サイジェントで誓約者を知って
「へぇ……キルカの錬衣ってこういう風に作ってたのねー。魔力を糸に織り込むっていうのは聞いてたけど……サプレスの召喚術と産業ってあんまり結びつかなかったんだけど、これなら納得かも」
「納得いただけたようでなによりだ、リシェル嬢。紡績の工業的な方法は特に目新しいものではない、すでにリィンバウムの技術として成り立っているものだ、が」
「まぁ、その技術ってーのも大元はロレイラルのモンなんだけどよ。リィンバウムの人間が作って使えるようにするにゃあ、嬢ちゃんとこ――ブロンクス家が大きく関わってきてるってはな」
「キムランッ!! 私の話を遮るなッ!!」
「すっ、すまねぇ、兄貴っ!」
 痩せっぽちのイムランのキンキンした怒鳴り声に、大男のキムランがぺこぺこと頭を下げる。耳を押さえつつ、なんか妙な兄弟だな、とライは肩をすくめた。
 工場というのは初めて入ったが(白衣に白帽子が工場内の基本衣装というのは知らなかった)、想像していたのとさほど変わりはしなかった。大きな機械があって、人が少なくて、なんだかよくわからない作業をその数少ない人たちがわさわさと行っている。
 召喚獣を産業に使うというと、ライが思いつくのは人力の代わりに使う、ぐらいだったのだが、ここの工場では(そういう風に使われている召喚獣もいはしたが)召喚獣――ほとんどが悪魔だったが、その持つ魔力を工場の要所要所で使って作業を桁違いに効率よく動かしている、のだそうだ。ライには説明されてもいまいちピンとこなかったのだが、機械の動力に必要な蒸気を作るため水を熱するとか、糸を紡ぐ時風を出すとか、そういうところで。
 そしてそういう過程のいちいちで糸に魔力を染み込ませ、強靭で魔力に対する耐性もあり着心地がよくて見た目にもよい、というキルカの錬衣(と、最上級品のスペルガード)をはじめとする様々な織物が作られている、らしい。
「……けど、よくわかんねーんだけど。どのへんが『召喚獣の権利にもっとも配慮』してんだ? どいつもすげー仏頂面でつまんなさそーにやってるようにしか見えねーんだけど」
「まぁ、俺たちの勝手な都合で喚び出して仕事を押し付けてるのには変わりないからな。実際、やっててあんまり面白い仕事でもないし」
 苦笑したのはハヤトだった。ハヤトとキールは自分たちの付き添いとしてこの見学にも付き合ってくれているのだ。そうでなければリシェルはともかく自分たち――ライや子供たちやギアンの見学はかなわなかっただろう、とはリシェルの言だが。
「でも、俺たちが関わる前なんかもうこれとは比べ物にならないくらいひどかったんだよ。喚び出しっぱなし、休みなしで十八時間労働とか平気でやってたそうだし。もちろん仕事の報酬なんてまるでなし。そりゃ悪魔たちも暴れるよな、ってくらい」
「ひでぇ……」
「今は一応、現物支給だけど悪魔にも天使にも他の召喚獣にも給料が出るし、一定時間ごとにサプレスに帰してる。もちろん定期的に話聞いたりしてあいつらが言いたいこと言う場作ってるけど、とりあえず不満は出てないっていうか、それなりに受け容れてもらえてると思うよ」
「ふんッ、おかげで二割の減益だ。サモナイト石がどれだけ高価なものか、知らぬわけではあるまいにッ!」
「けどそのおかげで暴動や事故が起こらなくてすんでるだろ? そう怒るなよ、イムラン」
「ふんッ! まったく、憎らしいッ!」
 いかにも鼻持ちならないお偉いさん、という感じのイムランにも、ハヤトは苦笑しつつ柔らかく対応する。相手の刺々しい言動も、あっさり受け止められ包み込まれてしまう。器が違うって感じだな、とライは感心するような目でハヤトを見やった。
「……公害対策、どんな風にしてるの?」
「うんうん。服とか染める時使う染料とか、火を使うときの煙とか、あるはずだよね?」
「どっちもロレイラルからそれ用の機械を召喚してなんとかしてる。そういうのを食べる召喚獣を呼ぶってのも考えたんだけどさ、そういう召喚獣ってどこでも生きていける分、環境次第で爆発的に増えたりするだろ? 別の公害を招きそうだからやめといた。機械でなんとかできそうな程度だったし」
「だけど、機械となると補修の類が絶対必要になるだろう」
「そういうのは……キールも専門じゃないし、金の派閥のロレイラルの召喚術使う家に外注してる、んだっけ?」
「ああ、そうだ。君の家にもその依頼がいったはずだよ、リシェル」
「あ、それは知ってるわ。その関係でサイジェントの内情を知ったってパパが言ってたし」
名もなき世界≠ゥらやってきた救世主。とんでもない召喚獣を簡単に呼び出してしまう召喚師を超えた召喚師。ワショク≠ノ飢えてて、米が好きで、らーめんとかも好きで、時々ちょっと抜けてて。初対面の衝撃から我に返ってからはそれに支配されたりはしないけど、嬉しげに笑った顔がひどく周りの心を惹きつける人。
 なんだろう、なんていうか、気になる。俺、この人と、もっとちゃんと知り合いたい気がする、かもしれない。そんなことを珍しくも思う自分に驚きつつ、ライはみんなと話しながら歩いていくハヤトに向かい歩を進めた。

「さて! 工場関係はみんな見終わったよな! じゃ、これからどこ案内しようか?」
 工場から出てきて、イムランキムランと別れるや、ハヤトはくるりとこちらを向いて笑顔になった。思わずその眩しさに心臓を跳ねさせつつ、ライは仲間たちと顔を見合わせる。
「どこったって……」
「なんか見て、面白いとことかあんのか?」
 そんな戸惑ったような反応に、なぜかハヤトは破顔した。
「じゃ、とりあえず、繁華街の方に行こうか。ガゼルたちと合流しよう。君らの仲間の、シンゲン、だよな? とも、たぶん途中で合流できるし」
「そっかー、シンゲンのおじちゃんアカネおねえちゃんと一緒に広場で歌ってるって言ってたもんね!」
「いや、けどさ、ガゼルたちって……ガゼルって仕事なにやってんだ? 俺たちの観光に付き合うくらい暇なのか?」
「はは……まぁ、日雇い仕事とかいろいろやってるみたいだけど。今はちょうど仕事の合間なんだってさ、大きな仕事が終わったところなんだって。だからしばらくは暇だってさ」
「ふーん……じゃあ」
「ますたあぁぁっ!!」
「わっ!」
 唐突に近付いてきた気配が、ばっとハヤトに背中から抱きつく。ハヤトは驚いたようにたたらを踏んだが、すぐに立ち直って振り向き苦笑する。
「モナティ……どうしたんだ? ガウムは一緒じゃないのか?」
「ごめんなさいですのぉ、ますたぁぁ……モナティ、ガウムとはぐれちゃったんですのぉぉ……」
 鼻水と涙をだらだら垂らしながらハヤトにすがりついたのは、メイトルパの亜人族、狸のように丸っこく兎のような耳の生えた種族、レビットの少女モナティだった。昨晩紹介されたばかりでまだろくに話してもいないが、それでも彼女がグランバルド級にドジなのはよくわかっている(たぶんアルバの言っていたドジばかりやっている知り合いだろうということも)。
「モナティっ……ひぐっ、ガウムと一緒にぃっ、えぐっ、マスターを、迎えに、行こうって……ふぐうっ、でも、急いで急いでって、走ってるうちに、道がわからなくなっちゃってぇっ……それで泣いてたら、マスターの匂いを見つけたんですのぉっ! それで、走ってきて……えぐっ。ますたぁぁ、モナティ駄目な子でごめんなさいですのぉぉ!」
「大丈夫だって、そんなに泣くなよモナティ。一緒にちゃんとガウムのこと探してやるからさ」
「ますたぁぁ……」
 優しくぽんぽんと頭を叩かれ、モナティの顔がぱぁっと輝く。モナティが心底ハヤトに懐いているのがよくわかる顔だ。ハヤトが困ったような顔でこちらを向く。
「悪い、ライ。そういうわけだからちょっと相手できなく……」
「ああ、なら俺たちも一緒に探すよ」
「え、でも君らはこの街に不案内じゃ」
「それくらいなら問題ねぇよ。俺らみんなお互いの匂いっつーか、気配っつーか、なんとなくわかるし。わかんねぇリシェルは俺と一緒に行動すればいいだろ。なぁ、みんな?」
「おうっ、メイトルパの幻獣なら馴染みあるしな」
「さして時間も経たずに見つけられると思うよ」
「ま、まぁいいけど、別に、一緒でも……」
 それぞれの返事に、ハヤトは目をぱちぱちとさせて、それから笑った。優しく、そして眩しく。
「そっか、ありがとな、みんな!」
『………っ』
 思わず仲間内のほとんどがその笑みに心臓を跳ねさせる――だが、そこにキールが静かに、だがきっぱりと告げた。
「その必要はないよ」
「え、なんでだよ、キール?」
「あそこを見るんだ、ハヤト」
「……あ」
 キールの指差す先から、ずかずかと石畳を踏み鳴らさん勢いで歩いてくるのは、牛のような角を持ったメイトルパの亜人族、メトラルの少女エルカと、それに首根っこをつかまれた両掌を広げたくらいの大きさの猫のような狸のような、プニムのようにやたらぐにぐにぷにぷにしたディングというらしい種族――ガウムだった。
「ガウムぅぅ! よかったですのぉぉ!」
「なーにが、よかったですのぉ、よっ! 見当違いの方ばっかり探してどんどんこっちから離れてったくせに、探してた側みたいなこと言うんじゃないわよ、厚かましい! いつも言ってるでしょ、はぐれたらその場に動かず止まってろって! それも忘れて、エルカたちに手間かけさせるんじゃないわよ、このっ、このっ!」
「あいひゃひゃひゃ、いひゃいれふのぉっ、えるふぁひゃあん……!」
 怒りの形相でぐいぐいとモナティの頬を引っ張るエルカ。モナティは当然半泣きだ。リュームが思わずと言ったように漏らす。
「怒りっぽいねーちゃんだなー……」
「なによっ!」
 ぎっ、と睨みつけられてリュームはうひゃ、と身を縮める。親としてその前に立ってやりながら、ライは一応突っ込みを入れた。
「そんなにムキになんなよ。大人げねぇなぁ」
「む……なにっ、あんたエルカに喧嘩売ってるの? 言っとくけどエルカは強いわよ。エルカはメイトルパではメトラル族長の娘として鍛えられてきたんだから」
「別に売ってねーよ。そんなにつんけんすんなって言ってるだけ。モナティだってそんなにつんけんしたら話しにくいだろ」
「あ、ありがとうですのぉ、えっと、ライさぁん!」
「ちょっと、あんた他人が口出ししないでよね! こいつのドジはそんじょそこらのドジじゃないんだから! エルカがどれだけこいつに巻き込まれて迷惑をこうむってきたと思ってるの!」
「……洗濯物落とすとか、シーツ破くとかか?」
「そうそう、お皿落として割るとか、料理のお皿ひっくり返すとかね!」
「汚した洗濯物をもう一度洗濯させてみたら洗濯する前より汚れてるとか?」
「そうよ! 仕方ないからいつもエルカがもう一度洗濯しなおしてるんだから!」
「割った皿の掃除させたらテーブルクロス引っ張ってその上の皿とか全部雪崩れさせるとか?」
「そうよ、あの時はお客が来てる時だったから、本当にこいつ一回絞め殺してやろうかと思ったわよ!」
「うわっ、そりゃイラつくよな! あんたの気持ち、すげーよくわかるぞ!」
「ひ、ひどいですのぉ、ライさぁん!」
「ライ……そこは人として最後までモナティを庇ってやってくれよ……」
「すいません、容赦のない保護者で……」
「コーラル、お前もその発言の時点で相当容赦ねーから」
 リュームの言葉に、エルカが思わずといったようにぷっと吹き出したのをきっかけに、笑い声がその場に響いた。

「珍しいな、エルカが初対面の相手と普通に話すなんて」
 モナティたちも揃って繁華街までの道の途中の市民広場に向かう道中、ハヤトが楽しげに言うと、エルカはカッと顔を赤くしてハヤトを睨みつけた。
「ちょっと、マスター、ふざけないでくれるっ! エルカは別にこんな奴らなんかと普通に話してなんかないんだからっ!」
「そっちに突っ込むのかよ。普通は逆のところに反論するとこじゃねーのか?」
「なによっ、だったらなにか文句あるのっ!」
「ま、別にねーけど。いちいちそー噛みつくなっての、疲れるだろ」
「……フンッ!」
 そっぽを向くエルカに肩をすくめ、ライはモナティの方を向いて話しかけた。
「モナティたちは、普段はレルムの村――召喚獣が集まる村の学校に通ってるんだったか?」
「そうなんですの。でも、まだ普段っていうほどいつもじゃなくって」
「季節の巡りの半分は向こう、半分はこっちっていう感じに分けて生活してるの。まだどっちで暮らすか決めたわけじゃないから」
「ふーん……」
「マスターとも一緒にいたいですけど、仲間のみんなと暮らすのも楽しいし……お勉強ができるのも嬉しいし、困ってますの」
「勉強、ってどんな?」
「いろいろですの。お作法とか、算数とか」
「他にも農業の学問とか、薬の作り方とかね。基本的に勉強したいって思えることならなんでも勉強できるわよ。まぁ、向こうが教えさせてほしいっていうんだから、せっかくだから勉強してやっているの」
「すげー上から目線だな、お前」
「なによっ!」
「まぁまぁ、二人とも……お。ガゼルーっ! スタウトーっ!」
 ハヤトがわずかに目を瞬かせた、と思うと手を上げて名を呼んだ。ライたちも揃ってそちらの方を向くと、こちらに背を向けていたガゼルと、中年で痩せ型の頭を剃りあげた褐色の肌の男がこちらを向いた。
「……なんでこんなとこに出てくんだよお前ら……」
「なんだよっ、ガゼルにーちゃん冷てーなー」
「つれない、言葉。……実は、ボクたち、歓迎されてない?」
「いや、冷たいとかつれないとかじゃなくてな、一緒にいる奴が……」
「おっ、坊主! ずいぶんと大人数だな、なんだこいつら?」
 たぶんスタウトというのだろう禿頭の男は、酒臭い息を吐き出しながら笑った。昼間っから飲んでんのかこいつ、とライは思わず眉をひそめたが、ハヤトは苦笑してあっさり答える。
「以前旅先で関わり合った人たちなんだけど、旅の途中にこの街に立ち寄ってくれたんで案内してるんだよ。とりあえず、これからペルゴの店に連れて行くところ」
「へぇっ。ま、ガキ同士せいぜい仲良くやんな。ペルゴも食べ歩きの旅から戻ってしばらく経つんだ、そろそろ旅先で食った珍しい料理の研究も終わってるだろうさ」
「え、ペルゴって人、そんなすごい料理人なのか?」
 ガキ同士という一言にちょっとばかりカチンときはしたものの、それよりも気になったところを訊ねると、スタウトはにやりと笑んで答える。
「おおよ、あいつは名人だぜ。まぁ本人は『私は単に自分の舌を満足させられるだけのものを作ろうとしているだけですよ』っつってるけどな。グルメのペルゴ、なんて名乗っちまってよ」
「へぇ、グルメ。そりゃよっぽど自分の料理の知識に自信があるんだな」
「……ん? お前、グルメがなにかって知ってんのか?」
 一瞬スタウトの目がしゅっと細められてこちらを見る。ライはむ、とわずかに口をひん曲げたが、素直にうなずいた。
「ああ。遠いどっかの国では食通のことをそう呼ぶんだろ」
「え……リィンバウムの国でもグルメって呼び方あるのか? ペルゴのは、俺の故郷……名もなき世界の言葉を使ったんだけど」
「……そうなのか?」
 ハヤトの言葉にライは思わず目を見開いた。そんな話聞いたことがない。名もなき世界の人間なんて相手と話をしたのはこれが初めてなのだから当たり前だが。
「ライはその言葉、どこで聞いたんだ?」
「……親父からだけど」
「え……じゃあ、もしかして。ライのお父さんって俺と同郷!?」
「……えぇ!?」
 ライは思わず目を見開く。リュームたちも同様だった。あのクソ親父が、実は名もなき世界出身。そんなことは考えたことがなかった。が。
「……そういえば、あんたのパパってやたら出所不明な言葉使ってたりしたわよね」
「いろんな世界の知識が中途半端にある、ともおっしゃってましたなぁ」
「名前も、変わってる。お父さんが召喚術、四属性全部を使えるのも、妖精の響界種としての力じゃない可能性もあるかと」
「うわ……マジかよ、おい……」
 ライはどんどん合ってきてしまうつじつまに思わず頭を抱えた。そう考えるといろいろ腑に落ちてしまうところはある。もともと自分は響界種だし、そんなことが理由で気持ちを変えたりはしないと決めたし、だから別にどうということはないのだが。なんというか、自分の父親の秘密をそんな気もないのに暴いてしまったような気持ちになるのが、なんとも。
「……でも、実際のところは本人に聞いてみなければわからないことだよ。だから今ここでどうこう言うべきじゃないと思う」
「ん……まーそーなんだけど……」
 キールの言葉にうなずきつつも頭をかく。確かに実際、聞いてみなければ本当のところはわからないし、しばらく聞く当てもないのだから気にしてもしょうがない。
「………さって、俺は今日はなに頼むとすっかねー。ペルゴの奴最近ツケで食わせてくんなくなってきちまったからなー」
「おい、おっさん。なんで当然みてぇな顔して一緒に歩いてんだよ。帰るんじゃなかったのかよ」
「んー? まーついでだしたまにゃあ若いのと一緒に飯を食うのも悪くはねぇかな、とね。ついでに寝酒のひとつでもひっかけようかと。……一応、上役にラムダの旦那がいる以上、職務怠慢の汚名をひっかぶる気はないんでね」
「……チッ。おいハヤト、今日はどこを案内する気なんだよ」
「ああ、とりあえず市民広場を通って全員集まってから、ペルゴの店で遅めの昼飯を食ったあとは、繁華街から北住宅街を通って城を見物して、それから商店街でお土産品とか選んでもらって、アルク川沿いの道を散歩しながら帰る予定だけど?」
「そうか……それなりに時間かかるな……チッ、しゃあねぇ。おいハヤト、俺も一緒に行くぞ」
「へ? 一緒に行くって、もう一緒に歩いてるじゃないか。俺は最初からお前も一緒に来るもんだと思ってたんだけど」
「だーっ、だから俺はなぁっ」
「おっ、シンゲンのおっさんだ! おーいっ」
「はっはっは、守護竜殿。微妙な年頃の男にそりゃあ禁句だと申しませんでしたか?」
 耳ざとく『おっさん』という言葉を聞きつけ、あっという間に間合いを詰めずいっ、と顔を近づけながら言うシンゲンに、リュームはぴゅっと逃げ出して自分の後ろに隠れた。
「おい、リューム……ったく、しゃあねぇなぁ。隠れんなら最初から言うなよ」
「いーだろ、ガキのうちはガキの特権使うんだよ!」
「へいへい……っておい、コーラル、ミルリーフ、お前たちはなにも言ってねぇだろ、なに一緒になって隠れてんだよ」
「えー、だってリュームばっかりずるーい! ミルリーフだってパパとくっつきたいもん!」
「……右に同じ、かと」
「……ったく。しょうがねぇなぁ」
「……なんだか昔のガゼルを見てるみたいだな?」
「俺はあんなにガキどもを甘やかしてねぇっ」
「で、どうなんだよシンゲン。最後まで聞いてくれる客はアカネ以外に……っと、フィズ? お前も聞いてたのか」
 今朝朝食を終えるやフラットを出て行った、長い緑色の髪を結った自分より少し背の高い少女は肩をすくめて答えた。
「だって、どーせ暇だし。知り合いなら弾き語り聞いてもお金払わなくていいじゃない。……まぁ、お金取れるとは思えない演奏っていうか、歌声だったけど」
「まぁ、それはな……っつか、よく最後まで聞けたな……」
「御主人っ、それはあまりにあんまりなお言葉じゃあございませんかっ!?」
「まぁまぁ、シンゲン、落ち着きなって。あんたの歌声は相手を石化させるほどなんだから自信持ってりゃいいじゃん」
「いや、そこに自信持っちゃまずいだろ」
「呪われた、歌声……」
「ふわぁ、すごい大人数ですのぉ。昔を思い出しちゃいますの」
「きゅきゅっきゅきゅー」

「こんちは、ペルゴ! なにか食べさせてくれないか?」
「おや、これはハヤトさん。今は夜の仕込を終えたばかりなので、食べられるものといえばまかない料理になってしまうのですが、それでもよろしければ……と、これはまたなかなかの大人数ですね。お客様ですか?」
「ああ、以前係わり合いになった人が……」
 どやどやと入っていったきれいに掃除された小料理屋の、カウンターの向こうの中年のがっしりした男の顔に、ライは目をぱちくりさせていた。この人の顔、どこかで見覚えがある。
 どこだったか、どういう出会い方だったか。眉を寄せ、頭をぐるぐると回転させる。コーラルが「お父さん……?」と服の裾を引っ張ってきた瞬間、はっと思い出した。
「六ヶ月前クリームソーダと巨大ソーセージの串焼きと草団子の盛り合わせとホットケーキセットとプリンとフルーツ盛り合わせとアイス盛り合わせを頼んだお客っ!」
 思わず指差し思いきり叫んでしまった。『…………』と周囲に沈黙が下りたのにはっと我に返るが、その前にがっしとその指差した手を大きな両の手でつかまれる。
「まさか……あなたがここにいらっしゃろうとは。この出会いを誰に感謝すればいいのでしょう」
「え……あの」
「ありがとう。あの時言えなかった言葉を、言わせてください。あなたの作ってくれた料理は本当に素晴らしかった。年若い料理人とは思えないほどの修練が積み重ねられた技術、大胆な発想、それでいて親しい友の家に招かれた時のような心地に酔わせてくれる暖かい味。あなたの料理を味わったおかげで、私は今ここにいるのです」
「あ、いや……。……こっちこそありがとう。そんなに喜んでくれて、すげぇ嬉しいよ」
「おい……ペルゴ。なんだいその口ぶりぁ。その坊主のこと、知ってるのか?」
「なにを言うのです、スタウト。以前あなたにも話したでしょう。私の至高の味を求めた放浪の旅を終わらせてくれた店の料理人ですよ、彼は。『忘れじの面影亭』、そういう名前でしたね?」
「うん」
「……ふぅん……」
「ああ今でも思い出す、あの単純な料理の中に凝らされた工夫、それをどっしりと支える根本の技術と熱意。『ミュランスの星』で帝国最年少の最優秀料理人として認められるのもうなずける料理でした」
「へぇ……すごいな、ライってそんなに有名な料理人だったのか」
「まぁ、リプレを負かすくらいだからそれなりの腕だとは思ってたけどな。実際食ってみて、うまかったし」
「大した褒めようだなぁ、おい」
「まぁ、あなたも一度御主人の料理を味わってみればわかりますよ。……さて、今日はいったいどういうご用で?」
「いや、ハヤトの言った通り、街を見物する途中で飯食わせてもらおうと思っただけなんだけどさ。でも、あんたは相当腕のいい料理人だって聞いてるから、どんな料理食わせてくれるか楽しみだったんだ」
「なるほど……よろしい。今の私に出来る最高の料理を、あなたとそのご友人にお返ししましょう。少々お待ちを」
 言うや殺気すらこめた表情になって料理を始めるペルゴに周囲はかなり引いていたが、ライとしてはその気持ちはわからないでもなかった。自分がすごいと認めた料理人には、やはり自分の全力で作った料理をうまいと認めてほしいと思う。料理人として、それは当然の矜持だ。
「……しっかしよく頼んだ料理の種類まで覚えてたな。ペルゴが店に来たのは、一度だけなんだろ?」
 カウンター席に座った自分の後ろの席から訊ねてきたスタウトに、ライは子供たちの相手をしてやりながらあっさりと答えた。
「一度でも店に来てくれたお客さんの顔は忘れねーよ。そりゃ、昔に一度だけってお客さんはすぐ完全に思い出すとはいかねーけどさ。ま、ペルゴさんはその日の喫茶メニュー端から端まで頼んでたから、印象強かったしな」
「……喫茶メニュー?」
「午後のお茶の時間用に作った、お茶やら甘いものやら中心のメニュー。夜の仕込みしながらの時間帯だから、本格的なのは用意しにくいんだよな。もちろん、お客さんが食いたいっつったら全力で応えるけど」
「……ふぅん」

「なんだか、建物が、新しい」
 城へと向かう北住宅街の中の道を歩きながらコーラルがぽつりと呟いた一言に、ハヤトはははっと笑った。
「まぁね。ここらへんは、昔はスラムだったところだから」
「スラム……?」
「仕事がなくて、住む場所もなくて、なによりお金がなくて。毎日食うや食わずで生きていかなくちゃならない人たちがいる場所」
「……そんなの、ひどいよ」
「うん、ひどいよな。だけどあの頃はそういう人たちがいっぱいいた。間違った制度に押さえつけられながら必死で生きてる人たちが。……で、その頃ここは俺たちの敵の根城だったんだよなー」
「ほう、敵ですか」
「そう。誰にも必要とされないと思い込んでたチンピラと、そいつのためなら命も懸けた鬼と人の間の子」
「……おい。ハヤト」
「うん……わかってる。けど、俺はあいつのことを忘れたくない。だから、機会があったら少しでも多くの人に話したいんだ」
「………チッ」
『…………』
 ライたちは揃って沈黙した。ハヤトがなにやら冗談ごとではないことを話そうとしているのが伝わってきたからだ。
 ハヤトはくるりとこちらを向いて微笑む。その笑みは活力に溢れているのに、不思議に静かだ。ゆっくりと口が開かれ、言葉を発しかけ――
「おいてめぇらっ、ぞろぞろ引き連れて道の真ん中歩いてんじゃねぇっ、邪魔だコラァッ!」
 唐突に響いた無遠慮で騒々しい声に閉じられた。
「……おい……人が大事な話してる最中に横から声かけてくんじゃねぇっ!」
「んっだとコラァッ!」
「舐めんじゃねぇぞクソがっ!」
 つい振り向きざまに怒鳴ると、いかにもチンピラという十人ほどの男たちは一気にいきりたった。それぞればっと懐から短剣を取り出し、自分たちを取り囲む。
「やれやれ……呆れたな。一方的に罵り言葉を投げかけたあげく、正論を叩きつけられるや刃物を抜くとは。どうやら礼儀というものを知らない輩らしい」
「なんだとォ、アァ!?」
「事実じゃんっ。だいたいねぇ、あんたたちの方こそ横に広がりすぎだったじゃないのよっ、自分のこと棚に上げて偉そうなこと言わないでよねっ!」
「そーよっ、あたしたちに最初っから喧嘩売るつもりだったんじゃないのっ、そんな弱そうななりのくせにさっ」
「そうよっ、第一あんたたち臭いのよっ、エルカたちに注意するならまともにお風呂入ってからにしてよねっ!」
「こっ……この小娘ども……っ!」
「ふにゅうぅっ、喧嘩は駄目ですのぉぉっ」
「チッ……めんどくせぇな。おいハヤト、なんとかしろよ」
「なんとかったって……うーん……」
「……悪い、俺のせいだな。しゃあねぇ、ここは責任取って物陰でこいつらを泣きが入るまでぶちのめしてくるぜ」
「いやそれはまずいだろ人として、一応俺自分たちのことを正義側だと思いたいし」
「案外物騒なガキだな、オイ」
「さっきから思ってたけど、あんたにガキ呼ばわりされる覚えねーぞ」
「今そんなこと話してる場合じゃねーだろっ!」
「てめぇらこっち無視すんじゃねぇっ!」
 そんな風にぎゃあぎゃあ喚いていると、ふいに静かな、だが迫力のある声が響いた。
「……おい。お前ら」
「っ! ローカスさんっ」
 二十代後半の、どちらかといえば細身だがかなり鍛えられていそうな体躯のやや髪の長い男。そいつがぎろりとチンピラどもを睨むと、チンピラたちが揃って震え上がった。
「堅気に手ェ出すんじゃねぇ、って言わなかったか。俺は」
「や、の、そのっ」
「こいつらが、その、あんまり」
「……あぁ?」
 ぎろり、と再び睨まれ、チンピラたちは揃って「すんませんでした!」と頭を下げる。なんとかなりそうだな、とうなずいて、ライはそのローカスというらしい男に声をかけた。
「あのさ、余計なお世話かもしんないけどさ、あんまり怒らないでやってくれよ。ことの原因は俺らがついカッとなっていろいろ言ったせいもあるしな。まぁ、いきなり刃物出すのはやりすぎだと思うけど」
「……なんだ、お前」
「俺たちのお客さんだよ、ローカス」
 すい、とハヤトが前に出ると、ローカスはきゅっと眉をひそめる。
「お前か……あんまり騒ぎを起こすなよ。こっちにだって面子ってものがあるからな」
「わかってる、気をつけるよ。けど、そいつらにもあんまりカッカするなよって言っておいてくれよな。いきなり刃物はダメだろ?」
「ああ……おい、坊主。悪かったな、うちの奴らが」
「や、俺は別にいいけどさ」
「ふん……度胸の据わった奴だ。行くぞ、お前ら」
『はいっ!』
 去っていく男たちをなんとなく見送ってから、ハヤトはこちらを見てにこりと笑んだ。
「さて、じゃあどこから話をしようか?」

「……それでそいつは――バノッサは、自分が利用されていることを承知で、その男の誘いに乗ったんだ。バノッサの憎しみを使って、世界を破壊する魔王を呼び出そうっていう、その男の企みに」
「……なんで、そんなことを」
「あいつはさ……なんていうか、自分の居場所がほしくてたまらなかったんだと思うんだ。いてもいい、いてほしいと思ってくれる人のいる場所が。だけどそれをどうやれば手に入れられるのかわからなかった。それを与えてくれたと思える人が、当然のように与えてくれる人が今までの人生でいなかったから」
「…………」
「だから召喚術に固執した。あいつにとって召喚術は居場所を作る力で、自分に存在する価値を与えてくれるものだったんだ。だからそれを使えるならなんでもしようと思ったんだと思う。だけど、それが次第に暴走して、止まれなくなって。自分を否定する周囲全部、世界全部消えちゃえって、そんな考えに行き着いちゃったんじゃないかな、って」
「……そっか」
 そういう気持ちは、少しわからないでもない、かもしれない。
「自分を大切に思ってくれる存在に気付かないで、魔王になってやるって突き進んで。それでも最後にカノンに『他の誰がいらなくても、あなた自身が自分をいらないと思っても、僕にはあなたが必要だ』って言われて。あいつがちょっと我に返って、まだ引き返せる、そう思ったんだけど」
「……けど?」
「その瞬間、カノンをその男が殺したんだ。バノッサに絶望を与えるために」
「…………!」
「そしてバノッサは絶望に支配されて、魔王と同化してしまった。その男は俺たちに倒されて、暴走したバノッサに殺されて……バノッサが一時的に意識を取り戻すことができたんだけど、それでも魔王をバノッサから引き剥がすことができなくて……俺たちは、魔王を、バノッサを倒したんだ。他にどうしようもなくて」
「…………」
「今でも時々、もう少しなんとかなったんじゃないか、なんて思うけど。でも、どうしたってもう起こっちゃった過去は変えられない。だから俺は、俺たちは、あいつのことをせめて忘れないでいようって決めたんだ」
「……そっか」
 そういう考え方は、すごくよくわかる、と思う。
 ハヤトがふ、と息をつき、にこっと笑って道の先を指した。
「長くなっちゃったな。……ほら、あれがサイジェントの領主の城だよ」
「おっ、でっけぇっ!」
 白亜の城に、リュームがはしゃいだ声を上げる。こいつはこれで周囲の雰囲気を読む奴なので、空気を入れ替えようと思ったのだろう。なので、ライもそれに乗った。
「ホントだ、でっけぇなぁ! あそこに領主とか姫とか、そういうのがいるのか?」
「……なんでそこで姫を例に出すのよ」
「え、なんでったって、ただなんとなく」
「僕たちにとって城は妖精の姫の住む場所だからね、ライ?」
「え、や、別にそこまで深く考えてたわけじゃねぇけどさ……」
「別に領主だけってわけじゃねぇよ。サイジェントの議会もあの中だ。この街じゃ議会は領主と同等の決定権を持つからな、騎士やらなにやらで守っとこうってな」
「まぁ、あそこで議会が仕事をするのはちゃんとした会議の時だけで、実務なんかはその横の建物でやってるんだけどな……お! イリアスーっ! サイサリスーっ!」
 唐突に大きく手を振り出したハヤトの視線を追うと、そこには白銀の鎧を着て馬に乗った、いかにも騎士という感じの二十代後半の男と、それに付き従うように馬を歩かせる黒髪の二十代半ばの女性がいた。城門へと続く跳ね橋を渡ろうとしていた二人は、馬を操って自分たちの方までやってくる。
「ハヤト! 珍しいな、城までやってくるなんて。今日は会議は特になかったと思ったが?」
「いや、そういうんじゃないって。今、急いでる?」
「いや、街の見回りを終えて帰ってきたところだから。なにか用事かい?」
「うーん、別に用ってほどじゃないんだけど。あ、みんな、この二人はイリアスとサイサリスっていって、サイジェントの騎士団長と副団長なんだ」
「へぇっ、まだ若いのにすげぇなー」
「いや、自分などまだまだ先輩たちの足元にも及ばないよ。いろんな人に助けられてなんとか団長をやっている未熟者さ」
「……未熟という自覚がちゃんとあるなら、大丈夫。助けられている人たちに、感謝を忘れないなら」
「はは……ありがとう。ハヤト、彼らは? ずいぶん多種多様な顔ぶれだけれど……」
「またあなたが召喚したのですか?」
「またってサイサリス……人をなんでもかんでも召喚する見境なしみたいに言うなよ」
「事実そーじゃねぇか。うちにいったい何匹召喚獣がたむろしてると思ってんだ」
「いや、だって、あいつらは友達だしさ……」
「あなたの認識はともかくとして、騒ぎが起こらないからといってなにをしてもいいと考えるのはいかがなものかと思われますが」
「たはは……ひどいな、サイサリス。えっと、こいつらは以前係わり合いになった人たちなんだ。旅の途中に立ち寄ってくれたんで、街を案内してるところ」
「そうか。……みなさん、この街のご感想は?」
「え? えっと」
「わりと、いい意味で、和やかな街、かと」
「えっとね、絹織物売ってるの見たの! すっごくきれいだった!」
「……そうですね。いろんな意味で豊かな街だと思いました」
「手前の歌に色よい反応を返してくださる方もいらっしゃいましたしねぇ」
「ま、いきなり喧嘩吹っかけられたりもしたけどねー」
「まぁ、それは俺のせいもあるしな。……いい街だと、思うぜ」
「うん……いい街だと思う」
 そんな自分たちの言葉に、イリアスはぱっと嬉しげに笑んで、うなずいた。
「そうですか、ありがとう。そう言っていただけるとありがたい。この街がここまでくるのにはいろいろなことがありましたが、少なくとも今は自分もこの街はいい街だと――自分たちの手で築いたこの街は、二つとない自分たちの家だと胸を張って言えます」
「……そっか」
 その爽やかな笑顔にライは苦笑した。この人、いい人なんだな。騎士というものがどんなものなのか詳しいことは知らないが、自分たちみたいな怪しい奴らにわざわざそんなことを言う騎士団長が少数派なのは、言われないでもわかる。
「イリアスさま、そろそろ」
「ああ、そうだな。ハヤト、なにか用があったのかい?」
「用ってほどじゃないけど……そうだな、ラムダは今日は? 詰め所にいるのかな?」
「いや、ラムダ先輩は今日は休みだよ。たぶんご自宅か……いつもの場所で剣を振るっているのじゃないかな」
「そうか、ありがとう。よし、みんな、そろそろ行こう。ありがとうな、イリアス、サイサリス!」
「いや。ではみなさん、よい旅を!」
 爽やかにそう言って、イリアスは馬を操り城門へと入っていった。サイサリスも一礼してあとを追う。
「……ハヤトって顔広いんだなー」
「はは、まぁ、いろいろあったから」

「で……えっと、ここが商店街で一番お手頃で質のいい、お得なキルカの織物の店、らしい」
「らしいって……頼りないわねぇ」
「しょうがないだろ、普段俺たちはこんなところ来ないんだから。買い物なんて食材か、せいぜい日用品くらいで。キルカの織物なんて高い服普段は着ないし買わないし。でも、ここが一番お得な店だっていうのは、リプレに聞いたから確かだよ」
「あいつはそういう情報を集めるのは天才的だからなぁ」
「ふーん……じゃ、信用させてもらっちゃうとして。さーミルリーフっ、お土産選ぶわよーっ」
「うんっ、リシェルおねえちゃんっ」
「……リューム。ボクたちも、選ぶんだよ?」
「わ、わかってるよ。わかってるけどさぁ……なんかこーいう、おじょーひんな感じの店ってなんか……なんかさぁ……」
 揃って店の中へ突撃していくリシェルと子供たちを見送りながら、ライは小さく息をついた。とりあえず、この店は自分は入らなくてもいいだろう。服なんて、しかも高級衣料なんて、どう選べばいいかもわからない。
 エルカとモナティは店先の品を見てあれこれ言っているが、残りの男共は揃って店の外でたむろしている。そりゃー男だったら普通こんなところで勢いづいたりは――
「ライ……さぁ、一緒に入ろう。君に似合う服があるかどうか、楽しみだよ……ふふふ」
 する奴もいたな、とライは思わず半眼になりつつギアンを見つめた。
「おいギアン、なんで俺がお前に似合う服を選ばれなきゃなんねーんだよ」
「君はなにも心配することはないよ。ただ僕が、男として愛する人に服を贈る喜びを噛み締めたいというだけさ。ああ楽しみだ……どんな服を合わせれば君に似合うだろう。そ、そしてもしその服に僕のサイズのものがあれば、お、お揃いの服を買っ……ぶふっ」
「鼻血出してんじゃねーっ! つか、俺はお前に服買ってもらいたくなんてねーっつの!」
 そう怒鳴るや、ギアンはしゅーんと落ち込んで店先で膝を抱え込む。
「そうか……すまない。そうだね、君に僕なんかが贈り物をしようなんて思い上がっていたよね……わかっているんだ、僕の犯した罪は許されるはずはないって。ただ、僕は、君に、僕に新しい世界を見せてくれた君に、少しでも喜んでもらえたらと思って……」
「……だっからなー……あーもうっ、しょーがねーな! わかったよ、好きなの選べ! どんなんでも一回は着てやる!」
「っっっ本当かいライぃっ! ありがとう、君がいつも僕にどれだけの喜びを与えてくれているか」
「いーからとっとと選んでこいっ!」
「……なぁ。あのギアンってやつ、なんかアレじゃねぇか?」
「うーん、ちょっとキールっぽい雰囲気はあるかなぁ」
「……ハヤト……」
「はは、冗談だって、そんな死にそうな顔するなよ。……お?」
 ふとハヤトが目を瞬かせた、と思うや目を閉じ耳を澄ませた。なんだ、と思ってライもそれに習い耳を澄ませる。
「……最初にハヤトさんたちのところへ行っていればよかったんじゃないですか?」
「なーんだよー、スウォンは俺が家に来ちゃ嫌だってのかよ」
「いえ、そういうわけじゃないですけど。僕の家じゃ、大した料理も出せないですし、ジンガさんの相手になるような人もいませんよ?」
「スウォンがいるじゃん」
「……は?」
「そんな顔すんなよー……いいじゃん、たまにはスウォンと先に会ったってさ。第一、アニキと先に会ったら、勝負のことで頭がいっぱいになってろくに話もできなくなっちまうんだからさ」
「……はぁ。したかったんですか? 僕と、話」
「んー、まぁ、時々は、旅先で、スウォンや……フラットのみんなもさ、なにしてっかなって思うし、会いたくなったり、話したくなったり……あの頃がちょっと懐かしいな、とか思ったりしちまったりさ……あ!」
 ふいに声の片方が大きな声を上げた。そしてだだだだっと大きな音を立てながら近づいてくる。
「アニキーっ! なんでこんなとこいるんだよっ、すげぇ、驚いたっ」
「うわ、やっぱりジンガかっ。お前、またでかくなったんじゃないか?」
「そうかあ? もう二十越えてるぜ、俺。でもまぁでかくなれてんなら嬉しいけどなっ」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながらはしゃぎあうそのジンガというらしい男を見て、ライは思わず言ってしまっていた。
「……でけぇ……」
 そう、実際そのジンガという男はすさまじく大きかった。野太い声でなんとなくは予測していたものの、縦も横もすさまじく大きい。腕は女の腰ぐらいあるんじゃないかと思うほど太く、肩幅もおそろしく広い。背の高さなど見上げなければ顔が見えないほどだ。当然脂肪など微塵もついていない、全身これ筋肉という感じの大男だった。
 そんな大男が子供のようにほとんど頭ひとつ分は背の低いハヤトにじゃれるのは、少しというか、相当妙な眺めではあったが、そんなことなど気にせず二人は楽しげにじゃれあう。ガゼルがはぁ、と小さくため息をついた。
「……っとに……こいつ来るたびにでかくなってくな」
「知り合いか?」
「ああ……ハヤトが話したごたごたの時に俺らの仲間だった、ジンガって格闘家。それが終わってしばらくした後旅に出たんだけど、たまに戻ってきてタダ飯を食ってくんだ。……昔は俺よりずっとちっこいチビだったってのにな」
「……想像できねぇな」
「で、その横の苦笑してる狩人風の奴がスウォン。やっぱりそのごたごたの時からの俺らの仲間。サイジェントの外で狩人やってんだけど、たまに街に買い物やら獲物売りにやら来るんだ」
「ふぅん……」
 ジンガとは対照的に、すらりとした感じの男がこちらに気付いて頭を下げてくる。慌てて頭を下げ返すと、ジンガがばっと目を輝かせてこちらを見た。
「ガゼルっ! そいつ、誰だっ!?」
「ああ、こいつはライっつって、まぁ俺らの客……なのか?」
「俺に聞くなっての」
「そいつ、強いだろ!?」
「……本人に聞けよ」
「なぁなぁっ、お前、俺と戦ってくれねぇかっ!?」
「……はぁ?」
「あーと、ライ。ジンガは旅の格闘家で、まぁ……俺より強い奴に会いに行く系の奴なんだ」
「意味がわかんねーよ。っつーか、なんで戦わなきゃなんねーんだよ?」
「だって、お前強いだろ!? 俺は、もっともっと強くなりたいんだ! だからっ」
「……人の話まともに聞く気ねぇなこいつ……まぁフラットに戻ったらやってもいいけどよ、真剣はなしだぞ」
「ちぇーっ、真剣の方が燃えるのになーっ」
「……ハヤト。こいつ、こーいう奴なんだな?」
「ああ、こーいう奴なんだよ」
「まぁ……成長してくれないのには慣れてますから、いいですけど」

「まだアルサックの花が咲くには早いけど。春になったら、この川沿いの木々全部がピンク色の花でいっぱいになるんだ」
「へぇーっ、見てみたいなーっ」
 大勢でアルク川という名前らしい川のほとりを、喋りながらそぞろ歩く。昔は排水で汚れていたらしいが、今は陽の光を跳ね返してきらきら輝く澄んだ流れだ。
「うん、見る価値のある眺めだと思うよ。あとね、この川からは魚もよく釣れるんだ。……釣れるはずなんだ。きっと釣れるんだよ絶対」
「お前はまともな魚釣ってきたことほとんどねーけどな」
「うぅ……」
「え、ここの魚ってそんなに釣りにくいのか?」
「いーや、むしろ釣りやすい。単にこいつが下手なだけ」
「うううー、だって川にマグロがいるなんて思わないじゃないかー。タコは釣れたんだタコはー」
「長靴やら空き缶やらを釣り上げる方がずっと多いけどな」
「そーだよなー、アニキは地面とか巨大流木とかは釣れるんだけど、魚は釣るの下手なんだよなー」
「それもある意味すげーな……」
「うううううー……あ、いたっ! おーい、ラムダー! セシルー!」
 ふいにハヤトが手を振った先にいたのは、ジンガと同じくらい大きいのではないかと思われる剣士だった。その横に金髪の女性が座り、赤ん坊をあやしている。
 剣の稽古の最中だったのだろう、たぶんラムダという名なのだろう剣士は、手に持つ大剣をぶんっ、と振り切ってからぴたりと止めてひょいと背の鞘に収め、こちらを振り向いた。セシルという名らしい女性が微笑んで頭を下げるのと一緒に、低く男らしい声を発する。
「……ハヤトか。またずいぶんと大人数だな」
「はは、今日はお客さんにサイジェントを案内してるところなんだ。みんな、こっちはラムダとセシル。ラムダはサイジェントの軍事顧問をやってるんだけど、大剣で居合い斬りもどきなんかやっちゃう常識外れの剣士なんだ。セシルはその奥さんで主治医。でもストラ使いの格闘家でもあるから怒らせたら蹴られるぞ」
「もう、ハヤト。人聞きの悪いことをいわないでちょうだい。最近は絡んできたチンピラの顎を割るぐらいのことしかしていないんだから」
「あはは、ごめんごめん」
「ねぇねぇ、奥さんってことは、その子は……」
「えぇそう、私とこの人の子供よ。ここまでこぎつけるには、本当にいろいろ苦労したけどね」
 悪戯っぽく笑うセシルに、ラムダは仏頂面で目を逸らしつつ言及を避けた。子供たちとリシェルがわっと赤ん坊に近付いて、顔をのぞきこむ。
「わー、かわいーい! ちっちゃーい!」
「赤ん坊見るの、初体験。……少し、ドキドキ」
「なんかちょっとつついたら壊れちまいそうだよなー。うわーちっちぇー」
「可愛いなぁ……ね、名前はなんていうの?」
「ふふ、この子の名前はね……」
 和やかにお喋りする女子供たちの横では、ラムダがずいっと体を近づけてくる。
「貴殿、サムライだな?」
「いやいや、手前は鬼妖界から参った流しの弾き語りにございます」
「ほう……ではその楽器の中に仕込んだ刀は、なんだというのだ? それにその歩法。隠してはいるがサムライの縮地法の流れを汲むものに他ならぬ」
「あらら、お見通しですか。ですけども、手前が流しの弾き語りなのは嘘偽りないことでござんすよ。まぁあれやこれやは昔取った杵柄というかなんというかでして。やっとうの稽古はとうに飽きました」
「ふ……とてもそうは見えんがな。できればぜひにも手合わせを申し込みたいところだが」
「いやいやそんな、手前などでは相手にならんでしょう。そうですね、せいぜいが……ふっ!」
「!」
 シンゲンが刀を閃かせるや(今のはライにもなにかがきらりと光った、ぐらいにしか見えなかった)、数歩先をセシルたちの方へ飛んでいこうとしていた大きな蜂がぽとりと落ちる。
「この程度の、お座敷芸にもならぬ芸をご披露する程度で」
「……面白い。ぜひにも手合わせを、と言いたいところだが……今日のところは妻子を助けてもらったことでもある、こちらが退くとしよう」
「そうしていただけるとありがたいですな」
「だが、貴殿がこの街を去るまでには、一度は手合わせをしてもらうぞ」
「いやはや、参りましたな。どうしましょ、御主人?」
「俺に聞くなよ。自業自得だろ。……っつか」
「すっげーっ! なぁなぁ今のなにっ、どーやったんだっ!? なぁなぁシンゲンだっけ、俺と戦ってくれよーっ!」
「こーいう奴がいること忘れてないか、お前?」
「……いやはや、世の中というのは世知辛いですなぁ」

「ただいまー。みんな元気にしてたかー?」
『おかえりなさーいっ!』
「プニプーニッ」
「ムキュイー」
「ガガッゴゴッ」
「プワープワ」
「ポクポクポー」
「おかえりなさい、みんな。ハヤト、お客さんが来てるよ」
「え、俺に? 誰?」
「いつもの三人。食堂で食事してるはずだけど……」
「ハヤトさん、お帰りなさいませ。お待ちしておりました」
「お兄さん、お帰りなさい。……ああ、この人たちがお客さん? ずいぶんたくさんいるねー」
「ハヤト殿、報告ヲ行イタイノダガ、ヨロシイカ?」
「カイナ、エルジン、エスガルド! 久しぶりっ」
 食堂の方から現れた三人連れに、ハヤトは嬉しげな笑みを浮かべて駆け寄った。一人は白と赤のいかにも清楚な衣装を身にまとった女性、もう一人は緑を貴重としゴーグルを頭につけたはちきれそうなほどの活力を表情から感じさせるやや背の低い男、最後の一人は真っ赤な鎧を身に着けドリルをつけた――
「って、機械兵士かよっ!?」
 思わず叫んでしまうと、三人の視線が一気に自分に集まった。「バカ!」と背後からリシェルにつつかれ、はっとして頭を下げる。
「悪い、ぶしつけだったな。なんていうか、あんたみたいないかにも機械兵士ーって感じの機械兵士って見たことなかったから。ごめん」
「イヤ、気ニシテイナイ」
「ねぇねぇ、ってことはいかにも≠カゃない機械兵士は見たことあるの?」
 ゴーグルの男に訊ねられ、ライは深くうなずいた。
「ああ……とんでもねぇのがな。ドジだわ間抜けだわおっちょこちょいだわ、泣くし拗ねるしいじけるし、何度殴りたくなったかわからねぇ。……まぁ、それでもかけがえのない仲間、ってやつだったけどな」
「うわ、なにそれ、すごい面白い! 形状は? 型式番号は? 設計者は誰? どういうコンセプトで開発されたかわかる? 装備はなに? 具体的なスペックとかわからない?」
「……え、と」
 目をらんらんと輝かせて迫ってこられ、ライは思わず一歩退いた。ハヤトが苦笑しながら言う。
「悪い、エルジンって機界の召喚師でさ。メカマニア……機械大好きで、特に機械兵士のことになると我を忘れちゃうんだ」
「電子頭脳の製作者は誰? プログラマーは? 製造はどこかわかる? 名前はなに? 稼働時間や稼働環境に著しい変化とかなかった?」
「う、うーと、あーと……リシェル、任せた」
「え、えぇ!? なんであたしなのよっ」
「お前機界の召喚師じゃねーか、俺より詳しいだろ」
「……エルジンくん。報告がまだ終わってませんよ?」
「あ、そうだった!」
 言うやエルジンはあっさり身を引いて、ハヤトの前に立つ。
「報告するね。異常なし! 以上!」
「……って、それだけかよ!」
「いやでも、実際特に報告することってないんだよ。悪魔やらなにやらの動きも大人しいし、国際情勢も不穏なことはないし。……ただ、ちょっと」
「……ただ、なんだ?」
「なんと申しますか、嵐の前の静けさのような雰囲気があるのです。これから起こる嵐に備え身を静めているような。どこに行っても不穏な状況に行き会うことがまるでなく、どの相手も必死に身を隠しているというような気がいたしまして……」
「アクマデ直観ナノデ、ソレガ正シイノカドウカハ不明ダガナ」
「そうか……ありがとう。とりあえず三人とも、今日はここに泊まってくれるんだよな? ゆっくり体休めて、のんびりしてくれ。今日は、料理人がリプレ以外にもいるしさ」
「まぁ、どなたかお手伝いをするようになったのですか?」
「いや、お手伝いじゃ料理人とは呼ばないだろ……えっと、紹介するな。彼はライ、帝国でも有数の料理人なんだって。で、その子供の三人。で、こっちが――」

 夜半。あてがわれたベッドから、ライはむっくりと起き上がった。
 今晩は人が集まったこともあり、小宴会のような形になってリプレも自分も相当忙しかった。まぁ、料理人としては幸せな忙しさではあったのだが。
 みんなで騒いで、お喋りをして、一日中街を歩き回って疲れていたせいもあるのだろう、子供たちは自分の周りでぐっすりと眠っていた。小さく笑んで毛布をかけ直し、ひょいとベッドから降りる。
 部屋を出て、トイレに向かう。確かこっちの方にあったはず、という道を歩いていると、果たしてトイレはそこにあった。用を足し、外に設置してあった手洗い場で手を洗い、外に出る――や、はっと身を隠した。なにやら気配を、それも不穏なものを感じたのだ。
 耳を澄まし、皮膚感覚を研いで気配を探る。や、目をぱちくりとさせた。これは、ギアンと――キールではないか?
 それでは立ち聞きになってしまう、出て行かなければ、と動きかけた、がキールの声に思わず動きが止まった。
「……ギアン。君は、無色の派閥の人間なんだろう?」
「―――っ!!」
 思わず再び身を隠し、気配を殺す。幸い気付かれなかったらしく、ギアンがふ、と息を吐いて言葉を放つのが聞こえた。
「いつ、気がついた?」
「ハヤトが言ったんだ。君には僕に似た雰囲気がある、と。そして君は罪を犯したと言っていた。それをライに救われたと」
「……それだけじゃ無色だという証にはならないよ?」
「昔、聞いたことがあるのを思い出したんだ。『魔獣調教師』の異名を持つ無色の一派クラストフ家。そこの一人息子は、幽角獣と人の間に生まれた子供だという噂を」
「なるほど……傍証には充分だな。では僕も訊ねよう。キール、君は無色の派閥の人間だったね? それもかつて無色の最大勢力であったセルボルト家の」
「……なぜ、それを」
「君は知らないだろうが、昔君と僕は会ったことがあるんだよ。君の父であったオルドレイク・セルボルトが、僕を売ってくれないか、と僕の祖父に申し込んできたんだ。実験台としてね」
「…………」
「僕は幾重にも鎖をかけられて、オルドレイクと対面した。正直、怖ろしかったよ。彼の瞳は僕を本当に実験材料としか見ていなかった。それだけじゃない、周囲のすべてが彼には実験材料にしか見えていないように思えたんだ。だから、彼が僕を『実験台として不適格』と判断してくれた時には、心底ほっとした」
「……その、時に?」
「ああ。君は他にも数人の子供たちと一緒に、今にも消えてしまいそうな弱々しい視線を僕の方へ投げかけていた。もっとも、その時僕は手枷足枷に加え口枷と覆面までされていたから、顔はわからなかっただろうけれどね」
「………そう、か」
 しばらくの沈黙。針の落ちる音さえ聞こえそうな。その中で先に口を開いたのは、ギアンだった。
「君の言葉をひとつ訂正すると、僕は無色の派閥だった$l間だ。今はもう違う」
「……僕も、もう、違う」
「それなら、気にする必要はないんじゃないかな。少なくとも僕は、君にも君の周囲の人間にも危害を加えるつもりはない。そして、世界にもね」
「………君は、なんのためにここへ?」
「僕を救ってくれた光のそばで、その輝きを守るため。今の僕には、それが――人を愛し、幸福に包まれることが一番の贖罪だと、そう教えてくれた人の気持ちに応えるためにも」
「…………」
「君がここにいるのも、さして変わらない理由じゃないのかい?」
「僕は……まだ、そこまで思いきれてはいない。僕が幸せになってしまっていいのか、罪を犯した僕が、彼をくびきに繋ぎとめてしまった僕が彼を愛するなどと言える資格があるのか、どうしても考えてしまうんだ」
「君の愛する人は、そんなことを気にする人間かい?」
「……いや。彼はそんなことを気にする人じゃない。わかっている、わかってはいるんだ……」
 またしばらくの沈黙。今度先に口を開いたのはキールの方だった。
「呼び止めてすまない。それと……ありがとう」
「いや。……お互い、頑張ろう」
「ああ……贖罪のため。そして、大切な人の気持ちを裏切らないために」
「……ああ」
 じゃっ、と踵を返す音が聞こえ、ギアンが近付いてくる。やべっ、と思うが、いまさら隠れるのもどうかと思ったので、あえてその場で待った。
 ギアンはすたすたと自分の前までやってきて、驚いた風もなくにこりと笑う。
「立ち聞きは行儀が悪いよ、ライ」
「悪い。聞くつもりじゃなかったんだけど……いや、言い訳だな。ごめん」
「僕の方は別にかまわないよ。……彼も、君ならば怒りはしないと思う」
「……そう、かな」
「うん」
 ギアンは小さくうなずいて、空を見上げる。その仕草にはどこか、妙に子供っぽい雰囲気があった。
 グラッドよりも年上の、もういい大人だというのに、ギアンは時々不思議にいとけない雰囲気を身にまとう時がある。子供のような、赤ん坊のような。
 たぶん子供を、親から愛された子供時代というやつをちゃんとやれていなかったせいなのだろうと思うと、つい胸の辺りがぎゅくんとして、ついついこいつを甘やかしてしまったりするのだが。
「時々、たまらなく怖くなることがある。自分の犯した罪を償う方法なんて、世界のどこにもないんじゃないかって気持ちになって」
「…………」
「事実、冷静に、客観的に判断するなら僕の罪は償いようもないほど重いものなんだ。人をそそのかし、操り、その結果何人もの人を傷つけた。そして、自分に従う何十人という人間を、自身もっとも軽蔑していた方法で二度と戻れぬ操り人形に変え、魂を貶めてしまった」
「……ギアン」
「自分の罪をまともに見つめると、どうしたってその重さに耐えられなくなってしまう。苦しくて、怖くて、どうすればいいのかわからなくなって。消えたいと、消滅したいと、何度思ったかしれない」
「…………」
 ばかっ。
「……痛いよ、ライ」
「バカなこと言うからだ。言っただろーが、そういう時は――」
「ああ。……『エニシアでもクラウレでも……俺でもいいから、大切だって、そばにいたいって思う奴のそばにいって抱きしめてもらえ。お前が大切だって、生きていてほしいって言ってもらえ。……俺も、お前が本当に言ってほしい時は、いつでもちゃんと、言ってやるから』……君はそう、言ってくれたね」
 にこり、と微笑むギアンに、ライは思わず顔を赤らめた。さっきまでガキみてーな頼りねぇ顔してやがったくせに。
「……一言一句覚えてんのかよ……」
「もちろん。君の言ってくれた言葉はなにひとつ忘れずにちゃんと覚えているよ」
 すい、とギアンが近付いてくる、と思うや抱きつかれていた。包むように、しがみつくように。一瞬身を退きかけたが、その手の冷たさに、しょうがねぇなぁ、と思いつつ抱き返してやる。
「ライ。僕は君が好きだよ」
「……知ってるよ」
「……君は? 僕のことをどう思っているんだい?」
 また答えにくいこと聞いてきやがって、と顔をしかめるが、嘘はつきたくないしこいつを傷つけたくもないのでいつもの答えを仏頂面で返す。
「嫌いじゃねぇよ」
「君は、いつもその答えだね」
 苦い笑みを交えた声でそう言うと、ギアンはすい、と身をかがめライのこめかみにキスを落としてきた。なっ、とライはかっと顔を赤くし、暴れるがギアンもその長い手足と腕力を駆使してなかなか腕を振り解かせない。
「なにしやがるっ、てめっ、そーいうのはなしっつっただろーがっ」
「君はいつもそうだ。優しくしてはくれるけれど、許してはくれるけれど、けして与えてはくれない。僕はいつまで、君を追っていればいいのかな。期待を持たせるだけ持たせて、最後にはいつも他の人間に奪われる。そんなことを何度繰り返せばいいんだい? ……君は、ある意味とても、残酷だ」
「…………」
 ライは動きを止めた。ギアンはこちらを愛しげな瞳で見下ろし、またゆっくりと顔を下ろしてくる。
「好きだよ、ライ。好きなんだ。愛してるんだ……」
 今度は額に、その下の鼻に、さらに下の唇に唇が落とされる――
 というところで、ライはどむっ、とギアンのみぞおちに拳を入れた。
「おおぉっ……ちょ、ライ、この状況でそれはおてんばさんがすぎると」
「ぐだぐだバカなこと言ってんじゃねぇっ!」
 ぎっ、とよろよろとしりもちをつくギアンを睨み、怒鳴る。
「それとこれとは別の話じゃねーかっ! 期待もクソも、俺はもともとそんなつもりねーっつーの! 期待を持つのも好きだとかなんだとか言うのもてめぇの勝手だけどなぁ、これだけはよーっく覚えとけ!」
 びしり、と呆然とするギアンに指を突きつけて。
「俺をどうこうすんのはなぁ、俺をきっちり惚れさせてからにしやがれっ!」
 言うやライは踵を返し、ずかずかと地面を踏み鳴らし母屋に戻っていった。なので、ギアンがその後姿をうっとりした目で見つめていたことにも、「ライ、なんて男らしい……つまりそれは君を僕に惚れさせろと、どんどん挑んでこいいつでも受け付けてやるとそう言っているんだねっ!?」と独り言を言っていたことにも気づかなかった。

「……ったく、なんだってんだ、ギアンの奴。わけわかんねーこと言ってきやがって」
 ぶつぶつと文句を言いながらライはフラットの廊下を歩く。怒っているつもりだったが、顔が赤いのはそれだけが理由ではないということにも一応、気づいてはいた。
「……俺には、兄貴がいるんだってのに」
 今はそばにはいないけど、大好きで、本当に好きで、ただ一人その、結婚みたいなことをした相手で。だから、そういう、やらしいこととかは、兄貴以外とは絶対やらないっていうのに。
「なにしやがんだよ、ギアンのバカヤロー……」
 本当に、なんで心臓がどきりとしてしまったんだ。ギアンの言葉の内容ではなく、切なげな、どこか必死な声の響きに。自分の体に触れる手が震えていたことに。助けてやりたい、こいつの寂しい気持ちをなんとかしてやりたいって気持ちもあったけど、それとはまた別に。なんでか妙に、心臓が跳ねて。
「だーもうっ、んなことはいーんだよっ! 忘れろ忘れろっ」
 ぶんぶんっ、と首を振ってずかずかとひたすらに廊下を歩く――と、ふと頭を上げると、今自分がどこにいるのかわからなくなってしまっていた。
「……げ」
 顔をしかめて周囲を見回す。なにも迷路というわけじゃあるまいし、明りがあれば部屋への道もすぐにわかるだろうが、今は夜中、ちゃんと部屋に戻れるか自信がない。
 どうするか、ときょろきょろしつつできるだけ静かに廊下を歩いていると、角を曲がった隅の方の部屋から光が漏れているのに気づいた。ほっとして、そちらへとできるだけ静かに歩み寄る。この部屋の中の人は起きているだろうけど、さっきずかずかと廊下を歩いてしまったからこれ以上音を立てたくはない。この部屋の人に明かりを分けてもらおう、そう決めて軽くノックをしようと手を伸ばし――
「っく、ぁ……!」
 突然響いた声にびくり、として思わず動きを止めた。なんだ、今の声。この部屋の中から聞こえたような。
 そんなことを思っている間にも部屋の中からは何度も声が聞こえてくる。「っふ、ぅぁっ」とか「あっ、ふぁっ」とか「ぅ、ぁ、イ……」とかそんな声。
 なんだこれなんだこの声、と頭がぐるぐるする。この声、どこかで聞いたような気のするこの声。その声がこんな風に、妙な、普通出さないような、喘いでいるような声になるのって、なんか、なんか――
 ぐるぐるしまくっている頭はまともにものを考えてくれない。ノックしていいのか悪いのか、どうすればいいか判断できないうちに、体が勝手に動いてそろそろと扉の隙間から中をうかがい――
「っ!」
 叫びだしそうになった口をばっと押さえる。中にいたのは、ハヤトとガゼルだった。
 ただ、その状態が尋常でなかった。二人は素っ裸で、ベッドの上で二人で、体を絡み合わせたり、唇を体に押し付けたり、き、キスを、それも舌を絡めあわせるようなやつをしたり――
 つまりはライがグラッドとするような、いやらしいことをしていたのだ。
「………っ………!」
 なんだこれなんだこれ、と恐慌状態に陥りながらライは隙間から部屋の中を凝視する。だって、あの二人って男同士だろ!? そんな素振りなんて全然なかったし、こんな、こんな――
 でも自分も兄貴と同じようなことをやっている。
「んぁっ!」
 現在組み敷かれている方であるガゼルが上げた嬌声にびくん、とする。ぐるぐるがんがんしていた頭が『ここにいてはいけない』とようやく指令を下し、ライはそろそろと部屋から距離を取り、もう大丈夫、という頃合になるとだっと(音を立てないように)廊下を走り出した。
 母屋から出て、庭を走り、井戸の前までやってきて、はぁはぁと息をつく。体の芯が熱い。頭はまだ恐慌状態でわけがわからなかったが、それでも水を汲んだ釣瓶桶の中に頭を突っ込んで必死に頭を冷やした。
「……はー……」
 ようやく呼吸が落ち着いてきて、ライは空を見上げた。どうしよう。たぶん気付かれてはいないと思うけど。あの二人があんな。全然気づかなかった。どうしよう。
 頭は必死に善後策を考えようとするのに、体の芯の熱は熾火のように体にわだかまってなかなか出ていってくれない。なんだか腰の辺りがむずむずするような気がしてライは思わず腰を揺らした。ぞくり、と妙に切ないような悪寒が腰から背中を走り抜ける。
「……見なかったことにしよう」
 ライはそう決めて、立ち上がった。忘れよう、それしかない。このままじゃ明日どんな顔を合わせていいかわからない。寝よう、寝て忘れてしまおう。
 そう決めても腰の奥には未だに熱がわだかまっていて、ライは苛立ってだすだす地面を踏みしめた。そのたびにきゅきゅっと腰の奥が切なく疼く。
「……だーくそっ、ギアンのせいだっ」
 明日一発殴ってやるっ、と理不尽な怒りを筋違いを承知でかき立ててライはずかずかと母屋へと戻っていった。そうでもしないと、さっき見たもので頭がいっぱいになって、足がまともに動いてくれそうになかったからだ。

「……見つけました!」
「本当!? ああ……やっと、やっと見つけた……魔王と、エルゴの力を受けた強力な召喚具!」
「……これで終わりじゃないぞ。これは最初のひとつにすぎない。これからが本番だ。この召喚具も力を受けてから時間が経っている、本来の力を発揮するには、至源の魔力をさらに充填させなくちゃならない」
「わかってるわ。なんとしてもやってみせる。まず、手はず通りにこの場所で――」
「その役目は私がやります」
「姉さま! 本気?」
「ええ、あなたたちは先に次の目的地へ向かってください。力を受けたかけらは、長距離転移の魔力を持つ聖霊を使ってデグレアの本拠地へ届けておきます」
「わかった、待ってるわ。なんとしてもやり通しましょう。始祖の理想のため、そして父さまの抱いた夢のために!」
「……そうだな」
「……ええ。そうですね……」

「ハヤトさーんっ! ガゼルさーんっ! たいっ、大変っスーっ!」
 フラットの子供たちや召喚獣も一緒に、にぎやかな朝食を取っているところに、一人の若い男が飛び込んできた。せいぜい自分よりもいくつか年上、というぐらいの年のその男は、どたばたと必死の形相で食堂に駆け込んできて、ぜぇはぁと荒い息をつく。
「おいっ、こっちには来んなっつってんだろうが! ……なにがあった」
「しっ、屍人がっ、屍人がっ」
「……は?」
「すんげー大量の屍人やら悪魔やら幽霊やらが、突然街の北に現れて、どんどん街に押し寄せて来てるんスよぉっ!!」

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