過去の栄光
 その時、自分は初めて他人を愛しいと思ったのだ。
 自分の手をぎゅっと握ってくれる小さな手。涙をいっぱいに溜めてこちらを見つめる一生懸命な瞳。六歳年下の子供に、男に、自分は生まれて初めて誰かを愛しいと思う気持ちを教えられた。
 どちらにとっても意味のないこと。無駄なこと。あるべきではない間違った感情。それはわかっている。
 けれど自分は、その気持ちを失うくらいなら死んだ方がマシだと、自ら問いかけるたびに繰り返して答えている。――今でも、まだ。

「でりゃっ!」
 エディシュが銅の剣で大烏の頭を叩き潰す。自分もたんっと宙に舞い、くるりと体を回転させて踵落としを放った。
「フッ!」
 レックスの得意な空中回転踵落とし。飛び上がろうとしていた大烏はそれをもろに受け、頭蓋を叩き割られて落ちた。
「おー、終わった終わったー。さっすが勇者とその年で免許皆伝受けた武闘家、遊び人なんて出る幕ないねー」
「あのなー、お前も戦えよ! 戦ってる最中に寝んじゃねー!」
「あー無理無理。お前だって知ってるだろ、遊び人はレベル上げると自分の意思に関わらずどんな時も遊ばなくちゃなんないのー。ダーマまで行って賢者に転職したらこれまで取り返すぐらいに働くから勘弁しろよ」
「ったく……」
「でも、本当にお二人ともすごいですよ。よっぽどすごい修行を積まれたんですね。私なんかついわたわたしちゃって、まともに呪文も唱えられてないのに……」
「いーって。今んとこ呪文が必要になるほど苦戦してねーし。今のうちに練習して、呪文が唱えられるようになっといてくれよ。リルナの呪文が必要になる時絶対来ると思うからさ」
「は、はいっ!」
 顔を赤くして大きくうなずくリルナ。それににっと笑いかけるエディシュ。
 それは別に目新しい光景ではないのに、レックスの胸にめらっと燃え上がる炎を呼んだ。
 男女にこだわりなく誰にでも親切にするエディシュの周りではこういう光景は日常茶飯事だった。エディシュの開けっぴろげな優しさに人はみな惹かれ集まる。
 そして、そのたびに自分はいちいち焦げるような嫉妬を味わってきた。何度同じことを繰り返すんだ、と自分を嘲りながら。俺が感じていい筋合いのことじゃないだろうと軽蔑しながら。
 それは嫌というほどわかっているのに、自分はあの時からずっとそんなことを感じ、考えずにはいられないのだ。

 初めてエディシュと会ったのは、まだエディシュが赤ん坊のころだった。その時レックスは六歳だったと思う。エディシュの母とレックスの母がたまたま仲がよく、昔から何度も遊びに連れていかれていたのだ。
 単に母親が自分を一人で残していくのが心配だからという理由で連れて行かれただけなので、遊び相手のいないメルト家は正直面白い場所ではなかったのだが、赤ん坊というのをあまり見たことがなかったレックスはメルト家の息子というのには興味があった。
「はい、レックスくん。手を握ってあげて」
 メルトのおばさんに差し出されたものに、レックスは困惑した。これが赤ん坊? かわいいかわいいっておかあさんいってるけど、サルみたいにしかみえない。
 でもおばさんが手を握れって言ってるし、と渋々レックスは手を伸ばし、ぎゅっと赤ん坊の手を握る。するとそのサルのような赤ん坊は、「あうー」と妙な声を上げて、だらしない顔で、きゅ、とレックスの手を握り返した。
「…………」
 レックスはもぞ、と内腿を擦り合わせた。なんだか妙な感じがする。むず痒いというか、くすぐったいというか。腰の奥が妙にうずうずする。
 それはたぶん嬉しいと可愛いがごっちゃになった感情だったのだろうが、そんなことは当時の自分にはわからなかったから、むずむずする感情のままにエディシュをつついて泣かせ、母親にうんとこさ怒られた。
 その時はたぶん、他の赤ん坊に対する感情とさして変わらない気持ちでしかなかったとは思うが。

 次に会ったのは三年後だった。別にレックスがエディシュを泣かせたことをエディシュの母が怒っていたせいではないだろう。六歳の子供のしたことだ。単純にレックスが大きくなってきたので留守番させていても平気だろうと思ったのだと思う。まぁ、ひとつのきっかけにはなったかもしれないが。
 その時、レックスは母親と一緒に買い物をしており、エディシュは母親に抱かれており、その年頃特有のぽかんとしたあどけない顔をして指をしゃぶっていた。一応(その頃にしては珍しく)昔会ったことを覚えていた自分は、まだ赤ん坊みたいだな、と思ったことを覚えている。
 母親たちは「あらー、お久しぶりー」「エドくんも大きくなってー」とか喋りだしており、レックスはまたか、と(こういう母親のお喋りで待たされるというのは他の子供同様何度もあったので)ため息をつきたくなったが、ふいにひょいと小さなエディシュを渡されて仰天した。
「おばさん! なにすんだよ!」
「ごめんねー、レックスくん。その子大人しいからちょっと相手してやってくれる? ちゃんと歩けるから。重いのよ最近その子」
「相手って……」
 途方に暮れた気分でエディシュの顔を見つめる。わかってるのかわかってないのか怪しいぽかんとした顔。どうしよう、と思いながらそっと地面にエディシュを下ろしてみる。言われた通り、ちゃんとエディシュは立った。
 じっとこちらを見上げるエディシュに、とりあえず「いないいない、ばぁ」とやってみる。だがきょとんとした顔をするばかりで反応は芳しくない。
 他に赤ん坊のあやしかたってなにかあったっけ、とうんうん考えて、とりあえずぎゅっと拳を握ってぶんぶんと振った。以前ぎゅっと手を握ってやった時は少なくとも泣きはしなかったからだ。
 すると、エディシュはにこにこっ、と笑った。
「……わ」
 驚いていると、エディシュはにこにこしながら言う。
「おにいちゃん、れっくす?」
「え」
「れっくす、おにいちゃんでね、えらいの。かっこいいんだよ」
「そ、そうか」
「あのね、れっくすはね、おばさんのこどもでね、ぼくよりおにいちゃんなんだよ。それでね、おとこのこなの」
「うん。そっか」
 たぶん母親から自分のことを聞いていたんだろうな、と思いつつレックスはようやく笑いながらうなずく余裕を持てるようになってきて、それからも母親たちのお喋りが終わるまで笑顔でエディシュの相手をすることができた。別れる時には笑顔で手を振るエディシュに、こちらも笑顔で手を振ることも。
 可愛いな、と素直に思ったし、もうちょっと大きくなったら一緒に遊んでやろう、とも思った。その気持ちもその時はたぶん、普通によちよち歩きの三歳児に対する一般的な気持ちでしかなかったはずだ。

 そしてエディシュが五歳になった頃、自分はエディシュと毎日のように遊ぶようになった。小さな足でよちよちと自分のあとをついてくる姿が可愛くて、レックスはしょっちゅうエディシュを連れて遊ぶようになった。
 六歳違うので本気で遊ぶ時は置いてけぼりだったし、まだ幼いのにあっちこっちに連れ回されて大変だったろうに、それでもエディシュは嬉しげな顔で自分のあとをついて回った。それでさらに自分は調子に乗り、面倒を見てやっているつもりで街中を連れ回した。
 そして、その日。いつものようにレックスはエディシュを引っ張りながら、「とっておきの秘密基地に案内してやる」と自慢たらたら言ったのだ。
「他の奴には教えてないんだけどな。エドにだけ、特別に教えてやるんだぞ」
「ほんと!?」
「ああ、本当だ」
 ホントは俺はもう秘密基地なんて遊びするほど子供じゃないけど、こいつはまだガキだからな、などと偉そうなことを考えながら自分はエディシュをぐいぐい引っ張った。自分では子供の面倒を見ているというつもりで。その時の自分の勘違いっぷりを思うと、本気で顔から火が出そうになる。
「そこはな、俺が何年も前に見つけて、それからずーっと誰も知らないんだぞ。誰にも見つかってないんだ。特別にエドだけに教えてやるからな」
「うん、うん」
 にこにこ笑顔で答えるエディシュに満足して、それからもぺらぺらと話しかけた。手を引っ張りながらいい気分で。内容まで詳しくは覚えていないが、たぶん自慢話だったろうと思う。
 下町の雑踏を通り抜けて、目的地であるもう人の住んでいない廃屋のある廃屋までやってきて、「ここだぞ」と言って手を繋いでいたエディシュの方を振り向いて、仰天した。手を握っていたはずのエディシュが、どこにもいない。
「……エド?」
 驚いて周囲を見回し。
「エド!? エド、おいこら、どこ行ったんだ、エドっ!」
 大声で呼びながら周辺をうろつき。
「エドっ、エドっ、こら出てこいっ!」
 焦り慌てながら通りを行ったりきたりして。それでもエドが出てこないので近くにエドがいないということを悟り、顔からざーっと血の気が引いた。
 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。どこではぐれたんだろう。どこに行っちゃったんだろう。もし誘拐とかされてたらどうしよう。おばさんにとても顔見せられない。どうしようどうしよう、もし本当にエドが。
「エドっ! エドっ! エドーっ!」
 レックスはパニックに陥ってエディシュの呼び名を呼びながら駆け出した。一応来た道に戻っていきはしたが、ほとんどそれを意識すらしていなかった。十一歳の愚かな頭は完全に恐慌状態で、まともに考えることすらできなかったのだ。
 ただひたすらにエディシュの呼び名を、エドという呼び名を何度も何度も呼びながら駆けた。どうしよう、どうしよう、エドが見つからなかったら。そればかりを考えながら。
 そして下町の真ん中辺りまできて、「レックスっ」と小さく自分の名が呼ばれる声を聞いたのだ。
「!」
 ぴたりと足を止め、ばっばっと周囲を見回す。今の声は、確かに。そう考えるとほぼ同時に。
「レックスっ……!」
「エドっ!」
 泣きそうな声と同時に、エディシュの小さな体が視界に飛び込んできた。目が潤み、顔も赤い、泣くのを必死に我慢している顔のエディシュが、懸命に小さな足を動かしてこちらに向けて駆けてくる。
 レックスも泣きたくなるくらいほっとしてエディシュに向かい駆ける。するとエディシュははっとしたような顔をして足を止めた。
 そして、レックスがエディシュの前に立ち、「よかった……見つかった」と深く息をついて告げると、背伸びをして、レックスの手を握ったのだ。
「エド……?」
「だいじょうぶだぞっ、レックス」
「え?」
「俺、ちゃんとそばにいるからなっ。一人なんかじゃ、ないからなっ」
「あ……」
 レックスは目をぱちくりとさせた。エディシュが、自分より六歳も年下のここから家に一人で帰ることもできないだろう子供が、自分のことを心配して必死に自分のことを慰めているのだと気付いたのだ。
 普通なら生意気なとむっとしたり微笑ましく思うところなのかもしれない。だが、その時レックスは。
「………っ」
 その、今まで自分より下だとばかり思っていたエディシュの強さに感動し、絶句して。
「エドっ……!」
 たまらなく可愛いと、愛しいと感じ、たまらなくなってエディシュを抱きしめたのだ。

 ――そして、今でもその心を、自分はずっと持ち続けてしまっている。初めて他人を愛しいと思った時の気持ちを、薄れさせも、対象を変化もさせず。
 エディシュ以外の人間を可愛いと思わなかったわけではない。けれど愛しいとはどうしても思えなかった。最初に愛しいと思ってから、自分はますますエディシュを連れまわし、いつでも一緒にいるようになって、何度も何度も惚れ直していったのだから。
 そう、自分はエディシュに、エドに惚れている。あの時、最初にエディシュを愛しいと思った感情は、間違いなく恋だったと知っている。
 だって自分はエディシュ以外の人間を愛しいと思ったことがないのだから。裸を見ても勃たないわけではないが、欲情といえるほどの欲情はしたことがない。一緒に風呂に入った時のことを何度も思い出して何度も自分を慰めてしまうような焦げるような感情はエディシュ以外の誰にも感じない。
 それに気づいた時は驚愕した。自分はおかしいのではないかと何度も思った。今はのではないか、ではなく確信している。自分はおかしいのだ。
 間違いなく男であるエディシュ。勇者となり、自分たちを守ると宣言するような逞しく凛とした男であるエディシュ。それに欲情し、劣情を催し、押し倒して自分だけのものにしてしまえたらと考えてしまう。
 オルテガの息子であるというプレッシャーを気にもせず勇者であろうと決めたエディシュを男として尊敬し、支えてやりたいと、いつも真正面から敵にぶつかるエディシュを守る盾になってやりたいと思う気持ちも本当だから普通に振舞えてはいる。ちょっとやっていただけの武術を、エディシュのために本気でやる気になって、死ぬ気で打ち込んだおかげで精神鍛錬も積めたし、普通にしていれば感情を制御することはできる。
 けれど、ふとした時に叫びだしたくなる時があるのだ。レックスが仲間であることを信じて疑っていない、容赦なく全幅の信頼を寄せてくるエディシュの瞳を見た時。あるいは、夜、野営の時などにエディシュの呼吸の音を間近に聞いている時。安心しきっているという顔でエディシュが自分に身を寄せてきた時。
『俺のことを仲間だなんて思うな! 俺はお前にずっと欲情してるんだ! お前に十年以上前から、ずっと惚れてるんだよ!』
 そうなにもかもぶちまけて、押し倒して、終わりにしたくなる。
 エディシュがこちらを向いてにっと笑った。
「なにやってんだよ、レックス。とろとろしてると置いてっちまうぞー」
 ぞっ、とレックスの背中に悪寒が走った。そう、自分はいつか置いていかれる。昔のように一心に憧れられるような栄光を、自分は持っていないのだとエディシュはすでに理解している。エディシュもいつかは他人を、女を、自分以外の人間を愛しいと思い、欲情し、抱くことになる。
 それを、自分は黙って見ていなければならない。
 必死に無表情を作ってエディシュを見つめていると、エディシュは少しばかり困ったような顔になって、すたすたと自分のところまで戻ってきて笑顔で自分の腕を引っ張った。
「だいじょーぶだって、本気にすんなよ。ぜってー置いてったりしねーから!」
 ぱん! と背中を叩かれて、ぞくり、と腰の奥が疼いたが、なんとか笑顔を作って言うことができた。
「すまん、ちょっとぼんやりしていた。行こう」
「おうっ」
 そうだ、自分は少なくとも今はエディシュと一緒にできることがある。勇者と勇者の仲間として、一緒に魔物を倒し、魔王への道を突き進むことができる。それだけで充分だ。なんとかそう自分に言い聞かせ、前へと進むことができた。
 ――今はまだ。

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