二日目〜千石戦〜
「んうー……」
 寝ぼけ眼で目を開けると、腹が痛い。むっくりと起き上がると、腹からこてんと金太郎の足が落ちた。布団を離して寝たのにも関わらず、金太郎は自分の腹の上に足を放り出してきたらしい。
「……のやろ、ざけんな」
 大いびきをかきながらいぎたなく眠り続けている金太郎の頭をがつんと殴り(それでも金太郎は眠り続けている)、隼人は周囲を見回した。リョーマはうつぶせになって寝ている、天野はあおむけに寝ている、葵は横向きで、金太郎はめちゃくちゃだ。藤堂は、もう布団の上にいない。
 もう練習してるのか、と思うと猛烈な対抗心が湧いてきた。素早く立ち上がって布団を片付け、「うっし!」と顔をぴしゃぴしゃ叩いて気合を入れリョーマを起こしにかかった。

 リョーマを起こしている間に天野と葵は起きてきた。金太郎はいびきをかきっぱなしだったが。
 葵は目を覚ますと六角のみんなとランニングしてくる! と部屋を飛び出し、結局いつもの三人で行動することになった。
「……なんで今日までお前に起こされなきゃいけないの」
「なに言ってんだ、Jr.選抜なんだぞ、練習しにきてんだぞ! きっちり練習しなきゃ嘘だろうがよ!」
「お前に俺の練習時間についてうんぬんされる覚えないんだけど」
「ぁんだと、コラ!?」
「まぁまぁ。隼人くんの言い分もわかるけど、練習にはそれぞれのペースってものがあるのも確かだよ。生活リズムはそれぞれで異なるんだから、自分のやりやすいやり方でやるのが一番なんじゃないかなって俺は思うんだけど」
「う……そういう、もんか?」
「そのくらいのことも考えてなかったわけ」
「んっだとリョーマてめぇっ……」
「まぁまぁ。リョーマくん、でも今日は起きちゃったんだからせっかくだから一緒に練習しようよ。練習しに来た、っていうのも確かなんだし、ね?」
「……しょうがないね」
 ぶつぶつ言いながら歩くリョーマを引っ張って、洗面所に向かう。とりあえず顔を洗わなければ。
 と、洗面所の前に見知った顔がいるのに気付いた。
 巴。それに千石と、南と東方だ。千石はにこにこしながら巴に何事か話しかけ、巴は――
 赤くなりながら微笑んでいる?
 それを見たとたん、猛烈にムカついた。
「巴、はよ!」
「え?」
 きょとんとした表情でこちらを振り向く巴に、隼人は満面の作り笑顔で近づいた。
「いやー、今日も天気いいな! 練習日和だぜ。テニスしに来てるんだもんな、テニス以外のこと考えられねぇくらい練習しまくろうな!」
「う、うん」
「……ま、お前はそのくらいじゃないと他に追いつけないだろうからね。少なくとも女たらしの口説き文句に顔赤くしてるなんて余裕はないと思うけど?」
「あー! なにそれリョーマくん、嫌味!? 私だって乙女なんだからちょっとくらい顔赤くしたっていいじゃない!」
「ふーん。余裕だね」
「まぁまぁ、二人とも。……おはようございます、千石さん、南さん、東方さん。すいません、リョーマくんたちが失礼なこと言って」
「あ、いや……」
 いつもの困ったような笑顔で割って入ってきた天野に、隼人はむっとした顔を向けた。
「なんでお前が謝んだよ。つか、こんなとこで他校の一年口説く大人げねぇ人のが問題だろ」
「同感だね」
「もう、二人とも!」
「同じ学校の先輩だったらいいのかい? そうだなぁ、それなら赤月さんにウチに転校してきてもらっちゃうっていうのはどうかな?」
「じょ……ジョーダンじゃねぇーっ!!!」
「ふざけないでくれる?」
「ふざけてなんかいないさ。俺としては、ぜひ山吹に来てほしいね。できるなら高等部に飛び級して来てほしいくらいだ」
「ざっけんな、巴は山吹なんかに渡さねーぞっ! 俺らは来年も青学で全国優勝すんだよ!」
「悪いけど、あいつはウチのなんで。……まぁアンタの誘いなんてたとえアイツでも本気にしないだろうけど」
「そう思うかい?」
 にっこりと年上の男っぽく笑う千石に、隼人は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ぜってー許さねー! あんたみてぇな不純な動機の奴に巴は渡さねぇっ!」
「不純かどうか君にはわからないだろ?」
「アンタの動機が純粋だとは誰も思わないと思うけど」
「……ま、いいさ。決めるのは赤月さんだからね」
「こんな奴の言うこと聞いたりしねぇよなっ、巴!」
 真剣な面持ちで振り返ると、そこには誰もいなかった。一瞬呆然とする隼人に天野がため息をつく。
「巴ちゃんもうとっくに行っちゃったよ。俺たちもそろそろ練習場に向かった方がいいと思うんだけど」
『……………』
「やれやれ、アンラッキー。急がなくっちゃな」
「くっそー、巴のバカヤロー!」
「……珍しく、意見が合うね」
 顔も洗わず足早に練習場へ向かう自分たちを天野のため息が追いかけてきたが、隼人はあえて無視をした。

「ねぇ、隼人くん、リョーマくん。なんだか二人とも、過敏になってない?」
 朝食の乗ったトレイを食堂のおばちゃんから受け取りながらそう言った天野を、隼人は睨む。
「なんのことだよ」
「わかってるくせに、巴ちゃんのことだよ。やきもちを焼くのはわかるけど、あんな風に始終噛み付かなくても」
「……ってしょーがねーだろっ!? あいつめちゃくちゃ鈍ぃんだからっ! テイソーのキキだってことに気付いてねーんだっ」
「……別にやきもち焼いてるわけじゃないけど。あいつがあっさり馬鹿な奴らに影響受けて、テニスの腕を鈍らせたりしたら面倒だからね」
 天野ははーっ、とため息をついた。それがまるで「本当に二人ともしょうがないなぁ素直じゃないんだから」と言っているように思えて充分素直に話しているつもりの隼人は頭に血を上らせる。
「んっだよ騎一っ! 俺は別にあいつが本気で男と付き合おうってのまで邪魔したいわけじゃねぇぞっ、でもあいつは今が一番大事な時期だし今はテニスに集中させるべきだと思うし……」
「二人とも、あのさ。俺にこんなこと言われるの嫌かもしれないけど……ちゃんと、巴ちゃんに好きだって言った?」
 その言葉に対する隼人とリョーマの反応は大きく異なった。隼人はぽかんと口を開けたが、リョーマはカッと顔を真っ赤に赤らめたのだ。
「は……? なんだよそれ。家族相手にいちいち言うことじゃねぇだろ、好きとかなんとか……つか、リョーマお前なに赤くなってんだよ?」
「………っ、つに赤くなってない」
「なってるじゃん」
「なってない!」
 ふぅ、と言い争う自分たちを見て天野はまたため息をつく。
「独占欲を抱くの駄目とか、俺にはとても言えないけど。でもそれって本当なら本人にぶつけるべきことでしょ。俺はあなたを独占したいです、俺より大切な人を作ってほしくないんですって。そりゃ、そう素直に言えるもんじゃないのはわかってるけど……なにも伝えないで相手の邪魔ばっかりするのは、ちょっと卑怯だと、俺は思う」
「…………っ」
「な、だ、だから別に俺は独占欲とかそーいう……ただ俺はあいつの従兄としてだなぁ。別に大切な人作ってほしくないとか、そーいうんじゃ……っつか、桃ちゃん部長に彼女ができるかもってなった時うろたえまくってた奴に言われたかねーよっ!」
 天野は真面目な顔でうなずいた。
「うん。俺なんかに言われたくないだろうなとは思う。でも、そういう俺だからわかることもあるんだよ。少なくとも相手に伝えようとしないで空回ってても、たぶんなにも解決しないってことはわかる。偉そうなこと言ってごめんね、でも俺なりの忠告」
「…………」
 隼人は顔を思いきりしかめていた。別に自分は巴に独占欲を抱いているわけじゃない。ただ、巴に彼氏なんてまだ早いと思うし、それがへなちょこな奴だったら絶対許せない。だからその可能性を前もって潰しているだけだ、だからそんな忠告など自分には関係ない。
 と、その時気付いた。じゃあリョーマはどうなんだ。
 愕然として思わずリョーマの方を向く。リョーマは巴に独占欲を抱いてるってことになるのか?
 リョーマは耳まで赤くしてそっぽを向いている。恥ずかしいのか。照れてしまうことなのか。
 もし、リョーマが、本当に巴が好きだったら?
 ふいに胸に隙間風が吹いているような感覚に襲われ、隼人は固まって立ち止まった。なんだ。なんだこの感じ。
 なんでこんなに、胸がすうすうするんだ?
 と、ため息をつきながら自分たちを見ていた天野がすいと視線を横にずらした。そして小さく呟く。
「あ……巴ちゃん」
 思わずリョーマと揃って振り向く。そこには群れ重なっている男子選手の中で、そいつらと一緒に笑っている巴がいた。
 反射的に、頭に血が上った。
「行くぞ、リョーマ」
「ああ」
「二人とも……」
 天野にため息をつかれても、これだけは譲れない。
 自分は、自分たちは。巴がああして男どもにちやほやされていると面白くないのだ。
「はいちょっと失礼しますよみなさん! 巴っ、一緒に次の練習の準備しようぜ!」
「……え? はやくん?」
 隼人は巴を取り囲んでいた男たちの中へ分け入り、巴の手をつかんだ。ぐいぐい引っ張って男どもの中から外へ連れ出す。
「ちょ、ちょっと。私まだご飯食べてない……」
「じゃあさっさと食べたら。あんなところで話してないで。お喋りしにこの合宿しに来たわけじゃないんでしょ」
 リョーマが巴の後ろに立って男どもの視線を遮りながら言うと、巴は少しムッとした声で聞いてきた。
「はやくん、リョーマくん、今朝からちょっとおかしくない?」
「……おかしくねーよ」
「……別に」
「おかしいよ。私と人が話すの邪魔してるみたい。なにか私に言いたいことでもあるわけ?」
「それは……」
 思わず言葉に詰まった隼人を押しやるように、リョーマが低く言う。
「別にないよ。ただお前にぺちゃくちゃお喋りしてる余裕があるのかとは思うけど」
「……なにそれ」
「お前補欠枠で入ったってこと忘れてない? 少なくともここにいる人間はほぼ全員お前よりこれまでの練習時間の積み重ねは多いんだよ。それに追いつこうと思うなら、へらへら笑ってられる時間なんてないと思うけど?」
 隼人は思わず顔をしかめた。それは言っちゃいけない一言だろう。巴も腹を立てたらしく、きっとリョーマを睨んで怒鳴る。
「そりゃ、私はこの合宿の中で一番下手だと思うけど! だからって久しぶりに会えた人たちと話すのも駄目っていうわけ!? 練習時間は私だって思いきり頑張ってるもん!」
「みんなと同じ練習時間だけですむんだ。お前のテニス強くなりたいって気持ち、その程度?」
 ムカッとした。リョーマなんぞに巴を悪く言われるのはムカつく。腹が立つ。許せない。苛立ちに任せて口を開く。
「おいっ、リョーマてめぇっ……」
「勝ってやる」
 巴がぼそりと言い、隼人は思わず目を瞬かせた。
「はやくんにもリョーマくんにも、この合宿で楽勝で勝てるくらい強くなってやる! その時になって吠え面かいても遅いんだからね、覚えてなよ!」
「……ふーん。やってみたら? やれるんなら、だけど」
「やってあげるもん!」
 きっとリョーマを睨み、肩を怒らせて去っていく巴。
 隼人はあーっ、と呻きがしがしがしと頭をかき回し(別に巴を怒らせたかったわけではないのだ)、リョーマを睨んだ。巴の従兄として一発ぐらい殴ってやるべきかと思ったのだ。
 だが、リョーマが仏頂面で巴の後姿をじっと見ているのを見ると、なんだか妙に胸がぎゅっとしてしまった。リョーマは顔全体体全体であんなこと言いたくなかったのにと叫んでいた。この馬鹿、という怒りと呆れと馬鹿馬鹿しい気持ちが入り混じって、結局がつんと一発軽く拳を落とすのに留めた。
「なにやってんだ、馬鹿」
「…………うるさいな。放っとけば」
「あのなぁ……」
 放っとけるわけねぇだろ。
 そう言ってやるべきなのかもしれなかったが、なんだか気恥ずかしかったので、代わりに拳を猛一発がつんと落とした。

 昼練習を終えて、荒い息をつきながら隼人とリョーマはぼそぼそと話し合った。
「だからさ、少し距離をおいて冷静になってみた方がいいんじゃねぇかと思うんだよ」
「……冷静って、なにそれ」
「だっからさぁ……騎一の言うことが当たってんのかどうかはともかくとして。ナンパな奴らならともかく、普通の人が巴に話しかけんのまでムキになって止めんのおかしいだろ。ちょっと俺らおかしくなってるんじゃねぇかと思うんだよ。Jr.選抜合宿に来てナンパな奴らが巴の周りうろつき出したから、神経過敏になってるんじゃねぇかって」
「…………」
「だからとりあえず今日一日だけ巴と距離おいてみて、頭しゃっきりさせた方がいいんじゃねーかと思うんだ」
「別に俺は神経過敏になった覚えないけど。……あいつが周り中に口説かれててしかもそれに全然気付かないのなんていまさらだし……数増えてますます鬱陶しくなっただけで……」
「? なんだよ、聞こえねぇよ、はっきり言えよ」
「別に。……距離おいて、なにかいいことあるわけ? あいつのことだから放っとけばまた馬鹿なことしでかすんじゃないの」
「巴馬鹿にすんじゃねぇリョーマ。……だっからさ、今俺たちがするべきことは、巴の尻追っかけることじゃねぇだろ? っつってんだ。Jr.選抜なんだぜJr.選抜。今俺らにとって一番大切なのは、テニスの練習だろ? そりゃ、巴のことは別口で大切だけどよ。それはとりあえず頭しゃっきりさせてから考えた方がいいだろっつーこと。今は全力でテニスの練習に集中するべき時だろ」
「……………」
 隼人の真剣な言葉は、リョーマにとっても弱いところを突いたようだった。一瞬だが明らかに顔をしかめる。
「どうだよ、リョーマ」
 そう押してやると、リョーマは仏頂面になりながらも、ぼそっと答えた。
「別に、いいけど」
「……そか」
 いくぶんほっとして、隼人は食堂に入る。苛立ちを忘れるためにがむしゃらになって練習してしまったため、二人が練習場を出たのは一番最後だった。
「あー、腹減ったぁ……」
 半ば独り言のように呟きながら、隼人の思考は千々に乱れる。そういうのが嫌で、少し落ち着きたくて巴と距離をおくなんて今まで考えたこともないような提案をしたのだが。
 俺、なにやってんだろーな。今しなくちゃならねぇのはテニスの練習だってのに。せっかくレベル高い練習さしてもらってんだ、集中しなきゃだろ。
 でも巴がナンパな野郎どもに笑ってんのはムカつく。なんか知らんけどムカつく。別に独占欲なんて抱いてねーけどムカつく。
 つか、別に巴の周りにいる男が全員ナンパな奴だってわけじゃねーのにな。なにムカついてんだかな俺。本気で神経過敏になってんな俺。
 ―――リョーマは、巴が好きなんだろうか。
 ふいに浮き上がってきたその問いに、隼人はぶるぶると首を振る。まさかな。そんな素振り見せたことねぇし。いっつもあいつら喧嘩してっし。俺とリョーマほどじゃねぇけど。そんなわけねぇよ。つか、そもそも別にあいつらがどうなろうと俺には関係――
 なくない。なぜだかわからないけど、もしそうだったらって考えたら胸がすうすうする。胸のとこに穴が空いちまったみたいなぽかんとした気分。
 俺は、リョーマが巴を好きだったら、嫌なのか?
 自分にそっと問うてみる。リョーマはムカつく奴だ。しょっちゅう喧嘩してる。一応、テニスプレイヤーとしてはすごいし自分にとっても大切な相手だと知っているけど。巴は大切な従妹だ。守るべき存在だ。それを疑ったことはいっぺんもない。
 その二人がくっついて、どうして嫌なんだ。
 さっぱり答えは出なかったけれど、ひどく心が騒いだ。隼人はぐっと唇を噛み締めてそれを心の奥底に放り捨てる。
 今俺らに必要なのは練習だ。質の高い練習に集中することだ。それ以外のものは今の俺らには必要ない。
 そう決め込んで、顎に力を入れて、すたすたと歩いた。
 ふとなにか騒いでいるような声が聞こえた。そちらを向くと、巴と、手塚、橘、跡部、真田、それに不二がなにやら騒いでいるのが見える。
 猛烈に面白くなかったが、少し距離をおくと決めたのは自分なので、ふんっとそっぽを向いてリョーマと一緒に焼き魚定食を食べた。

 昼休みも終わる頃、リョーマと一緒に素振りをしていると天野がやってきて、気が進まなさそうな顔で「あんまり聞きたくないと思う情報があるんだけど、聞く?」と訊ねてきた。
「なんだそりゃ。なんでそんなこと聞くんだよ」
「……本当なら黙っていてもいいことなんだろうけど、俺が勝手に良心の呵責感じて喋って楽になりたくて言ってることだから。聞きたくないんだったら、言わない」
 なんだよそりゃ気になるからさっさと話せよ、と言いかけてはっとリョーマと顔を見合わせる。お互い頭に浮かんだのはひとつだった。
 先に言葉を発したのはリョーマだった。少し息を詰めるようにして、じっと宙を睨んでから、いつもの仏頂面で天野を見て首を振る。
「聞かない」
 天野は驚いたような顔をしたが、やがて静かに微笑んで、うなずいた。
「そっか。わかった」
 練習の邪魔してごめんね、と去っていく天野を見送りながら、隼人は必死にラケットを振った。消えろ消えろ消えろ、と念じる。
 巴のことなんだろうかと気にするうじうじした自分も、リョーマはそのことをどう考えてるんだろうとかどうでもいいことを気にしてしまう自分も、全部空の中へ消えてしまえ。

 三時休みの前に明日からは早朝練習がなくなって自主トレになると聞かされ、巴の周りをまた大量の男どもが取り囲んでいた。だが、隼人とリョーマはそっちへ近づこうとはしなかった。
 代わりにちらりとお互いを見た。お互いが同じことを考えているのをなんとなく悟り、見つめ合って、隼人の方が少し大人になって言ってやる。
「するか。明日。自主トレ、一緒に」
 リョーマはいつもの仏頂面で、でも少しほっとしたように、けれど底には今にも荒れ狂いそうな激しさを秘めて、「いいけど」とうなずいた。
 明日の朝は、きっと嵐のようなことになる。

 二日目、練習試合。
 隼人の相手は、山吹中の千石だった。
 それを見たとたん、思わず歓喜に頬を緩ませる。この腹の底のもやもやを、全部まとめてぶつけられる相手が出てきてくれた。
 練習くらいじゃもやもやは吹き飛んでくれなかった。やっぱり試合。真正面からの容赦ないほどのぶつかり合いを隼人は求めていた。その相手が気に入らない、ぶっ倒してやりたい奴ならいうことはない。
 ネットを挟んで向き合い、隼人は千石を我ながら憎悪がこもってるんじゃないかという目で睨む。千石はくすりと笑ってその敵意を受け流した。
「よろしくね、隼人くん」
 握手の手を伸ばしてくる。隼人は一瞬だけ力をこめてその手を握り、頭を下げた。
 言葉はいらない、ただ、死力を尽くして戦える場所があればいい。

 隼人のサーブ。隼人は全身の苛立ちをこめて、放り投げたテニスボールをぶっ叩いた。ボールは千石の足元に突き刺さり取りにくい方向へバウンドする。
 だがそこはさすがにJr.選抜経験者、巧みにレシーブして球を返してきた。そうでなくては張り合いがない。隼人はそれを千石の身体の真正面に打ち返した。
 千石はそれをも上手に打ち返す。千石は動体視力に優れていると聞いたことがあるが、なるほどよく球が見えている動きだ。
 しばしラリーが続く。隼人はただ目の前に来た球を全力で打ち返すだけだったが、千石は逆サイド、クロス、ライン際と緩急織り交ぜた攻めを展開してくる。
 方々に打ちまわされ走り回され、だんだん隼人は頭の中が真っ白になってきた。ただ、目の前の球を打ち返す。それだけしか頭の中には浮かばなくなってくる。
 ボール。くる。返す。打つ。放つ。落とす。上げる。通す。迸らせる。全力全開で――
 ふわ、と上がった球を、隼人は頭の中を真っ白にしたまま跳び上がり、全力で打ち落としていた。ずだんっ! と悲鳴のような音が起きて、ボールが千石のラケットの三球先を走り抜ける。
 少しばかり驚いたような目でこちらを見つめる千石に、隼人は真っ白な頭のまま構えていた。15-0。

「ゲーム6-4、マッチ・ウォン・バイ赤月選手!」
 その声を聞いた時隼人は一瞬快哉を叫び、それから固まった。
 襲ってきたのは圧倒的なまでの、罪悪感だった。
「負けた負けた、完敗だよ。さすが全国大会で優勝しただけのことはある、強いね君」
 そう笑って差し出された千石の手を目を白黒させながら握り返し、耐え切れなくなって深々と頭を下げる。
「……すいませんでした」
 千石は苦笑したようだった。
「どういたしまして」
 この人もわかってる、と思うとますますいたたまれなくて、隼人は物陰へと走った。そして誰もいないことを確認してから「あぁぁあぁあぁぁぁ、もう俺の馬鹿ーっ!」と叫びながらぽかぽかと自分の頭を殴った。
 どうしようもないことをした。どうしようもなく馬鹿なことをした。
 テニスを、大好きなテニスを、八つ当たりの道具に使おうとしてしまった。
 なにやってるんだ本当に俺は、と泣きそうな気分になりながらぽかぽかと自分の頭を殴る。自分が情けなくて情けなくてしょうがなかった。対戦相手に腹を立てるのも敵意を抱くのもいい。だけどそれはテニスの勝負に勝つという絶対的圧倒的な目的というか気持ちがあってこそ。試合で八つ当たりをしようだなんて、対戦相手にも失礼だし、なによりテニスを馬鹿にしてる。
 そんな自分が一番嫌うことをしようとしたなんて自分が許せず、隼人はひたすらぽかぽかと自分を殴り続けた。
「……なにやってんの」
 ぼそりと愛想のない声が聞こえて、隼人は固まった。こいつには、リョーマにだけは自分のこんなところ見られたくはなかったのに。
「放っとけよ」
 冷たくぶっきらぼうにそう言ったが、リョーマは立ち去らなかった。負けず劣らずぶっきらぼうな声で、「なにやってんの」と繰り返す。
 隼人は苛立ちをこめて言った。
「落ち込んでんだよ、放っとけよバカ」
「負けたわけ?」
「勝ったよ!」
「じゃ、なんで落ち込むことがあるの」
「それは……」
 言いよどむ。こいつには知られたくない。でも言わないでおくのは卑怯だ。隼人はぐっと奥歯を噛み締めてから、リョーマに言った。
「……テニスを、八つ当たりの道具に使おうなんて大馬鹿な真似しちまったんだよ」
「ふーん」
 リョーマの声はあっさりとしていた。え? それだけ? と目を瞬かせると、リョーマはやっぱりぶっきらぼうに言う。
「いいんじゃない。勝ったんなら」
 隼人は思わず目をむいた。
「そういう問題じゃねぇだろ!」
「いちいち気にして落ち込む価値がある問題でもないと思うけど? もう終わったことなのに」
「…………」
 隼人は再び目を瞬かせる。そりゃ、終わったことではあるのだけど。途中からはちゃんと真剣にやったし。
「終わったことで落ち込む暇があるなら練習したら? ここには練習しにきたってお前が言ったんだけど、もう忘れたわけ」
「……忘れてねぇよ」
「ふーん。なら、いいんじゃない」
 リョーマはぶっきらぼうにそう言って、くるりと背を向けた。もしかしてこいつ、俺を慰めてくれようとしたわけか? そんな考えが浮かんだ。
 思わず振り向いてなにか言おうとして、言葉に詰まる。礼の言葉を言うのはなんだか気恥ずかしく、謝罪の言葉を言っても馬鹿にされるだけな気がする。でもなんか言わなきゃなんか、と慌てて結局訊ねた。
「リョーマ、お前は、勝ったのかよ」
「当然」
 即座に返ってきた答えに、隼人は思わず笑んでいた。笑みを浮かべるのは久しぶりな気がした。
「そっか。よし」
 リョーマはこちらに背を向けたまま肩をすくめて見せて、去っていく。隼人はすうはぁと数度深呼吸をして、走り出した。

 グラウンド100周分くらい走って、腹をぺこぺこに空かせて宿舎に戻る。幸い天野が隼人の分の食事を取っておいてくれた。
 五杯お代わりをして、風呂に向かう。風呂はちょうど込み合っている時間だったが(そして芋を洗うような風呂場の中でまだ湯船に浸かっているリョーマに呆れた)、ごっしゅごっしゅと思いきり体を洗ってリョーマの隣に身を沈めた。こちらをちらりと見たリョーマに、ぼそりと言う。
「……俺、もっとしっかりしねぇとな」
「いまさら?」
 即座に返してきたリョーマにやっぱりむかっ腹が立ち、このやろともみ合いになりかけ風呂場で暴れるな! と怒鳴られて。
 それでも気分はすっきりしていた。自分はよくないことをしたがその反省はすんだ。明日からまた頑張ろう、と思えるくらいには。
 巴のことを思うとやはりまだ胸が騒いだが考えないことにした。もともと隼人の心身は単純にできているのだ。思いきり運動してすっきりした頭では、ぐじゃぐじゃしたことを考えられない。
 とりあえず今日はっきりしたのは、自分はテニスに八つ当たりをしたくなってしまうくらい、巴のことを気にしているということだけだった。
 ともあれ今日一日距離をおいてみた。明日のことはまた明日考えよう。できるなら練習のことをいっぱい考えたい。
 そう思いながらむさ苦しい男どものぎっしり詰まった湯船に身を沈めて、ふとリョーマに訊ねてみた。
「リョーマ、お前は八つ当たりとかしなかったのかよ」
 リョーマは無愛想に肩をすくめて、軽く言った。
「別に。相手にちょっと普段よりムカついたけど」
「…………」
 ちょっと考えて、ヘッドロックをかけた。
「そりゃお前もしっかり八つ当たってるってことじゃねぇかよっ!」
「うるさい」
 しばらく揉みあって、偶然居合わせた桃城と周囲の素っ裸の男どもにてめぇら暴れるなと二人揃ってくすぐりの刑を執行されたことは、忘れたい事実だ。

「なぁなぁ、お前ら、このみの女のタイプてどんなん?」
「……はぁ? つか、人の布団の上転がるな」
 部屋に戻るとすでに布団が敷かれていたのだが、その上を転げまわっていた金太郎に訊ねられた。
「ええやん、なぁなぁ教えてぇや」
「なんでんなこと聞きたがんだよ」
 金太郎にしては珍しい話題だと思うのだが。
「あんな、ケンヤに教えてもろてん。修学旅行の夜はワイダンするもんなんやて!」
 にっかりと答えた金太郎に、隼人は脱力した。
「猥談ってな……つか修学旅行じゃねぇだろ」
「細かいことはええやん。答えぇやぁ。ほれ、きーやん」
「え、俺?」
 急に振られて戸惑いながらも、天野はぽつぽつと答えた。
「そうだな……好みっていうか。元気な子が好きかな。元気で、お節介で、思い込みが激しくて。でも一途でひたむきで家族を大切にして。本当は優しくて、困ってる友達を放っておけない、そんな子が好きだ。だからまぁ、そういう子が好みってことになるんだろうね」
「ほーほーほー! きーやん大人やぁ〜!」
 金太郎がはしゃいで転げまわる。隼人も転げまわりはしなかったものの興味深く聞いた。へー、騎一ってそんな女が好みなのか。今までそんな話したことなかったから、面白い。
 あれ、とふと妙な感じがした。そういう女って、どっかで会ったことがあったような……
 と思い出す暇もなくどんどんと話は進んでいく。
「はいはいはい、ボクはね! 可愛いコ! どんな風に可愛いかっていうとね、まず髪はこうさらっと長くって目はぱっちりしててプロポーションは」
「あ、お前はえぇわ。健坊〜」
 あっさりスルーされて葵がこっそり落ち込んでいるが、金太郎はかまわず今度は藤堂にじゃれついた。
「やかましいっ! なんでそんなもの答えなきゃならないんださっさと寝ろっ!」
 怒鳴る藤堂に、金太郎はにやりと笑う。
「あー、健坊さてはこのみの女ってどんなんかわからんねや」
「………! そ、そういう、わけでは」
「オコチャマオコチャマ〜! 健坊はやっぱりボンなんやな〜」
「ちっ違うっ! 俺にだってあるぞ好みのタイプくらいっ」
「ほなどんなんか教えてぇやぁ」
「………それはっ………」
「それは?」
 全員に注目されて、藤堂は顔を真っ赤にしながらも、ぼそりと答えた。
「………うなじ美人………」
『は?』
「うなじがきれいなすらーっとした女が好みなんだよっ! 悪いか!」
 真っ赤な顔のまま怒り出す藤堂。なんだか妙にいやらしい話を聞いてしまったような気がして隼人は顔を赤らめたが(天野は「藤堂……」と言いながら同じように顔を赤らめていた)、金太郎は不思議そうな顔で問いを重ねる。
「なー、健坊、なんでうなじなん? うなじがきれいやとなんかおもろいことあるん? うなじになんや特殊なでんじは出とるとか?」
「やかましいっ俺はもう言ったぞっ他の奴に聞け!」
「せやな〜。コシマエは? コシマエはどないな女がこのみなん?」
「……バカじゃないの」
 予想通りの答えが返ってきたが、金太郎は少しもめげはしなかった。
「なーなーなーコシマエー。コシマエはどんな女がこのみなんー? 教えてぇやぁ、なぁなぁなぁなぁ」
「うるさい」
「あ、わかったでぇ。コシマエこのみがごっつーおかしいから言われへんねんやろ! 変態、変態、コシマエは変態や〜」
 リョーマは無言で金太郎に蹴りを入れた。だが金太郎はそれをかわし、しつこく聞いてくる。
 隼人も気になって注目していた。リョーマの好みの女というのは訊ねたことはあるが聞けたことはない。
「なーなーなーなー、このみこのみ〜」
「…………」
 リョーマは思いきり顔をしかめていたが、やがて諦めたのか、ぼそりと言った。
「無茶苦茶なやつ」
「むちゃくちゃー?」
「世界をひっくり返すくらいの無茶苦茶なパワーとバイタリティのあるやつ。それで絶対諦めないで上見続ける気の強いやつ。そういう奴が……」
「奴が?」
「……俺は嫌い」
 ぼそっと言った言葉に隼人はずっこけ、金太郎はむーっと頬を膨らませた。
「なんやーそれー。ま、ええか。ほな山ザル。お前はどないやねん」
「そーいうお前はどんなんなんだよ」
 隼人はなんとなく照れくさくて、金太郎に話を打ち返す。だが金太郎はにかっと笑ってきっぱりと答えてきた。
「おもろいヤツ!」
「……そーかよ」
「そや、おもろくてごっつーテニスが強いヤツ! せやし今んとこ俺のこのみの女はサル女やねん」
「んだとコラァてめぇ舐めた台詞吐いてんじゃねぇぞ!」
 その適当な言い草にカチンときてげしっと蹴り飛ばしてやったが金太郎はごろごろと転がってまたこちらに近づいてきた。
「ほな今度は山ザルの番やでー。このみの女」
「う……」
 問われて隼人は言葉に詰まった。そういうことは考えたことがなかった。
 だがないと答えて馬鹿にされるのも癪だ。俺の好み俺の好み、と考えて、ふとあ、と思いついた。
「……大切なもの、持ってるヤツ」
「ほー?」
「俺の隣じゃなくても見てるもの違ってもいいから、大切なもの持ってて自分の道進めるヤツ。そんでちゃんと俺と底んとこで繋がれるヤツ。なんか……うまく言えねぇけど、そーいうヤツが家で俺のこと待っててくれたら、俺はどこにだって行ける気がする」
「ふーん……よーわからんわ」
「ほっとけ」
 自分だってよくわかっているわけではないのだから。
「ほな次な! 好きなたいいー!」
「ぶっ、お、おま、なにを言い出すんだーっ!」
「健坊なに慌てとるん? 知っとるんなら教えてぇや、たいいってなに?」
「そ……それは……」
「藤堂……」
「そ……そんな目で見るな、天野ぉぉぉ!」

 さんざん騒いでなんとか眠りに就いた夜、隼人は夢を見た。
 リョーマと一緒にアイドルになって、マネージャーの巴とステージに立つ夢だった。

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