、精霊語の呪文を唱える。
「宵闇の導き手よ、暗き安寧を知る者よ、眠りの精霊サンドマンよ! この者の眼に闇黒を、記憶に空白を、心身に安らぎをもたらし深き眠りを導け!=v
 とたん、かくっとエミリアンの膝が頽れ、その場に横たわっていびきをかき始める。眠り≠フ呪文が効果を発揮したことに安堵を覚えつつ、アーヴィンドは祝福≠フ呪文を唱え、ルクは口の中だけで鍵となる言葉を発して共通語魔法の護り≠全員にかけ、戦いに備えた。
 開け放たれた寝室の扉の奥から、のっしのっしとやってきたのは、予想した通りの敵――石の従者だった。古代語魔法で作成する簡易的なゴーレムの中でも使い勝手のいい、ただし戦闘能力としては決して高くはない代物。エミリアンが賢者の学院で学んだという事実はないと聞いていたから、呪詛楽器なんてものを送りつけてきたからには背後に魔術師がいるだろうと考えた、その予測が順当に当たったことになるわけだ。
 その後から続いて魔術師が現れるだろうとアーヴィンドたちは身構えていたのだが(石の従者は造ってから一時間程度で石に戻ってしまう代物だし、と)、案に相違してそうはいかなかった。魔術師の類が現れる気配はまるでなく、アーヴィンドたちと接敵するまでの数呼吸の間に、石の従者はぐ、ぐぐ、とどんどん大きさを増していく。
 ちょっと待てなんだこれはいったいどういうことなんだ、とアーヴィンドが瞠目している中、石の従者はどんどん巨大化し、天井に頭がつっかえそうになるほどの大きさになってから、ごおぉっ! と唸り声にも似た雄叫びを上げてみせる(口などどこにも存在しないのに)。当然ながら、簡易的な魔法生物である石の従者がこんなことをしてのける話など、アーヴィンドは一度たりとも聞いたことがない。
 そんな一瞬の自失の間に、ルクとヴィオはもう動き出していた。ルクが雷光の速度で短剣を二度閃かせ、石の従者の膝関節を痛めつける。ヴィオが疾風の勢いで魔法の槍を構え突撃し、腹部に深々と穴を穿つ。
 それを見て慌てて我に返り、アーヴィンドも戦闘態勢を取った。とはいえ、アーヴィンドが自らに課した役目は緊急時に備えた傷の治療役、向こうが行動するのを待って、傷を負った相手に即座に癒し≠フ呪文を唱えるのが仕事だ。この石の従者がどういう代物なのかはわからないが、少なくとも動きの速さではヴィオとルクよりはるかに劣る、そうそう出番は来ないだろう――
 という予想を、この石の従者はあっさりと裏切った。大きく振り回した腕をヴィオとルクに軽々と避けられるや、唐突に身体をぶるぶるぶるっと震わせ、ばぉおおぉっ! と奇妙な響きの悲鳴を上げたのだ。
 そしてその悲鳴と同時に、ヴィオとルクは数歩後方へと弾き飛ばされる。二人とも倒れることなく、二本の足で立ったままだったが、二人の目、鼻、口、耳、さらには体中あちこちの皮膚の薄い箇所から血が流れ出たのを見つけ、アーヴィンドは慌てて癒し≠フ呪文の最後の数語を唱えながら愕然とした。
 つまりさっきの奇妙な悲鳴は、音というより破壊の力に空気が揺らぐ音だった、ということだ。竜の息吹と同じ、敵を攻撃するための特殊な能力。当然ながらそんな力を、石の従者が持っているわけはない。古代王国時代、ゴーレムに対して付与するとしても相当に珍しく、おそらくは難易度の高い能力だ。それを、なぜ、石の従者が?
 特殊な技法で作成の際に特殊能力を持たせたのか? いや、違う。最初に見た時、アーヴィンドは間違いなくこの代物を石の従者だと断定した。何の変哲もない、現代の魔術師の技術で簡単に作れる魔法生物にすぎない、と心の底から確信できたのだ。この判断には自信がある。たとえ最近石の従者を作れるようになったばかりとはいえ、練習も含めればそれなりの数を作ってきたし、賢者の学院で学ぶ際に見た数ともなればそれこそ数えきれない。なにより自分なりに研鑽した賢者としての眼力が、『あれはただの石の従者だった』ときっぱり断言しているのだ。
 それがなぜこんな特殊能力を。いったいどうやって、誰がなにを使って、と驚き戸惑いつつ頭を回転させながらも、アーヴィンドは懸命に戦況を観察していた。もし状況が悪化するなら、現在の単純な殴り合いではなく、なんらかの策を講じてこの怪物を討ち取らねばならないのだ。
 だが、幸い、この怪物の攻撃には、ルクを捉えられるほどの速さはなかった。ヴィオはときおり攻撃を回避し損ねて(向こうの方が動きははるかに遅いとはいっても、近接戦闘で攻撃を完璧に回避し続けられるというのはよほど腕か速度に差がなくてはならない)腕を叩きつけられるが、オランでも有数の鎧職人に注文して作成した上質の銀の板金鎧は、その攻撃をしっかり受け止めて、致命的な損害を装備者に及ぼすことなく巧みに衝撃を逃がしている。
 これならば適切な機を見計らって癒し≠フ呪文をかければ済む――そう内心安堵したアーヴィンドの前で、石の従者の姿をした怪物は、さらにその予想を裏切ってみせた。ずぉん、と小さく震えるような音を発したかと思うと、その大きな体が落とす影が濃くなった、ように感じた。とたん、その振り回す腕が、的確にヴィオとルクの身体を捉え始めたのだ。
「っ! 我が神ファリスよ、御身の癒しを……!=v
 呪文を唱えつつも、心が驚嘆し驚愕するのは抑えきれない。なんだ、さっきのは? 性能がさらに強化された? ただでさえ普通の石の従者よりはるかに強かったのに? 現段階のこいつは、もはや鉄のゴーレムよりさらに性能が高いように見える。まさか、このままさらにどんどんと強化されていくのか?
 敵が再度奇妙な響きの悲鳴を上げる。ヴィオとルクがまた弾き飛ばされる。その際の衝撃すらもがさっきより強力になっているのを、アーヴィンドの賢者としての目は見て取った。癒し≠フ呪文を唱えつつも、懸命に頭の中で計算する。敵の唐突に上昇した強さ、強力になった特殊攻撃、強固になった体と素早くなった動きを鑑みた上での勝率は。
 二割弱、という結果がはじき出され、アーヴィンドは絶句しつつもどうするか必死に策を練る。退却を考えるか。いや、この敵をこのまま放置していくわけにはいかない。エミリアンを残していけば追ってこないのでは? 石の従者にはそういった命令が下してあったかもしれないが、今のこの怪物に対してそれがどれだけ効果を及ぼせるのか。援軍を呼んでくるのは? フェイクが来てくれるならば勝率は一気に跳ね上がるが、今現在盗賊ギルドにいるはずのフェイクをどうやって呼んでくれば――
 その時、はっ、と気がついた。気がついてしまった。今この場にいながら、フェイクを呼びつけることのできる唯一の方法を。
 逡巡は一瞬だった。少しでも判断が遅れれば、その分ヴィオとルクの危険が高まるのだ。自分の心の深い部分に繋がっている路を閉ざす扉を蹴とばすように開き、心の中で大声で叫ぶ。
『ラーヤ! 頼む! フェイクをこの場に連れてきてくれ! この願いを聞いてくれたなら、僕も君の願いをできる限り聞くから!』

 フェイクが加勢に入ってくれるまでには、アーヴィンドがラーヤに声をかけてから一分程度の時間しかかからなかったと思う。
 なんでも盗賊ギルドでの調査の結果、エミリアンが(実家の盗賊ギルドへの伝手を使って)雇ったのは流れの魔術師崩れの盗賊で、自分よりはるかに格下とみなしていたチェスターが盛大な音楽会を開くことに怒り心頭となったエミリアンが、なにをしてもいいからエミリアンを音楽家として再起不能にするように、と命じた結果、その盗賊が探してきたのが『若き冒険者のリュート』だった、ということがあっさり判明したのだそうだ。人を無謀な冒険に誘う呪いのリュートを贈れば、チェスターを死に至らしめることもできるだろう、と断言したその盗賊が、音楽会後に『呪いは他の者にかかってしまったので後金はいらない』と告げ、さっさと逐電してしまったということも。
 流れの盗賊だったのでギルドもあっさりそれらの情報を吐いたのだろう。ともあれ、エミリアンがその後逃げ出した様子はないということまで聞いたフェイクは、自分たちよりわずかに遅れて、エミリアンの住処へと向かっていた。なので、アーヴィンドの近くにいたために、エミリアンの住居から盗賊ギルドへ向かう直線距離をたどることになっていた(盗賊ギルドのだいたいの位置をアーヴィンドが伝えたので)ラーヤとあっさり出くわし、話を聞くやフェイクは飛行≠フ呪文を唱えてアーヴィンドたちの窮地へと急行することとなったのだ。
 フェイクが来てくれたのちは、苦戦することなく自分たちは奇妙な石の従者を倒すことができた。フェイクのかけた電撃の網≠ヘ見事に完全な効果を発揮し、石の従者の動きを完全に封じ込めてくれたからだ。
 そのあとは眠りこけるエミリアンを起こし、チェスターに知らせた上で、衛士へ報告しエミリアンを捕えてもらうだけ。チェスターは本当にエミリアンが自分を殺そうとしていたことに驚き悲しみながらも、報酬を素直に支払ってくれた。エミリアンの実家に交渉を持ちかけ、できるだけ大事にしない代わりにこれからの支援を願い出るつもりだ、と言っていたから当然といえば当然なのかもしれないが(曲がりなりにもファリスの司祭である自分にそんなことを素直に言う神経には、さすがに苦笑を禁じえなかったけれども)。
 あの石の従者は、雇った魔術師崩れの盗賊が逐電する際、そんな無責任なチェスターが私を殺しに来たらどうするのだ、とエミリアンに詰め寄られた際に作ったものなのだという。これはあなたの言うことを聞いてあなたを守ってくれるゴーレムだ、これを使って身を守ればいい、と。
 はっきり言って、怪しさしか感じられない話だ。石の従者の効果時間は一時間、どれだけ効果時間を拡大したにしろ、音楽会後からアーヴィンドたちがエミリアンの住居を訪れるまでもたせるのは無理がある。それに石の従者は術者の命令にしか従わないもの。術者以外が使うには、専用の高位魔術を使用しなければならない。
 それらをなんとかしたとしても、大きさを増すだの特殊能力を発揮するだの、そんな芸当は石の従者ではどう転んでも無理だ。魔法王国時代のゴーレムでさえも困難なほどだろう。それを目の前で作った、というのはどうにも信じられない。
 まさかアブガヒードがやったことなのでは、とフェイクにこっそり相談すると、フェイクは渋い顔で首を振った。『あいつは呪いをかけた相手の冒険に積極的に関わるような真似はしない』のだそうだ。そうでなければ狂気の純粋性が失われる、と主張しているらしい。フェイクにアブガヒードとの遭遇経験が幾度もあるのは、あくまでフェイクの方がアブガヒードを積極的に追った結果なのだとか。
 もしかすると『若き冒険者のリュート』の呪いがなにか関係しているのかもしれなかったが、ともあれ、謎の『魔術師崩れの流れの盗賊』という疑問点を残しながらも、事件を無事解決した自分たちは、ベルダインを出てガルガライスへと向かっていた。今の自分たちの目的は、『大陸中のいろんな場所や、国や、街を巡って、いろんな経験を』すること。そして『若き冒険者のリュート』の呪いを解くことだ。アブガヒードの呪いを既に二人分背負っているのに、危険な呪いをかけられて放置しておくわけにはいかない。
 これから先なければ不便だろうから、という理由で馬を買い(フェイクが名馬の産地まで自分たちごと転移≠オてくれたので、自分たちの目で安くていい馬を買いつけることができた)、ガルガライスへ向かう街道を南下していく。時季は七月半ば、まさに盛夏と呼ぶべき頃合い。火の精霊力が強く、ほぼ一年中夏のような気候のガルガライスに近づくにつれ、はっきり言ってとても金属鎧を身に着けてはいられないほど暑くなってきた。
 なので、アーヴィンドの装備している薄片鎧やヴィオの装備している板金鎧は、フェイクの無限のバッグの中に入れさせてもらい、現在はベルダインで購入した軽革鎧を身に着けている。正直、硬革鎧でさえも辛い暑さだと聞いた時には半信半疑だったのだが、フェイクの言うことを素直に聞いていて本当によかった、と感謝せずにはいられない。
 ――だからこそ、今馬を並足で歩かせる自分の膝に、暑苦しいものが乗っかっているのは、心底苛立たしくてたまらないのだ。
「うふふっ、マスタぁ〜? 私背中が痒くなっちゃった。優し〜く、掻いていただける?」
「……………」
 無言のまま、耐えろ耐えろ、と自分に幾度も言い聞かせつつ、ラーヤの言うままに背中を――人間の女性の姿を取った使い魔の、むき出しになった背中を掻いてやる。今ラーヤが身に着けているのは、ガルガライス人御用達の水着で、どこからどう見ても人間の若い女性にしか見えない今のラーヤの、胸と股間以外のほとんどの部分を丸出しにした、アーヴィンドの価値観からすれば見るに堪えない代物なのだが、それでも今のアーヴィンドには耐える以外の選択肢がない。
「次はそうねぇ〜、喉が渇いちゃったから水をちょうだい? 私に優し〜く、心を込めて飲ませてね?」
「……………」
 本来なら調子に乗るな、と馬から叩き落としているところでも(翼をもつ形態に変化すればかすり傷すら負わないのだから)、今のアーヴィンドには耐え忍ぶしかすべがない。助けの手を――フェイクを呼んできてくれるならできる限り言うことを聞くと宣言してしまった以上、曲がりなりにもファリスの司祭である自分としては、約束を違えるわけにはいかないのだ。言われるままに背負い袋から水袋を取り出し、自分に横抱きにされた格好でもたれかかっているラーヤに、そっと差し出す。
 が、ラーヤは、わかってないわねと言いたげにゆっくり小刻みに首を振る。
「んもう、そんなんじゃなくてぇ〜。優しく心を込めて飲ませて、って言ったでしょぉ?」
「……馬上で横抱きにしている相手に水を飲ませようとするなら、身体を支えながら飲ませようとする相手に自分で飲んでもらうのが一番いいと思うけれど」
「もぉ〜、わかってないわねぇ〜。そういうんじゃなくってぇ、もっと他にあるでしょぉ〜? 優しい、の・ま・せ・か・たぁ?」
「……少なくとも僕には、すぐには思いつかないけれど」
 ラーヤはちちちちっ、とアーヴィンドの目の前で指を振り、アーヴィンドにしなだれかかるようにして言ってくる。
「もぉっ、マスターってば、頭が固いんだからぁっ。わかるでしょぉ? く・ち・う・つ・し――とかっ!」
「はっ……!?」
 仰天してまじまじとラーヤを見つめるものの、ラーヤはやだぁなどと言いつつ顔を赤らめたり身をよじったりで、いつも同様まともに話が通じそうな気配すら見せない。非常時でもないのにあえて口移しでぬるい水を飲ませる必然性や意味のなさなどを説いても、聞き入れてくれるとはまるで思えない。
 おのれこの不埒者めどうしてくれよう、という当たり前の憤慨とファリスの司祭として前言を違えるわけには、という苦悶に心身を炙られ、熱い陽射しと高い気温も合わさって気が遠くなりそうなのを懸命にしゃんとさせているのに、ラーヤはすりすりと嬉しげに肌をむき出しにした格好ですり寄ってくる。脳味噌が爆発しそうなのを、奥歯を噛み締め懸命に耐えていると、ふいにヴィオが馬体を寄せてきた。
「なーなー、アーヴ」
「……なんだい、ヴィオ?」
「俺、ラーヤ預かろっか?」
「え………」
「はぁっ!? なに言ってるのあなた!? マスターは私を今まさに全力で可愛がってる最中だというのに、なんであなたに私を預けようとするなんて思うわけ!?」
「……気持ちは嬉しいけど、でも迷惑はかけられないよ。ラーヤの言うことをできる限り聞く、と約束してしまったのは僕だし……」
「そうよそうよっ、これは私とマスターの問題なんだから引っ込んでなさいよねっ」
「んー……でもさ。それって、冒険の中の話だよね? 俺らみんなの、っていうか俺とアーヴとルクの、命にかかわる話だったでしょ?」
「うん、だからこそそれにかかわる話を反故にする、というのは人として……」
「それなのに、なんでラーヤにお礼するの?」
「……え?」
「だってさ、ラーヤだってアーヴのこと大事なんでしょ? 大事な人の命を救ったから、大事な人にお礼されないと駄目って、なんか変じゃない?」
「っ………」
 思わず絶句する。確かに、ヴィオの言うことは正しい。大切な人の命を救ったということを理由に、大切な人からできる限りのものを奪い取ろうとするのは、強欲な醜行だ。ファリスの司祭が正すべき悪徳だ。そんなごく当たり前のことに気づけないでいたとは、不覚にもほどがある。
「アーヴも、ラーヤのことまだ仲間って認められてないからそういう風に思っちゃうんだろうけどさ」
「……え? 認め、られてない? えっえっ、そんなことないよねマスターっ、単に私が仲間よりもはるかに重要重大大切な自分の半身だからってだけよねマスターっ」
「ラーヤが認められたいって思ってて、アーヴもできることなら認めたいって思ってるなら、アーヴもラーヤにしてほしいこと言ったら? そーしないと、どっちがどこをどう譲るか、ってのも決めようないよね? どっちも譲れないっていうんだったらさよならすればいいし、さよならしたくないってどっちもが思ってるなら、できるだけ長く付き合ってけるように、気とかあんまり使わない方がいいんじゃないかなって思うんだけど」
「さっさよならってっ、こいつの言ってることなんて嘘よねマスターっ、私と別れたいなんて考えてないわよねマスターっ、ねっ嘘よねっ嘘って言ってっ」
「………ヴィオ。君の言葉はいつも僕に道を示してくれるけれど……今回は、ことに、その正しさが骨身に沁みたよ」
「!!?」
「そう?」
「うん。僕も気持ちを改めた。そうだよね、自分が正しく在ろうとするために相手の罪を見過ごすのは、それこそ自分の愚かさを認められないがゆえの醜行でしかないよね……」
「!!!」
 アーヴィンドは腕の中のラーヤを見下ろし、低く鋭い声で宣言する。ラーヤが既に半泣きになっているのはわかっていたが、それでもかまわず言い放つ。
「今後、僕の方も遠慮せず、君がどれだけ僕たちを救おうとも、君が僕にとっての過ちを犯したならば、どんどん指摘させてもらうからね。君の方も遠慮せず、僕にどんどん気持ちをぶつけてきてくれてかまわない。僕はそのことごとくに、遠慮会釈なく僕の良識をもって挑ませてもらうから」
「わっ、わかったっ……わかったからっ……ホントに、本気で、ものすごくわかったからっ……私と別れるなんて言わないでよぉっ!!!」
「は? ちょ……」
「お願いっ!! 捨てないでぇぇっ!!!」
「……何度も言っているだろう、女性の姿で男性に抱きつくな! というより人の姿で気安く人に抱きつくな! 曲がりなりにも人の姿を取るなら、礼儀と慎みを覚えろっ!!」

 ひどく蒸し暑く、アレクラスト大陸の一般的な森とは明らかに植生が異なっている森(現地の人間はジャングルと呼んで他の森と区別するらしい)を抜け、強烈な潮の香で満ちた風を浴びながら、馬の歩を進めること半日。アーヴィンドたちは、無事『終わりなき夏の街』ガルガライスへとたどり着いた。
 本で読んでいた通りの、村が大きくなったような街並みと、真夏のごとき気候(今の時期は他の街でも盛夏と呼ぶにふさわしい気候なので、そこまで違和感はないが)。干潮時しか陸地と繋がる道が現れない小島の上に立つ、真珠で飾り立てられた王城。開放的で南国情緒に満ちた、冒険者の店〈潮風亭〉。そのどれもが、これまで一度も体験することのできなかったもので、アーヴィンドとしても心を浮き立たせずにはいられないものだった。
 ものだった、のだが。
「その………フェイク。これは………いくらなんでも、破廉恥に過ぎてはいないかな?」
「あ? どこがだよ」
「その……ガルガライスの海というものを一度経験してみたい、と言ったのは僕だけれど。これは……いくらなんでも……」
「だから、なにがだよ? はっきりわかるように説明してみやがれ」
「っ……そこまで言うなら、言わせてもらうけれど! こんな風に……肌を露出させた格好で泳ぐというのはっ、たとえガルガライスの風俗に沿ったやり方であろうとも、良俗に反するものではないだろうか!」
 小声ながらも懸命にそう主張するアーヴィンドに、フェイクはにやっと笑って言い返す。
「それがガルガライスの常識だ、ってぇのはわかってるんだろ? だからお前も大声では言えないんだろうがよ」
「っ………」
 そうだ。アーヴィンドはそれを理解している。理解せざるを得ない。なぜならば、アーヴィンドの周囲には、何十人、何百人という人々が水着をまとい、素肌のほとんどを露出させたはしたない格好で、海を満喫しているのだから。
 最初に発案したのは、アーヴィンド自身だった。『ガルガライスの海がどのようなものか、一度経験してみたい』と。
 ただアーヴィンドとしては、『海の経験』というものは、舟遊びなり海洋生物の観察なり、服を脱がずに楽しめるものだった。それ以外の楽しみ方などありえないと、当然のように認識していたのだ。
 それがフェイクに連れられて、ガルガライスの海に出るならこれを身に着けるのが当然と勧められ、下着の代わりに水着を身に着けさせられて。いい場所があると誘われるままについていくや、現況のごとき、水着だけを身に着けたはしたない格好の男女が溢れかえらんばかりに闊歩して、海で泳いだり水遊びを楽しんだり小舟で遊んだりする場所――海水浴場に、連れてこられてしまった。アーヴィンドからすればこれは言語道断、なんとしても即座に撤退し、神に懺悔を捧げずにはいられない行いだというのに、フェイクはしれっとした顔で、厚顔にも言ってのける。
「ガルガライスの海を堪能するってのに、ここに来ねぇ方がおかしいだろ。しかも時期は七月、常夏の街とはいえ海水浴にもってこいの時季なんだぜ。遠国の富豪なんかもわざわざ、ここに来るのが楽しみでガルガライスまでやってくる連中だっているってのに、せっかく暑い思いをしてやってきて、海で遊ばない方がおかしくねぇか?」
「そういう人々は確かにいるだろうけれども! 君は僕にそういった破廉恥漢と同じことをせよ、と言うのかい!? 曲がりなりにもファリスの神官位をいただいている人間に!? 神罰を与えられかねない、倫理も良俗も無視した振る舞いだよ、それは!」
「へぇ。つまり、ここで水着姿で楽しく泳いでる連中は、お前さんにしてみりゃどいつもこいつも許しがたい破廉恥漢なわけだ?」
「っ……そこまでは、言わないけれど……」
「そんな矛盾した台詞をファリスの神官さまが吐いていいのかねぇ。自分の好き嫌いで論理も倫理も捻じ曲げて相手を攻撃する。それこそファリスの御心に背く振る舞いなんじゃねぇか?」
「っ……っ………!」
 フェイクの言うことには筋が通っている。文化や風俗は土地によって違うもの。その単純な事実を無視し、ひとつの立場からの見地のみでなにもかもを推し量ることは、傲慢であり高慢だ。そんな態度はその土地の人々との交流には百害あって一利なし、旅立つ者が最初に放り捨てねばならない愚劣な振る舞いでしかないだろう。
 だが。それでも、アーヴィンドとしてはここで退くわけにはいかない。ここで退いてしまえば、それこそガルガライスの良俗を大きく乱すことにも――
「アーヴっ、なに話してんだよーっ。そんなマントみたいにタオル着込んでないでさっ、早く海行こっ、海!」
「ちょっちょっとヴィオっ、ちょっと待ってちょっと引っ張らないで頼むから待ってっ、あっ、あーっ!」
 突然のヴィオの攻撃に泡をくい、慌てふためいてしまったアーヴィンドではヴィオの力に抗することができるはずもなかった。マントか防寒具のように頭からかぶっていたタオルをあっさりと引っぺがされ、アーヴィンドはよろよろとその場に倒れる。アーヴィンドの、相応に鍛えているつもりではあるものの、いつも服を着込んでいるせいで白い肌が、水着で腰部分を隠しただけのはしたない姿が、ガルガライスの夏の浜辺にあらわにされた。
 ――とたん、浜辺が声にならない声でどよめいた、ようにアーヴィンドには思えた。
「……ねぇ、お兄さんっ? あたしらと一緒に泳がないっ? 一緒に遊ぼうよぉ、ねぇ、いいでしょぉ?」
 蜜のような蕩けきった声で少女たちの群れが声をかけてきた、と思えば。
「ねぇ、そこの可愛い坊や。私の別荘においでなさいな? 人のいない場所で、私と二人っきりで泳ぐこともできてよ。どう?」
 露出度の高い水着に身を包みながら、背後を逞しい用心棒に護られた、いかにも金と暇を持て余している貴婦人、という風情の女性に声をかけられ。
「なぁっ……なぁっ、あんた、こっち来いよっ。なぁっ、俺たちと一緒に泳ごうぜ、泳ぐだろ、なぁっ!」
 目の血走った、アーヴィンドと同年代ぐらいであろう若者たちに周囲を取り囲まれた、と思うや。
「………っ、おい。お前、ちょっと、こっちに来い」
 いかにも腕に覚えがありそうな逞しい中年男性にぐいぐいと手を引っ張られ。
 少女、童女、中年女性、婦人、老女、妙齢の女性。少年、青年、中年男性、老人、若者、壮年男性。次から次へと数多の人間たちが現れては誘いをかけ、あるいは我を忘れてアーヴィンドを押し倒してくる。平和な海水浴場が一瞬で欲望渦巻く歓楽街のごとき一軒甘やかでありながらその実殺伐とした空気に代わり、アーヴィンドをその渦中に呑み込まんと迫ってくる。
 ああ、これが予測できたから海水浴場なんて場所で肌を見せるのは避けたかったのに、とアーヴィンドは思わず頭を抱えた。湯屋でアーヴィンドの肌を見た際に、男が襲い掛かってくる確率、声をかけてくる確率が共に、他の場所でそういう事態に陥る確率よりもはるかに高かったため、アーヴィンドはそのような事態を極力避けるよう心がけていたのだ。湯屋は人のいない時間に使うようにしたり、暑い日でもできる限りきちんと服を着るよう心がけたり。
 それはフェイクにもきちんと伝えていたはずなのに、なんでこんな真似を、と苛立ちと疑念のこもった視線をフェイクに投げかけると、なぜかフェイクはにやりと、楽しげな笑顔を返してきた。予想外の反応に一瞬きょとんとしてしまったアーヴィンドに、フェイクは笑顔のまま、アーヴィンドの周りで騒ぎながらアーヴィンドの手や腕や体を引っ張り合う人々の陰に隠れて、気配を消し声を騒ぎに紛れさせ誰の目にもつかないようにしながら、月光の刃≠密やかに振り回し呪文を唱える。
「マナよ、万物の力の根源よ、我が声に応え一時摂理を曲げよ。無限の空間を一足に、無窮の時間を一瞬に、我が友を運ぶ手をここに=v
転移≠フ呪文だ、と驚き身構えながらも、フェイクのことだから悪いようにはしないだろうと呪文の効果を受け容れ、アーヴィンドは刹那のうちに別の地へと瞬間移動する。一瞬の意識の断絶のあと目に入ってきたのは、さっきまでとほとんど変わらないような、眩しい太陽と熱い砂浜、美しい紺碧の海――ただし、人間の姿だけがどこにも見当たらない。
 アーヴィンドがきょろきょろと周囲を見回している間に、新たに仲間たち――ヴィオ、ルク、フェイクの三人も、遅れてこの場所に転移してきた。少しほっとしながらも、まず聞くべきことを聞かなければ、とフェイクに勢い込んで問いかける。
「フェイク、これはどういうことだい? ここはどこで、君は何のために、僕たちをここまで転移させてきたんだい?」
「ここがどこか、ってことなら、お前らも普通にわかると思うがな。周りをちったぁ落ち着いて眺めて、五感をちゃんと働かせてみろよ」
「五感、って……」
「あ! わかった、ここガルガライスだ! さっきの海水浴場からそんなに離れてない!」
「えっ……」
 ヴィオの言葉に、思わず周囲を見回す。確かに、砂浜に生える木々の植生や、気温・太陽の高さなどを見る限り、おそらくガルガライスからさほど離れてはいないだろう、というのはわかる(ヴィオのように、風の匂いなどから即座にどれくらいどの方向に離れているかを悟るようなことはアーヴィンドの知識ではできないのだが)。
「いや……それはわかったけれど、あの、なんで? フェイクがこういう、海水浴の穴場……だよね、ここは? を知っていて、そこに僕たちを連れてきてくれたというのなら、素直に嬉しいんだけど。そういうわけじゃないんだよね? それなら、そもそもさっきのような、人でみっしり埋まった海水浴場に、わざわざ僕たちを連れてくる意味がなくなるわけだし……」
「いや、単に穴場の海水浴場に連れてきただけだぜ? さすがにさっきのとこみてぇに人が群がってくる場所じゃ、お前さんもまともに海水浴を楽しめねぇだろうって思ったからな。お前さんを海水浴に連れてくるなら、場所の下調べくらいはするさ」
「え……それなら、なんでわざわざ、さっきのような人の多い海水浴場に……?」
「そりゃあ、お前さんが素肌を見せた時に、どんくらいの連中が釣れるのか見てみたかったからさ。海水浴場にいる人間が隅から隅まで目の色変えて、お前さんに突撃してくる光景はなかなか見応えがあったな」
「…………」
 アーヴィンドは思わず拳を握り締めてしまったが、ごくあっけらかんと笑うフェイクが、わざわざ自分のために海水浴場の下調べをしてまで、自分たちに海水浴を楽しませようとしてくれたことは間違いのない事実ではある。正直アーヴィンドの倫理観からいうと、浴場というわけでもないのに昼日中からこのように素肌をさらけ出すという時点ではしたないように思えるのも確かなのだが、自分に欲情する者がいないのならば海水浴というものに興味がまるでないわけでもないし、それになにより。
「アーヴーっ! なにしてんだよ、早くこっち来て一緒に泳ごーっ! フェイクもルクもっ、早く早くーっ!」
「……はいはい、わかったよ。今行くから待っててーっ!」
 人のいない海辺でまっしぐらに海へ突撃し、波打ち際ではしゃぐヴィオの誘いに、苦笑しながら叫び返す。フェイクも軽く笑いはしたものの、発動体である月光の刃≠含めて、荷物を獣などの手が届かない場所に安置し、荷物番としてゲーレを置いて、海水浴を楽しむ準備を整えていた。ルクも相変わらずの無表情ではあるものの、アーヴィンドが動き出すのを切望しているかのように、アーヴィンドに視線を据えながら手足を落ち着かなげに揺らしている。
 仲間たちがこうも海を楽しもうとしているのだ、アーヴィンドとしても楽しまないでいる方が無礼というものだろう。アーヴィンドはルクに微笑みかけて、海へと向けて走り出した。
 ……その後、突然ルクが何度か突撃してきて受け止めきれず砂浜や海中で押し倒されたり、ガルガライスにたどり着く前にさんざん叱りつけたせいでずっと宿屋で拗ねていたラーヤが突撃してきたり(その時初めてこの場所がコリア湾に浮かぶ無人島のひとつであることを知った)、というような突発事項はあったものの、日が暮れるまで海で泳いだり砂遊びをしたり、眩しい陽の光が降り注ぐ中浜辺や海の中で鬼ごっこのような子供じみた遊びをしてみたりと、なんだかんだで『海水浴』というものをしっかり堪能してしまったように思う。
 ほとんど裸のような格好で、塩水につかりながら夏の陽光をたっぷり浴びてしまったせいで、体中で日焼けの苦しみを味わうことになってしまったのは、さすがに少々閉口したが。

「なーなーアーヴっ、あれ見てよ! 魚が海の上ぴょんぴょん飛んでるっ!」
「本当だ……! あれはトビウオだよね? オランの方にも生息はしているはずだけど、見たのは初めてだよ! コリア湾を移動しているだけとはいえ、こんなちゃんとした船で海を移動したのは初めてだから、当然といえば当然なのかもしれないけど……」
「うんうんっ、でも船にしてよかったよなーっ。こんな風に見たことないものいっぱい見れるしさ!」
「そうだね!」
 ヴィオと甲板をうろつきながら、目に入ったものを指さし、思い浮かんだあれやこれやをさして考えることもなく口に出して、語り合う。一緒に冒険者を始めた頃から数ヶ月経ち、とんとご無沙汰になっていたやり取りだが、それでもというかそれゆえにこそたまらなく心が弾んだ。
 ルクが後ろをちょこちょことついてきてはいるが、ルクは自分たちの語らいを邪魔するようなことはしないし、アーヴィンドとしてもルクの心を少しでも浮き立たせることができるのならば、この上なく嬉しいことなのは間違いない。ときおり話しかけたり笑いかけたりしてみてもまるで反応がないというか、いつもの無表情を崩す気配もないのが悲しいが、それでも自分たちについてきてくれているということは、少なくとも不快ではないのだろう。
 そして邪魔をする相手の筆頭であるラーヤは船出してからさして時間も経たないうちに見事に船酔いしてしまい、そのせいでアーヴィンドの方にもその苦痛を伝えてしまったということもあって、『船に乗っている間はもうここから出ない』とフェイクの無限のバッグの中に閉じこもっている。気の毒に思うのはもちろんだが、邪魔されることなくヴィオと思う存分語り合えるという状態に、たまらない解放感と高揚感が胸中に溢れているのもまた事実だった。
 ガルガライスの街を歩き回り、見たいと思ったものを思う存分見て回り、馬を駆って〈地の精の墓場〉と呼ばれる怪しげな洞窟へも足を延ばして軽く探索したりもしたのち、また新たな土地へと旅を再開しようとする自分たちに、フェイクは船でザーン近辺の港まで向かうことを提案した。
 ザーンは岩山をくり抜いて造られた半地下都市で、港を有してはいないのは周知の事実ではあるが、領土に港が皆無というわけではないらしい。大規模な商売など成り立たないごく小さな、基本的には漁村の小さな船着き場程度の代物らしいのだけれども、ドレックノール方面へ向かう際に、できるだけ陸地から離れないよう運行する船が停泊して、商売品をいくらか放出することがある港が、いくつか存在しているそうなのだ。
 フェイクはその港に向かう船を探し出し、相乗りさせてくれるよう交渉した。商船であり、本来客を乗せるようにはできていない船の持ち主はいくらか渋ったけれども、相応の料金を支払うことと、万一なにか敵性存在が船を襲撃してきた時に、無料で護衛の任を果たすことを利点として挙げると、あっさり説得されてくれたのだとか。
 なんであれ、アーヴィンドとしてはありがたい限りだ。これまでにない珍かな経験ができるというのは『若き冒険者のリュート』の呪いを解く上でこの上なく有効ではあるだろうし、新たな経験を積み我が身の糧にできるというのは、冒険者としても一人の人間としても嬉しいことなのは間違いない。
 それに単純に、これまで経験したことのない新しい事物を仲間と共に体験できるというのは、この上なく楽しく面白いことなのだ。
「うわ、海の色がどんどん変わっていく……! さっきまでは眩しいくらいの碧だったと思ったのに!」
「ほんとだなー、なんか暗くなってってる感じだ。ん−、でもオラン辺りの河の水よりは明るい色合いだから、フツーの海ってこんくらいなのかも?」
「なるほど……ガルガライスの海が宝石とも例えられる理由がよくわかるね。火の精霊力が強いせいなのか、水にも風にも大地にも陽の光のような熱と明るさが宿っているということなのかも……」
「おい、お前ら。そろそろ飯だぞ、いい加減戻ってこい」
『フェイク!』
 声を揃えてしまった自分たちに、フェイクは苦笑して肩をすくめる。
「まぁ船旅を楽しんでくれてるようで、提案した俺としてもありがたくはあるんだが。それにしてもずいぶんはしゃいでるな、お前ら。昨日乗船してから今までぶっ通しではしゃいでるじゃねぇか。船旅なんぞ一日もすれば、海にも飽きて見るもんもなくなって退屈を持て余すのが普通だろうによ」
「そんなことないよー、すっごい面白いよ?」
「うん、これまでにない経験だし、海も空も船も、見ることができるものはどれも美しいし。それに……その、ヴィオや、ルクと一緒だしね。退屈なんて感じる暇はないよ」
「だよなっ!」
 にかっといつもの笑顔を浮かべてくるヴィオに、アーヴィンドも照れくさい思いをしつつも笑みを返す。そんな自分たちを無表情で見つめるルクに視線を投げかけてから、フェイクはまた苦笑して肩をすくめた。
「わかったわかった、いいからとっとと船室に行くぞ。飯を食いはぐれちまったらたまらん。この船は陸の近くを進む船なんだから、珍しいものなんて出てこねぇんだ、楽しみ……にするほどのもんでもねぇが、俺の心慰めは飯くら――」
 そこでフェイクは言葉を切って、ばっと甲板の向こうを睨み据えた。ヴィオもそれより半瞬早くフェイクと同じ方向を向き、ルクもフェイクより半瞬遅れて同じ方を向く。アーヴィンド一人が反応できずに、一瞬きょとんとしてしまったが、口を開くより早く船員の絶叫が甲板中に響き渡った。
「海蛇だぁぁっ! くそでかい海蛇が出たぞぉぉっ!!」
「行くぞ!」
 フェイクの号令にはっと我に返り、アーヴィンドはフェイクとルクのあとを追って走った。船員の言葉が正しいにしろ間違っているにしろ、船を襲撃してきたものから船を護るのは自分たちの仕事だ。
 舳先まで駆けてきて見つけたのは、船員が叫んでいた通り、海蛇だった。それも、異様なほどに大きく、力の強そうな。アーヴィンドが書で読み、姿かたちを想像した海蛇の、最低でも二回り、いいや三回りぐらいは大きい。当然ながら力もそれに応じて強いようで、船に舳先からぐるぐると少しずつ巻きついていっている段階で、すでに船はミシミシと悲鳴を上げ、大きく揺らいでいる。早急になんとかしなければ、この船の大きさではあっという間に沈んでしまうに違いあるまい。
 それを見て取るや、アーヴィンドは即座に叫んだ。
「ヴィオ! 闇の精霊を海蛇に力を込めて連続でぶつけて! フェイクは麻痺≠フ呪文を、ルクは海蛇の身体を切り離せるかやってみて! 僕はルクの援護に回る!」
「うんっ!」
「おう!」
「っ……」
「おっおいお前なに言ってんだっ、そんなグラスランナーがこんなでかい海蛇をどうこうできるはず……」
「あなた方は下がって! 船の姿勢を少しでも保つことに集中してください!」
「なっ、お前、なにを偉そう……」
 むっとした顔でアーヴィンドに言い返そうとした船員の言葉は途中で途切れた。おそらく、すさまじい速さで飛び出して二閃の剣筋を走らせ、海蛇の皮膚を大きく斬り裂いたルクの姿を見て呆気にとられたのだろう。ルクの攻撃はまさに閃光、見切れる者も圧倒されない者もそうはいない。
 ヴィオも即座に精霊語の呪文を唱え始める。海蛇は一般的な魔物分類学に拠って分類するならば動物、内に秘める魔力はごく小さいのが普通だ。これほどに巨大な海蛇であったとしても、ヴィオの魔力で闇の精霊――ぶつかった相手の精神を、魔力を削る精霊をぶつけたならば、生命力を削るよりもはるかに効率よく追いつめることができるはず。
 そしてすでに上位古代語の呪文を唱え始めているフェイクの実力をもってすれば、これほどに強大な海蛇であろうとも、相当な高確率で呪文を完全な効果でかけることができるだろう。麻痺≠フ呪文が通ったならば、どれほど強大な生物でもその一撃で終わりだ。一度ならば失敗することもあり得るが、二度三度とかければまず間違いなく呪文は完全な効果を発揮する。海蛇が船に与える打撃力から考えても、よほどとんでもない不運でもなければ、船が壊れるまでに海蛇を無力化できるはず――
 というアーヴィンドの予測は、あっさりと外れた。
「―――っ、まずいぞ! この蛇野郎……魔法が効かん!」
「えっ!?」
 アーヴィンドは思わず仰天する。魔法が効かない。魔法無効化能力。そんなとんでもない力を持つ生物がコリア湾に生息しているなど、聞いたこともない。それともこの海蛇は、実は古代王国時代に創られた、そういった能力を持つ生物の生き残りだとでも? いや、それにしたところであまりに能力が破格すぎる。そんな代物がこんな陸の近くをうろついているのなら、もっと騒ぎになっていなければおかしいはずだ。つまりこれは――
 などと全速で頭を回転させながらも、アーヴィンドはフェイクに訊ねる。
「魔法が効かないっていうのは、どんな魔法も効かないってこと? 呪文を懸けた時の感触とかから、少しでもわかることはある?」
「おそらくは……精神に属する魔法の無効化とか、そういった系統の能力だろう。実験で巨大蟻に精神系の呪文をかけた時と同じような、奇妙な手応えのなさを感じた。たぶんだが……行動を封じる呪文≠ェ、この蛇には効かないんだ」
「そんな能力が……」
「ああ、そんな奇妙な能力、どう考えたって普通に身に着けられるわけがねぇ――だが詮索はとりあえず後だな!」
 早口でアーヴィンドとフェイクが会話を交わしている間に、ヴィオは闇の精霊をいくつも海蛇にぶつけていた。その呪文の切れ間にすかさず「ヴィオ! 大丈夫? 君の呪文は効く?」と問いかけると、ヴィオは力強く、大きくうなずいてみせてくれる。
 ほっとしたが、そこで気を緩めるわけにはいかない。闇の精霊の力が発揮できているとはいえ、この奇妙な海蛇が、一般の海蛇よりはるかに強靭な、動物では考えられないほどの精神力を有している可能性もあるのだ。
 その上、闇の精霊をぶつけられたせいかルクの双刃が痛かったのか、船に巻きついていた海蛇が鎌首を持ち上げ、こちらに向けてその長大な牙と身体を叩きつけようとしてきている。アーヴィンドは慌てて気弾≠フ呪文の準備をしようとしたが、その前にフェイクが自分の前に立つ。
「傷の治癒は任せたぜ」
「フェイク! 頼める!?」
「当然だろうが。こういう力任せのデカブツの足止めはな、盗賊の十八番なんだよ!」

 フェイクが前面に立って海蛇の攻撃を逸らしつつ、ルクが海蛇の身体に切り付け、ヴィオが闇の精霊をぶつけ続け、アーヴィンドがひたすらに癒し≠フ呪文を唱え続けることしばし。ヴィオのぶつけた何発目かの闇の精霊により、海蛇は気を失ったようで、全身の力を抜き、船に絡みついたままぐったりとその身を投げ出した。
 船員たちが大騒ぎしながら、とりあえず近場の港(ここからだとベルダインの港になるのだろうが)へ急ごうとしている中で、アーヴィンドたちは時間をかけて、海蛇の身体を探り、急所を見つけとどめを刺しておく。そして同時にその死体の血抜きをし、大量の血液を一滴もこぼさないままフェイクの無限のバッグの中へと溜め込んだ。
 これもやはりフェイクの所持する魔法の道具の中のひとつ、血液保存の瓶の力によるものだ。こういう珍しい、薬効を期待できる獣の血を保存するための魔法の道具で、目の前の血抜きしている生物の身体から、血を一滴残らず吸い込み、保存できるのだという。しかもひとつの小さな瓶で大きな泉一つ分ほどの血液を保存することができるので、今回のような大きな獣の血を抜くのにはこの上なく便利なんだそうだ。
 そんな魔法の道具を使ってまでこの海蛇を保存しようとしたのは、ヴィオが『狩ったものからはできる限り命をいただくべき』と主張したせいもある。フェイクが『この蛇の皮はうまく保存すれば売り物になる』と保証して、『知り合いの商人の所に死体ごと持ち込めば血や肉も売り物にもなるかも』と告げたせいもあった。
 だが、当然ながらなによりも、この海蛇の有する特殊な力を少しでも調べられたら、という気持ちがあるからでもあった。殺してしまった以上当然ながらそれは難事ではあるだろうし(それでもこの海蛇の危険性からするととどめを刺さない選択肢はありえなかったが)、死体に魔力感知≠竍魔法鑑定≠ネどをかけてもまるで反応はなかったが、それでもできることをやっておかないわけにはいかなかったのだ。
「………呪いのせいにしろ、違うにしろ。少なくともこれはもう、偶然とは言えないだろうね」
「そうだな。二回続けて明らかに普通じゃありえない代物が出てくるってのは、いくらなんでもおかしすぎる」
「一度、賢者の学院で精密検査を受けるっていう手もあるけど……」
「確かにその手もあるだろうが、その手を使うとどうしたって時間がかかりすぎる。『若き冒険者のリュート』の呪いが暴発する恐れが出てきちまう。それに、思い上がりでも自信過剰でもなく、俺たちよりも精密な鑑定を即座に行えるような奴は、いくらオランの賢者の学院だろうと、そうそういやしねぇ。ま、お前さんの実家の影響力をふんだんに駆使すりゃ、高導師や大賢者級の相手のお出ましを願えねぇこともねぇが、それはできれば避けてぇだろ?」
「うん……」
 アブガヒードの呪いと同系統だからというせいもあるが、個人的な勘でいうならば、『若き冒険者のリュート』の呪いも、いかにアールダメン候家がその財と影響力を駆使しようともなんともできなさそうな気がする。それでは単に両親に心配をかけるだけだし、正直言えば両親がまた現実を無視し自分を屋敷に閉じ込めようとするのではないか、という危惧も消し去れてはいないのだ。
「ま、結局は、せいぜい気をつけながら前に進むしかねぇ、ってことなんだがな」
「そうだね……」
 うなずき合うアーヴィンドとフェイクを、ヴィオとルクは、かたやにこにこと、かたや無表情でじーっと見つめている。改めてちゃんと説明しようかとも思ったものの、どちらもまともな反応を返してくれなさそうではあるし、なによりも、それより優先すべきことが自分にはあると気づいて、アーヴィンドはふたりににこっと笑いかけた。
「ヴィオ、ルク。二人とも本当にお疲れさま。いつものことだけど、助かったよ。――特にヴィオ。君がいなければ、今回は船が沈む前になんとかできたか怪しい。二人とも、本当にありがとう」
 そう言って頭を下げたアーヴィンドの言葉を、ルクはいつものように無表情で受け流したが、ヴィオははじけるような笑顔を返し、「うんっ!」と叫んで、勢いよく抱きついてきたのだった。

戻る   次へ
『ソードワールドRPG』topへ

キャラクター・データ
アーヴィンド・クラーク・リズレイ・プリチャード(人間、男、十五歳)
器用度 12(+2) 敏捷度 20(+3) 知力 23+1(+4) 筋力 15(+2) 生命力 19(+3) 精神力 20(+3)
保有技能 プリースト(ファリス)7、セージ6、ファイター4、ソーサラー3、レンジャー2、ノーブル3
冒険者レベル 7 生命抵抗力 10 精神抵抗力 10
経験点 8919 所持金 2600ガメル+共有財産54000ガメル
武器 ヘビーメイス+1(必要筋力15) 攻撃力 7 打撃力 20 追加ダメージ 7
銀のダガー(必要筋力5) 攻撃力 5 打撃力 5 追加ダメージ 6
ロングボウ(必要筋力15)/矢&銀の矢×60 攻撃力 6 打撃力 20 追加ダメージ 6
ラージ・シールド+1 回避力 10
ラメラー・アーマー+1(必要筋力15) 防御力 20 ダメージ減少 8
魔法 神聖魔法(ファリス)7レベル 魔力 11
古代語魔法3レベル 魔力 7
言語 会話:共通語、東方語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、上位古代語、下位古代語
読文:共通語、東方語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、上位古代語、下位古代語
マジックアイテム 魔晶石(5点×2、3点×6、2点×7、1点×10)
ヴィオ(人間、性別不詳、十五歳)
器用度 15(+2) 敏捷度 19(+3) 知力 18(+3) 筋力 18(+3) 生命力 21(+3) 精神力 21(+3)
保有技能 シャーマン7、ファイター6、レンジャー5
冒険者レベル 7 生命抵抗力 10 精神抵抗力 10
経験点 6419 所持金 5000ガメル
武器 ロングスピア+1(必要筋力18) 攻撃力 9 打撃力 25 追加ダメージ 10
ロングボウ(必要筋力18)/矢&銀の矢×60 攻撃力 8 打撃力 23 追加ダメージ 9
なし 回避力 8
銀の最高品質プレート・メイル(必要筋力18) 防御力 28 ダメージ減少 7
魔法 精霊魔法7レベル 魔力 10
言語 会話:共通語、東方語、精霊語
読文:共通語、東方語
マジックアイテム 魔晶石(8点×1、5点×5、4点×10、3点×10、2点×10、1点×20)
月の主<tェイク(ハーフエルフ、男、九十歳)
器用度 18(+3) 敏捷度 21(+3) 知力 19(+3) 筋力 10(+1) 生命力 18(+3) 精神力 21(+3)
保有技能 シーフ10、ソーサラー9、レンジャー7、セージ6、バード6
冒険者レベル 10 生命抵抗力 13 精神抵抗力 13
経験点 1399 所持金 財布の中に入ってるだけで10000ガメル程度
武器 月光の刃 攻撃力 16 打撃力 13 追加ダメージ 14
なし 回避力 16
ソフト・レザー+3(必要筋力5) 防御力 5 ダメージ減少 13
魔法 古代語魔法9レベル 魔力 12
呪歌 ヒーリング、レストア・メンタルパワー、チャーム、レクイエム、キュアリオスティ、ノスタルジィ
言語 会話:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語、西方語、エルフ語、ドワーフ語、リザードマン語、ケンタウロス語、ゴブリン語、マーマン語、ジャイアント語、ハーピー語
読文:共通語、東方語、上位古代語、下位古代語、西方語、エルフ語、ドワーフ語
ルク(グラスランナー、男、五十一歳)
器用度 24(+4) 敏捷度 28(+4) 知力 18(+3) 筋力 6(+1) 生命力 18(+3) 精神力 24(+4)
保有技能 シーフ9、レンジャー5、セージ2
冒険者レベル 9 生命抵抗力 12 精神抵抗力 13
経験点 2428 所持金 4000ガメル
武器 ダガー+2(必要筋力3)×2 攻撃力 13 打撃力 3 追加ダメージ 12
銀の高品質ダガー×2 攻撃力 11 打撃力 5 追加ダメージ 10
スリング+2(必要筋力3) 攻撃力 15 打撃力 8 追加ダメージ 12
なし 回避力 14
ソフト・レザー+1 防御力 3 ダメージ減少 10
言語 会話:共通語、西方語、東方語
読文:共通語、西方語、東方語
マジックアイテム エクスプローシブ・ブリット×3、クイックネス・リング、コモン・ルーン/カウンター・マジック&プロテクション
ラーヤ(インデフィニット・ファミリアー、女、六百十二歳)
モンスター・レベル=7 知名度=20 敏捷度=18 移動速度=18/30(空中) 出現数=単独 出現頻度=ごくまれ 知能=高い 反応=中立
攻撃点=爪:16(9) 打撃点=12 回避点=18(11) 防御点=9 生命点/抵抗値=10/16(9) 精神点/抵抗値=18/18(11)
特殊能力=使い魔としての強力な適性、変身、飛行、不眠 棲息地=人里の近く 言語=アーヴィンドの使用する言語と同じ 知覚=五感(暗視)