湖上の美人

 アルバーは、屋敷の玄関口の階段に座ってぼーっと宙を見ていた。考えていたのだ。今日一日にあったこと、聞いたことを。
 もう体感的にはそろそろ夜なんじゃないか、という感じなのだが、空に浮かぶ太陽はまだまだ高い。しかも時間としてはまだ午前五時なんだそうだ。確かにどの時計も全部午前五時で止まったまんま、自分たちのうちの誰かが迷宮に潜らない限りは動かないんだそうだ。ディックによると。
「俺たちは、エトリアに入った時からかギルドに登録した時からか迷宮に潜った時からかはわからないが、ひとつの小さな世界に囚われている。おそらくは一種の仮想空間だ。通常の世界からは隔離された、作られた世界だろう」
 食堂に全員を集めたディックは、重々しい顔でそう告げた。なにを言っているのかさっぱりわからず、アルバーたちは顔を見合わせる。
「あのさ、ディック。俺たち、君の言っていることの意味がよくわからないんだけど……」
「なに、その世界とか仮想空間とか」
「……誤解の可能性を無視して簡単に言えば、俺たちは全員、夢を見てるんじゃないかってことだ」
『……は?』
「お前らはおかしいと思ったことはないか。ただポイントを割り振るだけで使えるスキルという異常な技術。薬の一滴で傷が癒え、どんなにゴミクズのように潰れてもあっさり蘇生してしまう。今までの人生で、そんな状況に出会ったことがあるか」
「いや、そりゃ、ないけど……」
「スキルだけじゃない、俺たちの成長だってそうだ。迷宮に初めて入った時、俺たちはそれこそ森ネズミにも苦戦してたよな。一撃で腹が裂けて瀕死になった。なのに今はその一撃を食らってもかすり傷で、逆に軽く一発入れただけで頭蓋を砕ける。人間がこんなに急速に成長できるか? いや、どう考えたって、今の俺たちのような力や耐久力や技術は、そもそも人間に身に着けられるレベルじゃない」
「でも、それが世界樹の迷宮の不思議な力だってことじゃないんですか?」
「なら、なんで他の人間はいつまでも弱いんだ」
「……は?」
「俺たちが迷宮に入ってまだ二ヶ月やそこらしか経ってないのにここまで成長できたんだぞ。執政院の連中がいくらボンクラ揃いだって、数年もあれば精強な兵士の一人や二人いてもいいはずだ。一人でもいればそいつを使って相当安全にレベル上げできる、人間外の強さの兵士を量産できる。やろうと思えばそれこそ数年で軍事大国ができちまう」
「だ、だからそれは、世界樹の迷宮が厳しい場所だから、冒険者に探索させてるからで……」
「レンとツスクルは? あいつらは今の俺たちよりはるかに強い、執政院直属なら使わない手はないだろう。キタザキ院長は? ギルド長は? あんな人間外がいるってのになんで使わないんだ」
「いや、でもさ」
「周囲の国との協調を考えてっていうなら、そもそもそんなあっさり人間外の軍団を作り出せる場所なんぞ知られただけで危険物指定を受けるに決まってる。なのに周囲の国は数年経っても警戒態勢に入ったという話すら聞かない。エトリアは世界樹の迷宮に対する情報を秘匿してもいないのに、だ。どう考えてもおかしいだろう」
『…………』
「一時間泊まっただけでどんな深い傷も治ってしまう長鳴鶏の宿は? 素材を持ち込んだら一瞬で武器防具に加工してしまうシリカ商店は? そもそも普通ならどんな夜中でもまったく変わらず同じ顔ぶれで営業してるなんてこと自体ありえないとは思わないか?」
「いや……そりゃ、そうかもしれないけど。だからなんなんだよ」
 ディックは小さく深呼吸をし、それからきっとこちらを見つめた。その顔は微妙に青かった。
「……太陽が、少しも動かないってこと、気付いてるか、お前ら」
『は?』
「時間が過ぎないんだ。午前五時から少しも変わらない。どの時計を見ても、ベルダ広場や他の場所の時計を見ても、午前五時から動かない。なのに太陽の位置は本来なら十時頃の高さで固定だ。おかしいとは思わないか。なにより、以前一度あっただろう、俺たちが死んだとたんに時間が巻き戻ったことが。あれもどう考えてもありえないことだ、あの時は深く考えなかったが、俺たちギルドだけ選択して意識を残しての時間の巻き戻しなんて、技術とか特殊能力とかそういうレベルじゃない」
「はぁ……まぁ、おかしいっちゃおかしいね。それで?」
「……っだから! 俺たちは誰かが創った小さな世界に囚われてるんだよ! おそらくは精密に作られた仮想空間の夢を見させられてるんだ! その中で俺たちは動いていたにすぎないんだよ!」
「……そうなの?」
「そうだ! 確証に近いものもある! さっき確かめてきたんだ、俺たちはエトリアの外に出ることができない! 街から一定の距離以上離れようとした瞬間に元の位置に戻される! そこから外は、その誰かが創ってないからだ! つまり俺たちのいるこの世界そのものが、いや、もしかしたら……」
 ディックは青い顔を悲痛に歪め、呻くように言った。
「俺たち自身すら……その誰かが創ったものかもしれないんだよ……!」
『………ふーん……?』
 揃って眉を寄せ首を傾げる自分たちに、ディックはぽかんと口を開けた。
「ふ、ふーん、って、お前らな」
「で、どうしたら出られるようになるんだ? なんか当てぐらいあるんだろ?」
「……思いつくのは、世界樹の迷宮を制覇するぐらい、だが……」
「なんだ、じゃー別にやること変わんねーじゃん。今まで通り世界樹の最深部目指して頑張るだけだろ?」
「あ、そうだ。そういうことなら、街で好きなだけ自由時間使っていいってことになるんじゃない? 街にいる間は時間過ぎないんでしょ? 泉で回復して、街戻ってきて宿帳記入して、それから好きなだけだらだらできるってことになるじゃない」
「そ、れは、理屈で言えばそうなるが」
「はは、まぁそんなにだらだらしても体内時計が狂うから、適当なところで潜った方がいいだろうけど」
「ふむ、確かにな……結局やることはさして変わらんか」
「じゃ、そーいうことで……お茶でも淹れよっか。俺ベルダ広場の店でケーキ買ってきたんだー、ワンホール!」
「へぇ……甘いものなんて久々ですね」
「太っ腹じゃん、クレイトフ」
「こ、これがケーキというものなのですか……拙者、初めて見ました……!」
 喋っている自分たちに、ディックが口をぱくぱくさせてから、ヒステリックに叫んだ。
「待て! ちょっと待て、お前ら! なんでそんなに平然としてるんだ!? アイデンティティが揺らいだりはしないのか!? 世界が、俺たちの意識すら創られたものかもしれないんだぞ!? いつ消失するかもしれない不安とか、世界が崩壊したかのような衝撃とか、これからするかもしれないという恐怖とか、そういうのは感じないのか!?」
『…………』
 アルバーたちは困惑の顔を見合わせてから、あっさりと告げた。
「別に? だって急にんなこと言われたって実感湧かないっつーかさー」
「そもそもこれまでも世界樹の迷宮の常識外れっぷりはさんざん目にしているのだ、いまさら驚く必要もなかろう」
「今気にしてもどうにもならなそうなことですし」
「気にしたって役に立つことがあるわけでもないし」
「なら別に気にすることもないだろ? そんな本当かどうかもわからないことを気にして神経を疲れさせるなんて馬鹿馬鹿しいよ」
「ま、なにが起きたとしてもその時はその時ってことで」
「武士道とは死ぬことと見つけたり、と言います。戦場に立つ者ならば、死する覚悟は常に持っているべきかと」
「…………」
 呆然と宙を見つめるディック。と、セディシュがとことことディックの方へと歩み寄った。ディックはどこかすがるような目でセディシュを見つめる。
「……セディ」
「大丈夫」
 セディシュは静かにそう言って、ぽんぽん、とディックの頭を叩き、それから撫で、そして抱き寄せた。その小さな腕で抱えるように抱き込んで。ひどく真剣な、真面目な顔で。
「大丈夫。大丈夫」
「………っ」
 ディックは小さく震えながら、されるがままになっていて、クレイトフが明るく「さ、ケーキ食べよっか!」と言うまでそのままで、だからアルバーはしばらくその姿を見つめ続けることになって。
「………はぁ」
 アルバーは、深くため息をつく。……セディシュは、本当は、ディックが好きなんだろうか。最初にセディシュとヤったのはディックだし。いやでも普段は全然そんな素振りしてないよな。じゃあ俺がディックみたいな状況になったとしても、同じことしてくれるってことか。
「……はぁ」
 またため息をつく。嬉しいけど、嬉しくない。みんな一番。自分もその中の一人。つまり、自分はセディシュにとって、少しもまったく特別でない、ということだ。自分にとってセディシュは、他に換えのきかない唯一の存在だってのに。
「………はあぁぁぁ………」
 さらに深々とため息をつく。まさか、こんなことになるなんて思ってなかった。考えてなかった。当然のようにそんなことはありえないと意識から除外していた状況だったのに。
 自分は、セディシュが好きだ。
 なんでなのか、いつからなのか、そんなの覚えてない。だけど自分は本気でマジで心底全力でセディシュが好きだ。それこそ人生懸けても惜しくないほど。まだ十七で、まだまだ修行中で、命懸けの冒険してる真っ最中だってのに。
 でも、好きだ。好きだ好きだ好きだ好きだ。こっち向かせたい、そばにいたい。笑ってほしい、幸せにしてやりたい。キスしたい抱きしめたいセックスしたい後ろから前から突っ込んでアンアン言わせたい。頭ん中基本そればっかになっちまうくらいどーしようもなく好きだ。
「……俺、ホモだったのかなー……」
 そんな自分なんて、今まで考えたこともなかった。ありえないと当然みたいに思ってたのに。いやでもセディシュ以外の男にんなこと全然考えねーしホモってわけじゃねーよな。いやけど男が男好きになったらホモだよな……。結婚できねーし、子供作れねーし、他にもいろいろ不都合なことありまくりだってのに、それでも。
「………好きだー………」
 ぼそりと呟くとますますその気持ちが膨れ上がりそうな感じがして、また深々とため息をつく。俺のことなんて、セディシュは、その他大勢の一人としか思ってねーってのに。
 だって、あいつは、俺が好きって言っても、ただ『ありがとう』としか言ってくんなかったんだから。
「お、悩んでるなー、青少年」
「お前が思い悩んでるところって初めて見たよ」
「……クレイトフ、スヴェン」
 後ろから声をかけられ、アルバーは顔をしかめながら振り向いた。からかわれて笑顔で受け答えできる気分じゃない。
「なんの用だよ」
「んー、まー、ね」
「そうだな……忠告と警告。あと、相談と愚痴の相手の立候補?」
「は? って、なんだよそれ」
「いやさ。一応他のみんなには言って回ったことだし、アルくんにも言っといた方がいーかなーって。まー、手遅れって感じぷんぷんするけどさ」
「は……?」
「まず、忠告。……セデちゃん――セディシュからは手を引いたほうがいい」
「は……んなっ、なんだよそれっ!」
 思わず怒鳴って立ち上がると、クレイトフとスヴェンはそろってまぁまぁと落ち着くよう手で示してきた。
「怒んないで怒んないで、冷静に聞いてくれよ」
「だって手を引けって、なんでんなこと」
「お前だけのためじゃなくてセディシュのためでもあるんだって。ちゃんと最後まで落ち着いて話聞け」
「………っ」
 言われて渋々元通り腰を下ろす。それでも納得いく説明しねーと許さねーかんなっ、とぎろりと二人を睨みつけると、ギルド内最年長と二番手は苦笑し、自分たちも腰を下ろして話し始めた。
「あのさ。君も知ってるよな? セディシュが十歳の頃から、男のおもちゃにされてきたってこと」
「そりゃ……聞いたから」
「けど、それがどういうことかって、ちゃんとわかってないだろ?」
「は……? なんだよそれ」
 クレイトフは小さく苦笑し、それから穏やかな表情になってさらりと言った。
「あの子が普通なら死んでるのが当たり前ってくらいヘビーな人生送ってきたってこと、わかってないだろってこと」
「え……」
「アルバー、ちゃんと想像してみてくれよ。君がまだ十歳の、精通だってろくにない年から人買いに変態の金持ちのヒヒジジイに売られて。毎日毎日尻にでかいの突っ込まれて、いたぶられておもちゃにされて、素っ裸で首輪つけられて檻の中で寝起きして、食事は犬のエサでそれにも小便とかがしょっちゅうぶっかけられて、起きてる間も寝てる時も体をいじられてえげつないやり方で弄ばれて、躾だって言われて鞭打たれたり体に針刺されるのとか日常で、デブだのハゲだのブサイクだの、気色悪いジジイやおっさんによってたかってマワされて、ケツ拡げられて内臓まで犯されるのが普通の人生って、どう思う?」
 アルバーは、ぽかんとした。言っている意味がわからない。
「え……なん、だよそれ」
「セディシュはそういう人生を送ってきたんだよ。肉奴隷ってのは、つまりそういうこと」
「――――」
 数瞬、絶句した。
「ほんと、なのかよ」
「当たり前だろ、こんなことで嘘をつくか」
「本人から聞いたんだから確かだよ。あの子はそういう生活を、十歳から五年間も続けてきたんだ。それ以前は物心ついたころから自分を拾った相手――あの子捨て子だったそうでね、に毎日毎日殴られてこき使われて生活してきたらしい」
「………………」
 アルバーは凄まじい勢いでぐるぐると回る頭にふらりとよろめいた。世界がぐらぐら揺れている。安酒に酔ったような、いやそれどころじゃない、それこそ今までの人生が崩壊したかのような衝撃。
 仲間が。セディシュが。好きな奴が。
 そんな人生を送ってきたなんてことは、自分の想像の範囲外にあることだった。
「……そういう人生送ってきたらさ。普通の生活ってのが、あの子にとってどんだけ嬉しいかっての、わかるだろ?」
「…………」
「自分が人間として大切にされる生活。ちゃんとしたもんが食えて、暖かい部屋で眠れて、無理やり男の相手させられることもない、仲間として人格を認めてくれる人間たちとの生活ってのが、あの子にとってどんだけ貴重かってこと。想像つくよな?」
「……わかる……」
 アルバーは震える唇をゆっくりと動かして答えた。そんな、そんな生活を強要されたら、自分だったらきっと生きていられない。いや、たぶん自分だけじゃなく普通の人間は生きていられない。
 そんな生の中で、セディシュは、あいつはなにを見て、感じてきたんだろう。あの子供のような眼差しで、自分に与えられる仕打ちをすべて、当然のように受け容れてきたって言うんだろうか。
「だからあの子は今の生活をあの子なりに必死に大切にしようとしてると思うんだよ。全力で俺たちを守ろうとするのも、あの子にとっては当たり前なんだ。それこそ生まれて初めて手に入れた……俺たちから見ればあまりにささやかな、それでも幸せとも言える生活を、それこそ命懸けで守ろうとしてるんだ」
「…………」
「だから、あの子が言ったっていう『みんな、同着一位』ってのはあの子なりの本音なんだと思うよ。みんなが大切で、大切すぎて、順位なんてつけたくないしつけられないんだ。これまでの生活に存在しなかったくらい大切な仲間って存在に、感情のメーターが振り切れちゃって区別がつけられないんだよ」
「…………」
 クレイトフの言葉の内容はよくわからなかった。頭の中がわんわんしてそれどころじゃない。
 ただ、わかるのは。自分なんかには想像もつかないような辛い、いや辛いとかいう段階じゃない絶望しかない生を、セディシュは生きてきたのだと、いうことだった。
「ま、俺があの子と話してなんとなく思ったことだから、確かめたわけじゃないけどね。本人に聞くのは無粋だろーし。……で、こっから忠告。そーいう相手に、本気で恋愛するっての、どー考えても分が悪いって、わかるよな?」
「…………」
 アルバーはうつむいた。答えることができない。顔を上げられない。クレイトフとスヴェンは静かに続ける。
「理由をいちいち挙げる気はないけど。あの子の言う大好きって言葉は、恋愛感情とはかけ離れた、それこそ生きるか死ぬかってとこにある感情だってのは、お前だってわかってるんだろうし」
「あの子にとってのセックスが、フツーに俺たちが考えるのとはまるで違ってるのもわかっただろ? あの子にとってのセックスってのは、愛とか全然関係ないもんで、むしろそこから一番かけ離れた行為だって。人間の中のセックスに対する一番汚くってえげつない欲望を、ずーっとぶつけられてきた子なんだから」
「だからあの子に普通に恋愛したら、こっちの方が傷つく。自分の欲望の汚さと、あの子が自分に恋してはくれないことを繰り返し、何度も何度も自覚させられるだけだ」
「…………」
「ここまでが忠告。で、こっからが警告」
「警、告……?」
「そう。……アルバー、あの子に生半な気持ちで手を出すんじゃない」
 じ、とこちらを見つめる二人の視線は真剣だ。アルバーはそれでも、必死に震える声で反論を試みた。
「……俺は、別にそんな、生半な、気持ちとかで」
「本当か? 誘われて、ちょっと可愛いから、ぐらいの気持ちで誘いに乗って。それで快感に流されてきちんと付き合いもせず成り行きのままにだらだら関係を続けるってのが、お前の生半な気持ちじゃない付き合いなのか?」
「……っ」
「アルバー、お前、わかってるのか。あの子は自分のことを全然大事にしてないってことに」
「……え」
「あの子は、自分のことを、まだ肉奴隷だった頃と同じぐらいの価値しか与えられてない存在だって思ってるんだよ。そりゃ、普通に育ってりゃそれでいい、人間の価値なんてのはほいほい変わるもんじゃないしそもそも周りの扱いで決めるもんじゃないんだから。けど、あの子はずーっと人間じゃない扱いしか受けてこなかった。おもちゃとしか扱われてこなかったんだ、本当に。だから、あの子はまだ自分のことをおもちゃ同然の存在だって、どっかで思ってる節がある」
「……ぇ」
「自分は周りの人間におもちゃにされて、好きなように扱われて当然って思ってるっていうか……自分を傷つけられて怒るって発想がほとんどないんだ。なにされても、ひどい扱いうけても、別にって言って、平気な顔をしてしまう。……どんなひどいことをされてもそういう扱いは慣れているから別に$hくない、ってな」
「……ぁ」
「今のあの子に必要なのは情熱じゃない。気長に根気強く愛情を与えてくれる、自分を大切にすることを教えてくれる腕だ。……赤ん坊からきちんと育てなおしてくれる親、って言ったほうがわかりやすいかな」
「俺たちは親にはなれないだろうけど。少なくとももうこれ以上あの子をおもちゃ扱いしたくない、そうだろ? これまで命を預けあってきた仲間として、それくらいはしてやらなきゃならないことだ。――だから、率直に言う。……もうセディシュに手を出すのはやめるんだ。誘われても、ちゃんと断れ」
「………―――」
「ヴォルクとエアハルトにはもう話してある。二人ともそれぞれ別の意味で頑固だったけどね。……君はどう思う、アルバー。セディシュをこのまま、自分の都合のいいおもちゃとして扱っていたいと思うかい?」
「………っ!」
 アルバーは頭を抱えてぶんぶんと振った。違う、そんな風に思ってるわけじゃない、自分はセディシュをちゃんと好きだ、幸せにしたいと思った。自覚する前から、ちゃんと仲間として大切な存在だと思ってきたんだ。
 だけど自分は、確かにずっとセディシュをおもちゃとして扱ってきた。自分の好きなように、いつでもヤれる相手として。
 自分のヤりたいって感情ばっかり性欲ばっかり、一方的にあいつに押しつけて。あいつを真剣に労わることなんていっぺんもしないで。恋をしているという自覚さえせず、男だから当然のようにそういう対象から外して、ただただ都合のいい、それこそ肉奴隷、のよう、に―――
「………っ………!」
 喉の奥からひきつった、悲鳴のような叫び声が勝手に漏れた。自己嫌悪。そうした感情を、今までアルバーはほとんど自覚したことがなかった。セスとの一件すらちょっと悪かったなー、ぐらいにしか思わなかった。デリカシーに欠けているとよく言われた、自分でもそういう繊細な神経なんてものは自分の中には存在していないのだと思っていた。
 だけど。これは。これまで自分がセディシュにしてきたことは。
「―――ぁ………―――っ」
 頭を抱えて、アルバーは呻いた。喉から勝手に悲鳴が漏れた。叫ばずにはいられなかった。
 なんだ、俺は。なにやってたんだ俺は。好きって、どの面下げて言ったんだ俺は。自分勝手にヤりたいことやって、あいつに少しも優しくしてやらないで、ただ自分の好きに体奪って、あいつがしてほしいってんだから、みたいに恩着せがましく、勘違いなことを考えていて。
「………っぁ―――っ」
 俺、最低だ。俺なんか死んじまえばいいってくらいに、最低だ。
 スヴェンとクレイトフは、アルバーが急に叫びだしても黙って待っていてくれた。だが、アルバーにはその好意に応えられる力がなかった。俺なんかにそんなことすんなよ、と叫びたい気持ちを抑えて、のろのろと立ち上がる。
「どこへ行くんだい?」
「……どっか」
「数時間で戻ってこいよ。まぁ時計も止まってるんだから定時行動は難しいだろうが。ディックもいつまでも引きこもっちゃいないだろうし、そろそろ休みも終わりになるだろ」
「………、ん」
「アルバー」
 ふらふらと歩き出したアルバーの背に、ふいに真剣な声が投げかけられる。数秒経ってからスヴェンの声だ、と気付いた。
「さっき言っただろ。相談と愚痴の相手に立候補する、って。あんまり一人で思い悩むなよ、話ならいつだって、いくらだって聞いてやるから」
「………っ」
 その言葉をありがたいと思う余裕すらなく、アルバーは走り出した。限界だった。顔をくしゃくしゃに歪め、涙を目からぼろぼろこぼし、鼻水もだらだら垂らしながら、アルバーは泣いた。走りながら、「う゛わ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛」とひどく間抜けな、だらしのない泣き声を上げながら。
 早く人のいないところへ行きたい。必死に走った。誰もいないところへ行って、泣き疲れるまで泣いて、ぶっ倒れるまで体を苛めて。
 そうしても、きっと自分はセディシュの前にちゃんと立てない。それが死ぬほど悲しくて、アルバーは大声を上げて泣いた。

 ベッドで毛布に包まって、ディックはぐるぐると考えていた。現在の状況と、それに対する対策を。
 自分たちはエトリアという創られた世界に囚われている。それは間違いない、確信できる、論理的にも間違ってはいないし、なにより自分の感覚、精神そのものがそれが正しいと理解している。ならばそこから脱出するにはどうすればいいのか。
 そこから先、ディックは論理展開のしようがなくなって途方に暮れてしまう。情報がない、手がかりがない、そもそもディックの持つ思考論理で読み解けるものなのかもわからない。世界そのものが、自分そのものが、今までの人生そのものが誰かに創られたものかもしれない、なんて。
 なぜあいつらはあんな平気な顔ができるんだ、と歯噛みする。あんな当たり前の顔をしてそれがどうしたって言えるんだ。おかしいだろ、どう考えたってありえない、普通ならそれこそ人格崩壊を起こしたっておかしくないくらいの衝撃なのに。本気にしていないのか? それとも理解していないのか?
 いや、もしかしたら、彼らの人格そのものにその事実を『気にしない』という設定が組み込まれているのかもしれない。SFにしても突飛な話だが、そうすると彼らの反応の説明がつく。
 なら、自分はどうすればいい。事実を伝えても相手にしてくれない、もしかしたらこの世界の創り主に簡単に操られてしまうのかもしれない奴らと一緒に、これから先どう生きればいい。
 たった一人で。一瞬後には崩壊してしまうかもしれない世界と人生の中で、信じられる人の一人もなく。
「………っ」
 こみ上げてくる強烈な孤独感に喉の奥がひくっと鳴る。目の奥がじわっと熱くなり、瞳の表面が潤む。情けない、みっともない、そう指摘する心の声に羞恥で目の前が真っ赤になる、それでも。
 こんなこれからなにをすればいいのかわからない状況でできることなんて、それこそ途方に暮れて泣き喚くぐらいしかディックは思いつかなかった。
「っ、……っ、ぅ……ぅ」
 それでもほとんど身に着いた反射で声を殺し、ぐすぐすと毛布の仲で泣きじゃくる――と、ふいにその肩が叩かれた。
 ぽん、ぽん。優しく、そっと、けれど確かな意思を持って。それからそっと肩から背中にかけてを何度も撫で下ろす。暖かいその手に、思わず気が緩み、声を上げて泣きそうになる――
 が、暴走する感情をぎりぎりのところで止めて、ディックは必死に感情を取り繕った声を上げた。他人の前で情けないところを見せるわけにはいかない。
「……っ、入っていいなんて、誰が言った」
「入っちゃ、駄目なの?」
 いつも通りのきょとん、とした声が返ってくる。一瞬言葉に詰まるも、なんとか頭を回転させて答えをひねり出した。
「人の部屋に入る前には、ノックぐらいするのが礼儀ってものだろう」
「そっか。わかった」
 こっくりうなずいたであろうかすかな衣擦れの音。それからぽふぽふ、と毛布が軽く叩かれた。
「……毛布でノックしてどうするんだ。そういう時は臨機応変に、入っていいか聞けばいいだろう」
「わかった。ディック、入っていい?」
「……もう入ってるだろ。……好きにすればいい」
 こう答えるしかなかった。いまさら出て行けと怒鳴るのもあまりに間が抜けすぎている。
「うん。ありがとう」
 また頭を下げたであろう衣擦れの音。それからふわ、と毛布が持ち上がる――って、ちょっと待て!
「おい……っ」
「なに?」
 目の前でいつもの赤ん坊のようなきょとんとした顔が傾げられる。ふわり、と毛布が自分たちの上に覆いかぶさる感覚に、こいつ――自分の最初の仲間、セディシュは毛布を引っぺがしたのではなく中に入ってきたのだとわかった。
「お前……っ、入っていいなんて言ってないだろ!」
「? でも、好きにすればいい、って」
「だからっ、あれは部屋に入っていいかってことで」
「そっか。ディック、入っていい?」
「………っ」
 目の前でセディシュの顔が自分を見つめる。その瞳は子供のように強く真摯だ。見つめられていることに耐えられなくなって、ディックはぐりんと反対方向に顔を背けた。
「勝手に、すればいいだろ」
「うん。ありがとう」
 もぞもぞと体を動かす気配がした、と思ったら首筋になにか濡れた温かいものが触れ、ディックは思わず「うひゃぁ!」と叫んだ。
「なっなっなっ、なにする気だおいっ!」
 こんな時にまで妙なこと言い出す気じゃないだろうなっ、こんな時にまでお前のそーいう発言の相手はできんぞっ、と振り向いて怒鳴ると、セディシュはいつも通りのきょとんとした顔をわずかに傾げてあっさり言った。
「なにって、キス」
「き……スって、だからなんでこんな時にキスとか」
「ディックのこと、可愛いな、好きだな、可哀想だな、大切にしてやりたいな、って思ったから、その印」
「なっ……」
 ディックはぱくぱくと口を開閉させた。顔がかーっと赤くなるのを感じる。なんだなんなんだそれは、なんでそんな感想抱かれなくちゃならないんだ。俺は男で、ホモでもないんだから、男からそんなこと言われて喜ぶ趣味はないというのに。
「……いや?」
 少し哀しげに、ベッドに頭を横たえてこちらを見つめてくるセディシュに、ディックはなんというべきかしばらくぐるぐる考えて、しばらくうーうー唸ってから、視線を逸らしつつ答えた。
「い……やって、いうほどじゃ、ないが」
「そっか」
 嬉しそうな声。それからすさっとシーツが擦れる音がして、するりとセディシュはディックに抱きついてきた。子供体温の、熱ささえ感じるほど体温の高い手足が、自分の体に絡みつく。「こら」と静止しようとして、「こ」まで言ったところで唇が唇で塞がれた。
 ずいぶん久しぶりのような気がする、熱く柔らかくぽってりとしたセディシュの唇。それがやんわりとディックの唇を挟み込み、軽く吸う。かと思ったら一瞬で離れ、「おま」と言いかけたところでまた吸いついてきて、今度は舌が軽く唇を撫でる。それからまた離れ、「ちょ」と言いかけたところでまた触れてきて、吸いつき、唇をつつかれ――
 何度も何度も繰り返される軽いキス。ひたすらに与えられる口付けに、ディックはだんだん頭がぽわーんとしてきた。軽く浅いものでしかないけれど、唇に与えられる体温に、なんだか酔ってきてしまったようで。
 いつの間にかディックは自分からセディシュの頭を支えキスに没頭していた。角度を変えながら何度も唇を合わせ、舌を絡め合う。唇を口内を舐め回し、ちゅぶちゅばと音が立つほど勢いよく唇を吸い唾液を啜る。
 背中に回された手が心地よくて、自分もセディシュの背中に腕を回した。互いの体を密着させて、すりすりと体をすり合わせながらひたすらにキスを繰り返す。
 気持ちいい――呆けた頭でそんなことを思っていると、セディシュがふいに唇を離した。冷えた唇が寂しくて思わずすがるような目で見つめると、セディシュはじっとこちらを見つめてさらりと言う。
「ディック。する?」
「――――」
 一瞬ぽかんとして、それから一気に我に返った。なにをやってるんだ、俺は!?
「……っ、するか!」
 言って毛布を跳ね飛ばし、起き上がってセディシュに背を向ける。頭の中ではひたすらに自分を罵っていた。なにをやってるんだ俺は、俺がこいつの手練手管にはまってどうする!?
 だが自分がセディシュとのキスで昂ぶってしまっていたのは間違いのないことだった。たぶんなにも言わないでセディシュが手を伸ばしてきたら、自分は受け容れてしまったに違いない。今もディックの股間には確かに熱い欲望の証が屹立してしまっている。ちくしょう本当になんでこんな時に、とディックは泣きたくなった。
 と、ぴと、と背中にセディシュの胸が張り付いた。熱いその体は、するりと胸の方にも腕を回して抱きついてくる。触れるだけで愛撫されるような感覚を覚えさせるセディシュの技巧に、一気に熱を上げる心身を叱咤しながらディックは怒鳴った。
「セディ! お前な、少しは状況を読め! 人が落ち込んでる時にそんな真似しかけてくるんじゃないっ、そういうのは……なんというか……人の道に反してると思わないのか!?」
「なんで?」
 返ってくるのはいつも通りのきょとん、とした声。ディックは必死に自分を叱咤してさらに声を上げる。
「だからっ! 落ち込んでいるところにつけこんで、そういう……性的関係を結んでお前はどうする気なんだ! そんなことをしてなんの意味があるっ、そういった関係を結んだからといって精神的な優位に立てるなどと思ってるなら大間違いで」
「意味、っていうか」
 またきょとん、とした声。ああもうそういう声出すな力が抜ける! と怒鳴りたい感情を必死に抑えるディックに、セディシュはいつも通りの、なんということもなさそうな声で言った。
「落ち込んでるから」
「……は?」
「ディックが、落ち込んでるから、なにかしたい、って思って」
「………………」
 セディシュは数瞬、ぽかんとした。
 それからああそうだ、そうだった、とじんわり実感がやってきた。こいつはそういう奴だった。仲間のために簡単に自分を投げ出せる奴だった。それはもちろん自分を大事にしてないからだし、性倫理というものに対する認識が欠如しているせいでもあるのだが、それでも、こいつはこいつなりに、俺になにかしたいと、優しくしたいと思って。
 じわ、と滲んでくる涙に、ディックは慌てて目尻を拭う。駄目だ、まずい、弱気になってる、俺は医者だろう、曲がりなりにも患者にこんなところを見せるわけには。
 だが、セディシュはそんなディックの強がりなど気付きもせず、ただ寂しげな、切なげな声でこんなことを言うのだ。
「……いや……?」
「………っ」
 ディックは耐えきれず、ぐるりと振り向いてセディシュの胸に顔を埋めた。わずかに驚いたように身じろぐ気配が伝わってくるが、かまわずぐりぐりと顔を押しつけるとしなやかに筋肉のついた、なのに細いと感じられてしまう腕がそっとディックの頭を抱きかかえるように撫でてくる。
「……ディック?」
「なんにもしなくていい……」
 我ながら涙に濡れたみっともない声で、ディックはセディシュに言った。
「なんにもしなくていいから……しばらく、しばらく、こうさせていて、くれ……」
「……うん」
 静かにそう言って、そっと頭を撫でてくる手に、ディックは恥も外聞もなく泣きじゃくり始めた。そんなことは、ここ数年――どころか、それこそ物心ついて以来一度もないことではあった。

 さんざん泣いてから、ディックはのろのろと頭をセディシュの胸から外し、毛布の中で視線を合わせた。セディシュの気遣わしげな視線は、あくまで真摯に自分を見つめる。それに羞恥を感じつつも、ディックはぼそりと言った。
「……悪かった」
「なにが?」
「迷惑、だっただろ。勝手に胸借りて……勝手に、泣き喚いて」
「なんで?」
「……迷惑じゃ、ないってのか?」
「うん。ディックが俺のこと頼ってくれるの、嬉しい」
 真面目な顔でこっくりうなずくセディシュに、かぁっと顔が熱くなるのがわかった。羞恥、というよりこれは、照れくさいと言った方が当たっている。なんというか真面目に考えると凄まじく悔しいのだが、つまり自分は、セディシュに優しくされて、嬉しいのだろう。セディシュの手管に踊らされているような気がして非常に大層悔しいのだが。
 けれど、セディシュの心にあるのは自分をどうこうしてやろうという思惑でも手練手管でもなく、ただ本気で心の底から自分を気遣う気持ちなのだというのは、わかる。
「……なんで、お前はそんなに簡単に、人を大切にできるんだろうな……」
 ディックが泣き疲れてぼんやりとした頭でついぽろりとそんな言葉をこぼすと、セディシュは首を傾げた。
「そう?」
「……そうってなんだ。簡単じゃないってことか? それとも大切にしてないって?」
「簡単じゃない、ってこと」
「お前にも……大変だって?」
「うん」
 セディシュは真面目な顔でこっくりうなずく。
「ディックや、みんなを、どうすれば大切にできるか、って、俺、よくわからない。やり方、とか。どうしたらいいかとか、うまく、思いつかないし。だから、大変。でも、ディックとか、みんながしてくれたこと、思い出して、考えながらやってみて」
 ここでにこ、とセディシュは笑った。優しく柔らかく穏やかに。いうなれば、ひどく幸せそうに。
「嬉しいって、思ってくれたら、ものすごく、嬉しいよ」
「…………」
 柄にもなく、その笑顔を愛おしい、と感じている自分に気付き、ディックは思わず赤面した。そんな自分の顔をきょとんと見つめるセディシュに耐えられず逃げ場を探し、ええいこの際しょうがない、とセディシュを抱きしめぴったりと体をくっつける。
 セディシュは身じろぎもせずそれを受け入れた。やってからなにをやってるんだ俺はっ、とも思ったがいまさら離れるのもあまりに間抜けなので、必死に冷静な声を作ってできるだけぶっきらぼうに言う。
「……お前。俺の言ったこと、どう思った」
 セディシュは、わずかに身じろぎをした。
「さっき、言ってた、俺たちが、誰かに創られたものかもしれない、ってこと?」
「ああ……それだ」
「……なんとなく、いやな感じは、する」
 ディックは思わず身を離して、真正面からセディシュを見つめた。まともな答えが返ってくるとは、正直思っていなかった。
「嫌な感じがするのか? 本気でか? そういう風に仕込まれているからとか、そういうのじゃなく?」
「うん? うん。仕込まれてるからかどうかっていうのは、わかんないけど」
 ディックは思わず羞恥に顔を赤らめる。なにを当たり前のことを聞いているんだ俺は。そもそも俺がこうして世界に対し疑問を持つこと自体、この世界を創った存在に仕込まれた設定≠ネのかもしれないのに。
「なんか、いやだなぁって思う。でも、大切なことは、本当だから、いい」
「……は?」
「俺が大切だって思うことは、全部本当だから、それでいい」
 一瞬の混乱ののち、ディックはセディシュの言いたいことを理解し赤面した。さっきから何度顔を赤くしてるんだ俺はーっ、と心の中で叫びつつ。
「それはつまり、俺たちと会って一緒に冒険したっていうことは、誰かに創られたことじゃなく、間違いなく自分で体験したことだから、その大切なことが真実なら他のことは嘘でもいい……って、ことか?」
「うん? うん」
 ディックは思わず深々と息を吐き、ぐるりと体を回転させてベッドに顔を埋めた。セディシュはきょとんとした声でいつものように訊ねてくる。
「ディック?」
「……お前は、すごいな」
「そう?」
「大した奴だよ……本当に。俺は正直、とてもそこまで悟れない」
 呻くような声で漏らした言葉は、掛け値なしの本音だった。
「俺は、嫌なんだ。冗談じゃないって思う。怖いんだ。怖くて怖くてしょうがない。次の瞬間に消えてしまうかもしれない生なんてものを背負って、これからどうすればいいのかわからないくらい怖い。自分の生が偽者かもしれないなんて想像したこともなくて、次の瞬間には違う自分になっているかもしれなくて、これまでの記憶が全部消えてしまうかもしれなくて――だったらなにをしても無駄なんじゃないかとか、俺がなんのために存在するかとか、そういうことを考えて、なにもできなくなっちまってるんだ……」
「……そっか」
 セディシュは普段通りにあっさりと答え、それからぴと、とまた体をくっつけてきた。だからそういうことはやめろというのに、と言いかけてやめた。そもそも世界にきちんと存在しているかどうかも怪しい自分が倫理にこだわってどうしろというのだろう。それに、セディシュの体温が、心を少し安らかにしてくれたというのも、確かなことではあったし。
「……お前、俺とヤりたいのか?」
 だったらもーヤっちゃってもいいかもな、とぼんやり思う。自分が自棄を起こしているのはわかっていたが、存在の基盤すら怪しい自分のこだわりなど、世界にはなんの意味ももたらさない。
 が、セディシュはあっさり首を振った。
「別に?」
「………ふーん。そーですか……」
 なんだ、別にヤりたいわけじゃないのか。誘う意図は全然なかったわけか。まぁいいのだが。別にしたかったってわけじゃないし。俺はホモじゃないし。こいつが好きなわけでもなんでも、いやそりゃ仲間としては大切だしそれなりに好意を持っているが、こいつとヤりたいわけでもなんでもないし。
 ぴったりと自分の体に絡みつくセディシュの腕が、ディックの背筋にぞくりとなにかを走らせたのは、ディック自身自覚してはいたけれども。
「ディック」
「……なんだ」
「ディック、迷宮に潜るの、嫌い?」
 一瞬目をぱちくりさせてから、答える。どういう意図の質問なんだと思いつつ。
「いや。そりゃ痛かったり苦しかったりはするが……困難を乗り越えようと努力するのは嫌いじゃないし、刺激的な体験ではあるしな」
「そっか。よかった」
「なんでそんなことを聞く」
「うん? もし違ったら、やだな、って思ったから」
「……意味がよくわからん」
「俺はディックと一緒に迷宮に潜るの、すごく嬉しいから。これからも一緒に潜りたいな、って思ったから。ディックが嫌だったら、お願いできない、でしょ?」
「頼むって、なにを」
 ぎゅ、とディックの体を抱きしめて、小さな声でセディシュは囁いた。いつも通りの淡々とした声で。
「ディック。俺たちと一緒に、世界樹の迷宮に、潜ってください」
「……は?」
「お願いします」
 ぴっとりと体をくっつけたまま、小さく頭を下げたであろう衣擦れの音。思考のどこかがベッドの中で頭を下げてどうする、と突っ込みを入れたが、それ以上に気になった部分に驚いて、ディックはわずかに身を起こしてセディシュを見た。
「おい、待て。なんでお前がそんなことを俺に頼むんだ」
「ディックと一緒に、潜りたいから」
「いや、だから……そんなこと、願い出る筋合いの話じゃないだろうってことだ。そもそもギルドを立ち上げた人間が、まともな理由もないのに勝手に途中で抜けるとかそういうことは、そもそもあまりにわがままで、身勝手な……」
 言いながら落ち込んできてディックはうつむいた。そう、結局今の自分の落ち込みは、ただの身勝手な感情でしかないというのはわかっているのだ。ただ自分は、寂しい辛い怖いと、子供のように喚いているだけなのだから。
 けれど、わかってはいるのに、誰も自分の気持ちをわかってくれないという独りよがりな想いが、このあまりに不安な状況で、思いのほか胸にこたえて。
 うつむいたまま顔を上げないディックに、セディシュはまたするりと抱きつく。だからどうしてお前はそんなことをするんだ、とディックは苛立って泣きたくなる。お前の体温を、気持ちいいって思ってしまうじゃないか。ただの錯覚なのに。ただ不安な状態で暖かいものに触れて心が落ち着いているというだけの、お前の人格や感情とはまるで関係ない身勝手な反射にすぎないのに。
「俺は、ディック、好きだから。大好きだから。一緒に潜ってほしいから。だから、辛いかもしれないけど、お願いしたいって思ったから、お願いした」
「…………」
「ディックがやりたくないって思うんだったら、しなくていいって思うけど。でも、嫌じゃないんだったら、してほしい。お願い、します」
「…………」
「ディック」
 すり、とセディシュは頬を擦りつけてくる。ぺろり、と耳朶を舐める。ちゅ、と頬に、唇にキスをする。その感触の心地よさに体が震え、まぶたが熱くなる。
 このまま押し倒してもいいな、と心の大部分は言っていた。自分のこだわりなどに意味はないとさっきも思った。セディシュはおそらくあっさり受け容れて自分を思いきり気持ちよくしてくれるはずだ。そう、このまま流されて、なにも考えず、思考を停止して、ただ体の動くままに――
 ―――冗談じゃない!
「……枕営業か。そうやって自分の言うことを聞かせて、お前は満足なわけか?」
 ディックはぐい、とセディシュの体を離し、最後の意地を総動員して冷たく声を張った。ひどい言い方だとわかってはいる、だがそのくらいの言い方をしないと反抗する気力が湧いてこなかった。体も心も、セディシュに流されたいと声を上げているのだから。
 流されてしまえば。セディシュの言うことを聞いてしまえば、きっと楽になれるのだろう。セディシュはその手管を駆使して、自分の心の傷を舐めて、寂しさを埋めて、冷えた体温を熱く暖かくしてくれるはずだ。それはたぶん、たまらなく心地よいことには違いない。
 わかってはいる。けれど、やはり自分はそれを素直に受け容れることはできない。医者としての、ディック自身としての、今この瞬間この人格を持つ存在としての最後の意地だ。これまで自分を正しいことを行っている存在だと、認識し思考し実行する自分を賢い存在だと……周囲を見下してもいい存在だとどこかで思っていた人格を持つ存在としての。
 そうしなければ、本当に自分は、自分が存在することを許せなくなる。
 ぎっ、とセディシュを睨みつける――が、セディシュはいつも通りに、あっさりきょとんと首を傾げた。
「なんで?」
「………っ、どういう意味なんだその『なんで』は。疑問を提示する時は疑問の対象となにに対して答えを求めているかくらい添付しろっ、話の流れからしてわかりにくい時はっ」
「そっか、ごめん。なんで、俺がなにかして、自分の言うことをディックに、聞かせようとしてることになるのか、わからなくて」
「……っ、だから! お前は、さっき、自分の言うことを聞いてもらうために、俺に……その、セックスの前戯みたいな真似をしかけてきたんだろう!?」
 セディシュはやはりきょとんと首をかしげてみせる。
「なんで?」
「……っ、じゃあ! さっきお前はどういうつもりであんな真似しかけてきたんだっ!」
「ディックのこと、可愛いな、好きだな、可哀想だな、大切にしてやりたいな、って思ったから、その印」
「…………」
 思わずぽかん、と開いた口を開閉するディックに、セディシュは淡々と続ける。
「俺は、そういうキスもらった時に、嬉しかったから。ディックも、同じように、嬉しいっていうのがいっぱいになったらいいなって思って。それで、怖いって気持ちが、紛れたらいいなって」
「………、それで、一緒に迷宮に潜ってくれたらいいな、って?」
「うん? うん……ううん」
「ううん、ってなんだ。なにが違う」
 自分がムキになっているのは自覚していたが、それでもディックは食い下がる。セディシュはそれをいつもの淡々とした顔で受け止め、答えた。
「一緒に潜ってくれるといいな、っていうのは、俺のお願いだから。だから、ディックが聞いてくれるかどうかっていうのは、ディックのこと。俺が、ディックの怖いのがなくなればいいって思って、いろいろするのは、俺のこと。怖いのがなくなるかどうかっていうのは、ディックのことだけど」
「……つまり、お前のお願いを聞くかどうかっていうのは俺自身の感情の問題で、お前が俺になにをするかって話とはまるで関係のない問題だ、ってことか?」
「うん? うん」
「…………」
 ディックはは、と息をついた。簡単な問題に凄まじく遠回りをしたような疲労感が全身にのしかかる。前々から思っていたんだが、こいつって相手が自分の行動でどう感じるか、っていう概念がまるっきり欠如してるんじゃないだろうか。相手がどう感じるかは相手の勝手、こっちがどう感じ行動するかはこっちの勝手、みたいな。
 現在のところこいつの根本に好意があるから許されているものの、問題のある現実認識には違いない。早急な治療が必要なのはやはり間違いがない――というあたりまで考えて、ディックははっと我に返った。
「…………。………そういうこと、だな」
「?」
「いや。……そうだな。セディ、みんなを呼んできてくれるか。これからの予定について話がしたい」
「わかった」
 ひょい、と起き上がり、ベッドから足を下ろすセディシュの背中に、声を投げかける。
「もう一日ぐらい経ってるだろう。休日を終わりにしてもいい頃だ。体力が充分あるなら、迷宮に潜る」
 セディシュはぴたり、と動きを止めた。それからくるり、とこちらを向く。その顔は笑顔だった。幸せそうというのではないが、ひどく嬉しそうな笑顔だ。
「うん」
 そして笑顔のままこっくりうなずいて、部屋を出ていく。ディックは小さく苦笑し、ぽふ、とベッドにまた身を沈めた。
 恐怖や不安がすべて消えた、というわけではない。今の自分が作り物かもしれない、一瞬後には消滅しているかもしれない、という事実は見ないふりをするには重すぎる事実だ。今でも確かに、自分は消滅と消失の恐怖を抱えている。
 だが、それでもどこへも行けないかのような閉塞感はぐっと軽くなっていた。自分には今、やるべきこととやれることがある。そもそも自分ここエトリアにやってきたのは、『なぜ自分が世界樹の迷宮を踏破しなければならない≠フか知りたい』というのも理由のひとつではあったではないか。現在その謎に関係がありそうな場所は世界樹の迷宮しかない、ならばそこに進むしかない。世界を創った存在について知り、対策を立てるためにも。
 今までと同じだ。すべきことをすべき通りに速やかに成す。なにも変わらない。――セディシュの治療も、そのひとつ。
 あいつ、たぶん俺が立ち直れたの自分のおかげだってわかってないな、とディックは苦笑した。あいつの自分への気持ちと、あいつを治療したいと自分がまだ思えたことに励まされて、自分は立ち上がる気力を取り戻すことができたのに。
 あいつの胸で泣けて、だいぶすっきりしたっていうこともあるし。そう思ってから、ディックは赤面した。ああもうなにを考えてるんだ俺、忘れろ忘れろあれは弱気になってたから。そうだ今ならキスされてもそれに乗ってうっかり押し倒しかけるなんてことは絶対、だから忘れろというのに!
 熱い顔をぶるぶると振ってから我に返って自分の滑稽さに苦笑し、ひょい、と体を起こす。あいつは、セディは、実際困った奴ではあるが、それでも確かに、仲間として命を預ける価値のある人間だ。個人的に、借りもできたし。
「……とりあえず、あいつのことは、しっかり最後まで面倒を見てやらないとな」
 苦笑しつつも、ディックはそう独りごちてベッドから下りた。
 ――ディックが、セディシュが『してもいい?』と許可を得るのでもなく『してくれない?』と頼むのでもなく、『してください』と願ったのは初めてだということに気付いたのは、それから相当に、それこそ何日も時間が経ってからのことになるのだった。

 数日後、B14F。
「……まったく、ここはどう地図を描いていいものやら無駄に考えさせられるな」
「あー、花で勝手に移動させられるしなー」
「見た目に美しいのはいいが、いちいち面倒なのは確かだな」
 いつも通りにそんなことを喋りながら、ディックたちは歩を進めた。適度に警戒しつつ適度に気を抜く。これまでの迷宮探索でしっかり身に着いた感覚だ。
 最初は途方に暮れたもんだが、実際に探索するとなると以前とまるで変わらないってのは助かるものだな、とディックは内心苦笑する。自分の精神状態を引き上げてくれるし、不安定になる要因がないから気兼ねなく探索で頼ることができる。
 どうしても孤独感に耐えられなくなったら、部屋にセディシュを呼んで愚痴ればいいし。そう内心で当然のように思ってしまう自分に、ディックはこっそり赤面した。これじゃまるで俺がセディシュに甘えきってるみたいじゃないか。いやまぁ、甘えていないとは言わないが。そしてその認識が不快でないということも、認めざるをえないが。
 客観視するとひどく気恥ずかしくなるのだが、現在ディックは確かにセディシュに依存している部分があることは確かだった。ディックはしょっちゅう、というか街へ戻って休憩時間を取るごとに、セディシュを部屋に呼ぶ。同じベッドに入って、抱きしめられながら休憩時間が終わるまで愚痴ったり不安をぶつけたりする。それをセディシュは淡々と受け容れ、うなずいたり言葉少なに相槌を打ったりする。
 その時間は確かにディックの心を癒していた。誰かに心を預ける快感。クライエントがカウンセラーに対して感じるような、自分のすべてをさらけ出して他人に頼り、甘える幸福を、ディックはセディシュに対して感じていたのだ。
 もちろんそれは行きすぎれば問題になるものだと認識しているが、心理学を学んだ人間としてディックはその効果も明確に理解していた。他者に適度に依存することは精神的に落ち込んだ人間の心を癒す。カウンセリングを受けているようなものだ。セディシュにとっても、他者の話を聞き、それについて答えることは自立心を強めるという意味でけしてマイナスにはならないはず。むろんディックもきちんとセディシュのカウンセリングを行う時間は設けているが。
 だから、もうしばらくは、セディシュに甘えてもいいだろう。あいつは確かに、自分にとっても、命を預けあえるほど大切な仲間なのだから。
 しょっちゅうキスしてくるのは問題だがな、と照れくさく思いつつ一歩を進める、と。
 ――頭の中に、文章が流れた。
『まるで海のような樹海内部の湖…。その中を不思議な気持ちで歩く君たちの前に、不意に一つの人影が現れた!』
「…警告する。これ以上この森の中に足を踏み入れるな!」
 叫んだのは『不意に現れた人影は』緑色の植物のような髪と肌を持った『まだ幼さを残した少女のようだ。』そうだ、忘れていた『しかし、そんな彼女は敵意を剥き出し君たちを睨みつけている。』彼女たちのことを。
「この樹海は我らが聖地。この警告を無視し先に進んだ時…その命、無いと思え!」
 そう叫ぶ『少女は君たちを脅かすような言葉を告げ身をひるがえす。人ではない生物…』彼女を自分は『彼女がそうなのだろうか?』これから、きっと。
『君たちは樹海の奥に潜り調査する必要性を改めて感じ取りさらなる奥へと進むことにする。』
「……なんだ? あいつ」
「……変な子。なんか、髪とか肌とかおかしくなかった?」
「どこか植物のような印象を受けたな。葉緑素でも入っているのかもしれん。ああ、そういえば確か、樹海に住む謎の生物について調べろとかいうミッションを受けていたな……ディック、それについてなにか……おい、ディック?」
 ディックは口を開けなかった。答えられなかった。なぜ、忘れていたのだろう。なぜ、ちゃんと考えもしなかったのだろう。ずっと、最初から自分はきちんとその現実を、残虐というも生易しいその事実を認識もしてこなかったのだ。
 自分たちは、これから、ひとつの種族を壊滅に追い込むのだという事実を。
「おい、ディック、なんとか言ったらどうだ」
「……ちょっと、ディック、大丈夫?」
「……ディック」
 くい、と袖を引っ張られる。下から子供のように大きな瞳が自分を心配そうに見上げる。
「大丈、夫?」
「―――っ」
 ぐいっ、とディックは、セディシュを抱き寄せていた。ひざまずき、セディシュと頭の高さを合わせて擦りつける。セディシュの体温を、肌触りを、体で感じたかった。そうしなければ、自分が一人ではないと言い聞かせなければ、心が折れてしまいそうだった。
「……セディ」
「……うん?」
「セディ……っ」
「うん……」
 ただ名前を呼ぶしかできない自分に、セディシュは優しい声で何度も答える。涙が溢れそうになるのを、堪えることができずにぐりぐりと胸に縋りつく。そんな自分を、セディシュはただぎゅっと抱きしめて、何度もキスを落としてくれた。
 そんな自分たちを、仲間たちがどんな目で見ているかということに、気付く余裕もなく。

 その数日後、ギルド『フェイタス』はコロトラングルを倒し、第三階層を突破した。

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