ミュランスの店で料理修行
『レストロ・ミュランス』でこれまで一番若かった料理人(ただし見習い)だったフェドートは、じろりと目の前で頭を下げている少年を睨んだ。
 素性はすでに聞いている。『ミュランスの星』でいくつも星を集め、若干十五歳にして帝国有数の有名料理人となった少年、ライ。『レストロ・ミュランス』のオーナー料理長、ミュランスに一時師事しており、その縁で二週間だけこの店で皿洗いをすることになったのだ、とミュランスから話は聞いている。
 だが、フェドートは少しも納得してはいなかった。
 レストロ・ミュランス。帝国料理界の至宝と呼ばれる、レストロ・メニエの元料理長にしてミュランスの星の元編集長、ミュランスの作り出したレストラン。高級な食材を惜しみなく使い、それを神のごとき技ですでに芸術品とも呼べる料理へと変える店。それでいて権威や権力に尻尾を振らず、無駄な宣伝もせず、どんな相手でも皇帝に対するようなサービスをもってもてなす、誇り高き名店。
 帝都中の料理人が憧れるこの店に入るには、フェドートもひどく苦労した。帝都でも相当の高級店でソース部門を任されていた自分でさえ、修行していた店の料理長に頭を下げて紹介状を書いてもらい、それでもすんなりと入ることはできず何度も実技試験を受けてようやく店に入ることができたが、それでもまだ見習いだ。
 なのにこの自分より七歳も若い子供が、いかに皿洗いとはいえこの店にあっさりと入るなんて、徹頭徹尾気に入らない。
 憤懣を込めて少年を睨んでいると、ミシュランが料理長帽を揺るがせもせず重々しく告げる。
「ライがこの店にいる二週間の間、店のまかないはこいつに任せる」
「………!」
「よいな?」
「……はい」
 ぐ、と拳を握り締めながらうなずいた。この店ではミュランスの言葉は絶対だ。全員ミュランスの腕と、誇り高さに惚れ込んでついてきた者たちなのだから(フェドート自身も含めて)。だが、それでもやはり納得はいっていない。
 この店ではまかないは見習いの教育のための機会として使われる。つまり、二週間の間自分の教育よりこの少年の教育を優先するというわけだ。二週間しか店にいないからその間は、ということなのかもしれないが、フェドートは二週間という短期間で料理の修業をしようなぞという甘さがそもそも気に食わない。料理修行のため見習いとしてこの店に入るならそれはそれでいいが、それなら二週間で修行期間がなんて馬鹿げている。二週間でいったいなにが吸収できるというのだ。
(気にいらない)
 怒りの感情のまま、少年を睨みつける。
(徹底的にいびってやる)

 レストロ・ミュランスでは基本的に、月ごとにメニューを変えることになっている。もちろんその日の仕入れの状況によってある程度の変化はあるが、その時々の旬のものをおいしく客に提供するという理念と、メニューを作り出す労力、厨房の人間の処理能力の限界と客のためのわかりやすさ、それらをすり合わせた結果月ごとに変えるのが一番いい、と考えられているのだ。
 なにせレストロ・ミュランスは日に数人しか客が入らないような(その代わりその客からはたっぷり搾り取るような)レストランではない。五十席以上のテーブルを最大限に回転させて、予約客のみならずたまたま入った客にもできる限り応える店なのだ。客層を選ばず、それでいて客には天国のような幸福を味わわせることができるレストラン。毎日仕事をこなすだけでも並大抵の労力ではないし、料理長にだって限界はあるのだから。
 なので月が替わった休日明けの全体会議には、必ずメニューの発表があった。
「では、今月のメニューの発表だ」
 ミュランスが重々しく言うや、給仕たちも含めた全員がばっとメモを取り出す。少年は、なんだなんだ、とでも言いたげにぽかんと口を開けた間抜けな顔で周囲を見回した。
 馬鹿な奴、と一瞬嘲笑するが、すぐにメモに集中する。ここで書き落としでもあったら大変なことになるのだ。
「まず、小前菜。海老、肉、鮎、クリームチーズ、シャンピニオン、アスパラガス、椎茸、フォアグラ、ほうれん草のキッシュ。生地は普段と変わらず、薄力粉150バター75卵黄1水20と塩。海老は卵黄1卵白1菜種油80片栗粉45黒海老1塩8たまねぎ1/2……」
 重々しく、それでいて流れるような口調で告げられるに微に入り細を穿つ説明。盛り付け指示や皿の種類まで指定されるため、給仕たちも懸命にメモを取る。
 前菜、スープ、魚料理肉料理、口直し、サラダ、チーズ、デザート。大量の説明を終えて「以上」とミュランスが口を閉じると、今度は給仕長が前に進み出て細かく指示を行う。
「では、全体会議を終了する。全員、今日もよろしく頼む」
 ミュランスの厳かな挨拶に、全員声を揃えて応える。それが一日の始まりの合図だ。
 まずは仕込み。今日も予約席は満杯だ、月初めはランチメニューがない分夜に客が集まる。それぞれが分担の仕事をてきぱきと始めた。
 ある者は肉を切り分け、ある者は野菜の下茹でをし、ある者はドレッシングを作り、ある者はコンソメをひく。総料理長であるミュランスは当然すべてを監督する立場にあるため、何度もやってくる給仕たちにも指示を出しながらゆっくりと厨房の中を歩き回る。
 その厳しい視線に背筋を震わせながら、フェドートは自分の仕事を始めた。見習いであるフェドートに任されるのは、当然ほとんどが雑用だ。野菜の皮むき、刻みパセリの準備、鍋磨きに野菜洗い。せめて今年中に火を使う仕事をさせてもらいたいと熱望してはいるが、少なくとも今は雑用を完璧にこなすようにしなくてはならない。
 それぞれの場所に散った料理人たちをさっと見回し、なにか考えるように眉を寄せた銀髪の少年――ライに、ミュランスはすっと歩み寄り告げた。
「お前はオーブンをすべて綺麗に磨いておけ。それが済んだら鍋磨きだ。客を入れる前にすべて終えておくように」
 フェドートは内心にやりと笑う。さすがミュランス、締めるところは締める。どんなに有名だろうとこの店ではしょせん二週間の見習い、初日は食材に触れることさえできなくて当然だ。
 さぁてどう答える帝国最年少の有名料理人さんよ、と意地悪く少年を見つめたが、ライはなぜかにっ、と子供っぽい、けれど明るく嬉しげな笑みを浮かべ、元気よくうなずいた。
「はいっ!」
 フェドートは一瞬ぽかんとした。料理人というのは誰でも、少なくとも自分を一人前と考える者ならば誇り高いものだ。腕一本で生きていこうという職人なのだから自分に誇りを持たなければやっていけない。
 ミュランスの星で認められるほどの料理人が、火を使うどころか食材に触れさせてももらえない雑用をさせられて、不満の表情を微塵も浮かべないというのはフェドートにしてみれば考えられないことだったのだ。
 が、ミュランスにじろりと見つめられて慌てて自分の仕事を始める。今日はとりあえずじゃがいもの皮むきからだ。
 横目でこっそりライの様子をうかがう。ライはてきぱきとオーブンを磨いていた。手早いがツボを押さえた、丁寧な仕事だ。みるみるうちにオーブンは艶やかに輝き始める。
 それがどうにも面白くなくて、フェドートは顔をしかめた。この程度で認められたと思うなよ、新人。

 レストロ・ミュランスではたいてい仕込みは余裕をもって終えられるため(なにせ帝都に名だたる名店の料理長を務めていたような料理長がごろごろしているのだ)、客を入れる前にまかないを食べられないということはほとんどない。そしてそのまかないは、これまでほとんど自分に任されていた。
 その確実な技術向上の機会をこの少年に奪われたのだ。下手な料理を作ったら徹底的にケチをつけてやる、とフェドートはまかないの時間を意気込んで迎えた。
「好きに作ってみるがいい」
 ミュランスがあっさりと告げたその言葉には、当然含意がある。店にある食材を使い、今日出す料理に支障のない範囲で、この帝国料理界でも最高レベルの料理人たちを満足させるだけの料理を、自らのセンスで作ってみろ、ということなのだ。
 へたなものを作れば当然微に入り細に入りけちょんけちょんにけなされる。フェドートも何度どっぷり落ち込んだことかわからない。お手並み拝見ってところだな、と意地悪くライを見て。
 驚いた。ライは「はい!」と元気にうなずくや、手早く食材を次々保冷庫から出したのだ。考えるような様子も見せず、まるでここが使い慣れた厨房であるかのように。今日が初日だというのに。
 そしてライの動きを見て二度驚いた。早い。野菜を刻む包丁さばきも、フライパンを動かす手さばきも、ひとつひとつの動作が堂に入り、かつ淀みやたるみが微塵もない。
 別にミュランスの星の評価を疑っていたわけではないが。こいつ、やはり相当の料理人だ、とフェドートはぐっと唇を噛み締めた。
 さらに、料理を出されて三度驚いた。ライの出した料理は、今までフェドートが見たこともないような珍妙な代物だったのだ。
 皿に盛られているのは丸い生地。オムレツか、と思ったのだがオムレツにしてはやけに平べったい。そして生地の中の野菜の量がやたら多い。というかこれは野菜を卵でまとめた、というものなんじゃないだろうか。
 上にはソースがたっぷりとかかっているが、このソースのかけ方もフェドートの常識とは違う。ソースが皿に少しもこぼれていない。これはもしかしてソースを刷毛で塗りつけたのか?
「……これは?」
 さすがのミュランスも怪訝そうに訊ねたが、ライは自信に満ちた笑顔で答えた。
「俺のオリジナル料理、キャベツ焼き。とりあえず、食べてみてくれよ」
「ふむ」
 どの料理長も不審そうな顔つきだったが、確かに食べてみなければ始まらない。おのおのナイフで一口大に切り取って口に運ぶ。フェドートも面白くはなかったが、とりあえず一切れ食べてみた。
 そして絶句した。
「……むぅっ!? この味、まさに筆舌に尽くしがたしっ!」
 ミュランスが叫んだ。普段は声を荒げることさえないミュランスが、と驚く間もなく、ミュランスは流れるように解説を始める。
「ふんわりとした卵の中にたっぷりと入れられた刻みキャベツ。しんなりするまで炒めたキャベツが柔らかい卵の生地にどっしりとした安定感を与えておる。そしてともすれば単調になりかねん柔らかい生地の味を、絶妙な塩加減で味付けされた豚の細切れ肉がぐっと引き締めておるな。そしてこのソース! 単品ならばしつこい味とも感じられるであろうこってりとしたソースを、刷毛で適度な量塗りつけることで、見事に味の調節を行っておる!」
 ライはその言葉をしてやったり、という感じの笑顔を浮かべて聞く。確かに、この料理はうまい。あっさりとした生地とこってりとしたソースが見事に調和し、いくらでも食べられそうな味を作り出している。だが、だが。
「これは帝国料理じゃないでしょう!」
 フェドートは思わず叫んでいた。ライがきょとんとした顔をこちらに向けるのに、フェドートは感情に任せ怒鳴る。
「こんな料理、帝国料理じゃない。ソースも生地も帝国料理の製法とは思想からしてまるで違う。レストロ・ミュランスは帝国料理の店だぞ。こんなものまかないに出してどうする気だ!」
 怒鳴りつけられたライは、顔をむっとしかめさせて言い返す。きかん気そうに寄せられた太い眉は、この少年も相当に気が強いということをしっかりと表していた。
「どうするもこうするも、使ってもいい材料で作れる一番うまい料理がこれだったんだから別にいいだろが。まかない料理にまで店の味を出さなくちゃならねぇ理由がどこにあるんだよ」
「まかない料理にまで、だとぉ? ふざけるなよ新入り、この店じゃまかない料理は新人教育のために使われてるんだよ! お前はこの店で修行するために来たんだろ、だったらまかないでこそ自分の技を見せないでどうするんだ!」
「っ、ふざけるなはこっちの台詞だぜ! 新人教育のために使うってんならそれはそれでけっこーだけどな、料理人はまずうまい料理作ってなんぼだろうが! 自分の技磨くためだけに料理作るなんて、食材に失礼ってもんだぜ!」
「なんだと……!?」
 その子供のような台詞にかぁっと頭に血が上り、思わず立ち上がる。ライも椅子を蹴倒し立ち上がる、と同時にミュランスが一喝した。
「静まれぇぃっ!」
『っ……』
 さすがにミュランスの一喝はものが違う。どちらも体をこわばらせたところへ、ミュランスは静かに告げた。
「お前たちの理屈が正しいか否かについて、わしからくだくだしく言うつもりはない。が、喧嘩をするつもりならば仕事時間外に厨房の外でやれ。それが聞けぬというならばここで働く必要はない。よいな」
「……はい……」
「……はいっ!」
「よろしい。では、ライよ。この料理の課題点についてだが……」
 こんな料理にすらひとつひとつ課題点を上げ指導するミュランスの声を聞きながら、フェドートはぐっと拳を握り締めていた。
 こんな奴、俺は絶対に認めない。

 店が開かれ、客が入り。厨房は回転を始めた。最初はゆっくりと、だがあっという間に戦場のようにせわしなく。
 フェドートの現在の仕事は前菜の助手だった。ほとんどのレストランで見習い料理人が最初にやることになる部課だ。野菜の皮むきに皿洗いに鍋洗いに掃除、と雑用としか言いようがない仕事がほとんど。フェドートが最初に入ったレストランでは一週間で終わった仕事だったが、この店ではもう一ヵ月半もやらされている。
 この部課の人間は一番早く厨房に入り、自分の仕事を終えて上の人々の仕事を手伝わなくてはならない。料理人がいつまでもいる部課ではない、できる限り多くの仕事を手伝ってなにか担当を任されるだけの技術を身につけるための部課なのだ。
 当然おそろしくこき使われるし体力的にもきつい。睡眠時間もろくに取れず、店に泊り込むこともたびたびだった。
 だがそれでも、この店で一人前と呼ばれるほどの料理人になるためなら耐えられる。もっと自分の腕を上げ、いつかはミュランスをも超えるほどの料理長になる。そう自分は誓ったのだ。
 そういつも通り気合を入れてあちこちの部門料理長の命令に従ってコマネズミのように働きながらも、フェドートはこっそりライの様子をうかがってしまった。あいつの仕事は皿洗い。当然料理人のする仕事ではない。少しでも料理人としての矜持があるならば、できる限り他の人間のする仕事を盗んで覚えようとするはずだ。
 だが、ライは他の人間の仕事に手を出さなかった。皿洗いの仕事はてきぱきと完璧にやるが、他人の仕事を手伝おうとする様子はない。他の料理人たちも突然闖入してきたこの少年には少なからず含むところがあるのだろう、誰も手伝えとは言わなかったせいもあるのだろうがそれにしたって。
 ひどく苛立って、大きく舌打ちをする。なんでこんな奴が、ミュランスの星に認められてるんだ。
「フェドート! なにをよそ見してる、さっさとチーズを削れ!」
「はいっ!」
 怒鳴られて慌てて自分の仕事に集中する。レストロ・ミュランスのオーダーはひどく入り組んでかつ回転が早いのだ、よそごとを考えながらさばけるような甘いものではない。
 ぶっ通しで六時間以上ずっと嵐のような厨房で戦い抜き、ようやく一日の仕事を終える。はぁ、と深い息をつき着替えようと更衣室に向かいかけ、気付いた。ライが厨房の一角で、食材をいくつも拡げている。つまりこれは。
「……おい」
「なんだよ」
 こちらが敵意を持っているのはわかっているのだろう、睨むというほどではないが愛想のない視線を返してくるライに、フェドートは顔を睨みながら言う。
「お前、厨房使う気なのか」
「ああ」
「料理長はいいって言ったのかよ」
「当たり前だろ」
 実際、見習い料理人が厨房を試作のため借りることは珍しいことでもなんでもない。許可を得て、食材の料金を払い、きちんと後片付けをしさえすれば誰にも文句は言われない。明日の仕事が辛くなることを考えなければ。
 フェドートは顔をしかめ、舌打ちをしてみせた。半分は嫌がらせのつもりで、もう半分は負けん気から。
「俺だって厨房使わせてもらうつもりだったんだよ」
 嘘ではない。月が替わったのだから、できるだけ早いうちに替わったメニューを作れるようになっておきたいと思っていたのは確かだ。月初めということで客が大量に押し寄せてきて死ぬほど忙しかった今日のような日ではないにしろ。
 だが、ライはあっさりと答えた。
「なら一緒にやればいいじゃねえか。別に厨房独占しようなんて思ってねぇよ」
「……そうかよ」
 くそ、今日はろくに眠れねぇな、とフェドートは内心で舌打ちする。こいつは二週間しかここにいられないのだから連日泊り込むくらい当然だろうが、自分はこいつがいなくなってからも毎日働かねばならないというのに。ついつい対抗心をかきたてられてしまった。
 結局フェドートとライは、並んで試作をすることになった。並べられた食材を見ると、どうやらライも今月のレシピを試作するつもりらしい。上等だ、とフェドートも同じ食材を並べた。
 帝都で切磋琢磨してる料理人の技ってもんを見せてやる。田舎町でちょっと騒がれたからっていい気になるなよ!
 メモを確認して、頭の中で組み立てつつ、ライから数分遅れで料理を始めた。ボールに卵白を空けて小麦粉をふるい、塩を一つまみ。それからごま油と水を加えて粘液状にする。鉄板に丸い型を置いて内側に生地を刷毛で塗る、とてきぱき手を動かしながらちらりとライの様子をうかがい、目を見張った。
 早い。クレープ生地をとうに仕上げているのは予想していたが、始めた時間は自分と数分しか違わないのに皿のデコレーションまで終え次の皿の準備まで始めているとは思っていなかった。
 負けるか! そう思って手を早めるが、ライはそんな自分の様子など気にした風もなく一皿目――スズキのタルタルごまクレープのミルフィーユ仕立てを仕上げてしまった。食欲をそそる香りを立たせる一皿に、少しばかりむっとしつつも心の中で笑う。
 盛り付けがまるでなってない。形だけ店のものと同じように整えた、という感じで店の皿にあるような繊細な美的感覚というものがまるでない。
 この程度か、と言わんばかりに鼻を鳴らしてやりつつ手を早める。が、ライはそんなフェドートを気にした様子もなく、ひょいとスズキを一切れ手でつまみ口に運んだ。
「……ん」
 小さくうなずいてから、くるりとこちらの方を向いた。なんだ、と警戒するより早く、あっさりと訊ねてくる。
「なぁ。これ味見してくんねーか?」
「っ」
 フェドートは一瞬気圧されつつも、うなずいた。こちらは今ちょうどクレープ生地をオーブンに入れたところ。手は空いているし、それにこいつが複雑玄妙なミュランスのレシピをどう料理したのか、やはり気になる。
 差し出されたフォークと皿を手に取り、クレープ生地をぱりぱりと割って重ねられたスズキを口に含む。――とたん、思わず目を見開いてしまった。
「うまい……」
「っしゃ!」
 にっ、と笑顔で握り締めた拳を引くライを見てから我に返り、く、と悔しさを堪えて咀嚼する。
 本当にうまかった。ぱりぱりとしたクレープ生地の食感と香ばしさ、それとぴったり合うスズキのねっとり感と豊かな味わい。それらが合わさって高めあい奏でる味の調和。仕事をしながらこっそり味見したソースと同じ味、同じレシピだと思うのに想像していた料理の味よりさらにうまい。ミュランスがレシピを考えた時夢想したであろう通りの、この料理の理想形を食べさせられている、そう思えてしまう。
 そこまで考えて、気付いた。
「……お前、レシピどうしたんだ。総料理長がレシピ言った時にはメモも取ってなかったくせに」
「料理するとこ見てたからな。ソースも味見したし。どういう料理かくらいわかるさ」
 料理するところを見た。ソースを味見した。それだけでレシピを完全に再現し、のみならずここまで料理の完成度を高めたというのか。
「お前のもできたら食べさせてくれよな」
 にっと笑顔でそう言って、ライは調理に戻る。フェドートは内心歯噛みしていた。悔しい。悔しい。悔しいが、やはりこいつは一流の料理人だ。
 負けてたまるか、と必死に自分も同じ料理を仕上げたが、食べてみてもライのような味わいは出せなかった。ライが驚いたような顔をして「うまいじゃん」と言ったのが、馬鹿にされているようでひどく悔しかった。

「こんなの帝国料理じゃないって何度言わせるんだ!」
「うまいんだからいいだろーが! なんでまかないでまで帝国料理出さなきゃなんねーんだよ!」
 その日のまかないでもフェドートとライは真正面からやりあっていた。今日ライが出したまかないはシルターン風オムライス。焼き飯をつめたオムライスに、鶏がらのスープで作った餡をかけ回して作った料理だ。
 さっぱりとしているのに食べ応えがあり、いくらでも食べられそうなものではあったのだが。
「帝国料理の店で帝国料理を出さないでどうする! お前には向上心ってものがないのかよ、技術を向上する機会を活かさないで本職の料理人なんて言えるか!」
「っ、だからって帝国料理にばっかこだわってどーすんだよ。帝国料理以外にだってうまい料理は山ほどあんだぞ、そーいうのの技とかを使って今までにない料理ってもんを作り出すことだって料理人の仕事じゃねーのか!?」
「っ……そんな偉そうなことを抜かすのは帝国料理を究めてからの話だろ! あれもこれもって手を伸ばしたって結局は中途半端になるだけだ!」
「……っけどまだ未熟だからってんで尻込みしてたら新しい料理なんてできるかよ!」
 お互い勢いよく言葉をぶつけあい怒鳴りあい。何度も周りから注意されているのだし、やめなければと思ってはいるのだがこいつのまかないを食べるたびに理性はあっさり吹っ飛んでしまう。
 こいつのまかないは最高にうまくて、うまいからこそ腹が立つ。自分の腕を無駄に使っている、そんな風に思えてしょうがない。こいつの料理人としての資質を認めざるをえないからこそ、どうしても譲れない。
 そしてその喧嘩はいつも通りにミュランスの一喝で幕を閉じる。
「静まれぇぃっ!」
『っ……』
 揃って黙り込みながらも睨み合う自分たちをミュランスはじっと見つめ、言った。
「ライよ。お前の言うことも間違ってはいないが、フェドートの言うことにも一理があるのも事実だ」
「……はい」
「今後一週間はこの店で出す帝国料理≠ニ同じものをまかないとして″ってみるがいい。よいな?」
「はい」
 まだ幼い顔を引き締め、こっくりとうなずくライを、フェドートは妙にむっとした気分で見つめた。なんだ、結局総料理長に言われたら聞くのか。お前のこだわりってのもその程度か。というような。
 ミュランスの言葉を聞かなかったとしても、それはそれでムカついただろうが。
 まかないが終わり、長のつく人々は仕事前の短い休憩に入る時間。フェドートの隣に、すぐ上の立場になる比較的年の近い先輩が立って囁いた。
「フェドート。お前、いくらなんでも突っかかりすぎだろ。あいつが気に入らん気持ちはわからんでもないが、あいつだって仕事はきっちり……いや、きっちり以上にしてるんだ。いちいち喧嘩売るみたいな勢いで突っかからんでも」
「……わかってますよ、そんなことは」
 そう、わかってる。初日はろくに動かなかったが、翌日からあいつはてきぱきと働き始めた。決してでしゃばらず、それでいて周囲の人間が働きやすいよう、もうここで十年も働いているかのような呼吸で周囲の援護をする。
 最初は鍋に水を張ったり食器や食材の準備をしたり、というくらいだったが、それがあまりに的確でちょうどいい瞬間に行われるため、しだいしだいにいろんな人間が頼りにするようになって、今では自分と同じくらい雑用と料理補助を任されている。そしてその仕事がいちいち見事なうえ、それと平行して皿洗いの仕事もしっかりやっているのだ。言うは易いが、この店でそれを行うのがどれだけ大変なことか自分が一番よくわかっている。
 たぶんあいつは初日、厨房全員の呼吸をうかがっていたのだろう。どんな瞬間にどんな助けを必要とするか見極めていたのだ。それをたった一日で、しかも完璧に援護をこなせるようになるまでにする、というのは料理の技術のみならず料理の流れというものを完全に体に覚えこませている証明に他ならない。
 あいつはすごい料理人だ。それは、わかっているのだが。
「あいつがすごいってのはわかってます。だから俺は、余計に気に入らないんです」
「はぁ」
「だってあいつ、ちっともがつがつしてないじゃないですか。もっと上へって、技術を死ぬ気で吸収しようって感じが全然ない。そりゃあいつのおかげで厨房が全体的にやりやすくなったとは思うけど、あいつだって一店を構える料理人でしょう、助手で終わる気なんかないはずだろうに。もっとがんがん技法について聞いたりしたっていいのに、黙って仕事手伝ってるだけで。そういう根性のぬるさが、俺はムカつくんですよ」
「はぁ……つまり、お前はもったいないって言いたいわけだな? もっとがつがつすればもっとすごくなれるのにって」
「そ、そんなんじゃないですよっ!」
 そうだ、そんな話ではまったくない。ただ自分は、あいつのぬるさがムカつくだけなのだ。
「まぁ、あいつは実際大した料理人だからな。一度見せた技は全部覚えちまうし、なんにも言ってない相手の腹具合もしっかり見抜いちまうし。がつがつしないのも仕方ないっちゃあないのかもな」
「え……なん、ですか、それ?」
 思ってもいなかった言葉に、フェドートはぽかんと口を開けて先輩に訊ねた。先輩はあっさりと答える。
「なに、お前気付いてなかったのか? あいつ料理長たちの技どんどん盗んでるだろ。まかないの時使ってたじゃんか。それに、まかないで出す料理もさ、俺らの腹具合とか体調とか気候とか読んで出してるだろ。たぶん、あいつ自分のレパートリーの中で、その日相手が一番食欲そそられるもんを出してるんだぜ」
 先輩の言葉に、フェドートは一瞬瞳孔が開いた。

 食べる人間のことを考えて料理をする。それは当たり前といえば当たり前の話だ。
 だがこの店では違う。いや、ここでなくともある程度大きい店ではそんなことを考えている余裕はないはずだ。
 毎日次々出されるオーダーを支障なくこなすだけでも精一杯。そんな状況で相手の健康状態まで考えて料理を出すなんて、難しいとかいう段階ではない。
 だが、思い出してみれば確かにその通りだった。ライはいつも相手一人一人の腹具合を考えて、それにちょうどいい料理を作っていた。帝国料理を作らなかったのも、帝国料理の多くはここで働いているような中年や老年の男には重たいからというのが一番の理由だったのかもしれない。
 試作の手を動かしながらももやもや立ち昇ってくるそんな思考を、フェドートは懸命に蹴り飛ばした。だからなんだ。だからってこいつが料理人として失格なのには変わりない。
 こんなに技術が高くて、要領もよくて、才能に溢れてるのに。上を目指さないなんて、料理人と呼べるもんか。せっかくミュランス先生の店に入れたっていうのに、たった二週間でやめちまうなんて、根性なしもいいところだ。
「おし、できた! フェドート、味見してくれよ。フェドートの作ったのは俺が味見してやっからさ」
「……ああ」
 そう思っているのに、ライはいつの間にか自分を名前で呼ぶようになっているし、働いたあとの試作会(のようなもの)ではお互い味見するのが恒例になっている。なんでこんなことに、と思いつつも、ここでやめるのもまるで逃げ出すようで気に食わないので、ライにまいったと言わせることを目指して必死に調理しているのだが。
 ライの差し出した柔らかくゆっくりと焼き上げたスズキのロースト、香り高いアーティチョークうずらの卵添え、軽い燻製が香るブイヨンと共に≠フ盛り付けを睨み、ケチをつけるところがないのに内心舌打ちしてから(以前盛り付けにケチをつけてからというものものすごい早さで盛り付けのセンスが向上している)、ぱくりと口に含み、口の中に広がる複雑玄妙な味にぐっと奥歯を噛み締めて、フェドートは言った。
「うまい」
「っしゃ!」
 ライは笑顔で拳を引く。本当に、うまい。レシピは調べようと思えば(働いている店のメニューなのだから)いくらでも調べられるだろうが、どうしてここまで完成度を高められるのだろう。ぱりぱり感とねっとり感を同時に楽しめるように焼きを入れた皮、旨味を完全なまでに封じ込めた身、ブイヨンも本当に秒単位で計っているのではないかと思うほど香りも味も見事だ。
 ぐ、と唇を噛む。天才というのは、こういうものか。少なくともライがこの店に来た当初はここまでの技は持っていなかった。つきっきりで教えてもらったわけでもないのに、ただ同じ厨房で料理をするところを(しかも雑用をこなしながら)見ていただけで、こんな技術を身につけてしまったというのか。
 自分では、及ばないのか。七歳も年下のこの少年には。
「ん……うまいけど……なんかムキになってる感じの味だな。なんつーんだろ、味付けとかひとつひとつをとってみると整ってんだけど、全体的にどーも調和してない感じがする」
「……そうだな」
 代わって出したフェドートの料理に対するライの歯に衣を着せぬ発言を、しかしフェドートはうなずいて認めた。拳は血が出そうなほどぎりぎりと握り締めていたけれど。
 確かに、自分でも食べてみてそう思うのだ。自分の作ったこの料理は人に食わせられる料理ではない。ライのものと違って。
 自分では、この若き天才には、及ばない。それを認めなければならない。その認識は、血を吐きそうなほどの苦痛をフェドートにもたらした。
 ぐ、と唇を噛みながら皿を睨んでいると、ふいに「なぁ」とライが声をかけてくる。
「……なんだよ」
「明日、店休みだろ? お前も家に戻るんだよな?」
「……あぁ。それが?」
 ここ連日自分たちは店に泊り込んで試作を繰り返していたが、休みとなれば当然家に戻ることになるだろう。久しぶりにゆっくり休めるのが嬉しくないわけではないが、その間にもこいつに差をつけられていくのかと思うとじりじりと神経が焦げつく。
 が、ライはフェドートのその心境に気付いているのかいないのか、にかっと笑ってみせた。
「ならさ、ちょっとだけ俺の試作じゃない料理、食ってみてくんねーかな?」
「は?」
「腹具合にはまだ余裕あんだろ? 腹いっぱいになっても明日は休みだし。な、頼むよ」
「………好きにすればいいだろ」
「よし! ちょっと待っててくれよな!」
 嬉しげに笑い、てきぱきと調理を始めるライ。手際よく楽しげに調理をするその後姿を見ていると、腹の底からぐぅ、とこみ上げるものが、ついぽろりと口から出てしまった。
「天才サマは優雅なもんだな。まだ店に来てから六日だってのに、レシピあっさり全部習得してもう自分の料理作るとこまでいってるわけか」
「は?」
「さすが、才能ある奴は違うよな。普通の人間が何年もかけて編み出したレシピをあっさり自分のものにしちまえるわけだ。ミュランスの星で絶賛されてる、帝国最年少の有名料理人だからなぁ?」
 ああなにを言ってるんだみっともない、俺はこれでもカンテサンス≠ナソース部門を任されてた料理人だってのに! 言いながら惨めさに涙が滲んだが、それでも口は止まってくれない。
「そりゃ二週間で修行終えちまうわけだよな、一週間でもうレシピ覚えちまってるくらいだもんなぁ? 他のやつらと同じように長年修行なんてちゃんちゃらおかしくてできないってか」
 ちくしょうこんなこと、こんなみっともない台詞死んでも言いたくなんかないのに! そう思うのに、口は止まらない。全力で拳を握り締めて泣くのを堪え、必死の思いでライの背中を睨みつける――
 と、あっさりとライが言った。
「なに言ってんだよ? 俺レシピまだ習得なんてしてないぜ」
「……え?」
 それはフェドートには、思ってもみない反論だった。
「だ、だってお前、毎日しっかりレシピそのままの料理作ってるじゃないか」
「そりゃ作るとこ見てたからな。ソースとかも味見したし。けどレシピ知ってるのと料理を自分のものにすんのは別の話だろ」
「な、どの口で……お前どの料理もしっかりうまく作れてるだろうが!」
「ああ、一応食った人……っつか、お前だけど、にとってそれなりにうまくは作れてると思う。だけど、それと料理を自分のものにするってのは同じことじゃないだろ」
「は……? 意味わかんねぇよ」
 ライはてきぱきと野菜を刻み、バターとたまねぎを鍋でソテーしと料理する手を動かしながら、どうということもなさそうな口調で言う。
「たとえばさ、師匠……ミュランス総料理長は料理する時、もうこれ以上ないってくらい決まった味を出すだろ。もう本当にこれ以上どうにも手の加えようがないってくらいの、どんな相手でもこういう料理だ、って納得させちまうみたいな味を。俺の場合は、そこまではいってないんだ」
 フェドートは言われた言葉の内容を考えて、眉を寄せる。それは確かにそうかもしれないが。
「お前のだってすげぇうまかっただろうが。相手の腹具合まで考えて味付け変えてるんだろ」
「いや、だっからさ。相手の胃とか舌とか体調とか考えて味付け変えるのは基本だけどさ、それ以前に自分の中でビシってしっかり味に一本筋が通ってなきゃダメだろ。俺の作るこの店の料理は、そこまでいってねーんだ。まだ試作の段階。手抜きはしてねーつもりだけどさ」
「…………」
 相手の体調まで考えて味付けを変えるのを基本と言ってしまえることや、あそこまで完成度の高い料理を作っておいて試作と言えてしまうことに、フェドートは嫉妬と同時に腹立ちを覚えたが、ライはそんなことになど気付きもせず続ける。
「なんつーかさ……俺の料理って、まず食べる人ありきだからさ。師匠みてーな、究めた一皿、って感じの料理、なかなか作れねーんだよな。俺の流儀を変える気はないけど、違う考えを持ってる人の料理も勉強しなくちゃって思うから」
「……食べる人ありき?」
 何気なく言われた言葉を聞きとがめたフェドートに、ライはあっさり答えた。
「ああ。俺は料理ってのは食べる人の幸せを願って作るもんだって思ってるから。つか、普通そういうもんだろって思ってたからさ、師匠から話聞いた時は驚いたんだよな。そーいうの関係なしで、自分のために料理の技を究めようとする人がいるってのはさ」
「…………」
 フェドートはまた、眉を寄せる。子供の思考だ。ごく一般的な料理人ならそれでいいだろうが、一流と呼ばれる料理人ともなればそんなことは言ってられない。自分の技に山より高いプライドを持たなければ、生きていけない世界なのだ。
「……お前、本格的に料理するようになってから何巡りだ」
 説教してやりたくなり重々しい口調で言うと、ライはあっさりと答えた。
「十と半分ってとこかな?」
「……は? おい、ふざけるなよ、お前十五だろ。真剣に、人生懸けて料理するようになってから何巡りかって聞いてるんだよ」
「ふざけてねーよ。俺は五つの時から、人生……っつか、命懸けて料理してきてんだからな」
「は……?」
 思わずぽかんとするフェドートに、ライはてきぱきと米にブイヨンを注ぎながらどうということもなさそうに言う。
「俺、五つの時から独り暮らししてたからな。母さんがいなくなって、親父が俺置いて旅に出ちまったから。だから飯作ってくれる人がいなくてさ。それまでも一応料理の基本なんかは教えられてたし、作ったこともあったから。なんとかしようって必死にやってきたわけ」
 鍋の中身をかき混ぜながら普通の口調で言うライに気圧されながらも、フェドートはふん、と鼻を鳴らしてみせた。
「要は自炊経験ってだけだろうが。そんなもん、客に出すための料理とはまるで違う」
「そーか? 俺はその頃の気持ちと、似たような気持ちで料理やってるけどな」
「なっ……! お前、本気で言ってるのか! 客に出す料理と自分で食う料理が同じだって!? それなりにうまく食えりゃいい料理と、客に出す料理が同じって」
「あー、だっからそーいうんじゃなくってさ。おいしく食えるように、って気持ちがおんなじってこと」
「え……?」
 ライは料理の炊け具合をじっと観察しながら、淡々と言う。
「独り暮らし始めた頃って、俺、ホントガキだったからさ。一人で家にいるのが、つまんないっつーか、寂しくてたまんなかったんだよな。昼はまだ友達と遊んだりできるけど、陽が暮れればそいつらはみんな家に帰っていく。それから朝までの長い時間、ずーっと一人で家のことやって風呂入って寝てってやるのがもう、たまんなくてさ」
「…………」
「そんな時にさ、ただひとつの楽しみが、料理だったんだ。作るのも、食べるのも。まだ五歳だったから作るのも必死になんないとダメだし、それにうまい料理を食ったその瞬間は、辛いこととか忘れてもうただああ、うまいって思えるだろ。状況とか落ち込みとかそういうの全部吹っ飛ばして、ただもううまいって幸せになれるだろ。だから俺は料理の研究に没頭した。作ってる間、食べてる間、寂しさを忘れられるくらい、夢中になれるくらいうまい料理を作ることに」
「…………」
 フェドートは唇を噛みながらライの背中を睨むように見つめた。自分よりはるかに小さい、まだ子供の背中。なのにこいつは、五歳の頃から寂しさを料理に打ち込むことで全部消してきたっていうのか。
「で、そうこうしてるうちに、友達とかに料理食わしてやることもあったりしてさ。うまいって言ってもらえる喜びとか知って。そんで料理で飯が食えるようになりたいって思うようになってさ。オーナー……俺の面倒とか見てくれた人の紹介で店で修行とかもしてさ。十二の時から店出すようになったんだけど。やっぱり料理作る時は、その頃の気持ちでやってるなって思うよ」
「……寂しいのを、忘れたいって気持ちか?」
「いや、そうじゃなくてさ。食べた人に幸せになってほしいって気持ち」
「…………」
 フェドートは、わずかに目を見張った。
「料理ってさ、人を幸せにできるんだよな。辛い時はその料理のうまい分浮上するし、幸せな時はもっと幸せな気分になれる。友達も、家族も、自分自身も、ただ偶然店を訪れてくれた見知らぬ人だって、俺の力でちょっとだけでも幸せにできる。幸せの輪ってのが繋がるんだ。そういうの、すっげぇいいな、って俺思うからさ」
「…………」
「だから俺は、店に出す料理だろうとまかないだろうと、食べてくれる人がおいしいって思ってくれる料理を全力で作る。それが俺の料理人としての誇りってやつなんだ。形式とか格式とかどうでもいいから、食ってくれる人を幸せにできる料理を作りたいって思うんだよ……っと」
 ライは鍋を火から下ろし、バターとチーズを加えて混ぜ、味見をしてから塩コショウをして味を調え、器に盛った。春らしく爽やかな緑色のリゾットが、たまらなく食欲をそそる匂いをさせながら器の上で輝いている。
「ほれ、俺の特製、春草のリゾット。食ってみ」
「…………」
 フェドートは無言で匙を突き刺し、ぱくりと口に含む。とたん、思わず匙を取り落とし、声を漏らしてしまった。
「うまい……」
「っしゃ!」
 いつもの台詞、そしてしてやったり、という感じの表情と仕草。それにほとんど気を留める余裕もなく、フェドートはばくばくとリゾットを貪るように食っていた。
 うまい。これは本当にうまい。これまでのまかないだって店の料理だってうまかったが、これはそういうのとは違う。なにが違うんだ、と頭のどこかの料理人としての部分が必死に検証しようとしていたが、それよりも鼻と舌と胃に押し寄せる圧倒的な幸福感に匙が止まらない。
 春草のすっきりとした香り、コクがあるのに清涼感のあるさっぱり目の味わい、鮭と米がしっかりとした満足感を与えながらも口当たりと胃に与える感触が柔らかい、そういうものももちろんある、だがこれは、違う。そういうものとは違う。
 なんでこんな、凝った技術もほとんど使っていないごく普通のリゾットに、こんなに『暖かい』と感動してしまうんだろう。
「なんかお前さー、いっつもつんけんしてるしやたら突っかかってくるし。いっつもイライラしてんなーって思ってたんだよ。そーいう時にこのリゾットいいんだぜ。俺の店の定番メニューのアレンジなんだけどさ、気持ちを落ち着かせる効果があるんだ」
「…………」
 一気にリゾットを食べ終えて、余韻に浸りながらライの声を聞く。確かに、なんだか気持ちが穏やかになってきたかもしれない。すっきりとしたというか、ほっとしたというか。
 いまさらながら勢いよく食ってしまったのが照れくさくなり、おずおずとライを見ると、ライはにこり、と優しい、けれどどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「お前にもこの一週間いろいろ世話になったからさ、俺のお前のための特製メニュー。盛り付けも味付けもお前好みだろ? どーだ、フェドート?」
「…………!」
 フェドートの頭の中で一瞬盛り付けや味付けの好みまで把握してたのかとか確かに今気付いたけど完璧に味付けから盛り付けまで全部俺好みだったやっぱりこいつすごいとかこいつ俺の名前覚えてたんだ自己紹介なんて一度もしてねぇのにとか様々な思考が駆け巡ったが、最終的に残ったのは、『これがこいつの本来の料理なんだ』という想いだったので、結局わずかな悔しさと深い満足感とともにこう言った。
「……うまかった。ごちそうさん」
 その言葉に、ライはひどく嬉しげな顔で、「おう!」と笑って、その笑顔になぜか一瞬ときりと心臓が跳ねたが、なぜここで心臓が跳ねるかなどフェドートにはさっぱりわからなかったので、気のせいだろうと押し流した。

 修行最終日にライが出したまかないは、帝国料理の定番、ギネマ鳥のソテーだった。もちろんまかない用に安い食材を使ったものだが。
 それまでのまかないで出した帝国料理もうまかったが、これは格別だった。ソースの味加減、肉と中身の塩梅、火の通し具合焼きの入れ具合、すべてが見事の一言。
 そして、それでいてきちんとライ≠フ味になっている。
 どこをとってもプロの仕事なのに、どこか優しい、暖かい味。ミュランスの作るものとはまた違う、幼い部分もあるけれど、それはそれで味を形作り、フェドートにはミュランスに負けない味わいがあると思えた。
 うるさがたの料理長たちもこれにはさすがになにも言わず、ミュランスはただひどく嬉しげな笑顔でうなずいた。
 それから仕事を終えて、最後の挨拶の時。結局店で働く人間全員を黙らせるほどの働きを見せて、それでもやはり二週間でこの店を去っていこうとしている。
 ライは全員の視線を浴びながら、きっと頭を上げ、真剣な顔で言った。
「えっと、みなさん、二週間ありがとうございました。お世話になりました」
 それから、少し考えるようにして。
「いろいろ、勉強になりました。俺とは違う考え方の人でも……とにかく料理って道を究めたいって考え方の人でも、うまいものを作れるんだってことがわかって、なんつぅか……料理って、ひとつの形だけじゃないんだなってよくわかりました」
「………!」
 フェドートは思わず顔を上げていた。それは、もしかして。
 ライはちらりとフェドートの方を見て、にやりと笑い。それからミュランスの方を向き、いかにも悪童、という感じの元気な笑顔を浮かべ言った。
「俺、もっともっと頑張って、俺なりにみなさんに負けないような料理人になります。トレイユまで来る価値があるって思えるくらい、うまい料理、作れるくらい」
 おお、と周囲の料理人たちがどよめく。ミュランスは静かにライの笑顔を見返し、わずかに微笑んだ。
 ミュランスが、一度言っていたことがある。
「ライは、あやつはまだまだ未熟だが、真の料理人だ。みなとともに働かせることは、みなにもよい影響を及ぼすだろうと思った」
 真の料理人。そう呼んでいいのか、フェドートにはわからない。フェドートはやはり矜持のない料理人には価値はないと思ってしまうし、ライのような一人一人手作りで供するような料理のやり方をしていては一流店と呼べるほどの回転をとてもこなせないと考えるのも事実だ。
 けれど、ライの料理は、ライの本気の料理は、本当に本当にうまい、と心の底から思えたから。
「……また来いよ。ライ」
 に、と笑顔で言って、拳を突き出してやる。
 ライはに、と笑顔を返して、同じように拳を突き出し、不敵に言った。
「おう。ていうか、今度会う時は俺の店だぜ、フェドート」
 その稚気と覇気に満ちた表情に、ぞくりと背筋が震えたような気がしたが、なぜ震えたかなんてわからないので、フェドートは生意気な奴だ、と鼻を鳴らす苛立ちに紛れさせてしまった。

 ライが店を去った一ヶ月後、フェドートは前菜担当の料理人の一人に昇格した。

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