僕たちが立ち上がると、どこからともなく美しい声が聞こえてきた。――ルビスさまの声だ。 『破壊の神シドーは混沌に還りました。魔を統べる者ハーゴンがいなくなった以上、また少なくとも数百年は平和が続くことでしょう』 「ルビスさま………」 ロレが息を詰まらせるような声を出す。 「あんた、ずっと俺たちのことを見てたのか?」 『ええ、見ていました。私の今の力では、見ていることしかできませんでしたが』 「……どう思った?」 答えが返るまでには、少し間があった。 『見ていることしかできない我が身をここまで恨めしく思ったのは、久しぶりでした』 「…………」 『私は、できることなら世界の全ての存在が幸せになれるよう力を振るいたい。世界の子供たちを、誰も不幸にはしたくない。――ですがそれはできないことですし、それ以上にしてはいけないことなのでしょう。神はしょせん、世界の親にしかすぎないのですから』 「――世界の親?」 『そう。親は子供が我が手の中にあるうちは精一杯愛情をこめて守り面倒も見るけれども、子供が一人立ちしたならばもうその人生に口出しをしてはなりません。子供の人生がどうなるかは子供の選択――ただ世界を産み出したというだけの存在が、世界の一人一人の事情に首を突っ込み、行いを正すのはお節介、越権行為と言うべきでしょう』 「…………」 『――ですが。自分にはどうしようもない理由で、ずっと虐げられてきた存在を見ると――せめてそういう存在だけでも救えたらよいのに、と心から思います………』 わずかに震えるようなその美しい声に、ロレはわずかに苦く笑んだ。 「あんたのせいじゃないさ。そこらへんは今生きてる俺たちの責任ってやつなんだろう。――俺たちがそういう奴の面倒見てやらなきゃならねぇんだ――幸い俺らはそれを任されてる王族って立場なんだからな」 「そう、ね……」 ルビスさまの声はわずかに微笑んだようだった。 『――あなたたちは私の可愛い子供たち。私はあなたたちにはことに幸せになってほしいと願います。私には見守ることしかできませんが――せめて祈りましょう、大いなる神に。あなたたちに、私の可愛い子供たちの人生に、常に光があるように―――』 ぷわ、とマリアの首にかけた首飾りが光を発した。それはみるみるうちに僕たちの視界を埋め尽くし、なにもかもが真っ白に染まって―― 光が消えたと思った瞬間、僕たちはロンダルキアの大雪原の中に立っていた。 「神殿が……」 マリアがぽつりと言った。ハーゴンの神殿は消滅していた。跡形もなく。ルビスさまがそんなことをするほど力が余っているとは思えないから、これはたぶんハーゴンの残した仕掛けだろう。外に運んだのはルビスさまだろうけど。 ――なんとなく、自分が存在したという証を、少しでもなくしたかったんじゃないかなと思った。自分のことをわかってもくれない人に、どうこう言われたくなくて。 「――首飾りがなくなってるな」 ロレがじっとマリアの胸元を見つめて言う。マリアがは、とした顔になって胸元を探るが、ルビスの守りは消えていた。その役目を終えてルビスさまの元へ還ったということなのだろう。 ロレと、僕と、マリアは、しばし消えたハーゴンの神殿跡を黙って見つめた。二人はたぶんこの旅が終わったという感慨にふけっているんだろう。もしかしたらハーゴンのことも考えてくれているかもしれない。 僕はただ、最後の最後で少しだけロレの役に立てた、ということを思い出して、しみじみと喜びを噛み締めていた。 思っていたような、天国に行けたように嬉しい、というのとは少し違う。ただ、しみじみ嬉しかった。自分が少しでもロレの幸せに寄与できた――その想いは体中にじわじわと広がり、思い返すたびに僕の心を暖めた。 こういうのを、幸せな気持ちって言うのかもしれない。 ハーゴンにも味わわせてあげたかった――とは思わない。それはハーゴンに対してあまりに悪い気がした。ハーゴンは自分の存在を、自分の抱いた想いの全てを否定された瞬間から、自分の意思で、生きることを断絶したのだから。 ただ、ハーゴンが幸せを感じることがあるとしたらなにか、僕はそれに似たものを与えられたのか、というのは少し知りたい気がした。 僕も自分の全てを否定された――でも、生きている。生きていかねばならない。僕の心臓が自然に鼓動を止めるまで。 それは最初思ったほどは難しくないだろう――この一時の幸せな感情の思い出と、ロレが僕の命を惜しんだという事実の記憶があれば。 これから先の人生は、辛く、長く、苦しみに満ちているだろうけど、僕はずっとそうやって生きてきたのだから。思い出は僕を救うだろう――同様に、愛する人と出会えたのにほとんどなにもしてあげられなかったと今までになかったような形で苦しめもするだろうけど。 最後の最後でようやく少し確信を持って、助けたと言うことができることがあったぐらいなのだから。 ――小半刻の半分くらいの時間が経ってから、ロレが僕たちの方を振り向いた。その顔に浮かんでいたのは、いつも通りの自信たっぷりで不敵な笑みだった。 「よっしゃ、じゃさっさと帰って凱旋といくか!」 マリアがくすりと笑った。 「――そうね」 僕もわずかに笑って、うなずいた。 最初にルーラで飛んだのはロンダルキアの祠だった。老夫婦に無事終わったことを知らせたかったのだ。 信仰心豊かな老夫婦は、涙を流して喜び、ルビスさまに祈りを捧げた。 それからディリィさんのところへ飛んだ。ロトの剣を返すためだ。 ディリィさんはもうなにもかもわかっているかのような顔で、うなずいて励ますように背中を叩いてくれた。 「お主たちの国の凱旋パーティには招待してくれよ」 そんな言葉と共に、僕たちはディリィさんと別れた。 そしてルプガナへ飛んでオルガさんに挨拶、魔船を返却して。 僕たちは一気にローレシアへ飛んだ。ロレとマリアがそうしてくれと言ったので。 だけどローレシアの街門の前に降り立ったとたん、わぁっと歓声を浴びせられて驚いた。まるで僕たちを待ってたみたいに人が群れている。 本当に僕たちを待っていたのだと知ったのはあとになってからだった。なんでも聖職関係の人間の多く、感受性の豊かな人間全員に僕たちがハーゴンを倒したことを知らせるルビスさまのお告げがあったらしく、ハーゴンに襲われた記憶も新しいローレシアの住民たちはいてもたってもいられず僕たちを出迎えに来てしまったんだそうだ。 周囲から歓声を浴びせられながら、けれど道を遮られることはなく、僕たちはローレシア城へと向かう。 「ロレイソム王子、万歳!」 「ロトの子孫に栄光あれ!」 「ローレシア王家万歳! 御世とこしえに!」 「ルビスさま万歳!」 ほとんどローレシア関係の人間に対する褒め言葉しか出てこないのは、ここがローレシアである以上仕方のないことだろう。 やたらめったら花を撒かれて、ほとんど花の絨毯のような道を、街の人々の歓喜の声に包まれながらローレシア城まで歩く。 ローレシア城は解放されていた。今日この時を祝うためだろう。それでも城門の前からは通路の両脇を軍楽隊が固め、トランペットを高らかに吹き鳴らしていた。 僕たちはあるいは少し戸惑いながら、あるいは少し照れ笑いを浮かべながら前へ進み、謁見の間へたどりついた。ローレシア王と王妃はじめ、ローレシア王家の人間が勢揃いでお出迎えだ。 僕たちが礼式通り規定の場所で立ち止まりひざまずくと、ローレシア王は玉座から立ち上がりすたすたとこちらへやってきた。 「もはやひざまずく必要はない、ロトの勇者たちよ! お前たちは今日この日、世界を救ったのだから! その行為の価値、計り知れるものではない!」 そう言って王はすっと王冠を外した。右手に持った王錫で、ぽんぽん、とロレの肩を叩く。 「今日この日、ローレシア王セルメンダ・オーマ・ローレシアは譲位を宣言する! 今日この時よりローレシア王は、ロレイソム・デュマ・レル・ローレシア、いいやロレイソム・オーマ・ローレシアである!」 わぁっと周囲の兵士たち、貴族たち、観衆として入り込んでいた町民たちが沸いた。ロレが一瞬目を大きく見開く。 それからローレシア王としばらく小声で言葉を交わして、それから小さくうなずいて言った。 「――謹んで、お受けいたします」 また周囲が大きく沸き立つ。こりゃまた突然な展開だな、と思っていると王冠と王錫を受け取ったロレが立ち上がって言った。堂々と、強烈な威厳を携えて。 「ローレシアの民よ! 今この時よりローレシアの王となったロレイソム・オーマ・ローレシアが宣言する。この平和は我らロト三国の王位継承者たちが協力して勝ち取ったものだ! 我らロト三国は、これからもこの平和のため協力し合い、助け合ってその身を賭して戦うことを誓う!」 さらに周囲が沸く。手を上げて周囲を静めてから、ロレは言った。 「その証のひとつをここに見せよう! 我ロレイソム・オーマ・ローレシアはムーンブルク王女マリア・テューラ・イミド・クスマ・ムーンブルクに、女王位の継承を待って結婚を申しこむことを宣言する!」 そう言ってロレはマリアを立ち上がらせ、いきなり抱きしめてキスをした。 周囲がこれまでで最大のどよめきを発する。それを追いかけるようにして歓声が空間を満たした。 マリアが真っ赤になってロレを押しやる。「こんなところで」とか「いきなりすぎるわ」とか言っているのが聞こえた。 ―――僕はといえばひざまずきながら、ただ、その光景を眺めていた。顔にはわずかに笑みを浮かべて、誰からも少しも怪しまれないような顔で。できるだろうかと不安だったけどわりあい簡単だった。 僕は、そういうもの全てを、ロレに与えられる苦しみ全てを受け容れながら生きていくと決めて、今ここにいるのだから。 |