都大会
「キャーっ、リョーマ様、素敵ぃーっ!」
 小坂田の黄色い歓声に、隼人は顔をしかめた。
「小坂田お前なー、俺も試合してんだろーが! 俺に言うことはねーのかよっ」
「あるわよ。はやぽん邪魔! リョーマ様の華麗な動きが見にくくなるじゃない!」
「お前な……ていうかはやぽん言うな!」
「あ、あの、赤月君も、頑張ってた、よ……?」
「……いや、竜崎さん、気ぃ使わないでいいから」
 南次郎が竜崎に頼まれたコーチをさらに任されてやってきた壁打ち場で出くわしたトラブル。銀華中のコートに桜乃がボールを飛び込ませてしまい、それを隠した奴らとリョーマと隼人が戦うことになって。
 わずか十五分で6-0で勝利した上、銀華中の部員たちを次から次に倒しまくって全員ノックダウンさせたあとにこうも自分の存在を無視されると、慣れているとはいえ当然面白くない。
「……ちっ。手塚部長と約束があるって言ってたからしょーがねーけど、巴がいたらなー」
 巴も誘ったのだが、手塚部長と練習の約束をしているからリョーマとの別場所での練習にはつきあえない、と言われてしまったのだ。
「なによ。従妹にわざわざ声援送らせるつもり?」
「バカ、そーじゃねーよ。ただなぁ……」
 言いかけてやめた。巴がここにいたらすごいすごいと拍手してくれるからなのか、それとも単純に巴にいいところを見せたかったのか、自分でもなんであんなことを言ったのかよくわかってないのに説明するのは難しい。
「なーによー、途中まで言いかけてやめないでよ」
「なんでもねーっての」
「……ま、この程度の奴だったら山ザルでも勝てるからね。確かに赤月がいた方がよかったかもね、こんなところくらいでしかいいところ見せられないんだから」
「ぁんだと、コラ!? なんだったら勝負するか、五月の時みたいにまたこてんぱんにしてやるぜ!」
「いるよね、たった一度の勝利をいつまでも自慢する奴。別に勝負してもいいけど、恥かいても俺のせいにしないでよ」
「上等だこのヤロ、ここのコートで勝負してやら!」
「キャ〜、やっちゃえリョーマ様〜!」
「あ、あの……私たちの、練習は……」
 そんな風に騒いでいたので、隼人は、銀華テニス部の部室の中から苛烈な視線が自分たちに注がれていたことにまったく気づかなかった。

(はー、やれやれ……こーいう雑用が一番疲れんだよなぁ……)
 ボールを運びながら隼人はため息をついた。隼人はボールをいくつもの籠に集めて一気に運ぶのが好きなため、よけいに疲れるし一人だけ置いてけぼりになってしまっている。
 ま、しょーがねーんだけど、と思いつつ隼人は籠を担ぎ上げた。これも部員の務めだ。特に自分はまだ一年生なわけだし。
 先日の都大会、準々決勝まででは結局ミクスドかダブルスしかできなかった。どちらもそれなりに慣れてはきたが、やはり次の都大会準決勝、決勝ではシングルスに出て勝利したいものだ。そのためにもこーいうところでサボっていてはよくないだろう。
 と、コート入り口に、巴が立っているのが見えた。そのすぐ前に立っている白ランのかなりでかい男となにやら大声で話している。
 他校生か? と思いつつそちらに近づいて、気がついた。横に荒井先輩が倒れている。その上、巴のあの顔は――
 本当は怖いのに必死に虚勢を張っている時の顔だ!
 そう気づいた瞬間、隼人は全力で駆け寄っていた。
「おい!」
「あ゛?」
 そのでかい白ラン男がこちらを振り向く。自分より頭半分以上背が高かったが、そんなことは問題ではない。素早く巴との間に割って入る。
「巴、大丈夫か? どうした?」
「はやくん……あのね、こいつがリョーマくんを連れてこいって……」
「リョーマを?」
「お前……」
 その白ラン男がぎろりと隼人を睨んだ。ただ見ただけなのかもしれないが、とにかく目つきが悪いので睨んでいるようにしか見えない。
「なんだよ?」
「……ついでだ、お前も一緒に相手してやんぜ。早く越後屋を連れてこい」
「……ついでだぁ? 俺はリョーマのおまけじゃねぇぞっ!」
 一気に頭に血が上った。リョーマの付随品扱い――そんなもの、我慢できるか!
 見ればこいつはラケットを持っている。どこかのテニス部員だろうか。それなら――
「リョーマの前に俺と勝負しろ! こてんぱんにしてやるぜ!」
「ハッ! ……上等じゃねーの」
 男はひょいと置いてあった籠からボールを手に取った。そして予備動作なしにボールを宙に放り投げ――こちらに向けて打ってくる!
「!」
 隼人は一瞬身をかわしかけたが、すぐに身を固くしてボールを受け止めた。ここで避けたら、巴に当たる!
 ばしっ、ともろにボールを腹に受け、隼人はごふっ、と息を吐き出した。こんのヤロ……いいショット打ちやがる……。
 そこに横から慌てたような声がかかる。
「はやくん! なにやってるの、避けなきゃ駄目でしょ!」
「へ!? って巴、いつの間にそっちへ……!」
 巴は荒井を連れてとっとと逃げ出していたことに声をかけられて気づいた。ちくしょー俺って間抜けっ、と思いつつもなんとか格好をつけようと男を下から睨み上げる。
「この程度かよ、あんたのショット。河村先輩のに比べれば大したことねーぜ」
「……最高じゃねーの!」
 男はポケットからなにかを取り出した。そして今度はそれをこちらに向けて打ってくる。
 隼人は打たれたものを見て仰天した。―――石!?
 当たったらマジで怪我すんじゃねーかコンチクショー、と思いながら自慢の動体視力と反射神経で次々とかわす――が。
「――つっ!」
 一発、二発。一度に襲いかかる大量の石に、頬と腹の石は完全にかわすことができなかった。頬からつぅっ、と血が伝う。
「……の、ヤロ」
「はやくん!」
 巴の悲鳴のような声。本当はかなり痛かったし効いたのだが、巴に心配かけるわけにはいかねーと隼人は男を睨みつける。
 しかしどうすればいいのか。喧嘩の腕にはそこそこ自信があるが体格が違うし向こうはかなり喧嘩慣れしていそうだ。かといって石を手でつかんだりすれば手に怪我を負うかもしれないし……。
 せめてラケットがあれば、と唇を噛む。石の一発や二発打ち返せるのに。
「ハッ、どうした? 威勢がいいのは口だけか?」
「そっちこそやたら偉そうなわりに腕の方は大したことねーよな? 一度に何発も石打って、当たったの二発だけかよ」
「……面白ぇ」
 男はにぃ、と狂犬のような笑みを浮かべ、さらにポケットから石を出す。
「ほらよっ! 全部かわしてみな!」
 さっきよりさらに石の数が多い!
 舌打ちしながら隼人は必死に打たれた石をかわす。一発、二発、三発。四発五発六発……!
「っ!」
 遅れて飛んできた顔への一発の防御が間に合わない!
「はやくんっ!」
 駄目かっ、と歯を食いしばった時――ぽん、とその石が打ち返された。
「………!?」
「まだまだだね」
 そう言いながら横から伸ばしたラケットをすぅっと引いて出てきたのは――リョーマだった。
「リョ………!? なんでこんなとこにいんだよっ!」
「それはこっちの台詞。ボール運びにいつまでかかってんの」
「ばっ、それはなぁっ……」
「ようやく会えたな、越前屋」
 男がずっ、と顔を出してきて、会話は中断された。二人揃って男の方を睨む。
「……あんたのこと、知らないんだけど?」
「ふん……」
 ひょい、と今度は地面から石を拾い――リョーマ目がけ打ち出す!
「俺の名前は、亜久津仁。山吹中の、三年だ!」
「くっ!」
 リョーマは次々にラケットで打ち返す――だが、リョーマの受けるより石は速く、そして正確に飛んできた。
「つぅっ……!」
「リョーマ!」
 隼人は慌てて駆け寄る。頬に切り傷、目じりにあざができていた。どっちもかなり深い。
 ぎっ、と隼人は男を睨む。かぁっと頭に血が上った。スポーツ選手の体に傷つけやがって……!
 だが、男――亜久津は気にした様子もなくふんと鼻で笑う。
「今日はほんの挨拶代わりだ」
「にゃろう……」
「都大会決勝まで勝ち進んでこい。そこで遊んでやるぜ」
 そう言って、亜久津は青学男子テニス部コートを去っていった。

「ほれ、じっとしておれ!」
「いててっ!」
「……はい、終わりだよ。急所はうまく避けているとはいえ、二人ともひどい傷じゃないか。いったい誰にやられたんだい?」
『……転んだだけっス』
 隼人とリョーマは口を揃えて言う。
「おい、越前、赤月! 山吹中の亜久津にやられたそうじゃないか」
 大石が部室に駆け込んでくるなり叫んだ。
「転んだだけっスよ」
「なに言ってんだ、そんなに派手にやられて! そいつを中体連に訴えれば……」
「だから……転んだだけっスよ」
「おい、赤月! お前もなにか言ってくれよ」
「……転んだだけっス」
 揃ってそう言う二人に、桃城が笑った。
「ダメっスね、大石先輩。こいつら、自分でカタつけてやるって顔してますよ」
「んげっ!? 頼むから、トラブルはやめてくれ!」
 わいわいと騒ぐギャラリーをよそに、巴がすすすっと二人のそばに寄ってきた。そしてそっと耳打ちしてくる。
(はやくん……リョーマくん。本当に言わなくていいの?)
(いいんだよ。俺たちに任せとけ)
(お前も、余計なこと言わないでよね)
(…………)
 気遣わしげに見つめてくる巴の顔を見ると、少し胸の辺りがぎゅっとはするけれど。
 これは男のプライドの問題なのだ。自分の手でケリをつけなくてどうする!
 ……リョーマと同意見というのは、ちょっと気に入らないが。

 土曜日。練習後。
「……別に、来なくてもいいけど?」
「お前こそ来なきゃいいじゃねぇか」
「おいおい、これから楽しい寄り道タイムなんだぞ〜」
「二人とも少しは仲良くしようよ。もう、悪いことする時ばっかり気が合うんだから」
『合ってない』
 隼人、リョーマ、巴、天野、桃城、菊丸の六人でマックにでも寄ろうかということになった。まぁよくあるといえばよくあることだ。自分と巴とリョーマは同じ家に住んでいるのだからたいていは一緒に帰るし。
 明日は都大会。家に帰れば食事が用意してあるとはいえ、それまでもたないのが育ち盛りなのだ。
 わいわい喋りながらファミレスの横を通り抜けようとした時――
「にゃ、にゃに〜っ!?」
「ど、どしたんスか菊丸先輩!」
「英二くんの脅威の動体視力が鈍ったか!? 見ろよ、タカさんが女と一緒にファミレスに入ってく〜!」
『えぇっ!?』
 確かに見てみると河村が美人の高校生ぐらいの女性を連れてファミレスに入っていく。なんというか……ただならぬ雰囲気だ。
「まさか……ねぇ? 河村先輩に限って……」
「あんなに真面目な河村先輩が、都大会前に……」
「――デートだな」
『わぁ!』
「乾、いつの間に!?」
 どこからともなく乾の登場。隼人は人間やめてるんじゃと時々思う先輩である乾をどっきんどっきんしながら見た。
「なんか、河村の様子が変だったからね。いいデータが採れるかも」
 なんのデータだ。
「どうした? 早く中に入らないと、見失うぞ」
 そう言われて顔を見合わせ、全員こそこそとファミレスに入った。実のところ、全員気にならないわけではないのだ。
「しっかし、驚いたなあのタカさんが……」
「だぁっ、見ろ! 泣かせた!?」
「やるな、河村」
「スミに置けないっスね」
「置けねぇよ」
「河村先輩大人ですねー……」
 全員わいわい喋りながらこっそり河村を見守る。もちろん隼人と巴も揃ってかぶりつきで見守っていた。
 これはただ心配だから見守ってるだけなんだよな? うん、そうだよ、やましいことなんかないよ。と従兄妹アイコンタクトで通じ合いつつ。
 ――と。
「あれ、もう一人男が来たぞ?」
「………っ!」
(あいつは!)
 山吹中の三年、亜久津仁……!
 亜久津は河村たちの話していたテーブルに近づき、険悪な雰囲気で少し話した後――河村の頭からアイスコーヒーをかけた。
「!」
「ひっでぇ……」
 がたん、と巴が立ち上がった。顔が真っ赤になっている。
「あんな温厚な河村先輩にまで、許せない! あいつにも水をかけてやる!」
「おい、よせよ! ますます話がややこしくなっちゃうじゃん」
 慌てて菊丸たちが止めに入る。
「と、止めないでください菊丸先輩!」
「だからやめろって!」
「巴ちゃん、落ち着いて!」
(………俺らが石をぶつけられたのはいいのか?)
 そうは思いはするものの。なんのかんの言いつつ正義感の強い巴はあの男の行為が許せなかったのだろう。くすぶっていた思いが河村への行為をきっかけに、恐怖を打ち消すほど燃え上がったのだ。
 ――だが。あの男に喧嘩を売るのは、巴の役目ではない。
 バシャッ。
 水音が二重奏で響き、自分とリョーマは一瞬顔を見合わせた。――二人揃って同時に、亜久津に水をぶっかけたのだ。
「……てめぇ」
 亜久津に唸るように言われ、我に返ったのはリョーマの方が早かった。
「ああ、ゴメンゴメン。ズボンに水がかかっちゃったね。もしかして、ズボンじゃなくて河村先輩みたいに頭からかけた方がよかった?」
「あ、おチビ、はやぽん、やめとけって!」
 こんな時にはやぽんはやめてくれぇ、と叫びたくなったがここで突っ込んでは話がぐだぐだになる。ぎゅっと歯を食いしばって耐えた。
「この間はどーも。自己紹介がまだだったよね。青学一年越前リョーマ、よろしく」
「リョーマ、てめぇ勝手に喧嘩売ってんじゃねぇ! 俺も同時に水かけたんだからな! この間だって石ぶつけられたの俺が先だったじゃねぇか!」
 遅れてはならじと隼人が叫ぶと、リョーマはクールな目でこちらを見やって言う。
「それがどうかした?」
「俺が先に喧嘩売られてるんだ! だったら買うのだって俺が先だろ!」
「そんなの関係ないね。山ザルがもたもたしてるのが悪いんでしょ?」
「ぁんだと、コラ!?」
 相変わらずの台詞に一瞬切れかかる――だがすんでのところで今喧嘩を売るべきはリョーマではないと思い出した。
「……おい、俺は青学一年、赤月隼人だ! 俺と勝負しろ、このすっとこどっこい!」
「……ハッハッハァー! 最高じゃねーの、河村。この一年坊主ども」
『こいつと一緒にするな(しないでくれる)!』
「どっちでもいいぜ。都大会の決勝まで来りゃ、遊んでやるよ! なんだったら、二人一緒だっていいんだぜ? まとめて潰してやるからよ!」
 ファミレスの中、三人は緊迫した空気で睨みあった――

 都大会決勝――
「……お前たち、ダブルス1でいいんだね?」
「はい!」
「そうっス」
 隼人とリョーマはそれぞれうなずいた。
 亜久津との勝負はダブルス1、自分とリョーマ二人のダブルスでつける。そういうことだ。
 別に話し合ったわけではない。ただ、決めていただけ。
 自分は亜久津となんとしても決着をつけたい。そして、リョーマもそうに決まってるということは、いくらなんでもわかる。
 隼人なりに考えた。結果、今回はリョーマにも半分譲ってやるか、という大人な結論に達したのだ。
 先に喧嘩を売られたのは自分だが。リョーマも一緒に喧嘩を売られたわけだ。となると、自分だけ亜久津と決着をつけるのはちょっと不公平なのではあるまいか。大人になって考えてみれば、リョーマにも均等に機会を与えるべきだろう。
 リョーマもそう考えたのかどうかは定かではない。都大会当日の朝、隼人がぶっきらぼうに「今日は俺とダブルス1だからな」と言って、リョーマがいつも通りに愛想のない声で「……別に、いいけど」と答えたというだけだから。
 チームワークなんてかけらもないだろうが、向こうだってどうせそんなものないのだ。ただの一対一対一対一、シングルスとなにも変わらない。
 とにかく、(あの女の人から)亜久津にも伝えた。こちらのやる気も十分。――あとは戦うだけだ。
「――お前さんたちにも考えがあるんだろうから、ぐだぐだ言うことはしない。ただ」
 竜崎はいったん言葉を切ってこちらを睨む。
「ダブルス1を黄金ペアに代わって任せるんだ。勝たなきゃ承知しないよ。いいね」
「はい!」
「うぃーっス」
 それぞれ答える。当然のことだ。もとより勝つ以外に道などない。
 そして竜崎はオーダーを出しに行き、決勝戦の試合が始まった。ダブルス2は山吹の全国レベルのペア南と東方、大してこちらは黄金ペア。少し苦戦はしたがわりとあっさり黄金ペアが勝利した。
 ――そして、ダブルス1。向こうは亜久津と、新渡米という男だった。ダブルスペアの片割れを崩したらしい。
 隼人とリョーマ、そして亜久津は向かい合って睨みあった。
「二人揃って、逃げ出さなかったようだな。ここまで来たことは、褒めてやるぜ」
「どーも」
「約束通り、遊んでやろう」
「亜久津……」
 亜久津の横で新渡米がおそるおそる腕を引こうとしたが、一睨みされて黙った。審判に注意されるのが嫌だったのだろうが、審判も亜久津にビビりまくっている、注意されることはあるまい。
「……遊びのつもりでやってると痛い目見るぜ」
「あ゛? テメェ、誰に言ってんだ?」
 あんたに決まってるだろ、と言ってやろうかとも思ったが、やめた。今は口喧嘩している時じゃない。
 ――勝負の時だ。

「青学赤月、トゥサーブ!」
 まずは自分のサービスから――
 当然のことながら容赦はしない。亜久津の足元にサーブを打ち込んでやるつもりだった。
 ――取れるもんなら取ってみやがれ!
 高々とボールを上げてビシッ、と打ち込む。亜久津は殴るような奇妙な動きで、強烈なショットを返してきた。
「の!」
 ラケットで拾い、打ち返す。ぐぅっと腕に重みがかかったが、ラケットを落とすほど重い球ではない。
 亜久津はなんというか、ひどく無駄が多いように見える動きでネットに出て、反対方向に打たれた球を返そうとした。
 あの体勢からじゃクロスには返せない――ストレート! そう判断して隼人はそちらに動く。
「――らぁっ!」
 ――亜久津の返球は、クロスだった。
「な……!」
「……にゃろう」

「……乾先輩……あの人、いったいなんなんですか……?」
 天野は思わず言った。亜久津はどう考えても無理な姿勢から、隼人やリョーマが動くのと逆方向にボールを打っているのだ。
「……亜久津はその驚異的な体の柔軟さと運動神経で、どんな無理な体勢からでもボールを返せてしまう。しかも、相手がどちらに動くのかを見てから、その逆方向に返すことが可能だ」
「……そんなのアリですか!?」
「動いてから逆方向に打たれたんじゃ返しようがない……そんなことができるなんて人間業じゃないですよ!」
 巴と天野がそれぞれ言うと、青学レギュラーたちの集まったスペースに沈黙が降りた。
「……乾、あの二人が勝てる確率は?」
「…………これはダブルスだ。新渡米を集中攻撃すれば勝てる確率はぐんと上がるだろうが……」
「あの二人がそんな勝ちを受け入れるはずはない、か」

 1ゲーム先取され、新渡米のサーブ。
 亜久津の逆方向を狙って打った球をあっさりと返された。それをリョーマが返し、また亜久津が受ける。
 リョーマは得意の一本足のスプリットステップでフォアに移動する。バックに打ってくるっ、と察知した隼人はそちらに動く。
 亜久津が打ったのは予想通りバック、しかし後衛の隼人では取れないぐらい急角度だ。くそっ、と舌打ちして諦めずにダッシュする――
 だが、その球を返したのは、リョーマだった。
 移動した方向からノーステップでさらに逆方向へ移動――そしてそのまま亜久津の顔面を狙ってドライブA。
「…………!」
「……小僧」
「あんまりテニスを舐めない方がいいよ」
 ふ、と笑って言うリョーマの顔は、腹の立つことに余裕たっぷりに見えた。

「リョーマくん……すごい……」
 巴が思わずというように言うと、乾もうなずく。
「ああ。一本足のスプリットステップでなければ不可能だろう。いったん移動してから逆方向へノーステップで移動。あれならば亜久津の打った球も返すことができる」
「……亜久津が、越前にボールを集め始めたね」
 河村がぽそりと言うと、不二もうなずいた。
「勝負する価値は越前にしかない、と思ったんだろう」
「そんな!」
 従兄妹愛か、巴が不二に叫んだ。だが不二は冷静に巴を見つめ返す。
「今までのところ隼人は一球も亜久津の打った球を返せていないのは事実だよ。亜久津が越前を獲物に定めるのは当然だ」
「それは……そう、ですけど」
「だけど――僕も隼人がこのまま終わるとは思っていないよ」
 不二はいつもの微笑を浮かべた。底の知れない不思議な微笑み。
「――さあ、どうする隼人? 君は巴の従兄なんだろう?」

 ゲームカウント1−1。リョーマのサーブ。
 リョーマが右腕でツイストサーブを打ち、亜久津の顔面にボールを跳ねさせる。しかし亜久津はあっさりとそれを受け、リョーマの逆方向に鋭いスマッシュを返す――
 それを、前衛の隼人が受け、ネット際ぎりぎりにぽとんと落とした。
「………!」
「――あんたの知ってるテニスとは違うテニスを、教えてやるよ」
 ラケットを突きつけてにっと笑う。ドロップボレーは苦手だったが、うまくいってよかった。なんとか格好がついた。
「……面白ぇ」
 亜久津はにっと笑う。再度のリョーマのサーブを受けて、今度は隼人にしか取れないように、中央から急角度のスマッシュを放つ。
 隼人はコートの中央でそれを待っていた。黄金ペアのオーストラリアンフォーメーションに似ているが、まるで違う。リョーマはこちらの配置にまったく対応していない。
 打つぎりぎりまで亜久津をじっと見つめる。全身全霊を込めて見つめる。
 体勢からはどっちに打つかはまるっきりわからない――が。
 亜久津のラケットからボールが離れた瞬間隼人はダッシュしていた。ボールに追いつき、スマッシュをボレーで、亜久津のバックハンドに、思いきり――
「おおぉぉぉっ!」
 打つ!
 ――ビシッ、と音がして、亜久津のラケットの十五cm先を隼人の打った球は通り過ぎていった。

「……隼人くん、すごい! どうしてあんな読みにくい球を返せるんだ!?」
「……あれは……そうか、中央に陣取ってどちらへの球へも反応できるようにし、打たれた球の球筋を一瞬で判断することで亜久津の強烈なショットに対応しているのか! 一瞬で球筋を見極めるとは、まさに野生の勘だな」
「……乾先輩……野生の勘、って」
「もちろんそれを可能にする赤月の身体能力も大したものだが」
「よ、よくわからないですけど、はやくんもあの人の球を返せるってことですよね! はやくんもリョーマくんも頑張れー!」
「おう、根性入れろ二人とも!」
 一気に沸き立った青学レギュラー陣――そんな中、乾に不二がすすすっと近づいた。
「乾。君のデータでは、あの二人が亜久津に勝てる確率は何%だったのか、まだ聞いてなかったね」
「…………」
 乾は一瞬沈黙し、それから視線をコートに戻して言った。自分の後ろに立つ手塚がこちらの話を聞いているのを十分に意識しながら。
「不二。お前は赤月兄妹の強さの秘密はどこにあると思う」
「……唐突だね。そうだね……身体能力も優れているし、二人とも感覚が驚くほど鋭いよね。あと、なんていうか、こちらが時々圧倒されてしまうような野性味――というか生命力のあるテニスをする。僕の好きなテニスだと思うよ」
「大自然の中で鍛えられた身体能力、鋭敏な感覚。そして野生の勘と生命力。もちろんそれも強力な武器だ――だが、それだけではない。そしてそのそれだけでない部分は、およそ共通する部分などないように見える越前のテニスとあの二人のテニスとの、唯一の共通部分なんだ」
「――というと?」
 乾はぐい、と眼鏡を押し上げ、ちらりと巴を見やった。
「成長速度の早さだ。――その素直でひたむきな性質からくるものか。あいつらの成長速度は普通では考えられない」
「…………」
「入ってきた時から二人とも中三男子レベルの体力を保持していたが、巴など入部するまではラケットを持ったこともなかった。だというのに今ではもう男子レギュラーとも対等に戦っている――それは、彼らの異常なまでの順応性と成長の早さから来る。一試合一試合どころか一球一球、ラリーを繰り返すごとに彼らは成長していく。――越前と同じように。だからこそ、彼らにはデータを当てはめるのが難しい。それが俺の敗因にもなった」
「……なるほど、ね」
 不二はコートに視線を戻した。コートの中では今まさに隼人がリターンを決めたところだった。
「テニスの王子様とテニスの野生児のペア、というところかな? ……どちらも正反対だけど、だから気になるし、お互いを意識してぶつかり合い――高めあっていく」
「……思わせぶりな物言いだな」
「乾、君がひとつだけ言っていなかったことがある。彼ら――越前と隼人が今急速に成長している一番大きな理由は、お互いの存在だよ」
「なに?」
「相手には負けられないという想い。相手の期待に応えたいという想い。相手を超えたいという想い――それが彼らの成長の後押しをしている。相手のテニスを吸収しつつ、自分のテニスに組み込んでいるんだ」
「………なるほど」
 手塚がゆっくりと口を開いた。そして独り言のように告げる。
「奴らは――もっと強くなる」

 竜崎はコート脇のベンチで、にやりと笑んだ。
「感謝するよ伴爺。奴らに亜久津をぶつけてくれたことを」

 リョーマがリターンで亜久津の脇を抜いた。

「奴らのダブルスは、まだ1+1=2にすぎないが――」

 隼人も負けじとスマッシュを放ち、亜久津の反応する半歩先に球を通す。

「そのひとつの1は、すさまじい早さでどんどん大きくなっていっている!」

 マッチポイント――リョーマが放ったスマッシュを返した亜久津に、隼人がボディ・ショットを放つ。
「――これは、巴を怖がらせたお返しだ!」
 亜久津はぎりぎりでラケットで跳ね返す。
「甘いんだよ小僧っ!」
 そこにリョーマが走りこんだ。
「――まだ俺に石ぶつけた分と、ついでに山ザルにぶつけた分、返してなかったよね」
 大きく振りかぶり――
「!」
「――ふっ」
 ネット際ぎりぎりに、ドロップボレーを落とした。

「よっしゃあー! 勝ったぜ、リョーマ!」
「俺と組んだんだから勝つのは当然だね」
 思わず駆け寄って叫んだ隼人に、あくまでクールに返すリョーマ。隼人は思わず顔をしかめ、それからふんと鼻を鳴らした。
「可愛くねぇ……。まぁいいや、気分がいいから聞かなかったことにしといてやるよ」
「お前は聞いといた方がいいんじゃないの。まぁ悪くないテニスはしてたけど、まだまだなんだし」
「ぁんだと、コラ!? てめぇだってまだまだじゃねぇかよ、亜久津さんにけっこう翻弄されてたくせに!」
「お前に言われたくない。第一なんでいきなりさん付けなわけ?」
「俺は認めた相手には敬意を払うって決めてんだよ! 年上だし! ……そーだてめぇさっき俺のこと山ザルっつっただろ! しかもついで呼ばわりしたし!」
「山ザルなのもついでなのもホントじゃん。素直に認めた方がいいんじゃないの」
「てめぇ……いい度胸だ。なんなら勝負するか!?」
「いいけど。恥かいても俺のせいにしないでよね」
「ぁんだと、コラ!?」
「お前たち……まだ挨拶も済んでないのになにやってんだい!」
『……スンマセン』
 揃って頭を下げる隼人とリョーマに、会場中から失笑が漏れた。

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