子供と魔法

「……つまり、あいつはその場でぐるぐる回転しながら四方を見張って、発見したら近寄ってくるんだな」
 B8F、飛竜の巣の前。いつもの探索メンバーで、飛竜の卵を手に入れるというミッションを果たすべくやってきた今回の探索で得た情報と、これまでの探索での相手の反応から類推した飛竜の行動パターンを告げると、パーティメンバーたちは難しい顔をした。
「確かにそれっぽいけどさ……あいつ、今どっち向いてるかなんてわかんねーじゃん」
「外見はなんか黒い玉にしか見えないもんね」
「まぁな……」
 飛竜――現在の能力ではとても勝てないとあちらこちらから断言されている敵、ワイバーン。その姿はボス敵同様、接触するまでは黒い玉にしか見えなかった。まぁFOEだって接触するまではオレンジや赤の巨大な玉にしか見えないのだからいまさらだが。
 初めてこの巣に入った時は仰天したものだ。こっちはてっきり五層ごとにしかボスは出てこないと思っていたのに、いきなりB8Fで黒玉が出現しているのだから。
 しかも動くし。接触しないようにとそろそろと巣に侵入して中に道がないか探している時に、いきなりずいっと動いてこられた時の恐怖感は筆舌に尽くしがたい。一瞬恐慌状態に陥りかけたほどだ。四方を見て回っているらしいということはわかっても、玉が今どっちを向いているかわからないという状態ではどうしようもない。
 だが、ディックには一応の目算があった。
「これまでのパターンからすると、ワイバーンは右回りに回っていると思われる。つまり最初に巣に入った時に反応がなければ、一定の距離を置きつつ常に右回りで行動していけば大丈夫なはずだ」
「そううまくいくか? 相手がどのくらいの速度で回っているのかもわからんのだぞ」
「そのためにある程度の距離を常に保つ。常に一マス間を空けておけば、相手がどう動こうと即座に戦闘に入ることはない。なら失敗しても糸で戻ってやり直せばいい」
「雑魚敵が出たらどうするの」
「そのために巣に入る前に雑魚とエンカウントして敵を遠ざけておく。一度戦ったあとならこの巣の中ぐらいならエンカウントせずにすむはずだ。別に今回だけで終わらせなきゃならんわけじゃない、が、とりあえずやってみなけりゃ先には進めないぞ」
「……だな。じゃーそーいうことで、いっちょやってみっか!」
 アルバーが笑顔で立ち上がり、セスがふん、と鼻を鳴らして弓を構える。ヴォルクが皮肉っぽい顔で肩をすくめ、最後にセディシュがいつもの無表情というか無感情というかなきょとんとした顔でこっくりうなずいて言った。
「みんな。頑張ろう」
「おう!」
「……はいはい」
「言われんでもわかっている」
「……ああ」
 ディックは真剣な顔でうなずきつつも、心の中ではほとんど歓喜の声を上げていた。ああっ、まともに冒険ができている! と。
 第一層の終わりくらいからセディシュ関連のごたごたで気の休まる時のなかったディックとしては、とりあえず普通に探索ができることがこの上なく嬉しい。街に戻ればまたセディシュのカウンセリング(及びその貞操の守護)に四苦八苦することがわかりきっているとはいえ、全員わだかまりをとりあえず表に出さず探索ができるというだけでも大きな進歩だ。
 アルバーは街では相変わらず毎日のようにセディシュに誘いをかけているが、あの五日間から比較的こっそりとするようにはなったし、誰彼かまわず嫉妬はしなくなったようだし。ヴォルクやエアハルト、スヴェンもあからさまにセディシュを宿に連れ込むのはやめにしたようだ(というかあれだけ仲間たちに誘いをかけられていてよくセディシュの体はもつなとディックはこっそり感心しているのだが)。セスは五日間クエストの間にスヴェンがなにやら話をしてくれたらしく、とりあえず冒険中はセディシュの一件が起きる以前ぐらいには平静な態度を保ってくれている。
 ひとつの仕事に集中できるというのがどれだけありがたいことか、ディックは心の底から実感していた。自分が人としてひとつレベルアップしたような気さえする。五日間クエストの間のことはとりあえず心の棚に上げておくことにして。
 他のパーティメンバーたちもそれなりに経験を積んで成長しているのだろう、迷宮に入ったばかりの頃よりは確実に議論の時間が短くなっている。それは曲がりなりにも今の自分たちはエトリアでも有数の実力派ギルド(と呼ばれる存在)なのだからそうでなくては困るが。
 あと、一マスやらエンカウントやらの言葉が普通に通じるようになったのも進歩といえばいえるかもしれない。改まって説明したわけでもないのだが、ディックがついつい当然のようにそういった言葉を使ってしまうので(そしてその際言ってから言葉の説明をするので)全員そういうものだ、と慣れてきてしまっているようだ。一度雑魚とエンカウントしたらしばらくエンカウントしないとか、地図上で一マス進む、ないし戦闘1ターンごとでなければFOEは動かないとか、そういったこれまではディックだけのものだった知識もそれぞれ普通に使うようになってきている。
 もちろん、ディックと同じものが見れているわけでもないだろうからディックほど十全な感覚ではないにしろ。
 飛竜の巣の入り口前数マスでひたすらいったりきたりして雑魚が寄ってくるのを待ち、出てきた敵をアザステ大爆炎で殲滅。それから顔を見合わせ改めてうなずきあい、ディックたちは飛竜の巣に侵入した。
 気合は充分、体力も十全。自分が不敵な笑みを浮かべているのがわかる。飛竜ごときに負けはしない、と心の中でうそぶいて歩を進めた。
 まぁ実際には戦わないで逃げ回って卵を探すわけなのだが。

「よ、兄さん。ワイバーンの卵を渡しに行った帰りかい?」
 執政院にミッション達成の報告を行い、とりあえず全員で素材の売却をすべくシリカ商店に向かっていると、灰色のぼさぼさ髪を肩の辺りまで伸ばし、口の端に葉っぱを銜えた男が笑顔で声をかけてきた。持っている竪琴、いかにも自由人という雰囲気。おそらくは吟遊詩人だろう。
 ここはベルダ広場でも中心部。時刻は昼下がり。吟遊詩人がいても少しもおかしい場所ではない。
 が、ディックはわずかに警戒心が起こるのを感じた。この吟遊詩人、自分たちが広場に入る前からずっと歌わずにじっと周囲の様子を観察していたように思う。
 それが自分たちに声をかけてきたということは、待ち伏せてまで達したかった目的の対象は自分たちだということだ。
「さぁな」
 とりあえず軽く流して、すたすたと歩き出す。相手の目的がなんであれ、向こうのペースに乗るのは得策ではない。
「おいおいおいおい、そうつれなくすんなよ。今やエトリアでも有数のギルド、フェイタス≠フギルドマスターさん。あんたらにだってそう悪くない話持ってきたんだからさぁ」
「悪くねー話? って、なんだよ」
 お人よしのアルバーはあっさり足を止めて訊ねる。他のメンバーたちもとりあえず興味は引かれたようで立ち止まって話を聞く体勢に入っていた。このお人好しどもが、と舌打ちしたくもなったが、この展開は予想できなかったわけではない。一応ディックも足を止めて、言葉を投げつけた。
「歌にするために俺たちを取材したい、なんぞというんだったら出直してくるんだな。俺たちは特定の吟遊詩人に贔屓はしない主義だ」
「え、いつからそーなったんだ?」
「ていうかそもそもこれが声かけられたの初めてなのに吟遊詩人対策なんて考えないんじゃないのフツーは」
 外野の声に思わずぴきっとこめかみに青筋が立ったが、口に出しては反応しなかった。グダグダな身内の掛け合いというのはディックがもっとも忌避するもののひとつだ。
 幸い灰髪吟遊詩人はそちらには軽く笑みを投げかけただけで済ませ、ディックに向き直りにこにこと言う。
「んー、まー最終的にはそーいうことになるかもしんないけど、今のところはそーいう用事じゃないよ。ま、早い話が、俺を君たちのギルドに入れてくれないかなって話」
「え……」
「えぇっ!?」
 背後の仲間たちが驚きの声を上げる。ディックは眉をわずかに動かしただけでその言葉を受け止め、ふむ、と鼻を鳴らしてみせた。
「理由を聞こうか」
「単純だって。サーガが作りたいだけ。世界樹の迷宮を制覇したギルドのサーガがね」
「おぉ!? なになに、俺ら詩になんの!? すげー!」
 だから黙ってろってのに、とまたぴきりと青筋が立ったが、あくまで表面上は冷静な顔で吟遊詩人を見つめて言う。
「英雄の先物買いにしては遅すぎやしないか。エトリアでも有数ってくらいのギルドになってから持ちかけてくるにしては虫がよすぎる話だと思うが」
「あはは、まーまー、そこはそれ。そー冷たいこと言わないで。そりゃ出遅れ感はあるけどさ、俺もリスク払うわけだからさ、ハンパなギルドに命預けんのはちょっとなーっていろいろ悩んだり考えたりしてたわけよこれでも」
「リスクね……ちゃんと探索に参加する気はあるわけだ?」
「そりゃね。少なくともあんたらにとってなんかの価値のある存在ではいたいって思ってるよ。いやーあははこーゆーこと面と向かって言うと照れるなー」
「……なににやついてんの。バッカみたい」
 セスがぼそりと言ったが、ディックはむしろ好印象を受けた。顔はへらへら笑っているが目の中には冷静な光がある。こいつは自分の言葉の効果を知っていて、あえて自分を軽く見させている、とディックには思えた。大人としての理性を備えている存在だ。
「それにさ、君たちのギルドにはバードがいないだろ。人材的にバードは必要じゃないかなーって思って君らに目ぇつけたってのもあるかな。詩も歌える弓矢も撃てる死んでも蘇らせてくれさえすりゃ文句言わないっ! そーんなお買い得製品が今ならお値段稼ぎの人数割りだけとゆー超特価っ! さーどうだ!」
「……自分のことをお買い得製品とは、あからさまに安い奴だな」
「あーんもーそんなに冷たいこと言わないでくれよう。なっなっ? こーんないい男がギルドに入れてv って頼んでんだからさ、ちょっとくらいはうれしーとか思ってくれてもいーじゃんかぁ」
「いや、別に男の顔がよくても嬉しくねーし。俺らみんな男だし」
「……ていうかその程度の顔でいい男とか言うのとか厚かましいって思わないわけ」
「うっわ、冷たっ! キミたちのその言葉は俺のガラスのハートにぐっさりと突き刺さりましたっ!」
 仲間たちの投げかける言葉にいちいち大げさに応える灰髪吟遊詩人を見つめ、ディックは数秒考えてから訊ねた。
「公平な分け前と、蘇生の保証。それで文句はないか?」
 ディックの言葉に仲間たちは大きく目を見開くが、吟遊詩人はに、と待ってましたと言いたげに口の両端を吊り上げた。
「もちろん!」
「あと、うちのギルドにはいくつかモットーというか、ルールがある。ギルドに入るからにはそれを守ってもらいたい。必要があるなら説明するが?」
「いやいや、いーよ。それが入るのに必要というならきっちり守らせていただきますとも」
「って、おい、ディック! こいつマジでギルド入れる気か?」
「俺としては入ってもらってもいいと思っている。正式に加入するかどうかは全員で相談の上決めることだと思うが」
『…………』
 仲間たちは戸惑ったような沈黙で応えたが、ディックとしては悪い考えではないと思っていた。バードは最終的には絶対必要になる。ディックの育成計画だと序盤は戦力にならないのであえて初期はメンバーに入れなかったのだが、そろそろ稼動させても問題はないだろう。
 それにこの男、案外掘り出し物かもしれない。むろん実際に探索してみなければその真価はわからないが、大人としての理性と判断力、そしてふてぶてしさを持った新人というのは貴重だ。ギルドに冒険者として登録すれば育て方が同じなら能力自体は誰でも同じなわけだし、性格の相性がよければギルドの戦力になるだろう。
「とりあえず……セディ、テント行ってエアハルトとスヴェン連れてきてくれ。俺たちは素材売却したあと金鹿の酒場に向かうから。そこでこいつ……あんた、名前は?」
 に、と吟遊詩人は笑顔を作ってみせる。
「クレイトフ。覚えておいてくれよな」
「ああ。……クレイトフを仲間に加えるかどうか、ギルド会議を行うからな」
「…………」
 セディシュはじ、とディックと、仲間たちと、クレイトフを等分に見比べて、いつも通りの感情の感じられない顔でこっくりとうなずき、くるりと背を向けて走り出した。

 会議の結果、クレイトフは全会一致でギルド参入を認められた。といっても全員が積極的にクレイトフの加入を歓迎したというわけではなく、全員特に反対する理由を見つけられなかった、という方が正しいだろうが。
 アルバーは最初はいまひとつ釈然としない顔をしていたが、決まったあとはいつものにっかり笑顔で「よろしくな!」と言い。ヴォルクはふん、と鼻を鳴らして「決まったことならば、異存はない」と肩をすくめ、エアハルトは眉を寄せたが「反対はしません」とうなずき、セスは「吟遊詩人が戦力になるっていうなら、いいんじゃないの」と難しい顔をしつつ消極的に賛成を示し、スヴェンは「まぁ、いいんじゃないかな」と困った顔をしながらも笑った。
 全員反応がいまひとつ芳しくなかったのは、クレイトフの体中からぷんぷん匂ううさんくささに反応したせいか、でなければこれまでずっと初期メンバーでやってきたのに新しく仲間を入れることに拒否感があったのだろう。構築した人間関係がうまくいっている時に、その中に新たな人間を介在させるのはたいていの人間にとってストレスだ。
 セディシュは、というとどうも読みにくい反応をした。最初から最後までずーっと黙り通しで、意見を聞いてもいつもの無表情で首を振るだけ。「クレイトフをギルドに入れていいのか悪いのかどっちだ?」と直接訊ねてもじーっとこちらとクレイトフを等分に見比べて答えない。が、痺れを切らし「じゃあクレイトフにギルドに加入してもらうってことで、いいな?」と全員に向けて問うと、じっとクレイトフを見つめ、真っ先に「よろしく」と頭を下げたのだ。
 なんなんだ、と思いはしたが、とにかくクレイトフがギルドに加入することは決まった。安らぎの子守唄とホーリーギフトは、早急に獲得するにしくはないスキルだ。特にホーリーギフトは早く習得すればするほど育成効率がよくなる。その膨大な必要SPのせいでクレイトフ自体の戦力度の向上は遅くなるが、第二階層も後半に入った今ぐらいならさほど進みに遅れは出ないだろうと判断した。
 というわけで、ここ数日は探索を進めつつクレイトフをパーティに加えての経験値稼ぎも平行して行っていた。ときおりだがクレイトフを探索隊に組み込むことも行う。最初のレベル上げで属性付与のスキルである各種序曲を習得させることができたので、とりあえずヴォルクを外して潜ることにしていた。
 アザステ大爆炎ができなくなるので多数の敵を相手取るには不利だが、他の人間のレベルが高いこともありさほど苦戦はしない。全員総攻撃で敵を倒し、現在B10Fで探索&レベル上げを進めている(ときおりスヴェンやエアハルトなども交えつつ)。
 もっともクレイトフは後列でずーっと防御しているだけだが。
「なんつーか、奇妙なもんだねー。なんにもしないでただみんなが戦うのぼーっと見てるだけでさくさく強くなっちまうなんてさー」
「防御を忘れるなよ。攻撃が飛んでくることだってあるんだからな」
 ディックは戦闘後の傷の手当をしてやりながら意図的にずれた答えを返した。世界樹の迷宮がどれだけ理不尽かを説いたところでろくなことはない。ディック自身世界樹の迷宮の謎など明確には理解していないのだから。一応、自分がどれだけこの迷宮の秘密を知っていないかということについては、全冒険者中でおそらく自分が一番わかっているだろうと思っているが。
「つかさー、クレイトフにもそろそろ攻撃させてもいいんじゃね? 後列だしさー、防御しなくても一撃死まぬがれるくらいのHPは持ってんじゃねーの?」
「それは確かにそうかもしれんが……攻撃したところでどれだけダメージが入るかは知れてるしな。わずかなダメージのために死ぬリスクを高めるより、ひたすら防御に徹した方が効率がいい。こうして戦ってるのは探索と同時にクレイトフのレベル上げのためもあるんだからな」
「……ま、物の数にもならないくらいのダメージなら死なないことに徹してくれた方が助かるけど。でも、実際敵の数そろそろ洒落にならないことになってんの、わかってる?」
「もちろん」
 ディックは肩をすくめてみせた。確かにB10Fの探索も進み、クレイトフをただ遊ばせている余裕もなくなってきている。なにせ一度に敵が五体出ることも珍しくなくなってきているのだ。ヴォルクと一緒に来た時はアザステ大雷嵐で一発だったのだが。
「だがアルバーのハヤブサ駆けも実用に堪えるレベルになってきてるしな。うまくいけば四体敵を倒せる。そうなれば残りは一体だ。それならセディとお前でなんとかできるだろ?」
「そりゃ、まぁたいていはできるけど……っ、敵!」
 噂をすれば。長い通路を歩いていた自分たちの前に現れたのは軍隊バチの群れだった。一気に五体。ヴォルクがいればアザステ大雷嵐で一瞬だが、この場合はちまちま物理攻撃でなんとかするしかない。
「右端!」
 ディックは叫び、素早く杖を構えて前に出た。その言葉に応じてセスが素早く一番右端の軍隊バチの急所に矢を射込み、続いて飛び出したセディシュがパープルチェインで斬り裂く。相手が行動するより早く右端の軍隊バチは落ちた。
 残りの軍隊バチたちがぶぶぶぶぶ、と羽音を立てながら攻撃態勢に移ろうとした瞬間、しゅばっ、と音がして人影が宙を駆けた。ソードマンのスキルであるハヤブサ駆け。空中を隼のように疾走し、並んだ敵を剣で斬り裂くのだ。
 一度どうやっているのか聞いた時、『えーと、なんか、気合で!』と答えたフェイタスのソードマンアルバーは、四体の敵すべてを斬り裂いて、すたっと着地して得意そうに鼻を親指で擦ってみせた。
「どーだっ! 奥義ハヤブサ駆けの威力っ!」
「うん、すごい」
 こっくりうなずいてぱちぱちと拍手をするセディシュに、アルバーは嬉しそうな顔で歩み寄り、わしゃわしゃとセディシュの髪をかき回した。
「そーかそーか、すごいかー。へっへっへー、そーだろそーだろすげーだろっ」
「うん、すごい」
「……ていうか、あんた何回おんなじこと言うわけ? いい加減ウザいとか思わないわけ?」
「なっ、いっいーじゃんかよちょっとくらいっ! これまでずーっと技はチェイスしか習得できなかったんだからさっ」
「それにしたって限度ってもんがあるでしょ、普通」
「まーまー二人とも、落ち着きなって。いいじゃん、ちょっとくらい調子に乗ったって、実際アルバーのおかげでかなり助かってるわけだしさー」
「そーだろー? セス、お前うるさすぎ」
「っ、あんたみたいにやかましく騒ぐ奴に……」
「セスちゃんも。ホント助かってるよ、セスちゃんとセディシュの素早い連携で攻撃受けないで済むこともしょっちゅうだしさ」
「……っ、別に、あんたのためにやってるわけじゃないし」
 ふむ、とディックは肩をすくめる。クレイトフの存在は日を経るごとにギルドメンバーたちに受け容れられているようだ。いつもへらへらと笑いながら人間関係のツボを押さえた台詞を吐くクレイトフは、人間関係の緩衝材としてしっかり働いてくれる。
 ただ、とディックはちらりとセディシュを見やる。クレイトフとにぎやかに喋っているアルバーとセスをじっと、いつも通りの淡々とした顔で見つめるセディシュを。
 こいつは、なにを考えているのか、クレイトフとまともに言葉を交わしたことさえろくにない。クレイトフはにこにこと挨拶したりしているのだが、それにうなずいたり首を振ったりはするものの、話をしているところは見たことがない。クレイトフをまだ闖入者として考えているのだろうか。別に喧嘩を売ったりするわけではないのだが。
 そんなことを考えつつ足を進める。長い通路の最奥、おそらくは第二階層のボス敵がいるであろう場所。そこに繋がるように扉が配置されている。全員通常の警戒態勢で迷宮の馬鹿でかい扉の前に一歩を踏み出し――
『密林の中、足を進める君たちは森の奥から強い殺気を感じ取る。』
『…これまで感じたこともない何かがこの奥に存在している、このまま奥に進むのは危険なようだ。』
『一度、街に戻って様々な情報を集めた方がよいだろう。』
 頭の中にメッセージが流れると同時に、自動的に足が一歩後退した。
「へ? どしたんだよ、ディック。扉ん中入るんじゃねーの?」
「……どうやらこの扉の中には相当な大物がいるらしい。たぶん、執政院でミッションが出てる密林の魔物とやらいう奴だな。とりあえず、一度街に戻って執政院の依頼を受けてから、全力戦闘モードで中に入ろう」
「は? なんでんなことわかんだよ」
「この地図を見てみろ。もうB10Fの残る空間はこの扉の先ぐらいしかないんだぞ。だったらここにいるとしか考えられないだろう」
「あー、そっかー」
「……でも、一応中のぞいといた方がいいんじゃないの。確認しといた方がよくない? どんな敵かもわかんないわけだしさ」
「いや、扉を開けたら即戦闘という流れになることもありうる。ここは安全策を取っておいた方がいい」
「ふーん……ま、いいけどね」
 肩をすくめるセスに小さく息をつく。別に説明ができないというわけではないのだが、どうしたって長くなるし、信じてもらえるかどうかわからないことを必死になって主張するのはディックのスタイルではない。
 しばらくレベル上げのため戦闘を行ってからアリアドネの糸で脱出し、宿帳に記入してから金鹿の酒場に全員集合する。スノードリフト戦前に行ったのと同じ、ボス戦前のギルド会議だ。
「俺としては、俺、セディ、アルバー、ヴォルク、セスでいきたいと思う。セディが腕を縛って、ヴォルクが大雷嵐でアルバーがチェイス。セスがサジタリウスの矢で押す、というのが一番妥当な戦術だと思うが」
「まぁ、それしかないだろうな」
「チェイスかー……ハヤブサ駆けじゃ駄目なのかよ?」
「ハヤブサ駆けはボス向きのスキルじゃない。攻撃力自体はさして向上しないしな。が、チェイスなら弱点属性を突けばダメージは一気に跳ね上がる」
「そのケルヌンノスってのが雷が弱点かどうかわかんないじゃん」
 セスの発言に、ディックは眉を動かしもせず答えた。
「もちろん雷が効かなかったら他の全体術式に切り替える。が、現在俺が得ている情報では、雷が一番弱点属性な魔物が多くて、耐性を持っている魔物が少ないんだ。弱点が予想できる相手ならともかく、特に理由がないのなら雷から試して悪いことはないだろう?」
「そらま、そーだな。今んとこどれが強いってのないわけだし」
「博識を伸ばしているからな……ディックの勧めで」
「得られるドロップアイテムは大いにこしたことはないだろう。レアドロップにも必要なんだし」
「……まぁ、僕が選ばれるとは最初から思ってませんでしたけどね」
「いいんじゃないかな。俺たちの中で最強のメンバーだよ」
「ま、いいけどね、僕も」
「妥当なところだ」
「全力出すっつったらそのメンバーだよな!」
「クレイトフは?」
 水を向けると、クレイトフはへらへらと肩をすくめてみせた。
「いやー、俺はまだまだレベルも低いしねー。口出せるほど迷宮のこと知らないしさ」
「なに遠慮してんだよー。レベル低いからって遠慮してたらいつまで経っても役に立てないぜ? エアハルトみてーにもっと探索に連れてけーとか俺を活躍させろーとかがんがん言っちまやいーんだよ!」
「……アルバーさんもしかして喧嘩売ってます?」
「え、なんで?」
「こいつが無神経で人の地雷踏むの超得意な粗忽者だってあんただって知ってるでしょうに」
「知ってますけどせめて自覚くらいはさせたかったんです」
「なんだよー、わけわかんねーこと言うなよー地雷ってなんだよー」
「あっはっは、まー二人ともそうとんがるなって。アルバー、ありがとな、とりあえず俺は俺なりにやってくからさ」
「おうっ、頑張れよー」
「そういうわけで、俺は反対意見はないよ」
 にっこり笑ってそう言ってみせるクレイトフに肩をすくめ、ディックはセディシュの方に向き直った。
「セディは? なにか意見あるか?」
 セディシュはじっ、とディックを見つめ、いつものきょとんとした顔で考えるように首を傾げてから、数秒クレイトフに視線を向け、それからゆっくりと首を振って言った。
「ない」
「俺の立てた作戦でいいんだな?」
「うん」
 こっくりとうなずく。
 ふ、とディックは息を吐き、立ち上がった。
「よし、じゃあ作戦担当者の五人は宿に泊まる。出発はいつものように朝五時。それまでしっかり休息を取ること」
「あ、ディック。ちょっといいか?」
 クレイトフが手を上げる。わずかに眉をひそめて訊ね返した。
「なんだ?」
「ちょっと話があるんだけど、付き合ってもらっていーかな。心配しなくてもすぐ終わるからさ」
 にっかり、と笑うクレイトフをディックは数秒見つめ、それから言った。
「わかった。じゃあ、そういうことで、解散」
「っし! じゃー今日はとっとと寝るかー!」
「寝すぎて体調崩したりとかしないでよ」
「んなのするわけねーだろって。お前こそちゃんと寝ろよー朝はえーぞー」
「狩人に向かってなに言ってんの」
「どうでもいいが、寝るというならさっさと足を動かしたらどうだ」
 にぎやかに喋りつつ去っていくギルドメンバーたち。セディシュはその最後尾についてすたすたと歩き、酒場を出る直前にぴたりと足を止め、くるりとこちらの方を向いて視線を浴びせてきた。
 じっと見つめられること数秒、ディックはちろりとセディシュの方を見返し、小さくうなずいてやる。セディシュはきょとんとした顔で首を傾げ、それからこっくりとうなずいて酒場を出て行った。
「いやー、懐かれてるねー」
 クレイトフがにやにや笑顔で言ってくる。ディックはわずかに顔をしかめて肩をすくめた。
「別に。単にあいつが仲間に対してやたら懐っこいだけだ」
「いやいや、ご謙遜ご謙遜。あの子、しっかりあんたを特別視してるよ。なんか決める時、必ず最後にはあんたの方向くじゃん。これでいい? って訊ねるみたいにさ」
「…………」
 ディックはしかめた眉をさらに寄せる。セディシュが自分を特別視しているかもしれない、とは考えたことがある。何度か、迷宮に潜り始めたばかりの頃に。
 だが今ではそんな考えはすっぱり捨てている。セックスしたあと即座に他の相手とのことを考えるような奴が自分のことを特別視しているなぞと自惚れられるのはただの馬鹿だ。
「ありえないな」
「そ? じゃあ特別視してるのはあんたの方なのかな?」
「は?」
 なにを言ってるんだこいつ。
「ディックってあのこの子のこといっつも意識してるじゃーん。会議とかでも必ずしっかり最後にあの子の意見聞くしさ」
「あのな、会議でなにも発言してない奴がいたら議長はそっちの意見も確認するのが普通だと思わないか、人数まだ八人程度なんだから」
「ま、そーだけどね。でもなーんかあの子にこだわってるのは確かじゃない? なにするのにもいちいち意識してるっつーか」
「…………」
 単に患者に対する医師の保護意識が働いているだけだ、と告げるかどうか数瞬考えて、やめておいた。定期的にカウンセリングを受けさせていることをディックは他のギルドメンバーにも話していない。五日間クエストの間でさえちょっと話があるから、程度の断りで済ませたのだ。
 一般人にはカウンセリングというものをごく当たり前のことと受け入れることはできないと思ったがゆえの処置だった。だというのにそれをここでこいつに話す必要があるとは思えない。
「そんなことを聞くために引き止めたのか」
「まぁ、そうとも言えるね」
「は?」
 眉をひそめてみせると、クレイトフはくすっと笑って、テーブルの向こうから顔を近づけて囁いてきた。
「質問。あの子って誰の愛人?」
「っ」
 思わず身を引いてからクレイトフを驚きの視線で見る。クレイトフは苦笑しつつ、ぺらぺらと語りはじめた。
「いやさ、実は俺ここ入る時それなりに覚悟して入ったんだよ。エトリアでも有名なホモギルドに入るわけじゃん? 入ったら即日襲われる! お尻の危機! ぐらいのことは考えてたわけ。まーそれも芸の肥やしだっつーことでいいかな? と思ったからアプローチしてみたわけだけどさ」
「…………!」
 ディックは思わずざーっと血の気を引かせた。ホモギルド。そう思われてるんじゃないかなぁとは認識していたものの、改めて人の口から聞くと凄まじいインパクトがあった。
「……そんなに、広まってるのか、その噂」
「そらもー。第二階層に入ってからすぐ男同士の痴話喧嘩を何度も盛大にやらかしたっつー話は有名だぜ。ギルドメンバーが男同士で何度も連れ込み宿使ってるって聞いたしさ。ま、このギルドがありえないくらい順調に探索進めてるのをひがんだ奴らが流してんだろーから話半分に聞いといたけどね」
「…………」
 くらくらする頭を必死に押さえながらディックは必死に対策案を検討した。別にホモに偏見があるというわけではないが……いや、偏見というか、正直気持ち悪い、とは思っている。ぶっちゃけたところを言ってしまえば。そういう人種とは関わりあいたくないし関わり合いになることもないだろう、と思っていたから偏見はないと良識人的な台詞が口にできたのだ。自分がその(良識のある人間として口にはしないが本音の正直なところをいうと)気持ち悪い存在だと思われるのは、虫唾が走るほどの拒否感を覚える。
 そんな自分を良識はそんなことを気にするのはよくない、と責めるが、嫌だ、気持ち悪い、という生理的嫌悪感はどうしても拭えない。セディシュがたまたま中性的な少年で、やたら淫靡な雰囲気を持っているから何度かそういうことになってしまっただけだ自分は無実だと主張したい気分が盛り上がってしまう。
「で、入ってみたらさ、そーいうことになってんのがあの子――セディシュ周りの関係だけだって知って、驚いたわけ。その代わりにあの子周りの関係はやたら元気だけどさー」
「………! まさか、お前誘われたのかっ!?」
 クレイトフは笑顔で首を振った。安堵のあまり、ディックは体を深々と椅子の背もたれに預ける。
「もしかしたらそーいうことになるかもなー、と思ってたんだけどさ。でも、俺、なんかあの子に警戒されてるみたいだね」
「……警戒?」
「おんや、気付かなかった? あの子俺にまだあんま心許してないじゃん。俺とはほとんど話さないし、笑いかけたりもしないしさ。なーんか縄張りに入った知らない人間を見る猫みたいなカンジ」
「……ふむ」
 頭の中の映像を回想する。セディシュがクレイトフと話しているところを見たことがないのは確かだ。言われてみれば確かに、あれは見知らぬ存在が縄張りに入った時の猫に近い反応かもしれない。
「だからさ、あの子がどーいう子なのかちょっと聞いてみたいなーと思ったわけ。ギルド内のメンバーしっかり把握してるディッたんにね」
「ディッたんってなんだ……」
 は、と小さく息をついてからディックはセディシュの生い立ちを話し始めた。他のギルドメンバーは(セス以外。さすがに少女に話すようなことではない)知っていることだし、隠すのもいまさらだ。
 が、クレイトフの反応は、ディックの想像していたものとはわずかに違っていた。きゅっと眉をひそめ、苦虫をまとめて噛み潰したような顔になり、苦しげなとすら表現できる顔で言ったのだ。
「……それって、まずくない?」
「まずいに決まってるだろう。あいつの非常識っぷりはすでに何人も犠牲者を生み出してる」
「いや、俺の言ってんのはそういうことじゃなくてさ。なんつうか……そのままじゃその子、レンアイできないだろって言ってんの」
「は?」
 恋愛?
 思ってもみなかった言葉にぽかんと口を開けるディックに、クレイトフは眉を寄せながら言う。
「だってさ。肉奴隷なんてもんを五年間、ほんのガキの頃から続けてて、それが間違ってるって意識もないんだったらさ。セックスを大事にするとか……自分を大事にするとかいう考え自体頭ん中にない、ってことになんないか?」
「……ああ。そうなるな」
 あいつは当然のように、仲間が死ねと言ったら死ぬ、と言ったのだから。
「そうなるな、じゃねーだろ。あのな、だったらあの子公衆便所扱いされても文句を言う気すら起こらないってことになるじゃんよ」
「公衆……? どういう意」
 文脈として繋がらない言葉にそう問いかけかけて、はっと気付いて思わず顔を赤らめた。公衆便所というのは、つまり、公衆の性欲の放出の場、という意味の隠語なのだろうと気付いたのだ。
「今だってある意味そうなってんじゃん。仲間の奴らに言われるまま股開いてさ。そういう扱い受けんのが当然だって思ってるんだろ? それじゃ人と付き合ってけないぜ。レンアイとセックスがちっとも繋がらないじゃんか」
「それは、そうだが。そもそもあいつに恋愛できるような精神的成熟度はないような気がするが」
「そりゃ話聞いてたらそんな感じだけどさ。だけどあの子はもう自由だろ? いつまでもいつまでもいつまでーも子供ってわけじゃないだろ。だったらいつかは恋とか愛とか心に抱いたりもするでしょーよ。そーいう時に、セックスが愛の交歓だと思えないんだったらさ、恋にならないじゃんよ」
「……そうか?」
 セックスがなければ恋愛できないというものでもないと思うが。
「そりゃセックスが必ずしも恋とか愛とかの最終段階だとは言わないぜ。セックスがなくてもレンアイっつー関係は確かにあるし。けどさ、結局レンアイとかってさ、どーぶつ的なとこから始まるもんじゃん。あの年頃は特にさ。つまるところは相手とヤりたいっつーのを世間体がいいよーにごまかしてるよーなもんじゃん」
「……普通の人間はそこまで下半身に支配されてないと思うんだが」
「下半身じゃないよ、ソウルだって、ソウル。魂とか心とか、そーいうのは体と影響しあうもんでしょーが。相手のどっかをいいなって思ってムラッとくる、それをハートで感じるのがレンアイだろ?」
「まぁ……そうともいえるが」
 確かに恋愛を科学的に解析すればそういうことになるのは確かだ。だがディックとしてはそういう性欲と恋愛をイコールで結んでしまうような思考には賛成しかねた。それではあまりに動物的だ。少なくともディックは、今までそれなりに成熟した理性を持った女性たちと大人として互いを尊重する恋愛をしてきた(と自分では思っている)のだから。その思考を押し進めればセディシュ周りのエロ行為も恋愛ということになってしまう。
「それがさ。あの子は、ヤりたいって思っても、それが特別なことに全然ならないんだぜ。セックスが好きの延長線上にないんだぜ。好きな人とセックスしたいって思うことすらできないんだぜ。それじゃ……いつまで経ってもセックスが、ただの行為のままじゃんか」
 クレイトフがテーブルに肘をついた。うつむき、唸るような声を上げて収まりの悪い灰色の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。どこか辛そうな、とすら感じられる仕草にディックは思わず目を見開いた。このふてぶてしい男がするには、あまりに感傷的な仕草だ。
「なんなんだ、それ……冗談じゃねぇよ。洒落になってねぇじゃねぇか」
「……お前でも、そんな風に思うんだな」
 思わず漏れた言葉に、クレイトフはばっと顔を挙げきっとディックの方を睨む。
「当たり前だろ! どう考えたって、普通じゃなくたって可哀想すぎるだろ、あの子!」
「………え」
「フツーに考えてみろよ。十歳の時から五年間肉奴隷になってたんだぞ? 心無視されて、体弄ばれて、大人に好き放題おもちゃ扱いされてたんだぞ? 普通生きてらんねぇよ。体が生きてたって心が死んじまう。十歳からの、心が一番変わる時にそんな扱いされてたらどう考えて性格歪みまくるどころじゃすまないだろうってのに……あの子、いい子じゃんか」
「…………」
 ディックは、わずかに目を見開いた。
「いっつも仲間気遣うし、なのにそれ全然恩に着せたりしないし。体張って仲間守る根性もあるし。そんな育ち方した子が、どうやったらあの子みたいな性格になれたのかって思ったらさ、なんか……なんかさ……」
 クレイトフはまたわずかにうつむく。照れくさそうな笑顔で頭を掻くその表情はすぐに作ったものだと知れた。声に、瞳に、わずかに濡れたものが混じっている。
「参ったな……放っておけないとか考えちまったよ。俺みたいな奴がんなこと考えたって、なにかできるわけでもないのにさ」
「…………」
 ディックは無言でクレイトフを見つめた。――どう答えればいいのか、わからなかったのだ。ディックにしては、ひどく珍しいことに。
 クレイトフはひょいと立ち上がった。上から無表情を作っているディックを見下ろし、笑顔を作る。
「じゃ、俺は一夜の宿を借りれるように稼ぎに行ってくるんで。ディックは早く帰れよ。明日五時起きだろ?」
「……引き止めたのはお前だろう」
「あはは、そーだった悪い悪い。じゃ、ここの払いは俺が持つということで」
 ちゃりちゃり、と硬貨をテーブルの上に並べ、クレイトフは笑顔で手を振って酒場を出て行った。金鹿の酒場は冒険者が集まる分えこひいきのないように吟遊詩人の演奏は契約を結んでいる相手以外基本的に禁止だ。
 ディックはそれからもしばらくその席に座っていたのだが、やがて立ち上がり長鳴鶏の宿へと向かった。
 すでにエトリアでも一、二を争うギルドである自分たちはすでに個室を割り当てられるようになっている。シャワーを浴び、寝巻きに着替え、相当に上質なふわふわのベッドに寝転がって、小さく息をつき、ぼんやりとした頭で考えた。
 ディックは、呆然としていたのだ。思ってもみなかったことを言われて。
 ディックは、セディシュを可哀想だと思ったことがなかった。その異常な環境に恐怖したり、衝撃を受けたり、拒否感を覚えたりしたことはあっても、クレイトフのようにセディシュが可哀想だと、哀れだと悲しんだことはなかったのだ。
 セディシュはそんな思考など起こさせないほど心身ともに強靭だったし、哀れを催すような素振りはまるで見せなかった。むしろ当たり前のような顔をして思うがままに振舞うセディシュに、腹を立てることの方が多かったように思う。
 だが、普通に考えればそうなのだ。セディシュはおそろしく可哀想な環境で育ってきた子供なのだ。狂っても、死んでいても、おそろしく歪んだ性格に育っていてもおかしくない育ち方をしてきたというのに、あいつは確かに、いい子と呼んでもおかしくない、少しずれてはいるものの人に好かれる精神を持ち合わせている。
 それを考えてみたら健気で可哀想、と言うべき存在なのに、自分はそんなことを考えたこともなかった。あいつが当たり前のような顔をしているから。自分のことを少しも可哀想だと思っていないから。あいつが当然のような顔をして理不尽な振る舞いをして、みんなからもそういう存在だと当たり前のように思われているから。
 だけど。クレイトフはセディシュのことを、『可哀想だ』と言ったのだ。
 なんだろう、なぜかはうまく言語化できないが、心がざわめく。別にクレイトフの発言にはおかしなところはないはずなのに。見当違いな同情は失礼とか、そういったレベルの話ではないなにかが、クレイトフの言葉にはあるような気がした。なにか、自分がこれまで凄まじくおかしな方向性でものを捉えていたような漠然とした恐怖を、心が勝手に感じている。
(あいつは、可哀想なんだろうか)
 セディシュのきょとんとした顔を、ぼんやりと思い浮かべる。
(あいつでも、辛いとか、苦しいとか考えてたりしたんだろうか)
 ずっと昔に感じたような、子供に戻った頃のような、不安なような困ったような悲しいような痛いような、妙な気分をぼんやりと感じながら、ディックはベッドの中でひたすらセディシュのことを考えていた。
 ――ギルドマスターとして面倒を見てやらなければならない困ったギルドメンバーとしてでも、医者として治すべき患者としてでもなく、同じ視線の高さで単純に、セディシュの『気持ちを気遣う』ということを、この時になってようやく、ディックは始めたのだ。

 翌朝、いつも通りに全員揃って朝食を取る。今日のメニューは決戦前ということで軽く、かつエネルギーになるように糖質中心だ。おにぎり各種に納豆味噌汁、砂糖醤油を絡めた餅にカステラとオレンジジュース。甘いもの同士の組み合わせにヴォルクなどは顔をしかめたが、栄養学でディックに文句をつけても勝ち目はないとわかっているのだろう、無言で黙々と摂取した。
「っし! じゃー行くとすっか!」
 笑顔で立ち上がるアルバーに、セスが鼻を鳴らして立ち、ヴォルクも食後のお茶を飲んでからのっそりと立ち上がる。続いてセディシュがひょいと立ち上がるのを見てから、ディックも椅子から立ち上がった。
 と、セディシュの隣に座っていたクレイトフが、ひょいとセディシュの頭に手を伸ばした。
 きょとんとした顔のセディシュに、ぽんぽんと頭を叩いて、軽く髪を撫でるようにかき回し。にこり、といつもと変わらない飄々とした笑顔で言う。
「いってらっしゃい。気をつけて行くんだぞ」
「…………」
 きょとんとした顔でセディシュは首を傾げた。クレイトフはそれから他の面々にも顔を向けて、「生きて帰って来いよーマジに」などと笑顔で言っている。スヴェンやエアハルトも続いて「みんななら大丈夫だと思うけど、気をつけて」「無理はしないでくださいね」などと言い、他のパーティメンバーたちも「おうっ、とーぜんっ!」だの「負ける喧嘩なんてするわけないでしょ」だの答えだす。
 そんな中、セディシュは三十秒ほどきょとんとした顔で首を傾げ続け、それからクレイトフの方にきちんと向き直って、こっくりとうなずいた。クレイトフはその声なき反応に、笑顔でうなずき返して応える。
 ディックはその無言のやり取りをつい見つめてしまってから、「行くぞ」と一言告げて歩き出した。

 ケルヌンノス戦はさほど苦戦はしなかった。ケルヌンノスは知っていた通り仲間を呼んだが、自身もその仲間も雷が弱点だったので大雷嵐+チェイスショックであっさりと一掃できたし、セディシュのアームボンテージがあっさりと決まったのでさして強烈な攻撃は飛んでこなかった。まぁ飛んできたとしても医術防御があればさしたるダメージにはならなかっただろうが。
 いつも通りに地図を埋めたあと、階段を下りて第三階層へ。その真っ青な岩壁に感心したり眉をひそめたりしつつ、樹海磁軸にたどり着いて街へと戻る。
 さして疲れてはいないので、留守番連中に報告して素材を売却したらしばらく第三階層をうろついてみようか、などと話しながら商店へと向かっている途中、セディシュが突然目を見開き、たたっと小走りに走り出した。
「おい、セデ……」
 言いかけて、ディックは言葉を止めた。ベルダ広場の端、最初に会った時と同じ辺りに、クレイトフが笑顔で立っている。
 弾き語りでもしていたのだろう、足元には帽子が置かれ、それなりの硬貨や貨幣が入っていた。セディシュはそこまで素早く走り寄り、じっとクレイトフを見つめて一度こっくりとうなずいてから言う。
「ただいま」
 クレイトフはにこり、と妙に優しい笑顔をセディシュに向け、ひょいと手を伸ばしてぽんぽんとセディシュの頭を叩き、言った。
「おかえり。よく頑張ったな」
 セディシュはきょとんとした顔でクレイトフを見返し、それからにこ、と嬉しげに笑ってうなずいた。
「うん。ありがとう」
 ディックはそれを見つめながら小さく息をついていた。ほら見ろ、仲間にはやたら懐っこい。警戒してるっていってもあんな風に、あっさり笑いかけちまえるんだ、仲間になら。クレイトフはどこを見て俺が特別扱いされてるなんて言ったのやら。別に、だからどうだっていうんじゃないが。
 そんなことをもやもやと考えていたディックは、その光景を食い入るように、拳を握り締めながら睨むように見つめていた仲間の存在には、その時は気付かなかったのだ。

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