同床異夢〜ハッサン・2
 パチパチ、パチパチ。焚き火の炎は音を立てて燃え盛る。人家の明かりのない山野の夜、唯一心身を暖めてくれるのは、自分たちの作った炎だけだ。
 だが、それとても今の自分たちの状況を緩和する役には立ちはしない。もう二週間は風呂どころか水浴びすらできず、体中を垢まみれ泥まみれにして、目を血走らせぎらつかせ、普通の人間が見たら泣き出すか逃げ出すかというような殺気に満ちた表情で、ハッサンは相手――自分たちが得ようとするただひとつの勝利の証を巡る敵を睨みつけた。
 そいつも殺気立った表情でこちらを睨み返してくる。ただし自分と違い、泥がついていないわけではないのに薄汚れたという印象はない。自分と状況は同じなのに、よくまぁこうも涼やかな顔をしていられるものだとハッサンはこっそり感心したが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。お互いの動きに全神経を傾注し、隙をうかがい、じりっ、じりっ、と間合いを詰め――木の葉が一枚ぱらりと落ちたその瞬間、双方だっと大地を蹴る。
 先にそれ≠つかんだのはローグだったが、ハッサンもその程度で諦められる状態ではない。渾身の力を振り絞ってローグにしがみつき、それ≠奪おうと全力を尽くす。
「てめぇなにしやがる放しやがれ、てめぇの頭にゃ早い者勝ちっつールールすら刻まれてねーのかこのタコ助!」
「こんなことに早い者勝ちもなにもあるかよ! 俺の方が体がでかいんだ、その分消耗も激しいんだよ、そのくらいくれたっていいだろうが!」
「ハッ、俺が言うまで食糧まともに用意もしてなかったてめぇにんなこと言う資格はねぇ! とっとと譲りやがれったく意地汚ぇな!」
「お前の用意した分だってとっくに尽きてるだろーが、お前だって十分意地汚ぇだろ!」
 ――つまり、今自分とローグは、最後に残った食糧を奪い合って争っているのだった。予想以上に長くなったラーの鏡探索で、十二分に用意してあったはずの保存食を食い尽くし、双方腹を減らしきって。

 無事ファルシオンをレイドック城に連れ帰ってきて、ローグにもう使われなくなった馬車を引けるほどの馬を探してきてくれと頼んだ老人(宝物庫のひとつの管理を任されているそうだ。ハッサンは街に出た彼からローグが暴れ馬を探して街を出たことを聞かされた)と引き合わせると、老人は歓喜の涙を流した。
「おおおおおっ、おうーっ! これはまたなんと逞しい馬じゃ! うむっ、うむっ……。引ける。こいつならこの馬車を引けるぞい!」
「へへっ、だろ? どうだい、じいさん?」
「こいつをわしに任せてくれるな? お、お願いじゃっ!」
 必死な表情ですがりつくようにローグに頼みこむ老人――それに対し、ローグはにっこり微笑んで(ハッサンのええ!? なんだその爽やかな笑みは!? という視線を完全に無視し)、答えた。
「もちろんですよ、監督官殿。この馬を連れてきたのは、あなたの願いのためなのですから」
「な、なにを。レイドックの兵士たる者、王と国家のために身を尽くすのが本義じゃろうに……」
「ええ、ですから、俺はあなたの願いに――夢に、王と国家の誇りをひとつ新たに得るだけの価値を見たのです。ならば、レイドック特別兵たる自分が、そのために身命を賭すはしごく当然というべきでしょう。……さぁ」
 言ってファルシオンの鬣を軽く撫で、老人の前に軽く押し出すと(馬と人では体重が違いすぎるが、ファルシオンはローグの心を読んだように前に進み出た)、老人は目を潤ませながら何度もうなずいた。
「やれ、ありがたや! これでもう一度この馬車の雄姿が見られるというものじゃ! お主たちのこと、きっと王さまに報告しておきますぞ! さあ、行きなされ」
 そこにかかったのが、重々しく力強い男の声だ。
「見事であった!」
「ソ、ソルディ兵士長……!」
「そなたたち二人の働きは、しかと見届けた! 両名とも、王宮の兵士として十分な資格を兼ね備えていると判断した。この私の責任で、ハッサンよ、お前もこの城の兵士として働いてもらおう!」
 ハッサンとしてはまさに望むところな展開だ。思わず飛び上がって喜んだが、話はそれだけでは終わらなかった。
「すでに聞き及んでおるだろう、魔王ムドーの存在をっ! このムドーを倒すべく、我が国王は眠ることもなくことを進めておられる。さあ、ついてくるがよい。お前たちをレイドック王に引き合わせよう!」
 ハッサンにしてみれば想定外の急展開だ。いずれは魔王ムドーと戦う戦士となりたいと願ってはいたが、いきなりそのために国王陛下にまで会うことになろうとは。
 だがハッサンが目を白黒させている間にも話はどんどんと進み、自分たちは謁見の間でレイドック王(噂通り、若くほれぼれするほど美しく、のみならずどこか清らかささえ感じさせる、この人の力になりたいと思わせるもののある男だった)からしっかり命令を受けることになったのだ。
「この世界のどこかに、真実だけを映すラーの鏡というものがあるらしいのだ。いつもあと少しでその姿をかき消してしまう魔王ムドーなのだが……ラーの鏡があれば奴の正体を暴けるはず! そこでラーの鏡を探し出し、持ち帰ってほしいのだ。君たちの働きに期待しているぞ! では、ゆけっ! 我が兵士たちよ!」
 突然の話にまともに答えることもできないハッサンの前で、ローグは堂々と(それこそ将軍かなにかのように)王の前にひざまずき、高らかに宣言した。
「お任せください、陛下。陛下の御心安んじからしめんがため、世界を護る一助とならんがため、一命に代えても陛下の御命お果たしいたします!」
 のみならず、堂々と国王や、同席していた大臣らしき人と話をして、老人の管理していた馬車(と、当然それを引けるファルシオン)を旅に使ってもいい、という許可と、お褒めの言葉までもらってしまったのだ。
 夢見ていた以上の展開に、まさに夢見心地でローグに連れられて謁見の間から出ると、ハッサンははっと我に返って満面の笑みでローグに話しかけた。
「まいったな……俺たち、王様に褒められちまったよ……。こりゃすごいことだぜ!」
 とたん、げしっ、と蹴られた。脛を。かなり全力で。
「おがっ!? っ、てぇ〜〜〜っ! な、なにすんだ!」
「たかだか一国の王に褒められた程度でうっとりしてんじゃねぇよ、器の小せぇモヒカンマッチョだな」
「モヒカンマッチョって……っつぅかなぁ、ちょっとくらいうっとりすんだろ、これは! レイドックの王さまだぜ!? このレイドックで一番偉い人だぜ!?」
「褒められたっつってもせいぜい『少しはやるな』ぐらいのもんだったじゃねぇか。これからの働きでヘマしたらあっつー間になかったことにされちまう程度の功績だろ」
「へ? そ、そうなのか?」
「たりめーだろーが、ったくこの鶏ハゲは。王族だなんだっつってもな、要は先祖がたまたま戦いで多く領地をぶんどった家系に生まれた人間ってだけだろうが。普通の人間と同じように、いやそれ以上に奪うし裏切るし見限るんだよ。過剰に思い入れてんじゃねぇ」
「そ、そうなのか……っていうかな! じゃあなんだよお前のあのさっきの礼儀正しさは! 心の底から従ってますといわんばかりだったじゃねぇか!」
 指を突きつけて追及すると、ローグははっ、とさも馬鹿にしたように肩をすくめてみせた。
「お前、社交辞令っつう言葉を知らねぇのか? あんなもんただの挨拶みてーなもんだろうが。それをいちいち真に受けるほど、王さまってのはのんきな商売じゃねーんだよ」
「っっっ……お、っまえ、なぁ〜〜〜!!!」
 一発くらい殴ってやりたくてたまらず拳を握りしめたが、ローグはふん、と偉そうに鼻を鳴らして言ってくる。
「お前が俺を殴りたいっつーんなら相手になってやらなくもないがな、この状況わかってるか? 俺たちは、まいったことに俺だけじゃなくお前も、レイドックの特別兵で、レイドックの法を守る義務があんだぞ。そんな奴らが王宮で殴り合いの喧嘩でもしてみろ、私闘だっつわれて即刻営舎に監禁だぞ」
「う……」
「少しでも頭の中に脳味噌つまってんだったら、喧嘩売る時は相手と状況見てやりやがれ。わかったかこのボケタコ」
 言ってさっと身をひるがえしてすたすた王宮の廊下を歩いていくローグに、ハッサンはぐぬぬぬぬと拳を握りしめた。
『そーかよ、状況見りゃあいいんだな? だったらレイドックの城下町出たら、絶対一発かましてやるからな!』
 そんな物騒な覚悟も、胸に秘めて。

 ――が、そんなハッサンの意気込みはあっさりすかされた。城下町で旅に必要な保存食やらなにやらを買い込み(なにせ馬車があるので大量に買い込めた)、さぁ街を出よう、という時になって、ローグがハッサンに向き直り、言ったのだ。
「おい、ハッサン。お前、本気で俺と一緒に来る気なんだな?」
 思ってもみなかった問いに、ハッサンはきょとんとして問い返す。
「当たり前だろ? なんで一緒に来ないなんて思うんだ?」
「……お前の目的はレイドックの兵士になることだっただろうが。で、今こうして実際になることができた。だってのにわざわざ俺と一緒に来る必要がどこにある。一人で目的を成し遂げて、手柄を独り占めした方がいいとか思わねぇのか、あ?」
 因縁をつけるように睨まれて言われ、ハッサンはむぅ、と考えた。確かにそう言われてみればわざわざ一緒に行く必要はないのかもしれない。こいつは頼りにはなるが、いちいち腹の立つ奴でもある。一緒に行って助かることもあるだろうが喧嘩になることもあるだろう。どっちを選んだ方がいいのだろうか――
 と少しの間うんうん悩んだが、すぐにやめた。こんな風に思い悩むのは自分の柄じゃない。
 それにローグは腹の立つ奴ではあるが、だからといってそんなこと別れる理由にはなりはしない。それに、自分はローグと一緒に旅をすることを当然のように受け容れていたのだから、こういう時はそういう本能に従った方がいい結果を呼ぶだろう。
「いや、いいわ、そういうの。お前と一緒に旅をした方が、ずっとよさそうだ」
「なんでそう思う」
「なんでって……んー……そうだな、お前はそう悪い奴じゃないし……」
「悪くない%zなんてそれこそいくらでもいる」
「それに、強いから旅の道連れとしては心強いし」
「お前自分のこと旅の武闘家だとか抜かしてただろうが。そういう奴なら自分の面倒くらい自分で看たらどうだ」
「なにより、お前と一緒に旅した方が、ずっと楽しそうだしな」
 にかっ、と笑ってそう言うと、ローグはぎゅっ、と顔をしかめた。
「お前、そうじゃないかと疑ってはいたが、マゾか?」
「はぁっ? なんでそうなるんだよ?」
「俺にあれだけみそくそに言われて、適当に扱われて、それでも一緒に旅したいなんざマゾとしか思えねぇだろが」
「んなわけねぇだろうが! 単にお前が面白い奴だって思っただけだっての」
 その言葉に、ローグはさらに眉を寄せる。
「面白い、だと? 俺が?」
「ああ。一緒にいて、飽きねぇし。なんのかんので、優しいとこもあるしな。まぁ背中を預けても大丈夫かな? ってくらいには信頼もできるし。そりゃ時々こいつ本気で俺見捨てる気か? とかも思うけど、まぁその時はその時だろ? お前も言ってたけど、俺だって自分の面倒くらい自分で見られるからよ」
 またにかっ、と笑う。すると、ローグは深々と、肺の底まで息を吸い込んだだろうと思われるほど深いため息をつき、それからふん、と鼻を鳴らした。
「なら、勝手についてこい。俺も勝手に、やりたいようにやる」
「おう、そうしろよ。俺も勝手に、お前が人の道に外れたことしたら殴ってでも止めるからよ」
 からから笑いながらそう言ってやると、ローグはは、とまた息をついてから、ふい、と前を向いてすたすたと歩き出した。門番の衛兵と二言三言言葉を交わしてあっさり門を通り抜け(そのあとについていったらハッサンもなにも言われずに門を通り抜けることができた)、レイドックの城下町を出るや、くるりとこちらを振り向いて小さく手招きする。
「ん? なんだよ?」
「いいから、ちょっとこっちに来い。……大丈夫だとは思うが、他人と一緒に飛ぶのは初めてだからな、加減を調べておきたい」
「はぁ」
 よくわからなかったが、言われるままに近寄り、「そこで止まれ」と言われた場所で止まる。すると、ローグはこちらを、もしかしたらファルシオンをかもしれないが、とにかく見つめて、呟くように唱えた。
「ルーラ」

「………はっ? えっ? なぁっ!?」
「なにを騒いでんだ、やかましいぞこのデカブツハゲ」
「でっ……って、なぁっ! ここは驚くとこだろ! だって、この、こんな……」
 もう一度ばっばっと周囲を見回し、さらに大きな声で叫ぶ。
「一瞬ふわっとしたって思ったら、いきなり山の上だぜ!? どう考えたっておかしいだろうがよ!」
 驚き慌て、ほとんど恐慌状態に陥っているハッサンに、ローグはふん、と鼻を鳴らした。
「お前、キメラの翼使ったことないのかよ」
「は? キメラの、翼……?」
 なんだっけ、と腕を組んで首を傾げると、ローグははぁ、とため息をついてずけずけと言う。
「お前旅の武闘家のくせに世間知らずなのか、それとも単なるバカなのか? キメラの翼ってのは一度でも行ったことがある街やら城やらの、イメージを強固に描ける重要地点に一瞬で飛んでいける道具のことだ。道具屋でたった25ゴールドで売ってるだろうがよ」
「へ……そうだっけ? いや、俺あんま道具とか見ないからよ……」
 さすがに恥ずかしい気分になってぽりぽりと頭を掻くと、ローグははっ、と今度は鼻で笑ってみせる。
「よくまぁそれでまともに旅ができてたもんだな。ある意味感心するぜ」
「やはは、まー……」
 返す言葉がなくて笑ってごまかす。自分では一応けっこう長い旅をしてきたつもりだったのだが、そんなに自分は常識知らずだったのだろうか。それとも、知っていたのにわすれてしまったのか。
「……で、ルーラってのはそれの代わりになる呪文だ。呪文一言で行ったことのある街やら城やらに飛んでいける。今俺が行ける候補ってのはここライフコッドと、ふもとの町マルシェとレイドックだけだけどな」
「へぇー! お前そんな呪文まで使えるのかよ! 便利だなぁ!」
 思わず褒めると、ローグはむすっとした顔で鬱陶しげに言った。
「キメラの翼すら知らなかったお前に褒められても喜びようがねぇな」
「はは、まぁそんな細かいこと気にするなって! で? このライフコッドってのは、どういうとこなんだ? あの向こうに見える村がそうなのか?」
 周囲を眺め回すと、ここはひどく高い山岳の山頂のように見えた。かなり広い平地になっていて、その半ばを畑と、今自分たちのいる場所から少し歩いた場所にある村が占めているようだ。さほど大きな村ではないようだったが、それでも数十戸の家々が囲いの中に建てられているのが見える。
「ああ」
「へぇ、やっぱな。ここになんの用があったんだ?」
「……他人と一緒に飛んだ時のルーラの感覚を調べておきたかったのと……長旅になるんだろうから、きちんと話をしておくべきだろうと思ってな」
「へ? 話って……」
「ここは俺の故郷だ」
 言ってすたすたと歩き出すローグを、馬車を引いたファルシオンが追う。一瞬遅れて、ハッサンも慌てて続いた。
 思わず顔が笑む。長旅に出る前にわざわざ故郷に挨拶に戻るなんて、こいつけっこう可愛いとこもあるじゃんか。
 ファルシオンの背を叩きながら、崖と柵で囲まれた村に入っていく。入り口から村を見回して、うんと大きくうなずいた。
「ここがローグのふるさとかあ。いいところじゃないか」
 実際、ハッサンの目にもいいところに見えた。ところどころで高低差の違う地面の間を、うまく縫うようにして建てられている家々は、そのどれもが小さく、可愛らしささえ感じるほどで、その合間の豊かに草の生えそろった地面を、狩人や農夫らしき人々がのんびりと行き来している。見るだにのどかで、のんびりとした牧歌的な村だというのがよくわかった。
 こいつの故郷とは信じられねぇくらいだよな、とローグの背中を眺めてニヤついていると、入り口広場で遊んでいた子供がこちらを向いて歓声を上げた。
「ローグさん!」
「やぁ」
 ローグはその子供ににっこりと笑みを返す。げ、こいつふるさとでもこんな風に猫かぶりまくってるのかよ、と目をむくハッサンをよそに、子供とローグは和やかに会話を交わした。
「ローグさん、レイドック城の兵士になったんでしょ? カッコいいなあ」
「そうかい? ありがとう。でもまだまだ新米さ、ようやくひとつ仕事を任されたくらいだよ」
「そうなの? でもすごいよ、やっぱりローグさんは強いんだねっ!」
「いや、俺なんてまだまだ未熟者さ。もっと修業を積んで、早く一人前になりたいと思ってるよ。この村のみんなを守れるようにね」
「えへへ、やっぱりローグさんはすごいなぁ。応援してるから、頑張ってね!」
「ああ、ありがとう」
 にこやか笑顔で子供と別れてしばし、ハッサンは口からぽろりと言葉をこぼした。
「まったく、子供ってのは素直でいいよな」
 こいつが本当はどーいう奴かなんぞ知らずにあっさり騙されているのが可哀想なようなそのまま素直に騙されていてほしいようなあんないたいけな子供を騙すローグがひどいような気持ちをそんな言葉で表すと、ローグははっ、とまた鼻で笑った。
「素直なのが子供だけだと思ってんのか、お前? おめでたい奴だな」
「は?」
 意味が分からず眉を寄せたが、村を歩いているうちにローグの言葉の意味するところはすぐに明らかになった。
「やあ、ローグ! 噂は聞いてるぞ、レイドック城の兵士に選ばれるなんてさすがはローグだな!」
「ありがとうございます。でも、俺なんかまだまだ未熟者ですよ」
「あら、ローグじゃないかい! 帰ってきたのかい? ちょっとお茶でも飲んでおいきな!」
「すいません、先に一度家に戻らなくてはならないので……また今度寄らせていただきます」
「おお、ローグ……また村に帰ってきてくれたんだねぇ、死ぬ前にあんたにまた会えてこんな嬉しいことはないよ」
「なに言ってるんですか、まだまだ長生きしてくださらなくちゃ。今度お茶を持ってうかがいますよ」
 とにかく歩いている間に声をかけられることかけられること。しかもそのどれもが賛美に満ちていること満ちていること。挙句の果てには、
「ローグはやっぱり選ばれた若者だったんだな。まさかこの村からレイドック城の兵士になる者が現れるとは思わなかったよ」
 ときた日にはハッサンももう、
「ホント、この村じゃローグは人気者だよなあ」
 と苦笑しつつ言うしかできなくなっていた。
 故郷の誰からもこうも褒め称えられるとは、こいつはどこでもこの完璧な外面を保ち続けていたのだろう。まったくご苦労なこったとしか言いようがないが、ある意味感心する。どこであろうとも完璧な自分を演じ続けるというのは、普通に考えてさぞしんどいことだろうに。
 が、ローグはふんと鼻を鳴らして言ってみせる。
「『この村じゃ』じゃねぇよ。俺はどこに行こうが人気者になれる男なんだよタコ助」
「タコ助……ってなぁ」
 ったくこいつは、と苦笑してから、あれ? と首を傾げた。じゃあなんでこいつ、俺にだけはこうも態度が悪いんだ?
 なんでだなんでだ、と思いつつ歩いていると、ローグは村に一軒しかない酒場の前で馬車を止め、軽くファルシオンの背を叩いてから中に入った。酒場の横には厩があったので、そこを使わせてもらうつもりかと思いながらそのあとに続くと、突然甲高い声が響く。
「ローグアニキじゃないか!」
 カウンターの中から声をかけてきた、金髪の青いタンクトップを着たローグと同年代の男に、ローグはにこやかに微笑みを返した。
「やあ、ランド」
「見てくれよ、バーテンの俺。けっこうさまになってるだろ」
「ああ。似合ってる」
「実は昔からこの仕事がしたかったんだけど、親父が大反対しててさ。親父は狩人だから、俺に跡を継がせたかったようだけど、バーテンだって立派な仕事だぜ。それに俺この仕事が向いてると思うんだ」
 喋りつつランドと呼ばれた男はシェイカーを「……よっ! と」と言いつつ宙に投げ、くるくると回転させてもう一方の手で受け取ってみせ、ローグに真剣な顔を向けて言う。
「……アニキ。俺真面目に働くからさ。ターニアちゃんのことは心配しないで、兵士の仕事頑張ってくれよな」
 ターニアというのはたぶんローグの家族なのだろうな、と思いつつ、「お! かなりうまいもんだな! なっ、ローグ」と囃したが、ローグは穏やかな笑顔を崩さなかった。
 ただ、ランドに少し身を寄せ、耳元に何事か囁いた。
 とたん、ランドはさっと顔を蒼褪めさせ、それからカッと赤くして、そしてのろのろと表情をこわばらせながらうなずいてみせる。ハッサンは思わず目をぱちぱちとさせたが、ローグは笑顔でうなずき返して、二階への階段を上っていく。それを追いつつ、思わず訊ねた。
「なぁ、ローグ……」
「なんだ」
「……いや」
 たぶん聞いても答えてはくれないだろう、と思ったのでハッサンは結局聞くのをやめた。だってハッサンの耳が確かならば(そしてハッサンの耳は野生の獣並みに鋭いとよく言われていたのだが)、ローグは「仕事が終わったら、いつもの場所で」と囁いたように思えたので。

 二階にいた女将に厩の使用許可をもらい、ファルシオンと馬車をそこに預けてから、ローグはゆっくりと村の中を巡った。武器屋に顔を出し、教会に挨拶し、井戸端会議をしている中年女たちと笑顔で言葉を交わし、村に一軒だけであろうよろず屋の人間たちと話し、村長の家で村長たちと話し合う。
 そしてそのどこでもその完璧な外面を見せつけ、愛想と笑顔を振りまいて人気と歓声を獲得する。よくまぁ疲れねぇなぁ、と思いつつ黙ってついていっていたが、やがてローグは、村外れにある一軒の家へと向かっていった。
 そこは眼下にどこまでも広々と続く森を望める、崖際の小さな家だった。他の家々より少し離れたその場所に向かうローグの足取りには、迷いも戸惑いもない。おそらくは、あそこがローグの家なのだろう、となんとなくわかった。
 だが、少し奇妙に思ったのは、なんとなくローグの足取りから緊張が感じられたからだった。敵と戦う前のような息詰まる緊迫感。たぶんローグはそれを感じつつ、あの家に向かっている。
 ふむ、と首を傾げつつ、とりあえず話題を振ってみる。
「ライフコッドってところは、本当にのどかな村だなあ」
「…………」
「ここは高台で、景色もいいし最高だよな。しかし、ローグが山育ちってのは意外だよ。そんな細っこい身体してさ」
「……お前が太すぎるんだ。俺は必要なだけの筋肉は身につけてる」
「そうかぁ? 曲がりなりにも兵士になるんだったらもうちょい筋肉つけた方がいいと思うけどな」
「やかましい。そもそも俺より力の弱い奴に偉そうに言われる筋合いはねぇこの無駄筋肉が」
「む、無駄筋肉ってなぁ……これでも今まで人間相手には負けなしだったくらいの力はあるんだぞ」
 だがそれでも今のところローグにはかなわないのは確かなのだが。本当に、こんな細い体でどうして自分よりも力が強いのだろう? なにかインチキっぽい真似をされてる気がする。
 しかし、ハッサンがそんな風に話題を振ってもローグの緊張がほぐれる様子はなかった。顔は平然としているようにしか見えないのだが、ハッサンの武闘家としての経験は、確かにローグの足の運びなどから緊張を感じている。
 そんな様子をうかがう視線の先で、ローグは家に入る前に、家の前で日向ぼっこをしている猫の前で足を止め、喉を鳴らす猫を軽く撫でた。
「ローグんちの猫なんだろ? 可愛いよなあ」
「お前が言うと不審者の発言のように聞こえるな」
「なっ、お前な、曲がりなりにも仲間を不審者って……」
「不審者とは言ってない、お前が言うとそういう風に聞こえると言っただけだ。……入るぞ」
「あ、ああ」
 言葉はあくまで強気に言って、ノックもなしに扉を開ける。中は外から見て想像した通りに、さして広くもない簡素な造りで、家の造り自体は山小屋とさして変わらないのじゃないかと思えるほどだったが、壁掛けやらカーテンやら敷物やら、こまごまとしたところに寒くならないような工夫――それも女性的なものが加えられていた。
 そして、玄関からすぐ前の、居間に置かれた椅子に座って刺繍をしている少女が、はっとこちらを向いてぱぁっと笑顔になる。
「あっ、ローグにいちゃん、お帰りなさい!」
 その言葉にローグは、笑顔を――それもハッサンが思わずすざっと後ずさるような、きらきらと後光が差しているんじゃないかと錯覚するような、明るく爽やかな眩しい笑顔を向け、朗らかに言う。
「ただいま、ターニア! 会いたかったよ!」
 椅子から立ち上がり、たたっとこちらに駆け寄る少女――ターニアを、ローグはばっと腕を広げて受け止めた。少女といってももう娘と言っていいくらいには成長している相手なのに、そんなことはまるで気にせずがっしりと抱きしめ愛の(って言っていいんじゃないかってくらい優しげな)言葉を囁く。
「よかった、ターニア……元気そうで。会えない間も、俺はずっとずっとお前のことを想っていたよ」
「うん、お兄ちゃん、私も……ずっと心配してたよ。ローグにいちゃんのことだから大丈夫だとは思ってたけど……怪我したり、ひどい目に遭ったりしてないかって……」
「なに言ってるんだ。お兄ちゃんがそんなことに負けると思ってるのか?」
「ううん、そんなことないけど……心配なの、お兄ちゃんに万一のことがあったらって」
「まったく、ターニアは優しい子だな。でもそんなに心配ばっかりしてちゃ、この可愛い顔に皺が寄っちゃうぞ?」
「もう、お兄ちゃんったら……」
「ふふ」
 うふふふ、あははは。抱きしめあいながらそう軽やかに笑ってみせる兄妹二人に、ハッサンの顎はかっくーんと落ちていた。違う。こいつら、俺が知ってる兄妹と違う。
 そんな会話ののちに、ターニアはローグを(まだ抱きしめられながら)見上げ、微笑んでみせる。
「活躍してる噂は聞いてるよ。お兄ちゃん、レイドック城の兵士さんになっていろんな仕事をこなしてるんでしょう?」
「ああ、まだ大したことはしてないけどな。でも、今回少し大きな仕事を任されて……しばらく、ターニアと会えなくなってしまうと思うんだ」
「……そう、なんだ……」
 あからさまにしゅんとするターニアに、ローグはぽんぽんと優しく頭を叩いた。
「そんなに落ち込まないでくれ。お前が心配で、旅に出れなくなっちゃうだろう?」
「あ! ご、ごめんね……旅に出ること勧めたの、私なのに……」
 へぇ、とこっそりハッサンは一人うんうんとうなずく。ローグが旅に出たきっかけって、この子の言葉なのか。そういや、ローグってなんでレイドック城の兵士になったんだ? そこらへん、全然聞いてないけど。
「そんなこと気にするな。それに、落ち込むお前を見てると、心配で可哀想でいてもたってもいられなくもなるけど、俺はこんな可愛い妹にこんなに心配されてるんだ、って気合も入るしな。なにがなんでも帰ってきて、お前を安心させてやらなくちゃ、って」
「うん……絶対に帰ってきて。私、いつまでも待ってるから」
「そんなに長く待たせはしないさ。旅が一段落したら、必ず戻ってくるから」
「うん……待ってる」
 そうローグを見上げて微笑むターニアに、ローグも微笑み返すとすいっと顔を近づけ――
「え、おい……!」
 目を見開いて慌てるハッサンを完全に無視して、ちゅっ、と額にキスを落とした。
「…………おい…………」
 うわぁ、と正直かなり引きながらハッサンは声をかける。いや、普通といえば一応普通の範疇に入る行為なのかもしれないが、でもやっぱり兄妹としてその行動はどうなのだろうか。ちょっとばかしまずいんじゃないだろうか。しかも人前で堂々とというのもどうなのだろうか。しかもキスしたあとにお互い幸せそうに笑みを交わすというのもどうなのだろうか。
 そんなハッサンの表情に気づいているのかいないのか、ローグが腕を放すとターニアはハッサンの方に向き直り深々と頭を下げてくる。
「そこにいるのは、お兄ちゃんのお友達ね。妹のターニアです。お兄ちゃんがいつもお世話になっています」
 そして顔を上げてにっこりと微笑む。その笑顔は優しく柔らかで開放的で、こちらを歓迎してくれている気持ちが伝わってきたので、基本的に単純なハッサンはなんだいい子じゃないかと機嫌がよくなって笑顔になった。
「俺はハッサンだ、よろしくな。しかし……へえ、ローグにこんな妹がいるとは思わなかったな」
「どういう意味だ、ハッサン」
「別に、そのまんまの意味だぜ」
 にやにやと笑むハッサンにローグはターニアの後ろから鋭い視線を投げかけたが、ターニアの前だからだろう、それ以上追及はしてこなかった。むしろ鉄壁のように穏やかな表情を崩さずにいるところへ、ターニアが振り返って笑顔で言う。
「そうだ、お兄ちゃん、今日は泊まっていけるの?」
 それに即優しい笑顔を浮かべて答えるローグ。
「ああ、もちろん」
「よかった……えへへ、じゃあごちそうたくさん作らなきゃね! ハッサンさんも、泊まってくださるんですよね?」
「え、俺も? ……いいのか?」
 ローグとターニアを半分半分に見て訊ねると、ローグは穏やかな表情で答える。
「この村には宿なんてものはないからな。旅人なんてほとんど立ち寄らない場所だし。他に泊まれるところといったらせいぜい厩くらいだな。うちは、少なくとも厩よりはマシなベッドを貸してやれるぞ」
「や……けど、余分なベッドなんてあるのか?」
「はい、大丈夫です。私たちのお父さんとお母さんが寝てたベッドが……屋根裏部屋になっちゃうんですけど、それでもよければ、なんですけど。昨日お布団干したばっかりだからきっと気持ちいいと思いますよ、どうですか?」
「んー……それじゃ、お言葉に甘えて泊まらせてもらうかな。ありがとな、ターニアちゃん」
 にかっ、とハッサンが笑うと、ターニアもにこっと笑みを返してくれた。
「どういたしまして、気にしないでください。ちょっと待っててくださいね、すぐご飯の支度しますから!」
「ゆっくりでいいぞ、まだ陽も暮れてないんだし」
 そんなローグの言葉にも笑顔を返して、ターニアは台所へと向かう。その背中を見つめてふぅ、とため息をつくローグに、ハッサンは近寄ってニヤニヤしながら肘で腹をつついた。
「可愛い妹じゃないか。ローグには似てないけどな」
 予想通り、ぎろっとばかりに苛烈な視線で睨まれる。うひぇ、おっかねぇ、と首を縮めつつも、言わなければならないと思ったことを告げた。
「お前たちの親父さんとお袋さん、亡くなってたんだな」
「……ああ」
「お前が妹の前でやたら格好を取り繕うのも、それが理由か?」
「別に……そういうわけじゃない」
「そうか? ならどうしてそう演技するんだよ。たった二人の家族なんだろ、それなのに相手のこと騙しとくのって、可哀想じゃないか?」
 ハッサンの言葉にぎっ、とローグはさらに視線を強めたが、すぐにふいと視線を逸らして肩をすくめた。
「騙してるわけじゃない。……あれも俺の一部には違いない」
「けど素ってわけじゃないだろ」
「誰にも彼にも素を見せるのが人間として正しい行動だとは思わない、ってだけだ。家族だからこそ見せずにおきたい部分も、見てほしい部分もある」
「けどよ……」
 あんなに懐いてる子(しかも血の繋がった家族)に対して外面を取り繕ってみせる、なんて状態がどうにも受け容れにくかったハッサンは、ぼろかすになるまで反論されるのを覚悟で口を開いたが、ローグは珍しくもあっさりと、しかしきっぱりと言う。
「これは、ターニアと俺の問題だ。……言いたいこともあるだろうが、ターニアの前で心配をかけさせるようなことを抜かしたら殺すぞ」
 こちらを眇めるように見て、そう言った時のローグの表情にハッサンはわずかに気圧された。なんというか、ひどく珍しいことに、その表情はどうにも気弱げに見えたのだ。
 顔が形作っている表情自体はいつも通りの傲慢で高飛車なものなのだが、今はそれが不思議に寂しそうというか悲しそうというか切なそうというか、とにかく初めて見るような(それどころかハッサンがこいつが浮かべるなんて考えたこともなかったような)暗い、苦しげな表情に感じられたので、つい勢いを失い、こう言ってしまった。
「……まぁ、お前がそこまで言うなら言いはしないけどよ……」
「賢明だな。長生きの秘訣はよけいなことに首を突っ込まないところだ、せいぜい頑張って長生きしろよ」
「……あんま、無理すんなよ。どういう理由があるのかは知らねえが、相談役くらいにはなってやれるからさ」
 そう言うとローグは全力で顔をしかめ、ふんと鼻を鳴らしてみせた。
「貴様なんぞに相談するまで落ちぶれたら俺も終わりだな。そこまでいったらいっそ潔く割腹する方が世のため人のためって気がするぜ」
「お前なぁ……命をほいほい捨てるようなことを言うんじゃねぇよ。冗談でも怒るぞ」
「誰が命を捨てるなんぞと言った。俺はホイミが使えるんだぞ、腹を切ろうが割ろうが呪文を唱えられさえすりゃ治せる。単に命懸けで自罰的行為をしようってだけだ」
「だけってな……」
 ハッサンは眉を寄せ、ため息をついた。こいつ、本当にどこまで本気なんだか。ハッサンとしては一応本気で言ったのだが、こいつにとってはそこまで嫌がるようなことなのだろうか。
 ま、それでもこいつから離れる気は全然しないけど、と肩をすくめる。なぜなのか自分でもはっきりわかっているわけではないのだが、本当に自分の扱いはぞんざいだし偉そうだしいちいち取り扱いが面倒くさい男だというのに、ローグと別れて一人で旅をしようという気は全然起きなかった。
「はい、お兄ちゃん、ハッサンさん、できましたよー! ロールキャベツとオムレツ、それとミネストローネ! あとソーセージとキャベツ炒めてパンケーキ焼いたの。まだまだあるからどんどんお代わりしてね!」
「お、うまそうだな! ターニアちゃんは料理が得意なんだな」
「当たり前だ、ターニアは料理だけじゃなく裁縫も得意なんだぞ。この村の名産の絹織物だってきれいに織るし畑だって上手に耕すし」
「もう、お兄ちゃんったら……そういうこと初めて会う人の前で言わないでよ、恥ずかしい……」
「あ、ごめんな、ターニア。ついつい自慢の妹のいいところを教えてやりたいって気持ちに勝てなくて」
「う〜〜……もうっ」
 そんな調子で、食事は和やかに終わった。ターニアは片付けに立ち、ローグも当然のようにそれを手伝う。ハッサンもなにか手伝おうかと思ったのだが、「お客さんなんだから座っててください」と押し留められた。
 しばらく洗い物をする二人の背中を黙って見ていたが、やがてじっとしているのに耐えられなくなり、ひょいと立ち上がって声をかける。
「俺、腹ごなしに散歩してくるわ」
「あ、はーい」
「寝る時間までには戻ってこいよ。お前のベッドは屋根裏部屋だからな」
「あいよ」
 言ってローグたちの家を出て、歩き出す。来る時は気づかなかったが、この家の周囲にはけっこうな数の畑、というか家庭菜園のようなものが作られていた。野菜に果物、根菜類と、少なくとも数人分を養うに足るだろう量の作物が植えられている。
「これ、もしかしてターニアちゃん一人でやってるのか……? いくらなんでも大変だろうに」
 いや、もしかしたら他のところから手伝いが来るのかもしれない。いくら村人同士が全員知り合いのような村だからといって、家に少女一人しかいないというのは不安だろうし、寂しかろう。
 しかし、本当になんでローグは兵士を志したのだろう。顔を合わせる時に猫をかぶりまくってはいるが、ローグがターニアを可愛がっているというのは否が応でも伝わってくる。普通なら、あんな年頃の女の子を一人残して旅立つなんてできないだろうに。
 それがやっぱりあいつの普通じゃないところなのかな、と思いつつぶらぶらと村の中を歩く――と、はっとあることに気づいて足を止めた。
「やべぇ……道、覚えてねえ」
 特に目的地があったわけでもないので、足の向くまま気の向くままに歩いていたらどこだかわからない場所に来てしまった。ライフコッドはたいていの場所から崖下に大きく広がる大森林が見えたので、どっちを向いてもそれが見えないここは村の中でもどん詰まりに近い場所なのだろうが、今日はずっとローグについて歩いてきただけなのでそういう場所が村のどの辺に位置するか覚えていない。
 ちくしょう、誰か人通りがからないかな、と眉を寄せつつ歩を進める――と、人の話し声を聞いて反射的に木立の中に身をひそめた。
 ひそめてからおいおいなに隠れてるんだ普通に声をかけて場所を聞くべきだろう、と苦笑して立ち上がりかける――と、その声のひとつがローグのものであることに気づき、反射的にまた動きを止めて様子をうかがう。
 崖と崖の間のどん詰まり。そこでローグが金髪の男と話している。のはいいのだが、ちょっと見ただけでも、なにやら雰囲気が不穏なのがわかった。
「……俺が『ターニアのことを頼む』なんぞといつ言った? あ?」
「……いや、その……なんつーかその、やっぱ俺ターニアのこと好きだし……」
 すぱぁん。ローグが素早く話している相手の足を払い、転ばせる。そしてひょいと足を相手の腹の辺りに乗せ、なんというかやたら破落戸っぽい顔と声で言った。
「俺がいつ、ターニアを、呼び捨てしていいっつった、あぁ? お前いつからそんなに偉くなったんだよ、オイ」
「や、だってその、それはターニアと俺の間のことで……」
「間≠セぁ? いつお前がターニアと間になんかあるよーな関係になったんだよボケが。つーかお前風情がターニアと関係持てるとか思い上がってんじゃねぇぞコラァ!」
 ぐりっ、と腹の辺りに乗せた足をぐりっ、とえぐりこむように動かす。転ばされた相手がひぃっ、と悲鳴を上げた。
 ……つまりこれは、ヤキ入れ≠ニいうやつではないか。しかも妹をネタにした。よく見てみれば転ばされている相手は酒場にいたランドとかいう奴だ。そういえばローグはこいつを呼び出していたような……もしやわざわざ呼び出してヤキ入れしているわけか?
 うわぁ、と思わずハッサンは心情的に引いてしまったが、いやいや引いている場合じゃない、と首を振った。曲がりなりにも仲間がそんなことをしている場面に出くわして、黙って見ているという法はないだろう(どちらも見知らぬ他人でも止めに入ったろうが、それはそれだ)。腕ずくでも止めねば、と一歩を踏み出しかけ――
「ひぃんっ!」
 ランドの上げた声に、思わず足を止めた。
 もしや、あれは、自分の聞き違えでなければ――嬌声、のようなものではなかったか?
「ん? なに鳴いてんだお前は、あぁ? お前もしかして踏まれて感じてんのか、あ?」
「っ……そ、んなこと……」
「だったらなんだよこの勃起チンコはよ。ズボンの下でビンビンに固くなってんじゃねぇか、えぇ? この変態が。踏まれて感じたんだろうが、正直に言ってみろよ」
「そ、んな……俺は、別に」
「ふん、ならこれで終わりだ。今後俺の目につくところに近寄るんじゃねぇぞ」
「やっ、待っ……!」
「どうしたよ。お前は変態じゃないんだろ? ここをこう、踏まれても……」
「あひっ!」
「こう、ぐりぐり踏みつけられても」
「あっ、やっ、ひぃんっ……!」
「感じねぇんだろ? だったら俺に用はねぇだろうが」
「やっ、待っ……」
「あぁ? 人にもの頼む時はそれなりの言い方ってのがあんだろうが」
「……待って、ください……」
「……ふん。待って、それからどうしろって?」
「ふ……踏んで、ください……!」
「はぁ? どこを、だ。言ってみろ」
「俺のっ……股んとこ……」
「股んとこ、だぁ? んじゃあここだかどこだかわかんねぇだろうが、はっきり言ってみろオラァッ!」
「ひっ、ぐっ、ひぎっ! おっ……俺の、チンコ、踏んでくださいっ……!」
「誰のチンコをどう踏んでほしいんだよ、ちゃんとお願いしてみろこの変態が!」
「おっ、俺のっ、ランドのっ、ズボンの上からチンコ踏まれて勃起させる変態ランドのやらしいチンコを、上からぐにぐにって揉むように踏んで、それから玉ぐりぐりって痛めつけて、最後に下から上へ踏み抜き上げてくださいっ……!」
「はっ、よくまぁんな恥ずかしい台詞言えるよなこの最低のド変態が!」
「………………」
 ハッサンはしばし呆然とその光景を眺めていたが、やがて慌ててその場を離れた。よくはわからないが、ランドは喜んでいるみたいだし、つまりこれはその、そういうプレイ≠ネのだろう。ならばのぞくような真似をするのは人の道に反する。
 ……しかし、だが、なんというか。人のそういう趣味をどうこう言う気はないが、ローグはそっちの趣味だったのだろうか。いや、自分のようなごつくてでかい男にまで手を出すことはないだろうが、今度顔を合わせた時にどんな顔をすればいいのかと考えると、少しばかり複雑な気分になる。
 あのランドという男はローグとそういう仲なのだろうか。だがターニアが好きとかなんとか言っていたような……カモフラージュなのだろうか? どちらにしろ、ターニアに言えることじゃないだろうし、どう考えても泥沼な話のような……
 などとぐるぐる考えながら真っ暗な道なき道を歩く――と、ふいにぽんと肩を叩かれて思わず悲鳴を上げた。
「どわぁっ! ……って、ローグっ!?」
「でかい声を上げるなこのうすらデカ。近所迷惑だろうが」
 後ろから手を伸ばして肩を叩いておきながら、そういつものごとく偉そうに言うのは紛うことなき自分の相棒、ローグだった。ふんと鼻を鳴らして、じろりとこちらを睨みつけてくる。
「お前はガキか、いい年こいて人に手間をかけさせるんじゃねぇ。方向感覚に自信がねぇなら知らない場所で暗い時間にうろちょろするなってんだ」
「え……もしかして、探してくれたのか?」
「当たり前だ。せっかくターニアがベッドを用意してるんだぞ、それを無駄にするなんぞ許されると思ってんのか」
「あー、そーいう理由でか……」
「それだけじゃねぇぞ。もう寝る時間だってのに帰ってこなかったらターニアが心配するだろうが。貴様はターニアを泣かせる気か、殺すぞボケ」
「あー……はいはい悪かった悪かった。お前ほんっとに妹大好きなのな」
「当たり前だろうが。あんな可愛く優しく気立てがよくて将来の美しさの萌芽を匂わせる上に清らかで誰にでも当然のように心遣いをすることができる妹を嫌いになれるとでも思ってんのか、あぁ?」
「や……別に嫌いになれとは言ってねぇけどさ。実際、いい子だと思うし」
「ならぐだぐだしょうもないことを抜かすな。行くぞ」
「へいへい……」
 やれやれ、とため息をつきつつもハッサンは内心ほっとしていた。一瞬驚いてしまったが、この様子ならどうやら自分が見たことは気づかれていないだろう――
「で、お前がさっきのぞき見てた光景のことだけどな」
 ――と胸を撫で下ろしかけた瞬間にさらっと言われ、思わず噴き出した。
「ぶはっ! えほっ……って、おま……気づいてたのかよっ!?」
「当たり前だろうが、お前みたいなデカブツの気配に気づかないとでも思ってんのかタコ。お前がどんだけ窃視の興奮に我を忘れてたかは知らんがな」
「こ、興奮なんぞしてねぇっつの!」
「一応念を押しておくが、さっき見たものを言いふらすのはやめておけよ」
 む、と唇を尖らせてムッとしたことを示す。自分がそこまで軽薄な奴だと思われているなんて、心外もいいところだ。
「俺がそんなことする奴に見えるのかよ」
「お前の外見がどんな風に見えるのかはさておき。ランドが俺に調教されてたことが村に知れ渡るといろいろと面倒だからな」
「いや、そりゃ面倒だろうけどさ……」
「今のところ他に十三人ほど並行して調教してる奴がいるからな。全員他の奴らの存在に薄々は気づいてるだろうが、中にはあからさまにされると嫉妬しそうな奴らもいるし」
 ぶふぉ。ハッサンはもう一度噴いた。
「じゅっ、じゅ、じゅうさんにん、って……お前、それじゃ……全員で十四人、かよ!? こんな小さな村で!? お互いにバレてねぇのかよ!?」
「俺はそんなヘマをするほど頭は悪くない」
「……えーと、一応聞いとくけど。そいつら、全員、男……?」
 おそるおそる訊ねたハッサンに、ふんとローグは鼻を鳴らしてみせた。
「心配すんな、素人娘にゃ手ぇ出してねーよ。女は男と違ってヤった跡が残るからな、最初は」
「そ、そーいう問題じゃねーだろ!?」
「ま、どちらにしろ。そもそもそいつらは全員調教されたい奴らだからな、俺の機嫌を損ねてもし調教してくれなくなったらと考えるくらいの頭はあるだろうから、自分からバラしたりはしねぇだろうよ」
 ぶほぉ。ハッサンはさらに噴いた。
「ちょ、ちょーきょー、されたい、奴ら……?」
「あぁ? わかってなかったのか、お前。俺は調教されたい奴らにしか手を出してねぇよ。調教されたい奴らに俺のテクニックで満足を味わわせてやる、ま、言ってみりゃボランティアだな」
「ぼ、ぼ、ボランティアぁ!?」
「金ももらわずにご奉仕してんだからボランティアだろうが」
「いやいやいやいや、いくらなんでもそりゃ……なんつーか……倫理的にまずいだろ!?」
「ほう。どこがだ?」
「どこがって……十四人も一緒にその、なんつんだ、いかがわしい関係を結ぶってのは……」
 は、とローグは息をつき、ごくあっさりとした口調で言ってのける。
「いかがわしいもくそもあるか。言っただろうが調教されたい奴、って。こんな辺鄙な山奥じゃ味わえないような、したいと言おうもんなら村八分にされちまうようなタイプのプレイに対する欲望を満足させてやってんだよ、俺は。そんな趣味をあからさまにして女房やら夫やら子供やらを失うより、よほどマシな選択だろうが」
「う……そ、それは……」
 そう言われるとそうかもしれないと思えてきてしまう。だがこのまま納得してしまっては良心が痛むような気がして、悩む頭をぶんぶんと振って必死に考え、訊ねた。
「け、けどよ、あのランドって奴はターニアちゃんが好きとか言ってたじゃねぇか。あれとかも嘘だってのか?」
「わかってねぇな。嘘じゃあねぇだろうよ。理性や感情で好きだと思う奴は俺の調教してる奴らもたいてい他にいる。けど、それはそれとして欲望を、欲情を解き放ちたいって情動は別にあるんだよ。男は特にそういう傾向が強いけどな」
「そ……そういうもんか?」
「そういうもんだ。……ま、俺がランドを特に念入りにいじめてやってるのはうちのターニアに馴れ馴れしく近づくからだけどな」
 ぶはっ。またもハッサンは噴いた。
「さっきまでと言ってることが全然違うじゃねーかっ!?」
「当たり前だ。俺が村人の何人かを調教してやってるのはボランティア、妹に近づく奴をいじめるのは兄として当然の役目。全然別の話だろうが」
「そーいう問題じゃなくてだなぁ……!」
 怒鳴りかけて、はぁ、とハッサンは思わず息をついた。自分の頭ではこれ以上突っ込んだところで煙に巻かれるだけだと気づいたのだ。
「お前、なんつーか、前から思ってたけど……んっとに、なに考えてんのかわかんねぇ奴だな」
 その言葉に、ローグは軽く肩をすくめてあっさりと言った。
「当然だ。お前なんぞに俺の考えてることを見抜かれてたまるか」
「……ったく」
 はぁ、とため息をついてのろのろとローグのあとについて歩く。別に身の危険を感じるわけではないが(自分なんぞに手を出すほどローグも悪食ではないだろうし)、これからの旅の前途多難さをさらに増すようなものを見てしまった気がする。
 それでも、ローグと別れようという気は、ハッサンにはさらさら起こらなかったのだが。

 そんなことがありながらも、ローグとハッサンはファルシオンと連れ立って旅に出た。
 旅の当初は順調だった。ターニアに送り出され、ライフコッドの教会でお祈りをしてから、レイドックにルーラで飛んできて、北東の関所を目指す。そこからさらに北東の岬の小屋で休息を取ってから、その南にある小屋の親父からダーマの神殿とやらの情報を得て、とりあえずそこを調べてみようと東へ進んで川底を抜ける洞窟へ。
 その間だけでもそれなりの距離があり、間でたびたび野営しなければならなかったが、馬車があるおかげで水も食料も十分用意できていたし、出てくる魔物もローグがブーメランで薙ぎ払ったあとにハッサンが一撃すれば片付く程度の魔物ばかりだった。さして傷も負わず、苦労もせず、楽な気分で進むことができていたのだ。
 途中の民家で、旅の武闘家の自分が大工仕事をやり出すと勝手に身体が動いてしまうという格好のつかないところも見せてしまったが、ローグは「しょーもねぇ理由で引け目感じてんじゃねぇ」といつものごとく偉そうに、このデリケートな胸の内をわかろうともしやがらねぇと少しばかりムッとするような口調ではあったが、まぁ励ましてくれてるんだろうというようなことを言ってくれたし。
 ……そううまくいかなくなったのは洞窟に入ってからだった。洞窟内の魔物はこれまでの魔物と比べても明らかに強さが一段階上で、先頭に立って戦うローグのみならず、ハッサンも何度も攻撃され傷ついた。
 傷がある程度深くなればローグは素早くホイミをかけてくれたものの、それでも与えられる痛みは体力を消耗させる。のみならずどうやら呪文というものも無制限に使えるものではないらしく、使うたびにローグが深く息をついているのを何度も見た。できるだけ頼らないようにしようと思いつつも、次々押し寄せる強い魔物たちの前ではそうそう簡単にいくわけがない。
 洞窟を抜け、川を越えたあとも苦労は続いた、というか増した。なにせここから先は本当に当てとなる話がほとんどないわけで、果てしなく広がる草原と森のどっちに行けばいいものやらまるでわからないわけで、「少しでも正確な地図が必要だ」というローグの主張はしごくもっともなわけであるからローグの言葉に従いあっちに行ったりこっちに行ったりしなければならない。そしてその間も強い魔物は次々に出てきてこちらに攻撃を食らわせてくる。火を焚いて食事をとっている間ですらいつ魔物が襲ってくるかもしれないという心構えを持っていなければならない、とまさに気の休まる暇のない日々が続いていたのだ。
 そうこうしているうちに、気がついたらたっぷり買い込んでいたはずの保存食が残りわずかになってしまっていて。水は幸い何度も水場を見つけられたので困りはしなかったが、森を歩いていても獣よりも魔物と会うことの方が多いような状況ではろくに狩りもできず。
 結果、腹を減らした自分たちは、一切れの干し肉を奪い合って争うことになったのだった。
 うおおおお、とお互い全力で取っ組み合い、勝ったのはハッサンの方だった。レイドックを出てからの戦いの中で、ハッサンの力は劇的に高まっており(そりゃ命懸けの戦いを繰り返せば力も強くはなるだろうがそれを考えに入れても桁違いなほどに)、ローグと腕相撲をしても勝てるほどになっていたのだ。それに武闘家としての格闘技術を加えれば、取っ組み合いで負ける要素は一つとしてない。
「うおっしゃああ、勝ったぜえぇっ!」
「は……こ、の、脳髄まで筋肉が……」
「負けたくせに偉そうなこと言ってんじゃねーよっ。いっただっきまー……」
 と勢いよく食いかけて、ふと、ぜぇはぁと荒い息をつきつつこちらを睨んでいるローグの表情に気づいた。いや睨んでいるのは確かなのだが、こちらがローグの方を見て怪訝そうな顔をしたせいか即座にすさまじく不機嫌な顔になって「んっだよコラ」とぎろぉりと擬音が出そうな強さで睨みつけてきたけれども、なんだか、さっきは。ちょっと、ほっとしたような顔をしていたような………?
 ハッサンは少し考え、自慢の腕力でぶちぃっと干し肉を半分に引き裂き、ぽいと欠片の片方をローグに投げた。ローグは珍しくも一瞬ぽかんとした顔をして、それからむっと顔をしかめ、ぎぎっと迫力のある眼力を全開にしてこちらを睨んでくる。
「てめぇ……ふざけてんのか、あぁ? まさか曲がりなりにも勝負つけといて情けかけてやるとか抜かす気じゃねぇだろうなぁ?」
「別にー。単なる勝者の気まぐれだって。ほれ、冷めねぇうちにとっとと食えよ。小さくしちまったんだからすぐ冷めちまうだろ、分けたからにゃー俺ぁそっちの分食う気は全然ねーからなー」
「…………」
 ローグはぎゅっと眉間に皺を寄せ、不機嫌を絵に描いたような苛立たしげな顔になったが、結局「ふん」とだけ鼻を鳴らして焼いた干し肉にかぶりついた。仏頂面で干し肉を何度も噛み締めるその顔からは不機嫌さがばりばりと伝わってくる。
 まぁその理由は情けをかけられたようで腹立たしい、というところなのだろうが。ハッサンはなんとなく、こんなことを思ってしまったのだ。
『ローグの奴、もしかして俺に干し肉を与えるためにわざと負けたふりをしたんじゃないか?』
 もちろん気のせいだろうし、それにもしそれが本当だったとしても相棒としてはなにしょうもない気使ってやがると一発かましてやるのが正しい姿なのだろうが。そんな気になれないのだから仕方がない。
 それどころかハッサンはなんとなく、しょーがねぇ奴だなぁと、ローグの水臭さに腹を立てるのと同時に苦笑しつつも許容してやりたいような、こいつなりの不器用な心遣いを受け止めてやりたいような気持ちになっていた。なんでなのか、理由はよくわからないのだが。
 ローグと会ってからはそんな気持ちになることばかりだが、まぁ別に嫌な気はしないのだからいいだろう。

「うわっ! なんだこれは! 本当にこんな大きな穴があいてるのかよ!?」
「やかましい。少しは落ち着け」
「落ち着けるわけねぇだろこんなもん見てんのに!」
「魔物が寄ってきても知らねぇぞ」
 言われて慌てて口を塞いだが、ハッサンにしてみれば思わず仰天して叫ぶのも当然なのだ。なにせ、草原と森と毒の沼地に囲まれた真ん中に、巨大な穴が開いているのだから。
 それもそんじょそこらの大きさではない。城やら街やらが一個丸ごと入ってしまいそうなほどの大きさなのだ。そんなものがダーマ神殿に向かい途切れつつも続いていた道を歩いていたらいきなり現れたのだから、はっきり言って仰天しない方がおかしい。
 こわごわ近づいてのぞいてみて、さらに仰天した。
「穴の下にも大地が見えるぜ……。ありゃいったいどこなんだ?」
 思わず抑えた声を漏らす。なんだか神話の世界にでも入り込んでしまったような気分だった。
 巨大な穴をのぞいてみると、その下には――はるか下方には、大地が見えた。今自分たちの立っているこの大地をはるか上方から見てでもいるかのように、森が、海が、町や村がある大地がどこまでも広がっていたのだ。
 これは夢か幻か、なにか魔物に化かされてでもいるのか。そう思いつつ下をのぞきこんでみるものの、その圧倒的な存在感はとても幻のようには思えない。
「うっへぇ。穴をのぞくと頭がクラクラするぜ……」
「じゃあのぞかなきゃいいだろが。高いところが怖いならそのくらいのこと学習しとけ」
「や、別にそういうわけじゃねぇけど、これはそういうレベルの話じゃねぇだろ……落っこちたら大変だ、ローグ気をつけろよ!」
「ふん」
 軽く鼻を鳴らして、ローグはすたすたと足を動かす。まるで行く先がわかっているかのように、巨大な穴のふちに沿って歩いていく。嫌な予感がして、思わず訊ねた。
「ローグ、どうするつもりなんだ? まさか、ここから……」
 嫌な予感とまさかなと打ち消す気持ち、さらに口にしてしまったらそれが真実になってしまいそうな気持ちがまぜこぜになって途中で口の中に消えた言葉を、ローグはしっかりと捉え、くるりとこちらを向いてにやりと笑ってみせた。
「お、珍しく察しがいいじゃねぇか。そういうこと≠セよ」
 ざっ、と思わず全身から血の気が引いた。慌てて駆け寄り、身振り手振りを駆使して説得しようとする。
「おいおいおいちょっと待てよ、なに考えてんだお前? 見てみろよ、下の大地とどんだけ離れてるか見えるだろ? こんなとこから落ちたらプチッ、だぞプチッ。虫みてーにあっさり潰れちまうぞ? 死ぬ気かお前?」
「知ってるか? 蟻みたいな小さな虫を高いところから落としても、死なずに無事着地するんだとさ。体重による加速よりも空気抵抗の方が大きいせいで」
「へー、そうなのかー、すげぇなぁ……じゃねぇよなんの話してんだよくうきていこうってなんだよ! そういう問題じゃねぇだろよ!」
「臆病風に吹かれたんなら別にここで別れてもいいぞ。餞別にキメラの翼をやるからレイドックまで戻ればいい」
「な……! 臆病風とかそういう話じゃなくてだな! こんなとこから落ちたら」
「死なない」
 こちらを見ずに、きっぱり言い切ったローグに、ハッサンは一瞬絶句した。
「……理由はあとで説明するが、この穴から落ちても死ぬことはない。推測じゃなく、俺はそれを知ってるんだ。だから俺はここから落ちる、他に行く場所もないからな。それが嫌だっていうんなら、さっきも言ったがキメラの翼をやるからどこにでも好きな場所まで戻ればいい」
「…………」
 ハッサンは少しばかり渋い顔をしてそれを聞き、それから仏頂面を作り肩をすくめて言う。
「お前なぁ、そういうこと言うんだったら、『理由はあとで説明するから、ここは俺を信じてついてきてくれ!』ぐらいのこと言ったらどうだよ?」
 その言葉に、ローグははっ、といかにも馬鹿にしたような顔になって言った。
「誰が言うか。そもそも別に俺はお前についてきてほしいなんて一言も言った覚えぁねーっつーんだよ」
「おっまえなぁ……」
 がりがりと頭をかいてから、ハッサンは苦笑した。本当に、この頑固野郎は。
「ようし、わかった! 俺も男だ。お前を信じてどこまでもついていってやろうじゃねぇか!」
「別に信じてほしいなんて俺は一言も言ってねぇぞ」
「バーカ。細かいこと気にしてんじゃねぇよ、俺がついてくっつってんだからお前はありがとよっつって連れてきゃあいいんだよ! ったくお前は男同士の暗黙の了解ってのがわかってねぇなぁ」
「ぶっちゃけそんなもんわかろうって気すら起こらねぇよ」
 憎まれ口を叩きながらずかずかと歩くローグにさらに内心苦笑する。まったくこいつは、いつものことながら可愛くない奴だ。
 だが気のせいかもしれないが、耳の先がほんのり赤いような気がする。普段より妙に早口だった気がする。口元がわずかに笑んでいたような気がする。
 どれも気のせい≠ナ片付けられるような話だが、ハッサンは勝手にそれらをローグなりのサインと取ってしまうことにした。どちらにせよついていこうという気持ちには変わりがないのだから気分のいい方がいいに決まってるし、なによりハッサンの本能はそれらがローグの本心を表していると感じたのだからもうぐだぐだ言ってもしょうがない。
 穴のふち、一歩踏み出せば落っこちるという状況で、平然とした顔のローグと並んで立つ。もう一度穴をのぞきこみ、思わず背筋に悪寒を走らせるが、ローグは平然とした顔を変えなかった。
「怖いっつーならいつでも逃げ出してかまわねぇぞ」
「逃げねぇっつってんだろ。ったくお前はいちいちすーぐ気弱になんだからなぁ」
「ぁ? んだコラ、今なんつった、ざけんなよてめぇ一回シメんぞマジで」
「へいへい、悪かった悪かった……つーかな、今から俺ら、この穴から飛び降りるんだろ? ぐだぐだ言い争いしてる時間、もったいなくねーか」
「……チッ。脳味噌筋肉のくせして無駄な知恵つけやがって」
「脳味噌筋肉って、お前なぁ、いい加減にしねぇと俺も――」
 軽口を叩きかけて、差し出された手にハッサンはぽかんと口を開けた。ローグが、苦虫を噛み潰したような仏頂面ではあるが、自分に手を差し出している。
「……落ちる時に万一別れ別れになりでもしたら合流するのが面倒だろうが。そのくらいのことてめぇもわかんだろ、だったらぐだぐだ言わねぇでとっとと手ぇ握れ」
「や、別にぐだぐだ言う気はねぇけどよ……」
 ただ驚いただけだ。ローグが、この俺様野郎が、ちゃんとした理由はあるにせよまるで自分に頼るようにも見える真似をしてくるとは思わなくて。
 顔はいつも通りの仏頂面。そのくせ偉そうで、高飛車な雰囲気を見事にまとわせている。こいつの素の顔、妹に対してすら発揮される鉄壁の外面の下の顔。黒檀の瞳は苛烈なまでに鋭く、真正面からこちらを睨んでいる。表情は苛立たしげで、地位のある人間が下の者に見せるようないかにもこちらを軽んじているような形を作り、耳の先はごくごくわずかではあるけれどうっすらと赤く――
 と、そこまで観察してハッサンは吹き出した。ローグにさらに強い視線でぎろりと睨まれるが、かまわずくっくっと笑いながらひょいと手を伸ばし、ローグの掌を軽く握る。
「お前って、ほんっとに素直じゃねぇなぁ」
「は? なに抜かしてやがんだこのナスビ頭」
「力を貸してほしいなら力になってくれって言やあいいのによ」
「馬鹿かお前。妄想を人に押しつけて行動するのは犯罪だぞ」
「へいへい……ま、心ん中でこっそり思ってるだけならいいだろ?」
「……ふん、俺はそこまで口出しするほど暇じゃねぇよ。心の中で妄想膨らませるなんぞ人としてしょーもなさすぎる趣味だとは思うがな」
 吐き捨てるように言って穴に向き直る。ハッサンもそれに伴って穴の前に立った。
 まぁ、実際、考えてみればどれもこれも自分のしょうもない妄想には違いない。こちらに頼ってきているのも、垣間見られるように思える不安も、実際には全然見当違いの話で、ローグ自身はそんなことちらりとも考えていないのかもしれない。
 それでも、自分はそれが真実だと感じ、応えたいと思ってしまったのだから、その衝動に従うしかないだろう。自分は考えるより、本能に従って動く方がいい結果をもたらすと、自分で知っているのだから。
 ちろり、とローグの方を見る。ローグも一瞬だがちろりとこちらを見返す。それからローグはふんと鼻を鳴らして、ハッサンはにやりと笑んで。
「行くぞ」
「おうよ」
 それだけ言葉を交わして、どんな高い山から見下ろした時よりもまだ遠く見える大地めがけ、二人一緒に穴に飛び込んだ。

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