飲み込まれる
 よし、というようにゲットは地図を見つめつつ小さくうなずいた。すい、と指を伸ばして地図上の一店を指差す。
「とりあえず、次の目的地はここだ」
「ふーん。ムーンブルク、ねー。どーいうとこなの?」
「なんでもこの世界の魔法文化の中心地ってとこらしい。とりあえずの目的地にはいいだろう。みちみち情報を収集しつつ書庫やらなにやらを調べつつ、俺たちの存在を触れ回る」
「あー、あたしらが故郷に帰る道を作るために旅をしてる、ってあれか。勇者ロト様にナイスな情報持ってったら高く買ってくれそーだって情報が集まるだろー、っつー読みはわかるけどさー、行く先行く先で歓待されんのめんどくない?」
「そこらへんの対応はお前らに任せろ、と言っていたな。だから任せたぞ」
「あたしらかい。……ったく、ユィーナは適材適所っつーつもりなんだろーけどさ、こっちの大陸に来る時もあたしらに船でルプガナまで移動させてルーラで迎えに来させて、自分はその間ユィーナといちゃつくなんぞっつードクソ外道な真似しといて、よーもまーぬけぬけと言いやがるわねあんた」
「なにを言うっ、俺が本気でいちゃついていたらユィーナを一日中ベッドから出しはせんぞ! 俺も渋々ながら嫌々ながらラダトーム近辺で情報収集をしていた。……ユィーナが日中は忙しく仕事をしているしそーいう時そばにいると叱られるからな……」
「あんたそーいう台詞が弁明になると本気で思ってんの?」
「…………」
 ヴェイルはディラの隣で、同じように地図に視線を落としながら、じっと黙ってうつむいていた。顔を上げたくなかったし、上げられなかった。ゲットの顔を見て赤くなったりうろたえたりしない、という自信がなかったのだ。
 変に思われたらもう絶対生きていけないだろうと思ったし、思われなくてもそれこそ身を切られるように辛いとわかっていたのだ。何度も味わっているけれど、また味わいたい気持ちじゃ決してない。
「さて、じゃあ質問はもうないな? なら解散。待っていろユィーナっ、今すぐ君の最愛の恋人が会いに行くぞーっ!」
 さっきまでとはまるで勢いの違う顔と声で、全身全霊で嬉しさを表現しつつ、ゲットは宿屋に取った自分たちの部屋を出ていった。これからユィーナに会いに行って、朝までいちゃついてくるのだろう。
 ディラがふん、と鼻を鳴らしてこちらを一瞥し、部屋を出て行くのに、大きく息を吐いて、自分のベッドに突っ伏す。ディラが言いたいことはわかっている、何度も言われたことだ。鬱陶しい、辛気くさい、いつまでもぐじぐじしてんじゃないわよウザいな。返す言葉もない、自分も心底そう思う。
 それはわかっている、のに。
「……ほーんと、なにいつまでもぐじぐじしてんだって話だよなぁ……」
 心の底からそう思うのに、またじんわりと涙が浮かんで、ヴェイルは慌てて目元を拭った。泣きはらしたら目が腫れて変な顔になる。
 それでも、というよりたぶんゲットは自分がどんなひどい顔になろうと、変化に気付きもしないのだろうけど。そう思ったらまた喉がうぐ、と鳴いて、ヴェイルはぎゅっと胸の辺りで拳を握り締めて漏れそうになる嗚咽を堪えた。

 ラダトームで自分の恋心を自覚してから、三ヶ月。その間、ヴェイルの環境に変化らしきものは、まーったくなかった。
 ゲットとディラの仲間として一緒に旅をしつつフォロー役に奔走したり情報収集やら文献調査やらにこきつかわれたり。ディラは気遣って以前と変わらないように振舞ってくれているのだろうが、ゲットは素で自分の感情に気付いたり、不審に思ったりする様子がまるでなかった。自分は以前と比べてあからさまにおかしな行動を取っているにもかかわらず。
 ゲットと目が合った時赤くなったり、うろたえたり。普段からして暗く落ち込み気味になったしゲットとろくに話ができなくなったし、普通ならなにかあったのか、ぐらいは聞いてもいいところだろうに。
 ゲットはその手のことをまるで聞かない。というかたぶん気付いてもいない。ゲットが自分のことを本当に心底どーでもいいと思ってるんだろうなー、と実感した。
「なにをいまさら。あいつがそーいう奴なのはあんただってよーくわかってんでしょーに」
 イカの干物をしがみながら、ディラはくいっと酒を飲み干した。
 場所は宿屋の部屋の中。部屋でぐじぐじ落ち込んでいる自分のところへ、酒とつまみを持ってきてくれたのだ。本当に、こいつには世話になっている。
「……そうなんだよな。わかってんだよ」
 言いながらヴェイルもくいっ、と杯を乾す。そう、わかっている。わかっているのだ。ゲットはユィーナ以外の人間に興味がなくて、自分などユィーナが選んだから連れているだけのただの旅の連れのようなものだと。
 わかってる、わかってるけど。ずっとわかってたことなんだけど。それでも、やっぱり、その事実を目の前に突きつけられると瞳がじんわり熱くなってしまう。
 俺のことを好きになってくれ、なんて馬鹿なことは言えないし言いたくない。だって自分とあいつは男同士だ。同性愛はそりゃ人倫にもとるとまではいかないが、胸を張って言えるような性癖でもないし、こんなことを親に言ったらきっと妹は悲しむだろうし親や兄姉は自分をぶん殴るだろうと思うと、罪悪感を感じずにはいられない。
 それにヴェイルは自身を同性愛者だとは思っていない。確かにゲットのことを好きだと思う時分の恋情はごまかしようもないほど自覚してしまっていたが、ゲット以外の男を好きだと思ったことはないし、女の子に対して、いうなれば欲情≠オてしまったこともある。……経験なんてものは、まだ女の子とろくに口も利けない頃ちょっとだけ付き合った女の子とのごく軽いキス程度しかないが。
「んなもんクソよ、クソ。男なんてーもんはそれこそ靴下にも欲情できんのよ? そんなもんで自分の性向決められるなんて思ってんじゃないわよ」
「く、靴下ってお前な……なんだよ、じゃあお前は俺の……性向? がどんなもんだか」
「んなもん、男が男におっ勃てたらホモかバイよ。決まってんじゃないの」
「そーいうこと若い女がへーぜんと言うなっ!」
「なに抜かしこいてんのよ、あんたゲットネタにして何回コイてると思ってんの? いまさらりょーしきだなんだって言えた義理?」
「そ……そういう問題じゃなくてだなぁっ! 若い女がそういうこと言っちゃいけないだろって言ってんだよ! 平然と、こ、コイてる、とか……そういう、とにかく恥を知れよ、恥をっ!」
「は、童貞クンらしい意見だこと。実際さー、あんたどーなのよ? まだ役に立つわけ、女相手にそのしょぼいモンがさー? もー男以外に反応しなくなっちゃってんじゃないの? どーよそこらへん」
 ディラが酒瓶片手にイカの燻製を噛みながらそんなことを言ってきた時は、ヴェイルは顔を真っ赤にして「いい加減にしろこの酔っ払いっ!」と叫んで逃げ出すしかできなかったが、実際泣きそうだった。
 図星、というわけではない。だが、まるっきりの的外れというわけでもなかったからだ。
 自分はゲットが好きだ。恋愛感情として。そしてその恋情には、正直自分でも認めたくないし気持ち悪いしなんでこんなことにと思うと泣きたくなったりもするのだが、劣情≠ニ呼ばれるべきものが、確かに含まれている、と自覚してしまっている。
 たとえば、野営の時などにすいとこちらに腕が伸ばされる仕草だとか、珍しくもなにかを考え込んでいるような思慮深げな表情とか、なんの気なしに耳元で囁かれる、低く掠れた声だとか。
 他にも逞しい腕や、がっしりした背中や、やたら男くさい喉仏とか敵を睨む時の鋭い視線や、それどころか時にはひどく汗臭い体臭にまで。
 心臓の奥がきゅうっとして、背筋がぞくぞくとして、そして――腰の奥がじんじんする。
 なんで男にそんなこと思わなきゃなんないんだ、と何度泣きそうになったかしれないが、それでも確かにその情動は存在した。それも、ゲットの中の女の子っぽいところ、ではなく(女の子らしさというものはいろんな意味で微塵も持ち合わせがない男だ)、むしろゲットの男らしいところ、男くさいところにかきたてられてしまうのだから嫌になる。
 つまり、自分のこの恋情は、ゲットが男だからこそ存在したものだ、ということになるのだろう。男のゲットに自分は惚れたのだ。ごつくて、脳筋で、力強くて、下半身と脊髄反射でしかものを考えてなさそうな、惚れた女のために当然のように命を懸ける、男のゲットに。
 そう、惚れた女。
 そこに思考が至り、ヴェイルははぁぁぁ、と深いため息をついた。
「なによ」
「……いや。実際、不毛だなー、って思って」
「なにがよ」
「こんな気持ち、最初っから報われないってわかりきってるっつーか、決まってるもんなのにさ」
 くい、とディラは杯を乾し(ディラは相当なうわばみだ)、はっ、と息を吐いて言った。
「それこそいまさらよ。あんた、そんなの承知でぐじぐじその気持ち抱え込んでんじゃないの?」
「……そうだよな。ホント、いまさらだ……」
 ヴェイルもくい、と杯を乾す。あまり酒に強い方でもないヴェイルの頭は一瞬くらりとしたが、それでもはっ、と息を吐いた。
 そうだ、わかりきっているのだ。ゲットはユィーナの夫だ。新婚さんだ。ユィーナを世界の誰より愛している、というかユィーナ以外はぶっちゃけどーでもいいんじゃないかってくらい、いやくらいではなくまず間違いなくそう思っているとわかっている。
 二年以上一緒に旅をしているが、あいつが視界に自分を入れてくれたと思えたのは一度か二度か、そんなところ。ユィーナのことで死ぬほど落ち込んでいるあいつを慰めた時ぐらい。その他の時は、あいつはたぶん自分(たち)のことを、そこらへんの有象無象とさして変わらないぐらいにしか思ってない。
 ただひたすらにユィーナが好きで、ただそれだけの想いでいっぱいになって。ひたすらにひたむきに、一直線に問答無用にただその想いのためだけに全力で世界を救った男。
 そしてそんな男に惚れたど阿呆の俺。
 はぁぁぁ、と自分でも鬱陶しいなーと思ってしまうため息をつく。不毛だ。ものすごく不毛だ。報われるだなんだって状況はまったくありえない。だって俺は、ユィーナが好きで好きで大好きでそのために世界だって救っちまうようなあいつが好きなんだから。
 だから、もうこんな気持ち消してしまわなくちゃならないのに。今日もゲットの顔を見るだけでドキドキして、あまりに普段通りな素振りに胸を痛くして……もー本当に考えただけで死にたくなることに、ゲットの顔に、体に、聞いた声に、嫌になるほど胸をときめかせて、勝手にいきりたってしまった下半身を、泣きそうになりながらトイレの中でゲットのことを思いつつ静めて。
 ゲットが好きだ、なんてもう考えたくもないことを、繰り返し繰り返し再認識して。
「……ホント、なにやってんだかなぁ、俺……」
「…………」
 深く、深く息をつく――と。
 ばきっ、とディラの拳がヴェイルの顔に音高く打ちつけられた。
「たぁっ! いってぇなっ、なにすんだいきなりっ」
「殴ったのよ」
「説明を求めてるんじゃねーだろっ」
「ムカついたから殴ったの!」
「む……ムカついた、って」
 容赦のない台詞にヴェイルは思わず呆然とディラを見るが、ディラはぎっと憤怒に満ちたとすら言ってよさそうな形相でこちらを睨む。
「ったく黙って聞いてやってりゃぐちぐちぐちぐち、あんたはこの三ヶ月で何度同じ台詞繰り返してんのよウッザいわね! 女の腐ったのっつーけど男の粘着質な片想いなんぞ絵にも酒の肴にもなんないっつーの! みっともないわうっとーしーわで聞いてるとイライラすんのっ、わかってる!?」
「そ、れは……わか、ってるよ」
「だったらっ!」
 びゅんっ、と風が鳴るほどの速さで拳を突きつけられ、ヴェイルが思わず気圧されたところにディラは言った。
「とっとと告白してこい」
「はぁ!? おまっ、突然なに言ってっ」
「ウザいからとっとと告白して玉砕してこいっつってんのよ! あんたの愚痴ぐじぐじ聞くの、あたしもー飽きたのっ!」
「それ、は、悪いとは思ってる、けど」
「だったらとっとと行ってきなさいよ。ぐじぐじいつまでも思い悩んでたってどーしよーもないでしょーがっ、とっととコクってケリつけなさいよ!」
「だ、けど、絶対、振られるに決まってるし」
「当たり前でしょーが。だから玉砕してこいっつってんの」
「う……でも、ゲットに、気色悪いとか思われたら」
「そもそもその気持ちが気色悪いんだからしょーがないじゃないのっ! あんたも自分でキショいって思ってんでしょ、だったら思われることぐらい覚悟しなさいっつの!」
「……ううう……」
 容赦も気遣いもないディラの言葉にヴェイルは半泣きになった。なったが、ディラの心底からの憤激の視線に、やっぱり俺はそれだけこいつに負担をかけちまってたんだな、ということを再認識しがっくりとうつむく。
 そりゃそうだ、男の仲間の男への片想いの言葉なんて、この世で聞きたくないもの三本の指に入るんじゃないかってくらいうざったいものだろう。しかも自分の言葉は考えても思ってもしょうがない、言ったところで無駄なことをひたすらうじうじ愚痴る、という本気で鬱陶しいものだったし。
 そうだよなぁ。こんな気持ち、持ってたってほんっとーに、他人の迷惑にしかなんないんだよなぁ。
 そんなわかりきった事実に心底からのため息をつき、ヴェイルはのろのろと立ち上がった。
「わかった……告白してくる……」
「はい行ってこい行ってこい。振られたらちょっとくらいなら慰めてあげるから」
「うん……ありがとな」
 我ながら卑屈な顔してそーだなー、というように表情を歪めて、ヴェイルは部屋を出た。そうだ、もう告白して、もうどうしようもないくらい無残にきっぱり振られて、そして、忘れてしまえばいい。

 そうして、ヴェイルは告白した。
 そして予想通り秒で振られた。きっぱりすっぱりさっぱり、微塵の気遣いも容赦もなく。

「はあぁぁぁぁぁぁぁ………」
「ウッザいわねー、あんたそのため息何度目よ」
 心底鬱陶しそうに言うディラに、小声で「ごめん……」と答えつつヴェイルは包まった毛布の中で小さくなった。胎児のように丸まって、抱えた枕に顔を埋める。
「最初っから振られるつもりでコクったんでしょーが。いまさらぐじぐじ落ち込んでんじゃないわよ」
「うん……そうだよなぁ……」
「あーもーウザいなー、泣くなっつの。わかったわよ、慰めてあげるからとっととあたしの胸に飛び込んでおいで」
「……いーよ。慰めるほど、価値のあることじゃないし」
「あ・た・しが嫌なの! あんたに同じ部屋でそんな風に落ち込まれてるとイライラするの! だから慰めてやっからとっとと浮上しろっつってんのよっ」
「……わかった。ごめん。部屋、出てく」
 ごそり、と毛布に包まったまま体を起こすと、ディラはチッと苛立たしげに舌打ちした。
「あーはいはいわかったわよ一人でどっぷり落ち込みたいわけねはい申し訳ございませんでした。外で飲んで朝まで戻ってこないからどーぞ好きなだけ落ち込んでてくださいな」
「朝までって……明日も早いんだぞ、第一若い女が朝まで一人で飲むってそれは」
「しょーもない気遣いしてんじゃないわよバァァカっ」
 べーっ、と子供っぽく舌を突き出して、ふんっとばかりに背を向け部屋を出て行くディラを毛布に包まったまま見つめてから、ヴェイルは小さくため息をついてまたベッドの上に寝転がった。毛布に包まりながら、さっきと同様、胎児のように体を縮める。
 そうだ、本当にいまさらだ。最初からわかっていたことだ、予測していたことだ。振られて当たり前だと思っていたし、容赦も気遣いもないのが当然だと思っていた。
 ゲットが帰ってくるのを、宿屋の外で、夜が明けるまでじっと待って。ユィーナといちゃついてるんだろうな、と落ち込みつつも、それでも帰ってくる時を思って胸をドキドキさせて。報われることなんて絶対ないとはわかっていたけれど、一瞬、ちらりと、『もしかしたら一瞬でもこっちの方を見てくれるかも』なんていじましいことを考えたりして。
 もう夏と言っていい季節とはいえ、やっぱり冷たい夜明け前の寒風に身を震わせながら、ゲットが戻ってくるのを、万が一にも見逃したりしないように、周囲に全神経を用いて注意を払って、ひたすら数時間待って。
 ルーラで飛んできた街の入り口から歩いてきたのだろう、ゲットの大きな体躯が見えた瞬間からドキーン! と心臓が馬鹿みたいに高鳴って。噛まないでちゃんと言うべきことを言えるよう、必死に口と舌を動かして練習して。
 そんなことをしているうちにゲットがすたすたと歩いてきて、すぐ目の前にやってきてからようやくヴェイルに気付いたという感じの怪訝そうな顔でこう言った。
「なんでいるんだ」
「……、待ってたんだ」
 すごく適当っぽいというか、どうでもよさそうな感じの問いかけに、わかってはいたものの落ち込みながらも、必死に顔を上げてヴェイルが言うと、ゲットはわずかに眉をひそめて今度はこう言った。
「暇な奴だな」
 ぐさっ、と心臓に音を立てて氷の槍が突き立ったような気持ちになった。だがそんなことくらい当然予測していた、とヴェイルはそれでもきっと顔を上げた。
 そうだ、言わなくちゃ。いつまでもいつまでもしょうもない片想いをぐだぐだ抱いてたってしょうがない。報われっこないし、報われるべきでもない、さっさと消してしまうのが一番いい感情だ、とっとと玉砕するべきだ、しなくちゃならない。
 そう必死に勇気を奮い起こして、ヴェイルは叫ぶようにゲットに向かい言ったのだ。
「ゲットっ!」
「なんだ」
「俺っ、お前のこと、好きなんだっ!」
 言ってから自分の顔がカーッと熱くなるのがわかった。耐えられず、顔をうつむかせる。心臓がばくばくと跳ね、体中に高速で血液を送り出す。恥ずかしい、逃げ出したいという感情で頭と心がぐるぐるする。だが、それでも、ちゃんと答えを聞かなくちゃ、と拳を腹に押し付けて、熱い体を押さえながら、必死に答えを待つ――
 暇もほとんどないままに、きっぱりすっぱりゲットは言った。
「は? なに言ってるんだ、阿呆かお前」
 そして、微塵も動揺した様子もなく、すたすたと呆然とするヴェイルの横を通り抜けて宿屋に入っていったのだ。
「……わかってたよ。こういう展開になるってことくらい、当然予想してたさ」
 それどころかもっとひどい展開も考えていた。パーティを追い出されるかもとも思ったし、刃傷沙汰になる可能性も考えていたのだ。それに比べればはるかにマシな結果に終わっている。
「あいつがあーいう奴だってのはわかってたし。いまさらだし。気にするほどのこっちゃないし」
 自分はあいつにとってはその他大勢の有象無象とさして変わらない存在なんだということを、ヴェイルはよく理解していた。だからこの結末は、それから当然帰結される事態。ごく当たり前の、驚くべきことなどなにもない当然の。
「……わかっ……てんだっ……」
 だけど。それでも。あいつにとっては自分も、自分の気持ちもまったくどうでもいいのだという事実は。それを告白の瞬間につきつけられたことは。
 本当に、泣きたくなるほど。
「………っ」
 喉の奥から漏れそうになる声を、ヴェイルは必死に押し殺した。こんな、こんなしょうもない、みっともない気持ち、誰にも聞かれたくなんかない。

「魔族が城を築いてる?」
 ルプガナのある西ウーラ大陸からムーンブルクのある東ウーラ大陸へと向かう街道の途中、河で分断されている宿場町。情報収集に訪れた酒場で聞いた話に、ヴェイルは声を上げた。
「ああ。とんでもねぇ話だろ、大魔王ゾーマも倒されたってのに、この街はいったいどうなっちまうんだか」
「……それ、間違いのない情報か?」
「なんだ若造、俺のネタを疑う気か?」
「疑うっていうか……」
 凄まれてヴェイルは一瞬口ごもった。疑うもなにも、魔族というのはそもそもが生存ではなく消滅を志向する種族で、世界に生まれるやとっとと消滅してしまうものがほとんどで、例外は大魔王のようなとんでもないものに使役されるものぐらい、と聞いていたのだが(ユィーナ情報だから間違いはないはずだ)。
 だがそんなことをこの酒場の親父に言ってもたぶん納得はされないだろうと思うので、あえてにやりと笑ってみせることにした。
「マジネタなら、その魔族をぶっ倒せる奴を紹介しようかなってね」
「はぁ? なんだそりゃ、そっちこそマジネタか」
「勇者ロトがこの大陸に来てるって話、知ってるだろ?」
「知ってるが……馬鹿馬鹿しい。そんなシロモンがそうそうお前なんぞに」
「信じないならそれでもいいぜ。けどこの街の上の方に話を通して、仕事として請けさせてもらえるなら、仕事が終わったあとそれなりの報酬は払うと思うけどな。なんたって勇者さまなんだし」
「……おい。お前、本気で」
「信じないならいいぜ? それじゃあ別のところに話を持ってくかな」
「ちょ、ちょっと待ったっ!」
 追いすがりかける酒場の親父にヴェイルはにやり、と笑顔を返してやった。仕事はいつでも大歓迎だ。適度な間をおいてやってくる、自分の力に見合った仕事なら。
 ……大魔王討伐が自分の力に見合った仕事かというと、首を傾げざるをえないが。

「こんな冒険者っぽい仕事なんてひっさびさねー」
 ディラが軽やかな足取りで歩きながら朗らかに言うのに、ヴェイルは(少しばかり引きつっているような気はしたが、それでも)笑顔でうなずく。
「そーだな。魔物討伐は仕事っつーより日常だったし。やっぱり冒険者の基本は仕事を請けての戦いだよ」
 隊列の先頭にはゲットがいつもながらの無愛想な無表情でのしのしと歩いている。ラダトームでユィーナと別れてから、ずーっと、ゲットの表情はこれしか見ていない気がした。
 自分が告白してからも、ゲットはずーっとこの顔だった。変わらなかった。微塵も少しも変化がなかった。
 それはつまり、ゲットは自分の告白を微塵も少しもまったく全然意識していないということで。重要視していないということで。どうでもいいと思っているということで。本気にすら思っていないかもしれないということで。
 何度も何度も落ち込んで、今では少しずつ落ち着いてきていた。わかっていたことだ、当たり前のことだと、何度も何度も再認識させられて、感情が少しずつ冷えてきていたのだ。
 それが一番正しい道なのだろう。このままあんな気持ちを全部凍らせてしまえばいい。あるべきでない感情だ、無駄な想いだ、存在してもただ迷惑なだけの心情だ。そんなもの、凍らせて、感じなくして、なかったことにするのが一番いい。ゲットなんてどうでもいいと、俺の方もそう思えるようにすれば。
「そーね。ま、どんくらいの強さかわかんないけど、ちょっと楽しみ。まさか大魔王より強いってこたーないだろーと思うしね」
「お前、油断すんなよ。ユィーナいないんだから、戦力かなり下がってんだからな」
「ユィーナっ!!?」
 ばっ、とゲットが勢いよくこちらを向く。おそろしく真剣な顔で。旅の間何度も見た、ユィーナを守る時の顔で。
 それを見た瞬間、ヴェイルの心臓はどっくん、と痙攣を起こしたように跳ねた。
「ユィーナ語りならなぜ俺を混ぜん! ただでさえユィーナ分が不足してるんだ、少しでもユィーナへの想いを放出しなければならんのだぞ! おおうっユィーナっ、俺は君への愛でもう破裂しそうだっ、君は俺より誰より強く美しい美と愛の化身っ、ユィーナLOVELOVE!」
「うっさいっつーのよもーすぐ敵地だっつのこんボケがぁぁ!」
「ぐはっぐふっごはっ」
 ディラに殴られて綺麗に吹っ飛ぶゲットを見る余裕もなく、ヴェイルはうつむいて必死に衝動に耐えていた。なんでだよなんでだよ、と頭の中ではひたすらに繰り返している。
 あいつはああいう奴なのに。俺なんか塵芥みたいにしか思ってない奴なのに。俺に告白されても少しも動揺しなかった奴なのに。
 ユィーナ以外どうでもいい奴なのに。ユィーナになら名前だけでこんなに反応する奴なのに。ユィーナだけをひたすら全力で全身全霊で愛し続ける奴なのに。
 なんで、真剣な顔を見るだけで、心臓が跳ねるんだ。
 冷えたはずの心が勝手に震えている。心臓がどっくんばっくんと血液をすごい勢いで送り出す。凍らせたはずの、凍っていてほしかった感情が全力で存在を主張する。『好きだ、ゲット、好きだ、好きだ――』……そんなことをその想いに飲み込まれそうなほど本気で思ってしまう自分が本当に、心の底から馬鹿馬鹿しくて、気色悪くて、惨めで。
 もう俺なんか死んじまえばいいのに、と必死に泣くのを堪えながら思った。

「なにこれ……氷の城?」
 ディラの呟いた通り、依頼の際聞いた場所にそびえていたのは氷で造られた城だった。もう季節は夏、おまけにこの辺りの気候は(砂漠も近いほどなのだから)かなりの酷暑で、肌を焼く日差しがさんさんと太陽から降り注いできているというのに、きらきらと光を反射して輝く蒼く透明な城からはこちらが身を震わせるほどの冷気が確かに伝わってきている。
「にしか見えんな。ここにその魔族とやらがいるわけか?」
「……説明しただろ。氷でできた城が突然できたせいで、魔族の仕業なんじゃないかって噂が広まった。確証らしき物はなし。ただしこの近辺では魔物が多く出没し、すでに何人か被害が出てるんで、魔族の仕業じゃないかって噂が広まったんで、調査と討伐を依頼されたんだよ。お前ら人の話ちゃんと聞けよな」
「あっはっは、悪い悪い。だって覚えてくれてる人が他にいるからさー」
「ああ……こうしてみるとユィーナの存在の大きさを実感するな。ユィーナは常に俺たちを見守り、導いてくれた……おおう駄目だ愛してる俺の女神ユィーナっ今すぐ愛を伝えに行くぞっ!」
「敵地目の前にして帰んじゃないわよこのゴンタクレがぁっ!」
 がすがすがす、と軽くコンボを決められるゲットに、ヴェイルはぐっと拳を握り締めた。悪かったな。どうせ俺じゃお前にとっちゃ不満だらけなんだろうよ。
 けど、俺だって、俺なりに頑張ってるのに。ユィーナがいなくなってからこっち、交渉事とか情報収集とか、頭使うことは基本全部俺がやってんのに。あんまそっちの経験積んでるわけでもないからけっこうあっぷあっぷしてんのに。
 そーいうの、全部意味なくて、こいつにはユィーナ以外意味なくて。なんつーか、ホント。
 すっげぇ、惨め。
 小さく息をついてから、顔を上げて言った。そんな気持ち、本当に、いまさらの意味のない感情だ。
「とにかく、とっとと入ろうぜ。どうせ潜入じゃなくて強襲になるんだから、気付かれるのはそう警戒しなくてもいいだろ」
「そーねー……って、入るってどっから入んのよ。なんか扉っぽいの見当たらないんだけど?」
「氷だから見えにくいだけだって。正面にでかいのがあるしその脇に人間用っぽい小さなのもあるよ。最後の鍵使えば入れるだろ」
「えー、だって鍵穴ないっぽいじゃん」
「最後の鍵の力は封印の魔力に反応するからな。あれはほぼ丸ごと魔力でできてるみたいな城だからちゃんと開けられるよ」
「へー、わかるんだ?」
「お前な……俺一応前は賢者で、呪文全種きっちり習得させられてんだぞ? 遠距離から様子見た時に軽く魔力探査するぐらいはできるよ。詳しい分析は俺じゃ無理だけど」
「ふーん、やるじゃん。さっすがユィーナがあとを任せるだけのことはあるっ」
「なっ、なに言ってんだよ、別にそんな大したことじゃ」
「おい、とっとと行くぞ。……これ以上ユィーナの名を聞いたら俺は発作を起こしかねんからな」
「……ああ」
「へいへい。……ったくこのユィーナ馬鹿が」
「最上の褒め言葉だ、もっと言ってくれ」
「甲斐性なしの注意力足らずのデカブツクソ野郎、あんたの頭と×××腐ってんじゃないの人に迷惑かけんじゃないわよ最低ど腐れ脳筋」
「……それは褒め言葉じゃないと思うぞ」
 そんなことを話しながらも城の前までやってきて、ヴェイルは最後の鍵を取り出し扉に当てた。予想通り小さく音を立てて封印は解け、ヴェイルが押すのに従って扉が開けられる。罠や魔力の気配に注意しつつ一歩を踏み出し――
 とたんばっと飛びのきながら叫んだ。
「下がれっ!」
『くく――もう、遅い』
 そうその通り、もう遅かった。飛びのいた体が城の外に出る前に、ヴェイルの体は四方八方からヴェイルにすら見切れない速度で飛び出してきた氷の鎖に幾重にも巻き取られ宙に固定される。
 氷の城があっという間にその姿を変えていく。それこそ鉄のように磨き上げられた氷が崩れ、集まり、歪み、城と同じくらい大きなものに変わっていく。これは、もしや。
 鎖でがんじがらめにされたヴェイルの顔を、ヴェイルの体よりはるかに大きな竜の頭がのぞきこんで笑う。キングヒドラやヤマタノオロチと同系統に見えるその竜頭の真っ白な鱗に覆われた口の中からは、こちらの身を凍えさせるほどの冷気が伝わってきた。
『この時を待ちかねたぞ、勇者ロトよ。我はフロストヒドラ。ゾーマ様の忠実なるしもべであったヒドラ族の女王』
「女王……ってメス? じゃーもしかしてゾーマ倒す前に戦ったキングヒドラって」
『その通りよ! キングヒドラは我が夫。我が主を弑し、我が夫を暴殺した貴様らへの恨み、晴らさずにおくものか! 貴様らの行く先に幾重にも張った我が罠、その最初のひとつにこうも簡単に引っかかろうとはなぁ。その軽挙が貴様らを殺すのだ、この盗賊の命が惜しくば動くでないぞ、じわじわと苦しめながら嬲り殺しにしてくれるわ!』
 氷の鎖に締めつけられながら、ヴェイルはそうかそういうことか、と納得していた。魔族なのになんでゾーマが消えたのに活動してるのかと思ったら、魔物だったのか。竜族はかつて世界の守り手だったとされるほど高い知性と魔力を持つ一族、ヒドラ族の女王ともなればこれだけのことをしたところで不思議はない。
「……なるほど、夫を殺された恨みか。わからんでもないが」
 ゲットが軽く肩をすくめるのに、ヴェイルははっとした。駄目だ、冗談じゃない、俺が人質になったせいであいつが、あいつらが死ぬなんて――!
「ゲットっ、ディラっ! 俺のことは気にすんなっ、さっさとこいつぶっ倒してやれっ!」
 必死に喉を嗄らしてそう叫ぶ――のに、ゲットはあっさりとうなずいた。
「ああ、当然だ」
「……へ」
 言うやだんっ、と踏み込んでずばぁっ! と王者の剣でフロストヒドラの鱗を斬り裂く。『ギャアァッ!!』と大きく悲鳴が上がるのにかまわず二の太刀を打ち込もうとしたところで、「あほかぁぁっ!」と叫びつつディラがゲットの後頭部に蹴りを入れた。ゲットはずってんどうと倒れ、顔をしかめながら立ち上がってディラを見る。
「痛いぞ。なにをする」
「なにをするじゃないっつのこのクソボケ勇者っ! なにいきなり斬りかかっちゃってんのよっ、ヴェイル人質にいるんだからちょっとくらいためらいなさいよっ!」
「なぜだ。俺は殺されるわけにはいかんぞ、ユィーナがラダトームで待っているんだからな」
 平然とした顔でそう答えるゲットに、ヴェイルはあははぁ、と小さく深いため息混じりの笑声を漏らす。そーいう反応すると思ったけど、思ってたけど。こーして真正面からゲットはこーいう非常事態でさえ自分のことを本当にどーでもいいと思っているのだと見せつけられると、やっぱり、へこむ。
「あんたそれでも勇者かっ、仲間が人質に取られてんのを命を賭して救おうとかいう気はゼロなわけっ!?」
「救えるなら救うが今の状況じゃ無理っぽいからな。見捨てるしかないならさっさとやるにこしたことはないだろう。俺はあいつの命より俺の命が大事だ。ユィーナを悲しませるわけにはいかんからな」
「……っこのクソ勇者っ! 本気で言ってんのそれっ、ここまでクソな奴だとは思わなかったっ! ユィーナがヴェイルが死んで悲しまないとでも思ってんのっ!?」
「思わん。だから救えるなら救うが、今の状況じゃ無理っぽいんだから仕方ないだろう。ヴェイルの捕らえられた罠は相当厳重に仕掛けられたマジックトラップっぽいからな、あれをなんとかするには時間がかかりそうだ、少なくとも戦闘中にはまず無理だろう。だったらさっさと殺すしかないだろうが」
「だっ、からってねぇっ……!!!」
「いいよ、ディラ。もう」
 ヴェイルは苦笑しつつ言った。もー、しょーがない。こいつはこーいう奴で、自分はこーいう奴と知っててついてきたんだから自己責任としか言いようがない。
「実際俺のせいでお前らが死ぬなんて冗談じゃないしさ、俺が死ぬなら死ぬでしょーがねぇよ、罠を見抜けなかったのは俺の責任だし。これまでずっと、世話かけてごめん。ありがとう。あと、アリアハンに戻れたら、家族に、特に妹にごめんとありがとうって伝えてくれると嬉しい」
「っっっ、あんた馬鹿じゃないの!? なにそれ、なに言ってんの!? なに、そんなに、簡単にっ……!」
「よし、いい覚悟だ。行くぞフロストヒドラ」
『ま、待てっ! 待つのだっ! よいのか、勇者よ、本当に!? この者の捕らえられた罠は、完全に身動きを封じるのみならず、魔力をも遮断する! こやつが死ねば、肉体は氷となり、勇者の魔力も届かず復活はかなわんのだぞっ!?』
「うるせーな、わかってるよそんなこと……」
 魔力の感触でそのくらいのことはわかったし、そもそもそうでなければ人質に取る意味もないだろう。そのくらいのことはディラも、当然ゲットもわかっているはずだ。
 ――が、ゲットは、その言葉に、なぜか動きを止めた。
「……ゲット?」
「それは本当か?」
「え」
「本当に、お前はそのまま死んだら蘇れんのか?」
『くくく、その通り。こやつはこのまま死ねば蘇れず転生もできず、永遠の闇に捕らえ続けられる運命』
「黙れ、五股トカゲ。貴様には聞いていない」
『なっ』
「どうなんだ、ヴェイル」
 ぎっ、とこちらを射殺さんばかりの勢いで睨んでくるその視線に、ヴェイルは思わず気圧されながらも「そうだと思う、けど……」とうなずいた。嘘をついてもどうしようもないと思ったからだ。
「……そうか」
 は、と小さく息を吐き、ゲットはひょいと王者の剣を背中の鞘に収めた。
「……え」
『くふははっ! やはり仲間は大切とみえる! あれだけ勇ましいことを言うておきながら蘇れぬと知るや怖気づくか!』
「やかましい」
 苦虫を噛み潰したような顔で答え、ゲットはむすっとしたまま体から力を抜いた。さぁどこからでも攻撃してください、とでも言いたげな無防備な体勢。
「ちょ……待てよ。なんだよ、それ」
「なにがだ」
 ゲットはぶっきらぼうに、こちらの方を見向きすらせず面倒くさそうに答える。
「なんでいきなりそんな、やめちゃうんだよ! お前、お前ならさ、俺が本当に死のうがどうしようが、問答無用でユィーナのために俺ごとこいつぶっ殺すだろ!?」
「……よっぽど俺は薄情と思われてたらしいな……」
『ふくくく、では行くぞ。しゃぁっ!』
 ずぱぁっ! とフロストヒドラの牙にゲットの体が斬り裂かれる。光の鎧も本人が防ごうとしていなければ本来の防御力を発揮しない。首筋を斬られ、どぱぁっ、と血が噴き出したが、ゲットは眉を動かしすらしなかった。
「薄情もなにも、お前ってそういう奴だろ!? ユィーナ以外塵芥で、ユィーナ以外の奴はどうでもよくて、世界救ったのだってユィーナだけのためじゃんかよ!」
「……まぁ、否定はせんが」
『ちぃ……さすがに光の鎧の上からでは牙もなかなか通らんか。鎧を脱げ、勇者よ。そして我が牙に貫かれるがよいわ!』
 言われて無言でゲットは鎧を脱ぎ始める。ヴェイルはさぁっ、と血の気が引くのがわかった。
「やめろよバカ、なにやってんだよ、お前自分でさっき言ってただろ!? 自分の命の方が俺より大事だって! ユィーナを泣かせるわけにはいかないって! 俺なんかのためにんなしょーもないことやってんなよ、ユィーナのためにとっととこいつぶっ殺せよ!」
『くくく、これならばそなたの体は我の思うがまま……まずは、右足!』
 がしゅっ! と大人の足よりまだ太い牙が、ぐっさりとゲットの右足を貫いた。肉が裂ける、どころではない、潰れぐしゃぐしゃの細切れになり骨が砕かれ神経ごとずたずたになり、もう足が体から千切れそうにすらなったのに、ゲットは顔を歪めはしたが声は漏らしすらしない。
「おい……ゲット、いい加減にしろよ! やめろっつってんだろ、そんなことされたって俺は少しも嬉しくない! 俺のことどうでもいいんだろ、塵芥で有象無象でいつ消えたって気にもしないんだろ!? そんな奴の命なんて気にしてんじゃねぇよっ、とっとと殺せよ、殺しちまえよっ!」
「……俺は、お前のことをそこまでどうでもいいと、言った覚えはないが」
『左腕!』
 ざごっ! と牙が今度は腕を貫く。肉が千切れ骨が壊れ腕がほとんど体からもぎ離される。嫌だ、嫌だ嫌だ、このままじゃゲットが本当に死んじまう。ヴェイルは叫ぶ声が涙声になっているのも気付かず、必死に喉を震わせて叫んだ。
「だって、お前、俺が好きだって言っても、相手にしてくんなかったじゃんかっ!」
「……は?」
 本気で訝しげな顔をされ、こんな時なのに胸が痛む。必死に堪えていた涙がついに瞳からこぼれ落ちた。泣きたくない、こんなみっともないところあいつに見られたくなんかないのに、あいつの方が今よっぽど痛くて苦しいのに。そう必死に叱咤してもこぼれる涙を懸命に無視して、ヴェイルの喉は怒鳴った。
「わかってるよ、お前にとっちゃ覚えてるほどの価値もないことだよな! どうでもいいことだよな! けど俺にとっては必死で、それこそ命懸けるくらいの気持ちで言わなきゃならないことだった! 悩んで、怖気づいて、それでも終わらせなくちゃって必死になって言ったんだ!」
 なんなんだなに言ってんだ俺、恨み言になってるじゃんか。バカか、アホか、いい加減にしろみっともない。こんなこと言いたいんじゃなくて、こんなとこ見せたいんじゃなくて、俺はただ、ちゃんと、お前に。
「お前がユィーナのこと世界で誰より好きだって知ってるし、ユィーナ以外どうでもいいって思ってるのも知ってるし、俺のことそこらへんの道歩いてる奴と大して変わんない程度にしか考えてないのもわかってる! だって俺はそういうお前が、ユィーナのためなら世界だって救っちゃうお前が好きになったんだから!」
 なのに口は止まらない。勢いづいて止まってくれない。勝手だと、無駄だと、こんなことを言われてもどうしようもないだろうとわかっているのに口は勝手に感情を吐き出してしまう。
「だから好きになってくれなんて思ってないし大切にしてくれるなんてありっこないってわかってるよっ、けどっ、俺は、俺はさっ、俺のこんな気持ちなんて迷惑だし、俺の存在なんてお前にとっちゃ無駄で、意味ないってわかってるけどさっ、ちょっとでも、ちょっとでもいいからっ、お前に、俺のこと、どうでもよくないって思ってもらえたら、もう死んだっていいって思って、それで」
 ゲットは訝しげな顔を崩さない。当たり前だ、いくらなんだって馬鹿すぎる。男の仲間に勝手に好かれて勝手に恨み言並べ立てられるなんて迷惑以外のなにものでもない。しかも生きるか死ぬかの状況下で自分でも世界一の馬鹿じゃないかと思う。
 だけど。
「俺は、お前にちょっとでも、ユィーナの何万分の一でもいいから、仲間として価値があるって、いてくれて嬉しいって、思ってもらえたら、本当に、もう、死んだって、いいんだ」
 ぼたぼたぼたっ、と涙がこぼれ落ちる。それでも必死に目を見開いてゲットを見る。いつも通りの仏頂面の、こっちに関心を持ってないということがありありとわかる顔を。
 だから。その顔を、少しでも自分の力で笑わせられたらって、馬鹿なことを考えてしまう、自分だから。
「生きてて、くれよ。俺なんかのせいで、お前が死ぬの、やだよ……っ」
 身勝手で。馬鹿で、無駄で、どうしようもないけど。本当に、そう思うんだ。思っちゃうんだよ。
 俺が、お前と一緒に旅してきた二年間が、ちょっとでも、ちょっとでもいいから、お前に、悪くないって、どうでもよくなんかないって、そう思ってもらえたら、って。
 だから、お前には。死んでほしくないんだ。好きな奴だから、絶対に絶対に、死んでほしくなんかないんだ――
 死ぬほどの想いを込めて言い放ったその言葉に、ゲットははぁ、と小さく煩わしげなため息をつき(思わずびくんと心臓が跳ね上がった)、言った。
「お前、馬鹿か」
「っ……」
 ずきぃん、と心臓が痛む。
「お前が言っていたように、俺はユィーナを世界の誰より愛している。ユィーナのためならなんでもするし、ユィーナ以外の存在はユィーナに比べれば塵芥にすぎん」
「わかっ、てるよ、んなことっ……」
 何度も言われなくたってっ、と涙をぼたぼたこぼしながら顔を歪めると、ゲットはまたはぁ、と面倒くさそうなため息をつき、すさまじく全力で顔をしかめながら言った。
「だが、だからってそれがなんでお前を助けちゃいかんってことになるんだ」
「え……」
 普段の仏頂面よりさらに不機嫌そうな、全力のしかめっ面。思わずびくりと震えそうになったが、いや今はそんな場合じゃないと(血はまだ絶えず流れ続けているのだ)ヴェイルは必死に叫ぶ。
「だってお前、俺の命よりお前の命が大切なんだろ!?」
「ああ」
「さっきだって俺のことあっさり見捨てたじゃないかよ!」
「まあな」
「だったらそのままいけばいいだろ! 俺の命救うためにお前の命が失われちゃ、本末転倒じゃんかよ!」
「……確かに、な」
「わかってんなら、なんでっ……」
「……あのな」
 仏頂面でぶっきらぼうに、というよりむしろ忌々しげに、ゲットはぼそりと言葉を漏らした。
「一応、だが。お前が死んで、もう蘇れなくなるのは、『どうでもよ』くはない」
「……え」
 ヴェイルはぽかん、と口を開けた。ゲットはすさまじいしかめっ面のまま、ぎろりと嫌そうにこちらを睨みつけつつぼそぼそと、いかにも面白くなさそうに言葉を連ねる。
「お前がどう思っていようがな、俺はお前のことを……まぁ、嫌いではない、というか……当然ユィーナと比べれば塵芥でどう扱ってもいいような存在なんだが! 一応……なんだ、どうでもいいというほどではないというか……」
「…………」
「まぁ別にその、すさまじく大切だというほどではないんだが、お前の危機には体を張って守ってやるのもそうやぶさかではないというかなんというか。だから……その、だな。体を大事にしろ、というか……」
「それ、って……」
「だからとにかく! そう命を粗末にするなということだ! お前がもうどうしようもない状況になったら、俺だって命ぐらい張ってやらんでもない! 一応、その」
 一度言葉に詰まり、視線を彷徨わせ、それから結局微妙に視線を逸らしながら。右足と左腕には大穴が開き、だらだらと血が垂れ流され、今も激痛が絶えず走っていることだろうに、そんな状況を無視して全力で忌々しげに、ユィーナとは真逆の方向にだが確かに普段とは違う顔で。
「仲間、なんだからな」
「……ゲット……」
 ヴェイルはぽかん、と数瞬その忌々しげな顔を見つめた。
 それからぶわ、と瞳から涙を幾筋もこぼした。
「おいっ、なにを泣いてるっ。馬鹿か、状況を読めっ。だいたいだな、今はそういうことをしている場合じゃないだろうがっ」
 わかってる。わかってるよ。だけど、お前にそんなことを言われるとは思わなかった。想像したこともなかった。
 そんなことを言うのも、思うのも、これまではずっと俺の方からでしかなかったのに。
『確かにのう……貴様ら、状況がまるでわかっておらんな』
 くっくっく、と巨大な喉の奥で笑声が揺れる。はっ、として横を見た。巨大な竜の頭が、口の中から冷たい息を吐く。
『面白い見せ物ではあった。互いを思い合う同士愛、いや、同性愛か? くく、麗しいのう』
 かっ、と顔が熱くなる。状況を読まず感情をぶつけた自分の馬鹿さに猛烈な羞恥を覚えた。魔物の前で愁嘆場演じてどうすんだよ。大馬鹿か俺。
 が、ゲットはふん、と鼻を鳴らしてぶっきらぼうに言った。
「貴様に麗しがられるほど落ちぶれてはいない。空気を読んだのは褒めてやるが、いつまでもぐだぐだくだらんことをやっているうちに母屋を取られても知らんぞ。俺はお前をぶち殺したくてうずうずしてるんだからな」
『ふん……よく吠えるわ。ならば次は肩を食いちぎらせてもらおうか。それでもそんな減らず口が叩けるか試してやろうぞ!』
 フロストヒドラの首がごうっ、と空気を裂く音を立ててゲットに迫る。思わずヴェイルは「ゲット!」と悲鳴を上げかけ――
 ゲットの瞳が一瞬ちら、と動いたのにはっとした。
「はぁっ!」
 がっし! とゲットの右腕と左足がフロストヒドラの顎を押し留めた。そしてそのまま半ば体を口の中に押し込めるようにして拳を突き入れ、骨ごと打ち砕く。『っ……!』と小さく声にならない悲鳴をフロストヒドラが上げるより早く、ヴェイルは素早く整えた息を全力で吐き出した。
「……ふぅっ!」
 ぼごうっ! と自分の間近のフロストヒドラの顔が焼け、絶叫が響き渡る。呼吸法を利用した魔力を直接燃焼させる技術。呪文の方がはるかに効率がいいので使ったことはないが、純粋な魔力ゆえにどんな魔力防護壁をも貫いて敵を焼く。なにが役立つかわからないとユィーナに仕込まれた技術が、こんな時に使えようとは。本当に、あいつは大した女だ。
『ぐふ、はぁっ……きさ、マラァっ!!』
「天に閃くは無尽の光輪、地に輝くは無窮の命脈=v
『な……それはっ』
「我、勇持つ人の意をもって、天地を繋がん――=v
『貴様ぁ――っ!』
「天地の光華よ、無限なる閃雷となりて、我が敵すべてを打ち滅ぼせ!=v
 どがぉぉんっ! という音と共に、轟雷が降り注ぐ。ゲットの必殺呪文、ギガデインだとずっとゲットと一緒にいたヴェイルはわかっていた。ゲットの場合、雷はゲットの体のすぐそばが一番強力な威力を持つと聞いている。それこそ体に密着しながら呪文を受けたフロストヒドラのダメージは、おそらく通常の数倍に及ぶだろう。
『が……ぁっ、お、ノレェッ……!』
 だが、まだフロストヒドラは死んではいない。おそらく次の一挙動で自分の体は打ち砕かれる。術者の意思でたやすく命が奪われる、この罠はそういう魔力構成になっていることはわかっていた。
 それでも。ゲットは言った。命を張る、と。自分のために、命を懸けると。
 それなら自分にできることは、全力で、死に抗うことだけだ。自分のために、ゲットのために――仲間のために!
「ま、け、るかぁっ……!」
 全力で魔力を燃やし、フロストヒドラを焼く――次の瞬間、閃光が奔った。
 パーティ一のスピードを誇るヴェイルですらまともに捉えられなかった矢よりまだ速い速度でヒドラの首の付け根、ヒドラ族の急所に踏み込んだのは、ディラだった。一度聞いたことがある、ディラの編み出した最強の一撃を放つ技。相当な遠距離から一瞬で踏み込み、敵の急所に通常の十倍以上のダメージを与えるその技は、溜めに時間がかかりすぎ放った後隙だらけになってしまうために実戦では使えない、と言っていた。
 だが、気づいていない敵に最後の一撃を加えるという方法ならば、そのリスクは障害にはならない。
 どごんっ、とフロストヒドラの巨体が空間的に断絶している自分の体ごと大きく揺れる。だが、それもたぶん衝撃から体を逃がそうとしたがゆえの反射。おそらくはその数十倍以上の破壊力をこめて急所を撃たれたフロストヒドラは、呻き声すら上げられないままどしぃぃんっ、と倒れた。

「――ふぅ」
 風呂から上がり、さっぱりとした気分でヴェイルはベッドの上に倒れこんだ。体に染み渡った心地よい疲れが解けていく。
 フロストヒドラを倒したあと、ヴェイルはゲットの傷を全部治してから元の街にルーラした。フロストヒドラの頭を一個持ち帰ったので(曲がりなりにも竜族、きちんと呪を施せば死体は残る)、依頼を果たしたことは速やかに依頼主にも伝わり、それなりの報酬をもらった。
 なのであとは宿に帰って寝るだけ、ということでさっさと解散になったのだ。報酬はそれぞれに分けたので、ヴェイルは今日はちょっと贅沢をして一人部屋を取った。ディラはたぶん酒場で酒を飲み、ゲットは――今頃はユィーナのところへ勇んで飛び帰っているだろう。
「……でも、礼も、詫びも言えたし」
 ゲットにもディラにも頭を下げて、自分の迂闊さを謝罪し、それでも助けてくれたことに感謝した。ディラは珍しく少しばかり仏頂面で「気をつけなよね」と言っただけだったし、ゲットも無言で肩をすくめただけだったけれど。
「……けど、俺たちは、仲間≠ネんだ」
 そうだ。あの瞬間、はっきりわかった。ゲットの瞳がわずかに動いたあの一瞬、ヴェイルはゲットがなにをしようとしているか、なにを考えているかわかった。全部というわけではないが、感じ取れたのだ。そのタイミングも、自分がなにをすればいいかも、きちんと見えた。それだけ何度も自分たちはコンビネーションを決めてきたのだ。
 嬉しい、と思った。いい気分、とは素直に言いがたいものはあるが、それでも確かに悪くない気分だった。口に出してしまう時恥ずかしくて陳腐でしかない言葉――絆やら信頼やらが自分たちの間にはあると、確かに感じ取れたのだから。
「……それに、あいつ、『どうでもよ』くはない、って言ったし」
 あいつにしてみれば鬱陶しいことだろうに、わざわざ言葉に出して、自分を慰めてくれたのだ。そのかすかな好意が、本当に、泣けるほど嬉しい。
「……うん」
 あいつが明日戻ってきたら、笑って言おう。おはようって、お帰りって言おう。あいつには不快かもしれないけど――などと考えている時に、こんこん、と部屋の扉がノックされた。
「開いてるぞー」
 まだ夜というほどの時間でもないが、わざわざ自分の部屋を訪ねてくるのはディラぐらいのものだろうと思っていたからベッドに寝たままでそう呼びかけた――のだが、扉が開くやヴェイルは跳ね起き、目を見張った。そこにぶすっとした顔で立っていたのは、ゲットだったのだ。
「ゲ……ッ、ト」
「入るぞ」
 言うやずかずかと中に入って扉を閉める。ばたん、という大きな音に思わず心臓が跳ねた。やばいなんだよどうしよう二人っきりだ、馬鹿かなに言ってるんだ男同士で、などと頭が勝手にぐるぐる回る。
 ゲットがぎろり、と目つき悪く自分の方を睨む。心臓がどきん、と音を立てたが、大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせてできるだけ落ち着いた声で言った。
「どうしたんだよ、ユィーナのとこに行ったと思ってたのに」
「…………」
「なんか……用、なのか?」
「…………」
 ゲットは答えずこちらを睨み続ける。ベッドに腰掛けながら尻の座りが悪いような気分でもぞもぞと身をよじった。用がなければ来ないだろうとは思うが、わざわざユィーナを後回しにしてまで自分のところに来る用なんてものがなにかなど見当もつかない。
 やめてくれよもう、ちくしょうドキドキするじゃないか、と口の中で悪態を突いていると、ふいに、ゲットがうっそりと口を開き、早口に、小さな声で言った。
「悪かった」
 ………………
「は?」
 ぽかん、とした顔と声で言うと、ゲットはすさまじいほどのしかめっ面になりながらぼそぼそと言葉をぶつ切れにしながら告げる。
「悪かった、と言ってるんだ」
「え、いや、あの……なにが?」
「……その、だな。別に、さほど、大したことでは……いや、なんというか……ああクソっ、ともかくな」
 ぎっ、とこちらを睨みつけて、また早口で。
「お前が『好きだ』と言ったのを、まともに相手しないで悪かったな、と言ってるんだ」
「………はぁっ!!?」
 大きく口を開けて叫んだヴェイルに、ゲットはまたも顔をしかめる。だがヴェイルにとってはそれこそ青天の霹靂だった。ゲットがユィーナ以外の存在に謝るというだけでも信じられないのに、それが自分に、しかも自分の好意をまともに相手しなかったなんていうことをわざわざ、ユィーナのところへ向かうことよりも優先するなんぞ、はっきり言ってありえない、想像することすらできないことだったのだ。
 だが事実目の前のゲットは顔をしかめながら、仏頂面でぼそぼそと、小声ながら早口に言い募っている。
「まぁ、俺がユィーナを世界の誰より愛しているのを知っているのに好きだなんだと抜かすのは今でも阿呆以外の何者でもないと思うし、実際最初に聞いた時はお前がたわ言を抜かしているとしか思えなかったがな。今でもたわ言だとは思うし、というか正直それがどういう類の好意であれ正気で言っているとは思えなかったが」
 ここで一度言葉を切って。
「俺のためなら命を捨ててもかまわない、というほど想っている奴の言葉をひとしなみにたわ言と決めつけるのは、少々、その。悪かったな、と思わなくもない」
「…………」
 ぽかん、と口を開けていると、少しばかり慌てたようにまた口を動かす。
「言っておくがな。ここに来たのは、むろんディラに殴られて謝ってこいと言われたからではあるんだが、一応俺自身謝ってやろうという気も、なくはないんだぞ。ユィーナがまだ仕事を終えていないだろうと考えられるからとはいえ、お前なんぞのために時間を割いてやってる時点でどれだけ……ああクソっ」
 途中で言葉を切り、がりがりとその大きな手で頭をかきむしると、勢いよく頭を下げて叫んだ。
「とにかく、悪かった!」
 頭を下げたままの姿勢で動きを止めるゲット――
 それを数秒見つめてから、ヴェイルはぶわ、と泣き出した。うっくうっく、と喉がしゃくり上げてしまうのを必死に抑えようとするが果たせない。ゲットが怪訝そうな顔でちらりとこちらを見上げ、それから仰天した顔になった。
「おいっ、なにを泣いてる。なにを泣くことがあるというんだ」
「ご、ごめっ、だ、けどっ」
「お前なっ、男だろうがっ、ああもういつまでも泣いてるないいから涙を拭けっ」
「ご、ごめ、止まんな」
「………っ、くそっ」
 ずい、とゲットの大きな掌が伸ばされた。がっしりとした、無骨で、逞しい掌。それがごしごしとヴェイルの涙を拭いていく。
「…………っ」
 一瞬、息が止まりそうになった。ゲットの熱い掌。太い指先。それが自分の目元に、肌に触れ、瞳からこぼれた水を拭っていく感触を与える。
 体が火をつけられたように熱かった。ゲットの指先が、自分の顔に触れている、それだけで体中が燃える。くらくらっと惑乱する頭を必死にしゃんとさせて、ゲットの手をそっと押しやり、「も、大丈夫」と小さく告げた。……内心はゲットの手と自分の手が触れ合ったことにまた泣きそうになっていたのだが。
 ゲットは素直に手を引き、苦虫を十匹まとめて噛み潰したような顔でヴェイルを見て、ぶっきらぼうに訊ねた。
「なんで泣いたんだ」
「ん……ごめん。なんかさ、すげぇ、嬉しくて」
「は? なにがだ」
「だって、俺、お前が俺のことそこらへんの有象無象と同じくらいどうでもいい存在だと思ってると思ってたもん。だからさ……ユィーナとの時間を減らしてまで、俺にわざわざ謝りに来てくれたのかって思ったらさ……」
「…………」
 その言葉にゲットは顔をますますしかめ、無愛想極まりない声で返す。
「……お互い命懸けで助け合ってきた相手を、まぁ……ちょっとは大切だなという風にも思わなくもないかなというぐらいにも思えんほど、俺は馬鹿じゃない」
「……うん。ごめん」
「別にいい。……お前には一応、いろいろと恩も……まぁ、あると言ってもいいしな」
「うん……ありがとな」
「…………」
 は、とものすごく忌々しそうに息をつき、ゲットはぎろり、とヴェイルを睨みつけた。
「言っておくがな。お前が報われる可能性はゼロだぞ」
「うん。わかってる」
「俺がユィーナ以外の人間を愛することは絶対にない。まったく完全に100%だ。愛に付随するもろもろの行為も行うことはありえない」
「うん」
「俺はユィーナにしかいい男じゃないからな。お前にとっては少しもまったくいい男ではない。もし運命の神がすさまじい間違いをしてユィーナと出会うことがなく、お前に惚れられたとしても、お前にちゃんと優しくしたりだの愛し合ったりだのすることは絶対完全に1000%ありえないことだ」
「うん……」
 そう早口にまくしたててから、一度小さく息を吐いて、またぎろり、とこちらを睨みつけ。
「で。この一度だけ聞いてやるが、俺に今なにかしてほしいことはないか」
「……は?」
 ぽかん、と口を開け、ぱちぱち、と目を瞬かせる。ゲット、今なんつったんだ?
「とっとと言え。一度だけ、お前が俺にしてほしいことを叶えてやる」
「……え、え゛え゛ぇ゛ぇ゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛え゛ぇ゛!!??」
 絶叫してすざざっ、と数歩後ろに跳び退ったヴェイルを、ゲットはぎろりと魔王でも射殺せそうな視線で睨みつけ続ける。
「言っておくがキスもセックスもせんぞ。おでこだろうがほっぺだろうが挿れなかろうが全面禁止だ。ベッティングも駄目だしセクハラもどっちの役割だろうが駄目だ。痴漢も言葉責めもストリップも、プレイと名がつけられるようなものは絶対に厳禁だ」
「…………」
 プレイって。
「そういう範囲でなら、俺がまぁ少しばかり、この前とこれまでにお前にしてきたもろもろの悪かったかなーと思わんでもないことの詫びとして、なにかしてほしい願いを叶えてやらんでもない」
「………いいのか?」
 我ながらおずおず、を声にしたような声音で訊ねると、ゲットは噛みつくように「いいからとっとと言え」と言ってくる。
 してほしいこと。そんなのは、とっくのとうに決まっている。ごくり、と小さく唾を呑み込んで、ヴェイルは告げた。
「あの、さ。……抱きしめて、くんないかな?」
「……は?」
「……ぎゅって、抱きしめてほしいんだ。ハグ、ってやつ。……仲間として、大切だって気持ち、込めてくれると、嬉しいかな、って」
「…………」
 ゲットはわずかに眉をひそめてしばらくこちらを見つめていたが、やがて「それでいいんだな」と念押ししてきた。
「うん。……それが、一番いい」
 手を繋いでもらう、というのにもちょっと惹かれたけれど。こっそり何度も夢見ていた。――こいつが、俺を、自分の意思で抱きしめてくれる時があったなら、って。
「わかった。いくぞ」
「えっ、ちょ」
 言うやぐいっ、とヴェイルの体を引き、ゲットはヴェイルを抱きしめていた。
「…………っ」
「…………」
 ヴェイルは硬直した。ゲットが。ゲットが、本当に、自分を抱きしめている。
 ゲットの腕が。何度も見つめた逞しい腕が。自分の背中に回されて。自分の顔が、ゲットの胸に。腰と腰が、足と足が、ズボン越しに触れ合って。
 おそるおそる、顔を上げた。ゲットはじっとこちらを見つめている。相変わらずのしかめっ面で、愛想のかけらもない、忌々しげとすら言ってよさそうな視線。
 でも、この顔は、自分だけの顔だ。
 ヴェイルは震える腕をのろのろと上げ、そっとゲットの背中に腕を回した。きゅっ、と力を込めて広い背中を抱きしめる。温かい、いや熱い体温。固い体の感触。表情。視線。力の強さ。すべて、自分のために与えてくれた、自分だけのゲット。
 ヴェイルは一粒だけ、涙をこぼした。ああ――本当に、なんて。
(――生きてて、よかった)
 小さく、口の中だけで呟く。
(生まれてきて、本当によかった)
 不毛で、無駄で、しょうもないものだったとしても。――こいつを好きになって、よかった。
「……よし、終わり」
 唐突に告げるや、ゲットはヴェイルを突き放した。押されて数歩退がるヴェイルに背を向けて、てきぱきと身支度を整え始める。
「さぁて我が世界最愛の恋人ユィーナに会いに行くか! 待っていてくれユィーナっ、君の夫にして永遠の恋人が今すぐ愛を告げに行くぞーっ!」
「…………」
 ヴェイルは苦笑してそれを見守る。まぁ、こんなもんだよな、と思うと自然に口が笑った。自嘲の笑みではなく。
 くるりと背を向けて扉を開けようとするゲットに、声をかけた。
「行ってらっしゃい。気をつけてな」
「…………」
 ゲットがぴたりと動きを止める。しかめられた顔がこちらを向き、何事か言おうとするかのように口を開けた。
 が、結局口から言葉を発しないままぐるりと前を向き、すたすたと部屋を出て行く。それに小さく手を振る――と、小さく声が聞こえた。盗賊のヴェイルでなければ聞こえなかっただろう、小さな小さな声が。
「……また、明日な」
 それにヴェイルは思わず顔を笑み崩し、自分はそれより少し大きい声を返す。
「また、明日な」
 その声に反応を返しはしないまま、ゲットは部屋を出て行った。

「……で、どーだったのよ」
 どうでもよさそうな顔で、隣のディラが訊ねた声に、ヴェイルは小さく笑って答えた。少し先の先頭を歩くゲットには聞こえない程度の声で。
「すんげー嫌そうな顔で謝られて、ちゃんと振ってもらって、それからぎゅって抱きしめてもらった。それからまた明日な、って言ってくれて、それからユィーナのとこ駆けてったよ」
「……ふーん。で、あんたのほーはどーなのよ。ここまでやってまたグチグチしょーもない愚痴こぼしくさるよーな真似しやがったら十二連コンボ決めるわよ」
 東ウーラ大陸のムーンブルクへと向かう街道は、歩きやすく涼しかった。夏の陽射しが街道の脇に連なる木々の枝でぐっと柔らかくなり、きらきらと輝く木漏れ日に変わっている。ときおり涼しい風が吹き渡るそんな風景を見ながら、ヴェイルは笑った。
 うん、大丈夫。今はちゃんと、いろんなものがきれいに見える。
「うん、大丈夫。ちゃんと、失恋、できそうな気がする」
「……あっそ」
「ありがとな。愚痴聞いてくれたこともだけど、他にもほんとに、いろいろ。お前がいなかったら、絶対もっとどーしようもない結末になってたと思う」
「……ふーん」
 ディラは珍しくぶっきらぼうな態度を崩さないが、足音が柔らかくなるのがわかった。珍しいな、こいつ照れてんのかな、と口元を笑ませつつ、昨日寝しなに考えていたことを告げた。
「なぁ、お礼がしたいんだけど、なんか俺にしてほしいことないか?」
 ディラは一瞬口を開けて、目をぱちぱちさせた顔で固まった。お、こいつのこんな顔初めて見たかも、と思いつつ口元に笑みを浮かべたまま待つ。
 体感時間で一分近く経ってから、ディラは口を開いた。
「……なによ、それ」
「だから、お礼。なにか俺にしてほしいことがあったら言ってみろよ。よっぽどとんでもないことじゃなきゃなんでも聞くぜ?」
「…………」
 ディラはきゅっと眉を寄せ、口を開き、数度ゆっくりぱくぱくさせてから閉じ、顔をしかめ、それから首を振った。
「やめとく」
「いいのか? 今思いつかないってんなら」
「うん、今はやめとく。とっとくわ、そのお礼の分。もーちょっとあたしの方が進展するまで」
「? 進展、ってなにが」
「さー、なっにかしらねー」
 ディラはそう言うとにやっ、と唇を笑ませてから、くくっ、とおかしそうに笑い声を立てる。それを見て、ヴェイルはなんとなく『ああ、ディラらしい顔だな』なんてことを思い、妙に嬉しくなってははっ、と笑った。
「……おい、お前ら。いつまでくっちゃべっている」
「え」
 ヴェイルは目を見開いて前を向く。ゲットが不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。
「足を止めている時間はないぞ。ラダトームで待っているユィーナのためにも一刻も早く成果を持ち帰らねばならんのだからな。……くぅっユィーナっ君のためとわかってはいるが会えぬこの間があまりに辛いっ、せめて一目君の姿を垣間見て」
「道の途中でルーラする気かいっ魔法力の無駄遣いすんじゃないわよこんボケがぁっ!」
「ぐへっごはっぐふっ」
 ゲットがユィーナを想い暴走し、ディラが鉄拳で突っ込みを入れる。それに見事にゲットが吹っ飛ぶ。そんなここ四ヶ月でお馴染みになった光景を見て、ヴェイルはぷっ、と吹き出した。
「? なに、あんたも殴りたいの?」
「お前は俺が殴られているのを見るのが面白いのか?」
「いや、そーじゃなくってさ……」
 仲間だなぁ、って。俺のなにより大切だと思う仲間の光景だなぁって。ユィーナはいないけど、俺の帰りたいというか、一緒にいたい場所だなぁって。
 なんてことを真正面から言うのはちょっと気恥ずかしかったので、ヴェイルはくっくっと漏れる笑い声を抑えて、笑顔で言った。
「早く、ユィーナ迎えに行ってやろうな」
 すると、ゲットは一瞬きょとんとして、それから破顔した。
「おう」
 めったに見ないその笑顔は、やっぱり好きだなぁと思える顔で、胸のあたりをつきんと疼かせたけど、それはもう、こいつには言わない。そう決めて、ヴェイルは「うん」と笑顔でうなずき返した。

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