届かない、ぼくの伸ばした手
「……っつ」
 グラッドは書き損じを睨んで舌打ちした。一刻も早く報告書をあげなければならないのに、ちっとも筆は進んでくれない。
 明日が決戦の日になるだろうというのに、なんでこうも進まないのだろう。
 グラッドは小さくため息をつく。理由はわかっている。集中できない理由はわかっている。
 未練を抱いてしまうからだ。ライが、自分のところにやってくるのではないか、と。
 あの時の、あともう一歩で泣いてくれるんじゃないかという顔が忘れられなくて。

「おかしなこととかされなかったか?」
 思わず両肩をつかんで問い詰めるように言った自分に、ライは真っ青な、そして虚ろな顔でうなずいた。そんな顔は今まで仲間たちには見せたことがなかったというのに。
「うん……だいじょうぶだよ、別に……」
 どうしたんだと問いかけたかった。話してみろ、なにがあったんだ、嫌なことがあるなら聞いてやるからと叫びたかった。
 けれど、できなかった。
「ごめん、ちょっと疲れちまったからさ。部屋に戻って休むよ。後から、ちゃんと説明はするからさ」
 あの時と同じ、この泉で浮かべていたのと同じ、たまらなく虚ろな表情でそう言って、セイロンの答えに小さくうなずくと、ライはくるりと背を向けた。急ぎ足でその場から、仲間たちのいる場所から立ち去る。
 仲間たちもどうしたんだろうと言い合って、結局結論は出ずじまいだった。それぞれ少しうつむきながらその場から立ち去っていく。
 全員考えていることはひとつだったと思う。けれど、言い出すことはできなかった。
 ライに、本気で落ち込んでいるライに、それを隠すこともできないライに――自分たちがなにを言ってやれるのかわからなくて。
 グラッドは奥歯を噛み締めながら駐在所に戻った。こんな時に、あいつが本気で苦しんでいる時に、どうしてなにもしてやれないんだ。そうじりじりしながら駐在所で仕事を片付けた。
 だから、駐在所の前に所在なげにたたずむライを見つけた時は本気で驚いた。
「ライっ!?」
 慌てたあまり椅子から転げ落ち、こけつまろびつライの前に立つ。ライがそこにいるということが信じられなくて、思わず両手でライの手を握った。
「どうしたんだ、大丈夫か、もういいのか、もう嫌なことないのか!」
「…………」
 ライは呆気に取られた顔で自分を見つめ、それからぷっと吹き出した。
「兄貴……慌てすぎ……っ!」
 くっくっくっと笑われてから、ようやく我に返って照れくさくなり手を放す。もう少し握っていたかったな、などと思うたわけた心には全力で蹴りを入れた。
「……もう、大丈夫なのか?」
 ああ違うなにを言ってるんだ俺は。こんな聞き方したら絶対こいつは「うん、大丈夫」って答えるに決まってるだろうに。
 だがライはそう答えはしなかった。ちょっと困ったような顔をして、それからうつむいたのだ。
 心臓がどくん、と跳ねた。もしかして、ライは。
 自分に弱さを吐露したくて、やってきたんじゃないか?
 心臓が派手な行進曲を奏でる。体が熱くなり体中の血行が回る。
 夢見てきたことが、妄想してきたことが、目の前に差し出されてどうすればいいのかわからなくなる。だけどなにかしなきゃと思った。グラッドに恋愛経験らしい恋愛経験はない。ずっと、今までずっと、いざというところで勇気が出なかったり、そのいざというところがどこかさえわからなかったりして恋愛を始めることさえできずにいた。
 自分のこの感情は、恋愛なんて上等なものじゃないだろうけど、でも。でも。
「! 兄貴……?」
 グラッドはぎゅっと、力の限りでライを抱きしめていた。自分でも腕が痛くなるほどに強くライのしっかり筋肉のついた、けれどひどくきゃしゃに感じられる体を抱きしめる。
「俺にはなんでも言えよ」
「え……」
「なんだって受け止めるから。なんだって聞いてやるから。お前のためならなんだってしてやるから」
「…………」
「だから、一人で泣くな。俺はいつだってお前のために泣かせてやる胸は空けておくから」
 必死に、グラッドなりに気合と想いと根性をこめて言った言葉――
 それがどれだけ恥ずかしく、独りよがりかに気付いたのは、ライがくすっと小さく笑ってからだった。
「うん、ありがと、兄貴」
 そう言った口調が思いのほか平静で、もしかして俺は大外しをしてしまったんじゃないかと気づいた時には、ライが少し軽やかになった口調で続けていた。
「あのさ。ちょっと、話聞いてくれる?」
 その言葉に「ああ……」とうなずく以外のどんな方法があっただろう。

「厄介事だったら慣れっこだしな。それに……俺とお前の仲だろ?」
「う、うん……っ」
 にかっ、と笑ってやると、ライは目を潤ませながらうなずいて笑顔を返した。
 泣くかな、とちらりと思って、困るどころかひどく興奮が兆した。さっき諦めたはずの感情が、また蘇ってきてしまう。
 泣け。泣いちまえよライ。俺の目の前で泣いてくれ。そうしたらさっきより強く抱きしめて、思う存分胸を貸してやるから。
 そう願って思いきり拳を握り締めるグラッドの前で、ライはにっと笑顔を作る。いつもの元気で、腕白な悪ガキの笑み。
「ありがとな、兄貴。俺、なんか、元気出た」
「……そうか」
 結局お前はそうやって自分一人で解決してしまうのか。俺の前で泣いてはくれないのか。
 俺はお前を抱きしめたくてうずうずしているけれど、お前はいらないよって笑うんだな。俺に気持ちぶちまけにきたはずなのに、気持ちを自分の中に押し込めて笑っちまうんだな。
 俺は、まだお前に心を許してはもらえてないのか。
「ライ」
「なんだよ?」
 自信たっぷりの悪ガキの笑み。けれどその瞳の奥に、しゃくりあげながら泣くのを堪えている子供が見えるのは、自分の気のせいなんだろうか。
 そう言いたかったけれど、結局グラッドは笑った。
「いや。なんでもない」
「そっか」
 笑ってライは背を向ける。その背中につい我慢しきれず声を投げかけた。
「あんま、無理すんなよ。いつでも話聞くからな」
 ライは無言ですっと手を上げた。その高さは年齢を反映して低く、グラッドにはひどく健気なものに見えた。

 そして、結局ライを泣かせてやれないままここまで来てしまっている。
 明日自分たちはリュームに乗ってラウスブルグへ乗り込んでいく。おそらく厳しい戦いになるだろう。そんな余裕がないことはわかっている。わかっているのに。
 自分はライを待ってしまう。あの時流せなかった涙を流しに、ライがここに来てくれるのではないかと。あの時自分の境遇を告白した自分に、また会いに来てくれるのではないかと。
 そんな風に未練を持つ自分が嫌だから、貯金を始めたのに。まだなにも始まっていない関係を断ち切って、考えすら及ばないような厳しい環境に行きたかったのに。――彼に、胸の中で泣いてもいいと思えるぐらいの男になりたかったのに。
 それなのにしつこく彼を待ってしまう自分を、グラッドは馬鹿みたいだと小さく口の端を上げて嘲笑った。たぶんひどく苦しげだろう顔で。
 ライは、もちろん朝まで駐在所などには来なかった。

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