死の都

 薬をぶっかけるや落とされた首が見る間に繋がり、セディシュは勢いよく立ち上がった。横のアルバーの攻撃とタイミングを合わせてクイーンズボンテージを振るい、レンの腕へと鞭を叩きつけ巻きつかせる。
 当然巻きついたのは一瞬だけだったが、幸い見事に腕を封じることができたようで、レンが小さく舌打ちをするのが見て取れた。いける、と拳を握り締め、セスの援護で瞬時に医術防御を立ち上げたディックは叫ぶ。
「畳み掛けるぞ!」
「おうっ!」
 叫んでアルバーが宙を駆けハヤブサ駆けを放つ。空を舞う斬撃に、「ぐ……っ!」と呻き声を立てつつツスクルが倒れた。
「ツスク……!」
「人のこと心配してる場合!?」
 叫びながらセスが三本連続で放った矢をレンは受けようとしたが、彼女の反応速度よりセスの矢の速度は速かった。次々と体に突き立てられる矢に、レンはごふっ、と血を吐く。
「……っ」
「退くな!」
 わずかにひるんだセスに叫んでエリアキュアUのスキルの立ち上げに入る。大丈夫だ、ここでは彼女たちは死なない。死なない、はずだ。それを自分は知っている、はずなのだ。
「……ふっ!」
「せぇいっ!」
 セディシュが鞭を振るい、アルバーが剣を振るう。二度の斬撃が別方向からレンを襲う。歯を食いしばってこちらに踏み込み刀を振るおうとしていたレンの瞳がひっくり返り、体がゆっくりとその場に倒れた。
「……しゃあっ!」
「お疲れー」
「あんた自分もばっさばっさ斬られたっつーのによくもまー平気な顔してられるわね、クレイトフ……」
「あっはっは、まーそこらへんはあれだね、大人の余裕ってやつ?」
「似合ってねーぞー、スチャラカバードー」
 のんきな会話を交し合う仲間たちを尻目に、ディックは素早くレンとツスクルの状態を確認する。脈拍、確認。呼吸、確認。瞳孔、光反応あり。ほぅっ、と深々と息をつき、素早く身構える。拘束具の類は準備していないが、使ったとしてもちぎられてしまっただろう。ならばできることは、相手がどう動こうとも対処できるよう構えるしかない。
 と、セディシュがすい、と自分の隣に歩み寄り、訊ねてきた。
「ディック。この二人、縛る?」
「え……拘束具でも持ってるのか?」
「縄、持ってる。力入らない縛り方すれば、ちぎれないし、解けない」
「……じゃあ、頼もうか」
 と言いかけた瞬間、脳裏に文章が流れた。
『鋭い剣技と、呪言に苦しめられたがとにかく君たちは勝利した。レンとツスクルは、力尽きた体勢で倒れている。』
 さっきまで白目を向いていたレンの瞳に光が戻る。倒れたままではあったが、意識を取り戻したようだ。それはツスクルも同様で、わずかに身じろぎをした。ばっと仲間たちが武器を構えたが、ディックはあえて構えずレンたちを見つめる。
「ヴィズル…、ダメだったようだ。彼らはもう、私たちを超えた熟練の冒険者になってしまった」
『さみしそうにレンは呟く。』
 小さな声だったが、確かに聞こえた。虚ろで寂しげなかすかな声。それは確かに人の、感情や心を持つ存在の声だと思えた。――思えるだけは。
「君たちの勝ちだ、冒険者よ。先に進むがいいさ、もう…私たちは止めやしない」
 わずかにレンは身じろぎ、そして少し間を置いてから言葉を再開させる。本当に普通の、強くはあるが普通の人間に見えた。見えてしまう。本当にそうなのかなど、知れたものではないのに。
「この最下層で、ヴィズルが待っているはずだ」
 今度はツスクルが口を開き続ける。
「そこに行けば…、樹海のことモリビトのこと、そして、何故君たちを倒そうとしたか…」
 さらに今度はレンが。
「彼が全てを語ってくれる。君たちがたどりつけたら…な」
『二人はそう告げると、力尽きたかのように肩を落とす。しかし、息絶えてはいない様子で小さく言葉を続ける。』
「さぁ、行け、冒険者よ。我らに気使いは不要だ。これを持って進むがいい」
 ディックは、脳裏の文章に思わず目を瞬かせた。気使い? なんだ、それは。普通なら気遣いと書くところではないのか?
 これは、誤植? なのか? 馬鹿な、なぜそんなものが。世界の根源的な問題に関わるであろうこの話≠ノ、なぜ誤植なんてものがある? それとも、この話≠ヘ本当は少しも大したものではないとでもいうのか?
 それとも、それとも――ぐるぐると回る思考になど気づきもせず、レンがゆっくりと懐に手を差し入れ、金属でできたカードに見えるものをこちらに差し出してくる。
『レンは、小さな金属片を君たちに差し出す。』
「己が正しいと信じる道を歩むが良い…。まだ先は長いからな」
 とりあえず無言のままに受け取ると、二人はのろのろと立ち上がった。
『そう告げると二人は、傷付いた体を起こし樹海の奥へと歩き出す。』
 その文章と共に二人はのろのろと歩き出す。――のろのろと。そのはずなのに、あっという間にその姿は小さくなり、見えなくなった。ここは差し渡し百m、長さ数百mというとんでもない大きさとはいえ確かにまっすぐな丸太橋の上だというのに。
《カードキーを手に入れた》
『どうやら、迷宮の最後も近いようだ。君たちは警戒しながら先へ進む事にする。』
「……ってなんか思わず見守っちまったけど、いいのかよ、あいつら放っといて? あんなぼろぼろじゃ迷宮ろくに歩けねーだろーしさ」
「ていうかまた敵になる可能性もあるでしょ。……いっそ、一思いにやっちゃった方がよかったんじゃないの」
「それはねーよ。あいつ、そこらへんはきっちりしてそーだったからな。一度負けたってのにまたのこのこと顔出すってことはねーだろ」
「あんたの人見る目を信用しろって? あたしに?」
「う……いや、そりゃ、俺はそんな観察眼鋭いってわけじゃねーけどさ……」
「それはない」
「……それも、頭に流れ込んでくるデータ、ってやつ?」
「ああ」
「……ふーん。まー、いーけどね」
 肩をすくめ、セスは腕を突き出す。
「治してよ。あたしたちけっこーぼろぼろなの」
「……ああ」
「そーだよ、セディシュ生き返ってから回復してねーじゃん! ディックとっとと回復回復っ」
「あんたセディシュ以外はどーでもいいわけ?」
「んなわけねーだろ。ただ、俺にとっちゃセディシュがすんげーすんげー特別だってだけ。なー、セディシュ」
 にかっ、とアルバーに笑いかけられ、セディシュはぎしりと固まった。顔はいつもの無表情から動いていないのに、頬は赤らめられ、喉からは「……う」としゃっくりのような音が漏れ、体がこきーんときをつけの姿勢のまま動かなくなる。
 セスがはぁ、と呆れたように息を吐き、やれやれ、というようにクレイトフが苦笑して肩をすくめる。だがアルバーは笑顔のままセディシュに軽くウインクをしてからぽんぽんと背中を叩き、「緊張すんなって」と優しく言う。
 それにようやく体から少し力を抜き、小さくうなずくセディシュを見つめながら、ディックはただ、全力で奥歯を噛み締めていた。

「……セディ。お前、アルバーのことが、好きなのか?」
 ディックの部屋のベッドで、セディシュにまた感情を吐き出させてもらってから、ディックは訊ねた。セディシュはディックの背中をぽんぽんと叩きながら、わずかに首を傾げ、それからうなずく。
「好き」
「……そうか」
 つまり、まだ恋愛ではない。第五階層に入った頃から毎日のように訊ねている質問への変わらぬ答えに、ディックは安堵してまたセディシュの胸に顔を埋めた。
 第五階層に入る少し前辺りから、アルバーの態度は大きく変わった。仲間たち全員に対してもだが、特に、セディシュに。
 労わるようになった、ねぎらうようになった、自覚的に親切にするようになった。そしてセディシュに、はっきり特別な意味を込めて『好きだ』と言うようになった。
 どういう心境の変化はわからない。だが仲間たちの大半は、このアルバーのセディシュへの猛攻勢を温かく(生暖かくと言うべきか)見守っているようだった。惚れた相手のために男を上げようとしているアルバーを(本人が自分でそう言ったのだ)応援してあげよう、というクレイトフの言葉と同じように。
 それに対し、セディシュの方は特に反応を返してはいない。いつも通りの淡々とした無表情で普通に対応するだけだ。
 だがアルバーはめげずにセディシュに笑顔を向け続ける。そして口説く、というほどでもないが、ときおりしっかりと特別な好意を伝える。
 そうすると、セディシュはいつも赤くなって固まるのだ。「なんと言っていいのかわからなくなる」「なぜかわからないけどひどく恥ずかしくなる」というのが本人の弁。だがはたから見ると、それはまんざらでもない好意をぶつけられて恥じらう乙女……ではないが、ともかくそんなような状態にしか見えない。
 だからディックは、どうしても不安になる。ならずにはいられない。もしセディシュが、アルバーに本気になってしまったら。
 この腕は、胸は、体は、あいつのものになってしまうのだから。
 ふ、と小さく息を吐く。以前の自分なら軽蔑していた思考だろう。いや、今も自分は嫌悪を感じてはいる。個人と個人の自立した関係ではなく、相手に一方的に、それも精神よりもむしろ肉体に依存する関係。
 醜く、汚らわしく、あってはならない関係と感情なのだろう。そんな関係に浸る自分も、等しくそうなのだろう。確かに、自身自分の今の状態を客観的に見つめてみてそう思う。
 ただ、それでもセディシュの腕を離すことはできないというだけで。
「……セディ」
「なに?」
 頭をセディシュの胸に擦りつけながら、小さく囁く。
「すまないな。俺の、こんな……憂さ晴らしにつき合わせて」
 視線を合わせることができなかったから表情はわからないが、首を傾げるような気配があったのち、「なんで?」ときょとんとした声での問いが返ってきた。いつも通りのこいつの答え。物心ついた時から奴隷としてしか扱われてこなかった、明らかに歪んでいるのにまったき純粋さに満ちたこいつの。
「……わかってるのにな。本当に、すまない」
「よく、わからないけど。俺は、ディックの役に立てるの、嬉しい」
「……うん」
 小さくうなずいてまた頭をすり寄せる。暖かい。痺れるほどに幸福な温度と感触。自分の不安も恐怖もすべて受け止めてくれる感触。
 そんな扱いがどれだけセディシュを一方的に利用する、身勝手極まりないものか承知しつつも、この感触を知ってしまった今では、一人で世界と戦う気概はとても湧いてこなかった。

「……少し休憩するか」
「さんせー……なんつーかホント、行けども行けども終わりが見えねーなー……」
「治癒の泉見つけたから少しはマシだけど……ここらの敵ぶっちゃけ強すぎ」
「だよなー。あのアルマジロとかどんだけ固いんだって話だよ」
「てゆーか攻撃力高すぎ。雑魚敵のくせして医術防御がないとキツイってありえないでしょ」
 てんでに腰を下ろすやアルバーとセスはにぎやかに喋りだす。セスのアルバーへの態度はずいぶん改善されたな、とそんなことをちらりと思った。なにがきっかけなのだろう。もしかしたらこの二人、性質的には気が合うのかもしれない。
 セディシュはちょこん、と自分の横に座り(自分のすぐそばに座ったことに、ディックはいじましい満足感を覚えた)、ヴォルクはセディシュとアルバーの中間辺りに座って息をついている。
 破滅の花びらを焼くのに便利なので、ヴォルクはB23Fに下りた頃からよく働いてもらうようになった。もっとも長期戦向きではないので、新しい場所を本気で探索する時はクレイトフに来てもらうことの方が多いのだが。
 この中間辺り、という位置の取り方に、ヴォルクのセディシュへのスタンスがよく見て取れる。無関心ではいられないが、はっきり関心を表して他者と争うのははばかられる、というのがよくわかる位置取り。
 当然だ、と思う。同性愛を高らかに歌い上げられるほど、恥を捨てられる人間はそういない。人と違う、普通と違う、そういうことから感じる仲間外れにされることへの恐怖のようなものだけでなく、自分たちのしていることがいろんな意味でまっとうでない、と知っている人間が自分は同性愛者ですなどと胸を張って言えるはずがないのだ。
 だから、そんな感情を堂々とぶつけられるアルバーが、ディックは怖かった。こんな休憩時間でも、以前と違って自分とセディシュの間に割り込んでこなくなった、確かに人間として成長したのだろうアルバーが。
「……そろそろ行くか。あともう少しでマップの端だ、おそらくは階段があるぞ」
「っし! もーひと頑張りすっか!」
 ぶんっ、と腕を振ってアルバーが立ち上がる。同様に他の仲間たちも立ち上がり、隊列を組んだ。
 それからも一、二度魔物の襲撃を受けつつも、なんとかあしらってだいたい予想通りの場所にあった階段を見つける。それを息を乱さない程度にゆっくりと昇る。
 この建物はおそろしく背が高いせいか、入れる場所を見つけるまでに上り下りする階段がおそろしく長いのだ。たぶん探索する階は今まで同様五階分だろうとは思うのだが(相当な階を移動しても地図の表示はB22Fだったので)。なので体に疲労を溜めないよう医者としては気を遣う。迷宮の肉体に疲労を感じさせない力に上限がないという保証はどこにもない、と気づいたので。
「お、また階段じゃん!」
 B23Fまで戻ってきて周囲を探索すると、すぐにまた上りの階段を見つけた。おそらくはこれでまたB22Fに戻るのだろう。
「まったく……どれだけ上り下りさせれば気が済むのやら」
「だよね。絶対これまでで一番厄介な階層だよね、ここ」
「まぁ、深く潜れば潜るほど難易度が上がるのは理屈にかなっているがな。……お」
 B22F。そう地図に表示される階まで戻ってきて、ディックたちは目を瞬かせた。目の前にすぐ壁がある。一応階段を上がりきってからも空間はあるのだが、せいぜいが百m、一マス程度のスペースしかない。
「なにこれ……何度も上り下りさせられて行き止まりがコレ?」
「まーいいじゃん、さっきのとこに扉あったしさ、まだ道途切れたわけじゃねーし。とりあえず、ここ探索して地図描こうぜ。ディック、頼むな」
「ああ……」
 アルバーの当然のような大人の対応に神経がささくれ立つのを感じつつも、一歩を踏み出す――やいなや、また脳裏に文章が流れた。
『君たちは、謎の遺跡の中階段を上ってきた…。降りた先は、すぐ目の前が壁でどこにも行くことはできない。』
『階段に戻ろうとする君たちだがふと目の前の床に、黄ばんだ紙が転がっているのを目にした。』
「? これって……」
「前にもあったよな。ここの遺跡のことが書いてある紙」
「だな。古代語が書いてある……読むぞ」
『手にとると、今にも粉々になりそうな紙に、かすれた文字が見える。』
「我ら……七名の………研究員にて……発足……。地球を……救……。……滅びを……」
『文字を追う君たちの手の中で紙は自然に粉に散っていく…。恐らく、遥か昔のものだったのだろう。 もうここには他に目につくものはない。君たちは後に戻ることにする。』
「あっ、また崩れた!」
「この、残されたメッセージっつーの? どれもこれもすぐ崩れるし飛び飛びにしか読めねーし、結局ここがどーいうとこなのかとかわけわかんねーよな」
「まぁこの建物からするとそれこそ数百年、数千年単位の時間が過ぎているんだ、これだけ読めただけでも上等と考えるべきなんだろうが」
「まーな。実際さー、フツーに考えてありえねーもんな。地下にどんどん潜ってったらそこには空が広がってました、なんて。しかも外は見渡す限りにすんげーでかい建物がごろごろ建ってるし」
「やっぱ、これも世界樹の力ってヤツなわけ? なんか前のメッセージでそれっぽいこと書いてたよね。プロジェクトユグド、とかなんとかなんか謎の言葉」
「プロジェクトユグドラシル――古代語で世界樹計画、という意味の言葉だろうと前も言っただろう。文章の前後から推察すると、地球という、人類の住まう場所……それこそ世界単位での表現だと思うが、それを救うために誰かが世界樹の名を冠された研究をしていた、それを妻の待つ日本とやらいう場所でも続けるつもりだった、ということらしいがな」
「あと、もー一枚こーいう紙あったよな。女の人が世界樹に囚われて永遠の命を得たんだっけ?」
「そこまではっきり言いきれるわけではない。ただ、その女性がヴィズルという名の夫を残していったことだけははっきりしている。エトリア執政院の長と同じ名のな。偶然にしてはできすぎた話だが」
「だよ、ね。……ディック、あんたはどういうことなのか知らないわけ?」
「……はっきり知っているわけじゃない。俺がこの第五階層のことで知っているのは遺都シンジュク――世界樹の下に古代の遺跡の連なる地下ではありえない世界が存在しているということと、レンとツスクルと戦う羽目になること、あとはヴィズルが最後の間に待っているということぐらいだ。この場所の歴史やらなにやらを事細かに知ってるわけじゃない」
 そもそも、そんなものが存在するのかどうかすらわかってはいない。この世界が幻でないという保証はどこにもない。自分たちの生きてきた当然そこに在ると思っていた世界ですら、ひどく当てにならないものだと、自分は知ってしまっている。
 それを告げたこいつらがそれを理解しているかどうかは、ディックは知らないし知ろうとも思わないが。現実を認識させて、ただでさえ不安定な世界をますます生き延びにくくしたくはない。
「ヴィズルが、ね……」
「あのおっさんが最後の敵ってやつなんかな、やっぱ。フツーに考えたら黒幕だけど」
「さぁな。太古から生き続けてきた世界樹の根源に関わる化け物なのか、名前を継いでいるのか、それともただの偶然なのか。なにを考えて暗躍しているのかはさっぱりわからんが……長を殺したとされて犯罪者扱いされなければいいが。まぁ、迷宮の奥では見る者もいまいがな」
「なんにせよ……モリビトたちをあんだけぶっ殺してやってきた迷宮の奥なんだ。納得すんだけの価値のあるもんだとうれしーんだけどな」
「……ちょっと。やめてよ」
「お、悪いな」
 低く呟いたあと、アルバーはすぐにからっとした笑顔を浮かべる。単になにも考えていないようにも見えるが、瞳には今までにはなかった落ち着きと、芯の徹った強さがあった。
「けどさ、どういうことにしろさ、全力投球でいきたいよな。たぶんもーすぐ、迷宮探索終わりなんだろーからさ。悔いとか残したくねーじゃん」
 にかっと笑ってそう告げるアルバーに、セスとヴォルクもつられたように笑みを漏らす。セディシュは真剣な顔で、こっくりとうなずいた。アルバーはそんなセディシュを見て、また小さく笑う。セディシュはきょとんと首を傾げてから、また真面目な顔でこっくりとうなずく。
 そんな確かに感情の通い合いを感じさせる光景から、ディックは目を逸らした。そうだ、おそらくは、もうすぐ終わりなのだ。迷宮探索も、世界樹も、自分の世界も。
 ――だというのに、自分はなぜ、こんなことばかり気にしてしまうのだろう。こんなことばかり。自分が唾棄すべきものとして軽蔑してきたことばかり。
 アルバーとセディシュが繋がりを強めるたびに怖くなる。自分を抱きしめてくれるあの腕が、胸が、なくなってしまうのではないかと。
 それが愚かなエゴにすぎないというのは、わかっているのに。自分はセディシュを愛しているのかどうかすら、わかってはいないのだから。

 は、とディックは目を開けた。目に入ってきたのは自分のベッドの枕だ。
 重い頭を上げて、周囲を見る。自分の部屋の自分のベッド。寝る前と違っていたのは、セディシュは部屋から出て行ってしまったらしいことだった。セディシュはなにも用事がなければ起きるまでついていてくれるが、人に呼ばれたりやることがあったりするとディックを寝かせたまま出て行く。当たり前だが。それが当たり前なのだが。
 ふ、と息をつき、ディックはベッドから下り身支度を整える。いつも通り陽の高さは変わっていなかったが、頭の重さと腹具合からしてそろそろ起きるべき時間だろうと思えた。世界樹の中にいれば腹は減らないが、外にいるならば時間は過ぎていなくとも腹は減る。アキホと、意外にもレヴェジンニがかなり料理上手だったので負担は減ったが、彼女たちに労働を割り振るのも自分の仕事だし、次の料理当番は自分だ。
 新しいシャツに腕を通して、窓から空を見上げる。蒼い空。シンジュクの空とは明らかに輝きが違う。
 それはここが偽りの大地≠セからなのか。小さく息をつき眩しい空の彼方に目をやった。
 世界樹というものがどういうものなのか。ディックは一応の見当はつけていた。
 それはおそらく、環境改善システムのようなものだろう。シンジュクの、あのどこまでも続く灰色の死んだ世界を復活させるために、太古の人類が創り出した研究成果。
 ヴィズルはおそらくその研究主任のような立場にいた人間。妻と子を失い、それでも生き延びて研究の結末を見届けようとして世界樹と同化した。太古の滅びし文明の遺産。そう言うと誌的な匂いがしてしまうが、そういうものだ、と理解できていた。
 そう、理解できてしまえていた。論理的にではなく、むしろ感覚的に。
 情報としてはアルバーたちに語ったのと同程度の情報しか自分は有していない。あとはB22Fに三つ存在した太古の文書から得た情報ぐらいだ。そしてこれまでの迷宮探索で得た情報。
 それだけで世界樹を環境改善システム、と断じてしまうのは早計だ。想像の飛躍が激しすぎる。が、ディックはそれが真実だとわかってしまっていた。読み取れてしまうのだ。行間を読むように、伝わってくる概念から。
 なぜ、そんなものが与えられるのか。ディックはそれが、まるで理解できなかった。まだまるでわかってはいないのだ。今現在、なぜ自分たちがエトリアに閉じ込められているのか。スキルその他の特殊能力はいったいどこからくるものなのか。自分の脳裏に浮かぶ文章は、与えられた情報は。それらは世界樹が太古の環境改善システムだと知れようが、まったく説明することができない。
 なぜ、自分なのか。なぜ、自分はひとつの種族を滅ぼしてまで、決まりきった意味のない結末に向けて進んでいくのか。……なぜ、自分は、こうも、一人なのか。
 また、小さく息をつく。本当に、なぜこんな無駄で無意味なことを考えてしまうのだろう。自分だけがこんなことを考えて、自分だけが周囲の勢いに乗り切れず、自分だけが勝手に苦しんでいる。セディシュの抱きしめてくれる腕がなければ、自分は引きこもりになってしまったに違いない。
 窓の下には裏庭が見える。アルバーがいつものように剣の稽古をしているのが眺められた。なにが楽しいのか、爽やかで楽しげな笑顔を浮かべながら剣を振るうその姿に、ディックはまた息をついた。
 と、母屋から裏庭に繋がる扉から、セディシュの白い頭が出てくるのが見えた。
「……っ」
 一瞬呼吸を止めながら、見られないよう身を隠しつつ様子をうかがう。さほど大きな声ではなかったが、セディシュに笑顔で話しかけるアルバーに、セディシュがうなずきながら言葉を返しているのは見えたし、聞こえた。
 大した話ではない。用事がどうしたのスヴェンたちがどうしたの、という世間話に類別されるような話だ。だが、それでもディックは飢えた獣のような視線で二人の様子をうかがった。
 と、アルバーがふいに、ちょいと口をセディシュの耳元に寄せ、何事か囁いた。
 セディシュはきょとんとした顔でそれを聞き、一瞬ののち、ぼんっ、と顔を赤くした。また口説くようなことを言ったのか、と忌々しくそれを見つめる――と、セディシュは表情を変えた。
 笑ったのだ。無表情というか、淡々とした顔を柔らかく変えて。嬉しげに、優しく、そして少し照れくさそうに。今まで見たことのない、けれど確かに死ぬほど幸せそうな笑顔で。
 ディックはづぎん、と胸になにかが突き刺さるのを感じた。
 は、は、と呼吸が荒くなる。心臓が苦しい。痛い。狭心症か、とちらりと思って、すぐに笑った。
 わかっている。これはただの心臓神経症だ。置いていかれるのが怖い子供の駄々だ。一人になるのが怖くて、胸が、痛い、だけだ。
 馬鹿な。どうして、自分はこんなに弱くなってしまったんだ。自分は大人になったのに。もうずっと前から、一人で立てる存在だったはずなのに。
 眼下でアルバーがひどく嬉しげに笑う。セディシュを抱き寄せ、抱きしめる。セディシュはされるがままになっている。アルバーの体に隠されて顔が見えなくなった。
 自分には関係ない。なにも言える義理じゃない。自分はセディシュが好きなのかどうかすらわからないんだから。ただの肉体的快感を与えられる相手、心身を依存させるだけの一時の宿木、きちんとした恋愛感情なんてものは、恋愛関係なんてものは、自分とセディシュの間には存在しないんだから。
 アルバーが、顔をかがめた。顔を近づけているんだ、とわかった。恋人のように。セディシュの小さな体を抱き寄せ、抱き上げて、唇を、唇に―――
 だっ、とディックは駆け出していた。部屋を飛び出し、階段を駆け下り、廊下を走って裏庭へ走駆する。
 わからない、わからない、自分が止めていいのかなんてわからない。ただのセックスフレンドに対する独占欲と、肉体の情欲と、エゴに満ちた薄汚い性欲とこの感情がどれほど違うのかなんてわからない。
 だけど――セディシュが、自分のそばにいてくれないのは、死んでも嫌だ!
「セディっ!!!」
 裏庭に駆け込み、大声で叫ぶ――が、返ってきたのはこんなきょとんとした声だった。
「なんだよ、なに慌ててんだ、ディック?」
「……え」
 裏庭にいたのはアルバーだけだった。剣を鞘に収め、汗をタオルで拭きながらこちらを見つめている。
「……セディは?」
「セディシュならスヴェンたち迎えに行くって出てった。すぐ戻ってくんじゃね?」
「………そうか」
 気が抜けて、ずるずるとその場にしゃがみこむと、アルバーが少し驚いたような顔で歩み寄ってきた。
「おい、大丈夫かよ? なんかあったのか?」
「……なんか、って」
 自分から大切なものを取り上げようとしている男に言われると、なんというか、ひどく腹が立つ。
 ディックはのろのろと体を起こし、我ながら暗く、底冷えのする視線でアルバーを見つめ、言った。
「アルバー。お前、セディが好きだ、って言ったよな」
「言ったぜ。今もすげー好き。一生一緒にいてーなーってしょっちゅう考えてる」
 平然とした笑顔で言われ、イラッ、と神経が尖るのを自覚する。ぐらぐらと煮え立つような感情が溢れそうだった。こいつを、傷つけてやりたい。少しでもこいつにダメージを与えてやりたい。
 震える拳を握り締め、アルバーを睨み、ディックは笑った。
「わかってるのか、お前?」
「なにが?」
「あいつは、今も俺に抱かれてるんだぞ?」
「…………」
 アルバーの顔から、表情が消えた。なにを言ってる、やめろ、引き返せ、理性は全力でそう告げるが口からは言葉が流れ出て止まらない。
「さっきまでだってあいつは俺に抱かれてよがってたところだ。これからだって何度でもあいつは俺に抱かれてくれるだろうさ。お前がどんなにあいつが好きでもな!」
 まくし立てながら、ざぁっと血の気が引くのを感じた。なにを言ってるんだ、俺は。こんな、こんな。仮にも仲間に、仲間の品性を貶めるようなことを言うなんて。正気の沙汰じゃない。許されることじゃない。
 だけど、止まらない。
「あいつは仲間なら誰にだって股を開いてくれるからな。今だって誰に抱かれてるか知れたもんじゃない。あいつはこっちの気持ちなんてどうだっていいんだよ! あいつは男なら誰だって」
 ばぎぃん、という音がして、ディックは十歩近く後ろに吹っ飛んで壁に後頭部をぶつけずるずると倒れた。顎が、唇が、歯が、背中が後頭部がひどく痛い。だが、その痛みに比する以上の、殴られて、それ以上のことをされて当然のことを自分は言ったのだとわかっていた。
「……っ……っ………」
 死んでしまいたいほど、惨めだ。
 自分はこんな存在になりたかったわけじゃない、こんな人間になるために今まで必死に頑張ってきたわけじゃない。自分は、もっと、素晴らしい、尊い、価値のある、敬われるような。
 この期に及んでそんなことを考えている自分が、死にたいほど呪わしい。こんな自分、消えてしまえばいいのに。
 ぐい、と腕を引かれた。立ち上がらせられる。また殴られるのか、と反射的に身構えたが、拳は飛んでこず、代わりにぱんぱんと背中をはたかれた。
「泣いてんなよ、みっともねぇなぁ。男だろ。もーちょい根性据えろよな」
「……アル、バー」
「なんだよ」
 あっけらかんとした顔で自分を見下ろすアルバーに、ディックは驚愕すら覚えながら呟くように訊ねる。
「怒ってるんじゃ、ないのか……?」
「すんげー怒ってるよ」
 やはりさらりと告げる。
「……なら、なんで、そんな」
「我慢してんだよ。今お前足腰たたなくなるまでボコるのも、男としてなにかな、って」
「男として……?」
「お前がさっきみてーなこと言いたくなる気持ち、なんつーか、わかんなくもねーから」
「え……」
「俺に嫉妬したんだろ」
 あっさりと言われて、かぁっと脳味噌が熱くなった。その勢いのままに子供のように怒鳴る。
「なんでそんなに平然としていられるんだっ……! お前は、腹が立たないのか!? 嫉妬しないのか!? 他の男に抱かれても、平気だっていうのか!?」
「んなわけねーだろ。するぜ。しまくってんよ、今だって」
 じろり、と上から眺め下ろされる。戦士だけが持つ圧倒的な気迫に、悔しいが一瞬体が震えた。
「すっげーする、嫉妬。以前からずーっとしまくってたし、今だってしまくってる。あいつに他の奴の手が触れるって考えただけで、ムカつくしイライラするし。セディシュがお前の部屋に行くたび、マジお前殺しちまいてーなーって思う。実際何度かやりかけた」
「………っ、なら、なんで」
「けど、俺は、すげー男になりてーなって思ったんだ」
「……すげー、男……?」
「あー。男としてさ、生まれたからにはやっぱ自分をすげー男だって誇りてーじゃん。それにさ、あいつが……セディシュがどんだけひでー人生送ってきたのかとか知ってさ、自分で自分を誇れるぐらいの、あいつ包み込んでやれるぐらいの男じゃなかったら、あいつの隣に立てねーと思ったから」
「…………」
 セディシュの、人生。物心ついた時から、虐げられる対象としてしか存在しなかった人生。自分に価値が存在しない、権利も存在しない人生。なにも自分のものがなかった人生。
 だから、自分たちに、仲間に当然のように、ありったけのものを捧げ続けるあいつ。
「自分がそうしたい、そうなりたいって思った。だったら死ぬ気でやるしかねーじゃん。あいつに頑張って優しくするし、強くなるために剣の稽古もするし、仲間のこと死ぬ気で守る。そんだけ」
「……そう決めるだけで、感情が、抑えられるのか?」
 アルバーは肩をすくめた。
「完全にってわけじゃねーよ。やっぱそー決めてもムカつくもんはムカつくしいちいち嫉妬もする」
「…………」
「けどさ。そんなの、当たり前だろ」
「……え?」
「仲間って思ってる奴にもさ、ムカつく時はムカつくし。そんかわり仲良くしてー時もあるわけだし。こういう関係だからこうこう、ってそんな単純に気持ち決められるわけねーじゃん」
「…………」
「セディシュにだってさ。可愛くて可愛くてしょーがねーって気持ちとか、愛しいっつーか幸せにしてやりてーっつーかそーいう気持ちとか……ヤりてぇ犯してぇ突っ込んであんあん言わせてやりてぇっつー気持ちとか、いろいろ入り混じっててそーいうのがその時々で強くなったり弱くなったりするしさ」
「……は?」
 思わずぽかんと口を開けると、アルバーはにやっと悪童めいた笑みを浮かべ、ぺろっと舌を出した。
「実はさ、お前の見てねーとこでけっこーいちゃついたりしてんだ、俺ら」
「…………」
「チューとかしょっちゅーだし、この前エッチさせてもらった。好きって言いながらエッチしたら戸惑ってたみたいだけど、恥ずかしがりながらも感じてくれて、好感触、みたいな?」
 にやー、とスケベったらしく笑うアルバーに、ディックは震える声で訊ねる。
「お……お前、あいつを大切にしたいみたいなこと、言ってなかったか?」
「してーけどさ。実際してるつもりだけど。けど、やっぱヤりてーもんはヤりてーじゃん」
「…………」
 なんと言っていいかわからず、ひたすらに呆然とするディックに、アルバーは笑って言った。
「言っとくけど、以前みたいな気持ちでヤったわけじゃないぜ。マジで好きで惚れてて、だからそれこそ死ぬ気でヤりてーんだって思ったしそう伝えまくったつもり。あいつのことが大切だって気持ちも、俺にはすんげーホントなんだから」
「…………」
「なんかさ。煮詰まって、いろいろ悩んでさ。そんで突き抜けてさ。ちょっとわかったんだ。きれいも汚いも、両方あるんだな、って」
「……両方?」
「うん。俺のセディシュへの気持ちには、大切にしたい、幸せにしたいってきれいな気持ちも、ヤりてーめちゃくちゃにしてー自分以外見させねーよーにしてー自分勝手に自分の思うよーに扱いてー、って汚い気持ちも両方あって、どっちもホントなんだなって。だからさ、俺はどっちの気持ちも、ちゃんと持ってる、わかってるすげー男になるって決めたんだ」
「…………」
 アルバーの言葉の意味が、ディックにはよくわからなかった。
 人間はきれいな気持ちだけでできているわけじゃない。それは当たり前のことだ。だが、だからどっちもちゃんと持っているわかっている男になる、とはどういう意味なのかわからなかった。
 だがアルバーは、ディックの目の前でにやん、とまた笑ってみせた。少し悪人っぽく、だが力強く、そして妙に懐の深い優しさを感じさせる、いってみれば男っぽい笑みで。
「だから、お前が嫉妬すんのもわかるしそれちょっとぶつけられたくらいで嫌いになったりはしねーし、きっちり受け止めて守ってやっけどさ。手は、ぜってー抜かねーかんな」
 そう言ってアルバーは剣を腰に差したまま、裏庭を出て行った。
 ディックはそれを呆然と見つめる。なんだ、今の言葉は。まるで自分がアルバーにとって、嫌いな存在ではないかのような。
 いや、自分もアルバーを憎いと思っているわけではない。……だが、いなくなってくれればいい、ぐらいのことは確かに思っていた。アルバーもそう思っているだろうと思っていた。
 それが、まるで、仲間として大切に思っているかのような。
「おおー、アルバーカッコいいねー。男らしーじゃん」
「そうだな。着実に男を上げてるって感じだ。正直、俺ちょっと負けてるかも」
「っ!?」
 ばっと驚愕の視線を裏庭のアルバーの出て行った母屋の方とは別の出入り口に向ける。そこには、クレイトフと、スヴェンと――
「セディっ!?」
「……うん」
 こくん、とセディシュはうなずく。いつものようにあどけなく。だが、その頬にはかすかに朱が差しているのが見て取れた。
「えー? 俺らのこと無視?」
「そんなわけないだろうっ……いつから、見てたっ」
「アルバーが『完全にってわけじゃねーよ』つった辺り?」
 小さくほっと息をつく。少なくとも、完全に見られてたわけじゃないわけか。
「まあ、君らのバトルは家中に聞こえてたらしいから、経緯はどうとでも知れると思うけど」
「っ!」
「もちろんそんなことはしないだろうけどね、セディシュは」
「そうだなー、セデちゃんはなー」
「…………っ」
 かーっ、と顔が赤くなるのがわかる。この分では、自分が泣き喚いてアルバーに詰め寄ったことはギルド中に知れ渡るに違いない。いまさら見栄を張ってどうなる、と思いつつも、やはり今すぐ死にたいほど恥ずかしかった。
「なんなら相談に乗るよー。クレイトフおにーさんの悩める青少年相談室は常時窓口を開いております」
「……いらんっ」
「ふーん、ならいいけどさ。あんま煮詰まんないよーにね。アルバーがすごく思えるのも、自分が死ぬほど情けなく思えるのも、人と生きてりゃ、特に若けりゃ当たり前のことなんだからさ」
「え……」
 笑って身を翻し、離れから母屋に向かうクレイトフの後ろで、スヴェンが微笑みながら声をかけてくる。
「ディック」
「……なんだ、スヴェン」
「このギルドを立ち上げ、人を集め、俺たちを誘ってくれたのは君だ、ディック」
「……は?」
「だから、俺は君にはすごく感謝してるんだ。俺より年下なのに懸命にギルドの運営のために尽力するところとか、仲間の命のためになりふり構わず必死に頑張るところとか、すごく尊敬してる」
「は……?」
「だからさ。俺は、君を見捨てないよ。少なくとも世界樹の迷宮を踏破するぐらいまではね」
 にっこり笑顔でそう言って、クレイトフ同様に身を翻し、母屋の方へと去っていく。その姿を、ディックは呆然と見つめた。
「……なにが、言いたかったんだ」
 思わず口からこぼれた一言に、セディシュはわずかに首を傾げた。いつものように。それからこくりとうなずいて、いつものように淡々とした表情でこちらの方を見て言う。
「ディックのこと、好きだ、って言いたかったんだと思う」
「は……」
「ディックのこと、大切だ、って言いたかったんだと思う」
「…………」
 ディックはぽかん、と口を開けた。意味がわからない。
 仲間が精神的に落ち込んでいる時にメンタルケアを考えるのはわかる。だが、それになぜ好きの嫌いのという感情が入ってくるのだ。自分は彼らになにかをしてやったわけではない。ギルドマスターとしてギルドメンバーに相応の扱いを与えてきた以外のことは、なにも。
 彼らからすればわけのわからない情報を元にわけのわからないことを主張する狂人と考えられてもおかしくない。少なくとも自分は彼らに友人扱いされるようなことをしてやった覚えはない。ただギルドの仲間としての関係があればそれでよかったからだ。ここのところはむしろ、ギルド内に不和を撒き散らしてばかりだという自覚がある。
 なのに、なぜ、唐突にそんな。
「……なんで、そんなことを」
 セディシュはきょとん、とした顔で首を傾げた。
「なんで、って?」
「俺は、好意を受けるようなことを、してはいないのに」
「そう?」
「お前にならまだしも……俺は、あいつらに、ことさらに親切にしてやったわけでもないのに」
「そう?」
「……そうじゃないっていうのか」
 セディシュはこくん、とうなずいた。
「ディック、みんなに、いろんなこと、してる」
「どんなことをしてるって、いうんだ……」
「探索の時、傷治してる」
 セディシュは淡々とした表情で告げる。
「っ……そんなの、ギルドに属してるなら当たり前の」
「治す時、大丈夫か、って聞いてくれる。痛くないように、頑張ってくれる。迷宮から戻って、傷が治ってないまま放置、っていうのがないように、注意してくれる」
「そんなの……ただの人間関係を円滑にするための技術だろう」
「毎日ちゃんと、料理作ってくれる。家事も、頑張ってくれる。ギルドの財政、破綻しないように、いろいろ考えてくれる」
「それは……その方が、俺の目的に有用だからっていう、ただそれだけの……」
「そう?」
「そうだ……」
 セディシュはわずかに首を傾げ、それから淡々と、けれど真剣な顔で言った。
「でも、俺は、すごく、嬉しいって思った」
「……それは、お前が、今まで与えられることが極端に少なかったからそう思うっていうだけで」
「そう?」
「そうだ」
「でも、みんなも、嬉しいって思ったと思う」
「なんでそんなことが言えるんだ……」
 セディシュはまたわずかに首を傾げ、あっさりと言った。
「ディックのために、頑張ってるから」
「頑張ってる? なにをだ」
「ディックのやってた仕事、代わってる」
「……は?」
 ディックは思わず目を見開いた。思ってもみない言葉だった。
「セス、以前はディックが全部やってた素材のチェック、ほとんど全部受け持ってる。新商品のチェックも、してる。アキホ、料理頑張って、ディックの負担減らしてる。食材の買出しとか、やってるし。洗濯とか、掃除とか、ゴミの始末とか、以前は全部ディックがやってた細かい家事、いちいち、気をつけてる」
「……は……?」
「レヴェジンニ、アキホと一緒に、家事とかしてる。あと、みんなや、ディックがちゃんと眠れるように、気をつけてる。呪言とか、使って。眠らないとか食べないとかが、一番、よくないからって。みんなの健康、気をつけてる」
「は………」
「ヴォルク、世界樹のこと、頑張って調べてる。ちゃんと、謎、解き明かすって。ディックとの、関係とか、全部わかるようにするって。クレイトフ、みんなが元気に頑張れるように、みんなのこと、支えてる。いつも、笑ってられるように、って。スヴェン、手が足りないとこ、真っ先に気がついて、助けてる」
「………は」
「アルバー、みんなのこと、守ってる。迷宮でも、だけど、外でも。いっつも、元気に、先頭で頑張って、みんなが負う傷とか、苦しいこととか、めいっぱい引き受けてる」
「……なんだ、それは……」
 呆然と呟くと、セディシュはまた首を小さく傾げた。
「なんだ、って?」
「なんでそんなこと……いややっていたとしてもそれはあいつら自身のためじゃ……いや違う、そうじゃなくて、そうじゃ……」
 そうだ、確かに自分は、今までよりはるかに探索時以外では楽な生活をしている。最低限の当番以外はずっと部屋に篭もってセディシュに慰められているだけだ。
 だが、今まで失念していたが、それなら当然それまで自分がやっていた雑事全般の肩代わりをする人間が必要なはずだ。それを彼らが行っていてくれた。それは、わかるのだけれども。
「……だけど、だからって、なんでそれが俺への好意に結びつくんだ。他にやる奴がいないから仕方なくやってるんじゃないのか」
 セディシュはまた、小さく首を傾げた。
「そう?」
「そうじゃ……ないのか。そういう行為が即好意に結びつくわけじゃない。俺だって、そうだったんだ……」
「ディックは、仕方なく、やってたの?」
「……いや、違う、もっと悪い……」
 自分のその時の心理を省みて、ぞっとした。
「俺は、そういうことをやることで、少しでもみんなに、恩を着せようと、思ってたんだ」
 醜い。なんて、醜い自分。それなのに、その時自分は、それが少しも間違ったことだと思っていなかった。むしろ知性的な行動だと自賛さえしていた。
 なんだ、これは。自分は弱くなったんじゃない。惨めになったんじゃない。最初から自分は弱く惨めな、愚かな存在だったんだ。自分では意識していなかっただけで。
「そんな奴に、誰が好意なんて抱いてくれる。しかも今は先に進むことに怯えうろたえるギルドメンバーとしてすら信頼できない奴に」
「俺は、ディック、好きだよ」
「っ」
 わずかに首を傾げてから言い放たれた言葉に、思わず心臓が跳ねた。
 ……そういえば、セディシュにストレートに『好き』と言われるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
「みんなも、ディックのこと、好きだと思う」
「っからっ……なんで、そんな」
「だって、ディック、頑張ってるから」
「……は?」
 意味がわからず目を瞬かせると、セディシュは真剣な顔で繰り返した。
「ディック、頑張ってるから。怖くても、逃げないで、頑張ってるから。しなくちゃいけないこと、ちゃんとやってるから。だから、みんな、助けたいって思ってるんだと、思う。仲間が辛かったら、できること、してあげたいって、みんな思ってると思うし」
「…………」
 頑張ってる。
 その言葉を聞いた時、胸の辺りがざわっ、とざわめいた。
 それでも怖くて、認めるのが怖くてただ首を振る。必死に否定する言葉を紡ぐ。
「だからって……今の俺は、こんなに、愚かで、惨めな……」
 セディシュはまたきょとん、とした顔をして、言った。
「愚かで、惨めだと、いけないの?」
「――――――」
 一瞬、言葉を失った。
「……っだって……だってなぁ! あまりに格好がつかなすぎるだろう! あれだけ知性溢れるギルドマスター、って役をやっておきながら、こんな、ずたぼろに、崩れて……」
「格好がつかないと、いけないの?」
「……っ……わかってるよ、ただの俺の見栄だってことは! けど、けどな、それでも俺はこれまでの人生必死に頑張って理想の、完全な自分の在り方を目指してたんだ! それが、こんなに、簡単に崩れるなんて、どう考えたって、笑い話にしかならないっ……」
「なんで?」
「なんでってっ……」
「だって、当たり前」
「……は?」
「自分が崩れるの、人といたら、当たり前じゃ、ないの?」
「……は……?」
 セディシュはいつものきょとんとした顔で、首を傾げて淡々と告げる。
「一人だと、なにがあっても、普通でいられるけど。どんなことやっても、言っても、誰もなにも言わないから。でも、人といたら、めちゃくちゃになる。むちゃくちゃなこと、考えたり。変な反応、しちゃったり」
「………え」
「それが、当たり前だって、教えてもらった。人とちゃんと、一緒にいるなら、そうなるのが、普通だって。人がいるなら、完全ではいられない。カッコつけてはいられない。世界は自分だけでは完結しない、って」
「……それは」
「クレイトフと、スヴェンに、教えてもらった。他人と一緒にいて、その人がちゃんと好きだったり嫌いだったりするなら、どうしたってみっともなくなっちゃう、って」
「…………」
 ディックは、反論しようとして口を開き、言葉を探して、結局そのまま閉じる、ということを何度か繰り返した。
 人といたら崩れるのは当たり前? そんな馬鹿な理屈があるはずはない。他人の存在により人間がさまざまな感情を抱くのはもちろんだが、それを制御し他者に認められるような形で表してこそのホモ・サピエンスだろう。社会性のある人間というのはそういうものだ。感情の乱れを肯んずるような思考法が、正しいはずはない。
 そんな言葉ならいくらでも思いつく。けれど、そんなことを言ってもなんの意味もない。
 わかってしまっていたからだ。それは、今の自分にとっては、ただの理屈にしかすぎない。人生の中でそういう経験をしたことがないから偉そうに言える、ただのおためごかし。安全な場所から戦っている人間を眺めて自分勝手に論評している意味のない理屈。
 自分はあの時、セディシュが自分のそばからいなくなってしまうかもしれないと思ったあの時。自分の感情がどんなに自分勝手なものか知りつつも、必死に走らずにはいられなかったのだから。
「……俺は……今まで、ちゃんと、他人と一緒にいたこと、なかったの、かな」
 半ば独り言のように呟くと、セディシュがまた首を傾げた。
「そうなの?」
「……ああ。そうだな。たぶん、そうなんだと思う」
 空を見上げる。空はやはりどこまでも蒼い。雲は真白に輝き、陽光は緑や家々をまばゆく照らす。自分などの感情とは、まるで関係なく。
「俺はこれまで『うまくやる』ことしか考えてこなかったんだな。要領よく、効率よく、って。目的を達成するためにはそれがベストだと思ってたから……」
「そうなんだ」
「ああ。それが悪いとは今でも思ってないし、無駄に空回りするよりはいいことだとも思う、だけど……」
 人間は、少なくとも俺は、そんなに、ただ器用に生きていくことは、きっとできはしない。その人間の人生は、実際にそれを体験した時の感情は痛みは苦しさは、こうだからこうすべき感じるべき、なんて理屈では抑えられるもんじゃない。それを、自分は迷宮に潜って、知っていたはずなのに。
「……何度も、繰り返すんだな」
「なにを?」
「同じ過ちを。わかっていたはずの体験を。知っていたはずの理屈を、何度もなぞって……」
 空は、世界は、怖ろしいほどまでに、どこまでも広い。自分の存在の確かさすら危うくても。明日世界が終わるかもしれなくても。
「……わかっていて当然だと思っていたことがわからなくて。認めなくちゃいけないことが認められなくて……」
 自分の感情も、弱さも、醜さも。――好意も、理想も、マシなところも。
 直視することができなくて、必死に目を背けて。真正面から向き合わないで、あるがままにそういうものだと認められないで。
 それでも世界は回っていて。自分一人のものじゃなくて。いろんな人がいろんなことをそれぞれの理屈で考えて感じて、それぞれの想いの元に行動していて。
「きれいも、汚いも、両方あって、どっちもホント……か」
 ただひとつのものだけで語れてしまうほど、世界は、人は、単純ではないということも、なかなか認められないで。
 そしてそんな自分の想いも知らぬげに、世界は今日も、当たり前のように広いのだ―――
 知らず、目が閉じられた。顔がうつむく。今までそんなことはほとんど思ったことがなかったけれど、自分は、ものすごく。
「……俺は、弱い人間だな」
 呟いた言葉に、セディシュは首を傾げた。
「そう?」
「そうだろう……弱くて、馬鹿で、自分一人だけ利口ぶっていて、世間知らずで……」
「そう?」
 あくまできょとんとした口調で問い返すセディシュに、つと顔を上げ訊ねる。
「そうじゃないと、思うのか?」
「わからない」
 セディシュは淡々と首を振った。いつものように、表情を変えず。
 それから、ふわっと、その顔が笑う。
「でも、ディックは優しい」
 笑顔だ。セディシュの。あの、最初に見た時からずっと、こんな自分ですら素直に可愛いと思ってしまうような、今すぐ死んでもいい、とでもいうようなほど蕩けそうに幸せそうな笑顔。
「すごく、優しい」
 ディックはそれを見つめ、またしばらくうつむいて、顔を上げ、微笑んでセディシュの頭を撫でた。
「そうか」
「うん」
「セディ」
「なに?」
 首を傾げるセディシュに、ディックは微笑みながら告げた。
「俺は、お前のことが好きだよ」
 セディシュは目を見開いて、固まった。それでも微笑みながら見つめていると、ゆっくりと体から力を抜き、そして頬をほんのり赤く染めてにこ、と微笑む。
「俺も、ディックのこと、大好き」
「……そうか」
「うん」
「そうか……」
 ディックはまた微笑んでセディシュの頭を撫でて、それから少しセディシュを抱きしめて泣いた。

「……そういうことで、明日……というか、休憩のあとにヴィズルのいた迷宮の最奥に挑もうと思う」
 迷宮から戻ってくるなりのミーティングでそうディックが言うと、一瞬居間の中は静まり返った。
「……つまり、最終決戦ということになるわけか。まだろくに謎も明かされていないというのに、性急なことだな」
「だがこれ以上引き伸ばしてもなんの意味もない。迷宮の地図はすべて描いたし、クエストも全部クリアした。俺もレベルがカンストした。引退するにしろなんにしろ、迷宮探索が一段落ついてからの方がいいだろう?」
「それは、まぁ確かに。今ディックが戦力外になるのはキツいよね」
「……もちろん、お前らがまだやりたいことがあるというなら付き合うが」
 ディックとしてはかなりの勇気を振り絞って言った一言だったが、仲間たちは顔を見合わせぷっと吹き出した。
「なーんだよ、急にしおらしくなっちゃってさ。いーって別に、お前がそれがいいって決めたことならそんなひでー間違いはねーだろーし」
「なんのかんの言いつつボス戦ってそんなに苦戦はしないぐらいのタイミングでやってきたもんね」
「実際、世界樹の研究にめどがつくのは最低でも年単位で時間が過ぎたあとだろうからな。ヴィズルから直接聞き出した方が早かろうとは思うし」
「……そうか」
「そーそー。で、他には? なんか連絡事項ないの?」
「……曲がりなりにも迷宮の最奥に潜む謎――おそらくは最強の敵に挑むというのに、ずいぶん、その……平然としているんだな」
「うろたえたってしょーがないじゃん。まー、実際こんなにフツーの顔してられんのはなんか迷宮の謎パワーでどうにかされちゃってんのかもしれんけど?」
「それでも俺たちのやるべきことにもやりたいことにも変化はないよ。どういう結果に終わろうと、今してることがしたいことに一致してる以上、後悔はない」
「したいこと……?」
「もち、ろん。みんなで、世界樹の迷宮を制覇する、ことよ」
「少しでも拙者がそのお役に立てるなら、これほど嬉しいことはありません」
「……そうか」
 ディックがなんと言えばいいのかわからずうつむくと、クレイトフが笑った。
「ディッたんそんなに考え込まないでー。君が俺らのこと大切に思っちゃってるから心配なのはわかるけどさっ」
「別に、心配とか、そういうわけでは……」
「ま、俺らは俺らできっちり覚悟決めてるってことだよ」
「そーでなきゃこんなとこまで一緒に来ねーって。第五階層に下りてからもー迷宮内と宿屋の時間だけで一ヶ月以上経ってるんだぜ、この迷宮がどんなとんでもねーもんでもさ、見極める覚悟ぐらいできてるよ」
「……お前らは、なんで迷宮の最奥にまで潜ろうと思うんだ?」
『は?』
 数人に声を揃えられて、ひどく恥ずかしくなりながらもディックは続けた。これは、これだけは聞いておきたかったのだ。
「なんでお前らはこの迷宮の最奥にまで潜ろうと思うんだ。街の長を殺したとして犯罪者扱いされるかもしれない、それどころかこの世界が崩壊したとしてもなにもおかしくないってのに」
「んー……そーだな」
 アルバーがぽりぽりと頭を掻き、にかっと笑って言った。
「俺はぶっちゃけ、長がどーとか世界がどーとかってどーでもいーんだよな」
「……考えもしないのか」
「考えなくはねーけどさ。そんなん俺らが今考えたってわかりっこねーじゃん? 謎解き明かす材料がまるでねーんだし」
「それは……そうかもしれないが」
「俺はさ、単純にさ、最後までやり通したいっつーか、中途半端嫌っつーか。いろんなことあって、いろんなことやって、よーやくこんな奥までやってきたんだから、きっちり最後までやり終えたいんだ。……それにさ、みんなが、仲間が迷宮行くんなら、守ってやんなきゃじゃん。仲間が危ないとこ行くの、放っとけねーだろ」
「そーね、セディシュとかがね」
「うっせーなー、一番はセディシュだけどお前もちゃんと守ってやるってのー」
「……あたしあんたに守られるほど弱くないけどー?」
「ちぇっ。ま、とにかくさ、俺はそんな感じ。言っとくけど、とーぜんお前も守ってやる範疇だかんな、ディック」
 にっ、と笑って拳を突き出すアルバーに、なんと答えようか数秒迷う。その間にヴォルクが口を開いた。
「俺も、似たようなものかもしれんな。世界樹の謎を解きたいという気持ちはあるが、それならなにも独力でやらずとも執政院でもなんでも動かせばいい。そういった行動を起こさずただ冒険者として行動するのは、たぶん……」
「たぶん?」
 ヴォルクは一瞬口ごもってから、苦笑して言う。
「冒険者としての生活が、予想外に面白くなってしまったからだろうな。お前らと……その、なんというか……仲間、と共に迷宮の謎を解き明かしたい、と思っているのだろうと、思う」
「僕も、気持ちとしては似たような感じですね」
 エアハルトがくすくすと上品な笑い声を立てる。こういう何気ない所作にいちいち品があるのは、やはり育ちのよさというものなのだろう。
「今のこの生活が楽しくて、冒険者として迷宮に潜るとわくわくして。スリルとロマンなんか求めちゃったりして。……仲間を守りたい、とも確かに思いますし。それに、実利的にも、今の行動が一番効率がいいとも思っているんです。執政院の、エトリアという街の歪みの根源であるヴィズル。極端な権力の集中や、街の発展のために迷宮は常に謎のままで、だなんて馬鹿馬鹿しい理屈を振りかざしての冒険者の抹殺だなんてたわけたことをする理由を探りつつその影響を排除するには、直接対決がベストでしょう」
「あんたいちいち台詞があやしーわよ」
「では、セスさんはどういう理由で?」
「え、あたし? あたしは……まぁ。やっぱやり始めたことを途中でやめんの、やだし……あたしがいないと勝てない敵とかいっぱいいるだろーし。だったら、手伝わないのも寝覚めが悪いかな、って。……それにっ、世界がどーだろーと金はいるもん! なら強い敵がんがん倒して高い素材狩るしかないでしょ!」
 顔を赤くして怒鳴るように言うセスの言葉に、スヴェンは笑って繋げる。
「俺も似たようなものかもな。まぁ、俺は自分が主役になるとは思ってないけど。生きるためには金がいる。で、家族……とか仲間とか、そういうもののために金を稼ぐのは大人の仕事さ。なにかをやろうとする奴らの後押しをしてやるのはね。それにどんな仕事でも、自分が必要とされるのは嬉しいしさ」
「ふーん。スヴェンらしいというかなんというか」
「そういうクレイトフはどうなんだよ」
「俺? 俺はサーガを作るって目的があるもん。最後まで付き合うのは当然だろ? それにさ、俺らは今それこそ世界に関わるような大事の中心にいるんだぜ。こーんなわくわくする話、最後まで見ないって手、ないだろ?」
「……そうなの、ですか……」
「それに俺、みんなのこと命懸けてもいいってくらいには気に入ってるしさ♪ アキホちゃんもね?」
「は、はいっ!」
 顔を赤らめてこくこくとうなずくアキホに、レヴェジンニが静かに突っ込む。
「あなたも、言ったら? 最後まで付き合う、理由」
「は……拙者は武の道を究めんとする者です。強敵と仕合うのは望むところ。それに……拙者、冒険者として……な、仲間であるみなさんと共に在りたいですしっ! みなさんのお役に立てるなら、刀を持った甲斐があると、そう思えますのでっ!」
「……そう」
「そ、そういうレヴェジンニ殿はどうなのですかっ! 最後まで共に在ろうとするからには、それ相応の理由があるのでしょうっ?」
「……そう、ね。簡単、よ。私は、楽しく、生きたいから」
「……は?」
「楽しく、生きたいから、謎を謎のままにしておくのは、嫌。縁のあった人間を放置しておくのは、嫌。そして、今、この生活を面白い、と思って、いるから私は、ここにいる」
「……え、ええと、つまり、レヴェジンニ殿もクレイトフ殿のような……?」
「少し、違うけれど、まぁ、似たようなものと思っても、かまわないわ」
「じゃ、トリはセデちゃんだねー。セデちゃんはなんで迷宮に潜るの?」
 問われて、真剣な顔で話を聞いていたセディシュはきょとんと首を傾げた。それから少し考えるように顔をうつむけてから、淡々と言う。
「ディックが、そばにいてくれって、言ったから」
『…………』
「……それだけ?」
 セディシュは、ふるふると首を振る。
「アルバーが、背中預けたぜって、言ったから。ヴォルクが、頼んだぞって、言ったから」
「……おい、もしかしてそれ」
「エアハルトが、頼みますって、言ったから。セスが、しっかり盾になれって、言ったから」
「……お前、それ、全員分あるのか?」
 セディシュはこっくりとうなずいた。
「スヴェンが、金稼ぎは任せておいてくれって、言ったから。クレイトフが、最後まで一緒にいてあげるよって、言ったから。アキホが」
「だーっ、もーいいっての! よーするに、あんたは仲間のために一緒に戦う! それでいいんでしょ!?」
「うん? うん」
「こんのー、可愛いこと言ってくれんじゃねーか! このやろこのやろっ」
「まったく……勝手なことを言ってくれる。お前は実際どこに目をつけるかわからんな」
「ヴォルクさん顔が緩んでますよ」
「セディシュ、君は本当に……やれやれ。まぁ、いいさ。しっかり金は稼がせてもらうよ、約束だし……仲間だしね」
 わいわいと喋りあう仲間たちをしばらく見てから、ディックは目を閉じた。
 仲間。そうだ、仲間がいるんだ。一人ではないんだ。
 頼る相手でもなく、尽くす対象でもなく、依存する存在でもなく、上から恵みをくれる上位者でもなく。そばにいて、必要な時に、手を貸し、貸される。それが当たり前な、関係。
 そんなことにも、自分は気付かなかったのだ。
「……そうか」
「お? どったのディッたん」
「俺は、子供だな……」
「は? なんだよ突然」
「それがわかりゃじょーとー。みんな自分が子供だって、立派じゃないって、天才でも選ばれた存在でもないって、目の前の世界をなにをどーすりゃいーのかわかんないって心の底から思い知って、そんでよーやく生き始めるのさ」
「……そういうものなのか?」
「そーそー。だからみんなして考えて、どーにかこーにか落としどころ決めるんだよ。政治にしろ、世界にしろ、レンアイにしろ、人生にしろ。そんでなんとかしてみんな幸せにできりゃチョーハッピーってね」
「まぁ……ね。人間、つまんないって考えながら生きるよりは、できるだけ幸せな時間が多いよう努力しながら生きる方が楽しいからな」
「そっ。いろんな奴がいて、それぞれ勝手にいろんな馬鹿なことやそこそこ筋の通ったこと考えたりしてて、めいめい夢見たり飯の種稼いだりして、そんでぶつかり合ったり触れ合ったりする。いい面もあれば悪い面もある、でも世界ってのはそーいうもんだし、人生ってのはそーいうの呑み込んでバランスとりながら生きてくってことだ。夢もロマンも絶望も現実も、全部それぞれにそれぞれの場所で必要とされるし当然のもんなのさ。どんな感情も欲望も、それがそこに在るならば大切ってこと」
「なにが言いたいのかよくわからなくなってきてるんですが」
「あはは、要は人生舐めんなよってことだね。世界ってのは都合よくいかない。だから面白いって人もいりゃくそったれって呪う人もいる、どっちが正しいのかはその人次第。きっちり生きなきゃわかんないことは腐るほどあるさ……好きな奴と一緒にいちゃいちゃしたりすんのがどんだけ幸せかとかもね。これ、二人以上じゃないとできないこと」
「……以上ってなによ」
「……そっか」
 ふいに、セディシュが口を開き、呟いた。
「ん? どした、セディシュ」
「ちょっと、わかった」
「なにが?」
「俺、幸せなんだ」
 ひどく真剣な顔で、ものすごく大切なことを言う時のように重々しく。
「え……」
「すごくすごくすごくすごく、幸せなんだ」
 そう告げてから、にこ、とあの幸せそうな微笑みを浮かべる。
「みんなのこと、大好きなんだ」
「……セディシュ」
「すごい。人生って、ほんとに、すごいね」
「……そっか」
「……そうかもね」
「だよな……」
「……そうだな……」
 人生は、すごいのだ。頭の中だけで考えたことで済ませられないほど。世界は、たった一人の思惑だけで動くほど軽くもなければ、狭くもきっとない。
 自分が世界がどう動くかもわからないのに簡単に最後の戦いに赴くのは、それを確かめたいからかもしれない、と、ディックはセディシュを、今ならはっきりと愛おしいと言える、幸せそうな笑顔を浮かべながらこちらを見つめるセディシュを見返し、そんなことを思った。

「だぁっ!」
 爆炎が敵の体を焼くのから一刹那だけ遅れて、アルバーが炎をまとった敵の体に斬撃を加える。純粋な炎となった斬撃は、世界樹の王の体を大きく斬り裂いた。
「ふっ!」
 セスの矢が素早く三本打ち込まれる。セディシュの鞭がびしぃっ、とその上腕部を斬り裂く。
 次のターンで医術防御が切れる。素早く注意深くスキルを立ち上げなければ。ディックは薬品を準備し、脳の中でスイッチを入れる――
 より早く、ずごぅっ! と空気が逆巻いた。風が、気流が刃と化して自分たちの体を斬り裂く。ずばぁっ、とディックの腕が、セディシュの腹が、アルバーの足が次々斬り裂かれた。
 だが、まだ生きている。死んでいる人間は一人もいない。
 レベルは充分、スキルも十全。全員すべきことやれることをわきまえている。ならば。
「負ける要素は……どこにもないっ!」
 炎が逆巻き、刃となってヴィズルの体を斬り裂き、そして世界樹の王は低く呻き声を上げて動きを止めた。
「……やった!?」
「……の、か?」
 全員まだ武器を構えつつ、様子をうかがう。だが、ディックにはもうわかっていた。これ≠ヘもう活動を停止している。
 美しく花々で彩られた、世界樹の根。それはもう動かず感じず考えない。人であったものなのに。人として生きていたはずのものなのに。
 ……人、だったのか? 本当に?
『…何処かで何かが壊れる音がした。小さなそれでいて確かな音は、一つの世界の終わりを示していた。』
 ひとつの世界の終わり。それはこんなにもたやすく、軽いものなのか。
 ……軽いものなのか?
『君たちの前で、恐ろしい力を見せていた世界樹から長の体が転がり落ちた。木々をおおっていた人の思念も消え長の体もどこか干からびたように色あせて見える。』
 干からびた人の体。数百年、数千年、もしかしたら数万年生き続けてきた人の体。それでも終わりはこんなにも、あっさりと。それは、理屈には合っているけれども。
『千年を超える古き昔より大地を見守っていた男が、今、君たちの前に倒れている。世界樹は、活動を停止した。汚れた世界がどこまで再生していたのか…今となっては知る方法もない。だが、諦めることはない。危機と困難は乗り越えるためにある!』
 なんだ、それは。結局なにが言いたいんだ? 自分たちはここまで、ひとつの種族を滅ぼし、人を傷つけ、山ほどの命を奪って、それでも必死に生きてきて――結局また人を殺し、世界を癒すためのシステムを壊すことしかできなかったと、そういうことなのか?
『この迷宮すら踏破した君たちなら、どんな難題にも怖気付くことはないはずだ。冒険はここで終わる。しかし忘れてはならない。君たちには、真実を伝え、この大地を守っていくという新たな使命があることを………。』
 終わる? こんなに、簡単に? 世界も、人生も? 自分の感情とはなんの関わりもなく? そんな、馬鹿な。
 だが確かに世界は終わっていく。スタッフロールが流れ、街の人々の声が伝わってくる。終わるのか。終わって、しまうのか?
 街の人々の顔は変わらない。普段と、通常と、なにもかも。レンとツスクルの顔でさえ。なぜ? 世界が、人生が終わるのに、なにも変わらず、そのままに?
 なんで、なんで、なんで――必死に首を振り叫ぶ、その行動をもはや知覚することすらできない。周囲はどこまでもひたすらに、闇。見えるのは、感じられるのはただ文字、それだけ、そして――
 そのまま世界はぷつん、と消えた。

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