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 しゅおん、という一瞬の浮遊感のあと、ディックたちは第六階層『真朱ノ窟』磁軸前に立っていた。いつも通りの感覚と、いつも通りの目に染み込んでくるような赤黒い景色。この道程も、今日で終わる。
「……かどうかは、行ってみなければわからないけどな……」
 小さくひとりごちてから『セーブ』を行い、仲間たちと目を見交わしたのち歩を進める。パーティメンバーはディック、セディシュ、アルバー、エアハルト、セシアだった。
 このメンバーが選出されたのは、希望と妥当性による。まず必須人員としてディックとエアハルトとセシアが選ばれ、残りの二人を誰にするかという時になって、参加したいなら誰でもいいんじゃないか? と思えてしまったのだ。
 ダメージソースはセシアで充分(というか他に匹敵できる人材がいない)、防御は自分とエアハルトでしか対応のしようがない。クレイトフの攻撃支援はもちろん強力だし、レヴェジンニの力払いの呪言も相当役に立つだろう。ヴォルクはHPブーストがないので厳しいが(でもなんとかできないことはない)、セディシュやアルバー、アキホは当然ダメージソースとしているにこしたことはない。スヴェンもアザステの手が増えると思えば、選択肢としてなくはないだろう。
 なので全員で相談し、希望者で(ちなみに全員だった)くじ引きやらジャンケンやらで戦いを繰り返し、ようやくセディシュとアルバーの二人が選出されたのだ。とりあえず、もうこの組み合わせじゃどうにもならないということがはっきりするまで、この五人で挑む覚悟だった。
『はっきりするまで』『挑む』か、とこっそり苦笑する。普通なら戦いに挑むのは一度きりで、勝つか負けるか=生か死か、という結果しか出ないだろうに。
 自分たちは死んでも、全滅しても『セーブ』したところまで戻るだけ。ゲームの中の駒らしく、プレイヤーの思い通りに何度でも挑戦するだけ。ゲームそのものが壊れてしまわなければ。
 まったく馬鹿馬鹿しい話だ――だが、一度始めたゲームは、クリアして、きっちり終わらせるのが筋だ。物事を途中で投げ出すのは、自分の流儀でも、仲間たちの流儀でもない。
 B26Fのワープゾーンから転移し、B30Fへ移動する。あらかじめ倒しておいた三色の竜のクローンが守っていた扉を抜けていく。一度雑魚敵との戦闘はあったものの、ほぼHPもTPも満タンのまま最後の敵の前へたどり着けた。
 視線をかわす。小さくうなずきあう。もはや言葉はいらなかった。自分たちは自分たちに成せることを、力の限り為せばいいだけ。
 結果は後からついてくる。自分たちはそうすると、そう生きると決めたのだから。
 一度目を閉じてから、ディックはすっ、と最後の扉を開け、中へと踏み込んだ。

『ATLUS』
『世界樹の迷宮』
『深き樹海に総ては沈んだ…。』
『罪なき者は、偽りの大地に残され 罪持つ者は、樹海の底に溺れ 罪深き者は、緑の闇に姿を消した。』
『人の子が失ったのは大いなる力 新世界が失ったのは母なる大地』
『真実は失われた大地と共に 深淵の玉座でただ一人 呪われた王だけが知っている。』
『Load Game』

「……っ!」
 ばっ、と勢いよく振り向いて、そこに並んでいる仲間たちの顔を見て、ようやく実感が持てた。そうだ、自分たちは、全滅したのだ。
「……すっげーな。さすがラスボス」
 苦笑してみせるアルバー。だがその顔はかなりに青い。
「属性攻撃のタイミング……全部、読めてたのに。あんなにあっさり押し切られるなんて」
 エアハルトが呻く。実際、ディックも呻きたい気分だった。あそこまで圧倒的な破壊力の持ち主だとは思っていなかった。
 これまで、強い敵はそれはそれなりにいたが、どの敵も基本的には医術防御を張っておけば攻撃はさして深刻なダメージにはならないのが普通だった。それが、あいつは。医術防御の上からでもHPを根こそぎ削りかねない、とんでもないダメージを与えてくるのだ。こっちは一度引退した上で限界の70までレベルを上げてあるというのに。
 これまでの敵とは文字通り、次元が違う。
「……あんなの、ほんとに、倒せるの……?」
 ごくりと唾を呑み込んで、囁くように言うセシアに、ディックは答えることができなかった。まさか、こんな、フォレスト・セルを倒す前の段階でつまずいてしまうとは――
 そう落ち込みながら、ディックはちろり、とセディシュを見やる。セディシュはいつも通りにきょとんとした顔で首を傾げていた。
 そのことにまずほっとする。セディシュは、やっぱり、少しも負けたことに打撃を受けていない。
 数度深呼吸してから、訊ねてみる。自分のやっていることはセディシュに自分の弱い部分を押しつけていることに他ならないのでは、と恐れながらも、素直な感情に従うと、口は勝手にすらすらと動いた。
「セディ。お前は、ショックを受けなかったか?」
 セディシュはいつも通りのきょとんとした顔で、小さく首を傾げてみせる。
「なにが?」
「フォレスト・セルに負けて。衝撃を受けなかったか?」
「……別に?」
「これまで、俺たちはほとんど負けたことがなかったのに?」
「勝つ時が、あるんだったら、負ける時もある、と思う」
「そりゃ、確かにそうなんだがな……もう勝てないんじゃないか、って怖くなったりはしないのか?」
 またセディシュはきょとんと首を傾げて、ごくあっさりと言ってのけた。
「なんで?」
「………そうだな」
 ディックはわずかに苦笑してみせる。そうだ、自分たちは、まだ消滅していない。ならばやり直す機会がある。それなのに諦めてしまうなど、愚かしいと言うほかない。
「だよな……俺ら、生き延びるためにやれること全部やる、って決めたんだもんな」
 にやり、とアルバーが笑ってみせる。冒険を始めた時に似た、けれどそれよりも確かに落ち着きと男らしさを増した笑顔。
「一度負けた相手に再び挑めるっていうのはこれが初めてですからね。せいぜい経験を活かすとしますか」
 エアハルトも不敵に笑う。こいつも、背の高さはさして変わらないのに、しっかり男≠ノなっている。
「そーね。雪辱戦といきますか! 今度は絶対ぶっ殺してやるわよ」
 にっ、と女性らしいとは言い難い笑みを浮かべるセシアは、だが今のディックには人間としてひどく魅力的に見えた。人というのは、形が整っているから、言動が美しいから、魅力的だというわけではないのだとはっきりわかる。
「じゃ、もう一回、行こう」
 ごく当たり前のような顔でこちらを見て、あっさりと言ってくる小さな少年。自分が誰より愛しいと思う少年。その言葉は、ディックに、心からの笑顔を浮かべるだけの力を与えた。
「そうだな。行こう」
 うなずいて、再び武器を取る。このくらいのことで負ける気は微塵もない。自分たちは決めたのだから。自分たちの責任で、世界を終わらせる可能性があったとしても、やらなければやらないことをやる、と。
 ディックたちは再び、さっきと同じように、B26FのワープゾーンからB30Fへ転移し、クローンたちの守っていた扉を開けていき、最後の扉の前で視線だけで最後の確認をしてから、最後の扉を開け中へと飛び込んだ。

『ATLUS』
『世界樹の迷宮』
『深き樹海に総ては沈んだ…。』
『罪なき者は、偽りの大地に残され 罪持つ者は、樹海の底に溺れ 罪深き者は、緑の闇に姿を消した。』
『人の子が失ったのは大いなる力 新世界が失ったのは母なる大地』
『真実は失われた大地と共に 深淵の玉座でただ一人 呪われた王だけが知っている。』
『Load Game』

「くっそぉーっ! また負けたぁーっ!」
 アルバーが全力で悔しげに叫んで、がしがしと頭をかき回しながらしゃがみ込む。その横ではエアハルトが「あの汚らわしい肉の塊が、こっちは命を懸けて決戦を成し遂げようって盛り上がってるのに空気読まずあっさり連勝しやがって」などと据わった目でぶつぶつ早口で呪いの言葉を吐いている。その向こうではセシアが(たぶん八つ当たりに)壁にびすびすと矢を射まくっていた。
 そしてディックも、思いきり悔しい! と書いてあるだろう顔で相当不機嫌に告げた。
「一度、作戦タイムを取ろう。俺たちの立てた作戦が間違っていないか、もう一度見直してみるんだ」
 仲間たちがそれぞれ無言でうなずく。全員相当不機嫌なのがわかった。敗北というのは一度なら悔しさで自分を奮起させようともできるが、負けが込んでくると心底うんざりするものなのだ。ディックは敗北で士気を下げるような連中を軽蔑していたが(やらなければならないことが決まっているのに士気を下げている余裕はないだろうと思うのだ)、腹の立つことにその気持ちが非常によく理解できる。
 フォレスト・セルの行動をもう一度洗い直す。行動自体はあらかじめ調べておいた通りパターンにはまっているのだ。属性攻撃は完全に防げている。ただランダム行動を選択するターンで放ってくる攻撃が、医術防御の上からでもがすがすHPを削ってきやがるのだ。
「なんだってんだ、なにが悪いってんだ? 俺たち最高レベルまで強くなったよな? 戦術も間違ってねーよな? なのにどーしてこーも負けまくるんだ。普通ゲームってのはクリアできるように作ってあるもんじゃねーのか?」
「普通ならそのはずだ。これがとんでもないクソゲーか、バグのあるゲームならともかくとして」
 クソゲーだのバグだの記憶に存在しなかったはずの言葉がぽろぽろ出てくるのはもう気にしないことにした。こんな状況でいちいちそんなこと気にしてられるか面倒くさい。
「一応相手のHP減ってるよね? なのになんで毎回押し切られちゃうわけ? なんかトリックでもあんじゃないの?」
「いや、僕としてはやっぱりあのバステ攻撃がまずいと思うんですよ。あれ喰らうと戦線が崩壊しますからね。それで立て直しができなくなってぼろぼろと」
「や、全体即死だろ。あれで必要な三人の誰かが落ちっと、そのまんま立て直しできねーで押し切られちまうっつーか」
「思うんだけどさー、なんかこのメンバーに無理があんじゃないかな? メンバー変えない? 前衛どっちかクレイトフにしたらあたしのダメージ増えて押し切れそうな気がすんだけど」
「支援を二つ重ねると王の威厳――支援三つ打消し攻撃が飛んでくるからな……それを使ってハメ殺す手も使えるらしいんだが……基本姿勢はこれで間違いはないはずなんだ」
「じゃーなんでこんなにばかすか負けるわけ?」
「それは……」
 なんでだろう。
 ここまで負けまくるとなると自分の想定した作戦自体になにかミスがあるのでは、という気になってくる。本当に自分の考えた作戦は間違っていないのだろうか。というか、入手したデータは本当に正しいのか? そもそも自分が入手したデータが正しいという保証なんて全然
 ――と、一瞬、ディックの脳裏になにかが走った。
「? ……なによ。なんか思いついたわけ?」
「いや……」
 そうではない、現在の状況を打開する約には全然立たない話なのだが。今、確かになにか気がつきかけた、ような気がする。なにか、なにか、そもそも自分が恐ろしい見落としをしているような、テストの解答用紙に名前を書き忘れていたとか解答用紙を間違えていたとかその類の、そもそも思考する方向自体が間違っている≠ニいうことに気づきかけたような圧倒的な衝撃――
「とにかく、一応HPはけっこう減ってんだ。あいつだって完全無敵ってわけじゃねーのは確かなんだし、あとはもう攻撃のタイミング読み間違えるみてーなポカしなけりゃ運しかねーんじゃねーか。バステやら即死やらにそれほど引っかからなけりゃ、なんとか押し切れる! たぶん!」
「たぶんって……まーそーね、確かにもうあとは運しかないかも。しゃーない、今度こそ勝てるのを祈って、また行きますか」
「……そうですね。前回はわりといいところまで減らせたんですし。行きましょう」
 それぞれうなずきあってアルバーたちはすたすたとワープゾーンへ向かい歩いていく。その背中に向かい手を伸ばしかけ、ディックは勢いよくがりがりと頭を掻いた。
 なんだ、今自分はなにに気づきかけたんだ? わからない、だけどたぶん重要なことなはずだ、なにか大切なこと、迷宮の謎を解くのに重要なこと、いや違うそうじゃなくてなにか、もっと、根本的な。
「……ディック?」
 じ、と間近から静かな瞳がこちらを見つめているのに気づき、ディックははっと顔を上げた。セディシュが、いつも通りの静かな無表情でこちらを見つめている。
「……セディ」
「ディック……どうか、した?」
 そう言って小さく首を傾げる。その仕草にわずかに胸が疼く。この仕草さえもプログラムなのだろうに馬鹿なことを考えているなと自嘲
「っ!」
 ばっ、とセディシュの方を見る。そうだ、今自分の考えたことは確かになにか、なにか――
「ちょっと、ディック! なにやってんのよ、あんたが来ないと戦闘どーしよーもないんだけど!」
 セシアに言われてはっ、とする。そうだ、今はとにかく、フォレスト・セルを倒すことを考えなければ。他のことはそれからでもいい。
「悪かったな、セディ。行こう」
 そう笑ってみせると、セディシュはきょとん、といつものように、無表情なのに確かに不思議そうに、とか考え深げに、とか虚を衝かれたように、とか、そういった感情を持っているようにこちらに感じさせてくれる仕草で首を傾げ、うなずいた。
 その仕草は、いつもと同じようにあどけなく、可愛らしい。なぜまったくの無表情なのにこんなにも感情がしっかり感じられるのだろう。セディシュは、自分と会った時からずっとそうだった。初めて出会った時から、無表情で言葉にも抑揚がないのに、自分に確かに感情を――
 ディックは首を振った。今はそんなことを考えるべき時じゃない。セディシュと一緒に小走りになって、少し先で待っている仲間たちに追いついた。
「すまなかった、さあ行こう」
「や、別にいーけどさ。なんか気になることでもあったのか?」
 その問いに一瞬口を開きかけ、首を横に振る。
「いや、大したことじゃない。さっさと行って、フォレスト・セルを倒してしまおう」
「お、強気じゃん。そうじゃなくっちゃな」
「言うじゃない。さっきまで辛気くさい顔してたくせに」
「どういたしまして。ここで弱気になっていたら絶対にあとあとまでお前らに根に持たれるからな……」
 仲間たちと喋りつつ、水晶球に注意しつつ歩きながらも、ディックの心の中のどこかでは、さっき感じたことを考えている部分があった。自分の経験したこの迷宮の冒険、街の門をくぐりセディシュと会ってからのあれこれを。

 ずばぁっ! と空を切る一撃が、フォレスト・セルの醜い肉体に突き立った――と思うや、フォレスト・セルは空気を震わせる雄叫びを上げた。これまでとは確かに違う、体の芯に響く振動。それを上げながら、巨大な肉塊は肉体を保てず、どろりと溶け崩れ、ついには消滅した。
「やっ……た?」
 どこかぽかんとした声でセシアが言う。アルバーがさっと周囲の様子をうかがい、新しい敵が出てくる様子はない、と感じたのだろう、「っしゃぁっ!!」と歓声を上げてガッツポーズを取り、セディシュに勢いよく抱きついた。他の面々も、それぞれにほっとした表情で笑顔を交わす。
「やったぜセディシュっ、俺たちの勝ちだーっ!」
「うん。よかった、勝って」
「ったくもーお前ってばほんっといつも感情出さねぇなぁ。ま、そーいうとこもお前らしくて可愛いけどっ」
「……ちょっと、アルバー、あんたこの期に及んで人前でいちゃついてんじゃないわよ! こっちのことも考えなさいよねこの脳味噌ピンク野郎!」
「おっ、悪ぃ悪ぃ! じゃ、とりあえず宿に帰っていちゃつくとすっか!」
「そーいうこと言ってんじゃないわよ色ボケ野郎!」
「……倒しましたけど、とりあえずは、なにも起こりませんね」
「あ……」
 エアハルトに言われるまでもなく、ディックは懸命に現在の状況のチェックを行っていた。周囲の様子を探り、これまでと同様に世界樹の迷宮の情報の検証ができるか確かめる。
 が、それらのチェックでも、これまでと特に変わったところは見出せなかった。ラスボスを倒したのに。これ以上迷宮探索のやりようがないのに。メッセージは、間違いなしにフォレスト・セルが世界樹最強のモンスターだと告げていたのに。なぜ、なにも変わらないんだ?
 頭を振って考えるのをやめ、立ち上がる。とりあえず、他には変わったところがないかきちんと調べてみるべきだろう。
「とりあえず、エトリアへ戻ろう。きちんと自分たちの目で、変化がないか調べてみるべきだと思う」
「そーね……」
「そだな。一回戻ってみるか」
 それぞれにうなずきを交わして、いつも通りに隊列を組んで移動する。フォレスト・セルのいた巨大な部屋をしばしうろうろと探り、北西に抜け道を見つけた。そこから一度出て、ここまでやってきたのと同じワープゾーンへと向かう。
「糸使わないの?」
「HPもTPもある程度残ってる、あと一、二度の戦闘なら大丈夫だろう。アイテムを使わないですむなら使わない方がいい」
「ふーん、ディックってほんっとケチよね。別にいいけど」
「経済観念が発達していると言ってくれ」
 そんなことを言いながら長い道を南下して、三つの出入り口が並べられた通路に入る――そこでは、と思いついた。
「なぁ。ふと思ったんだが、ゲームのクリアがラスボスを倒すことじゃなくて、地図を全部描くことだっていう可能性はないか?」
『え゛……』
 声を揃えてなに言い出すんだこいつ、という感じの反応を返すセディシュ以外の三人。だがディックはかまわず続けた。
「あくまで可能性の話だ。この迷宮において地図がどれだけ重要なものかはお前たちだってわかってるだろう。そしてシステムとしても地図は非常に重要視されている、わざわざ最初から最後までアイテムに地図が入っているくらいな。だったら可能性としてはなくもないだろう」
「そりゃ、そうかもしんねーけど……」
「……もしかしてB26FとかB27FとかB28Fとかも全部描かなきゃダメなの?」
「だから、あくまで可能性の話だ。一応考えておいてもいいだろう」
「考えるだけならいいですけど……本気で地図全部埋めるつもりなんですか? 考えるだに気が遠くなるんですが」
「……まぁ、それは確かだが。とりあえず、さっきのフォレスト・セルのいた部屋の地図をきちんと描いておこう。もしかしたらそれでなにか変わるかもしれない」
 ディックの言葉に仲間たちはあまり芳しい反応を示さなかったが、反対はしなかった。素直に真ん中の出入り口からさっきも通った道を進み、三竜のクローンたちが守っていた出入り口を開け、フォレスト・セルのいた部屋へ入る。
 とたん、ざっ、と音がした、と思うや目の前に唐突にフォレスト・セルが現れた。
「……へ」
 フォレスト・セルはその醜く肉々しい肉体をすばやく動かし、問答無用でエクスプロウドの発射モーションに入っていく――
「ちょっと、待てぇぇぇぇぇぇ!!!」

『ATLUS』
『世界樹の迷宮』
『深き樹海に総ては沈んだ…。』
『罪なき者は、偽りの大地に残され 罪持つ者は、樹海の底に溺れ 罪深き者は、緑の闇に姿を消した。』
『人の子が失ったのは大いなる力 新世界が失ったのは母なる大地』
『真実は失われた大地と共に 深淵の玉座でただ一人 呪われた王だけが知っている。』
『Load Game』

 はっ、と気がつくや、自分たちは第六階層の磁軸の前に立っていた。おのおの呆然とした顔を見交わし、おずおずと訊ねる。
「あの……さ。さっき……」
「倒したはずのフォレスト・セルがいきなり復活していた。それで『戦えない、無理だ』と思うや即座にリセット≠ウれて、気がついたらここだった」
「だよなぁ……」
 力ない笑みを交わして、それぞれ車座になってしゃがみこむ。正直体から力が抜けていた。なんなんだいったいあの展開。
「なんでいきなりあんなもんが復活してるわけ……? ボス敵は二週間のスパン置いて復活するんじゃなかったの? 理不尽すぎるじゃないいきなり戦闘って」
「HPTP減った状態で再戦って鬼すぎだろ……なんなんだよ、っとにマジで。あいつラスボスじゃねーわけ? ラスボスってそんなにぱっぱか復活するもんなのか?」
「なんというか、ゲームだとしたらそもそもクリアさせる気がないとしか思えない仕様ですね……これ、本当にゲームなんですか?」
「……だと思う、んだが……」
 だんだん自信がなくなってきた。戦ったと思ったら即座に復活するラスボスなんぞ、本当にクリアさせる気がないという結論が妥当な気がしてしまう。そんなものゲームとは呼ばないだろう。
 そもそもゲームというのは困難を打破するという過程により快感を得るもの。その道筋はどんなに困難であってもいいが、最終的には打破できなければそのゲームは放り捨てられてしまうのだから、クリアできる方法を作っていないゲームはバグソフトとしか言えない。
 と、ふとディックは眉を寄せた。そうなのか? 本当に? ゲームというのは本当にそういうものなのか?
 確かゲームという言葉に対し学術的な定義はなされていなかったはず。トランプだの麻雀だのという不確定ゲームから囲碁だの将棋だのチェスだのといった不確定要素を排したものまで括ろうと思えばひとしなみにゲーム≠ナ括れてしまうのだからそれも当然だ。
 自分たちが行わされているゲームは分類するならコンピュータRPGになるはずだ。あの題字、雰囲気からしてそのはず。テーブルトークRPGを祖とするRPGがコンピュータというハードを得て新しい形態となったもの。日本においてはドラゴンクエストにより爆発的に普及したことで、ファミコンをはじめとする家庭用ゲーム機をプラットフォームとした独自の進化を行っていったもの。つまり、自分たちがやらされているゲームは――
 と、そこまで考えて、はっ、とした。待て。待て。待て待て待て待てちょっと待て。今、なにか、おそろしくおかしなことを自分は考えた。
 自分たちがコンピュータRPGをプレイ(実際に戦っているのだからプレイというのも妙な話だが)しているとしよう。だが、それならば。
「俺たちの人格は、どうやって再現されているんだ……?」
「へ?」
 横で喋っていた仲間たちがきょとんとした声を上げる――のもかまわず、ディックはいつも通りにきょとんとした顔で座っているセディシュに勢い込んで訊ねた。
「セディ! お前、俺たちがDSというハードのゲームの中にいるって言ったよな!」
「? 言って、ないけど」
「あ、いや違う、俺の脳内に伝わってきたDSという言葉がニンテンドーDSと呼ばれるハードではないか、と思われるようなことを言ったよな!」
「……うん? うん」
「そのDSというもののスペックはどのくらいなんだ、どれくらいの演算機能を有してる?」
「詳しい機能は、知らない、けど。グラフィックは、携帯ゲーム機にしては、今までよりずっと、きれい。だった、確か」
「携帯……携帯ゲーム機なのか、それは。パーソナルコンピュータに換算するならどれくらいの能力がある」
「よくは、知らない。でも、普通のコンピュータとしては、全然使えない。はず」
「……世界や、人格そのものを構築するほどの力はない。そうだな?」
「うん? うん、たぶん」
「おい、お前らなんの話してんだよ」
 訝しげな顔でアルバーが訊ねてくる。他の面々も似たような顔をしている。だがディックは、必死に思考を回転させていて返事をする余裕がなかった。
「じゃあ、なんなんだあれは。思考の誘導? なんのために? そうだ、そもそもそれを最初に考えるべきだった。ゲームをプレイするのには目的があるはずだ、なぜわざわざこんな大掛かりな……世界を構築してまでゲームをプレイしなければならないんだ? 人格をもわざわざ創造してまで? いや待て、そもそも俺がこれ≠ゲームだと判断したのは、流れてきた情報とあの『プレイヤー』の声のせいだ。プレイヤーはいるんだ、ゲームをプレイしている人間はいる、それは確かだと俺は感じ……いや、待て。そもそもそのプレイしているゲームが『俺たちの世界』だという保証がどこにある? 似たような状況にライブラリから持ってきたのではないという保証がどこに? じゃあなぜ、そうだここで最初の疑問に戻るんだ。『なんのために俺たちはここにいる』……?」
「お、おい、ディック……?」
 ディックはがりがりがりと頭を掻いた。国家医師試験の時よりもはるかに集中して、懸命に論理を組み立てる。
「普通の人生ならばそんな問いは哲学の分野だ、哲学者に任せておけばいい。だが、俺たちがここにいるのは明らかに人為的なものだ。俺に情報を流した存在、俺たちを、この世界自体を創り出した存在が確かにいる。情報の不自然さがそれを示している。ならそれはいったい、なんのために……待て。いや待て。そもそもの最初から間違っているとしたら、どうなんだ。俺たちが『なにかのため』に集められたわけではないとしたら? まったくの無為に、無作為に、意味もなくここにいるとしたら? 馬鹿な、わざわざ手間暇をかけてまったくの無為だなんて……いや、ゲーム≠セったらそれがありえる。単純な楽しみだったとしたら……世界を、人格を、単純な娯楽として構築し、数世代前の情報を流して楽しむ……ありえないことじゃない。俺たちが障害に右往左往するのを、蟻塚に水を流し込んだ時の蟻を見るように……いや待て。違う、なにかが違う。そもそも人為というのはなんなんだ。無為とは? コンピュータの単なるバグでないという可能性がどこに……うう、いや、違う……!」
 考えれば考えるほど混乱してきて、頭をぐしゃぐしゃにかき回す。なんだ、なんなんだこれは。論理の齟齬? 構築された世界? そもそも自分たちが在る≠ニいうのはどういうことなのか。自分たちはなぜ、なんのために、そもそも本当に――
 ふいに、じわ、と手が温かくなった。
「……え」
 のろのろと顔を上げる。そこにいたのは、セディシュだった。セディシュがじっ、とこちらを見つめている。いつもの淡々とした、けれど確かに『真剣だ』とわかる、真摯な眼差しで。
「ディック」
 そのぷっくりとした唇が動いて、自分の名前を呼ぶ。いつものように。これまでに何度も何度も、体と心のめいっぱいで、呼びかけてくれたように。
「大丈夫」
 静かに、けれど確かな確信を持って、自分に向けられる言葉。
「大丈夫」
 じわ。
 唐突に目頭が熱くなって、ディックは慌てて目を擦った。他の奴らの見ている前で泣くなんてごめんだ。なにをやっているんだ自分は、恥ずかしい。
 でも、嬉しいとも確かに思っている。自分に向けられた優しい感情。無表情でも、確かに感じられる気持ちというもの。それは確かに、自分がここにいるのだと、ここにいていいのだと思い知らせてくれ
「…………!!!」
 今度こそ、ディックは大きく目を見開いて絶句した。
「……セディシュー、お前あとどんくらいディックの手ぇ握ってる予定? あのさー終わったらさー俺の手も握ってくんねーかなって……つか握ってくれ! 妬くから!」
「アルバーさん、空気読んでくださいね。この状況下で言っていい台詞じゃないでしょそれ」
「あーったくウッザいわね射られたくなかったらちょっと黙ってなさいこのピンクボケ野郎」
 にぎやかに喋りつつも、こちらの様子を見守ってくれる仲間たち。その視線は、確かにそれぞれの感情を示しつつ、自分に対する心配をも表してくれている。
 そうか――そういうこと、なのか。
「コギト・エルゴ・スム、か……はは。大昔にただの言葉として習ったものを、こんな時に、こんなにはっきり思い出すなんて、な」
「……は?」
「みんな」
 ぐいっ、と目頭を拭い、ディックは仲間たち全員に顔を向けた。
「話がある。聞いてくれ」

 ぼしゅん、という音を立てて、フォレスト・セルは散華した。この前よりはるかにあっさりした消滅に、ふぅ、と息をついてそれぞれうなずき合う。
「お疲れ」
「お疲れ。……これで負けたら思いきり盛り下がるとこだったけど、なんとか勝てたな」
「縁起でもないことを言うな」
 そんな軽口を叩きつつ、今度はきっちり地図を描いてから部屋の外に出る。今度は一度戦闘があったが、問題なく倒してワープゾーンからB26Fに移動した。
 そこから磁軸でエトリアへ。まずまっすぐシリカに向かってドロップアイテムを換金してから、一度自分たちの屋敷に戻った。そこで全員に自分の考えたことを説明し、全員の納得を得てから揃って執政院ラーダへ向かった。
 樹海の新種発見を報告してから(具体的にはフォレスト・セルとそのドロップアイテムになるわけだが)、外に出ようとすると呼び止められた。
「ちょっといいかね、君たち。どうやら君たちは世界樹の迷宮を全て踏破したようだ。樹海に住む様々な獣や手に入る貴重な品々を全て集め終えたのだ」
 薄く笑顔を浮かべて語る眼鏡を、黙って見つめる。それは当然だ、フォレスト・セルを倒すと同時にすべてが終わるように計算していたのだから。
「君たちは、比類ないすばらしい働きで私の仕事を助けてくれた。世界樹の迷宮は踏破された。これで、この町に冒険者が集うこともなくなるだろう」
 これまであちらこちらで言われた言葉との違いに少し驚く。シリカなどはいつまでも冒険は終わらない、的なことを言っていたと思うのだが。この違いはなんなのだろう?
 おそらくは、さして意味のないことなのだろうが。
「…世界樹の迷宮を踏破した君たちの働きを称え、この世に二つとない王冠を授けよう。そして、またいつかここではないどこかで…君たちは新たな冒険に挑むのだろう。私は、それを楽しみにしているよ。では、さよならだ。フェイタスの諸君」
《エトリアの王冠を手に入れた。》
 渡された木製の王冠を、しばしディックは黙って見つめた。能力を飛躍的に上昇させる艶やかなアクセサリ。冒険が終わったこの状態で渡されても、なにかの役に立つとは思えないが。
 だがまぁ、そういうものなのだろう。ゲームの報酬は、結局ゲームの中でしか使えないものにしかなりえない。他の場所で使えるようなものが報酬として与えられるとしたら、それはゲームではなく、ギャンブルか違法行為かスポーツなのだ。
 とりあえず執政院を出て、一度長鳴鶏の宿でセーブをする。それから、全員揃って、エトリアの街門に立った。
 衛士はいなかった。街の外からやってくる人間もいない。エトリアと、外に広がる世界の境目に立っているのは自分たちフェイタス≠フギルドメンバーだけだ。
 ディックはじっ、と周囲を眺め回す。はるか昔に感じられる、この街にやってきた時にもくぐった門。その時と変わらぬ周囲の風景。そして、迷宮の探索の中で確かに得た、仲間≠ニ呼べる奴ら。
「……見た限りでは、なにか境目があるようには見えんな」
「けど、ディックが来た時はこっから先には行けなかったんだよな?」
「『行けない』と感じた、というのが正しいんだろうがな」
「……で、一緒なら行けるの? この先へ」
 周囲から視線が集中する。それに、小さく息を吸ってからディックなりの答えを告げた。
「わからん。なにが起きるかということについてもまともな予測は立てられない。はっきり言って、街の外へ出るや即座に全員消滅、ということだってないとは言えない」
「……それは、困った話だね」
「けれ、ど。あなたはこの、街の外、へ出たい、と思っている、のよね?」
「ああ」
「……なぜ、ですか?」
 どういう言葉で言うか迷って、少し気恥ずかしくはあったがこんな風に言った。
「新しい世界を知りたいと思うから……かな」
「新しい世界……ねぇ」
「どういう意味なんだか知りませんけど。それって命を失う可能性と引き換えにしてもいいほどのことなんですか?」
「……俺にとっては。それに、さっきも言ったように、この外に出るや即死、という可能性はさして高くはないと俺は思っている。もちろん、お前たちがつきあう必要はない、だが……」
「一緒に来てほしいと思ってる。んだろ?」
「……ああ」
 仲間たちが、それぞれの表情でこちらを向く。
「だったら行ってやるさ。死ぬかもしんねーとこに仲間を一人で送り出すのとか男じゃねーし?」
 にやり、と笑いながらアルバーが。
「世界の新たな可能性を知ることができるのならば、俺としても無意味ではない」
 尊大な仏頂面でヴォルクが。
「迷宮も踏破しましたし、とりあえず他にやることもありませんし?」
 悪戯っぽく笑んでエアハルトが。
「ま、これまで役に立ってくれた分、そんくらいのお返ししてやってもいーでしょってことで」
 肩をすくめてセシアが。
「はは……まぁ実際、エトリアに残っていてもいつまでそのまま生きてられるか怪しい雰囲気ぷんぷんだったしね」
 苦笑しつつスヴェンが。
「それにー、俺らとしてもディッたんが一人外の世界で心細い思いするかと思うともーいてもたってもいられないしさぁ!」
 へらへらとした笑みを浮かべ楽器をかき鳴らしながらクレイトフが。
「我々は、仲間です」
 少し恥ずかしげに微笑んでアキホが。
「仲間と一緒、なら、命の、危険を犯す、のも、悪くは、ないわ」
 無表情なりに楽しげな雰囲気を振りまきつつレヴェジンニが。
 そして、こういう時いつもそうであるように、初めて会った時からそうだったように、自分を無表情なのに確かに真摯さが伝わってくる顔で見つめながら、セディシュがきっぱりと言った。
「一緒に、行く」
 そう言って、すっと手を差し出してきた。ディックは一瞬面食らって目を瞬かせる。
「セディ……?」
「ずっと、一緒」
「セディ……」
 手を繋ごう、ということなのだと認識するや、ディックの顔は一気に赤くなった。だってそんなのは恥ずかしすぎるだろうどう考えても!
 が、仲間たちはそれぞれ明るく笑ってそれに便乗してくる。
「セディシュセディシュっ、じゃーもーかたっぽの手は俺が握るってことでいーよなっ!」
「うん? うん」
「ちょっとあんたってんっとに慎みがないわね……じゃーあんたのもうかたっぽはあたしが握ったげる」
「え゛!? い、いやその別にその無理しなくていいっつーか」
「アルバー……うちの妹が誘いをかけてるのにその態度はどういうことだ……?」
「だっだってうんっつっても怒るじゃんお前さー!」
「当たり前だセシアはまだ十六にもならないんだぞお前のようなエロガキが」
「あーもー兄貴ウザい。いーから手ぇよこしなさいよっほらっ」
「ちょ……おいっ」
「ウザ……う、うううっ、セシア! お兄ちゃんはなっ、これでも」
「ほら。もーかたっぽ兄貴が握ってていーから」
「……セシア……」
「じーんとしているところを悪いがな。もう片方は俺だぞ」
「ヴォルク……え、なんで?」
「俺がヴォっちーとアキホちゃんの間でー」
「僕がアキホさんとレヴェジンニさんの間に来ることになったので、そうすると全員一列に収まるんですよ」
「しかし、まぁ、こういう風にいい大人が手を握り合って一列で街の外に出るというのははたから見たら妙な眺めだろうな……」
「別に見ている人もいませんしいいのではないでしょうか。それにこういうのは縁起物のようなものですし」
「それに、面白い、わ」
 騒ぎあう仲間たちに一瞬ぽかんとしてから、ディックはぷっと吹き出した。そうだな、面白い。他人といるというのは面白い。なにせお互いに、思ってもみなかった世界がどんどん創られていくということなのだから。
「よし……それじゃ、行くか」
 全員一列に並んで、うなずきあう。そしてかけ声を上げて、一歩を踏み出した。
「せぇーっ、のぉっ!」

 次の瞬間、自分は世界樹の前に立っていた。以前に何度も見た、ゲーム≠始める時に見える緑深き世界樹と森の風景。
 そして、自分と世界樹の間に、一人の男が立っている。
「……ヴィズル」
 ヴィズルは、かつてNPCでしかなかった男は、どこか悲しげに首を振り、ディックの方を向いて告げた。
「この先に行っても、得るものはなにもないぞ」
「そうか?」
 ディックは自分の声が落ち着いているのに気がついて驚いた。かつて倒したはずの男が唐突に現れたというのに。やはり、頭のどこかでその可能性を考えてはいたらしい。
「そうだ。この先にはなにもない。そもそも世界が存在しないのだから。我々が創ったのはエトリアだけ。エトリアと、世界樹の迷宮だけなのだから」
「ゲームのために? それとも――」
 考えていた可能性のひとつを、淡々と告げる。
「生き延びるために?」
 は、とヴィズルは小さく嘆息した。
「気づいていたか」
「いや。可能性のひとつとして考えただけだ」
「そうか……」
 ヴィズルはまた小さく嘆息し、小さく手を振る。とたん、周囲の光景は第五階層のようなどこか荒廃したビル街へと変わった。
「……西暦2073年。北アメリカ大陸にひとつの隕石が落ちた。それはひとつの都市に直撃し、2000平方q四方を焼け野原にしたが、それだけならばそれはそれでよかった。問題は、その隕石内部に恐るべき感染力と致死症状を持つ病原体が潜んでいたことだ」
「…………」
「その病原体は爆発的に地球全土に感染の手を広げていった。かつてのペストなど問題にもしないほどの勢いで、山のように人が死んでいった。アメリカ全土、ヨーロッパ全土、アジア全土にその病原体は広まった。そしてもちろん、日本にも。世界は滅びようとしていた」
「…………」
「残った人類は生き延びるために、必死に考えた。それこそ山のような奇抜な発明が成された、それこそ太平洋戦争時の日本のようにな。だが、人死にを止めることはできなかった」
「…………」
「そしてその奇抜な発明のひとつに、この世界樹もあったのだ」
 ヴィズルは空を振り仰ぐ。そこに立っているのは二対の建物と一体化した巨大な樹。それを見て、わずかに苦笑した。
「実際の$「界樹はあれほど大きなものではなかった。そもそも都庁と一体化していたわけでもない。あれが置かれたのは学校の体育館だった。大人数を収容できる現在のところさして使い道のない空間、となるとそこが一番使いやすかったのさ」
「…………」
「そもそもの発想の原点は、量子論だった。そしてその中の不完全な理論である多世界解釈。シュレディンガーの猫――観測するまで箱の中にいる猫が生きているか死んでいるかは決定されていない、という波動関数の収束についてのパラドックスを、猫が生きている世界と死んでいる世界は常に同じ場所に存在するが、絶対に重なり合わない、という論理付けで解決する学説だ」
「…………」
「当初から、頭の中の論理に説明をつけるだけの解釈でしかなかったこの学説を、彼ら七人は必死に研究した。当初から生き延びるための役には立たないと考えられていた、物理学や情報工学の研究者にはそれくらいしか役に立つ理論の心当たりがなかったのだよ」
「……七人?」
「そう、七人だ。彼ら研究者は、全員で七人だった」
「…………」
「彼らの理屈は単純なものだった。猫が死んでいる世界に自分たちがいたとしても、猫が生きている世界は同時にここに存在しているはずだ。ならば、猫が生きている世界を観測できさえするならば、当然のように猫が生きている世界に存在できるはずだ、という……まぁ、よほど切羽詰った状況でなければ誰も考えすらしない酔狂な理屈だ」
「けれど、そいつらはそれを研究した……」
「生き延びるために必死でな。頭の中で考えただけの理屈を必死に肉付けして、実験し、実践し。自らも病原体に犯されながら、血を吐きながら研究して、研究して……そして、驚くべきことに、成果が出てしまった」
「…………」
「新たな世界への転移が成功してしまったのだよ。どこへとも知れぬ世界への転移が。もちろんただの消滅だという可能性も捨てられはしなかったが、転移の可能性を示すことができただけでも大きかった。本格的に予算がつぎ込まれ、研究が行われたが……結局、その研究は人類を救う役には立てない、という結論しか出せなかった」
「なぜだ」
「どれだけ研究しても安全性を示すことすらできなかったからさ。そもそもなにがどうなって転移が成功したのかさっぱりわからんのだ、理論を形作ることなどできはしない。理論ができねば正当な実践方法というものもできない。これこれの方法を行えば転移らしきものが成功するかもしれない、と経験則的に知れただけだ」
「…………」
「だが、それでも一縷の希望をかけてその転移を望む人間たちもいた。余命いくばくもない病原体に侵された人間たちだ。そのほとんどが身寄りのない子供たちだった、係累のいる者はそう簡単に世界を捨てられはしなかったからな」
「…………」
「研究者たちはその送るべき世界について考えた。そもそも想定した世界に送れるかどうかすらわからないのだが、考えずにはいられなかった。隕石が落ちてこなかった世界? いやそれではすでに病原体に侵された者たちは助からない。はるか未来の世界? いや、この未知の病原体を治療できるほどの技術を持った未来世界など、現代の人類の力ではシミュレーションしようがない」
「…………」
「そしてある時、ある一人の研究者が言い出した。『フィクションの世界を箱庭として再現してしまえばいいのではないか?』と」
「…………」
「フィクションとして形作られた世界に肉付けをして、世界として認識し、観測させ、世界を作り出してしまう。それならばイメージは容易だ、物理法則だの文化だのを考える必要もない。なによりフィクションの中には、どんな病気も治療できる技術のある世界が溢れている」
「……それが、『世界樹の迷宮』か?」
 ヴィズルはゆっくりとうなずいた。
「そうだ。『世界樹の迷宮』というニンテンドーDSソフト。七人の研究者は全員それをプレイしていた。しかも完全クリアまでやりこんでいて、そのソフトを保存していた。その上、研究者の中の一人には、ヴィズルという名の夫がいる者がいた。そして予算がつぎ込まれても中核となっていた研究者は当初の七人。驚くべき符合だ、と研究者たちは思った。全員の共有できる、この上ない強固なイメージだと考えたのだよ」
「それで、エトリアと、世界樹の迷宮か……」
「そうだ。世界樹の迷宮も、エトリアも彼らは完全に、現実そのものと遜色ないレベルで創り上げた。彼らの専門はもともとそちらだったしな。完全に安全な箱庭。街の外と迷宮にさえ出なければ、いついつまでも変わらない時間の中で生きていける世界を」
「そして、転移を行った?」
「その通りだ。七人の研究者、志願者、全員もろともにな」
「研究者たちもか」
「ああ。責任を取る、という意味もあったろうが……なにより、彼ら自身が助かりたかったのだ。彼らも病原体に侵されていた、生きられるならばなにをしても生き延びたい、そう思っていたのだよ。……しかも、できるならば、強い力をもって」
「……創り上げた世界に、自分たちを絶対者とみなすような記述でも織り込んでいたか」
「その通り。もちろんそれが意図したような力を発揮するとは限らなかったが、夢を見ずにはいられなかったのだろうな。そして……それが彼らの命取りになった」
「…………」
「転移は無事成功した。創り上げた世界――エトリアに子供たちは一人残らず移った。キタザキ院長に治療を受け、全員健康体を取り戻した。が、研究者たちは人として≠サの世界に移ることはできなかった。世界そのものにシステムとして組み込まれてしまったのさ。現在もシステムを動かすエネルギー基盤としてだけ存在し、動かされている。『罪なき者は、偽りの大地に残され 罪持つ者は、樹海の底に溺れ 罪深き者は、緑の闇に姿を消した』わけさ」
「『罪持つ者』と『罪深き者』の違いがわからないんだが?」
「別に明確に定めた人間がいるわけでもないがな……『罪持つ者』は、エトリアの外へと向かった人間、ということになるだろう」
「なぜそうなる」
「エトリアの外へと出て行った人間は、誰一人戻ってこなかった。エトリアの外は世界の外、創られていないものだ。多世界解釈を適用するならば――『観測しうる世界』の外へと向かったせいで、この世界と断絶したのだろう。街の外に広がる森の底へ――『樹海の底に溺れ』たのさ」
 言ってヴィズルは深々と嘆息し、大きく両手を広げた。
「だから、言うのだ。君たちは、エトリアにいなければならん。エトリアでいつまでも世界樹の迷宮に挑み続けなければならんのだ。冒険者の集まるエトリアという街で、生きていかなければならないのだよ」
「……NPCのヴィズルと言うことが似てるな」
「確かにな。奇妙な符号だ――もはやここまで来ると、世界樹の迷宮というソフトそのものがこの世界のために創られたような気さえしてくる」
 そして、ヴィズルはこちらを真剣な眼差しで見つめ、言う。
「だが、これは本当に、君たちのためでもあるのだ。エトリアにいたまえ。あの街で終わらない冒険を続けたまえ。あそこならば本当に、死≠フ――終わりのないまま生き続けることができるのだから」
 その言葉を言い放ってから、ヴィズルはじっとこちらを見つめてくる。その視線に、ディックはあっさりと、首を左右に振った。
「悪いが、それはできない。……いや、違うな。できるかもしれないが、したくないんだ」
 ヴィズルは深々と嘆息した。悲しげに首を振りながら懇願するように言ってくる。
「なぜだ。この外の世界は本当になにがあるかまったくわからない。街の外に出たとたんに、消滅してしまうかもしれないのだぞ?」
「そうだな。まず、ひとつにはあんたの説明に対する不審だ」
「……なんだと?」
 眉を寄せるヴィズルに、ディックは淡々と言う。
「あんたの説明にはあちらこちらに欠けた点がある。まず、事実があんたの言ったことだけならば、なぜ俺たちが存在するのかわからなくなる。俺たちはエトリアの外≠ゥらやってきた。しかもエトリア内部の人間にそれを不審に思う人間が一人もいない。これは明らかにおかしい」
「…………」
「それに、それなら俺のような観測者≠ノ対する認識を持ちかねないような存在がいるというのも妙だ。観測者に対する意識は世界の存在には害にしかならなかろうに、俺に対しことさらに攻撃が加えられた記憶はない」
「…………」
「そして俺はプレイヤー≠フ声を聞いた。これはゲームではないのにだ。エトリアという世界が明らかに崩壊に向かっていると思えるような兆候も見た。エトリアという世界内部でならば安全というあんたの言い草はどう考えても単なる絵空事だ」
「……それは」
「おそらく、だが……あんた自身、エトリアという世界を管理しきれていないんじゃないか? なにせ、この世界は『観測する人間の数だけ同時に存在』してしまうんだからな」
「―――………」
「プレイヤーというものが存在する世界しない世界。ゲームという認識がある世界ない世界。そもそも俺たちの存在自体、存在を妄想した観測者が強固に観測≠オてしまったから存在する、なんてことだってないとはいえない。そんな平行して存在する世界が『エトリア』『世界樹の迷宮』という具象によって共通の認識を、世界を持つ。ただそれだけ。俺たちのエトリア≠管理することだって、あんたにはできはしない」
「…………」
「そもそも、あんた――世界の管理者が存在するという証拠さえどこにもない。俺がその存在を意識していたからそういう世界を観測≠オてしまっただけかもしれない。……そもそも、あんたの言う言葉が正しいという証拠も、観測による揺らぎのない強固な世界が存在するという証拠さえ、俺たちには少しもないんだからな」
「…………」
「だから、俺にはそんなことは、はっきり言ってどうでもいいことなんだ」
 言い切ると、ヴィズル≠ヘ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「なぜ、そんな。次の瞬間に自らの存在が消滅する可能性もあるのだぞ? 世界の真実がどうでもいいと、なぜそんなことが」
 ディックは小さく笑った。このヴィズル≠ヘ、いちいち自分の言ってほしいことを言ってくれる。これはこのヴィズルが自分の創り出したものだという可能性を高めるのかもしれないが、正直どちらでもよかった。
 自分の真実は、自分の本当は、自分の世界に在る≠ニ言い切れるものは――
「俺は生まれてから十九年間の人生の記憶をそれなりに持っているが、本当に『生きた』と言い切れるのはエトリアにやってからの迷宮探索の日々だけだ。間違いなく自分の真実だと、たとえそれが誰かの陰謀だったとしても儚い幻だったとしても、疑いようもなくそれを人生の中心に据えて悔いがない、と言い切れるものは」
「…………」
「そして、その人生の中で、俺は『人の認識できる世界はみんな違う』ということを学んだのさ」
「……? なにを」
 じ、とヴィズルを見つめて言い切る。これは自分にとっては疑いようのない勝負どころ。自分の思いのたけをぶちまける最高の機会だ。
「俺は以前は正しい理屈はいついかなる時も絶対的に正しいと思っていた。絶対的に正しい理論が存在し、それを受け入れられないのはただの馬鹿だと。だが、正しい理屈というのは、はっきり言って当てにならないものだとまともに生きてみて知ったのさ」
 理論と実践の違い。頭で考えていたことと実体験の違い。そして――自分≠ニ他者≠フ違い。
「人間は――というか、この世に存在するものはみんな違う。生きてきた人生も、思考形態も、なにもかも。そもそも肉体が違うんだ、感覚の違い肉体の制約の違い生理的欲求の違い、それぞれみんな違う。考えていることも違うし考え方も違う。ただ、たまたま偶然、似通った思考形態の存在が意思を通じられるだけだ。それでもやはり齟齬はあるし、そもそも通じあえていると思っているのがとんでもない勘違いだったりする可能性も否めない」
 ギルドを取りまとめて迷宮探索をする経験。セディシュにまつわるもろもろのあれこれ。……自分の、セディシュに対する気持ちにまつわるあれこれ。それが、この世の存在はみんな違うのだ、という当たり前の事実をきちんと認識させてくれた。そして。
「だけどな。それでも♂エはあいつや、あいつらと一緒にいたいと思うんだよ。違う存在でも。あいつらが自分とは全然違うことを考えているかもしれないと思っても。すべてが幻でも。自分の側だけの思い込みでしかなかったとしても。あいつらの世界と、俺の世界が触れ合って、たとえ錯覚でも同じ世界を共有できたと感じられて、泣けるほど嬉しいと思うんだよ」
 黙っているヴィズルに向けて、朗々と声を上げる。
「俺はあいつらと共有できる世界を持ち続けたい。この世界がどんな風に形作られ、どんな真実があって、今ここにいる俺の存在がまったく当てにならないものだったとしても。こう思っている俺は確かにここにいる。この想いだけは疑いようもなく、俺の真実だと声を大にして言える」
 だから。
「だから、俺は創られたゲームの外に出てみたいと思うんだ。あいつらと。あいつらを想う心があれば、それが俺の世界になると思えるから。――これは、俺にとっては、この世界を観測する俺にとっては、ゲームじゃなくて、人生なんだから」
「――――」

 レヴェジンニは首を傾げてみせた。顔はたぶん無表情なのだろう、けれど心からは愉快という感情が溢れ出しそうだった。そういう感情を抑えないところも自分が一族から落ちこぼれ扱いされる要因だったのだ。
 けれどそんなのは別にいい。気にしない。だって自分はこの自分が好きなのだから。好きでいてくれる人がいると思えるのだから。
「それに、世界が存在しない、というならば。本当に、そうなのか、確かめてみたい、わ。だって、私たちは、冒険者なの、だから」

 アキホはにっと笑う。一度決めたら死ぬまでそれを押し通す、それが武士の娘の生き様だ。
 それに、こうと決めた相手からは死んでも離れない、というのも両親から教わったこの上ない教えだ。
「恋するお方と、それに仲間たちとならば、いつ朽ち果ててもかまわない、と思えますので」

 クレイトフは苦笑した。正直世界がなんだという話は自分には似合わない。面倒だ、放り出したい、他の誰かに任せてしまいたい。
 けれどそういうわけにはいかない。自分は生きているのだから。生きている限り、どうしたって何度かは、世界と向き合わなきゃならない時というのがやってくるのだ。
「みんなが行くっつーならね、行かないわけにはいかんでしょうや。あいつらのこと放っとくわけにはいかん、って俺の心が詠ってくれちまってるもんでね」

 スヴェンはにやりとハードボイルドに笑んでみせた。男には義務がある。家族を守る義務、愛する者を守る義務。
 それを履行することを高らかに宣言できるというのは、正直かなり気持ちいい。
「俺は荒事が得意ってわけでもないし、勇気があるわけでもないけどね。守らなきゃ、って思う奴らがいるからさ」

 セシアはうつむいていた顔をぱっと上げた。怖い、逃げ出したい、自分はいつもこっそりそう思っていた。だからこそつけいられないように、弱い自分を自分でも気づかないように、必死に意地を張ってきた。
 今はどうだろう。今でも怖い。逃げ出しても許してくれる人はいる。守ってくれる人はいる。でも、だから。
「あたしは、怖いって気持ちに、負けたくない!」

 エアハルトは一瞬目を閉じた。相手の言うことが正しいのかもしれない。ディックの言葉が正しいという保証はどこにもないし、そもそもディック自身自分たちになにかを保証してくれたわけではまったくない。
 でも、そんなことはまったく問題ではない。笑って、目を開けて告げた。
「僕は誓ったんです。その誓いに反したら、もう二度と剣を握れなくなる。握っていいと自分で思えなくなる。そんなのはごめんですよ」

 ヴォルクはくすりと笑った。なんとはなしに、愉快な気分だ。意地っ張りなくせに気が弱く、根本的に情けない淫乱マゾな自分にはなんの変りもないというのに。
 ああ、自分は変態だ。だがそれがどうした。変態でも人生を楽しむことはできるし、価値あることを為そうとも思えるし、仲間を守ろうとも、裏切りたくないと誘いを撥ねつけることもできるのだ。
「悪いが、俺はこう生きたいんだ。それが俺にできる、一番気持ちのいい選択だと思うんでな」

 アルバーはふん、と鼻を鳴らしてから、にかっと笑った。言うべきことは決まってる。言いたいことも決まってる。
 単純な話だ。本当に、単純な。たまたま出会って誘われて、一緒に探索を始めた仲間。山ほど喧嘩してぶつかり合って、なんとかかんとか一緒に戦った仲間。
 最初は可哀想な女の子だと思ったあいつ。一緒に探索して、信頼できる大切な仲間だと思って、それが突然誘われて。初めての相手になってもらって。びっくりしたり、ドキドキしたり、独占欲抱いたり、こっち向いてほしいって思ったり。そんなこんなで、いつの間にか死ぬほど好きになってたあいつ。
 あいつと自分の世界は違う。みんなと自分の世界も違う。
 でもそんなのは、別にいい。違って当たり前なんだし、だから通じた時にすごく嬉しいっていうのもあるし。重要なのは、俺があいつを好きなこと。みんなと一緒にいたいと思うこと。そして、みんながそれを受け入れてくれてることだ。
 繋がっている。そう思えるようになったから。だから、やることはただひとつ。
「俺は、死んでも惚れた奴と仲間を守る、ってとっくの昔に決めてんだよ!」

 セディシュはきょとん、と首を傾げた。なぜ、この人はこんなことを言うのだろう。
「お前が『エトリアにいる』と言えば、他の者たちも完全に納得はしないながらもうなずくだろう。仲間たちと永遠に一緒にいられるのだ。終わりのない冒険を、ずっと続けていられるのだぞ。なぜそうしようとしない?」
 相手の言っている意味が、セディシュはよくわからなかった。みんなが自分の言うことを聞いてくれるからといって、なぜ自分の気持ちが重要になるのだろう。
 そう訊ねると、相手はなぜか眉を寄せた。
「……お前は、彼らと一緒にいたくはないのか?」
「いたい」
 そんなのは当然以前のことだ。自分は、彼らと一緒に在る存在なのだから。彼らが、自分をもういらない、と言うまで。
「では……」
「でも、俺、みんなに、こうして、とか言わない」
「……なぜだ。自分の思う通りに動いてほしくはないというのか?」
「うん」
「な……」
「俺は、みんなのこと、好きだから。こうして、とか、言いたくない」
「………それだけか?」
「うん……?」
「本当は、お前が、自らをまだ奴隷だと認識しているからではないのか」
 相手がすぅ、と顔を近づけてくる。セディシュは顔を動かさずに、じっとそれを見つめた。
「お前は自分を人間と認識することができない。他の人間のように自分が尊重されるのが当然だという考えを抱くことができない。今は周囲に影響されて人間の真似をしているが、自分のことを他者の玩具、性欲を解消するための道具、どう扱ってもいい所有物だとしか思うことができない。自らを奴隷でないものだということを、考えることすらできない!」
「…………」
「なぜなら、お前はそもそも、存在自体がマゾ奴隷≠ニして定義されたパターンのひとつだからだ。世界樹の迷宮の中に消えた、数え切れないかつて在った人間の妄想が形を成したものの一形態。奴隷として扱うのに、そう存在するのに向いた思考、肉体、感性。それが『世界樹の迷宮』のキャラクターの形を取った存在にすぎない」
「…………」
 セディシュは、無言でじっと相手を見つめる。相手はどこか熱に浮かされたような口調で次々と言葉を投げつけてきた。
「だからお前はエトリアの、設定された世界の外では間違いなく存在できない。キャラクター≠ニしての形がなければ周囲から観測されることはない。この世界に出たとたん消滅することになる! お前はただの、誰かが心の中でこねくり回した妄想にしかすぎないのだからな!」
 相手は――かつて自分の主人≠セった富豪の男は、べろぉ、と舌を出して唇を舐めながらこちらに顔を近づけてくる。息が荒かった。手には縄と鎖を持っている。人間用の。人を縛るための道具を。
「俺がお前に存在する場所を与えてやる。お前が本来在る場所を、ふさわしい場所を。お前は奴隷だ。どこまでいっても肉奴隷以外のものにはなれん。そういうものとして創られたのだ、それ以外のものとして存在することはできんのだ!」
 セディシュはじっと男を見つめた。かつて自分をさんざん嬲った男の顔。鞭打たれたり尿道にガラスの管を突っ込まれて強制排尿させられたり吊られたり針を刺されたり排泄物を食べさせられたりアヌスを拡張されたり腕を突っ込まれたりバイブ付きの三角木馬に乗せられたりいろいろされたが、今見ても特に怒りは湧かなかった。
 それは自分がこの男の言う通り奴隷として創られた存在だからかもしれないし、ディックが言う通りに心的障害というもののせいなのかもしれない。よくわからない。
 ただどちらにしろ、セディシュは今まで基本的に、誰かになにかをしてほしいと思ったことはなかった。そもそも、なぜ他の人が誰かになにかをしてほしたがるのかよくわからなかった。自分一人でできないことは、つまり自分の人生では手に入れられないもの。それが当然の認識だった。
 なにかをされても、それが嫌だと言ったことも思ったこともない。相手がどんなことを考え行うかは自分の力ではどうにもできないもの。それをやめるよう要求するというのは、その要求のよしあしは別として、筋違いのような気がした。だからずっと、他者の要求をそういうものだ≠ニ思って受け容れてきた。
 別に、それが間違っているとは、今でも思わないけれど。
「…………」
 セディシュは、にこ、と笑った。男はわずかに怯んだようだった。
「俺は、ディックたちと、一緒に行く」
「な……にを。お前は外の世界に行くや消えるのだぞ。本当に消えるのだぞ!? わからんのか!?」
「本当に、消えるのかもしれない、けど。それでも、行く」
「な……馬鹿なことを言うな! 消滅するのだぞ、お前が存在した痕跡もなにも残らず、消えるのだぞ!? もうなにも考えることも感じることもできなくなるのだぞ!? それでも、いいと……!?」
「うん」
「な……なぜ!?」
 セディシュはわずかに首を傾げた。改めて聞かれると、うまく説明するのは難しい。ディックたちにも、『お前の説明は結論に直すぎてかえってわかりにくい』と言われたし。
 なので、うまく説明するのを諦め、単純な事実を告げた。
「俺、『お願いします』って、言ったから」
「は……?」
「してほしい、って思ったから。してほしいって思われたこと、したいって思ったから」
「な……にを言っているのだ、お前は……」
「優しくされたから。一緒に来るかって言われたから。俺だけのものを与えてくれたから。ご飯食べさせてくれたから。一緒に頑張ろうって言われたから。背中預けられたから。気遣ってくれたから。大切にしてくれたから。自分のこと大切にしろって言ってくれたから。そばにいてくれって言って抱きついてくれたから。守りたかったって言われたから。一番はお前だって言われたから。人といたら自分が崩れるの当たり前だって教えてくれたから。好きだって、言ってくれたから」
「……そんな……お前、まさか」
「みんなと一緒にいたいって思うから。だから、たとえ消えても、一緒に行く」
 それは自分にとっては当然のことだった。自分に生を与えてくれた人たち。新しい世界を一緒に生きてくれた人たち。
 あの人たちがいない生を、自分は生きたいとは思わない。
「は……は! 馬鹿なことを! お前は絶対にそれでは満足できんぞっ、お前の性根は奴隷として扱われることを求めているのだ、そういう存在として創られたのだからお前はそうとしか生きられん!」
「そう?」
 セディシュは小さく首を傾げてから、首を振った。たぶん、今この状況で求められているのはそういうことではない。
「そうに決まっている! お前は妄想が形を成したものにすぎんのだ、俺たちにおもちゃにされるための存在なのだ、俺たちの生処理肉奴隷でしかないのだ! 妄想に人権はない、お前は俺たちに逆らうことは許されん、お前は俺たちの要求をひたすらに受け容れるための道具――」
 ひゅっ。セディシュは軽く鞭を振るい、男の体を大きく切り裂いた。
 大きく目を見開いた男の体が、半ば真っ二つになりながら、ぶしゅーっと血を噴き出しつつその場に倒れる。返り血をすいと避けながら、また鞭を振るって腕を、足を斬り飛ばし、首を飛ばす。さらに何度も鞭を振るってあっという間に男の体を細切れの肉片にした。
 ごろごろと自分の足元に転がってきた首が、見開いた目をこちらに向けて、のろのろと口を動かす。
「な……な、ぜ」
 セディシュは答えるべきかどうかわずかに首を傾げて考えたが、ここは答えた方がいいかな、と思ったので、言った。
「みんなだったら、たぶんこういう時、『ちゃんと恨みを晴らせ』って言うかな、と思って」
「馬鹿な……そんなことが、ある、わけが」
 ぶつぶつ呟く男に、どう言えば一番格好がつくか首を傾げて考えてから、一番ましだろうと思われる言葉を淡々と告げる。
「あなたが妄想をどうするかはあなたの勝手だけど、その妄想があなたをどうするかは妄想の勝手だと思う」
 そしてぐしゃっ、とその頭を靴で踏み砕いた。

 ――と思った次の瞬間、彼らは街の外に立っていた。
「お……おお! 出れた! 出れたじゃん、ちゃんと!」
「さんざん驚かされたけどな……とりあえずは普通に、道の上に立ってる」
「はー、やれやれ……とりあえずは一安心。かねー」
 安堵に息をつく『フェイタス』の仲間たち。そのうちの、少女が医師の方を向いてからかうように言った。
「ディック、あんたさー、確か以前街の外には出れなかった、とか言わなかったっけ? ちゃんと試したの?」
 医師はわずかに苦笑して、それに答える。
「ああ、ちゃんと試したさ。ただ、今回との違いは……ひとつには、他者≠フ存在なんだ、と思う」
「は? たしゃ……?」
「自分というものを認識するには、自分一人じゃ足りないんだ。自分の見えない場所を、自分の足りない場所を、自分自身を観測してくれる他者の存在が必要不可欠なんだよ」
「……どういうこと?」
「一人じゃ人は自分を認識することさえできない、ってことさ。自分だけなら自分はそのまま世界になってしまう。世界との境界線が存在しない。自分の形がわからない。他者と関わって、他者の存在を、他者の視線を意識することで、ようやく自分の形を知るんだ」
「へー……そう、なの?」
「もうひとつの理由は……たぶん、この世界の本質に関わる問題だろうな」
「ほんしつ? って、なんだよそれ?」
「この世界は物語≠セってことさ」
「……はい?」
「俺たちがなぜ過去を、設定を持ってこのエトリアに生まれ出てきたのかっていう理由。なぜ存在しないはずの外からエトリアにやってきたのか。……管理者の言葉が正しいという前提で話をするが、世界樹というのは観測する存在の数だけ世界を創り出してしまうシステムだ。だがそれらの世界は世界樹の迷宮≠ニいう強固な共通認識によってひとつに収斂する。それが管理者の主張。だな?」
「そのはずだ」
「だが、世界樹によってエトリアへ転移した存在すべての世界をひとつに収斂してしまうのだとしたら、迷宮を踏破していくギルドが俺たちしかいないのはおかしい。少なくとも転移した奴らは数百人規模でいたはずなんだから。それに、一度踏破された迷宮はもう元に戻らないはずだ、世界が共通ならば。つまり、この世界は、俺たち十人のためだけに用意された『世界樹の迷宮』ということになる。そうだな?」
「……そうなるね」
「なら、なんのためにわざわざそんなことをするのか。たかだか十人のために世界を創ってなにになるのか。……俺はそれを、『世界樹の迷宮』という物語を創るためじゃないか、と思ったんだ」
「物語……?」
「そう。『世界樹の迷宮』はもとはニンテンドーDSの3DRPG。プレイヤーが遊び、試練や苦労を楽しんで、最終的にはクリアするためのゲームだ。それを基盤として創られた世界を、世界樹は俺たちに観測させている。……つまり、世界樹は、エトリアのある世界は、迷宮を踏破されることを前提に存在しているんだ」
「ふぅ……む」
「だから、常に新しい冒険者を世界樹は求めている。新しく遊んでくれるプレイヤーを。ゲームは遊んでクリアする人がいなければ、物語は話を進めてくれる人がいなければ存在しないも同然なんだから。そのために、世界樹を動かす基盤となる者たちの意識によって集められたのが俺たち。と、俺は考えた」
「不自然な、論理展開、ではないわね」
「なら、そうして集められた俺たちは、世界樹の思うがままに消されてしまう存在なのか。管理者の意思一つで消えてしまうただのデータなのか。そう一度考えてから、思い出したんだ。コギト・エルゴ・スム――我思うゆえに我在り、という言葉を」
「……なにそれ」
「デカルトという哲学者の残した言葉さ。物事が本当に存在するのか疑いだしたらきりはないけれど、そうして考えている自分自身は確かに存在する、という原理でな。実際には完全な代物ではないらしいが……俺はこう思ったんだ。人が、想う心があるだけ世界は、物語は存在するんじゃないかと」
「……はい?」
 す、と医師は手を上げる。少年とまだ繋いでいた手を。お互いの温かさを伝えあっている、仲間と自分の手を。
「これは俺と、俺の大切な仲間の手だ。もしこれが次の瞬間消えてしまったら? なかったことにされてしまったら? 俺たちの抱えていた問題は、ひっきょうそこに帰着する」
「そうなるな」
「が、俺はこの手と、ずっと一緒に冒険してきた。たとえそれが幻のように消えてしまったとしても、それが存在したことを疑わない。俺にとって誰がなんと言おうと真実だと言えるのは、この迷宮に挑んだ冒険の日々だ、といつ誰に対してもきっぱり言える」
「…………」
「だから¢蜿苺vだろう、と思ったのさ」
『………はい?』
「この世界がゲームだというのなら。プレイヤーが楽しむための物語だというのなら。俺たちはその登場人物だ。プレイヤーの動かす駒だ。観測者がそういう駒がいる世界を観測≠オたから存在する。だが、俺は『ここにいる』と、『俺の生は真実だ』と胸を張れる。……つまり、管理者の言っていた、『俺たちが存在する世界』を観測できたということになりはしないか?」
「………そう………なの?」
「プレイヤーにとっての物語は終わった。それはつまり、世界の終わりだ。だが、その登場人物がものを想い、存在し、観測することができるならば、その登場人物の世界は存在する。……そして」
 ちゅ、と少年の手にキスをして、きょとんとした顔の少年に向かい笑う。
「こうして、他の奴の世界と繋がれば、一緒にいるとわかるしな」
「…………」
 いつも通りのきょとんとした表情。その顔がじっとこちらを見つめてくる。その視線に応えるように、医師は――ディックは、告げた。
「想いが在るだけ、世界がある。……俺たちにとっては、世界は、物語は、ここからずっと広がっているんだよ」
「…………」
「一緒に行こう。俺は、俺たちの世界を見てみたい」
 じっ、とディックを見返す少年に、剣士――アルバーが、ぐいっともう片方の手を引っ張り、視界に飛び込んできて、にっと笑う。
「ま、世界がどんなんでも、俺がお前を好きだってのはホントのホントだからな! 愛があればだいじょーぶ! ってことだろ?」
「…………」
「愛……というか、なんというかな」
「いいじゃないか、理屈は」
 くっくっく、と学徒――ヴォルクは笑った。楽しげに、面白そうに。
「どういう理由であれ、俺たちはここにいる。生きている、存在しているんだ。なら、せいぜい楽しく生きるしかないだろう。たとえ次の瞬間俺たちが消えてしまったとしても、悔いがないと思えるほど真実の生をな」
「ヴォルクさん、いいこと言うじゃないですか。そうですね……この世界がどこへ繋がっているにしろ、僕たちの進む道は変わらないんですから」
 騎士――エアハルトが微笑むと、少女――セシアは肩をすくめた。
「ま、とりあえずそれしかやることないしね。それに、まぁ……」
「どんな結果に終わるにしろ、みんなで挑むことができるならそう悪くもない、ということで」
 狩人――スヴェンがくすりと笑い声を立てて言うと、詩人――エアハルトが眩しげに道の先を見つめてぽろんと竪琴をかき鳴らす。
「じゃ、そーいうことで、いっちょやってみるとしますか」
「いつ終わるかもわからない旅ですが」
「どこ、までいけ、ば終わるかも、わからない、けれど」
 武士――アキホが楽しげに繋げ、呪い師――レヴェジンニが受け。
 じっ、と少年の方を見る。仲間たちが。共に冒険を、生死を懸けた仲間たちが。
 なにを求められているのだろう。少年はそう、目を大きく瞬かせる。自分はなにをすれば。
 と、ふいに手をぎゅっと握られた。右から、左から。ディックから、アルバーから。
 ディックはじっと、真摯な瞳でこちらを見つめる。アルバーは、にっと朗らかな笑顔で笑ってみせる。
 その顔を見ると、なんだか体中がふわぁ、と嬉しくなって、少年――セディシュは、体全部の嬉しいを込めて微笑み、言った。
「行こう。みんなで」
 そう言って両脇の二人を引っ張って歩き出す。二人は、仲間たちは嬉しげに笑って一緒に歩き出した。
 じっ、と行く先を見る。行く道が、行く空が、行く世界がどこまでも高く大きく広がっているのが嬉しくて、この物語の主人公は小さく笑った。

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