槐夢~チャモロ
 鏡の間。そう呼ばれた部屋には、その名の通り巨大な鏡があった。護るように置かれた二つの聖像の奥、階段を上った先、燭台で両脇を固められた中央に、十人近い人を縦に重ねても余裕があるだろうほどに大きな鏡が、封じるように、あるいは縛るように幾重もの鎖を垂らしながらそびえ――その鏡の中に、姫君と思しき女性が映っている。
「これが呪いの鏡だ。この鏡の前でラーの鏡をかざしてみてくれ! さあ!!」
 懇願するかのごとき叫びを叩きつけてくるフォーン王を前にしても、ローグに動じる様子はなかった。平然とした顔で、悠々とした動作で、道具袋からラーの鏡を取り出そうとする。その余裕に満ちた態度に耐えきれず、チャモロは思わず言葉を漏らしてしまった。
「信じられません……! 本当に、鏡の中に人がいます……!」
「あれって、ガラスの後ろに部屋があって、そこに人がいるんじゃないんですか!?」
 アモスが益体もないことを言ってくるが、それを正す余裕も今のチャモロにはなかった。自分でも、言ったところで大して意味はないように思えることを口に出さずにはいられないほど、緊張し、うろたえてしまっていたのだから(いや、鏡の中に、こちらに必死になにかを訴えようとしているように見える姫君がいるのを確認し、驚いてしまったのも間違いなく事実ではあるのだが)。
 これまで何度もそういうそぶりを見せたことはあった。けれどこれまでは、いかなる状況でも冷静さを保っているがゆえだと、むしろ頼もしく感じていたのだ。彼の――ローグの、冷たくすら感じるほど落ち着いた態度は。
 だが、今は――フォーン城にやってきてからの態度からもなんとなく違和感を感じ取ってはいたが、今フォーン王と鏡に囚われた姫を前にして、ようやくチャモロには確信が持てた。彼は――チャモロが旅に出た理由であり、誰より頼りにするパーティのリーダーであるローグは、心の底から軽侮の念を抱いているのだ。
 誰に抱いているのだろう。なにに抱いているのだろう。なぜそんな、人を蔑み、嘲笑うかのごとき目で、周りを睥睨せねばならないのだろう。
 ――もしかすると彼は、ずっとそんな目で、周りを見てきたのだろうか。他者を見下し、軽蔑し、はるか高みからすべてを卑しむ、そんな瞳で。
 そんな想いが、打ち消しても打ち消しても湧いて出てきてしまい、チャモロは震えようとする体を、死に物狂いで押さえ込まずにはいられなかったのだ。

「なに言ってんだ、チャモロ。そりゃ考えすぎだって」
 フォーン王から承った、姫を鏡の中に封じ込めた、邪悪な魔法使いミラルゴの討滅。現実世界にはすでに存在しないミラルゴの根城を探して夢の世界へやってきた自分たちは、空飛ぶベッドで、現実世界の地図でならばフォーン城の北に当たる場所――砂漠の中の塔へと飛んできていた。
 ずっと空飛ぶベッドの上にいたので体が固くなっているだろう、というローグの発案で、塔を上る前に少し休憩しようということになり、塔の扉の前に馬車を止めて、自分たちはしばし自由時間を与えられた。その時間を使って、とうとう自分の中だけに疑問をしまっておくことができなくなったチャモロは、ハッサンに相談を持ちかけたのだ。
 そして、そうあっさりきっぱりと、否定されてしまったわけで。
「……そう、でしょうか。私には……どうしても、ローグさんが、フォーン王さまに対して、ひどく強い軽蔑の念を抱いているようにしか、見えなかったのですが……」
「ああ、そりゃフォーン王に対してはそうかもな。けど俺たちまで軽蔑してるってなぁ、全然別の話だろ?」
 チャモロはばっ、と顔を上げ、ハッサンに詰め寄る。仲間の中で、一番ローグと近い場所にいるように見えるハッサンが言ったことなのだ、詰め寄らずにはいられなかった。
「やはりハッサンさんも、ローグさんが、フォーン王に対し、軽蔑の念を抱いているように感じられたのですね?」
「お? おお、まぁな。あいつ、ああいう王さま嫌いだからなぁ。っつか、王さまはたいてい嫌いっぽいとこあるけどよ。基本偉そうな奴だから、形だけでも敬わなきゃいけないような相手とは相性が悪いんだろ」
「っ……そのように、思ってらっしゃる、と?」
「おお。ま、俺が勝手に考えたこったけどよ、そんなに外れてもいねぇと思うぜ。チャモロだって似たようなことは考えてたんじゃねぇのか?」
「それは―――」
 そんなこと考えたこともなかった。というのは、真実であり、偽りでもあった。
 確かに言葉として考えたことはなかった。チャモロにとって、ローグというのは、常に先頭に立って仲間たちを引っ張ってくれる、頼りになるパーティのリーダーであり、チャモロが旅に出るきっかけとなった、まさに勇者と呼ぶべき人だったからだ。
 けれど、同時に、そこはかとなく違和感というか、チャモロの価値観からすると容認しがたいことをしてのける人でもあった。ホルストックでのホルス王子への対応もそう(この時はチャモロも正直だいぶうんざりさせられたので、まぁ仕方ないかなと思ってしまったが)、アークボルトでのテリーに対しての言動もそう。チャモロが旅の仲間に加わった直後の……いやそれはともかくとしても。ともかくとしても! どんな人に対しても丁寧に接するのに、仲間内で話す時はどんな尊い身分の人でもさんざんにけなすことも、そもそも貴い身分の人に対する敬意が基本的にまるでないことも、そうなのだ。
 チャモロにしてみれば、そのようなことは容認できることではない。ゲントの神に仕える者として、断固として正さねばならない悪徳だ。だがローグと向き合って話をしようとすると、チャモロの思ってもみなかったような論理にさんざんに翻弄され、言い負かされごまかされ流されて、『ローグは別に間違ったことをしていないのじゃないか』と思い込まされてしまうのが常だった。神職の端くれとして情けない限りではあるが、ローグはチャモロなど子供扱いにしてしまえるほど弁が立つのだ。
 けれどやはり、ハッサンすらもがそう思っているのならばどうしても、ローグの悪徳を見過ごすわけにはいかない。ローグのためにも、周囲のためにも、断固としてローグと向き合い、その悪心を正さねばならない。そう自身に言い聞かせ、気合を入れようとするチャモロに、ハッサンは苦笑して告げた。
「まぁ、お前さんがローグのそういうとこが気に入らねぇのはわかるけどな。この場合、そんなにムキになってもいいことねぇと思うぜ?」
「はっ? な、なぜですか。ローグさんの心に悪徳が住み着いているのならば、それを追い出し心身を正さねば、ローグさんのためにも世界のためにもならないと」
「や、まぁそういう……なんつーんだ、たいぎめいぶん? は、ともかくとしてだ。お前さんは、ローグの悪いとこっつーか、気に入らねぇとこを直させようって考えてんだろ? となると、普通そういう時って、説教したり注意したりで、まぁ口を使うよな?」
「……それは、そうなるでしょうが」
「となると、だ。俺からすると、天地がひっくり返ったところで、お前さんがあいつに口で勝てるとは、どうにも考えられねぇんだよなぁ」
「……………」
 それは、確かに、チャモロ自身、確信できてしまうことではあった。情けないことこの上ない話でもあったが。

「思ったよりも高い塔だな。まぁこの前の運命の壁よりはマシだけどよ」
「ここまで上ってきたら、もういつミラルゴが出てきてもおかしくないよね……ローグ、気をつけて!」
「……ローグさん、大丈夫です。ゲントの神はいつも見守ってくれています。心を強く持ち、使命を果たしましょう」
「――ああ。そうだな」
 そう言ってふっと笑ったローグの表情にすら、チャモロは不安を感じざるをえなかった。いつもの自信に満ち溢れた、力強い笑顔。だがその中に、なにか不思議な翳りというか、屈託が隠されているように感じてしまうのだ。気のせいなのかもしれないとは思うものの、ハッサンやバーバラがときおりちらりとローグを見る仕草や表情にも、ローグを気遣うような気配が感じられてしまう。
 なんなのだろう、ローグさんが戦いを前にこのような顔をするところなど、これまでに見たことがないのに。なにかこの塔の主ミラルゴについての情報をお持ちなのだろうか、などとあれこれ考えてしまうチャモロの心境になどなんの斟酌もせず、魔物は次々襲いかかってきて、自分たちに次々撃退されていく。
 現在のチャモロたちの職業は、ハッサンとチャモロがパラディン、バーバラがスーパースターと上級職が三人もいる。ローグは武闘家だが、武闘家は基本職の中では能力の低下が激しくないし、ローグ自身がハッサンに次いで前衛向けの能力を持っているので、不安要素にはまずならない。しかも散発的に襲ってくる魔物程度ならば、ハッサンの岩石落としと、チャモロの真空波でだいたいかたがついてしまうのだ、苦戦する理由はどこにもなかった。
 螺旋階段を上った先の部屋を抜けると、そこは塔の屋上部分だった。はるか彼方の地平線までを一望する景色を背景にして、塔の屋上の隅々まで敷き詰められた土の上に、いくつもの樹々や草花が育ち、池まで作られているのだ。まさに空中庭園と呼ぶべきだろう、邪悪な魔術師の根城とは思えないほど、見事な景観が形作られていると言っていい。
「すっごーい! きれーい! ここからの眺めは最高だねー! それにお庭も! 奇麗なお庭がこんな高いところに広がってるなんて初めて見た! なんだか、お庭が空に浮かんでるみたい!」
「そういった庭園を、俗に空中庭園と呼ぶのですよ、バーバラさん。しかし、なんというか、草が足の下でそよぐ感覚も相まって……まるで足元が風で揺れているようですね。庭ごと風で揺らされているようにも感じます。それが空中庭園と呼ばれる所以なのでしょうか……」
「どうやら、ここが一番上のようだな。家があるってことは、あの中にミラルゴがいるのか?」
「そうだろうな。バーバラ、チャモロ、この眺めが見事なのは俺も同感だが、とりあえず堪能するのは目的を果たしてからにするか」
「あっ、うん、ごめん! フォーン王のためにも、鏡姫のためにも、悪い魔術師ミラルゴをやっつけないとね!」
「そうですね。申し訳ありません、ローグさん」
「謝ることはない。この眺めが見事なのは同感だと言っただろう。……さて、それでは……」
 ローグがちらりとハッサンに目配せすると、ハッサンはわかっているとばかりに無言でうなずいた。ローグがほとんど音を立てもしないまま、庭園の奥の小さな家の扉の前まで進む後について歩き、扉のすぐ脇の壁の所で待機する。
 バーバラとチャモロが少し離れた場所で待機して見守る中、ローグは扉をあれこれ調べたのちに、ハッサンに向けてうなずいてみせてから、バーバラとチャモロに向けて、『急いでこちらに来い』という合図を送った。バーバラとチャモロが急ぎ走り出すのに一瞬遅れて、ハッサンは扉を蹴り開け、中に飛び込む。
 そんなように、ミラルゴの待ち伏せ、あるいは罠を警戒して家に乗り込んだ自分たちだったが、案に相違して、待ち伏せも罠も、影も形もないようだった。家の中はひとつの大きな部屋のみで構成されているらしく、その中央に大の大人数人分は入るだろう巨大な薬壺らしきものがあり、火にかけられてなにやら薬らしきものを煮詰めている。そしてそんなものに目もくれず、部屋の奥で、なにやら一心不乱に鏡台の鏡の中を睨みつけている男がいた。
 その男は、こちらがそれなりに大きな音を立てて部屋の中に乗り込んできたのに、まるで反応する様子がない。こちらを見ようともしないし、声もかけてこない。困惑してローグを見やったチャモロにローグはうなずきを返し、全員に『隊列を組め』という合図を送ったのち、ハッサンに向けて顎をしゃくった。
 ハッサンは軽く肩をすくめてから、先頭に立ち、ずかずかとその男に近づいて声をかけた。その後を、ローグ、チャモロ、バーバラという順番で追いかける。
「おい、おっさん。……おっさん。……おいっ!」
 幾度も声をかけても反応がないため、焦れたハッサンは力を入れて男の肩を叩いた。男は「ゲゲッ!?」と叫んで飛び上がり、後ずさりしながらこちらを振り向いて、ぎゃあぎゃあと喚き始める。
「ゲゲ? なんじゃ貴様たちは。どこから入ってきた!」
「そこの扉から堂々と。お前が魔術師ミラルゴ、ということでいいんだな?」
 ローグがハッサンの後ろから進み出て答えると、男は顔をしかめてまた喚く。
「ミラルゴ? ゲゲ! なんでわしの名を知っているのじゃ!」
「フォーン城――中に姫君を閉じ込めた鏡のある城の主に、鏡姫を救いたいからお前を倒せ、と命じられてな。まぁ別にその命令を素直に聞く義理もなかったんだが、鏡の中に女を閉じ込めっぱなしにしておくのもどうかと思ったんで、とりあえず閉じ込めた奴の顔を見に来たのさ」
「ちょっとっ! ローグ、なに言ってんの!? 鏡姫のことをなんとかして助けてあげないとっ……」
 勢い込んでローグを怒鳴りつけるバーバラの言葉にはチャモロも素直に賛同できた。だがこの状況でローグの言葉に横から口を挟むのはなにかよくない影響を与えはしないか、という根拠のない憶測が生じてきて、チャモロは内心ひやひやしてしまっていたのだが、男――魔術師ミラルゴは、そんな言葉などまるで耳に入れずにいきり立つ。
「鏡姫? ゲゲ! 貴様何者じゃ! なぜイリカのことを知ってる!」
「話を聞こうという意欲がないのかお前は。姫を閉じ込めた鏡のある城の主に命を受けたからだと言っただろが」
「いかにも! わしが鏡の中にイリカを封じ込めたんじゃ」
「なにがいかにもだ、たかだか女一人を鏡に閉じ込めたなんぞというしょぼい悪事で偉そうにふんぞり返るな」
「ゲッゲッ! 悪事とはまた人聞きが悪い。わしはただあの女に思い知らせてやろうとしただけじゃ。自らの立場と、どう振る舞うのが一番賢いかということをのう」
「ふん……。……とりあえず、鏡に女を閉じ込めた呪いを解く方法を教えてもらおうか」
「呪いを解く方法? ゲゲッ、簡単じゃよ。イリカがわしの嫁になるって言えばいいんじゃ」
「……呪いで得た形だけの婚姻関係で満足するのか。まったく徹頭徹尾しょぼい男だな。女の心を翻させようとする程度の根性もないのか」
「フン! 貴様のような男に言われる筋合いはないわ。ただわしは、イリカに賢明な道を選ばせようとしただけのこと……じゃがその様子じゃ、まだその気になってはおらんようじゃのう」
「むしろよくまぁ鏡に閉じ込めて放っておくだけで女の心を変えられるなぞと、楽観的、というより脳天気な推測を立てられたもんだな。それでも男か、お前? 女を口説き落とそうという気概もなく、女に折れてもらうことをただ待つなんぞというやり口しかできない分際で、よくまぁ女に惚れられたものだな」
「ゲッゲッ! 言ったはずじゃ。貴様のような男に言われる筋合いはない。貴様のような男には、未来永劫わかりようもないことよ」
「……わからせようという気もないのに、相手がこちらを理解してくれないのを責めるのは、たとえどれほど不遇をかこっていた男の台詞だろうと、理不尽に過ぎると思うが?」
 その言葉にミラルゴは答えず、くるりとうしろを向いた。鏡と向き合い、手を乗せて、もたれかかるような体勢で小さく呟く。
「………強情な女じゃよ。もう何千年経ったことやら」
「老いさせることもなく、ただ獄舎に繋ぎ、それ以上なんの苦痛も与えずに生かしておきながら、よくまぁそんな台詞が吐けるな。お前には状況を打開しようとする意欲というものがないのか?」
「言ったはずじゃ、二度もな。貴様のような男に言われる筋合いはない。……ま、焦ることもない。時は充分にある。そう……永遠に近いほど……な」
 そう呟くやミラルゴはこちらを振り向く――そして振り向きざまに、鏡の中からずぬるぅ、と杖を引き抜いて構えた。鏡姫を閉じ込めているのだから当然だが、このミラルゴという魔術師は、鏡を使った妖術に長けているらしい。
「とにかく、人の恋路を邪魔する輩は許しておけんのう、ゲゲゲ!」
「……笑わせるな。顔を上げて恋を語ろうという根性もない男が、恋路だなぞと抜かす資格があるか! ハッサンスクルト、チャモロとバーバラはマジックバリア!」
「おうっ!」
「うんっ!」
「わかりました!」

 体が軽い。やはりローグの指揮で戦うのは心地よかった。体がまるで、その時の最適な動きというものをもともと知っているかのように、力強く、迷いなく、全力で戦うことができる。
 これがどれだけ驚くべきことか、ゲントの村でもある程度の実戦経験を得ていたチャモロはよく理解していた。実戦というものは、自身の命を懸けた殺し合いというものは、どれだけ訓練を積んでいたとしても、手を、足を、心を、鈍らせるものなのだ。訓練ならばできていたはずのことはできずに終わるし、理性でもって的確に戦況を判断するなどほとんどの人間にとっては机上論にしかならない。緊張と恐怖で、興奮と狼狽で、いつも通りに動けず頭も働かず、恐慌状態に陥った獣のように、原始的な殴り合いをすることしかできないのだ。ほとんどの人間は。
 それなのに、ローグはいついかなる時も冷静な判断力を失わず、的確な指示を下す。強敵と戦う時でもなければ、次なにをするか事細かく命じることはあまりないが、それでもローグがいてくれるとなぜか自然と心が落ち着いて、その時々の必要十分な行動を、ごく当たり前のように取ることができるのだ。
「死ぬがいいわ! ベギラゴン!」
「くぅっ……!」
「ベホマラー!」
 バーバラの呪文により、ミラルゴの呪文で負わされた怪我があっという間に治っていく。バーバラを回復に専念させていたローグの指示が今回も奏功したのだ。
「おぉぉっ、らぁっ!」
「はぁぁっ!」
 ハッサンに続き、チャモロも素早くミラルゴの懐に踏み込んで正拳突きを放つ。バイキルトによって強化された武闘家の特技は、抜群の破壊力をもってミラルゴの肺腑を抉り、口から血を吐き出させた。
「ぐ、っふ……おのれっ、来い、魔神よ……っ!?」
「――――」
 僕のランプの魔神をミラルゴが呼ぼうとするやいなや、忍び寄るかのように静かに間合いを詰めたローグの正拳突きが無言のうちに突き刺さる。むろんローグにもバイキルトはかけ終えていた。ローグはこの塔で習得したばかりの特技だというのに、当然のようにその性質を理解して、十全に活用している。というより、むしろミラルゴとの戦い前にちょうど習得できるように調整したのではないかと思いたくなるほどだ。ローグならばそんなことまで考えていたとしても、チャモロは少しもおかしいとは思わない。
 その一撃がとどめとなった。ミラルゴはまたも血を吐きふらついて、からんと杖を落とし、半ば独言のように血と言葉を漏らす。
「ゲ……ゲゲ、おのれ……貴様たちなどに負けるとは思わなんだ……。ゲゲ……。イリカ……わしは……ただ、お前が……ゲッゲフッ!」
 そう漏らし終えるや、ミラルゴの身体は爆散した。体の中のこの世ならざる力が破裂したかのごとき、イオ系呪文にも似た光の爆発で、杖ごと衣服ごとミラルゴの身体は吹き飛んで、後には塵も残らない。これまで倒してきた強力な魔物と同様の消滅の仕方だ。
「よっしゃ! 倒したぜ!」
「いえーい! ゲッゲゲ男をやっつけたー! これで鏡姫の呪いが解けるよね!」
 ハッサンとバーバラがそう言って嬉しげに手を打ち合わせる。チャモロもほっとして、一人残ったローグに向けて語りかけるように呟いた。
「ふう……。イリカ姫がこんな奴の奥さんにならずにすんでよかったです」
「………ま、あの鏡の中の姫は、心底そう思っていたようではあるな」
「は……?」
 意味がよくわからず首を傾げるチャモロをよそに、ローグは全員に向けて呼びかけた。
「とりあえず、なにか残されていないか家探しした後で、空中庭園の眺めを堪能したら、ミレーユたちと合流してフォーン城に向かうとするか」
「あ、うんっ! 早く王さまにこのこと伝えてあげないとねっ!」
「……ま、嫌なことはとっとと済ませるに限るからな」
「あの、ローグさん……?」
「なんだ、チャモロ?」
「いえ、あの……」
 振り向いてこちらを見つめるローグの眼差しに濁りはない。いつもと同じ、涼やかで凛として、力強く心強い瞳。戦う前に感じられた屈託など、どこかに行ってしまったかのようだ。
 ならばいまさら蒸し返しても意味はない、ただローグに不快な思いをさせるだけだろう、とチャモロは首を振り、「いえ、なんでもありません」と告げた。ローグもあっさり「そうか」とうなずいて、さっそく家探し(という言い方をするといささか不穏だが、要は倒した敵が所持していた宝物を回収しようということなのだ)を始める。
 その様子を(ローグ自身が常々『家探しの手際に関しては俺があまりにも優秀すぎるから、他の奴らに手伝われても手間が増えるだけだ』と言っているので手伝えないのだ)眺めながらも、チャモロは考えていた。フォーン王に再度の謁見を申し出る時に、ローグが無礼な振る舞いをしたならば、自分はなんとしてもそれを正さねばなるまい。ゲントの神に仕える者として、神職にある者として。
 それも自身に課せられた使命の一環なのだろう、と、心の中で自分に言い聞かせ、励ましていた。そうしなければ、ローグと言い争いをするという事態を前に、チャモロ自身の心が萎えてしまいそうだったので。

 が、案に相違して、フォーン王に謁見した際のローグは、一分の隙もない、凛々しく堂々とした、貴公子と呼ばれてもなんの違和感もないような、堂々とした態度で振る舞ってみせた。
「む! 戻ったか! して、どうだったのだ……」
「は。鏡の中に閉じ込められし、イリカの名を持つ姫君。彼女に恋慕し、呪いをかけた魔術師ミラルゴ。彼奴の討伐を恙なく終えた由、お伝え申し上げたく存じます」
 フォーン王はチャモロの目から見ても、王と呼ばれるのにふさわしい風采の、美々しい面立ちをした男性だったが、そんな相手と相対しても、微塵も気圧された様子がない。むしろフォーン王の気迫を呑み込み受け流してしまっているかのような、ひざまずく後姿が大きく感じられるほどの、壮大な意気を否応なく感じさせる態度。それはフォーン王の必死の形相が、子供っぽく見えてしまうほどだった。
「な、なに? 仕留めたとっ! うむっ! そなたらならきっとやってくれると信じていたぞっ。これで……これで……姫……そうか、イリカという名前なのか。これでイリカ姫を鏡の中から救い出せる! さあ、そなたたちもついてきてくれ!」
 先導するフォーン王のあとについて歩くローグを見ても、その気持ちは薄れない。むしろより強く感じられるほどだ。背中を見つめて歩いているだけで、心地よさすら覚える風格。ついていくことが、従うことが、当然で正しい在りようなのだと、心の底から確信できるほどの威風。いつものローグと同じ、いや普段より強くなっているかのように感じられる、彼独特の魅力だった。
 フォーン王は鏡の間で、「今こそ、この呪文で呪いが解けるはず!」と、目を閉じてなにやら不思議な響きの呪文を呟くと、かっと目を見開いて、鏡の中の姫へ詰め寄る。
「……汝、我が愛を受け入れるか? 受け入れるなら我が名を呼べ!! 汝の愛する者の名を!」
 数瞬の間。それからひどくかすかな声で、応えがあった。
「フォ……」
「え……?」
「……フォーン……」
「イリカ!」
「あ……」
 吐息を漏らす音。ずっと息をすることを忘れていた人が漏らすような、長く、かそけき、震える音吐。それが響くや、鏡の中のイリカ姫の上に煌めきが奔る。その輝きは幾度も幾度も鏡の上を走り、ついには目が見えなくなるほどの眩い光となった――と思うや、ぱっと虚空にすべて散じ、その光に引っ張られるように、イリカ姫は鏡の中からするり、と抜け出た。
 目をみはる自分たちの前で、フォーン王とイリカ姫は歓喜の表情で抱擁を交わし合う。
「おお! おお……」
「フォーン……。ありがとう……」
「イリカ……。本当に、今ここに君は存在しているんだな」
「そうよ、フォーン。あなたと、そしてそこにいる勇気ある人たちのおかげ」
「ローグ、私には礼の言葉すら思いつかない。この喜びをどう表したらいいのかよくわからないのだ。しかしこの礼は必ずすると約束しよう。だから今は……今はイリカと二人きりにしてほしい。行こう、イリカ。みなに紹介しなくては」
「え……?」
「もう決めてあるんだ。君を、妃……妻に迎えたい。嫌か?」
「…………」
「さあ、行こう!」
 言うやフォーン王はイリカ姫を抱き上げて部屋を出て行く。それを見送ったあと、自分たちは口々に今見た光景の感想を交わし合った。
「うーん、あたし感動しちゃったよ! なんていうか、すごいもの見たー! って感じ!」
「よかった……本当によかったわね! フォーン王さまもイリカ姫さまも、とても嬉しそうだったわね」
「今……目の前で起きたことがまだ信じられないぜ……。まさか本当に鏡の中から、女の人がするりと抜け出てくるなんてな。まぁ無事ことが終わって、めでたしめでたしってことなんだろうが……あ、これで鏡姫の件はすべてうまくいったよな。こりゃあ、今夜あたり、何かご馳走にありつけるかもしれないな」
「ええ、イリカ姫の呪いはすっかり解けたようですね。これもすべて、ゲントの神のお導きがあったからでしょう。本当によかったですね!」
「あ! あ! ちょっと待ってください、まだイリカ姫はちゃんと返事をされていなかったのでは!? それなのにどんどん話を進めちゃって、よかったんでしょうか……あ、でも、イリカ姫も長年結婚できなかったようなものですし、マリッジブルーとかはないかもしれませんね。結婚できるなら喜んで、という感じなのかも……イリカ姫……本当はおいくつなのでしょう……」
「もーっ、アモスってば、気分が壊れるようなこと言わないでよー! せっかく王さまとお姫さまのロマンスに浸ってたのにー!」
「え、でもここ気になるとこじゃないですか? 私だったら結婚する相手の年はちゃんと知っておかないと安心できないですよー」
 だが、そんな中でもローグは一人無言で、フォーン王たちの去っていった部屋の外へ視線を向けていた。それでもその堂々とした風采に乱れはなかったが、なにか気に入らないことがあったのだろうか、とつい心配になって視線を向けると、それに気づいたのだろうか、くるりと仲間たちを見回して言い放つ。
「とりあえず、後を追うか。一応向こうがどう反応するかは、きっちり確認しておこう」

「今、王に連れられて出てゆかれたのは鏡姫? つ、ついにやったのですね!」
「見ましたかっ!? 王のあの嬉しそうな顔を! ありがとうございました」
「鏡姫が鏡の中から出てきたなんて、もうびっくりです!」
「鏡姫、いやイリカさまがあれほど美しい人だったとは!」
 わいわいと喋りあう城の人たちの間を通り抜けて、玉座の間へ向かう。玉座の間では、すでにフォーン王とイリカ姫が隣り合って並び、玉座と王妃の椅子に座っていた。進み出て再び謁見するローグに、フォーン王は機嫌よく言い放つ。
「おお! ローグ! よく来てくれたな。そなたのおかげで私はイリカを妻に迎えることができる! 本来なら盛大な式を挙げ、そなたたちも招くところなのだが……まあそれはそのうちに……ということで置いておこう。ともかく礼を言うぞ。そしてこれは我が城に古くからあるものなのだが……。この水門の鍵をそなたたちに託そう!」
 フォーン王の差し出した鍵を、大臣が受け取り、ローグがひざまずいているところまで持ってきて下賜する。それをローグは堂々と、一部の隙もない礼法で受け取ってみせた。
「その鍵があればこの城の東の海峡にある水門を開き、南の海に船を出すことができよう。さらなる世界がそなたたちの前に広がるはずだ。そなたたちが探し物を見つけることができるよう、私もイリカと共に祈っているぞ」
 フォーン王が口を閉じると、イリカ姫がどこかあえかな声で告げる。
「もうどのくらい昔のことだったのか……。時間の感覚が麻痺してはっきりわかりません。あの日ミラルゴは私たちの城を襲い……私の愛した人を死に追いやりました。ミラルゴは私を連れ去り、自分のものにしようとしました。でも私が自分の愛を受け入れないと知ると……私を鏡の中に封じたのです。自分を愛すると言うまでいつまでも待つ……と言い残して……。初めてフォーンと会ったその時、私にはわかったのです。彼はかつて、私が愛した人の生まれ変わりであると……。そして、数千年の時を越え、私は彼と結ばれることができました。それもすべてあなたのおかげ……。私でなにかお役に立つことがあったら遠慮なく言ってください。私の古い知識が必要になることもあるでしょう」
「……それでは、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ、遠慮なく。私の古い知識が、なにかお役に立つとよいのですが……」
「イリカ姫。あなたは魔王……ないし、大魔王というものについてご存知ですか」
「え?」
 イリカ姫はたおやかに首を傾げてみせた。その仕草に、少しでも力にならなければと思ったのか、ハッサンが後ろから声をかける。
「魔王ムドーって奴は、俺らが倒したんですがね! そういう奴らについて、なにかご存知じゃねぇ……ありません、か!」
 途中で言い直す形になったハッサンの問いに、それでもイリカ姫は律儀に考え込んだ。数瞬ののち、また優美に首を傾げながら答えてみせる。
「魔王ムドー? あなた方が魔王を倒したと……? ですが……ムドーという魔王の名は、私の記憶の中にはありません。ただ、なによりも恐れられた大魔王の存在を耳にしたことはあったように思うのですが……申し訳ありません。鏡の世界から出てきたばかりで、まだ混乱しているようですわ」
「……そうですか。お気持ちを煩わせましたこと、お詫び申し上げます。これよりは、どうぞフォーン王と末永く睦まじく過ごされますこと、僭越ながらお祈りさせていただきたく存じます」
「ええ、ありがとうございます」
 そう言って微笑むイリカ姫は、チャモロのような無粋極まる僧でも一瞬感嘆するほど美しかったが、ローグはあくまで礼儀正しく目を伏せ、イリカ姫を見ようとはしなかった。

「……あの、ローグさん。申し訳ないのですが、少しよろしいでしょうか」
 神の船で海を南下し、水門を開いて、その先の新たな海の探索行を始めてよりしばらくののち。チャモロは、ついにそうローグに訊ねてしまった。
 神の船は人の手の要らぬ船。普通なら数十人という人員が必要であろう大船舶ではあるが、船を動かすために必要となる人員は船長にして操舵手を務める男一人だけ。帆を張るのも船体の掃除も、神の船は乗り手の意志によって自在に、自動的にこなしてしまう。乗組員が手入れできるのは、日ごろの感謝を込めて船体を擦るか、個人の船室の掃除を除けば、食事の調理のような船と直接には関係のない仕事しかない。
 なので、たいていの乗員は暇を持て余してしまう船旅の中で、ローグは舳先に立って、船が進む先の光景を眺めていることが多いようだった。見えるのはほとんど海原だけ、という時間がほとんどなのに、いつまでも飽かず見つめている。
 まぁ、神の船の進む速さはまさに神のごとくで、人の手による船とは比べ物にならない、一時で数百海里を駆け抜けてしまうほどなので、そこまで長い時間を費やしている、というわけではないのだろうが。ともあれ、話しかけても邪魔ということはたぶんないだろう。そんな風に状況に力を得て、胸の中の疑問を抑えきれず、チャモロはローグに問いかけてしまったのだ。
 ローグはくるりとチャモロの方を向いて、にこりと、優しく暖かく、それでいて凛として風采のよい笑みを浮かべてみせる。チャモロが話しかける時、ローグはたいていこんな顔をしていた。
「どうした、チャモロ。お前が聞きたいというのなら、俺はなんでも話す用意があるぞ」
「その……フォーン城での、ことなのですが」
「ああ。あのいちいち鬱陶しく面倒くさく邪魔くさく、しかもそれに自覚がない、見ているだけで腹の立つ王がいた城がどうした?」
 さらりと言われて、チャモロは一瞬絶句する。だが、むしろいい機会ではないかと己を叱咤して、ローグに向き合い諄々と諭そうとした。
「よろしいですか、ローグさん。そのように、人を蔑み、見下げる言い方をするのはよろしくありません。他者を罵ることは、それすなわち自身の徳を落とすことであるのです。蔑んでいるつもりがいつの間にか自分も同じような存在に堕していた、という例など枚挙に暇がありません。ローグさんも、勇者として正しく振舞わんとお考えなのであれば、そういった面においても自身を律し、粛々と我が身を慎んで振る舞うべきで……」
「勇者ってな、チャモロ。俺の今の職業は、別に勇者じゃないんだが?」
「っ、今はそのようなことを申し上げているのではなくですね……!」
「わかった、悪かったから怒るな。俺は単に、お前の中でその矛盾がどんな風に解消されているのか、あるいはされていないのか知りたかっただけなのさ」
「矛盾……ですか?」
「ああ。お前にとっての勇者らしからぬ存在である俺を、勇者と呼び続ける矛盾」
「っ―――、それは……私にとっては、決して、矛盾と呼ぶようなものでは……」
「そうか? 事実今回は、お前にとってどうしても看過しえない瑕疵を、俺に感じたんだろう? フォーン城を訪れてから。俺がフォーン王と、ついでにイリカ姫に、心の底からの蔑みを抱いている、と」
「――――!」
「それは事実だし、俺としては別に隠す気もない。まぁ礼儀として対面している時には潜めるぐらいのことはしたがな」
「……なぜ、そのような。フォーン王は立派な王では?」
「お前はなにをもってあいつを立派な王と考えたんだ、チャモロ?」
「それは……少なくともフォーン王は、悪政を敷いてもおらず、人としての悪行を為してもいません。イリカ姫に心を奪われたあまり、王としての政務を放り出してもいないようでした。他者に蔑まれるようなことをしては……」
「俺の価値観からすると、それは違う。俺の目から見れば、あの男は、もうお話にならないほどの品性下劣な振る舞いをしている。正直あとで一発落とし前をつけてやらずにはおけないぐらいのな」
「なん……なのですか、それは。お教えください。私がフォーン王の悪徳を見逃しているというのなら、私についてもフォーン王についても、そのままにしておくことはできません」
 ゲントの僧として、そのような失態を見過ごすわけにはいかない、と真剣に問うたチャモロに、ローグはふっ、と刃物のように鋭い笑みを浮かべ、告げる。
「簡単だ。――あいつは、報酬を払わなかった」
「………はい?」
「聞こえなかったか? 報酬を払わなかった。鏡の中の惚れた女を手に入れるための私的な依頼に、俺たち旅暮らしの連中を使い、そしてそれに報酬を払わなかっただろう、あいつは。最初から報酬の話などまるでせず、ただ頭を下げて頼み込むばかりで、ことが終わった後も、実際に惚れた女を手に入れたあとですら、まるで俺たちに報いようとはしなかった。そこさ、俺があのクソ王を気に入らないところはな」
 笑みを浮かべながらも、フォーン王のことを呼ばわる時には吐き捨てるように、罵るように言い捨てるローグに、チャモロは困惑して訊ねた。
「で、ですが……フォーン王は、水門の鍵を渡してくださったではないですか。そのおかげで私たちは今こうして新たな海へと船出することが……」
「チャモロ。俺たちは、以前あの水門のところまで船を向かわせたな?」
「え? ええ、はい。そうですね」
「その時、あそこに人はいたか? 水門を外敵から護り、他者を通す際には開け閉めをするための人員は」
「いえ……いらっしゃいませんでしたが。それは、あの水門が太古の技術で造られた、この上なく強固な代物だからでは? 事実、なにをどうしても開けることはできませんでしたし……」
「だが鍵を使えばあっさり開けることができた。つまり、フォーン王は、あの門の管理を任されていて、ほぼ自在に開け閉めができる鍵を所有しているにもかかわらず、それをまるで活用する気がなかったということだ。対応する人材すら使わず、水門を閉めっぱなしで放置。交流の意図を持って訪れようとした者も、国家の責任を背負った外交官も、経済を活性化させる商人も、全員余さず締め出してよしとする。これが『立派な王』のすることか?」
「そ、れは……そう、かもしれませんが。魔物がいまだそこら中をうろついている現在の状況では……」
「魔物を締め出すのに、あの水門を閉めているのがなんの役に立つ? 実際、フォーン城の周りにも魔物はうようよしていたんだ。魔物に対して抜本的な対策ができる兵力がないのは致し方ないとしてもだ、それならそれで『責任を負えないものを自分の思うようにしていいものとして所有し続ける』なぞという真似はするべきじゃないだろう。その行為になんの理がある? 単に旅人に、主に俺たちに、迷惑をかけただけだ。要するにフォーン王は、責任の所在と自分の為すべき行為というものを、深く考えていないということだろう。違うか?」
「……それ、は………」
「それに加えて、イリカ姫に対する対処だ。鏡の中の姫に惚れ込むというのはよしとしよう。惚れ込んだ女のために、国の金を使って人を動かし、解放するための呪文を手に入れる、というのもまぁよしとしよう。王制を敷く国家において、王の配偶者の選定は一大事だからな。だが、それでも女が手に入らないことに嘆き悲しんで政務をある程度はおろそかにした上で、女を救うのを通りがかった旅の者に任せ自分は指一本も動かさず、あげくの果てにその旅の者に一銭たりとも渡さずに、不要なものを渡しただけで、結婚式に参列もさせないまま追い払う。これが下衆な振る舞いでなくてなんだ」
「げ、下衆、というのは、いくらなんでも……」
「ならば正しい行いか? 惚れた女を手に入れるのを人任せにし、自分がやったのは国の金を動かしただけ。そしておそらくあの国の様子からして、フォーン王自身が事務作業をしたわけでもなく、単に大臣にああしろこうしろと命じただけだろう。そして最終的に、惚れた女を捕えた魔術師を倒すのは、報酬を払いもしていない旅の者任せ。あの男は誰かがエサをくれるのを口を開けて待っている雛鳥と同程度のことしかしていない」
「そ、れは………」
「そしてイリカ姫だ。俺はあの女も一から十まで気に入らん」
「い、イリカ姫が、なにをなさったというのですか?」
「呪いをかけられ閉じ込められた鏡から解放してもらった相手に、報酬を払うどころか、ろくに情報提供もできないというところがなにより気に入らんわけだが、本人の気概と情けない心根も気に入らん。呪いをかけられて鏡の中に閉じ込められ、何千年もひたすら鏡の中で嘆き悲しむばかり。魔術師に打ち勝てというのは実際に力が隔絶している以上無理難題だろうが、それならそれで現状を改善しようと動いてみるべきだろう。ミラルゴと交渉するなり色仕掛けするなりすれば、あんな単純で無駄に一途な男の心を操るのは、決して不可能ではなかったはずだ」
「い、いやあの、それは姫君にはあまりに無理な注文では……?」
「少なくともそうしていれば、自由を勝ち取ることができる可能性はそれなりにあっただろう。鏡の外に出されれば、隙を見てミラルゴを討つための手段を講じることもできただろうしな。そういうことをなにもせず、ただひたすらに嘆き悲しんで王子さまが助けてくれるのを待つだけ。まぁ、ひ弱で愚かな姫君が、無駄に自力脱出しようとしても、無駄に命を損ねることにもなりかねないし、ひたすらに助けを待つというのもひとつの手ではあるんだろうがな。だがあの女も、やっていることはフォーン王と同じだ。口を開けてエサが口に突っ込まれるのを待っている雛鳥だ」
「…………」
「そして、ミラルゴだ。俺はこいつにも腹が立っている」
「そ、それは、実際に王子を殺し、姫君を閉じ込めるという悪行を働いた相手なのですから、当然なのでは?」
「そういう悪人なら悪人らしく、自分にできることをしろというんだ。人を殺してまで手に入れた女なのに、鏡に閉じ込めてひたすらに心変わりを待つだけ、なんぞとは弱腰にもほどがある。時間の経たない鏡などに閉じ込めることなく、硬軟取り合わせた対応でイリカ姫の心を揺らしていれば、時間が経つにつれて姫の心も折れるなりほだされるなりして、ミラルゴの妻となる可能性もそれなりにあっただろうに。やっていることは高根の花に恋した気弱な文学青年と同じだ。だったら殺人だの誘拐だのといった悪行を働くな、という話だろう」
「は、はぁ……」
「そんなわけで、俺は前回の一件に関しては、全員気に入らない、腹の立つ連中だったとしか言いようがないのさ」
 そう言いきって口を閉じるローグに、チャモロはなんと言えばいいのかわからず、幾度も口を開け閉めして、結局なにも言えないまま口を閉じる。ローグの言うことには確かに理があるが――そんなこと考えてもいなかったチャモロが『言われてみるとそういう面もあるのかもしれない』と思えてしまうぐらいに説得力があったが、けれどチャモロはその言葉を諾々と受け容れることはできない。チャモロの有するゲントの僧としての倫理観が、生まれた頃から幾度も教え込まれもはや自身と一体となっている神の教えが、ローグの怒りを、悪意とすら言えてしまうだろうものの見方の歪みを、そのままにしておくべからず、と主張する。
 けれど、その主張をそのまま口に出すこともやはりできなかった。自分が言葉をいくら振り絞っても、神の教えを振りかざしても、ローグは否定はしないだろうけれど、その心に言葉を受け容れてはくれないだろうからだ。これまでチャモロが行ったいかなる注意、いかなる訓戒も柳に風と受け流して、むしろ逆にチャモロをさんざんに言い負かしてきたローグだ。なにをどう言っても反論され、言い負かされ、弄ばれるのが容易に想像できてしまう。
 どうすれば、どう言えば、と思い惑い一歩も踏み出せないでいるチャモロに、ローグはなぜかにこりと笑い、こちらに一歩歩み寄って、ぎゅっとチャモロを抱きしめてきた。
「ロッ……! ロッロッロッ、ローグさんっ!?」
「そう可愛い顔をするな、チャモロ。可愛がりたくなるだろう?」
「かっ、可愛いとか、そう、そういう話をしているのではなくですね……!」
「そういう話をしている時でなくとも可愛いものは可愛い。俺のことを必死に考えて、真面目に誠実に正しく在ろうとしながら、けれど俺のことを理解しているがゆえに口に出せないなんていう少年を、愛でないわけにはいかんだろう?」
「めっ……! そっ、そういうっ、そういう言い方はっ、他の方が聞けば誤解を免れないのではないかと思うのですがっ!」
「誤解? なにをどう誤解するというんだ。俺がチャモロのことを心から愛しく思っている、チャモロも俺のことを憎からず思っている、ただそれだけのことだろう?」
「ロッ………!!!」
 もはや完全に絶句して、ローグの腕の中で真っ赤になりながら口をぱくぱくさせるしかできないチャモロの耳元に、ローグは口を寄せ優しく囁く。
「ありがとう、嬉しいぞ、チャモロ。お前の俺を思う気持ち、心からありがたく思っている。お前の愛の尊さには、俺もありったけの愛と熱誠をもってでしか返せまい。だから、チャモロ……お前は、俺を……」
「………っ…………」
「おっと」
 緊張し、惑乱しすぎて、目を回して倒れかかるチャモロを、ローグは軽く受け止めて支えてくれた。その声にはあからさまに苦笑が滲み出ており、やはり今回も自分を弄んだだけだったのか、と遠ざかる意識の中でチャモロは歯噛みする。
 けれど同時に、情けないことではあったけれど心底安堵し、ふわりと軽くなる意識と身体を力強く支えてくれる腕と体温に安心して、半ば眠るように人事不省に陥った。ローグはそんな自分を背負い寝台まで連れて行ってくれるようで、意識と無意識の狭間の夢見るような心地の中で、ローグの背中の体温が頬に触れるのを感じる。
 そして、そんな夢の狭間の世界の中で、チャモロはローグの言葉を反芻した。『ありがとう、嬉しいぞ』『心からありがたく思っている』『熱誠をもってでしか返せまい』『だから』『お前は、俺を』
 ―――『殺してくれるか?』
 そんな勘違いか聞き間違いとしか思えないような言葉は、すぐに夢の中へ溶けて消えた。

「! おい、お前ら! なにしにこの村へ来たんだ? 人魚が見られるなんて思って来たんじゃねぇだろうな?」
「人魚、とは? 俺たちは船旅の途中、物資の補給などができるかとこの村に立ち寄ったところなのですが」
「そ、そうかい。それならいいんだ。邪魔したな……」
 それだけ言って去っていく筋骨たくましい男をなんとなく見送ってしまった自分たちに、日に焼けた赤銅色の肌をした少年が駆け寄ってきて告げる。
「あんたたち、旅の人かい? ここはペスカニの村だよ」
「ペスカニですか。漁師さんの村のようですね」
「坊や。教えてくれてありがとうね!」
「いや、旅の人には親切にするのがこの村の掟なのさ。そうすればこの村でたくさん金を使ってくれるかもしれないから、ってね」
「ほほぅ、それは商魂たくましい……でも、それにしては、なんとなく活気のない村ですねえ」
 首を傾げたアモスに少年は肩を落とし、力なくうなずく。
「ああ、その通りなんだ。この村で買ってもらえるものなんて、魚の干物やら真珠やら、海で獲れるものしかないんだけどさ――いや、こっから先は市場で聞いてもらった方がいいかな。俺はまだ漁に出してもらえてないから……」
「……なるほど、な。いろいろと教えてくれてありがとう。お礼に俺たちも、できるだけのことはしてみよう」
「えっ? あ、うん……」
 戸惑ったような顔でうなずく少年をよそに、ローグは自分たちへと振り向いて、きっぱり宣言した。
「さて、せっかくのお勧めだ。市場へ行ってみるとするか」

「すまんのう。魚は売り切れなんじゃ。昔はたくさん獲れたんじゃが……波は荒れるわ、魔物が出るわで海が危険になってしもうてな。漁に出ることができないんじゃ」
「売り切れか。そいつは残念だな」
「私は肉好きですが、魚が好きな人は困りますよねえ……」
「相変わらず海の魔物がいるせいで、漁ができないのね」
「おじいちゃん、可哀想」
「ゲントの神に祈りましょう。いつか必ず魚は戻ってきます」
「いやチャモロ、基本的にお前びいきの俺でも、今現在漁ができなくて困っている人に宗教の勧誘をするのは、さすがに人道に悖ると言わざるをえない気がするんだが?」
「はっ!? じ、人道に悖るとは!? 私はゲントの僧として至極当然のことを申し上げているだけだと思うのですが……!?」
「いやだから宗教家としての発言をするなら時と場合を鑑みることが重要だ、ということでな……まぁいいか、店先でこんな風に言い争っていてもそれこそ迷惑にしかならん」
 歩き出すローグのあとを仲間と一緒に、混乱し困惑し動転しつつもチャモロは追う。ローグの言ったことはさっぱり意味がわからないし理不尽だとしか思えないが、店先で言い争うのは迷惑だというのはチャモロにも素直に同意ができたのだ。

「あんた、ロブに絡まれてなかった? ごめんなさいね、最近妙にピリピリしてるのよ、彼。いったいどうしたのかしら? さては恋でも……!? な、わけないわよねえ」
「何かピリピリする原因があるのでしょう」
「そうか。さっき絡んできた奴は、ロブっていうんだな」
「ロブ……さっき絡んできた男ね。なんでピリピリしてるのかしら?」
「あたしは誰だって恋はすると思うよ! ロブさんが恋してるって、普通にあると思うな!」
「そうですかねぇ? 恋はホンワカするもので、ピリピリはしないですよね……ねぇハッサンさん」
「いや俺に聞くなよ、知らねぇからなそんなこと」
「え、ハッサンって恋したことないの!?」
「いや、そりゃ全然ないってわけじゃねぇけど……だーっ、んなことどうでもいいだろ!」

「船を直しても漁には出られん……。漁に出られんから魚も獲れん。この村ももうおしまいかのう……」
「ダメ尽くしですね……」
「おじいちゃん、気弱になっちゃってるね。可哀想」
「どこにも救いのない話じゃないか……」
「祈りましょう。どんな時でも神への祈りを忘れてはいけません」
「つまりは海に魔物が出るからなのね。なんとかならないかしら……」

「どこかの国じゃ、世界が平和になったなんて話もあったが、ありゃ嘘だね。見てみなよ、この村を。海が荒れて漁ができず、悲惨なもんだよ」
「魔物がいる以上、どこだって似たようなものだろうな」
「そうですねぇ。まぁ確かに、平和になったという話は、今のところ嘘ですね」
「漁師の村で漁ができなければ、そりゃ悲惨ですよね……」
「せめて村のそばの海だけでも、魔物がいなくなればいいんだけれど……」
「ローグ……どうしたらいいんだろうね……」
「いくつか考えつく手はないではないが……情報が足りなすぎる。とりあえずはこの村で、できる限りの情報を得よう」

「いやあ、この近くで人魚が見られるって話があるんですよ。もし見かけたら教えてくださいね! 人魚かあ……。捕まえて見世物にしたら、儲かるだろうなあ、エヘヘ」
「この近くで人魚が見られるだって!? 人魚って、サンマリーノの北の岩場にいたような奴らだよな? ローグ、探しに行くか?」
「えっ、この近くに人魚が!? 近くで人魚の方々が見れるんですか!? 本当なら見てみたいですね! もちろん女性がいいですが。というか女性じゃない人魚の方とか、いてほしくないですが」
「お二人とも……! 冗談口が過ぎますよ! 人魚を見世物にしようなど、人として恥ずべき行いです!」
「や、いやその、俺らも別に人魚を見世物にしよう、なんて考えてたわけじゃなくてだな……」
「二人とも、言い訳は男らしくないわよ? チャモロの言う通りよ、ちゃんと反省なさいな。本当に……人魚を見世物にするだなんて、なんて野蛮なのかしら」
「ホントだよね、こういう人に人魚を捕まえてほしくないよ!」
「ま、なんにせよだ。こうも話題になっているのなら、人魚がいるかいないか、ぐらいは確かめた方がいいだろうな。魚の獲れない漁師村で、人魚という海の神秘とも言うべき存在がいると知れ渡るなぞ、最悪の未来しか連想できん。改めてこの村を訪れた時に、後味の悪い思いをしたくないしな」
「うんっ、そうだねっ!」

「ロブか? ああ、あいつはほんにいい漁師じゃったよ。この村一番の稼ぎ頭でな。じゃがある日ロブの船が魔物に襲われてな。命だけはとりとめたが……利き腕と足を駄目にしてしまったのじゃ。実際命があったのが不思議なくらいにひどい有様じゃったよ。奴のことは放っておいてやってくれ。わしらじゃ慰めることもできん」
「ロブにはそんな事情があったのか……確かに、男として気持ちはわかる気もするな」
「村一番の漁師さんが漁ができなくなったならば、ピリピリもするでしょうね」
「皆それぞれいろいろなものを抱えて生きているのですね」
「だからといって、村にくる人に絡むのはよくないと思うよ……」
「そうねぇ……でも、海で魔物に襲われて、助かっただけでも奇跡だわね。その奇跡に感謝して、自分なりに新しい人生を送れるようになるのが、一番ではあるんだけど……」
「誰もが人生をそううまくいかせることができれば世話はない、ともいえるな。……ふむ、ここはもう少し掘り下げてみるところか……」

「時々ロブが村はずれの洞窟へ行くんだよ。あんなところへ行っても面白くないだろうに。何をやってんだか……」
「なんか面白いものがあるんですよ、きっと! なんでしょうね、ワクワク!」
「え、お前わざわざ見に行く気か? うーん、けど洞窟か……確かに、何かありそうだな」
「何はともあれ、自分たちで行って確認するのが一番です。みなさんが気になるということでしたら、実際に確かめてみるべきなのでは?」
「洞窟……? 確かにちょっと気になるね。おばさんが言うように、本当に何もないのかな?」
「そうね……洞窟、ね。どんなところなのかしら。魔物が出ないといいのだけれど……」
「それは心配ないんじゃないか。魔物が出るのなら、利き腕と足を痛めたロブがやすやすと出入りできるわけがない。まぁ、ロブは平気でも俺たちが行った時だけやたらめったら魔物が活性化する、という展開もそれなりにありそうだが……」
「お前、そーいうこと言うかぁ? 本当になったらどーすんだ」
「簡単だ。無理やり押し通るに決まってるだろが。これまで何度同じ経験をしてると思ってやがるんだこの筋肉鶏頭」
「いや魔物の巣窟と村の中にある洞窟を一緒にするなって!」

「……とりあえず、洞窟まで来てはみましたが。……けっこう広い感じですね」
「ああ、けど、ここは魔物の気配がまったくしないな。珍しく予測が外れたな、ローグ? っげふっ!」
「笑わせるな、お前俺の話をちゃんと聞いてやがったのか、俺が魔物が活性化すると言ったのはあくまで突発的な可能性を例示したのみであって、最初に『おそらく魔物の心配をする必要はない』とも言っていただろが」
「だからってっ、いきなり膝、入れてくるんじゃねぇっ! まぁっ……いつものことだからいいけどよ、別に」
「…………」
「んー、でも、どこかに魔物のボスが潜んでいる! なーんてことはないですかね、この分だと。本当に普通の洞窟、って感じです」
「この洞窟の中は、海の匂いがするわね。海まで続いているのかしら……」
「特になにもないみたいだねー。……って、あれ? なんか、あそこに、釣りしてるおじいさんがいるよっ!」
「むう……。釣れん! まったく釣れん!」
「失礼。ちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん、なんじゃ? 暇をつぶせる話ならなんだって大歓迎じゃぞ」
「申し訳ない、暇をつぶせるほど長い話にはならないでしょうが……この洞窟に、ロブというこの村の青年がたびたび訪れるという話を伺ったのですが、あなたは見かけられたことはありませんか?」
「なに、ロブ? 奴ならたまにここへ来るぞ。周りをうかがいながらこそこそ奥へ入っていくんじゃが、何をしとるんじゃろの?」
「なるほど……ありがとうございました、参考になりました。……ふむ」
「わざわざこんな薄暗いところで釣りしなくてもよさそうなもんだがな」
「ここは釣りの穴場なんでしょうかね」
「魚が釣れないのは、海にいる魔物のせいなのか、はたまた腕のせいなのか……」
「おじいちゃん、ちゃんと餌つけてるのかなあ」
「お前ら、今の話で一番気にするところがご老人の釣果なのか?」
「えーっ、だって……おじいちゃんがずっと魚釣れなかったらかわいそうじゃない?」
「やっぱり、この洞窟は外の海と繋がっているみたいね……もしかしたら……」

「実はこの店で魚を売ってるんだよ。でもすげえ高いし、おまけに俺たちにゃ売ってくれねえんだ。誰かが買い占めてるって噂もあるけどな。食いてえな、魚……」
「誰かが買い占めてる!? この店には魚があるのか?」
「この人のぞき魔かと思いましたよ!」
「もし魚の買い占めが本当なら、いったい誰が……?」
「一体、どういうことかしら?」
「買占めなんて、許しちゃダメだよね!」
「……ふむ」

 村中の人に話を聞いたのち、自分たちはローグを先頭に魚屋へと入った。目をきらめかせながら、中のカウンターに立つ男へ話しかけようとする。――が、それよりも前に、慌てたように男は立ち上がった。
「あっ! こりゃいけない。お届け物の時間だよ!」
 言うや水桶から魚を網で取り上げ、魚籠に入れて外に出て行く。それをぽかんと見送ってしまった自分たちをよそに、ローグは素早く踵を返した。
「あとを追うぞ。ついてこい!」
「お、おうっ!」
「はいっ!」
 魚屋の男は、すさまじい速さで地を駆け、村の南へと向かう。その速さは自分たちの全力疾走、とはいかないまでも早歩きよりははるかに上回るほどで、最初の数瞬の遅れが後を引き、追いつけないままに一軒の家へと飛び込まれてしまった。
「あの家は、確か……」
「ロブとやらの家、だな。ありがたい展開ではある」
「は? なんだそりゃ、どういう意味だ?」
「わかりやすい、ってことだ全脳筋肉。ま、これでまるっきり思ってもみない展開が訪れたっていうんなら、それはそれで感心するがな」

 洞窟の奥へ奥へと、ときおり後ろを振り向き周囲をうかがうロブのあとを、素早く物陰に隠れながら追いかける。
「抜き足差し足忍び足……」
「なにか、私たちが悪いことをしているような気分になりますね……」
「いや、けどあのロブって奴、怪しいだろ。怪しい……怪しすぎるぜ……絶対なにか隠してやがる」
「だよね、あの人、絶対になにか隠してるよね! それがなにかはわからないけど、ちゃんと調べておかないと!」
「ま、普通なら人の事情に首を突っ込むなんぞ、迷惑千万以外の何物でもないが……あいにく俺は〝主人公〟だからな。旅先で行き会った相手の隠す事情を解き明かさないなんぞ、世界の終末を近づける行為でしかない」
「い、いやそれはさすがに言いすぎなんじゃない? かなーって気がするんだけど……」
「とにかく、見つからないよう気をつけましょ。ここで見つかったら、これまでの苦労が水の泡だものね」
 こそこそひそひそと声を交わしながら、できる限り足音を殺して歩く。特技を使っているのか、ローグの足音だけはこそとも音を立てず、むしろ周りの音も丸ごと吸い込んでしまっているのではないか、と思うほど密やかだったが、そうでなくとも相当の距離を保って追っているせいか、ロブがこちらに気づく気配はまるでなかった。
 と、ロブが唐突に足を止める。洞窟の最奥近くの壁の前で、なにやらごそごそと壁をいじったかと思うと、ごごっ、という音がした。ロブはぐるりと振り向いて洞窟の最奥へと進み、またごごっ、という音が立ったかと思うと、唐突に姿を消す。足音もまるで聞こえなくなった中で、驚きに息を呑む自分たちをよそに、ローグはおもむろにずかずかと、足音をまるで消さずに歩を進め、ロブがなにやらいじっていた壁の前に立った。
 その位置でなにやらあれこれ調べていたかと思うと、ごごっ、という音とともに洞窟の最奥に穴が開いた。隠し扉、自然のものにしか見えない洞窟になぜこんな仕掛けが、と息を呑むチャモロをよそに、ローグはずかずかとその穴の奥へと歩を進めようとする。
 チャモロたちも慌ててその後を追い、穴を通り抜け、その奥の大きな部屋というか洞窟に出る――や、揃って仰天して目を見開いた。そこにはロブと、その体でかばわれるようにしながら背後の泉に浮かんでいる金の髪の人魚が、こちらと真正面から向き合っていたのだ。
 向き合うといっても人魚が自分たちと対峙していたのはわずか数秒で、すぐに泉の中へと沈み姿を消してしまったが、ロブは一人残り険しい目でこちらを睨みつけている。けれどローグは当然ながらと言うべきか、いつもながらの涼しい顔でロブに向けて言い放つ。
「このようなところでお会いするとは奇遇ですね。なぜそのような険しい顔を? まさか見られて困るような後ろ暗いことをなさっていたわけでもないでしょうに」
 半ば以上挑発と呼ぶべきだろうそんな言葉に、ロブは当然ながらさらに視線の鋭さを増した。ぐっ、と奥歯を噛み締めてから、絞り出すような声で言ってくる。
「お前……やっぱり俺のあとをつけていやがったんだな! お前……ここで今何も見なかったよな?」
「何も見なかったな、とは無体なことをおっしゃる。このような洞窟の中で、目を閉じていてはまともに歩くのも難しいでしょうに」
「そうか……。ならば生かしちゃおけねえな……」
 ロブの発散する殺気がひときわ強くなる――と思いきや、ばっと一気に霧散した。ぐっと奥歯を噛み締めてからうつむき、拳を握り締めて右腕と足を叩く。
「と言いたいところだが……このザマじゃなにもできねえ」
「……正確な現状把握ができていらっしゃるようでなにより」
「お前らも人魚を捕まえにやってきたのか? もしそうでねえのなら……頼む! 人魚……いや、ディーネのことは誰にも言わねえでくれ!! もしここがバレたら、ディーネは……ディーネは!」
 拳を握り締め、瞳を潤ませ、今にも男泣きに泣きそうな顔で訴えかけるロブ――と、ふいにその背後で、水底からぽちゃり、と音を立てて人魚――ディーネが浮かび上がった。
「ロブ……」
「ディーネ……」
「私にはわかります。この人たちもロブと同じ……優しい人たちだって」
「本当か? ディーネのこと黙っててくれるのか!?」
 ロブに縋るような視線で見つめられ、ローグは一度はぁ、と深々とため息をついたのち、ぎろりとロブを睨みつけて言い放つ。
「俺の頭をどれだけ低く見積もってるのかは知らんが。少数民族との非公式接触を、無駄に喧伝するほど俺は暇じゃない」
「……へ? え、いや……なんつった?」
「村の奴らにだろうとよそから来た奴らにだろうと言うわけがないだろが、と言ってるんだよ。俺の仲間たちも同様だ。もし万一少しでも漏らそうものなら、世の常識というものをみっちり教育した上で、発言の痕跡も証拠もきっちりこの世から抹消してやる」
「そ、そうか、よかった。うう……」
 半ば泣き崩れるように頭を下げるロブに、ローグはまたもはぁ、とため息をついた。
「それで? 状況を説明する気はあるのか、そちらには」
「……ディーネは、俺の命の恩人なんだよ。あの日俺は嵐の中、村の連中が止めるのも聞かず漁に出た……。そして俺の船は、大波をもろにかぶって沈んだんだ。その時手と足をやられた。水をしこたま飲んで気を失いかけた時、ディーネが……現れたんだ。ディーネは俺を引っ張って、ここまで運んでくれたんだよ。その代わり、ディーネは……」
「ちょうど私は仲間たちとこの近くに遊びに来ていたんです。嵐がやってきたので、岩場に戻ろうとした時、小さな声が聞こえたんです。私、いてもたってもいられなくなって、声のした方へ行ってみました。そうしたらロブが……」
「ディーネは俺を助けたばかりに、仲間たちに置いていかれてしまった。魔物が潜む海を、ディーネ一人では越えられねえ」
「だからロブがこうしてかくまってくれているんです」
「できれば俺がディーネを仲間たちのところへ連れていってやりてえ……」
「いいのよ、ロブ。私、今のままでも充分幸せだな、なんて……」
 少し視線を逸らして、恥じらうようにそう言ったのち、ディーネはこちらを向いて短く告げる。
「私、ちょっと外を泳いでくるわね」
 そう言うやディーネはちゃぽん、と泉の中に体を沈めた。やはりその泉は、外の海と底の方で繋がっているらしい。残された自分たちは、ロブとディーネの現状説明に対する感想をわいわいと話し合った。
「くうーっ、いい話じゃないか! 泣けてくるぜ!」
「うぐぐ……。私…目に海水が入ってしまったようです……」
「人魚と人間の、ステキなストーリーだね……。なんだかあたし、胸がドキドキしちゃったよ!」
「自分が仲間たちとはぐれてしまうかもしれないという危険を冒してまで……なかなかできることじゃないわ」
「そうですね。ディーネさんは、美しくすばらしい人魚です」
「優劣や良し悪しはさておいて、だ。ロブ、少なくともお前は、ディーネをこのままにはしておきたくないらしいな」
 全員の視線が一気に集中する中、ロブは奥歯を噛み締めてうなずいた。
「ディーネはああ言ったが、本当は帰りたいはずだ。オ、俺がこんな身体じゃなきゃ……。どこかにディーネを仲間たちのところまで連れてってくれる奴はいねえものか……。荒海を越えられる船を持っていて、それでいて腕っぷしの立つ奴らがよ」
『…………』
 仲間たちの視線がローグに集中する。それを当然感じ取っているのだろうローグは、やれやれという面持ちで肩をすくめ、あっさりとした声音でロブに声をかけた。
「ロブ。なんなら俺がそういう奴らを紹介してやってもいいが?」
 とたんロブは顔を輝かせ、勢い込んでローグに迫ってくる。
「本当かい!? どこにっ!? どこにいるんだ、そんな奴らがっ!?」
「俺たちだ。まず間違いなく、ディーネを仲間たちのところに送り届けられるだろう」
「なんだって? お前らがっ!? ふーむ……。どうも頼りなく見えるが、自分で言うんだからそこそこの自信はあるんだろうな」
「それはまた、ご挨拶だな。なんなら実力をはっきり見せてやってもかまわないんだが?」
「いや、お前らの実力はどうあれ、俺のこの身体じゃ相手になりやしねぇよ。それよりも、問題は船だな……。よし! 俺はここで待ってるから、まずその船とやらを見せてもらおうかいっ。今の俺でも、船の目利きや、お前さんらの操船の腕を見極めるくらいはできるからな!」
「面倒な、とも言いたくなるが……まぁ、惚れた相手を預けようというんだ、相手が信用と信頼に足る相手か、できる限り見極めようとするのは当然だろうな。いいだろう、そこで待っていろ」
 言ってローグは踵を返し、部屋の外へ、おそらくは神の船を目指し足早に立ち去っていく。自分たちも慌ててその後を追った。おそらく神の船を一目見れば、ロブもこちらの力のほどを感じ取ってくれるだろう。戦闘技術においても、操船の安全性においても、自分たちからすればこの村から人魚の住む岩場まで向かうのは、ごくごくたやすいことなのだから。
 そんなことを思いつつも、チャモロはどうにも気になっていた。ローグが、なんだか妙に、ロブに対して優しい気がする。
 いや優しいこと自体はなんら問題のあることではなく、むしろけっこうなことなのだが。それは間違いないのだが。
 ローグが比較的言動を粉飾することなく、わりと素の態度を見せているのに、むやみやたらと周りに突っかかる……というか、攻撃的……というか、まぁ周りに注意されるような態度みたいなものをあまり取らず、少々口は悪いがごく普通の態度でロブに対して接しているのが、妙に気になったのだ。ロブはなにか、ローグにとって、重要な関わりのある人物なのではないだろうか――そんな想いすら湧いてくるほどに。

「そんなものは微塵もない」
 船上できっぱりはっきりそう言われ、チャモロは思わず絶句した。
 ロブに神の船を確認させ、自分たちの船旅の安全性の高さを見せつけた結果、自分たちは無事ロブから信頼を得ることができた。ディーネはロブとの涙涙の別れを終えたのち、再会を約して自分たちの船旅についてくることとなったのだ。
 そしてその後すぐにローグはサンマリーノまでルーラで転移し、旅の道程の半ば以上を短縮。さらにはトヘロスを唱えて魔物を遠ざけ、一路北の人魚たちの住処を目指している。
 ルーラにディーネがついてこれなかったらどうするつもりだったのかという問いには、『それについての実験はとうに済んでいる』という答えが返ってきた。少なくともチャモロはこれまでローグに嘘をつかれたことはないので、その実験はいつどこで行ったのかという質問は控えておいたが、正直不審には思う。
 それにチャモロとしては神の船による疾風のような速さで進む船旅に、か弱いことだろうディーネを連れ回すのは気が引けて、速度を落とした方がいいのではないかと進言しようかと思っていた。のだが、ローグはなんの遠慮会釈もなく神の船を高速で走らせ――それにディーネはまるで遅れることなくついてくる。目的地へは半日もしないうちに到着の見込みだと聞かされて、もはや残された時間が少ないと慌てる心と、こんなことを聞いていいものだろうかローグを信用していないことになりはしないかと思い悩む心、そしてそれでもどうしても納得できないと主張する心に翻弄され、もはやひたすら煩悶するしかできないでいた。
 そこにローグが現れて、「なにか俺に言いたいことがありそうな顔をしているな」とチャモロの心を解きほぐしてきたのだ。もはやチャモロとしては抵抗することもできず心の底から湧き上がる疑問をぶつけるしかなく、まず最初に一番気になっていたロブとの関わりについて訊ねたのだが。
「み、微塵も……ない、のですか」
「ああ。というか、なんで関わりがあるなんぞという発想が出てくるんだ? 俺とあのおっさんとは、住んでいる場所も就いている職業も家系も現段階での目的も、まったく俺と被っていないだろうに」
「そ、それは……そう、なのですが。その……なんというか。フォーン王の時に、ローグさんはおっしゃいましたよね? 報酬を払わなかったところが気に入らない、と。無償の行為であるのは今回も同じなのに、ローグさんはロブさんをさんざん悪く言われるようなこともなく、むしろ丁重……とまでは申しませんが、誠意をもって接してらっしゃったように見受けられましたので。なにか、特別な理由があるのかと……」
 チャモロがおずおずと告げた言葉に、ローグはわずかに目を瞬かせたのち、やれやれと言いたげに肩をすくめてみせた。
「チャモロ。お前、意外に頭が悪いな」
「えっ……」
「いや、頭が固いな、と言うべきか。情報はきちんと記憶して、整理しているわけだからな。だが、理解がまるでできていない……というか、『理解ができない』と思ったから、俺の言葉についての解釈を全部棚上げにして、すべて文言通りに解釈しようとしたわけか。宗教家らしいと言えばそうかもしれんな」
「なっ……し、失礼ですが、ローグさん。ゲントの僧を馬鹿にするようなおっしゃりようは……」
「チャモロ。わからんのか? 俺はゲントの僧を馬鹿にしているわけじゃない。お前を馬鹿にしているんだ」
「っ……」
 本来なら、いきり立ち、反駁するべき場面だったのかもしれない。チャモロの中にもゲントの僧としての誇り、矜持は幼い頃から幾重にも培われてきている。
 だが、今のローグの言葉は、表情は。ひどく優しく、切なくさえ感じられるほど静謐で、穏やかに柔らかにこちらを見つめてくるその顔は、チャモロの心臓の深いところに、滑るように触れてきた。
「ロブとフォーン王とは、俺にとってはまるで違う。まず立場からしてまるで違うだろう? フォーン王は曲がりなりにも一国の王で、ロブは一介の漁師だ。有している責任が、まずまるで違う」
「責、任……」
「なすべきこと、背負っているもの、だな。それがあるからこそ王というものは生活面での富裕さと、国内のどんな物、事に関してもある程度わがままが言える権利を有しているわけだ。そして、国外の事物に関しては、王は毅然と、堂々と相対することを求められると同時に、誠実でごまかしがないように『見える』態度で対峙することを、国内外から期待されている」
「…………」
「王は国の顔だ、王が信用できない、信頼できないと国外の人間に思われれば、国そのものが信用を失うという事態にもなりかねん。頭を下げることを求められはしないが、それはいくらでもやらずぶったくりをしていい、ということとはまるで違う。王は国内の相手には上から命じはするが、功を立てれば労い褒賞を与えなけりゃならん。国外の相手には命じることができない以上、行いに応じた報酬を約束することで対等の関係を結び、毅然と顔を上げて依頼する形にしなけりゃならないんだ」
「…………」
「そして単純に、富裕な王と貧乏な漁師村の漁師を引退せざるを得なかった男とでは、持っている金銭の量が違う。ロブには財布をひっくり返しても俺たちの持ち物に影響がある程度の額をひねり出すことは無理だろうが、フォーン王ならその程度の額を払うのはたやすいはずだ。『報酬を払わない』という一事をもってこの二人を同一視するのは、さすがに無茶が過ぎるだろう」
「…………」
「それになにより、ロブにとってはこれは命懸けの頼みだ。あいつは俺たちを殺してでも秘密を守ろうとした。つまり、俺たちに殺されることも覚悟している、ということだ。そんな相手の頼みと、安全圏から自分は何もしないままに、責務を果たさないままに、こちらの情に訴えることで自分の女を手に入れようという頼みとでは、重みがまるで違う。チャモロ、わかるか? 俺の言いたいことが」
「わかりま、せん……」
 チャモロはゆるゆると首を振る。そう、わからない。まるでわかりはしないのだ。
 ローグの言葉を聞くことはできても。その理屈を理解することはできても。
 なぜローグが、そんなに優しい瞳でチャモロを見るのか。こちらが泣きたくなるような、哀切すら感じさせるほど穏やかな視線をチャモロに投げかけてくるのか。形としては説教されているということなのだろうに、チャモロを包み込むような、抱きしめられているような心地に至らせてくれるほどの、柔らかい気配を纏っているのか。
 ローグがそんな瞳で、視線で、気配で、本当はなにを言いたいのか、なんて、まるで、少しも、自分は。
 チャモロのそんな答えに、ローグは苦笑してみせた。思わずチャモロの頬が羞恥で朱に染まったが、ローグはその優しい瞳を揺らすことなく、すいと身体を近づけてきた。
「…………!」
「チャモロ。どうか、考えてくれ」
 当然のように、それがごく自然なことであるかのように、ローグはチャモロを抱きしめてきた。ぽんぽんと優しく背中を叩きながら、その逞しい腕でチャモロを包み込み、壊れ物に触れるかのような手つきで撫で触る。
「頼む、チャモロ。どうか考えてくれ。よく考えてくれ。俺はお前を信じている。お前の賢さを、知性を、判断力を、ひたむきで真面目な人間性を。だから、どうか、俺にお前を頼らせてほしいんだ。俺がどうにもならなくなった時に、お前の心と想いで、正しい道を示して、導いてほしいんだ。だから頼む。どうかよく考えて、ゲントの教えではなくお前自身の意志で、答えを導き出してほしいんだ。それなら俺も、無条件にその答えを信じられるから」
「…………」
「頼む。どうか考えてくれ。考え続けてくれ。ゲントの教えを超えて、想いを、心を鍛えてほしいんだ。俺がいざという時に、頼れるように」
「………っ」
 チャモロは堪えきれず、瞳から涙を溢れさせた。ローグはそれに気づくと、また苦笑してから、優しく涙を指先で拭い、もう一度チャモロを抱きしめてくれたのだ。優しく、静かに、柔らかく――愛しいものに触れるかのように。
「考え、ます……」
 チャモロは、涙に濡れた声で答えた。
「考えます。考え続けます。ゲントの教えによる答えにとどまらず、私だけの答えを。ローグさんの、信頼に、応えられるように……」
 だから、どうか。どうかそんな、泣きそうな顔で自分を抱きしめないでほしい。
 ちらりとよぎるそんな言葉に、自分自身で驚く。なぜ泣きそうな顔だと思ったのだろう。自分はローグの泣いたところなど、これまで一度も見たことがないのに。
 けれど、ローグの視線は。表情は。声音は口調は、体全体が訴える感情は。『泣きそうな顔』という言葉がぴったりくるほど切なげで、胸が痛くなるほど優しげで――チャモロは、その想いに応えられるなら、なにを捨てても惜しくはないとすら、思ってしまったのだ。

 ぽろん、ぽろん、ぽろろろん……。
 ローグがマーメイドハープをつま弾くと、美しくもどこか哀切な響きが周囲の空気を満たす。人間からいつも隠れ住まうしかない人魚たちが渡してよこした竪琴なのだから当然か、そんな思考がちらりと頭をよぎるも、その思考を進めるより早く、人魚たちの歌声に似たさざ波の音が、マーメイドハープの音に応えるように海から立ち上ってきた。
 その歌声は同時に海面から虹色に輝く水泡を引き上げてくる。水泡は天地を逆転した雪崩のように、あっという間に自分たちを神の船ごと呑み込み、包み込んで――本来なら人では進みようのない場所、はるか水底、海の底へと導いた。
『ほぉ……』
「わぁ……! すごいすごーいっ!」
 バーバラが歓声を上げて甲板の上を走り回る。アモスもそれに続いてどたどたと足音を立てた。
 ハッサンとミレーユも走り回りこそしないものの、この驚くべき経験に感嘆しているのは間違いなさそうだった。周囲を目を輝かせながら見回し、時に感嘆の声を上げている。
 むろん、チャモロもその例に漏れない。まさか自分が人の身で海の底へと船ごと潜ることになるなど、ゲントの村にいた頃は考えたこともなかった。
 だが目の前に広がる海底の光景は、圧倒的な現実感でもってチャモロの胸に迫ってくる。虹色の泡越しに透けて見える海底の光景は、時になだらかで時に急峻な山岳地帯のようでもあり、海上から降り注ぐ光が海水で揺らめいて輝く自然の宝石箱のようでもあり、珊瑚や海藻といった地上では見ようのない動植物が波に揺れて織り成す絵巻物のようでもあった。ペスカニで聞いていた通り、魚は思っていたよりも少ないが、それでもこれまで見たことのない見事な光景なのには変わりない。
「すごいですね、これは……このような光景を、見ることができるとは……」
「だよなぁ……なんつーか、まさにこの世ならぬ光景ってやつだぜ……。あ、なあ、ローグ……この中の空気ってどのくらいもつんだろうな? 俺、海の中でお陀仏なんて嫌だぜ」
 ハッサンの声に、慌ててローグの方を振り向く。ローグがこの光景を見てどう思うか、できれば知っておきたかったのだ。
 ローグはじっと周囲を、おそらくは身についた視力でもって彼方の光景まで見通していたのだろう、静かな、どこか夢見るような面持ちで泡の外の光景を眺めていた――が、ハッサンの声に、一瞬で普段のローグへと戻った。不敵な表情でつかつかとハッサンに歩み寄り、ごすっ、と一撃膝を入れる。
「ごふっ! ……ってぇなこの野郎! 人が風景眺めてる隙狙いやがって!」
「風景を眺めるくらいには雅趣を解する心があるんなら、他人の浸っている気分を壊さねぇ程度の気遣いも覚えやがれ。人がせっかく初めて見る海底の光景を楽しんでいたってのによ」
「なんだよ大事なことだろ!? あ、そうだ忘れてた! なあ、ローグ……この泡を魔物に割られたりしないよな……。俺海の中でお陀仏なんて嫌だぜ」
 がすっと再びハッサンに膝が入り、また苦悶の声を上げてしまったハッサンがぎゃあぎゃあと喚き立てるが、ローグはあくまで涼しい顔でそれを受け流し、周囲を軽く眺め回す。結果、全員がローグたちのやり取りを注視しているのを認めたのか、小さく苦笑して「全員集合」と号令をかけ、勇んでやってくる仲間たちに肩をすくめてみせる。
「みんな、風景を眺めるのはもういいのか? せっかく常人ではとても見られないような、珍かな眺めだというのに」
「ううんっ、すごい眺めだとは思うけど、これから先たくさん見ることになるだろうし!」
「そうそう、この泡が魔物に割られたりしたら、なーんてお話してたでしょ? 聞き逃せないですよ!」
「ほれ言わんこっちゃない。気分壊すようなことを抜かしやがるからだろが」
「そ、そんだけ重要な話だってことだろ!?」
「……ま、それも確かか。俺はマーメイドハープの基本的な仕様は、おおむねディーナから聞いている。そこらへんを全員にちゃんと説明した上で、そういう心配事を解消するため、実地で検証してみるからな。全員よく見とけ」
「はーいっ!」
「それじゃまず、ミレーユ。口笛を吹いてもらおうか」
「わかったわ」
 ミレーユが唇に優雅な挙措で指を当てるのに応じて、自分たちは慌てて武器を構え、陣形を整える。何人かは武器を持たないまま後方へと退いた。遊び人の特技である口笛は、魔物を即時目の前まで呼び寄せる特技。魔物が存在しうる場所でしか効果はないが、このような野外――というか街の外、というか居住区でない場所で使ったならば。
「ギシャァァアッ!」
「ギギギギギッ!」
 彼方から、疾風のごとき速さで魔物たちが自分たちを目指し駆けてくる。いや、この場合は泳いでくる、というべきか。ともあれ魔物たちはあっという間に自分たちの前に姿を現し(これまでに何度も姿を見た、海蛇のような魔物の一種のようだった)、泡の中の神の船へと襲いかかり――
 するりと泡を通り抜けて、甲板の上へと躍り出た。
 思わず目を瞠る自分たちに、即座にローグの指示が飛ぶ。
「ハッサン、チャモロ、真空波! バーバラはムーンサルト!」
「はいっ!」
「おうっ!」
「うんっ!」
 四人がそれぞれに攻撃を仕掛けた結果、魔物は瞬時に塵へと還り消え去った。息をついていると、ローグが肩をすくめて言ってのける。
「見ての通りだ。魔物にとってこの泡は障害にはならんが、割ることもできん。いわば空気のようなものなわけだな。ついでに言えば、空気がどうのこうのって危惧も必要ない。この泡は魚の鰓のような働きをして、水中から空気を取り出し、泡の中に満たしてくれるからだ。俺たちの呼気や臭気は分解して水中に溶かしてくれるから、毒気が溜まる心配も無用なわけだな」
「なるほどぉ……じゃあ、あたしたちはなんの心配もなく、海の中の旅ができるんだねっ!」
「ああ、そうなるな。まぁ、魔物は出るだろうから、優雅な旅とはいかんだろうが」
「そうですねぇ、確かに海の中の魔物もなかなか強いですね。私の見た感じですけど。気を抜いていたらあっという間にやられそうですよ。まぁ、歴戦の戦士である私たちが、そうそう気を抜くなんてありえませんけどね! わっはっは」
「お前なぁ、そういう慢心が油断を産むんだぞ? 気ぃつけろよ、っとに」
「心配ご無用! ……と、言いたいところですが、海の中でも船ってやっぱり揺れるんですね……泡の中に閉じ込められてる気がする分、海の中でも、ちょっと船酔いしそうですね……がくり」
「ちょ、アモス、大丈夫!? もしかして海の中って船酔いしやすいのかなぁ?」
「さぁな。まぁ体質にもよるだろうが、閉塞感やなんかがある分、海の上より酔いやすい奴はいるんじゃないか。神の船は揺れが少ないから、普通の船よりはよほどなる奴は少ないだろうがな」
「そっかー……海の中って、あたしたちの知らないことがたくさんでビックリだよね」
「……ま、確かにな。世界に広がる海の中を、俺たちはこれから縦横無尽に駆け巡ることになるわけだ。そりゃあ未知の存在とも出会いまくって当然というものだろう。そう考えると、どうだ? 少しばかりわくわくしてこないか?」
 ローグにしては珍しい、面白がるような表情で告げた言葉に、自分たちは揃って大きくうなずいた。
「うんうんっ、するするっ、すっごいわくわくするっ!」
「だよなぁ! 海の中なんてどんな奴も潜れるわけねぇだろうし! 俺たちが最初に海の中を探検するってなると、やっぱり盛り上がるよな!」
「はい、私も身体は船酔い真っ最中ですが、心はわくわく真っ盛りです! やっぱり一番最初っていうのはどんなことでも嬉しいですしね!」
「アモスさん、それはいささか子供じみた言いようのように思うのですが……ただ、お気持ちはわかります。これまでも、幾度もそういう経験をしてきましたが……それでも、未知と出会う初めての経験というものは、心が躍りますね」
「うふふ、そうね。私も少し胸が高鳴っているわ。これからどんなことが起こるのか、わからないからこんなに胸がドキドキするのでしょうね」
 仲間たちが口々に告げる言葉に、ローグは満足げにうなずいて告げる。
「そうかそうか、みんながやる気に溢れてくれているようで、俺としても嬉しいぞ。この調子なら、地獄のレベル&熟練度上げ修行も、楽しくこなしてくれそうだな!」
『………えっ?』
「え、え? なに、え、それ、どういう……」
「おや、なんだ、わかっていなかったのか? 実はミラルゴのいた塔の辺りからなんだが、熟練度を上げる際の制限が撤廃された形になっていたんだぞ? 熟練度を上げるためには魔物の強さがこちらとあまりかけ離れていないことも重要だが、もう一つ、敵のレベルが一定以上であるという条件を満たせば、こちらの強さとの差を無視して熟練度が上げられるようにもなっているんだ。つまり、これすなわち熟練度上げの絶好の機会。そして今回は同時にレベルもいくらでも上げられるという、二度おいしい機会というわけだな」
「ま、まぁあのニフラム連打はさすがにもう勘弁してほしかったけどよ……」
「れ、レベルと熟練度を上げるって、どのくらい……?」
「さぁ? まぁ、少なくともよほど強い敵が出てきても鼻歌交じりに倒せる程度の力は身に着けておきたいな。実力は身に着けられるうちに身に着けておかないと、いざという時に悔やむ羽目になるだろう?」
「そ、それは、そうかもしんないけどっ……」
「心配するな、とりあえずは海底の探索を進めることを優先するさ。どこにどんな敵がいるかということについては、俺もまだきちんと情報を手に入れられてはいないしな」
「ほっ……」
「さくさくと海底を隅から隅まで回って。効率のいいレベル上げが行える場所を見つけて。そこから地獄のレベル&熟練度上げ修行に突入だ。楽しみにしておけよ?」
『うげえぇ……』
 ハッサンとバーバラが声を揃えて呻いた言葉に、ゲントの僧としては品がないとたしなめるべきだったのかもしれないが、チャモロも心境としては、たぶんさして二人と変わらなかっただろう。

 ペスカニでロブにディーネを無事送り届けたことを伝えたのち、自分たちはペスカニの近海で海底へと潜った。世界中の海底を探索するとローグが宣言している以上、本当に自分たちは世界中の海の底を神の船で駆け巡ることになるのだろう。
 ただでさえ船足の早い神の船が、マーメイドハープを手に入れてからより一層速力を増したこともあり(船長が言うには海そのものがこの船の移動に力を貸してくれているらしい)、世界中を巡るということについてはチャモロも問題を感じていない。そして世界中を回る以上、開始地点をどこに置いてもさして変わりはないだろう。
 ――が、ペスカニから北上することしばし、唐突に沈没船と出くわしたのは、さすがに少々驚いた。
「沈没船かぁ……沈没してからどれくらい経ってるんだろ?」
「さあなぁ……港町の生まれじゃあるが、海底に沈んだ船がどれくらいでぼろぼろになるか、なんてこたぁ知らねぇよ」
「でも、ちょっと中を見てみたいですよね! お宝とかあるかもしれませんし!」
「ほう、珍しくいい勘をしているじゃないか、アモス。大当たりだ」
『へっ……?』
「この沈没船の中には、おそらく最後の鍵と呼ばれる宝物が眠っている。誰かに先を越されていなければな」
『えぇえ……!』
「さ、最後の鍵ってなんなんだ? なんかやたら仰々しい名前だけどよ」
「特殊な代物を除き、ありとあらゆる錠前を開けることができる特殊な鍵だ。いかに厳重な封印だろうと――それこそ牢屋の鍵だろうと宝物庫の鍵だろうと、簡単に開けることができる代物でな。これからの旅には欠かせない宝物だと言えるだろう」
「そ、そんなもののことを、ローグさんはどこで調べられたのですか? 私は今までの旅の中で、ローグさんとほぼ同じものを見聞きしてきたかと思うのですが、最後の鍵というものについてはまるで聞いたこともありませんし、そもそもこの沈没船の中に最後の鍵があるという確証は、いったいどこで得られたのでしょう?」
 チャモロの問いに、ローグはくるっとチャモロの方へと向き直る。思わずびくりと震えてしまったチャモロに、ローグはなぜか、にこりと優しく、柔らかいけれども力強い、強いて言うなら嬉しげという表現が一番近い笑みを浮かべた。その笑顔のまま間近へ歩み寄り、ぽんぽんと、励ますように力強く、賞賛するように優しい、絶妙な力加減で背中を叩いてくる。
「さすがだ、チャモロ。その調子だ。俺が期待した役目を、こうも早く果たしてくれるとは。その調子で頑張ってほしい。頼むぞ」
「はっ、はいっ……え、いやあの、あのですね、そうではなく、なぜローグさんがそんな情報を得られたのか、ということをお聞きしたいのですが?」
 懸命にローグの瞳を見据えて問うと、ローグは少し考えるように首を傾げてから、また微笑んで――ただし今度はにこりというよりにやりと表現する方が近い、いつも通りの力強く勇ましい、そしていくぶん人の悪い感じもする笑みだった――チャモロの耳に唇を寄せ、抱きしめるような形になりながら囁いた。
「確かに、実際、本当ならば、今の俺たちでは知る由もない情報ではあるな。『まったく話を聞いたこともない』という状況より少しマシにできる情報提供者ならいなくもないが、その程度のことのために遭いたくもない奴に会うのは気が進まなかったし」
「え……え?」
「だから、俺としては、こう言うしかない。――夢で見たのさ。本来なら知りようもないことをな」
 思わずばっとローグの顔を仰ぎ見るが、ローグはすでに平然とした顔で、神の船の手すりに手をかけ、沈没船の上に視線を向けている。
「宝物があるったってなぁ、沈没船の中にそうそう入ってはいけねぇだろ? ここ海の底だぜ?」
「あ、それとも魔物みたいに泡を通り抜けて船の中へ潜る、とかですかね?」
「阿呆。それは禁じ手だと前に説明しただろが。海の底ってのは水の重みがのしかかる場所なんだ、この船の中にいりゃあ泡が護ってくれるが、並の人間が生身でそんなとこにいてみろ、あっという間に潰れるぞ。人魚だなんだって奴らは、生来の魔法に似た力でそういう問題を無視できるが、いくら俺たちが並大抵の人間じゃないとしても、生身で深海に潜るなんて真似が健康にいいわけがない」
「じゃあどうするってんだよ?」
「心配しなくても説明してやる。神の船を沈没船に接触させて、新しい泡を作って沈没船そのものを包むんだ。シャボン玉でそういうことをやってる奴を見たことはないか?」
「えっ、そんなことできるの!? すっごーい!」
「ま、本来のものほど強い泡を作れるわけじゃないからな。水を抜くようなことはできんだろうが……魔力の影響下に置くことはできる。その上で、いつものようにパーティを組んで、極薄の泡で包んだ状態で神の船の外に出る。一種の潜水服だな。これは本来ならそれほど長持ちするもんじゃねぇ、泡の外に出るなら常に残り時間を意識してなきゃならねぇが、あらかじめ薄くであろうとも泡で包んだ中なら、時間はほぼ気にしなくて済む。これはディーナから教わった特殊な使い方のひとつだ、ある程度の実験は必要だろうが、疑ってかかる必要もないだろう」
「海の中を歩けるんだ! 船で潜るだけでも面白いけど、そういうやり方も経験してみたいかも!」
「そうね、それなら順番にやってみて……」
 にぎやかに話を進める仲間たちをよそに、チャモロはひたすらに心臓の激しい動悸に耐えていた。今、ローグは、もしかすると、とてつもない真実を自分に明かしてくれたのかもしれない、と思えてしまったからだ。他の誰にも――仲間の誰にも明かしていない、これまでローグただ一人のものだった秘密を、チャモロにだけに。それはなんというか、ひどく、たまらなく――胸が痛いほど高鳴る、事実だった。
 それから一時間も経たないうちに、自分たちは最後の鍵を手に入れ、海の底を再び駆け始める。新たな発見を目指し。まだまだ続く、冒険の旅を。

 それは海の底に築かれた城のように見えた。位置的にはサンマリーノの西北西、ややムドーの島に寄った辺りになるだろう。
 海底にあり、海水の重みをたっぷりと受けているだろうにも関わらず、その城は壮麗この上ない輝きを保っていた。地上にあれば、まさに白亜の城砦と謳われただろう。内側から白く輝いているようにすら見える、美しい城だった。
 いや、それはむしろ神殿に近いものだったのかもしれない。近づけば近づくほど、この城の神聖さ、侵すべからざるものであるという事実が、否応なく心で理解できてしまう。それほどまでにこの城は凛と、光のうっすらとしか届かない海の底で、内から滲み出るような白い輝きを纏っていた。
 全員言葉少なに船を進ませ、城に近づける。すると、驚いたことに、自分たちの目の前で城門が音もなく開き、城内への道を示し出した。城門の広さは、神の船を中にまで進ませるのに十分な広さを有している。仲間たち同士顔を見合わせながらも、それこそなにかに導かれるように、船を奥へと進めた。
 とたん、仰天する。城門の奥は、清浄な空気で満たされていた。外から見るとこれまで海底で見てきたもの同様、押し潰されるほどの重みをもった海水で満たされているように見えるのに、城門を境に海水はきれいに消え失せ、湿気すらもまるで感じない、涼やかな空気で満たされた空間が構築されているのだ。
 城の内部へ少し進んだところで、船を進ませられるだけの水も消え失せ、白く清純な輝きを放つ床に変わる。神の船からタラップを降ろし、船長以外の全員が床の上へと降りて奥へ進む。白亜の宮殿と呼ぶにふさわしい、眩いほどの白で満たされた通廊を進むことしばし、宮殿の中心にして最奥であろう場所に、その人はいた。
 天から降り注ぐ暖かい光を受けて虹がかかる。それほどの見事な滝を背後に背負いながらも、空気には湿り気すらない。座する場所には翠玉と白銀の色に輝く華やかながらも凛とした装飾が施され、玉座の主の存在をより引き立たせていた。
 玉座と言ったが、この世のいかなる王であろうとも、これほどまでに見事な玉座を有する者はいるまい。装飾ひとつとっても、神聖な気配を壊さぬままに、名人と呼ばれる職人が一生をかけ心血を注いで施したものであろうと感じ取れるほどの重厚感があり、同時に一見した時の神聖なる凛とした美しさをも保っているのだ。
 さらに玉座の上部からは見事な刺繍を施された黄緑色の薄絹が玉座を包み込むようにして流れ、彩を添えている。虹に輝く背後の滝と相まって、その美しさは目も綾な、などという言葉では表せないほどだ。それほどの美しさに囲まれた玉座の、そしておそらくこの城の主であろう人の美しさも、また人を超えていた。
 海底の城の主であるにもかかわらず、その人を見た時、チャモロは森を吹き渡る風を連想した。涼やかで心地よい、緑の風。それはむろんその人が緑色に輝く長い髪を持っていたからでもあるのだろうが、同時にその人が自然そのものを思わせる気配を有していたからでもあるのだろう。
 森。泉。湖。山々。高峰。海。空。星空。そんな人が美しい自然の中に見るものが、自然に対して感じるものが、その人の中にはすべて含まれているという気さえする。白い肌や完璧なまでに整った顔貌ももちろん麗しいことこの上ないものではあるのだが、その気配が、纏う輝きが、人ではありえないほど圧倒的に眩しく、美しい。
 その人は、玉座に座したまま、静かにこちらを見つめ、『鈴を転がすよう』などという凡百な比喩ではとても表しきれないほどの、星が歌っているかと錯覚するがごとき涼やかで流麗な声で、けれど優しく穏やかに、自分たちに語りかけてきた。
「ローグと、その仲間たちですね。私には、あなたたちがやがて来ることがわかっていました。私はルビス。この世界を見守る者です。私の呼ぶ声が聞こえましたか?」
 ルビスを名乗る佳人からのそんな不思議な問いに、ローグはごくあっさりと、そして淡々と答えた。
「はい。あなたが俺たちに幾度か話しかけてきた方ならば」
 そっけなさすら感じるその答えにも、ルビスはまるで動じもせず、静かに、そしてたおやかに言葉を続ける。
「ローグよ、あなたは不思議な運命を背負い生まれてきた者……。世界の行く末は、あなたたちの働きにゆだねられています。ゆくのです。そして解き明かすのです。世界のすべてをくまなく回れば、なにをすべきかわかることでしょう。私はいつもあなた方を見守っています」
 その言葉に、仲間たちがざわめき、こそこそと囁きを交わす。チャモロ自身、抑えよう抑えようとは思っても、心の中からどうしても熱い想いが吹きこぼれてしまった。
「世界を見守る者……って、神さまみたいなものなのか……? そういえば、今までに不思議な声が何度か聞こえていたようだったが……」
「そうね……私たちはずっと、ルビスさまに見守られてここまで来たのね」
「ルビスさま……お美しい……私こんなにお美しい人は初めて見ました……」
「そうだね……ルビスさま……まるでお母さんのように暖かいね……」
「そうですね、本当に……ここまでこれたのも、ルビスさまとゲントの神のお導きがあったからですね」
 一瞬、ちらりとローグがこちらに視線を向けた気がした。慌ててそれに気づかないふりをしてルビスのいる方に向き直ったが、おそらくそんなチャモロの思考まで含めてローグにはしっかり見抜かれているのだろう、わずかに笑んだような気配が伝わってきて、チャモロとしては困るより外に手がない。
 そんな自分たちの戸惑いなど、気にした風もなくルビスは話を続ける。
「ムドーがいた島には、幾度となく悪魔が住みつきました。あの場所には、闇の力が集まりやすいなにかがあるのかもしれません。そのため、私はかつて、ある笛を作っておいたのですが……巡り巡って、その笛も役に立ったようですね」
「ある笛、って……ミレーユが吹いた、あの竜を呼ぶ笛か!? ありゃあルビスさまが作ったもんだったのか! あの時は本当に助かったもんな! あの笛のおかげでムドーの居城に行けたようなもんだからな。ルビスさまにはホントに感謝してるぜ!」
「確かに、あの島の邪悪な気配は普通ではなかったわね。……でも、そうね、本当に……あの笛ですらもが、ルビスさまの御力によるものだったなんて。ムドーを倒すなんてことは、ルビスさまのような尊い方の手助けがなければとうてい為せることではなかったのでしょう」
「そうですね。ゲントの神のお導きにより神の船を授かり、ルビスさまのお導きにより空を翔ける竜の助けを得た。これほどまでに私たちを導き、手助けしてくださっている方々のご恩に報いるためにも……私たちは必ず闇の力に打ち勝ちます!」
「うぅ、そういう話をされると、ムドー退治の時には仲間に加わっていなかった私の肩身がどんどん狭くなるのですが……私もムドー退治のお役に立ちたかったです!」
「贅沢言わないの! 似たような魔物はたぶん、これからもどんどん出てくるんだし。もしまたあの島に別の魔物が住み着いても、あたしたちがやっつけちゃうから!」
「私は感じます。世界のどこかで息づく、大きな邪悪な力を……。ゆくのです。そして解き明かすのです。世界のすべてをくまなく回れば、なにをすべきかわかることでしょう。私はいつもあなた方を見守っています」
 そこまで言い終えると口をつぐんだルビスの前で、自分たちは気勢を上げる。
「さあ、ローグ。ルビスさまの言う通り、世界中を回ってみましょ!」
「よーし! その邪悪な力をぶっ飛ばしてこようぜ!」
「解き明かしましょう、全ての謎を!」
「ルビスさまに見守ってもらえれば百人力だよね!」
「ついでに、邪悪な力をどこから感じるか教えてもらえると嬉しいですよね……」
「ちょっとぉー! アモスってば、気分壊れること言わないでよ! ルビスさまにも失礼でしょー!?」
「え、だ、だってみなさんもそう思いませんでしたかっ!? 邪悪な力を感じられてるんだったら、それがどこにあるのか教えてもらえたら、早く敵を倒せるし、その分被害も少なくなるし、ついでに私たちの手間も大幅に減らせるしで、いいことずくめですよねっ!?」
「アモスさん……尊いお方に対して、そのような自分の都合を優先した言葉を口にするのは、さすがにどうかと思うのですが……」
「え、えぇー!? いやでもみなさん思ったりしませんそのくらい!? 普通!」
 そんなようにアモスがぽろりと漏らした失言をルビスは聞きとがめることなく、たおやかな微笑を湛えつつ自分たちを見守ってくれていたが、チャモロとしては本当に身の置き所がない思いだった。仲間に対してこのようなことを言うのは申し訳ないとは思うものの、状況を見て話をしてくれないだろうか、と心の中で願わずにはいられないほどに。
 だから、チャモロとしては、ローグがくすりと小さく笑い声を立てて、一歩ルビスに歩み寄って口を開いた時には、本当に驚いた。
「ルビスさま。あなたは『聞きとがめない』という形でこの話題をなかったことにするおつもりのようだが、できればこの男の疑問に答えてはいただけませんか? 答えたくない、あるいは答えられないというのならその旨をお教え願いたい。相手が理解できるように、相手のわかる言葉と言い方ではっきりと伝えるということは、人間なら子供でも教わる交流の基本だということは、あなたもご存知でしょう?」
「ロッ………!!!」
 チャモロは仰天し、それから絶句する。まさかローグが、この状況下で、そんなことを言ってのけるとは思ってもみなかった。
 いつものローグといえばいつものローグだが、まさかルビスさまのような真に尊いお方に対して、こうも挑発的な、神話に出てくる思い上がった愚物のような振る舞いをしてのけるとは。当然ながら周囲の空気は一瞬で凍りつき、全員愕然とした面持ちになってローグに視線を集中させる。
 ――いや、もしかすると、ハッサンとミレーユの表情には、わずかな揺らぎがあったかもしれない。驚きや非難だけでない、なにか別の感情が浮かんでいたかもしれない。だがそれを自覚したのは後になって、この時のことをよくよく思い返したあとのことで、この時のチャモロは狼狽しきってひたすらにローグとルビスさまの顔を必死に見比べるしかできていなかった。
 ルビスさまは特に気分を害した風もなく、わずかに首を傾げ、ローグを見やった。
「あなたは、なぜそのようなことを?」
「真実を、そのひとひらなりともつかむため」
「あなたの真実は、あなたが定めるしかありません。それはあなたもご承知のはず。その上で、なぜそのようなことを?」
「俺にとっての真実を定めるためには、紛うことなき事実の累積が必要だからです。嘘や捏造、暗喩や隠喩、あるいは忘却や無知による隠蔽が施されていない、はっきりとした事実が。そのための道筋を仲間が示してくれたんだ、乗らない方が嘘でしょう」
「あなたはすでにご自身の真実を定めておられるのでは?」
「ことの次第によってはそれを改める必要が出てくるかもしれない。頼りない事実をかき集め、推測して、こうであろうと思い定めたいくつもの当て推量による〝事実〟よりも、はるかに明瞭な手がかりが手に入るかもしれない。それなのに怖気づくほど、俺は人生を投げ出していません」
「……………」
「さぁ、お答えいただきたい、ルビスさま。あなたは俺のこの問いに答えられるのか。答える気があるのか! 俺の理解できる言葉ではっきりおっしゃっていただきたい! それとも、俺のこの命を懸けた切実な問いさえも、あなたは暗喩の皮を被ったごまかしによってなかったことにしてしまうのか! さぁ、お答えを!」
『……………』
 その場に下りた沈黙の中で、チャモロはひたすらに心中で祈りの言葉を捧げ、ゲントの神とルビスさまに許しを乞うていた。そのためどれほどの時間が過ぎたかは定かではないのだが、とにかくルビスさまは静かに自身を睨みつけるローグの顔をしばし見返したのち――首を振ったのだ。
「私は、あなたの問いに対する答えを有してはいません。私はあくまで世界の一要素。あなたの問いは世界を超えたところに在るものです。私はあくまであなたを見守る役割を課された、神たる精霊にすぎないのですから」
「………なるほど。それはご無礼を。知らない相手に答えろと迫ったところで意味はない。ごく当たり前の道理ではあるな」
 そう言って小さく肩をすくめてから、ローグは再度ぎっ、とルビスさまに強い視線をぶつける。
「しかし、だ。あなたがそれしか俺の知らぬ事実をお持ちでないのなら、俺は俺の現在の〝真実〟に基づき行動するしかない。あなたのお言葉は、俺の行動を違える理由にはならない。それはご理解いただけますか?」
「―――ええ」
「……なるほど。それがあなたの視座だとおっしゃるなら、是非もない。俺は俺なりに、俺の為すべきと感じたことを為すとしましょう」
 言ってもう一度肩をすくめてから、深々と、そして優雅に恭しく、王子が聖職者に頭を下げる際の礼をしてみせてから、おもむろに踵を返す。
「それでは、失礼仕ります。――どうぞお健やかに、『見守る役割』とやらを全うされるがよろしい」
 そうやってローグは、呆然と見守る自分たちの前で足早に神の船へ戻る道を進んでいったので、自分たちも否応なく(ルビスさまに懸命に頭を下げたりしながらも)その後に続くことになったのだ。
 ――その後、ローグになんであんな態度を取ったのかと揃って詰め寄った自分たちに対し、ローグはあっさりと言ってのけた。
「情報はできるだけ多いに越したことはないだろう。そのために、情報を持っていそうな相手をできるだけ揺さぶったまでだ。俺がこれまでやってきたことと同じ、当たり前の交渉にすぎない」
 それに対して『ルビスさまに対して失礼ではないか』と自分たちが言うと、ローグは平然と肩をすくめてみせる。
「失礼であろうとも、やる価値があると思ったからやった。他の誰からも得られないだろう情報が得られる可能性があると思ったから、な。その予測は外れたが……それでも、向こうにこちらを攻撃する意図も手段もない、と踏んだからしてのけたことでもある。俺としてはパーティリーダーとしてやるべきことをやっただけだ、と思っているんだが……お前らはあれが間違ったことだ、と断言できるんだな? ならぜひその理由を、どこが問題でなぜ間違っているのか、きっちり教えてほしいものだな」
 そうしてチャモロたちが懸命に『ルビスさまのような尊いお方に対して失礼なことをするのはとてもいけないことなのだ』と教えようとしても、そのことごとくを真正面から論破してしまうのだ。この世界の人間にとって当然の感覚が、ローグにはまるで存在していないかのように。
「尊いというのは生まれで定められるものではなかろう? その当人がなにを為し、なにを為さなかったで決まるものだ。そして俺たちは、ルビスさまがなにを為し、なにを為さなかったのかということをまるで知らない。知っているのはあの方の雰囲気と、顔と、声と、語った言葉だけ。それでどうやって尊いかそうでないか見分けられるというんだ?」
「ルビスさまの言い分を文字通りに解釈すれば、だ。あの方は基本的に世界を見守りはするが、直接的に世界を救うために行動を起こす、ということはしないお方なわけだ。巡り巡って役に立つ、ぐらいの影響しか世界に与えられない。それがどれだけ世界を益しているかは、向こうが話してくれなかった以上なんとも言えないが、少なくとも世界を本当に救うのは俺たちに任せている。つまり、職分は別れているものの、できる限り好意的に見ても俺たちとあの方は対等な協力関係でしかない。そんな相手を過剰に崇め奉るのは、いい仕事をするという目的においては悪影響しか及ぼさないと思うんだが、どうだ?」
「あの方がどれほど尊く、敬われるべき方だったとしてもだ。俺にとっての価値を定められるのは俺だけだ。そして、俺は、あの方に命を懸けて質問した。この問いが筋違いなものだったなら、命を奪われるのを覚悟でな。そしてあの方は、その質問に答えなかった。本当に知らないのか、知らないふりをしているのかは知らないが、な。そしてそれよりなによりも、俺の命を懸けた質問に対して、俺と真正面から相対することを避けた。暗喩とごまかしによって、わかったような口を利きながら、自分はその答えを持ってはいない、などと事情を語ることも心情を語ることもせず体面を保とうとした。それなのに、俺があの方を尊ばなければならない理由とはなんだ?」
 そんな風にこてんぱんに言い負かされて、チャモロは泣きそうになりながらも必死に、『神のように尊いお方に思い上がった口を利くことは許されないのです』と何度も何度も繰り返し訴え、最後には「わかった。今後は控えよう」という言葉を引き出すことができた。それには心底ほっとしたものの、不安を消すことはできなかった。
 ローグは――この人は、チャモロにとってはただ一人の勇者は――世界から、あえて自分を排斥しようとしているのではないか。そんな埒のない疑問まで、浮かんできてしまうほどに。

「お城かと思ったけど、そうじゃないみたいね。なんだろ、ここ」
「ん? 誰かいるのでしょうか?」
「ここはいったいなんなんだ……?」
「なんだかここは、重苦しい雰囲気ね……」
「魔物の気配は特に感じませんが……別の強い気を感じます」
「……ふむ。ま、とりあえず立ち入りを拒まれているわけでもなし、奥まで進んでみるか」
 そんなことを話しながら入っていった、モンストルから北東、アークボルトから北西に進んだ辺りにある城砦のような建物は、ルビスさまの御座す城と同じように、しばらく進むと水は消え失せ、清浄な空気と床が広がっていた。やはりルビスさまの城同様に、神の船から床に降り奥へ進んでいくと、途中で道は二又に分かれ、二つの小宮――というよりは、倉庫のような雰囲気の部屋へと繋がっている。
 その二つの部屋のどちらにも、前に二人の番兵らしき人影があった。仲間同士で顔を見合わせながらもその番兵へと近づいていくと、声が問題なく届く程度の距離にまで来るやいなや、番兵が轟くような声で告げてくる。
「もしこの先の宝がほしいなら、この私を倒してゆくがいい」
 突然の台詞に困惑して顔を見合わせていると、ローグがいつものように前に立ち問いかける。
「また唐突な申し出だな。あなた方を倒せば宝が手に入る、と言われても……さすがに他者の命を踏みにじってまで宝を手に入れる、というのは気が引けるんだが?」
「では立ち去るがよい」
「あなた方はここでなにをしているんだ? 誰から命じられて宝を護っている?」
「もしこの先の宝がほしいなら、この私を倒してゆくがいい」
「……あなた方には自我というものがないのか? 意識は? 意思は? 感情やその類似品は存在するのか?」
「もしこの先の宝がほしいなら、この私を倒してゆくがいい」
『…………』
 ローグが視線で促すのに従い、少し離れた場所で相談する。
「なんなんだあいつら? いくらなんでも変すぎるよな」
「鉄の規律を仕込まれた番兵さんなのかもですよ? まぁ私も正直言って怪しすぎるよなー、って思ってますが! こんな海の底にいるところも含めて!」
「っていうか、なんだろう……すごい力は感じるのに、生きてる人って感じがしないんだよね……。あたしの気のせいかなぁ」
「いいえ、そうじゃないと思うわ。私もそう感じるもの。たぶん、あの方たちには命がない。おそらくは魂魄もない。命じられるままに命じられた場所を護る、人形のようなものなのではないかしら」
「えっ、でも人間にしか見えないよ!?」
「だから、たぶん、人とは存在の階梯が違う方々に作られた人形なのではないか、と思うの。ルビスさまのような方々の。そしてきっと、この地を訪れた力と志を持つ者のために、宝を用意してあるのだと思うわ。あの方たちは、そういった者たちを量る試験官の役目を果たそうとしているのよ」
「ふぅん……? じゃあ、俺たちが、あいつらをぶちのめしてその宝を持ってっちまっても、別にかまわねぇってのか?」
「私はそう思うわ。ローグは、どう?」
「ふむ。ま、俺もミレーユに同意するが……チャモロ、お前はどうだ?」
「っ! はい、私もそう思います! あの方たちは、神から下された試験官であるに違いない、と!」
 無駄に力を込めて声を張り上げてしまったチャモロに、ローグは眉一つ動かさず、「なるほど。チャモロがそこまで言うなら、より信憑性が増すな」と話を先に進める。その振る舞いは正しく頼もしく、リーダーに、自分たちの勇者にふさわしい言動ではあったが、チャモロは唇を噛まずにはいられなかった。
 どうして、なぜ、ローグさんは。
「それなら、とりあえず向こうが求める通りに戦いを挑んでみるか。なにが出てくるにしろ、ここに来るまでのレベル&熟練度上げで、よほどの敵でもまず相手にはならない、ぐらいの強さは手に入れているからな」
「ホントにね……いっくらなんでもここまでレベル上げる必要ないんじゃない、ってくらい戦ったもんね、あたしたち……」
「ほう? 文句がある、と? いくらでもレベルと熟練度を同時に上げられるようになったにもかかわらず、準備を怠って全滅してもいい、と言うわけか、お前は?」
「いっ言ってないっ、あたしそんなこと言ってないってばっ! さあっ、あの兵士さんたちと戦おうよっ! 早く早くっ、急いで急いでっ!」
「張りきってくれるのはいいが、今回お前は後衛だぞ、バーバラ。敵に狙いをつけられないよう離れていろ」
「あ、そっか……うー、馬車があるわけでもないのに、なんで四人しか戦っちゃ駄目なのー?」
「拙い連携は危険を招く。これまでずっと四人で戦ってきている以上、それ以上の人数で一度に戦うのは不利益を招く危険が大きすぎるだろが。いざという時には助けに入ってもらうから、最初は素直に離れていろ」
「はぁい……」
「チャモロ、お前もだぞ。広範囲攻撃呪文をかけられても問題ないくらいの距離を取っておけよ」
「はい……」
 それはごく当たり前の、戦術的な判断にすぎないのだろう。リーダーとして妥当な思考なのだろう。
 それでも今のチャモロは、考えずにはいられない。なぜ、どうして、ローグさんは私を、と。ゲントの長老に知られれば厳しく叱りつけられるだろう雑念、ゲントの僧として認めてはならない妄念だ。それでも、チャモロの頭は幾度も幾度も考えてしまう。なぜ、どうして、なぜ、ローグさんは、と、幾度でも。
 そんなチャモロの思考に気づいているのかいないのか、ローグは仲間たちと前に出て、自分たちができる限り離れるや、宝物庫を護る番兵に声をかける。とたん、番兵はみるみるうちに膨れ上がったかと思うや、人の姿という殻を打ち破り、これまで見たこともないような奇妙な姿――足がなく、宙に浮いて移動する、それ以外は一応人の姿を模してはいるものの、武器と鎧で全身を覆ったかのような形の巨大な人形と化した。
 そのまますさまじい速さで襲いかかろうとするそれらの人形に対し、ローグは裂帛の気合を込めて叫びながら剣を振るう。
「ギガスラッシュ!」

「……ふー、やっと勝ったぜ! いやぁ、強かった強かった! 今まで戦った中で、ムドーを除けば一番強かったんじゃねぇか? どうやらあの兵士は、宝箱を守っていたようだな」
「そうですねぇ、いやー、ホントにドキドキでした。こんな強い敵が当たり前のように出てくるなんて……いやはや、海の中にはいろいろな場所がありますね」
「本当ね……かなり手ごわかったわね。ローグのおかげで無事勝つことができたけれど。ありがとう、ローグ。助かったわ」
「単に自分の仕事をしただけだ。それよりも、とっとと奥に進んだ方がいいだろう。新手が出てくる可能性はごく低いとは思うが、長居しても得なことがありそうな気配がない」
「みんな、お疲れさま……! 大丈夫? 怪我とかしてない?」
「怪我は私がすぐに癒させていただきます! そうでなくとも、すぐに体力を回復しておかないといけませんね」
「あー、まぁけっこうキツいのを何発かもらっちまったからな……回復頼めるか?」
「はい、もちろんです! ……次にこのような機会があった時には、私に参戦させてくださいね。もちろん、私たちは戦って勝つだけです! それにどうこう文句をつける気はありません! ですが、間近に見ていながら手を出すことができないというのは、さすがに少々、堪えるものがあると申しますか……」
「そうだよねぇ、ローグの言うこともわかるんだけどさ……うん、あたしたちももっと強くならないとね。ローグにおんぶにだっこじゃ、仲間なんて言えないもん!」
「ほう? ちょっとやそっとの成長で、俺に頼らずとも旅ができるようになる、と? 面白い、やってみろ。その代わり俺も全力でお前を甘やかさせてもらうがな。ふふふ、どれだけ耐えられるか楽しみだ……」
「ちょ、ちょっとぉローグっ、それそーいう返事するとこっ!? あたしの心意気に、なんていうか、かんじいる? ところじゃないのっ!?」
「はいはい、みんな、おしゃべりはそのへんにして、さあ、行きましょう! 兵士たちを四体全員倒すことができたのだから、その奥の封印も解けるはずよ」
「ふむ。それなりに厳重な封印のようだが、この手の代物は最後の鍵を使えば済む」
「わっ! ほっ、ホントだぁ……! ローグ、すっごーいっ!」
「この場合すごいのは俺じゃなくて最後の鍵だろが。ま、細かいことはどうでもいいから俺の偉大さに感嘆の声を上げたいというなら止めはせんがな」
「もーっ、そーいう言い方されると感心したくなくなっちゃうじゃんっ! ……って、ええと……ここって、お城じゃなくて、宝物庫みたいだね。宝箱が置いてあるよ」
「ふむ。……罠はないな。開けてみるぞ……ふむ……ふむふむ。……これは、鞭か。ずいぶん変わった形だが……バーバラ、お前なら装備できそうだな」
「ふーん、どれどれ……? ……うわっ! この鞭、すっごいっ! すっごい攻撃力高いっ! これ持ってたら、あたしもハッサンみたいに正拳突きで岩とか粉々に壊せるようになるかもっ!」
「うぉ、そりゃすげぇな! バーバラがか! そんなにとんでもない攻撃力の武器なんて、これまで見たことも聞いたこともねぇぞ!」
「……そこまでの代物だってんなら、ま、苦労した甲斐もあったってことか。大事にしろよ、バーバラ?」
「えへへ……うんっ!」

 そこは、宿屋のように見えた。神の船が楽に行き来ができるほどの巨大な入口と高い天井を備えておきながら、中にあるのは海から突き出した岩塊と、そのてっぺんに備え付けられたベッド。あとは宿の主人と女将が客を待つ、最奥の岩塊の上の小部屋くらいのもののように見えたのだ。
「こんなところにも人が住んでいるんですね」
「そうですね……もちろんこんな場所に居を構えている以上、普通の人間ではないのでしょうが……。海の中にいると、自分たちがどこにいるのかわからなくなってしまいますよね。海の中に居を構える苦労は、もちろんそれだけではないと思いますが」
「ちょっと一息、って感じだな。ここまでずっと戦い通しだったけど、少しは休めそうだぜ」
「そうね、こうして海の中でも休める場所があると、安心できるわね。どこもきれいに片付けられていて、居心地もよさそうだし」
「そうだねー……でも、海の中のお家だけど、住んでるのは人魚じゃないんだね」
「そうだな、見たところ鰓があるというわけでもなし、普通の人間と同じように見えるんだがな。海の中に入ればそういった肉体的特徴をあらわにするのかもしれないが……初対面でそんなところを見せるよう迫るのは、さすがに非礼というものだろう」
「おっ、珍しいじゃねぇか、お前がそんなにまともな判断するなんてよ。ッゲフッ!?」
 ハッサンのみぞおちに無言で膝蹴りを入れてから、ローグは右の岩塊、おそらくはこの宿の客室という形になっているのだろう部屋に降り立った。そこには、スライムが――マリンスライムが、ぽにょぽにょと身体を動かしながら、うろうろとベッドの周囲を行きつ戻りつしていたのだ。
 なのでローグは声をかけたがるだろうな、という予想通りに、真っ先にローグはマリンスライムの前へと立ちふさがり、堂々と声をかける。
「失礼。どうしたのかな、お嬢さん。なにやら落ち込んだ顔をしてらっしゃるように見受けるが」
「お……」
『お嬢さん!?』と叫びかけたのだろうアモスの口を、チャモロがとっさに塞ぐ。チャモロ自身だいぶ驚きはしたものの、ローグならばスライム好きが高じて――という理由がなくともスライムの性別くらいは見分けられてもおかしくない、くらいのことは考えていたため、大きな反応は見せずにすんだ。
 そのマリンスライム――ローグの目が正しければ女性であるのだろうぽよんぽよんと跳ねる不定形生物は、少女のような甲高い声で(といってもスライムは大半がそういう声なのだが)答える。
「キュルルン、キュルルン。ほっといてよ。アタシ、悪いマリンスライムなの」
「ほう。なにか悪事でも働かれたのかな?」
「友達のベホマンが会いたいって言っていたのに、海に逃げ込んだんだ」
「ふむ。お嬢さん、お名前をうかがっても?」
「マリリン……」
「あなたのようなお嬢さんが、恥じらいのあまり逃げ出したとしても、真っ当な男ならば驚き悲しみはしても、あなたを責めるとは思えませんが。あなたのご友人――ベホマン氏は、真っ当な男なのでしょう?」
「キュルルン……でも、ベホマンに嫌な思いさせちゃったかもしれないし。傷つけちゃったかもしれないし……アタシ、もうベホマンと会えないかもしれないし……」
「……ふむ。ベホマン氏は、今どちらに?」
「え? ベホマンはどこにいるのかって?」
「はい」
「すれ違いの館にいるって言ってたよ。は! 思わず答えちゃった。アタシ悪いマリンスライムなのに。……アンタもワルよね~」
「あなたのようなお嬢さんに悪い男扱いされるとは、男としていささか奮い立つものがあるな。それではまた、お嬢さん。俺も悪い男として、それなりの働きをしてみせるとしましょう」
 そう言って一礼し、ローグは船へと戻ってくる。チャモロはなんと声をかければいいのかわからず、無言で出迎えるしかなかったが、ハッサンは気負う風もなくすたすたと歩み寄り、笑って声をかけてみせる。
「珍しいじゃねぇか。お前がスライムを仲間に入れねぇなんてよ。それともあのマリンスライムは、仲間になれる奴じゃなかったのか?」
「……お前が仲間になれるスライムとなれないスライムの違いをどこに見出しているのかは知らんが。あのマリンスライム……マリリンは、間違いなく仲間になれるスライムだろうさ。ただ、たぶん彼女をどれだけ直接口説いたところで意味はない。彼女の友達……名前からしてどう考えてもベホマスライムであろう、ベホマンというスライムを先に仲間に引き入れる必要があるだろうな。まぁとりあえずは、海中探索を優先しても問題はないだろう。ピエールとホイミンのレベル上げと熟練度上げも終わっていないんだ、むやみに仲間スライムを増やしても意味はない」
「へぇ? 一緒に旅をする奴が八人より多くなったら、なんかまずいのか?」
「馬車の定員が八人らしいからな。一緒に旅をしても船や島に残すしかないのなら、ルイーダの酒場で待ってもらっていた方がマシだろう。無理に詰め込んで不愉快な旅をしたくはないし、そもそも八人を超えると魔物を倒した際の効率が一気に悪くなるらしいという情報も無視はできん」
「へー、そんな情報手に入れてたのか。どこで知ったんだ?」
「おおむねダーマ関係だな」
 平然とした顔で、当然のようにローグとおしゃべりをしてみせるハッサン。その姿に、チャモロは思わず羨望の視線を向けずにはいられなかった。
 ハッサンならばきっと、今の自分のような事態に陥っても、心を乱すようなことはないだろう。受け容れて、ローグと普段と変わらない会話を続けることができるのだろう。
 チャモロには、できない。とてもできはしない。どうしたって幾度も幾度も考えてしまう。
 なぜ、ローグさんは私を、と、幾度も幾度も、数えきれないほどに。
「ここから南に抜けると外海だよ。どんな危険が待っているかもしれないから、うちの宿屋でゆっくり休んでゆきなさいよ」
「えー、あたしどんな危険も待っててほしくないなー」
「こんな海底にまで宿屋があるなんて、まったく便利な世の中だぜ。でもまぁそろそろ疲れてきたのは確かだし、休んでもいいんじゃないか?」
「そうね。それに、海の底で眠る……なんて、考えただけでも素敵よね。少しドキドキしちゃうくらい」
「あ、ホントだ! 海の底で眠るって、人魚姫みたいでなんだかロマンチック!」
「そうですね! それに、ローグさん! いつの日か、世界中の宿屋に泊まった男として、有名になれるかもしれませんよ! ここを見逃す手はないですよ!」
「……ローグさん、泊まっていきますか? 転ばぬ先の杖、ですよ」
 仲間たちが次々口にする言葉に紛れさせるように、精一杯の言葉を口にする。自分の中の屈託を懸命に見ないふりをして、少しでもローグのためになるような言葉を告げる。
 そんなものなどでローグを益することはできないとわかっているけれど、ローグはいつものような傲岸不遜な態度で堂々とうなずいてくれた。
「そうだな。せっかくだ、泊っていくか。海の底の宿屋がどんなものか、体験してみたくないと言えば嘘になるしな」
 そんな言葉にもわずかな安堵を得て、チャモロは心臓の上をぎゅっと握り締める。こんな形でしか安堵を得られない自分への怒りを込めて。それでもいまだ消えない未来への不安を耐えしのぐために。
 ――海の底の宿屋での一泊は、チャモロにとっては、『ただのじっとりと湿気た岩の上でただ眠ることだけしかできない時間』にすぎなかったが。

「そこにいる人は海の底を漂っていたのをこの私が助けました。自分が誰かも思い出せないのに、とても明るい性格で、ときどき私を笑わせてくれたりします。今ではこの教会になくてはならない存在ですわ」
「そんなことが……普通なら、過去を思い出して自分の故郷に帰りたいと思っているかもしれないけど……ここのみんなに必要とされるのも、彼の運命だったのかもしれないわね」
「女の人が男の人を助けるのは大変だったでしょうが、さすがシスターですね! 力強くていらっしゃるようです」
「シスターに助けられなきゃ死んでいたってわけか。そりゃ確かに、シスターが力強くなかったら困ってただろうなぁ。記憶をなくしたのは残念だが、命をなくすよりはずっとよかったよな」
「そうだよね、明るい仲間が増えてよかったよね!」
「外は暗い海の底です。せめてここには明るい笑顔が必要ですよね! わかります!」
「そこにいるおじちゃん、とっても面白いんだよ。だからボク大好き!」
「ほお。おじちゃんはすっかり子供に懐かれているみたいだな。悪い奴じゃなさそうだぜ」
「そうね、こんなに子供に好かれているんだから、きっといい人なのね」
「人を騙すような悪い奴が多い世の中で、貴重な存在かもね! 無事助けられててよかったわ!」
「面白さだったら私だって負けませんよ。わっはっは!」
「……ま、俺もだいぶそう思う。お前に素の面白さで勝てる人材というのは、さすがにそうそういなかろうな」
「お? おおっ!? 私今初めてローグさんにちゃんと褒められました!?」
「まぁ正直に言えば褒めたいわけでは微塵もないんだが。お前の素の面白さを認めないというのは、さすがに不正直のそしりを免れんだろうし。素がお前よりも面白いという稀有な人材なんぞ、世界中を探してもそうそういなかろうというのも正直な感想なわけで……」
「おおお、私褒められまくってますね!? ありがとうございますもっとどんどん褒めてくださっていいですよ!」
「ははっ、まぁアモスは素が面白いってのは確かだしなぁ。まぁローグが普通に誰かを褒めることなんてまずねぇだろうとも思ってたが、無駄に嘘つくのが好きってわけでもねぇだろうしな」
 がすっ!
「聞いた風な口を利くなこの脳味噌筋肉モヒカン」
「え、ええと……こうしてみると、まるでここの三人は仲のよい親子のようですね!」
「旅の方ですね。私も昔はいろいろと旅をしていたような気がします。でも……どうして旅をしていたのか、自分はいったい誰なのか、すっかり忘れてしまったんですよ。しかし私には誰かとの大切な約束があったような……。ふーむ……」
「………! 記憶喪失……なのね。なんとか思い出させてあげられないかしら……せめて、記憶の一欠片でも……」
「この人はどう見ても旅の商人さんではなさそうですし……いったいどんな目的で旅をしていたのでしょうね」
「何かを思い出せない時って、なんだかちょっと頭の端っこがかゆくなるんだよな」
「記憶喪失はなにかのきっかけで思い出すこともあるらしいですよ。ちょっと頭でも叩いてみますか?」
「大切な約束……。そういえば、誰かを待ってる人がどこかにいなかったっけ? うーん……どこの街だったかなあ。どこかでそういう話を聞いたと思うんだけど……」
「……バーバラ、それは気にしないでいい。たぶんだが……お前の言っている誰かを待っている人というのは、もう亡くなっている。この男を待っている人間が今もいないかどうかはわからんが……あれほど切羽詰まった想いで、この男を待っている人間というのはまずもういないと考えていいだろう」
「え、ローグ、誰のことだか知ってるの? あたしも自分で言っててはっきりしないのに?」
「まぁ、な。当て推量にすぎなくはあるが。『面白い中年男を待っている』人間なんて代物、これまでの旅の中で出会ったのは一人だけだからな」

「ここは……?」
「あら、海の中にこんなところが……」
「海の中の教会……なのかな?」
「ス、スライムがいますね! 他に魔物は!?」
「心配なさらずともよいと思いますよ、アモスさん。ここにも神さまの不思議な力を感じます」
「そうだな、神聖な場所ではあるんだろう。……君、よければ教えてもらえないか。ここはどういった場所なんだ?」
「ピキー! よくここを見つけたね。ここは名前の神さまを祀っている祠だよ」
「名前の神さま……? そんなのがいるのか。チャモロ、知ってたか?」
「いえ、不勉強で申し訳ありません……さすがに名前の神さまがいるとは知りませんでしたね。もしかすると、あえて世間からは隠された信仰なのかもしれません」
「ああ、なるほどなぁ。だから海の底にひっそりと祀られているってわけか」
「確かにこの場所は、とても普通の人には見つけられないわね」
「えへへ。あたしたちはどんなものでも見つけちゃうもんねー!」
「いやまあ、たまたま見つけたっていうのがホントのところですけどね」
「もーっ、アモスってばぁ、それじゃああたしが得意がったの馬鹿みたいじゃないーっ!」
「まぁさほど賢い言葉ではなかったのは確かだし、別にかまわんだろう」
「ちょっとぉーっ!」
「ま、そうむくれるな。お前がそんな顔をしても可愛いだけだぞ?」
「えっ……ちょっ、急になに言ってっ……」
「失礼、神官殿。あなたはここでなにをなさっているのですか?」
「………もぉぉーっ! ローグのばかぁーっ!!」
「こら、殴るな、蹴るな、わかった、悪かった。詫びに今度極上のストロベリーパフェをおごってやるから」
「もーっ! 絶対だからねっ!?」
「わしは命名神マリナン様に仕える神官じゃ。お主たちの中で、今の名前を別のものに変えたい者がおったらわしに言うがよい。誰か名前を変えるか?」
『…………』
「えっとつまり……ここはその、改名相談所、的な?」
「相談も承っているが、改名の儀式そのものも行っておる」
「は? いや儀式もなにも、改名なんてやろうと思えば誰にだってできるだろ? まぁほいほいやるもんじゃねぇだろうけどよ」
「かぁーっ! なにを抜かすか愚か者っ! 我らが行う改名の儀は、そのものの魂に刻まれた刻印そのものを変えるものっ! 名を変えた瞬間からその者の名は改めた名前によってしか認識されず、本人にとってすらもその名前が自身の名前であると当然のように認識させるほどのものっ! 戸籍の名をただ変えるだけの浅薄な改名と一緒にするでないわ!」
「へぇー、そう言われると確かになんかすごい気がしますねー」
「いえ、これは疑問の余地なくすさまじい儀式ですよ。その人間のみならず、世界そのものをも変えてしまう……神の名を冠するにふさわしい儀式だと言えると思います」
「うむうむ、そうじゃろうそうじゃろう」
「うぅーん……でも、あたしはちょっと怖いな。そんな風に、簡単に自分の名前がそっくり入れ替わっちゃうなんて……」
「うむ、そういった一面も確かに改名の儀式にはある。名とはその者をその者たらしめる刻印、魂に刻まれた紋章じゃ。その者の運命すらも変えてしまう力すら持っておる。ゆえにこそ、名によって導かれた運命を変え、自分の望む運命を手に入れんとする者のために、我ら命名神マリナンの信徒は儀式を行っておるのじゃよ」
「なるほど……こうした海の底に祠を構えてらっしゃるのも、軽々に儀式を行おうとする不心得者を遠ざけるためなのですね。ご立派な覚悟と存じます」
「いやあの、海の底に祠を構えられても、普通の人はどうやったって来れなくないですか?」
「この祠はこの世にありながらこの世にあらぬもの。心より改名を欲する者に対しては、どこにいる者であろうともその門を開く。お主たちのように直接境界を乗り越えて祠を訪れるような者は、数少ない例外じゃ」
「ふーん……けどまぁ、俺らとしては、特に世話になる必要とかねぇよな? 改名したい奴なんて別にいねぇだろ?」
「そうですねぇ……たまに私自分の名前がもっとカッコいいものだったらモテモテになれたりするかな、とか思わなくもないですけど……今の名前は今の名前で愛着ありますしね」
「そうか。名前を変えたくなったらいつでも来るがよいぞ。名前の護りがあらんことを……」
「……いや、そうだな。一度試してみるか。神官殿、よろしいか?」
「えっ!? ロ、ローグ、名前変えちゃうのっ!?」
「ふむ。誰か名前を変えるか?」
「この袋の名前を変えさせていただきたい」
『………はい?』
「むう、それは……袋か? はっはっは、よいじゃろう。物に名前をつけるとは、お主も可愛いところがあるのう。では袋の新しい名前をわしに教えてくれ」
「『ボックス』でお願いしたい」
「うむ、袋の名前をボックスに変えるのか。本当にこれでよいのじゃな?」
「ああ。よろしくお願いする」
「おお、命名神マリナンよ! 新たなる名ボックスに神の祝福を!! よし、では今から袋の名前はボックスじゃ!」
『……………』
「……なぁ。んなもん改名して、ホントになんか意味あんのか?」
「そうですよねぇ、袋もボックスも、なにか入れる物って意味では似たようなもんですしね」
「それとも単に一回改名ってしてみたかっただけ……だったりしない、ローグ?」
「ふむ……まぁ、そんなようなものと言えば言えるが。………ふむ、そうだな。神官殿、ボックスの名前を元に戻していただけるか?」
「ボックスの名前を元の袋に戻すのじゃな?」
「ああ」
「親のつけてくれた名前じゃ。大切にしなくてはな。うむうむ。おお、命名神マリナンよ! ボックスの名を元の袋に戻したまえ!! よし! お主の名は袋に戻ったぞ!」
『……………』
「いやだからよ、ローグ。それ、なんか意味あんのか?」
「ホントに単に一回やってみたかっただけなの?」
「まぁ似たようなもんではあるが、な。俺はこの改名の儀式の性質を探りたかったのさ」
「性質? って?」
「どんな意味があるのか。どんな効果があるのか。名前を変えるだけでその対象にそれほど大きな変化が訪れるのか。そこらへんを詳しく調べてみたかった。まぁ、一度やってみて、軽く調べた限りでは特に性質に変化が起きるわけでもなさそうだということと、本気で名前を変えた対象が、変えた名前でしか認識できなくなったってことから、本気で検証するには時間がかかりそうだし、気軽に扱っていいものでもなさそうだということがわかったから、今後この神殿には必要になる事態が起きるまであまり関わらないようにしよう、と決めたわけだが」
「ふぅん……」
「ま、名前なんてもなあどんだけ気に入らないもんだって、我慢して付き合ってくのが普通だしな。トム兵士長だって、ソルディっつぅ夢の名前を、夢の世界以外で使ったりはしなかったんだしよ」
「そうですねぇ。でもローグさんにも意外と慎重なところがあるんですね、私ビックリしちゃいました! ルビスさまに文句言ったみたいに、この神殿の人にも文句言ったりするんじゃないかな、ってドキドキしてたんですけどね私!」
「阿呆。俺は別に神さまに文句が言いたいわけじゃない。単に必要だったら喧嘩を売るのもやむなし、と諦めているだけだ。向こうが素直に俺の言うことを聞いてくれるならそんなことをする必要なぞないわけだが、今日日この世の中、神さまも素直に俺に従ってくれるほど賢明な御仁はそうそういないようだからな」
「もーっ、また神さま相手にそういう偉そうなこと言うー。よくないよっ?」
「わかってる、心配するな。できるだけそういうことをするのは控えるさ。約束をむやみやたらと破る気はない」
「むやみやたらと、じゃなくてちゃんと破らないようにしなきゃダメだってば!」
「もちろんそのつもりではあるが、この世には不可抗力というものがあるからな」
「もーっ!」
「……………」

「よう来なすった。せっかくじゃからいいことを教えてしんぜよう。ここから南に行った山奥に、伝説の剣が眠っておる! ザム神官だけがその封印を解く方法を知っておるというぞ。というわけじゃが、こうして人と話したのは何十年ぶりかのう……」
「へぇ、伝説の剣なんてものの在り処を知ってるのか! その話、本当なんだろうな、爺さん?」
「当たり前じゃろう、わしも海底に居を構えることのできる海底人の一人! 話をした相手の言葉が噓かまことかなど、たやすく見抜けるわ!」
「へぇー、海の底に住んでる人たちって海底人っていうんだ! そういう人ってやっぱり、すごい力を持ってたりするの?」
「む、まぁ『すごい力』といわれるほどのものを持っているのはごく一部じゃろうがな。海底に居を構え、陸の上に住まう者たちともたやすく話ができる空間を築き上げるには、それなりの魔力と知識がいる。それだけの力を持つ者が、聞いた話が真実か否かを違えることなどまずありえん、というだけの話じゃて」
「……なるほどな。海底に居を構えるというのは、相応の能力を持つ者のみに許された特権なわけか。あの宿屋の人々も、教会の人々も、海底人としてそれなりの魔力、技術、知識を持ち合わせている、ということなんだな」
「ま、神への信仰に対する恩寵や、親兄弟が有していた住まいを譲り受ける、ということもありえるがな……その辺りはきちんと管理してくださる方がいらっしゃるのじゃよ」
「ふむふむ、よし、わかったぜ。ようし、南だ南! とにかく南に行くぞ、ローグ!」
 がすっ!
「ろくに話を聞いてないことがまるわかりの台詞を当然のように吐くんじゃねぇ。そんなにてめぇは恥をさらしたいのかこの脳筋鶏モヒカン」
「いやー。でも、ひょっこりと寄ったわりにはいい情報をもらえましたよね」
「そうですね。伝説の剣の封印を解く鍵は、ザム神官にあり……ですね!」
「そうね。伝説の剣……早く見てみたいものね。もちろん簡単に見られるものではないのでしょうけれど……」
「………うーん………」
「どうした、バーバラ。そんなか弱い乙女のような悩ましげな顔をして」
「ちょ、なにそれーっ! そんな言い方されたらまるであたしが乙女じゃないみたいじゃんっ!」
「『か弱い乙女』と言っただろう。俺としては、言いたいこともまともに言えない心弱い乙女より、元気で明るく言いたいことを言う乙女の方がよほど魅力的だ、と言ったつもりだが? ま、言いたいことを言うにしても時と場合がある以上、お前が口ごもるのもわかりはするがな」
「うっ……も、もぉっ、そーいうことばっかり当たり前みたいに言うんだからっ……、………。あのね、ローグ。何十年もおじいさん、一人なのかな? 寂しくないのかな? あたしだったら、寂しいだろうなぁって思っちゃうんだけど……」
「ふむ、ま、まっとうな疑問ではあるな。俺としても俺なりの答えは用意してあるが……お前の場合は素直に、このご老人に直接聞いてみた方がいいんじゃないか?」
「う、うう、でもさぁ……」
「心配するな。このご老人を傷つけるようなことにはならない。それとも、俺の保証じゃ不満か、バーバラ?」
「そ、そういうわけじゃないけど。……わかった、聞いてみるっ! あ、あのっ、おじいさんっ!」
「む? なんだね、お嬢ちゃん」
「あの……おじいさん、寂しくないの? 何十年もひとりぼっちだなんて。あたしだったら、寂しいなって思っちゃうな、って……」
「……ほっほっほ。お嬢ちゃんは優しい子なのじゃな。心配するな、海底人は陸の上に住まう者たちとは、生きる時間が違う。最低でも数百年は生きるし、千年を超えてまだ生きる者もザラじゃ。わしとても、まだ死ぬるまでには数百年は必要になるじゃろう。もう充分に生きたと思えたなら、身体の中から魂を解放することもあるがな。海底は濃密な魔力が流れる場所、魔力をまともに扱える者にしてみれば、その程度はたやすいことなのじゃよ」
「そ、そうなんだ!? よかったぁ……。…………」
「どうした、バーバラ」
「えっ、ううん、なんでもないの。ただ、なんていうか……前にも、誰かに同じようなことを言われた気がしちゃって……」
「………そうか」

 そこは、大瀑布の前に立つ宮殿だった。海に沈んでいた城に向かい進んでいたはずの自分たちは、いつの間にかその天頂部分、白い岩と、珊瑚をはじめとした、海中の美しい飾り物によって彩られた、その雄大にして壮麗な宮殿へと降りていく階段の上に立っていたのだ。
 上を見上げれば、海面からはるか離れた暗い海の層が折り重なり、階段を闇の中に呑み込んで人の目から隠している。けれど、チャモロは神の船の存在を身近に感じていた。神の船は失われておらず、自分たちの間近に変わらずそのまま在る。つまり自分たちは、いわばこの宮殿に招じられた形になるのだろう。神の船も、客人の足として大事に保管されている。それが確信できるからこそ、どこまでも広がっているかのように思える大瀑布も、その前に悠然とそびえる人の手によるものとは明らかに様式の違う城も、心からの感動と安堵をもって眺めやることができるのだろう。
 そんな想いをチャモロが心の中でなんとか整理し終える前に、ローグはぐるりと周囲を見回し、呟いた。
「なるほどな。ここが海の王、ポセイドンの宮殿というわけか」
「っ……」
「えっ、なになに!? ローグってば、なんでそんなこと知ってるの!?」
「別に『知っていた』わけじゃない。お前たちだって聞いたはずだぞ。レイドックの井戸の底、海底に通じる誰が作ったとも知れない水路の中にいた、一匹のスライムの言葉を」
「え? えー、っと……なんか言ってたっけ?」
「『エヘヘ、ぼく知ってるよ。海の底には、ポセイドンっていう海の王さまが住んでるんだよ。会ったことある?』……そして俺がその言葉に否と返事すると、『ガンディーノっていうお城のそばの海の底にいるらしいよ』と教えてくれた。海底の、座標的にガンディーノからほど近い、見事というほかない壮麗な宮殿。海の王ポセイドンの宮殿、と考えない方が不自然というものだろう」
「な、なるほどぉ……ローグ、よくそんな前のこと覚えてたね……」
「ま、俺は主人公だからな。その程度のことできんわけがない。とりあえず、せっかくだ。海の王に謁見を申し込んで、なにか情報なりなんなり得られないか試してみるとするか」
「おうっ、そうだな! ……しっかし、すっげぇ滝だよなぁ……アモールの滝よりもはるかにすごい滝だな。まったく、世界は広いぜ!」
「そうですねー、あの滝に流されたら、たとえ神の船でも大変なのでは……はっ! そういえば神の船はどこにっ!? もしかしてあの滝の中に沈んじゃったりなんかして……あわわわ!」
「ご心配なさらず、アモスさん。神の船は変わらず私たちのそばにあります。そう感じるのです。おそらく、この宮殿の方々が、城に向かって来た私たちを客として迎え入れた際に、足となる神の船もきちんと保管してくださっているのでしょう。……ですが確かに、本当にすごい滝ですね。この海の滝には私もびっくりです」
「あっ! ねえねえ! 考えてみたらすごいよね、だって海の中に滝があるよ! でもあれって、しょっぱいのかな?」
「そうねぇ……あまり潮の香りはしないけれど、海の王さまのお城の前に流れる滝なのだから、そうなのかもしれないわね。でも、それを抜きにしても、この流れ、すごいわね。雄大で、広大で……こんな大瀑布は地上にはまずないことでしょう。歩いていてもしぶきが飛んでくるわ」
 そんな和やかな会話を交わしつつ、自分たちは揃って宮殿を奥へと進む。――けれど、チャモロはどうしても、考えずにはいられなかった。
 ローグは有能だ。チャモロが自分なりに磨き、それなりに優秀であると自負している、精神力も、記憶力も、きっとローグの足元にも及ぶまい。
 それなのに、なぜ。どうして、ローグは、と、幾度も幾度も。

「ここはポセイドン王の宝物庫です。みだりにお近づきになりませぬように」
「ふーん……近付くなと言われると、ちょっと近付きたくなるよな」
「ですよね、中見てみたくなりますよね? いったいどんなお宝が入っているんでしょうね」
「そうね、中がどうなっているか、ちょっと気になるわね。もちろん無断で宝物庫を開け放つ、なんてことはしてはいけないけれど……」
「うーん、王さまに頼んでも駄目かな? だってやっぱりすごく気になるし!」
「みなさん、お気を静かに。今は気にしないでおくのがよいと思います」

「ようこそ、ポセイドン城へ! 我が王はすべての海を治める海の帝王です」
「海の帝王さま、ですか。なんだかカッコいい呼び名ですね」
「ここって、ホントに城だったのか……俺は正直、またローグが適当なこと言ってやがるんじゃねぇかって半分くらい思ってたんだけどよ」
 がずっ!
「人聞きの悪いことを抜かすんじゃねぇこの脳味噌鶏マッチョモヒカン。俺がいつ適当なことを言ったってんだ」
「おおぉぉ……! てめぇ殴る場所もうちょい考えろよな……! っつぅかお前は基本適当っつぅか、その場ごまかして結論先延ばしにするのしょっちゅうじゃねぇか! だから俺ぁお前の言うことは半分割り引いて考える癖が」
 ごずっ!
「ふふ……でも、海の帝王さまにお会いできるなんて光栄よね。どんな方なのかしら」
「ポセイドン王さまが世界の海の王さまなのですね。失礼のないようにしなくては……」
「へー。ここの王さますごいんだねー!」

「よくぞ来た! わしは海の王ポセイドンじゃ。ふむ……そなたたち、なかなか強そうじゃの。実はここから東の海の底に、闇の神殿なんぞを建てた不届き者がおるのだ。このわしの許しも得ずに海の中で大きな顔をしおって……まことに不愉快じゃ! そやつの名はグラコス。もし奴を倒すことができたら、いいことを教えてやろう。よい知らせを待っておるぞ」
「ローグさん……この王さまは、きっと人魚ですよ…男の人魚に違いありません!」
「いえ、アモスさん……以前このように海底に居を構える方々は、海底人と言うのだと教わったでしょう? それにしても……王さまはひどくお怒りのご様子ですね。グラコスが海の平和をおびやかしているなら、お仕置きが必要なのかもしれません」
「ここから東の海底に、そのグラコスがいるのね。ちょっと行ってみる?」
「そうだな……王さまの頼みとあらば放ってはおけないな。グラコスとやらを倒してくるか!」
「いい加減に地位が高い連中の言うことなら素直に聞いてしかるべき、なんぞと考える癖を改めやがれ脳筋鶏マッチョが。……ま、海底に闇の神殿なんぞというものを建てられるほどの実力者であるグラコスを倒す報酬が情報ひとつで足りる、なんぞと考えるポセイドン王の脳味噌のあたたかさはさておいて、だ。闇の神殿なんぞというものを堂々と建てる奴にろくな奴がいそうな気はしないし、一度顔を見に行ってみる、というのは当面の目標としてありだろうな」
「わーい! ローグが珍しく素直な反応してくれたー!」
「あぁ? バーバラお前、俺はいついかなる時も自分の感情に心から素直にふるまってるだろが。見当違いなこと抜かすな」
「もーっ、いいじゃないそんな怒んなくたってー。王さまがいいこと教えてくれるっていうんだよ? そうじゃなくても悪そうな奴を倒せるんだし! ねっ、行こ行こ!」
「そういう甘い見込みで行動しても、ろくな結果にはならないだろう、という発想はお前にはないのか? ……ま、とりあえず今回は、一応の目標として定めるのに不満はないがな」

「あら、あなたたち海底人じゃないわね。普通の人間たちがこんな所までやってくるなんて、ずいぶん久しぶりね。昔来たのはマサールとクリムトっていう二人の賢者だったけど……あの二人、今頃どこで何をしているのかしら」
「このお姫さま、お父さんに似ないでキレイですねー」
「そうだねー……でも、このお姫さま、年はいくつぐらいなんだろうねー。海底人の人たちは、人間よりずっと長生きなんだって、この前おじいさんが言ってたでしょ? 海の王さまの娘ってことは、そういう……長生き力? みたいのもすごいんだろうし……」
「ちょっ、バーバラさんっ! あまりにむごすぎますよー! そういう男の夢を踏み潰すみたいなこと、あっさり言わないでくださいよー!」
「んー……マサール? クリムト? 賢者? ローグ、どこかで聞いたか?」
「いや、俺は今のところ聞いたことはないが……」
「マサールとクリムト……私、聞いたことがあるわ。確か有名な賢者の名前よ」
「へぇ! 珍しいな、ローグが他の仲間に話を教えてもらうなんてよ」
「おい脳筋マッチョモヒカン、お前俺をなんだと思ってるんだ? 神ならぬ人間が、全知全能なわけがないだろが。俺は単に主人公として完全無欠であるがゆえに、全知全能に近いほど万能であるように見えるだけだ」
「当たり前みてぇにそれだけ吹かせりゃ、普通『こいつ自分のことを神さまかなにかだと思ってるんじゃねぇか』くらいのことは言われると思うぜー……」
「……つまりそれは、私たちの力も賢者さまのレベルに近づいたということでしょうか!」
「ま、チャモロもミレーユもバーバラも、すでに賢者をマスターした人間ではあるからな。普通に考えて、賢者と呼ばれるにふさわしい能力を身につけてはいると思うぞ? こういう風に思わせぶりに名前が出てきた連中というのは、たいていなにか特別というか、普通にやっていては身に着けられないような反則技をいくつも有している奴らが多いから、完全かつ確実に勝利しうるかというと、俺としてもうなずけないがな」
 無駄にはしゃいでみせつつ、ローグの言葉に苦笑してみせつつ、チャモロはちらちらと、幾度もローグに縋るような視線を向ける。ローグもそれを感じ取っていたのだろう、宮殿の人々と話し終え、自分たちの船へ導いてくれるという最初に降りてきた階段を目指して壮麗な宮殿を歩いている時に、人気がなくなった辺りで「俺は少しチャモロと話がある、先に行っていてくれ」と単刀直入に仲間たちに告げた。
「えー? どうしたのローグ、まさかまたチャモロいじめたりする気?」
「またとはなんだ、人聞きの悪い」
「だってローグってば、前にもチャモロが真面目にお説教してる時にああだこうだ言い負かしてチャモロ半泣きにさせてたじゃん!」
「あれは単に俺としても、一人の人間として思うところを述べたにすぎん。……が、まぁ、可愛いチャモロを泣かせたり悲しませたりするのが本意ではないのは確かだからな。できる限りいじめないよう心がけると約束しよう」
「それならいいけどー」
「つぅかお前な、チャモロも男なんだから、そんな風にいちいち子供扱いしてやるなってぇの」
「子供扱いをしているわけじゃない、チャモロ扱いをしているだけだ。チャモロの純真な心根と稚い真摯さは、年がいくつだろうと愛でるに値するだろが」
「へいへい、わかりましたよっと。あんま長くなるようだったら言ってくれよ」
「心配ない、そこまでの時間はかからん。たぶんな」
 そう言ってちらりとこちらを見るローグの視線は、自分の扱いに顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをしていた(そしてそんな扱いを受けるのは自らの未熟がゆえ、と心の中で自身の感情を戒めている)チャモロの心臓を、大きく跳ねさせる。その瞳には明らかに真剣と呼ぶにふさわしい鋭さがあり、これからチャモロと行う話し合いを、ローグとしても相応に重要視してくれていると教えてくれたからだ。
 けれど、ローグはなぜ、自分の話がローグにとって重要なものであるか否か、あらかじめ察知できるのだろう? 彼には本当に、なにもかもを改めて見通せる千里眼でも備わっているというのだろうか? 本当に神のごとき全知全能さを有していると?
 そんなわけはない、ないのだが、ローグの瞳を見ていると、そんなこともありえるのではという夢想が湧いてきてしまう。彼の星の海を溶かしたような、あるいはこの世でもっとも澄んだ蒼穹のような、深い色合いの瞳。そこには普段の彼の振る舞いとはまるで違う、英雄と、勇者と呼ぶにふさわしい輝きと落ち着きが垣間見えるように感じるのだ。
 からかわれている時も、戦いの中で指示をされる時も。チャモロの魂の芯を見据え、言葉を発するその目。それを、チャモロはいつも勇者にふさわしいものと任じ、そして。
 考えに沈み込みそうになる自身の頭を、慌てて振って正気を取り戻す。ローグは足を止め、チャモロの方を振り向いて、真正面から視線をぶつけてきていた。チャモロが望んだ、臨まざるを得なかった、一対一での話し合いだ。
「……それで? チャモロ。なんの話がしたいんだ?」
 ローグの、威圧的なところはまるでないけれども、こちらの瑕疵をなにもかも見抜いてしまうような、鮮明さすら感じる視線。それに必死に自分を鼓舞して相対しつつ、チャモロはできるだけ落ち着いた口調で告げた。
「ローグさん。私は、どうしても気になって仕方がないのです」
「ほう。なにがだ?」
「あなたが、なぜ私に――私などに、ご自身を止める役目を任せたのか」
「……ほう?」
 目を細めるローグに、退いてはならない、臆してはならない、と幾度も自分を叱咤しながら、顔を上げて言葉を放つ。
「あなたは、私に心を鍛えろとおっしゃった。いざという時に頼れるように、と。その時は、はっきりとはわかりませんでしたが……私にはそれが、あなたのおっしゃりようが……あなたの振る舞いが、まるで……世界から自分を排斥しようとしているようだ、と思えてしまったのです」
「ほう」
「神を攻撃し。尊い方を蔑み。世界と争って。あなたは世界を救おうとしているのに、救おうとしている世界と戦おうとしている。それは……それこそ、まるで……ムドーやジャミラスのような、魔王の所業のようではありませんか。そんな行いを……勇者として為すべきことを為しながら、人としての在り方に背を向けて、従うべき正義に唾を吐きかけるような行いは……人間として、勇者として、断じて許されぬ、許されるべきではない所業です」
「ふむ、それで? 人間や勇者としてのあるべき倫理観から外れた俺に、天誅でも下したくなったか?」
 いつもと同じ、ローグのからかうような口調に、チャモロは必死に首を振る。そうじゃないのだと。私があなたに伝えたいのは、そんなところにある話とはまるで違うところにある話なのだと。
「違います。そうではないのです……あなたは、人としての道理を無視しながら、それでもその瞳は天をみはるかす。救うべき人を救うために、大地を踏みしめて手を差し伸べる。そのような人の行いである以上……きっと、あなたの、勇者としてあまりにそぐわぬ言動にも、行いにも……きっと、なんらかの理があるのでしょう。そのくらいは……私にも、わかります」
「ほう?」
「ただ、私がわからないのは、理解できないことに震え、たびたび足を止めさせてしまう理由は……なぜ、私などに、あなたを止める役目をお任せになったか、ということなのです。私には……私などには、ローグさん、あなたと相対して、心を揺らがさずにいられるような強さはないのに。ルビスさまにあなたが、言いたい放題の、無礼この上ない、誰が聞いてもあなたが間違っていると言うだろう無法な言い分を叩きつけた時に……それを諫めるだけでも、どうしようもなく……苦しくて、申し訳なくて……自分の行いが正しいのかどうかもわからなくなってしまう、弱く愚かな心しか、持ってはいないのに」
 ぼろり、と瞳から涙がこぼれる。ぼたぼたと漏れる熱い雫は、チャモロの心をも焼いた。
 こんなことを言いたいわけがない。こんなことを認めたいわけがない。チャモロにもゲントの僧として、これまでの一生を修行に捧げてきた矜持がある。そうやって自分を育ててくれた、祖父やゲントの里の人々に対する感謝がある。それなのに、敗北を認めるというのは――自分のこれまでの一生が無駄だった、足りなかったと認めるのは、これまで自分を育ててくれた人々すべてに対する裏切りだ。
 けれど、できない。自分にはできないのだ。ローグを――自分の勇者と認めた、信じた人を、誤っていると喝破することは、自分にはできない。ローグは間違っているはずなのに。チャモロが学んできた教えは、間違いなくローグのことを人としての理に背いた存在であると裁くであろうというのに。
 この人を――天を睨み据え地を踏みしめ、前へ前へと進むこの人を、裁くことは――この人の上に立ち、そこから裁きの刃を振り下ろすことは、どうしても、どれだけそうすべきだと思っても、チャモロにはできないのだ。
 ぼたぼたと涙を流して、必死に嗚咽を噛み殺しながら泣くチャモロを、ローグはしばし、ひどく静かな瞳で見つめた。それからすっと自分に歩み寄り、そっと背中に背を回して、抱きしめてくれる。背中を優しく叩き、腕の中にチャモロを包み込み、慰めるように頭を撫でて。いつかそうしてくれたように。かつて同様、赤ん坊をあやす時のように。
「すまなかったな、チャモロ」
 その声は、たまらなく静かで、優しい。真綿でくるむような声というのは、こういうのを言うのではと思うほど。ローグは、いつも、いつも当然のように、自分にはひどく甘かった。優しく接し、可愛がってくれた。甥を甘やかす叔父のように。年の離れた義理の弟を可愛がる義兄のように。よその家の犬を撫でる愛犬家のように。
「お前を泣かせるつもりはなかったんだ。落ち込ませたかったわけでもない。そんな風に傷つけたいなんて、微塵も思うものか。本当にすまなかった。泣かないでくれ、俺の愛しいチャモロ」
 優しく頭を撫でるローグの掌の下で、チャモロは聞かん坊のように首を振る。そんなことを言わせたかったんじゃない。困らせたくも、悲しませたくも、それこそがっかりなんてさせたいわけもなかった。けれど自分には、この程度しかできない。この人を、たった一人で世界と相対する偉大な勇者を、支えることも、慰めることもできなかった。
「……お前がそんな風に、泣くことはないんだ。苦しむ必要はないんだ。俺がわがままを言っただけなんだから。お前はむしろ、怒っていいんだよ」
 そんなことしたいわけがない。あの時の、初めてこの人に頼ってもらえた時の高揚感を今でも覚えている。自分の生まれてきた意味は、これまで戦ってきた意味はここにあるのではないかと、信じかけることさえできたほどだった。この人のあの信頼に応えることができるのなら、自分はそれこそ身体なんて百度焼かれてもかまわない。腕だろうと脚だろうと、斬り落とされても文句は言わなかっただろう。
 でも、それでも。そんなことをいくら積み重ねても。自分の心魂の弱さでは、もろさでは。この人の、世界と相対する人の求める、この人の心を量る人間になど、なれはしないのだ。
「っ……っ……ぅっ、ぅっ、ぅぅっ……ぅぁ、ぅあ……うああ~~んっ………!」
「泣かないでくれ、チャモロ。俺のチャモロ。俺のことなんかで、お前の小さな胸を痛めたりしないでくれ。俺がお前の幸せをどんなに願ってるか、お前も知っているだろう? どうか、泣くのは……俺の胸の中だけに、するようにしてくれ」
 そんなひどく情熱的な言葉を吐きながら、幾度もまぶたに唇を落とされる。いつもならチャモロは真っ赤になってひっくり返っていただろう、けれど今はひたすら胸が痛かった。
 ごめんなさい、ごめんなさい、助けになれなくて、あなたに可愛がられることしかできない自分でごめんなさい。そんなことを心の中で喚きながら泣きじゃくる自分に与えられる唇は、やはり、赤ん坊をあやすためのものなのだと、そんな風に思うことしかできなかったからだ。

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