二日目〜吉川・南戦〜
 巴はまだ半分眠りながら洗面所に向かった。なんだかまだ夢を見ているような気がする。普段から巴の見る夢はめーたんのおかげで(と、巴は信じている)スリリングでストーリー性に富んだ面白いものが多いのだが、それにしても昨日の夢は印象的だった。異常なくらいリアルだったし。
「おい、挨拶はどうした? 朝から寝ぼけたツラをさらしてるんじゃねぇぞ」
「あ、跡部さん、樺地さん。おはようございます」
 挨拶をしてから目をぱちくりさせた。跡部がいかにもヨーロッパ貴族風の派手な装飾のついた服を着ていて、樺地が浅葱色のだんだら羽織を着けている。なんで? と思いながら目をぱちぱちさせていると、跡部に訝しげに叱られた。
「おい、なにをボーっと突っ立ってるんだ? 立ったまま寝てるんじゃねぇぞ」
「あ。やっぱり、いつもと同じだ」
「寝ぼけてんのか? まったく、おかしなヤツだぜ。顔でも洗って目を覚ませよ」
「は、はい!」
「じゃあな。行くぞ、樺地」
「ウス」
 あーびっくりした、と思いながら洗面所へと歩く。夢と同じ衣装を着て見えるなんてちょっと尋常じゃない。早く顔を洗って目を覚まそう。
 跡部さんたちに言った方がよかったかな、とちらりと考えてから首を振る。そんなこと改めて言うなんてなんだか恥ずかしい。あなたのことを夢に見ました、なんて言われたって困るだろう。
「や、赤月さん! 今日もカワイイね」
「え?」
 楽しげな声に驚いて振り向くと、そこには山吹中の千石が立っていた。隣にはウニのような髪型の人と朝なのにばっちり髪型を固くセットした人の姿も見える。ああ、と笑ってうなずいた。
「おはようございます、千石さん。えっと、そちらは……」
「ああ、こいつらは俺と同じ学校の南と東方。南は部長なんだよ。地味だけど」
「千石、お前な……」
「ちなみにこの二人のダブルスは全国レベルなんだ。通称地味'sっていってね、基本に忠実なプレイは一見の価値があるから機会があったら見てみるといいよ」
「そうなんですか! 私、よくダブルスの技術が未熟だって言われるんですよね。この合宿で勉強させてもらいますね、南さん東方さん!」
 笑顔で言った巴に、南と東方はなぜか少し顔を赤らめた。
「いや、まぁ、全国レベルっていっても今年の全国大会では二回戦負けだけどね」
「でも、一度お二人の試合見たことがありますけど、本当に息が合ってたじゃないですか。いぶし銀みたいな強さで、格好よかったですよ」
「……それってつまりは地味ってことかい?」
 苦笑を浮かべる南に、巴はきょとんとした。
「え、南さんは地味って言われるの嫌いですか? 私地味に強いって秘かに憧れなんですけど」
「え」
「だってそれだけ地道に練習を積み重ねてきたのが評価されてるってことじゃないですか。私必死に練習頑張ってるつもりですけど、やっぱりまだまだ長く続けてる人にはかなわないから、ちゃんと努力を積み重ねてる人って憧れちゃうんですけど」
「…………」
 南はしばし絶句して巴を見つめた。巴はなんで見られるのかわからずに首を傾げるが、そこに千石が割り込んできた。
「赤月さん、俺の前でそ〜んなに南ばっか褒めないでよ〜。妬けちゃうなぁ」
「え、ごめんなさい、千石さんそんなに南さんのこと好きだったんですか?」
 ぶは、と吹かれた。
「ちょ……なにそれ!?」
「だって南さんを褒めて妬くっていうことはあんまり南さんに親しくされると嫌なのかな、って思って」
「どっからきたのその発想……」
 呻くように言ってから、千石は笑顔に戻ってつん、と巴の額をつついた。
「俺と一緒にいる時は俺のことだけを見てくれると嬉しいな、ってこと」
「………………どうしてですか?」
「うわ、そういう風に問い返されるとなぁ……」
「千石……お前、人のいるところで女の子口説くなよ。それにこの子まだ一年だろ」
「俺は可愛ければ年齢にはこだわらない主義なんだ。それに愛を囁く場所にもこだわらないよ。相手の女の子に気持ちが伝わればいいじゃないか。ね、赤月さん」
「うーん……」
 問われて巴は考えた。相手に気持ちが伝われば、本当にそれでいいのだろうか?
「うーんと、私も年齢にはこだわりませんけど、場所はちょっと考えちゃいますねー」
「ほらみろ」
「だって、好きって気持ちって、溢れちゃう時場所選べないじゃないですか。どうしようもなく好きーっってなったらどこにいても止められないでしょ? だから、選べる状態なら選んだ方が、好きって気持ちを大切にしてることになるんじゃないかな、って」
 そう言ってみると、なぜか場は静まり返った。
「……へぇ、赤月さん、そういう経験あるんだ?」
「え……ま、まぁ、その……」
「あるんだ?」
「……お父さんに好きって言ってたら、そう教わったんですけど……」
 ぶっ、と三人に揃って吹き出された。
「わ、笑うことないじゃないですか、もー!」
「ごめんごめん、あんまり可愛くてさ。赤月さんってホントカワイイね」
「なんか馬鹿にされてる気がするんですけど……」
「ホントだって。すっごくカワイイ」
 にこっと笑って言われ、巴は思わず顔を赤らめた。そういえば小坂田に山吹中の千石は女たらしだと聞いたことがある気がする。本当だなぁ、こんなことさらっと言えちゃうんだもん、と父親以外の容姿を褒める言葉に慣れていない巴は赤くなりながらも微笑んだ。
「ありがとうございます、千石さん。なんていうか、誰にでも言ってるってわかってても嬉しいし照れちゃいますね」
「なに言ってるんだい、俺は本当に可愛いって思う女の子にしか……」
「巴、はよ!」
「え?」
 いきなり聞こえてきた聞き慣れた声に振り向くと、そこにはやはり隼人がいた。リョーマと天野も一緒だ。
「いやー、今日も天気いいな! 練習日和だぜ。テニスしに来てるんだもんな、テニス以外のこと考えられねぇくらい練習しまくろうな!」
「う、うん」
「……ま、お前はそのくらいじゃないと他に追いつけないだろうからね。少なくとも女たらしの口説き文句に顔赤くしてるなんて余裕はないと思うけど?」
「あー! なにそれリョーマくん、嫌味!? 私だって乙女なんだからちょっとくらい顔赤くしたっていいじゃない!」
「ふーん。余裕だね」
「まぁまぁ、二人とも。……おはようございます、千石さん、南さん、東方さん。すいません、リョーマくんたちが失礼なこと言って」
「あ、いや……」
「なんでお前が謝んだよ。つか、こんなとこで他校の一年口説く大人げねぇ人のが問題だろ」
「同感だね」
「もう、二人とも!」
「同じ学校の先輩だったらいいのかい? そうだなぁ、それなら赤月さんにウチに転校してきてもらっちゃうっていうのはどうかな?」
「じょ……ジョーダンじゃねぇーっ!!!」
「ふざけないでくれる?」
 なにやらすごい勢いで言い争う三人についていけず、巴はぽりぽりと頭をかいた。なにがなんだかわからないけど、自分と関係なく盛り上がっているみたいなので、邪魔しない方がいいだろう。
「じゃ、私失礼しますね」
 そう言ってぺこりと頭を下げ、南と東方と天野に苦笑されながら、巴は練習の準備のため部屋へと戻っていった。

 早朝練習も無事終わり、朝食の時間。巴は腹を空かせてふらふらしながら食堂を歩いていた。
 朝食は全員同じメニューなのだが、昨日食べた限りでは質も量も文句なしだった。早くエネルギーを補給したい。素振りのフォームが納得いかなくてみんなより長く練習していたし。
 と、誰かにぶつかった。
「きゃ!」
「おおっと! 大丈夫かい、お嬢ちゃん?」
 この声は、と見るとそこには千石が立っている。慌てて巴は頭を下げた。
「あ、はい。すいません、ぶつかっちゃって。ありがとうございます、千石さん」
「いやいや、こちらこそ、メンゴね。赤月さん」
 にっこりと笑って、それから軽く肩に手を置いてくる。
「今日は二度も個人的に話ができちゃったね。なんだか、運命感じないかい?」
「あはは、千石さん。そういうこと何人に言ってるんですか?」
「いやいや、あはは。ここまで言うのは本当に、めったに」
「おい千石、なに一年の女子に絡んでんだ」
 不機嫌でぶっきらぼうなテノール。この声は、と周囲を見渡し、巴は思わず笑顔になった。
「宍戸さん! お久しぶりです」
「お、おう。……覚えてたのか、俺のこと」
「もちろんですよー、花火大会の時いっぱい話したじゃないですか。全国大会以来ですよね。お元気でしたか?」
「おう、まぁな。お前も元気そうじゃねぇか」
「宍戸くん、赤月さんは俺と話して――」
「おう、久しぶりやな、巴。昨日会えるか思てたけど案外人多うてなぁ。バレンタインでは、チョコありがとな」
「忍足さん! えへへ、どういたしまして。ホワイトデーは期待してますねっ」
「……ちょっと待て。なんでお前が赤月にバレンタインチョコもらってんだよ」
「そら練習の時くれるようアピールしとったからな」
「……練習?」
「俺ら跡部と一緒に月一くらいで巴と練習してたんだよ。秋ぐらいからかな。んで、バレンタインにもらいに行ったわけ」
「向日さん! お久しぶりです〜。合宿頑張りましょうね!」
「おう、お前にダブルスの真髄を見せてやるぜ。……あと、ホワイトデーも期待してろよ」
「…………」
「あ、あの、宍戸さん、俺もチョコもらってませんから!」
「長太郎……」
「その代わり誕生日プレゼントにってちっちゃいけどケーキもらってたよな。一度練習に来たことあったし」
「………長太郎、テメェ……!」
「す、すいません、樺地が練習に行くの見かけて、偶然……!」
「え、宍戸さんもチョコほしかったんですか? すいません、忍足さんから宍戸さんは甘いものが嫌いだって聞いたんで」
「べ、別に嫌いじゃねぇよっ。ていうか、忍足テメェなっ!」
「なんや? お前バレンタイン前に『チョコみてぇな甘いもん別に欲しくなんかねーよ』っちゅうてたやろ?」
「お前ら、くだらねぇことで言い争ってるんじゃねぇよ」
「あ、跡部さん!」
 氷帝軍団のボスが登場だ。背後には当然樺地と、珍しく日吉が一緒にいる。
「こいつの中に残りたいならテニスの腕を磨きやがれ。こいつの方から組んでくれって頼ませるくらいにな。チョコだのなんだのそんなもんはそっから先の話だろうが。なぁ、樺地」
「ウス」
「……フン。別に俺はこの程度の奴に認められたいとは思わないですがね」
「あー、日吉さんひっどーい。昨日私に負けたくせして」
「あれは……っ! ………………」
「まぁまぁ。赤月さん、日吉は実はかなり赤月さんのこと気にしてたんだよ。俺が一度一緒に練習したって言ったらどんな練習したのかとかどのくらい腕を上げてたかとかしつこく聞いてきてね」
「っ、鳳!」
「そうなんですか! わー、嬉しいな。私なにげに注目されちゃってます?」
「ああ。俺もおんしのことはチェック入れちょったが」
「あ、仁王さん……に、立海大付属のみなさん!」
 立海大付属の面々がそこには勢揃いしていた。跡部がわずかに顔をしかめる。
「俺がお前を青学の要注目選手の一人としてレギュラー全員に教えていたからな。ウチの選手は全員お前には注目していた」
「柳さん……ホントですか!?」
「ああ。赤月隼人と同じ環境に育ちながらまったく荒削りなテニス。だがだからこそというべきか、お前のプレイは無限の可能性を感じさせる。正直、お前ほどデータの取りにくい選手もいないだろうと思ったほどだよ」
「うわぁ……」
 巴は思わず息を呑む。そんなにも柳は自分を買ってくれていたのか。有頂天になるほど嬉しく、また緊張する。自分などまだまだ下手くそなのに。
「あ……ありがとうございますっ!」
「巴ー、ンなに固くなんなって」
「……まぁ、団体戦とはいえ、全国優勝に貢献している選手だからな。それくらいは当然だろう」
 真田にまで褒められてますます舞い上がりそうになっているところへ、跡部の辛辣な声が響く。
「おいおい、調子に乗んなよ。お前への注目なんて、珍しがられてる間だけだ。今のお前は見世物みたいなもんだ。そこんところを自覚して、せいぜい必死でついて来るんだな」
「み、見世物って! ちょっと、ひどいですよ! 確かに、見てて面白いってよく言われますけど……。少しサービス精神が旺盛なだけです! きっと!」
 反射的に言った反論に、千石が吹き出した。
「あはははっ! 本当だね、やっぱりキミって、面白い子だね」
『ははは……!』
 全員が揃って笑い出す。恥ずかしかったが、なんだか自分もおかしくなってきて、巴は微笑んだ。
 とたん。
「はいちょっと失礼しますよみなさん! 巴っ、一緒に次の練習の準備しようぜ!」
「……え? はやくん?」
 ぐいぐい、と手を引っ張られ驚く。ずかずかと自分を取り囲んでいた人たちの中へ分け入って、隼人が自分の手を引っ張っている。
「ちょ、ちょっと。私まだご飯食べてない……」
「じゃあさっさと食べたら。あんなところで話してないで。お喋りしにこの合宿しに来たわけじゃないんでしょ」
 隼人の隣には当然のようにリョーマが立っていた。自分と呆気に取られているさっきまで話していた人々から自分を隠すように立ちつつ自分を急かす。
 思わず、ちょっとムッとした。
「はやくん、リョーマくん、今朝からちょっとおかしくない?」
「……おかしくねーよ」
「……別に」
「おかしいよ。私と人が話すの邪魔してるみたい。なにか私に言いたいことでもあるわけ?」
「それは……」
「別にないよ。ただお前にぺちゃくちゃお喋りしてる余裕があるのかとは思うけど」
「……なにそれ」
「お前補欠枠で入ったってこと忘れてない? 少なくともここにいる人間はほぼ全員お前よりこれまでの練習時間の積み重ねは多いんだよ。それに追いつこうと思うなら、へらへら笑ってられる時間なんてないと思うけど?」
 かっちーん、ときた。経験不足と実力不足は誰よりも自分がよくわかってるのに。
「そりゃ、私はこの合宿の中で一番下手だと思うけど! だからって久しぶりに会えた人たちと話すのも駄目っていうわけ!? 練習時間は私だって思いきり頑張ってるもん!」
「みんなと同じ練習時間だけですむんだ。お前のテニス強くなりたいって気持ち、その程度?」
 カーッと、思わず頭が熱くなった。
「おいっ、リョーマてめぇっ……」
「勝ってやる」
 ぼそりと言った巴に、二人は目を瞬かせる。
「はやくんにもリョーマくんにも、この合宿で楽勝で勝てるくらい強くなってやる! その時になって吠え面かいても遅いんだからね、覚えてなよ!」
「……ふーん。やってみたら? やれるんなら、だけど」
「やってあげるもん!」
 ふんっ、と鼻を鳴らして、巴は食事を受け取りに行った。練習するためには、とりあえず腹ごしらえだ。

 ばくばくと巴は食事を口に運んだ。気合を入れて練習した後なので特にご飯がおいしい。
 特に昼食は好きなものを選べるのが嬉しかった。食堂というよりちょっとした定食屋と言った方がいいんじゃないかと思うほどメニューがあるのだ。
「おい。この席、座らせてもらうぜ」
「あ、はい! どうぞ!」
 反射的に答えてから驚いた。メンバーがすごい。真田に跡部、手塚に橘。実力も威厳も迫力も、中学生離れした人間ばかりが揃っているのだ。
 それがなんで揃って、自分と同じテーブルに?
 そんな巴の疑問になど関知せず、四人は中学生とは思えないような会話を始める。
「合宿も二日目だが、どうだ、調子は?」
「悪くはない。設備も充実しているし、練習のレベルも高い。ウチの連中がこの合宿で、どれほど向上するか楽しみだ」
「同感だ。今回の選抜は、非常に高いレベルの選手が集まっているから、大いに刺激になるだろう」
「レベルが高いだと? フン……そいつはどうかな?」
「どういう意味だ?」
「俺様とやり合えるレベルの選手は、ここにいるお前らくらいで、他にはいねぇだろうが。アーン? 今日の練習試合は、楽しませてもらいたいもんだな」
 とてもじゃないが会話に入っていける雰囲気じゃない、と巴は打ち震えた。リョーマの言うことももっともかもしれない。自分はまだまだ下っ端で、この人たちは雲の上の人だ。この人たちに追いつこうなんて、考えるだけでも失礼なことかもしれない。
 でも、逃げるのは嫌だ。そそくさと立ち去るなんて冗談じゃない。手塚とは一番多くミクスドで組んだのだし、こういう人たちとも対等といえるくらいになりたいのだ。
 そうこっそり決意する巴。四人はどんどん話を進める。
「話もいいが、食事の方を済ませないか?」
「そうだな。なにを食べるとするかな……おい、赤月。お前が食べているものはなんだ?」
「えっ、私の食べてる物ですか? これは……私のは、たこ焼き定食です」
 一瞬場に沈黙が下りた。
「……おい。なんだ、そのふざけた食事は?」
 地獄の底から響いてくるような声で言う跡部に、巴は目をぱちくりさせて答えた。
「え、なにって、定食ですけど。おいしいですよ、熱々で」
「そういう問題じゃねぇ! 炭水化物に炭水化物を組合わせてどうする! そんなもんを食っていいと思ってんのか、巴!」
「ま、まぁまぁ跡部。俺もラーメンライスとかくらいなら普通にするしな。関西人ならそれくらい普通じゃないか?」
「こいつは関西人じゃねぇ、一年前でも岐阜県民だ」
「……確かに関東ではあまり見ない組み合わせではあるが。疲労した肉体のエネルギー補給には、炭水化物を多く取るのは有効といえるやもしれん」
「う、うむ。確かに一理あるな」
「そういう問題じゃねぇっつってんだろうが! 俺様の美学が許さねぇんだ、そんなもんは! 四天宝寺のボンクラ共ならともかく、お前がそんなもんを食うのは俺様が許さん!」
「え、でもこれ以外にいけますよ? たこ焼きのソース味が以外にごはんの進みを早く……」
「……巴。俺様を怒らせたいのか?」
 低く言う跡部に思わず固まる巴。そこに手塚がずいっと前に出た。
「跡部。赤月は青学の部員だ。お前が赤月と親しくしているのは知っているが、命令するのはやめてもらおう」
 跡部はふん、と鼻を鳴らした。
「この俺様に説教か? 少なくともここ半年のこいつの成長ぶりを少しも見てこなかったお前よりは、俺様の方がこいつのことをわかってると思うがな」
 その瞬間、確かに空気に亀裂が走った気がした。
「確かに俺は赤月とは長く一緒に練習してはこなかったが、何度も連絡は取り合っていた。それにこの合宿中にも共に練習をしたり話をしたりしている」
「ハ、その程度で亭主気取りか? 全国大会からこっち、俺様は何度もこいつと練習を重ねてきてるんだ。言っとくが今のお前より俺様の方がこいつの力を引き出せると思うぜ?」
「冗談はやめてもらおう。赤月が青学に入学してから全国大会まで、俺は赤月と共に日々を過ごしてきた。その中でそれなりの絆を築いてきたと自負している。そう簡単にその積み重ねを追い越せると思うな」
「……そういうことなら、俺にも参加する権利はあるよな?」
 橘の言葉に、また空気が凍る。
「橘……」
「橘……テメェ」
「俺は地区予選から何度も巴と一緒に練習してきたし、何度も相談にも乗ってきた。一緒に協力して新しい技を作ったこともある。お前たちに劣る要素はどこにもないと思うが?」
「ふざけんな」
「…………」
「さ、真田さん。なんとかしてくださ〜い!」
 なんでこう険悪になったのかさっぱりわからないなりに空気に耐えられず巴がこっそり真田に懇願すると、真田は難しい顔をして巴を見た。
「? なんですか?」
「いや……赤月。お前は人気があるのだな」
「は?」
「うちの選手たちもお前の周りに集まっていたし……いや、だからどうというのではないが。……いや、なにを言っているのだ俺は。すまん」
「あ、あの、真田さん……?」
 さっぱりわからないが、真田もこの空気をなんとかしてくれる気はないらしい。
「あれ? なんだか険悪だね」
 にっこり笑ってテーブルの横でそう言ったのは、不二だった。
「不二先輩!」
「モエりん、一緒に食べない? 喧嘩してるテーブルで食事してもおいしくないだろうし」
「え、えっと……」
「おい、不二。テメェふざけるなよ?」
「……不二。別に我々は喧嘩をしているわけでは」
「じゃあモエりんを不安がらせるようなことをしないで仲良く食べたらどうだい? モエりんと一緒に食事をしたいのは別に君たちだけじゃないんだし」
『…………』
「さ、モエりん、一緒に食べよう。モエりんと一緒に食事をするのは久しぶりだね」
「は、はぁ……」
 なにがなんだかわからないうちに不二の隣で食事をしたが、いっこうに晴れない険悪な空気に緊張してろくに味がしなかった。

 昼食が終わってすぐ巴は裏庭へと向かった。素振りをしようと思ったのだ。
 五膳練習は思いきり気合を入れてやったが、それだけじゃ足りない。リョーマくんを、ついでにはやくんを、なんとしても見返してやらなきゃ。
 そのために自主練も人一倍やる、と決めたのだ。
 早足で裏庭に向かう。と、巴は目をぱちくりさせた。裏庭の方で誰かが口論しているようだ。
 練習しなくてはという気持ちもあったが、好奇心と口論を放っておきたくない気持ちが勝った。足早にその声のする方へと向かい、目をぱちくりさせる。
 口論していたのは、桃城と海堂だった。選抜合宿にまで来て喧嘩しなくても、と思うが、二人はどんどんヒートアップしていく。
「ったく、何度言わせんだよ! 俺じゃねーって言ってんだろ!」
「……お前以外にこんなことするヤツはいねぇ」
「なんだと、このマムシ野郎! ぶっ飛ばしてやる!」
「上等だ……!」
 お互いに胸倉をつかみ合う二人に、巴は慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと先輩たち!」
「桃部長、海堂先輩! 喧嘩はやめてください!」
 巴の後ろから突然そう声が上がる。驚いて振り向くと、そこにいたのは天野だった。桃城が気まずそうに、海堂の胸倉をつかんでいた手を離す。
「喧嘩の原因はいったいなんなんですか?」
 穏やかに訊ねる天野。海堂が顔をしかめながらも手を離した。やはり青学テニス部の喧嘩の仲裁は天野に勝る者はいない。
「勝手口の外に置いてあった野菜がなくなったらしいんだ。それをこの野郎が俺が食ったんだって疑いやがるんだよ!」
「フン……。生でも食いそうなヤツって言ったらお前ぐらいなモンだ」
「いや、いくら食いしん坊の桃ちゃん部長でもさすがにそこまでは……」
 思わず言ってしまった巴に、桃城が嬉しげにうなずく。
「だろ? それに俺が盗み食いするならちゃんと肉とかも食う!」
「ははは……そーですよねー」
 すごい弁解だ、と思ったが笑う者は誰もいない。
「それより海堂、お前はどうなんだ? 俺に罪をなすりつけようっていう魂胆じゃねぇのか?」
「フシュ〜ッ……あぁ!? やんのかコラァ!」
「わーっ! 二人ともやめてくださいってば!」
「そうですよ、落ち着いてください!」
「おおっ!? 喧嘩か? やれやれー!!」
 後ろから聞こえてきた声に、巴は振り向いて目をむいた。
「あっ、向日さん! あおってないで止めてくださいよ!」
「はんっ! そんなの知るかよ。好きにやらせれば……ん? ……なぁ? なんか馬の足音みたいなのが聞こえねーか?」
「え?」
 そういえば、確かに。ぱからっ、ぱからっ、という感じの音が聞こえてくる。
 それはどんどん近づいてきて、唐突に木陰からその姿を現した。
「……う、馬だぁーっ!?」
「馬!? ホントだ! 馬がいるよっ!?」
「なんでこんなところに馬が?」
「あ……この馬。口から野菜がはみ出してません?」
 天野の声に、全員思わず目をむく。
「あっ!? ということはひょっとして……?」
「お前が野菜を盗んだ犯人だってワケかよ! ほら見ろ、海堂!」
「ちっ……。どうやらお前の言うとおりだったようだな」
「へっ。わかりゃあいいんだよ、わかりゃあ……」
「誤解が解けてよかったですね、桃部長」
 天野が嬉しげににっこり笑うと、桃城はうなずきながらその白い馬の尻を叩いた。
「まったくだぜ。しかしよくもまぁ、この俺に濡れ衣を着せてくれたもんだぜ……!」
「わわっ!? 桃ちゃん部長! そんなことしちゃダメ………!」
「ブヒヒィーン!!」
「グハッ!!」
 桃城が倒れた。白い馬が、げしっと桃城を蹴り飛ばしたのだ。
「………! 桃部長!」
 血相を変えて桃城に駆け寄る天野。巴は思わず叫んだ。
「桃城部長が、……蹴られちゃったー!!」
「も、桃っ!! おい、大丈夫かっ!? ……グハッ!!」
「海堂先輩まで蹴られちゃったよー!!」
 ぐったりと倒れて動かない二人に、巴は半ばパニックに陥ったが、そこに向日がたっと飛び出した。
「よし、ここは俺に任せろ!! 飛び乗って止めてみせるぜ!」
 ひょいっ、と向日は白馬の上に飛び乗った。これがどれだけすごい離れ業だということは暴れ馬を見た人にしかわかるまい。
「向日さん、すごい!! 本当に飛び乗っちゃった!!」
「へへっ、どうだよ! この俺にかかれば、こんな馬……って……わっ、わわっ!? ……!? わわっ!! お、落ちるーっ!!」
 どっしん。
 あっさり白馬から振り落とされて、向日は痛そうに呻く。
「向日さん!! だ、大丈夫ですか!?」
「いてててて……。どうやら甘く見ちまってたようだぜ……」
 どうしよう、どうしよう。桃城と海堂は倒れて動かない。天野はその二人を懸命に馬から庇っている。向日は馬から振り落とされて呻いている。この状況で自分に出来ることは―――
「わ、私が……私が暴れ馬を静めます! みんなは後ろに下がっててください!」
『………はぁ!?』
「と、巴ちゃん、静めるって、どうやって?」
「き、気合と根性で!」
「おいっ、なに馬鹿言ってんだよせやめろこらっ!」
 巴はだっと白馬に駆け寄り、首をつかもうとした。とたん白馬はぶひひひぃーん、と鳴きながら前足を振り上げる。
 あの脚に蹴られたら自分もただではすまないだろう。だが、それでも、なんとかしなければ。みんなを怪我させるわけには、絶対にいかない!
 前足を振り上げる馬に向かい飛びつこうとした瞬間、どんっと身体に衝撃があって、叫び声がふたつ響いた。
「駄目だ、巴ちゃん……!」
「落ち着くんだ、シルバーミーティア号!」
 そしてパッチン、と聞き慣れた指を鳴らす音。
 ぶるるるっ。そんな音がして、白馬は誰も蹴らずに静かに脚を下ろした。
 目をぱちくりさせて、音のした方を振り向いて、思わず声を上げる。
「あ、跡部さん! 指パッチンで馬をなだめるなんてすごい……!」
「おいおい、いくらなんでもそりゃ変だろ……。って、ひょっとしてその馬、お前の馬なのか?」
「ああ、そうだ。合宿所からそう遠くない場所に俺の家の牧場がある」
「牧場だって? お前ん家って、いったい……」
「そんなことはどうでもいい」
 跡部はつかつかと巴の前に近づいてきて、怒鳴った。
「なにを考えてる、この馬鹿!」
「え……」
「お前はスポーツ選手だろうが。しかもまだまるで完成されていない。これからどんどん練習しなけりゃならないって時に、怪我でもしたらどうするつもりだ!」
「……跡部さん」
 なんと言えばいいかわからなくなって跡部を見上げると、跡部はふ、と息をついて肩をすくめる。
「被害を小さくしようとしたのはわかるがな。やるならもっとうまくやれ。人を呼ぶなりなんなり、いくらでもやりようがあるだろうが」
「……はい。すいません」
「天野、テメェもだ。庇うつもりだったのかもしらんがな。庇うってのは自分の面倒を見られる人間がすることだ。身を挺して相手を守るなんざ、守られる側にしてみりゃ迷惑な話だろうが。少しは考えろ」
「すいません……」
「それから。いつまで抱きついてる」
『え?』
 そう言われて初めて、巴は天野に抱きつかれていることに気がついた。
「きゃ!」
「わ、わ! ごめん、巴ちゃん! 俺巴ちゃんを怪我させるわけにはいかないって、必死になっちゃって……」
「う、ううん。気にしないで、私を守ろうとしてくれたんだもん。ありがとう」
 と頭を下げながらも京四郎以外の男に抱きつかれたのは初めてだったのでちょっとばかしドキドキしていたのだが。
 跡部は白馬――シルバーミーティア号に歩み寄り、鬣を撫でた。シルバーミーティア号は気持ちよさそうに嘶く。巴は思わず目を輝かせた。
「わぁ〜。跡部さんに甘えてる……。本当に馴れてるんですね。すごい……。いいなぁ…………」
「……なんだ、羨ましいのか? 蹴られかけた馬に対してその感想とは、お前らしいな」
 ふん、と笑った跡部に、巴は照れ照れと言った。
「えへへ。ちょっと跡部さんにお願いがあるんですけど……」
「ん? なんだ? 聞いてやるから言ってみろ」
「そのシルバーミーティア号に乗せてもらえません? ……やっぱりダメですか?」
 巴の言葉を予想していたのか、跡部はにやりと笑った。
「いや、いいぜ。そのくらい、簡単なことだ」
「わーい、やったぁ! よろしくお願いします! ……じゃあ、きーくん桃ちゃん部長と海堂先輩と向日さんのことお願いするね」
「え、ちょ、ちょっと巴ちゃん、というか跡部さん俺の立場としてはそれを黙って見送るわけには」
「保護者を気取ってる野郎どもには黙ってりゃいいだろう」
「いやですからそういうわけには」
「行くぞ、巴。ほら」
「はいっ! じゃあね、きーくん、すぐ戻ってくるから!」
「ちょ、二人とも!」
 そうしてシルバーミーティア号は走り出した。
「わぁ! すごいです、すごいです! 馬の背中ってこんなに高いんですね……!」
「そうか? あまり気にしたこともなかったが」
「それは跡部さんがよく馬に乗ってるからですよ。えへへ。いつもと違う風景だからなんかイイ気分かも」
「フフッ、そうか……。そんなに喜んでもらえたのなら乗せた甲斐があったってもんだ」
「はい! すっごく楽しいです! 白馬に乗れるだなんて、なんだかおとぎ話みたいですし」
「……ならさしずめ、俺はおとぎ話の王子ってところだな」
「はいっ!」
「……いや、軽い冗談のつもりだったんだが。そう真っ向から認められるとそれはそれでむしろ気色悪い感じがするぜ」
「でも、王子様みたいって別にお世辞じゃないですよ? 本当にそう思えますもん。だって白馬に乗ってバッチリ決まる人ってそうはいませんし!」
「……からかうんじゃねぇよ、巴」
「あはは、ごめんなさい。……ところで跡部さん、ひとつ聞いていいですか?」
「ん? なんだ? 言ってみろ」
「どうしてシルバーミーティア号は合宿所まで来ちゃったんでしょう? こんな気品あるお馬さんですしたぶん理由があると思うんですけど……」
「ああ、きっと俺に会いに来ちまったんだろう」
「そっか! シルバーミーティア号はそれだけ跡部さんのことが大好きだってことなんですね!」
「まぁ、そういうことだ」
「……うらやましいなぁ」
「ん? なにか言ったか?」
「い、いえ! ……それより跡部さんもっと早く走らせてみてください!」
「よし。落ちないようにしっかりと俺につかまってろよ!」
「はい……!」
「行くぜ!」
 練習のことをすっかり忘れていたのに気付いたのは跡部の家の牧場についてからだったが、跡部の上機嫌に影響されたか、まぁいいか、と思えた。
 この時は。

 昼の練習、そのあとさらにゾーン練習をさせられてへろへろになっているところに、榊コーチが言った。
「三時休みの前に一点連絡がある」
 全員ざわめきながら榊コーチに注目した。
「既に自分の課題がなんであるか、各自理解できたはずだ。そこで、早朝の合同練習は今日をもって最後とする。明日からの、その時間は各自の判断で自主トレを行え。以上だ。……行ってよし!」
『はいっ!』
 自主トレか。もちろんその時間は練習をするつもりではあるけれど、なにをすれば一番効果的に実力を伸ばせるのだろう?
 乾先輩に相談してみようか、と考えていると、ふいに声をかけられた。跡部だ。
「おい、ちょっといいか?」
「あ、はい! なんですか、跡部さん」
「今の自主トレの話だが、どうだ? お前にやる気があるのなら、俺の練習につきあわせてやってもいいぜ?」
「ええっ!? 私が跡部さんの練習に!?」
「お前には、見所があるからな。青学の連中の生ぬるい練習とは一味違う練習を味わわせてやる」
「ええーっと……」
「巴さーん!」
 そこにさらに声がかけられる。これは、葵?
「巴さん、明日よかったら一緒に自主トレしない? ボクキミとだったら力が200%出せる気がするんだ!」
「えっと……」
「……おい、そこの。見えねぇのか、今巴には俺様が」
「赤月さん、明日の朝一緒に自主トレしない? 二人でやれば効果も倍増だろ?」
「千石さん……」
「おや、跡部くん。邪魔しちゃったかな?」
「千石、テメェ……」
「赤月。どうだ、明日俺と一緒に練習をしないか?」
「手塚先輩」
「巴くん、もしよかったら明日、早朝の自主トレはボクとやりませんか?」
「観月さん」
「赤月、明日の自主トレの件だが……」
「真田さんまで!?」
 どういうわけかさっぱりわからないのだが、この調子でどんどん一緒の自主トレを申し込む人は増え続け、結局巴に申し込んだ者全員で一緒にトレーニングをすることになった。結果青学、氷帝、山吹、聖ルドルフ、六角、不動峰、立海大付属の大半の選手が一緒にトレーニングをすることになり、なんでみんなそんなに私とトレーニングしたがったんだろう、そんなに教えたがりの人多いのかな、と巴は首を傾げる。
 隼人とリョーマは、いなかったけれど。

 三時休憩。スポーツドリンクを飲みつくし、巴は水飲み場へと向かっていた。
 裏庭を突っ切って近道をしようとすたすたと歩く。と、ぶにっ、と足の裏に柔らかい感触があった。思わずびくんとしてなにを踏んだのかと怯えながら下を見て、思わず目を見開く。
「……もしかして、人? どうしてこんなところに人が倒れてるのっ!?」
 思わず叫ぶと、その人はぽやぽやした声で呻いた。
「んん……。なんだぁ? 気持ちよく眠ってるってのに、踏んづけないでくれよなぁ〜」
「よ、よかったぁ。寝てただけか〜」
 むにゃむにゃと寝ぼけた声を出すその人を見つめてみる。どこかで見た顔だ。
「……あ! 氷帝の芥川慈郎さん!」
 関東大会でしか戦っていないし、一緒に練習をしたこともないし、話したこともないので印象が薄いが、写真を見せてもらったこともあり覚えている。氷帝レギュラーで、ボレーのうまい人だ。
「ふわわわ……。ん〜? もしかして、時間?」
 寝ぼけ眼で見つめられ、巴は慌てて頭を下げた。
「あの……踏んじゃって、ごめんなさい! 私、急いでたもんで……」
「なぁんだ、呼びに来たんじゃないんだ。……んじゃ、おやすみ〜」
「ちょ、ちょっと、こんなところで寝ないでください。帰りに踏んじゃうじゃないですか!」
「……ぐぅぐぅ」
「もしもしっ!? ちょっと!! ……もう眠っちゃってる」
 なんて寝つきがいい人だろう。この人のことをいったいどうするべきか。
 じっとその幸せそうに眠っている顔を見ながら考えていると、だんだん眠気が兆してきた。ここでの昼寝はそんなに気持ちいいのだろうか?
 いやいやなにを考えているのだ。練習までそんなに時間があるわけでもない。それになにより自分はいっぱい練習しなくてはならないのではないか。
 でも、芥川は本当に気持ちよさそうに眠っている。なんだかちょっと羨ましい。それに少し体を休めた方がもっと練習に集中できるかもしれないし。
 などと言い訳しつつ、少しくらいならいいかな、という気持ちになってしまった。そろそろと芥川の隣に寝転ぶ。
「芥川慈郎さん、お隣失礼しまーす」
 寝転んで思わず吐息を漏らした。草のベッドと太陽の光がひどく気持ちいい。これなら芥川があんなに気持ちよさそうだったのもうなずける。
 ほわーんと体を弛緩させていると、急に陽が翳った。
 まだほわーんとしながら上を見上げ、影を落としているのが樺地の身体だと知って、慌てて飛び起きる。
「ウス」
「か、樺地さんっ!? どうしてこんなところにっ!? あれ? もしかして芥川さんを起こしに来たんですか?」
「ウス」
 樺地はうなずいてひょいと芥川を抱え上げ、ゆさゆさと揺らす。芥川は小さく呻いて目を開けた。
「んん……。なんだよ。もう少し寝かせてくれよ。……んあ? お前、樺地か? もうそんな時間なのか?」
「ウス」
「悪いな、呼びに来てもらって。ふわぁぁ……。今日はこのぐらいにしとくかぁ。んじゃ、行くか。あふぅ……。あー眠ぃ……」
 のったりとした動きで歩き始める芥川。状況の推移がつかみきれずなんとなくそれを見送る巴。
 ふいに、芥川が振り向いた。
「なー、キミ、名前なんてゆーの?」
「え? ……赤月巴、ですけど」
「巴かぁ」
 まだ寝ぼけているんじゃないかというくらいぽやぽやした動きと目つきでうなずき、小首を傾げて言う。
「巴、また一緒に昼寝しよーな」
「…………」
 ぽわぽわとした口調で言って、そのままぽわぽわと歩いていく。それをちょっと呆然としたまま見送って、巴はおかしくなって笑った。
 できるなら、次は、一緒に練習しようと言わせてやろう。

 二日目練習試合。巴の相手になったのは吉川だった。都大会でも戦った相手だ。
 そして吉川はパートナーに南を選んでいた。全国レベルの地味'sを崩しての組合わせ。たぶん吉川と南は何度も組んだことがあるのだろう。南も得るものがあると思ったから吉川と組んだはずだ。
 誰かパートナーを選ばなければ、と巴はまだくじを引いていない人の列を見る。誰か組んでくれそうな人。できれば組んだことのない人の方が練習になるかもしれない。
 そんなことを考えていたが、ふいに列の中に橘を見つけ、考えるより先に呼んでしまっていた。
「橘さん!」
 橘は目を見開いて、巴の方を見る。慌てたように近づいてきた。
「どうした、巴?」
「私と組みませんか? 私、今パートナー探してるんです!」
 橘はわずかに目を瞬かせて、それから笑った。
「ああ、いいプレイをしよう」
「組んでくれるんですか。ありがとうございます橘さん!」
「他校の生徒であるお前のプレイを目にする機会はそう多くはないからな。どれだけ成長したか、確かめさせてもらうぞ」
 そう真正面から言われるとちょっとプレッシャーだ。だが、そのくらいのプレッシャーはねのけられないようじゃテニスプレイヤーなんてやってられない。
「頑張りましょう、橘さん!」
「ああ。相手はどこの誰だ?」
「山吹の吉川さんと南さんです」
「吉川……ああ、データテニスが得意な奴だったな。データテニスが相手か」
「データなんて、真正面から粉砕するのみです!」
 少しばかりの気負いもこめてそう叫ぶと、橘は笑ってぽんぽんと頭を叩いてくれた。
「ははは、頼もしいな。ならば、俺も最初から全開で行かせてもらうぞ」
「えへへ」
 巴も思わず笑う。橘さんは本当にいつ誰に対してもお兄さんになれる人だ。
 全力でぶつかるぞ! と気合をこめてコートに向かう。そこにはすでに吉川と南が待っていた。
「なるほど、トッププレイヤーをパートナーに選びましたか。ですが、優秀なシングルスプレイヤーが優秀なダブルスプレイヤーだとは限りませんよ」
「それ、どういう意味ですか? 橘さんを侮辱してるんなら許しませんよ!?」
 思わず叫ぶと、南がじっとこちらを見つめて言ってきた。
「どういう意味かは俺たちのプレイを見ればわかる。俺たちの実力、見せてやるぜ」
「よろしくお願いします!」
 少し腹は立ったものの、それとこれとは別問題だ。巴はぺこりと二人に向けて頭を下げた。

 試合が始まった。まずは巴のサーブから。
 気合をこめて吉川のところへサーブを打ち込む。吉川はわずかに下がりながら逆クロスへ返した。パワーのなさをテクニックでうまく補っている。
 だが、自分も伊達に青学のレギュラージャージを着ているわけではない。
「えいっ!」
 しっかり追いついて同じように逆クロスへ返してやる。吉川は追いきれなかった。
「15-0」
 まずは1ポイント。
「ナイスサーブ、巴!」
 橘に笑顔でうなずいて気合を入れ、また全力でサーブ。南はさすがに三年男子、しっかりと返してきた。しかし巴もその身体能力は三年男子以上といわれた女子だ、そのサーブを受けて逆クロスへ返す。
 だがそこにはすでに吉川がつめていた。さすがにデータテニスを駆使するプレイヤー、まるで打ち込まれる角度までわかっていたような余裕をもったボレーで返してくる。
 なんの、とそれを拾って逆サイドにロブを上げる。南の実力についてはよく知らないが、相当に際どいところに入った手応えがあった。
 だが、南はすでにその落ちる先へ移動していた。ビシッ! と余裕をもって打てる時ならではの力と勢いのあるボールを打ってくる。
 逆サイドを突いたその球を、巴は追いきれなかった。
「15-15」
 審判の声が響く。
 なんであんなに早く移動が、と驚く巴に、橘が声をかけてきた。
「巴。データテニスを駆使できるのが吉川だけだと思うな」
「え!? 南さんもデータテニスを!?」
「そうじゃない。だが、吉川は南を動かすのに慣れている。吉川のデータが導く場所へ南を導くくらいなら楽にできるはずだ」
 巴は思わず目を見開いた。そうか、息の合ったデータテニスを使うダブルスプレイヤーには、そんなやり方があったのか。
 相手のデータを用いてゲームメイクをしていけば、パートナーの力も層倍して発揮される。乾先輩はシングルスプレイヤーなのでそういう使い方を考えもしていなかった。
「……自信がなくなったか?」
 考え込むとそう静かに問われ、巴は勢いよく首を振ってニッと笑った。
「まさか! むしろよりファイトが湧いてきました! 真正面から粉砕するってあの言葉、駄法螺のつもりありませんから!」
「その意気だ。フォローは任せろ。お前は存分に暴れまわれ」
「はいっ!」
 巴は大きくうなずき、サービスラインに立った。じっと相手コートを見つめる。
 吉川と南は呼吸すら合わせて、こちらを見つめている。確かにいいコンビネーションだ。きっと数えきれないほどダブルスの練習をしてきたのだろう。
 だが、自分たちだって伊達に何度も一緒に練習してきたわけではないのだ。
 巴はすぅ、と息を吸い込んでビシリ、とサーブを打った。吉川は当然のようにそれを返してくる。
 それをさらに逆サイドへ。それを読んでいた吉川がこちらの逆サイドへ。
 巴は全力でそれを返した。その球のリターンをしたのは南だ。吉川の指示を受けていたのだろう、余裕をもってボレーを返す。
 だが、巴だけでは取れなかっただろうその球の先には、すでに橘がいた。「おおぉっ!」と叫びながら放つ強烈なスマッシュに、南は受けようとしたラケットを弾かれる。
「30-15」
 小さく目配せをして笑いあう。まだ巴のサーブだ。
 全力でサーブを打つ。南が返す。コート前面のライン際を突く。吉川に返される。
 読まれている、それはわかっている。だけど、だからなんだというのだろう。自分にはまだできることが、いっぱいある!
 ビシッ! と音を立てて放ったショットは、すでにその先に向かっていた南のラケットをすり抜けてコートを奔った。
「40-15」
 驚きの顔を見せる吉川たちに、巴はガッツポーズを見せつけてやった。データテニスの対抗策は単純だ、ただ自分たちがデータ以上の、わかっていても相手が対応できないほどの動きをすればいいだけ。
 そして橘は当然それができるし、自分だって進歩しているのだ、以前取ったデータえ追いつかれるほどおヤワじゃない!
 そう力をこめて、巴はサービスラインに立った。

 巴と橘は6-4で勝利した。
「心にあった一瞬の隙を衝かれたか……いい経験になったぜ」
「今日のところは私たちの負けです。しかし、この試合で取れたデータが私たちをより強くするでしょう。次に対戦する時、壁は毎日高くなっていることを教えてあげます」
 そう言って去っていく南と吉川。巴はふふん、と鼻を鳴らした。
「それなら私たちはそれよりもっと強くなってますよ〜、だ!」
「ああ、お前の言う通りだ。相手がどんな策を弄してこようとも正面からそれを打ち破る。それが俺たちのテニスだ」
 静かな、だが自信に満ちた笑みで言う橘に、巴は力をこめてうなずいた。
「はい、橘さん!」
 橘や、これから組むパートナーの足を引っ張らないためにも、自分はもっと頑張らなくてはいけない。
 そうして、リョーマと隼人を見返してやるのだ。そう気合を入れて巴は勝利報告をするべく歩き出した。

 鏡を見ながら身だしなみを整えて、それが一段落ついたので散歩でもしようかと部屋の外に出かかった時、鳥取に声をかけられた。
「あら、赤月さん。これからお風呂?」
「ううん。ちょっと、気分転換に散歩でもしようかなぁ、なんて。鳥取さんは今、入ってきたんですか?」
「うん、いいお湯だったよ。今なら空いてるし、行ってきたらどう?」
「そうですね、お風呂も気分転換になるし。じゃ、入ってこようっと」
 バッグの中からお風呂セットを取り出す巴の横で、小鷹がつられたように自分のバッグの前に座り込む。
「私も入ろうかな。一緒に行ってもいい?」
「もちろん! じゃあ、早く行こうよ」
 一緒に連れ立って風呂場に行き、中に入る。中は鳥取が言った通り、空いていた。
「かなり空いてるなぁ。これなら、のびのび入れそうだな……」
「あら。あなたも来たのね」
 湯船の中でわずかに表情を動かしたのは、原だった。
「あ、原さん。お邪魔しまーす」
「別に、私に断ることはないわ。ここはみんなで使う場所でしょう」
「そ、そうですね。それじゃ、遠慮なく。……うーん。広いお風呂っていいよね〜」
「ちょっと、あなた、うるさいわよ。少しは静かにできないの?」
 そう戸口の方から冷たい声がかかる。巴はそちらの方を向き、驚いた。
「わっ、早川さん! いたんだ……」
「いちゃ悪い? あら、小鷹さんもいたのね」
「う、うん。お邪魔します」
 タイミング悪かったかなぁ、と巴は眉間に皺を寄せる。こんなところで鉢合わせることになろうとは。だが早川が入ってきたからといって出て行くわけにはいかないし、なんとか間を持たせなければならない。
「あの、早川さん。シャンプー取ってもらえる?」
 会話をしようとしているのだろう、小鷹が早川に話しかける。頑張れ、と内心応援した。
「……はい、どうぞ」
「あ、あの、これ、リンスなんだけど……」
「あら、ごめんなさい。こっちだったわ」
「…………」
 さりげなく嫌がらせか。早川さんって大人気ないなぁ、と巴は眉間の皺を深くした。早川はずっとこの調子なのだから、小鷹がそろそろ怒り出してもおかしくない。
 だが、早川の性格からいって、怒ればさらに倍する怒りを返してくるのは間違いない。ここは自分がなんとかするべきところだろう。
 よし、ここはひとつ、冗談でも言ってみよう! そう巴は決意し、明るく言った。
「お風呂から上がったらキュッといきたいね! もちろん、冷たいの!」
「……冷たいのをキュッと? いったい、なんのことよ?」
「そりゃもちろん、ビン牛乳! あ、さすがにここにはビンに入ってるのはないか」
 てへっ、と笑ってみせる。自分でもアホっぽいなー、と思うくらいの仕草なのでさすがに毒気を抜かれたのだろう、小鷹が楽しげに言った。
「悪くないんじゃない? あとで飲んでいこうよ。……早川さんは、どう?」
「……フン。私も別にいいわよ」
 ぶっきらぼうではあるが、早川なりに譲歩したのだろう。その横顔は少なくとも怒ってはいない。
 やれやれ、とかなりほっとして、巴は湯船に浸かった。まだ浸かっていた原が、わずかに眉を動かす。
 なんだかいつも怒っているような顔をしている人だ。巴としてはせっかく同室になったのだし、原とも仲良くしたい。なんとか話題を作ろうと話しかけた。
「ねぇ、原さん。鳥取さんとは会いませんでした? さっき、お風呂から出たばっかりって言ってたんですけど」
「ええ、いたわよ。入れ違いになったけど」
「そうなんですか。あなたも入ったらって勧められてきたんですよ」
「……そう」
「…………」
(……か、会話がふくらまない〜!)
 邪魔だと思われているのだろうか。だが怒っている雰囲気は感じないし。
 次にどう話しかけるか考えながらじっと見ていると、ふと気付いた。
「……あれ? 原さんって左肩にホクロがあるんですね」
「そ、そんなジロジロと私を見るな!」
「は、はいっ!?」
 驚いて目をぱちぱちさせると(並んで湯船に入っていた小鷹と早川も目を見開いた)、原ははっとしてすぐ自分を恥じるように目を伏せた。
「あ……。ご、ごめんなさい、怒鳴ったりして」
「そ、そんなにホクロが気になるんですか?」
 原はうつむいて首を振る。
「ホクロは関係ないわ。その……身体を見られるのが嫌なの」
「身体を見られるのが、ですか? どうしてでしょう?」
「……私は、女の子らしくないでしょう? 背も高すぎるし……」
 ぽそぽそと言う原。確かに原は並外れて背が高い。普通の男子よりはるかに。自分も平均より背が高いので、自分より背の低い男子にからかわれて嫌な思いをしたことがあるから気持ちはわからないでもない(もちろん倍返ししたが)。
 だが、だからといって女の子らしくないというのは違うと思う。
「原さんって手がきれいですよね」
「え? なに、突然に」
 目をぱちぱちさせる原に、巴はにこにこと言う。
「ほら、私の手に比べると、すらっとしててとっても女性らしいです」
「そうかしら? でも、傷も多いし……」
 自信なさそうにそう言う原。だが巴は笑顔を崩さず言った。
「傷なんて気になりませんよ。羨ましいです〜。自信持ってくださいよ」
「ふふ、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
 初めて笑顔を見せてくれた原に、巴はさらに笑顔を返した。
「お世辞じゃないですってば!」
 結局、巴たちは揃って上がり、帰りに自販機でジュースを買って飲んだ。やっぱりこういう女の子同士の交流は楽しい。早川が今回少し素直になってくれたことも、原の可愛い一面を見れたことも、巴にとっては嬉しく楽しかった。

「じゃ、そろそろ寝ましょうか。今日もめーたんにいい夢お願いしないとね」
「わあっ、鳥取さんめーたんのこと信じてくれたんですね!」
 嬉しくなって笑うと、鳥取も笑った。
「もちろん! 昨日、本当にいい夢見れたの。めーたん、すごいね」
「なのに、リョーマくんなんてバッカじゃないの、の一言で終わらせたんですよー!」
「え? どうして越前くんがめーたんのこと知ってるの?」
 驚く杏に、巴は目をぱちくりさせ、それから笑った。
「あ、そっか。みなさんは知らないんですね。私、リョーマくんの家で一緒に暮らしてるんです」
「ええ〜!? それって……!?」
 大きく動揺する場に、巴はばーんと手を突きつけた。
「ちょっと待ったー! 杏さん、カン違いです。親同士が知り合いだから下宿してるんです! 変な関係じゃありませんから。ね、那美ちゃん?」
「うん。最近じゃもう、昔から一緒にいるきょうだいみたいだよね。隼人くんも揃って三つ子みたい」
「あ、そういえば、隼人くんと巴さんってどっちが上なの?」
「え? どっちって……」
 巴は杏の言葉に、わずかに口ごもった。どちらが上とか、そういうことは考えたことがないのだが。
「双子でもどっちが上かっていうのはあるでしょ? ……双子なんだよね?」
「あ、いえ、私とはやくんは従兄妹同士なんですけど」
『え〜!?』
 なぜか驚きの声が響く。なんで驚くことがあるのかなぁ、と思いつつ巴は話した。
「えっと、話せば長いことながら。私たちが一歳ぐらいの時のことだそうなんですけど、私の両親とはやくんのお母さんがお父さんと私たちのところへ向かってる時、電車事故に遭ったんだそうです。もう何十人も死んだ大事故で、三人ともそれに巻き込まれて逝っちゃいまして。それからずーっと私たちお父さんに育てられてきたんです。そんな風にずーっと一緒だったから、どっちが上とか下とか考えたことなくて」
『…………』
 静まり返った周囲に、巴は慌てて声を上げた。
「あ、暗くならないでください。私たちその分すっごくお父さんに可愛がられて育ったんで。お父さん、連れ合いも弟夫婦も一度に亡くしちゃって、赤ん坊の私たち抱えて、ものすごく苦労したと思うんですけど、そういうの全然見せないで私たちをちゃんと育ててくれて。結婚した時は全然家事できなかったって言ってましたけど、私たちが物心ついた時にはもう炊事洗濯掃除完璧でしたし。私たちもその分結びつき強まったと思いますし、否応なしに家事手伝わなきゃならなくて料理身につけたりしましたし。結果オーライとはさすがに言えませんけど、でもこうなったらこうなったなりにかなり幸せだと思ってますから」
『…………』
「……そうだね。ちゃんと幸せな人を可哀想がるのは失礼だよね」
「うん……でも、巴さん、偉いわよ。家族をちゃんと守ってる」
「えへへ、そうですか?」
 嬉しげににっこりすると、つられたように全員笑った。

 その夜もやっぱり夢を見た。
 橘や杏たちと一緒に、海賊になって宝を探す夢だった。
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