ひそやかに心身は猛る
「陽介、今日はバイト、何時からだっけ?」
 昼飯時にそう訊ねると、陽介は少し申し訳なさそうに手を合わせてきた。
「ん、今日は四時からのシフトだから、学校終わったら速攻ジュネスなんだよな。わり、今日は帰り一緒できねーわ」
「そっか……大変だな。バイト、頑張れよ。必要だったらいつでも手、貸すから」
 内心すごく残念だったけどそう笑ってみせると、陽介は「サンキュ」と笑い返してくれる。……陽介と一緒にイチャイチャ(いや、あくまで男子高校生同士が二人喋りながら帰ってるだけなんだけど、気持ち的に)下校ができないっていうのはすごく残念ではあるんだけど、陽介の勤労意欲を阻害したくはないし、頑張って働く陽介カッコいい! っていう気持ちもあるので、こういう見守りポジションも決して俺は嫌いじゃない。
「あ、今日は俺も帰り用事あるんスよね。ちっと……まぁ買い物みてーなんがあるっつーか」
 微妙にこちらから目を逸らしながら完二が言う。たぶんまた編み物とか縫い物とかの用事だろう。基本的には開き直れているというか、今の自分を受け容れられてはいるものの、見た目はいかにもごつい不良の自分が編み物とか縫い物が大好き&大得意という事実には、反射的に気恥ずかしい思いが先に立っちゃう傾向があるみたいだ。
 ちなみに現在は珍しくも俺と陽介と完二という組み合わせで昼食を取っている。場所は調理室。なぜなら今日は俺が弁当というかデザートに、ケーキを持ってきたから。昨日菜々ちゃんと一緒にショートケーキを作って食べた残りなんで、全部で三切れしかなかったんで、女子は呼べなかったんだよな(ちなみにそのケーキは先日の完二の誕生日に作ったケーキが俺的に(いや、みんな普通に食べてくれたけど)イマイチだったのでそのリベンジという意味も含めている。俺は基本お菓子系はあんまり得意じゃないんだけど、今後のためにも少しは上達しておこうと)。
「そっか……じゃあ、今日は久しぶりに一人だな」
「部活とか、あったりしねーの?」
「今日は月曜日だからな……演劇部はあるんだけど、そっちには正直顔を出しづらいし」
 部長たちと何度かやりあったのもあるけど、それ以上に部の牽引役(ともいえる存在)だった小沢さんをばっさり振ってしまったというのがでかい。小沢さん関係のあれこれにはひと段落ついてたし、その上伝達力はもうMAXになっちゃってたんで、出る意味ないなーとあんまり出ないでいたらもうすっかり幽霊部員が定着してしまったし。
「なーんだよー、だったらいい機会じゃんかよ、女子に声かけて下校デートでも楽しんでこいって」
「そんなことできるわけないだろ……全員友達止まりなの、わかってるくせに」
 にやにやと笑む陽介を恨みがましく見つめる。こんな風に女子との関係で何度かカマをかけられたことはあるんだけど、そのたびに俺はばっさり否定してきた(クリスマスも男だけで過ごした)のでもう陽介も女子とそういう関係になったりしたりはしてないとわかってるはずのくせに。
 ……まぁ女子たちとそういう&オ囲気になったことは一度や二度じゃないんだけど。ただ単に、そういう機会になるたびにできるだけさりげなくフラグをへし折ってきただけで。
 なぜなら俺はゲイだから。女の子ではなく男に欲情する奴だから。……いや正直なんていうか、それでもぐらっときた時はあるっていうか、このまま女の子と付き合ってまっとうな道に戻った方が……って気持ちや単純にこの子可愛いな、ってドキってした気持ちはあったりもする。
 ここらへん我ながら複雑なんだけど、ゲイっていう性癖とは別に男≠ニいう存在の性として女性を希求する気持ちもあったりするみたいなんだ。現代社会で一般的な学生生活を送ってきた中で俺の中に形成された男としての常識、みたいなものが。
 でもそれはそれとして俺が理性的にも性欲的にも女ではなく男に惹かれるのは確かだし、ゲイ的に俺の中に(俺の中の女性性が強いっていうことなのか、そこらへんあんまり掘り下げて考えたことないけど)女の子の媚態とか、女の子らしさにゲェッと吐き気、というか拒絶反応を及ぼす部分があるのも確かだ。
 なので俺は一見朴念仁っぽく振る舞いながらも、君の気持ちはわかっているけれど応えられないんだよ、というメッセージをごくさりげない風を装って、この言霊使い級の伝達力を駆使して女子たちに伝え続けてきたのだった。
 ちなみに陽介とかには「なんで彼女作んねーの?」とか聞かれたことはあるんだけど、そういう時は「遠距離恋愛になっちゃうから」という言葉でごまかしている。実際遠恋になっちゃうのは確かなんだし、嘘はついてないはずだ。……まぁ陽介とか遼太郎さんとかとそういう仲になれたら、ひゃっほうとばかりに喜び勇んで遠距離恋愛に身を投じるだろうから、卑怯な言い草だと自覚はしてるけどさ。
「まぁ、一人の下校っていうのも久々だから……一人でしかできないことを楽しむことにするよ」
「お、ナニナニ、なんか怪しげな台詞じゃん」
「なんか当てでもあるんスか?」
「ん、まぁね。それなりに」

 帰りのHRが終わったあと、俺はせわしなく教室を出ていく陽介や、教室に残ってのんびりお喋りをする千枝ちゃんたちに別れを告げ、教室を出た。出しなにクラスメイトの中で少しは話す奴ら――やる気はないけど友達は大切にする奴や、獣医志望の女の子に恋してる奴、一年の恋バナ好きの(その実恋愛関係でコンプレックス抱いてるっぽい)女の子と付き合ってる奴と軽く挨拶をしていく。
 ゆったりとした歩調で廊下を歩く。と、部活日じゃない日はたいていそうしているように、一条と長瀬が階段脇のホールそばで喋っているのが見えた。今日は珍しいことに、他の男子を交えておらず、二人っきりだ。
「一条、長瀬」
 そばによって声をかけると、なにやら話し込んでいた二人は、こちらを向いて笑顔になった。
「よう、八十八」
「珍しいな、今日は一人か?」
「まぁね、陽介がバイト早めのシフトだったから。二人の方こそ珍しいじゃないか、部活の日じゃないのに二人っきりって」
 俺がそう言うと、一条は苦笑してみせた。
「ん、まぁ……ちょっとばかしこいつに話あってさ」
「おい、一条……」
「そっか。それって俺が聞いてもいい話か?」
「いやぁ、ま、そんな大した話でもねーんだけどさ。こいつが頑固でさぁ」
「……だから、俺はそういうのいいっつってんだろ」
「ま、部活の時にでも話すわ。今日はこいつの方を説得してやらねーとだし」
「だからなっ」
「長瀬……俺は、その話、聞いてもいいのか?」
 じっ、と長瀬の瞳を見つめながら訊ねてみると、長瀬は困ったように頭を掻いてから、「まぁ、聞くのは別に、いいけどな」とうなずく。
「そっか。ありがとな」
「別に、礼言われるこっちゃねーし」
「ホントだよ。お前いつもながら律儀すぎだって」
「俺は親しい仲にこそ礼儀を徹底させる主義なんだ」
 真面目な顔をして言うと、一条と長瀬は揃って吹き出した。
「お前らしいっつーか、なんつーか」
「まぁ、だからこそ八十八って気もするけどな」
「お褒めにあずかり身に余る光栄。……じゃあな」
 笑って軽く手を振って、俺は一条と長瀬から離れていく。……内心ではこっそり、二人の仲のよさにニヤニヤしてはいたけれども。
 俺はゲイであると同時に腐男子なので(オタクでかつ二次コンなせいだろうと自分を省みて推測している)、仲のいい男子たちを見るとどうにもこう、ニヤニヤしちゃうんだよな。特に一条と長瀬は八十稲羽の中でも随一ってくらい絆が強いっていうか、マジに親友〜という感じがする。幼馴染で、腐れ縁〜とか言い合いつつもいつも一緒で、お互いのことがなんのかんのでひっじょ〜〜に大切だとはたから見てもよくわかるっていうか。
 その上二人ともタイプの違うイケメンなので(いや友達相手にそんなこと考えるの失礼だとわかってはいるんだけど!)、二人が仲良くしてるところを見るのは楽しいというか、ニヤニヤしちゃうんだよな。友情だ〜って。
 ……実はこっそり二人が越すに越されぬ分水嶺を越えちゃう展開も好き……というか、何パターンも想像したりは、してるけど。いやていうか二人ともマジ絆強いし、それが転がってうっかり体の関係まで(最初はしごきっこくらいでも!)いっちゃうのはアリだと思うんだよな! それでそれをきっかけにお互いを性的に意識しちゃうのもアリだと思うんだよな! 個人的にはこの二人はリバがいいな、お互いどっちが挿れるかで言い争っちゃうくらいの。ビジュアル的にも長一も一長も俺は好きだし。最終的にはどっちも体験してほしいっていうか、どっちのシチュでも萌えるし抜けるっていうか……
 ………っぅあああ友達相手になに考えてるんだ俺ぇぇぇ! 禁止! リアルに友達だってのに腐れ妄想するの禁止! ああもうこういう風にリアルで友達とかできたことないから妄想の歯止めの仕方がわからない………!
 ……でも、実は、こういうのが俺の一人下校の時の楽しみだったり、する。いや、別にリアル友達みんなに腐れ妄想してるわけじゃないけど! いい男が恋や友情や青春の壁にぶつかって悩んだり戸惑ったりときめいたりしてるところとかを、観察したり話を聞いたり愚痴の聞き役になったりする……言ってしまえば、イケメンウォッチング、的な。
 八十稲羽って、少なくとも俺が目が行く(クエスト受けたり情報ゲットしたりできる)相手は、けっこういい男が多かったりするんだよな〜。単純に顔がカッコいいって奴もいるけど、そうじゃなくても……こう、ぐっとくる雰囲気があったりとか、いい体してたりとか男(の子)としての魅力がある奴、けっこう多いんだ。
 そんでそういう相手って、他の奴と関わってることけっこう多いんだよな〜。基本ノマカプなんだけど、俺はノマカプもいける口なんでそれはそれで。この一年で付き合いだしたり付き合いそうで付き合わなかったりする関係とか、そういうのを眺めてニヤニヤするのは非常に楽しい。
 そんなわけで俺は長瀬と一条が仲良く話しているのをこっそりうかがって内心(外には絶対出せない)ニヤニヤしまくりつつ、二階の廊下をやや早足で歩いた。別に用事があるわけじゃないけど、のんびりしすぎてチェックしてた男子と会えなくなっちゃうのもアレだし。
 そう、実は学校内にもチェックしてる男子はけっこういるんだよな〜。教室から出る時にちょろっと挨拶した奴らはそういうカプ的に見てて楽しい奴らだったりする。
 で、俺はそのまま三階に上がって、目に留まる相手と軽く言葉を交わしてから、二階に下りて渡り廊下を通り実習棟へと向かった。個人的に、八十稲羽高校一番の萌えモブ生徒は実習棟にいるんだよね〜。
 二階の生徒と軽く話してから(ちなみに社会教室前のカップルは霧が晴れてからとんと見かけない。悪い結果に終わらなければいいと思ってはいるんだけど……でも正直あのカップルの気持ちのズレってけっこういたたまれなくてちょっと距離置いた方がよくね? とか思っちゃったんだよなぁ)、社会教室前の階段から一階へ。往来で人の悪口を喋っている女どもをスルーし、生物室前にたたずんでいる男子に声をかけた。
「やあ」
「やあ」
 その男子はにこりと笑って、俺に声を返してくれる。その顔立ちに派手さはないけど、実は地味に整っているし、なにより表情がすごく穏やかなのに爽やかで、俺の心はちょっぴりキュンとした。
 ちなみにお互い、名前は知らない。襟章とかから同学年だろうってのはわかるけど、他は同じクラスじゃないってことくらいしかわからない。転校してきた頃から自由行動のたびごとに話しかけてきたし、時にはクエストもこなしてきたから(彼はほぼいつも100%ここにいたし。まぁそういう相手は彼に限ったことじゃないんだけど)、もう一年近いつきあいになるってのにアレかな〜とも思うんだけど、なんていうかこうお互い名前も知らないままふとした時に出会って言葉を交わす、というシチュには少女漫画的なときめきを感じるし、なによりこう……一歩踏み込んだおつきあいを始めちゃうのがもったいないような気もするんだよな。心の交流の、ある程度距離があってこそ味わえるよさってのもあるっていうか……失礼な話かとも思うんだけど。
「鉱石ラジオの具合、どうだい?」
「悪くないよ。ちゃんと作れば手作りのラジオでもちゃんと音を拾えるのはわかってたことだし」
「君はいろんなことがよくわかっている人だな」
「……そうかい? 君に言われると照れくさい気分になるな」
 落ち着いた声で、淡々と、鉱石ラジオや終了するアナログ放送のテレビや、そんなどこか物寂しい、けれど趣深いことを話す人。彼と話す時は、いつも文学的というか、彼岸の彼方を、この世ならぬものを垣間見ているような、そんな気分になれた。別に彼が幽霊っぽいとかそういうんじゃなくて、なんていうか……普段の日常生活には存在しないような、気づかないような美しいものを見せられている気分になるんだ。
 古い校舎がノスタルジックな趣を感じさせる舞台に、どこか湿っぽい匂いのする空気がしっとりと落ち着いた、雨の上がった後の緑から感じるような心地よいものに変わってしまう。こういう空気を醸し出せるような人は、俺の人生では彼以外会ったことがない。少なくとも、同年代では。
 だから、というわけではないんだけど。
「……やっぱりあのラジオを聞いていると、あの女の子のことを思い出すよ」
「あの、思い出の女の子かい?」
「うん。ただ思い出を懐かしんでいるだけのような気もするけれどね、不思議にあの女の子が近くにいるような気持ちになって……」
「……うん」
 ああああ〜やっぱ言った方がいいのか? いやいやでも俺が間に入っていい話かこれ? 彼ら自身が気づくのを待つべきじゃないのか? いやでも彼女の方は近藤先生の方に惹かれる気持ちもあるわけだし、知らせた方がいいんじゃないのか?
 そうちらちらと廊下の向こうでうつむいている女子生徒を見つめつつ、俺は内心考え込んでしまう。そう、彼の一緒に鉱石ラジオを聞いたっていう思い出の女の子って、まず間違いなく廊下の向こうでうつむいてる女子生徒だと思うんだよな。こんなに近くにいるのになんで気づかないんだ、とも思うけど……お互いの思い出が際限なく美化されてるせいなのか、単純に昔すぎて顔とかまでちゃんと覚えてなかったりとか、顔が成長してわかんなかったりとか、いろいろと理由はあるんだろう。
 で、それを俺は知っているんだけど、教えちゃうかどうか、というところでどうも二の足を踏んでいる。こんな運命っぽい話に俺が割り込んであっさり知らせちゃっていいのか、的な理由が一番大きいんだけど、こっそりやましい気持ちもないことはない。
「すまないな。君には、ついいろんなことを話してしまうよ。他の人間には、話したくないようなことも」
 外していた視線をこちらに向け、にこり、と笑んでみせる彼に、俺もにこり、と伝達力(というか演技力というか)を全開にしてできる限り爽やかに笑んだ。
「それは、俺としては嬉しいな。君の話し相手が務まるのなら光栄だ」
 ………〜〜〜〜っ、あーもーきゅんきゅんくる! ちくしょうなんて爽やかなんだこいつ! 現代の男子高校生とは思えん、マジで文学作品から出てきてるんじゃないだろうか。
 別に彼とどうこうなりたいっていうんじゃないけどさ。いやどうこうなれるんなら喜んでなりたいけど! こう、もうちょっとだけ、ここにいる時だけは俺だけの彼でいてほしい、的な……俺の心の中のちっちゃなオアシス(のひとつ)的な……いや、もちろん最終的には幸せになってもらいたいんで、もしこのまま彼女との間にまったく進展がみられなかったら双方にちょっとずつ情報を伝達していくつもりではあるんだけど!
 あぁ俺ってば本当にアレだな、と思いつつ、俺は手を上げて彼と爽やかに別れ、おそらくその思い出の女の子である女子生徒ともちょっと話して、教室棟へと戻っていった。その途中でグラウンドで活動する陸上部を眺め、その中で元気に走っているクラスメイトの茶髪男子を見つけて軽く手を振ったりもしつつ。
 ちょこちょこ顔見知りに話しかけたりもしつつ、俺は昇降口までやってきた。いつもの癖で尚紀くん――事件の二人目の被害者だった小西早紀の弟で、絆を結んだ相手の一人である彼がいつもたたずんでいた場所をうかがうけれど、日々家業の手伝いに精を出している尚紀くんは、当然そこにはいない。
 そういう風に、家族と絆を深め、やるべきことを全力でやれるようになったこと自体は先輩として、絆を結んだ人間として、よかったなーと心から思えることではあるんだけど……それはそれとして、寂しい。つまんなーいとかもっと尚紀くんとお喋りしたり遊んだりして絆を深めたかったなー、とかいう気持ちが抜けない。
 だって尚紀くんって可愛いんだもんなぁ。なんていうか、儚げなところが護ってあげたい気持ちをそそるっていうか。あの薄幸を絵に描いたような顔立ちが控えめに笑うのが好きで……放っておけないって思っちゃうんだよなぁ。見かけるとついつい声をかけてしまうし、「今日、時間ありますか」ってどこかあえかな声で聞かれるとついつい予定を変更してでも尚紀くんのコミュを進めてしまう! 本当に恐ろしいの一言だぜ、あの子の助けてあげたいオーラは。
 まぁ、今はここにはいないわけだけど。昇降口近辺の他の顔見知りと軽く挨拶などかわしつつ、俺は学校を出た。急ぐ必要があるわけでもないので、のんびりと鮫川河川敷を歩いて自宅へと向かう。ここは小学校とかの通学路でもあるので、いろんな年齢の生徒たちが遊んだりしていた。以前は俺はそれに目を止める余裕もほとんどなく、コミュ上げや情報収集に血道を上げていたんだけれども、今はそんな必要もないので思う存分(こっそりとだけど)遊ぶ姿を鑑賞できた。
 ……別に俺は犯罪者志望ってわけじゃないんだけど、基本的に子供好きなので、男の子たちが元気に遊んでいる姿を見るのは単純に楽しいものがある。可愛いし、微笑ましいし……まぁちょーっとは性的な目で見て半ズボンの裾からのぞく太腿にニヤニヤしたりはしてるけど、表面には絶対出さないようにしてるのだ。
「あ! せんせーっ!」
 背後から響いてきた元気な声に、俺は一瞬自分の心のぞかれた!? みたいな気分になってぎくっとしたけど、その声の持ち主には心当たりがあったんで(俺を先生と呼ぶ相手には何人か心当たりがあるけど、こんな高い声で明るく声をかけてくる相手は一人くらいしか心当たりがない)、一瞬で表情を整えゆっくりと振り返ってにっこりと笑う。
「やぁ、勇太くん」
「うん! せんせー、ひさしぶりっ!」
 満面の笑顔を返してくる勇太くんに、俺も笑顔でうなずきを返す。南勇太くん、俺が学童保育のアルバイトやってた頃に知り合った子だ(学年までは聞いてないけど、たぶん小一とか、そのくらい)。元気でいたずらっ子な悪ガキ――なんだけど、その実心の中に深い孤独を秘めた子だったんだよこれが! 学童保育の時もいろいろと手をかけさせてくれたんだけど、そんな中でこの子はちょっとずつ俺に懐いてきてくれたというか、その孤独を癒してくれと無言のうちに俺にメッセージを送ってきてくれたんだよなぁ!
 ……いや、別にコミュ相手ってわけじゃないんだけど。っていうか、コミュ相手はこの子の義理の母親の絵里って人なんだけど。この人がなんというか情けない人で、結婚相手(勇太くんの父親)が子供いるってこと隠してたとか、結婚してすぐ単身赴任しちゃったとか、そういうのが不満で、勇太くんともちゃんと仲良くできず、いろんなことが面白くなくって暇な時間をテレビとネットで潰し、食事は店屋物で済ますというダメ主婦っぷりで。
 まぁ結婚したからってそう簡単に母親になれるわけじゃないし、不満を抱く気持ちもわからないわけじゃないし、カウンセラーになったつもりで相対していろいろ話を聞いてたけども、個人的には俺は勇太くんとこそコミュを結びたかった! だってやっぱり絵里さんの場合は『いい年こいてなに不満ぶっこいてんだよ!』って気持ちが強くなるんだけど、勇太くんはなんていうかちっちゃい体と心で必死に孤独に耐えながら、野放図に暴れて心の傷を舐めながら、それでも絵里さんを気遣う心の優しさを持ってるところとか、もう助けてやりてー! って気持ちになるんだよな〜。
 なのに最終的には勇太くんってば担任教師にいじめられて泣いて俺に八つ当たる絵里さんを見て(いやあれは担任教師に問題がありすぎっていうかてめぇに子供を教える資格はねぇ! って一発入れてやりたいくらいだったけどさ)、『おかあさんをいじめるな!』って俺突き飛ばしたりするんだもん。個人的にはちくしょー! って感じだったなぁ。いや、ちっちゃな体で懸命に母親を護ろうとする子供とか激萌えだし、なにより勇太くんが幸せなのが一番大事なのでいいんだけども。
「勇太くん、今日は一人?」
「うん。えっと……おかあさんといっしょに、りょうりつくるれんしゅうするって、やくそくしてて」
 照れくさそうに笑うその温かい表情にハートがきゅんきゅんするけど、当然そんな素振りなど毛ほども見せず俺は柔らかく微笑んだ(伝達力フルパワー!)。
「そうか。いいね、料理ができるってすごくいいことだと思うから、頑張って」
「せんせーも、そうおもう?」
「もちろん。自分の好きな料理を好きな時に作れるし……なにより、好きな人においしい料理を作ってあげられるって、すごく嬉しいことだよ」
「……うん!」
 満面の笑顔になる勇太くんに、ちっくしょう可愛いなぁ〜抱きしめたいかいぐりしたいちゅっちゅしたりすりすりしたりしたいっ! と思いつつもそんな気配はまるで感じさせずに俺は笑顔で続ける。
「たとえば、お母さんが病気の時とかにも、消化にいいものを作ってあげられるしね」
「しょうか……って、なに?」
「ご飯を体の力……栄養にすることだよ。あんまり一度にご飯を食べすぎるとお腹が痛くなったりするだろう? あれはお腹がご飯を消化しきれなくて、ご飯のまんまで胃の中に居座っちゃってるせいなことが多いんだ。病気の時は消化する力も落ちるから、柔らかくて消化しやすいものを食べた方がいいんだよ。その方が栄養になりやすいし」
「そっかぁ……うん、オレ、がんばるっ!」
 真剣な顔になって大きくうなずく勇太くんに、俺は「うん、頑張れ」と笑顔でうなずきを返し、駆け去っていく背中に手を振った。……いやぁ、やっぱり誰か大事な人を頑張って大切にしようとする男の子っていうのはたまらんなぁ……可愛い、抱きしめたいすりすりしたいべろべろちゅっちゅしたい……
 はっ! なにを考えている、俺! 駄目だ駄目だ大切な相手にそんな下劣な妄想を抱いては! 清らかな心を持て! 悟りの心で、仏道に帰依した者のごとき気持ちで相手に接するんだ! ……でも日本の男色文化って仏教関係者から発したことが多いんだよな……うわー馬鹿やめろそっちの方向へ妄想するなー!
 などと心の中で激しく言い争いつつも、俺は表面上はごく爽やかな男子高校生を装って、穏やかな表情でゆっくりと歩いていく。周囲の様子を観察しつつ、可愛い男の子やイケメンやカッコいい男児を見落とすことのないよう鋭い視線で周囲を観察しつつ、かつその視線を気づかれないようごく自然な態度で振る舞いつつ……
 と、道の向こう側にある鮫川の休憩所に、小学校高学年くらいの少年と、それと同じか少し年下くらいの少女の姿を見つけ、俺はおお! と内心会心の笑みを浮かべた(もちろん外には出さない)。この二人、居場所が特定できないっていうか、気まぐれなのかなんなのかいる位置がころころ変わるので、見つけられるかどうかは正直賭けなんだよな。
 さりげなく休憩所に近寄り、近くを通り抜けざまにちらりと視線をやりつつ、全力で耳を澄ます。少しでも会話を聞き取り、二人の様子を観察したかった。
 少年は(いかにも生意気そうで実際生意気(高校生相手に会った時から平然とタメ口だし)なんだけど、クラスでは何気にリーダーシップ取ってそうななかなかカッコいい男の子)、少女(ぼんやりしてて、頼りなげで、洒落っ気はあんまりないんだけどっていうか一見みすぼらしささえ感じさせてたくらいなんだけど(今はかなり改善されてる)顔立ち自体は可愛らしい、放っておけない雰囲気の女の子)に、真剣な顔立ちで話しかけている。
「家でも、学校でも、やなこととかあったら、俺に言えよ。なんとかしてやるから」
「……でも、たいへんじゃないの? そうじゃなくても、いつも、いつも、いろんなことしてくれてるのに」
 少女はどこか儚げというか寂しげというかな、消えてしまいそうな雰囲気を漂わせる表情で、わずかに首を傾げて少年に問う。その不幸に慣れていることをうかがわせるどこか淡々とした口調に、少年はぎろりと少女を睨みつけるようにしてから、ひどく真摯な顔つきで言った。
「お前がやな思いしてる方が、嫌なんだよ。お前、いっつもなんでも我慢しちゃうじゃないか。なにされても、なに言われても。お前がそんな目に合ってるの放っとくのなんて、絶対に嫌だ。そのくらいだったら、どんなに苦労したって、お前助けるために頑張れる方がいい」
「……そう、なの?」
「ああ」
「………ありがとう。すごく、うれしい」
 少女はほんわり、とびっくりするくらい柔らかく微笑んだ。少年も、少し照れくさそうながらも笑みを返す。少年と少女の視線が絡み合い、お互いの瞳にお互いの姿が大きく映った。
 が、少年は目の端に、俺の姿を見て取ってしまったらしい。はっ、とした顔になる少年に、俺は一瞬ヤバい! 見つかった! と慌てまくったけど、表面上はあくまで爽やかに、慌てず騒がず笑顔でビッ、と軽く親指を立ててみせた。
「〜〜〜〜っ!! い、行くぞっ」
「あっ……。………うん」
 少女の手を引いて歩き出す少年に、少女は少し驚いたような声を上げたけど、すぐにふわっとした、暖かい嬉しげな笑みを浮かべてうなずく。その頬がほんのり赤く色づいているのは、決して気のせいでも寒さのせいでもないだろう。少年の表情は見えなかったけど、耳の先っぽや細いうなじまで見事なくらい真っ赤になっているのは、俺のいるところからでもはっきりと見えた。
「…………。〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
 俺はすたすたと歩いて、人の視線が通らない木立の中まで入り込む。それから、うおぉぉぉと声にならない声で叫び、悶え転がり、ばんばんと木の幹を叩いて心の中から溢れ出まくる萌えを表現した。そうでもしなけりゃあまりの萌えにどうにかなってしまいそうだったからだ。
 あぁ………もうもうもうなんって可愛いんだあの子たちは――――っ!! なんという可愛いカップル! 少女を護る少年、少年を気遣いつつも喜びを伝える少女、太古から連綿と続く恐ろしいまでに美しい少年少女カプの形! 手を繋げたのが嬉しいけどお互い恥ずかしくてしょうがないとかもうっ、お約束を見事なまでに完璧にやってくれちゃって! 人に見られたのが恥ずかしくても手は離さない、いいねいいね素敵だよ君たち……!
 はたから見たら怪しいことこの上ない光景だっただろうけど、実はあの二人を見た時には、こういうことになるのわりとしょっちゅうだったりする。なにせあの二人は、八十稲羽の中でも個人的に俺が最も応援しているノマカプなんだ。
 あのぼんやりした女の子は、八十稲羽に来て自由に行動するようになってすぐ会った子なんだけど、どうやら家庭が複雑みたいで、家に帰りたくなくて、なかなか達成できないことができたら家に帰る、みたいなルールを作って、外で一人ぽつんと時間が流れるのを待ってる寂しい子で。俺としても大丈夫かなぁとか心配していつつもどうにもできなさそうで、こっそり悩んだりもしていたんだけど。
 そんな女の子を、こちらも八十稲羽に来てからすぐに会った、初見じゃ八十稲羽で一番好みだなと思った生意気そうな男の子が、この子は普段お姉さんのお遣いとかにこき使われてるって愚痴を言ってた子なんだけど、ちょっとずつ気にし始めて。ずっと帰らないでなにやってんだろ、とか言い始めて。
 ついには声をかけて。いろんなことを話し始めて。ちょっとずつちょっとずつ距離を縮めていって。霧が出た時なんか、もういつ見ても二人っきりで、女の子のために男の子がガスマスクを用意したり、ずっとお互いのこと見つめてたりで、まさにもう世界は二人のために状態で!
 んもう本当にこの一年ずっと萌え転がらせてもらってる二人なんだよな〜。自分ノマカプの中で一番好きなのはああいうちっちゃな恋のメロディ的なもので……少年が少女をその小さな掌からできる限りの力を振り絞って護ろうとする、とかいうの超超超好みで……どっちもビジュアル的にも可愛いんで、なんというかもうぶっちゃけたまらんというか。
 本当こんな萌えられるカップルをリアルで観察できるなんてご褒美があろうとは、こっちに来た時には考えたこともなかった。ああもう萌えすぎて萌えすぎて……ラブ! 幸せになれよ、君たち! と言いまくりたい気持ちだ。
 しばし萌え転がりつつ心中でさっきの光景をリフレインして堪能し、ああ今日も本当にごちそうさまでした、と思いつつ俺は木立を出て、また家へと戻る道を歩き始めた。非常においしいシチュだったが、俺が一人の時に会う相手は、彼らが最後ってわけじゃないんだ。
 いつも通りにぼーっと時間を潰している惣菜大学のご主人と軽く話をしてから、ゆっくりと俺は道を歩き、いつも通りに腕組みをして、河川敷を眺めるように立っている俺的萌えメンズの最後の一人に声をかけた。
「こんにちは」
 その人は――シャッキリとしていて若々しくて、腰がぴーんと伸びているんだけど、髪の半ばはもう白くなっていて、今まで聞いた話が正しければもう定年するぐらいの年であるおじさんは、ゆっくりとこちらを見て小さく笑んでくれる。
「やぁ。君か」
「はい」
 俺は足を止め、その人の前に立つ。この人の前に立つ時には、いつも自然にぴんと背筋が伸びた。目上の人だし、なによりこの人の前ではできるだけしゃんとした自分を見せていたい、という気持ちになるんだ。
「もう霧が晴れてからずいぶんになるが、君の周囲ではなにか困ったことはないかい」
「とりあえず、ほとんどの人間は落ち着いています。……まぁ、霧が晴れる前から困った人たちはいましたけど、そういう人たちとはできるだけ関わらないようにしてますし」
「そうだな、賢明な対処だ。人というものはそう簡単に変わりはしないし、対処に困る、つきあっていても得るもののない人間というのは、確かにいるものだしね」
「はい」
 俺はうなずいて、その人の隣に立って川を眺める。……この人とも、八十稲羽にやってきてすぐ以来のつきあいだ。
 やっぱり名前は知らないんだけど。いやだってそのなんていうか、いまさらわざわざ名前聞くのも変かなって気になっちゃって。基本的に目上の人だし、こっちが向こうの会話に合わせる形になるのがほとんどなんだよな。
 っていうかむしろ、俺がこの人の話すことを聞きたいっていうか、この人の出方に合わせたいっていう気持ちが強い。なんでなのかは自分でもよくわからないんだけど、俺って年上の男の人を相手にすると、完全に服従して手の内で転がしてもらって可愛がってもらいたい、っていう気持ちになっちゃうみたいなんだよな。ちょっとM入ってるのかも。カッコいい人とかに優しくだったら、いじめられるのとかいいかも、とかちょっと思っちゃうし。
 ……まぁ、つまり要するに、俺的にこの人が非常に好みだっていうわけなんだけど。
 この人、名前も素性も詳しくは知らないんだけど、どうやら長らく勤めた仕事を辞めて、奥さんと一緒に……いや、話の内容からするともう奥さん亡くなられてるのかもしれないんだけど、お子さんたちとは離れて暮らしてるらしい人なんだけど(そんでその仕事ってのが夜勤めだったとか警察嫌いだとか暴走族に迷惑をこうむったとかもしかして、泥棒……? とかついつい思っちゃう感じなんだけど)。なんていうか、八十稲羽に来てすぐ会ってからずっと、こう……芯に一本徹るものを感じさせてくれるっていうか、言動から深みや分別がにじみ出てるっていうか、話しててすごくいい気持ちにさせてくれる大人の男性なんだよな。
 それに、年はもうかなりいってるとは思うんだけど、そんな感じしないっていうか……背筋はぴんと伸びてるし、それに顔も年輪を重ねてる感じはするんだけど、こう……何気にカッコいいんだよね。恰好自体はごく普通の地方都市のおじさんって感じなんだけど、すごく見事に着こなしてる感じがするっていうか……いわゆるロマンスグレー、っていうか。
 一度なんか夜中の散歩に誘ってもらったことがあるんだけど、その時一瞬『もしやこれはお誘いのお言葉!?』ってめっちゃドキドキしちゃったもんなぁ。……なんか本当に男に飢えた奴みたいで恥ずかしい気持ちもあるんだけど、基本的に出会いなんて十八歳越えてからその手のサイトにでも行かないとまずない身としては(ゲイが相手を探すのって基本的に出会い系サイトらしい。昔はその手の雑誌の読者投稿欄ってのが使われてたみたいなんだけど……)、ちょっとでもそういう雰囲気があるだけでドキドキものなんだよー! ……それにさ、俺だって一応健康な高校生男子だしさ……。
「あなたの方は、大丈夫ですか。困ったことなんかはありませんか?」
「私の方は困るようなことはないよ。もはやしがらみの類もない身だし。ただ……いや、そうだな……」
 ちら、と俺の方を見て、少し考えるように視線を泳がせてから、今度はちゃんと俺の方に向き直って言った。
「君がもしよかったら、なんだが。これから、私の家に来ないかい」
「え……」
 俺は小さく驚きの声を上げて、目を見開いた。……だけど内心では、そりゃもう大きな声で『えええぇぇぇえぇぇえぇぇえっ!!??』と叫んでしまっていた。
 だってだってだって、家に来ないかって……この人、たぶん一人暮らしだし……それって、つまり……えぇ!? マジで!?
 いやいやいやなにを考えているなにを、世の中にそうそうゲイがいるわけない! この人は奥さんいたわけだし、子供まで作ってるのはほぼ確定だし、これはただ単にたまたまちょっと仲良くなった高校生をちょっと家に誘っただけの……っ!
 という悶絶を察したわけじゃないだろうけど(たぶん俺がちょっと驚いた顔をしたからだろう)、珍しく少し慌てたような顔をしつつ手を振っておじさんは言う。
「ああ、いや、もちろん君が嫌ならばいいんだ。ただ……私が、ここのところ、まともに人と話す機会がなかったものだから……いい年をして恥ずかしい話だが、少しばかり、寂しくてね」
「……そうなん、ですか……」
 少しうつむき加減になって微笑むおじさんの顔に、俺は胸を思わずどっきーん! と鳴らす。その顔は本当に寂しげっていうか切なげっていうか、人恋しげに見えたっていうか……そばに寄り添ってくれる人を求めてるように思えたからだ。
「正直、今の私の周りには、話していて楽しいと思える相手が君の他にいなくてね。こんな年寄りの相手をさせるのは申し訳ないとは思うんだが……もしよければ、少しつきあってくれないかと思うんだが。幸いと言ってはなんだが、私は今一人暮らしだから、うるさいことを言う相手もいないし」
 どきどっきーん! とまた俺の胸は鳴った。え、え、それって、一人暮らしって、うるさいことって、つきあうってー! いやいやいやこの人はたぶんゲイじゃないんだからそんなの他意があって言ってるわけじゃ……でもでもでももし万一この人がゲイだったら(隠れゲイで子供作る人とか子供作ってからゲイに目覚める人っているらしいし)、これって絶対、その、そういうお誘い、だよな………!?
 いやいやいやなにを考えているなにをそんなこと絶対ないから、ないから! と俺はともすれば暴走しそうになる妄想と欲望に蹴りを入れ、表面上はあくまで爽やかに、にこっとはにかむような笑顔を浮かべてみせた。
「ありがとう、ございます……あなたのお誘いなら、喜んで受けさせていただきます」
「そうか……ありがとう」
 そう言って微笑むおじさんの顔は渋さと同時に男の枯れた美しさみたいなものを感じさせて(きれいに年を取ってる感じ、っていうか。男にはそういう年を取った人間特有の色気とかあると思うんだよー! 基本若い方が好きは好きなんだけど!)、俺の胸はまたもどきどっきーん、と高鳴った。

「大したものがあるわけでもないが……好きなようにくつろいでくれ」
「はい」
 堂島家と同じぐらいの大きさの家の縁側で、俺は出されたお茶の前で正座していた。目上の人に招待された家でなんて、くつろげるわけないというのが正直なところだけど、たぶん俺はこの人が目上でなくてもくつろげたりはしなかったと思う。
 だって家だぜ!? 相手の個人宅で二人っきりだぜ!? もちろん自分たちが通常そういうことにならない性別同士というのはよくわかってるけど! でも俺は男に欲情する男なんだっ、こんな状況で期待もドキドキもしないなんて不可能だーっ!
 でも表面上はそんなのおくびにも出さず涼しい顔をしてお茶をすする俺。ああ、自分の感情があまり現れない顔つきって、本当にこういう時便利だよなぁ……。
 ……しばし、無言の時が流れる。俺としては向こうが話すのに合わせる気だったからいいんだけど、おじさんの方は(この期に及んで名前はまだ知らない)なにやら縁側から庭を眺めてなにやら考えているようだった。
 俺がお茶を飲み終わる頃になって、おじさんは口を開いた。
「……君は、誰かを好きになったことはあるかな?」
 ぶっふぉお! と思わず噴きそうになったのを抑えて、涼しい顔で問いかける。
「それは……恋愛感情で、という意味ですか?」
「そうだな……そうなるだろう」
 えええなにこの質問もしかしてこの人誘ってんの、と心臓をどっきんばっくんさせつつ、あくまで表面上は落ち着いた表情で、考え深げに首を傾げながら答える。
「そうですね……好意を持った人間、というのはたくさんいます。この人と恋人になれたら楽しいだろうな、と思った相手も。でも……恥ずかしい言い方かもしれませんが、恋情に胸を焦がす、という経験は、まだありません」
 これは実際、俺の本音だ。はっきり言って俺は陽介も遼太郎さんも、八十稲羽に溢れるいい男たちもみんな大好きで、付き合えたら楽しいだろうな、幸せだろうなとも思うし、特に陽介とか遼太郎さんとかはうおぉたまらん抱きしめたいキスしたいそれ以上のこともしたいししてもらいたい! という気持ちがしょっちゅう溢れそうになるけれども、それは『この人でなければ駄目だ』っていう恋愛感情とは、違う気がする。
 もちろん大好きで、この関係を大切にしたい、相手を大切にしたいって心底思うんだけれども、なんていうか……彼らと結んでる絆は、文字通り絆≠セから。下半身の欲望を介在させるの、関係を汚すような気になっちゃうんだよな。恋愛感情っていうと、どうしても下半身の欲望が関わってきちゃうから。……まぁ別にそういう恋愛をした経験なんてないんだけど、想像してみるに。
 それに、今のみんな仲間で大切な友達、っていう関係って、ものすごく心地いいし。
 その答えに、おじさんはしばらく無言で庭を見つめ、ふ、と笑んだ。どこか切なげな表情で。
「そうだな……むしろその方がいいのかもしれない。誰かを必要以上に愛するのも、憎むのも、正直とても疲れることだ」
「……経験の重みが感じられる言葉ですね」
 ぽろっと言ってしまってから、うわこれけっこう失礼な台詞!? とうろたえたが、おじさんにはわりとドンピシャな台詞だったみたいで、薄く微笑みを浮かべてうなずいてくれた。
「確かに、そうだろうな……私にはかつて、誰より愛した相手がいたんだから」
「それは……嬉しい、経験でしたか?」
 今度は慎重にそう発言してみると、おじさんはちょっと苦笑してうなずいてくれる。
「そうだね……嬉しい経験ではあったよ。楽しいと素直に言うことはできなかったけれども……ここまで人を愛せた喜びというのは、確かにあった」
「そうですか……」
「……それが妻かどうかとは、聞かないんだな。君は」
 また微笑んで言うおじさんに、俺はわずかに首を傾げてうなずいてみせる。
「奥さんかどうかは、俺にとってはささいな違いですから。奥さんに会ったこともないですし……それよりも、あなたがそこまで愛せた人がいる、という事実そのものに、圧倒されるというか、感服するというか……すごいな、と思います。俺はまだ経験したことがないですし、これから先も経験するような気がしないことですから」
「それはあまりに早く決めつけすぎではないかな。君はまだ若く、健康で立派な若者だ。君を好きになる相手も多いだろう」
「……俺の方が、好きになれるタイプの人間が、少ないので」
 さぁどうだ! と俺としてはある意味賭けのような気持ちで言った言葉だ。察しようと思えば『もしかしてゲイかも?』くらいのことは思えるはず! これにうまく乗ってきてくれれば、ゲイかどうか判別することくらい……!
「そう簡単に好きな相手を限定することもないさ。君は本当に、まだまだ若い、少年とすら言っていい年頃なのだから」
 ………駄目か――――っ!! あの誘いにこう返すってことはゲイって可能性はほぼ皆無……! ちくしょーちくしょーわかってはいたけど切ないぜ……!
 そう心の中でのた打ち回りつつも表面上はあくまで平然とお茶をすする俺。そこに、おじさんが笑顔で言ってきた。
「私も、この年になってまで、こんな相手を好きになるなんて、思いもしなかったのだから」
 ………………!!??
「それは……誰のことですか」
 俺は胸をどっきんばっくんさせながらそう問うた。だだだって、このシチュでこの台詞……もしかして相手って男ですか? っていうか、俺ですか? って思っちゃうような話なんだもん! なんとかして確かめたい、確かめずにはいられない……!
「さぁ……誰だろう。当ててみるかい?」
「……そう言われても……あなたの知り合いで、俺が知っている人間なんて、せいぜいが俺くらいじゃないですか」
「ああ、それはそうだったな、うっかりしていた。すまないね……忘れてくれたまえ」
 ええぇぇぇ!? ちょ、ま、なに!? あなたのその言葉、なんなの!? 好きな人=俺的な展開じゃないの!? どっちなん!? おいはっきり言えよてめぇこの野郎!
「……雨が降ってきそうだな。ここ一年は雨が降るたびに憂鬱な気分になったものだが……今日は少し違った気分で見れそうな気がするよ」
「そうですね……雨上がりの景色というものは、本来ならとても美しいものですし。霧のないそんな景色が、見れるかもしれませんからね……」
 って、そんな話してる場合じゃないんだよ! 男好きかどうかが知りたいんだよ俺は! 頼むから、おーい!
 ……などという俺の内心の絶叫とはまるで関係なく、景色やそれに伴う心情など、風雅なことに関する話へと、話題はどんどんと転がっていった。

「……あ、お帰りなさい、遼太郎さん」
「おう、ただいま。今日はなにか変わったことはなかったか?」
「はい、特には……菜々ちゃんもまだ、検査入院中ですし」
「はは、確かにな、そりゃそうだ……」
「晩ご飯、もうちょっと待ってくださいね。すぐに仕上げますから」
「急がなくていいんだぞ。……おい、在」
「はい?」
「……なにか、あったのか?」
「え?」
「お前の表情、妙に不機嫌そうだぞ。お前がそんな顔するなんて珍しいからな。なにかあったのかと思ったんだが」
「……ええ、まぁ、なかったわけじゃありませんけど……大したことじゃないですよ。っていうか、思い出して不快な気持ちになるの、できるだけ避けたいので」
「……そうか。そう言われちまうとなにも言えんが……」
「すいません。……でも、気遣ってくださって、ありがとうございます」
 にこ、と笑むと、まだ帰ってきたての遼太郎さんは、「馬鹿野郎」と遼太郎さんなりの照れくさそうな笑みを浮かべて俺を小突いた。俺はそれを幸せな気分で受けながら、また温めている味噌汁の温度を確かめる。
 ……そう、大したことじゃない。俺が勝手に期待して、裏切られただけだ。
 けど! けどさぁ! 期待しちゃうだろあのシチュなら! あれからも何度もあのおじさん、俺のことが好きかも〜と匂わせる感じの言葉を振りまいておきながら、俺がそれに乗ろうとすると即別方向へ話展開するし!
 なのでせっかくのお呼ばれ、二人っきりだというのに俺の期待するようなエロいこと、どころか甘やかな雰囲気にすらまったくもってならなかった罠。ちくしょー期待しないつもりでいながら期待しまくってたから悔しいしムカつくし全力でガッカリしてるぅー!
 いや、俺が節操なくそれっぽい雰囲気の男にはすぐ期待しちゃうからそうなるんだけどね、もちろんね。期待する方が間違ってるんだよね。絆結んだ相手だってそういう関係にはなれないもんね。男同士のあれこれなんてみんな想像したこともないよね。
 ………あああでもちくしょー、せめてお触り程度でいいからそういう展開になってほしかった……! 俺的にはもう処女を失っても惜しくないぐらいの気持ちであのおじさんの家についていったのに……!
 こういう風に受側でもノリノリでエロモードに移行するのはゲイならではなのかもしれないけど、女性とかノンケの男性から見たらどっ引くような習性なのかもしれないけど。でもやっぱり。
「惜しかったなぁぁ……」
 はあぁぁぁ、と口の中だけで深い深いため息をつきつつ、俺は素早く料理を仕上げた。

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