弁当、料理、先輩後輩
「リョーマ君、このきんぴら味見してみてくれる? 今回のはちょっと自信作なんだ」
「…………いいけど」
 天野ににこにこ笑いながら言われて、リョーマは渋々天野の弁当箱に箸を伸ばした。
 彩りよく盛り付けられた中一の平均よりかなり大きい弁当箱。今日のおかずはきんぴらごぼうに卵焼き、ほうれん草のおひたしに煮物数種。どれも熟練の主婦の香り漂う、通好みながらも美味そうな料理ばかりである。
 しかしそれら全てを作ったのは目の前の中学一年生男子天野騎一なのだ。
 天野は小さい頃から母親に料理を仕込まれたとかで、そんじょそこらの主婦よりよっぽど料理が上手だったりするのである。レパートリーも和洋中華印伊西、なんでもござれ。家庭科の調理実習の時なんか明らかに一人だけ手つきが違う。
 そんな天野だから自分の弁当は毎日自分で作ってきて、よくおかずの味見を居合せた友人――リョーマやら堀尾やら勝郎やらに頼んできたりする。
 それは、別にいい。天野の料理は実際美味いから味見させられて嫌ということはない。ただ、苛立つのは――
 きんぴらを口に入れて咀嚼する。天野が何かを訴えるような眼差しで見つめてくるのを無視して飲み込んでやると、天野は(眼差しはそのままで)ストレートに聞いてきた。
「どうかな、リョーマ君。おいしい?」
「……まあ、不味くはないんじゃないの」
 リョーマが(不承不承)正直に答えてやると、天野は思いきり嬉しそうに笑った。
「よかった!」
「…………」
 ひそひそひそひそ、と周囲から囁き声が聞こえてくる。それをギロリと睨みつけて鎮め、リョーマは内心で深い深い溜め息をついた。
 いいかげん勘弁してほしい。
 なにが悲しくて自分が同い年の男の手作り弁当で「ねえ、おいしい?(はぁと)」「うん、おいしいよ(はぁと)」なんてことをやらねばならないのだろう。
 天野としては別に妙なことをやっている意識もないのだろうが(そしてそこもまた苛々するところでもあるのである)、リョーマは毎日毎日毎日毎日これをやられて心底うんざりしていた。
 そしてそれをはっきりと自分が言えないというのが一番苛々するところなのだ。
 リョーマも最初に一緒に弁当を食ってこれをやられた時は、きっぱりと『いちいちそんなこと聞いてくんの鬱陶しいからやめてくんない』と言ったのだ。同席していた堀尾たちには『そういう言い方はねぇだろー』と非難されもしたが、天野自身は『ごめんね、押しつけがましいこと言って』と素直に謝って、その場はそれで済んだはずだった。
 だが、その日部活に向かっている途中、天野から真剣な顔と声で言われたのだ。
「……リョーマ君、俺が君と友達になりたいって思ったら、迷惑なのかな」
「…………は?」
 今まで言われたことのない完全に予想外の台詞にリョーマが絶句していると、天野は瞳を潤ませながらしゃくりあげるように、でも必死に言ってきた。
「俺っ、テニスもリョーマ君に比べたらまだまだだし、頭悪いし、できることって言ったらほんのちょっとだけど……でも、頑張りたいって思ってるんだ。おこがましいのはわかってるんだけどっ、君の隣に立ちたいってっ……。けどっ、昼休みに『鬱陶しい』って言われた時ようやく、もしかしたらそういう風に思われるのってリョーマ君には迷惑だったのかなって、そう思いだしてっ……」
 リョーマは当然その時には昼休みに言ったことなどすっかり忘れていたので、珍しくちょっと焦りながら思い出した。そういえば、そんなことを言ったような。
 でも、なんでそれがいきなりこういう話になるんだ?
「俺、鈍感でっ、リョーマ君が俺のこと鬱陶しいって思ってるの気付かなくって……でも、俺馬鹿だけど、リョーマ君のそばにいたいと思ってるんだ。だからっ……」
「……だから?」
 うるりりんと目を潤ませて、泣くのを必死にこらえつつ拳を握り締めて言う。
「俺、こんなだけど、でもリョーマ君と友達になりたい! そうなれるよう、頑張りたいって思うんだ……!」
「………………」
 漫画でも読んだことがないような直球かつとってもステロタイプな台詞にリョーマはちょっと呆然としてしまった。天野はおずおずとリョーマを見上げるように見て言う。
「……そういう風に思うのも、迷惑かな?」
「…………別に…………」
 そういうことを正面きって聞かれるのは初めてで、戸惑いつつもそう答えると天野は嬉しそうに笑った。
「よかった!」
 …………一事が万事、この調子なのだ。
 リョーマが普段の調子でものを言っていると、天野はそれに怒りはしないものの妙に深刻に受け取り、微妙にずれた答えを返す。そしていつのまにかリョーマを自分のペースに巻きこんでしまっているのだ。ものすごく不本意なことに。
 周りに合わせているようでいて実は自分のペースを押し通す。自分のペースはそれに破壊されっぱなしだった。
 その後の昼休み、天野は『リョーマ君、おいし……』と聞きかけてはやめ聞きかけてはやめ、その度に何かを訴えるような視線でこちらを見てくるという攻撃をしてきた。リョーマは一ヶ月それと戦ったものの、結局根負けして『言いたいことがあるなら言えば』と言ってしまったのである。
 結果、天野は(さっきのように)毎日のごとく『おいしい? おいしい?』と聞いてくるようになった。それが周囲から注目される――というか、何あれ? という目で見られるのも当然と言えば当然だっただろう。
 今日は堀尾たちもいないので、周囲の好奇の視線にさらされているのはリョーマ一人。普段はそんなものを気にするリョーマではないが、自分にとって非常に不本意な今の状況下ではそれもまた苛つきの原因となるのだった。
「リョーマ君、こっちの煮物も食べてみてよ。昨日の残りなんだけど、味がしみてると……」
「天野」
「なに?」
「アンタさ。なんで俺にそんなに料理食べさせたがるの?」
 天野はきょとんとした顔をした。
「え、だって料理作ったら誰かに食べてもらいたいし感想聞きたいし。一人で作って一人で食べたってつまんないでしょ?」
「……じゃあ桃先輩にでも食ってもらえば? あの人いつでも腹減らしてるから作りがいあるんじゃないの」
「え……」
 ――その瞬間、ぶわわわっ、と天野の背後に点描や花が舞い散るのが見えた気がした。
 天野が頬を染めつつ頬に手を当てるのを見て、リョーマは『言うんじゃなかった……』と心底後悔したが、もう遅かった。
「も……桃先輩に……? い、いいのかな、そんなことしちゃって。ああでも部活の先輩後輩だしダブルスのパートナーだし、お弁当くらいなら作っていっても別におかしくないよね?」
 おかしいよ。
 ていうかすでに弁当丸ごと一個作る気なのかよ。
 とかリョーマは思ったが、口には出さなかった。
「でも迷惑じゃないかな勝手にいきなりそんなもの作っていったら。でもでも、桃先輩いつもパンだし、お腹空かせてるみたいだし、もしかしたら喜んでくれるかもしれないし……もし『サンキュ』なんて言われちゃったりしたら……俺、どうしよう!?」
「……俺に聞かないでくれる」
 リョーマはもう一切この件には関わらない、と心に決めて自分の弁当のおかずをぱくついた。

 翌日。昼休み。
 天野はドキドキしながら購買で桃城を待っていた。購買には二年生より一年生の教室のほうが近い。四時間目の授業が終わるやいなや全力ダッシュしてきたから、まだ桃城はやってきていないはず。
 まだほとんど人のいない購買を弁当を両手で持ちながらうろうろする。弁当の中身は肉巻きアスパラや卵入りハンバーグなど肉類メインだが、栄養のバランスもしっかり考慮して(五時起きで)作った自信作だ。
 まずいということはない――と思うのだが、それでもやっぱりドキドキする。受け取ってもらえるかとか、おいしいと思ってもらえるかとか、急に持ってきて変に思われるんじゃないかとか不安でしょうがない。
 男の後輩が男の先輩に手作り弁当を持っていく、というのがなによりまず一般的でないことなのだがそんなことは天野は考えもしなかった。
「桃先輩遅いなぁ……まさか今日に限ってお弁当なんてこと……いやでももしかしたら今日は食べるパンとか決めちゃっててこんなお弁当とか持ってこられるの迷惑だったりするかも! いやでも桃先輩帰りによく買い食いしてるし、そういう時に食べてもらえれば……だけど桃先輩帰りには温かいもの食べたい人だったりしたら……! うわー、どうしよ〜!」
「おい。お前何盛大に独り言言ってんだ?」
「うきゃぁっ!」
 声に反射的に飛び上がった天野が振り向くと、そこには予想通り桃城が立っていた。おかしそうに眉を上げ、天野を見下ろしている。
「もっもっもっ桃先輩きっ奇遇ですねこんなところで」
「奇遇かぁ? 昼休みになったら飯食うのは普通だろ。お前も飯食いに来たん……じゃねぇのか」
 そこで初めて桃城は天野が弁当を持っていることに気づいたようだった。
「お前、弁当持ってんじゃん。まだ足りねぇのか?」
「こっこっこっこれはですねあのそのえっと……」
 どもって顔を赤くしながらも、必死に頭を回転させて、今までのシミュレーションを思い出し、自然な、迷惑に思われない渡し方を検索し――
「こっ、これ、食べてくださいっ!」
 ――ようとしてうっかり直球勝負に出てしまった。
 差し出された弁当を見てぽかんとしている桃城を見て、天野は慌ててシミュレーションにあった言い訳を口にしようとする。
「あのですね、俺リョーマ君がお弁当持ってこれないときとかにたま〜に、そうごくたま〜にお弁当作ったりしてるんですけど、今日作ってきたらリョーマ君今日は別のところで食べるからいいとか言っちゃって、俺自分の分の弁当はもう作っちゃってたし、食べる人がいなくなっちゃって、放っておいたらもったいないから誰か食べてくれる人いないかな〜って思ってたんですけど、それで俺ふと桃先輩のこと思いついちゃったりとかしちゃって、そんなわけでもしよかったらこのお弁当食べていただけないでしょうかっ!」
 怒涛のごとくまくしたてる。桃城はちょっと頭をかいて、驚いたような顔をした。
「これ、お前が作ったの?」
「はいっ!」
「ふーん……ちゃんと食えんのかぁ?」
 からかうような桃城の言葉に、天野は顔を真っ赤にしてこくこくとうなずく。
「今回のは、気合い入れたんで自信あります!」
「へぇ」
 桃城はにやっと笑って、弁当を取り上げた。呆けた顔になった天野を尻目に、弁当を高々と上げながら踵を返す。
「ま、もらっといてやるよ。サンキュ、な」
 そう言って最後に笑顔を向けて、その場を去っていく桃城。
「………………」
 しばしそのままの体勢でボーッとしていた天野は、桃城の姿が見えなくなるやいなやぶわわわっと背後に花をしょいつつくるくる回り始めた。ほとんど少女漫画の主人公のノリである。
 天野の内心はそれこそ盆と正月とクリスマスがいっぺんに来たようにめでたさ絶頂であった。
 あからさまに周囲の人間に怪しまれているのも気づかず、天野はスキップしながら自分の教室に帰り、その浮かれっぷりで無事桃城に弁当を渡せたことをリョーマに知らしめ、溜め息をつかせたのだった。

「おう天野、これ返すぜ」
 部活前の着替えの時、桃城は天野に空になった弁当箱を差し出した。
「あ……はい、ありがとうございます……」
 天野は弁当箱を受け取ると、おずおずとした物問いたげな視線で桃城を見上げる。桃城はそれに気づいているのかいないのか、ニッと笑って言った。
「うまかったぜ。ごちそーさん」
「………………」
 天野はうるりりん、と目を潤ませながら嬉しそうに笑った。
「はいっ! ありがとうございますっ!」
 もうその場でスキップして踊り出すんじゃないかというほど喜び光線を周囲に振りまく天野に、少し遠くから菊丸が好奇心に満ちた視線を向ける。
「なになに? 何の話してんの? きーくん異様なまでにご機嫌じゃん」
「あ、エージ先輩。いや別に大したことじゃないんスけど、今日昼こいつの手作り弁当もらったんスよ」
「えー、手作り弁当!? きーくん料理なんかできんの?」
 菊丸に驚いた顔をされ、天野は慌てながら弁解するように言った。
「え、いや、あの、小さいころから母さんに仕込まれて。ちょっとだけなんですけど」
「謙遜すんなって。こいつの料理本気でうまいっスよ。はっきり言って俺かーちゃんの料理よりうまいと思ったっスもん」
「へーっ」
 桃城に褒められ菊丸に感心され、天野は思いっきり照れた。
「いや、別に、そんな……」
「そんでですね、聞いてくださいよエージ先輩。こいつ越前が弁当持ってこれない時とかに作ってやってるらしーんスよ。お前は女房か! って感じっスよねェ?」
「へ!?」
 天野は硬直した。まさかその言い訳を真に受けられているとは思ってもみなかったからだ。
「え〜、マジ〜!? きーくんちょっと遠くに行きすぎだよそれ〜」
「でっしょぉ? 普通そーいうのって付き合ってるやつらでもしないっスよね、中学生じゃ」
「あ、もしかしてきーくんとおチビってそーいう仲だったりするわけ?」
「そーなん? だったらわりぃこと言っちまったな〜」
「ち……違います!」
「照れんなって。心配すんなよ、俺たちそーいうの偏見ねーからさ」
「そうそう、末永くお幸せにね〜」
 などと言いつつ桃城と菊丸は部室から出ていく。思ってもみなかった誤解に呆然とする天野に、横で着替えていたリョーマがぼそっと呟いた。
「すっげー迷惑」

戻る   次へ
『テニスの王子様SWEAT&TEARS』 topへ