一人と一人は足して○
 さらさらとノートにシャーペンを走らせながら俺はちらりと時計を見て、ふぅ、とため息をついた。現在の時刻は夜の一時。それなのに、遼太郎さんがまだ帰ってきていない。
 なにせお仕事が刑事だから、帰りが遅くなるということは数えきれないほどあった。というか、仕事で家に帰れないなんてことも山ほどあった。そもそも連続殺人事件の捜査をしてた頃は、本当に家にいる方が少ないって感じだったし(基本失踪者は俺たちがさっさと見つけてたんでそっちの捜査がものすごく大変ってことはなかったと思うけど)。
 でも、連絡なしにここまで遅くなるっていうのは初めてだった。いや、それはたぶん菜々ちゃんが今病院にいて、家にいるのが俺一人ってせいが大きいんだろうけど。それはわかってるんだけど。
 わかってるからこそなんというかこう、ちょっとばかり面白くない。俺にはそーいう気遣いないのかよーとか思っちゃうっていうか、ないがしろにされてる感を抱いてしまうっていうか。もし万一のことがあったらとかもついつい心配しちゃうし。東京にいる時たまたま親がいる時に遅くなった時、なんで連絡しないんだとか怒られて正直うざっ、と思ったことあったんだけど、悔しいけどその時の親の気持ちがすごくよくわかってしまう。
 連絡なしに遅くなられるって、こう、ものすごく落ち着かないんだよな。相手のこと気にかけてると。今日も遼太郎さんの分の晩ごはん作ってるわけだし。材料がもったいないとか、おいしいのを作ろうと気合を入れた自分が物悲しいっていうか。こーいう気持ちはたぶん、俺が遼太郎さんにあれこれ尽くすのに見返り(精神的なものだけど)を求めてるせいなんだろうなーって思うと、嫌な気分になったりもするんだけど。
 でもそれとは別にこう、『遼太郎さんにとって俺は気を遣わなくてすむ相手なんだろうな』って考えると胸がきゅきゅーんとしてしまったりするのがにんともかんとも。なんていうかこう、あんなカッコよくて不器用なおじさんの懐に入れられているというか、所有物扱いされてると思うとついついときめいちゃうんだよなぁ。
 だってあの人簡単に人を自分の懐に入れたりしないと思うし。留守を任せられるぐらい信頼されてるんだ、そういう相手は俺だけなんだ、と思うとたまんなく嬉しいというか、きゅんきゅんとときめいてしまう。別に遼太郎さんからしてみれば大したことじゃないんだろうけど、不器用な人に尽くす喜びを知ってしまった俺としては、ついついそういう風に妄想してしまう。勝手な妄想だとわかってはいても。
 ――と、ぶろろぉ、と車の音が近づいてきたと思うや、がらがらがらぁっ、と家の扉が開いた。一応都会の習慣で鍵をかけてるんで、扉を外から普通に開けることができるのは合鍵を持ってる俺と、菜々ちゃんと、遼太郎さんしかいない。俺はばっと立ち上がり、できるだけ楚々とした雰囲気を作りつつ、予想通りぐでんぐでんに酔っぱらった遼太郎さんを出迎えた。
「おかえりなさい。……大丈夫ですか?」
「あぁ!? だいじょーぶってなにがだぁ、おい。俺ぁいつでもだいじょーぶに決まってんだろーがぁ、よぉ」
 と言いながらすでに遼太郎さんは玄関先で座り込みかけてしまっていた。うわー、だいぶ飲んだなこりゃ、と思いつつも、俺は『頼りになる優しくて家庭的な甥っ子』の顔を作りつつ優しく微笑んでみせた。
「とりあえず、支えますから布団まで行きましょう。もうちょっとですから、頑張ってくださいね」
「あぁ!? 布団だぁ!? いるかそんなもん、ここで寝るここでっ」
「それはさすがに体に負担がかかりますよ。ね、はい、もうちょっと。はい立って、ゆっくりでいいですから歩いて、ね?」
 ぐでぐでに酔っぱらってる遼太郎さんの体はかなり重かったけど、俺だってだてにテレビの中ででかい剣振り回してシャドウと戦ってるわけじゃない。なんとかうまく支えて立たせ、遼太郎さんの部屋へと歩かせた。幸い、こういうことになるだろうと予測して布団はもう敷いてある。
「んっだぁ、こらぁ。こんなとこに段差作りやがって、なに考えてんだ、こらぁ」
「さぁ、大工さんの気持ちは俺だけじゃ正直はかりかねますけど。はい、もうちょっとですからね、頑張って。……はい、着いたー」
 ちょっと行儀悪く遼太郎さんの部屋のふすまを足で開ける。そしてそのまま遼太郎さんを布団に横たえさせ――ようとして、俺はぐいっと遼太郎さんに引っ張られた。
「わ……!」
「ぁぉっ、と。……大丈夫かぁ?」
「え、あの、はい。大丈夫、です、けど」
 というのは真っ赤な嘘だ。少なくとも精神的には微塵も大丈夫じゃない。
 だって今、俺は遼太郎さんと抱き合いながら布団に寝転がってるんだもん………!!!
 俺が離れようとしたのを察したのかなんなのか。横たえようとしたところに腕を引っ張られて、俺は不覚にも遼太郎さんと一緒に遼太郎さんと布団に寝転がっていた。……ただ同じ布団に寝転がっているってだけじゃなくて、肉体的にあっちこっち接触しながら。
 遼太郎さんは俺を本気で布団の中に引っ張り込みたかったらしく、腕を俺の背中に回してぎゅうっと抱きしめている。……つまり、抱きついている。
 のみならず、足も(スーツのズボン穿いてる足だけど)俺の足とごちゃごちゃと絡みあっている。それこそ、もうあれだ、セックスの時みたい、に――
 だぁぁなに考えてんだ俺落ち着け俺! でも……でも、正直、めちゃくちゃ嬉しい………!
 遼太郎さんを運んでる時とかその体温とか体の感触とか、間近に感じられる体臭とか、酒臭いとしか言いようがないスメルを発する遼太郎さんの息とか、そういうの感じるだけで実はドキドキしまくってたんだもん! こんな間近に遼太郎さん感じられるの久しぶり、って顔がにやけそうになるの必死に抑えてたんだもん!
 それがいきなりこの状態とか……遼太郎さんが酔っぱらってるせいなのはわかってるんだけど、正気でやってるわけじゃないってわかってるんだけど! なんていうかもうその、酔っ払い万歳……! と言いたくなるよマジで!
「……、なぁ」
「あ……はい、なんでしょう」
 抱きしめられながら耳元で囁かれ、俺は心臓をばっくんばっくんいわせながら小さな声で応える。遼太郎さんの声は、少しかすれていて、なのになんというか、相手を愛しいと思ってる気持ちがはっきり伝わってくるくらい優しい響きを持っていた。
「お前には、本当に、いつも苦労をかけちまってるなぁ……」
「いえ……そんな」
 そりゃ苦労をかけられてるといえばそうなんだけど、俺としてはそれも嬉しい気持ちをブーストさせるから無問題だ。だってそりゃないがしろにされたりしたらちょっとはイラッとするけど、それだけ気を許されてると思えば嬉しいし、こういうのは言っちゃいけないし正直考えてもいけないことなんじゃないかなー、とは思うんだけど、貸しが増えるのは嬉しいというか……その分だけ好感度が高くなるし俺に引け目ができて突き放したりできなくなるんじゃないかなー、と思うともうどんどん苦労かけてください! と宣言したいくらいなんだもん。
 でも、当然ながら遼太郎さんはそんな俺の不届きな考えなど知るよしもなく、ひどくしみじみとした声と手で俺の背筋を撫でてくる。
「いっつもいっつも仕事ばかりで……菜々子の面倒もまかせっきりで……お前のことを、ろくにかまいもしてないってのに。本当に、お前には……」
「いえ……あの、気にしないでください。俺は、そりゃ大変な時もありますけど、遼太郎さんや、菜々ちゃんのお世話ができるの、嬉しいんです。二人が元気に、幸せになってくれるのが、俺にとっても、本当にすごく、幸せで……」
「そうか……お前は、本当によくできた嫁だなぁ……」
 ――本当なら、ここらあたりで気づくのが当たり前だったのかもしれない。
 だけど、遼太郎さんに抱きしめられて、その体温を感じて、舞い上がりまくっていた俺は、遼太郎さんの視線が俺じゃない人間を見つめてるなんてまるで考えもしなかった。
「ゎ、っ!」
「……と」
「え………っ!!!」
 俺は遼太郎さんになんて言ったのか聞き返す余裕もなくぴきーんと固まった。だって、だってだってだって! りょ、遼太郎さんが、遼太郎さんが……俺を抱きしめてるだけじゃなく、ぐいっと俺の体を引き上げて、俺の首筋に……首筋に、ちゅって、き、き、キスをしたんだもん………!
 え、え、え、なんなのなんなのこの展開、まさか夢オチとかそういうんじゃないよな!? マジでこれ現実!? と俺はパニックに陥りかけるが、体に触れる遼太郎さんの体温も、首筋に落とされる遼太郎さんの首筋の感覚も、夢では絶対にありえない強烈な現実感を伴っている。
 遼太郎さんはぢゅ、ぢゅと音を立てて俺の首筋を吸い上げながら、さわさわ、と俺の尻のあたりを撫で、揉みしだく。ちょー! ちょー! え、ちょ、マジで、これマジで起こってることなの、いやいやないだろマジありえんこんな夢みたいなことがマジで起こるとか都市伝説以外のなにものでも! とか理性は(夢だった時の心のダメージを少しでも軽くするために)ブレーキをかけるけど、遼太郎さんの手は、カッコいいなー触ったり撫でたりしてほしいなー、と夢想した武骨な手が、男らしい薄いかすかに紫煙の匂いのする唇が、圧倒的な現実感と共に何度も何度も俺の体に触れ、撫でてくる。
「ん……っぁ……!」
 ちょ……なに、なんなのこれ、マジで気持ちいいんですけど! いやセックスって(うわーセックスって! セックスって! 俺と遼太郎さんが!? マジで! と心の一部はパニックを起こして走り回った)気持ちいいもんだってのはわかってたんだけど、これって……想像とは全然違うっていうか、オナニーとはマジで別種っていうか、うわーもう心臓がたまらんドキドキして死にそうだー!
 で、でも、どうしよう、どういうわけでこうなってるのかさっぱりわかんないけど、マジで、嬉しいんですが………!!!
「んっ!」
「……ふ、………」
 ぐい、と頭を引き寄せられ……キスを、される。マジで。心の底から、真剣に。遼太郎さんの唇が俺の唇にそっと触れ、ちゅっと吸って、舌がぬるりと俺の口の中に入ってくる。あ、そうだ、舌を出さなきゃ、とBL小説やら漫画やらで聞きかじった知識を実行してみると、遼太郎さんは巧みに俺の舌を受け止め、くにくにゅぬる、とそれこそ小説か漫画のように巧みに俺の舌を受け止め、絡めてくれた。
 とたん、ぞぞぞぞっ、と俺の背筋になにかが走った。き、き、気持ちいいっていうか、快感っていうか……なんだこれ!? い、い、今、マジで一瞬腰が抜けそうになったんですが!? ちゅ、ちゅ、中年親父のフェロモン&テクニック、恐るべし………!!
 そんな風に、しばらく俺の唇と舌を翻弄して、俺がもう意識を朦朧とさせかかってるのを満足げに見つめて、遼太郎さんは優しく、愛しげな声で囁いた。
「千里………」
 …………は?
 おい、ちょっと待て。この状況でなに、その台詞。
 そんな名前が、菜々ちゃんのお母さんの名前がここで出てくるってことは。どう考えても、俺と菜々ちゃんのお母さんを間違えてるってことで。これまでのあれこれも、みーんな、俺を菜々ちゃんのお母さんだと思ってやったことなわけで。それって、つまりは。
 遼太郎さんの手は相変わらず俺の体を優しく撫でてくる。だけど、当然ながら、俺の体はこれまでとは真逆に、一気に冷えてしまっていた。
 ……まぁ、冷静に考えれば当たり前なんだけど。むしろそうでないとおかしい感じだけど。良識ある大人の代表格みたいな遼太郎さんが、預かってる十七歳の甥っ子に、しかも同性だってのに手ぇ出すわけないし。
 そもそもそんな前振りなんて全然なかったし。これまでそれなりに俺と遼太郎さんの心の距離は縮まってきていたはずだけど、遼太郎さんが俺に向ける気持ちってどー見ても感謝やら引け目やら、要は家族に対するもので、いいとこ父性愛がせいぜいって感じだったし。その上、基本的に遼太郎さんは、妻の……千里さんのことがまだ全然忘れられてないみたいだったし、だから、遼太郎さんが俺にこんなことするとか、ぶっちゃけ酔っぱらった上での人違いとか、そういう理由でしかありえないんだけど。
 それはわかって、るんだけど。
「っ、………」
 俺はぐっと奥歯を噛みしめて、ぎゅうっと遼太郎さんを抱きしめた。遼太郎さんは苦笑しながらも、不自由な体勢のまま俺の体を優しく愛撫してくれた。
 だけど、やっぱり、身勝手は承知の上だけど――自分が死んだ妻の身代わりにされてるっていうのは、ショックだった。そんなのないよって思った。ずるいとか、ひどいとか、そんな見当違いな感情まで湧いてきてしまった。
 そして、『できるなら、騙されたままでいたかった』なんて気持ちも湧いてきてしまったんだ。
 だって、俺はゲイで、それを引け目に思ってるわけでもなんでもないけど、自分がヘテロの恋愛対象にはならないんだってことは嫌になるほどよくわかってる。口説いてみたところで俺が女に言い寄られるのと同じで、拒否感と嫌悪感しか生み出さないんだろうって。
 だから、大切な、ここで絆を結んだ人たちには、隠していることに罪悪感を抱きはしたけれど、とても言えるわけがなくて。大好きな人たちに(それが恋愛感情かどうかは別にして)、俺とやらしいことしてほしいなんて気持ち、見せられないし隠したかったし――
 でも、夢想していた。ずっと夢見ていたことだった。万に一つの奇跡が起こって、俺の好きな人たちが俺に惚れてくれないか、みたいな、傲慢この上ない考え方で。
 だって、これから先、俺にはこんなに好きになれる男性たちも、好きになってほしいと思う男性たちも、絶対に現れないだろうと確信してたから。
 だから、どうか。
「………、…………」
 シャツのボタンがひとつひとつ外されていく。人の着ている服のボタンを外すのはかなり面倒な仕事だと思うんだけど、遼太郎さんはひどく手際が良かった。脱がし慣れてる、ってことなんだろう。
 する、とその武骨な手がシャツの間から入ってくる。そ、と俺の肌に触れる。とたん、俺の体はぞぞぞっと悪寒に似ているけれどもっと切羽詰まった快感に支配された。
 遼太郎さんの手。毛の生えた、中年の、武骨な手。でも触り方は、すごく優しくて……上手だ。気持ちいい。だから、虫がいい願いなのは承知で願ってしまう。
『――頼むから、まだ目覚めないでくれ』
 遼太郎さんにとってはすごく不本意な願いだとわかっていても。
『まだ酔っぱらっていてくれ。最後まで我を忘れていてくれ』
 醜い願いだと承知で、願わずにはいられない。
 こんなに好きな人が、俺の体に触ってくれるなんて奇跡は、これから先たぶん一生、自分に下りてくるわけがないんだから。
「っ……、っ………」
 ズボンの前が開けられ、その中に手が忍び込んでくる――
 や、手が止まった。おそるおそる様子をうかがってみると、遼太郎さんは俺のパンツを目の前にして困惑していた。なんでこんなものがここにあるんだろう、みたいなきょとんとした顔で。
 それからばっ、と俺の顔を見て、一気に正気を取り戻したみたいで、「うわあぁぁっ!!!」と叫びながら飛び退り、腰を抜かしたような格好のまま俺から数歩逃げ出した。
 それから愕然とした顔で自分の手と俺とを見比べているので、俺はは、と一瞬、だけど死ぬほど深いため息をついてから話しかける。
 しょうがない。わかっていたことだ。遼太郎さんにとって、俺はそういうことの相手としては問題外でしかない人間なんだから。
 俺の気持ちなんて考える余裕もないくらい、拒否感と嫌悪感しかわかない相手なんだから。
「……遼太郎、さん。大丈夫、ですか」
「あ、な、え、や……大丈夫、では、あるが……」
 呆然と答えてから、はっとしたように俺に詰め寄る。
「在! お前の方こそ大丈夫なのかっ、俺にあんな……あんな……」
「はい……大丈夫、です。遼太郎さん、優しかったですから」
 遼太郎さんにとっては断罪の言葉に聞こえるのを承知で、そんな風に言った。だって、俺には、俺にとっては、神さまがくれた贈り物みたいな嬉しい時間だったのに、遼太郎さんには悪夢でしかなかったのかと思うと、つい。
「ばっ……優しい、って、お前な……」
 遼太郎さんはさらに数瞬絶句し、それからぎっと俺を睨んで怒鳴った。
「なんで抵抗しない!」
「………は?」
 俺は思わずぽかん、とした。いやだって、ここ怒るとこか、普通? 常識的に考えて、遼太郎さんの方が土下座する勢いで謝るもんじゃないの?
 でも遼太郎さんはそんな俺の考えなど知りもせず、顔を真っ赤にして口角泡を飛ばして怒鳴ってくる。
「お前もまだ子供とはいえ男だろう! それが男に手籠めにされかかっておきながらどうしてやられっぱなしになるんだ! 危機感がなさすぎるぞ、最近は変な奴も多いんだ、もし相手が男でもいいと考えるような変態だったらどうする気だ!」
 ……………………。
 あー、そう。そういうことか。遼太郎さんとしては、俺が遼太郎さんのやったことを、まったく少しも本気にしていない、って考えたわけか。酔っ払いにじゃれつかれてるようなもんだと。まぁ、実際その通りだったわけだけど。で、その貞操に対する危機感のなさを心配してくださってる、と。ふーん。そういうことですか。
 あとで冷静な頭で考えてみれば、こんな風に遼太郎さんが逆切れしたのは(もちろん俺を心配したのも確かなんだろうけど)、自分のやったことが申し訳なくて申し訳なくて逆切れでもしなければやってられない(遼太郎さんってそういう悪い意味でも古い男って感じのとこがあるから)せいもあるってわかったんだろうけど。つまり、冷静な頭で言った台詞じゃないってわかったんだろうけど。
 その時は俺はそんなことなんて考える余裕もなく、ぷっつーん、と切れた。いや余裕があったって切れてたかもしれない、冷静じゃないってことはある意味どっかで思ってることを口にしたってことでもあるだろうから。俺の怒りのツボを、思いっきりピンポイントで衝かれた気がした。
『男でもいいと考えるような変態だったら』
 つまり、男でもいいじゃなくて男じゃなきゃダメで、女とセックスするなんて死んでもごめんな俺みたいな奴は、変態以下のゲロクズ野郎だってことですか。
 かぁっと腹の底から湧き上がってきた怒りは、あっという間に俺の頭を燃え上らせ、焦げつかせた。東京にいた頃によく感じていたような、このたまらなくムカつく相手を全力で傷つけて、ムカつかせて、叩きのめしたいという気分が俺を支配した。
 だから、俺は、遼太郎さんがさらにブチ切れるのを承知で、ひどくしおらしげな姿を作って言ってやった。
「はい……ごめんなさい。でも、俺、抵抗なんてできなかったんです。相手が、好きな、人だから」
「………は?」
 遼太郎さんはなにを言っているのかわからない、というようなぽかんとした顔をした。俺はそこに、ひどく悲しげな、心の底から申し訳ないと思っている表情を作ってダメ押ししてやる。
「俺は、男しか好きになれない男なんです」
「………は?」
「『男でもいい』じゃなくて、『男じゃなきゃ嫌』なんです。遼太郎さんからすれば変態以下のゴミみたいな奴でしょうけど、俺はそういう性癖の持ち主なんですよ」
「――――」
 遼太郎さんの顔は、その時、見事に固まった。
 そりゃそうだろう、遼太郎さんにしてみればそんな事態完全に想定外だっただろうし。これまでずっと自分に尽くしてきてくれた甥っ子が、同性愛者だなんて。自分の理解できないバケモノみたいな人間だなんて。軽蔑と拒絶の感情しか湧かない人間だなんて。これまでずっと、家事やらなにやらを任せきりにして、助けてもらってきて、家族とすら呼んだ人間でも。
 頭のどこかがそんな風に考えて、自分で勝手にそんな風に考えておきながら、俺の頭はさらにかぁっと熱くなった。苛立ちと、憎悪に似た感情が俺の脊髄を燃やし、今遼太郎さんが受けた傷をさらに広げてやろうと、ひどく悲しげな顔で言ってのける。
「遼太郎さんにしてみれば、俺みたいな奴は本当に、気色悪くて汚らわしい、生きている価値すらないような人間なんでしょうね」
「…………――――」
「ごめんなさい。俺みたいな奴が、あなたの目の前に現れてしまって。遼太郎さんにしてみれば、どこか遠い、自分とはまるで関係のない世界で生きていてほしい……いや、本当だったら生存すら許したくないような人間でしょうに」
「っ」
 なにか言いかけた遼太郎さんの言葉をうまく遮るようなタイミングで、す、と遼太郎さんの布団から立ち上がる。そして、ひどく悲しげな表情と口調のまま続けた。
「ごめんなさい、本当に。俺なんかが……本当に……生まれてこなければ、せめて遼太郎さんの前に現れなければ、よかったのに……」
 遼太郎さんが必死になにかを言おうと口を動かす。でもその口から言葉が出てこないのを確認して、俺は演技力を全力で駆使して悲痛を絵に描いたような表情で笑ってみせた。
「ごめんなさい」
 そして静かに遼太郎さんの部屋から出て行く。すっとふすまを閉め、ひそやかな足音で二階に上り、俺の部屋に入り、きっちりとドアを閉めてゆっくりとソファに腰かける。
 それから、ぼふっと思いきりソファに顔を埋め、ぼすぼすぼすっと全力でソファに拳を入れまくった。
 くそくそくそくそこんちくしょ―――っ!!! なにやってんだなにやってんだなにやってんだ俺!!? バッカじゃないの、マジバッカじゃねーの!? なんでいきなりカミングアウトしてんだよ、しかもあんなタイミングで! あんなん遼太郎さんに嫌えっつってるみたいなもんじゃんかぁ―――っ!!!
 そうだ、俺は、あの時、故意に遼太郎さんを傷つけようとした。遼太郎さんが傷つくように、自分を責めるように、遼太郎さんの男らしさとか正義感の強さとか、そういう正しい部分を利用して遼太郎さんの心を攻撃した。遼太郎さんみたいな常識のある人柄だったらどうしたって抱いてしまうような、自分の世界の異物に対する拒否感、拒絶したいという気持ち、そういう感情を持っていることを責めるように演技をして、下手に出ながら遼太郎さんを、甥っ子が変態だって知った時点で遼太郎さんに刻まれただろう傷に、さらにぐりぐりと塩を塗りたくるような真似を………
 ホンットになにやってんだよ俺は、あんな、ガキみたいな、東京にいる時みたいな、相手の好意に後ろ足で砂を引っ掻けるような真似………そんな人として間違ってるやり方、もうこっちに来て、いろんな人と絆を結んで、その絆に恥じるような真似をしたくないって思った時から、やめたって、もうしないって決めたはずだったのに………!
 喉の奥から漏れ出しそうになる泣き声を、拳を噛んで押し殺す。本当なら身も世もなく泣きじゃくりたいくらい落ち込んで、自分の行為に自分でショックを受けてたけど、それよりももう遼太郎さんに嫌な思いをさせたくないって気持ちが強かった。
 だって、俺は本当に、自分の気持ちのままに行動した結果、遼太郎さんを傷つけてしまったんだから。
 ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう。何度も何度も拳を噛みながらそう繰り返す。自分の本音が、本当の自分が大好きな人を傷つけてしまったのが死ぬほど苦しくて、悔しくて、申し訳なくて。
 俺は、生まれて初めて、自分がゲイだっていうことを申し訳ないと――死んでも思いたくないと思いながらも、少しだけれど、思ってしまった。

 その日は当然ろくに眠れなかった。だけど、一家の主夫業を担っている人間は、たとえどんなに精神的コンディションが悪かろうと、いつも通りに起きて食事やらなにやらの仕事をこなさないと、家庭がまともに回っていかない。
 菜々ちゃんのためにもそんな恥知らずな真似だけは避けなければ、と俺はけたたましく鳴る目覚まし時計に夢うつつだった状態から起こされ、重い体を引き起こして身支度をし、一階に降りていく――や、ぽかんと口を開けた。
『今日の飯はいらない』
 遼太郎さんの字で、それだけ書いたメモがテーブルの上に載っている。のみならず、パンの袋が開けられて、パンを焼いたあとの匂いがかすかに漂っていた。つまりは、遼太郎さんが俺と顔を合わせたくないので、俺が起き出す前に起きて、自分で朝食……というかパンを焼いて食って出て行った、と。しかも晩飯もいらないってことは、今日はたぶん署から戻ってこない、と。俺と顔を合わせたくないから。
 その、遼太郎さんが俺の性癖に対しどれだけ強い拒否感を持っているかということを如実に示す行為に、俺はまたずずーんと落ち込んだ。寝る前からの落ち込み気分を起きても引きずってたから、さらに落ち込み気分層倍、って感じで。
 はあぁぁ、と深いため息をつき、遼太郎さんがいないんだったら朝食に気合入れてもしょうがないので昨日の残りでさっさと食って学校へ――と思った時、はっと気づいた。
 学校には、陽介たちがいる。
 陽介たちがいる、それ自体はすごく嬉しい。絆を結んだ相手がいてくれるっていうのはそれだけでも(その絆の一つがリバースしかねない今の状況では特に)非常に嬉しい。
 だけど、もし、陽介たちに、『なに落ち込んでるんだよ』と聞かれたらどうしよう。
 俺は正直ごまかせる自信がない。普段ならともかく、今の精神状態では。そんな素振りも見せないというのも正直不可能に近い。だけど。
 事情を正直に話した、として――それで他の絆も失なうことになったら、どうしよう。
 ぐ、と瞳の奥から熱いものがこみあげてきて、俺は思わず顔を押さえた。嫌だ、駄目だ、できっこない。そんなのに耐えられるほどの根性、俺にはない。心底大切な絆が、それによって俺自身の人格の核すら作られているような絆が失われたら。失われなくても、俺の性癖を知られて、少しでも拒絶されたら。
 そんなことは絶対にない、と言い切れるほど、俺は仲間たちのことを盲信していなかった。そりゃ仲間たちは俺がゲイだからって即嫌ったりあからさまに拒絶したりはしないだろうけど、でも戸惑いはするだろうし、嫌悪感も少しは感じると思う。だって、俺みたいな、自分が変態だときっちり認識してて、それが間違っているとも思わない人間ですら、他のタイプの変態に大しては反射的に嫌悪感を抱いてしまうんだから、一般的な性癖しか存在しない世界に住んでる人たちが違う世界にいる相手に対し嫌悪感を感じないわけがない。――要するに、人は自分と違うものに対し拒否感を抱くものだ、と俺はよく知っているんだ。
 それに、なにより。陽介に。
『まさか、俺が好きとか、そういう話じゃねぇよな?』とか、そういうことを言われたら。俺はどうすればいいかわからない。
 陽介にとっては許しがたい裏切りに思えるだろうことに、強烈な恐怖と嫌悪を覚えるだろうことに。俺は、陽介が好きなんだから。いや好きとかそういうきれいな好意ですませられる感情じゃない。そういう気持ちもたしかにあるけど、俺は陽介に欲情していた。下衆っぽい、いやらしい感情を抱いていた。友達面してつきあいながら、セクシャルな目で陽介を見ていたんだ。
 それを受け容れろ、なんて陽介に言うこと、死んだってできない。俺だったら友達としか見てない相手からセクシャルな目で見られてたと知ったらぞっとするし嫌悪感を抱く。なんで君にそんな風に好かれなきゃならないんだと抗議したくなる。だから、俺も、陽介のそういう拒絶する感情をしょうがないことだと理解して、受け容れなくちゃならない。
 でも。それはわかっているのに、わかっているけど俺は、厚かましいとわかっていながら、陽介に理解を求める気持ちを捨てられていなかった。俺の気持ちを、性癖を気色悪いと感じないでほしいなんで身勝手な想いを抱いていた。フィクション以外の何物でもないBL小説みたいに、俺を受け容れて――俺を好きになってはくれないか、なんて思い上がった考えすらどこかで持っていたんだ。
 女の子の好意はみんな、当たり前のように拒絶してきたくせに。自分の受け容れられないっていう感情は押し通してきたくせに。自分を他人に受け容れてほしいなんて、浅ましい、身勝手な――いいやそれどころか、これまで俺たちが倒してきた相手みたいな、傲慢この上ない考えを、一番の親友で相棒だと誓った相手に押しつけるなんて、死んでも嫌だ。
 だけど、それを隠せるのか? 俺は。そんな醜い気持ちを、陽介に。今のこの最悪の精神状態で。
 陽介だったら気づかないはずはない。そして心配してくれるに違いない。それはすごくすごく嬉しいことではあるけれど、そんな相手に今の状態で嘘をつきとおせる自信が俺にはない。嘘をついているということすらわからせない自信なんてもっとない。どうしよう。どうしよう。どうすれば――
 と泣きそうな気分で考えていると、はっ、と気づいてしまった。今、俺には、この八十稲羽で少なくとも一人は、こういう時に頼れて、心配をかけても大丈夫――というかあんまりそういうことで心配しなさそうな相手がいる!

「……はい。はい、そういうことなので。こんな年寄りが若い人の勉強の邪魔をするのは申し訳ないとは思うのですが、どうにも足が……はい、ありがとうございます。はい……」
 とかなんとか言いながら、おじさんは電話を切った。この期に及んで、俺はまだこの人の名前すら知らなかった。ただ、いろんな意味でシャッキリしたおじさんだってことぐらいしか。俺も、自分の名前とか言ってなかったけど。
 ……そんな関係なのに『今日学校を休む言い訳に使わせてくれ』なんて願いを聞いてもらえるなんて、普通ならありえないことだ。受話器を置いて、俺のいる客間に戻ってきたおじさんに、俺は深く深く頭を下げた。
「すいません……ありがとうございます。俺の、身勝手なお願いを、聞いてくださって……」
「なに、気にすることはないよ。これまで君は何度も私の話し相手になってくれたしね。それに、たまには学校を休みたくなるという気持ちというのは、私のような年寄りにも覚えがあるし」
 そう笑って俺の隣に腰を下ろしてきたのは、以前家に招待してもらったことが(何度か)ある(そしてそのたびに肩透かしを食らわされてきた)、普段は鮫川の河川敷前に立っているシャッキリしたおじさんだった。俺は、このおじさんに『申し訳ないんですが今日、少なくとも学校が終わるまではここにいさせてください』と頼んだのだ。
 本当に厚かましいにもほどがある頼みだったけど、このおじさんは(俺がそうなんじゃないかと予測していた通り)笑ってうなずいてくれた。普通の大人だったらこんな頼みごとしたら怒鳴られてるところだっただろうけど、この人はそういう一般常識≠カゃなくて、自分に、相手に、今なにが必要か、っていうことを考えてくれる人だっていうのはこれまでの会話でわかってたんだ。
 で、俺はこのおじさんに全面的に頼って、学校に今日休む言い訳の電話を入れてもらったわけ。『足がひどく傷んでまともに立てないので、知り合いの少年を呼んだ、今日一日その少年を休ませてくれ』って感じで言い訳したみたい。そういうのが通用しない学校もあるだろうけど、幸い我がハチ高は(地域密着型の高校ということもあり)そういう感じの言い訳には弱い先生が多いのだった。
 おじさんは、俺が淹れたおじさんの分のお茶をずずっとすすった(焙じ茶だったので、まだ熱いだろうに)。俺も何度かふぅふぅと吹いて冷ましてから、同様に自分の分を少しすする。沈黙が下り、空気の流れが絶えた。森閑、とすら呼んでよさそうな静かな気配が、古い家屋独特の匂いを放つおじさんの家を満たす。
 しばらく俺たちは二人とも黙ってお茶をすすってたんだけど、やがておもむろにおじさんが口を開いた。
「それじゃ、そろそろ聞かせてもらえないか。君は、今日なぜ学校を休みたいと言い出したんだい」
「…………」
 聞かれるよな、やっぱ、それ。
「人の隠していることをわざわざほじくり返す趣味はないが……学校への言い訳を任された以上、知る権利はあるだろうし。なにより……君も聞いてほしそうだからね」
「え……」
 一瞬驚いたけど、言われて初めて気づいた。そうだ、確かに俺は、誰かに今の気持ちを話したいと思ってた。それも、ゲイとかそういうのを隠して無難に相談するんじゃなくて、全部丸ごとぶちまけて、それでも引かないでいてくれる人に相談をしたい――いや、愚痴を言いたい、って。
 そもそもが俺が衝動的に言ってしまったことで起こった厄介ごとなんだから、申し訳ありませんでしたと謝って、あとは時間の流れに任せるぐらいしか事態収束への道なんて考えつかない。相手に俺の性癖を受け容れろなんて主張するのは、無駄だし筋違いだって俺自身理解してるんだから、それしかない。
 けど、でも、俺の心には、納得いかない苛立ちやら憤懣やら慨嘆やらが詰まっていたので、それを誰かにぶちまけたい、ってずっと思ってた、みたいだ。自覚はなかったけど。俺基本的に愚痴言うのとか好きじゃないから(自分の感情を人にぶちまけてすっきりするのってものすごく傲慢な行為だと思うんだよな)なんだろうけど。
 で、それにはこのおじさんはうってつけの相手だった。俺がゲイだってカミングアウトしても、即見る目を変えるほど子供じゃないってくらいには人格に信がおけるし、万一変えられたとしてもそれほど衝撃じゃないというか、絆を結んだ相手ほど強固に繋がっているって感じがしない。うまい具合に適度に他人、っていうか。
 だから俺は、わりと気軽――というほどでもないけど、カウンセラーに告白する程度の、決意やら覚悟やら大層なものを持たないまま、さらっとした口調で告げることができた。
「実は――」

 俺の告白を聞いて、おじさんはさすがにちょっと驚いたみたいだったけど、予想通り取り乱すようなことはせずに、「そうか」とだけ言ってずずっとお茶をすすった。俺も同様に冷め始めたお茶をずずっとすする。さっきと同様、しばし沈黙が客間を満たした。
 やがて、おじさんはゆっくりと口を開く。
「それで、君はどうするつもりなんだい」
「……俺としては、叔父の出方に合わせるしかないと思っています。たぶん叔父はなにもなかったようなふりをするでしょうから、俺もそういうふりをしようか、って……時間が解決してくれるのに任せるしかないかなって。まぁ、これまでと違って、接触は最小限に抑えないとならないでしょうけどね」
「ふむ。君はそれで納得しているのかな?」
「納得、というか……俺なりに、理解はしているつもりです。自分と違うパラダイムの持ち主を――異なる性癖を持つ相手を、受け容れろと無理強いするのはそれこそ無理だし、無駄だし、馬鹿げているし、相手にとっても迷惑なことだろう、って」
「ほう。相手が受け容れてくれるとは考えないのかな?」
「それはまず100%ありえません。叔父はすごく現実的で、常識的な人柄ですし……自分と違うもの、存在するなんて考えたこともなかったようなものが、自分のそばにいるだけでも不快でしょうに、それが甥だという事実を受け容れろなんてそれこそ無理な相談でしょう。俺自身、ヘテロセクシュアルの人間の感情を受け容れろとか言われても、無理ですし……自分にできないことを他人にしろと要求するのは、あまりに思い上がってると思いますから」
「なるほど」
 言っておじさんはまたずずっとお茶をすする。俺もそれに合わせて、また少しお茶をすすった。俺も同様に少しお茶をすすって、小さく息をつく。
 ……実際、こういう対処法はある意味逃げでしかないということは、俺にもよくわかっている。だけど、俺にはそれしか思いつかなかった。
 お互い相手の生き方が受け容れられないとわかっている以上、言い争ってもぶつかりあってもみんな不毛な話でしかない。ただお互いに傷つけあい、嫌な思いをするという結果しか生まない。そんなことになって、相手を嫌うようになって、これまで築いてきた関係を、想いを、思い出を穢すようなことになるより、お互い距離をおいて、相手のことをできるだけ考えないようにして日々を過ごすしかない、って。
 そう小さく、呟くように言う俺に、おじさんは小さく肩をすくめて言った。
「私が納得しているのか、と聞いたのは、そういう意味じゃないんだがね」
「え?」
「君の感情は、そんな理屈で納得しているのか? そういうものだと、素直に呑み込んで受け容れることができているのかね」
「―――………」
 やっぱり、この人、見るとこちゃんと見てる人だよなぁ。そうじゃなきゃこんな時に頼ろうとはしなかっただろうけど、それでもやっぱりその質問はかなり、痛かった。
「納得してるわけでは、ないですね」
「ほう?」
「本当なら『今時ゲイを宇宙人扱いするなんざ正気か』だの『たかだかセクシュアリティの違いくらいでああだこうだ言うな、というか考えるだけでもムカつく』だの『あんたが先に俺を受け容れろ!』だの勝手なこと叫びたいですよ。でも、そういうのはみんな、ただのわがままだってわかってますから。俺があの人の『ゲイは変態だ』っていう考えを受け容れられないように、あの人も俺の考えを受け容れられないだろう、って。そんなのは当たり前だって、理解してるつもりです」
「理解はしているけれど、感情的に納得がいかない、ということかな?」
「……ええ――それに………」
「それに?」
 これを言うべきかどうか、俺は数瞬迷った。本当に身勝手というか、建設的でないというか、結局ただの愚痴にしかならない言葉だからだ。
 でも、結局俺はその感情をそのままぶちまけることに決めた。もうここまで恥を晒して迷惑かけまくってるんだ、いまさら遠慮してもまるで意味がない。
「やっぱり、寂しいですし」
「寂しい、かい」
「はい。俺は、少なくともあの人と――あの人にしてみれば一般的な性向を持つふりをしてた変態じゃない俺とだから意味がない話なんでしょうけど――自分なりに、絆を結んだつもりでいました。お互いにお互いを家族だと、大切だと思える関係を結んだつもりでいました。本当の自分をそのまま出したわけじゃないから、俺のペルソナのひとつでしかない顔と結んだ関係でしかないから意味がないって言ったらそうなんでしょうけど……」
 なんだか涙がこぼれそうな気分になってきて、それをごまかすために天井を仰ぎ見る。木目がじんわり滲んで歪むのを無視して、できるだけ冷静な声で続けた。
「俺は、あの人に、それこそ劣情としか言いようのない、あの人にしてみれば汚らわしいとしか思えないような欲情を抱いていました。それは間違いなく本当です。でも、あの人を大切にしたいって、あの人に尽くしたいって、あの人が幸せになってほしいって、そのためなら自分のできる精一杯のことをやりたいって、そう思ってたのもやっぱり本当で……」
「ふむ」
「あの人にもう笑いかけてもらえないのかと思うと、あの人にもう優しい声で話しかけてもらえないのかと思うと、あの人になにをしても、あの人にはもう鬱陶しくて、迷惑としか感じ取れないのかと思うと……やっぱり、死ぬほど、寂しいですよ」
「そういう気持ちをそのまま伝える気は、ないのかい?」
 俺は天井を仰ぎ見たまま(下を向くと涙が際限なくこぼれ出しそうで嫌だったのだ)、苦笑する。
「ありません。だって、こんなの、結局は子供の駄々ですから。ただでさえ娘のために、家族のためにって必死で頑張ってるあの人に、これしろあれしろって、負担をかけるの、嫌なんです」
「ふむ」
「だから、しかたのないことなんです。あの人との関係を自分の感情のせいで壊しちゃったのは、俺なんですから。他の誰でもない、俺自身の責任なんですから」
「それはわかっているけれど、感情的には納得がいっていないんだろう?」
「っ……」
 俺は数瞬、声が出せなくなった。そこに、おじさんは畳みかけてくる。
「腹が立つんだろう、寂しいんだろう、悲しいんだろう。なんで受け容れてくれないんだと叫びたいんだろう、自分との関係を断たないでくれと懇願したいんだろう」
「っ、れ、は」
「そういう気持ちを表したところで、私はまるで気にしないよ。それに、この部屋は家の一番奥にあるから、大声で泣いても外には聞こえない」
「っ………!」
 そのストレートな言葉がとどめになった。俺はうつむき、顔を押さえ、しだいしだいに丸まるようにして顔を床につけ、最初は小声で、やがて感情を抑えきれずどんどんと大声になって、ぼろぼろ涙をこぼしながら、わんわんと泣いた。

「……くん。在くん」
 体を揺すられ、俺ははっとしてがばっと身を起こした。そうだ、ここは俺の家じゃないんだ、なにを人前で眠ったりしてるんだ俺。泣き疲れて寝るとか間抜けすぎる。
 そんな俺の間抜けな姿に、俺を起こした相手であるところのおじさんは微笑んで、さらっと言った。
「お迎えが来ているよ」
「………え?」
「堂島遼太郎さん」
「………は!?」
 俺が仰天している間に、おじさんはすたすたと客間の出入り口まで歩いていって、がらりとふすまを開ける。そこには、もんのすごい渋っちい、この上なく不機嫌そうな顔をした遼太郎さんが、いつものスーツの上を脱いで背中にひっかけた格好で立っていた。
「…………!!!」
 なんで遼太郎さんがいきなりここに!? ともうほとんどパニック状態に陥ってしまった俺をよそに、遼太郎さんは相変わらずの渋い顔で、ぼそっと無愛想に告げた。
「帰るぞ。在」
「あ、え、あの」
「帰るぞ」
「…………はい…………」
 いろいろと聞きたいことは(本当にたくさん)あったのだが、こんな風に不機嫌な遼太郎さんに面と向かってあれこれ質問できるような蛮勇の持ち合わせは俺にはない。おそるおおそる立ち上がって、おじさんにちらりと視線をやってみるが、おじさんは笑顔でうなずくだけだ。
 ああ、これは疑問に答える気ないな、と理解して、「ありがとうございました」と言いながら深々と頭を下げ、遼太郎さんについて外に出る。おじさんは見送りはしなかったけど、おじさんも遼太郎さんもそれが当然だと思ってるみたいで遼太郎さんはさっさと靴を履いて家を出ていく。えぇ? と思いはしたものの、それを今訊ねるのは地雷地帯に全力ダッシュで飛び込むみたいなもんだということが理解できるくらいには俺にも空気を読む能力があったので、一応玄関先でもう一度深々と頭を下げ、遼太郎さんのあとを追った(おじさんは笑顔で手を振ってくれた)。
 遼太郎さんは無言で夜道(そう、いつの間にか時刻はもう夜になってしまってたんだ)を歩く。俺はその数歩あとからおずおずとついていく。互いの間の気まずい空気を、誰よりもお互いが感じ取っていただろう。
 遼太郎さんは早足でどんどんと歩き、住宅街をどんどんと通りすぎて、あともう数分も歩けば家に着く、という頃になって、ふいにぼそっと言った。
「お前、なんであいつの家に行ったんだ」
「え……? あ、の、あいつって、さっきの方の……?」
「他にいないだろうが。なんで他の誰でもない、あいつのところに行った」
 俺はどう答えようか迷った。正直、どんな答えを言っても、悪いように解釈される気がする、今の遼太郎さんの雰囲気だと。
 だからすごく緊張して、何度も唾を呑み込んだけど、だったら正直に話すのが一番マシだろう、と判断して小さな声で答えた。
「あの人だったら、人格は信頼できるし、適度に他人だから……こういう時に頼っても、さほど心配をかけずにすむだろう、と思ったので……」
「……人格に信頼、だぁ? お前、わかってんのか、あいつはなぁ……」
「……はい」
「……いや。なんでもない」
 遼太郎さんはまた口を閉じて、すたすたと足を早める。俺はそれについて歩きながら、やっぱりあのおじさんはなんか犯罪系の仕事してた人なのかな、とちょっとあれこれ考えてしまったけど、なんにせよあの人の素性をほじくり返すようなことはしたくない、と首を振った。
 家に着き、遼太郎さんが玄関の鍵を開け、中に入る。そして扉を開けたまま玄関の中で待っているので、俺もおそるおそる中に入った。
 すると、遼太郎さんは扉を閉め、鍵も閉め、靴を脱いでずかずかと廊下を歩き、どすっと椅子に腰を下ろした。俺と遼太郎さんが話をする時、いつも使っていた椅子だ。
 つまり、遼太郎さんは俺と話をする気なのだろう。俺は緊張のあまりごくりと何度も唾を呑み込んだけど、それをスルーして二階に上がるような根性のない真似はしたくなかったので、のろのろと廊下を歩いて、遼太郎さんと対面する椅子に腰を下ろす。
 や、遼太郎さんは口を開いた。
「お前の考えてることは、だいたいあいつに聞いた」
「……は?」
「だから、さっきの、あいつから。お前が俺のことをどう思ってるか、どうしたいかってことは、だいたい聞いた」
「………え………あの、だいたい、というのは………」
「……お前とあいつが喋ってるところを、あいつは録音してたからな。『彼が話したことはだいたい録った』とか言ってたから、だいたいなんだろ」
「……………!!」
 あ……あのおじさん………! なに考えてんだなに考えてんだなに考えてんだマジで!? っていうかあの人遼太郎さんと顔見知り!? 録音って、ちょ、マジでどこまで………!
 お、俺変なことは言ってなかったよな!? 受け容れられる受け容れられないは別として、人様に聞かせられるレベルだったよな!? 遼太郎さんの萌えポイントとか欲情ポイントとか妄想シチュとかされたいこととかしたいこととか言ってなかったよな!? うあぁもし我失ってそんなとこまで喋ってたらマジで死ぬ………!
 マジで顔からざーっと血の気を引かせながら遼太郎さんを見つめる(体が完全に固まってしまったので)俺に、遼太郎さんはやっぱり眉間に皺を寄せまくった不機嫌な表情で、ぼそっと、でもはっきりと言った。
「なんで俺に言わない」
「………は?」
「だから……俺に言いたいことがあるなら、なんで俺に言わない」
「え……」
 え、ちょ……こ、これは……どういう展開? なんか、どっちの方向にも転がりそうっていうか、どんな気持ちでこんなこと言ってるのか全然読めないんですが………!!
 で、でもとにかくなんか返事はしなくちゃ。よくできた甥っ子っぽく、真面目に、誠実に……
 ……この人と曲がりなりにも絆を結んだ人間として、できるだけ、真摯に。
「……なにを言っても、感情の押しつけになってしまいそうで。仕事や、人付き合いや……いつも、いろんなことを背負って頑張っている遼太郎さんに、これ以上なにかを押しつけたり、求めたりするのは嫌だと、思って」
「…………」
 びし、びしっ。遼太郎さんの眉間にさらに幾重にも皺が寄る。え、え!? これ地雷返答!? とおろおろしている俺に(顔には出てない……つもりなんだけど、今はうろたえまくってるからあんまり自信がない)、遼太郎さんはさらに続けた。
「お前は、俺を、なんだと思ってるんだ」
 ええぇぇ………!!? この状況でこの言葉にどう返答しろと………!!
 な、なんとか地雷じゃない答え方をしなければ。できるだけ無難な……っでもでも! だけど! 遼太郎さんに、いろんな意味で好きな人にこんなことを言われて……マジでガチな気持ちを伝えないとか、そんなの無理だろぉっ………!
 だから、俺は。数度深呼吸をしてから、きっと顔を上げて、遼太郎さんを見つめて、その視線を受け止めながら真剣に告げた。
「血縁で言うなら、叔父ですけど。自分の心情で言うなら、大好きで、大切で、俺を家族と呼んでくれた、世界の誰より尽くしたい人です」
 本気で、正直な、俺の気持ちだった。……そりゃ欲望とか劣情とかをきれいにスルーしてるのは確かだけど、遼太郎さんをどう思ってるかっていう問いに対しては、そういう下半身の衝動はあんまり重要じゃない。マジに。
 遼太郎さんに触られたいとか奉仕したいとか欲情してほしい、とかいう衝動は絶えず持ってる。だけど、それでもやっぱり、人として、ペルソナのひとつによるものでしかないかもしれないけれども、遼太郎さんと絆を結んだのは確かなんだ。オスとしてではなく、人間の一人として。
 ……世界の誰より尽くしたいって気持ちには劣情が混じってないとは言えないけど。だって陽介もマジに大好きだけど陽介は親友で相棒としてなにかやるとしたら手伝ってあげたいとか一緒にやりたいとか基本視線が対等なんで、尽くしたいのは遼太郎さんになっちゃうんだよ! 尽くすことが快感になっちゃってるんだもん遼太郎さんに対しては! だから真面目な気持ちにもそういう欲望がついつい混入してきちゃうっていうか……。
 とにかく、そんな気持ちを素直に真っ向から伝えた俺に、遼太郎さんはふ、と小さく息を吐いた。
「……お前は、いつも俺たちにはそんな風だな。他の奴らには、違うのか?」
「え……?」
「視線が下からだ。俺たちの方がまるで……身分が上の人間みたいに振る舞ってる」
「え……」
 言われて初めて気がついた――けど、確かに言われてみたらそうかもしれない。俺には自分が駄目人間だって自覚が強烈にあったし、こっちに来てできた大切な人たちに対してもお願いですからどうか尽くさせてくださいっていう風に下からお願いしてあれこれさせてもらってる、って気持ちが強かった。
 だけど、遼太郎さんは、そんな俺を見据えながら、眉間に深く皺を刻んだまま低い声で続ける。
「お前は、『俺を家族と呼んでくれた』って言ったな」
「は……い」
「お前の方は、俺たちを家族とは思ってなかった。そういうことか?」
「えっ……」
「お前にとって、俺たちは、尽くしもてなすもので、一緒に家庭を創る相手じゃなかった。そういうことなのか」
「あっ……のっ……」
 そう言われたら、そうかも、しれない。俺は遼太郎さんも、菜々ちゃんも、当然のようにそばにいることができる相手だとは一度も考えたことがなかった。この人たちの感情を受け止めて、悩みを少しでも解消して、役に立って、好かれて、それでやっとそばにいる資格を得られるんだって、そういう風に考えていたところはあった。
 でも、俺は遼太郎さんに、家族って言われてすごく嬉しかったんだ。そばにいていいって、一緒に暮らすのが当たり前だって、俺のことを受け容れてくれたって、たとえそれが錯覚で勘違いでも――
 と、遼太郎さんが顔をしかめ、がしがしと頭を掻いた。
「いや……すまん。いかんな、またいつもの癖が……前みたいに、尋問してるみたいになっちまう。また菜々子に怒られちまうな」
「え……」
「在。俺は、お前に、こう言いたかったんだ」
 遼太郎さんは、じっ、と真正面から俺を見つめ、おごそか、と言っていいくらいの口調で告げた。
「在。俺たちとお前は、なにが起きても、ずっと家族だ」
「――――」
「これを、最初に聞いた時にしっかり言えなくて悪かった。なんというか……本当に予想外だったもんでな。お前にも、嫌な思いをさせちまった。すまなかった」
 そう言って頭を下げてくる。遼太郎さんらしく、潔く、男らしく。
「お前の……なんだ、劣情だか、欲望だか……そういうもんを受け容れろ、と言われるとさすがに困るがな。それはなによりも、俺にはこの先、千里以外に妻を迎えるつもりがないからだ。お前が男だっていうことも確かにあるが、お前が女でも、血が繋がってなくとも、俺が……その、ゲイだったとしてもやっぱり俺はお前の、そういうもんを受け容れはしなかっただろうよ。だいたい、俺は刑事なんだ。未成年相手に不埒な真似をする奴らを取り締まる方なんだぞ、自分で実行するわけがないだろうが」
「…………」
「だが……それでも。お前が俺をどんな風に思っていようとも、俺たちとお前は家族だ。この先一生、ずっとな。お前がそんなの嫌だと泣こうが喚こうが、俺たちから遠く離れた場所に逃げようが、俺たちは家族なんだ。お前が、俺と菜々子を……そして、菜々子とお前を、俺とお前を繋いでくれた、その時からな」
「………あの」
 俺は唇を震わせながら、かすれた声で、おそるおそる訊ねる。
「気持ち、悪くは、ないんですか」
 そんな俺に、遼太郎さんは苦笑してみせる。
「護るべき家族を気持ち悪いなんぞと思うほど、俺は根性曲りじゃないさ」
「でも、俺は、これからも……遼太郎さんに、そういう……劣情を抱き続けますよ。遼太郎さんのことを見てドキドキしたり、触られたいとか……もっと言えば、裸を見たいとか、抱かれたいとか、そういう気色の悪いことを考え続けますよ。それなのに」
「……確かに、初めて聞いた時は、驚いたし、正直ビビっちまったがな。そのせいで、お前と距離をおいて考えようなんて思っちまって、お前を不安にさせちまったようだし。だが、言っただろう。護るべき家族を気色悪いなんぞと思うほど俺は根性曲りじゃない。そんな奴ぁ、男を名乗る資格なんぞねぇだろう。俺の気持ちは『お前は家族だ』ってのではっきりしてるんだ、あとはお前がそれをどう考えるか、なんだが……どうだ?」
 じっ、と俺を見つめ、言葉を連ねる遼太郎さんの視線――それに一瞬ぞくぞくっと体を震わせてから、俺は立ち上がった。
「遼太郎さん。――抱きしめて、くれますか」
 遼太郎さんはわずかに目を見開いたけど、すぐに口元を小さく微笑ませて、うなずいた。
「ああ」
 そう言ってすぐに立ち上がり、なんのためらいもなく俺との間の距離を縮めて、ぎゅっと抱きしめる。怖がる様子も、気色悪がる様子もなく。ごく当たり前のことをしているみたいに、気軽な動きで。
「………っ………」
 俺は、遼太郎さんの両腕に抱きしめられ――ぶわ、と涙を噴き出させてしまった。遼太郎さんはそんな俺に驚いた風もなく、ちょっと困った風に笑ってからぎゅっと抱き寄せてくれる。
 どうしよう。こんなの、考えたこともなかった。俺の性癖を、家族が、大切な人が、怯えもせずに、気色悪がりもせずに、ごく当たり前のことみたいに受け容れてくれる。
 受け容れながら、なんのためらいもなく俺に腕を伸ばしてくれる。抱きしめてくれる。拒絶しないでいてくれる。それが、どれだけ――どれだけ、俺にとって、すごいことか。
「っ……っ………っ………」
 うっく、うっく、と堪えようとしても漏れる泣き声を遼太郎さんはうるさがりもせず、力強く俺を抱きしめてくれた。俺も思いきり遼太郎さんを抱きしめて、涙をぼろぼろとこぼす。
 ――そんな状況ですら「ヤバい遼太郎さんの体臭こんな近くで嗅げるとかマジ興奮する」とか「うわー遼太郎さんにぎゅーしてもらえてるうわー遼太郎さんの硬い体の感触たまらん体こんなにぴったりくっつけてるとかヤバい勃ちそうだ」とかいう思いが頭の一部を駆け巡ってしまう俺は、本当にどうしようもない奴だなぁ、と自身思いながらだったけれど。

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