一日目〜葵戦〜
 ジリリリリリリリリリリ………。
 いつも使っている目覚まし時計の音で隼人は布団から飛び起きた。まだ半分眠っている頭を数度振ってはっきりさせ、ぴしゃぴしゃと頬を叩いて目を覚まさせる。それからうるさく鳴り響く目覚まし時計を止めた。
「……っし、よっく寝たっ!」
 しゃっきりした気持ちでにかっと笑ってそう言うと、隼人は立ち上がりジャージに着替えた。隼人は家ではほとんどジャージか半袖短パンだが、運動をする時は専用のものに着替えるのだ。
 まずは、軽くストレッチ。首、肩に腕、胸と腹、体側に背・腰、股と尻に足の前面背面、手首に足首。全身くまなく、時間をかけてたっぷりほぐす。運動で故障を起こさないためにはにはこういう入念なストレッチがなにより大切なのだと父・京四郎に叩き込まれている。
 それから外へ出かけ日課のランニング。それほど急がず長距離を走るのがスタミナをつける基本だ。アップダウンの激しい青春台近辺を軽く三周。朝の澄んだ空気に、すがすがしい気持ちになってくる。
 帰ったらシャワーを浴びて着替えだ。越前家のシャワーはコックを捻ってから湯になるまで少し間があるので最初は水だが、むしろその方が火照った体には心地いい。たっぷり汗を流して、太陽の匂いのするシャツと青学の学ランのズボンを装着。本当ならしばらくトランクスのままうろうろしたいのだが、菜々子さんやおばさんもいるのにさすがにそれはできない。
 居間までくると、予想通り奈々子さんとおばさんが朝食を作っていた。置いてある牛乳をコップに注ぎつつ朝の挨拶をする。
「おはようございまーっす」
「Good morning!」
「はい、おはようございます。いつも早いですね、隼人さん」
「いやぁ、アスリートとして当然っスよ! 練習の時間とか考えたらどうしても朝は早くなっちまうんで」
「そろそろ朝ごはんできますから、リョーマさんと巴さんを起こしてきていただけますか?」
「え? あいつらまだ起きてきてないんスか? ったく、しょうがねぇな……」
 ぶつぶつ言いながら牛乳を一気飲みし、二階へ向かう。リョーマの部屋の方が階段には近い。
 二度軽くノックして、声もかけずにドアを開けた。もう一年も一緒に暮らしているのだし、そうでなくともこいつに遠慮などは必要ない。
「おらっ、起きろっ、リョーマっ!」
 容赦なく布団を引っぺがす。出会った時よりは少し背が伸びているけれど、それでも自分よりはるかに低いリョーマは小さな体で、ベッドの上から自分を睨みつける。
「……うるさい」
「うるさいじゃねーだろっ、朝だぞ朝! しかも今日なにがあると思ってんだ、わかってんのか!?」
「山ザルじゃないんだから確認されなくても知ってる……」
「ぁんだと、コラ!?」
「……まだ時間あるでしょ?」
「バカ、もうすぐ朝メシができんだよ! いーからとっとと起きろっ、うらっ」
 パジャマをまくり上げてくすぐり攻撃。リョーマの白い腹は触り心地がいい。リョーマはしばし眉根を寄せながら耐えていたが、一分で屈して起き上がった。
「……起きる」
「おう、とっとと着替えろ」
 もそもそと制服に着替えるリョーマを隼人はじーっと監視した。こいつは放っておくとすぐベッドに戻りかねないから着替え終わるまでは見ていなくてはならないのだ。
 幸い今日はわりと目覚めがよかったらしく、学ランに身を包んだリョーマはわりとすっきりとした顔をこちらに向けた。
「巴は?」
「まだ寝てるって」
「ふぅん。いつもながら寝穢いね」
「巴もてめぇに言われたかねぇと思うぞ……」
 などと言い合いつつ階段からは一番奥に位置する巴の部屋の前に移動する。これも日課のようになっていた。巴がまだ寝ている時は、隼人はリョーマを起こしたあと一緒に巴を起こしに向かう。さすがに女の子なので部屋に入って起こすことはできないが。
 リョーマが軽くドアをノックした。
「ねぇ、まだ寝てるの? いいかげん起きてくれない?」
 てめぇが言うな、と思いはしたが、こんな時に口を挟んでもしょうがない。隼人は中から反応がないのを確認してから、大声で怒鳴った。
「おい、巴! 今日からJr.選抜の合宿なんだぞ、まさか忘れてんじゃねぇだろうな!」
 数秒経ってから、ばたばたと身を起こす音が扉を通して聞こえてきた。女の子特有の甲高い声で、巴が部屋の中から叫ぶ。
「すぐ行く! 先にごはん食べてて!!」
 やれやれ、と嘆息して隼人は踵を返した。自分も腹が減っている、巴の言葉に甘えよう。というか巴を起こす時はたいてい先に飯を食い始める羽目になるのだが。
「おら、行くぞリョーマ」
「言われなくても行くけどね」
 連れだって一階へ降りる。『朝食は黄金の食事』というのは父・京四郎の山とある持論のひとつだが、いつにも増して今日は気合を入れて食べる必要があるだろう。
 なにせ、今日からJr.選抜なのだから!

「ふう、びっくりした」
「なにがだよ?」
 越前家の朝の定番メニュー、バターロールにソーセージと卵とチーズと野菜をたっぷり挟んだものをあぐあぐと食べていた(ただし二個目)隼人は、セーラー服姿で席に着いた巴の言葉に片眉を上げて訊ねた。
「だって、はやくんもリョーマくんも急に声かけるんだもん」
「急にもクソも起こそうとして声かけてんだからそんなん当たり前だろ……」
 リョーマももぐもぐと同様のものを食べながら(食前にいつものごとくまた洋食? と顔をしかめている)クールな声音で言う。
「そもそも驚いたのはこっちの方だけどね。全然反応ないから、やっぱり怖くなって逃げ出したのかと思ったよ」
「誰が逃げるのよ!」
「巴が逃げるわけねぇだろ!」
「……ふーん。なら、いいけどね」
 二人揃っての声に、リョーマは仏頂面で肩をすくめた。
「……でも、逃げ出したい気持ちがあるのも確かなんだよねぇ」
「はぁ!? なに言ってんだよ巴!」
「だって……私みたいな中学入ってからテニスを始めたような初心者が、選抜合宿なんて大丈夫かな」
「う……そ、そりゃそうだけど……」
「ま、気にしなくていいんじゃない。補欠枠の選手になんか、誰も期待してないだろうし」
「補欠とは失礼ね! 全国大会優勝監督推薦枠……竜崎先生に推薦されたのよ!!」
「でも、それって……要は補欠でしょ?」
「ま、まぁ、そうなんだけどね。そうだね、補欠みたいなもんだって考えた方が気楽かもね」
「……オイ、コラ。それは俺に喧嘩売ってんのか?」
 隼人も巴同様推薦枠だった。全国大会優勝監督の竜崎先生に推薦された形。巴はともかくとしても、リョーマたち同様幼い頃からラケットを振ってきた自分がJr.選抜の選考委員たちのお眼鏡にかなわなかったというのは、実はちょっと隼人的には悔しかった。
 なのでこういう言い方をされるとむしょうにカチンとくる。
「別に。事実じゃん」
「ぁんだと、コラ!?」
「でも、テニス暦たった1年で、補欠でもなんでも、選抜合宿に参加できるとこまで来たわけだし……合宿で更なる成長を遂げれば、私が中学テニスの頂点に立つ日も近いかも!?」
「……まだまだだね」
「……調子に乗るなっつの」
 つん、とおでこをつつくと巴は「いったーい」と膨れた。だが、巴の成長速度が尋常ではないのは事実だ。ラケットなんて一年前まで持ったこともなかった巴が、ほとんど物心ついた時からラケットを振っていた自分と、互角とはいえないがけっこういい勝負をするくらいに成長しているのだ。はっきり言って常識では考えられない。
 そんな従妹を誇りに思うが、実はちょっと悔しい気持ちもあったりする。
「巴さん、まだ、時間あるんでしょう? 朝ごはん、ちゃんと食べた方がいいですよ」
「あ、おはようございます、菜々子さん! いただきます!」
 元気にうなずいて巴が用意された朝食を食べ始める。しばし居間には食事の音だけが響いた(食べることに集中するとどうしても会話はおろそかになる)。
「今日からJr.選抜の合宿らしいじゃねぇか」
 越前家の大黒柱――というには当てにならないが、父・京四郎の親友で居候先の世帯主、南次郎がとろとろと朝食の席に姿を現した。
「いやぁ、立派になって……。来た時は、こんなに小さくて、まだオシメも取れたばかりだったお前らが、選抜の合宿か……。京四郎のヤツも、草葉の陰で喜んでるだろうぜ」
「オシメが取れたばかりって……私が来たのは去年の三月二十三日! まだ一年も経ってませんよ。それに、お父さんはまだ死んでません! ……たぶん」
 ムキになって反論する巴。いつもながら巴はちょっとファザコン気味だと思う。自分ではそんなこと絶対に認めないが。
「あれ? そうだっけ?」
 きししと笑う南次郎の姿を見ると、やはりあのキツネ親父の親友だけあると思う。ある面においては京四郎よりたちが悪い。テニスプレイヤーとしては間違いなく尊敬できるし、学べるところも多々あるのだが。
「もう……はやくん、リョーマくん、時間、まだ大丈夫かな?」
「そろそろじゃねぇ?」
「ま、迎えに来るって言ってたし、待ってればいいんじゃない」
「そうか、そう言えば、そんなこと言われてたっけ」
 そう巴が言ったところでおりよくピンポーン、とチャイムが鳴った。
「あ、来た! はやくん、リョーマくん、行こう」
「おう」
「はいはい」
「みんな、気をつけて行ってらっしゃい」
『はい、菜々子さん! 行ってきます!』

「おう、お前ら目は覚めてるか?」
「はい! おはようございます! 桃ちゃん部長!」
「よーし、準備もいいみてぇだな。じゃあ、行くぜ。そろそろみんな、集合してる頃だ」
 みんなか、と隼人は一瞬感慨にふけった。三年の先輩たちとまた同じ場所で練習ができる。地区予選、都大会、関東大会、全国大会。その間ずっと共に戦い続けた懐かしい人たち。それは素直に嬉しいと思えた。
 だがこれまでの戦いと違うのは、全員ライバルだということだ。青学の中で一緒に競うというだけでなく、最終日にはJr.選抜優勝の座をかけて全員で争う。
 少し寂しい気もしたが、それ以上に楽しみだった。先輩たちは敵として戦う時、どんなテニスを見せてくれるんだろう?
「うっしお前ら、朝の運動がてら、ダッシュで行くぜ! ついて来い!」
『はいっ!』
 叫んで隼人は全員で青学まで走った。リョーマは最初面倒くさそうな素振りをしていたが、自分が走り出すと仏頂面であとをついてくる。追い越されてたまるか、と隼人は全力で走った。短距離走ではわずかに負け越しているが、長距離走ではリョーマに負けたことは(ほとんど)ないのだから。
 息を弾ませながら青学グラウンドに着くと、そこにはすでに全員が揃っていた。竜崎が全員を見回し、高らかに言う。
「よし、揃ったね! 全員、準備はいいだろうね」
「もっちろん! 準備万端、パーフェクトだよん!」
「一週間の長い合宿に困ることがないよう、念入りに準備してきましたから」
「それは結構。あんたたちは全国大会優勝校のメンバーなんだからね。その自覚を持って……テニスの腕だけじゃなく、日頃の行動でも模範となるようにね。選抜の合宿は、多くの学校の多くの選手が集まる。団体行動を乱すんじゃないよ」
「お調子者のテメェのことだぞ。わかってんのか、桃城。向こうで恥かかせるんじゃねぇぞ」
「なんだと、マムシ! お前の方こそ、その調子で揉め事起こしたりするんじゃねぇのか?」
「やれやれ……。あやつらが向こうでもああなったら……頼んだぞ、大石」
「はい。まったく、世話の焼けるヤツらだな」
「とにかく、今回は青学の実力を証明するいい機会だからね。思いっきり暴れておいで」
「クス……。これは責任重大だな」
「選抜は全国の選手のデータを集めるいい機会でもあるし……頑張らないとな」
 先輩たち変わってねぇなー、と隼人は思わず笑む。そりゃたかが半年だしその間もちょくちょくあっているから当然といえば当然だが、やっぱりちょっと嬉しい。
「でも、一年生から五人も選抜に呼ばれるなんて、本当にすごいよね」
 近くに寄ってきた勝郎が笑顔で言う。
「本当に。僕たちも頑張るから、みんなも頑張ってきてね」
 同様に近くに寄ってきた水野の言葉に、隼人はぐいっと親指を立てて答えた。
「任しとけって!」
「精一杯頑張るよ」
 そう微笑みながら言ったのは天野だ(リョーマはいつものごとく無愛想に肩をすくめただけだ)。天野は桃城とも相談して、桃城とのダブルスで出場する予定らしい。
 Jr.選抜最終日の大会は、当日朝にどの種目で出場するかを申し込むことになっている。なので今すぐに決めなくてもいいのだが。
 隼人は少し迷っていた。この晴れの舞台に、なにで戦うことを選ぶか。
「ま、後のことはこの俺に任せておいて、安心して行って来いよ。なんたって、このテニス暦三年の俺は、乾先輩からデータを引き継いだ男なんだからな!」
「あはは、そうだね」
「つか、堀尾。お前乾先輩からもらったデータ以外でも活躍できるようにしろよ?」
「な、なんだとー!?」
 にぎやかにお喋りしていると、ふいに低い声が聞こえた。
「おい、ヘラヘラしてるんじゃねぇぞ」
 荒井と池田の二年迷惑コンビだ。今はレギュラーになってはいるが、明らかに元からレギュラーだった者たちより実力は落ちるのに態度はでかいというタイプなので、後輩との間にはトラブルが絶えない。まぁ、隼人はそれなりにつきあいも長いので、根は悪い人ではないとわかっているのだが。
「なんの間違いで推薦されたかわからねぇけど、選ばれた以上は、お前は青学の名を背負ってるんだ」
「お前が向こうで恥をかくと、青学テニス部レギュラーの俺たちの実力が疑われることになる。絶対に、なめられるんじゃねぇぞ」
「大丈夫っスよ。まぁ任せといてください」
「先輩たちこそ、青学の実力が疑われないように……もっと練習した方がいいんじゃないスか」
「なんだと!?」
 さすがリョーマ、人を怒らせる技術は天才的だ。自分に向けられると腹立たしいが、ムカつく奴に向けられるのを見るのはかなり楽しい。
「あ、朋ちゃんだ」
「げっ、あいつ来てんの!?」
 桃城と話していた天野がふと言った言葉に、隼人とリョーマは同時に顔をしかめた。小坂田はリョーマの熱狂的なファンで、しじゅうリョーマにつきまとってぎゃんぎゃん喚くので話していると疲れるのだ。
「まぁまぁ、朋ちゃんにも悪気はないんだからさ……そんなに邪険にしないであげてよ」
「向こうがこっちを邪険にしまくってんだよ!」
「うーん、まぁ、それはそうだけどね……すいません桃部長、俺、ちょっと声かけてきます」
「おう、行ってこい。もうすぐバスがくるから早くしろよ」
 手を振る桃城に頭を下げて、天野は小坂田のところへと向かった。本当に、と隼人は嘆息する。天野は小坂田を大切にしているようだけど、あいつのどこにそんないいところがあるのかさっぱりわからない。
「桃部長、どー思います? あいつどーして小坂田にあーも肩入れするんスかね?」
「さーなぁ。幼馴染っつってたから慣れちまってんじゃね? 心配しなくても、度を越すようだったら問題起きる前に俺がきっちり止めてやるって。パートナーだからな、あいつは」
「……っスね」
「余計なお世話って言われんじゃないの? 別にいいけど」
 リョーマがぼそりと言った一言に、隼人と桃城は思わずこめかみに青筋を立ててリョーマに拳ぐりぐり攻撃を放った。ホントにこいつは水差すのも上手で腹が立つったらない。
 と、プァーン、とクラクションが鳴った。バスがやってきたのだ。
「おっと、やべぇ。おい、バスが来たぞ! 早く乗れよ!」
「はーい! ついに出発ですね!」
「ああ。だが、その前にやることがあるだろ?」
 やること? と一瞬考えて、思わずにやりと笑む。こういう時は、やっぱりあれしかないだろう。
「そうっスね。んじゃあ、いっちょ、行きますか!」
 全員で円陣と肩を組む。桃城が声を張り上げた。
「青学―――っ! ファイッ!!」
『オ―――ッ!!』

 Jr.選抜合宿所。そこは設備の整っている青学と比べても相当にいい感じの施設だった。
 テニスコートは広く数があり、宿舎もグラウンドも大きくきれい。確かプールもあったはずだ。ここで今日から特訓を受けることになるのかと思うと、自然心がわくわくする。
 バスが止まると、一番前に座っていた巴が真っ先に駆け出す。それに苦笑しながらあとを追った。
 あちこちに知った顔が見える。不動峰、山吹、聖ルドルフ、氷帝、立海大。どこも強かった。全国大会の時より全員さらに強くなっていることだろう。
 だが、自分だってさらに強くなっているのだ。負けるつもりは微塵もない。
 そううなずいて一歩を踏み出すと、声がかけられた。
「おや、君は……隼人くん」
「へっ?」
 驚いて声のした方を向くと、そこには比嘉中の面々が立っていた。木手、甲斐、平古場。選手一覧で見た、比嘉中の中からJr.選抜に選ばれた面々だ。
「木手さん、甲斐さん、平古場さん! お久しぶりっス!」
 嬉しくなって大声で言い頭を下げる。たまにメールを交換したりしていたとはいえ、会って話すのは数ヶ月ぶりだ。
「……ちょっと。なんでお前そんなにこいつらと親しげなわけ?」
 リョーマが怪訝そうに言う。近くにいる青学の先輩たちも明らかに不審そうだ。まぁ全国大会での印象は俺だって最悪だったからな、と苦笑して説明した。
「前に巴と一緒に里帰りした時沖縄行ったことがあっただろ? その時に、ちょっとな」
「……ふぅん」
「まぁ、驚くのもわかるばーよ。わんも全国大会ぬ時は隼人うぬくとぅうふとっとろぉんでぃどぅあいびいる」
「……わけわかんないんだけど」
「フィーリングでいくんだよ、フィーリングで。みなさん、合宿の間よろしくお願いするっス!」
「そうですね。互いに高めあうよう、努力していきたいものです。それでは我々はこれから軽く体を動かすので失礼。巴くんにもよろしく伝えておいてください」
「はいっ!」
 ぺこりと頭を下げて、去っていく比嘉中の面々を見送る。巴にも教えてやろうと視線を動かして、隼人は思わず「あーっ!」と声を上げた。
「てめぇっ、葵っ! なに人の従妹の手ぇ握ってんだよっ!」
 叫びながら宿舎の前に走り寄る。そこで巴が、六角中の葵に手を握られていたのだ。
「え、はやくん?」
「え、キミは……誰だっけ?」
 本気で忘れているらしい葵にますます腹立ちがつのる。そりゃ、六角中戦では自分は出なかったけれど。
「だーっ! 青学一年レギュラー赤月隼人だっ!」
「あ、そうそう。え、赤月って、もしかして兄妹? なんだそうなのか、よろしくねお兄さん!」
「てめぇにお兄さん呼ばわりされる筋合いはねぇぇぇ!」
 このスケベヤローがっ、と思いつつ隼人は巴と葵の間に割り込む。こいつは女好きだと聞いていたが本当だ。いきなり手を握るような節操なしだったとは。
「巴も黙って手握られてんじゃねーよっ!」
「え、だって別に怒るようなことじゃ」
「うん、そうだよね!」
「ざけんなぁぁ!」
 冗談じゃない、従兄として巴がこんな奴の毒牙にかかるのを放っておけるか。断じて許せない、放っておけるわけがない。
「……どうでもいいけど、そろそろ荷物置きに行った方がいいんじゃないの? 練習の時間迫ってるんだけど」
 熱くなっている隼人にちょうど水を差すように、リョーマが言う。はっとする隼人の横で、巴が笑顔でうなずいた。
「そうだね、リョーマくん。私たちも荷物置きに……」
「コっシマエ〜っ!」
 響き渡る明るく頓狂な声。人影が走り寄ってきてリョーマに飛び乗り、リョーマが「うわ!」と叫んでよろめく。
 その人影には見覚えがあった。
『金太郎っ!?』
 四天宝寺中のスーパールーキーと呼ばれた男、遠山金太郎。そいつがリョーマの上で二カッと笑った。
「お、山ザル兄妹もおるやん。お前らもJr.選抜選ばれたんや?」
『誰が山ザル兄妹だ(よ)っ!』
「だっからてめぇにサルとか言われる筋合いねぇって言ってんだろこのチビサルっ!」
「だいたい女の子にサルとか言うなんてサイテーだって前に会った時も言ったでしょ!」
 思わず巴と一緒に叫ぶが、金太郎は笑顔を崩さない。
「まぁええやん細かいことは。ほんま久しぶりやなー、元気やった?」
「……まぁな。お前は聞く必要もなく元気そうだよな……」
 自分でもなんだか暗いとわかっている声で言う。こいつはなんというか、正直会いたくない奴なのだ。
 リョーマと張るくらいテニスが強くて。リョーマと同じくらいの背で。
 リョーマと同じものを見ている、という気がするのだ。自分が同じものが見れないとは思っていないが、その感覚がひどくリョーマに近いものに思えて。なんというか、なんだか、面白くない。
 それに自分の方がよっぽどサルのような言動&容貌をしているくせに人のことを山ザル呼ばわりするムカつく奴だし。天野は「つまりは近親憎悪なんだね」と言っていたが、冗談じゃないどこが似ているというのだ。
「当たり前やん。よう言うやろ、子供は風の子元気な子! 赤子泣いても蓋取るな!」
「違うの混ざってるよ!」
「……いい加減降りてくんない?」
「お、悪い悪い。せやな、ここ安定悪いし降りるわ」
「勝手にリョーマに乗っかっといて偉そうなこと言うなっ!」
 怒鳴っても金太郎は微塵も気にした様子もなく、やってきた天野に飛びつくようにして抱きつく。
「おーっ、きーやん久しぶりやん! 今日俺の分の弁当作っといてくれたぁ?」
「あはは……金太郎くん、久しぶり。うん、約束通りお弁当作ってきたよ」
 天野がバッグの中を探り出すのを見て、隼人は思わず目をむいた。
「……おい、コラ騎一。お前こいつに弁当作る約束なんてしてたのかよ?」
「え、うん、まぁ。昨日電話がかかってきて……」
「はぁ!? お前こいつに電話番号教えたのか!?」
「ギャハハッ、羨ましいやろ山ザル。きーやんとワイはマブダチやもんな〜」
「るせぇっチビザルっ、俺と騎一の方が仲いいっつーの! 同じガッコで同じクラスなんだぞっ、俺だって作ってもらおうと思えばいつだって弁当くらい作ってもらえるんだよ!」
「あはは……」
「……うるさい」
 ああもう本当にムカつく、と思いながら隼人は金太郎を睨む。天野は自分の友達だしリョーマだって――ってなにを考えているのだろう、自分は。
「じゃ、私荷物置きに行ってくるから。はやくんたちも早く行きなよ?」
「おう、こいつをシメたらすぐ行くぜ!」
「ギャハハッ、やれるもんならやってみぃっちゅうねん」
「……急いだら? お前支度遅いし」
「じゃあね」
「あーっ、巴さーん! カムバーッ……」
「てめぇはいいから巴に声かけんじゃねぇっ!」
 隼人は葵を押し込めるようにして巴から隠した(背が同じくらいなので少し苦労したが)。巴が振り返りもせず去っていくのを確認して、息をつく。
「……ったー、ひどいなー。そんなにムキになってボクの恋路を邪魔しなくってもいいじゃないか」
「なにが恋路だっ、てめぇのスケベ心に巴をつきあわせられるか!」
「恋路? おいにーちゃん、お前あのサル女のこと好きなんか?」
 ふいに聞いてきた金太郎に、葵はあっさりうなずいた。
「うん。可愛いよねぇ巴さん、きれいだし。あ、でも那美さんも可愛いよね。青学はいいなー、カワイイ女の子が多くて」
「だっからそーいう態度でいる限りてめぇはぜってー巴のそばには近寄らせねぇっ!」
「……ふーん。そーなんや。ふーん……」
「………?」
「おい、遠山」
 と、そこにぶっきらぼうな声がかかった。天野より少し背が低いくらいの、金太郎よりわずかに背が高いくらいの、金髪の男。
「えっと……お前は確か……健坊!」
「誰が健坊だっ!」
 目を吊り上げて怒鳴った顔で思い出した。こいつは藤堂健吾、小学校の時のごたごたで天野をライバル視している四天宝寺中の一年だ。わざわざ喧嘩を吹っかけに天野に会いに来て、その時は勝ったものの全国大会で大負けし、涙を流して悔しがっていたことを覚えている。
 金太郎が健坊健坊と呼んでいたのでその名で覚えてしまっていたのだが、プレイを見る限りそれなりの腕はしていた。天野には及ばないが。
「お前もJr.選抜に選ばれたのか?」
「ああ……」
「なんや知らんけど健坊を気に入っとるお偉いさんがいてるんやて。せんこーかいでプッシュしたとかなんとかオサムちゃんが」
「遠山っ! それはこいつの前では言うなと言っただろうっ!!」
「そやったっけ? まぁええやん、どっちでも」
「よくないっ! ……言っておくが、天野! 俺はこのJr.選抜で、なんとしてもお前を倒し、超えてやるからな! 覚悟しろ!」
「……俺だって負ける気は全然ないよ。お互い、頑張ろう」
「フン! そうして上の立場で話していられるのも今のうちだ!」
「あーっ、健坊なにいちびっとんねん。きーやんいじめたらワイが承知せぇへんで〜?」
「そーだそーだ、だいたいお前は暗いんだよ、しつこくしつこく騎一追い回しやがって」
「……暇だよね。たった一人しか倒したい相手がいないんだ?」
「なんだ……!」
「金太郎〜? 藤堂〜?」
「あ……白石先輩……!」
「おう、白石ぃ! なにやっとん?」
 声をかけてきたのは四天宝寺中の元部長、白石だ。慌てて礼をするこちらに礼を返し、白石は後輩二人にむけて言う。
「俺はお前らに言うたよなぁ? 練習するしもー二十分も前にコートに集まりって」
「は、はい……」
「えー、せやかてワイコシマエが来たちゅーから勝負したかってんもん。きーやんにも挨拶しときたかったしなぁ。健坊もそーやろ?」
「バカっ、お前と一緒にするな! 俺はただ、白石先輩に言われてお前を探してて……」
「それで他校生に喧嘩売っとったんか?」
「そ……それは」
 白石がしゅるりと左手の包帯を解き始める。金太郎と藤堂の顔が一気に青くなった。
「し、白石ちょっとタンマ!」
「お前ら、死にたいん?」
「すいません、今すぐコート行きますっ!」
 金太郎と藤堂は即座に背を向けて走り出す。少し呆気に取られる隼人たちに、白石は頭を下げた。
「すまんな、ウチの後輩がえろう迷惑かけて」
「あ、いえ……」
「……ちゃんと躾けといてくれない? 飼い主としてさ」
「リョーマくん!」
「ハハ、まぁ俺はもう四天宝寺の部長ちゃうしな。そこらへんは君らに任せるわ」
「いや任せないでくださいよ! 他校っスよ俺たち!」
「今回は同室ちゅうことで迷惑かけるかもしれんけど、まぁよろしゅうな。六角の葵くんもな」
「……同室?」
「……なに。知らなかったの?」
「俺と隼人くんとリョーマくん、それに金太郎くんと藤堂と葵くんは同室なんだよ。一年生で固めたみたい」
 隼人は一瞬黙り込んで、それから叫んだ。
「うっそだろ―――っ!!?」

 午前中の練習を終え、隼人たち青学テニス部員は合宿所前に集合していた。手塚元部長を出迎えるためだ。
 手塚はアメリカへテニス留学していたのだが、Jr.選抜には帰ってくることになっていたということを聞いたのは数日前だった。名簿を見ていて気がついたのだ。
 全員当たり前のように気付いているとみなされているようで、午前中の練習が終わると当然のように『宿舎の前に集合』と連絡が回ってきた。手塚と共にアメリカへ旅立った山吹の亜久津も帰ってくるというので山吹の人間も集まっている。亜久津に会えるのもかなり楽しみだった。
 しかしあいつはなにをこちらの輪に加わらずうろうろしているんだろう、と宿舎の前をうろうろしている巴を見ていると、バスが合宿所の前に止まり、中から二人の人間が降りてきた。
「……やはり、遅れてしまったようだな」
「て、手塚先輩!?」
「うるせーな。こっちは長旅で疲れてるんだ。耳元で、でっけぇ声あげんじゃねぇよ」
「それに、亜久津さん!?」
 どちらに声をかけるべきか迷って、隼人はとりあえず「お帰りなさい、二人とも!」と叫んだ。それに続くように手塚と亜久津に人が集まっていく。
「いや〜元気そうだね、亜久津。あんまり遅いから、飛行機でも堕ちたかと思ったよ」
「手塚……待ってたぞ。元気そうだな!」
 巴がなぜか目を白黒させて騒ぐ。
「手塚先輩と亜久津さんも、合宿に参加するんですか!?」
「ああ。もともと、卒業式と選抜には戻ることになっていたからな」
「俺はこないだ知ったんだがな」
「全然知らなかった……。でも、もしかして、みんなは知ってたんですか? 全然驚いてないし」
「メンバー発表の時、名前、入ってたでしょ。見てなかったの?」
「つか、巴。俺お前にJr.選抜で手塚先輩とミクスドやるのかって聞いたぞ?」
 本気で気付いていなかったのか、と疑いながら言った言葉に巴は目をしばたたかせる。
「そ、そうだっけ……?」
「ああ。そしたらお前『あはは、そんなわけないじゃん』って答えたからてっきり帰ってくるの知ってて別の人と組むつもりなのかと」
「え……あ、あぁぁぁ!」
 本っ気で気付いてなかったわけな、と隼人は思わず眉間を押さえた。本当にこの従妹は、こういうところすっこーんと抜けているから困る。
「………赤月」
「あ、あははは! え、えっと、亜久津さん、長旅で疲れてるみたいですけど大丈夫なんですか?」
「それだけじゃねぇ。飛行場でのウチのババァの歓迎のせいだ」
「ババァ……って優紀ちゃんのことですか!? ひっどーい!!」
「いや〜、同感、同感。いけないなぁ、亜久津。あんな若くてきれいなお母さんを、ババァだなんて言っちゃ」
「千石……テメェ!」
「おいおい、到着早々、二人ともやめろよ」
「周りに迷惑だろ?」
「そ、そうですよ、亜久津さん」
「だってさ。お母さんの熱〜い歓迎で、疲れてるんだろ? 午後の練習が始まる前に、荷物を置いて、少し休んだ方がいいんじゃない?」
「チッ。俺に指図するんじゃねーよ」
「でも、そうした方がいいっスよ」
 めまぐるしい口論の間に口を挟む。尊敬できるテニスプレイヤーとして、亜久津には万全の体調で戦ってもらいたい。
「そうですよ。長い時間飛行機乗ると、エコロジー症候群とかになるんですよ」
「それを言うなら、エコノミー症候群です」
 巴は顔を赤らめたが、隼人もわずかに顔を赤らめた。自分も巴と同様にエコロジー症候群だと思っていたからだ。
「あはは! いやぁ、キミ、面白いねぇ。ミクスド選手の子だよね。名前は?」
 ぴくり、と思わず眉が動いた。自分のセンサーにばりばり反応する。この人は――
「えっ? ああ、私は青学一年、赤月巴です!」
「俺は山吹中の三年、千石清純。またの名をラッキー千石。よろしくね」
「はあ。ラッキー千石さん、ですか」
「ラッキー(↓)千石じゃなくて、ラッキー(↑)千石だからね」
「いいじゃないっスか。どっちでも」
「いやいや、逆だとアンラッキーなイメージがするだろ?」
「チッ……。付き合ってらんねぇぜ」
 立ち去っていく亜久津に、巴が声をかける。
「亜久津さーん! Jr.選抜、頑張りましょうねーっ!」
 隼人も声を張り上げた。
「アメリカ留学の成果、期待してるっスからーっ!」
 亜久津は片手を上げてそれに応えてくれる。と、千石がにこにこと巴に話しかけてきた。
「ふ〜ん、亜久津を見事に馴らす女の子がいるって聞いたけど、君のことか〜。やっぱり面白いね〜、赤月さん。これから仲良くしようね〜」
 びしっ、と隼人の眉間に皺がよった。
「え? はぁ、はい、よろしくお願いします」
「テニスも強いんだって? 激可愛くておまけに強いなんてもう大歓迎だよ」
「そ、そうですか? えへへ〜」
 もう我慢ならん。隼人はずかずかと千石のところへ近寄り、ぐいっと体を巴との間に割り込ませた。
「千石さん、俺青学一年の赤月隼人っス。く・れ・ぐ・れ・も! よろしくお願いするっスよ」
「……へぇ、君、赤月さんのお兄さんかなにか?」
「従兄っス。大会で、もし当たったら……」
 顔を近づけて小さく囁く。
「その時は、容赦しませんから」
「ふぅん……これは宣戦布告されてるってことで、いいのかな?」
 同じように囁き返す千石に(笑顔を崩さないのが面憎い)、隼人も笑みを張り付けさせたまま答える。
「巴をそんじょそこらの男に奪われるなって、親父にきっつーく言われてますんで」
「ふむふむ……オーケーオーケー。さしずめ赤月さんはこっわーいお兄さんが見張ってる塔の上のお姫様、ってとこかな? それじゃあ俺はお姫様を助け出す泥棒さんになってあげなくっちゃね」
「……ははは」
「ふふふ」
 千石はあくまで笑顔を崩さない。だがその底には、ちらりと真剣さがのぞいているように思えて、隼人は頭の中の要注意者リストに千石の名を書き込んだ。
「……どうでもいいけど、赤月もう向こう行ったんだけど。こんなところで無駄に火花散らしてていいわけ?」
「おっといけないいけない。赤月さ〜ん」
「あっ! ……リョーマてめっ、よけいなこと言うんじゃねぇよ!」
「……別に。俺には関係ないことだし」
「んだとっ!?」
「……手塚先輩に挨拶しなくていいわけ?」
「おっとやべぇっ! 手塚せんぱーい!」
 あっさり乗せられた隼人は、後ろでリョーマが深くため息をついているのには、当然のように気付かなかった。

「ふう」
 昼の練習を終え、隼人はもらってきたスポーツドリンクをぐいっと傾けた。氷を混ぜてあるスポーツドリンクは、火照った体を心地よく潤す。
「あ、隼人くんボトル二本も持ってるー」
 ふいに現れてそんなことを言ってきたのは小鷹だった。隼人はわずかにムッとした顔を作り、ぶっきらぼうに言う。
「俺の分じゃねぇよ。片方は巴の分。あいつ練習長引いてるみたいだから、もらってきといてやろうと思っただけ」
「さすが、いいお兄ちゃんしてるね」
「べ、別にそーいうわけじゃねーよ」
「照れなくてもいいのに」
 小さく笑って、小鷹は自分の隣に座ってくる。隼人は少し困った。なにを話せばいいのかわからない。
 小鷹はミクスドの選手で、男子と同じ練習をこなしているのだから、普通の女子と比べればはるかに接点も多いし会話もある。だがそれはほとんどが巴や天野を介してのもので、一対一でこうして向かい合うことなど今まで一度もなかったのだ。
 しかも小鷹は見かけは可愛らしい女の子のものだ。そういうタイプの少女と改めて話をしようとすると、隼人としては途方に暮れてしまう。
「……ねぇ、隼人くん」
「へっ!?」
 急に話しかけられて変な声が出た。だが小鷹はそんな声など気にした風も見せず、どこか呆けたような声で言う。
「最近の、モエりんのテニスって、どう思う?」
「は?」
 意味がわからず、隼人は一瞬混乱した。
「どう、って……?」
「あ……ごめん、なんでもないの。ただの……そうだね、嫉妬かな」
「はぁ……」
 なんと言っていいのかわからず、隼人はスポーツドリンクをすすった。やっぱり女の子って、よくわからない。巴は別だけど。
「あ、隼人くん、那美ちゃん」
「……珍しい組み合わせだね。赤月は?」
 スポーツドリンク片手に現れた天野とリョーマに、少し助かった! という思いをこめて隼人は手を上げる。
「あいつならそろそろ練習が終わって……お、来た来た。巴! 水分補給まだだろ? ほれ、お前の分」
 やってきた巴にそうスポーツドリンクの入ったボトルを放り投げてやる。巴は目を見張りながら受け取った。
「わ! ありがとう、どうしたのこれ?」
「どうしたのって、もらってきてやったんだよ。スポーツドリンク。十時と三時には配られるんだってさ」
「あ、そうなんだ。……んーっ、喉渇いてるからおいしーっ!」
「だよな!」
「でもモエりん、水分補給は喉が渇いてからじゃ遅いって知ってるでしょ? 十時に配られたのもらって、少しずつ水分補給しなかったの?」
「あっ!」
「忘れてたわけ? スポーツドクター志望のくせして」
「うるさいなぁもう! ……でも、そうだよね。スポーツドクター兼トレーナーが夢のくせに、自分に反映できないってダメすぎるよね……はぁ」
「まぁまぁ。次から活かせばいいんだよ。喉の渇きが収まったら一緒に休みながら軽く練習しよう?」
「うんっ!」
「…………」
 隼人は黙ってボトルを握った。この流れでは、とても『全然知らなかったぜ!』とは言えない……!
 だが時すでに遅し、そう固まっている隼人を目ざとく認め、リョーマが冷たく突っ込んできた。
「お前も忘れてたわけ? それとも知らなかったの、そっちのがありそうだけど。父親がスポーツドクターなのに」
「……うるせーっ! 俺はプロ志望だから知らなくたってそんなには困らねーんだよっ!」
「困ってるじゃん、今確実に」
「うううう、うるせぇなっ! やるかリョーマっ!」
「やってもいいけど」
「まぁまぁ。勝負をつけるなら壁打ちでつけたら? 練習にもなるしさ」
「面白ぇ、やってやろうじゃんかっ!」
「別にいいよ」
「私も一緒にやる〜! はやくん、リョーマくん、勝負!」
「おっ、いいねぇ。気合入ってるじゃん」
 ふいの声に隼人たちははっと声のした方を向く。そこには立海大の切原が立っていた。
「切原さん……」
「もちろん、バリバリ気合、入りまくりですよ!」
「ま、青学には気合入れてもらわねぇと倒し甲斐がねぇしな。でも、初日から飛ばしてっとバテちまうんじゃない?」
「そんなヤワじゃありませんよ。山での生活と青学テニス部でたんまりと鍛えられてますから!」
「あー、モエりんそれじゃモエりんと隼人くん以外が半分しか鍛えられてないみたいじゃない」
「え!? あ、ご、ごめんっ! 全然気付かなかった……」
「ウソウソ、冗談。モエりんたちが中学入る前までの生活でしっかり鍛えられてるのは事実だしね」
「ううっ、那美ちゃん優しーっ!」
「暑いよ、モエりん」
 などと言いつつ巴と小鷹は楽しげに抱きしめあっている。こういう時の女子のノリには正直ついていけない。
「へー、仲いいねぇ、女の子たちは」
「仲いいですよ〜。でも男の子たちも仲いいですよ? 喧嘩よくしますけど」
「べっ、別に俺とリョーマは仲よくなんかねぇよっ!」
 ほとんど反射的に叫ぶと、リョーマも同様に冷たい声で返してくる。
「……こっちの台詞」
「でも大切なパートナーではあるんだよね」
「う……うるせぇぞ、騎一っ!」
「ごめんごめん」
「…………」
 リョーマはぶすっとしながらドリンクをすする。隼人もなんだか妙にいたたまれず、ほとんど空のボトルをぐいっと傾けた。それは確かにリョーマのことはテニスプレイヤーとしては得がたい存在だと思っているし、向こうもそう思っていると思っているし、一緒にいるのも嫌というわけじゃないのは確かだけど。そういう言い方をされると、なんというか、困る。
「あ、ところで切原さんは休憩時間はしっかり休むんですか?」
「まぁ、真田さんからは別メニュー、言われてんだけど、これが厳しいのなんのって……」
「なにをサボっているんだ、赤也! 休憩時間を無駄に使うなと言っておいたはずだぞ」
 真田の声。振り向くとそこには立海大のレギュラーメンバーたちが勢ぞろいしていた。
「さ、サボってなんかいませんよ。ちょっと挨拶してただけですって。……な?」
「えっ!? あ……はい、確かに切原さんの言う通りです」
 巴の答えに、真田は渋い顔でうなずく。
「そうか、ならいいが……。だが、お前の肩に立海大の命運がかかっていることを忘れるな」
「わかってますって。……幸村元部長と比べて、そんなに頼りないっスかね〜?」
「――赤也? もし立海大を今より弱くするようなら、俺にも考えがあるぞ?」
「……………! はいっ、わかってますっ!」
 元部長、幸村がちらりと一瞬見せた鬼気とすら呼べそうな迫力に、切原はすくみあがって返事をする。さすが立海大の元部長というだけはある迫力だ、正直隼人もちょっとビビった。
「赤也がお前たちの練習の邪魔をしていたようだな。すまない」
「あ、いえ、別にいいんですよ。ええーっと……」
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は立海大付属三年、柳蓮二だ」
 だっからなんで巴にばっか話すんだよ、と隼人は口の中で呟いた。全国大会の頃から思っていたが、巴はどうしてこうクセ者にモテるのだろう。
「私は……」
「青学一年の赤月巴だな。岐阜県出身、好物は鮎型饅頭と寿司、身長166cm、体重……」
「体重はダメーっ!!」
 叫ぶ巴。なんでぇやっぱり巴の奴まだまだガキでやんの、と隼人は思わずにやにやしながら言ってしまった。
「えー、なんだよー別にいいじゃんか。柳さん教えてくださいよー」
「もちろんお前のデータもあるぞ。赤月隼人、岐阜県出身、赤月巴とは従兄妹同士。好物は鮎型饅頭と寿司、赤月巴と同様だな。身長171cm体重60kg。好みのタイプは――」
「だぁぁぁ! なっ、なんで俺の好みのタイプまで知ってんスかーっ!」
 絶叫すると、柳はしれっとした顔で答える。
「基本だ。ちなみにお前たち全員のデータは立海大レギュラー全員が知っているので、自己紹介は不要だぞ」
「うわー、すごいですね、さすが立海大のデータマン」
「むろんだ」
「……あの、柳さん。私たちのデータ全員が知ってるって……体重とか、好みのタイプとかもですか?」
「ああ」
『…………』
「柳さんのエッチっ!」
「柳さん……ひどいっ!」
「ククッ。さすがの達人も女心のデータだけはわかってねぇな。俺はジャッカル桑原。立海大の三年だ。よろしくな」
「よろしくお願いします。えーと、ジャッカル……さん?」
「……言っておくが、本名だ」
「はあ……」
「丸井ブン太。シクヨロ」
「よろしくお願いします」
「俺は仁王雅治、ペテン師≠ニ呼きもいい。こっちの眼鏡は柳生比呂士。紳士≠ソや。まぁ、よろしゅう」
「よろしくお願いします!」
「……ホントにそっちが仁王さんでそっちが柳生さんなんスか?」
 隼人は思わず訊ねてしまった。あんな前例を見せられたら警戒せずにはいられない。
「なんじゃ、疑っちゅうかえ?」
「だって、関東大会の決勝であんなことやられたし……」
「疑うのはもっともですが、今は入れ替わっていませんよ。練習の時からそんなことをしていても意味がないでしょう? 私もそこまでは付き合えませんしね」
「それもそっスね」
「俺のことは知ってるかい?」
 笑顔のまま口を開いた幸村に、隼人は思わず巴と同時に答えてしまった。
『はい!』
「元部長の幸村さんっスよね! 覚えてるっス!」
「病気全快して、よかったですね!」
「……つか、今頃言う台詞か、それ?」
「ありがとう。よろしくお願いするよ」
『はいっ!』
「ところで、聞きたいのだが。今年の青学はどうだ?」
「どうだ、って……パワーアップしてますよ!」
 巴の答えに隼人は嬉しくなった。巴が本当は三年の先輩たちが抜けて戦力ダウンしていると考えていることはわかっているのだが、そういう気合の入った答えを聞けたことは嬉しい。自分だってリョーマだって天野だって、まだまだどんどん強くなっていけるのだ。
 隼人はにやりと笑みを浮かべ言ってやる。
「青学のこと、過小評価してるんなら、考え改めた方がいいっスよ」
「ヒュ〜、言ってくれんじゃん!」
「フフッ、今年の青学も期待できそうだな。……そろそろ俺たちは失敬させてもらう」
「じゃあな、赤月」
 立海大メンバーの背中をぼんやりと眺めていると、巴がふいにふぅ、とため息をついた。
「どうしたんだよ、巴」
「いやぁ、だってさぁ……さすが元王者っていうか、みんなオーラが違うなーって。幸村さんなんかもうすっごい迫力だったでしょ?」
「う……ま、まぁ」
 それは確かに、わからなくもないというかわかりたくなくてもわかってしまうというか。
「……バカ?」
「んっだよリョーマっ!」
「それを言うなら俺たちは、現王者なんだけど?」
『あ……』
 リョーマがシビアな口調で言った一言に、隼人は思わず奮い立った。そうだ、自分たちは現王者ではないか!
「そ、そっか、そーだよなっ。へへっ、立海大なにするものぞ、だぜ!」
「まぁ、お前は少し学んだ方がいいような気もするけど。落ち着きとか」
「ぁんだと、コラ!? てめぇこそ少しは礼儀とか学んだ方がいいんじゃねぇのか!?」
「ほらほら、喧嘩してたら休憩時間終わっちゃうよ? 時間は有効に使わなくちゃ」
「あ、そうだな。よっしリョーマ、壁打ちで勝負だっ!」
「別にいいけど」
 天野や巴や小鷹も一緒に壁打ちをやったが、それでもいつものようにリョーマとの決着はつかなかった。

「これより本日の練習試合を行う。対戦相手は公平にくじで決める。順番に引き、試合を始めてくれ」
『はいっ!』
 くじを引いて相手を確認した隼人はほくそ笑んだ。相手は六角中の葵剣太郎だったのだ。いい機会だ、コテンパンにやっつけて巴から手を引かせてやる。
 ネットを挟んで隼人と葵は対峙する。葵はにこにこと笑んで、握手を求めてきた。
「よろしくね、お兄さん!」
「…………」
 だいたい同程度の高さにある葵の顔をぎろりと睨んで、隼人は握手を受けた。ぎゅむっ、と一瞬渾身の力をこめて手を握り、にやりと笑う。
「――ぶっ倒す」
 葵はわずかに身を震わせてから、しぶとく笑顔で答えた。
「そう簡単にはやられないよ」

 だが、勝負はわりとあっさりとついた。
「ゲーム6-3、マッチ・ウォン・バイ・赤月!」
「っし!」
 隼人は思わずガッツポーズを取る。ほとんどのゲームを、自分の思い通りに動かせた。
 確かに葵の自分を追い込んでからの集中力はすごいものがあったが、自分も伊達に全国優勝したわけではないのだ。テニスの時の集中力で人に負けるつもりはない。
「あぁぁ、負けちゃったぁ……」
 葵が肩を落とす。荒く息をつくその前に、すっと手を差し出した。
「?」
「またやろうぜ。楽しかった」
 にっと笑って言ってやると、葵はぱっと顔を輝かせてうなずく。
「うん! またやろう!」
「おう」
「認めてもらったっていうことは、これでまた巴さんとお話ができるんだ〜! やったぁ!」
「…………」
 隼人は一瞬絶句して、それからすぱーん! と葵の頭をはたいた。
「それとこれとは別だっ!」
 青学の仲間たちも全員勝っているようだった。巴は跡部と組んでとはいえ緑山中の季楽&氷帝の日吉という男子ダブルスを見事打ち破っていたし。
 やっぱ青学はこうでねぇとな、と隼人の顔は自然笑んだ。

「はーらへったー」
 金太郎が畳の上に寝転がって喚く。隼人は「うるせぇ」と言いつつその背中を蹴った。一年だけというのは気楽でいいが、こいつと一緒というのはなんだかムカつく。
「痛って! なにすんねんボケサルっ!」
「さっき夕食食っときながらなーにが腹減った、だよ! 魂胆が見え見えなんだてめーはっ、どーせ騎一になんか作ってもらうつもりだったんだろっ!」
「おお、ようわかっとるやん山ザル。まずはさりげのうはらへったーてアピールしてやな、きーやんに飯作ってもらおっちゅー高度なおねだり作戦やねん」
「どっこが高度だどこが! つかな、夕食はきっちり食ったんだったら我慢しろ我慢!」
「イヤや! あんなん全然足りひんわ! もっと飯くれー、飯ー!」
「……お前ら、うるさい」
「少しは静かにできないのか! 暴れる元気があるなら自主トレしろ、遠山!」
「うーん……明日はどうやって巴さんと話そうかな?」
「葵てめぇまだンなこと抜かしてやがんのか……!?」
「……まだまだだね」
「うわ、なんで越前くんまで睨むんだ!?」
「まぁまぁ。……でも、金太郎くん。ここのご飯、栄養的にはちゃんと必要十分条件満たしてるよ? あんまり間食とかしたら体によくないと思うんだけど」
「イヤや。えいよーは足りてても胃袋が満たされへんねん! このままじゃ飢え死にしてまうー! きーやん、なんか作ってぇな! ワイ腹減ってしょうがあらへんねん!」
「うーん……」
 天野は少し考えてから、苦笑してうなずいた。
「じゃあ、なにか軽いものでも作ろうか。材料費は折半だけど」
「よっしゃー!」
「はぁ!? おい騎一っ、それ甘やかしすぎだぞっ!」
「天野お前、さっき言った舌の根も乾かんうちに……! 結局他校の選手などどうなってもいいというわけか!」
「……そういうつもりじゃないけど。たださ、金太郎くんが駄々こねてるのは、お腹が減ってることもそうだけど精神的なものもあると思うんだ。だったら軽くなにかつまむものでも作ってあげたら、すっきりして明日から練習に打ち込めるんじゃないかなって。……ただし、金太郎くん? 作ってあげるのはこれ一回だけだからね? 次からはちゃんと我慢するんだよ?」
 怖い顔を作って言うと、金太郎はにかにか笑顔でうなずく。
「わーっとるて。今日はなに作ってくれるん? 弁当は昼食ったからなんか甘いもんがええな〜」
「……はいはい。みんなも、一緒にどう? どんなものでもそうだけどある程度の量一度に作らないとおいしくないし」
「え……いいのか?」
「うーん、そうだね、ちょっとなら……」
「……別に行ってもいいけど」
「フン、馬鹿馬鹿しい。スポーツ選手が間食なんて……」
「……食べたくないなら無理にとは言わないけど。できれば、藤堂にも食べてほしい。俺、お前とちゃんと仲良くなりたいから」
「馴れ合いはゴメンだ!」
「俺だって馴れ合う気はない。けど、お前には、俺をちゃんと知ってほしいんだよ。俺のテニスだけじゃなくて、俺のいろんなところ知ってほしい。そうして改めて、俺と向き合ってほしいんだ」
「…………」
「ダメ、かな」
「………フン。遠山を野放しにしておくわけにもいかないからな。今回だけは、つきあってやる」
「……ありがとう、藤堂」
「礼を言われる筋合いはない!」
 隼人は感心しながら二人のやり取りを眺めた。さすが天野、あれだけ自分を嫌っている藤堂を誘ってしまうとは。それでも完全に懐柔されない藤堂もある意味たいしたものだが。
「どうでもいいけど、料理作るのに時間かかるんだから早く行った方がいいんじゃないの?」
「あ、そうだね。急ごうか」
 全員で調理場に向かうと、うきうきしながら一番前を歩いていた金太郎が叫んだ。
「あーっ! サル女が料理しとるーっ!」
「……はぁ?」
 調理場でエプロンをしてなにかを湯煎していた巴がこちらを振り向いた。驚いた顔をして言う。
「どうしたの? みんなおそろいで」
「ああ、このチビザルが天野に食い足りないからなんか作ってくれっつってよ。天野がいつもみてぇにしょうがないなぁじゃあなにか簡単なお菓子でも作ろうか、って言い出して」
「ワイ、どーせやったら作るとこから見とった方がおもろそうや思てくっついてきたんや♪ 来てよかったわ、おもろいもん見れたし」
「……面白いもの?」
「サル女が女みたいなことしとるトコ!」
 ギャハハハッ、と笑う金太郎を隼人は即座に羽交い絞めにした。そこに巴がなにかの容器を投げつけてくる。
 結果、見事命中。
「あだっ! なにすんねん! おのれらホンマに野生動物やな、野生の勘で生きてんねんやろ。アイコンタクトもなしに通じ合いよって」
「だっからてめぇに言われたかねぇっつってんだろ」
「ほら金太郎、さっさと器拾って持ってきて」
「いややー。山ザルに拾わせればええやん」
「そういうこと言ってるとババロア食べさせてあげないから」
 ババロア? そういえば小鷹に食べさせてもらった小坂田の差し入れもババロアだったような。
「サル女、お前ホンマに料理作れるんか?」
「当たり前でしょ、でなきゃこんなところにいません」
「巴ちゃんは料理うまいんだよ」
「ウチの料理担当だったんだからな。後片付けは俺だったけど」
「うわぁ! 巴さんって料理も上手なんだっ、いいな〜料理上手な女の子!」
「……どうでもいいが、手が止まってるぞ」
「あ!」
 藤堂に言われ、慌てて作業に戻る巴の手元を天野がのぞきこんで笑う。
「それ朋ちゃんのだよね?」
 ……小坂田のを作り直していたのか? そんなことができるのか。
「せっかくだからもうちょっと材料足してみんなで食べようか。それ冷やすのに二時間くらいかかるから、簡単にできるスノーボールと、クッキーを二、三種ちょっと作って。それでいい、みんな?」
「おうっ」
「え、でもそれじゃババロアの味が……」
「朋ちゃんのババロアのレシピは覚えてるから大丈夫。さっき食べたところだと別に変えてなかったみたいだしね」
「うわー、いつもながらきーくんの料理センスってすごいねー」
「じゃ、一緒にやってくれる? おかしなところあったら言ってね」
「うん」
「……フン」
 天野と巴はてきぱきと菓子を作り始めた。いつも思うことなのだが、料理のうまい人というのはいったいなにを考えて料理しているのだろうか。台所に立つともう明らかに雰囲気が違うのだ。その背中は一瞬も止まることなく、てきぱきと機敏に動いて作業をこなす。
 その姿を調理場の端からなんとなくぼーっと見ていると、つんつんと金太郎につつかれた。
「……なんだよ」
「お前、あのサル女の飯食って生きてきたん?」
「……まぁ、そうだけど」
 確かに小学校中学年くらいから料理は巴の役目になっていた。それまでは練習する時も京四郎が常に付き添っていたのだ。
 だから年数としてはさして多くはないのだが、印象としては巴の飯を食って生きてきたと言ってもいいと思う。
「それがどーしたよ」
「ふーん……ホンマにうまいん?」
 隼人はむっとしつつ答えた。
「うまいよ。ガキの頃から主婦やってんだぜ、そんじょそこらの主婦よりよっぽどうめぇよ。家にいた頃は和食しか作れなかったけど、最近おばさんに習って洋食も作れるようになったし」
「ほー。そら意外やわ。ええ嫁さんになりそやな」
 その言葉に、なぜか隼人はむっとした。
「……言っとくけどてめぇの嫁にはぜってーやらねぇからな」
「……は? あいつが、俺の?」
 金太郎は目をぱちくりさせる。その顔が本気で意外なことを言われた時のものだったので、隼人は妙なことを言ったかと顔をしかめた。が。
「そらおもろそーやなぁ!」
 金太郎が目を輝かせてそう言ったので、隼人は思わず目をむいた。
「おま……」
「あいつが俺の嫁かぁ。そんなん考えたこともあらへんかったけどごっつーおもろそうやん、それ。ええやん、ええやん、よっしゃ俺高校卒業したらあいつんこと嫁にしたろ!」
「なっ……おま、ばっ……」
 隼人はしばし口をぱくぱくさせてから、絶叫した。
「てめぇの嫁にはぜってーやらねぇっつってんだろぉぉぉ!!!」
 ドン!
 なにかを叩きつける音がして、隼人は一瞬固まった。のみならず金太郎はじめ他の連中も固まっている。天野が凄まじい目でこちらを睨んでいるからだ。
「……騒ぐんだったら、出てってくれない?」
 思わずこくこくとうなずく。こういう時の天野の迫力は真田や手塚以上だ。全員静まり返ったまま食堂に移動する。
「……あ〜、ビビった〜……なんやねんさっきのきーやん。めっちゃ怖かったで」
「あー、あいつ食い物粗末にしたり調理場で騒いだりするとマジ怒るんだよな……」
「……あれがあいつの本性か。クソ、気圧されちまった……天野に勝つためにはあれを超えなきゃならないのか」
「……まだまだだね。もう少し普通に考えたら?」
 そんな話をしている間に、器に盛られたスノーボールがやってきた。
「はい、スノーボール」
「おーっ、うまそやな!」
「こらっ、がっつくんじゃねぇっ! ちゃんと作った人に礼言ってから食えっ!」
「へーい。きーやん、巴、おおきにな」
 金太郎は軽く頭を下げると、ばくばくと食べ始めた。隼人は思わず怒鳴って自分も器に手を伸ばす。
「他の奴のことも考えて食えっ!」
「いっただっきまーす!」
 葵も叫んで食べ始めた。リョーマも無言で食べている。食べていないのは藤堂だけだ。この期に及んでむすっとした顔でそっぽを向いている。
 と、巴がその口の中にスノーボールを放り込んだ。
「!」
「いつまでもぶすっとしてないで食べたらどうですか? おいしいですよ」
 笑顔を向けられて藤堂は顔を赤くし、ためらいつつも手を伸ばし始めた。こいつも要注意かよ、と隼人は要注意者リストの端に藤堂の名を書き込んだ。
「お、うまそうなもん食ってるじゃん! 俺の分は?」
 突然食堂に現れてそんなことを聞いてきたのは立海大の丸井だった。巴は笑顔で丸井に答える。
「いいですよ、好きにつまんでください。他の人の分も残してもらわないと困りますけど」
「やりっ。いっただっきまー……」
「丸井! はしたない真似をするな!」
 真田の怒鳴り声。もしやと思って見てみると、そこには立海大の選手がずらりと並んでいた。
「あ、立海大のみなさん。こんばんは」
「……もしかして、自主トレしてたんスか?」
「うむ」
「立海大の方々の強さを保つためには必要な練習ですもんね。俺たちも見習わなきゃな」
「一年生にしては、なかなかわかっているようだな」
「え、そうですか? あはは、ありがとうございます」
「……おいコラブン太、なにばくばく食ってんだ。少しは遠慮しろ!」
「んなこと言ったって、これうますぎんだもん。ジャッカルも食べてみろって」
「え、そ、そうか?」
「まだ残ってますから、どうぞ」
「あーっ、きーやんえげつないこと言うなや、最初に食いたいて言うたんはワイやろ?」
「いいじゃない、食べ物はみんなで食べた方がおいしいよ。ちゃんと金太郎くんの分は残しておくから」
「……ホンマかぁ?」
「偉そうに言うんじゃねぇ作ってもらってる分際で!」
「そーいうこと言ってるとクッキーもババロアも食べさせてあげないよっ!」
「うう〜、そんな殺生な〜」
「ババロアまであんのか?」
「いくらなんでも図々しすぎんだろっ!」
「しっかし、どーでもいいけどお前テニスの合宿に来てなんでそんなに菓子作ってるわけ? 料理合宿じゃねーんだからさ」
 一瞬沈黙が下りた。そういえばそうかもしれない。テニスの合宿に来てこれだけ菓子を作るというのはあんまり一般的ではないだろう。
「別に理解できないことではない。天野の母親は料理研究家だ、料理の修練も怠るわけにはいかないのだろう」
 柳の言葉に隼人は驚いた。騎一の母親って、料理研究科だったのか。全然知らなかった。
「いえ……別にそこまで強制されてるわけじゃ。そりゃ、家ではしょっちゅう練習相手させられてますけど……」
「へっ? じゃあ……これってこの一年坊主が作ったの?」
「え? あ、はい、スノーボールはそうです。でももうすぐクッキーが焼きあがりますから、巴ちゃんの作ったものも食べられますよ」
「へぇ……」
「やりっ! 食う食う〜」
「にーちゃんちーとは遠慮せぇや」
「お前が言うな!」
「赤月巴はデータ不足でまだなんとも言えんが。主婦としての修行のためか?」
「いえ、単に成り行きなんですけど。……というか柳さん、なんで私のことフルネームで呼ぶんですか?」
「赤月が青学には二人いるのでな。ファーストネームで呼び合うほど親しい仲でもないだろうと思っただけだ」
「……そうなんですか。じゃあ、この合宿の間にファーストネームで呼び合えるくらい親しい仲になりましょうね!」
 隼人ははぁ!? と思わず目をむいた。むいてからなにを怒ってるんだ俺は、と困惑する。いつもの巴の台詞と別に変わっていないではないか。
 だが、なんというか、巴の台詞と柳の反応が隼人のアンテナにビビッとくるのだ。
「…………」
「ほうか、なら俺とも親しゅうなってくれるがか?」
 無言の柳の脇から、仁王がそう言って手を差し出す。
「え? はい、もちろんです!」
「なんなら雅治さん≠ソ呼んでもよかよ?」
 はぁぁ!? と隼人はさらに目をむいた。なんだこの人、まさか巴のこと口説いてんのか!?
「あはは、まぁ、それはおいおいってことで」
「……仁王くん、女性に対してそう馴れ馴れしくするのはどうかと思いますが?」
「柳生さんは、私と親しくなるの嫌ですか?」
「……っ、嫌というわけではありませんが、しかし、赤月さん……」
「赤月じゃどっちの赤月かわからないですよー」
「そうじゃそうじゃ、巴でいいじゃろう」
「ですから、妙齢の女性がそういった言動をするのはどうかと……」
「おい巴ー、クッキーまだ焼けねぇの?」
「なんでサル女に聞くんや、にーちゃん。やらしーやっちゃな」
「……お前ら……っ、たるんどる! 他校の、それもライバル校の選手となにを親しげに喋っておるのだ!」
「いいじゃないっスか、固いこと言わなくたって」
「相手をよく知るのはデータ収集の上で必要なことだ」
「面白いからかまわんじゃろ」
「女性に対して声を荒げるのはどうかと思いますよ、真田くん」
「このクッキーマジうまいぜ、真田」
「……まぁ、ここまできてそう言われても……なぁ?」
「お前ら……」
「真田さん、確かに私たちライバル校ですけど、今は同じ合宿の仲間じゃないですか! 仲よくした方がきっと楽しいですよ!」
「……っ」
「いいんじゃないか? 真田」
「幸村っ!?」
「この子の言うことの方が筋が通ってるよ。せっかくだからご相伴にあずかろう」
「なんでこいつらまでくんねん。割り当て減るやんけ」
「……お前、いいから黙ってろ」
 隼人は苦虫を十匹まとめて噛み潰したような顔と声で言った。葵や千石の言動でアンテナが過敏になっているせいかもしれない。だが、従兄としてのアンテナがバリバリと反応するのだ。
 なんだか周りのほとんどの人間が巴を狙っているような気がする。……考えすぎだろうか。
「あはは……」
「巴さーん……」
「……クソ」
「…………」
 リョーマはいつにも増して仏頂面で黙々と菓子を食べている。顔を寄せて、囁いてみた。
「おい、リョーマ」
「……なに」
「あのさ。なんかさ。なんつーかさ。……この人たち、巴にばっか意識行ってね? いやこの人たちに限んねぇけどさ、合宿に来てる人たちの中でも、けっこう」
 リョーマはまじまじと隼人を見つめると、はぁ、とため息をついた。
「な、なんだよ」
「別に。……今頃気付いたのか、って思っただけ」
「え、なんだって?」
「別に。……だったらどうするわけ。赤月のことだからみんなと仲よくなりたいってこいつらにも近寄ってくに決まってるでしょ。それ止める気、あるの?」
「う……」
 それは無理っぽい。もし止めたら巴に怒られそうだ。それはやっぱり、嬉しくない。
「け、けど! 普通に仲よくするだけならともかく、なんつーか、ヨコシマなこと考えてる奴とかいるだろ!? そーいうフラチな奴が巴に近寄るのは、断固阻止してぇんだよ、俺は!」
 巴を守ってやれと、京四郎からずっと言われて育ってきたのだから。
 リョーマはふ、と小さく息を吐くと、こちらをじっと見つめてきた。
「な、なんだよ」
「じゃあ、協力する?」
「へ?」
「協力して、赤月に近づく変なこと考えてる奴を追っ払う。それでどうだ、って聞いてるの」
「……ンなこと、なんでお前が?」
 そう訊ねると、リョーマはむすっと顔をしかめて仏頂面で言ってきた。
「そんなの関係ないでしょ。やるの? やらないの?」
 隼人は数秒考えて、うなずいた。自分だけじゃ目が行き届かないところでも、リョーマと二人ならきっと大丈夫だ。
「よし。じゃあ、協定な」
「……いいよ」
 がっし、とこっそり手を握りあって、隼人とリョーマは約束をした。テニスの関係しない日常生活でこういう風にリョーマと気持ちがひとつになるのは(少なくとも言葉で確認したのは)、たぶん初めてだろう。
「あーっ、山ザルとコシマエがなんや悪の相談しとるーっ!」
「てめぇは黙ってろっ!」
 たとえはたからは、悪と見られようとも。

 電気を消して、布団に横たわる。
「おやすみ」
「………フン」
「おやすみっ」
「おやすみぃ」
「おやすみー」
「………おやすみ」
 リョーマとひとつの部屋で寝るなんてのは合宿以来だな、と思いながら、隼人は目を閉じて数秒で眠りに就いた。
 そして夢を見た。リョーマと新撰組の志士になって、巴を守って共に戦う夢だった。

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