一日目〜季楽・日吉戦〜
チュンチュン、チチチ……。
 東京に移ってから朝にはいつも聞くようになった雀のさえずりを聞きながら、巴は朝のまどろみを楽しんでいた。
 眠い。まだ眠い。目覚ましはさっき止めたし陽の光もまだ巴の顔まではかかってこない。あとちょっと、もうちょっと。ぼやけた頭でぽやーっと考えながらごろごろとしていると――
「ねぇ、まだ寝てるの? いいかげん起きてくれない?」
 リョーマの声だ。一年前から一つ屋根の下で暮らしている、居候先の息子。クールで皮肉屋で意地が悪いけれど、テニスに対しては心から真摯。そんな彼がわざわざ起こしに来てくれたのかー、と思うと起きないとという思いが強くなりはする――でも眠い。やっぱり眠い。自分のまぶたの上下はどうしてこんなに仲がいいのだろう。再びまどろみに沈んでいこうとした時、ふと心に思考がよぎった。
 そういえば、今日は。なにか大事な用があったような。
「おい、巴! 今日からJr.選抜の合宿なんだぞ、まさか忘れてんじゃねぇだろうな!」
 隼人の声。物心ついた時から兄妹のように一緒に暮らしてきた従兄。生意気にももうすっかり声変わりして、自分よりずいぶん背が高くなった。Jr.選抜の合宿。Jr.選抜………
 そうだった!
 巴はばっと布団から跳ね起きた。二番目にお気に入りのパジャマを大慌てで脱ぎながら叫ぶ。
「すぐ行く! 先にごはん食べてて!!」
 扉の向こうから嘆息、そして立ち去る気配がするのを感じつつも、巴は超特急で着替えを始めた。パジャマを放り投げるように脱ぎ、最近少し大きくなってきたような気がする胸を収めるブラを直し、青学のセーラー服に体を収め、胸のスカーフを直して荷物の確認に移る。
 ラケット、オッケー。着替え、オッケー。それから――
(これも!)
 ラックの上にあるそれを手に取り、巴はバッグに入れた。夏合宿の時は持っていかなかったからよく眠れなかったりしたのだ。やっぱり彼には一緒にいてくれないと困る。
 巴は荷物の山ほど入ったバッグを取り、部屋の外へと駆け出した。

 席に着くと、巴は思わず言ってしまった。
「ふう、びっくりした」
「なにがだよ?」
 隼人があんぐり口を開けてバターロールにかぶりつきながら言う。
「だって、はやくんもリョーマくんも急に声かけるんだもん」
 寝惚けてJr.選抜のことをすっこーんと忘れていた、とはさすがに言えない。
「急にもクソも起こそうとして声かけてんだからそんなん当たり前だろ……」
「そもそも驚いたのはこっちの方だけどね。全然反応ないから、やっぱり怖くなって逃げ出したのかと思ったよ」
「誰が逃げるのよ!」
「巴が逃げるわけねぇだろ!」
 隼人が即座に叫んでくれたことに、ちょっと嬉しくなる。隼人は自分にとっては大切な家族で、向こうもそう思ってくれているというのが実感できるからだ。リョーマもある意味家族だが、意地悪なのでどうも素直にそう言う気になれない。
「……ふーん。なら、いいけどね」
「……でも、逃げ出したい気持ちがあるのも確かなんだよねぇ」
 思わず言ってしまった声に、隼人が仰天したような声を上げる。
「はぁ!? なに言ってんだよ巴!」
「だって……私みたいな中学入ってからテニスを始めたような初心者が、選抜合宿なんて大丈夫かな」
 正直、今でもちょっと不安なのだ。そりゃ練習は欠かさず、人一倍熱心にやっているつもりだけれど、自分のプレイがまだまだ荒削りなのは誰よりも自分がよくわかっている。
「う……そ、そりゃそうだけど……」
「ま、気にしなくていいんじゃない。補欠枠の選手になんか、誰も期待してないだろうし」
「補欠とは失礼ね! 全国大会優勝監督推薦枠……竜崎先生に推薦されたのよ!!」
「でも、それって……要は補欠でしょ?」
 リョーマのシビアな言葉に、巴は少し腹を立てつつも納得してしまった。そうかも、と思ってしまったのだ。
「ま、まぁ、そうなんだけどね。そうだね、補欠みたいなもんだって考えた方が気楽かもね」
「……オイ、コラ。それは俺に喧嘩売ってんのか?」
 あ、はやくんも私と同じ監督推薦枠だったんだっけ、と巴は口を開けた。隼人とリョーマはそれこそ寄ると触ると喧嘩をしているのだ、こういう話は絶好の喧嘩の種だろう。
「別に。事実じゃん」
「ぁんだと、コラ!?」
「でも、テニス暦たった1年で、補欠でもなんでも、選抜合宿に参加できるとこまで来たわけだし……合宿で更なる成長を遂げれば、私が中学テニスの頂点に立つ日も近いかも!?」
 半分冗談で、半分本気で、半分仲裁するつもりでそうおどけてみせると、リョーマはクールに肩をすくめ隼人はつんと額を小突いてきた。
「……まだまだだね」
「……調子に乗るなっつの」
「いったーい」
「巴さん、まだ、時間あるんでしょう? 朝ごはん、ちゃんと食べた方がいいですよ」
「あ、おはようございます、菜々子さん! いただきます!」
 巴はうなずくと食事を摂り始めた。リョーマの母親の作る料理はレパートリーも豊富で、とってもおいしいのだ。
 食事が一通り終わる頃、南次郎がやってきた。
「今日からJr.選抜の合宿らしいじゃねぇか。いやぁ、立派になって……。来た時は、こんなに小さくて、まだオシメも取れたばかりだったお前らが、選抜の合宿か……。京四郎のヤツも、草葉の陰で喜んでるだろうぜ」
「オシメが取れたばかりって……私が来たのは去年の三月二十三日! まだ一年も経ってませんよ。それに、お父さんはまだ死んでません! ……たぶん」
「あれ? そうだっけ?」
「もう……」
 この人は本当に、と巴は膨れる。面白い人だし、すごい人だとも思うけれど、やっぱり大黒柱というには当てにならない。一家を支えてくれる人は、お父さんくらいどっしり構えてくれないと、と巴としては思うのだ。
「はやくん、リョーマくん、時間、まだ大丈夫かな?」
「そろそろじゃねぇ?」
「ま、迎えに来るって言ってたし、待ってればいいんじゃない」
「そうか、そう言えば、そんなこと言われてたっけ」
 そう言ったところでピンポーン、とチャイムが鳴った。
「あ、来た! はやくん、リョーマくん、行こう」
「おう」
「はいはい」
「みんな、気をつけて行ってらっしゃい」
『はい、菜々子さん! 行ってきます!』

「おう、お前ら目は覚めてるか?」
「はい! おはようございます! 桃ちゃん部長!」
「よーし、準備もいいみてぇだな。じゃあ、行くぜ。そろそろみんな、集合してる頃だ」
 みんな。その中に三年の先輩たちが含まれているんだと思うと、巴はひどく嬉しくなる。
 不二先輩に菊丸先輩、大石先輩に乾先輩、河村先輩……そしてもちろん桃城部長に海堂先輩。
 一年からも自分と隼人とリョーマ、それに天野と小鷹が参加する。全国大会までのあの懐かしい青学レギュラー陣勢ぞろいだ。
 ――手塚を除いて。
 巴はぷるぷると首を振った。そんなこと今考えたってしょうがない。手塚先輩は、アメリカで頑張ってるんだから。
 それよりもこれからのJr.選抜、頑張ろう。Jr.選抜ではきっとみんなが自分より強いだろう。強くなるための目標には事欠かないはずだ。
 個人的に一番目標にしている選手は、小鷹なのだが。同じ青学の一年というせいもあってか、基本が出来ているという感じのきれいなテニスで自分の憧れなのだ。
「おいおい、モエりん、まだ夢、見てんのか? 朝っぱらからボーッとしてちゃあ、いけねーな、いけねーよ」
「あ、すみません」
「うっしお前ら、朝の運動がてら、ダッシュで行くぜ! ついて来い!」
『はいっ!』
「……はぁ」
 ため息をつくリョーマを引っ張って全員全速力で青学のグラウンドに着くと、そこにはもうレギュラーメンバーが全員揃っていた。
「よし、揃ったね! 全員、準備はいいだろうね」
 竜崎の言葉に、菊丸が元気にうなずく。
「もっちろん! 準備万端、パーフェクトだよん!」
「一週間の長い合宿に困ることがないよう、念入りに準備してきましたから」
「それは結構。あんたたちは全国大会優勝校のメンバーなんだからね。その自覚を持って……テニスの腕だけじゃなく、日頃の行動でも模範となるようにね。選抜の合宿は、多くの学校の多くの選手が集まる。団体行動を乱すんじゃないよ」
「お調子者のテメェのことだぞ。わかってんのか、桃城。向こうで恥かかせるんじゃねぇぞ」
「なんだと、マムシ! お前の方こそ、その調子で揉め事起こしたりするんじゃねぇのか?」
「やれやれ……。あやつらが向こうでもああなったら……頼んだぞ、大石」
「はい。まったく、世話の焼けるヤツらだな」
 いつも通りのかけあい。でも間近で見るのは本当に久しぶりだ。それをいつも通りと思えることが、巴にはひどく嬉しかった。
「とにかく、今回は青学の実力を証明するいい機会だからね。思いっきり暴れておいで」
「クス……。これは責任重大だな」
「選抜は全国の選手のデータを集めるいい機会でもあるし……頑張らないとな」
 うんうん、とうなずいているとふいに後ろから袖を引かれた。振り向くと、そこには桜乃と小坂田が立っている。わざわざ見送りに来てくれたのか、と驚きつつも嬉しくて、思わず二人まとめて抱きついた。
「桜乃ちゃん朋ちゃん! 来てくれたんだ!」
「きゃっ! と、巴ちゃん……」
「ちょっ……モエりん! 子供じゃないんだからいちいちじゃれつかないの!」
「だって嬉しかったんだもん」
「ったく、あんたって本当にお子様ねー」
 桜乃と小坂田は巴から離れると、少し改まった顔で言う。
「あの……巴ちゃん。頑張ってきてね」
「ありがとう、桜乃ちゃん」
「ほんと、心配だわ。あんたお子様だから。さびしくなったら、夜にでも私に電話しなさいよ」
「うん、そうする。ありがとね、朋ちゃん」
(合宿に来ている選手のデータも親密度ノートに更新中だからね)
 そう小さく囁かれて、巴は少し気圧されつつもうなずいた。
「う、うん。そうだね、他校の人と知り合いになったら電話するよ」
「なに、内緒話してるんだい?」
「あっ……。な、なんでもないんです……タカさん!」
「なにか困ったことがあったら遠慮しないで相談してくれよ、モエりん」
「はいっ!」
 声をかけてきた河村に慌てつつも笑顔を返す。と、小坂田が思い出したようにクーラーボックスを取り出してくる。驚く巴に、笑顔で差し出してきた。
「これ、差し入れだから。頑張ってね〜」
「ありがとう、朋ちゃん」
「朋ちゃんのわりには、差し入れとは気が利いてるじゃないの」
 隣にいた小鷹がからかうように言う。小鷹と小坂田は幼馴染で、仲間内でも特に気安い関係だ。
「なんか、トゲがある言い方ね、那美」
「いやはや、ありがとね。で、なに、なに? 食べ物?」
「それは開けてからのお楽しみ。本当はリョーマさまだけに渡したいけど、そうもいかないから……やむを得ず、建前上、テニス部みんなへの差し入れっていう形を取ってるだけなんだから」
「ちょっと、朋ちゃん……」
「……ぜーったい、リョーマくんの分、食べてやる。食べ物じゃなくても食べるからね!」
「私の野望を邪魔する気〜!?」
「野望って……」
「いい? もし、邪魔なんかしたら、あんたが嫌がる昔のあだ名、『なみっち』を広めるからね!」
「うっ……。それだけはカンベン」
 普段通りのやり取りだが、しかしどうして小鷹はこんなにもこのあだ名を嫌がるのだろうか。普通のあだ名だと思うのだが。
「朋ちゃん、来てくれたんだ」
 男子たちで話していた天野が、こちらに気付いて近づいてきた。小坂田はむっと唇を尖らせて、高飛車に言う。
「遅い! もうだいぶ前から来てるのよっ、那美が気付いてどーしてあんたは気付かないわけ!?」
「う、ごめん。桃部長と合宿のことでちょっと話してて……あ、それもしかして差し入れ?」
「そ、そーよ。本当はリョーマさまだけに渡したかったんだけど、そういうわけにもいかないから、やむを得ず、建前上テニス部のみんなに……」
「あ、それじゃあ俺も食べてもいいんだ。よかった、嬉しいな。久しぶりだよね、朋ちゃんの手料理」
 にこっと笑う天野に、小坂田はかっと顔を赤くして天野の頭に拳を落とした。
「いたっ! いったいなぁ、もう」
「あんたは食べちゃダメっ! 食べたらほっぺ百回つねりの刑だからねっ!」
「え、それちょっとひどくない? 俺だって朋ちゃんの作った料理食べたいよ」
「ダメったらダメっ!」
「もー、朋ちゃんったらホントに意地っ張りなんだから〜。そんなことばっかり言ってると一番好きな人にも嫌われちゃうよ?」
「ちょっと那美っ! なによそのニヤニヤ笑いはっ! 私の本命はリョーマさまただ一人だって何度言ったらわかるわけ!?」
「え〜? まぁ朋ちゃんがそう言うんならいいけど〜」
「まぁまぁ朋ちゃん、那美ちゃん。どっちも落ち着いて、喧嘩しないで」
「あんたは引っ込んでなさいよ!」
「もう……みんな、相変わらずなんだから」
 そういう自分も一年前から、もちろん成長してはいるけれど根っこの部分はさして変わっていないような気はする。それに変わっていないことがある意味嬉しくもあったし。
「おい、赤月妹! お前もだぞ」
「え?」
 見ると荒井と池田がなにやら不機嫌な様子でこちらを見ている。
「お前が向こうで恥をかくと、青学テニス部レギュラーの俺たちの実力が疑われるんだからな。なめられるたら承知しねぇぞ」
「大丈夫ですよ、任せてください! 荒井先輩たちに恥をかかせるようなことはしませんから!」
 元気に答えると、荒井たちはうっと言葉につまり、視線を逸らした。
「ま、まぁ、それならいいんだけどよ」
「……おい、なんで俺の名前は略すんだよ?」
「え? だって先輩たちはほとんど二人で1セットだから呼ぶのは一人でいいかな、と思って」
『なんだそりゃ!』
「おい、バスが来たぞ! 早く乗れよ!」
 桃城の声に、巴はくるりと笑顔を向けた。
「はーい! ついに出発ですね!」
「ああ。だが、その前にやることがあるだろ?」
 やること? と一瞬考えて、それから大きくうなずく。そうだ、こういう時はやっぱりあれをやらなきゃ。
「そうっスね。んじゃあ、いっちょ、行きますか!」
 全員で円陣と肩を組む。部長である桃城が声を上げた。
「青学―――っ! ファイッ!!」
『オ―――ッ!!』

 走ること数時間。バスはJr.選抜の合宿所に到着した。
 少し先に海を臨む広く設備の整った合宿所。写真で見るよりずっときれいに見えた。思わず窓から身を乗り出して「やっほー!」とか叫んでしまうほど。
「こら、モエりん! 危ねぇだろ、身ぃ乗り出すんじゃねーよ」
「は〜い」
 ワクワクが止まらずに、駐車場から小走りで合宿所の前に向かう。思った以上に大きくて立派な建物だ。
 驚異的な視力を誇る巴の目には、はるか遠くのコートや通路にさまざまな人々が見えた。顔見知りの人も何人もいる。
 コートの方で壁打ちをしているのは不動峰の橘、伊武、神尾に石田。何度も一緒に練習をしたことがある一番身近な他校生だ。
 都大会で対戦した山吹中に聖ルドルフ。山吹は亜久津と太一以外は試合の時に少し会ったくらいだが、聖ルドルフの生徒たちはは父・京四郎の関係でたまに練習しに行ったことがあるテニススクールでいつも練習しているのでそれなりに知っている。観月、不二の弟の裕太、柳沢、木更津。小鷹をライバル視している早川も来ているはずだった。
 氷帝の人々の姿も見えた。跡部と樺地とは何度か練習しているし、その他の人たちも一応顔見知り。今回の合宿でもっと仲良くなれたらいいな、と思わず笑顔になる。
 そして向こうにいるのは立海大付属中の人々だ。関東大会決勝で対戦した切原と、真田をはじめとする精強な選手たち。関東大会ではいなかった、確か部長の幸村という人の姿も見えた。
 全国から強い人々が集まっている。頂点を目指して。全国大会で鍛え上げられた猛者たちが。
 そう思うとなんだか自然と体が震えた。なんで自分なんかが選ばれたのかと思えてくる。自分なんかが本当に、こんなところにいていいのだろうか?
「クスッ……。すごいね、モエりんは。今から、もう武者震いかい?」
 いつの間にか後ろに不二が立っていた。巴は慌てて首を振る。
「ふ、不二先輩! そんな、武者震いだなんて……。そんなんじゃないです」
 と、そこに楽しげな声がかけられた。
「不二! やっと登場か。青学が最後だよ」
「佐伯。久しぶりだね。元気だった?」
 現れたのは脱色しているのか、真っ白に近いほど色が薄い髪の中に一筋黒を残した人だった。後ろからも何人か人がついてきている。
 不二とその人は楽しげに話していたが、不二がふと気付いたようにこちらを振り向いた。
「……あ、巴、ごめん。二人で話し込むところだったね。彼は六角中の佐伯だよ」
「あ、はい、覚えてます。青学一年の赤月巴です、よろしくお願いします」
「俺は六角中三年、佐伯虎次郎。よろしくね。それから、こっちは二年の……」
 後ろからひょいと姿を見せた、端正な顔貌に髪をがっちり固めた人は、顔は無表情のままさらっと言葉を放った。
「俺は天根ヒカル。六角中二年だ。六角中でイッカクセンキン! ……ぷっ」
「……は?」
 今のは、もしかしてシャレか?
 きょとんとした巴の前で、だんっと地面を蹴る音がした。
「!? バネさん! ちょっとタンマ!!」
「うるせぇ、このダビデがっ! 聞き飽きたぜっ!!」
 どしっ。
「な、なにごとですかっ?」
 巴は少し驚き慌てた。今、黒髪の背の高い人が天根に飛び蹴りをかましたような?
「悪い、勘弁な。俺は六角中三年、黒羽春風。よろしくな」
 笑顔で言ってくる飛び蹴りをかました人に、巴は驚きつつもぺこりと頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……」
 なんだかよくわからないが、この人が天根のギャグをよっぽど聞き飽きているのだということはわかった。
「六角中って確か、確か、部長さんが一年生なんですよね! 以前は試合ちょうど見れなかったんですけど、すごくうまいんだろうなぁ」
 一年生部長ということで気になっていたのが見れなくて、少し残念だったのだ。
「ああ。剣太郎の強さはハンパじゃないよ。練習で見られるから……」
「なになに、ボクの話?」
 ひょい、と黒羽の後ろから顔を出してきたのは、自分よりいくぶん背の高い少年だった。隼人と同じくらいだろうか、となんとなく見つめると、その少年はぽっと顔を赤くして笑顔になった。
「キミ、赤月巴さんだよねっ!」
「え? あ、はい、赤月巴です」
「うわぁ、近くで見てもやっぱりカワイイやぁ〜。あ、ボク葵剣太郎! 六角中一年で、部長やってます!」
「あ、あなたが一年生部長さんですか! よろしくお願いします、一緒にJr.選抜頑張りましょうね!」
「敬語なんて使わなくていいって! 同じ一年同士じゃないか!」
「え……あ、それもそうだね! うん、じゃあ、よろしく葵くん!」
「うん、よろしくっ!」
 ぎゅっと手を握られてぶんぶん上下に振り回される。元気だなぁ、と微笑んでいるとふいにうしろから「あーっ!」と声がした。
「てめぇっ、葵っ! なに人の従妹の手ぇ握ってんだよっ!」
「え、はやくん?」
「え、キミは……誰だっけ?」
「だーっ! 青学一年レギュラー赤月隼人だっ!」
「あ、そうそう。え、赤月って、もしかして兄妹? なんだそうなのか、よろしくねお兄さん!」
「てめぇにお兄さん呼ばわりされる筋合いはねぇぇぇ! 巴も黙って手握られてんじゃねーよっ!」
「え、だって別に怒るようなことじゃ」
「うん、そうだよね!」
「ざけんなぁぁ!」
「……どうでもいいけど、そろそろ荷物置きに行った方がいいんじゃないの? 練習の時間迫ってるんだけど」
 隼人と一緒にやってきていたリョーマがいつもの仏頂面でぶっきらぼうに言う。巴はあ、と口を開けてうなずいた。
「そうだね、リョーマくん。私たちも荷物置きに……」
「コっシマエ〜っ!」
 だだっ、と地面をかける音、ぴょいっと宙を舞う音。リョーマが上にのしかかるようにして乗られ、「うわ!」と叫んでよろめいた。
 この声は。
『金太郎っ!?』
 思わず隼人と声を揃えて叫んでしまった。リョーマにおぶさっている金太郎が、ぴょい、と眉を上げる。
「お、山ザル兄妹もおるやん。お前らもJr.選抜選ばれたんや?」
『誰が山ザル兄妹だ(よ)っ!』
「だっからてめぇにサルとか言われる筋合いねぇって言ってんだろこのチビサルっ!」
「だいたい女の子にサルとか言うなんてサイテーだって前に会った時も言ったでしょ!」
「まぁええやん細かいことは。ほんま久しぶりやなー、元気やった?」
「……まぁな。お前は聞く必要もなく元気そうだよな……」
「当たり前やん。よう言うやろ、子供は風の子元気な子! 赤子泣いても蓋取るな!」
「違うの混ざってるよ!」
「……いい加減降りてくんない?」
「お、悪い悪い。せやな、ここ安定悪いし降りるわ」
「勝手にリョーマに乗っかっといて偉そうなこと言うなっ!」
 金太郎はいつも通りにやにやしながらリョーマから降りる。それを自分たちはまったくもう、と頬を膨れさせながら見つめた。
 遠山金太郎。全国大会準決勝で戦った、大阪は四天宝寺中のスーパールーキーと呼ばれた少年だ。
 全国大会の時に出会い、いろいろとあって仲良く? なった。失礼だがわりと面白い奴なので巴はそれほど嫌いではないが、隼人はなぜか思いっきり毛嫌いしている。
「おーっ、きーやん久しぶりやん! 今日俺の分の弁当作っといてくれたぁ?」
「あはは……金太郎くん、久しぶり。うん、約束通りお弁当作ってきたよ」
「……おい、コラ騎一。お前こいつに弁当作る約束なんてしてたのかよ?」
「え、うん、まぁ。昨日電話がかかってきて……」
「はぁ!? お前こいつに電話番号教えたのか!?」
「ギャハハッ、羨ましいやろ山ザル。きーやんとワイはマブダチやもんな〜」
「るせぇっチビザルっ、俺と騎一の方が仲いいっつーの! 同じガッコで同じクラスなんだぞっ、俺だって作ってもらおうと思えばいつだって弁当くらい作ってもらえるんだよ!」
「あはは……」
「……うるさい」
 困ったように笑う天野、ぎゃあぎゃあ喚きあう隼人と金太郎、不機嫌そうな顔で隼人たちを睨むリョーマ。これはこれで仲いいっていえるかなぁ、と思いつつ、よいしょと大量のバッグを担ぎなおした。
「じゃ、私荷物置きに行ってくるから。はやくんたちも早く行きなよ?」
「おう、こいつをシメたらすぐ行くぜ!」
「ギャハハッ、やれるもんならやってみぃっちゅうねん」
「……急いだら? お前支度遅いし」
「じゃあね」
 青学の仲間たちや六角、四天宝寺の人たちに手を振って、巴は先に行った小鷹を追って部屋へと向かった。

「え〜っと、南棟の301はこっちでいいんだよね。え〜と、私と同室になるのは那美ちゃんと不動峰の橘杏さん、氷帝の鳥取さん、それから……」
 独り言を言いながら歩いていると、すでにジャージ姿に着替えた小鷹をはじめとする同室の女子たちがこちらにやってきていた。小鷹が目をぱちくりさせて言ってくる。
「あれっ? まだ荷物、置きに行ってなかったの? 早く着替えてきなよ」
「あははは。ちょっと道草くっちゃって……」
 苦笑する巴に、杏がにっこりと言う。
「お久しぶりね。同室なんて楽しみだわ」
「私も楽しみです。いろいろお話、しましょうね!」
 鳥取も横に進み出て微笑んだ。
「怪我した時、お父さんを紹介してもらえて助かったわ。合宿、頑張りましょう!」
「はい、頑張りましょう! 肘のケガが治って本当によかったですね!!」
 あとは聖ルドルフの早川と立海大付属の原。その二人も同様に後ろに立っているのだが、早川はあからさまにピリピリした空気を周囲に振りまいきながら小鷹を睨んでいる。
「…………」
「…………」
 小鷹もその視線を感じてか、いくぶん気まずそうな顔だ。
 そうだった、早川は小鷹のことを極端なまでにライバル視しているのだ。なんというか、早くも一触即発の雰囲気が漂っている。
 ひええ、と思いつつもとりあえず挨拶をした。
「早川さん、合宿の間よろしくお願いします!」
「……ええ」
「原さん、合宿の間、同室ですね。よろしくお願いします!」
「……よろしく」
「私、まだキャリアが浅いんで、いろんなこと教えてくださいね」
「……私、同室だからって、馴れ合うのは好きじゃないから」
「私もよ、おあいにくさま。今は同室でも、あなたと私はライバル校の人間なんですからね」
「そ、そうですか、ごめんなさい」
 怒らせてしまったかな、と思いつつも頭を下げる。これからどう接するべきか、と少し考えたが結局まぁいっか、と気にしないことにした。合宿は一週間あるんだから、その間に仲良くなっていけばいい。
「しばらく一緒に生活するんだから、仲良くしましょうよ! その方がきっと楽しいわよ!」
「そうですよね! あ、じゃあ、私……荷物置いて着替えてきま〜す!」
 にっこり笑顔でうなずいて、巴は荷物を抱えながら駆け出した。

「集合しろ!」
 合宿所、コート。練習開始時間ぴったりに渋い声が響いた。
 選手たちが集まってくると、スーツに赤いスカーフを装着した微妙に怪しい人が声を張り上げる。
「私が今回、Jr.選抜の特別顧問としての合宿の指導にあたることになった、榊太郎だ」
 そう言われて思い出した。確かこの人は氷帝の顧問の先生ではなかったろうか。この人がJr.選抜のコーチ? なんで全国優勝した青学の顧問、竜崎ではないのだろう。
「この合宿は、日本の選手のレベルを引き上げ、世界に通用する選手を育成することが目的だ。男子との連携を高めるため、ミクスドの女子選手には、男子と同じメニューで練習をしてもらう」
 そこらへんはまぁ当然だろう。巴も青学の練習で慣れている。
「練習は早朝、午前、昼、夕方の四つの時間帯に分けられている。そして毎日、一日の締めくくりとして練習試合を行う。これは強制なので各自、体調を整えておくように。体調が優れない状態では、よい結果は望めない。休息は各自のペースで行え」
 練習漬けだなぁ、と巴は思わず感心した。当たり前といえば当たり前なのだが。
「また、合宿の最終日にはトーナメント方式の試合がある。トーナメントは、男子・女子のシングルスとダブルス、そしてミクスド・ダブルスの計五部門だ。優秀な選手には、オーストラリアで開催されるU−16の世界大会の出場権が与えられることになる」
 オーストラリア! 行きたいなぁ、と巴は思わず目を輝かせる。今まで外国になんて行ったことはないのだから。
「なにか質問はあるか? ……ないようだな。それでは最後に、選抜の主将、副主将を紹介する。……おい」
「Jr.選抜の主将を任されることになった、立海大付属三年、真田弦一郎だ。合宿を実り多い物とするため、共に力を尽くしていこう」
 真田が一歩前に出て声を張り上げる。その脇に跡部も進み出ていた。
「俺が氷帝学園三年、跡部景吾だ。副≠チてのが気に入らねぇが……ま、俺なりにやっていくつもりだ。厳しくいくから覚悟しておけよ」
「それでは練習を始めろ。……行ってよし」
「本日の午前の練習は走り込みだ! 砂地を長時間走ることで心肺機能と足腰を鍛える! 走り込みだからといって気を抜くな!」
『はいっ!』

 午前の練習を終えて、巴は疲れた体でふらふらと合宿所の前まで来ていた。別に用があるわけではないが、足が向いたのだ。
 と、バスが合宿所の前に止まった。
 誰か遅刻してきたのだろうか、と思って見ていると――
「……やはり、遅れてしまったようだな」
「て、手塚先輩!?」
「うるせーな。こっちは長旅で疲れてるんだ。耳元で、でっけぇ声あげんじゃねぇよ」
「それに、亜久津さん!?」
 留学していたはずの二人が降りてきたことに、巴は思わず仰天する。
「いや〜元気そうだね、亜久津。あんまり遅いから、飛行機でも堕ちたかと思ったよ」
「手塚……待ってたぞ。元気そうだな!」
 気付かなかったが、青学と山吹の人々がわさわさと湧き出て集まっていく。巴は思わず叫んでしまった。
「手塚先輩と亜久津さんも、合宿に参加するんですか!?」
「ああ。もともと、卒業式と選抜には戻ることになっていたからな」
「俺はこないだ知ったんだがな」
「全然知らなかった……。でも、もしかして、みんなは知ってたんですか? 全然驚いてないし」
「メンバー発表の時、名前、入ってたでしょ。見てなかったの?」
「つか、巴。俺お前にJr.選抜で手塚先輩とミクスドやるのかって聞いたぞ?」
「そ、そうだっけ……?」
「ああ。そしたらお前『あはは、そんなわけないじゃん』って答えたからてっきり帰ってくるの知ってて別の人と組むつもりなのかと」
「え……あ、あぁぁぁ!」
 そうだ、確かにそう言われた。そして巴は手塚がJr.選抜に帰ってくるとはちらとも思っていなかったので(選手一覧は監督推薦枠しか見ていなかったし)そんな風に答えたのだ。
「………赤月」
「あ、あははは! え、えっと、亜久津さん、長旅で疲れてるみたいですけど大丈夫なんですか?」
 話をそらすと、亜久津は不機嫌な顔でそれを受けてくれた。
「それだけじゃねぇ。飛行場でのウチのババァの歓迎のせいだ」
「ババァ……って優紀ちゃんのことですか!? ひっどーい!!」
「いや〜、同感、同感。いけないなぁ、亜久津。あんな若くてきれいなお母さんを、ババァだなんて言っちゃ」
「千石……テメェ!」
「おいおい、到着早々、二人ともやめろよ」
「周りに迷惑だろ?」
「そ、そうですよ、亜久津さん」
「だってさ。お母さんの熱〜い歓迎で、疲れてるんだろ? 午後の練習が始まる前に、荷物を置いて、少し休んだ方がいいんじゃない?」
「チッ。俺に指図するんじゃねーよ」
「でも、そうした方がいいっスよ」
「そうですよ。長い時間飛行機乗ると、エコロジー症候群とかになるんですよ」
「それを言うなら、エコノミー症候群です」
 吉川にさらっと言われ、巴は顔を赤らめた。勘違い言い間違い覚え間違いはいつものことだが、だからといって恥ずかしくなくなるわけではない。
 と、亜久津に話しかけていた明るい色の髪をした人が笑いながら巴に向き直った。
「あはは! いやぁ、キミ、面白いねぇ。ミクスド選手の子だよね。名前は?」
「えっ? ああ、私は青学一年、赤月巴です!」
「俺は山吹中の三年、千石清純。またの名をラッキー千石。よろしくね」
 にっこりと笑う千石に、巴はあいまいな顔でうなずいた。そういえばこの人はそういう名前だったかもしれない。試合を見ていなかったのでよく覚えていないのだが。でもラッキーってなんだろう。
「はあ。ラッキー千石さん、ですか」
「ラッキー(↓)千石じゃなくて、ラッキー(↑)千石だからね」
「いいじゃないっスか。どっちでも」
「いやいや、逆だとアンラッキーなイメージがするだろ?」
「チッ……。付き合ってらんねぇぜ」
 亜久津は不機嫌な顔のまま立ち去っていく。思わず声を張り上げた。
「亜久津さーん! Jr.選抜、頑張りましょうねーっ!」
「アメリカ留学の成果、期待してるっスからーっ!」
 横で隼人も怒鳴る。亜久津はこちらを振り向きはしなかったが、軽く手を上げてくれたので巴としては満足した。
 と、千石がにこにこと声をかけてくる。
「ふ〜ん、亜久津を見事に馴らす女の子がいるって聞いたけど、君のことか〜。やっぱり面白いね〜、赤月さん。これから仲良くしようね〜」
「え? はぁ、はい、よろしくお願いします」
「テニスも強いんだって? 激可愛くておまけに強いなんてもう大歓迎だよ」
「そ、そうですか? えへへ〜」
 思わず照れ照れとすると、おもむろにぐいっと自分と千石の間に隼人が割り込んできた。
「千石さん、俺青学一年の赤月隼人っス。く・れ・ぐ・れ・も! よろしくお願いするっスよ」
「……へぇ、君、赤月さんのお兄さんかなにか?」
「従兄っス。大会で、もし当たったら……」
 なにやら顔を近づけながらぼそぼそと話し合う隼人と千石をちらりと見て、巴は手塚の方へと向かった。まだちゃんと挨拶をしていないのだ、元ミクスドのパートナーとして、後輩として、しっかり挨拶をしなければ。

 昼休み。昼食はもう終えた。
 隼人たちは練習をしているようだが、巴は合宿所の裏手の道を散歩していた。せっかくの他校の人たちと近くで話ができる機会なのだから、誰かとお喋りがしたかったのだ。それに練習といっても昼休みの残り時間はもう少ないし。
 と、声をかけられた。
「よっ、巴」
「あっ、神尾さん、伊武さん! こんにちは」
 後ろからやってきた神尾と伊武に、巴は目を輝かせた。不動峰の人たちとは橘が受験で忙しくなってきてしまったのでここのところ一緒に練習できなかったのだ。
「どうだ、合宿の雰囲気は?」
 笑顔で聞いてきた神尾に、巴も笑顔でうなずく。
「すごい人たちに囲まれて緊張しっぱなしですけど、頑張っていきます!」
「へぇー、キミでも緊張するんだ。……どーせ、成り行きで適当なこと言ってるんだろ?……」
「伊武さん! さらっと失礼なことボヤかないでください!」
「ああ、気に障った? ごめんね、巴。……俺みたいな奴には言われたくないって思ったな。思っただろ。まったくいやになるよなぁ……」
「もう……」
 巴は思わず頬を膨らませる。いつもながら伊武のこのぼやきっぷりには閉口する。本人は実はなんのかんのいいつつつきあいがよかったり親切だったりするのだが、たいていの人はちょっとつきあっただけでその秀麗な外見とは裏腹の奇矯な性格に恐れをなして逃げていくのだそうだ。橘が以前苦笑交じりに教えてくれた。
 もったいないなぁ、とも思うけど、でも伊武のそういうところが巴はけっこう面白かったりするので、まぁいいかと思っている。要は気にしなければいいのだ。
「あ、そういえばですね、聞いてくださいよ。さっき手塚部長と亜久津さんが遅れて到着したんですけどね」
「ああ、アメリカから戻ってきたんだろ? 知ってるぜ」
 神尾がうなずく。神尾は伊武とは正反対で、親しみやすいがノリがあまりに軽いので口説いても本気にされないらしい。一途でひたむきないい奴なんだがな、まぁ相手が鈍いせいもあるんだろうが、と橘がやはり苦笑交じりに言っていた。
 相手って誰なんだろう? と思いつつも、巴は笑顔で続けた。神尾は一緒にいて楽しい、いい人だから、巴としてはそれでいいのだ。自分が神尾の相手だったらきっと嬉しかったろうと思う。
「手塚先輩に挨拶しに行った時に気付いたんですけど。手塚先輩背広っぽい、いかにも大人〜って感じの格好で立ってたんですけど。なんだかすごく険しい顔して腕組んでたんですよ、ただでさえ怖い顔をさらに不機嫌そうに怖くして」
「あーあー、あの人不機嫌だったらよけい怖そうだよなー」
「で、なんでかなーって思いながら挨拶してお話してたんですけど、ふと気付いちゃったんです。手塚先輩思いっきり深く眉間に皺寄せてたから、挟んじゃってたんですよ、蔓」
「……は?」
「だからですね、眉間と鼻に寄せた皺で鼻にかけてた蔓挟んじゃって。それがあんまり力強いんで、眼鏡が浮いて不安定になっちゃってたんです。落っことしちゃいそうでさりげなく直したいんだけど、そのタイミングがつかめなくて不機嫌だったんですよ」
「ブッ!」
「………っ………」
 神尾が吹き出した。伊武も下を向いて、口を押さえて身を震わせている。これが伊武なりの大爆笑の表現だというのは聞かないでもわかった。
「ぶっ……ははは! そりゃあ、知らなかったぜ。そんなことがあったのかよ」
「ですよね? おかしいですよね? 私も初めて見たときは信じられなかったですよ」
 巴もくすくす笑いながら言う。
「キミって、相変わらずそーゆーことには、めざといよね」
 伊武が震えながら途切れ途切れに言う。よし、受けた、と思いつつにこにこと言った。
「まぁ、伊達に岐阜出身じゃありませんから!」
「どういう関係があるんだよ……くくっ」
「……ちょっと待って」
 ふいに伊武が冷えた声を出した。
「はい? どうかしましたか、伊武さん」
「手塚さん、最初に眉間に皺寄せるようなことがあったんでしょ?」
「え?」
「だから、眼鏡の蔓を眉間に挟むくらい皺寄せるような、面白くないことがあったんでしょ? なにがあったの?」
「え……別になにもなかったと思いますけど? 手塚先輩と亜久津さんが一緒に降りてきて、私が手塚先輩たちが戻ってきたことに驚いて、それから亜久津さんと千石さんと話をして……」
「は? 千石? なんであの人が……ああ、山吹中か……」
「そうなんですよー。千石さんってすっごいフランクな人ですね、私のこと激可愛くて強いとか仲良くしようとか言ってくれて。照れちゃいました」
「……ふーん」
「あ、なんですか伊武さん、そのすごく面白くなさそうな声は」
「別に? ……それに気付くくらいならなんで面白くないのかくらい気付いてもいいんじゃないの。だいたいそういういかにも下心持ってますっていう相手に照れるなんて警戒心なさすぎなんだよ。そもそもなんでこんな話題持ち出すわけ、それってわざと? まさかヤキモチ焼かせようとかいうわけ? ナマイキだなぁ、ムカつくよなぁ……」
「もう伊武さん、なにを一人でぼやいてるんですか! 神尾さんもなにか言ってやってください」
「………ふーん。……そーか。……まーいいけど。……ふーん」
「神尾さん……?」
「あ、いやなんでもねぇよ、なんでもねぇって! おっと、もうすぐ合同練習が始まるぜ、そろそろ準備しねぇとな!」
 そういえば、そろそろ時間かもしれない。
「あ、そうですね! お喋りが楽しすぎて、時間があっという間に感じられましたよ」
「……ああ、まったくだな。じゃあ、俺たち準備があるから行くぜ」
「……まったく気楽な顔でにこにこしちゃって。こっちがなに考えてるとかおかまいなしなんだもんな……別にいいけど」
「ほら……ボヤいてないで行くぞ、深司」
「……じゃあね、巴」
「はい!」
 走っていく神尾たちを見送ってから、巴も自分の頬をぱぁん! と叩いて気合を入れ駆け出した。

「えぇぃっ!」
 強烈なスマッシュで黒羽のラケットを弾き、巴は軽く息をついた。
「……すっげぇなお前! まさか女にラケット弾かれるとは思わなかったぜ!」
「えへへ、伊達に普段から男子と同じ練習してませんから」
 驚きの声をかける黒羽に自然に浮かんだ満面の笑顔で応えると、黒羽はなぜか顔を赤らめてうう、とかああ、とか言いつつ目を逸らした。
「? 黒羽さん?」
「お、お前な。もう少し……その、なんだ。警戒心持ったほうが……いいんじゃねぇか?」
「? はぁ?」
「あはは、黒羽くんは赤月さんの練習の時と笑った時のギャップにぐっときちゃったんだよね〜」
「え?」
「なっ、千石っ!」
「まぁ、しょうがないよね。俺も赤月さんの真剣な顔がぱーって笑うとこ、ぐらっときたし」
「え……そうなんですか? それって私が思いっきり真剣にやってるって見てる人にも伝わるってことですよね? えへへ……なんか嬉しいな。ありがとうございます」
『…………』
「巴……お前なぁ……」
「……赤月……もうちょっとな……」
「……はぁ。まぁ……いいや。うん、まぁ、そういうこと。こっちにもいい練習になったよ、お疲れ、赤月さん」
「ありがとうございましたっ!」
 頭を下げて走り出す。水を飲んだら夕方の練習の前にもうひと頑張りするつもりだった。
「巴!」
 声をかけられて振り向く。そこには隼人、リョーマ、小鷹に天野と青学一年レギュラーズが揃っていた。
「水分補給まだだろ? ほれ、お前の分」
 ぽい、と放り投げてくる大きなボトルを、巴は慌てて受け取った。
「わ! ありがとう、どうしたのこれ?」
「どうしたのって、もらってきてやったんだよ。スポーツドリンク。十時と三時には配られるんだってさ」
「あ、そうなんだ。……んーっ、喉渇いてるからおいしーっ!」
「だよな!」
 笑顔で言いながらぐいっとボトルを傾ける隼人に習い、巴もゆっくりと喉を潤した。
「でもモエりん、水分補給は喉が渇いてからじゃ遅いって知ってるでしょ? 十時に配られたのもらって、少しずつ水分補給しなかったの?」
「あっ!」
 仲間内で一番テニス知識が豊富な小鷹に言われて巴は思わず声を上げた。そうだ、知っていたのに練習に集中してころっと忘れてしまっていた。
「忘れてたわけ? スポーツドクター志望のくせして」
「うるさいなぁもう! ……でも、そうだよね。スポーツドクター兼トレーナーが夢のくせに、自分に反映できないってダメすぎるよね……はぁ」
「まぁまぁ。次から活かせばいいんだよ。喉の渇きが収まったら一緒に休みながら軽く練習しよう?」
「うんっ!」
「…………」
「お前も忘れてたわけ? それとも知らなかったの、そっちのがありそうだけど。父親がスポーツドクターなのに」
「……うるせーっ! 俺はプロ志望だから知らなくたってそんなには困らねーんだよっ!」
「困ってるじゃん、今確実に」
「うううう、うるせぇなっ! やるかリョーマっ!」
「やってもいいけど」
「まぁまぁ。勝負をつけるなら壁打ちでつけたら? 練習にもなるしさ」
「面白ぇ、やってやろうじゃんかっ!」
「別にいいよ」
「私も一緒にやる〜! はやくん、リョーマくん、勝負!」
「おっ、いいねぇ。気合入ってるじゃん」
 ふいに声をかけられて、巴たちははっと声のした方を向いた。そこに立っていたのは切原だ。
「切原さん……」
「もちろん、バリバリ気合、入りまくりですよ!」
 巴は元気に答えてガッツポーズを作る。切原がくくっと笑った。
「ま、青学には気合入れてもらわねぇと倒し甲斐がねぇしな。でも、初日から飛ばしてっとバテちまうんじゃない?」
「そんなヤワじゃありませんよ。山での生活と青学テニス部でたんまりと鍛えられてますから!」
「あー、モエりんそれじゃモエりんと隼人くん以外が半分しか鍛えられてないみたいじゃない」
「え!? あ、ご、ごめんっ! 全然気付かなかった……」
 うろたえる巴に、小鷹が笑う。
「ウソウソ、冗談。モエりんたちが中学入る前までの生活でしっかり鍛えられてるのは事実だしね」
「ううっ、那美ちゃん優しーっ!」
 思わず抱きつくと、小鷹は「暑いよ、モエりん」などと言いつつもぽんぽんと頭を叩いてくれた。自分よりずっと小さいのに、その優しさに嬉しくなる。
「へー、仲いいねぇ、女の子たちは」
「仲いいですよ〜。でも男の子たちも仲いいですよ? 喧嘩よくしますけど」
「べっ、別に俺とリョーマは仲よくなんかねぇよっ!」
「……こっちの台詞」
「でも大切なパートナーではあるんだよね」
「う……うるせぇぞ、騎一っ!」
「ごめんごめん」
「…………」
 ぶすっとしながらドリンクをすするリョーマにくすっと笑いつつも、巴は切原に聞いてみた。
「あ、ところで切原さんは休憩時間はしっかり休むんですか?」
「まぁ、真田さんからは別メニュー、言われてんだけど、これが厳しいのなんのって……」
「なにをサボっているんだ、赤也! 休憩時間を無駄に使うなと言っておいたはずだぞ」
 どーんと低く迫力のある、男らしい声が周囲に響いた。一瞬その迫力に飛び上がりかけて、真田だ、と思い当たり振り向く。
 そこには立海大のレギュラーメンバーが全員勢ぞろいで立っていた。切原は慌てて巴に言う。
「さ、サボってなんかいませんよ。ちょっと挨拶してただけですって。……な?」
「えっ!?」
 私ですかぁ、と思いつつも巴はうなずいた。このくらいならちょっと挨拶≠ナすむだろう、これで叱られていては立海大の人と仲良くなれなくなってしまう。
「あ……はい、確かに切原さんの言う通りです」
「そうか、ならいいが……。だが、お前の方に立海大の命運がかかっていることを忘れるな」
「わかってますって。……幸村元部長と比べて、そんなに頼りないっスかね〜?」
 幸村元部長――言われて改めて見回してみると、真田の後ろに隠れるようにしてにこにこ微笑みながら立っている姿が見えた。確かあれが幸村のはず。関東大会でいなかったからあまり印象が強くない。今見ても真田に比べて押しが弱いような気が……
「――赤也? もし立海大を今より弱くするようなら、俺にも考えがあるぞ?」
「……………! はいっ、わかってますっ!」
 幸村が一瞬見せた迫力に、切原はひきつりまくりながら返事をした。巴もちょっとひきつった。今一瞬、確かに鬼がいた。
「赤也がお前たちの練習の邪魔をしていたようだな。すまない」
 目を見えているのかどうかわからないほど細めている背の高い人が、静かに言った言葉に慌てて答える。
「あ、いえ、別にいいんですよ。ええーっと……」
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は立海大付属三年、柳蓮二だ」
「私は……」
「青学一年の赤月巴だな。岐阜県出身、好物は鮎型饅頭と寿司、身長166cm、体重……」
「体重はダメーっ!!」
 慌てて叫ぶ。そうだ、この人は乾先輩と同じデータマンなのだった。
「えー、なんだよー別にいいじゃんか。柳さん教えてくださいよー」
 隼人がにやにやしながら言ってくる。ムッとして怒鳴ってやろうとするより早く、柳が言った。
「もちろんお前のデータもあるぞ。赤月隼人、岐阜県出身、赤月巴とは従兄妹同士。好物は鮎型饅頭と寿司、赤月巴と同様だな。身長171cm体重60kg。好みのタイプは――」
「だぁぁぁ! なっ、なんで俺の好みのタイプまで知ってんスかーっ!」
 巴はぷっと吹き出した。ざまーみろ。
「基本だ。ちなみにお前たち全員のデータは立海大レギュラー全員が知っているので、自己紹介は不要だぞ」
「うわー、すごいですね、さすが立海大のデータマン」
「むろんだ」
 そこで、巴はふと気付いた。
「……あの、柳さん。私たちのデータ全員が知ってるって……体重とか、好みのタイプとかもですか?」
「ああ」
『…………』
「柳さんのエッチっ!」
「柳さん……ひどいっ!」
 巴と小鷹がそれぞれに叫ぶと、柳は冷静なりに少しうろたえた顔をした。ように見えた。
 と、逞しい体つきをした色黒のスキンへッドの人が前に出て笑う。
「ククッ。さすがの達人も女心のデータだけはわかってねぇな。俺はジャッカル桑原。立海大の三年だ。よろしくな」
「よろしくお願いします。えーと、ジャッカル……さん?」
「……言っておくが、本名だ」
「はあ……」
 ジャッカルって。どこの国の人なんだろう?
 きっとその国では、『ジャッカル』は日本でいう『龍』とか『虎』に匹敵する動物なのだろう、と巴は一人うなずく。
 その隣にいた赤い髪をした人が(自分と同程度の背の高さに思えた)ガムをぷーっと膨らませながら器用に言う。
「丸井ブン太。シクヨロ」
「よろしくお願いします」
 その後ろにいた銀髪の人が、その隣の眼鏡の人と自分を指しながら言う。
「俺は仁王雅治、ペテン師≠ニ呼きもいい。こっちの眼鏡は柳生比呂士。紳士≠ソや。まぁ、よろしゅう」
「よろしくお願いします!」
「……ホントにそっちが仁王さんでそっちが柳生さんなんスか?」
 隼人が低い声で聞く。仁王は面白そうに片眉を上げた。
「なんじゃ、疑っちゅうかえ?」
「だって、関東大会の決勝であんなことやられたし……」
 あ、と巴も思い出した。そういえば仁王と柳生は関東大会の決勝で入れ替わるというとんでもないことをやってのけたのだった。
「疑うのはもっともですが、今は入れ替わっていませんよ。練習の時からそんなことをしていても意味がないでしょう? 私もそこまでは付き合えませんしね」
 柳生がくい、と眼鏡を押し上げながら言う。納得したのか隼人は「それもそっスね」とうなずいて引き下がった。
 と、微笑んでいた幸村が口を開く。
「俺のことは知ってるかい?」
『はい!』
 隼人と声を揃えてしまった。
「元部長の幸村さんっスよね! 覚えてるっス!」
「病気全快して、よかったですね!」
「……つか、今頃言う台詞か、それ?」
 切原が小さく呟いたが、幸村はわずかに目を見開き、微笑んでうなずいてくれた。
「ありがとう。よろしくお願いするよ」
『はいっ!』
「ところで、聞きたいのだが。今年の青学はどうだ?」
「どうだ、って……パワーアップしてますよ!」
 巴は反射的に答えた。本当は手塚や不二や黄金ペアといった、強力な先輩たちが抜けてしまってパワーダウンは否めないのだろうが、そんな気持ちでいては負けたも同然だ。
「青学のこと、過小評価してるんなら、考え改めた方がいいっスよ」
 隼人もにやりと笑んで言う。
「ヒュ〜、言ってくれんじゃん!」
「フフッ、今年の青学も期待できそうだな」
 嬉しげな立海大選手たちに、やっぱりライバルは強い方が嬉しいんだな、と巴は笑んだ。自分もそうだからよくわかる。そうでなければ強くなれない。
「そろそろ俺たちは失敬させてもらう」
「じゃあな、赤月」
 立ち去る立海大の選手たちを見て、巴は思わずため息をついた。
「どうしたんだよ、巴」
「いやぁ、だってさぁ……さすが元王者っていうか、みんなオーラが違うなーって。幸村さんなんかもうすっごい迫力だったでしょ?」
「う……ま、まぁ」
「……バカ?」
「んっだよリョーマっ!」
「それを言うなら俺たちは、現王者なんだけど?」
『あ……』
「そ、そっか、そーだよなっ。へへっ、立海大なにするものぞ、だぜ!」
「まぁ、お前は少し学んだ方がいいような気もするけど。落ち着きとか」
「ぁんだと、コラ!? てめぇこそ少しは礼儀とか学んだ方がいいんじゃねぇのか!?」
「ほらほら、喧嘩してたら休憩時間終わっちゃうよ? 時間は有効に使わなくちゃ」
「あ、そうだな。よっしリョーマ、壁打ちで勝負だっ!」
「別にいいけど」
 並んで壁打ちを始める隼人たちに、巴はムッとした。いつものことだし、もう納得はしているとはいえ、それでもやっぱりごく当たり前のようにハブにされるのは面白くない。
「那美ちゃん、私たちもやろ!」
「うん」
 隼人たちに負けるもんかと懸命にやったが、けっこう差をつけて負かされたのがかなり悔しかった。

「これより本日の練習試合を行う。対戦相手は公平にくじで決める。順番に引き、試合を始めてくれ」
『はいっ!』
 巴は緊張しながらくじを引いた。このくじは基本的にシングルス――一対一の勝負として引かれ、ダブルスをプレイしたい人はあらかじめペアを組んでおくかまだくじを引いていない人などから引っ張ってくることになっている。この試合はあくまで練習の一環なので、試合結果は記録されるが誰と試合するかはさほど重要視されていないらしい。
 誰になるのかな、と思いつつくじを引いて表を見る。番号は三十一番、対戦相手は三十二番の――
「……ん? 緑山中の季楽靖幸さん? ……誰だっけ?」
「それはこっちの台詞だよ。俺のことを知らないなんて」
 後ろから声をかけられて、巴はばっと振り向いた。なんだ、こののったりとした声。
「やっぱり補欠枠で入ってきた選手だから、しょうがないのかな」
 そこに立っていたのは自分より少し背が高いかな、ぐらいの男子選手だった。しっかりジャージを着込んで、のぺっとした雰囲気を周囲に漂わせている。巴は思わずカチンときて怒鳴った。
「な、なんですって!? 補欠枠は関係ないでしょ!?」
 人が気にしていることを、という怒りをこめた言葉を、おそらくは季楽靖幸であろう人は肩をすくめあっさり無視して言う。
「季楽って、聞いたことない? 全日本選手権四連覇の、季楽泰造」
「ええーっと……。聞いたことがあるような……ないような……」
 要はよく覚えていない。誰だっけ?
「パパのことも知らないのか。……まぁいいや。とにかく、キミみたいな補欠枠の一年生の女子とシングルスなんて、ごめんだね」
「ちょっとっ! じゃあ、どうすんのよ!?」
 人の気にしていることを言ったあげくにこの言い草。思わず怒鳴ると、季楽はあっさりと答える。
「……シングルスじゃなければ、ダブルスに決まってるでしょ? パートナー、適当に決めてさ」
「適当にって……」
 巴は表を見た。ダブルスパートナーなんて適当に決めていいものだろうか。でもせっかくだから色んな人とペアを組んでみたい気もするし。まだくじを引いていない人、引いていない人……。
(いた!)
 思わず目を輝かせて、巴は走った。珍しく人の後ろ(くじに並ぶ列の後ろ)に立っていたその人に、ドキドキしながら声をかける。
「跡部さん!」
 跡部はこちらを振り向いた。わずかに眉を上げて、怪訝そうな顔を作っている。
 少しばかり腰が引けたが、こんな機会はめったにないのだ。巴は頭を下げて言った。
「あの……すみませんけど、ダブルスのパートナー、お願いしてもいいですか?」
「アーン? 俺様が、お前とダブルスだと?」
 跡部があからさまに顔をしかめて言う。
「す、すみません。やっぱり、ダメですよね」
 当然といえば当然だ、跡部は根っからのシングルスプレイヤー、おまけに驚くほど気位が高い。まともに試合で組んだことがないので、跡部が知り合いの中でまだくじを引いていない、と気付いたら考えるより先に言ってしまっていたのだが、自分のような未熟者とペアを組みたいとは思ってくれないだろう。
「いや、引き受けてやろう」
 跡部はにやりと笑んだ。驚く巴の前で、ばさぁっとジャージを脱ぎ捨てる。
「青学の連中より、この俺を選んだ、その眼力に免じて、な」
「は、はい! ありがとうございます!」
 嬉しくて飛び上がらんばかりに喜ぶと、跡部はふんと偉そうに、けれど優雅とすらいえそうな仕草で鼻を鳴らした。
「ダブルスのパートナーとして俺様の美技を間近で見られるなんて、めったにない機会だ。その目にしっかり、焼き付けるんだな」
「はいっ! よろしくお願いします!!」
 頭を下げて表にペアの名前として跡部と自分の名前を書き込む。と、相手側に書いてある名前を見て仰天した。
「ウ、ウソぉ。男子ダブルス対ミクスドですかぁ!?」
 季楽のパートナーとして書かれていたのは、日吉若。氷帝男子テニス部の現在の柱と呼ばれる存在だったのだ。
 考えてみたら女子選手と男子がぶつかり合うというところからしておかしかったのだ。驚き慌てる巴に、表の隣で全員が名前を書き終わるのを待っていた真田が重々しく言う。
「季楽のパートナーを名乗り出る女子が現れなかったため、男子から募る以外なかった。だが、これに勝てば、以後二度と補欠扱いされることもあるまい。……どうだ?」
「確かに……」
 巴はぎゅっと拳を握り締めて考え、そしてうなずいた。
「わかりました、私、やります!」
 今は自分は最低ラインにいるのだ。強い人と戦える機会は、なにかを吸収できる機会は、一個でも多いほうがいい!
 そして巴はラケットを持ち、跡部と並んで季楽&日吉ペアとネットを挟んで相対した。
「跡部さん……下克上、果たさせてもらいますよ」
「アーン? パートナーが一年の女子だからって、俺様が負けると思ってるのか?」
 火花を散らす氷帝組をよそに、季楽は妙に平板な声で言う。
「汗かくの、あんま好きじゃないんだ〜。汗かいちゃう前に終わらせるからね」
 巴はかちんときた。こんななよっとした奴なんかに絶対負けるもんか!

 サーブは季楽からだった。思ったよりもきれいなフォームでサーブを打ち込んでくる。
 だが、青学の先輩たちに比べれば、お話にならないほど遅い。
 だっと間合いを詰めて思いきり振りぬく。ビシッ、と音がして季楽の逆サイドのライン際をボールが駆け抜けた。
「よっしゃーっ!」
 思わずガッツポーズ。よく腕が振れている。調子がなかなかいい感じだ。
 季楽が一瞬固まって、それからぎっとこちらを睨んできた。それににっと不敵な(と自分では思っている)笑みを浮かべてやる。季楽は気圧されたように目を逸らした。
 さらにサーブを打ち込んでくる。技術をきっちり磨いてあるという感じの、お行儀のいいサーブ。
 でもそんなサーブなんて面白くない。全然気合も必死さもこもってない。魂のこもってない球なんて、簡単に返せてしまうのだ。
 逆サイドにロブ。季楽はそれを取れなかった。終始そのペースで、巴は季楽に集中的に狙われつつも、季楽を思いきり走らせつつ1ゲームを取った。
「やったぁっ!」
「馬鹿が。この程度で喜んでるんじゃねぇよ」
「はいっ、すいません!」
 跡部の叱咤に笑顔で答え、場所を移動する。跡部がサービスラインについた。跡部のサービスなのだ。
 同じコートで跡部のサービスを見れるなんてめったにない機会だ。どんなサーブかわくわくしながら見ていると――閃光がひらめいた。
 シュバッ! とカマイタチのような音がした、と思った瞬間相手のコートにボールが突き刺さる。その鋭さ、速さ。巴は思わずぞくりと震えた。
「……この程度か、アーン?」
 低く言う跡部。次々とサーブを相手のコートに打ち込む。
 季楽は動くこともできない。日吉は必死に反応してボールを追うが、跡部のサーブは常にその先を行った。
 すごい。同じコートにいるとはっきりわかる。これが跡部さんのテニスなのか。自分とはまるで、格が違う。
 ――だけど、負けたくない!
 日吉のサーブ。さすがに季楽とはわけが違う。自分のいやなところを、強烈な力で突いてくる。
 それでも巴は必死にボールに食らいついた。全速力で追いついて全力で返す。大丈夫、自分でも返せないほどの球じゃない。
 だが日吉はそれを舞うような動きで返してきた。足元、逆サイド、真後ろ。緩急をつけた動きで自分を走らせ、かつ取りにくい場所を衝く。結局1ゲーム落としてしまった。
「ああっ!」
 悔しくなってじたんだを踏む。とたん、跡部に睨まれた。
「ブザマな姿をさらすんじゃねぇよ」
「う……」
「いいか、巴。お前は未熟だ。それは俺も向こうもよくわかってる」
「……はい」
 巴はうつむく。その通りだ、自分はおそらくこの合宿の中で一番下手くそだろう。全国大会で勝てたのはパートナーの力によるところが大きかったと思っているし、自分がまだ初心者の域を脱していないのも承知している。
「だが、そんなもんは言い訳にもならねぇ。戦うからには勝つ。曲がりなりにもラケットを握ったなら、それ以外の道は残されちゃいねぇ」
「はい」
 巴は顔を上げてうなずく。そうだ、キャリアが浅いなんていうのは言い訳にはならない。自分はテニスが好きだ。大好きだ。だからこそ練習にも試合にも全力を尽くして、勝ちたい、と思う。
「だからお前がミスすることなんざこちらは先刻承知だ。くだらねぇこと気にしてる暇があったら試合に集中しろ。それでも起こるミス程度なら俺がいくらでも取り返せる」
「跡部さん……」
「俺様の美技を見せてやる。だからお前は、全力で暴れまわれ。――俺を、楽しませてみろよ」
 に、と口の端を吊り上げて言う跡部に、巴は思わず身を震わせながら叫んでいた。
「はいっ! 暴れるのならまかせてください!」
「……よし」
 跡部はふっと笑んで、ラケットで相手のコートを指し示した。
「行け」
「はいっ!」
 巴は、相手のサービスゲームは二個連続で落としたものの、しっかりサービスをキープし、第9ゲームからは相手のサービスも打ち破って、跡部とともに6-3で勝利した。
「よーっし、勝ったーっ!」
 このJr.選抜。自分だって、充分通用するのだ。もう補欠とは呼ばせない!
 たまらなく嬉しくて、心から快哉を叫ぶ。日吉と季楽に思いきり睨まれた。
「くっ……」
「次は……次こそは、絶対にお前を倒してやる!」
「いいですよ。いつだって受けて立ちますから!」
 元気に答えた巴に、跡部がポンと頭を叩いた。
「なかなか、悪くない動きだったな」
「はいっ! ありがとうございました!」
「まぁ、俺様とのダブルスだ。勝つのは当たり前だが」
「あはは! そうですね」
「本当にやる気があるなら、この合宿、せいぜい頑張ることだな。俺の背中を追っていれば、青学の連中からは学べないことを数多く得ることが出来るだろうよ」
「はいっ!! 頑張ります!」
 満面の笑みで言うと、跡部はふっと珍しく優しく笑んで、こちらにくるりと背を向ける。その背中をぼんやりと目で追っていると、「巴ーっ!」と隼人の声が聞こえてきたので、巴は笑顔でそちらを向いた。

 夕食のあと。本来なら自由時間だったが、巴は一人調理場にいた。小坂田の差し入れの、ババロアを溶かして分けて固めなおすためだ。
 小鷹は青学一年男子との間で分けていたが(小坂田の言い分と真情を考えてのことらしい。巴もご相伴にあずかった)、巴は少しでも仲良くするために同室の女子たちで分けようと考えたのだ。だがそれには一個数が足りない。なのでもう一度溶かして人数分に分けなおそうと考えたわけだ。
 ババロアの入ったクーラーボックスを手に、調理場に立つ。普通なら合宿所の調理場など借りられはしないだろうが、なんでもここは材料費を払えば好きなように料理をしていいとかで、天野がなにかつまめるものでも作ろうかな、と言っていたことを覚えていたのだ。
 冷やし固める時間がかかるから、手早く済ましてしまわねばならない。小坂田の作ったババロアは生クリームもなにも乗っていないシンプルなものだから、ボールにあけて湯煎で溶かし、器に分けて冷やしなおすだけでいいはず。
 手早くやってしまおう、と鼻歌を歌いながらちゃっちゃっとボールにババロアをあけて湯煎していると、素っ頓狂な声が聞こえた。
「あーっ! サル女が料理しとるーっ!」
「……はぁ?」
 思わず振り向くと、そこには青学一年レギュラーズに金太郎、さらには剣太郎とどこかで見たような気のする、たぶん一年の男子が立っていた。少し驚いて隼人に聞く。
「どうしたの? みんなおそろいで」
「ああ、このチビザルが天野に食い足りないからなんか作ってくれっつってよ。天野がいつもみてぇにしょうがないなぁじゃあなにか簡単なお菓子でも作ろうか、って言い出して」
「ワイ、どーせやったら作るとこから見とった方がおもろそうや思てくっついてきたんや♪ 来てよかったわ、おもろいもん見れたし」
「……面白いもの?」
「サル女が女みたいなことしとるトコ!」
 ギャハハハッ、と笑う金太郎に巴は迷わずババロアの器を投げつけた。金太郎はかわそうとするが、その動きを後ろに立っていた隼人ががっしり羽交い絞めにして封じる。
「あだっ! なにすんねん! おのれらホンマに野生動物やな、野生の勘で生きてんねんやろ。アイコンタクトもなしに通じ合いよって」
「だっからてめぇに言われたかねぇっつってんだろ」
「ほら金太郎、さっさと器拾って持ってきて」
「いややー。山ザルに拾わせればええやん」
「そういうこと言ってるとババロア食べさせてあげないから」
 そう言うと金太郎は目をぱちくりとさせた。
「サル女、お前ホンマに料理作れるんか?」
「当たり前でしょ、でなきゃこんなところにいません」
「巴ちゃんは料理うまいんだよ」
「ウチの料理担当だったんだからな。後片付けは俺だったけど」
「うわぁ! 巴さんって料理も上手なんだっ、いいな〜料理上手な女の子!」
「……どうでもいいが、手が止まってるぞ」
「あ!」
 名前のわからない推定一年生に言われ、巴は慌てて調理に戻る。それにくすりと笑んで天野が調理場の中をてきぱきとのぞきつつ言ってきた。
「それ朋ちゃんのだよね? せっかくだからもうちょっと材料足してみんなで食べようか。それ冷やすのに二時間くらいかかるから、簡単にできるスノーボールと、クッキーを二、三種ちょっと作って。それでいい、みんな?」
「おうっ」
「え、でもそれじゃババロアの味が……」
「朋ちゃんのババロアのレシピは覚えてるから大丈夫。さっき食べたところだと別に変えてなかったみたいだしね」
「うわー、いつもながらきーくんの料理センスってすごいねー」
 巴は感心する。自分も年のわりには料理が得意なほうだと思うが、天野とははっきり言って比べ物にならない。
「じゃ、一緒にやってくれる? おかしなところあったら言ってね」
「うん」
「……フン」
 天野の指示で巴はババロアを作り直し始めた。ババロアは何度も作ったことがあるが、天野の指示は合理的でわかりやすい。以前夏合宿で一緒に作った時もそうだが、料理の腕が上がりそうだと思う。
 手早くババロアを作り上げている間に、天野はスノーボールをオーブンに入れていた。同時進行していた絞り出しクッキーも一緒にたねを作り上げ、冷蔵庫に入れる。こちらは休ませる時間も取るのだそうだ。
 金太郎はしばらく面白そうに見ていたが、やがて退屈したのか隼人と喧嘩し始めた。そこに天野の一喝が入り(調理場での喧嘩は天野的にご法度だ)、しゅんとして男子たちは食堂に向かう。
 しばらくしてからスノーボールが焼きあがった。天野は手早く砂糖をまぶし、器に盛る。その間に巴は冷蔵庫からクッキーだねを取り出し、搾り出してオーブンに入れた。
「はい、スノーボール」
「おーっ、うまそやな!」
「こらっ、がっつくんじゃねぇっ! ちゃんと作った人に礼言ってから食えっ!」
「へーい。きーやん、巴、おおきにな」
 金太郎に名前を呼ばれた、と驚く暇もなく、金太郎はむしゃむしゃとスノーボールを食べ始める。「他の奴のことも考えて食えっ!」と怒鳴ってから、隼人もむしゃむしゃ食べ始めた。リョーマは無言で食べているし、剣太郎も「いっただっきまーす!」と叫んで食べ始めている。最後の一人だけは苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いていた。
 珍しく天野が食べるように勧めない。困ったような顔でその推定一年生とスノーボールを見比べている。
 どうしたのかな、と思って、ふいに悪戯心が湧いた。ひょいとスノーボールを一個手に取って、ぽん、とその推定一年生の口の中に押し込む。
「!」
「いつまでもぶすっとしてないで食べたらどうですか? おいしいですよ」
 にこっ、と笑顔をつけて言ってやると、推定一年生は顔をわずかに赤らめてふん、とそっぽを向いたが、しばらくしてからスノーボールにそろそろと手を伸ばし始めた。
「お、うまそうなもん食ってるじゃん!」
 ふいにそんな喚声が聞こえた。振り向くと、そこに立っていたのは立海大の丸井ブン太だ。
「俺の分は?」
 当然のように巴の隣に座り、聞いてくる。突然な人だなぁ、と驚きつつも巴はにこっと笑った。子供のような言い分だが悪い感じはしない。
「いいですよ、好きにつまんでください。他の人の分も残してもらわないと困りますけど」
「やりっ。いっただっきまー……」
「丸井! はしたない真似をするな!」
 怒鳴り声に首をすくめる。そこには立海大の選手たちが勢ぞろいしていた。
「あ、立海大のみなさん。こんばんは」
「……もしかして、自主トレしてたんスか?」
「うむ」
「立海大の方々の強さを保つためには必要な練習ですもんね。俺たちも見習わなきゃな」
 天野が考え深げにうなずきながら言う。真田が少し感心したような目で天野を見た。
「一年生にしては、なかなかわかっているようだな」
「え、そうですか? あはは、ありがとうございます」
「……おいコラブン太、なにばくばく食ってんだ。少しは遠慮しろ!」
 桑原が丸井を引っ張るが、丸井は意に介さず食べ続ける。
「んなこと言ったって、これうますぎんだもん。ジャッカルも食べてみろって」
「え、そ、そうか?」
「まだ残ってますから、どうぞ」
「あーっ、きーやんえげつないこと言うなや、最初に食いたいて言うたんはワイやろ?」
「いいじゃない、食べ物はみんなで食べた方がおいしいよ。ちゃんと金太郎くんの分は残しておくから」
「……ホンマかぁ?」
「偉そうに言うんじゃねぇ作ってもらってる分際で!」
「そーいうこと言ってるとクッキーもババロアも食べさせてあげないよっ!」
「うう〜、そんな殺生な〜」
「ババロアまであんのか?」
 ブン太が目を輝かせる。その頭に桑原が拳を落とした。
「いくらなんでも図々しすぎんだろっ!」
「しっかし、どーでもいいけどお前テニスの合宿に来てなんでそんなに菓子作ってるわけ? 料理合宿じゃねーんだからさ」
 切原の言葉に一瞬沈黙が降りる。そういえばそうかもしれない。考えてなかったけど。
「別に理解できないことではない。天野の母親は料理研究家だ、料理の修練も怠るわけにはいかないのだろう」
 柳の言葉に、天野は苦笑する。
「いえ……別にそこまで強制されてるわけじゃ。そりゃ、家ではしょっちゅう練習相手させられてますけど……」
「へっ? じゃあ……これってこの一年坊主が作ったの?」
「え? あ、はい、スノーボールはそうです。でももうすぐクッキーが焼きあがりますから、巴ちゃんの作ったものも食べられますよ」
「へぇ……」
「やりっ! 食う食う〜」
「にーちゃんちーとは遠慮せぇや」
「お前が言うな!」
「赤月巴はデータ不足でまだなんとも言えんが。主婦としての修行のためか?」
「いえ、単に成り行きなんですけど。……というか柳さん、なんで私のことフルネームで呼ぶんですか?」
 訊ねると、柳はわずかにまぶたを動かして答えた。
「赤月が青学には二人いるのでな。ファーストネームで呼び合うほど親しい仲でもないだろうと思っただけだ」
「……そうなんですか」
 巴はしばし考えて、それから笑顔で柳に手を差し出した。
「じゃあ、この合宿の間にファーストネームで呼び合えるくらい親しい仲になりましょうね!」
「…………」
 なぜか固まる柳。どうしたんだろう、と思っているとふいに横から手が差し出された。
「ほうか、なら俺とも親しゅうなってくれるがか?」
 銀髪の人。仁王だ。
「え? はい、もちろんです!」
「なんなら雅治さん≠ソ呼んでもよかよ?」
 に、と底の見えない笑みで笑う仁王。面白そうな人だなぁ、と思いながら照れ笑いをする。
「あはは、まぁ、それはおいおいってことで」
「……仁王くん、女性に対してそう馴れ馴れしくするのはどうかと思いますが?」
 柳生が進み出て言う。巴は思わずそちらに悲しげな視線を向けた。
「柳生さんは、私と親しくなるの嫌ですか?」
「……っ、嫌というわけではありませんが、しかし、赤月さん……」
「赤月じゃどっちの赤月かわからないですよー」
「そうじゃそうじゃ、巴でいいじゃろう」
「ですから、妙齢の女性がそういった言動をするのはどうかと……」
「おい巴ー、クッキーまだ焼けねぇの?」
「なんでサル女に聞くんや、にーちゃん。やらしーやっちゃな」
「……お前ら……っ、たるんどる! 他校の、それもライバル校の選手となにを親しげに喋っておるのだ!」
 真田の怒声に一瞬周囲は静まり返ったが、すぐに口々に反論が返った。
「いいじゃないっスか、固いこと言わなくたって」
「相手をよく知るのはデータ収集の上で必要なことだ」
「面白いからかまわんじゃろ」
「女性に対して声を荒げるのはどうかと思いますよ、真田くん」
「このクッキーマジうまいぜ、真田」
「……まぁ、ここまできてそう言われても……なぁ?」
「お前ら……」
「真田さん、確かに私たちライバル校ですけど、今は同じ合宿の仲間じゃないですか! 仲よくした方がきっと楽しいですよ!」
「……っ」
「いいんじゃないか? 真田」
「幸村っ!?」
「この子の言うことの方が筋が通ってるよ。せっかくだからご相伴にあずかろう」
 幸村元部長さんが笑顔で言うと、真田は苦虫を噛み潰したような顔で席に腰を下ろした。
「なんでこいつらまでくんねん。割り当て減るやんけ」
「……お前、いいから黙ってろ」
「あはは……」
「巴さーん……」
「……クソ」
「…………」
 クッキーもババロアもおいしかったし、同室の女子たちに無事ババロアを届けることもできた。立海大の人たちとも仲よくなれた、と巴は嬉しかったのだが、隼人とリョーマはなぜか不機嫌そうだった。

 就寝時刻。
「さてと、今日はそろそろ寝ましょうか。電気、消すけどいい?」
「あ、ちょっと待ってください。『めーたん』を出さなくちゃ!」
「めーたん? ……なに、それ?」
「ジャカジャーン、これでーす!」
 巴はバッグの中からめーたんを出して机の上に置いた。子供の頃からずっと一緒にいる大切な存在だ。
「……大きな羊のぬいぐるみ」
「ちっちゃい頃、私ってば、怖い夢ばかり見てたんで眠るのがイヤだったんです。で、そんな時にお父さんが悪い夢を食べる、めーたんをプレゼントしてくれたんです」
「悪い夢を食べるのって、バクなんじゃ……?」
「いいんです。それからは楽しい夢を見られるようになったんですから、結果オーライです! おかげで、眠るのが楽しくて、楽しくて……。いつまでも寝てたいって感じです」
 にこにこと言うと、小鷹が呆れたように肩をすくめる。
「だからって、合宿にまで持ってこなくたって……」
「那美ちゃんだって私物、持ってきてるじゃない。漫画とか、お菓子とか」
「そりゃあ、確かに、多少は持ってきてるけどね」
「青学の夏合宿の時なんか、カルピン入りのバッグを持ってきた人だって……あっ!」
「えーっ、それ、本当!?」
 しまった、隼人から聞いたことをうっかり口を滑らせてしまった、と巴は思わず口を押さえた。
 と、気付いた。原がじーっとめーたんを睨んでいる。うわぁ怒られちゃうんだろうなぁ、と眉を下げながら、おずおずと言った。
「……あ、あの、原さん? めーたんなんですけど……」
「……かわいいな」
「はい?」
 一瞬呆気に取られて口を開ける。原はカッと顔を赤らめてそっぽを向いた。
「……な、なんでもない!」
 もしかして原さんってかわいいものとか好きなのかな、と巴は目を瞬かせる。そう思うとなんだか親しみが湧いてきて、自然に笑顔になった。
 そこに早川が顔をしかめて、苛々と言う。
「バカバカしい。合宿にこんなモノ持ってくるなんて信じられないわ。まったく……小鷹さん、あなたの教育がなってないんじゃないの!?」
「ええっ、私のせいなの!? 変な言いがかり、つけないでよ」
 また始まってしまった。もしかして小鷹に文句をつけたいからこんなことを言い出したのではないか?
「お遊びで来てるわけじゃないのよ、わかってんのかしら?」
「まぁまぁ、落ち着いてよ。いいじゃない、ぬいぐるみくらい。それに、みんな、いい夢を見られるわけだしね!」
「そうですよ、きっと!」
 フォローありがとう鳥取さん、と巴は思わず心の中で伏し拝んだ。子供にテニスを教えている時にも思ったが、鳥取さんは本当に人のフォローが上手だ。
 空気が少し和んで、小鷹が笑顔でめーたんに声をかけた。
「うん、わかった。いい夢、頼んだよ、めーたん」
「クスッ、私にもいい夢、お願いね、めーたん!」
「フン」
「…………」
「もちろん、私にもね、めーたん!」
 次々に声をかけられて、めーたんが少し照れたように思え巴は微笑む。今日もいい夢が見れそうだ。
「じゃ、もう電気、消すね」
 電気を消して、それぞれ布団に入る。明日も早いのだ、しっかり眠っていい夢を見て、明日に備えよう。
『おやすみなさーい』
 その晩見た夢は、跡部と氷帝の人たちがオールキャストで出演した、フランス革命時の貴族と維新志士たちの戦いの二本立てだった。

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