夏合宿・前編
「……よし、今日の練習はこれで終わり。各自ダウンを念入りにやっておくように」
『ありがとうございましたぁっ!』
 一列に並んで礼をして、ふぅ、と隼人は息をついた。
 現在、青学テニス部は夏の合宿初日である。初の合宿に隼人は当然大張り切りで頑張って練習をし、今日はそれなりの手応えを得た。
 全国大会まであと三週間弱。このまま突っ走って、もっと強くなりたい。なにか――さらなる武器をつかみたい。無我の境地は跡部が無駄だと言ったので使えなくてもいいが、隠し玉の一つや二つはほしいところだ。
 現在隼人が目をつけているのはサーブだった。許斐コーチが自分と練習する時に何度も打ってきたあの腹に向かって鋭く変化するサーブと、南次郎と何度か練習した時に見たこちらに反応することを許さない超速度のサーブ。この二つを合わせて自分なりのより強力なサーブを生み出せないか頑張っているのだ。
 このあとは夕食まで自由時間だが、まだ合宿は初日、体力は充分残っている。自主練をしようと隼人は片づけを終えると裏庭に向かった。
 と、そこには先客がいた。
「海堂先輩……」
「……あ? お前か」
 すでに自主練を始めていた海堂は肩をすくめる。何度か見たことがある、水を吸ったタオルを振り抜く練習だ。
 これ面白いかもな、と隼人はうなずいた。海堂はスネイクの練習のため振り上げるような動きをしているが、これを体全体を使って振り上げ思いきり振り下ろす、というのにしたらなかなか練習効果があるんじゃないだろうか。
「海堂先輩、俺も練習一緒にやってもいいっスか?」
「……フン。勝手にしろ」
「じゃ、失礼しまーす」
 自分のバッグからタオルを取り出して水に濡らし、背中側にたらして振り上げる――
 ぐぅっと荷重はかかったが、ぐっと歯を食いしばって体のバネを使い、サーブのようにタオルを振り下ろす。ピシィッ、と濡れたタオルが空気を打つ音が響いた。
 隼人は少し顔をしかめる。
「なんっか、違うな……おじさんのサーブは、もっとこう……で、許斐コーチのはこう……」
 何度も振り上げと振り下ろしを繰り返しては、体勢を吟味する。と、
「おい」
「は、はい? なんスか?」
 海堂に突然話しかけられて隼人はびくんとした。
 なにか怒られるのかと思ったが、海堂はすたすたとバケツに歩み寄り、新しい濡らした手ぬぐいを取って隼人に渡した。
「……こっちを使え。タオルじゃお前の力には合わねぇ」
「え……」
「……それと、そのやり方はやめろ。背筋を痛める。やるんなら、こう、体全体を使うんだ」
 ものすごく珍しい海堂からのアドバイス。隼人はたまらなく嬉しくなって、「はい!」と叫んだ。

「さ〜て、シャワーでも浴びてくっかな〜」
 鼻歌交じりに隼人は宿舎に入った。もうすぐ夕食だ、練習もなかなか充実していたし、あとは軽く汗を流してさっぱりしてメシを食おう。
 ――と。
 そう気分よく歩いていた隼人の体が、同じようにシャワー室に向かいちょうど角の向こうから歩いてきた、リョーマの体とぶつかった。
『………………』
 お互いむっとして相手を睨みつける。
「……どけよ。俺が先にシャワーに行こうとしてたんだぞ」
「いや……俺のほうが先だったね」
「俺だ」
「違うね」
「俺だ!!」
「子供じゃないんだから、いちいちこんなことで絡まないでくれる?」
「ぁんだと、コラ!? くだらねぇ言いがかりをつけてきたのは、リョーマの方だろ!?」
「いるよね。自分の方が不利になると、大声出してごまかす奴」
「なんだと、この……」
 ぎっ、と敵意をこめてお互い相手の顔を睨みつける。んっとにこいつはマジムカつくっ、と隼人はぎりぎりと奥歯を噛みしめつつ思った。
「おいおい、二人とも。また喧嘩か?」
 ちょうど通りかかったのは大石だった。いつものごとく穏やかな笑みを浮かべて、隼人とリョーマの間に割って入る。
「合宿は集団生活なんだから、和を乱さないようにしてくれよ?」
「大石先輩……。けど、こいつが!」
「合宿っていうのは、単に練習するだけじゃない。チームワークの向上も大きな目的なんだ。部員同士ぶつかり合うこともあるだろうけど、いざという時に一丸となれるよう……」
「だめっスよ、大石先輩。言って聞くような奴らじゃないっスからね」
「桃先輩〜」
 ひょいと背後から現れてくくっと笑う桃城に、隼人は恨みがましい視線をぶつけた。リョーマと一緒にされるのははなはだ不本意なのだ。つっかかってくるのはリョーマの方なのだから。
「いやー、それにしてもお前らって、本当に犬猿の仲だよな?」
「桃先輩、俺、犬っスか?」
「ちょっと待て、コラ!! じゃあ、俺は猿かよ!?」
「そうでしょ? 山ザル」
「ぁんだと、コラ!?」
「だから、お前たち……言ってるそばから」
 ぎゃあぎゃあ喚きあっていると――そこに周囲の空気を一気に凍らせる威厳にあふれまくった声がした。
「……揉め事か?」
「あ……」
「手塚部長……」
 青学テニス部の支配者、秩序の守護者、手塚部長の登場である。
「これは、その、なんというか……」
「二人とも、グラウンド十周!」
「……山ザルのせいだからな」
「なに言ってやがる。リョーマのせいだろ」
「……グラウンド二十周!」
「えぇ〜っ!? そ、そんな〜!!」
「三十周にするか?」
「……二十周でいいです」
 隼人は渋々ながらもグラウンドへ向けて走り出した。リョーマも同じように仏頂面で自分の横を走っている。
 グラウンド。もう陽も沈もうとしているとはいえ、夏の陽射しをたっぷり浴びたそこはおそろしく熱かった。景色が蜃気楼のようにむわっと歪むほど強烈に立ち上る熱気に、隼人は思わず顔をしかめる。
 どちらも無言で熱いグラウンドを走り出す。すでにリョーマとの罰則周回は両手に余る数やっている、こういう時どう動けばいいかなんてどちらもわかりきっていた。
 焼けつくように熱い地面を踏みしめて走り出すと、額から体から一気に汗が噴き出しテニスウェアを濡らす。真正面からぶち当たってくる空気が、濡れた箇所をわずかに冷やすのが心地よかった。
 地面を蹴って、前へ前へと進む。そのうちリョーマと自分のどちらかが少し前へ出て、むっとしたもう片方が少し足を速めて追い越す。すると今度は先に追い越した方がむっとして前へ出て、そのうちお互いムキになって全力疾走を始めることになる。今回もいつも通り、そうなった。
 そして、息を荒げながら走っていると、頭の中が真っ白になってきて――だんだんリズムができてくる。足を進めるリズム、呼吸するリズム、心臓の鼓動のリズムが少しずつ、リョーマと合わさってくるのだ。
 部活の走りこみの時とはまた違う。むしろ、リョーマと打っている時の感覚に近い。世界に自分とリョーマ、ただ二人だけになり、その境目がだんだんあいまいになっていくような。
 不思議な一体感と高揚感。自分がどんどん広がっていくような感覚。世界と、リョーマと、体と心全部が同調し、ひとつになっていく。
 そうして気がつくとリョーマと熱いグラウンドに寝転がって、荒い息を整えている。
 そして長い沈黙のあと、どちらが先ともつかぬタイミングでこう言うのだ。
『……俺の方が先だった』
 そうしてお互い睨み合い、また喧嘩が始まることになるのだが、隼人はそんな時いつも思う。
 ―――こいつは、感じないんだろうか。
 あの高揚感、一体感。心臓の鼓動までひとつになるような感覚。それはもはや快感と呼んでよかった。お互いの全てが一つになり、高みへ上っていく感じ。
 最近――いつからかはよく覚えていないが、リョーマと打っている時、自分はいつもそれを感じるのだが。
 こいつが感じてないんだったら、やだな……。
 そんなことを思ってから、隼人はいつも『なに考えてんだ、俺!』と首を振るのだ。

 ぎりぎりで夕食に滑りこみ、味も量もいまいちな飯をかっ食らって。
 あとは風呂に入って寝るだけだ。基本的に風呂は火が入っている間ならいつでも学年に関係なく入っていい(女子が入った後だが)。
 なのですっかり汗臭くなった体を洗い流すべく、ふんふん言いながら風呂に向かっていると、またリョーマとばったり顔を合わせた。
「…………」
「…………」
 しばし睨み合ったものの、二人とも黙って風呂に向かう。シャワーに向かった時の二の舞になるのはさすがに今日は勘弁だ。
 脱衣場に入る――と、そこにはレギュラー陣が勢揃いしていた。思わず目を見開く。まさか全員が風呂に集合しているとは思ってもみなかった。
「ちゅ、ちゅーっす!」
「おう!」
「……ああ」
 先輩たちがそれぞれうなずきを返す。なんか裸になるの照れくさいな、と思いながら空いているボックスに陣取る。リョーマも隣に来た――なんでだ、と一瞬思ったが、すぐにリョーマの背に合うぐらいのボックスがもうそこにしかないのだ、とわかった。
 思わず顔をにやけさせつつ広い心でリョーマが隣で着替えるのを許してやる。リョーマに優越感を感じられる時はできるだけ多い方が嬉しい。
 服を脱ぎながら、ちらりと隣を観察する。思春期男子として、他人の体というのはどうしても気になってしまうのだ。
 リョーマの体は服の上から見たのと同様にどこもかしこも小さかった。手や足は少し大きめだが、それでも小さい。肩幅もないし足も細い。
 だが、しっかり筋肉がついているのは見て取れた。まぁまぁテニスプレイヤーの体してんじゃん、と同年代の少年の中ではけっこういい体をしていると自負している隼人は偉そうに呟く。
 そして、一番気になるところである股間をさらそうとパンツ(ボクサーパンツだった)に手をかけた時、リョーマは隼人の視線に気づいた。
「なに」
「べ、別にっ?」
 訝しげな視線でじっとリョーマはこちらを睨む。隼人は慌ててそっぽを向き、わざとらしく口笛を吹きながら急いで着替えを再開した。他人の股間を見たがってるなんて知られるのは、やっぱりなんだか恥ずかしい。
 パンツ一丁になってちらりとリョーマの方に目をやると、リョーマはもう腰にタオルを巻いていた。
 あーくそ見逃したか、と内心がっくりしながらパンツを脱いでタオルを巻く。自分だけ見られるのは少し恥ずかしかったが、ためらうのもわざわざ隠すのも男的にはかっこ悪い。
 その瞬間、リョーマが素早くちらりと自分の股間に視線をやったような気がしたが、それを問いただすのもなんだか猛烈に恥ずかしくてなにも言わなかった。自分だけ見られるのはすごく不公平だとは思ったけれど。
 風呂場に入ると、まず体の汚れを落とさねばならない、と隼人は適当な場所に座った。まずお湯を頭からぶっかけ、タオルに巴が持たせてくれたボディソープをつけてごしごしと擦る。
 と、す、と隣に不二が座った。
「ここ、いいかい?」
「え? あ、ど、どうぞ!」
 慌てて隼人は言って、少し場所を空けた。不二は自分と同じようにタオルにボディソープをつけている。
 隼人はなんとなくドキドキしながら隣を盗み見た。不二はあまり男くさい感じがしなくて、声も女性のように柔らかい。だからトイレにも行かないような、生臭みのなさを感じさせるのだ。
 こんな人にもチンコついてんのかな、とドキドキしながらこっそり股間を見やり――
「―――――!!」
 隼人は絶句した。これは。いったい。
 呆然と体を洗う。それしかできなかった。不二の股間についている男性器は、本当にこれはチンコなのか!? と思うほど、隼人に――美しさを感じさせたのだ。
『こんなとこまで美形なのか、不二先輩は……』
 呆然としているうちに不二は体を洗い終え、湯船に向かった。はぁ、と隼人は息をつく。あの美しい体が隣にあると、なんだかひどく落ち着かない。
 隼人は気を取り直して、他の先輩の体を観察することにした。特に股間を。男としてやっぱり先輩たちの股間は気になる。
 桃城はやっぱりいい体をしている。股間のものも体相応だ。毛も生えまくっているし、なんだかわき毛すら生えていたような気がする。
 海堂……痩せ型筋肉質体型というのだろう。股間はしっかりガードしていて見えにくい。だが毛は生えていたと思う。
 河村もいい体をしているが、股間は慎ましやかに隠している。くそー男だったら堂々としてようぜ、と内心舌打ちした。
 乾……青学で一番でかいだけあって裸も迫力だった。股間のものは……でかっ! チンコってあんなにでかくなるもんなのか!? と思ってしまうほど大きかった。当然毛もぼうぼうだ。すげぇ、乾先輩、と一人隼人は感嘆する。
 菊丸は……すらりとした体に筋肉がきれいにのっているという感じ。股間は堂々と隠していない。おお、男らしいぜ菊丸先輩! と思いつつ観察する。体に比して……でかい。菊丸先輩は童顔の下にこんなもんくっつけてたのかっ、と思うと思わず唾を飲み込んでしまうような迫力があった。しかし体毛はひどく薄く、それがまたなんだか迫力だった。
 大石。体としては意外とがっしりしている。股間はちらりとしか見えなかったが、それでもそれほど大きくはなかったのとやたら毛深かったのは見えた。
 あとは手塚……体は思ったよりほっそりとしていた。むろん筋肉はしっかりのっているが。股間のものは角度の問題で見えにくい。もうちょっとこっち向いてくれれば……あともうちょっと……!
「――なに見てんの、お前」
「わっ!」
 思わず叫んで振り向く。そこにいたのはリョーマと天野だった。
「さっきから見てたら、先輩たちの方ちらちらちらちら。同じ男の体見てなにがそんなに楽しいわけ」
「う……しょ、しょーがねーだろっ! 俺はお年頃なんだ、他人の体がどうなってるのか気になるの普通だろっ!」
「うーん、俺も気にはなるけど……隼人くん、ストレートだね……」
「まったく……子供じゃないんだから。少しは恥じらい持ったら?」
「うっせぇなっ……あ」
 ここで隼人はにやりとした。
「わかった、リョーマまだ毛生えてねーんだろー!」
「………! はぁっ!?」
 リョーマは一瞬絶句して、それから珍しく頬を朱に染めて怒鳴った。
「お、その驚きようはやっぱ生えてねーんだ。だから必死に隠してんだろー?」
「……っ、関係ないでしょ、そんなこと」
「生えてるっつーんだったら見せてみろよー。ほれほれ、隠してねぇでさー」
「……そういうお前はどうなの。ちゃんと生えてるわけ?」
「おう、生えてるぜー。なんなら見てみるか?」
「……………………っ」
 リョーマは唇を噛んで、きっと隼人を睨んだ。隼人は余裕で見返す――が、一瞬リョーマの瞳が潤んだような気がして仰天した。
 も、もも、もしかして、本気で傷ついちまったんだろうか。そんなにひどいこと言ったか俺!? リョーマの奴気にしてたんだったらどうしよう!? 俺、別にこいつを傷つけたくて言ったんじゃないのに―――
 そう頭の中がぐるぐる回る。リョーマは潤んでいるようにも見える瞳できっと自分を見つめ続ける。隼人はどう返せばいいのかわからず、ひたすら睨むようにしてリョーマを見つめ続ける――
 そこに、低い声がした。
「越前、赤月。グラウンド十周してこい」
『………えぇ!?』
 思わず声を上げて声の方を見ると、そこには手塚が腰にタオルを巻いて仁王立ちしている。隼人とリョーマは揃って固まった。
「風呂で騒がないというのは共同生活の中の最低のマナーの一つだ。規律を乱す者は許さん。グラウンド――」
「まぁまぁ手塚。騒いだって言ってもちょっと言い争ったくらいじゃないか」
 そこに割って入ったのは不二だ。
「不二……しかしな」
「お風呂にいたのは僕たちだけだし。お風呂入ったあとにグラウンドを走らせるのは可哀想だよ。それに、手塚がそんなことを言い出したのは個人的な感情も入ってるような気がするけど?」
「む……しかしだな」
「代わりにさ、こうするのでどう?」

 不二の提案は手塚になぜかひどく難しい顔をされながらも受け容れられた。他の先輩たちも面白がってその案に賛成した。
 というわけで、隼人とリョーマは素っ裸で脱衣場に正座させられているのだった。周囲の先輩やら同級生やらに見られたりからかわれたりしながら。
 はっきり言って顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。「けっこーでけぇじゃんー」だの「毛生やしてやがんの、生意気ー」とか言われながら黙って耐えるのは。
 それでもそれが罰だというのだから仕方がない。必死に唇を噛み締めてひたすら前を向いて耐えた。
「うっわ、越前のチンコもろ小学生じゃん! 毛も生えてねぇしちっちぇし!」
「普段あれほど生意気言ってんのに、チンコは小学生だったんだなー! はっずかしー!」
『………………!』
 囃したてる先輩たちを、二人揃って睨んだ。だが先輩たちは気にした様子もなく、さっさと着替えて風呂に入っていってしまう。
 脱衣場に二人きりになって、リョーマがぼそりと言った。
「……悪かったな。生えてなくて。ちっちゃくて」
「…………」
 隼人は、深く息をついた。リョーマの声は相変わらずぶっきらぼうだったが、その裏で確かに傷ついているのを、しっかりと隼人は感じたからだ。
「悪くねぇよ」
「……お前もからかってたじゃん」
「あれは……」
 隼人は言葉につまり、うつむいた。自分のしたことが本当に悪かったなぁと、久しぶりに思ったからだ。
「…………ごめんな。リョーマ」
「…………別に」
 そうして二人黙って正座をしていると、不二がやってきてもう時間だからお風呂に入り直して上がっていいよ、と告げた。

(うぅ、暑ちぃ……)
 狭い部屋に男が何人も押し込められ、おまけにレギュラーとはいえ一年なので風通しの悪いところが寝床で。岐阜の山もそりゃ夏は暑かったが、こうも蒸すような暑さはなかった。
 少し外の風に当たってくるか、とこっそり部屋を抜け出して外に出た。
 涼しい風が吹き付けて、隼人の体を冷やす。隼人は思わず気持ちよさにふぅ、と息をついた。
 虫の声が聞こえる。なんか懐かしいな、と隼人は微笑んだ。岐阜では日常の一部だった虫の声も、東京ではほとんど聞こえない。
 しばし縁石に腰掛けて虫の声に耳を傾けていると――
「ほあら」
 ――猫の声?
 だが、妙だ。この声には聞き覚えがある。なんだかすごく身近な声のような――
(……あっ!?)
 辺りを見回して、気づいた。植木に寄りかかって、リョーマがカルピン――越前家の飼い猫と遊んでいる。
 思わず反射的に身を隠す。リョーマはこちらに少しも気づかずカルピンと遊んでいた。
「ん……どうした? あ、コラ! くすぐったいだろ?」
(……意外な一面だ)
 リョーマは普段とはまるで別人だった。満面の笑顔で、幸せそうに楽しげに、優しい顔でカルピンと遊んでいる。
 邪魔しちゃ悪いな、と隼人は踵を返した。隼人にだって武士の情けはあるのだ。
 ……それに、風呂場ではリョーマに悪いことをしてしまったし。
 そうっと部屋に戻ろうとすると――
「ほあらっ!!」
「どうした、カルピン? ……あっ!?」
 カルピンが急にとととっとこちらにやってきた。隼人は反射的にそちらの方を向く。当然リョーマの視線もこちらに向き、結果――
 隼人とリョーマは真正面から見つめあうことになってしまった。
「……見たね?」
「まあ……そうかな?」
 隼人はどう反応すればいいのかわからずそんな中途半端な対応をした。リョーマに怒られるのはごめんだし、それに――リョーマを傷つけたくはない。
「いつから?」
「いや、たった今、ここに通りがかったんだ」
「なにしてたの、こんなとこで?」
「いや、寝つけなくて、ちっと風にでも当たろうかと思ってさ……」
「まあ、見られちゃしょうがないね」
 思いのほか素直な対応だ。隼人が目をぱちくりさせると、リョーマはカルピンを見下ろす。
「……バッグ、やけに重いと思ってたら、中で寝てたんだ、こいつ。こいつのおもちゃ、間違ってバッグに詰めちゃって。たぶん、それで……」
「なるほど、そうだったのか」
「明日、母さんに引き取りに来てもらうからさ……だから、黙っててよ。頼む」
 リョーマは真剣な顔で頭を下げる。
 隼人は驚いた。こいつが頭を下げるなんて――よっぽどカルピンが大切なんだ。
 自分にも本当に大切なものはある。巴、一応親父。テニス。そしてそれから――
 だから、隼人はにっと笑った。
「そんなことより、カルピン抱かせてくれよ」
「えっ?」
 リョーマは目をぱちくりさせる。珍しくリョーマがガキっぽく見えて、隼人はくすっと笑う。
「ほら、カルピン。こっちおいで〜」
「ほあら〜」
 カルピンは素直に座り込んだ隼人の膝の上にやってきた。隼人は笑みを浮かべたままカルピンを抱き上げて喉を撫でる。
「いや〜、カワイイな、カルピンは。リョーマとは、似ても似つかねぇよな」
「悪かったな」
「あったかくて、フワフワしてて、こうしてると気分が落ち着くな。おかげで、ぐっすり眠れそうだ。ぐっすり寝すぎて、きっと朝起きたら、今夜のことなんて憶えてねぇぜ!」
 リョーマににっと笑みながらそう言ってやると、リョーマはちょっときょとんとした顔をしてから、ふっと笑って言った。
「隼人……ありがと」
 うお、初めてリョーマに礼言われた!
 リョーマに感謝されるなんて、しかもあんな優しい顔でなんて思ってもみなかった。なんだかひどく照れくさい、顔が熱くなるような気持ちになりながらも、隼人は格好をつけて笑ってやる。
「別に、リョーマのためじゃねぇよ。俺もカルピン、好きだからな」
「……それもそうか。じゃ、取り消す」
「お前な! それとこれとは話が別じゃねぇのか!?」
 こいつはほんっとに……!
「だって、嫌ってる奴に感謝されても迷惑でしょ?」
「………は?」
 隼人はあんぐりと口を開けた。
「……嫌ってるって、誰が、誰を」
「お前が、俺を」
「はぁ!? お前が俺を嫌ってるんだろ!? いっつもつっかかってきやがって!」
「はぁ? お前が俺を嫌ってるんでしょ? いっつもなんやかや言ってくるのはそっちじゃん」
「それはお前がムカつくことばっか言うから……!」
「ほら嫌ってんじゃん。お前がいっつも勝手に腹立ててるんでしょ?」
「勝手にってお前な……!」
「ほあらー!」
 カルピンの鳴き声で、睨みあっていた隼人とリョーマは我に返った。もう就寝時間は過ぎている、でかい声を出すのはまずい。
 なんとなく気まずい雰囲気になりながらもお互いを見つめる。どうして俺たちはいつもこうなっちまうんだろう?
 自分は、別に。そりゃ、ムカつく奴だとは思ってるけど。家でも学校でも部活でも、しょっちゅう喧嘩してるけど。でも―――
「……俺は、お前のこと、嫌いじゃねぇよ」
 目を逸らしてそう言うと、リョーマは一瞬の間を置いてから、こう返してきた。
「……俺だって、お前のことは、嫌いだとか、思ってないよ」
「………そっか」
「………そうだよ」
 お互い黙ってそっぽを向く。けれどお互い相手がひどく照れくさがっているのはわかっていた。顔が赤くなっていることも。
 たぶん相手が、嬉しいと思っていることも。

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