――僕は、塔のてっぺんにある窓から、月を見上げていた。月は満ち欠けはするけど、その輝きは変わらない。ロレとサマルトリアの城で踊った時も――ロレに僕の想いを否定されて、一人大雪原を歩いた時も。 ここはローレシア城客室のうち、もっとも高い場所にある部屋。当然めったに人は寄り付かない。 僕がこの部屋を選んだのは、一人で受け容れたかったからだ。僕の全てが本当に、消滅するという事実を。 ―――ロレは今日、マリアと正式に結婚した。 旅の終わりにローレシア城に戻ってきてからも、いろいろと大変なことは続いた。ロレが王になる正式な戴冠式、マリアが女王になるムーンブルクでの戴冠式、平和を祝う晩餐会に祝賀会。その全てにルーラでの運び屋兼最重要な国賓として参加しつつ、サマルトリアに戻ってさらなる挨拶回りや旅立つ前は略式にしか行わなかった成人の儀の正式なやり直し、臣民に約束した意見の傾聴と政治への反映――そんなこんなでこの三ヶ月は目が回るほど忙しかった。 そんな時でも僕は、ロレにまだ会う機会がある――という理由でけっこう元気にしていた。終末の予感は刻一刻と迫ってきていたけれど、だからこそ一瞬一瞬が本当に甘露だった。……ロレとの一瞬を味わえなかったことなんて、僕にはほとんどないんだけど。 けれど――今日、それも終わる。 ロレとマリアは今日結婚式を挙げた。ムーンブルク、ローレシアの順で二度結婚式を挙げたんだけど、今日が二度目、ローレシアでの結婚式だった。 ムーンブルクでの結婚式もそうだったけど、やっぱりロレは本当にカッコよくて、そしてマリアはきれいだった。両国の贅を尽くした、けれど下品ではない衣装を身にまとい、晴れがましい笑顔を浮かべていて。二人が登場したとたん観衆がため息をついたもの。本当にお似合いの二人だって、世界に祝福されていた。 披露宴も終わり、新郎新婦は王の居室に入っている。――これから初夜、ってわけだ。 ―――けして悲しいとは思わない。寂しいとも思わない。 ロレは共に生きていく人としてマリアを選んだ。そして誰もから祝福され、誰もが羨むほど幸せになる。――それはたまらなく嬉しい。ロレが幸せになってくれて、本当に嬉しい。 僕ではできない、できるはずのないことだ。ロレが僕のものにならなくて、よかったとすら思う。 その幸せに、僕がほとんど寄与できなかったことは、たまらなく寂しくも思うけど。 でも、僕はそれを受け容れる。ロレに愛されず、ロレを幸せにできず、ロレに対してなにひとつ為すことができない自分を受け容れる。 そして残りの一生、サマルトリアで周囲の愛情にただ耐えてなんの喜びもないまま生きることを受け容れる。 ――僕が決めた。ロレの意に沿って、ロレに想いを受け容れられないまま生きることを。 それは果てしなく長く、凄まじく無駄で、意味のない生涯だろう。でも、僕はそれを受け容れたんだ。なんの意味もなく生きることを。 ――ロレの『死ぬな』という言葉と涙が、僕を決して死なせはしてくれないのだから。 「………きれいな月だ………」 あの時はどうだっただろう? ロレが初めて僕の想いを知った、そしてこっぴどく振ったあの日。 よく覚えていない。けど、雨は降っていなかったから月は夜空に浮かんでいたのだろう。 ハーゴンが消滅しても、僕が苦しんでも、ロレとマリアが結婚しても、そんなものとはなんの関わりもなく天地は巡り時は流れる。ルビスさまの御心のままに。あの方も思うがままに世界を動かすことはできないのだろうけど。 実際天地と比べれば僕たちはちっぽけだ――僕の、ハーゴンの、ロレのマリアの苦しみなど、実際大したことはないのだろう。 けれど、その天地も人一人の想いによって滅びそうになった。人の想いは小さいけど、その人にとっては世界なんだ。 ……とりとめもないことを考えているな、僕は。でも、いい。今は静かに受け容れる時間なのだから。 僕の人生の喜びの終末と、これからの僕の想いの全ての長い不在を。 僕は月を見上げて、祈った。僕は図々しくて馬鹿だなぁと思いながら。 ただ元に戻るだけじゃないか。以前と同じ生活に戻るだけ。そんなの受け容れようなんて思うほど大層なものじゃない。むしろ楽になれるじゃないか。 ロレは――この二年間、僕に全てを与えてくれた。喜び、悲しみ、楽しみ、怒り――もっともっとたくさんのもの、本当に僕の人生の全てを。 それはどんなに幸せなことだったろう。幸せ、これもロレが与えてくれたものだ。この二年間、どんなに苦しいことがあったとしても、僕は本当に幸せだった。 ロレに会えてよかった。ロレが僕を仲間として受け容れてくれてよかった。ロレと一緒に生きることができて、本当に本当によかった。 心の底からありがとうと言いたい。――明日から、僕はその想いの全てを捨てるのだけど。 僕がロレを想うことは――ロレには受け容れられない。だから、心を凍りつかせて、想いを全て封じ込める。 僕が幸せの全てを捨て、人形として生きること――それがロレの気持ちを傷つけないように、ロレの邪魔をしないように、僕ができる唯一のことなのだから。 方法はもう考えてある――心情無感の呪。ディリィさんの城でも一番見つかりにくいところに置いてあった本に載っていた。 これは感情というものを完全に消失させるための呪法だ。本来は感情に左右されない兵士を作るための呪法。でも僕にとっては理性だけの存在になれる、すごく便利な呪法だ。 これを解けないように二重三重の防護つきでかければ――僕がロレをわずらわせることは、もう絶対にない。 もう一度月を見上げた。僕はもう月を見ても美しいと感じることもなくなるのだろう。世界の全てを捨て去ることになるのだろう。 でも、それでいい。僕にとっては――ロレが、世界で、人生で、命なのだから。 すぅ、と一筋涙が流れた。僕は―――もうロレに会ってもなにも感じることがない。顔を見ただけでわーっと体中に歓喜が溢れることも、冷たくされて震えるほどしょげかえることも、ロレを想ってたまらなく胸が焦がれることも――もう、ないんだ。 (―――いやだよ) 僕のわがままな心は言う。存在全部かけて言う。 (そんなのいやだよ。ロレに、僕の全てが、僕のいのちが、僕の中から消えるなんて絶対にいやだよ) でも――それよりもはるかに強く、僕のロレを想う心は言う。 (ロレを、少しでもいい、幸せにしたい) (幸せの邪魔をしないようにしたい) (僕はどうでもいい。ロレが――ロレさえ、幸福であればいい。僕が消えようが、苦しかろうが悲しかろうが、そんなのはどうだっていい………) (そのためにできることがあるのなら――僕は、なんでもする) だからすることは当然のように決まってるんだ。感情を消せば女性と結婚もあくまでただの仲間として振舞うこともできる――あとはロレに気づかれさえしなければいいんだ。 それはそんなに難しいことじゃない。あとロレに会う予定なのは明日帰る時だけ、そのあとはずっとサマルトリアに引っこんでいればいいんだから。 僕は月を見上げて、うなずいた。 ロレ―――さようなら。 僕は呪を唱え始めた。涙はもう流れなかった。 呪を唱えながら、最後の瞬間まで何度も思った。 大好きだよ。 ――心情無感の呪が完成すると、僕の中から感情は失われた。 僕はぱたんと窓を閉めてベッドに入った。明日は早くにこの城を出てサマルトリアに向かわねばならない、早く寝ておかなければ。理性がそう判断したのだ。 僕の中に感情はもはやない。そしてそのことになにも感じない。 在るのはただこれまでの人生で培われたこういう原理に基づいて行動すべきだという理論のみ。 僕は目を閉じた。眠りは程なく訪れるだろう。 ――と、部屋のドアがノックされた。僕はこんなところにどんな客だ、と怪訝に思いながらも扉の向こうに声をかけた。 「はい。どなたですか?」 「俺だ、サマ」 「ロレ?」 僕はまた怪訝に思った。ロレは今日結婚式を挙げたというのに。 「ロレ、せっかくの新婚初夜なんだから、マリアと一緒にいてあげた方がいいんじゃないの?」 「――いいから入れろ。あいつも俺がここにいることは知ってる」 ますます怪訝に思いながら僕は扉を開けた。ロレが現れる。酒瓶を持っていた。 一応念の為ロレを見ても感情が動かないか数秒確認して、動かないと確信すると、僕はロレに椅子を勧めた。 「どうぞ」 そして自分はベッドに座る。 「で、なんの用?」 ロレは少しばかりむっと眉を寄せた。 「なんの用はねぇだろ。お前と飲もうと思って酒持ってきたんじゃねぇか」 僕はさらに怪訝に思った。なんで今? ロレは僕よりもマリアを重要視しているのだろうに。 「なんで?」 「……お前と飲みたいからだよ。他に理由あるかよ」 「別に今日じゃなくてもいいんじゃないの? 今日はせっかくの新婚初夜なんだからマリアといちゃついていれば?」 ロレは少し困惑したようだった。 「お前……怒ってんのか?」 「怒ってなんかないよ」 ぶっきらぼうな言い方はロレに猜疑心を起こさせる。要修正。 「でも本当に、マリアのところに戻った方がいいと思うよ。マリアが傷ついたりしたら困るでしょう?」 優しい口調を作って言う。 だがロレはむっとした顔になって首を振った。 「そーいう心配はいらねーよ。俺は追い出されてきたんだからな。新婚のベッドから」 「へぇ。なんで?」 僕が問い返すとロレは身振り手振りを加えながら腹立たしげに、けれど嬉しげに説明した。 「あいつよ、なんか知らねぇけどお前と決着つけてこいって言いやがってよ。んなもんもうとっくについてるっつっても聞かねぇんだぜ。『私以外の人間、それも男との関係が後腐れている人間なんかに抱かれたくないわ』とか言いやがって。んっとに生意気だぜ、俺いきなり尻に敷かれそー」 「あはは、そうだね」 笑い声を立てて言う。ここは笑っておくべきところだと理性が判断したから。 「で、だ」 ロレがどん、と酒瓶を椅子の前のテーブルに置く。 「これまでお前と飲んだことなんてなかったからな。せっかくだし秘蔵の一本持ってきたぜ」 「もったいなくない? 僕の方からもマリアに別に後腐れてはいないって説明してあげるからマリアと一緒に飲んだら?」 感情のない人間と一緒に飲んでも面白くないだろう、という考えのもとそう言うと、ロレはぎろりと僕を睨みつけた。 「んだお前、俺の酒が飲めねぇってか?」 「そういうわけじゃないけれど」 「だったら飲もうぜ。マリアだってもう寝てるよ」 ロレがここまで食い下がるとは意外だった。というか、僕がここまでロレの誘いを断ったことがないんだけど。 これ以上逆らってロレとの関係をこじらせるのはよろしくない、という考えのもと僕はうなずいた。 「わかった。でも僕と飲んでも面白くないと思うよ」 「そーいう奴に限って酔うとむちゃくちゃになんだぜ」 しばらく黙って酒を酌み交わす。味蕾を柔らかく刺すその感覚から、かなり強めの蒸留酒だと見当をつけた。確かに香りからしてもかなりの高級酒だろう。 数杯盃を乾して、先に口を開いたのは当然ロレだった。僕からは別に話すことはないから。 「俺……さ。お前に、前に、いい女見つけて幸せになれっつっただろ?」 「言ったね。ハーゴンの前で」 僕はうなずく。 ロレは普段より心持ち滑らかな口調で喋った。 「俺、その台詞がお前のことを傷つけたってのはわかってるけど――撤回する気、ねぇからな」 「そう」 僕があっさりうなずくと、ロレはムキになったように言ってくる。 「俺はやっぱりホモじゃねぇんだ。男を抱く気にはなれねぇ。……つーか、俺はマリアを選んだんだ、よそ見する気はねぇ。――お前だってこのまま誰ともヤらずにジジイになってくなんて嫌だろ? ちゃんと誰からも祝福される相手見つけて、結婚しろよ」 「そうだね。僕もいずれは女性と結婚したいと思っているよ」 僕に童貞で嫌だという感情はないけれど、王となる者の責務として子孫を残さなくちゃならないから。 僕がそう言うと、なぜかロレは愕然とした表情になった。 「………そう、か。お前がそう思ってんなら、いいんだけどよ」 そしてまた盃を乾す。手がわずかに震えているのを発見したが、当然僕はどうとも思わない。 しばらく間があって、ロレはからかうような表情を作り(表情筋の不自然さから作った表情だとわかった)、僕に絡むようにして訊ねてきた。 「んな台詞が吐けるってことは、てめぇも実はしっかり女が好きだったんじゃねぇか。生まれつきのホモじゃなかったんだな。どんな女好みなんだよ」 この問いには少し困惑した。僕には好悪の感情がもうないので、好みの女性なんてものは存在しない。 無難な答えにしておけばいいだろう、と理性が判断して、「優しい人」と言っておいた。 ロレがしばし僕を見て、それからにやりと笑って言った。 「つまり、俺とは正反対の女ってわけだ」 「それはどうかは知らないけどね」 ロレの性格を理性で判断した場合、『わかりにくい優しさを持っている』と判断されるからだ。 ロレはそう言った僕をしばらくじっと見つめて、真剣な口調で言ってきた。 「――お前、やっぱ怒ってんじゃねぇか」 僕は内心まずいことになった、と思っていた。怪しまれている。 「別に怒ってはいないよ」 「怒ってるならはっきり言え。今日は腹の底に溜まってるもんをぶつけるつもりできてんだからな、俺は」 「本当に怒ってないよ」 まだ感情を持っていた頃も、ロレに対して怒りを抱いたことはまったくなかったのだから。 「じゃあなんで変なんだよ。お前絶対おかしいぞ」 「そう? どこが?」 「どこがって……」 しばし口ごもって。 「とにかくおかしい。なんか変だ」 「酒に酔ったかな。普段とは少し違うかもね」 「……そうか? 本当に酒か?」 「酒だよ」 ロレはきっぱりそう言った僕を、じーっと見つめて言ってきた。 「お前、俺になんか隠してねぇか?」 「…………」 鋭いな。なんとかごまかす方法を考えないと。どう言えば一番今後のロレとの関係に差し支えないかを理性で検索する。 ロレは完全にこちらを怪しんでいる、白を切り通すのは難しいだろう。切り通せたところで関係にはしこりが残る。 ならばいっそ完全に自白するか。ロレへの感情が原因で感情を封じたことを告げれば、ロレは罪悪感を抱くはず。それで今後の関係を有利に進めていくこともできる。 ロレを傷つけたくない、と主張する記憶もあったが、今の僕にはそんな主張なんの意味もない。それでいこう、と心に決めて僕はロレに言った。 「隠してるよ。なにを隠してるかはこれから言うけどね」 「―――なに?」 ロレが眉をひそめる。たぶん意外な言葉だったんだろう。 僕はロレに向けて、淡々と事実だけを告げた。 「僕は呪法を用いて感情を封じた。現在の僕は好悪、喜怒哀楽、ありとあらゆる感情を感じてはいない。それが君の感じた違和感の理由だと思うよ」 「は………?」 ロレは、唖然としたように小さく口を開けた。 「……なんだよ。どういうことだよそれ」 「だから、感情を封じたんだ。僕はもう嬉しいとも楽しいとも辛いとも苦しいとも感じない。ただ頭で考えて行動しているだけ。もちろん――」 息を吸い込んで、その決定的な一言を告げた。 「僕はもう、君を好きでもなんでもない」 ロレの愕然とした表情は、もし僕に感情があったら見物だと表現したかもしれない。 「………なん、だって?」 ロレはのろのろと口にした。否定したい感情が働いているのを知って、僕は少し怪訝に思った。僕の想いを受け容れなかったのはロレじゃなかったのか? 「僕はもう、君を好きでもなんでもない」 「―――っ二度言われなくたって聞こえてるっ! なんだよ……なんなんだよそれ!」 「なんだよもなにも、単純な事実だよ。僕はもう君を好きじゃない。君にとっては願ったりなんじゃないの?」 「な―――」 ロレは一度口を開いて、固まって、のろのろと閉めてからまた勢いよく開いた。 「そういう問題じゃねぇだろ! なんだよ感情封じるって!」 「僕は、ロレが僕のロレを好きだという気持ちを受け容れず、他に好きな相手を作ってほしいと思っているのを知っていた。だけど僕は君以外の人間を好きになれるとはとうてい考えられなかった。僕にとって君は、世界の全てで、生きる意味で存在価値で、いのちそのものだったから」 「………………」 「だから、君に迷惑をかけないように、嫌な思いをさせないように感情を封じた。それだけのことだよ」 「それだけって――んっだよそれ! 俺への想いを封じるために、嬉しいとか楽しいとか、そういうもん全部捨てたって!? んな……んな馬鹿なこと……!」 「僕にとっては馬鹿なことじゃなかった。僕にとって君はいのちだと言っただろう? 僕にとっては喜び楽しみそういう感情全て、君に出会い好きになったことで生まれたものだから。君に出会うまで僕は誰かを好きになることで生まれる喜びも楽しみも、感じたことがなかったのだから」 「だからって……だからって、これから誰かを好きになるかもしれねぇのに……!」 「誰か? 君という生きる意味の全てが今世界に存在しているというのに、どうやって誰かを好きになれるっていうの? 振られようが望みがまったくなかろうが、僕にとってはそんなこと問題じゃない。少しでも、君を幸せにしたい君の幸せの邪魔になりたくない――それが全てだったんだ。だから君の幸せの邪魔にならないよう感情を消した――そのせいで、君を傷つけないように全力を振るおうという感情も消えてしまったから、当初の目的は果たせなくなったけれど」 「………お前は………」 「これが僕の隠していたことだよ。わかってみれば単純な話でしょう?」 ――ロレは、僕の方を途方にくれた眼差しで見つめた。 ――俺は、ずっと、ひっかかっていた。 マリアと結婚する。その気持ちに、微塵も揺らぎはねぇ。ローレシアの国民の前で宣言したんだ、俺はこの世界一のいい女を絶対嫁にする。 けど。戴冠式やら祝賀会やら結婚式の準備やらで飛び回っている時。ふと、サマのことを思い出してしまうことがあった。 俺が結婚したら、サマはどうなるんだろう。 そんな思いが頭について回った。あの俺しか見えてなくて、自分がどんなに辛かろうが俺のために戦って、自分が死んでもまず俺の役に立てたかを確かめようとする、あのたまらなく哀れな男は、俺が結婚したらどうなるんだろう。 サマは生きるっつったんだ、あいつは俺に嘘はつかねぇ、絶対に生きて幸せになってくれるはずだ――そう言い聞かせるのに、俺の心のどこかがこう言う。『そんなことは無理だ』『あいつが俺なしで幸せになれるはずがない』と。 でもだからって、マリアとの結婚をやめるわけにはいかねぇ。やめたくねぇ。俺はあいつに惚れてるんだ。結婚して、ガキ作って、一緒の人生を過ごしていきてぇんだ。 ――じゃあサマはどうなるんだろう。俺は気がつくと、いつも考えちまっていた。サマは、あのどうしようもなく寂しい奴は、俺が誰かのものになったらどうなるんだろうって。 それを打ち消しながら、ごまかしながら、もう止まれるはずもなくて結婚式挙げちまっていた。その時はそりゃ嬉しかったが――それでもやっぱりサマのことが気になっていた。あいつはこれからどうなるんだろう、と。 それで今晩マリアに寝室から追い出されて(まー今晩までに相当な数ヤってたからな)。サマになにを言ってやればいいのか、なにを言ってやれるのか、わからないまま、俺はサマの部屋に来ていた。 ――だけど。だけど。 こんなのってありなのか。サマが感情をなくしちまったっていう。嬉しいも楽しいも全部、俺のために捨てたって。 自分の全部ってくらいだった俺を好きって想いも――全部全部消えたって。 頭の中がぐわんぐわんと鳴る。時化の時の船みてぇに揺れていた。天地がひっくり返ったかって想うぐらいの衝撃だった。 だって、俺は、今まで、一度だって。 ――俺のことを好きだと言ったサマが消えちまうなんて、思ったことなかったんだ。 「……どうやりゃ感情を元に戻せるんだ」 震える声で訊ねると、感情のないサマは首を振った。 「何重にも鍵をかけたから、ルビスさまの力でも借りない限り解けることはないよ」 「じゃあルビスさまでもなんでも呼んでやら!」 「できないことは言わないほうがいいと思うけど」 「どうでもいいんだよできるとかできないとか………!」 俺は苛ついた。たまらなく。感情をなくしたサマの、冷徹な言葉に。 ようやく気づく。サマのよこす感情の大波が。いつでもどこでも俺に向けて押し寄せる圧倒的なまでの全肯定が。俺は、なんのかんの言いつつ、気持ちよかったんだってことに。 どこまでも徹頭徹尾俺を信じるあいつの態度に、励まされ助けられてたんだってことに―― 「――絶対お前を元に戻してやる。ルビスさまをもう一回呼び出しても!」 「やめた方がいいと思うよ。意味がないから」 「なんだと!?」 「僕の感情が戻ったところで状況は変わらない。君はマリアと結婚し、僕に他に好きな相手を探せと言う。その状況で、僕に人生を諦める以外にどんな選択肢があるの」 「………っ!」 「自分の生きる目的が永遠に果たされないことを知りながら生きるのも、なんの希望もなく周囲からの応えられない愛情に苦しみながら生きるのも、感情を持った僕には酷なことだと思うけど。今の状況なら少なくとも君はマリアと一緒で幸せ。僕も不幸ではない。これがベストじゃないの?」 「………っこんなっ………こんな状況で、はいそうですかって幸せになれるわけねぇだろ!」 俺はぐいっとサマの襟首をつかんで持ち上げる。自分の目から涙がこぼれるのがわかったが、そんなもん無視して、感情をなくしたサマに迫った。 「なんなんだよ。お前は俺になにを求めてるんだ? 俺の幸せ? 俺が幸せなら自分なんてどうでもいい? 冗談じゃねぇ、俺はそんなもんほしくねぇんだよ! 俺は――俺だって、お前の幸せのためだったら、なんだって、してやるのに………!」 俺が泣きながら喚いても、感情をなくしたサマは冷静な口調と表情で答えるだけだった。 「それをもう少し早く伝えていればなにか変わったかもしれないけどね。でも僕はそれじゃ嫌だったんだよ。誰も愛せなかった僕がただ一人君を愛し、世界の全てが君になった。それなのにその世界の全てにいらないと言われれば、不必要だと言われれば、それは世界が自分を排斥したのと同じだと思わない?」 「俺がお前のこと不必要だなんて誰が言った!? 俺は馬鹿だからわかってなかったけど、俺はずっとずっとお前に助けられてきた! メシ作ってくれたのも旅の予定立ててくれたのも交渉してくれたのも、おまけに作戦考えてくれたのだって全部お前だ! お前がいなけりゃ絶対あの旅はうまくいかなかったのに……!」 「だけどそれは絶対に必要なわけじゃない。君なら自力でむりやり乗り越えていけただろう障害だ。僕のしたのは流れを少しスムーズにした程度。ルビスさまも言っていた――僕は旅に必要不可欠な存在じゃない」 「馬鹿言ってんじゃねぇっ! たとえルビスさまがいらねぇっつっても俺はいるんだよ! 俺はお前が必要なんだ! お前になにかしてほしいなんて思ってねぇ、ただ一緒にいてほしいんだよ!」 「嘘つき。旅の間ずっとマリアといちゃいちゃしてて、僕を省みたことなんてなかったくせに」 「だからそれは……!」 もう恥も外聞もなかった、とにかく必死だった。こいつを、もう俺のことなんて少しも好きじゃないこいつを、俺の方に向かせたかった。今までのこいつの気持ちがわかった、片恋ってのはこんなに果てがなく寂しいもんなのか。こいつがどんなに辛かったのかわかって――俺は、絶対にこいつの感情を取り戻させてやるって思った。 「俺が馬鹿だった、どんなにお前が大切か、自分でわかってなかったんだ! 振り返れば当たり前にお前がいるって思ってた、だからお前に甘えてられた。けど今は違う! お前を大切にしたいんだよ!」 「どうせ十把一絡げの、その他大勢と一緒の仲間≠ニして、でしょう?」 「そんなんじゃねぇ! 俺は、俺は………!」 頭がガンガンした。自分の無力感に膝が落ちそうになった。心臓が痛いぐらいに動いて体中に血を送り込みまくり、体全体が沸騰しそうに熱くなった。 そして昂ぶりのままに、涙をこぼしながら言ったんだ―― 「俺はお前が好きなんだ!」 ―――と。 『俺はお前が好きなんだ!』 ―――一瞬。 なにか、どこかの蓋が緩んだ気がした。 だけど気がしただけだ。僕はあくまで冷静に冷徹に、ロレに指摘する。 「でもマリアと比べて劣っているから意識することもなく放っておいたんでしょう?」 「違う! あ、いや、ある意味違わねぇけど、マリアは女でお前は男だろ!? 比べる土俵がハナっから違うじゃねぇか!」 「キスもしない結婚もしない抱いてもやらない、けど自分のもんだって?」 「――そうだ!」 「それは君にはとても都合のいい論理だね。最愛の恋人と――僕はなにになるのかな、気に入りの相棒ってところ?――僕のおいしいところだけつまみ食いできるんだから」 「俺はつまみ食いして捨てるみてぇなもったいない真似しねぇ!」 「じゃあ責任持って最後まで食べてくれるっていうの?」 「ああ!」 「――なんで? 僕はさして君にとっては魅力的でない獲物のはずでしょう? 最初からずっとつれなくしてきて、どうして今ほいほい食べる気になれるの?」 「――そりゃあ俺のほうが知りてぇよ」 一瞬ロレの顔が冷静――というか、沈んだ顔になった。どこか辛そうな顔で僕を見る。 「え?」 「なんでお前は俺が好きなんだよ。俺のどこがそんなにお前は気に入ったんだ? しかも会った直後から」 「…………自分の欠けたところにぴったりとはまるから、だったみたいだね。自分とは正反対にごく当たり前に人を、世界を愛するから」 「じゃあ俺もそれだ。お前のたった一人を命かけて愛するひたむきさと、自分の優しさを愛とか絶対言わねぇ潔癖さに惚れたんだ」 「…………」 僕は困惑した。そんなことを言われるとは、思ってもみなかったからだ。ロレは真面目で真剣な、固い表情でこちらをじっと見ている。 ――その答えを聞いて僕の体の奥底で、なにかがマグマのように燃え滾っているのがわかる。発熱症状か、と僕はその感覚を無視した。 「――でも惚れたと言っても、しょせん君にとって僕は男なわけでしょ? 男だっていう理由で、僕は君には永久にキスも情交もしてもらえないんでしょう?」 「――キスしてほしいのか」 「―――ううん、別に?」 「――――」 ロレがぐい、と僕を引き寄せてひょい、と身をかがめた―― と思った次の瞬間、僕は唇を奪われていた。 「――――――――」 僕は体の動きを止める。たかが唇と唇が触れただけのことだ、第一感情を封じた僕がなにも感じるはずはない――なのに。 ロレの舌が唇に触れるたび、体が燃えた。ロレの唇が舌を挟むたび、心臓がおかしくなった。ロレの歯が肌を甘噛みするたび体の芯が、耳から爪先まで熱くなった。 なんで―――なんで、こんな。 「なんでこんなことするの」 僕は平板な声で聞いていた。 「僕はこんなことしてほしくない。君がしたくもないことをしてもらうなんてことは、金輪際ごめんなんだ」 「――そうか。けど、俺はする」 「僕に同情して? やめてよそんなものいらない。君に同情されて、可哀想だからって理由で君を幸せにすることもできないままただ与えられて、いずれ放り捨てられるんなら最初からいらないって放り出された方がマシだ」 ロレはさっきまで涙を流していたんだけど、僕のその言葉に小さく笑みを浮かべた。 「そうか。だからお前は俺に与えたがったんだな。与えられるばっかじゃ相手に支配されちまうから。単純に自分よりも俺の方が大事だってのもあったんだろうけど――男と母親の発想が入り混じってんな、なんか」 「…………」 僕はなにも言えず、ただ立ち尽くす。ロレはじっと僕を、僕の体の底を熱くさせる熱っぽい目で見て言った。 「お前がどんなにするなっつっても、お前がしてほしいと思ってる限り俺はする」 「―――なにを、言って」 「お前、俺の幸せのためになんでもするって言ったよな。――俺も同じこと、言っただろ?」 「だから、同情は――」 「そんなんじゃねぇよ。俺はただ――お前を幸せにしたいだけだ」 「――――!」 僕は、ロレのその言葉に、真剣な形相で必死に言われたその言葉に――なぜか、脳の芯が電撃を流したように痺れ、暴れるのを感じた。 なんでだろう、頭が――体も、ひどい風邪を引いた時みたいに熱っぽい。 「俺はお前に幸せになってほしいんだよ。マリアと一緒にいてどんなに幸せでも、お前が世界のどっかで一人で泣いてるって思うと、俺はたまんなくなる。お前の幸せのためなら、俺はそれこそなんでもする。キスだろうが房事だろうが、なんだってやってやるさ。前にも言っただろ――お前のためになにかしてやりたいって。男として、友達としてにしろ、俺はお前に惚れてるんだからな」 「―――そんな、僕は、僕は、ただ君の幸せのために在るのに―――」 「………そうじゃねぇ。俺が、お前を幸せにできると嬉しいんだ」 「―――え」 ロレはじっと僕を見つめた――優しい瞳で。 ―――なんで? 僕はロレに、そんな瞳で見つめられたことなんて一度もないのに。 そんな資格も必要性も、僕にはないのに。 「お前を俺の力で幸せにできたって思うと、胸んとこがほこって暖かくなる。気持ちよくなる。幸せな気分になって、誰にでも優しくなれそうな気がしてくるんだ。マリアを想う気持ちとは違う、あいつの場合はただ一人、あいつだけを、今まで通りに自分と自分の好きな奴だけを、特に一番好きなマリアを大切にしたいと思うけど――お前を想うと、俺は、世界の全てに優しくしたくなるんだよ」 「え…………?」 「お前を想うと、俺は優しくなれるんだ。ひたすらに俺が好きで、自分のことなんてどうでもいいお前に優しくすると、本当に世界の不幸な奴みんなに優しくしてるみてぇな気分になって、暖かい、今まで感じたことねぇみてぇな優しい気持ちになれるんだよ。――それって、間違ったことじゃねぇだろ」 「―――――」 「お前に優しくすると――俺は幸せになれるんだ」 その言葉を聞いたとたん、僕はがっくりとその場に崩れ落ちた。 「―――サマ!」 俺は叫んだ。サマの体が激しく震えている。 発作かなにかか、呪法ってやつの副作用か、と俺は慌てて医者を呼ぼうとサマから離れようとして、腕をとんでもなく強い力でつかまれた。がくがく震えながらサマは俺を必死の形相で見つめる。 「―――もう一回、言って」 「は?」 「もう一回、言って」 「………お前に優しくすると――俺は幸せになれるんだ」 俺が繰り返すと、ぶわ、とサマの瞳から涙が流れ出した。俺はぎょっとしてサマの肩をつかむ。 「おい、サマ、大丈夫か!? しっかりしろ、おい!」 「――――嬉しい」 「―――サマ?」 今………こいつ、嬉しい、って言った。 俺がごくりと唾を飲み込んで見つめる中で、サマは、いつものこいつの笑顔――嬉しくって幸せでしょうがない、って感じのたまらなく優しい笑顔を浮かべたんだ。 「僕、このまま死んじゃいたい……これ以上幸せなことって、この先一生ないもの……」 「……バカヤロ。俺が何度だって味わわせてやる。――死ぬとか言うな」 「ロレ………ロレ、ロレ、ロレ、ロレ」 「ああ、いる……ここにいるからな、サマ、サマ、サマ………」 俺はサマを思いきり抱きしめて、何度も名前を呼んだ。柔らかい髪を、形のいい頭を、しなやかな背中を撫でながら。 泣きたくなるほど暖かい気分だった。 僕は本当に単純にできてるんだと思う。だってロレを僕が幸せにできることがある、って思っただけで気持ちが封印破っちゃうくらい動いちゃうんだもの。 僕は目が腫れぼったくなるぐらいに泣きながら、たまらなく幸せな気分で、ロレに抱きしめられていた。 ――僕の涙が止まった頃、ロレは僕の耳元で囁いた。 「――落ち着いたか?」 僕は一瞬びく、と体を震わせながらもうなずく。……困る。僕、ロレの声だけでたまらなくドキドキしてゾクゾクしちゃってる。こういうのを声に感じるって言うんだろう。 やだな、ロレはそんな意識全然ないのに………。 「うん……ありがとう、ロレ。僕……」 「なにも言わなくていい。世の中には黙っといた方がいいことってけっこうあんだよ」 「うん……そうだね……」 僕がどんなにロレを好きで、どんなに感謝していて、今どんなに幸せか、百万言を尽くしたところで語りきれるはずがないのだから。 「――よし。じゃ、ヤるか」 「―――え?」 僕が目を丸くすると、ロレはにっと笑って、僕をひょいと抱え上げてベッドに放り投げた。僕はちゃんと受身を取ったけど、僕が立ち上がるより早くロレが上体を倒してくるのを見て僕は仰天する。 「ロ、ロ、ロ、ロレ!? なに、なにする気!? いったいどうしたの!?」 「こら、暴れんな。ただこれからヤろうってだけのことなんだからよ」 「………はぁ!?」 僕は二度仰天した。 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。なんで? 僕、そんなことしてもらうわけにはいかないよ、ロレ気持ち悪いんでしょ、僕そんなこと望んだりしないから――」 「コラ」 ロレは苦笑して、ちゅ、と僕の鼻の頭にキスをした。………困るよ、こんなことされたら嬉しくなっちゃう。 「言っただろ、お前が喜んでくれるのが嬉しいって。そー卑屈になんなよ」 「………だって」 「あー違うな、それも俺のせいか……まーとにかくだ。俺はお前が喜んでくれるんならキスだってするし抱きもする。それにこの状況じゃ抱かねぇ方がおかしいだろ?」 「だって……だって、気持ち悪いでしょ?」 ロレはまた苦笑した。 「あん時は俺ん中でお前の立ち位置が決まってなかったからな。今はお前は特別席にいるってわかってる。大丈夫だと思うぜ?」 「でも、でも………ロレ、浮気になっちゃう。せっかくマリアと結婚したのに……」 ロレは苦笑の顔のまま頭をかく。 「まぁなぁ……マリアには後ろめたいわな。喧嘩もするな、たぶん」 「だったら」 「けど、あいつもお前のことが大切なのは知ってる。それにあいつにはあいつの特別席が用意してあるのも知ってる。お前らは全然別のとこにいんだよ、争うもんじゃねぇだろ」 「だ、だけど……」 「それに俺は二人同時に幸せにするぐらいの甲斐性は持ってるぜ?」 ロレににやりと笑ってそう言われ、僕は真っ赤になって撃沈した。 駄目だ、逆らえるわけない。だって、僕は―― 心のどこかでずっとずっと、その時を夢見てたんだから。 俺はサマにキスをした。何度も何度も。時には軽く、時には舌を絡めて。 サマはは、は、と息を荒くしている。……この程度で息が荒くなるのは、初心者だからなのか俺が好きだからなのか。 ちっとばかし助平な気分になってきて、服を着たまま股間をサマの股間にすりつけてやった。サマのそこはもう熱かった、唇に、頬に、耳に首にキスをしながらぐりぐりと押し付けてやると、「あ、あ」とか可愛い声を出す。 ……男に可愛いってなぁ、と俺の理性は言うが、そう思っちまったんだからしょうがねぇ。俺はこいつを可愛いと思っちまってんだ。だって見返り求めずひたすらに俺に尻尾振りまくるんだぜ、可愛いと思うしかねぇだろ。 季節は冬、サマは厚手の寝巻きの上にローブを羽織っている。だがそんなもん脱がすのに大して手間はかからねぇ、ぱっぱと脱がしてパジャマのボタンを外す。 サマが震える手で俺の服の裾を握った。目を閉じてまるでなにかに耐えるみてぇに小刻みに震えてる。……ウサギかてめぇは。 ちょっとばかし面白くなかったが、それだけこいつも不安なんだ、ということに思い至り、しゃーねーなと笑ってサマの頬をつついた。 「おい」 「………っ、なに………?」 おそるおそるという感じに目を開けたサマに、にっと笑いかけて腕を背中に回させてやる。 「不安なんだったら、手はここな。爪立ててもひっかいてもいいから」 そう言うと、サマはカッと顔を朱に染めた。 僕はすぐ間近にある真剣なロレの顔を見つめた。ロレは僕に抱きつかれた不自由な格好で、みるみるうちに服を脱がせていく。 水がお湯になる程度の時間で、僕は素裸になった。 僕は顔を真っ赤にして身をよじった。どうしよう、泣きそうなくらい恥ずかしい。僕の全部が、なにも隠すところなくロレに見られてるんだと思うと、死ぬんじゃないかってくらい心臓が早鐘を打つ。 ―――でも、嬉しい。 ロレは僕を見てくれていた。優しい瞳で見てくれていた。気色悪いという顔ではなく、暖かい、というより少し熱に浮かされたような瞳で。 それがどんなに嬉しいことか、ロレにわかってもらえるだろうか。 「ロレ……」 たまらない気持ちでそう言うと、ロレはあ、となにかに気づいたような顔になった。 「悪い、俺も脱がなきゃな」 「え?」 なにか言う暇もなくロレは体を起こし、服を脱ぎ始めた。思いきりよくぽいぽいとベッドの外に服を脱ぎ捨てていく。 僕はうわぁ、うわぁと思いながら太鼓の連打のようにうるさい心臓の音に耐えていた。どうしよう、ロレが、裸になって目の前にいる。 ロレの上半身裸とか股間とかは見たことがあるけど――全身素裸っていうのは初めてだ。 たまらない気持ちになって僕はロレを見つめた。どうしよう、めちゃくちゃカッコいい―――六つに割れた腹筋も、逞しい腕も、引き締まった胸筋も、全部全部カッコいい。 そして、きれいだ――潤んだ瞳で見つめていると、ロレはにっと笑って身を乗り出してきた。 「どーした。そんなにいい男か?」 「うん………世界で一番カッコいいよ……」 僕がたまらない思いでそう言うと、ロレは少しだけ顔を赤くした。 「……いつもながらお前けっこう言うな。余裕じゃん」 「余裕なんてないよ。心臓、壊れそう……」 目を潤ませながらそう言うと、ロレは一瞬言葉につまり、それからにっと笑って僕にのしかかる。 「壊れたら俺が直してやるよ」 「ん……あ、ふぁ、ん……」 乳首を転がしてやるとサマは泣きそうな声を出した。尻を揉んでやると息を荒くした。感度いいな、こいつ。 股間のブツを触ってやると――平均と比べて小さいというほどじゃないが細身のサマらしい感じのブツだった――たまらないという声で喘ぐ。 「このままイくか?」 訊ねると、サマは首を振った。 「僕……ロレと、一緒に、イきたい………僕だけじゃやだ……」 ……のやろ、可愛いこと言いやがって。 「……痛いぞ、たぶん。俺も経験ないからよくわかんねぇけど」 「痛くてもいい。ロレが僕に与えてくれるものならなんでもいいよ」 ……この健気野郎め………。 「……四つん這いになって尻高く上げてろ」 ロレが唾をつけた指で僕の入り口に触れたので、僕は一応聞いてみた。 「ロレ……男同士のやり方、わかったの?」 ロレの答えは少し不明瞭だった。 「いや、わかったっつーか……いろいろ考えてこーなんじゃねぇかなー、と思ったっつーか……」 「……教えようか? やり方」 ちゃんとやらないと僕はともかくロレまで痛くなっちゃうもんね。 そんなわけで、僕は荷物から水気の多い軟膏を取り出し、それを使ってもらうことにした。 ロレの濡れた指が僕の入り口に触れる。何度も何度も優しく入り口を撫で、僕の太腿やらお尻やらを別の手で撫でて安心させてくれながら(ここらへんロレ優しいな、って思うのとロレ手馴れてるな、って思う気持ちが入り混じる)――僕の中にロレの指が入ってきた。 「…………!」 「……痛いか?」 「痛くない……けどっ、なんか……」 「なんか?」 僕は体の奥の方にずんと響くロレの体温に、体をたまらなく熱くしながら答えた。 「……変にっ……なりそうっ………」 ロレは一瞬黙って、すぐ僕の中を広げる作業を再開した。 ――それは作業って言っていいものだったんだろうか? ロレの指が僕の中で動く。僕の体の中で。 それはロレに僕の中まで知られ、探られ、挿れられ。僕にロレの体温が移るというか、僕の中にロレの成分が広げられていくというか、ロレと僕の境界を少しずつ曖昧にしていく作業のようで、僕にとってはたまらない快感をもたらす行為だった。 僕は幸せのあまりすすり泣きながら何度もロレに訊ねた。 「ロレ、気持ち悪くない? つまらなくない?」 そのたびにロレは優しく答えてくれた。 「気持ち悪くなんかねぇよ。お前の中、指挿れてるだけで気持ちいいよ」 そんな声が僕の体の芯を痺れさせ、ロレの太い指が僕の中をかき回すたびに背筋が震え、僕はしだいにもう頭がぼうっとしてなにがなんだかわからなくなってきていた。ただロレをもっと感じたくて、ロレの顔が見たくて必死にロレの方を向いた。 だから、ロレが僕の体を引き寄せ、腰を持ち上げた時も、僕は状況がよくつかめていなかった。 「挿れるぞ」 そんなロレの掠れた、熱っぽい声が耳元でして―― どずんっ、と耳元に衝撃がやってきた。 『…………っ…………!』 俺たちはほとんど同時に息を詰めた。 サマもたぶん痛いんだろうが、俺も痛かった。サマの締めつけはめちゃくちゃ強烈で、ほとんど思いきり握られてんじゃねぇかってぐらいだったんだ。そんなんじゃ当然俺も痛い。 けど、俺は抜かなかった。 「サマ。俺と呼吸を合わせろ。深呼吸するんだ」 「………っんうんっ………」 顔を間近に近づけて、吸って吐いてを繰り返し。安心させるようにサマの体を撫でてやり。 サマの中の襞を分け入って――俺はようやくサマの中に俺を全部収めた。 しばらくそのまま動きを止める。俺はぼうっとしてるサマに顔を近づけて、囁いた。 「大丈夫か、サマ。痛くねぇか」 サマはぼうっとした顔で俺を見て――ふわーっと、泣きそうな顔で微笑んだ。 「………どうした」 「だって………ロレ、だって」 サマはぽろ、ぽろぽろ、と涙をこぼしながら俺にめちゃくちゃ幸せそうな顔で笑う。 「こんなの嘘みたいだ。夢見てるみたい。絶対にかないっこないって、神様にだって祈ったりしなかったのに」 「………サマ」 「もう……今すぐ、時間を止めてもらいたいぐらい………」 「………サマ………」 サマは俺を見つめる。俺もサマを見つめる。お互い裸でぴったりとくっつきながら、ただ、相手を見つめた。 「ロレ―――大好き。愛してるとか、そんな言葉じゃ全然足りない。君は僕の――命の全部なんだよ………」 「サマ………ああ、サマ。わかってる………」 愛してる、とか言ってやりたい気もしたが、俺はどうしてもその言葉を捧げる気にはならなかった。俺にとってこいつはそういう存在じゃない。恋愛して、惚れたの腫れたのやる対象じゃない。 けど、たまらなく大切だった。俺を命の全部という、この視野の狭い、俺だけしか見えてない、俺しか幸せにできないこいつが、たまらなくいとおしかった。 俺はゆっくりと体を倒し、サマを抱きしめた。サマも俺に抱きついてきた。 俺はサマの顔を見ながら、軽くキスをしてこう言った。 「お前は俺のだ」 「うん」 「俺がお前のものなのと同じに」 「……こんな時ぐらい嘘つかないでよ。ロレは僕のものじゃないでしょう」 「ああ、お前がサマルトリアに縛られてるのと同じにな。俺はローレシアはじめいろんなもんが大切だ。――けど、こうして向きあってる時だけはお前のことを考えてる」 「………ロレ………」 「少なくとも今ここにいる俺は――お前だけのものだ」 そう言ってキスをしてやると、サマはぶわっと涙を流した。 「ロレ。好き、大好き。愛してる」 「ああ………俺もだ。大好きだ」 言葉に出せなくても、俺もだ、と返すことならできる。ずるい方法だってのはわかっちゃいたが、それでもこいつを少しでも幸せな気持ちにしてやりたかった。 お互いにお互いを抱きしめた。お互いの体温が伝わってくる。お互いのことをすごく今近くに感じていた。 ―――ずっ。 俺が腰を動かすと、サマはあ、と悲鳴のような声を上げた。 「大丈夫か?」 「うん、大丈夫………!」 幸せで満たされすぎて、そこに刺激を与えられたら溢れ出してしまいそうだった。僕の中が、ロレで本当に、身も心もいっぱいになっている。 ―――ずっ、ずっ。 俺はサマにぴったり体をくっつけながら腰を動かした。俺との腹の間でサマのが擦れる。サマの中も、腹に触れるものも、全てがたまらなく熱かった。 ロレの熱い楔が僕の中に分け入ってくる。それは頭がおかしくなりそうな快感だった。ロレとぴったりくっついて、ロレが僕の中に入ってきてくれる――ひとつに、なる。 「あ、あ、あ、ロレ、ロレ、ロ……」 「サマ、サマ、気持ちいいか?」 「う、んっ、ロレは、ロレは?」 「ああ――気持ちいい、めちゃくちゃ」 それは本当に気持ちよかった。サマの締めつけが適度に緩み、襞が動く俺を愛撫する――そういう気持ちよさもあったが、それ以上にサマが俺の手で快感を感じていることが、それがわかることが、お互いの体温が混じりあうぐらい近くにいることがたまらなく気持ちよかった。ずっと傷つけてきたこいつを幸せにできているということが嬉しくて、気持ちよくてたまらなかった。 ロレが僕の体で気持ちよさを得ている――その歓喜が誰にわかるだろう。ずっといやな思いばかりさせてきたロレに、僕が、快感を与えている。いい感情を、気持ちよさを与えられているんだ………。死にそうになるほど、幸せで気持ちよかった。 「ロレ、ロレ、ロレ、好きだよ、大好きだよ、大好き……!」 「サマ―――サマ、サマ……俺もだ、俺もだ……!」 動きが激しくなってきた。自然に、叩きつけるように腰が動いていた。 ロレの腰に足が自然に絡まった。深く深く、どこまでも深く入ってきてとねだった。 お互いの息が、熱が、混じりあい、同調し、一緒に昂ぶっていく。 「は、は、は、はっ」 「あ、あ、あ、あぁっ」 もっと。深く。奥まで。熱く。体温が、熱が、息が、命が魂が混じりあう。どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが相手なのかわからなくなるくらい。 「サマ、サマ、サマ、サマ……!」 「ロレ、ロレロレロレロレ、ロレ……!」 世界が爆発する。新しく産まれる。痛みすら感じるほどの快感でお互いが満たされる。お互いがお互いだけになって、熱も快感も幸福も全てが混ぜこぜになって、どこまでも彼方へ――― 『はぁっ………!』 僕と俺は、ほぼ同時に絶頂に達していた。 ときおり休んで、ただお互いの体温を感じ、そしてたいていは激しく相手に熱を与えあいながら、僕たちはいつの間にか眠りに落ちていた。どっちもわけわかんなくなってきちゃったんで定かじゃないけど、たぶんロレの方が先だったと思う。 僕の方が先に目が覚めた。ロレは僕を抱きしめながら、眠っている。もう二十歳にはなっているのに寝顔は幼い――旅をしていた頃と同じに。その頃は同じベッドで目覚めるなんて、絶対にありえないことだったけど。 じっと僕はロレの顔を見つめて、微笑んだ。たまらなく幸せな気分だった。 ロレが隣にいる。僕を好きだと言ってくれた。お互いにお互いを、幸せにすることができた。 それはただ嬉しいとかそういう言葉じゃ表せない喜びだった。新しく生まれたような気分だった。世界が――贅沢ではあるけれど古ぼけた感じは否めないこの部屋も、窓から見える雲も空も街も森も、全てが輝いて見えた。 ロレはたぶん、僕とマリアどちらがより大切かといったら、マリアになるのだろう。 惚れているのも、愛しているのも、守りたいのもマリアだ。 だけど、そんなことはどうでもいいことだ。ロレが誰を好きでもいい。ロレは、僕には僕の特別席があると言ってくれたのだから。 僕はロレを幸せにすることができる。ロレも僕を幸せにしたいと思ってくれている。それ以上のなにがいるだろう。 繋がった――そう思った。ずっとすれ違ってきた僕たちが、ようやく真正面から向き合えた。 だからむしろ、ロレの好きな人に好きだと言ってあげたい気分だった。ロレの好きなもの全て、僕も好きになれそうな気がした。ロレの愛する世界を、愛せるような気持ちになった。 そうか――僕は知った。こうして新しく始まることができるんだ。 好きな人がいて、その人が自分を好きだと言ってくれる。それだけで世界は変わる。 でも言ってくれなくてもそんなことは本当は問題じゃないんだ。自分がどんなに愚かでも、なにもできなくても、人を愛せなくても――自分を肯定することができさえすれば、人はいつだって新しく始まることができる。新しく生まれ変わることができるんだ。 ………ハーゴンにも、このことを、伝えてあげたかった。 今なら、ハーゴンに、好きだと言ってあげられそうな気がするのに―― 「なんて顔してんだよ、コラ」 「ふぎゅっ」 ロレに鼻の先をつかまれて、僕は呻いた。 「……ロレ、起きてたの?」 「さっき起きたんだよ。初めての朝だってのになんだその暗ぇ顔は」 「うん……ちょっと、ハーゴンのこと考えてて」 そう言うと、ロレはむぅっと不機嫌な顔になった。 「俺が目の前にいんのに他の男のこと考えてんじゃねぇよこのボケ!」 「わっ、ちょ……ロレ!」 僕は押し倒されて、あちこちを触られた。息があっという間に荒くなってくる。 「ロレっ、ごめん、僕なにか悪いこと、言ったっ?」 「………妬いてんだよ、そんくらいわかれタコ!」 「え………」 妬いてる? ロレが、僕に? 「うわ………」 僕はカーッと顔が赤らむのを感じた。どうしよう、どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。恥ずかしいけど、すごくすごく嬉しい。ロレは僕のことを、本当に自分のものって考えてくれてるんだ。 ロレはそんな僕を見て、少し顔を赤くして。微笑んで、ちゅ、と額にキスしてくれた。 「……好きだからな」 「うん……」 窓から光が差し込みはじめた。はっとそちらを見ると、地平線から朝日が昇っていくのが見える。 新しい一日が始まるんだ。 「―――本当に、いつだって新しく始まるんだね………」 「なんだよ、そりゃ?」 僕を抱きしめながら、ロレが不思議そうな顔で問うので、僕は笑った。昨日とはまた違う、新しい幸せな笑顔で。 「君を好きになって本当によかった、ってことだよ」 そしてロレに初めて自分からキスをした。 |