仲秋――混戦する恋模様のこと

 ナップはぼんやりと部屋の窓から並木道を眺めていた。男子寮の前に植えられたウレカの樹は、春には美しい花を、秋には見事な紅葉を見せてくれる。ここからでも紅で埋め尽くされた道がよく見えた。ナップはそのひらひらと舞い散る葉をぼんやりと見つめていたのだ。
 変な感じだな、とナップは思った。自分は今までこんな風になんてことのない日常の景色を眺めるなんてことしなかったのに。
 ただ、なんだか、最近。胸が、つきんと痛い。
 ふとしたことですぐぼんやりと物思いにふけってしまう。先生は今何をしているか、自分のことをどのくらい覚えてくれているか、そんなことばかり思い出してしまうのだ。
 その理由はもちろん、わかっていた。
「ナップ……」
「なにっ!?」
 後ろから声をかけられて、ナップはばっと振り向いた。そこに立っていたのはウィルだ。
「……次はスィアス教官の授業だよ。早く移動しないとどんなことになるかわかってるだろ」
「ああ……うん」
 ウィルか……と心のどこかで少し拍子抜けするのを感じながら、ナップはうなずいた。そうだ、急がなくっちゃ。単位がもらえなくなったら大事だ。自分は早くたくさんの経験を積んで、一人前になって先生のところに戻らなくちゃならないんだから。
 ――でも、先生はもう俺を待っていないかもしれないのに?
 ふいに浮かんできたそんな言葉を、頭を振って追いやってナップは立ち上がった。しっかりしなきゃ、次の授業は重要なところなんだから。

「―――ナップ」
 後ろから声をかけられて、今度こそナップはびくりと震えた。けれどそれを表面に出してはいけないと笑顔を作って振り向く。
「よう、ベル! なんか用か?」
 ベルフラウはわずかに唇を噛み、それから無理に笑顔を作って言った。
「ガレッガ教官が呼んでるわよ。また教官に勝負でも挑んだの?」
「んなことしてねぇよー。最近は真面目にせこせこ勉強してんだからな俺」
「どこまで本当なのかしらね。……それじゃ、私アリーゼと約束があるから」
「………おう」
 軽く手を振って去っていくベルフラウを見送り、ナップはため息をついた。
 ぎこちないのも不自然なのも、このままじゃいけないのもわかってる。だけど。
「どうすりゃいいのか、わかんねぇよー……」

「来やがったな、小僧」
「……小僧はやめろよ」
 教官室にはガレッガしかいなかったので、いくらでも伝法な口が利けた。昼休みにこんなことはめったにないのだが。
「他の教官は?」
「会議だ。次の試験のことで打ち合わせがあるとかないとか」
「……あんたは参加しないわけ?」
「俺は講師であって教官じゃない。ガキどもの面倒を見るのは苦手でな。戦技指導はきっちりやってやってんだ、それで充分だろ」
 ナップは呆れて口を開けた。このおっさん、本気でやる気ねぇな。
「あんたそれでよくクビにならないな……」
「――クビにはならないさ。この仕事は俺のご奉公に対する報酬なんだからな」
「……報酬」
「最初は戦技指導もまともにやる気はなかった。どうせクビにゃならないんだ、適当に流して酒かっくらってりゃいいってな……」
 ナップは白い目でガレッガを睨んだ。こいつはホントに。
 と、ふと気づいた。じゃあ、なんで今は真面目にやってるんだろう。最初は酔っ払って授業に出るくらいやる気のなかったガレッガだが、今はもう学校内で酒気を帯びているところなど見たことはない。
 そこまで考えた時にガレッガにぎろりと睨まれた。思わず反射的に首をすぼめる。
「……なに?」
「だからな。俺に仕事をさせてる張本人に、腑抜けた面晒されてちゃ困るんだよ」
「え……」
 ずい、と一歩近寄られ、気圧されてわずかに身を引いた。だがガレッガはかまわずずいずいと近づいてきて力をこめて言いつのる。
「てめぇなんだこの一週間の態度は。実戦第一線で戦ってる奴らと互角以上に渡り合うなんつぅことやっときながら、少しも気合が入ってやしねぇじゃねぇか」
「…………」
「てめぇはいつでもかじりつくぐらいの勢いでがっついてなんでもかんでも吸収しようとしてやがったろうが。それがなけりゃ授業なんざ受けても意味ねぇ。第一俺が面白くねぇ。わかってんのかコラ」
「…………ごめん……なさい」
「謝るくらいだったら次の授業ではもうちょいマシな顔見せてこい」
 ふん、と鼻を鳴らして退出を促すガレッガに礼をして部屋を出ながら、ナップは考えていた。
 わかってる。このままじゃいけないってことはわかってるんだけど――
 俺にどうしろって言うんだよ。

「……ナップくん」
 思いつめたような声が、放課後の教室に響いた。
 教室に残って勉強していたのは自分とウィル、それにクセードだったが、その声の気配を感じた時からナップは立ち上がっていた。
 ――それがアリーゼの気配だったからだ。
「……アリーゼ。なんか、言いたいこととか、あるのか?」
「…………」
 唇を引き結んだ顔でうなずくアリーゼ。
「そ、か。……じゃ……」
「俺たちが席をはずそうか?」
「いや、教室でする話じゃねぇだろ。西校舎の階段のてっぺん行こう。……いいか、アリーゼ?」
「うん……」
 ナップは勉強道具を片付けていく。ウィルがなにかを訴えるような視線をぶつけてきているのには気づいていたが、なにを言えばいいのかもわからなかったし、そもそもなにか言うべきなのかどうかもわからなかったので黙って片付けて歩き出した。
 アリーゼは黙ってついてくる。アリーゼがこんな風に怒ることができるなんて知らなかったな、と思った。
 西校舎の階段、屋上前。そこまで来るなり、アリーゼはきっとナップを今にも泣きそうな顔で睨み、言った。
「ナップくん、どうしてベルフラウと普通に話してあげないの?」
「…………」
「ベル、すごく、すごく苦しそうだわ。ナップくんに言うべきじゃなかったのかって、すごく苦しんでるの。自分の気持ちが間違ってるんじゃないかって、傷ついてる……」
「…………うん」
「わかってるのになんで!? なんで……なにも言ってあげないの、ベルの気持ち放りっぱなしにしておくの!? せめて……ベルが告白したこと、間違いにしないで、お願いだから………!」
 潤んだ瞳で必死の顔で訴えてくるアリーゼ。彼女は本当にベルフラウが好きなんだろうってことは聞かないでもわかった。自分だって大切な人が傷ついてるのを見たらなにかしてあげたくなるだろう。それはわかる、だけど俺は――
 こいつに言ってやれるほど確信持ってることなんて、ひとつしかない。
 そしてそれを言うことは彼女を傷つける――だからナップは頭を下げた。
「………ごめん」
「…………っ!」
 アリーゼはきっとナップを睨むと駆け去っていった――濡れた瞳のままで。
 ナップはまた、ため息をつく。
「………ままならねぇなぁ………」

「―――ナップ」
「………なに?」
 寮の自室に帰ってきたナップを出迎えたのは、ウィルのもの言いたげな視線だった。
 ウィルは、なにか言いたげに口を開き、それから視線をさまよわせて、一回口を閉じた。それからふーっと息を吐き出して、自分を見て言う。
「大丈夫か?」
「……あんま、大丈夫じゃないかもな」
 ナップは苦く笑った。そのくらいしか選べる表情がない。
「なんつーか……もー、頭ん中ぐちゃぐちゃ。ベルの話だけでも混乱してんのにさ、他のことまで頭ん中入ってきちまうっつーか……もー」
 鞄をいつもの場所に置いて、ベッドにぽすんと仰向けに寝転がる。
「――ウィル。お前ならどうする? どうしてた?」
「――なにを?」
「好きだけど――一番じゃない人に好きって言われたら。好きな人がいても好きでいるって言われたら。そいつに――なにを言ってやれた?」
「―――君が………」
 ぎし、とベッドが鳴った。
「君が、それを―――」
 ウィルが自分にのしかかるようにベッドの上に乗った。自分の顔の両脇に手をつき顔を近づけ――苛烈とすら言ってよい目で自分を見つめる。
「君が、それを、僕に言うのか」
「―――ウィル?」
 ナップは目をぱちくりさせてウィルを見つめ、思わず息を呑んだ。ウィルの瞳は真剣と言うだけじゃ足りないほどに真剣だ。怒り、憎悪、悲哀――そんなものをまぜこぜにして、目に見えるのはただ苦痛に耐える色。
「君が――僕のことを勝手に、ここまで変えた君が――そんなことを言うのか!?」
「ウィ―――」
 ウィルの顔が、真剣な顔が、ぐっと自分の顔に近づいてくる――
「おーいナップたーん! ウィルっちー! 入るよー!」
 ばたーん、とドアが開いたとたん、ウィルはばっと自分から離れた。
「おーナップたん元気かい? 最近元気ないからさー、励まそうと思ってほれ! 酒買ってきたよん。一緒に飲みましょ?」
「心配するなよナップ、俺がちゃんと飲み方を教えてやるからな」
「ナップ……酒はともかく、俺たち君が心配なんだ。最近すごく疲れてただろう?」
「……愚痴ぐらい聞いてやる。だから、ちょっと部屋を貸してくれ」
 どやどやと入ってきたユーリ、ジーク、アーガン、クセードに、ウィルは冷たい視線を投げかける。
「あなた方寮則をご存じないんですか。酒及び煙草を持ち込んだものは一週間の謹慎処分ですよ」
「固いことゆーなって! ばれやしないばれやしない」
 ナップはベッドに寝転んだまま、ウィルを呆然と見つめた。なんだよウィル、今の、なんだったんだよ?
 俺わかんないよ、わけわかんない。なんでもない顔してるけど、ウィル――今、俺になにか、しようとしただろ?
 今のは冗談や嘘で済ませられるような感じじゃなかった、絶対に真剣だった。なのに――どうしてそんな普段通りの顔してられるんだよ?
「そろそろ起きたらどうだお寝坊さん。起きないとキスしちゃうぞ?」
「ジーク! おま、お前っ、そんな、そんなことしていいと……」
「騒ぐなよいちいち、たかがキスくらいで」
「キスくらいってお前ーっ!」
「……起きるよ。起きるけど……」
 ちらりとウィルの方を見る。ウィルはこっちを見ようとはせず、机に向かって勉強を始めた。
「アルダート、最初のうちに酒盛りに参加した方が得だぞー」
「余計なお世話です」
 ナップはなにを言えばいいのかわからないまま、ふらふらと立ち上がって始まろうとしている酒宴の中へ入り込んでいった。そして勧められるままに、その味に顔をしかめながらも杯を乾していったのだった。

「……っとによー、俺だって好き好んであんな返事したんじゃねーんだぞーっ! しょーがねーじゃねーか俺には先生いんだからさーっ」
 ナップはぐいぐいと杯を乾しながら顔を真っ赤にして喚いていた。最初のころは舐める程度だったのが、今ではすっかり喉を焼く感覚に慣れてしまっている。
「あの、ナップ、そろそろやめておいた方がいいんじゃ……」
「まーまーどーせだから泥吐かせちゃおうぜ。この子にもいろいろストレスたまることがあるんだろうし。なぁ?」
「こらー、聞いてんのかーてめぇらっ! 俺はなー、俺はなー、先生が好きなんだぞーっ!」
「はいはい聞いてるよー。ナップたんはその先生がだーい好きなんだよねー?」
「そーだっ」
 またぐいっと杯を乾す。まずい、なんつーまずさだ、と思いながらも止まらない。頭の中の回路がぶっ壊れてしまったかのような感覚だった。
「しっかし……ナップの好きな人っつーのが家庭教師のセンセーだとはね。しかも男なんだろ、その先生?」
「そーだ、おとこだっ! 悪いかっ!」
「悪くない悪くない。……しっかしなんですね、マルティーニ家の跡取りが男に恋するなんて、こりゃ持ってくとこに持ってったら強烈なスキャンダルになりますよね?」
「ユーリ……念のために言っておくが」
「はいはいわかってるわかってる、言いやしないよ。んなこと言ったって俺にゃなんの得もないし、俺だってナップたんのことは気に入ってるしね」
 みんなの声が遠い。聞こえているのだが頭の中に入ってこない。一言に反応するのにすら長い時間をかけねばならなかった。
「で? だからベルちゃん振ったんだろ? だったらそれでいいじゃん、向こうは話しかけるなとも絶交だとも言ってないんだろ?」
「言ってないけどぅ……だから? って、いわれた……」
「……は?」
「つけこむすき、ある、とか、半端なおもいで、告白したわけじゃない、とか」
「ふーん……つまり一回振られてもそこからが勝負って言うわけか」
「すごい勇気だな……あの子、大したもんだよ。俺には正直そんな勇気……」
「んなこた知ってる……で、ナップはそれに対してどうしたんだ?」
「俺……話せなく、なっちゃった」
「つまりどう接していいかわかんなくなったってことか。まぁ、そうなるのも無理ないかなとは思うけど」
「……ベルフラウは、それからなにか、お前に言ったのか?」
「ううん……ふつーだった。ふつーだったけど……俺、だめなんだ。俺だったら、って考えちゃう。俺がベルだったら、ふつーに話しながら、絶対すごくくるしい、って。俺だったら、すきな人が、誰か他の人すきだったら、くるしくてくるしくてくるしくて、一歩もまえに進めないと、思う」
「…………」
 いつの間にか周囲が静まり返っていることに頭のどこかで気づきながらも、ナップは止まらなかった。今自分は苦しい。誰かに吐き出したかった。誰かにそばにいてほしかったのだ。
「おれ、ベルにこくはくされて、嬉しかったのに、女の子にすきになってもらえて、ドキドキしちゃったのに、ベルにそんなことしかしてやれないのかって、すごく、つらくてさぁ……くるしくて……どうしたらいいのか、わかんなくて……」
 そして、一瞬よろめいた。一番好きな人は先生しかいないのに、ベルに好きだと言ってやりたいと一瞬思った。ベルフラウと一緒にいる未来もあるなと、一瞬思ってしまったんだ。
「それが、すごくいやで……せんせいにも、ベルにも、すごく悪いことしたっておもって……でも、どうすればいいのか、全然わかんなくて……」
 だからすごく先生に会いたくなった。誰かじゃない、先生にそばにいてほしいのだ、本当は。先生にどうすればいいのかって相談して、一緒に考えてほしかった。一番好きな人に、自分の気の迷いなんか吹っ飛ばすくらいすぐそばで好きだと言ってほしかったのだ。
「せんせい………」
 そこまでが限界だった。ナップは最後にそう呟いて、床にくずおれた。
 みんなの声が遠くに聞こえる。それとも夢なのだろうか?
『――寝たか』
『――ナップたんとその家庭教師ってのができてるって、どこまで本当なんでしょーかねー?』
『――余計な詮索はするな』
『――おー怖。アーガン先輩に逆らう気はありませんよー。ホント怒ると怖いんだから』
『――ですが、こいつが俺たちが思っていたよりずっとちゃんとした恋をしてたっていうのは確かでしょうね』
『――そうだな……』
『――ベルちゃんも大変だな。恋してるったってこの子はまだまだ子供だ。恋のやり方もわかってない。恋に慣れたずるさもない――あの子だって慣れてるわけじゃない。こういうのは時間に解決してもらうしかしょうがないからな……』
 それからふわりとした浮遊感、そして暖かいものに包まれる感触。ウィルに向けてちゃんと面倒見てやれよーとかいう声がかかって、どやどやと人が部屋を出て行く音。
 それから部屋の中に静寂が降りた。
 ――と、ぎし、と椅子が軋む音が聞こえた。ウィルの椅子だ。
 誰かが自分の包まれている、おそらくはベッドに近づいてくる。一歩一歩、ゆっくりとした足取りで。
 すうっとなにかが自分に向けて伸ばされる気配。それはしばし迷ってから、ナップの顔に触れた。
 細く、暖かい、けれど豆を潰して固くなった手が自分の顔をそっと撫でる。ああ、ウィルの手だ、とわかった。ちゃんと覚えてる、友達になった日に繋いだウィルの自分よりいくぶん小さな手。
 その手は自分の額、眉、こめかみ、頬、鼻という順番で自分の顔をなぞっていき――
 それからためらうように震えながら、自分の唇にそっと触れた。
 撫でるのでもなく口の中に入れるのでもなく、ただ、そっと触れるだけ。その間指は微動だにしなかった。
 一分ほど経ってから、指はゆっくりと離されて、気配が遠ざかっていく。待てよ、ウィル、と声をかけたかったが、体がどうしても動かなかった。指一本すら動かせない。まるで人が乗っているように体が重かった。
 ウィルに聞きたいのに。今度こそ失敗しないように、ウィルを傷つけないように、ちゃんと話したいのに。
 どうしても体が動かず、ナップの意識は闇に溶けていった。

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