子供の領分

「DSって、知ってるか」
 二十六階から二十五階へと上る階段を進みながら、ディックが言った言葉に、周囲はそれぞれわずかに眉を寄せ首を振ってきた。
「いえ……なんですか、それ? なにかの特殊用語とかですか?」
「あたしたちに聞かれても、その手の謎言葉とかわかんないわよ」
「俺はそれなりに医学用語に対する知識もあるつもりではあるが……それでもまるで聞いたことがないな」
「俺も俺も〜。なに、ディッたん、それなんの用語? なんかのキーワードとか?」
 ディックはわずかに苦笑し、首を振り返す。
「いや、大した言葉じゃない。ただ……ふいに、頭に浮かんだだけだ」
「……ふぅん」
 クレイトフは笑って軽くエンジェルハープをかき鳴らす。実際これから雷竜に挑もうという状況で言い出す言葉ではなかったろうが、仲間たちは全員苦笑しただけで済ませてくれた。今の自分の状態を、それだけみんな理解してくれている、ということなのだろう。
 まぁ、もっとも、と苦笑する。そのくらいで怒り出すような神経では、今の迷宮探索はやってられない、だろうが。
「……見えた」
 セシア(もう全員にバレてるんだから、と引退する時に本名に登録しなおしたのだ)が小さく呟いて弓を構える。全員素早く武器を構え直した。
「お、ホントだねー。あの黒玉がそうなわけ?」
「そのはずだ。三竜のうちの一体、『雷鳴と共に現る者』。世界樹でも最強の魔物のうちの一体だ」
「……なるほど。そしてそいつと戦うためには、僕のスキル、ショックガードLV5が必要、と……」
「ああ、頼むぞ? 三竜戦ではお前の力が必要不可欠なんだからな」
「三竜戦しか♀躍させてもらえる場がないというのは正直どうかと思うんですが」
 うぐ、とディックは言葉に詰まったが、エアハルトは涼しい顔で階段の上の黒玉を見つめている。怒っているわけでも苛立っているわけでもない、自分の役目を心得ている人間の冷静な表情だ。
 ならば、こちらにできることは信じて託すことしかない、と小さくうなずき、ディックは全員を眺め回して言った。
「確認するぞ。向こうがやってくるのは全員即死級のダメージを叩き出すサンダーブレスと、強化の打ち消しと、ダメージを一桁にする防御技、それから個人に対する驚異的なダメージの吸収攻撃だ。強化を常時かけておくと、向こうは強化の打ち消しとサンダーブレスを交互にやってくる傾向が強い。つまり」
「俺はひたすら安らぎと猛きを交互にかけてー」
「あたしはサジ矢とダブショで攻撃しまくって」
「俺は雷以外でひたすら攻撃」
「僕はひたすらショックガードで、ディックさんはひたすら医術防御、というわけですね」
「最初の一ターンは不意討ちなんだから、無駄にするなよ。ミスさえしなければ雷竜はそう難しい相手じゃないはずだ。……かといって、一度で済むかどうかはわからんが」
「あー、じゃー本気でやるんだ……アイテムが出るまで何度もリセット≠オて戦いまくるっつーの」
「やらんでどうする。黒FOEは復活が遅いんだからな。この雷竜は磁軸から近いからリトライに苦労はしないし」
 きっぱり言い張るディックに、仲間たちは苦笑し肩をすくめつつも拒否はしなかった。それだけ彼らも、今の状況に慣れたのだろう。自分同様に。
「よし……行くぞ!」
 パーティ全員が揃って一歩を踏み出すや、巨大な黄金の竜へと変じた黒玉に、ディックたちは全力で打ちかかった。

 ディックたちのギルドフェイタス≠ェ第六階層を探索するようになって、もうかなり長い時間が流れているような気がする。誰かが迷宮に潜るか、宿屋に泊まりでもしない限り流れない時間のせいで時間の感覚がなくなっているのもあるのだろうが、それ以上にもはや数えきれないほど自分たちが探索のやり直し≠しているからというのが大きいだろう。
リセット∞やり直し∞電源off=c…ディックが半ば当然のように口にする言葉のせいでいつの間にかギルド内に定着してしまった用語。自分たちがやっていることはその言葉と同じくらい、意味がわからずわけのわからない代物だった。
「…………」
 ディックは屋敷の居間に座り、じっとなにかを考えるように目をつぶっている。実際には、目を開けていると混乱するからなのだ。脳内の映像と眼球に映る映像を、同時に並立させて処理するのは、できないことはないが疲れるやり方だった。
 脳内には、スヴェンたち採集組が第六階層を移動している映像が映っている。第六階層の素材は他と比べて桁違いに高い。たとえ採集場所にたどり着くまでに全滅する可能性がそれなりにあろうと、行かないわけにはいかなかった。
 失敗して危機に追い込まれるようなことがあっても、要は全滅する前に電源を切≠チてしまえばいいだけなのだから。
「はい」
 ことり、と目の前になにかを置かれる音にはっと目を見開く。そこにはセディシュが盆を持って立っていた。目の前のテーブルにはお茶。自分のために淹れてくれたのか、と思うと顔が自然に笑んだ。
「ありがとう、セディ。すまないな、いつも」
「うん? ううん」
 いつものようにきょとんとした顔で少し首を傾げてから首を振る。それにお茶を軽く啜って「うん、うまい」と笑んでから訊ねてみせる。
「『ううん』というのはなんでなんだ? いつもじゃない、ということか? それとも感謝する必要はない、ということか?」
「うん? うん……あとの、方。俺がただ、やりたいからやってること、だし」
「そうか。なら俺も感謝したいから感謝しただけだ。お前がお茶を淹れてくれたことと、その気持ちが嬉しかったからそう表しただけ。それで問題はないな?」
「うん……うん」
 考えるように首を傾げてからうなずくセディシュに、ディックは微笑んでくい、と腰を抱き寄せる。
「? ディック?」
「セディ。お前は、俺が感謝をした時、どう思った?」
「うん……嬉し、かった。あと、ちょっと、恥ずかしかった、かも」
「それはなんでだか、わかるか?」
「……俺が、ディックを好き。だから?」
「そういうことだ」
 くい、と頭を下げさせて、ちゅ、とキスをする。セディシュは一瞬きょとんとしたが、すぐに首に腕を回してちゅ、ちゅ、とキスを返してきた。
「……なんで、俺がキスをするか、わかるか?」
「うん……? ディックが、俺を、好き、だから……?」
「そうだ。俺がお前の、体も、心も、全部大切で、同時にほしいと思ってるからだ。だからキスしたり、体に触ったりするんだ。わかるよな?」
「うん……うん」
 こっくりうなずくセディシュに微笑みながら、また何度も唇を触れ合わせる。その狭間から舌を差し込み、絡め合わせ。お互いの体に触れ合い、少しずつ互いの息を荒くさせて。
「……愛してるぞ、セディ」
「……うん。俺も、あい、してる。と、思う」
 上気した顔でつっかえつっかえそう言ってくるセディシュに、苦笑しつつ愛を込めてまた軽くキスを落とし。そのままゆっくりと一緒に座っていたソファに倒れこみ――
 かけたところで、がっし、と力強い手にそれを阻まれた。ち、と小さく舌打ちしながら手の持ち主を見上げ、予想通りの赤い髪とよく陽に焼けた顔が自分たちをぎろりと見下ろしているのに、白い眼で見返してやった。
「街を見回ってくるんじゃなかったのか、アルバー」
「お前の方こそ、スヴェンたちの様子見てんじゃなかったのかよ」
 ぐい、とその太い腕で自分とセディシュを引き離し、自分とセディシュを挟んで反対側に座る。のみならずぐいっとセディシュの体を引き寄せてちゅっ、とキスをするのに、ディックは少しばかりむっとした。
「他のギルドメンバーのいるところでセディに手は出さない、と決まったのを忘れたのか、お前」
「先にやったのお前だろ。人がいないからって居間でヤんなっつの、それこそルール違反だろ。なー、セディシュ?」
「うん? ……うん。ごめん」
「お前が悪いわけじゃねーって。手ぇ出された方なんだし」
「でも、約束、ちゃんと、守らなかったの、俺もだし」
「……ん。まー、そだな。けどまー、今回見ちまったの俺だけだしな。じゃ、悪いって思ってんなら、俺にもっかいチューしてくんね? それでチャラ!」
「わかった」
 素直にもう一度、今度は首に腕を回して触れ合わせてくる唇をアルバーは嬉しげに受け、自分からも返す。その口付けは次第に深くなっていき、舌を差し込み絡め合わせ、二人の体は少しずつソファに――
「コラ」
 ぱかん、とセディシュの持っていたお盆でアルバーの頭を叩く。何気に重い金属製なので、それなりに痛かったのだろう、アルバーは頭を上げてディックを睨んだ。
「ってぇなっ」
「さっき言った言葉の舌の根も乾かないうちにそれか。自分で言ったルールぐらいはきっちり守れ」
「……へーい、悪かったよ。セディシュも、ごめんな。また約束破るよーな真似させちまって」
「……うん……ううん」
「こーいう時はきっちり責めとけって。相手が悪いと思う分はさ。そっちのがこっちも気ぃ楽だし。お互い、なんつの、オープンな関係でいたいじゃん」
「いや、それも場合によりけりだろう。親しき仲にも礼儀あり、という言葉もあるぞ」
「えー、俺は言いたいことは言い合いてーなぁ。そりゃ相手傷つけるよーな言葉は絶対言っちゃいけねーけどさ、ムカついた時にムカついたとも言えねーよーな関係なんて、寂しーじゃん」
「それも一理あるといえばそうだが、そういった言い合いから家庭内争議が勃発する危険性はそれなりに高いぞ」
 そう言ってから、さっきからわずかに眉を寄せ首を傾げているセディシュに、笑顔で言ってやる。
「セディ。わかるよな? なんで俺たちの意見が一致しないか」
「……『考え方は、人それぞれ』だから?」
「それと?」
「……、『どんな人も、完全ではない』から」
「そういうことだ。俺たちの意見は意見として、お前なりの意見を構築していくんだぞ」
「………、うん」
 こっくりとうなずくセディシュに、アルバーはその後ろからがばぁっと抱きついてくる。
「そーんな難しく考えることねーって! 意見だなんだってもさ、要は思ったことなんだから! 体と頭が勝手に考えちまうことなんだからさ!」
「アルバー、お前な……」
「いーだろ、俺は思ったこと言う担当! そー言ったのお前じゃんかよ」
 にや、と笑ってみせるアルバーに、うぐ、とディックは一瞬返す言葉を失って黙るが、その一瞬の間にセディシュがするり、と腕を伸ばしディックの頭を抱きしめた。
「っ……」
「ディック。大好き」
 そして今度はアルバーの首に腕を回し、体を擦りつけるように抱きつく。
「アルバー。大好き」
 それからにこ、と嬉しい感情を確かに表した顔で微笑んでみせる。
「俺、幸せ。すごく」
「〜〜〜〜っちくしょー可愛いなぁお前はもうっ!! 愛してるぞセディシューっ!!」
「………っ押し倒すなと言ってるだろうがっ!」
 セディシュを抱き潰さんばかりの勢いで抱きしめ押し倒しかけたアルバーに一撃を食らわせ、とりあえず三人離れて座った落ち着いた状況になってから改めてお茶を啜る。脳内映像は、相変わらずスヴェンたちが迷宮内を進む姿を映し出していた。
 さっきからディックたちがなにを言っているかというと、ディックの考えたセディシュ教育計画の一環だ。ディックは迷宮を改めて進むにあたり、ギルドメンバー全員にセディシュを教育≠キるのに協力してほしいと頼んだのだ。今までセディシュの生い立ちを話してこなかった女性陣にも、きちんと説明して。
「あいつに、自分には価値がある、意味がある、と教えてやりたいんだ。子供から、あいつが搾取されていた頃からちゃんとやり直させてやりたい」
「その気持ちはわかるが……具体的にどうするんだ?」
「子供を相手にするような気持ちで、あいつに接してほしい」
 そう告げた言葉に、仲間たちはそれぞれきょとんとした顔を見せたが、ディックが懇切丁寧に説明して一応納得してもらった。ディックが実行する子供からセディシュを育て直す教育計画に、ごく普通の子供と接する感覚で加わること。してはいけないことをしたらそれはいけないと言い、いいことをしたら褒めてやることを負担にならない程度の感覚で行うこと。それを実行もしてくれたのだ。
 おかげで、と言っていいのかどうかはわからないが、セディシュとディックの間には少しずつ会話が成立するようになってきていた。今まで成立していなかったというのではないが、パラダイムのズレがさほど強くは感じられなくなってきたのだ。
 それは逆に、ディックの思考がセディシュのそれに近付いてきたというだけなのかもしれないが。なんのかんの言いつつ、愛情を込めたスキンシップがうっかりセックスに発展してしまうことも何回も経験してしまっているし。アルバー同様に。
「なー、スヴェンたちの方はどうなってんだ? そろそろ採集スポットに着く頃じゃねぇの?」
「そうだな……今は二十七階か。FOEを避けながらだからな、少しばかり時間もかかる」
「まーなー。つか、二十七階から落とし穴で落ちなきゃたどり着けねー採集スポットってどーかしてるよな」
「どうかしてるというなら第六階層そのものがだいぶどうかしてる。二十六階は一方通行のワープゾーンだらけだし、二十七階はそこら中落とし穴だらけだし」
「そっから落ちた二十八階は見渡す限りダメージ床だらけだしなー。誰が作ったんだよ、ったく」
「さぁな。二十五階までをヴィズルが作ったかどうかもだいぶ怪しいし」
「あのおっさんが世界樹作ったんじゃないとしたら……誰が?」
「いまのところ、皆目見当がつかん」
 そう言ってまたお茶を啜る。こういった会話は、これまでにも何度も繰り返されていた。第六階層の調査――というか、踏破を目指し迷宮を進むようになってから。
 ディックが迷宮外にいても迷宮内に潜った仲間たちの様子が見える、と知った時、仲間たちはそれなりに驚いたが、それは度を越したものにはならなかった。これまでにもそのように、ディックと世界樹の迷宮の間に強い繋がりが垣間見えることはあったからだ。そもそもディックがこの迷宮にやってきたのも、突然ディックの脳裏に浮かんだ映像や世界樹の迷宮の情報のためなのだし。
 ただ、カマキリに全滅させられた時のようなやり直し=\―記憶を保ったままで周囲の状況をセーブ≠オた時まで巻き戻すということをディックは任意で行える、と知った時は、さすがに大騒ぎになった。ディック自身パニックに陥りかけたのだから、当然と言えば当然だ。
 ディックは自分自身が宿屋や磁軸でセーブ≠行っていたことを、自分自身気づいていなかった。ただ当然のように、宿屋ないし磁軸に着いた、じゃあセーブしとかなきゃ、と当然のように思考し、セーブ≠行っていたのだ。
 そもそも現在においても、セーブ≠ニいうものが具体的になにをしているかディック自身わかっていないのだ。ただ宿屋か磁軸でセーブ≠行おうと思い、脳のどこかでスイッチが入る、それだけ。それさえしてあればそこまで自分の意思で(全滅しそうでなくとも)状況をを戻すことができる。
 だが、そんなことがなぜ行えるのか、世界樹の迷宮というものはいったいなんなのか、ディックといったいどういう関わりがあるのか、そこらへんのところはいまだまるでわかっていなかった。自分たちなりに調査はしているが、正直自分たちの能力を超えている部分が大きすぎる。時間の巻き戻しのようにしか思えない状況のリセットなど、太古の超技術にしても常識を超えている。第五階層にも探索できる範囲にはその手の情報はまるで残っていなかった。
 なので現在は残る手がかりである第六階層を探索するしかない、ということで全員で協力しつつ探索を進めているのだが、正直第六階層の厳しさはこれまでとは桁が違った。魔物の強さも異常なほどだったが、迷宮そのものも難解この上ない。一方通行のワープゾーンだらけだったり落とし穴だらけだったり床を歩くだけでダメージを受ける、いわゆるダメージ床だらけだったり。
 何度も何度もリセット≠繰り返し、それでもなかなか前に進めず。あっという間にギルドメンバーの一軍が引退(この奇妙なシステムを実体験した時は驚いた。ディックはなんとなく高レベルで行えばレベル1になるもののスキルポイントを多く持ってやり直せる、ぐらいに思っていたのだが、実際にやってみるとそれは生まれ変わりにも似た代物だった。脳裏に選択肢が浮かび、やろうと思えばまったく別の存在にも変身できるのだ。とりあえず、全員それまでと同じような存在になるよう選択しておいたが)してからまたレベルが70に迫ってきてしまい。
 慌てて他の面子をリセット¢O提で頻繁に投入し始めたものの、その面子もぐいぐいレベルが70に近付いてきている。ディックが脳内で情報を検索≠オ、できるだけ要領よく進んでいるにも関わらず、だ。
 それでも戦闘はひどく厳しく、肉体的に疲労はせずとも精神的なストレスが激しいので、ディックはできるだけ迷宮から回復して戻ってきたのちの休息の時間を多く取るようにしていた。なので、第六階層の探索を始めてからの時間は、これまでとは比べ物にならないほど浪費されているだろう、と思う。普通に時間が流れないので、あまりはっきりとは感じられないが。
 なので自分たちは、現在のところ世界に崩壊するような様子がないのをいいことに、迷宮で激しく戦ったり必死に地図を描いたりして戻ってきたあと、だらだらと昼寝をしてみたり、街をぶらぶら散歩してみたり(これはそのついでに今目に見える世界の状態を確かめるという目的もあるのだが)、部屋の中でこっそりセックスとかしてみたり、と厳しいのだかのんびりしているのだかわからない探索行を続けているのだった。
 ――そんな中でも、入ってくる≠烽フはあるのだが。
「なぁ、お前ら。DSって、知ってるか」
 ふいに訊ねたディックに、セディシュとアルバーはきょとんと首を傾げた。
「なんだ、それ? どSの略? 略になってねーけど」
「違う。まぁ……なんとなく、頭に浮かんだだけの言葉だ」
「……ふーん。ま、いーけどさ」
 にかりん、と笑ってアルバーは自分で淹れてきたミルクも砂糖もたっぷりのコーヒーを啜る。アルバーも何度もこんなことは――唐突に頭に浮かんだ言葉を訊ねられるようなことは経験しているのだから、気にしないことを学んでいるのだろう。
 唐突に、そして何度となくディックの頭の中に流れ込んでくる意味のわからない言葉。それをディックは折に触れて口に出し、仲間たちに訊ねた。情報を共有するという意味もあったし、単純に知っているかどうか訊ねるという意味もあったが、今までのところはかばかしい反応が返ってきたことはない。
 だが、まぁなにもしないよりはした方がいいだろう。ディックは苦笑しつつセディシュの方を向き、改めて聞いてみる。
「セディは? 知ってるか?」
 セディシュはきょとん、と首を傾げたまま、いつもの淡々とした口調で言った。
「ニンテンドーDS、のこと?」
「……はぁっ!?」
 ディックはぎょっとしてセディシュの方に向き直る。セディシュはいつものきょとんとした表情で、アルバーが自分のものと一緒に淹れてくれたコーヒーをこくこく飲んでいる。
「セディ、お前DSっていう言葉の意味知ってるのか!?」
「うん? ……ううん」
「え……し、知らないのになんで」
「意味は、わからないけど。どういうものなのかは、知ってる」
「っ、DSって、物の名前なのか?」
「俺の、知ってるやつは」
 小首を傾げてから小さくうなずくセディシュに、ディックはごくりと唾を飲み込む。自分が口にした言葉にそんな反応が返ってきたのは初めてだった。これはどういう事態なのか、脳内でいくつもシミュレーションを行いつつ慎重に訊ねる。
「お前は、DSというものが、どういうものだと記憶している?」
 が、答えはセディシュの普段通りに端的だった。
「ゲーム機」
「げ……ーム機? って、なんだ、それは。ゲーム用の……システムかなにかか?」
「システムじゃ、なくて。ハード」
「……ハード? って、難しい、堅い、強い、いろいろ意味はあるが……」
「ゲームを、プレイする時に使う……機械? みたいの」
「ああ、ハードウェアか!」
 思わず得たりとうなずくと、寄ってきたアルバーが「おい、ディック」と脇腹をつつき真剣な顔で訊ねる。
「ハードウェアってなんだよ。お前、そんなの見たことあんのか?」
「―――………!?」
 ディックは思わず目を瞠った。ハードウェア。金物類、機械装備類、兵器などの意味があるが、この場合はコンピュータ用語で、ソフトウェアに対し使われる言葉であり、コンピュータを構成している電子回路や周辺機器などの物理的実体を示す。
 そうだ。本当に、それはいったい、なんだ。
「知らない……見たことはない。はずなのに、なんで……」
 なんで自分は、そんなものを知っているのだ。いや待て、そういったことは確か、これが初めてではない。自分の知識には、経験には存在しないものを当然のように知っていること。
 それは世界樹の迷宮のデータについてだけではなく。会話の中に当然のように使用し、そしてそれを既知のものとして受け容れてきた。データ、クリア、カンスト、スタッフロール。そんな言葉を使用できるような素地はなかったはずなのに。
 それは、自分についてだけではなく。
「……アルバー。お前、この文明レベルじゃ知らないはずの言葉を知ってるよな?」
「は? ……んなの、覚えねーけど」
「知ってるだろう、レベルとかデータとかカンストとかっ」
「んな言葉普通ならだれでも知ってるじゃん」
「そうじゃなくて! そんな……なんていうか、ハイカラな言葉は知らないはずなんだよ! だってこの世界にはそんな言葉を使う機会なんてないんだから!」
「へ? ……この世界、って」
「セディ。お前もそうだよな? そうだ、お前は最初に会った時言ってたよな、エロゲがどうとか。これは本来ならこの世界にないはずの言葉だよな?」
「うん? ……どうだろ。知らない」
「じゃあエロゲとはどういうものをいうのか説明してみろ」
「エロゲは、エロい、ゲーム。18歳未満は、プレイできないやつ」
「具体的に、内容を」
「PCで、主人公がヤったり他のキャラがヤったりしてるのを、プレイする」
「そのPCってなんだ」
「うん? パソコン」
「パソコンってなんだ」
「パーソナルコンピューター。だった。確か」
「ほら。それは本来この世界に存在するものじゃないだろう。こんな、剣を振り回し魔物を斬り倒す、そんな世界にあるものじゃないはずだ」
「……よくわかんねーけどさ。それって、要は第五階層みたいな、ちょーこだいぶんめいってやつの遺したもんじゃねーの?」
「ああおそらくはそうだろう。だが、だったらなぜそれを俺たちが知ってるんだ? 俺のようにデータが唐突に流れ込んでくるというわけでもないのに、なぜ俺たちはそういった言葉を当然のように受け容れているんだ?」
 その言葉に、アルバーは少し驚いたように目を見開いた。それから、おずおずと訊ねる。
「じゃあさ。それってつまり、どういうことなんだよ」
「俺もはっきりとしたことは言えん。ただ、これだけはわかる」
 ディックは、ふ、と小さく息を吸ってから一息に言った。
「俺たち全員が、そもそも存在自体、そういった言葉を当然のものとして使う世界の誰か≠ノ作られたものである可能性が高い、ということだ」
 その言葉に、居間は数瞬沈黙した。

「……ふっ!」
 セシアのダブルショット(三本目)に、氷竜、『氷嵐の支配者』はずぅーんっと地響きを立ててその巨体をB15Fの蒼い床に崩れ落とさせた。屈強の冒険者たちでもまず瞬殺されるであろうすさまじい強敵を倒しながらも、ディックとヴォルクは微塵も喜ばずにその遺体に取り付く。
「………、…………」
「…………、…………」
「……………、駄目だ。翼骨だ」
「はぁ!? またぁ!?」
 叫んだセシア(最大ダメージソースにして要所要所のアザステでも貢献したおそらくは迷宮通してのMVP)はごろーんっと床に転がり、ばたばたばたと駄々っ子のように手足をばたつかせた。こいつがこんな真似するの珍しいなーとか気持ちはよーくわかるなーとかけどそんな真似されてもどうにもなー、とかいろいろ思うことはあったが、もはやそれを表す気力もなくディックは茫洋とした瞳で彼女を見る。
「もーっやだもーっこれで何回目よ!? 少なくとも十回以上はやってんのよ十回以上! 枯レ森からのばかばかしーくらい長い距離をえんえんえんえん歩いてきてっ、阿呆らしいくらいHPの高い氷竜をやったら時間かけて倒してっ! そんで逆鱗が取れてないからやり直し、って十回以上よっ、もーやだなんんでこんなことしなきゃなんないのーっ!」
「まー、セシアさんはずーっと、ず――――っと第一線で頑張ってますもんね。僕みたいに活躍の場が三竜戦、しかもひたすらなんちゃらガードしてるだけってわけじゃないですもんね。そのくらい叫びたくもなりますよね」
 エアハルト(いなければ三竜には瞬殺されてしまう、三竜戦の生命線)も煤けた背中をこちらに向けつつぼそぼそと呟く。クレイトフ(このポジションは場合によっては変えられるが基本的には全員のダメージを底上げしたり強化を打ち消したりと活躍できるクレイトフがやはり一番多い)があっはっはー、とナチュラルハイに笑いつつぽろーんとエンジェルハープをかき鳴らした。
「まーこれでまたしばらくは冒険は終わらないってことで! めでたいめでたいと考えよう!」
「こんなひたすらに繰り返しを行うだけの日々だったらさっさと終わってしまった方がマシだ。しかもここまでにどれだけのものを得ようがすべてなかったことになってしまうんだぞ、やってられるか」
 怨嗟に満ちた声で答えるヴォルク(博識10持ちなので活躍しなくとも三竜戦には必須)に、エアハルトが負けず劣らず暗い声で言う。
「その心配は筋違いですよ。そもそも僕たち全員レベル70ですし、ここに来るまでの魔物から得られるものなんて全部作っちゃってますから、どっちにしろ得られるものなんてなにもありませんし」
 ずぅーん、とさらに暗くなる場の雰囲気を明るくしようという気力も出ないまま、ディック(回復&防御&博識。道中の魔物と戦うことを考えると、なんだかんだで必要)も暗い声で言った。
「じゃ、リセットするぞ。いったん街に戻って、しばらく休憩しよう」
『了解……』
 やっぱり暗い声で返ってきた返事を聞き、ディックは深いため息をつきながら電源を切≠チた。
 次の瞬間、ディックたち五人は宿屋の糸目の前に立っている。時刻が午前五時に戻っているのを確認するのも面倒くさく、全員で荷物を置くべく自分たちの屋敷へと戻った。
 屋敷の前庭にいつも通り立っていたアルバーは、「お帰りー」と覇気のない声で出迎えの挨拶をしてくる。
「また逆鱗出なかったのか」
「わかってるなら聞くな」
「まーなー。実際ここんとこずーっとだもんな、氷竜倒してはリセットって生活。逆鱗全然出ねーから」
「あんたはいいわよね。屋敷でセディシュといちゃいちゃしながら待ってりゃいいんだもん、らくちんでしょーよ」
 セシアが恨みがましい声で言うが、アルバーはわずかに頬を染めつつもぶんぶんと首を振る。
「んなわけねーだろ! そりゃ体は疲れねーけどさ、俺はイライラしながら待ってるより魔物と戦ってる方が好きだし、第一なにやってもなにやってても午前五時まで状況戻っちまうんだぜ、イラつくったらねーよ!」
 それでも相当な頻度でセディシュといちゃいちゃしてるんだろうなお前は、と白い眼で見てから、ディックは自分に相当ストレスが溜まっていることを改めて自覚した。こういうのはやっぱり、いい傾向とは言い難い。
「……あーっもーっ、とりあえずご飯! 食べてから寝るっ! もーなんか作ってあんでしょっ!?」
「あー。アキホとレヴェジンニが協力してうまいの作ってるよ。あいつらもけっこうイラついてるぜ、なんか自分がいっつもご飯ばーっか作ってる気がするって」
「俺もとりあえずメシだなー。それから楽器弾きながらだらだらすっか……」
「……俺はもらっていって部屋で食べる。しばらくひたすら書物に耽溺する」
「僕は……食事をいただいてから外出します」
 はぁ、と息を吐きながらディックは無言で食堂に向かう。スヴェンが出てこないということは、おそらくはリセットするまではスヴェンとセディシュがいちゃついていたのだろうと理解しつつ。
 セディシュがギルド男性陣を集めて『ヤりたくなったら、言って』と宣言したのは、二度目の三竜戦――逆鱗マラソンが始まってすぐだった。『イライラして、ヤりたいって思ったら、俺、相手するから』と。
 驚き慌てる自分たちに、セディシュは淡々と説明した。ディックたちが教えてくれたことは理解しているつもりであること。自分を損なうつもりもディックたちを傷つけるつもりもまったくないこと。ただ、このような閉塞感のある状況下では、セックスによって肉体と精神の解放を行うのは手軽かつ簡便なストレス解消法であり、セックスの技術に長ける自分がその提供を行うのは当然の節理であると思うこと(こういった言葉で言ったわけではないが)。
『俺、みんなのためにできることがあったら、めいっぱい、やりたい』
 そう告げたセディシュの顔は、真摯ですらあった。
 そして現在実際に、ギルド男性陣のほとんどがセディシュのお世話になっている。自分とアルバーはその宣言以前からセディシュとあれこれしてはいたものの、他の面子は遠慮していたはず。が、今ではヴォルクはほとんどの場合帰ってくるやセディシュを部屋に連れ込むし、エアハルトも休憩時間内に必ず一度はヤっている。クレイトフはどうだか知らないが、それもどこまでもつか。
 そう考えると、自分たちの施した教育はなんだったんだろーなー、と空しくなってくるのだが、セディシュはそういう時いつも真剣な顔で言うのだ。
『きれいも、汚いも、両方ホントだから、いいんだと思う』
 ……そうだ。人間は、どれだけ真理を悟ったように思えても、木石にはなれない。得たと思った真理もすぐ忘れそうになるし、状況が厳しくなれば心は揺れて得たものを失いそうになる。そして体を持っている以上、飯は食わなきゃならないし便も排出しなけりゃならないし――性欲を解消したいとも思うのだ。
 そういう人間のエゴを、醜さを、セディシュはよく知っている。恐ろしくなるほど。そしてそれを当然のように受け容れて、『ぶつけていいよ』と言うのだ。『俺でいいなら、ぶつけていいよ』と。
 人間はきれいな面だけでは成立しない。汚い面だけで生きていくことをよしとせず、文化や宗教や倫理を創り出したように。きれいな感情の裏には醜い欲望があり、きれいな世界だけで生きていくというのは息苦しくてできない。
『そういうものだ』と、その理屈をいい≠ニ――正しいでも間違っているでもなく、ただいい≠ニ受け容れられるほど、ディックは人生を悟れていないのだが。
 食事のあと、ディックは街の外へと向かった。エトリアの外、かつて自分がやってきた道へと。
 朝の街道だというのに人通りはまるでない。そもそもエトリアの中ですら人≠見ることはどんどん少なくなっている。ベルダ広場の施設の中の、いつ行っても当然のような顔をして対応してくれる人々は別だが――おそらく彼らは、人≠ナはない。
 じ、とエトリアの外を見つめる。どこまでも続いているように見えるのどかな自然。それに不自然なところはない。
 だが、目をやればそこかしこにジジッ、ジジッ、と電流が走っているのがわかる。世界≠フ、エトリアの外と中の境界線辺りに。それこそ基盤から電流が漏れた時のように。
 陽炎のように境界線辺りが揺らいでいる。この世界≠ニいう幻像が、侵蝕されてでもいるように。
 どういうことなのか、きちんと筋道立てて説明できるわけではない――ただ、これだけはわかる。
 この世界は、もうすぐ崩壊しようとしているのだ。
「――ディック」
 後ろからかかった声に、ディックはのろのろと振り向く。
 そこに立っていたのは、いつものように、淡々とした表情のセディシュだった。
「……なんだ?」
 セディシュはわずかに首を傾げてから、こくんとうなずいて、言った。
「帰ろう」
「……どこに」
「屋敷に」
「なんで?」
 セディシュはまたわずかに首を傾げて、それから言う。
「今度俺といちゃいちゃ≠キるの、ディックの番かな、って」
「…………」
 ディックは小さく息を吐き、それから苦笑して、うなずいた。
「そうだな。一緒に、帰るか」
「うん」
 こっくりとうなずくセディシュに歩み寄り、すっと手を差し伸べる。きょとんと首を傾げてから、セディシュは小さく目を見開き、ほんのり頬を染めながら、その手を握った。
「よし」
「…………」
「セディ」
「な、に」
 顔を耳元に近づけ、囁く。
「愛してる」
「……俺も、愛してる」
 ほんのり朱に染まった顔で自分を見上げ、にこ、とおずおず微笑むセディシュに微笑み返し、ディックはこっそりと思った。
 ――少なくとも、この微笑みは、自分にとって、誰がなんと言おうと真実だ。

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