苦しい、惑う心
 なんでこんなことになってるんだろう。ライはもう十度目くらいになる思考を再生した。
 自分が商店街を歩いているのは卸してもらった肉と小麦が少し必要な分に足りないのを知って買い物に出たから。
 グラッドが荷物を持って一緒に歩いてくれているのは、偶然行き会って、巡回のついでに店でちょっと早めの夕飯を食べることになって、ついでだから持ってやろうかと言ってくれたから。
 でも、何度考えても、グラッドが隣を歩いているということに、痛いくらい心臓がドキドキしているのかはさっぱりわからなかった。

「お、見ろよライ、シャルリッセの花が咲いてるぞ。あれ見るともうすぐ冬だなぁって思うよな」
「………うん」
「あ、見ろよライ。雁が飛んでるぜ。きっと巣に戻るところなんだ。鳥って冬篭りするんだっけか?」
「………さあ」
「えっとさ、ほら、俺が巡回してる時にミーズ通りのエランお婆さんから聞いた話なんだけどさ? もともとこの地方って交易はあんまり盛んじゃなかったんだって。だから宿場町なんてのができるなんて昔の人は誰も思ってなかったらしいぜ。初代皇帝が皇帝街道を作って、初めてそういう考えが生まれたんだってさ。それまではここら辺は小さな農村が集まって細々と暮らしてたらしいぜ。こういう話聞くと歴史だなぁって思うよな」
「………ふぅん」
「………ははは」
 グラッドは困ったように苦笑いする。だがライの方だって困っていた。思いっきり困りまくっていた。
 なにを話せばいいのかさっぱりわからない。
(どうしようどうしようどうしよう、なに話せばいいんだよ!? 料理についての話なんてしたって兄貴全然面白くねーと思うし、最近ずーっとほとんど外に出ねーで店の仕事ばっかやってたから面白いネタなんてねーし……つかどーして俺は兄貴が振ってくれる話題振ってくれる話題ことごとく無視してんだよ!? もっと食いついて話題転がしゃいいじゃねーか!?)
 わかっている。それはわかっているのだけれど、口が思うように動いてくれない。どんな風に話を転がせばいいのかわからない。どんな答え方をしても、呆れられてしまう気がする。
(……俺、今までどんな風に兄貴と話してたっけ。そもそもまともに自分から話しかけたことなんてあったっけ? 今までほとんど相手の方から話しかけてくれるのを待ってた気がする……なんだよそれ、相手が話しかけてくれるのにただ答えるだけなんて、一人遊びの人形と変わんねーじゃん……)
 思考が空転する。頭の中の歯車の噛み合わせがずれたように、思考はどんどん妙な方へと突進した。
(……俺ってもしかしてめちゃくちゃつまんねぇやつ? そうだよな、考えてみりゃ当たり前だよ。物心ついた時からほとんど料理ばっかしてて、ガキの頃以外まともに勉強したこともないようなやつが面白いこと言えるはずねぇ……)
 どんどん沈んでいく思考と感情。歯止めがかけられずぐるぐる回転しながら暗い方へ暗い方へ突っ込んでいく。そしてある一瞬グラッドが話しかけてくれているのに気付き、(なにやってんだ俺考え込んでる場合じゃねぇだろ!)とはっとしてグラッドに話しかけたりグラッドの言葉に答えようとするのだが、怖くて口がまともに動かない。その繰り返しだった。
(どうしよう……どうすりゃいいんだよ、わかんねぇ。つかなんで俺、こんなにうろたえまくってんだよ? わかんねぇ、わかんねぇけど……)
 怖い。なにかを言ってグラッドを怒らせたり呆れさせたりしてしまうのが怖い。手足は震えるし冷や汗は流れる。あんまり心臓が早鐘を打ちすぎて体中が痺れてきた。
 なにがなんだかわからないけど、泣きそうになるほど緊張していた。緊張するなんてこと自体、今までほとんどなかったことなのに。
(泣きそうだなんて、なに考えてんだ俺。ただ兄貴と一緒に歩いてるだけで泣きそうになるなんて、どう考えたっておかしいだろ)
 自分で自分を叱咤する。実際ひどく馬鹿馬鹿しい話だと思った。
 なのに。
(兄貴と一緒に歩いてる……)
 その思考が、言葉が、頭の中でわんわんと反響する。兄貴と一緒。兄貴と一緒。何度も繰り返されるその言葉に、ライは泣きそうに苛立った。
(なんなんだよ!? なんで俺、こんなに怖がって、緊張して、ドキドキしてんだよ……)
 自分に苛立つ。グラッドにまともに返事できない、まともに話しかけられもしない自分がひどく馬鹿のように思えて腹が立った。
 グラッドに対して(俺がこんなにうろたえてんのになんでそんな平気な顔して話しかけてくるんだよ)と苛立つ気持ちもあった。へらへら笑う顔に苛々してムカついた。なのに。
(兄貴のバカ)
 そう内心罵ったとたん、ずきゅんと胸が痛んで撤回したくてたまらなくなる。ごめんなさいごめんなさい本気じゃないんです、兄貴バカなんて言ってごめんなさい――となにかに謝りたくてたまらなくなる。
 要するに、ライは自分が今どうなっているのか、さっぱりわからなくて思いきり混乱しまくっていたのだ。
 グラッドは困ったような笑顔を浮かべながらライの隣を歩く。ライもややうつむき加減になりながらそのあとを追うように歩く。ただそれだけなのに、たまらなく緊張してドキドキしていた。(歩き方ってどうするのが正しいんだっけ……)などという思考が頭をよぎってしまうほど。
 ふと、グラッドが困ったような笑顔を浮かべたまま口を開いた。
「ライ。あのさ」
「………なに」
 かすれた声で問い返す。どうしてそんな返事しかできないんだよ、とライは自分を罵った。
「やっぱりさ。俺と一緒にいるの、居心地悪いか?」
「え?」
 ライはぽかんと口を開けてグラッドを見つめ、それから仰天して思いきり首を振った。
「そんなわけないだろ!? なんでそんな風に思うんだよ!?」
「いや、だってさっきから、お前おかしいしさ……」
 ぐっと言葉に詰まった。それを言われると返す言葉がない。でも。
「俺は少しも嫌じゃないし居心地悪くもない!」
 言いながら自分自身驚いていた。だって自分はグラッドと一緒で、なぜかはわからないけどたまらなく緊張してドキドキして苦しかったじゃないか。なのになんでそんなことがいえるんだ?
 当たり前の疑問だと思うのに、ライの心は理性を勝手に裏切りその疑問を全否定していた。そんなこと思うわけない、絶対にない。居心地悪くもないし、一緒にいるのが嫌だなんてとんでもない。
 その心の声は反射的で、強烈で、本当にそうなのかライ自身疑ってしまうほど頑なだったが、そろそろと傷を触るようにそっと自分の心を調べてみると、確かにそうだった。自分は、グラッドと一緒にいるのは、苦しいけれど全然嫌じゃない。心臓はドキドキ痛いし呼吸もできなくなりそうなくらい緊張しているけれど、一緒にいるのが嫌だとは全然思わない。
 なんでそう思うのか、そもそもなんで苦しいのかはさっぱりわからないのだけれども。
 その感情をどう説明していいのかわからず、ライは唇を噛んでうつむいた。自分の心がわけがわからないなんて初めての経験で、頭がぐるぐるする。どう動けばいいのか、さっぱりわからない。
 グラッドは少し戸惑ったような声で、「そうか」とかなんとかしょーもない答えを返した。それから少しこちらの様子をうかがって、そろそろと歩き出す。ライはそのあとに続く。
 しばし互いに無言のまま歩いた。ライはできるだけなにも考えないようにしよう、と思いながらすたすたと歩く。グラッドはその少し先を歩いていた。悔しいがこれは足の長さの差だろう。
 少し先を、自分と違い大股で、少しゆったりとした歩調で歩く。ときおりちらりとこちらの様子をうかがって、歩調を緩めたり早めたりしながら。基本は自分の歩調で、でも追いつけないほど早足ではなく。少しだけこちらを気遣って、でもそれがこちらに負担にならないくらい適当なものだということがよくわかる歩き方。
(―――あ)
 グラッドと歩く時はいつもこんな感じだった、と唐突にライは思い出した。苦しいぐらいの緊張とかではなく、歩き方の話だ。
 グラッドは歩く時いつも少しだけこちらを気遣う。こちらに合わせて歩調を変える。それは気遣われているとすぐにわかるくらいの雑駁なものだったけど、だからこそこちらの気持ちをほんのり温めてくれた。
 すぐバレてしまうような不器用な、でもその分こちらに気を遣わせない、ちょっと嬉しくなってでもすぐ日常の中に消えてしまうような親切。歩き方だけじゃなくて、グラッドは万事につけて人にそういう接し方をする人だった。
 道を聞かれれば懇切丁寧に説明するよりも、ちょうど巡回の順路だからというので一緒に連れて行く方が多い。でも忙しい時は、適当に説明されて、わからなかったら悪いけどちょっと待っててといわれる。老人に長話をされれば時間のある時は適度に相槌を打ちながらつきあってくれるけど、疲れてたらまたにしてくれと言って、でも必ず本当に次の機会を作ってやってくる。
 そういう適当なようででも実は全然適当じゃない、ごくごく普通なようでいて普通より一歩確実に優しい、そういう接し方をする人だ。相手が気を遣わなくてすむぐらいの、自分の調子をちゃんと守った、でも優しくされたことがちゃんと相手の気持ちに残るような接し方をする人だ。
 グラッドは、兄貴は、いってしまえば、接する人々をあっさりと自分の懐に入れてしまうことができる人なのだ。
 身内のように気を遣わず、苦しい時困った時はちゃんと相身互いで助け合えるつきあい。そういうものをごく自然にできる人だったから、街中の人に慕われて、頼りにされている。
 自分も、ずっとグラッドのその優しさに甘えて、頼ってきた。
「…………っ」
 ライは思わずしゃがみこんだ。ちくしょう、本気で泣きそうだ。
「っと、おい、ライ? どうしたんだよ、急にしゃがみこんで」
 グラッドは慌てて足を止め、こちらに戻ってくる。戻ってくんな、行っちまえ。お願いだから、戻ってきてくれ。両方の気持ちが同時に湧き出して混ざり合い、心をむちゃくちゃにかき乱す。
 なんなんだよ、これ。くそったれ、わけわかんねぇ。
 本当に? 本当にわからない? そう問う心の声をライは聞かなかったことにした。考えてしまえばよけいに乱れる。
 だって、本当にわかんねぇんだ。なんで兄貴のことを考えると、こんなに胸が騒ぐのか。
「おい……ライ? ……どうした?」
 優しい声。こちらを気遣って、労わろうとしてくれる柔らかい声。自分は何度もこの声を聞いた。兄貴は本当に馬鹿みたいにお人よしだから、いたずら小僧だった自分の境遇を気遣って、心配してくれたんだ。
 そして、もうすぐ、この声は聞けなくなる。
 そこに思考が至った瞬間、凍るような寒さがライの体を走り抜けた。
「――なんでもねぇよ」
 ライは笑顔で立ち上がった。心臓の高鳴りは収まったが、代わりに引き絞られるように胸が痛かった。でも、それでも今は必死に自分を取り繕いたかった。だってもうすぐ、兄貴はここからいなくなっちゃうんだから。
 手足は緊張して震えるし舌は喉に張り付いてろくに動いてくれないけれど、渾身の力を振り絞って必死に笑う。怖かったし緊張していたし変な対応をしてグラッドに変に思われるんじゃないかと思うと今にも全身が震えだしそうだったけど、それよりもなによりもおかしな自分をグラッドの印象に残したくないという気持ちが勝った。
 いつも通りに振舞うんだ。普通の顔をしろ。兄貴に変な奴だって思われたくない。あと少ししかないんだ。その間、そのほんのちょっとの間、少しでもマシな自分を見ていてほしい。自分のいい思い出だけを持っていってほしい。
 なんでだかはわからないけれど、心の底から強くそう思ったのだ。
「ごめんな、兄貴。俺最近ちょっと調子悪くてさ。つい不機嫌になったりすぐ疲れたりしちまうんだ。感じ悪かったよな、ほんとごめん」
「え、そ、そうなのか? いや、俺は別にいいんだけど……大丈夫か、本当に? 苦しいんだったらちゃんと言えよ?」
「うん。ありがと」
 緊張でこわばる顔を動かして、震える舌を叱咤してにっこり笑う。するとグラッドは少しほっとした顔をして、小さく笑い返してくれた。
 ズキー! と音がしたんじゃないかと思うほど強烈に心臓が痛む。痛みのあまり一瞬動けなくなってしまうほど。
 それでも必死に笑顔を保つ。無視しろ。気付かない振りをしろこんな痛みなんか。こんなわけのわからないなんで起きるのかわからない痛みなんて、なかったことにしてしまえ。
「まぁ、お前がそういうならいいけど……あんまり無理するなよな。俺にぐらいは虚勢張らなくたっていいんだぞ」
 小さな笑みを浮かべたまま、ぽんぽん、とグラッドは優しくライの頭を叩く。ずっきん、と思いきり胸が痛んだ。苦しい。苦しい。たまらなく嬉しくて、たまらなく苦しいんだとライは理解した。グラッドの顔が、表情が、声が、仕草が、伝わってくる体温が、切ないくらい嬉しくて、嬉しすぎて苦しい。あんまり嬉しすぎると痛いんだ、とわかった。だってその嬉しさはすぐ終わることがわかっているから。
 一瞬鮮烈な痛みに動きを止めたけれども、ライはグラッドに笑い返してみせた。
「うん、わかってる。ありがと、兄貴」
 ごめんな、ごめんな兄貴。心の中で必死に謝った。俺、嘘ついてるよな。せっかく兄貴が俺のこと気遣ってくれてるのに。
 だけど、しょうがないんだ。俺兄貴といるとなんだか変になっちゃうから。変な俺なんて覚えていてほしくないから。兄貴にはできるだけいい俺だけを覚えていてほしいから。俺なんかのことを気遣わせたくなんかないから。あとわずかしかない一緒にいられる間くらい、俺にできる限りいっぱい幸せを届けてあげたいから。
 だから、ライは必死に微笑む。胸の痛みに知らないふりをして。
 ごめんな、兄貴。大好きだよ。
 その声は、強烈だったけれども、ライにとっては日常性に溢れていたので、おかしなところに気付かないまま聞き流してそのまま忘れてしまった。

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