ぐるぐる回る、痛む心臓
 なんだろう。なんだかおかしい。
 ライは目にも止まらぬ速さでキャベツを千切りにしながらぼんやりと思った。なんだか、おかしい。変な感じがする。今まで味わったことがないような妙な感じ。
 これに一番近い名前をつけるとするならば、何度も味わった不安≠ニいう言葉が一番似つかわしい気がした。ひとりぼっちにされるんじゃないか、世界から取り残されてしまうんじゃないかと考えて、身動きが取れなくなる感じ。あれに不思議な、胸が高鳴るような恐怖のエッセンスを混ぜて、ゆっくりゆっくり煮詰められているような。
 なにを考えてんだよオレは、馬鹿馬鹿しい。ライは自分で自分に突っ込みを入れつつ自嘲の笑みを浮かべた。そんな気持ちを感じる必要なんてどこにもないだろうに。キャベツを皿のポテトサラダの脇に盛り、その隣にちょうどその時揚がるように計算して揚げていたカツを素早く油から上げて乗せる。
「モリモリカツレツあがったぜ!」
「はいはい、了解!」
「お次は鶏肉のトマト煮とファナン風パスタお願い!」
「おう!」
 リシェルやルシアンと忙しく声をかけあいながらも、ライはどうしても考えてしまう。なんで、オレは、なにがこんなに怖いんだろう。
 いやな気持ちというのとは少し違う気がする。苦しくて寂しくて、ぎゅうっと引き絞られるように胸が痛くて辛いのに、なぜだろう、この痛みはどこか、切ないくらい甘苦い。
 そんなことを考えながらも手は動き次々料理を作り上げていく。炙りサーモンの焼きおにぎりサンド、半熟卵のスープ、熱帯風鹿肉のステーキ、木苺のタルト。頭は別のことを考えていても体は勝手に動いた。
 そうしてようやく客が引けてきた頃、店の扉がカランと鳴って、一人の男が入ってくる。
 その姿を見た瞬間ライは思わず一瞬びくりとしたが、すぐににっと笑いかけた。
「いらっしゃい、兄貴!」
「おぃーっす……」
 いかにも疲れています、という顔で入ってきて、ぐったりとカウンターに突っ伏すグラッド。その横に水を置きながら、ルシアンが笑った。
「今日はまた、一段とお疲れみたいだね、グラッドさん」
「ああ、まあな……勉強で、つい徹夜した翌日だっていうのに、泥棒を追いかけて全力疾走するはめになっちまったんだ」
「うげげ……考えるだけで、息ぎれしちゃいそうだわね」
「試験勉強も大切だけどちゃんと休まなくちゃダメだよ?」
 三人の会話を聞きつつ、ライは手早く野菜を刻んだ。心臓がじんじんしている。痛いようなむず痒いような、奇妙な感じに鼓動を刻む。
 そんな様子を見せちゃいけない、とライは厨房から笑顔で笑いかけてみせた。
「ルシアンの言うとおりだぜ。試験に合格したら兄貴は、町からいなくなっちまうけど、でも、それまではこの町の平和を守る駐在軍人なんだから。いざって時に、へたれちまってるようなことだけはカンベンな?」
 そう軽い調子で言うと、グラッドはにっと笑った。思わず心臓がずきんと跳ねる。
「わかってるさ。だから、今日もこうしてオマエ特製のいつものヤツをもらいにきたんだ」
 なんでだ、なんで心臓がずきずきするんだ。兄貴はただいつもみたいに笑ってるだけなのに。なんでこんなに心臓が痛いんだ?
 荒れ狂う心を必死に静め、ライはにっと笑い返す。
「ああ、用意してるぜ。疲労回復、滋養強壮特製野菜ジュース!」
 とん、とできたてのジュース――試験勉強をがんばるグラッドのためになにか協力したくて、必死に研究して作り出した滋養強壮ジュースをグラッドの前に置くと、グラッドは小さく微笑んで、コップをつかみぐいっと口の中に傾けた。
「んぐっ、んっ、んっ、んんん……っ!」
「よく飲めるよね あんなの……」
「一口なめただけであたし、泣きそうになったのに……」
 こそこそ話し合うリシェルとルシアンに苦笑する。確かにこのジュースは味はとんでもなくまずい。栄養に重点を置いたというのはもちろんだが、急いでレシピを考えたので味まで手が回らなかったというのも大きい。
 だが手が空いた時に研究して、栄養も味も少しずつでも改良していた。グラッドが気づいているかどうかはわからないが、そんなことはどうでもいい。
 グラッドのためにできることが、自分にはこれくらいしかないのだから。
「ぷはあぁぁーっ!! キクぅぅぅーっ!!」
 気持ちよさそうな声を上げて顔を上げるグラッドに、また痛みを伴って心臓が跳ねる。それを兄貴が本当に疲れてるみたいだから心配してるんだ、と無理やり思い込んで、笑顔を必死で保った。
「よぉーし……これでまた、午後も思いっきり働けるぞ」
「その前に、ちゃんと昼メシも食べなきゃな。今、用意してやるからちょっと待ってくれよ」
「おお、ありがたくごちそうになるぞ♪」
 笑顔で嬉しげに言うグラッドに笑顔を返し、ライは料理に取り掛かった。料理をしている時は、グラッドのために料理を作っている時は、あの奇妙な気持ちを感じないですむ。

「で、実際のところ試験は受かりそう?」
「うーん……基礎体力や実技はあの戦いのおかげでそれなりに自信がついてはいるんだが、学科がなあ……」
 手早く作れる料理をたっぷりと食べてゆったりと椅子に腰掛けるグラッドと、その周りに座ってお喋りをしているリシェルとルシアンにお茶を出す。それからどうしようか少し考えて、結局厨房に留まったまま食器洗いをすることにした。グラッドの顔を見ながらお茶を飲んでお喋り。何度もやってることなのに、なんだか緊張してしまいそうで嫌だったのだ。あのことを思い出してしまうかもと思ったし。
 ライはぶるぶるぶると首を振った。あれはもうなかったことにするって決めたんだ、なのになに考えてるんだ、俺。
「法律関係でしょ? 僕も苦労してるもの」
「帝国以外の国のものまで、覚えなくちゃならないなんて、暗記の苦手な俺にはとんでもない苦痛だよ」
「ぼやかないの! まあ、気持ちはよぉくわかるけど……」
「じゃあ、僕が使ってた暗記用のメモ、持ってきてあげようか? 家庭教師の先生が作ってくれたものだし きっと役に立つよ」
「そりゃ、ありがたい!」
 なにやら会話が弾んでいる様子なのを見て取り、ライは少しばかりひがむような気持ちでカップを回収ついでに口を挟んだ。
「なんつーか……オレには理解できない会話だよな……」
「だったら、あんたも一緒に勉強する? 商売関係の法律とか知っておけば、損はしないわよぉ?」
 リシェルがにんまりと言ってくるのに、ライはぶるぶると首を振った。
「え、遠慮しとくっ!?」
 リシェルたちでさえ苦労しているような勉強に、自分がついていけるわけがない。というかついていきたくない。
『あはははははっ!』
 ルシアンとグラッドに揃って笑われ、ライは少しばかり面白くない気分でカップをお盆に載せた。ふん、どーせ俺は机の前での勉強は苦手だよ。
「しかし……これだけ、お前らに応援してもらっているんだもんな。なんとしてでも合格しなきゃな!」
「別に不合格でもいいんだけどね」
 そうリシェルが言った瞬間、ライは思わず固まった。今まで考えたこともない言葉だったからだ。
 別に、不合格でも、いい? なんだそれ。
「ねえさんってば!」
「だって……さびしいんだもん、やっぱり……」
 少し拗ねたように言うリシェルが信じられなかった。だって、おかしいだろ、そんなの? さびしいからって、たまらなくさびしいからって、そんな風に、相手の夢を邪魔するようなことを言うのは、絶対にしちゃいけないことのはずだろう?
 だって、そんなことを言ったら。絶対、相手の邪魔になって――
「ありがとな、リシェル」
 グラッドが微笑んでリシェルの頭を撫でる。ライは仰天した。兄貴、なんで笑うんだ。だって、邪魔だろう? 負担だろう、そんな気持ち?
「だけど、しょげる必要なんてないんだぜ? 俺が志願する赴任先は国境警備隊の「紫電」なんだからな。休暇になれば、すぐ会いにだって来られる」
 え。
 なに、それ。なんだよそれ。
 会いに、来る? 会いに、来てくれるっていうのかよ?
 だって、兄貴は、この街からいなくなっちゃうのに。
 呆然と固まるライに、グラッドはちらりと微笑みかけて言った。
「それに……たとえ、それ以外の場所に飛ばされたって必ず、顔は出すさ」
 そう言って少し黙る。俺の答えを求めてるんだ、なにか言わなくちゃ、言わなくちゃ、と慌てて必死に頭を回転させて、結局しょうもない言葉しか出てこなかった。
「オレの料理を食べに……だろ?」
 自分でも自信過剰だと思っていることを言って、辛うじて微笑む。するとグラッドはまるで我が意を得たりとでもいうように、ライを嬉しげに見てにっこーっと笑った。
「ああ、そうとも。軍の食事は味気ないものばかりだからな。お前の料理が恋しくなるに決まってる、うん、間違いない!」
 ―――ドキン!
 ドドドドドと派手なマーチを歌う心臓に、ライはさらに仰天した。なんだよ、これ、なんなんだよ?
 俺、兄貴の笑った顔見て、なんでこんなにドキドキしてるんだ。なんでこんなに嬉しいんだ。なんでこんなに泣きそうになってるんだ。
 なんで、兄貴がただ俺に笑いかけてくれたってだけなのに、泣きそうに幸せだって思っちまってるんだ?
「あははっ、それってば力説するようなこと?」
 リシェルが笑うと、折りよく一時の鐘の音が鳴った。グラッドが「おっと……そろそろ、任務に戻らないとな」と言って立ち上がる。
「お仕事がんばってね グラッドさん」
「いってらっしゃい!」
「ああ、行ってくる!」
 ライはグラッドが姿を消してからもしばらく動けなかった。なんなんだ、なんなんだこれ。わけわかんねぇ。なんでこんなに、俺は。
 グラッドの顔が頭から離れない。こちらを向いて微笑んでくれた時の顔、自分の料理が好きだと笑ってくれた時の顔、別れ際のちょっと手を上げて笑んだ時の顔。
 頭の中がグラッドでいっぱいで溢れそうだ。動けない。なんで、なんで。
「……ちょっと、ライ、なに固まってんのよ?」
 とん、と肩に触れられたとたん、ぼろっと一粒だけ涙がこぼれ出た。リシェルとルシアンが仰天して言ってくる。
「ちょ、ライ、どうしたのよ!? 大丈夫!?」
「ライさん、どうかしたの、どこか痛いの!?」
 大丈夫だよとも、なんでもねぇよとも答えられなかった。人前で泣くなんて恥ずかしくて耐えられないと思ったけれども、それよりも。
 なんでこんなに胸が痛いんだろう。なんでこんなに寂しいって思ってしまったんだろう。兄貴が手を上げて、店を出て行く時に。
 その疑問がぐるぐる頭を回って、とてもまともに話せそうになかったのだ。

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