くずれる、とっておきたいもの
「エニシア……あと、頼んだ」
「うん、ライ。任せて」
 笑顔でリュームの隣に向かうエニシアを見送り、ライはふらふらしながら大広間を出た。
 ギアンとの戦いが終わり、リュームが決めたこと。目の前の人を救うため、亜人たちを少しでも元の世界へ戻すため、ラウスブルグを動かし幻獣界へと渡る。
 そして自分はそれに協力すべく、エニシアと共にかつては幻獣界の妖精たちが行ったリュームを導く役割を負っているのだが。
「つっかれたー……」
 疲れるのだ、半端でなく。最初言い出した時はそれなりにできるという確信があったのだが(エニシアの力を受けてリュームの力を導く方法がなんとなく理解できたのだ。もしかしたら母さんの力かもしれない)、それがここまで神経を使うものだとはわかっていなかった。
 リュームを幻獣界へと導くのは一度だけしたことのある機織りに似ていた。界と界の狭間の圧倒的な魔力の渦を精神を集中して見極め、通りやすい場所をリュームに伝えながら(心の中で思うだけでリュームはそれを感知できるのだ)、幻獣界という目標に向かい進んでいく。どう動けばいいのかはわかっているのに、思うように進まないのを間違わないように必死になりながら細かく手を動かしていく機織りにそっくりだと思うのだ。
 エニシアはその作業がまるで苦にならないようで、自分と半日交代で行うその作業が終わってもまるで疲れた様子がない。だがライはその慣れない作業に神経を使い(なにせひとつ間違えば界の狭間で全員を迷わせることにもなりかねないのだから)、だいぶ疲労を蓄積させていた。旅立ってからもう三日。少しずつ幻獣界が近づいてきているのはよくわかるのだが。
 ふらふらと歩いていると、ふいに体を支えられた。
「おい。しっかりしろ」
「アロエリ……」
「オレたちの命運はお前にかかってるんだからな。しっかり健康管理してもらわなくては困る」
「わかってるって。心配すんなよ」
 にっと笑ってやると、なぜか顔を赤くしてアロエリは怒鳴った。
「そっ、そういうことを言うならもっとしゃっきり歩いてからにしろ! きっちり食事も取れ! 大口を叩くならそれに見合う行動をしろッ!」
「わかってるってば……そんなにムキになんなよ」
「ほれ、店主殿。寝室に食事を用意してあるぞ。そこまで歩けるか?」
「ああ……ありがとな、セイロン」
 笑顔を作って歩きながら、思っていた。
 ああ、疲れたなぁ、家の厨房で思う存分料理がしてぇなぁ。そんで、それリュームや兄貴やリシェルや、みんなに食わせてやりてぇなぁ。そんで笑ってくれたら少しは元気になれるって思うんだけど。
 今の状態では、自分で料理を作ることさえできないのだ。ライは深々とため息をついた。こんなことを考えてるなんて誰にも言えない。御使いのみんなはリュームの心配でいっぱいいっぱいなのだからよけいなものを背負わせるわけにいかないし。
 兄貴がいたらな。
 そんな思考がふっと浮かんだことにライは驚き、首を振ってぱちぱちと頬を叩いた。正気に戻れ。俺は兄貴にだって愚痴ったりしないで一人でちゃんとやれてきたじゃないか。
 ――ただ一度を、のぞいて。

 目を開けて、ライは仰天した。
 どこだ、ここ?
 そこは森だった。生命の息吹に満ちた、けれど獣や虫の声が少しもしないひどく静かな森。
 太陽も見えないほど深いその森の中にある、驚くほど水の澄んだ泉。その前に自分は立っている。
 なんでこんなとこに。俺はラウスブルグで仕事終えて、ベッドで眠ったはずなのに。夢か、これ?
 けれど感覚は夢とは思えないほど現実感に溢れている。頬をつねると痛い。さっぱりわけがわからず首を傾げた。
 ふと、思う。この森と泉って、どっかで見たことあるような………。
「っと!」
 突然ライから一間ほど間を空けた隣で、ばきばきっと音がした。人が突然現れて枝を折ったのだ、とわかり、ここがどこか訊ねようとそちらを向いて――固まった。
「お?」
 そいつが、その男がこちらを向いてわずかに目を見開く。その顔。忘れない、忘れるわけない。別れた時とほとんど変わってないんだから。
 むやみやたらに男らしい髭を生やしているむさ苦しい顔。わけのわからない材質でできた服のファスナーを胸まで開けた無意味にいやらしいその格好。ごついわけではないのに、驚くほど力に満ちたその体。
 その男が――自分の父親ダイバ・ケンタロウが、こちらに向かい歩きながら笑う。
「おうライ、久しぶりだな! 元気にしてやがったか?」
 ライはたっとケンタロウに向かい駆け出した。ケンタロウは一瞬目を見開き、笑って腕を広げる。まるで自分を抱きしめようとでもしているかのように。
 ライはたまらない気持ちに体中を震わせながらケンタロウとの間合いを詰め――拳を振り上げた。
「どの面下げて顔見せやがったこのクソ親父――――っ!!!!」
 ばぎぃ、といい音がして、ライの拳でケンタロウは吹っ飛んだ。

「……ったく、会った瞬間ぶん殴るか、普通? 曲がりなりにも生き別れになってた親子なんだぜ、お父様〜とか言いながら抱きついてくるぐらいの可愛げあることできねぇのかよ」
「殴った瞬間『なにしやがるッ!』って怒鳴って殴り返してくる奴に言われたかねぇよッ!」
 力尽きるまで殴り合い、お互いぼろぼろになりながらライとケンタロウは睨み合っていた。とりあえず殴りたいだけ殴ったし力も尽きているので、睨み合い罵り合うぐらいしかやることがない。
「……で?」
「んっだよで?≠チてのは」
「なんでてめぇがここにいるんだよ。っつか、ここはどこなんだ? どうせてめぇがまた妙なことやりやがったんだろ?」
「お前な、なんでもかんでも俺が悪ぃみてぇなこと言うなよ」
「俺に降りかかってくる妙なことはほぼ十割てめぇのせいじゃねぇかっ! だいたい母さんのことやリュームのことだって……あーっ! そもそも、そうだよクソ親父っ、お前ずーっと嘘ついてやがっただろっ! 母さんは生きてるし、しかもメイトルパから来た妖精だしっ!」
「………あー」
 ケンタロウは顔をしかめ小指で耳をほじる。その面倒くさそうな仕草に(覚えてる、これは追求をどうごまかそうか考えている時の仕草だ)、ライはますます頭に血を上らせた。
「おいっ、クソ親父テメェいい加減にしろよ!? てめぇが駄目人間だってのは嫌ってほどわかってるけど、母さんのことでまで嘘つくんじゃねぇっ!!」
「うるせぇなっ、俺だって好きで嘘ついたんじゃねぇよッ! メリアージュが向き合って話せるようになってからちゃんと話そうっつったからだなぁ」
「言い訳すんなっ! 結局てめぇは嘘ついたんじゃねぇかっ! 母さんが死んだって言って、腕輪をお守りだってごまかして! そんな奴が偉そうに父親面して、勝手なことばっかすんじゃねぇっ!」
 頭を熱くさせながらそう怒鳴ると、ケンタロウは苛立たしげな顔で怒鳴り返す。
「うるせぇっつってんだろ! オレ様だって別にいまさら父親面なんざしたかねぇよ!」
「………っ」
 一瞬、思考が止まった。
 それからたまらなく頭が熱くなってケンタロウに殴りかかった。
「なんだその言い草はこのクソ親父ーっ!」
「ぶわっ! んっだやるかこのっ……」
 構えて、それから唖然とした顔になってケンタロウは自分を見つめた。その間抜け面すら腹立たしくて、ライは怒りに歯を食いしばってケンタロウを殴った。
「馬鹿野郎っ! クソ親父っ! くたばっちまえこの甲斐性なしっ! てめぇは結局俺なんかいらなかったんだろっ、だったら最初っから作んじゃねぇよ考えなしっ!」
「ライ……お前」
「嘘ついて、騙して、放っといて、ずーっとずーっと放っといて、それでいきなりとんでもねぇ厄介事に巻き込んで! 挙句の果てには絶遠宣言かよっ、ああ上等だ俺だっててめぇなんざいらねぇよっ!」
「…………」
 ケンタロウは顔を妙な具合にしかめた。苛立たしげというのでもない、憎憎しげというのとも違う。一番近いのは面白くなさそうというのだろうが、それとも微妙に違う。他の人の顔に浮かんでいるのなら、それはたぶん、『痛ましげ』と表現できる表情だった。
 ぐい、と体を引かれる。不意を衝かれてケンタロウの腕の中に倒れた。暴れようとするが、ケンタロウは強い力でライを抱きしめて低く言う。
「泣くんじゃねぇよ。……男だろ」
「え……」
 言われて初めて視界が歪んでいることに気付いた。泣いている? 自分が? クソ親父の前で?
 死にたくなるほどの羞恥と怒りがライを襲い、ライは猛烈な勢いで暴れだした。
「うるせぇくたばれクソ親父てめぇなんか大っ嫌いだっ放せ馬鹿野郎っ!」
 がすがすと蹴り、踏み、両手を振り回してぼかぼかと殴る。それでもケンタロウはライを放さなかった。ぎゅっと、ぐっと、力強い腕でライの体を抱きしめる。
「…………」
「放せ、放せよばかやろっ、てめぇなんか、てめぇなんか……」
 怒りの余り言葉が出ない。喉の奥が震えてひっくとしゃっくりのような音が出る。いやだ、そんな声こいつの前でなんか出したくない。必死にこらえて怒鳴り、殴り蹴り、喚く。
「嘘つき、馬鹿親父、クソ親父、阿呆親父、嫌いだ、嫌いだ、てめぇなんか、てめぇなんか」
「ああ、わかってる」
「わかってなんかねぇっ! 俺は、俺は……」
「ああ」
 嫌だ、クソ親父の前でなんか、絶対に、絶対に――
 必死に奥歯を食いしばるライの体を、ケンタロウはぎゅっと抱き寄せて囁いた。
「もういい。もう、意地張んな」
 その言葉が、堤防を決壊させた。
「う……っ、うっ、わ、あぁぁぁあぁぁあっ………うわっ、うわっ、うわぁぁあぁんっ………!」
 涙があとからあとから溢れてくる。止まらない、どうしよう。でも親父は自分をぎゅっと抱きしめてくれている。
 いいんだろうか、泣いても。このひとは、俺が泣く間そばにいてくれるんだろうか。
 そう疑う気持ちは消えないけれど、自分を抱きしめてくれる腕の力は圧倒的に確かで、ライはケンタロウの胸に顔を埋めて、思いきり泣いた。

 目が痛くなるくらい泣いて、泣き声がしゃくりあげに変わって、それから羞恥が戻ってきた。顔が真っ赤になるのが自分でわかる。けれどいまさらどうやって離れればいいのかわからなくて、ライはケンタロウの胸の中で固まった。
「……ったく、泣き虫は直ってねぇなぁ、男のくせに」
「なっ! 誰のせいだと……」
 からかうような声にきっと睨むと、ケンタロウは苦笑する。
「そーだな、俺のせいだな。全面的に俺が悪い」
 思いのほか潔い言葉に、ライはかっと顔を赤くした。そんなことを言われたら自分の方も悪いような気になってきてしまうではないか。
「………ばかやろ」
 ぽそりと呟いて、うつむく。恥ずかしくてそのくらいしかできなかった。
 しばしの沈黙。なにを言えばいいのかわからなかった。どんな文句を言っても、こうして泣きじゃくってしまったあとではすべてが虚しい。
「……そういや、お前も響界種としての力に覚醒してきたみてぇだなぁ」
「は?」
 急になんだ。
「ほれ、この世界。ここは妖精の力で創り出された世界なんだよ。夢の中で心と心が距離もなにも関係なく出会って語り合うことができる空間なのさ」
「へー……」
「メリアージュとも似た世界で毎晩みてぇに話してんだが……」
「……なんだと、クソ親父?」
 ぎっと睨む。それでは親父はずっと毎晩母さんと話してこれたということになるではないか。
「っと! まぁ、そう怒んなよ。俺だって悪いたぁ思ってんだからよ」
 そう苦笑して頬をかくケンタロウを、ライはじっと見つめた。調子のいい言葉。でもそれはたぶん、自分に遠慮なく感情をぶつけさせる場所になるためだ。もしかしたら急に話題を振ってきたのも、そういう気持ちがあったのかもしれない。単に間が持たなくて適当な話題を持ち出したのかもしれないけど。
 そんなんじゃ怒ったら自分の方が悪いみたいなことになるじゃないか。ライは苦笑し、ぎゅっとケンタロウの胸に顔を埋めて服の腹の辺りを握った。
「馬鹿親父」
「うるせぇ」
 たまらない気持ちで頭をこすりつける。恥ずかしいと思いながらも止まらなかった。ちくしょう、悔しいけど、そんなの絶対認めたくなんかないけど。
 クソ親父のことは嫌いで、嫌いで、大っ嫌いでたまんないくらいだけど、俺はずっとこの腕と胸がほしかったんだ。
 ぎゅっとケンタロウを抱きしめて、体を摺り寄せた。
 と、ケンタロウが妙な声を上げる。
「うあ? おい、ライ、お前……」
「なんだよ」
「……意識してねぇのか……クソ、なんだってんだ。……おいライ。お前、ちゃんと抜いてるか?」
「は? 抜くって、なにをだよ」
「だっからなぁ……お前、本気で知らねぇのかよ?」
「だからなにをだよ?」
 ケンタロウは苦虫を噛み潰したような顔になって、ぼそっと言った。
「チンコしこしこ扱いて精液出してるかって聞いてんだよ」
「は……はぁ!? なに言ってんだお前っ、なに考えてんだんなことするわけねーだろっ!」
 ライは真っ赤になって叫ぶ。そんなこと考えたこともない。ケンタロウがそんなおかしなことを言い出すなんて信じられなかった。
「だっからなぁ……つか、どっから教えりゃいいんだ。お前、ガキってどう作るか知ってっか?」
「なっ、なに言い出しやがんだお前っ、急にそんな……」
「知ってんのかよ」
 ライは顔を赤くして、そっぽを向く。そんな恥ずかしいことを聞くなんて信じられない。
「知ってるよっ! 男と女が体内のマナを混ぜ合わせて作るんだろっ」
「マナだぁ……? ったくファンタジーな世界だぜ。つか、そーいうこと聞いてんじゃなくてな。具体的にどうすりゃガキができるのかって話だよ」
「ぐ、具体的にって……」
「男と女が具体的になにやりゃガキができんだ? おら、知ってんなら言ってみろよ」
「………はっきりとは、知らない、けど………」
「じゃー、女抱くとこ想像してマスかいたこともねぇわけか……」
「だからなんだよマスかくって!」
 ケンタロウははー、とため息をつき、それから真剣な顔になった。
「ズボン下ろせ」
「………は!?」
「教えてやるからとっととズボン下ろせっつってんだよ。おら早くしろ」
「な、な、な……なに考えてやがんだてめぇはーっ!」
 振り上げたライの拳を、ぎゅっとケンタロウはつかんだ。そしてぐいっと顔を近づけられ、真剣な顔で言ってくる。
「バカヤロ、いいか、これは男のたしなみなんだよ。一人前の男はな、みんなこれやってんだ」
「う、嘘つけっ! んなわけねーだろっ、そんな変なこと……」
「変じゃねぇっつの。聞いてみろ、絶対全員してるっつーから。マスかきでもせんずりでもなんでもいーけどな、それを覚えてみんな大人になってくんだよ」
 めったに見ないケンタロウの真剣な顔。もしかしたら本当に正しいことを言っているのかもしれない。ライは困惑し、混乱し、迷い悩んで、それからきっと睨むような顔で言った。
「変なことは、すんなよ」
「しねぇって」

 背中側から抱きかかえるように座り、ケンタロウはライの股間へ手を伸ばす。
「見んなよっ」
「見なきゃできねぇだろ。まぁ、ムケるどころか毛もろくに生えてねぇんだから恥ずかしいのはわかるけどよ」
「ばっ、なっ……なに言ってんだこのボケ親父っ!」
「っと、暴れるなって。やりにきぃな……ライ、もっと足開けよ」
「できるかっ!」
 ライは真っ赤になりながら怒鳴った。恥ずかしくて死にそうだった。親父に、ケンタロウに、下半身だけ素っ裸になった格好を見せているなんて。
 心臓がドキドキと早鐘を打つ。痛いくらいに強烈に。それが伝わりそうで恥ずかしくて、必死にすうはあ息を吸い込んだ。
 きゅ、とケンタロウがライの股間のものをつかむ。ライはびくっ! と体を震わせた。
「なに緊張してんだよ」
「緊張なんかっ……」
「リラックスしろ、リラーックス。体から力抜いて」
「そんなこと、言ったって……っあ」
 しゅっ、とケンタロウが軽く竿を扱いた。ぞくぞくぅっ! と悪寒にも似た電流が体を走りぬけ、ライは痺れるように震える。ケンタロウがからかうように笑った。
「お? 敏感だな」
「なっ……ばっ」
「その調子その調子。ほれ、リラックスしろって」
「なっ……あ、あうっ、あ……」
 ぞくっ。ぞくぞくっ。ケンタロウのごつくて大きな手が優しく上下するたび、指先がびりびりするほどの衝撃が体中を駆ける。なんだ、なんだこれ、なんなんだこれ――頭は混乱と惑乱でわけがわからなくなってきているが、体は勝手に反応して喘ぎ声を上げた。
「あっ、あっあっあっ、親父、親父ぃ……」
「……ああ」
 なんだろう、なんだろうこれ、こんなこと本当にみんなやってるのか? こんな変で、馬鹿みたいで――死にそうなほど気持ちいいこと。みんなやってるのか? セイロンも、シンゲンも――
 兄貴も。
 そう考えたとたんぶわっと一気に体中の熱が上がった。
「あっ、ああっ、あっあっあああっあっあっ、駄目、駄目だよぉ……」
「駄目じゃねぇから。素直に感じてろ」
「あっやっ駄目っもっ、ひっあっうっやぁんっ、あっあっああっ……」
「いいから。思いきり感じて、思いきりイっちまえ」
「あっ、ひっ、ひぐっ、やぁーっ、親父、親父親父親父、駄目っ……兄貴ぃっ……!」
 どぴゅっどぷっどくんどくんっ。音がするわけではないのに、体にそんな振動が伝わってくる。体中の力をそのまま放出したような感覚があって、ライはぐったりと息をついた。体に力が入らない。剣の稽古をしたあとに少し似ているけど、でも明らかに違う、体に熱を残す脱力感。
 それに頭をぽやんとさせながら酔っていると、突然ぐいっ、と体を引かれた。目の前にケンタロウの顔がある。
 ライはびくりとした。ケンタロウの顔が、なんだかおかしい。表情がない。冷たいというのではないが、なんというか温度がない、感情の感じられない顔でこちらを見ている。
「な……なんだよ」
 どきどきしながら言うと、ケンタロウは平板な声で言った。
「兄貴って、誰だ」
「………は?」
 ライは思わずきょとんとした。
「誰って……なんでそんなこと聞くんだよ」
「誰だ」
「……なんだよ。そんなことお前には関係ねぇだろっ!」
 そんな興味なさそうな顔で聞いてんじゃねぇよ。どうせ俺のことなんかどうでもいいと思ってるくせに。目が覚めたら、俺のことなんか忘れてエリカと旅続けるくせに。
 そうきっと睨んで言うと、ケンタロウは唇の端を吊り上げた。ライはびくりとする。なんだか、その笑顔は、おかしい。変だ。怖い……いや、そんなこと思っちゃ駄目だ、とまた目に力を入れたが、ケンタロウはそれに気付いた様子すらなくぐい、とライを押し倒した。
「てっ! な、なにすんだよっ」
「そいつともうヤったのか?」
「は? なにを」
「マスのかき方も知らねぇくせしやがって。もうここにチンポ突っ込まれたのかよ?」
「は、なに言って……わっ!」
 ライは固まった。ケンタロウがぐいっと足を持ち上げて、ライの肛門に指を触れさせたからだ。
「ちょ……なにやって」
「ふん……固いな。そんなに数やってるわけでもねぇってことか」
「な、なに、言って……」
「ほれ」
「うぁぅっ!」
 濡れた指が突然穴に入ってきた。周りを揉み解すように撫でながら、ずぬ、ずぬ、とどんどん奥に踏み込んでくる。
「ちょ、な、にやって……うあっ!」
 指が増やされた。なぜかその指はさっきよりさらにぬるぬるしていた。ケンタロウの指が、ぬるぬるしたものを自分の中に塗りこめ、自分の中を少しずつ押し広げていく。
 は、は、と荒い息をつきながらケンタロウを見ると、もう片方の手でなにか液体の入った瓶のような、でも妙に柔らかそうな光沢のものからぬるぬるした液体を垂らしている。それを自分の尻の穴に塗りこめているのだ。なに考えてるんだ、とかっとどんどんわけがわからなくなってきている頭にさらに血が上った。
「ばか、やめ、放せ……あぅっ、ばかっ」
「少し黙ってろ。力抜いて、息吐け」
 命令口調。誰が言うことなんか聞くか、と思いながらも、体の底が勝手に痺れる。従いたい、そう思ってしまう自分がいることにライは仰天し、それがまた体の熱を勝手に上げた。
「……よし、上手だぞ。そのまま力抜いてろ」
「あっ、あっ、あうっ」
 にちゃっ、ちゃっちゃっ、と少しずつケンタロウが指を出し入れし始めた。なんだ、なんなんだこれ、変だ、なんだか変になっちまう。褒められて嬉しいと感じてしまうのも変だし、尻の穴にぬるぬるした指を出し入れされて、ぞくぞくして、体中にひどく切羽詰った感覚を覚えてしまうのも変だ。
 なんなんだ。なんなんだよこれ。
「ゆっくり呼吸しろ。そう、そうだ。息ゆっくり吐いて。……挿れるぞ」
「……っ!!」
 ずぶっ、となにかすさまじく太いものが体の中に入ってきた。ひどく熱く、太く、柔らかいのに固いなにか。
 それはゆっくりと、けれどするすると穴を押し広げ奥へと入ってくる。体が開かれ、侵されていく。なにか、体中がいっぱいになるような、体に開いた穴がどんどんと満たされていくような、そんなむやみやたらな充足感に満ちた感覚。
 なんなんだろう、なんなんだろう――そう思っているうちに、ぐいっ、と腰を引かれて、体と体が密着した。え、これ誰の体? 親父の体? 毛の感触がする。熱い。すごく熱い。親父の熱なのか、これ?
 なんでだろう……なんだか、自分も熱くて、ずっしりと満たされているのに頭の方がふわふわして、痺れるくらいぞくぞくして……嬉しいのか、俺……?
 まだぼんやりしている頭のことなど気にもせず、尻の穴の中に入っているものは、ずっ、ずっと動き出した。
「やっ……あ、あぁっ、あぁっ、あーっ……」
「………っ」
 体の中が満たされる。体に穴を穿たれる。体中が熱でいっぱいになる。溢れそうだ、この感覚。
 惑乱した頭の中で、自分の前の方に触れられるのがわかった。ずん、ずん、と体の最奥を突かれ、もはやまともな声も出ずに喘ぐライの喉から、悲鳴のような声が漏れ出す。
「あうっ、あひっ、やっ、あはぁーっ、んっんっう」
「ほれ、イけ。イっちまえ。俺も……そろそろ」
「うっ、あっ、親父、親父、親父っ、ああっ、おかしっ、おかしいよ、死ぬ、死んじゃうよ、親父ぃっ……!」
「大丈夫だ、安心してぶっ飛んじまえ、死んでも平気だ、俺がいる」
 いてくれるのか。今、この瞬間は。
 そう思うと体中が震えた。たまらないほど熱が高まり、体中が吹っ飛びそうなほどふわっと軽くなる。呼吸がどんどん荒くなる。頭の中が真っ白になって、体全部がどんどんさっきと同じ切羽詰った感覚に支配される。
「あ、あぁぁっ………!」
「……くっ」
 体の奥に熱いなにかがほとばしるのを感じた。そう思ったのが、最後の思考だった。

 気を失ったライを見て、そっと頭を撫で、ケンタロウは深く、深く息をついた。
「……ナイアに知られたら、殺されるな」
 苦く笑む。それから顔を押さえた。気絶していても、ライの目の前で泣きたくはなかった。
「ちくしょう……俺は、まだこんなことしかできねぇのかよ……!」
 抜け出したと思ったのに。メリアージュに会って、子供を作って、エリカとずっと一緒に過ごしてきて、自分も少しはマシになれたかと思ったのに。
 ずっと恐れてきたことを実行してしまった。自分がやられたことを、ライにしてしまった。
「ちくしょう……ちくしょう……あのクソ野郎どもと、同じこと……」
 ケンタロウは、子供の頃、といっても小学校高学年から中学生ぐらいまでだが、性的虐待を受けていた。主に、母に。
 最初はわけがわからなかった。どういうことをしているのか、この行為にどういう意味があるのか。ただ母のいうことに従って行為を行った。これがなにかいけないことなのだろうとはわかっていたが、ずっと両親にかまわれてこなかった、関心を向けられなかった自分には両親に逆らうことなど考えられもしなかった。
 母は女としてしか生きられない人だった。物心ついたときから、母が自分の母の役割を果たしてくれたことは一度もない。父親は外に女がいて(母にも複数の恋人がいたが)めったに帰ってこなかった。
 こんなことおかしい、嫌だ、気持ち悪いと思いながら母に逆らえず、母を抱いた。母の恋人と一緒に乱交したこともある。
 父に知られた時、さんざん殴られて犯された。『変態が、どうせもうここにも何人も男を咥え込んでるんだろう』と言われて。
 限界だった。だから、中学卒業前に家出して、住み込み可の小料理屋で働き始めた。そこでも結局は馴染めず、しょっちゅう喧嘩して、殴り合って、他人を威嚇し傷つけた。
 そんな頃こちらに召喚されて、メリアージュと出会った。愛し合い、子供を作り、自分には得られなかった幸せな家庭というのを子供たちに与えようと、必死になって努力した。
 けれど、うまくできなかった。
 エリカはいい。メリアージュにそっくりだから、思うさま甘やかして可愛がってやれる。それでいいと確信できる。
 けれどライは、自分に似ていた。泣き虫のくせに意地っ張りで、負けず嫌いで。だから、どう扱えばいいのかわからなかった。
 自分はずっとライが怖かった。どう扱っても傷つけてしまいそうで。自分のような目には合わせたくないと心から思うのに、必死にこちらを追ってくるライの姿を見るたび、ひどく凶暴な想いが湧いてくるのを抑えられなかった。
 俺は両親からなにももらえなかったのに、お前は与えられるのか。
 そんな理屈にもなっていない理屈が通るわけはないのに、勝手に苛立ち、腹立たしくなり、ライに虐待のような稽古や特訓をさせたりもした。そのたびにこんな小さい奴にこんなことを、と自分を憎らしく思いながら。そしてライは必死にそれをこなそうとする。自分を素直に慕っているのだ。
 それが嬉しく、可愛らしく、たまらなく怖かった。
 だから、ライを一緒に連れてくるのはやめたのに。一緒にいたら両親と同じことをしてしまうのじゃないかと怖くて、傷つけてしまう前にと逃げ出したのだ。
 自分と似ているのなら、かまってくれる両親がいない方が楽だろうとも思った。五歳の子供ではあったが、ライはエリカよりはるかにしっかりしていたし、テイラーもいたし――いいや、それはみんな言い訳にすぎない。自分はただもうライが怖くて、一緒にいるのが苦しくて、どう接すればいいのかわからなくて、ライを見捨てて逃げ出したのだ。
 そして、結局予想通り、両親と同じことをしている。ライが男に(兄貴というのだから男だろう)身を許しているかもしれないと思うと頭に血が上った。俺はお前を変態にしたくなくて放っておいたのに、勝手に男なんぞを咥え込みやがったのかと思うと怒りで前が見えなくなった。
 ライが男相手が初めてだというのもわかったのに、それでも、止まらなかった。
「最低だな、俺は……」
 くっと自嘲の笑みを浮かべ、頭を抱えた。
「オレは駄目だ。駄目なんだ、メリアージュ。お前がいてくれなけりゃ、自分のガキもまともに愛せないんだ。だから……頼むから、助けてくれよ………」
 当然、答えはどこからも返ってこなかった。

 目が覚めると、股間がぐっしょり濡れていた。
 まさか、寝小便!? と顔面蒼白になったが、下着を湿らせているのが股間周りのぬるりとする液体だと知った瞬間、かーっと顔が真っ赤になった。
 あいつのせいだ。あのクソ親父。あいつがあんなことしやがるから。あんな、変な、妙なこと――
「ああっ、もうっ! あいつ今度会ったら絶対ぶっ殺してやる!」
 そう喚きながら、ライはこそこそと下着を着替えた。ひどく情けない気分だった。
 ――父が今どういう気分かは、少しも考えなかったけれど。

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